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osaki midori

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a dissertation about Midori Osaki by Yumi

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Page 1: osaki midori

乏気

尾崎翠の「第七官界」と、その世界に到るまで

慶應義塾大学文学部人文社会学科国文学専攻四年 江崎優美 一午業論文

学籍番号 一〇

一〇三二三〇

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41

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尾崎翠は、大正から昭和初期にかけて短い間に活躍した作家であるが、帰郷を

機に筆を折ってしまったために、文学史から消えてしまうことになつた。しかし

彼女の作品

「第七官界紡雀」は読者の心にひっそりと残り続け、 一九六〇年代、

「わたしのミューズ」と讃えた花田清輝による再評価をはじめとして、その後

九七九年に待望の全集

(全

一巻)が出版、 一九人〇年代にジ

ェングー論

・モダ

ズムの観点から、再々評価を受けることになり、彼女の文学は現代に生き返るこ

とになる。

そして映画『第七官界紡径 尾崎翠を探して』(浜野佐知監督)、テレビドラマ、

舞台

『オールドリフレイン』0一〇〇五年二月に再演)など、尾崎翠の読者の手に

よって、様々なメディアを通じてその世界は広げられ、解釈されるようにな

つて

いる。

人〇年代から盛り上がった尾崎翠に姑する注目はこの十年で、急激に高くなり、

新たな研究者も登場した。リブイア

・モネら海外の研究者による映画論や、環境

問題に明るい土井淑平によるユーモア論など多岐にわたる分野から尾崎翠は論じ

られ、それは同時に、尾崎翠の作品が様々な側面をもつていることを意味する。

その多様性は現代の多くの読者を魅了し、大学の卒業論文やレポートなどで扱わ

れることも多くな

つたという。由里幸子は現代の女性作家に特徴的な少女的感覚

に関して言及した上で、尾崎翠の感覚は

「現在の若い女性作家に通じるものがど

こかある」と指摘し、「性が生から切り離され」た現代女性たちの将来について案

じている

(「女性作家の現在t。尾崎翠は時代を超えた作家として、読者に何を呼

びかけるのだろうか。

さて、研究者の尽力によつて、尾崎翠の未発見資料の発掘が相次いでいる。 一

九九八年

『定本 尾崎翠全集』(全二巻)の出版、更に二〇〇四年には全集未収録

作品を収めた

『迷

へる魂』の出版と、現在、尾崎翠を再論すべき時機が訪れてい

ると言えるだろう①川崎賢子日く

「新世代の読者、日本近代文学研究者にとつて、

尾崎翠

(一∧九六十

一九七

一)はすでに、知らないで済ませることのできる作家

ではなくな

っている」3尾崎翠研究の現状と展望――研究ノートも①

私的なことになるが、筆者が尾崎翠と出会

ったのは大学の講義であった。その

講義は近代の女性文学を扱いながら、当時の

「女性」の社会的役割を読み取り分

析するものであったが、筆者が尾崎翠に魅了されたのは、「女性」や

「少女」とは

かけ離れた部分にある、独特の世界観であ

った。昭和初期に書かれた

「第七官界

紡雀」は古いとは全く思えない、むしろ、読んだことのない新しさを感じたくら

いである。その世界には筆者自身が生きていくのに必要不可欠だと信じている要

素が多分に盛り込まれていて、その小説を何度も何度も読み返したのである。そ

の結果、尾崎翠は筆者の人生において初めて全集を手に入れた作家にな

つた。論

文の内容に関しては迷いに迷ったが、流行にはのらず、尾崎翠のジ

ェングーを中

心として扱うことを避け、オーツドツクスに彼女の世界観やその世界を創りだす

背景に注目することにした。初心に戻り、このゼミを選んだ理由、卒業論文に尾

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崎翠を選んだ理由、この国文学専攻で学んだことを振り返った際に、出てきた答

