7
予稿集原稿 研究発表:日本語教育/専門日本語 1 仕事のための日本語シラバスデザインの方法 ―ホテルの内部調査の有効性― The Method of syllabus design for Japanese for Occupational Purposes: Efficiency of internal survey 赤城永里子(大阪大学大学院生) 要旨 ホテル日本語シラバスデザインのニーズ分析段階で行ったホテルの内部調査の結果と 国内外の既存のホテル日本語教材を対照することで、内部調査実施の利点として①既存の 教材に欠けている業務の確認ができ、②現職者へのインタビューから、業務遂行に不可欠 な詳細な行動の特定が可能になることを述べる。 キーワード:シラバスデザイン; 段階化; ホテル日本語; ニーズ分析; 内部調査

仕事のための日本語シラバスデザインの方法 · 語(JSP: Japanese for Specific Purposes)という用語が広く使われている。 前者は言語使用 に関して、より汎用性や流通性、代替性、交換性を持っており、一方後者はより

  • Upload
    lybao

  • View
    232

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: 仕事のための日本語シラバスデザインの方法 · 語(JSP: Japanese for Specific Purposes)という用語が広く使われている。 前者は言語使用 に関して、より汎用性や流通性、代替性、交換性を持っており、一方後者はより

予稿集原稿 研究発表:日本語教育/専門日本語

1

仕事のための日本語シラバスデザインの方法

―ホテルの内部調査の有効性―

The Method of syllabus design for Japanese for Occupational Purposes:

Efficiency of internal survey

赤城永里子(大阪大学大学院生)

要旨

ホテル日本語シラバスデザインのニーズ分析段階で行ったホテルの内部調査の結果と

国内外の既存のホテル日本語教材を対照することで、内部調査実施の利点として①既存の

教材に欠けている業務の確認ができ、②現職者へのインタビューから、業務遂行に不可欠

な詳細な行動の特定が可能になることを述べる。

キーワード:シラバスデザイン; 段階化; ホテル日本語; ニーズ分析; 内部調査

Page 2: 仕事のための日本語シラバスデザインの方法 · 語(JSP: Japanese for Specific Purposes)という用語が広く使われている。 前者は言語使用 に関して、より汎用性や流通性、代替性、交換性を持っており、一方後者はより

予稿集原稿 研究発表:日本語教育/専門日本語

2

1. はじめに

日本語学習者のニーズが多様化し、ニーズに合う教育の必要性が論じられているが、

特定の業務に従事する日本語学習者のためのシラバスについての研究はまだ少ない。

Munby(1981)が ESP(English for Specific Purposes:特定の目的のための英語)シラ

バスデザインにニーズ分析を取り入れる基礎を築き、Long(2005)では、ニーズ調査の

際には、すでに職に従事している者に対して行う内部調査の必要性を説いている。

本発表では、ホテル日本語のシラバスデザインを行うために行った内部調査の結果と

日本国内外で入手できる「ホテル日本語」教材を対照し、内部調査の利点について述べる。

2. 先行研究

2.1 職業目的のための日本語(JOP)

