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中村建. 一九三〇年代の大佛次郎の新聞小説と編集者: 『ポケット』(博文館)と「由比正雪」「雪崩」を つなぐ課題. おさらぎ選書. 2019. 27. p.49-78. 一九三〇年代の大佛次郎の新聞小説と編集者: 『ポケット』(博文館)と「由比正雪」「雪崩」 をつなぐ課題 中村 健 Citation おさらぎ選書. 27 . pp.49-78. Issue Date 2019 Type Journal Article Textversion Publisher Right この記事は、私的な目的でのみダウンロードすることができます。その他の使用には、事 前に著者と出版社の許可が必要です。 This article may be downloaded for personal use only. Any other use requires prior permission of the author and Publisher. URI https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/il/meta_pub/G0000438repository_13472186-27-49 SURE: Osaka City University Repository https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/il/meta_pub/G0000438repository

一九三〇年代の大佛次郎の新聞小説と編集者 『ポケット ...dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/journal/...=DAZAI OSAMU AND THE WAR HÖ Æ (Ö Ê í `

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  • 中村建. 一九三〇年代の大佛次郎の新聞小説と編集者: 『ポケット』(博文館)と「由比正雪」「雪崩」を

    つなぐ課題. おさらぎ選書. 2019. 27. p.49-78.

    一九三〇年代の大佛次郎の新聞小説と編集者:

    『ポケット』(博文館)と「由比正雪」「雪崩」

    をつなぐ課題

    中村 健

    Citation おさらぎ選書. 27集. pp.49-78.

    Issue Date 2019

    Type Journal Article

    Textversion Publisher

    Right

    この記事は、私的な目的でのみダウンロードすることができます。その他の使用には、事

    前に著者と出版社の許可が必要です。

    This article may be downloaded for personal use only. Any other use requires prior

    permission of the author and Publisher.

    URI https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/il/meta_pub/G0000438repository_13472186-27-49

    SURE: Osaka City University Repository

    https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/il/meta_pub/G0000438repository

  • 〈付記〉本研究はJSPS

    科研費 17K

    02450

    の助成を受けたものである。

    さいとう・まさお

    大阪大学大学院文学研究科准教授

    主な論文に「大佛次郎『帰郷』の成立」(「国語国文」八八巻六号、二〇一九年)、「「瘤取り」論―「前書

    き」・『コブトリ』・『現代』を手がかりに」(内海紀子・小澤純・平浩一編『太宰治と戦争=D

    AZAI OSAM

    U

    AND

    THE W

    AR

    』内海紀子・小澤純・平浩一編、二〇一九年)、「一九四七年前後の〈小説の面白さ〉―

    織田作之助と「虚構派」あるいは「新戯作派」―」(「国語と国文学」九五巻四号、二〇一八年)、著書に

    『太宰治の小説の〈笑い〉』(二〇一三年)など。

    一九三〇年代の大佛次郎の新聞小説と編集者

    ―『ポケット』(博文館)と「由比正雪」「雪崩」をつなぐ課題

    ― 中村

    先行研究と研究目的

    近年、大佛次郎研究が活性化している。単行本としてまとまったものとしては、福島行一『大佛次郎―

    一代初心』(ミネルヴァ書房、二〇一七年)が記憶に新しいが、この本以外にも翻刻や数多くの論考が出

    され、新たな研究の視座を提示しつづけている。特に『おさらぎ選書』(以下『選書』)では一次資料(主

    に書簡)の翻刻や目次情報を積極的に公開しており、例えば「鈴木徳太郎書簡

    大佛次郎あて」『選書』

    二一集(以下、「鈴木書簡」)、「野尻抱影(正英)書簡

    大佛次郎宛」『選書』二三集(以下、「野尻書簡」)

    により、大佛次郎が『ポケット』から朝日新聞、毎日新聞へと活動を広げていく時期の各者の動向が明ら

    49

    1904446_おさら�選書第27集_前から.indd 49 2019/11/20 22:10

  • かになった。また、大佛が編集に深くかかわった『苦楽』『天馬』(『選書』二二集)『学生』(『選書』二五

    集)の目次公開と研究論文は、大佛次郎の雑誌メディア観を知る貴重な史料となった。

    石川巧による『月刊毎日』に収録された作品の復刻と研究は、外地における活動への視座へと広がるも

    のである(注1)。また、御厨貴は、検閲下の表現として、「ブウランジェ将軍の悲劇」の表現を、馬場恒

    吾と比較して考察することで、大佛作品が文学以外の研究領域と接続できる視点を示した(注2)。

    大佛次郎記念館の企画展「大佛次郎の雑誌でたどる一九二〇年代フランス映画」(二〇一八年六月一二

    日~七月八日)、「I Love

    スポーツ。大佛次郎

    ~スポーツマン作家

    一〇のストーリー」(

    二〇一八年七月

    一四日~一一月一一日)

    で展示した史料の数々は、戦前期における海外の大衆文化の受容と展開を理解する

    ための史料として見ることができる。中沢弥「大仏次郎「仏蘭西人形」と河野通勢の挿絵」(『多摩大学研

    究紀要

    経営情報研究』二〇、二〇一六年)は、大佛作品の表象研究の手法を示した。今、あげたのは数

    多くある成果の一部分である。

    筆者は「大衆文学のトップランナー

    大阪系新聞社に見る大佛次郎」(『おさらぎ選書』二〇集、二〇一

    二年)で、「照る日くもる日」「赤穂浪士」「由比正雪」など一九二〇年代の『大阪朝日新聞』(以下、『大

    朝』)、『東京朝日新聞』(以下『東朝』)、『大阪毎日新聞』(以下『大毎』)、『東京日日新聞』(以下『東日』)

    といった大阪系新聞社での活動を概観したが、本稿では、いま述べた研究史料の公開や諸論文の成果と、

    出版史研究の視点を用い、一九三〇年代にまで対象を伸ばして、改めて大阪系新聞社での活動について考

    察する。まずは、「鈴木書簡」で浮かび上がった『ポケット』と新聞連載の双方をつなぐ編集方針と読者

    層、大佛次郎の作家としての地位に関する課題を紹介する。次にこれらの課題が新聞連載によってどのよ

    うに解決されたのかを、編集者に焦点を当てて考察する。さらに、「由比正雪」「雪崩」などの事例から、

    大佛がどのように新聞連載に取り組んだかを見ていく。なお紙幅の都合上、個々の事例に詳細に立ち入ら

    れないため、参考資料をなるべく多く示した。また、国会図書館デジタルコレクション(以下、デジコレ)

    や新聞社DB(聞蔵Ⅱ、毎索、ヨミダス歴史館)など、一般の方でもウェブや図書館からアクセスしやす

    い史・資料をあげた。

    『ポケット』の課題を解決した新聞連載

    『選書』二一集収録の「「ポケット」総目次」(注3)、「鈴木書簡」、論文の益川良子「【「鞍馬天狗」誕

    生九十年】関連資料について」、および筆者の三康図書館での現物調査にもとづき、新聞連載につながる

    二つの課題をあげることができる。(一)編集方針と読者層、(二)大佛次郎の作家としてのポジションに

    ついてである。

    50

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  • かになった。また、大佛が編集に深くかかわった『苦楽』『天馬』(『選書』二二集)『学生』(『選書』二五

    集)の目次公開と研究論文は、大佛次郎の雑誌メディア観を知る貴重な史料となった。

    石川巧による『月刊毎日』に収録された作品の復刻と研究は、外地における活動への視座へと広がるも

    のである(注1)。また、御厨貴は、検閲下の表現として、「ブウランジェ将軍の悲劇」の表現を、馬場恒

    吾と比較して考察することで、大佛作品が文学以外の研究領域と接続できる視点を示した(注2)。

    大佛次郎記念館の企画展「大佛次郎の雑誌でたどる一九二〇年代フランス映画」(二〇一八年六月一二

    日~七月八日)、「I Love

    スポーツ。大佛次郎

    ~スポーツマン作家

    一〇のストーリー」(

    二〇一八年七月

    一四日~一一月一一日)

    で展示した史料の数々は、戦前期における海外の大衆文化の受容と展開を理解する

    ための史料として見ることができる。中沢弥「大仏次郎「仏蘭西人形」と河野通勢の挿絵」(『多摩大学研

    究紀要

    経営情報研究』二〇、二〇一六年)は、大佛作品の表象研究の手法を示した。今、あげたのは数

    多くある成果の一部分である。

    筆者は「大衆文学のトップランナー

    大阪系新聞社に見る大佛次郎」(『おさらぎ選書』二〇集、二〇一

    二年)で、「照る日くもる日」「赤穂浪士」「由比正雪」など一九二〇年代の『大阪朝日新聞』(以下、『大

    朝』)、『東京朝日新聞』(以下『東朝』)、『大阪毎日新聞』(以下『大毎』)、『東京日日新聞』(以下『東日』)

    といった大阪系新聞社での活動を概観したが、本稿では、いま述べた研究史料の公開や諸論文の成果と、

    出版史研究の視点を用い、一九三〇年代にまで対象を伸ばして、改めて大阪系新聞社での活動について考

    察する。まずは、「鈴木書簡」で浮かび上がった『ポケット』と新聞連載の双方をつなぐ編集方針と読者

    層、大佛次郎の作家としての地位に関する課題を紹介する。次にこれらの課題が新聞連載によってどのよ

    うに解決されたのかを、編集者に焦点を当てて考察する。さらに、「由比正雪」「雪崩」などの事例から、

    大佛がどのように新聞連載に取り組んだかを見ていく。なお紙幅の都合上、個々の事例に詳細に立ち入ら

    れないため、参考資料をなるべく多く示した。また、国会図書館デジタルコレクション(以下、デジコレ)