えは非常にシンプルなものであ

つた。尾崎翠は

一体何を書きたかったのか、尾崎

翠の作品から筆者は何を生かすことができるのか、その答えを導くことが筆者の

最終的な目標到達地点である。

尾崎翠の先行研究の数はそれほど多くはないが、この論文のテー

マの性質上、

特にここで述べる必要はないと判断して省略する。尾崎翠研究に重要な文献は、

本論中や注釈に引用している。しかしながら、敢えて、特に共感を覚え影響を受

けたものとして、加藤幸子の

『尾崎翠の感覚世界』を挙げておく。芥川賞作家で

ある加藤幸子は、北海道大学農学部卒業Lいう経歴を持ち、日本野鳥の会理事を

務め、「自然」に対する視点を持ち得ているからである。

人間も動物も、外界の情報を受け取るための様々な

「感覚」を持

つ。時にそれ

は本能として、どんな知識よりも役に立

つのではないかと筆者は考える。そして

「感覚」によって知覚したものは、生きるための

「知恵」となる。その上、人間

の場合は、どうやら

「感覚」というものが

「感情」にも繁がっているようである。

山田詠美は長編小説

『アニマル

・ロジック』にて、言葉よりも何よりも、工感が

もたらす感情を信じて生きている自由な女性ヤスミンを描いているが、自由を餌

にする謎の微生物によつて、ヤスミンは死に至る。ヤスミンは

「感覚」を自由に

扱うことのできる人間であ

ったが故に、 マンハツタンに突然現れた貪欲な微生物

によって殺されなければならなかったのだ。

敏感な

「感覚」によつて外界を察知する能力を失うことを筆者は恐れている。

これも由里幸子の言うところの少女的感覚だろうか。環境破壊や現代都市文明が

与える影響を、「感覚」自体は読みと

っているのである。しかし、多くの人は読み

とつていない振りをする。あるいは

「感覚」自体が鈍感にな

つてしまっている。

感受性は常に磨いていなければ、歳をとるにつれて大方飩くなるものである。だ

から人々は少年時代に思いを馳せるのであり、子どもたちは大人を嫌悪し、自分

が大人になることを拒否する。茨木のり子が

「自分の感受性くらい 自分で守れ

ばかものよ」と詩を書いたのは、 一九七五年のことである。

しかし、 一方で人間以外の自然生命は、彼らが依存するシステムの影響を受け

ざるを得ない。その姿は人間よりもず

っと素直である。

人間もまた生物の

一種であるから、絶えきれずに心身に支障をきたすことは間

違いないのである。欲感な者は、既に何かしらその影響を考えていることだろう。

鈍感な者も、いつかその影響に気づく日がくることだろう。

尾崎翠は大正期にして既に、都市文明や近代社会システムに大きな違和を感じ、

適応できずにいたのではないか。彼女もまた

「感覚」と

「感情」が緊密であるが

故に、心身のバランスは崩れた。そして皮肉ながら文明の産物である頭痛薬に頼

りながら、創作に身を捧げ、想像力、創造力に生命をそそいだのである。

これらのことを前提に、本論では尾崎翠の故郷

「鳥取」を見つノ城翌僻井

「第

七官界」について考えていきたい。

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一章 尾崎翠の故郷、鳥取の自然

第一節 作家尾崎翠の生い立ち

尾崎翠は

一人九六

(明治二十九)年、鳥取県岩井郡

(のち岩美郡岩井村、現在

岩美町岩井

・岩井温泉の一画)に三男四女の長女として誕生した。 一九〇〇

(明

治三二)年、翠四歳の時、教員を務めていた父が岩美郡面影村の面影小学校に転

勤、一家は鳥取市東町に移り、その後面影村大代

(現、鳥取市大代)にて暮らす。

一九〇九

(明≡治四十二)年、翠は面影小学校高等科二年

ンを/.鋭

ドで修了し、鳥取県

立鳥取高等女学校に進学するが、しかし、その年の十二月十二日深夜、父親を事

故で失うという悲劇に見舞われる。大黒柱を失った

一家は鳥取市掛出町の借家に

移ることになつた。この

「父親の死」こそが翠の人生に大きく影響を与えたので

はないか。

翠は文芸誌を愛読し――

『女子文壇』『文章世界』『たかね』を購読していたは

か、『武侠世界』を女学生仲間で読み回していた。当時の翠の級友間での印象は男

っぱく親切で、さっぱりとしていたというが、これも、二人の兄の影響、更に、

二人の妹の面倒を見る長女であるという環境によるものだと推測できる。学力の

面でも満短なく良い成績を収め、殊に理数系に優れていた。「親戚の間では、母の

体内に何か忘れ物をしてきたのだろうと笑い話の種になった」(稲垣員美

『定本

尾崎翠全集』下巻 解説下)くらいである――また自身も作品を文芸誌に投稿

(現

在発見されている発表作品の中で、最も古いものは、 一九

一四年

『たかね』

一月

一日号の詩

「さゝやき」である)しながら青春時代を迅ごし、 一九

一四

(大正三)

年に鳥取県立鳥取高等女学校補習科を卒業する。

卒業後、翠は岩美郡大岩尋常小学校に代用教員として勤め、岩美郡網代村

(現、

岩美町網代)の母方の祖父母の僧堂に下宿する。この僧堂は漁村の海辺の高台に

あり、そこの自然が、当時の翠の生活や創作に大きな影響を与えたことが数々の

作品からうかがえる。

代用教員時代も、翠は熱心に創作活動を続け、『文章世界』(田山花袋も関わつ

た博文館発行の当時の代表的投稿雑誌である。文学を志す地方の若者にとって文

への一つの登竜門であつた)に投稿、発表され、岡田二郎や吉屋信子と並んで

人気投稿作家に数えられた。この『文章世界』が縁で、同じ博文館の発行する『少

女世界』に少女小説を書く機会を得る

(近年、黒澤亜里子が尾崎翠の少女小説の

研究を進めている。これまで

『第七官界紡雀』等の後期の作品が研究されること

はしばしばあつたが、少女小説については、まだまだ研究途上である。詳細は『定

本 尾崎翠全集』下巻に収録されている

「尾崎翠と少女小説――新しく発見され

一群のテクストをめぐつて――」を参照のこと)。また、翠の若い才能が郷土鳥

取でも知られるようになり、『因伯時報』『我等』にも作品が掲載される。

一九

一六

(大正三)年には、『新潮』六月号の論垣に

「『牛肉と馬鈴薯』を読む」

が掲載、十月号の特集

「余が最も期待する新進作家の一人」に

「素木しづ子氏に

就いて」を寄稿、十二月号の散文欄に

「夏逝くころ」を発表する。翠は

『新潮』

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に作品が掲載されたのを機に、本格的に文学を志すことを決心し、 一九

一七

(大

正七)年、大岩小学校を退職して東京大学農科在学中の兄を頼って上京した。し

かしこのとき、翠とは遠縁に当たる

『新潮』編集長中村武羅夫からアドバイスを

受け

一旦帰郷する。当時は、芥川龍之介が大学卒業後ようやく

『新小説』や

『中

央公論』に小説を発表し、『新潮』にはまだ登場せず、佐藤春夫もまた、「病める

薔薇」3田園の憂鬱」に改題)を書き上げ

『黒潮』に掲載していた頃であった。

翠が上京して独り立ちするにはまだ心許ない時代である。

翌年再び上京した翠は、女子大進学を志望する。兄が就職により東京を離れた

ため、行き場のない翠は、女子大進学を

一年延期したが、一九

一九

(大正人)年、

日本女子大学国文科に無事入学する。日本女子大には、英文科の二年上級に中条

(宮本)百合子、丹野

(野町)禎子、網野菊が在籍していたが、中条百合子は

『中

央公論』に作品を掲載して既に中退、丹野禎子は鈴木二重吉に私淑して『赤い鳥』

の編集者に、網野菊は後に志賀直哉の弟子となつて作家の道を進むことになる。

翠が女子大で得た最大のものは、生涯の親友松下文子との出会いであるといっ

ても過言ではない。寮の同室で生活を共にした翠と文子は互いに助け合い、晩年

までその交際は続く。文子は、引っ込み思案の翠の作品の売り込みに協力するだ

けではなく、後に林芙美子の処女詩集『蒼馬を見たり』の出版費用まで工面した。

翠は夏休みに書き上げた小説

「無風帯から」を

『新潮』の編集部に送り、見事

一九二〇年

一月号に掲載される運びにいたつた。同号には、芥川龍之介、志賀直

哉、菊池寛、佐藤春夫、武者小路実篤ら、第

一線で活躍する作家の作品が掲載さ

れていた。しかし、在学中にもかかわらず″市販文芸誌である『新潮』に作品を

発表したこと多ズ学当局に咎められてしまう。大学の講義は小説の本を机に立て

て居眠りをするくらい退屈だったようであるし、何より上京の目的は

「文学」に

あつたのだから、翠は潔く女子大を退学してしまった。しかし退学によ吼ィ学費

の援助が無くな

ったため、再び鳥取に帰郷しなければならなくな

つた。翌年には

親友松下文子までも、日本女子大を退学してしまう。この後も翠は帰郷、上京を

繰り返し、自活のため出版社に勤務することもあったが、その非社交的な性格か

らか、長続きはせず、東京では松下文子と生活を共にしながら

一九二七

(昭和三)