現在日本語教育において、一般日本語(JGP: Japanese for General Purposes)と専門日本

語(JSP: Japanese for Specific Purposes)という用語が広く使われている。前者は言語使用

に関して、より汎用性や流通性、代替性、交換性を持っており、一方後者はより限定的で

使用範囲が狭い。(春原 , 2006)JSP は学術目的のための日本語( JAP: Japanese for

Academic Purposes )と職業目的のための日本語( JOP: Japanese for Occupational

Purposes)に分けられる。

JOP 教育は、医学研究員、航空会社の客室乗務員、航空会社のグランドスタッフ、海外

司書、宣教師(林, 1987 他)などが行われているが、専門日本語教育の前あるいは同時に

JGP の初級学習を一通り行っており、羽太・上田(2008)では、専門日本語教育は初級修

了後が適していると述べている。

しかし現在職に従事している者が、業務上日本語が必要になって学習する場合を考える

と、学習に使える時間は限られ、効果的で実践的な教育が必要だと言える。このような学

習者の状況を踏まえ、赤城(2008, 2009a)では、初級からの JOP 教育を可能にするため

の方法として段階化を提案している。

2.2 ホテル日本語

本発表で扱うホテル日本語の先行研究として、森田(2006)では、海外と日本のホテ

ルのウェブサイトで見られる日本語案内文の表現の違いについて考察し、魅力的に見せる

表現や語彙を報告しているが、具体的なシラバスについては言及していない。また、赤城

(2009b, 2009c)では、日本国内外で入手可能なホテル日本語教材に見られる問題点とし

て、①業務を遂行するのに十分ではない、②対象学習者のレベルが不明だと指摘している。

3. 研究と分析

3.1 研究目的

初級からのホテルベルスタッフの日本語シラバスを作成するにあたり、ホテルでの内部

調査と日本国内外で入手可能な現存のホテル日本語教材を用い、ベルスタッフの業務を網

羅すること、及び業務内における行動を把握する。Long(2005)では、ニーズ分析にお

Page 3: 仕事のための日本語シラバスデザインの方法 · 語(JSP: Japanese for Specific Purposes)という用語が広く使われている。 前者は言語使用 に関して、より汎用性や流通性、代替性、交換性を持っており、一方後者はより

予稿集原稿 研究発表:日本語教育/専門日本語

3

ける内部調査の必要性が唱えられているが、実際に内部調査と教材で確認できるベル業務

を対照することで、その有効性を指摘する。

[内部調査]

内部調査を依頼したホテルは、大阪市内にある日系ホテルで、総社員数 300 余名、客室

数 716 室、ホテル業をはじめ、料理飲食業、食料品販売、両替業、婚礼そのほか宴会施設

を備える比較的大規模なシティーホテルである。

内部調査では、ベル業務の観察、ベルスタッフに対して紙面によるアンケート調査及び

インタビュー調査を実施した。アンケートは、ホテル日本語教材で把握したベル業務およ

び、各業務の達成に必要な詳細な行動を列挙し、それぞれの補足点を記入してもらった。

インタビュー調査では、外国人宿泊客とのやり取りで、にコミュニケーションに支障をき

たした際に切り抜ける方法や、支障回避のための工夫などを質問した。

[対象教材]

分析対象の教材は、新しい教材であれば、古い教材の利点を活用し、また欠点を補っ

たものであるはずだという考えから、比較的新しい教材を日本、中国(本土)、台湾、韓

国から各一冊ずつ選定した。以下の表1は教材名とその書誌情報である。

表1.分析対象ホテル日本語教材

出版国 書名 出版年 出版社 著者

日本 JAPANESE FOR HOTELSTAFF サービ

ス日本語-ホテルスタッフ編- 2003 凡人社 JAL アカデミー

中国1

酒店日语 前厅服务与管理 2009 上海交通

大学

邵红(主編)

酒店日语 客房服务与管理 2010 杜民华 邵红(主編)

台湾 餐旅觀光日語 2009 豪風出版 近藤知子

韓国 호텔실무일본어 입문 2008 사람 in 최은준

3.2 業務内容の比較

内部調査で明らかになったベル業務場面が既存のホテル日本語教材で扱われているか

を対照する。内部調査を実施したホテルでのベル業務は、宿泊客の荷物預かり、部屋まで

の案内といった他のホテルと共通するベル業務に加え、観光案内やレストラン予約のよう

なコンシェルジュ業務も含まれ、ホテル間で異なると考えられる。また、当該ホテルでは、

備品の種類により管理する部門が異なる2ため、クローク(ベル管轄)から貸し出しする

ものもある。また、夜間は客室係が不在のため、全備品の貸し出しをベルスタッフが行い、

客室係の業務を担っている。従って、教材分析の際は、会話文における発話者の担当係に

関わらず、内部調査で把握した業務に対応するものであれば、取り上げられているものと

する。

1内部調査で特定された業務には一般に客室係の業務が包含されるため、中国(本土)の

教材はフロントサービスと客室サービスの 2 冊を分析対象とした。 2食器類はクロークで管理し、リネン、寝具、家電類は客室係で管理している。

Page 4: 仕事のための日本語シラバスデザインの方法 · 語(JSP: Japanese for Specific Purposes)という用語が広く使われている。 前者は言語使用 に関して、より汎用性や流通性、代替性、交換性を持っており、一方後者はより

予稿集原稿 研究発表:日本語教育/専門日本語

4

内部調査で把握した業務内容は、以下にあげる 11 通りである。荷物の預かりは、チェ

ックイン時間前に来た客の荷物預かりと、チェックアウト後の荷物預かりの状況でとるべ

き行動が異なり、バゲージダウンもまた、客が同行する場合と、同行しない場合によりと

るべき行動が異なるため、サブカテゴリーとして状況を設ける。

また、ルームチェンジも事前に予定されていて客の外出中に行う場合と、チェックイ

ン後、故障等や客の希望で客室のタイプを変更する場合がある。前者の場合は、客の不在

状況で行うので、客とのやりとりは必要ないが、後者の場合は基本的には客が同行するた

め、やり取りが必要である。

以下の表2は内部調査で把握した業務と対象分析教材に見られた業務をまとめたもの

である。ハイライト部分は客が不在の状況で行われるため、日本語でのやり取りの必要が

ない。

表2.業務内容の比較

内部調査 状況 日本 中国 台湾 韓国

ディスパッチャー3 ○

荷物預かり c/in

4前 ○ ○?5 △6?

c/out 後 ○ ○ ○? △?

