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NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITEnaosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/15150/1/kyoyoJ23_01_01_t.pdf · 4 井上義彦 って個物の時間と空間における存在、従って「持続」

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Title スピノザにおける 自由と決定論について

Author(s) 井上, 義彦

Citation 長崎大学教養部紀要. 人文科学篇. 1982, 23(1), p.1-14

Issue Date 1982-07

URL http://hdl.handle.net/10069/15150

Right

NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE

http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp

長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第23巻 第1号 1-14 (1982年7月)

スピノザにおける

自由と決定論について

-De Libertate et Determinismo

Spinozae-

井上義彦

YOSHIHIKO INOUE

「自由は道徳律の存在根拠(ratio essendi)であり、道徳律は自由の認識根拠(1)

(ratio cognoscendi)である」というカントの言葉を侯つまでもなく、およそ

道徳や倫理を問題とする場合に、自由の存在は不可欠なものである。なぜなら、

「もしも自由がないとすれば、道徳律は決して我々の内には見出されえないであ(z)

ろう」から。

ところが周知のようにスピノザは、自由意志を、従って意志の自由を明瞭に否

定してしまうのである。

それでいながら、スピノザは、反面では彼の主著『ェチカ』が、正確には

≪Ethica ordine geometrico demonstrata≫即ち≪幾何学的秩序に従って論証さ

れた倫理学≫という名称を有するように、 「人間の精神とその最高の幸福との認(3)

識へ我々をいわば手をとって導きうる」 (n. praefatio)倫理学を説くのである。

人間の自由意志をきっぱりと否定しておきながら、今はまた人間の真の精神的

幸福を確立するための倫理学を説くのは、如何にして可能なのであろうか。それ

は、学説上の矛盾なしに可能なのであろうか。

スピノザは、意志の自由の否定の上に、一体いかなる倫理学を構築しようとす

るのであろうか。

これが、我々が今後に探求しようとする基本的問題である。だがしかし、この

小論では、この根本テーマの前半とも言うべき「自由と決定論の問題」を論ずる

ことにとどまる。従って続稿において、残された問題は論究されることになろう。

これが、この小論の表題を「スピノザにおける自由と決定論について」とした所

2 井上義彦

以である。

1

スピノザの世界観は、周知のように≪神即自然≫ (Deus sive Natura)という、

換言すれば「能産的自然(Natura naturans)は、自由原因(causa libera)とし° ° ° ● °

て見られるかぎりの神と解され、所産的自然(Natura Naturata)は、神の本性

や神の各属性の必然性から生起する一切のもの、言いかえれば神の内にあり、か・・・・・

つ神なしには在ることも考えられることもできない物と見られるかぎりの、神の

展性の全ての様態と解される」 (I. prop. 29 schol.)という汎神論(Pantheism)

である。

およそ存在するものは、神たる唯一実体(神即実体Deus sive Substantia)

と様態(modus)のはかには何物もない。かくして、神の本性から生起するもの

は、全て様態あるいは変様(affectio)と解されているが、それはスピノザによ

って「無限様態」と「有限様態」とに大別されている。そして「無限様態」には

更に、直接無限様態と間接無限様態とが区別されている。間接無限様態の分節し

たものが有限様態である。従って様態には三種類の区別があることになる。直接

無限様態とは、スピノザによって次のように規定されている。即ち「神のある属

性の絶対的本性から〔直接に〕生ずる全てのものは、常にかつ無限に存在せねば

ならない。換言すればそれは、この属性によって永遠かつ無限である」 (I.

prop. 21)間接無限様態とは、 「神のある属性が、神のその属性によって必然

的にかつ無限に存在するような様態的変様(modificatio)に様態化するかぎり、

この属性から生起する全てのものは、同様に必然的にかつ無限に存在せねばなら

ない」 (I.prop.22)と規定されている。これに対して、有限様態とは、 「神

の属性の変様、あるいは神の属性を一定の仕方で表現する様態」として「個物」

(res particulares)にはかならない(I. prop. 25 coroll.)

