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Title 〈奇人〉佐田介石の近代 Author(s) 谷川, 穣 Citation 人文學報 (2002), 87: 57-102 Issue Date 2002-12 URL http://hdl.handle.net/2433/48604 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher KURENAI : Kyoto University Research Information Repository Kyoto University

Kijin' Sata Kaiseki no Kindai (〈奇人〉佐田介石の近代)

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Title 〈奇人〉佐田介石の近代

Author(s) 谷川, 穣

Citation 人文學報 (2002), 87: 57-102

Issue Date 2002-12

URL http://hdl.handle.net/2433/48604

Right

Type Departmental Bulletin Paper

Textversion publisher

KURENAI : Kyoto University Research Information Repository

Kyoto University

『人文学報』第 87 号 (2002年 1 2 月 )

(京都大学人文科学研究所)

く奇人〉佐田介石の近代

谷 )II 穣

はじめに

第一章足跡と仏教天文学研究

第二章ランプ亡国論への道

第三章舶来品排斥論の〈共有〉

第四章演説と結社

おわりに

はじめに

1877 (明治 10 ) 年 3 月 1 日 , 有 力 新 聞 の ひ と つ 『東 京 日 日 新 聞J (発行は日報社)はプライスエッセイ

「点取文 J,すなわちある題目について賞金を懸けて論説文を募る,と発表した。これは,政

府顧問を歴任した宣教師 G・ F・フルベッキらがその企画を日報社にもちこみ,同社社長福地

源一郎が評者のひとりとなって実現した。その題目は「日本の外国に交通することに於て幾何

の弊害ありや……利益ありや」というものであった。残念ながら応募総数や応募者の階層,内

容の傾向などは不明であるが, r東京 日 日 』 の紙面か ら , 以下の こ と がわか っ てい る 。 日報社

が 8 月 10日に一等(賞金 25円)該当者なし,二等(同 15円)・三等(1 0円)・四等 ( 5円)にー

名ず、つ入選という結果を紙上発表したこと。その日から三名の入選文を連日掲載したこと九

そして,二・四等入選者の賞金は当社が預かっているので取りに来られたしと呼びかけたこ

との,であった。このうち四等はのちの「憲政の神様 J,尾崎行雄であった。その尾崎を抑え

二等に入選した人物,筆名「白河斎」こそ,本稿でとりあげる佐田介石その人である【図 1】。

佐田は文政元(1 818)年に肥後に生まれた浄土真宗本願寺派の僧侶で, 1882 年の末に出張先

の上越高田で亡くなるまで,仏教天文学の研究とく独自〉の経済論を発信し続けた人物である。

1906(明治 39) 年の 『文芸倶楽部』 第 12 巻第 6 号 (定期増刊号) に は, I明治崎人伝」 と い う 特

集が組まれているが,そこで佐田は, I外国品の輸入を拒絶せん と 企図」 し , 仏教天文学の

「世界平面説 J I須弥山論J I天動説」 も主張 して, 熱心に諸方に遊説 し た 「一種の奇物で、あっ

たJ3)と紹介されている。また,著述家内田魯庵が 1920 (大正 8 ) 年に新聞紙上に発表 し た文

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人文学報

【図 l】佐田介石の肖像(仁藤巨寛『等象斎介石上人略伝」耕文社, 1883 よ り )

章には,

佐田介石と云っても今では余り知るものは有るまい。殆んど半ば忘れられてをるOが,介

石のランプ亡国論と云ったら一時は全国に鳴ったもんだ。此のランプ亡国論とし1ふ奇抜な

題目だけを知るものは,或は皮肉な明世論と思ひ,或は回目直頑冥度すべからざる懐慨論と

想像するだらうが,介石のは真剣に自家独特の経済的見地からランプを筆頭としての外国

品の輸入が日本を滅亡せしめると信じた経済説なんだ4)o

とあるO冒頭にあげた懸賞入選作も,実はこうした舶来品排斥論を展開したものであった。佐

田はランプをはじめとする舶来品の排斥を,演説という手段を用いて人々に訴えた。しかも,

「文明開化」の時代であるとされる明治 10年代前半の社会において,一世を風磨する存在と

なったというのである。

その知名度の高さは,新聞記事からもうかがえるOたとえば, 1882 (明治 1 5) 年 1 月 1 3 日

付『東京日日新聞」には「佐田介石師同師ハ昨今大阪ニありて例の輸入品防逼説を唱へらる

、ニ既ニ其説ニ随喜したる者七万余人の多きニ及べりと云ふ」という記事がみえる o 1881 年

の春から夏にかけて,佐田は大阪および京都で舶来品排斥を演説して回った。その結果,大阪

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〈奇人〉佐田介石の近代(谷川)