年、東京府上落合

(現、新宿区上落合)に落ち着いた。

上落合で過ごした期間が、翠にとって最も文学的に充実、成功したときだと言

えるだろう①多くの代表作を書き上げ、翠独特の文学を確立したのも上落合であ

った。電自搭』に並ぶ女性誌

『女人芸術』こ

で活躍したのもこの頃である。近所

には、多くの文学者も暮らしていた

(以前から翠を慕

つていた林芙美子を上落合

に呼んだのも翠である

。))。しかし、神経的な創作活動、孤独で無機質な都会

生活は、彼女にミグレニン

ご)を常用させ、幻聴幻覚を起こし、年下の文学者と

恋愛をしながらも、 一九三二

(昭和七)年には、翠は兄によつて強制的に鳥取

連れ帰され、しばらく神経科の病院に入院することになり、この帰郷を契機に創

作活動から遠のいていく。

鳥取では、甥

っ子の面倒をみるなど、気の良いユーモアのある

「おばちゃん」

として生活し

Tてその後老人ホームに入所、それから妹夫妻の新居に身を寄せ、

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老衰、肺炎で享年七五歳で死を迎えた。

以上が、大まかな尾崎翠の生い立ちである。翠が残した作品には、大正時代の

モダンガール、カフェの女給、映画館、「男に似た女」と兄に丼難される妹など、

当時の大衆都市文化の要素が描かれる

一方で、ふと懐かしさを呼び起こすような

「モノ」も描かれている。その懐かしさのベースにな

つているのが、鳥取で過ご

した

「代用教員時代」である⑥まだ

「尾崎翠の文学」が確立される以前に描かれ

た作品には、鳥取から臨む日本海、鳥取を囲む山脈、季節の移り変わりが創作の

題材となり、自然の恵みを享受する天性の感受性を作品から読みとることが可能

である。

現在、翠の文学は、モダ

ニズムやジ

ェンダーの側面で再評価されているが、完

成度の高い後期の作品群の根底には、鳥取で育まれた彼女の瑞々しい感性が微か

に残り、不思議な世界をもたらしていることを無視してはならない。

第一一飾 日本海 ―因幡の海―

翠は代用教員時代、日本海のすぐ側で生活を営んでいた。当時、彼女には浜辺

を散歩する習慣があ

ったようだ。

渚ゆく足にしぶきのひえノヽと月光のなかな

つかしや春

沙のう

へわれう

つむきにゆくほどに波もたひらに満ちてけるかな

奪因皓の海」

一九

一五

(大正四)年二月二〇日付

『因伯時報』

億うしてしづかな日にあけぼのの浜を歩んでゐると絶え切れない歓喜が

胸に渋

つてくる。私は海に向つて坐

つた

令あさ」

一九一四

(大正三)年十二月号

『文章世界』

私のこまろはしづかな朝

の渚を歩まずには居られなかつた。(中略)足下

で砂がサクサクとをどる。何といふ柔かい海であらう

令朝」一九一工

(大正四)年二月号

『文章世界し

私はその朝只ひとりで海べの路を歩んだのです

奪雪のたより」

一九一五

(大正四)年二月号

『文章世界時

その朝私は久々ぶりに柔かい砂の肌ざはりを味はつた    ,

含冬にわかれて」

一九一五

(大正四)年六月号

『文章世界時

砂はひるまのなやましさからのがれて、私の足に心地よい肌ざはりをあた

へた。(中略)わたしは車履をぬいで小波に足を浸した。毎日の水練に私

の肌はすっかり潮になれてしまつた

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全宵」

一九一五

(大正四)年九月号

『文章世界し

やがて冬も来ようとする寒

い宵をわたしはネ

ルのきものを着て砂の上を

歩みました。ちゝ色の雲がかすかに海のう

へを流れて行きました。砂をす

くつて見た私の手に冷たい感触が残

つて、小さい粒はみな指のあひだから

こぼれてしまひました。夏のやうなこゝろよい肌ざはりの無いのが淋しう

ございました

3宵のたより」一九

一五

(大正四)年十二月号

『文章世界〕

十二月のはじめのある夜、私は渚を歩んでゐた。新しい冬が波のう

へにお

とづれて来た。暮れてゆく岬の雄々しさ。波が私の心にあたらしい何かを

握らせようと

一つ一つさゝやきながらよせてくる。(中略)因幡の海にさ

へもそむかうとした私のこゝろ。けれど新らしい冬を湛

へた海が今首、再

び私の心を探し出して私にか

へしてくれた。

今海ゆく心」一九一六

(大正三)年二月号

『文章世界じ

以上、日本海の海をモチーフにした作品をいくつか抜粋した。夏冬問わず、朝

夕問わず、翠は海を歩き、それを文章化していた。表現の繰り返しが目につく、

未熟な文章ではあるが、日本海のもつ空気がよく伝わ

ってくる作品群である。代

用教員を勤めながらも、翠の心中では文学

への望みが大きく存在していたのだろ

う。仕事の無いときには、浜を歩き、自分の思いを大海に託しては、習作を繰り

返し文芸誌に投稿していた。

代用教員時代から時を経て発表された

「花東」は、代用教員時代の追憶を作品

に昇華したものであるが、この作品もまた、船と海の物語である。当時海が好き

だったことを次のように書いている。

学校を出て、其年の夏まで、する事もなく過した私は、母や兄妹などゝ

緒の、肉親の中にゐる窮屈さから放たれて、 一段遠い肉親から来る気安さ

の中に身を置くことができました。そして私は隣村の小学校

へ通ひました①

周囲や自然の所為か――私は其頃殊に海が好きでしたから、――あの頃が

一番私の詩人らしい時代だ

つた気がします。

台花束」

一九二四

(大正十一こ

年二月号

『水脈』

では、翠は

「因幡の海」に、何を感じていたのだろうか。 一つに、海と太陽の

光が混ざり合う美しさである。彼女は

「代用教員時代」も

「上落合時代」も射す

ような眩しい太陽を好んでいないようであ

つたが、早朝の、海のきらめきと夜明

けの太陽のばんやりとした光の混じり合いは随分と愛していたようである。作品

中の登場人物は早朝に散歩に出るも、完全に朝を迎えてしまうと家に帰

ってしま

う。また、宵の海が描かれるのも、昼と夜との境目を好んでいたのが理由の

一つ

ではないか。後年の作品にも、この

「混じり合い」あるいは

「境目」「連続性」の

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要素が多々登場することに注意したい。

次に、波が永遠と打ち返す様子、またその音も好んだようである。自分自身が

波に浸食されていくような感覚を覚えるとともに、「波」はただひたすらに

「繰り

返す」切ないものであることに心を打たれたのだろう。そしてその繰り返し寄せ

来る波が、歩き回る自分の足跡を吸い消してしまうことに、淋しさを感じ、いわ

「無常」というものを覚えたに違いない。翠は鳥取高等女学校時代に、京都の

龍谷大学に在学していた次兄の影響で仏教書や宗教誌を読み、仏教思想について

友人と語り合うこともあつたため、仏教知識・思想、そして幼い頃に亡くした父、

前途多難な自身の人生を、繰り返す波と、消えてしまう砂の跡に重ねて見ていた

のではないか。

更に、海が鳥取に季節を運んでくること、季節とともに新しい

「心」も運んで

くること、海の下に小さな生物が生命生活を営んでいること、生命力の裏側に,

淋しさを卒んでいること、漁師達の現実的な生活があること、翠はそれらに自分

の感覚をじつと傾け、海を前に

「生命」の美しさと同時に、その哀感を感じてい

た。こ

うして翠は、海の美しさも悲しさも愛し、浜辺へ足を運んだのである。翠の

作品が悲しみの上に明るい透明感と涼しさを持つのは、この日本海がもたらした

効果だと言えよう。

第二節 中国山脈の寂蓼

翠の故郷鳥取には、日本海と共に中国山地がある。翠は

「日本海」ほどではな

いが、「山」についてもこだわりを見せ、いくつか作品を残している。次に引用す

るのは

「山脈」と題された短歌七首である。

中国の山脈西

へ東

へと幾重に走るわれをかこめる      ‐

やまなみは永久にもだして秋に入るしみじみ悲しわが住める国

君ととも我をも生みし国なれば因幡は悲しいとほしきくに

山ぐには悲しいかなや秋にして愁ひに暮るゝ山なみの色

秋なれやかくとかなしき山脈のもだせるまゝに寂しきまゝに

われうみし山国なれば朝な朝な涙ぐみてぞやまなみを見る

山脈の中に生れて君恋ふるいのちそのまゝ山に果てなむ

令山脈」

一九一四

(大正三)年十一月五日付

『因相時報〕

翠にとつて周りを囲む山々は、鳥取の日舎の生活の悲しさや寂しさを象徴する

自然であるだけでなく、その山脈の中で生きる自分自身の根底にある悲しみを共

有する自然でもあ

った。

中国の山なみは未だ冬の囚人とな

つて、雪にとぢ込められてゐる。けれど

も私の好きな因幡の海にはもう春が来たのである。仮令後ろには恐ろしい

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冬が私をさいなむためひそんでゐようとも、私は今朝のひとときを春の海