直接無限様態は、神の属性から直接生ずる様態であり、間接無限様態は、その

直接無限様態の媒介によって神から間接的に生ずる様態である。スピノザが両者

の区別について自ら注釈を与えている唯一の個所とされている「書簡64」において、

スピノザは両者の具体例を挙示して、 「第-種のもの〔神から直接的に産出され

るものの例〕は、思惟においては絶対に無限な知性、延長においては運動と静止

です。また第二種のもの〔無限な様態を媒介として産出されるものの例〕は、無

限の仕方で変化しながらも常に同一に止まる全宇宙の姿(totius facies Universi)

です」と述べている。この注目すべき言葉から推察されうることは、我々の生き

スピノザにおける自由と決定論について 3

ている現実の世界、即ち個物(有限様態)の世界は、変動常ならぬ世界であるが、

法則の同一性という意味では、 「常に同一に止まる宇宙の全貌」とも考えられ(5)

る。それ故に、我々の個物世界は、間接無限様態が分節化してできた有限様態の(6)

世界なのである。

無限様態が、神の属性の絶対的本性から生ずるものであるのに対して、有限様

態は、神の絶対的本性からではないにしても、やはり「神のある属性がある様態

に変様したと見られるかぎりの、神ないし神の属性から生起する」(I. prop. 28

demonst.)ものである。

では、かかる有限様態としての個物(res singularis)がもつ有限性と様態性と

は、いかなる特性を意味するのであろうか。

まず第一に、個物の様態性から考察すると、 「様態」 (modus)とは、 「実体

の変棟、即ち他のものの内にあり、そしてその他のものによって考えられるもの

である」 (I.def.5)と定義されている。

ところで、他者の内にあり、しかも他者によって考えられるものは、他者に依

存するものであり、かかるものは実体たりえない。スピノザによれば、 「実体

(substantia)とは、それ自身の中にあって、しかもそれによって考えられるも

のである」 (I. def. 3)実体とは他の何物にも依存せずに、しかも他の一切

のものがそれに依存しているような本質(essentia)である。言いかえると、実

体それ自身は他に原因をもたないで、一切のものを結果する「自己原因」 (causa

sui)である。かかる実体は、ひとり神(Deus)以外には有りえない。まさに「神

即実体」 (Deus sive Substantia)であるOかかる神即実体の本質をなす展性の

変様が、個物としての様態なのである。

個物とは、このように自己自身の内にあるのではなくて、他者の内にあり、他

者を離れては何物でもありえない。それ故に、個物はそれ自身ではいかなる絶対

的独立性をも有していない。ところで、この他者とは、根本的には当然言うまで

もなく神(実体)のことを指しているのだが、更には結果的には個物と同類の有

限な他の個物のことを意味していると解することもできよう。そしてこの観点か

ら個物存在ひいては人間存在を考えると、それがもつ依存関係は、神への在り方

と有限な他の個物-の在り方という二種の在り方を示唆していることが分る。

個物の様態としての特性は、次に考察する個物の「有限性」にそのまま連結し

ている。

「個物とは、有限(finite)であり、限られた存在(determinata existentia)

をもつもののことである」 (H. def. 7)この個物の有限性の特性は、差し当

4 井上義彦

って個物の時間と空間における存在、従って「持続」 (duratio)という存在の仕

方を意味している.ところが、神という唯一無限な実体の特性が、 「その本質が

存在を含むもの」 (I.def. 1)という自己原因性にあるのに対して、個物とい

う有限存在の特性は、 「神から産出された物の本質は存在を含まない」 (I. prop.

24 )ということである。従って有限な個物存在は、その存在に関して、その原

因や理由をその個物以外のものに求めることになる。そこで有限な個物存在は、

「神のある属性が定まった存在を有する有限な様態的変様に様態化したかぎりの、

神ないし神の属性から生起し、また存在や作用に決定されなくてはならない」

(I. prop. 28 demonst.)とされるのである。

いずれにせよ、以上のことから、有限な個物存在は、一定の時間空間的存在即

ち持続的存在を有すると共に、それは同時に神の属性が一定の有限様態に変様し・・・・・

たかぎりの神に帰因する永遠な本質的存在の性格を有するのである。換言すれば、

個物存在は、その存在の仕方に関して、経験的な「持続的存在」といわば永遠な

英知的な「本質的存在」という二様の在り方を有することが究明されうる。

これに関して、スピノザ自身は次のように述べている。 - 「物は我々によっ

て二様の仕方で(duobus modis) 、現実として考えられる。即ち我々は物を一定

の時間と場所に関係して(cum relatione ad certum tempus et locum)存在す

ると考えるか、それとも、物を神の中に含まれ、神の本性の必然性から生ずると

して考えるか、そのどちらかである。ところで、我々はこの第二の仕方で真ある° ° ° ° ● ° ●

いは実在として考えられる全ての物を、永遠の相の下に(sub specie aeternitatis)

考えているのである」 (V. prop. 29 schol.)