    や新聞社DB(聞蔵Ⅱ、毎索、ヨミダス歴史館)など、一般の方でもウェブや図書館からアクセスしやす

    い史・資料をあげた。

    『ポケット』の課題を解決した新聞連載

    『選書』二一集収録の「「ポケット」総目次」(注3)、「鈴木書簡」、論文の益川良子「【「鞍馬天狗」誕

    生九十年】関連資料について」、および筆者の三康図書館での現物調査にもとづき、新聞連載につながる

    二つの課題をあげることができる。(一)編集方針と読者層、(二)大佛次郎の作家としてのポジションに

    ついてである。

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    1904446_おさら�選書第27集_前から.indd 51 2019/11/20 22:10

  • (一)

    編集方針と読者層

    『ポケット』は、日本の娯楽小説を掲載する雑誌である(注4)。また『ポケット』一九二六(大一五)

    年一一月号の目次裏に記された、剣劇や情話が「現代的な新味」に溢れているという趣旨のコピーは、『ポ

    ケット』の特長としていえるだろう。しかし、鈴木はより高い理想を抱いていた。「鈴木書簡四

    大正一

    三年九月一六日」で、「それは今の文壇で所謂通俗小説、新講談なるものを低級な文学、所謂創作を高級

    文学として取扱ってゐるやうですが、文学に低級も高級もあるものでないぢゃありませんか。(中略)元

    来は矢張り芸術として同等に取扱はれべきものであるから、小生はポケットに於て実際の作そのものに於

    て之を実現したい」と文学の形式にとらわれずに「芸術」として優れた作品を掲載する方針を述べている。

    ここでいう「芸術」の概念の吟味は必要だが、鈴木の考える「芸術」の実践者として大佛次郎の存在があ

    った。しかしながら、ここで示された鈴木の高い理想は『ポケット』の読者層と合わないものでもあった。

    「鈴木書簡六

    大正一四年九月一二日」には、「鞍馬天狗が(単行本)案外版を重ねないのは読者がある

    限られたる範囲から出でない、即ち主として高級読者を相手としてゐるからで、ポケットが読者を拡張出

    来ないのも原因はそこにあるとの意見が多いやうです」とあり、「鞍馬天狗」には知識階級向けという評

    価/批判があったことがわかる。鈴木は、大佛にその対策として「就ては新年号からは大に調子を下げて、

    筋で行くやうにしたいと思ひます。筋が面白くってやまがあるもので、それを誰でも分るやうに書くこと

    にしたいと存じます。」と読者層にあわせたチューニングを求めた。なお、翌年から始まったのが「東叡

    落花篇」(単行本では『小鳥を飼う武士』)である。

    さらに、この手紙により、大佛の作品において、「赤穂浪士」が知識階級も読める大衆文学として評価

    されていた(注5)ことはよく知られているが、その評価/批判は、さらに遡って、時代伝奇小説である

    「鞍馬天狗」から受けていたことが明らかになった。どのような点が「知識階級」向けなのかは、これか

    ら詳細な分析が必要だが、例えば「鞍馬天狗」シリーズ第一作の「鬼面の老女」(『ポケット』一九二四(大

    一三)年五月号)の見出しから見える事例は該当しないだろうか。「鞍馬天狗」は大佛が『新趣味』で翻

    訳した「夜の恐怖」を翻案したものとして知られている(注6)が、初出を見るならば、翻案だけでくく

    られる作品でないことがわかる。「鬼面の老女」につけられた見出しに注目しよう。「暖簾と腕押し」(暖

    簾に腕押し:ことわざ)、「三條河原の落書」(二条河原の落書:太平記)、「鞍馬天狗」(鞍馬天狗:謡曲)、

    「南禅寺の花」(石川五右衛門の科白:歌舞伎)、「今様粂の仙人」(久米仙人:説話)、「鹿ヶ谷の山荘」(平

    家物語)と日本の古典をもじった見出しが続く(括弧内は筆者が原典を記した)。「鬼面の老女」は、西洋

    の大衆小説の翻案であると同時に、日本の古典・演芸の「パロディ」として読むことも可能であり、幅の

    ある読み方ができる作品となっている。

    さらに、『選書』に掲載されたこの号の目次を見ると、「快傑「鞍馬天狗」第一話」と河辺夢人「時事風

    52

    1904446_おさら�選書第27集_前から.indd 52 2019/11/20 22:10

  • (一)

    編集方針と読者層

    『ポケット』は、日本の娯楽小説を掲載する雑誌である(注4)。また『ポケット』一九二六(大一五)

    年一一月号の目次裏に記された、剣劇や情話が「現代的な新味」に溢れているという趣旨のコピーは、『ポ

    ケット』の特長としていえるだろう。しかし、鈴木はより高い理想を抱いていた。「鈴木書簡四

    大正一

    三年九月一六日」で、「それは今の文壇で所謂通俗小説、新講談なるものを低級な文学、所謂創作を高級

    文学として取扱ってゐるやうですが、文学に低級も高級もあるものでないぢゃありませんか。(中略)元

    来は矢張り芸術として同等に取扱はれべきものであるから、小生はポケットに於て実際の作そのものに於

    て之を実現したい」と文学の形式にとらわれずに「芸術」として優れた作品を掲載する方針を述べている。

    ここでいう「芸術」の概念の吟味は必要だが、鈴木の考える「芸術」の実践者として大佛次郎の存在があ

    った。しかしながら、ここで示された鈴木の高い理想は『ポケット』の読者層と合わないものでもあった。

    「鈴木書簡六

    大正一四年九月一二日」には、「鞍馬天狗が(単行本)案外版を重ねないのは読者がある

    限られたる範囲から出でない、即ち主として高級読者を相手としてゐるからで、ポケットが読者を拡張出

    来ないのも原因はそこにあるとの意見が多いやうです」とあり、「鞍馬天狗」には知識階級向けという評

    価/批判があったことがわかる。鈴木は、大佛にその対策として「就ては新年号からは大に調子を下げて、

    筋で行くやうにしたいと思ひます。筋が面白くってやまがあるもので、それを誰でも分るやうに書くこと

    にしたいと存じます。」と読者層にあわせたチューニングを求めた。なお、翌年から始まったのが「東叡

    落花篇」(単行本では『小鳥を飼う武士』)である。

    さらに、この手紙により、大佛の作品において、「赤穂浪士」が知識階級も読める大衆文学として評価

    されていた(注5)ことはよく知られているが、その評価/批判は、さらに遡って、時代伝奇小説である

    「鞍馬天狗」から受けていたことが明らかになった。どのような点が「知識階級」向けなのかは、これか

    ら詳細な分析が必要だが、例えば「鞍馬天狗」シリーズ第一作の「鬼面の老女」(『ポケット』一九二四(大

    一三)年五月号)の見出しから見える事例は該当しないだろうか。「鞍馬天狗」は大佛が『新趣味』で翻

    訳した「夜の恐怖」を翻案したものとして知られている(注6)が、初出を見るならば、翻案だけでくく

    られる作品でないことがわかる。「鬼面の老女」につけられた見出しに注目しよう。「暖簾と腕押し」(暖

    簾に腕押し:ことわざ)、「三條河原の落書」(二条河原の落書:太平記)、「鞍馬天狗」(鞍馬天狗:謡曲)、

    「南禅寺の花」(石川五右衛門の科白:歌舞伎)、「今様粂の仙人」(久米仙人:説話)、「鹿ヶ谷の山荘」(平

    家物語)と日本の古典をもじった見出しが続く(括弧内は筆者が原典を記した)。「鬼面の老女」は、西洋

    の大衆小説の翻案であると同時に、日本の古典・演芸の「パロディ」として読むことも可能であり、幅の

    ある読み方ができる作品となっている。

    さらに、『選書』に掲載されたこの号の目次を見ると、「快傑「鞍馬天狗」第一話」と河辺夢人「時事風

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    1904446_おさら�選書第27集_前から.indd 53 2019/11/20 22:10

