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戦時中の子どもたちの生活 - City of Sapporo · 60 第2章 銃後 戦時中の子どもたちの生活 子どもたちの生活①【北海道・札幌】 稲いな 田

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第2章第2章

銃 後銃 後

子どもたちの生活①【北海道・札幌】

戦時中の子どもたちの生活

稲いな

田だ

亮りょう

一いち

さんのお話から

○ホップ 

クワ科の多年

生のつる草。全長五mぐ

らいで、果実はまつかさ

の形。ビールの原料で、

ビールの苦味や香りの

源みなもと

。北海道開かい

拓たく

使のお

雇やと

い外国人であるトーマ

ス・アンチセルが北海道

岩内町で自生している

ホップを発見したことを

きっかけに、ビールの生

産とホップの栽さ

培ばい

が始

まった。

 

終戦を迎えた昭和二十年(一九四五年)八月十五日。私わたくし

は苗なえ

穂ぼ

国民学校(今の苗なえ

穂ぼ

小学校)

の小学校四年生でした。

 

当時の学校では、「軍国教育」といって戦争に勝つための教育が行われていました。例えば、

国語では、教科書に出てくる物語文や説明文が戦争に関わるお話になっていて、軍馬を飼って

いる少年のお話や軍用犬についてのお話、点火した爆弾を三人で持って、敵軍に突っ込んでいっ

た勇ゆう

敢かん

な「爆弾三勇士(肉弾三勇士)」のお話などがありました。体育では、銃じゅう

剣けん

で相手を突

く訓練をしたり、寒い時に上半身裸はだか

になって、手ぬぐいで皮ふをこすって丈夫にする乾布摩ま

擦さつ

をしたりしました。その他にも、敵であるアメリカとイギリスの人は、人間ではない、鬼や

けものという意味の「鬼き

畜ちく

米英」という言葉を習い、万が一相手に捕まったら、死んだ方がい

いと教わりました。

 

「勤きん

労ろう

奉ほう

仕し

」というものもあって、学校で学習するだけでなく、働きに出ることもありました。

私わたくし

は苗穂にいたので、四年生からサッポロビール園のホップ摘つ

みの仕事をしていました。上

級生は古谷製菓のキャラメル工場に行ったり、中学生は丘珠飛行場に行って木製(ベニヤ)の

おとりの飛行機を作ったりしていました。「援えん

農のう

」といって農家に手伝いに行く人もいました。

 

戦争が激しさを増していくにつれて、物不足が深刻になりました。紙が不足し、教科書は上

級生からのお下がりになりました。ノートも新しいものはないので、消しゴムで古い文字を消

しては、新しく書きこんだりしていました。習字の半紙もなくなり、同じ紙の上で何度も書い

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第二章

○すいとん 

小麦粉を水

で練って作った団だん

子ご

○非ひ

国こく

民みん 

当時の日本で

は、戦争に協力しない者

や戦争に反対していると

見なされた者を、国民と

しての義ぎ

務む

を守らない

者、国家を裏うら

切ぎるよう

な行こう

為い

をする者として、

非ひ

国こく

民みん

と呼よ

び非ひ

難なん

した。

て、紙自体が真っ黒になるま

で使って勉強していました。

 

戦時中、学校給食はなく、

お弁当を持ってくることに

なっていました。当時の主食

はお米ではなく芋やかぼちゃ

でした。今でも一食ぐらいな

らおいしく食べられるかもし

れませんが、毎日三食全部が

芋とかぼちゃです。食料不足

なのに、食べあきてしまって

大変でした。私わたくし

は手が黄色

に変色するくらいかぼちゃを

食べました。時には、雑ぞう

炊すい

すいとんを食べることもあり

ました。お金持ちの家では、

お米がある家もありました。

ただ、お昼のお弁当となると

自分だけお米を食べていると

「非ひ

国こく

民みん

」とみんなから言わ

戦時中の子どもたちの生活

勤きん

労ろう

奉ほう

仕し

イメージ図

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北海道の空くう

襲しゅう

による被害の地図(「語り継ぐ北海道空襲」菊地慶一より)