で佐田の支持者は増加の一途をたどり,じつに七万人以上を数えた,というのであるの。ここ

で注目すべきは, I例の」 と い う 表現であ る O も ち ろん , 佐田の 〈独自 〉 性 と い う 含意がま ず

看取できょう。だがより重要なのは, ~東京日日』という全国紙において,佐田の持論が「例

の」と冠せられていることである。全国的(もちろん地域差はあろうが)に「佐田=舶来品排斥

論」という連想が定着していることを, I例の」 の二文字は端的に物語 っ てい る のであ る O 内

田魯庵の「全国に鳴ったもんだ」という回想は,おそらく正しし、。

このような人物を,先学も放っておくはずはな L、。とくに, 1930 年前後か ら1940 年 ごろ に

かけての時期6)と, 1970 年代末以降の時期に, 佐田研究は集中的にあ ら われてい る O 前者では,

まず社会学者でもあった真宗僧,浅野研真があげられる 7)。浅野は「佐田イズムのルネッサン

スは,現下の非常時に於てこそ,一層,再検討・再吟味をなさるべき必要性がある」という観

点、から,佐田を「民衆的愛国者」として賞賛し,その生涯と活動を紹介しているの。また,経

済思想史の領野で、経済論や結社活動について考察したのが,本庄栄治郎であるO本庄は佐田の

主な著作の分析から,佐田の思想をきわめて保守的としながらも, I単な る反動思想ま た は旧

思想として葬り去ることはできないJ,一種の保護主義的経済論を唱えた人物であると規定し

た9)。この両名の研究は,佐田の顕彰ないし「再評価」という視角が大前提となっている点で

問題をはらむが,佐田に関する諸史料(著作,新聞記事,伝記など)を広く集積しており,今日

でも重要な位置を占めている。

そして 1970年代以降には,衣笠安喜,大漬徹也,柏原祐泉,牧原憲夫,奥武則らによって,

その言説や行動の再解釈がなされた10)。いずれも,佐田をたんなる復古主義者としてではなく,

明治初期の民衆社会のー側面を映し出す象徴的存在として扱う点で,共通しているO最近の論

者である奥武則は,日本独自の「開化」を構想した佐田の思想を「小国寡民の思想」であると

述べ,西洋の「文明開化」と対崎するそのあり方を積極的に評価する。そして,著作の特徴と

して「数字による実証」を挙げ,そこに「開化の子」たる知識人・佐田の姿を指摘するなど,

「開化」の政府と「迷蒙」なる民衆の聞に位置する微妙な存在としての佐田像を描きだした点

で,注目すべき論考であるといえる。

だが,こうした先行研究を概観したとき,重大な共通点に気づく。佐田の言説や行動のく変

化〉について,ほとんど言及していないのであるOいったいなぜなのか。

筆者はこう考える。建白家・佐田,あるいは「ランプ亡国論」の演説家・佐田,その一貫し

た「自家独特」な一一「奇人」的な思考と行動をみる,という暗黙の枠組みが,各論者に少な

からず影響しているのではないか,とO後に示すように,佐田も言説や行動の上でさまざまな

揺れを示している。そうした微妙な変化を, I奇人」 と い う レ ッ テルは遮蔽 し不問に付 し て し

まうものである 11)。もちろん,単純に「奇人」であるとのみ断言する研究はない。しかし誤解

を恐れず言うなら,佐田をとりあげる時点で, I奇人」 への好事家的関心か ら 自 由ではな いの

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人文学報

が実際のところであろう(本稿とてそれは同じである)。 だがそれを自覚するなら,一色に塗り込

めず,変化の側面に注目すべきだというのが,筆者の立場である。そこで,本稿ではまず佐田

を全国的に認知せしめた「ランプ亡国論」に至るまでの思考の軌跡を追うことを課題とする。

一方で,演説や結社の実際,そして従来ほとんど顧みられてこなかった人的つながりについて

可能な限り明らかにする。以上の作業から,明治初期における佐田のすがたを浮かび上がらせ

たい。そして最後に,佐田の「奇人」というレッテルがもっ意味について,あらためて言及す

る。

なお,読みやすさを考慮して,引用史料中に適宜句読点を補ったことを断っておく。

第一章その足跡と仏教天文学研究

1 在所と著作活動

佐田の生涯について記した著作は,佐田の死後まもなく,仏教系の隔日刊新聞『明教新誌』

に 1883 (明治 1 6) 年 3 月 6 日 か ら連載 (全 3 回) さ れた小伝, お よ びそれに増補 し て翌 4 月 に

上梓された「等象斎介石上人略伝J (耕文社, 1883) が最初であ る O 著者は佐田の高弟, 仁藤巨

寛であった。「等象斎」と号した師への追悼の意が色濃い文章であることが随所に窺えるが,

先行研究はこの『略伝J,およびその記述にほぼ依拠した浅野研真の著書をもとにすすめられ

ている。よって, r略伝』 を他の史料と つ き あわせっつ , 基礎的な事項を押さ えてお き た い。

まず在所であるO文政元(18 1 8)年,肥後国八代郡鹿島村の浄立寺(浄土真宗本願寺派)住

職・広志慈博の子として生まれた佐田は,文政 7年ごろから同村の儒医斎藤宗源について学び,

同 13年には庵を結び学問にいそしんだという。幼名は観霊,のちに字断識。その後,飽田郡

小島村(現熊本市小島中町)の本願寺派正泉寺の養子となり,佐田姓を名乗るようになったよう

であるOそして天保 6 (1835)年,本願寺派の学林での学問修行のため京都へ出る。このころ,

佐田は森尚謙『護法資治論』を読み,護法論の立場から天文研究の必要性を痛感し,弘化 4

(1 847)年に当代随一の天文学者,天竜寺・環中のもとへ赴く。そこで天文学や易学を学び,

最初の著作『周易三千年眼』を書きあげ,さらに修行したのち学林に帰錫した,とされる

(r略伝J 2 丁裏--3 丁表) 。 仁藤巨寛は, 師の修行の激 し さ につ いて , I白 日 と雛 と も戸を閉ち故

らに室を暗くし昼燈を懸け沈思黙考すること十有余年Jと紹介している ( 3丁表)。だが後述す

るように,環中のもとへ赴いて 6年後の嘉永 6 (1 853)年には学林に戻っているとみられ,す

くなくとも「十有余年」の門外不出というのは誇張と考えられるOやがて明治に入ると,佐田

は京都を離れて東京へ移る。仁藤によると,明治 3 (1870)年にまず両国・回向院の住職で

あった福田行誠のもとに身を寄せ,そこで一年余り滞在し,ついで浅草寺の住職・唯我詔舜の

招きに応じ,その別亭にまた一年ほど寄留したという ( 5丁裏-- 6丁表)。ただしこれも留保が

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〈奇人〉佐田介石の近代(谷]I I )