の情緒にむかひ得たことをよろこび乍ら歩んだ。

3朝」

一九

一工

(大正四)年二月号

『文章世界時

これは

「山」と

「海」が対照的に描かれた文章である。選者西村渚山が

「繊細

な中にも、広大無辺な大自然の包容力を暗示したやうなところが面白い。人間と

しての作者が、その大きな溶炉の中に溶けて流れて、同化していくさまが

一篇の

中に目醒しく枯き出されてゐる」と評しているように、やはり翠には自然に

一体

化し何かを感じ取る感性があつた。これは決して文学上の表現技法の問題ではな

く、彼女自身の能力であった。鳥取に関する作品は自然との同化が目立

つが、上

京後の後期作品には、自然だけではなく、ありとあらゆるものへの同化が顕著に

表れている。その先に、尾崎翠の

「第七官界」の文学がある。

また、屋

風^帯から」の冒頭には、その場面が鳥取であると予想可能な描写があ

る。コ一週間ばかり前からT市を出てこの温泉に来てゐる」の

「T市」が鳥取市で

あり、温泉のある

「T市から五里ばかり離れた、中国山脈の中のI村」が岩井村

であるのは明らかであろう。翠はこの

「I村」を次のように表現する。

何方を向いて見ても、眼に入る物は骨のような山脈ばかりだ。「骨のよう

な」とは、この山脈の秋から冬にかけての感じを言ひ表すに最も適当な言

葉だと僕は思ふ。寂蓼の喰ひ入つた――寂蓼其物である様なこの山脈は、

全く巨獣

の脊骨としか思はれな

い。

(中略)此処には何

の刺戟も活動もな

い。ただ動かぬ寂家があるばかりだ。

奪無風帯から」

一九二〇

(大正九)年

一月号

『新潮〕

更に、翠は同じ頃、「山陰道の女」を書き上げた。冒頭から

「山陰道は暗い地で

ある。憂鬱の天地である」と始まり、次のように続ける。

此処に暗いといひ、憂鬱であるといふのは、山陰道の気分である。山陰道

の空気である、山陰道の風物である。買に其の中に住む山陰人士の気質で

ある。之が

一丸とな

つて、暗く憂鬱な山陰道を形作

つてゐるのである。

3山陰道の女」

一九

一九

(大正人)年二月十六・二十三日

『家庭週報時

「山陰道の女」は、京都の女と、東京の女とを比較、批評した興味深い随筆であ

る。翠は、鳥取に生まれ、東海道を通り、東京に暮らした。その経験から

「東京

は度し難い。京都は快い。山陰は懐しい」と評する。

山陰の女は表現は拙いが、内心に懐かしい物を湛

へてゐるからである。懐

かしい物とは奥深い情である。交はれば交はる程其情の奥

へ奥

へ進んでゆ

く事が出来る。彼女は口で、動作で現はし得ない所を、心を以てする。天

を望む気は無くとも、足許を暇める事を知

つて居る。多数の中

へ出て派手

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に振舞ふ事の出来ない代りに、自分

一人を深く見守る事を知

つてゐる其

一人が互ひに接触した時、「真の友情」の世界に住み得る女である。

令山陰道の女」一九

一九

(大正人)年五月十六・二十三日

『家庭週報』

この随筆の中で

「山陰道の女」として

一般化されている女は、尾崎翠自身にほ

かならない。山陰道にもそれぞれの個性を持

った女性が存在したであろうし、反

対に、翠が見てきた

「山陰道の女」も実際このような性質をもっていたのかもし

れない。しかし

「寂蓼其物である様なこの山脈」のある土地に育ち、都会

へ出て

も常に憂鬱を抱え、人付き合いが下手で引

っ込み思案ながらも、親友松下文子に

看病を尽くしては感謝され、自著の出版よりも先に後輩林芙美子の詩集出版を助

け、兄妹を甲斐甲斐しく世話した、非常に情の厚い尾崎翠本人こそが、この

「山

陰道の女」である。翠は東京生活を受け入れながらも、鳥取で育んだ自分の内面

世界を譲ることはなかった。

このような鳥取のローカリティが尾崎翠にはある。他の女性作家と異なる点で

ある。ざ翠は上京後、同時代の都会人と同様に映画にのめり込んでいったし

3女

人芸術』では

「映画漫想」を連栽。創作に関しても映画の表現方法に多くのヒン

トを得る)、流行の断髪

(女給を描いた作品もある)をした所謂モダンガールであ

った。しかし同時代のモダンガールと異なるのは、翠は決して故郷を捨てること

がなかつたことである。貧困や家族の不幸などで、帰郷せざるを得なかったとも

言いかえられるし、「代用教員時代」の自然から受けた感性が心に根付いていたの

だとも考えられる。したが

つて、翠の代表作

「第七官界紡雀」は当時の都会文明

の影響を存分に受けながらも、 一方で、「モノ」たちが有機的な匂いを発して、や

はり

「混じり合」

っているのである。

第旱章 人生と文学ゐ主題

一飾一 父親の死と

「真のかなしみ」

先に述べたように、 一九〇九

(明治四十二)年、翠に悲劇が起こる。それは父

尾崎長太郎の死である。父は農作物品評会に招かれて飲酒し、その帰路大雪の中

の山陰線の踏切付近で事故により亡くな

つた。まだ翠が鳥取高等女学校に入学し

たばかりの冬のことである。翠が山陰の寂客に特別な想いを持

つのも、父親の死

が理由であるかもしれない。作品に淋しさが横たわるのも、父を失

ったが故かも

しれない①これらのことは容易に予想がつく。

尾崎翠の文学研究において、その世界観や物語の構成、表現技法にばかり目が

行くのは、翠が達成した文学が研究者の興味をそそる独特のものだからである。

反対に、父親の死が彼女に悲しみを与えたという人間として誰もが経験する出来

事は、今まで特別に触れられることはなかつた

Gと

しかし、感受性豊かな翠の

筆を動かしたのは何かと考えれば、「父親の死」は避けられないはずである⑥

10

Page 12: osaki midori

今日の春路には生が悲しい。そして死はそれよりも更に深い悲しみを彼女

の心に撒いたのである。それは決して動機から生まれたものではない。春

路の心に醗酵して居た長い悲しみの第

一歩であ

つた。(中略)死の前に私

の悲しみも母の悲しみも何であらふ。寒い波の前に座

つてはそんなことが

渦まいて彼女の胸を通りすぎた。その時から今日まで――、同じ悲しみが

春路の心をゆきゝして居る。(中略)今、彼女の心には祖母の家から腸の

宿

へはいつて来た朝と同じ淋しさがあつた。けれど今日はその淋しさをの

がれるために町

へ帰るのではない。母の家に渠のかなしみを消す何が待

て居よう①そのかなしみは生まれ出でたものゝ何処

へ行

つたつて忘れるこ

との出来ないものなのだ。生と死のかなしみ。それが肉身のあひだにあつ

ては

一層その影を濃くする。(中略)かなしい心を持

つて帰

つて行く娘を

へる母にはそれ以上のかなしみがあるかも知れない。よひに近い道が長