かくして、 「個物、有限様態は、経験的存在即ち現象の継起である持続と、神

的諸属性において展開される無限の能力が一定の形態で表現されている一つの本(7)

質の永遠な存在となる」と言いうるであろう。

確かに「持続(duration)は条件づけられた存在であり、永遠性(eternity)紘0

必然的存在である」にせよ、やはり「我々は、身体的にも精神的にも、相対的全(9)

体として永遠的に存在している」と考えられるのである。

我々は、一種の神的必然の下に生起するものとして、神からの存在の刻印を有° e

する。それが、精神の澄明な時に、我々自身の永遠存在を感ずる所以であろう。° ●

,)ゝくして、スピノザは言う、 --「我々は、我々が永遠であることを、感じか

つ経験する(sentimus experimusque, nos aeternos esse.) 」 (V. Prop. 23

schol.)

スピノザにおける自由と決定論について 5

2

さて、さきほど有限な個物存在についてなされた重要な規定、即ち「個物は、・・・・・

神の属性が一定の存在をもつ様態的変様に様態化したかぎりの、神(Deus, qua-

tenus modificatum est modificatione quae finita est et determinatam habet

existentiam.)から生起し、また存在や作用に決定されねばならない」 (I. prop.

28 demonst.)とは、神の個物に対する存在や作用への決定に関して、如何に解

すべきであろうか。

「神が自己原因と言われるその意味において、神はまた全てのものの原因であ

る」 (I. prop. 25 schol.)からして、確かに神は万物の「有ることの原因」

(causa essendi)であり、存在するものは全て神によって存在と作用に必然的に

決定されているのである。

かくて、スピノザは言う、 - 「ある作用をするように決定されている物は、

神から必然的にそう決定されたのである(Res, quae ad aliquid operandum

determinata est, a Deo necessario sic fuit determinata.) J ( I. prop. 26)

だがしかしながら、神そのものが具体的に存在する個物の存在や作用の「直接

的原因」とみなすことはできない。もしそう解すれば、スピノザの苦心は水泡に

帰し、彼の体系は根底から瓦解するであろう。スピノザは、無限なものは無限な

ものによって、有限なものは有限なものによって説明しようとする。従って有限

なものが無限なもの(秤)から直接に生起し、存在や作用に決定されることはで

きない。なぜなら端的に言って、神の絶対的本性から生じてくるものは無限様態

であって、有限様態としての個物ではない(I. prop. 28demonst.)から。そ

の意味で、有限な個物存在は、自己と同類の有限な個物から生じ作用することに

なる。

ここに、次のような有名な定理が提示されることになる、 -「あらゆる個

物、即ち有限で定まった存在を有する各々の物は、同様に有限で定まった存在を

有する他の原因から存在や作用に決定されるのでなくては、存在することも作用

に決定されることもできない。そしてこの原因たるものもまた、同様に有限で定

まった存在を有する他の原因から存在や作用に決定されるのでなくては、存在す

ることも作用に決定されることもできない。このようにして無限に進む」 (I.

prop. 28) 。

この定理28によってスピノザは、有限な個物は同じ有限個物によって存在や作

用に決定され、こうした諸個物の原因と結果との水平的な物理的連鎖、即ち「原

因の無限な連鎖」 (infinitus causarum nexus) 」 (V- prop. 6 demonst.)

井上義彦

が無限に進行することを明示したのである。こうした諸個物間の因果の連鎖は、

「水平的因果性」に基づくが故に、物理学的機械論的である。

ここから、スピノザの考える個物の世界は、機械論的な決定論(determinism)