  • 刺 大宰相の夢」が他の作品より大きなフォントで示され、この二作がこの号の目玉作品であることを表

    している。鞍馬天狗の「パロディ」は、河辺の「風刺」と対になって掲載されているように解釈できるの

    だが、このような点が高級読者向けといわれる部分ではないだろうか。

    なお、鈴木の編集方針はさかのぼって知ることができる。鈴木は、『ポケット』の前に『新趣味』、その

    前は『新文学』の編集人を一九二一(大一〇)年六月~一二月まで務めた。その『新文学』一六巻一〇号、

    一九二一年一〇月号の編集後記(二〇八頁)には、彼の編集方針が語られている。長くなるが引用したい。

    広く社会各方面の問題に触れてその真相を剔抉し闡明(引用者注

    センメイ)し、重ねて有識階級

    に対する高尚なる趣味の鼓吹に任じたいといふのであつて、編輯者の標語としては、斯くしなければ

    ならぬ、斯くあらねばならぬといふよりも、「現在如何にあるか」「斯の如くある」といふのであつた

    のである。(中略)これと同時に、創作や外国小説は勿論、殊に情話、告白懺悔の如き、徒らに挑発

    的なるを排し、芸術味の豊かな作品を選んで本誌の独特たるを期し、高尚な趣味生活に関する記事や、

    演劇活動其他各種娯楽に関する記事等も精選して以て有識階級の好伴侶なるを期したいと思ふ。

    想定する読者層として知識階級を対象としており、彼らに向けた「芸術味豊かな」記事や作品の提供を

    目指している。この姿勢は、先に見たように『ポケット』までも貫かれている。

    (二)大佛次郎の作家としてのポジション

    大佛の『ポケット』および博文館の雑誌群のなかでの作家としての位置づけはどのようなものだったの

    だろうか。千葉亀雄は鞍馬天狗を例に掲載誌が『ポケット』などだったため大佛の存在が、「読者界に広

    まらなかった」(千葉亀雄「創作家大佛次郎君」『改造』一一巻一号、一九二九〈昭四〉年一月)と書いた

    が、改めて書簡と目次を使ってみていこう。博文館における大衆文学が掲載できる雑誌群(『講談雑誌』『ポ

    ケット』『独立』)の中では『講談雑誌』が別格の存在としてあり(「鈴木書簡三

    大正一三年五月一五日」)、

    『ポケット』はその下にあった。

    また、『ポケット』の目次情報を考えるには、「鈴木書簡六

    大正一四年九月一二日」の「娯楽雑誌は何

    れも新年より三月号までの処が天下分け目といってよいと思ってゐます」という言葉がヒントとなる。つ

    まり、『ポケット』は新年号から新しい編集方針にそった編集がなされるのだが、その準備として、前年

    の秋頃の号に次年度の軸となる作家の起用がされる。筆者としては『ポケット』の編集を次の三期に分け

    ることができるのではないか考える。

    ・一期―一九二四(大一三)年~同年秋

    国枝史郎、河上孤村、河辺夢人、走湯夢之介、大佛次郎など

    54

    1904446_おさら�選書第27集_前から.indd 54 2019/11/20 22:10

  • 大宰相の夢」が他の作品より大きなフォントで示され、この二作がこの号の目玉作品であることを表

    している。鞍馬天狗の「パロディ」は、河辺の「風刺」と対になって掲載されているように解釈できるの

    だが、このような点が高級読者向けといわれる部分ではないだろうか。

    なお、鈴木の編集方針はさかのぼって知ることができる。鈴木は、『ポケット』の前に『新趣味』、その

    前は『新文学』の編集人を一九二一(大一〇)年六月~一二月まで務めた。その『新文学』一六巻一〇号、

    一九二一年一〇月号の編集後記(二〇八頁)には、彼の編集方針が語られている。長くなるが引用したい。

    広く社会各方面の問題に触れてその真相を剔抉し闡明(引用者注

    センメイ)し、重ねて有識階級

    に対する高尚なる趣味の鼓吹に任じたいといふのであつて、編輯者の標語としては、斯くしなければ

    ならぬ、斯くあらねばならぬといふよりも、「現在如何にあるか」「斯の如くある」といふのであつた

    のである。(中略)これと同時に、創作や外国小説は勿論、殊に情話、告白懺悔の如き、徒らに挑発

    的なるを排し、芸術味の豊かな作品を選んで本誌の独特たるを期し、高尚な趣味生活に関する記事や、

    演劇活動其他各種娯楽に関する記事等も精選して以て有識階級の好伴侶なるを期したいと思ふ。

    想定する読者層として知識階級を対象としており、彼らに向けた「芸術味豊かな」記事や作品の提供を

    目指している。この姿勢は、先に見たように『ポケット』までも貫かれている。

    (二)大佛次郎の作家としてのポジション

    大佛の『ポケット』および博文館の雑誌群のなかでの作家としての位置づけはどのようなものだったの

    だろうか。千葉亀雄は鞍馬天狗を例に掲載誌が『ポケット』などだったため大佛の存在が、「読者界に広

    まらなかった」(千葉亀雄「創作家大佛次郎君」『改造』一一巻一号、一九二九〈昭四〉年一月)と書いた

    が、改めて書簡と目次を使ってみていこう。博文館における大衆文学が掲載できる雑誌群(『講談雑誌』『ポ

    ケット』『独立』)の中では『講談雑誌』が別格の存在としてあり(「鈴木書簡三

    大正一三年五月一五日」)、

    『ポケット』はその下にあった。

    また、『ポケット』の目次情報を考えるには、「鈴木書簡六

    大正一四年九月一二日」の「娯楽雑誌は何

    れも新年より三月号までの処が天下分け目といってよいと思ってゐます」という言葉がヒントとなる。つ

    まり、『ポケット』は新年号から新しい編集方針にそった編集がなされるのだが、その準備として、前年

    の秋頃の号に次年度の軸となる作家の起用がされる。筆者としては『ポケット』の編集を次の三期に分け

    ることができるのではないか考える。

    ・一期―一九二四(大一三)年~同年秋

    国枝史郎、河上孤村、河辺夢人、走湯夢之介、大佛次郎など

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    1904446_おさら�選書第27集_前から.indd 55 2019/11/20 22:10

  • 数人の著者を軸にした編集の時期

    ・二期―一九二五(大一四)年~一九二六(大一五)年秋

    大佛次郎を中心とした編集の時期

    ・三期―一九二六年秋~一九二七(昭二)年三月(廃刊)

    大佛が抜けたあとの展開を模索する時期

    ここでは大佛の活躍する一期と二期について述べる。まずは一期についてみよう。鈴木が『ポケット』

    の編集についた一九二四年二月号には、河上孤村、国枝史郎、同年三月号には走湯夢之助、河辺夢人に加

    え、大佛次郎「隼の源次」など、この年の軸となる作家が数人、起用されている。

    また大佛が『ポケット』に起用される際の鈴木とのやりとり(注7)はよく知られ、その逸話からさま

    ざまな解釈がされているが、鈴木は「鞍馬天狗」掲載にあたって講談社の『講談倶楽部』初代編集長の望

    月紫峰に原稿を見せ相談していることから、(注8)、少なくとも、この時期の大佛は、鈴木が目星をつけ

    た新人のひとりであったということまではいえよう。鈴木は、彼らの中から雑誌編集の軸となる連載物が

    書ける作家を見つけることが喫緊の課題であった。

    一期で目立つのは、国枝史郎の活躍である。鈴木は、『新趣味』時代から国枝を起用してきた。よく知

    られる逸話として、国枝の「沙漠の古都」は、『新趣味』が翻訳雑誌であるため、あえて架空の作者(イ

    ー・ドニ・ムニエ)を仕立て国枝の翻訳として掲載した(注9)ことがあげられる。『ポケット』では国

    枝にも大佛同様、複数のペンネームを使い分けて活躍させた。二人のペンネームの使い分けをみていくと

    同年八月号は国枝が四つの筆名(西井菊三郎「玉菊燈籠」、柳内自来「りや女と其角」、宮川芽野雄「お仙

    と蜀山人」、国枝史郎「人間製造」)、対する大佛は二つの筆名(大佛次郎「鞍馬天狗」、阪下五郎「夢の浮

    橋」)、翌九月号は国枝三筆名(国枝史郎「真剣二幅対」、奈良うねめ「高尾切り」、硝子庄之介「北斎の達

    磨」)に対して(注10)、大佛三筆名(大佛次郎「鞍馬天狗」、阪下五郎「阪本龍馬」、由井浜人「艶説蟻地

    獄」)と作品数が並ぶ。大佛は一〇月号は五作品、一一月号は四作品とペースは落ちないが、国枝作品が

    ほぼなくなり、秋に主力が国枝から大佛に入れ替わったことがわかる。当時、国枝は、博文館の主力雑誌

    『講談雑誌』に代表作「蔦葛木曽棧」(一九二二〈大一一〉年九月~一九二六〈大一五〉年五月)を連載

    していたが、九月から博文館の老舗雑誌の『文芸倶楽部』一一月号から代表作となる「八ヶ嶽の魔神」の

    連載も開始するので、他誌の連載が理由で、『ポケット』での活動が縮小していったと考えられる。

    もう少し鈴木の起用方法について述べよう。大佛・国枝以外に『新趣味』時代に起用した作家として石

    川大策がおり、一九二六年から連載「轟警部探偵功名話」を始めさせている。『新趣味』時代の人脈を活

    用する鈴木をみていると、新人作家への面倒見の良さを感じさせるが、一方で、『新趣味』時代に、懸賞

    で当選させた新人をレギュラー起用しない点をあげて新人へのサポートが悪いとの評価もある(注11)こ

    とを付記しておく。

    二期は、大佛が『ポケット』の主力として活躍する時期と、新聞小説へ活動の場を広げる時期が重なる。

    56

    1904446_おさら�選書第27集_前から.indd 56 2019/11/20 22:10

  • 数人の著者を軸にした編集の時期

    ・二期―一九二五(大一四)年~一九二六(大一五)年秋

    大佛次郎を中心とした編集の時期

    ・三期―一九二六年秋~一九二七(昭二)年三月(廃刊)