くつゞいた。寒い風が身体のまはりを吹き過ぎた。白々とつづく中国の山

なみが春路の眼にうつる。               ‐

――大きい吹雪が来れば好い、そして私を埋めてくれたら――

そのねがひのうちに春路のゆくてに停車場の灯が見えた。

C悲しみの頃」

一九

一六年二月帰人号

『我等影

今、私の前にはいろノ\な人のたどつた幾すぢもの路が見えた。然し私は

つてはいけない。私は真の自身の路を行きたい。如何して他の示して呉

れたかなしい道を歩んで行かれやうか。

3海ゆく心」

一九一六

(大正三)年二月号

『文章世界時

静かな心に眼をつむつて自身の影を想ふとき、私は不思議であつた。どう

して私は今此処に坐つてゐるのであらう。何故私の周囲には多くの肉身が

あり、その人々のゆくてには死がよこたはつてゐるのか。(中略)私はそ

の時父の死に出会

つた。私は自分から遠くかけはなれた物差して、かすか

に眺めてゐた死が父の上に来たことに驚ろいた。私の頬に涙が止め度なく

流れた。七年以前のその時から今日まで私はたびたびその時の心に返つた。

けれどそれは追憶のかなしみであつた。肉体と肉体との永遠の別れであ

た。それは人の死の悲しみではなくてたゞ父の死にむかつてひととほりの

悲しみであつたのだと私は思つた。真のかなしみは死の姿を疑視し、その

絶対を自覚した時、はじめて来るものではないであらうか。私は父の死に

よつて真の死を見ることは出来なかつた。(中略)私は死の姿を正視した

い。そして真にかなしみたい。そのかなしみの中に偽りのない人生のすが

たが包まれてゐるのではあるまいか。(中略)私が母と話してゐたある時

――私もこれから先十年のあひだだよ――と母が言つたことがあ

つた。そ

の瞬間に強いかなしみが胸を通

つた。十年十1それは母の心やりである。

母は何故今日、明日と言

つて呉れなかつたであらう。私はさう言つてほし

かった。私の類には父の死にむかつた時よりももつと深い悲しみ2俣が伝

Page 13: osaki midori

わつた。それは瞬間のものであつたけれど真

の涙であ

った。母の心と私の

心とはその時真に接触してゐた。私の願ふのはその心の永続である。絶え

ず死の悲しみに心をうちつけて居たいのである。それは決して無意味な悲

しみではない。私の路を見つけるための悲しみである。(中略)死を悲し

む後に見出だす生のかがやき。それを得ようと私は

一歩ごとの歩みをつゞ

けて行かなければならない。

3悲しみを求める心」

一九一六

(大正五)年四月号

『文章世界〕

翠にとつて父親の死は

「心に醗酵して居た長い悲しみ」であ

った。「悲しみの頃」

「大きい吹吉が来れば好い、そして私を埋めてくれたら」という願いは、その

まま亡くした父親に投影されている。しかし、父親の死は

「肉体と肉体との永遠

の別れ」に対する悲しみであり、追憶のものに過ぎず、「真のかなしみ」と言える

ものではなかつた。翠は

「真のかなしみ」とは何であるのか、「私は死の姿を正視

したい。そして真にかなしみたい。そのかなしみの中に偽りのない人生のすがた

が包まれてゐるのではあるまいか」と考える。翠にとつて、死の姿を見ることは、

人生、すなわち

「生」の姿を見ることであり、したが

つて

「死」が悲しいのは勿

論のこと、生きていること自体が悲しかったのである。「悲しみの頃」も

「悲しみ

を求める心」も、共通して、母に対する思いやりが述べられている。特に後者で、

「私」は残された

「肉身」の

「心」が触れ合

った

一瞬に生まれた

「真のかなしみ」

を知る。そして

「死の悲しみ」は

「路」を見つけるために常に抱いていなければ

ならないものであり、「私は迷つてはいけない。私は真の自身の路を行きたい」と

いう翠を貫く淋しさと決立曼ぜ導くものなのである。

・第二節 片恋の物語

尾崎翠の代表作

「第七官界紡往」は次のように始まる

デぢ

よほど遠い過去のこと、秋から冬にかけての短い期間を、私は、変な家庭

一員として過ごした。そしてそのあひだに私はひとつの恋をしたやうで

ある。

令第七官界街雀」

一九二十(昭和六)年

『振興芸術研究時

「私」である

「小野町子」は二人の兄

(小野

一助、小野二助)と

一人の従兄

(佐

田二五郎)の家に、女中として暮らすことにな

ったが、町子は密かに

「人間の第

七官にひびくやうな詩を書いてやりませう」という目的を持

っていた。「第七官界

紡雀」の登場人物は皆、過去に

「片恋」を経験したか、物語中で

「片恋」を経験

する。 一助は勤め先の

「分裂心理病院」の入院忠者に片恋をし、二功は

「泣いて

ばかしゐる女の子に失恋した」結果、 一人旅に出て旅先の寺院で研究の題材を得

るこ≧になる。

また、町子と二五郎は近親相姦的な淡い恋心を持ちあい、お互いに心の内を語

12

Page 14: osaki midori

り合う仲であり、ともに

「コミツクオペラ」を歌うこともあれば、「接吻の習慣」

をも持

っていた。しかし

「接吻」とは言え、恋人同士によるそれとは異なり、「接

吻といふものは、こんなに、空気を吸うほどにあたりま

(な気もちしかしないも

のであらうか。ほんとの接吻といふものはこんなものではなくて、あとでも何か

鮮やかな、たのしかつたり苦しかつたりする気もちをのこすものではないであら

うか」と町子が考えるようなもので、「十四の三工郎が十

一の私に与

へた接吻とあ

まり変りのないもの」、十七の三二郎が十四の町子に接吻したとき

「ああ、仲のよ

い兄妹ぢや、いつまでもこのやうに仲よくしなされ」と祖母に言われるようなも

のと同じであ

つた。

三工郎は、町子のコンプレツクスであつたと同時に、日合

の娘(祖母の庇護下

の少女の象徴である

「赤いちぢれ毛」を断髪する重要な役割を担

ったが、その翌

日突然や

ってきた隣人の少女

a)に恋をしてしまう。三工郎は隣人の少女と蜜村

を分け合いながら束の間の恋愛期間を過ごしたが、隣人は間もなく引

っ越してし

まい、彼は失恋に陥

って

「みちくさをくつたジヤツクは、抑むの根

つこに腰をか

け ひとり思案にしづみます」とコミックォペラを歌

った。それは

「はじめ赤毛

のメリオを愛してゐたジヤツクが途中で道草をはじめて黒毛のマジイと塘曳をし

て、そしてしまひにはまた赤毛のメリイが恋しくな

った」という内容である。も

ちろん

「赤毛のメリイ」は町子であり、「黒毛のマリイ」は隣人の少女である。

こうして見ると、冒頭に挙げられた

「ひとつの恋」というのは、町子の三工郎

への恋であるかのように思われるが、隣人の引

っ越し後、物語の終盤に

「私の恋

愛のはじまつたのは、ふとした晩秋のことであつた」とあり、その後に登場する

一助の同僚