要る。次章でみるように,明治 3年末には富山へ出張しているうえ,建白書のなかには,上京

は少なくとも明治 4年末以後と解釈される記述もみえる。よって,東京に在った期間について

は検討の余地がある。こののちも,愛宕下-T目青松寺内考寿院(曹洞宗)凶,浅草・桃林寺

(臨済宗) 13) , 小石川区新小JIl町 ・ 士族高橋精一方14)な どを転々 と し , 1879 (明治 1 2)年末には

浅草新堀・東光院(天台宗)の住職となっているが(1 0丁裏),翌年にも自らを「在浅草桃林

寺」として名乗ってもいる 1 5)。以上のように,東京での所在地やそれぞ「れの在留期間はつまび

らかではないが,浅草や小石川を中心にいくつか拠点をもち,それらを渡り歩いたことは確か

なようである。

つぎに,佐田の活動の概略をつかんでおこう。基本的には,幕末・明治ゼロ年代・明治 10

年代という 3つに時期区分することができる。すなわち,幕末期に仏教天文学の研究にいそし

み,明治ゼロ年代には多数の建白書を提出,そして明治 10年代に入り著書の公刊と演説活動

に精を出す,といったおおよその傾向が看取できるのである。

この活動の区分について,著作群を中心に検討しよう(【表 l】参照)。第一期,すなわち明

治維新以前では,天文学の研究と,それ以外に二つの活動が注目される。ひとつは,仏典精読

のための基礎研究である。その成果として嘉永年間(1 848 '"'-'1854) 以前に脱稿 し た と さ れ る の

が, r助字嘆J r虚字藁J r実字禁」 の三部作であ る O も っ と も , 刊行が確認で き る の は 「助字

葉』のみである。これは漢籍を読みとく際に必要な助字についての手引き書で,安政 5

(1 858)年 2月に自序文を記し,文久元(1 861)年秋には全 8巻を京都で出版している則。もう

ひとつは,政局に深く関わる人物への建言である O浅野研真によると,佐田は文久 2年 9月,

三条実美が壌夷勅命伝達のため江戸へ下向するに際し「送別ノ銭トシテ建白」しており l九元

治元(1 864)年にも,幕府の長州征伐の意向を知り,松平容保に謁見し征長を思いとどまるよ

う建言したという則。『略伝』にも,佐田が京都を出て長州へおもむき「木戸公〔孝允〕に謁

して国事を談ぜら」れたという記述がみえる ( 5丁表)。しかし,今日伝わっている建言書は松

平容保に上申したものだけであり,真偽のほどは確かではない。

とはいえ,政府要人に自説を訴えるという行動様式は,第二期(明治ゼロ年代)へつながっ

ていったように思われる Oこの時期の佐田は,上述のとおり東京に移っており,そこで建白書

をさかんに提出してゆく。『略伝」には,佐田が明治 3年から同 5年のあいだにもすでに建白

活動に力をそそいでいると述べられているが ( 5丁表~裏),現存するのは 1873 (明治 6 )年か

ら 1875年にかけての 11点(左院受領 6,参議木戸孝允宛,左大臣島津久光宛各 2,太政大臣三条実

美宛,宛先不明各 1 )である則。内容は経済論,地動説批判,キリスト教批判,征台時期尚早論,

聖徳太子顕彰論など多岐に渡るが,いずれも議論の重なる部分がある。一例として, 1875 年

1 月 左院落手の 「耶蘇建白」 を見てみ よ う 。 こ れ は, I其属国を求る必す先ツ教法を其国へ入

るj2 0)という西洋諸国のありように対し,いくつかの項目を列挙して批判したものである。こ

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人文学報

【表 l】佐田の著作群

No. 転載 年月日 形態 題名など 分野 備 考

弘化 4年 著書 『周易二千年眼』 天文

2 文久冗年晩秋 著書 『助字襲』全 8冊 漢籍 序文は二条実万,広瀬旭荘,野々口隆正

3 文久 2年 9月 建白 「送別ノ銭トシテ建白」 政治 二条実美宛

4 文久 3年 著書 『鎚地球説略』 天文

5 冗治元年 7月 建白 幕府征長につき慎重策を求める建白書 政治 松平容保に謁見上申

6 慶応冗年 著書 『耶蘇興廃年表』 排耶

7 慶応3年以降 論文 『間中案』 天文

8 このころか 論文 『雰囲論』 天文

9 明治 3年か 建白 「窃試」 政治

10 明治 5年 8月頃 著書 『教諭凡 j, r教諭凡道案内』 教化

11 明治 6年 1月 10日 建白 「富国議」 経済

12 明治 6年夏 論文 「天文地理ノ疑問」 天文

13 明治 7年 9月 10日 建白 「‘清国不可討之議」 外父

14 明治 7年 9月 28日 建白 「富国策ー十三題・附桑茶論 J 経済

15 明治 7年 12月 8日 建白 「地動説疑問」 天文

16 明治 7年か 建白 「御利益見込書」 経済 島津久光宛

17 明治 8年 1月 建白 「耶蘇建白」 排耶

18 明治 8月 1月 建白 「諸宗寺院連名建白」 仏教

19 明治 8年 2月 雑誌 『世益新聞』第 l号 仏教

20 • 18 明治 8年 3月 雑誌 『世益新聞』第 2号・同附録 仏教

21 明治 8年 4月 雑誌 『世益新聞』第 3号・第 4号・同附録 天文

22 明治 8年 6月 10日 建白 「富国ノ建策貫通センコトヲ需ムル書」 経済 木戸孝允宛

23 明治 8年 6月下旬 建白 「聖徳太子追賞ノ議(大日本大聖伝 ) J 仏教

24 • 23 明治 8年 6月 雑誌 『世益新聞』第 5号 仏教

25 明治 8年 7月 29日 建白 「建吾ヲ通セント乞書ノ二 J 経済 木戸孝允宛

26 明治 8年 9月 建白 「朝鮮事件献策」 外父 二条実美宛

27 明治 9年 2月 雑誌 『世益新聞』第 6号 仏教

28 • 12 明治 9年 4月 雑誌 『世益新聞』第 7号 天文

29 明治 9年 4月 雑誌 『世益新聞』第 7号附録 仏教

30 明治 9年 7月 雑誌 『世益新聞』第 8号 経済

31 明治 9年 8月 雑誌 『世益新聞』第 9号(終刊) 経済

32 • 22/ 25 明治 9年10月 雑誌 『掌珍新論』第 l号 経済 4 銭, 枕流社発行

33 明治 9年 11月 5日 雑誌 『掌珍新論』第 2号「人民疲弊ノ本」 排耶 7 銭, 向上

34 明治 9年 論文 地動説五箇条の批判書 天文 アメリカ人宣教師ウィリアムス宛

35 明治 10年 8月 1 0日 論文 対外貿易の是非について 経済 『東尽日日新聞』掲載

36 明治 10年 8月 著書 『視実等象儀記』初篇 天文 序文は山岡鉄舟,品橋泥舟

37 明治 11年 5月末 著書 『栽培経済論』初編 経済40 銭。 序文は中村正直, 栗本鋤雲, 井

上毅,重野安縛

38 明治 12年 6月 著書 『仏教創世記』 仏教 7 銭 (15 年1 月 に は15 銭)

39 明治 12年 9月 著書 『栽培経済論』後編 経済 50 銭。 序文は柳原則光, 桜井能監

40 明治 13年 1月 一枚 『富国歩ミ始メ』 経済

41 明治 13年 2月 著書 『視実等象儀詳説』 天文 30 銭

42 明治 13年 7月 16日 論文 「ランプ亡国の戒め」 経済 『東尽日日新聞』および『明教新誌』掲載

43 • 34 明治14年 1月 著書 『天地論往復集』 天文

44 明治 14年 8月 著書 『日月行品台麓考』 天文

45 明治 14年 1 2月 20日 雑誌 『栽培経済問答新誌』第 l号 経済

46 明治 15年 8月 16日 雑誌 『栽培経済問答新誌』第 40号(休刊) 経済

47 • 35 明治16年 6月 著書 『点取交通論』 経済校訂は大伴義正,森祐準。佐田襲石

(養子)との相談の上刊行

48 明治 16年 7月 23日 著書 『全国商法の栽培』初号 経済

49 明治 21年 1 2月 7日 著書 『天地論往復集』続編 天文 門人阪田和光校訂,序文は釈雲照ら

50 明治 23年 著書 『葬忌彼岸会説・須弥山一目鏡』 仏教

51 • 17/ 26 明治26年1 2月 著書 『仏教開国論』 仏教 豊国義孝編集

※ rNo.J r転載」 の項は, た と えばr24J r←23J の場合, r聖徳太子追賞ノ …」 が 『世益新聞』 第5 号に転載さ れた こ

とを示す。

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〈奇人〉佐田介石の近代(谷川)