    大佛が抜けたあとの展開を模索する時期

    ここでは大佛の活躍する一期と二期について述べる。まずは一期についてみよう。鈴木が『ポケット』

    の編集についた一九二四年二月号には、河上孤村、国枝史郎、同年三月号には走湯夢之助、河辺夢人に加

    え、大佛次郎「隼の源次」など、この年の軸となる作家が数人、起用されている。

    また大佛が『ポケット』に起用される際の鈴木とのやりとり(注7)はよく知られ、その逸話からさま

    ざまな解釈がされているが、鈴木は「鞍馬天狗」掲載にあたって講談社の『講談倶楽部』初代編集長の望

    月紫峰に原稿を見せ相談していることから、(注8)、少なくとも、この時期の大佛は、鈴木が目星をつけ

    た新人のひとりであったということまではいえよう。鈴木は、彼らの中から雑誌編集の軸となる連載物が

    書ける作家を見つけることが喫緊の課題であった。

    一期で目立つのは、国枝史郎の活躍である。鈴木は、『新趣味』時代から国枝を起用してきた。よく知

    られる逸話として、国枝の「沙漠の古都」は、『新趣味』が翻訳雑誌であるため、あえて架空の作者(イ

    ー・ドニ・ムニエ)を仕立て国枝の翻訳として掲載した(注9)ことがあげられる。『ポケット』では国

    枝にも大佛同様、複数のペンネームを使い分けて活躍させた。二人のペンネームの使い分けをみていくと

    同年八月号は国枝が四つの筆名(西井菊三郎「玉菊燈籠」、柳内自来「りや女と其角」、宮川芽野雄「お仙

    と蜀山人」、国枝史郎「人間製造」)、対する大佛は二つの筆名(大佛次郎「鞍馬天狗」、阪下五郎「夢の浮

    橋」)、翌九月号は国枝三筆名(国枝史郎「真剣二幅対」、奈良うねめ「高尾切り」、硝子庄之介「北斎の達

    磨」)に対して(注10)、大佛三筆名(大佛次郎「鞍馬天狗」、阪下五郎「阪本龍馬」、由井浜人「艶説蟻地

    獄」)と作品数が並ぶ。大佛は一〇月号は五作品、一一月号は四作品とペースは落ちないが、国枝作品が

    ほぼなくなり、秋に主力が国枝から大佛に入れ替わったことがわかる。当時、国枝は、博文館の主力雑誌

    『講談雑誌』に代表作「蔦葛木曽棧」(一九二二〈大一一〉年九月~一九二六〈大一五〉年五月)を連載

    していたが、九月から博文館の老舗雑誌の『文芸倶楽部』一一月号から代表作となる「八ヶ嶽の魔神」の

    連載も開始するので、他誌の連載が理由で、『ポケット』での活動が縮小していったと考えられる。

    もう少し鈴木の起用方法について述べよう。大佛・国枝以外に『新趣味』時代に起用した作家として石

    川大策がおり、一九二六年から連載「轟警部探偵功名話」を始めさせている。『新趣味』時代の人脈を活

    用する鈴木をみていると、新人作家への面倒見の良さを感じさせるが、一方で、『新趣味』時代に、懸賞

    で当選させた新人をレギュラー起用しない点をあげて新人へのサポートが悪いとの評価もある(注11)こ

    とを付記しておく。

    二期は、大佛が『ポケット』の主力として活躍する時期と、新聞小説へ活動の場を広げる時期が重なる。

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    1904446_おさら�選書第27集_前から.indd 57 2019/11/20 22:10

  • 特徴としては、大佛は、博文館内で『ポケット』の活動を実績に主力の『講談雑誌』へ活動の場を広げる

    ことなく、発行部数百万部を達成していた『朝日新聞』『毎日新聞』の場を移行するのだが、この過程で

    ひとつの疑問が生じる。

    まず「野尻書簡九

    大正一五年四月三日」に、鈴木徳太郎が博文館内で熱心に大佛を推すので、周りか

    ら「大仏氏が偉いといっても新聞から頼まれぬでハ無いか」と揶揄されていたことが書かれている。大衆

    文学作家としての地位に「新聞連載」が重要なことを示す事例としていえようが、これについては後述す

    る。 書

    簡を見ると『ポケット』から『大朝』へ移る際に、『東日』との間に激しい駆け引きがあったようだ。

    この経緯は、大佛の随筆「「照る日曇る日」と筆名」(『週刊朝日』一九五八年五月一四日号、のち『大佛

    次郎エッセイ・セレクション三

    時代と自分を語る―生きている時間』小学館、一九九六年所収)に「す

    こし困った問題が起こった。」とさらりと書いてあるだけなので、筆者としても大事件に見ていなかった。

    しかし、「野尻書簡九

    大正一五年四月三日」には、その勧誘にあたって、毎日新聞社の実力者で、中里

    介山「大菩薩峠」を夕刊一面の連載に移籍させたことで知られる城戸元亮の名前まで出てくる。別の資料

    でも毎日新聞社の千葉亀雄も連載に大佛を推したという話もあり(注12)、そのあたりは『選書』二三集

    収録の手塚甫「野尻抱影と大佛次郎―野尻正英書簡を読む―」に詳しいので、本稿では立ち入らない。筆

    者がここで指摘したいのは、無名の新人が『大朝』に書くことになったうえ、『東日』との話も立ち消え

    にならずに、翌年に「赤穂浪士」となって実現することの不思議さである。さらに「鈴木書簡一〇

    大正

    一五年一一月一七日」の記述もあわせると、一九二六(大一五)年一一月の時点で新聞社に加え、講談社

    の『講談倶楽部』、プラトン社の『苦楽』からも依頼があったことになり、「鞍馬天狗」というヒット作は

    あったにせよ大佛はわずか二九歳にして、大衆文学が掲載可能な著名な新聞・雑誌のほぼすべてから連載

    依頼が来ていたことになる。筆者は以前にも指摘したが、「照る日くもる日」の連載が始まった八月一四

    日前後の『朝日新聞』に掲載された東西の『ポケット』の広告(九~一〇月)を比較すると、『大朝』の

    ほうが大佛の名前を大阪の読者に強く印象づけるものとなっている(注13)。また、「鈴木書簡五

    大正一

    四年三月二三日」でも『ポケット』自体の大阪での知名度が低いことが書かれている。これらの史料から、

    大佛次郎は東京の出版界では知られていても、大阪の読者には知られていない作家であるといえる。そん

    な大佛に、なぜ、この時期、恵まれた環境が生じたのか、その理由をもう少し深く考察してもよいのでは

    ないだろうか。本稿ではこの課題だけを提示するにとどめる。

    以上、書簡などから、『ポケット』時代に生じた新聞連載に関する課題として次の二点を確認した。一

    つ目は、大佛は『ポケット』において、国枝史郎と入れ替わるように一九二五(大一四)年から主力執筆

    者として鞍馬天狗の長編連載を始める。しかし「鞍馬天狗」は高級読者向けという批判を受け、読者層の

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  • 特徴としては、大佛は、博文館内で『ポケット』の活動を実績に主力の『講談雑誌』へ活動の場を広げる

    ことなく、発行部数百万部を達成していた『朝日新聞』『毎日新聞』の場を移行するのだが、この過程で

    ひとつの疑問が生じる。

    まず「野尻書簡九

    大正一五年四月三日」に、鈴木徳太郎が博文館内で熱心に大佛を推すので、周りか

    ら「大仏氏が偉いといっても新聞から頼まれぬでハ無いか」と揶揄されていたことが書かれている。大衆

    文学作家としての地位に「新聞連載」が重要なことを示す事例としていえようが、これについては後述す

    る。 書

    簡を見ると『ポケット』から『大朝』へ移る際に、『東日』との間に激しい駆け引きがあったようだ。

    この経緯は、大佛の随筆「「照る日曇る日」と筆名」(『週刊朝日』一九五八年五月一四日号、のち『大佛

    次郎エッセイ・セレクション三

    時代と自分を語る―生きている時間』小学館、一九九六年所収)に「す

    こし困った問題が起こった。」とさらりと書いてあるだけなので、筆者としても大事件に見ていなかった。

    しかし、「野尻書簡九

    大正一五年四月三日」には、その勧誘にあたって、毎日新聞社の実力者で、中里

    介山「大菩薩峠」を夕刊一面の連載に移籍させたことで知られる城戸元亮の名前まで出てくる。別の資料

    でも毎日新聞社の千葉亀雄も連載に大佛を推したという話もあり(注12)、そのあたりは『選書』二三集

    収録の手塚甫「野尻抱影と大佛次郎―野尻正英書簡を読む―」に詳しいので、本稿では立ち入らない。筆

    者がここで指摘したいのは、無名の新人が『大朝』に書くことになったうえ、『東日』との話も立ち消え

    にならずに、翌年に「赤穂浪士」となって実現することの不思議さである。さらに「鈴木書簡一〇

    大正

    一五年一一月一七日」の記述もあわせると、一九二六(大一五)年一一月の時点で新聞社に加え、講談社

    の『講談倶楽部』、プラトン社の『苦楽』からも依頼があったことになり、「鞍馬天狗」というヒット作は

    あったにせよ大佛はわずか二九歳にして、大衆文学が掲載可能な著名な新聞・雑誌のほぼすべてから連載

    依頼が来ていたことになる。筆者は以前にも指摘したが、「照る日くもる日」の連載が始まった八月一四

    日前後の『朝日新聞』に掲載された東西の『ポケット』の広告(九~一〇月)を比較すると、『大朝』の

    ほうが大佛の名前を大阪の読者に強く印象づけるものとなっている(注13)。また、「鈴木書簡五

    大正一

    四年三月二三日」でも『ポケット』自体の大阪での知名度が低いことが書かれている。これらの史料から、

    大佛次郎は東京の出版界では知られていても、大阪の読者には知られていない作家であるといえる。そん

    な大佛に、なぜ、この時期、恵まれた環境が生じたのか、その理由をもう少し深く考察してもよいのでは

    ないだろうか。本稿ではこの課題だけを提示するにとどめる。

    以上、書簡などから、『ポケット』時代に生じた新聞連載に関する課題として次の二点を確認した。一

    つ目は、大佛は『ポケット』において、国枝史郎と入れ替わるように一九二五(大一四)年から主力執筆

    者として鞍馬天狗の長編連載を始める。しかし「鞍馬天狗」は高級読者向けという批判を受け、読者層の

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    1904446_おさら�選書第27集_前から.indd 59 2019/11/20 22:10