「柳浩六」に対する恋であることがわかる。町子は界と従兄の暮らす

家に女中として祖母から送られてきて以来、初めて外界に出ることが可能にな

たのと同時に恋をすることができたのである。これは柳浩六宅に居る

一助からの

使いで呼ばれたためである。町子は、外界で出会

った血のつながりのない柳氏に

異国の女詩人に似ていると言われ、更に、三王郎には買ってもらえなかつた

「く

びまき」を

一つ買ってもら

つた。それだけのことであるが、町子は柳氏に片恋を

し、物語はそこで終わ

ってしまう。

更に

「第七官界ケ往」にはもう

一つの恋愛が見られる。それは後に花田清輝が

賞賛した

「群の恋愛」0

である。むしろ、それが

「第七官界紡雀」の中心に位置

していると言ってもよいだろう。二助は失恋から生まれた

「荒野山裾野の土壌利

用法について」の研究のほかに、「肥料の熱度による植物の恋情の変化」の研究も

っており、二助の部屋の古机には

「群」の湿地が広がっている

(二功の研究の

ために、二五郎は

「こやし」を汲み出す手伝いをし、家中に臭気が漂

っているの

である)。その群が

「恋愛」をする。人間も熊も平等に

「恋愛」なのである。しか

し片恋者ばかりの人間をよそに、群は、人工の手が加わってはいるが、恋愛を成

功させてしまう。その上、群の花粉を吸ってしまった二五郎は恋の気分に囚われ

て町子に接吻をし、翌日引っ越してきた隣人の少女と恋に落ち、 一助は二助に患

者に恋をしていることを吻かしてしまうというように、群の恋愛は周りに多くの

影響を及ぼすのである。

13

Page 15: osaki midori

「第七官界紡径」の後、「小野町子シリーズ」ともいうべき作品群が書かれた。

「歩行」全

九二

一(昭和六)年九月号

『家庭し

「第七官界紡径」の主人公

「小

野町子」が兄

「小野

一助」の同僚

「幸田当人」に失恋し、使いに出た先で出会

た詩人

「土田九作」に詩をもらうという話である。続く小説

「こほろぎ嬢」(後の

翠の恋人になる高橋丈雄が太宰治に会

った際に、太宰が絶賛したという)の

「女

主人」は出先の図書館で

「ゐりあむ

。しやあポ」と

「ふいおな

。まくらうど」の

恋愛物語に出会い、その物語自体に恋をしてしまう。

こほろぎ嬢は、身うちを秋風の吹きぬける心地であ

つた。このやうな心地

は、いつも、こほろぎ嬢が、深くものごとに打たれたとき身内を吹きぬけ

る感じであ

つて、これは心理作用の

一つであるか、それとも

一種の感覚か、

それを私たちははつきり知らないのである。そして秋風の吹きぬけたのち

は、もはや、こほろざ嬢は恋に陥

つてゐる習ひであつた。姑手はいつも、

身内に秋風を吹きおくつたもの、こと、そして人であつた。

3こほろぎ嬢」

一九三二

(昭和七)年七月号

『火の鳥じ

「群」が恋愛したように、「女主人」は物語に恋をする。この

「ゐりあむ

。しや

あポ」と

「ふいおな

。まくらうど」は同

一人物の

「分裂詩人」であるが、文学史

からは振り落とされて、その詳細を

「女主人」は知ることができない。ちなみに、

翠は後に

「神々に捧ぐる詩」全

九三二

承昭和毛)年

『崚野し

において、「キリア

・シヤアプ」という詩を書いている

T。ぢ

「こほろぎ嬢」の直後に発表された

「地下室アントンの

一夜」全

九三二

(昭和

七)年人月号

『新科学的し

では、「歩行」の

「幸田当人」、「土田九作」、動物学者

「松本氏」、そしてもちるん

「小野町子一の名前も登場する。幸田当人のノート、

土田九作の詩稿、松本氏の当用日記がそれぞれ引用される形で話がすすむ。この

作品でも、九作の詩稿によって、九作が町子に片恋をしていることが判明する。

「第七官界紡往」以前の作品においても、登場人物は片恋ばかりしている。「香

りから呼ぶ幻覚」(松下文子所蔵の創作稿。

一九二七年二月頃執筆)では、レスト

ランの女給が、暗闊で自分にた

った

一度だけ接吻した男に恋をし、その男

(再会

時には既婚であ

った)のことを忘れられずに、その男と同じ匂いを創りだして自

ら幻覚を呼び起こすのが癖にな

ってしまつたという話である。「山村氏の鼻」全

九二人

(昭和三)年六月号

『婦人公論し

は、珈琲店の女中の

「お来さん」が

一度

でいいから

「山村氏」の接吻を女主人の娘の

「珠ちゃん」から奪いたいと考えて

いて、実際に目標を達成する機会を得たのだが、実は山村氏は胃弱でひどい口臭

を持

っていて、運悪くその時仁丹を噛み忘れていたため、彼女は幻滅してしまう

という結末であった。この場合は

「失恋」よりも、むしろユーモアが勝

っでいる

短編である。

「詩人の靴」全

九二人

(昭和三)年∧月号

『婦人公論し

は、屋根裏詩人の

「津

円二郎」が主人公である

↑.ぢ

彼は

「歩行」の

「土田九作」によく似ており、こ

「詩人」のイメージはこの頃既に出来上がっていたようだ①二郎はある日、床

14

Page 16: osaki midori

の上に落ちていた

一枚の見慣れない蜜柑色の紙に

「線の太い、そのくせ十分しな

やかな」字で書かれた

「水曜。間違

へないで下さい、今日です。年後七時。この

森」という書きかけの文句と

「精密な地図」に、心を惑わされて、森

へ駆け込ん

でゆく。しかし、その紙は

「夕方に隣人の書卓の下に落ち散

つた蜜柑色の書き潰

しの

一枚を二郎の窓に入れて見た悪戯ものの夜風」の仕業で、 つまり二郎宛の手

紙ではなかつたというオチであつた。「木犀」全

九二九

(昭和四)年二月号

『女

人芸術しは学生時代の友人と再会し、小さな恋心を持ちながらも、その友人の「申

込み」を断り、代わりに

「キネ

マの幕」の

「チヤアリイ」に恋をする女の話であ

ア(翌。ここまでを振り返ってみると、尾崎翠の作品の登場人物たちは、必ずしも人間

そのものに恋をするとは限らないことに気づく①このことに関して黒澤亜里子は

次のようにまとめているので引用したい。          ‐

この

「恋」の定義

(筆者注

・F」ほろぎ嬢」の

「秋風をふきおくつたもの、

こと、ひとし

は、尾崎翠の他の作品にも共通している。津田二郎の恋の

対象は、現実の娘そのものというより、隣家の集のかげからのぞいた

「片

足の尖」であり、その

「口笛」であり、恋文の

「線の犬い、そのくせ十分

しなやかな」字体であ

つたし、「山村氏の鼻」では

「匂び」、「新嫉妬価値」

では、銀幕上の

「ジヨセフイン

・ベエカア」や

「フヂタの絵」、映画のチ

ヤンプリンや

「メトロポリス」の

「ロボ

ント」であ

つた。

(黒澤亜里子

「恋愛の政治学―

『屋根裏の少女たち皆)