荷物引き渡し

c/in 前 ○? △?

c/out 後 ○ ○? △?

バゲージダウン7

客が同行する ○

客が同行しない

アテンド ○ ○ ○ ○

荷物の入室

ルームチェンジ 客が同行する

客が同行しない

インキー時対応

タクシー手配 タクシー予約

タクシー手配 ○ ○

備品貸出 ○

各種お届けもの ○

コンシェルジュ ○ ○ ○ ○

多くの教科書で扱われているのは、アテンドとチェックアウト後の荷物預かり、コン

シェルジュである。これらは代表的な業務で、客としてホテルを利用すれば把握できる。

しかし、他の業務は実際には頻度の高い業務であるが、全宿泊客が利用するサービスでも

ないため、客として利用しているだけでは、把握が困難な業務だと考えられる。

3ロビーに来た客を、来館目的に応じて適切に振り分ける業務。 4 c/in はチェックイン、c/out はチェックインの意。 5荷物預かりと引き渡しの場面が、チェックイン前か、チェックアウト後の状況かが、会

話から判別できなかったため「?」を付した。 6その業務で必要な表現が一文で示され、業務の場面の会話としては示されていないため

「△」を付した。 7 荷物を客室からロビーまでおろすこと。

Page 5: 仕事のための日本語シラバスデザインの方法 · 語(JSP: Japanese for Specific Purposes)という用語が広く使われている。 前者は言語使用 に関して、より汎用性や流通性、代替性、交換性を持っており、一方後者はより

予稿集原稿 研究発表:日本語教育/専門日本語

5

3.3 各業務における詳細な行動の比較

Munby(1981)は、ニーズ分析の段階でコミュニカティブイベント(以下 CE)の特定

が必要であるという。CE とは、学習者が言語を使用してすることであり、CE は複数のマ

クロアクティビティー(以下 MA)からなる。

図1.コミュニカティブイベントとマクロアクティビティーの関係

本発表では、CE が業務に、業務を達成するための詳細な行動が MA に該当する。3.2

で内部調査と全ての分析対象教材に共通して見られたアテンド業務を取り上げ、内部調査

で明らかになった詳細な行動を列挙し、その行動を達成するための発話が各教材の中にあ

るかを調べ、対照する。

表3.アテンドの詳細な行動

内部調査 日本 中国 台湾 韓国

荷物を運ぶ意志を伝える ○ ○ ○

部屋まで案内することを伝える ○ ○ ○

進む方向を伝える ○ ○ ○ ○

エレベーターに客が乗るように促す ○

到着階を伝える ○

先にエレベーターを降りるように促す ○

部屋までの進路を説明する ○ ○

非常口の位置を説明する ○ ○ ○

部屋に到着したことを伝える ○ ○

鍵の開け方を説明する ○

客を先に部屋に入れる ○ ○

荷物を置く場所を訪ねる ○ ○

室内設備の説明 ○ ○ ○

電話の説明 ○ ○

質問の有無の確認をする ○ ○

今後の質問の受付先を説明する ○

客に部屋の鍵を渡す

オートロックドアの説明をする ○ ○

退室前のあいさつ ○ ○ ○

退室時のあいさつ

レストランで接客をする

席に案内する オーダーをとる オーダーを厨房に通す 料理を運ぶ

コミュニカティブイベント(CE)

マクロアクティビティ(MA)

Page 6: 仕事のための日本語シラバスデザインの方法 · 語(JSP: Japanese for Specific Purposes)という用語が広く使われている。 前者は言語使用 に関して、より汎用性や流通性、代替性、交換性を持っており、一方後者はより