  • ミスマッチが生じていた。二つ目は、野尻書簡にあった大佛次郎の評価のように、作家のポジションをあ

    げるためには、新聞連載が実績として必要な状態にあったことの二点を確認した。

    新聞連載がもたらす力学の変化

    ここからは、大佛の『大朝』『大毎』での新聞連載が、今の二つの課題をどのように解決したかをみて

    いきたい。まず、新聞連載の紙面の特徴について述べよう。当時の『朝日新聞』『毎日新聞』では、朝刊

    に現代小説、夕刊に講談、のちに時代・歴史小説が一本ずつ連載された。また夕刊一面にもさまざまな分

    量の小説が掲載された。『朝日新聞』の場合は夕刊一面を一九二八(昭三)年から朝刊連載への登竜門と

    して位置づけ新進作家を登用しさまざまな中篇を発表させた(注14)。

    当時、新聞連載の人気は、読者の定期購読の継続に大きく影響したため、各社は作品の選定に注意を払

    った。同時に、作家にとっては、連載の成功が大衆文学作家としての文名の向上につながっていた。先に、

    大佛が新聞連載がないことを揶揄された事例を述べたが、新聞連載の重要性を述べる事例をさらに紹介し

    よう。千葉亀雄「創作家大佛次郎君」では、『ポケット』の活躍の時期に「ところで大佛君は、まだ新聞

    小説を―その頃は―一つも書いて居なかった。」と述べている。また、直木三十五、牧逸馬など大衆文学

    作家が集まった『大毎』の座談会で、「今年は誰が一番書きましたかな。僕は子母澤寛だと思ふが。」との

    出席者の問いに、大佛は「直木、吉川だらう。子母澤君には新聞がなかつたから。」(「文芸円卓会議」上

    『大毎』一九三二〈昭七〉年一二月二四日付朝刊七面)と答え、自らも新聞連載の有無を作家の活動量の

    評価の判断のひとつとしてみせた。このように、新聞連載の有無や成功/不成功は、大衆文学の作家の地

    位をはかる尺度となっていたことがいえよう。

    さらに『ポケット』から『大朝』『大毎』への移行は、読者層も大きく変化させた。『ポケット』は発行

    部数約三万部(注15)の一般読者を対象とした通俗的な雑誌であったが、『大朝』『大毎』は、発行部数に

    いたっては百万部を突破し、知識階級から一般読者を幅広く内包した読者層を形成していた。『大朝』『大

    毎』は知識階級を意識した連載を掲載した。たとえば『大朝』の夕刊の連載は、他紙が講談を掲載するな

    か、渡邉霞亭の歴史小説を載せた。また、『大毎』も経済都市大阪で発祥したため都市部の読者を意識し

    た記事・小説の掲載を初期から掲げている(注16)。

    『ポケット』の鞍馬天狗は、「御用盗異聞」が難しい内容であったため調子を下げたが、『週刊朝日』に

    連載した「鞍馬天狗余燼」はかなり難解な内容にかかわらず、編集部の鎌田敬四郎は「これなら読者の評

    判請合を信じています」と高く評価をした(注17)のは好例だろう。

    近年の文学研究や出版史研究では、作品形成における編集者の役割を探ることも大切なテーマとなりつ

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    1904446_おさら�選書第27集_前から.indd 60 2019/11/20 22:10

  • ミスマッチが生じていた。二つ目は、野尻書簡にあった大佛次郎の評価のように、作家のポジションをあ

    げるためには、新聞連載が実績として必要な状態にあったことの二点を確認した。

    新聞連載がもたらす力学の変化

    ここからは、大佛の『大朝』『大毎』での新聞連載が、今の二つの課題をどのように解決したかをみて

    いきたい。まず、新聞連載の紙面の特徴について述べよう。当時の『朝日新聞』『毎日新聞』では、朝刊

    に現代小説、夕刊に講談、のちに時代・歴史小説が一本ずつ連載された。また夕刊一面にもさまざまな分

    量の小説が掲載された。『朝日新聞』の場合は夕刊一面を一九二八(昭三)年から朝刊連載への登竜門と

    して位置づけ新進作家を登用しさまざまな中篇を発表させた(注14)。

    当時、新聞連載の人気は、読者の定期購読の継続に大きく影響したため、各社は作品の選定に注意を払

    った。同時に、作家にとっては、連載の成功が大衆文学作家としての文名の向上につながっていた。先に、

    大佛が新聞連載がないことを揶揄された事例を述べたが、新聞連載の重要性を述べる事例をさらに紹介し

    よう。千葉亀雄「創作家大佛次郎君」では、『ポケット』の活躍の時期に「ところで大佛君は、まだ新聞

    小説を―その頃は―一つも書いて居なかった。」と述べている。また、直木三十五、牧逸馬など大衆文学

    作家が集まった『大毎』の座談会で、「今年は誰が一番書きましたかな。僕は子母澤寛だと思ふが。」との

    出席者の問いに、大佛は「直木、吉川だらう。子母澤君には新聞がなかつたから。」(「文芸円卓会議」上

    『大毎』一九三二〈昭七〉年一二月二四日付朝刊七面)と答え、自らも新聞連載の有無を作家の活動量の

    評価の判断のひとつとしてみせた。このように、新聞連載の有無や成功/不成功は、大衆文学の作家の地

    位をはかる尺度となっていたことがいえよう。

    さらに『ポケット』から『大朝』『大毎』への移行は、読者層も大きく変化させた。『ポケット』は発行

    部数約三万部(注15)の一般読者を対象とした通俗的な雑誌であったが、『大朝』『大毎』は、発行部数に

    いたっては百万部を突破し、知識階級から一般読者を幅広く内包した読者層を形成していた。『大朝』『大

    毎』は知識階級を意識した連載を掲載した。たとえば『大朝』の夕刊の連載は、他紙が講談を掲載するな

    か、渡邉霞亭の歴史小説を載せた。また、『大毎』も経済都市大阪で発祥したため都市部の読者を意識し

    た記事・小説の掲載を初期から掲げている(注16)。

    『ポケット』の鞍馬天狗は、「御用盗異聞」が難しい内容であったため調子を下げたが、『週刊朝日』に

    連載した「鞍馬天狗余燼」はかなり難解な内容にかかわらず、編集部の鎌田敬四郎は「これなら読者の評

    判請合を信じています」と高く評価をした(注17)のは好例だろう。

    近年の文学研究や出版史研究では、作品形成における編集者の役割を探ることも大切なテーマとなりつ

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    1904446_おさら�選書第27集_前から.indd 61 2019/11/20 22:10