「アツプルパイの午後」空

九二九

(昭和四)年六月号

『女人芸術し

は戯曲形

式で書かれ、兄と妹が互いに罵りあいながらも、恋を占就させる珍しい作品であ

るが、ここには、翠のジ

エンダー観がよく表れている。

 

(ペンを奪ふ)莫迦。何が勉強なんだ、兄に反抗することばかり覚え

て。いつたいお前くらゐ男に似た女はないぞ。頭を切つたり、青い

靴下をはいたり。襟頸ときたらバリカンの後で蒼くなつてゐて、そ

の下が粟つかすのやうな肌の粗い頸なんだ。その下がにこりともし

ない洋服の衿だ。のどばとけはとびでてゐるし、一肩は骨でこちこち

なんだ。見ろ、青の靴下の中味を。何処に女らしい丸みがあるんだ。

牛芳の茎だつてお前の足より柔らかいぢやないか。

(中略)

兄  お前をすこしでも女に近づけろつて親父に押つつけられたから僕だ

つてこんな不愉快な日を忍んでゐるんだ。好んで

一緒にゐるかい。

にも拘らず頭は勝手に切る、指のペンだこは大きくする。何処に手

のつけやうがあるんだ。(。ヘンをつきつける)第

一この万年筆を見ろ。

男の僕だつて三分間も書いてゐたら手がだるくなりさうな男持ちぢ

やないか。銀行屋の出来損ひめ①これがお前の好みと、いふものなの

Page 17: osaki midori

だ。無細工で、バスで、塩

つからくて、襟頸そつくりなんだ。だか

ら哲学の化粧法も論じたくなるんだ。

(中略)

兄  虫の好いことを言ふな。こん度こそ親父に来てもらつて国に引込ま

せるんだ。頭でも伸ばしてさ

つさと嫁に行つちま

へ。元来お前は

族中の型破りなんだ。二十にもな

つて嫁に行かない女が

一族中の何

処にゐるんだ。お花叔母さんは十六で嫁に行つて十七でお母さんに

つた――

3アツプルパイの年後」

一九二九

(昭和四)年人月号

『女人芸術〕

兄はず

っとこの調子で女らしくない妹を非難しているが、実は妹は兄には内緒

で兄の友人と恋愛関係をもつていた。兄の妹に対する批判は、そのまま当時の社

会における

「女らしさ」にスライド可能であるが、翠は頭の固い兄に妹に姑する

批判行為をさせて、皮肉をこめている。翠は

「あたしの顔って、ベエトーベンの

デスマスクにそつくりだ

つて友だちに云われるのよス高橋丈雄「恋びとなるもの」

『尾崎翠全集 月報し

と語ったというが、「女らしさ」

へのコンプレツクスが全

く無かったと言うことはできないだろう。「アツプルパイの年後」の妹は、気の利

いたューモアで兄の非難をかわしていくのだから、翠は

「男」と

「女」という二

元論の世界、しかも伝統的な性格を持

つ日本の性的役割に辟易していたのではな

いだろうか。これは両性の名前を持

った

「キリアム

・シヤアプ」

への憧れからも

予想できる。

本田宗子は翠のジ

エンダー観について次のように語る。

尾崎翠は日本では数少ない女性のモダ

ニストとして賞賛されることはあ

っても、彼女のモダ

ニズムが破壊しようとしたものがジ

ェンダー文化であ

り、翠のモダ

ニズムがジ

ェンダーヘの違和感を基盤としていることは見逃

されてきたのである。(中略)尾崎深の少女が、例えば夏目漱石の妹たち

と異なるのは、妹というジ

ェンダーから離脱する想像力を持っていること

であり、それによつて、単性の苔という、ジ

ェングーを逸脱する分身世界

へと紡径することだ

(水田宗子

「『尾崎翠を探して』のことなども

また、狩野啓子も

「兄の口をかりて示されているのは、(男に似た女〉宍

ンを

持つ女)(恋をしらない女)に対する

〈健全な世界)の断罪である。(健全な世界)

とは、結局の所、父―兄によつて支配される家父長制の世界であり、逸脱した娘

は、『桁はづれの、存在理由なし』と見なされてしまい、正当な居場所を保証され

ない」令感覚の対位法――尾崎翠

『第七官界紡雀旨)と指摘している。

その一方で、実際には、当時の社会

一般のジ

ェンダーを乗り越えることが出来

なかつたようにも見える。『詩神』での

「女流詩人

・作家座談会」全

九三〇

(昭

和五)年二月身γにおいて、翠は、女性は

(…ご

「女は

(…ご

と繰り返している

16

Page 18: osaki midori

し、鳥取に強制的に帰郷させられた後に発表した

「新秋名呆」盆

九二三

(昭和人)