の建白で佐田は,西洋諸国が「所謂教商戦の三法を以古来人の国を呑ミ来れる処の通商J2l),

そしてそれを導く先兵たるキリスト教の存在を,鋭く指摘する。ここでは,単にキリスト教を

教義の面から,あるいは国体という観点から非難するだけでなく, I通商」 の観点、か ら の指摘

も色濃くうちだされている。つまり,排耶論として分類した建白書も,そこにとどまらず,議

論の中心と関連する話題へと大きく移ってゆくという特徴をもっているOさらにこの時期に目

立つのが,自分が書いた建白書を,自分が編集する雑誌に掲載して,世に知らせようとした点

である o 1875(明治 8 )年 3月刊の『世益新聞』第 2号附録には,同年 1月に相国寺・荻野独

園,久遠寺・新居日薩ら,各宗派の高位にある僧侶たちが連名で出したとされる建白書を転載

しているが, 1893 年に上梓さ れた豊国義孝編 『仏教開国論』 に こ の建白書が採録さ れた際,

じつは佐田が書いたものであると明らかにされている Oまた, 1876 年10 月刊の 「掌珍新論』

第 1号も木戸孝允宛の 2つの建言書を掲載している O

こうした建白・建言から雑誌へというパターンの背景には, 1875 年5 月 の左院廃止と い う

事情があると思われるが,その結果,佐田が自説を世論へ訴えかける際に複数の媒体を意識す

るようになったことは重要である。それがそのまま,最晩年の第三期(明治 10年代)の大きな

特徴となるからである。【表 l】をみてもわかるように,この時期に今までの持論を集大成す

るかたちで, r栽培経済論J r仏教創世記J r視実等象儀記」 な ど、 の単著をつ ぎつ ぎ と刊行 し て

ゆく。その一方で,そこで論じた舶来品排斥論や天文論を各地(関東~京阪)へ出向き頻繁に

演説している Oさらに,新聞への投稿,雑誌『栽培経済問答新誌』の刊行など、をつうじ,くり

かえし自説を披露するのである O

こうして三つの時期をみると,佐田の活動は自説を訴える伝達媒体の獲得,および複合化と

いう過程であることがわかる。しかも,それぞれの時期が媒体によって単純に区切られるので

はなく,重層的になってゆく過程とも捉えられる。この点を「連続」面とすれば, 1875 年ま

での建白活動が以後全く姿を消し,かわって第三期からその力を新たな活動ニ演説にかたむけ

ることになる点は, I断絶」 面 と し て指摘で き る だ ろ う 。 佐田の活動は基本的に こ の三区分に

従ってよいといえるが,佐田の言説をつぶさにみてゆくならば,こうした「連続 J I断絶」 を

内包していることも念頭に置くべきである。

2 仏教天文学者と し て

本稿の課題である経済論に入る前にもうひとつ,佐田の仏教天文学研究について述べておき

たい。ただし,その天文論の内容に深く立ち入るというのではなく 22),ここでは史料にあらわ

れる研究活動のすがたを描いたうえで,佐田にとっての仏教天文学が持った意味を考察するこ

とにし fこし、。

西本願寺学林での佐田の動向については,学林の日誌である『学林万検』の巻十七から巻二

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人文学報

十一(~龍谷大学三百五十年史」史料編第 2 巻 (1989)所収,以下引用は頁数のみ記す)から垣間見る

ことができるOこの記録で最初に佐田についての記述がみえるのは,嘉永 6 (1853) 年 7 月 24

日の条, I"肥后観霊,午之刻出殿之事」というものである (p. 306)。何のために本山への「出

殿」を命じられたかは定かではないが,当時は「介石」ではなく,まだ幼名の「観霊Jを称し

ていたことがわかるO同年 9月 6日の条では「六日,呼,肥後観霊得業願書ニ奥印可致候事」

とあり (p. 308),この頃の佐田は得業,つまり学林で一定の修学をへたのち試験に合格した者

に与えられる最初の学階(本願寺派では,得業の上に助教,その上に司教,そして頂点に勧学)を得

ょうとしていたのであり,学僧としての階梯を登りはじめる時期といえる O

その後も,佐聞は着実にその階梯を進んでいったようであるO安政 3 (1856) 年 9 月 1 7 ・ 1 8

日に,得業から助教への昇級試験として「下会読J (口頭試問)が行われているが,論題は「論

註往還二相J I"選択集悉有仏性」の出題者の一人として,佐田の名前が挙がっている (p. 349)。

通常,助教昇級試験の「下会読」はすでに助教の位にある者が出題することになっていたので,

佐田は嘉永 6年 9月以降に得業となり,安政 3年 9月以前には助教に昇級していたことになる。

ついで,安政 5年 9月 17日の助教試問にも出題者をつとめたとの記述がみえる (p. 410) 。 ま

た文久 2 (1 862) 年 1 月 1 4 日 に は, 助教の得聞 ・ 宣正, 得業の鵬翼と と も に , 学林に集 う 僧

侶たちの「学問御引立世話役」にも命ぜられている (p. 534)。佐田が学林において,周囲に広

く認知される存在であったことがわかるであろう。

その知名度を高めたのが,天文研究であった。安政 2 (1855) 年 2 月 22 日 の条をみてみ よ

う。この日,西本願寺本山の学林御用掛である松井中務ら三名が,学林の寮へ出張してきた。

用向きは,佐田に「党暦天象器之事」の仔細について尋ねることであった。その事情について,

「学林万検』ではこう記録されている。

先達而在寮昇階中衆評之上,出願致候儀ハ,楚暦須弥界之説ニ付,西洋暦家ぷ難破致候,

右者漢土ニも右回暦伝来致候而,終ニ仏法漸減致候由,諸書ニ在之,当時海内ニ蘭暦地動

之説大ニ被行,儒神之徒も与党致候而仏法を破斥致候ニ付,何卒右須弥界之説申立,外難

を隔,西洋暦を反破致度旨,多年苦心致候事ニ付,幸此節肥口観霊天竜寺環中禅師へ随従

致市暦学も増進,其上外暦之難を通し,且反破致度由申出候ニ付,林門ニ於而天象器制造

被下度申出候ニ付,衆評之上願出候儀ニ付,為取札右御用掛出役ニ相成候事 (p. 325)

近年太陽暦や地動説が流行し,儒学者や神道家もそれに与して仏教を排撃しようとしている。

こうした状況に, I"須弥山説」にもとづく天文論を学んだ佐田が,その学識を生かし天文の器

械を製造することで対抗したいと申し出たのであった。

この背景について少し述べておこう。 18世紀後半から,長崎のオランダ通詞本木良永や志

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〈奇人〉佐田介石の近代(谷川)