に文配される世界であることが、明確に帰結するのである。

我々はここに至って、スピノザ哲学の根本的難問に遭遇しているのである。こ

の難問がスピノザ哲学の根幹をなすものであるだけに、この壁を克服することは、

それによってはじめて可能となるスピノザ哲学の展望台を我々に与えるであろ

う。

その難問とは、 「定理26」と「定理28」との間に生ずると思われる矛盾撞着で

ある。スピノザは、定理26と定理24の系によって、 「存在と作用に決定されてい

る全てのものは、神からそのように必然的に決定された(a Deo necessario sic

fuit determinata) 」のであると規定した。しかるに今や、定理28では、 「あら

ゆる個物は、同時に他の個物を原因として存在や作用に決定されている」と規定

されている。個物における存在や作用への決定の構造に関して、定理26では、神

による必然的決定(垂直的な神的決定)が言われ、そして定理28では、有限な個

物による因果的決定(水平的な物理的決定)が言われている。こうした両規定の

間に明白に存在する恩恵的畢難が、学説的な矛盾でなくてスピノザ本来の思想で

あるとしたら、両規定の間の関係は如何に解釈されるべきか、あるいはまた両規

定の間は如何に架橋されるべきであろうか。

かかるスピノザの哲学的立場を理解するために必要なことは、有限な個物をあ

る意味での神の様態的変棟と解する汎神論的な思想である。スピノザは、こうし

た水平的な因果連関の根底に、常に根源的には神の垂直的な作用が働くことを是

認しているのである。というのは、有限な個物間の因果的交互作用は同じ個物間

の次元においては、それなりに十分説明可能であるけれども、しかし万物の「存

在の原因」という観点から考えると、神を抜きにして万事を十全に解明し尽すこ

とはできない。さすれば、神は個物の世界から遊離し、無意味なものになるであ

ろう。

つまり今一度繰り返せば、スピノザにとって世界に存在するものは、実体と様

態以外には何もなく(I.公理工と定義3と5によって)、そして様態は(I.

定理25の系によって) 、神の属性の変棟にはかならないからして、個物としての● °

「様態は、神のある属性が一定の存在をもつ有限な様態的変様に様態化したかぎ● ° ●

りの神ないし神の属性から生起し、また存在や作用に決定されねばならない」の

である。

スピノザにおける自由と決定論について 7

それ故、スピノザにとって有限な個物とは、 「かぎりの神」 (Deus quatenus)

の様態的変様という永遠な英知的面を有しているのである。従って既に論述した

如く、個物存在は二重の在り方を有しているのである。つまり、 「有限者は有限

者から生じ、存在や作用に決定されるといっても、 r有限でかぎられた存在をも

つ様態的変様に様態化したかぎりの神』としての有限者を原因としているのであM

る」。

この「かぎりの神」 (Deus quatenus)が、スピノザ哲学を解明するkeyword山)

をなすと言われる所以は、これによって明らかであろう。

かくて個物が、かかる二重の在り方、即ち経験的な持続的存在と永遠的な本質

的存在とを有していることに対応して、ここに個物存在の因果性に関して、二重

の因果性が考えられることになる。

つまり一つは、有限様態たる諸個物相互の間の因果関係たる、横の方向への水

平的(物理的)因果性と、いま一つは、諸個物の神-の因果関係たる、縦の方向

-の垂直的(神的)因果性とである。

個物の世界は、水平軸的に見れば、全て原因と結果という因果律の下に成立す

る物理的連鎖の世界、即ち機械論的な決定論の世界である。この決定論的な考え

方が,一面当時成功裡に確立されつつあった近代科学の機械論的な世界観を背景

にもっていることは、明らかである。

またスピノザにとってこの決定論的世界観は、他面彼の汎神論的な見地からも

出てきている。そしてこれは、プロテスタンティズム、殊にカルヴィニズムの予m

定説などに通ずる思想をもっている。世界をまた垂直軸的に見るならば、万物は

「かぎりの神」の様態的変様としての有限な個物であり、その点でそれはまた、

神から必然的に決定されているのである。ところでこの「垂直的」という表現で

誤解してはならない重要なことは、それが、この個物世界の外に神が何処か別に

超過的に存在しているというような事態を意味していないということである。む

しろ反対に、スピノザはそうした伝統的神学(宗教)が常にとる超越神を強く否

定して、世界と共に世界の中にある内在神を主張するのである。

そこでスピノザは次のように論究するのであろう、 - 「各々の個物は、他の

個物から一定の仕方で存在するように決定されているとはいえ、各個物が存在に

固執する力(vis, qua unaquaeque in existendo perseverat.)は、やはり神の本● ° ° ° ° °

性の永遠な必然性から生ずる」 (H. prop. 45 schol.)