  • つある。編集者は、ある思想やトレンドを伝える媒介者と見立て分析することが可能だ。ここでは、『大

    朝』に大佛を呼び寄せた内海幽水の新聞小説観を見てみよう。内海は「新聞の『続き物』」(『週刊朝日』

    春季特別号、一九二三〈大一二〉年四月一〇日号)で朝日新聞の小説を例に明治から大正までの新聞小説

    を概観し、作品の傾向と読者について述べた。その中で読者層について触れた部分がある。「読者の範囲

    が次第に広まり、高低の趣味の一致しない大多数の民衆を相手に、その趣味となり娯楽となる小説である

    から、最もポピュラリチーのある、所謂流行作家に書かせることも必要となつた。」と高級読者を読者層

    に含めている。こうした幅広い読者に対応するには、三タイプの作品が必要として、新味を追加した通俗

    的な講談もの、芸術的作品、そして「高級と通俗趣味の級との中間を行くもの、所謂新聞小説である」と

    あげている。そして、朝日新聞では「此の傾向と発達とが極めて合理的に順序よく進んで来たやうである。」

    (内海幽水「新聞の『続き物』」)と総括し、高級と通俗を包括する大切さを述べている。そして、文末に

    新聞小説の最近の傾向の分析については「他日今少し精緻な研究の後に発表さして貰ふことにする」とあ

    るので、大佛の「照る日くもる日」は、内海の研究の成果にもとづく小説との見方もできよう。

    同時に、内海の新聞小説観は、鈴木の編集方針ともつながる。先述の「鈴木書簡四

    大正一三年九月一

    六日」における「それは今の文壇で所謂通俗小説、新講談なるものを低級な文学、所謂創作を高級文学と

    して取扱ってゐるやうですが、文学に低級も高級もあるものでないぢゃありませんか。(中略)元来は矢

    張り芸術として同等に取扱はれるべきものであるから、小生はポケットに於て実際の作そのものに於て之

    を実現したい」という部分である。どちらも、「知識階級」を意識し、創作や通俗作品という区別をする

    のではなく、「芸術」性のある作品を求めた姿勢が共通している。また、内海は『ポケット』の鞍馬天狗

    を愛読し「外国の小説を読んでいて髷物を書いても多少新しく感じられる」(大佛次郎「「照る日曇る日」

    と筆名」)点に注目したが、この筆致として「新しさ」を求める点も、鈴木がたびたび「新味」「新人」な

    どという語で、大佛作品を掲載した姿勢に通じている。つまり、媒体は変わっても、編集者の方針は変わ

    らなかったといえる。なお「照る日くもる日」に対しても大衆より知識階級によった内容だという指摘(注

    18)があったことを付記しておこう。

    続く、『東日』では「赤穂浪士」、『大毎』では「ごろつき船」、『大毎』『東日』で「由比正雪」を書いた。

    この時の直接の担当編集者は管見の限り不明だが、『東日』には客員のちに学芸部長になる千葉亀雄が在

    籍し、大佛にエールを送っていた。千葉は、大衆文学においては、『サンデー毎日』の懸賞「大衆文芸」

    の選考者として、多くの若い作家を発掘した功績がよく知られる。大佛は千葉とも親交が深く、千葉の死

    後に設けられた千葉賞の選考委員を務めた。

    千葉の大衆文学観は多岐にわたるものなので、尾崎秀樹の解説(注19)をもとに本稿に関係する部分の

    み述べよう。千葉は、日本の大衆文芸の特質のひとつとしてロマンをあげ、「教養のとぼしい階級を相手

    62

    1904446_おさら�選書第27集_前から.indd 62 2019/11/20 22:10

  • つある。編集者は、ある思想やトレンドを伝える媒介者と見立て分析することが可能だ。ここでは、『大

    朝』に大佛を呼び寄せた内海幽水の新聞小説観を見てみよう。内海は「新聞の『続き物』」(『週刊朝日』

    春季特別号、一九二三〈大一二〉年四月一〇日号)で朝日新聞の小説を例に明治から大正までの新聞小説

    を概観し、作品の傾向と読者について述べた。その中で読者層について触れた部分がある。「読者の範囲

    が次第に広まり、高低の趣味の一致しない大多数の民衆を相手に、その趣味となり娯楽となる小説である

    から、最もポピュラリチーのある、所謂流行作家に書かせることも必要となつた。」と高級読者を読者層

    に含めている。こうした幅広い読者に対応するには、三タイプの作品が必要として、新味を追加した通俗

    的な講談もの、芸術的作品、そして「高級と通俗趣味の級との中間を行くもの、所謂新聞小説である」と

    あげている。そして、朝日新聞では「此の傾向と発達とが極めて合理的に順序よく進んで来たやうである。」

    (内海幽水「新聞の『続き物』」)と総括し、高級と通俗を包括する大切さを述べている。そして、文末に

    新聞小説の最近の傾向の分析については「他日今少し精緻な研究の後に発表さして貰ふことにする」とあ

    るので、大佛の「照る日くもる日」は、内海の研究の成果にもとづく小説との見方もできよう。

    同時に、内海の新聞小説観は、鈴木の編集方針ともつながる。先述の「鈴木書簡四

    大正一三年九月一

    六日」における「それは今の文壇で所謂通俗小説、新講談なるものを低級な文学、所謂創作を高級文学と

    して取扱ってゐるやうですが、文学に低級も高級もあるものでないぢゃありませんか。(中略)元来は矢

    張り芸術として同等に取扱はれるべきものであるから、小生はポケットに於て実際の作そのものに於て之

    を実現したい」という部分である。どちらも、「知識階級」を意識し、創作や通俗作品という区別をする

    のではなく、「芸術」性のある作品を求めた姿勢が共通している。また、内海は『ポケット』の鞍馬天狗

    を愛読し「外国の小説を読んでいて髷物を書いても多少新しく感じられる」(大佛次郎「「照る日曇る日」

    と筆名」)点に注目したが、この筆致として「新しさ」を求める点も、鈴木がたびたび「新味」「新人」な

    どという語で、大佛作品を掲載した姿勢に通じている。つまり、媒体は変わっても、編集者の方針は変わ

    らなかったといえる。なお「照る日くもる日」に対しても大衆より知識階級によった内容だという指摘(注

    18)があったことを付記しておこう。

    続く、『東日』では「赤穂浪士」、『大毎』では「ごろつき船」、『大毎』『東日』で「由比正雪」を書いた。

    この時の直接の担当編集者は管見の限り不明だが、『東日』には客員のちに学芸部長になる千葉亀雄が在

    籍し、大佛にエールを送っていた。千葉は、大衆文学においては、『サンデー毎日』の懸賞「大衆文芸」

    の選考者として、多くの若い作家を発掘した功績がよく知られる。大佛は千葉とも親交が深く、千葉の死

    後に設けられた千葉賞の選考委員を務めた。

    千葉の大衆文学観は多岐にわたるものなので、尾崎秀樹の解説(注19)をもとに本稿に関係する部分の

    み述べよう。千葉は、日本の大衆文芸の特質のひとつとしてロマンをあげ、「教養のとぼしい階級を相手

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  • とするために、理智よりも情操に訴える場合が多く、手近いところから次第に崇高な芸術領域まで引きあ

    げてゆく過渡的な形態として、大衆作家の描く大衆文芸は意味を持つ」(六三頁)とその効果を説く。こ

    うした部分が鈴木や内海より具体的といえる。また、朝刊にはやや芸術味のある大衆的な小説、夕刊の一

    面は社会性のある作品、三面に娯楽的読みものを掲載するという新聞小説の方法は、芸術性、社会性、娯

    楽性の三条件が交差するところに新聞小説が成り立つためのものと説明している。これは、新聞小説に不

    可欠の三要素として理解できるだろう。このうち「通俗性」を大衆を芸術に導くための入り口として見る

    点は、千葉も鈴木・内海と同じである。

    なお「赤穂浪士」から「由比正雪」における大佛と千葉の関係は、鈴木・内海のような編集者と作家と

    いうより、評論家と作家という関係が近いだろう。しかし、掲載媒体に強力な評論家が在籍していたこと

    は、心強い。最近、千葉と大佛の関係を考える上で、重要な論考が安川篤子により『選書』に発表された。

    尾崎は、千葉の大衆文学観のベースには民衆芸術論があったことを指摘しているが、安川は、大佛が若い

    頃、ロマン・ロラン『民衆劇論』を始めとする民衆芸術論に強い影響を受けたことを詳しく論じており(注

    20)、千葉と大佛をつなぐ新たな視点を提供してくれた。安川論文で紹介された大佛の若き日の論文「積

    極的観衆」(『劇と評論』一九二三年八月)では、演劇においていかに観衆を芸術的境地に達せさせるかを

    論じており、こうした意識をどのように自らの創作活動に昇華させていったかはこれからの研究テーマの

    ひとつである。

    このように大佛は、媒体は異なっても、知識層を意識した作品掲載をめざす編集者、もしくは評論家に

    恵まれ、その創作環境を維持していったといえる。

    大佛自身も「大衆文芸を語る」(『文学時代』一九三一〈昭六〉年五月号)において「純文学と云ひ、大

    衆文芸といひ、理想から云へば私は区別を考へたくない。結局レッテルの問題ではないか」と区別の無意

    味さを訴え、「通読的面白みがあるから芸術味がないといふ事はない」「文学的であつて、しかも大衆読者

    がそれにつまづく事なく興味を以て読み得るものこそ、よき大衆文芸と云へよう」と、自らも彼らと共通

    した文学観を語っている。

    こうした関係は次のように理解できるのではないだろうか。鈴木・内海・千葉の考える大衆文学におい

    て通俗性と芸術性は相反するものではなく、融合するものである。その編集観・芸術観は、鈴木・内海・

    千葉が媒介者となり大佛次郎に伝わり作品化され、大佛はその実践者として、創作活動において自ら大衆

    文学観として深化させていった。大佛にとって、『ポケット』から『大朝』『大毎』への移行は、鈴木が理

    想としていた作品観を心置きなく具現化できる環境に移った、といえよう。次節では、どのように大佛次

    郎が新聞小説に取り組んだかについて「由比正雪」「雪崩」から見ていこう。

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    1904446_おさら�選書第27集_前から.indd 64 2019/11/20 22:10

  • とするために、理智よりも情操に訴える場合が多く、手近いところから次第に崇高な芸術領域まで引きあ

    げてゆく過渡的な形態として、大衆作家の描く大衆文芸は意味を持つ」(六三頁)とその効果を説く。こ

    うした部分が鈴木や内海より具体的といえる。また、朝刊にはやや芸術味のある大衆的な小説、夕刊の一

    面は社会性のある作品、三面に娯楽的読みものを掲載するという新聞小説の方法は、芸術性、社会性、娯

    楽性の三条件が交差するところに新聞小説が成り立つためのものと説明している。これは、新聞小説に不

    可欠の三要素として理解できるだろう。このうち「通俗性」を大衆を芸術に導くための入り口として見る

    点は、千葉も鈴木・内海と同じである。

    なお「赤穂浪士」から「由比正雪」における大佛と千葉の関係は、鈴木・内海のような編集者と作家と

    いうより、評論家と作家という関係が近いだろう。しかし、掲載媒体に強力な評論家が在籍していたこと

    は、心強い。最近、千葉と大佛の関係を考える上で、重要な論考が安川篤子により『選書』に発表された。

    尾崎は、千葉の大衆文学観のベースには民衆芸術論があったことを指摘しているが、安川は、大佛が若い

    頃、ロマン・ロラン『民衆劇論』を始めとする民衆芸術論に強い影響を受けたことを詳しく論じており(注

    20)、千葉と大佛をつなぐ新たな視点を提供してくれた。安川論文で紹介された大佛の若き日の論文「積

    極的観衆」(『劇と評論』一九二三年八月)では、演劇においていかに観衆を芸術的境地に達せさせるかを

    論じており、こうした意識をどのように自らの創作活動に昇華させていったかはこれからの研究テーマの

    ひとつである。

    このように大佛は、媒体は異なっても、知識層を意識した作品掲載をめざす編集者、もしくは評論家に

    恵まれ、その創作環境を維持していったといえる。

    大佛自身も「大衆文芸を語る」(『文学時代』一九三一〈昭六〉年五月号)において「純文学と云ひ、大

    衆文芸といひ、理想から云へば私は区別を考へたくない。結局レッテルの問題ではないか」と区別の無意

    味さを訴え、「通読的面白みがあるから芸術味がないといふ事はない」「文学的であつて、しかも大衆読者

    がそれにつまづく事なく興味を以て読み得るものこそ、よき大衆文芸と云へよう」と、自らも彼らと共通

    した文学観を語っている。

    こうした関係は次のように理解できるのではないだろうか。鈴木・内海・千葉の考える大衆文学におい

    て通俗性と芸術性は相反するものではなく、融合するものである。その編集観・芸術観は、鈴木・内海・

    千葉が媒介者となり大佛次郎に伝わり作品化され、大佛はその実践者として、創作活動において自ら大衆

    文学観として深化させていった。大佛にとって、『ポケット』から『大朝』『大毎』への移行は、鈴木が理

    想としていた作品観を心置きなく具現化できる環境に移った、といえよう。次節では、どのように大佛次

    郎が新聞小説に取り組んだかについて「由比正雪」「雪崩」から見ていこう。

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    1904446_おさら�選書第27集_前から.indd 65 2019/11/20 22:10