筑忠雄らによって,蘭書をつうじて西洋の地動説が本格的に紹介されるようになっていた23)。

これは仏教界にとって重大な問題であった。なぜなら,それは仏教教理にのっとった世界観で

ある須弥山説の反駁であり,仏教への挑戦をも意味したからであるO須弥山説では,世界の中

央に大高山・須弥山が聾え,その中腹を日月が廻っているOそしてその山麓から最も外側,東

西南北に四つの大陸があり,南に位置する大陸に我々は存在するOつまり我々が目にする天体

の航行は,須弥山の周りを天体自身が廻っている様子である,と説明されるOしたがって須弥

山説に基づく天文論は,まさに天動説であった。かくして天文を研究する学僧は,僧侶のなか

でもいち早く, r西洋」 と の対峠を迫 られ る こ と にな る o 19 世紀初め ごろ , 古今東西の天文学

理論と仏典における天文論とを融合した学僧・普門円通があらわれた。彼によって「仏教天文

学」の体系化が図られ,また暦の作成・頒布や天文観測実験などの活動が広がっていった。時

代が下るにつれ,護法意識の高まりもあって天文学研究は進展し,円通の弟子のひとりである

環中は,師の説を継承しつつ理論的な矛盾を修正する方向で研究を深めていった制。佐田はそ

の環中に師事して天文学を研究するなかで,かつて円通の作ったモデル(須弥山儀など)に自

分の研究成果をとりいれて改良し,新たな器械を製作したいと学林御用掛に申し出たのであっ

た。それに対して,松井中務ら御用掛は,衆議のうえ本山へ申請するため,詳細を聞くべく佐

田を訪れたのである。

その結果,佐田の申し出は承認され,安政 2年の夏に「視実等象儀」という器械を完成させ

る。これは, rか ら く り 儀右衛門」 と 呼ばれ名高い久留米の職人 ・ 田中久重の手に な る も ので,

佐田の天文論を集約した模型器械である【図 2】。中央にある長い心棒が須弥山を,その上の

輪が天体の航行を示す。四つの大陸はその周囲に配置されている円形部分である。地球にあた

る南の大陸は図の右手にあるO佐田の天文論の重要な点は,太陽や月などの天体は見かけ上,

大陸を覆うドーム部分の天空(視象天)を航行しているかのようであるが,じつははるかに上

空に,須弥山の回りをめぐる本当の天空(実象天)が存在する,という点であるOさらに視実

等象儀では,天体は実際に北極星を中心として航行しているのではないか,という反論にも答

える仕組みになっている。南の大陸のすぐ上空に,細い心棒に支えられた小さな輪がみえる O

これを北極実象天と呼び,実際の北極星のある位置を示す。これと重なってしまうから,実象

天は北極星に隠れて全貌が見えず,はるか遠くにあるはずの太陽も月も北極星の回りを廻って

いるように見えてしまう,と遠近法の論理で説明するのである。

この視実等象儀の噂は広く知れ渡っていった。安政 6 (1 859) 年 2 月 29 日 に は郷里の熊本

藩主・細川斉護が江戸出府の途上,西本願寺を訪れ等象儀の観覧希望を申し出た。佐田は付添

いの僧侶 2名とともに,伏見の宿舎まで等象儀を自ら持参して斉護に見せている (p. 4 18)。そ

して翌 3月 22日には,門主広如の「御上覧」にも供することになった。この日は巳の刻に看

護の亮恵,付添い僧侶 2名とともに西本願寺本堂へ参殿した。その際,学林御用掛川勝十之丞

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人文学報

【図 2】視実等象儀(国立科学博物館所蔵,田中聡『怪物科学者の時代」品文社, 1998 よ り )

から,ここ本堂で等象儀を組み立てて大奥へ運べとの指示をうけた。亮恵は介石を代弁するよ

うに,運ぶ際に「仕掛けくるひ候てハ無詮候」と伝えた。それに対して川勝は,等象儀を書院

へ運び,組み立て方を本山の御道具方に示したうえで,大奥で彼ら御道具方が組み立てるとい

うのではどうか,と代案を述べた。だが亮恵は, I云何様成共思召ニ任候, 乍併先以申候通 り

平常之器ニてハ無之,介石数年精心研候品なれハ,御道具方風情之一朝ニ心得候共,不存云

何」と切り返した。佐田が何年も心を砕いた末に作りあげた精徹な器械を,ちょっと見ただけ

の御道具方なぞに扱えるはずがない,と考えたのである。佐田がすでに天文研究の学識と等象

儀で知られた存在であり,学林内でも支持されていたことが,ここからも明らかであろう。亮

恵の主張によって,結局は組み立ても「御上覧」も書院で行うこととなり,未の刻に首尾よく

66-

〈奇人〉佐田介石の近代(谷川)