有限な個物相互間の水平的な因果関係が、たとえ機械論的に捉えられようとも、

そこにおける各個物の自己の存在に固執する力(これは後にconatusとも言われ

8 井上義彦

(籾

る)は、やはり「神の垂直な因果性の表現である」ということである。従って個

物が神から決定されているということは、次のようにも解釈されよう、 - 「自

然の内にあるあらゆるものは、少なくとも『決定されている』という言葉が、 F

自己原因的でない、つまり自己創造的でない』ということだという意味においてas

決定されている。」そして有限な個物は、同種の他の個物によって生起し、存在や

作用に決定されると言われる時でも、それはかの「かぎりの神」としての有限的

個物をその原因としていると考察されねばならない。従って「個物はたとえ機械

論的因果関係から生じてきたものであっても、じつは『かぎりの神』において神O5)

から決定されたものと考える」ことができるのである。

各個物は、それが存在に固執する力(vis)ないしコナトウス(conatus)を神の本

性の必然性から得ており、またそれを一定の仕方で決定する他の個物も、「かぎり

の神」としての個物である。それ故、我々は神的決定性という垂直的因果性は、

あらゆる存在物を貫通する縦糸として、この世界の中に見出されうると言えよう。

いずれにしても、この「かぎりの神」という観点から考えるならば、 「およそ

存在する一切の物は神の内に在り、かつ神なしには存在することも考えられるこ

ともできないように、それは神に依存している」 (I. prop.28 schol.)という

ことは、今や明らかであろう。

かくして、この世界は、一面水平的因果性からくる機械論的決定論によって、

また他面垂直的因果性からくる汎神論的な決定論によって、全て必然的であり、

偶然の入り込む余地は全くない。世界は前者によって機械論的必然であり、後者

によって神的必然である。従って世界には偶然はなく、全ては必然的であるとい

う「決定論的世界観」が帰結されることになる。

「自然の内には、 -として偶然なものはなく、全ては一定の仕方で存在し作用

するように、神の本性の必然性から決定されている」 (I. prop. 29 demonst.)。

3

世界の個物存在が、我々によって「二重の仕方で」 (duobus modis) 、即ち持

続的存在と永遠な本質的存在として考えられうる(V. prop. 29 schol.)のに対

応して、個物存在の因果性にも、二重の因果性、即ち水平的因果性(物理的因果

性)と垂直的因果性(神的因果性)が考えられた。

今やこの二重の因果性に対応して、スピノザの決定論にも、二重の性格を読み

取ることが可能になる。

一つは、水平的因果性に即応する「機械論的決定論」 (mechanical determi-

スピノザにおける自由と決定論について 9

nism)である(これは、スピノザ哲学の唯物論的解釈も可能にする性格をも有

する)0

いま一つは、垂直的因果性に即応する「神学的決定論」 (theological deter-

minism)である(これは、彼の汎神論的思想から直接由来したものと解される

が、更に諸種の宗教例えば新教の予定説などの様々な神学的宗教的な背景を有す

る)0

いずれにせよ、かかる二重の性格を有する決定論の下で、いかなる意味で、い

かなる自由が可能であろうか。

世界の一切が、全て神によって必然的に決定されているという神学的決定論の

下に、果して自由(意志)の成立する余地はありうるであろうか。

別言すると、世界の一切は、全て何らかの因果の連鎖の中にあり、何らかの原

因によって必然的に決定されているという機械論的決定論からして、およそいか

なる意志行為も、世界内の因果の連鎖の枠内の出来事であり、意志(作用)もま

た先行するその決定原因(理由)を有しており、その原因はまたその先行する原

因を有しており、かかる意味で全て必然的である。

かくして、世界には何一つ偶然はなく、全ては必然的に生起することになる。

この結果、スピノザは、意志の自由あるいは自由意志をきっぱりと否定してしま

うのである。

デカルトは、自由意志を神にも人間にも等しく肯定したが、これに反してスピ

ノザはそれをいずれに対しても否定する。

「意志(voluntas)は、自由原因(causa libera)とは呼ばれえずして、ただ必

然的原因(causa necessaria)とのみ呼ばれうる」 (I. prop. 32)