  • 四 毎日新聞の新聞小説―「由比正雪」

    大佛は毎日新聞では主に夕刊連載で「赤穂浪士」「由比正雪」という話題作を発表した。

    面白いのは、毎日新聞における大佛作品の連載紙の移行の順序である。当時、毎日新聞社内では、本社

    のある『大毎』のほうが『東日』よりも上位にあった。大佛は『東日』(「赤穂浪士」)で腕試しし、その

    成功を受けて『大毎』(「ごろつき船」)、そして『大毎』『東日』(「由比正雪」)という流れが見える。なお、

    この一連の連載により大佛は大衆文学界の注目を一身にあつめたことが、当時の年鑑類(注21)で確認で

    きる。

    まずは「由比正雪」(画

    岩田専太郎、連載回数三一〇回

    『大毎』『東日』一九二九年六月一二日付~

    一九三〇年六月一一日付)を見てみよう。「由比正雪」は、大衆文学の芸術化路線を推し進めるものとし

    て、多くの作家、評論家の注目を得た作品だった。谷崎潤一郎は「私はあの大佛君の「由井正雪」を新聞

    の夕刊で拾ひ読みをして、その心理を説き、時代を描き、思想を盛り、景物を叙することの精細を極めて

    ゐるのを見、進歩した西洋小説の手法を斯く迄取り入れた歴史物が現はれるやうになつて」(谷崎潤一郎

    「直木君の歴史小説について」『文芸春秋』一九三三〈昭八〉年一一月~一九三四〈昭九〉年一月、のち

    に『谷崎潤一郎全集二十巻』中央公論社、一九九三年に所収)と、創作姿勢に賛辞を送った。しかし結果

    は思わしくなく、田山花袋「此頃の感想」(『中央公論』一九三〇年一月号)、直木三十五「大佛次郎の流

    行」(『読売新聞』一九三一〈昭六〉年三月一九日付四面)などの批判が出た。特に「叔父と甥」(連載二

    〇三回~二二六回、『大毎』一九三〇年二月六日付~三月四日付、『東日』同年二月五日付~三月四日付)

    では、社会矛盾を議論によって浮かび上がらせる方法をとり、あえて毎回ストーリーや挿絵に起伏をつけ

    読者の興味をひっぱるという新聞小説の作法を破るようなスタイルをとったため、直木三十五から「紀州

    頼宣が、独科白を、長々とー三日に亘つて、述べ立てゝも、その心理解剖が細かければ、今日のかゝる文

    学常識に於ては「おもしろくはないが文学的だ」で解決するのである。」(直木三十五「大佛次郎の流行」)

    と皮肉られる結果となった。千葉亀雄も「大衆文芸の現状と将来」(『新潮』二七巻八号、一九三〇年八月)

    及び「一九三〇年文壇総決算(下)」(『大毎』一九三〇年一二月四日付一一面)で大佛の努力を認めたも

    のの、「大佛次郎氏が、剣劇を、心理小説にまで進出させようとした企画は、さすがに氏の聡明さ、丹念

    さを伺はせる。剣劇小説は、心理小説としてのみ芸術に近づき得、そこに更生と上向の活路があるとは、

    われ等もかつて思ひ付いた暗示であつたが、実験では明白に失敗した」(「大衆文芸の現状と将来」)と無

    念さを露わにした。

    いまあげた一連の評価を理解するにあたっては、大佛の生来の資質を踏まえて思考する必要がある。こ

    こでは大佛にむけた『ポケット』時代のふたつの評価を紹介しよう。一つは、国枝史郎の大佛評だ。「大

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  • 毎日新聞の新聞小説―「由比正雪」

    大佛は毎日新聞では主に夕刊連載で「赤穂浪士」「由比正雪」という話題作を発表した。

    面白いのは、毎日新聞における大佛作品の連載紙の移行の順序である。当時、毎日新聞社内では、本社

    のある『大毎』のほうが『東日』よりも上位にあった。大佛は『東日』(「赤穂浪士」)で腕試しし、その

    成功を受けて『大毎』(「ごろつき船」)、そして『大毎』『東日』(「由比正雪」)という流れが見える。なお、

    この一連の連載により大佛は大衆文学界の注目を一身にあつめたことが、当時の年鑑類(注21)で確認で

    きる。

    まずは「由比正雪」(画

    岩田専太郎、連載回数三一〇回

    『大毎』『東日』一九二九年六月一二日付~

    一九三〇年六月一一日付)を見てみよう。「由比正雪」は、大衆文学の芸術化路線を推し進めるものとし

    て、多くの作家、評論家の注目を得た作品だった。谷崎潤一郎は「私はあの大佛君の「由井正雪」を新聞

    の夕刊で拾ひ読みをして、その心理を説き、時代を描き、思想を盛り、景物を叙することの精細を極めて

    ゐるのを見、進歩した西洋小説の手法を斯く迄取り入れた歴史物が現はれるやうになつて」(谷崎潤一郎

    「直木君の歴史小説について」『文芸春秋』一九三三〈昭八〉年一一月~一九三四〈昭九〉年一月、のち

    に『谷崎潤一郎全集二十巻』中央公論社、一九九三年に所収)と、創作姿勢に賛辞を送った。しかし結果

    は思わしくなく、田山花袋「此頃の感想」(『中央公論』一九三〇年一月号)、直木三十五「大佛次郎の流

    行」(『読売新聞』一九三一〈昭六〉年三月一九日付四面)などの批判が出た。特に「叔父と甥」(連載二

    〇三回~二二六回、『大毎』一九三〇年二月六日付~三月四日付、『東日』同年二月五日付~三月四日付)

    では、社会矛盾を議論によって浮かび上がらせる方法をとり、あえて毎回ストーリーや挿絵に起伏をつけ

    読者の興味をひっぱるという新聞小説の作法を破るようなスタイルをとったため、直木三十五から「紀州

    頼宣が、独科白を、長々とー三日に亘つて、述べ立てゝも、その心理解剖が細かければ、今日のかゝる文

    学常識に於ては「おもしろくはないが文学的だ」で解決するのである。」(直木三十五「大佛次郎の流行」)

    と皮肉られる結果となった。千葉亀雄も「大衆文芸の現状と将来」(『新潮』二七巻八号、一九三〇年八月)

    及び「一九三〇年文壇総決算(下)」(『大毎』一九三〇年一二月四日付一一面)で大佛の努力を認めたも

    のの、「大佛次郎氏が、剣劇を、心理小説にまで進出させようとした企画は、さすがに氏の聡明さ、丹念

    さを伺はせる。剣劇小説は、心理小説としてのみ芸術に近づき得、そこに更生と上向の活路があるとは、

    われ等もかつて思ひ付いた暗示であつたが、実験では明白に失敗した」(「大衆文芸の現状と将来」)と無

    念さを露わにした。

    いまあげた一連の評価を理解するにあたっては、大佛の生来の資質を踏まえて思考する必要がある。こ

    こでは大佛にむけた『ポケット』時代のふたつの評価を紹介しよう。一つは、国枝史郎の大佛評だ。「大

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    1904446_おさら�選書第27集_前から.indd 67 2019/11/20 22:10