終えたという(以上 p. 420)。この直後,佐田は本山に等象儀の修復費用支給を伺い出, 3 月27

日に了承をえている (p. 42 1) 0 r学林万検』 に は等象儀が損傷 し た と い う 記述は見当た ら な い

が,佐田がその手入れに細心の注意を払っていたことがうかがえるO だが文久 2 (1 862) 年夏,

等象儀は京都の騒乱にまきこまれ,焼失してしまう。佐田の衝撃はきわめて大きかったに違い

ない。

それでも佐田は,天文学の研究成果を着々と文章にまとめてゆく。翌文久 3年脱稿の『鎚地

球説略J (別名「日本鎚J) で は, ア メ リ カ人 R ・ Q ・ ウ ェ イ (樟理哲) 著の天文書 『地球説略」

を痛烈に反駁した。ついで問答体の『闇中案』日,さらには「雰囲論』を書きあげた問。東京

に移ってからも【表 1】のとおり,天文に関する著述を重ねてゆくが,見逃せないのは, 1877

(明治 1 0) 年に視実等象儀を再び製作 し てい る こ と であ る O 佐田 は, 寄付金を有志に募 り , 前

述の田中久重と熊本の職人・松本喜三郎に製作を依頼して,できあがったものを同年夏に東京

で行われた内国博覧会に出品したのである。

佐田の天文論やその活動は,地動説を中心とした西洋天文学の普及にどれほど対抗できたの

であろうか。政府の見解としては, 1873 (明治 6 ) 年か ら太陽暦を採用 してい る こ と か ら も明

らかなように,西洋天文学,地動説を採っていた。学校では L・ c・ボンヌ著『泰西勧善訓

蒙J (箕作麟祥訳)などの教科書で地動説が教えられており,それを非難する教導職と,学校教

員や地方官とのあいだでしばしば摩擦を生じてもいた。そうした摩擦をきっかけとして, 1876

年 6月 22日には教部省が須弥山説説教の禁止を口達して,公式に天動説否定の見解を示すに

至った 27)。しかしその後も佐田は須弥山説を基本とした天文論を説くことを止めなかった。

【表 l】でもわかるように, 1880(明治 1 3) 年か ら翌年にかけて 『視実等象儀詳説J r天地論往

復集 J r 日月行品台麓考』 と天文論の著作をたてつづけ に刊行 し てい る 。

とはし、え,それへの反発もまた大きかった。たとえば, 1878 年6 月12 日 , 神奈川県 ・ 伊勢

山(現横浜市西区)において,天文論につき演説を行ったさい,聴衆のある師範学校生徒が佐

田の「地球平面説」について疑問を訴えてくるという事態が生じている 28)oこれには佐田も返

答に窮したというから,よほど厳しく詰め寄られたのであろう。 1880年 10月 29日に京都・

円山で行われた第 2回同志社演説会でも,同志社学生綱島佳吉が「天が動くか地が動くか」と

題した演説において,同様の批判を行っている 29)。佐田はこのころ京都を巡回しており,その

天文演説が一部に大きな反発を呼んだのである。同年 1 1月 20日には,大阪府西区北堀江で,くさなぎ

天動説・地動説について前大阪府学務課長日柳政想との公開討論に臨んでいるが紛,これも日

柳の反発から実現したものと思われる O西洋科学の伝播がすすむなかで,公的に須弥山説が否

定されたことによって,仏教天文学は衰退してゆく。大勢として佐田の「抵抗」はあまり力を

もつことはなかったようである。

以上,天文学者としての佐田のすがたを描いてきた。幕末期の仏教者として,佐田がキリス

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人文学報

ト教に対する護法意識を強くもっていたことはいうまでもな ~ )oとくに佐田の前半生は天文研

究に費やされており,西洋天文学への対抗という命題は,他の僧侶以上に「対西洋Jの意識を

要請したと思われるOそこから西洋を「所謂教商戦の三法」でもって侵略する勢力ととらえ,

「商」すなわち経済を視野に入れるようになったのであろう。

また岡田正彦は,幕末の仏教天文学の進展について,それが単なる護法論的立場から行われ

たわけではなく, I科学」 と し て定立 し よ う と す る方向性を も っ ていた , と重要な指摘を し て

いる。岡田によれば,学祖である円通は「西洋との対峠」というより, I実学的」 で時代の要

請に応じた新しい学問としての「仏教天文学」創始を直接の目的としており,佐田の師・環中

も論理的整合性を求める「科学」としての仏教天文学を強調していた3九佐田の場合,護法意

識から天文研究へ足を踏み入れたが,環中から仏教天文学を学び,円通の理論を保持するので

はなく,より説得力のある説明を追求した。視実等象儀を制作したのも,批判者と向き合って

論争に臨んだのも,そうした厳密さ・実証性を求める態度のあらわれであったといえるだろう。

そして,仏教天文学の「実学」志向は,世界観を扱う学問であることとあいまって,経済論へ

目を向ける広い視野を養ったとみることもできるかもしれない。

佐田にとって仏教天文学の研究は,学僧として知名度を高めることになっただけでなく,天

文にとどまらない「西洋」との対峠という,問題意識の基盤を形成する意味ももった。そして,

そのための方策をいかに説得的に訴えるか,を特に念頭において活動してゆくことになるので

ある。

第二章ランプ亡国論への道

1 経済論の出発点 一一 『教諭凡道案内』 よ り 一一

幕末期の仏教天文学研究を経た佐田が,経済ないし貿易についての専論を「外」へ向けて披

露したのは,管見のかぎり 1873 (明治 6 ) 年 1 月 が最初であ る O で はなぜ, こ の時期に経済論

を展開してゆくことになったのか。そして,それが 1880年,佐田の知名度を決定的に高めた

「ランプ亡国の戒め」を発表するまで,どのように変容していったのか32)。本章では,明治期

に入ってからの佐田自身の文脈に即して,この問題を考えることにしたい。

明治 3 (1870) 年末, 西本願寺本山は佐田に, 富山への派出を命 じ た。 富山藩では, 大参事

林太仲らを中心に,領内の寺院 313か寺を各宗 1寺,計 8寺のみに全て合併せよ,という苛烈

な排仏政策が行われようとしていた。県内の明徳寺らは同年 10月 29日,そこで生じた混乱へ

の対処を本山に訴えてきた。そこで,富山藩に対しその中止を申し入れるため,本願寺派は佐

田を派遣したのである 33)。佐田が現地でいかなる活動を行ったかは,明らかではない。だが,

それまで本願寺の学僧として研究に力を注いでいた佐田にとって,富山への派遣は排仏という

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〈奇人〉佐田介石の近代(谷川)