予稿集原稿 研究発表:日本語教育/専門日本語

6

韓国の教材は、「アテンド」業務の一部しか扱っておらず、アテンド業務を達成するた

めに必要な一連の会話は示されていない。

内部調査と各教材の比較をすると、全てに共通するのが、案内開始時の「進む方向を伝

える」、「非常口の位置を説明する」、「室内設備の説明」、「退室前のあいさつ」であ

った。内部調査でのベルスタッフへのインタビューによると、全ての詳細行動は表3の通

りだが、こまやかな説明を必要としている様子の客とその逆もあり、客によって省く行動

もあるとのことである。現職者にインタビューを行うことから、省かない行動、換言すれ

ば、ベル業務を行う上で必須の業務を特定でき、いずれの学習レベルでも学習しなければ

ならないものとしてシラバスに編成することができる。

また、外国籍の宿泊客のアテンドをする際には、ベルスタッフが英語で言えることが

限られるため、部屋に到着し、荷物を適当なところに置いたら、「室内設備の説明」や

「質問の有無の確認をする」行動をとらずに、「何かありましたら、フロントまでご連絡

ください。」とすぐに「今後の質問の受付先を説明する」行動をとるとのことである。外

国語に堪能ではない場合、覚えて一方的に説明することはできても、客からの質問に答え

る(客とやりとりする)ことは難しい。このように、現職のホテルスタッフがしている工

夫は、学習者のレベルに応じてどの程度の説明ができて、どの行動がとれるのか、言語能

力の不足を補うための方法の示唆に富んでいる。

4. おわりに

本分析ではホテルの内部調査によって明らかになったベル業務と既存の教材で扱われ

ている業務を比較した。その結果、実際に頻度が高い業務にも関わらず既存の教材では扱

われていないことが分かり、内部調査を行う利点としてあげられる。

業務を遂行する際に行われる詳細な行動に関しては、内部調査と既存の教材から不可

欠な行動を特定できると考えられる。不特定な行動はいずれのレベルの学習者にも必要な

行動であると捉えられ、シラバスに組み込まなければならない。

また、現職のスタッフへのインタビューを通して、外国語で業務を遂行する際に、外

国語能力の不十分さを補うためにどのような工夫をしているかが把握でき、日本語シラバ

スデザインの際にも応用できると考えられる。

【参考文献】

赤城永里子 (2008)「目的別日本語教育のシラバス作成のための簡易化の試み:フライト

アテンダントのための日本語」『韓国日本語教育』46

_____(2009a)「JSP 教育のためのシラバスデザイン:フライトアテンダントの場合」

大阪大学大学院修士学位論文

_____ (2009b)「ゼロ初級からの職業目的のための日本語:ホテル日本語における

問題と今後の課題」 『韓国日本語教育』50

_____ (2009c)「JOP 教育に求められる日本語教育とは」『日本語・日本文化』19

Page 7: 仕事のための日本語シラバスデザインの方法 · 語(JSP: Japanese for Specific Purposes)という用語が広く使われている。 前者は言語使用 に関して、より汎用性や流通性、代替性、交換性を持っており、一方後者はより

予稿集原稿 研究発表:日本語教育/専門日本語

7

有馬俊子(1991)「技術者(技術研修生)のための日本語教育」『講座日本語と日本語

教育』第 14 巻 明治書院 pp. 1-36

来嶋洋美(1995)「実務者を対象とした日本語教育‐海外司書日本語研修の場合‐」

『日本語学』第 14 巻 7 号 明治書院 pp. 71-79

羽太園・上田和子(2008)『「初級からの専門日本語教育」への視点:関西国際センタ

ーの実践研究から』「国際交流基金 日本語教育紀要」第 4 号 pp.41-54

林 伸一(1987)「中国医学研究員のための日本語講座」『日本語教育』第 64 号 日本語

教育学会 pp. 191-200

原田照子・今井美登里(2001)「宣教師を対象とした日本語教育」『小出記念日本語教育

研究会論文集』第 9 号 上智大学 pp. 77-88

春原憲一郎(2006)『専門日本語教育の可能性:多文化社会における専門日本語の役

割』「専門日本語教育研究」第 8 号 pp.13-17

森田 衛(2006)『日本の高級ホテル飲食施設案内文にみられる特徴』「専門日本語教

育研究」第 8 号 pp.27-32

Long, M.(2005) Second Language Needs Analysis, Cambridge University Press

Mulvihill, E. A.(1992)Designing a Japanese-for-Specific-Purpose Course: Putting Theory

into Practice, 『世界の日本語教育』第 2 号 国際交流基金 pp. 171-197, 230, 236

Munby, J. (1981)Communicative Syllabus Design, Paperback Edition, Cambridge University

Press

【参考図書】

JAL アカデミー (2003)『JAPANESE FOR HOTEL STAFF サービス日本語:ホテルスタッ

フ編』凡人社

近藤知子(2009)『餐旅觀光日語』豪風出版

邵红(主編)(2009)『酒店日语 前厅服务与管理』上海交通大学

杜民华 ・邵红(主編)(2010)『酒店日语 客房服务与管理』上海交通大学

최은준(2008)『호텔실무일본어 입문』사람 in