この定理32に対するスピノザの論証は、こうである、 -意志は知性(intellec-

tus)と同様に思惟のある様態にすぎない。従って(定理28により)個々の意志

作用は、他の原因から決定されなくては、存在することも作用に決定されること

もできない。そしてこの原因もまた他の原因から決定され、このようにして無限

に進む。もし意志を無限であると仮定しても、それはやはり神から存在や作用に

決定されねばならない。故に「意志は有限であれ、無限であれ、どのように考え

られても、それを存在や作用に決定する原因を必要とする」のである。

それ故、この証明の帰結として第一に「神は意志の自由によって作用するもの

ではない」 (I. prop. 32coroll. 1)とされる。そして第二に意志は、常にそれ

を決定する原因を要するが故に、 「意志は、他の自然物と同様に、神の本性には

属さない」 (I. prop.32coroll.2)ことになる。かくて、神に自由意志は存せ

ぬことになる。

10 井上義彦

ところで、スピノザによると「自由」 (libertas)の概念の定義は、 「自己の

本性の必然性のみによって存在し、自己自身のみによって行動に決定されるもの

(Ea res libera dicitur, quae ex sola suae naturae necessitate existit, et a se

ad agendum determinatur.) 」 (I. def. 7)のことであり、これに反して「あ

る一定の様式において存在し作用するように他から決定されるものは、必然的で

ある、あるいはむしろ強制される」 (I.def.7)と言われている。

かかるスピノザの自由の定義から明らかになることは、自由と必然とは一面対

立概念であるが、反面必然を自己の本性からの内的必然と解すれば、自由と必然

とは同義の交換概念になるということである。自由の問題が、古来から哲学の難

問となっていたのは,この自由や必然の概念自体の多義性にあった。スピノザの

場合も、それらの概念は、少なくともこの意味で多義的に使用されている。必然

には、 「それ自身の本性によって必然であるもの」と「その原因によって必然で(栂

あるもの」との二つの意味がある。前者の必然は、スピノザにとって自由と同義

である。

スピノザが断固として拒否する自由は、所謂「無差別の自由」 (libertas indi-

fferentiae)である。それは、我々の意志はどんな場合も自由で、常に任意の選択

が可能であるという考え方において成り立つものであるが、スピノザは、意志は

常にその原因を要するという決定論の立場を取るが故に、この意味の自由(従っ

て自由意志)を全く否定するのである。しかし彼の自由の定義が示しているよう

に、自己原因として自己の本性からの必然という意味での自由は、肯定している

のである。またこの意味での自由が、スピノザ本来の自由の定義づけなのである。

それ故、この意味では、神は自己原因であるからして、神のみひとり自由であり

うるし、また自由であると言いうる。そして「この自由の定義が定理17とそのM

系に適用されている」のである。 「神は単に自己の本性の諸法則によってのみ働

き、何物にも強制されない」 (I. prop. 17)それ故に「ひとり神のみが自由

原因である」 (I. prop. 17 coroll. 2)ことになる。従って我々は神に関してはM

自由と自由意志とを混同して用いてはならないと言えよう。即ちスピノザは、目

的論や人格神の考え方を拒否するから、神に対して意志や知性や目的などの人格

的な諸観念を許容しないのである。

いずれにしても、神に対してさえ拒否された自由意志は、人間に対して当然否

定される。なるほどデカルトは、自由意志を神と人間に対して肯定するだけでなv9I

く、人間のそれを「神の面影と類似」 (imago et similitudo Dei)として高く評

価したのであるが、しかしスピノザは、両者の意志の在り方には天地の相違があ

スピノザにおける自由と決定論について ll

ることを明言する、 - 「もし知性と意志が神の永遠なる本質に属するとしたら、

この両属性は確かに、人々が通常解しているのとは異なって解されるべきであ

る。即ち神の本質を構成するような知性と意志なら、我々の知性と意志とは天地

の相違がなければならぬのであって、それはただ名前においてのみ一致しうるだ

けで、他のいかなる点においても一致しえないことは、あたかも星座の犬と吠え

る動物の犬との相互の間におけるが如くであろう」 (I. prop. 17 schol.)