風当たりの強さを肌で感じるできごとであったに違いなし、。前章で考察したように,佐田はキ

リスト教という仏教の「敵」には早くから意識していたが,維新政府による神仏分離の方針が

仏教抑圧へエスカレートしているという現実を知り,大きな転機を迎えるOそこで佐田は,ま

ず社会全体の仏教への支持を回復する道を模索してゆく。このころ,浅草寺住職・唯我詔舜,

回向院住職・福田行誠ら,宗派の別なく高名な僧侶のもとに身を寄せ,交流をふかめたのもそ

の一環であったと思われる。

そんな佐田にとって,活動の道筋を決めるうえでひとつの重要なきっかけがおとずれるO明

治 5 (1 872) 年 3 月 , 神道国教化政策をすすめて き た神祇省が廃止さ れ, つ いで教部省に よ っ

て神仏合同教化政策が企図されたのであるO同年 4月には教導職制が敷かれ, I三条教則J (敬

神愛国・天理人道・皇上奉戴朝旨遵守)のスローガンのもと,全神宮・僧侶が民衆へ天皇崇拝,人

倫道徳、を説教する任(教導職)にあたるという方針が明らかにされた34)。それまで神道中心で

仏教を冷遇してきた政府が方向転換し僧侶を国家有用の存在として認知したのだ一一佐田

はこの政策を歓迎し,いちはやく反応するOこの教化活動にあたって,神宮・僧侶たち教導職

は種々の説教用テキストを書いており,そのほとんどが 1873 (明治的年以降に上梓されたも

のであるが35),佐田はすでに明治 5年 8月の段階で, r教諭凡J r教諭凡道案内」 の二冊を刊行

している。とくに後者は,三条教則を説教する教導職への心得書であり,前者の仏教教理解説

とあわせ読まれるよう書かれたものと思われるOそれだけ佐田が,民衆の仏教支持を確保した

いという希望と期待をもって,この活動に取り組もうとしたようにも受け取れるOしかし『教

諭凡道案内」の内容は,単純な教化政策礼賛ではなかった。期待と同時に,あるいは期待ゆえ

に,教化政策の限界をこのように指摘していた。

愛国トハ,之ニ就テハ大ニ心得分クヘキコトアリ…・・・中人己上ト中人己下トハ大ニソノ別

アリ。ソモソモ愛国ト申スコトハ,広ク天下国家ニ及フコトニテ,ナカナカ中人己下ノモ

ノ、思慮分別ノ届クヘキコトニアラスO中人巳下ノ愚民ハ織力一身ヲ愛シ一家ヲ愛スル迄

ノコトニテ,隣家ノコトダモ喜憂ヲ同フスルコト能ハス,マシテ況ヤ天下国家ノ広キヲヤ。

タトヒ如何ホド巧ニ説キ諭ストモ,山家猟村ナドノ賎民ハ国ヲ愛シ国ヲ憂ル理ヲ知テ国ヲ

愛シ国ヲ憂ルナド、申スコトハ,容易ニ行ハル、コ卜ニアラスO国ヲ憂へ国ヲ愛スルナド

、申スホドノ大ヒナルコトハ,実ハ是レ中人己上ノ任ナリ制。

『教諭凡道案内」が主題とするのは,三条教則のなかの「愛国J,その酒養であるOその前提

として佐田は,社会が「中人己上」と「己下」とで区別して考えるべきだという基本的な見解

を表明するOそのうえで,そもそも「中人己下」の者たちには三条教則の高尚な説教では「愛

国」など意識しえない,と画一的な教化方針へ苦言を呈し,別の方法を次のように論じる。

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人文学報

家族下女下男ニ至ルマデ,ソノ主人ノ,恩恵ノ厚キ慈愛ノ深キニ感服スルトキハ……身ヲ捨

テ死ヲ 'I昔マズ蔭日南セズ,ソノ主人危急ヲ扶クルニ至ル……延テ之ヲ一国ノ大事ニ及サハ,

一国ノコト皆然リ。天下ノ民匹夫匹婦ニ至ルマデ,天恩ノ厚キ国恩ノ重キニ感スルトキハ,

国ニ危急ノ事アルニ臨テ,倉ヲ傾ケテ財ヲ出ストモ惜マス,又粉骨砕身ノ苦労ヲイタシ,

身ヲ捨テ命ヲ描ツトモ厭ハサルニ至ルモノハ,是レ中人己下ノ愛国ナリ 3九

あたかも下女下男が, I主人ノ 恩恵」 に感服 し てそ の主人の一家を愛 し , 一身を捧げる よ う

になる,そんな感情を国家に対しても抱くということが, I中人巳下」 の 「愛国」 であ る O そ

のためには,主人が使用人に与えるごとき「恩J,すなわち「天恩J I国恩」 を人々 に感得せ し

める必要があるのだ一一佐田は,説教だけではほとんどの民衆を教化できないと見抜いてい

た。そして,天皇ないし政府が「天恩J I国恩」 の内実を備え る こ と が先決だ, と 次の課題を

も見いだすのである。

この政策の内実や自らの関わり方を洞察することで,佐田は新たな歩を踏み出した。お題目

を説教するだけで効果の薄い教化活動によってではなく,すでに行ってきた建白活動によって

「天恩J I国思」 にふ さ わ し い政策構想を訴え る こ と , そ れに専心す る こ と で仏教者と し て 「中

人巳上J I己下」 の社会全体に寄与 し う る と考え る に至 っ たのであ る 。

2 消費に よ る 「富国」 一一建白 「富国議」 か ら 「二十三題」 へ 一一

ではその「国恩」をどのように備えるべきか。これが,佐田の経済論の出発点である o 1873

(明治 6 ) 年 1 月 , 佐田 は 「富国議」 と題す る建白書38)を左院に提出す る O 題名に あ る ご と く ,

その課題設定は急務たる「富国」にあった。富国策に取り組むことで「ーニハ御国債ヲ還へシ,

二ニハ従来渡シタル貨幣ヲ取戻シ,三ニハ外国ノ貨幣ヲ取テ畜積ヲナス」紛べきであるとした

のである。多額の外債や外国への正貨流出への危機意識は,当時のさまざまな富国論にみられ

るが,佐田はその克服方法,すなわち「富国」の方法を「片時モ早ク,諸事ヲ閣テ手技製造ノ

工産ヲ興」すことに求めた。佐田はいう。従来日本の重要な輸出品であった茶や生糸といった

天然の産物では,気候にも左右されるうえ,利益は少なし 1。むしろ,人造の物品を生産するこ

とこそ重視すべきである O理由は三つある。一,たとえば綾錦の生産にあたっては,まず紡績

業が盛んになり,ついで織機製造が必要になろう。他方,染物業の需要も高まり,付随して染

料,刷毛などの製造業も繁盛する。したがって国内産業全体の振興に寄与するのである O二,

日本人の手先の器用さは「皇国固有ノ性」であり, I手技製造」 に は も っ て こ いであ る 。 視実

等象儀を製作した田中久重ら,名高い職人を三万人登用すれば,三年で国債償却は可能。三,

早期の収益が見込める O開拓では利益を得るのに 15年か 20年かかるが, I工産」 はす ぐ に利

益があがるではないか一一一

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〈奇人〉佐田介石の近代(谷}II)

三万人の職人?三年で国債償却?妙な数字が随所に登場する。その自信ありげな大きな

数字で,説得しようとするのである。どこに根拠があるのか理解しがたいが,それを追及する

のはよそう。ここでは,手工業の商品生産向上こそが「富国」につながるという, r国思」 の

内実をそうした「富国」創出にみている点をまず確認しておきたい。そして,建白書を「前件

上言仕処,経験ニ出タルニハアラスO敢テ御釆用ヲ願フトコロニアラスO 耶n赤心ヲ表スルノ

ミ J40 ) と 述べて し め く く っ て い る こ と も見逃せな ~ \ o お そ ら く 前述の危機感の表明な ど も , 護

法意識ゆえのものとひとまず解釈できるだろう。

ここから,実際の見聞を重ねて,佐田はあらためて富国論を提示することになるO 翌 1874

(明治 7 ) 年 9 月 に左院が受領 し た建白書をみてみ よ う 。

これはじつに 6万 5千字にもおよぶ,他に類をみない長大な建白書で,圧迫感さえ感じさせ

る41)。序論と 23の項目42)からなり,さらに別に図表五枚と補論まで付している。先行研究で

もまず注目されるのがこの建白書(以下「二十三題」と呼ぶ)で,くりかえし言及されている。

長文をようやく読み切ると,先の「富国議」でも見たような叙述の特徴に気づく。牧原憲夫が

佐田を「列挙魔」と呼んだように43),具体例や項目をたたみかけてゆく。だがそれらは,単な

る羅列もあれば, r風が吹けば桶屋が儲か る 」 式 と で も い う べ き論理に よ っ て, つ な げ ら れて

いる場合もあるOたとえば団子を例にとって,団子が売れる→もととなる米が売れる→米問屋

が儲かる→米小売店も儲かる→粉屋も儲かる,あるいは団子が売れれば,小豆・砂糖が売れる,

その問屋・小売店もまた儲かる,と数珠つなぎの説明をしている 44)。また図表の多用や,内田

魯庵が「数字のイリユージョンJ45)と評したような「もっともらししリ数字の枚挙なども指摘

できる。

さて,肝腎の富国論である。佐田は,状況認識として「富国議」と同じく, r今日ハ御創業

の御政事,御国債も被為在,万民塗炭の苦言語に絶したる」現状を指摘しているOその打開策

について,要点を捕捉すれば次のようになる。まず,前提として「皇国固有ノ開化」を強調す

る。これも「富国議」で少し述べてはし1るが, r二十三題」 で は, 日本 と西洋と の相違点を本

質的なものとして論じているO地理や気候のみならず,【表 2】のように,衣食住,顔かたち

から,工業製品の生産方法,通商能力,天然産物の質などにいたるまで,両者の違いを列挙し

たのである。そのうえで「文明開化」について,こう述べる。

西洋ニハ西洋ノ文明開化有り。我日本ニハ日本の文明開化有り。総体文明開化と申事ハ,

たとえハ暫ク物品の上に就て申さパ,自国固有の産物が初メ粗にして横カリしが,後之を

精にして美化する道が開けて国民に益ある処を文明開化といふへし……粗悪なる品が精美

に化し無用の品と棄たれたる品が有用に可相成道が開ケたる類を我日本の文明開化といふ

へし46)o

-71

人文学報

【表 2 】 佐田のみ る 日本 と西洋の身体的相違 (~明治建白書集成』 第 3 巻, p.926-927)

老死 智幼 成長 嘆 食 見 歯 鼻 身 眼 顔 髪

便

杢ハ十与一円 本十四五歳智一日与 本五歳一四日与嫌 穀

不能暗レ中レ見H生 通連

而短卑小又生レ於一短 黒眼 温和也

長細柔直黒

洋臭lレ シシ

時無ν歯七八月 人本日

洋人西洋 ''/ 眉は目

十四

一洋児七八歳智 ノ見 間目

歳余童lレ ノ 日

等組コ

シ 広間手/ 組 始ア 手/

遅故死是老亦晩等粗

是温和也本

生ア

粗等シ 旦

、y

シ 有

歯t~、ン〆

Jユ,ノ、,

洋人 七/歳l一 不

世洋人食レ肉スル 能車生 別通

而長大又生レ於眉両間長大 碧眼、 験 短轟l岡11 ;,曲 或

歳余 コトレ

也峻洋 シシ ン 者MHMソ 黄赤或

与十四 嫌ナ

ノ ノ ク ガ 黄瞳

洋児智如一 洋児如 洋臭 見

而繭具ラ人 或白

本六相等十日lレ ノ、

輸如

且 眉目

本五歳童円H 賦是天肉''/

見 ノ、 ノ

本十五歳智四日 海畔逐レ臭人lレ

甚狭間至細至遠 且

西:/ナ

、y

単老故死干是亦川歯無七

以=洋不式リ玉目E

相也険洋

是智早発是故シ 穀食

例知

ここで示されるのは,日本独自の「文明開化」があり,それは国産品の品質が向上する道,

そして無用なものが有用へ転化する道を聞くことだ,との認識であるOこの認識から導き出さ

れる富国の方法は, I富国議」 でみた手工業品の生産向上と い う 次元では も はやな い。 それに

つながる「道」の次元,すなわち消費に力点をおいているのであるO佐田はいう。「国ヲ富ス

ノ道ハ消費ノ法ヲ広クスルニ知クハナ、ンO消費ノ法狭ケレハ随テ制造ノ道モ随テ狭ク塞ガリ,

消費ノ道ヲ広クスレハ制作ノ道モ亦随テ広ク通ス」と 47)。物品製造の振興よりもまず,人々の

-72

く奇人〉佐田介石の近代(谷川)