死者10人

負傷者100人

負傷者多数

負傷者数名

・死傷者数は記録によるが、推定の部分を含まれていると思われる

・負傷者数は正確な数字がないため、記録にある数字を元に作図している

■凡例

1945(昭和20)年7月14・15日

北海道空襲図 ■北海道空襲図死亡者数 (単位:人)

[渡島] 松前 15 福島 21 知内 4 木古内 0 上磯 2 函館 518 戸井 7 椴法華 3 南茅部 6 鹿部 11 森 9 砂原 5

八雲 2 長万部 4 [胆振] 伊達 21 室蘭 480 登別 0 白老 0 苫小牧 9 追分 0 厚真 4 鵡川 0

[後志] 寿都 16 岩内 6 共和 0 神恵内 0 積丹 13 古平 21 余市 0 小樽 33 [石狩・空知] 札幌 1 千歳 0

江別 4 石狩 13 厚田 11 浜益 0 由仁 0 岩見沢 0 [日高] えりも 0 様似 1 浦河 5 静内 4 新冠 2

門別 5 [留萌・上川] 増毛 0 留萌 2 富良野 4 美瑛 0 旭川 2 鷹栖 0 比布 0 [十勝] 広尾 1

大樹 2 更別 0 浦幌 3 豊頃 2 幕別 0 帯広 5 池田 4 音更 3 本別 40 士幌 0 [網走] 網走 12

小清水 2 清里 0 斜里 0 常呂 1 [釧路] 音別 9 白糠 7 釧路 192 釧路町 8 厚岸 5 浜中 2 阿寒 5

標茶 2 [根室] 根室 385 別海 1 中標津 3 標津 0

合計:死者 1,958人

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第二章

○防ぼう

空くう

壕ごう 

航空機による

空からの攻こう

撃げき

から身を守

るためにつくった穴あな

や地

下室。

○玉ぎょく

音おん

放ほう

送そう 

天てん

皇のう

自身の

肉声による放送。特に終

戦を伝えるラジオ放送を

指すことが多い。

北海道にも敵機が頻繁に来るようになり、根室や釧路、室蘭などでは敵の攻撃で大きな被害が

出ました。札幌にも空襲があり、死者が出たという話を聞きました。授業中に空襲警報のサイ

レンが鳴ることが多くなり、鳴っては机の下や防ぼう

空くう

壕ごう

に入り、解除のサイレンが鳴っては、ま

た授業に戻るということの繰り返しで、勉強になりませんでした。家でも空襲への備えを進め、

防空壕を作って、人が入れるスペースを確保したり、中に布団や食料、日用品を準備したりし

ました。

 

そして、昭和二十年八月十五日、天皇陛下による玉ぎょく

音おん

放ほう

送そう

がありました。その放送により、

日本は戦争に敗れ、無条件降伏を受け入れたことを知りました。私わたくし

はそれを聞いてほっとし

ました。自分もいつか兵隊として戦地に行き、死ぬのだろうと思っていたからです。行けば死

ぬとわかっていながら、行くのはとても辛いことでした。兵隊

になりたくないとも言えず、仕方なく大人や先生に兵隊になり

たいと言っていたから、これで助かったと感じました。

 

日本は、戦争で多くの犠ぎ

牲せい

を出し、多くのものを失いました。

しかし、そこから戦後の歩みを経て、今の平和を築き上げてき

たのです。みなさんも大人になったら、戦争のない平和な国を

作っていくように、力を合わせて頑張っていってください。

DATA平成20年度東区平和事業聴き取り・平成20年12月24日・明園小学校

稲田亮一(いなだ・りょういち)さん・昭和11年(1936年)生まれ・札幌市東区在住

戦時中の子どもたちの生活