4

有限な個物としての我々人間は、何故に自分が自由意志をもつと思うのであろ

うか。スピノザが言う通りに、全てが神的必然の下に生起するとすれば、この世

における善悪の存在は如何に考えられるべきか。自由意志がないとすれば、人間

が犯す罪悪は誰れの責任なのであろうか.人間か、あるいは神か-。スピノザ

は、 『エチカ』第一部の附録の中で、神の特質を要約して、 「全ての物は神の中

に在り、かつ神なしには在ることも考えられることもできないまでに、神に依存°

していること、また全ての物は神から予定されており(omnia a Deo fuerint

praedeterminata) 、しかもそれは意志の自由とか絶対的裁量とかによってでな

く、神の絶対的本性や神の無限の能力によること」 (I appendix)と述べてい

m

この説明に見られるスピノザの考え方は、直ちに弁神論的問題を惹起させずに

はおかないであろう。つまり、世界の一切が神の予定によって生起し、神的決定

の下にあるなら、そこには何一つ偶然はなく、必然あるのみである。だがそうす

ると、この世界に生起する罪恵等の存在は、かかる神の予定や決定という神との

関係において、如何に説明されるのであろうか。

スピノザは、こういう弁神論的問題を疑似問題として拒否し、また目的論的偏

見として根本的に哲学から排除しようとする。しかし、スピノザは拒否するこの

弁神論的問題が、やはり「決定論と自由意志論との間の形而上学的争点の核心で(狗

ある」ことは、否定できないと思われる。スピノザ自身の否定的論点は、こうで

ある、 -「私が、ここに指摘しようとする全ての偏見は、次の-偏見(praejudi-

cium)に由来している。即ち人には一般に、全ての自然物が自分達と同様に目的

のために働いていると想定しているばかりか、神自身が全てをある一定の目的に

従って導いていると確信していること、これである」 (I・app.) 。

この目的論的偏見から、 「善と悪、功績と罪過、賞護と非難、秩序と混乱、美

と醜その他のこれらに類する諸偏見が生じた」 (I・app.)のである。

12 井上義彦

では、如何にしてかかる目的論的偏見は生まれるのか。スピノザは、その根拠

を「全ての人間は生まれつき物の原因を知らないこと、及び全ての人間は自己の

利益を求める衝動を有し、かつこれを意識していること」 (I・app.)から説明

する。そしてこのことから、スピノザは我々の問題としている自由意志の偏見が

出てくることを論及する、 -即ち前述の前半の理由から、 「人間は自分を自由

であると思うこと」 、そして後半の理由から、 「人間は万事を目的のために、即

ち彼らの欲求する利益のために行なうということ」が出てくる。つまり人間が自

己を自由と考えるのは、 「人間が自分の意欲や衝動を意識しているけれども、彼

らを衝動や意欲に駆る原因を知らない」 (I蝣app.)ことから起こるのである。

スピノザが人間の自由を否定するのも、常にこの理由からである。 「人間が自ら

を自由であると思っているのは、誤っている。そうした誤れる意見は、彼らがた

だ彼らの行動は意識するが、彼らを行動へ決定する諸原因は知らないということ

にのみ存する。だから人間の自由の観念なるものは、人間が自らの行動の原因を

知らないということにあるのである」 (II.prop. 35schol.) 。

それ故に同じ理由から、スピノザは人間に対して自由意志を容認しないのであ

る。 「精神の中には絶対的意志、即ち自由意志(libera voluntas)は存しない。

むしろ精神はあれこれのことを意志するように原因によって決定され、この原因

も同様に他の原因によって決定され、東にこの後者もまた他の原因によって決定

され、このようにして無限に進む」 (IT. prop. 48)意志を行為へ決定づけてい

る原因の無知が、人間をして自己が自由であると思わせているのである。

スピノザは、ある書簡の中で自由を定義して、こう言っている、 -「私は自

己の本性の必然性のみによって存在し行動する物を自由であると言い、これに反

して、他物から一定の仕方で存在し行動するように決定される物を強制されてい

ると言います。 --私は自由を自由なる決意(liberum decretum)に存するとは糾

考えず、自由なる必然性(libera necessitas)に存すると考えている」 0

彼は更にその書簡の中で有名な「石」の例も取り上げて、自由を説明している。

飛んでいる石は、飛んでいることを意識しているが、自分の意志で飛んでいると

思い、 「自分は完全に自由だ」とうぬぼれる。スピノザは言う、 -「これは同

時に人間の自由でもある。すべての人は、自由を持つことを誇るが、その自由は

単に、人々が自分の欲求を意識しているが、自分をそれへ決定する諸原因は知らl帥

ないという点にのみある」 0

これに関連して,スピノザの自由意志論で常に想い出される有名な「ブリダン

の駿馬」の例にも言及しておきたい。

スピノザにおける自由と決定論について m

スピノザは、彼に反対する側から出された反対意見の形で、この例を用いてい

る。 - 「もし人間が自由意志によって行動するのでないとしたら、彼がブリダ

ンの駿馬のように均衡状態にある場合には、どんなことになるであろうか(quid

〔homo〕 fiet, si in aequilibrio sit, ut Buridani asina?) 」 (H.prop. 49 schol.)c

これに対するスピノザの答弁は冷静で明解である、 - 「そのような均衡状態に

置かれた人間(homo in tali aequilibrio positus)が、飢えと渇きの為に死ぬで

あろうことを私は全く容認する。もし反対者たちが、そうした人間は人間という

よりも、むしろ駿馬と見るべきではないかと私に問うならば、自ら格死する人間

を何と見るべきか、又小児、愚者、狂人等を何と見るべきかを知らぬように、そ

れを知らぬと私は答える」 (H. prop. 49 schol)