年)九月二十九日付

『因伯時報し

では

「二十世紀」梨を

「男性」に例え、「果汁

のいづみが胸の細管を下つて胃に落ちついた時」に出来あがった

「静物画」を

「女

性」に例えている。

エンダー云々ともう

一つ、注目すべきは、兄の

「変態感情①変態感覚。変態

……」という言葉である。翠はむしろ、どうやら自分が他人とは違う

「変態」的

なものを持

っていることに苦しみを覚えていたのではないかと推測できる。

更に遡

って文垣

へのデビ

ュー作

屋〔風帯から」全

九二〇

(大正九)年

一二月号

『新潮し

にも既に

「片恋」が描かれている。「光子」は兄の友人に片恋をしなが

らも、思いを告げることもなく故郷に帰ってしまうのである。ン」の作品にはまだ、

後年のユーモアや第七官界の世界を見出すことはできないが、悲しみだけは既に

横たわ

っている。

何故、尾崎翠は

「片恋」にこだわ

つたのであろうか。「アツプルパイの年後」で

描き出されたジ

エンダー観からも、単純に恋愛小説を書きたかったわけではない

のは明白である。翠は

「片恋」に、求めても得られない何かを重ねていたのでは

ないか。

翠の小説では基本的には恋愛は成就しない。成就させようという意識もあまり

見られない。最初から

「片恋」でしかないのである。そもそも

「恋」の姑象が人

間であるとは限らないのであるから、「恋」が成就すること自体があり得ない場合

が多い。相手が人間だとしても

「町子」は常に受け身であるし、「光子」は自分の

気持ちを日記にしたためることはあ

っても、寡黙を通して自分をさらけ出すこと

がない。その様子はまるで植物のようである。植物は自ら動くことが不可能であ

る。恋の対象が人間とは限らないどころか、恋をする主体である人間自身が、『第

七官界紡往』に登場する

「革」のように植物的なのである。しかし登場人物たち

は、外部から

「こやし」を与えられることも、綿棒で撫でられることもないので

あるから、やはり恋は実らない。

「第七官界紡径」や、その前後の作品には、翠のユーモアや独特の表現方法が、

根底に流れる悲しみをカバーしているが、羅

風^帯から」の時点では、光子と、そ

の光子を思ダ兄の悲しみが露わにな

つている。「片恋」は父親の死が教えてくれた、

生の悲しみであ.り、また自分自身の文学を目指すことの苦しさではなかろうか。

貧しい生活、しかも他人とはなかなか理解し合えない孤独のなかで、もどかしい

心のやり場に翠は苦悩していたはずである。次に引用するのは、有名な

「木犀」

の最後の段落である。

さて私は明日郷里の母に電報を打たなければならない。私は金をありた

けN氏の詩の上にはたき出した。お君ちやんの店で残した十銭玉三つの他

に銅貨が四つあるだけだ。お母さん、私のやうな娘をお持ちにな

つたこと

はあなたの生涯中の駄作です。チヤンプリンに恋をして二杯の苦い珈琲で

耳鳴りを呼び、そしてまた金の御無心です。しかし明酎電報が舞ひ込んで

も病気だと思はないで下さい。いつもの貧乏です、私が毎夜作る紙反古は

Page 19: osaki midori

お金になりません。私は枯れかかつた貧乏な苔です。

●木犀」

一九二九

(昭和四)年二月号

『女人芸術じ

あくまでも創作であるから、これをそのまま作者にずらすことはできないが、

翠が貧しかったのは事実であるし、チャップリンに恋をしていたのも事実である。

一瞬の

「心」の触れ合いによつて

「真のかなしみ」を共有した母に姑し

「生涯中

の駄作」と書くほど、翠は追い込まれていたのであり、そしてそのこと自体を翠

は非常に情けなく思ったことだろう。しかし、翠には

「書くこと」が自分を導く

ものであつたと信じていた。

第二節

「詩人」であること

さて、「片恋」と同じく、翠の小説に印象深く登場するのが

「詩人」である。当

時の少女たちにと

つて、短歌から文学の世界に足を踏み入れるのが

一般的なスタ

イルであ

った。翠も同じく、短歌をスタート地点に文学を志した

一人である。鳥

取高等女学校が音楽教育に熱心だつたこともあり、あるいは翠の天性の才能もあ

つたのか、翠は韻律の良い短歌を好んでいた。また短歌のほか、殊に詩を好んで

いた。翠自身、詩を書くこともあつたし、小説の登場人物として詩人がでてくる

こともあつた。先に引用した

「花束」の

「私は其頃殊に海が好きでしたから、―

―あの頃が

一番私の詩人らしい時代だつた気がします」というように、物書きで

ある以前に、「詩人」であったという意識を彼女は持

っていたのである。

「詩

『嵐の夜空旨

(松下文子所蔵。

一九二六

(大正

一五)年に書かれたとみら

れる)には、「岡道子」という名の、右腕のない空の詩ばかりを好んで書いた詩人

が登場する。「岡道子」の詩を、少女が代わりに書き取つて編集部

へ届けるという

設定は、まさに翠と文子の関係に重なる

(実際、翠は本名のほか

「丘路子」とい

う筆名でも作品を書いていた)。自分を売り込むのが苦手であ

った翠の代わりに、

文子は随分と努力したようである。「詩人の靴ばは、もちろん詩人が主人公である。

主人公

「津田二郎」は屋根一異に住み、窓から

「世の中の匂ひ」を感じ取り、「眼で

原つぱや杉林を散歩する」。ちなみに、翠は

「映画漫想」空

九二〇

(昭和工)年

『女人芸術り

で、「ポオル

・モオラン」に次のように呼びかけている。

ポオル

・モオラン!

日本人といふものは、散歩といへば脚でするものと決めてるやうです。脚

のほかの散歩が日本に来ると、またはたまに日本で創られると、それはも

う散歩ぢやなくなり、ねごとか、ひとりごとにされてしまひますcですか

ら、あなたにすこしお願ひがあるのです。散歩には脚以外の散歩のあるこ

とを、いろんな色あひの散歩のあることを、あなたのテクニツクで次々日

本人に教

へていただきたいのです。

含映画漫想」一九二〇

(昭和五)年七月号

『女人芸術時

18

Page 20: osaki midori

翠は文学的にも明治から続いていた自然主義文学を忌み嫌

っていた上、実生活

においても、想像力の幅のきかない状況を窮屈に思っていただろう。ジ

エングー

に関しても窮屈この上なかったに違いない。この翠の思想は

「第七官界」の世界

に昇華される。

「第七官界紡雀」の主人公

「町子」もまた、人間の第七官に響く詩を書きたい

と願っていた。いつかノートが詩でいっぱいにな

つたら、「たいへんな住人を聯想

させ」てしまう、自分に相応しくない本名

「小野町子」とは別に、「私の詩か私自

身かに近しい名前を

一つ考

へなければならない」と考えていたのである。しかし

結局町子は第七官に響く詩を書くことができなかつた。したがって、自分に相応

しい名前を得ることもできなかつたのである。事実

「町子」は作品中、ひたすら

「女の子」と呼ばれる存在でしかなかつたのだ

(三二郎だけは例外で、時

々、「町

子」と本名で呼んだのであるが\12と「第七官界街径」は、この側面から見ると、

町子が詩人にな

って自分の名前を手に入れる小説と考えられるのである。そうす

ると、柳氏が町子に似ていると指摘した具国の女性詩人が

「名のある詩人ではな

かつた」ことにも、姑応するのである。

それから

「歩行」に登場する

「土田九作」も詩人である。頭痛持ちの彼もまた

「おたまじやくしの詩を書くときその実物を見ると、まるで詩が書けないといふ

思想」を持ち、「からすは自きつばさを羽ばたき、唖々と噛ふ、からす唆

へばわが

心幸おほし」という詩を書いて、周囲の人間を呆れさせていた。津田二郎や尾崎

翠自身が眼を使

って散歩をするように、九作も

「からすは白い」という詩を書く

ことを疇躇わない①

彼ら自称詩人たちは、満足に詩を書くことができない。生活自体も他人とかけ

離れている翠の分身のような詩人たちである。しかし、詩を書くことによって、

生きているのである。詩を書くことが人生であると言ってもよい。彼らのような

詩人には想像力が必要不可欠である。

三郎は、この象牙の塔の中で時には象徴詩人であり、時には駄駄詩人であ

り、時には表現詩人であ

つた。これはつまり彼が決して星菫派とか自然派

とかいふものに属していなかつたといふことである。それ等は彼に取つて

恐怖以上であ

つた。

今詩人の靴」一九二人

(昭和三)年人月号

『婦人公論し

反自然主義を掲げる三郎、九作、作者の尾崎翠、そして

「第七官に響く詩」を

目指す町子も同志である。彼らは

一般的に言うところの

「現実世界」だけではな

く、もっと広い世界に生きていたのである。そういう世界の詩を書くことは、自

然主義が蔓延っていた時代の否定であり、新たな可能性の開拓であり、何よりも、

想像力が生きていくための基本的な手段であることを大いに語ることである。翠

は、自分に似た詩人たちに、小説の中でそのような役割を担わせた。

この室内の

一夜には、別に難しい会話の作法や恋愛心理の法則などはなか

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