  • 衆文壇鳥瞰(一)」(『読売新聞』一九二五〈大一四〉年四月一九日付)において、「一夜に四十枚は書き飛

    ばすといふ(これは或人の噂なのであるが)その羨ましい精力主義」「其手堅い構成法で幾多の人物を輩

    出させ幾多の事件を起こさせ乍ら、混乱させない技術に至つては正に老手」と高い評価を与えている。も

    う一つは、『独立』七巻一号、一九二五年一月号に高堂輝男名義で書いた「愛憎二ならず」に対する読者

    評である。「本誌を読むと、まるで映画の種本の如き感がする。中にも一月号の『愛憎二ならず』などは、

    場面の変転さ加減実に、ファン連の随喜するものだと思ふ」(「独立倶楽部」『独立』七巻二号、一九二五

    年二月号)。このように大佛は生来の資質として、登場人物の書き分けや、スピーディーな場面転換を得

    意としていたのである。したがって、「叔父と甥」の展開は、表現を優先するために得意な場面転換を封

    じた取り組みとみることができる。

    この頃、大佛は、さきにあげた「大衆文芸を語る」(『文学時代』一九三一〈昭六〉年五月号)で、「や

    はりその時代、階級、性格を文学的に突込んで描きたいと思つてゐる。然し、さうなると、今の読者層か

    らは離れるかも知れない」「現代物を扱った新聞小説を試みている」と創作の方向性の転換について述べ

    ている。この言葉には、「由比正雪」で受けた痛手と、朝日新聞に移って現代物に取り組んだ理由の一端

    が込められているのではないか。

    朝日新聞の新聞小説―「雪崩」

    「雪崩」(画

    猪熊弦一郎、連載一二九回、『大朝』『東朝』一九三六〈昭一一〉年八月二四日付~同年

    一二月三一日付)についてみたい。『大佛次郎自選集

    現代小説』第一巻、朝日新聞社、一九七二年の「あ

    とがき」で「自分の新聞の小説のスタイルを初めて見つけた」と振り返り、「野尻書簡二二

    昭和一一年

    一二月二〇日」(『選書』二三集)でも「「雪崩」は格段の跳躍だった事を誰も認める」と野尻抱影が高い

    評価を与えた現代小説の成功作である。この作品は名古屋が舞台になっている場面が多いが、これは前年

    (一九三五〈昭一〇〉年一一月)に大阪朝日新聞社が名古屋支社で印刷を開始し、中部圏へ進出したこと

    を踏まえての設定だろう。

    ここでは、大佛が「雪崩」でどのように新聞小説の技術を向上させたかを見よう。島木健作の指摘によ

    って、大佛が「由比正雪」同様、新聞小説のフォーマットに逆らって表現の限界に挑戦する姿が伺える。

    島木は、「雪崩」第一〇四回で大佛が「かういふ話を持ち出すと読者は退屈するかも知れないが、この小

    説では大切な話だし、この回限りのことだから我慢して」と読者への断わりの言葉を書いたことを例に、

    これは作者が新聞小説の形式にとらわれ表現に苦しむ姿であり、新聞社も今までの新聞小説の形式にとら

    われない新しい段階に来ていると書いた(注22)。さらに、「雪崩」は年内に終わる必要があったた

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    1904446_おさら�選書第27集_前から.indd 68 2019/11/20 22:10

  • 衆文壇鳥瞰(一)」(『読売新聞』一九二五〈大一四〉年四月一九日付)において、「一夜に四十枚は書き飛

    ばすといふ(これは或人の噂なのであるが)その羨ましい精力主義」「其手堅い構成法で幾多の人物を輩

    出させ幾多の事件を起こさせ乍ら、混乱させない技術に至つては正に老手」と高い評価を与えている。も

    う一つは、『独立』七巻一号、一九二五年一月号に高堂輝男名義で書いた「愛憎二ならず」に対する読者

    評である。「本誌を読むと、まるで映画の種本の如き感がする。中にも一月号の『愛憎二ならず』などは、

    場面の変転さ加減実に、ファン連の随喜するものだと思ふ」(「独立倶楽部」『独立』七巻二号、一九二五

    年二月号)。このように大佛は生来の資質として、登場人物の書き分けや、スピーディーな場面転換を得

    意としていたのである。したがって、「叔父と甥」の展開は、表現を優先するために得意な場面転換を封

    じた取り組みとみることができる。

    この頃、大佛は、さきにあげた「大衆文芸を語る」(『文学時代』一九三一〈昭六〉年五月号)で、「や

    はりその時代、階級、性格を文学的に突込んで描きたいと思つてゐる。然し、さうなると、今の読者層か

    らは離れるかも知れない」「現代物を扱った新聞小説を試みている」と創作の方向性の転換について述べ

    ている。この言葉には、「由比正雪」で受けた痛手と、朝日新聞に移って現代物に取り組んだ理由の一端

    が込められているのではないか。

    五 朝日新聞の新聞小説―「雪崩」

    「雪崩」(画

    猪熊弦一郎、連載一二九回、『大朝』『東朝』一九三六〈昭一一〉年八月二四日付~同年

    一二月三一日付)についてみたい。『大佛次郎自選集

    現代小説』第一巻、朝日新聞社、一九七二年の「あ

    とがき」で「自分の新聞の小説のスタイルを初めて見つけた」と振り返り、「野尻書簡二二

    昭和一一年

    一二月二〇日」(『選書』二三集)でも「「雪崩」は格段の跳躍だった事を誰も認める」と野尻抱影が高い

    評価を与えた現代小説の成功作である。この作品は名古屋が舞台になっている場面が多いが、これは前年

    (一九三五〈昭一〇〉年一一月)に大阪朝日新聞社が名古屋支社で印刷を開始し、中部圏へ進出したこと

    を踏まえての設定だろう。

    ここでは、大佛が「雪崩」でどのように新聞小説の技術を向上させたかを見よう。島木健作の指摘によ

    って、大佛が「由比正雪」同様、新聞小説のフォーマットに逆らって表現の限界に挑戦する姿が伺える。

    島木は、「雪崩」第一〇四回で大佛が「かういふ話を持ち出すと読者は退屈するかも知れないが、この小

    説では大切な話だし、この回限りのことだから我慢して」と読者への断わりの言葉を書いたことを例に、

    これは作者が新聞小説の形式にとらわれ表現に苦しむ姿であり、新聞社も今までの新聞小説の形式にとら

    われない新しい段階に来ていると書いた(注22)。さらに、「雪崩」は年内に終わる必要があったた

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  • め、最終章の「迷路」が駆け足で終わった。そこで、

    大佛は、新潮社から単行本化された際に、「迷路」の

    八章、十章などを加筆した。『朝日新聞』に掲載され

    た新潮社の広告(図1)には、わざわざ「特に朝日

    新聞の読者に」とのタイトルで大佛のメッセージが掲

    げられ、「結末は新しく書きかへたので、新聞に出た

    時と全く面目を変へたと信じている」との意気込みと

    「新聞で読んだ方に特にもう一度見て頂きたい」とい

    う希望が太字で強調された。

    島木の指摘と単行本の事例は、大佛の創作意識とし

    て、新聞連載は連載として進行しながら、作品の完成

    形を「単行本」に求める姿勢が見える。「由比正雪」

    は新聞連載に苦労し未完となり、単行本も未完のまま

    であったが、数年後の「雪崩」では、新聞連載と単行

    本とメディアを使い分け、作品の完成度を高めるスタ

    図 1 「雪崩」(新潮社)広告 朝日新聞の読者へ呼びかけた広告文がある。 『東朝』一九三七(昭一二)年三月二二日付朝刊一面、『大朝』同年三月二八

    日付朝刊三面

    イルへと進化している。

    駆け足で紹介したが、「由比正雪」と「雪崩」は、大佛次郎の作品という枠組みを超えた評価ができる

    作品である。戦前の朝刊・夕刊の連載小説における文学表現を考えるうえで欠かせない作品と理解するこ

    とができる。

    なお、毎日新聞の朝刊の連載は戦後になってからで、「帰郷」がよく知られる。

    朝日新聞のイベント・事業における大佛次郎

    『大朝』での創作活動は、新聞連載だけではない。新聞社は新聞などの出版物の発行にくわえ、事業や

    イベントも盛んに行ったが、大佛は、こうした事業に関わる創作もおこなっていた。なお、新聞社・出版

    社の事業についてはメディア史研究の分野で多くの成果があり(注23)、この視点を交えた大衆文学研究

    は今後のテーマのひとつである。本稿では、随筆「甲子園雑記」(『大朝』一九三三〈昭八〉年八月二二日

    ~二四日、三回)と夕刊一面の連載小説「大楠公」(画

    荒井寛方、連載一〇〇回、『大朝』一九三五〈昭

    一〇〉年四月九日付夕刊~八月一一日付、『東朝』同年四月五日付~同年八月六日付)という二つの事例

    についてふれたい。

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  • め、最終章の「迷路」が駆け足で終わった。そこで、

    大佛は、新潮社から単行本化された際に、「迷路」の

    八章、十章などを加筆した。『朝日新聞』に掲載され

    た新潮社の広告(図1)には、わざわざ「特に朝日

    新聞の読者に」とのタイトルで大佛のメッセージが掲

    げられ、「結末は新しく書きかへたので、新聞に出た

    時と全く面目を変へたと信じている」との意気込みと

    「新聞で読んだ方に特にもう一度見て頂きたい」とい

    う希望が太字で強調された。

    島木の指摘と単行本の事例は、大佛の創作意識とし

    て、新聞連載は連載として進行しながら、作品の完成

    形を「単行本」に求める姿勢が見える。「由比正雪」

    は新聞連載に苦労し未完となり、単行本も未完のまま

    であったが、数年後の「雪崩」では、新聞連載と単行

    本とメディアを使い分け、作品の完成度を高めるスタ

    図 1 「雪崩」(新潮社)広告 朝日新聞の読者へ呼びかけた広告文がある。 『東朝』一九三七(昭一二)年三月二二日付朝刊一面、『大朝』同年三月二八

    日付朝刊三面

    イルへと進化している。

    駆け足で紹介したが、「由比正雪」と「雪崩」は、大佛次郎の作品という枠組みを超えた評価ができる

    作品である。戦前の朝刊・夕刊の連載小説における文学表現を考えるうえで欠かせない作品と理解するこ

    とができる。

    なお、毎日新聞の朝刊の連載は戦後になってからで、「帰郷」がよく知られる。

    朝日新聞のイベント・事業における大佛次郎

    『大朝』での創作活動は、新聞連載だけではない。新聞社は新聞などの出版物の発行にくわえ、事業や

    イベントも盛んに行ったが、大佛は、こうした事業に関わる創作もおこなってい