スピノザは、自由意志のない駿馬が、それから等距離にある二つの等しい食物

(株の山)の間で飢えと渇きに苦しみながら、その均衡状態の為にどちらを選ん

でよいかに迷いつつ飢死するであろうように、人間もそのような均衡状態の中に

置かれたら、どちらか一方を特に選択すべき決定理由(原因)がないために(仮

定により、二つの側の条件は全く等しい) 、遂には苦悶しつつ飢死するであろう

と論断している。スピノザの決定論的思考は、普通の自由意志論の入り込む余地

のないほど、かくも徹底的である。だがとはいえ、彼の説く決定論は、蒙味な宿軸

命論(fatalism)ではない、その反対である。スピノザは、 「三角形の本質から、

その内角の和が二直角に等しいことが生ずるのと同一の必然性をもって、一切の

ことは神の永遠なる決定から必然的に生ずる(omnia ad aeterno Dei decreto

eadem necessitate sequuntur) 」 (II. prop. 49 schol.)と観想することによっ

て、我々の心情を安心立命の境位にもたらすだけでなく、 「我々の最高の幸福は

神に対する認識にのみ存する」 (IT. prop. 49 schol.)のであり、この認識によ

って、我々は愛と道義心の命ずることをのみなすように導かれると考える。だか

らスピノザは、 「徳そのもの、神への奉仕そのものがとりもなおさず幸福であり、

最高の自由である」 (II. prop. 49 schol.)と説くのである。

「幸福は、徳の報酬ではなく、徳それ自体である(Beatitudo non est virtutis

praemium, sed ipsa virtus) 」 (V. prop. 42)とは、まさに味読すべきスピノ

ザの名言である。

とはいえ、かの決定論的境地から、如何にしてかかる自由な幸福の境位へ到達

できるのかが、次の問題であるが-。

14 井上義彦

Notae

(1) Kant : Kritik der praktischen Vernunft.

Vorrede Anm. S4 (Phil. Bib.)

(2) Kant: op. cit.

(3) Spinoza : Ethica ordine geometrico demonstrata.

引用には、邦訳では畠中訳の『エチカ』 (岩波)を、原語ではアッビューン

(Appuhn)版を用いた。

rェチカ』からの引用は、本文中に収め、例えば(H. prop. 3 schol.)

は、 (第2部定理3備考)を標記する要領で、引用個所を示した。また傍

点は筆者によるものである。

(4) Benedicti De SPINOZA OPERA Tom. 1 Epist. LXIV ad Schuller. P206

スピノザ往復書簡集、書簡64 (岩波)畠中訳285貢

(5) Parkinson : Spinozas Theory of Knowledge. P81

(6)毛ロー:スピノザ哲学(白水社)竹内訳58貢

(7)モロー:op.cit. 57貢

(8) Hallett : Aeternitas. P136

(9) Hallett:op. cit. P135

(10)工藤喜作:スピノザ(講談社) 213貢

(川工藤喜作:スピノザ哲学研究(東海大学出版会)

「かぎりの神」について参照391-401頁

(12)ヤ-スパ-ス:スピノザ(理想社) 119貢

(13)モロー:スピノザ哲学59貢

Hampshire : Spinoza. P45、 (行路社)中尾訳44貢

(15)工藤喜作:スピノザ213貢

Wolf son :The Philosophy of Spinoza vol. 1. P310

Wolf son : op. cit. P311

Hampshire : Spinoza P49邦訳48貢

Descartes : Meditationes de Prima Philosophia,

Oeuvres AT. Vll P57邦訳(岩波) 85頁

(2功桂寿-:スピノザの哲学198貢

Hampshire : Spinoza. P149、邦訳133貢

B. D. SPINOZA OPERA Tom. W Epist. LVIII ad Schuller. P195

スピノザ往復書簡集、書簡58 269頁

op. cit. PP195-'6.スピノザ往復書簡集、書簡3-70頁

Pollock : Spinoza P204