物品消費力自体の向上が最大の課題であるとする見方へとシフ卜したことが, r二十三題」 の

大きな特徴である。

では消費力向上について,どこをポイントとみているのだろうか。

【図 3】をみてもらいたい。建白書のなかの付図である。佐田は,国内の金銭の流れをこの

ように把握し,なかでも三都や城下町の復興が肝要であると論じるOなぜ、か。城下町には士族

が多い。彼らはいまや戸位素餐の者として疎まれているが,消費の面では大きな存在価値があ

るOまた,造酒家,神社・寺院,医者, r俳優娼妓等ノ 遊芸遊職」 も , 人々 の消費を刺激す る

という点で同様の価値を有するO彼らもこんにち社会的に無用視されている存在だが,消費と

いう面から見れば実は有用といえるのだ一一消費の重視と,無用から有用へという「皇国固

有ノ開化」の強調。この佐田の認識からすれば,彼らの多く住む三都・城下町の復興が富国へ

の緊急課題のーと映ったのである。

加えて, r節倹」 と い う 語 も重要であ る O 佐田の考えでは, 単な る節約や倹約は 「斉雷」 に

すぎなし、。節倹とは, r己れが持前の分限相応の暮シ を致す」 こ と であ る と考えて い る 。 そ し

て,人びとの分限相応の消費活動について,次のように述べる。

貧富の別にて消費の多少異なる事ハ,たとへハ酒に上中下九品有り。到貧の者ハ下ノ下酒

drsD精

一《

Lmk併

n仲間

-m

門岡剛昂鮎At

』HHm表札主

【図 3】佐田のみる日本社会の流通構造図 cr明治建白書集成』第 3 巻, p.973)

- 73-

人文学報

を三合瓶にて求む。其次は下ノ中酒を五合瓶にて求む。其次は下ノ上酒を一升樽にて求む。

其次は……上ノ上酒を求る者ハ四斗樽何挺或ハ何十挺買入可申如此。……故に物品を消費

する事ハ万人の貧賎よりハ一人の貴人一人の富人に如カす。因て物品を消費する事ハ,富

貴貧賎の段が繁多に分カる〉に及カず制。

消費する側の暮らしぶりによって,金持ちは金持ちなりに相応の高価なものを買い,貧乏人

は貧乏なりに安物を買うべきである。そうすれば,金銭の流通のうえで当然前者のほうが重要

といえるが,それに増して貴賎の階層が細分化・固定化されることが大きな意味をもっOそれ

ぞれに相応する質・値段の品物が求められ,消費のありかたが多様になり,それが「富国」へ

の道を開くからであるO佐田はこのような論理で節倹の必要性を示す。

そしてもうひとつO正貨の海外流出を防止するという課題からすれば,西洋からの物品輸入

などもってのほか,という認識である。西洋との本質的相違をことさら強調したのも,まさに

西洋品排斥をポイントと見たからであった。具体的には,帽子,こうもり傘,ランプ,洋酒,

煉瓦造りの庁舎,役所内で用いられる椅子などの物品を挙げ,それらがいかに日本に適合せず,

害をもたらすものであるかを綾々述べている。本章の関心からすれば,この「二十三題」にお

いてはじめてランフ。の大害について言及したことはむろん注目すべきであるが,その内容につ

いては後述する。ここでは, I"消費」が「国産品の消費」を意味する点を確認しておくにとど

めたい。

以上,佐田は「二十三題」で,都会から(西洋ではなく)田舎へと国内のすみずみまで貨幣

を流通させる構造を保障すること,それが「国恩」の内実たるべきとの結論をもって天皇およ

び政府に要望49)したのであるOさらにいうなら,富裕な者から貧乏な者までを消費を軸として

つなげることで, I"中人己上J I"己下」を統合する「国家構想」をもっていたとみることができ

るのではないだろうか。この解釈は決して読み込みすぎではない。佐田はこの建白書を 1874

(明治 7 ) 年末, 三条実美 ・ 島津久光 ・ 岩倉具視の三大臣に も送付 し , 左院の返答を促すよ う

依頼しているが,その文面には次のようにある。

私儀右建白之ため昨秋以来心血を酒き相認、,早己ニ貧嚢も傾尽し,甚困却ニ立到申候へ共,

折角遥々此一事のため,故ラに上京仕己ニ三年ニ垂々とする際ニ到迄脚を留メたる事ニ候

へハ,何分御釆用の有無承り不申候而ハ帰県難仕,因而至急御釆用之有無御無沙汰被為在

候様奉懇願候5 1)。

東京にやってきて約三年(つまり明治4年末頃上京),ずっと建白「二十三題」のような課題

を考え続けてきた自分に対する政府の返答がほしい,それがないと郷里・熊本へも帰れない,

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〈奇人〉佐田介石の近代(谷川)

というのである。すでにみたように,論旨をやや異にする建白「富国議」を前年に提出してお

り,一貫して同じ富国策を論じてきたのではなく,佐田の言には矛盾が含まれてはいる。とは

いえ,明治 3年末に排仏の風潮を実地で知り,翌4年末に東京へ出て以来の思考の総決算とし

て「二十三題」を捉えているという意識もまた,含まれているといえるのではないだろうか。

ならば「二十三題」は, I中人己上J I巳下」 あ る い は 「国恩」 な どは明言さ れていな い も のの,

上のごとき「国家構想」とみてしかるべきである O

だが,この構想に対する左院の反応は,佐田が期待していたそれとは大きく異なっていた。

左院が受領したのは 1874年 9月であったが,このころから左院の建白書処理のペースは急激

に低下し,建白書を政府内の裏議に付する「上申」の件数も落ち込む一方であった5九それゆ

え佐田は三大臣にも返答を催促したのであるが,返答は結局 12月末までずれこんだ。それは,

「二十三題Jは現状を正確にとらえた部分もあるが,おおよそ維新以前の旧制度に拘泥して

「往々強詞以テ」異を唱えた論にすぎず, I左院留置」 が適当であ る , と の結論であ っ た。 つ ま

り, I上申」 も さ れな ければ, 佐田への返却 も し な い と い う , いわば 「店ざ ら し」 の憂 き 目 に

あったのであるO

3 舶来品排斥への焦点化 木戸宛建言 ・ 『栽培経済論J ・ 「 ラ ン プ亡国の戒め」 一一

しかし佐田は熊本へ帰郷せず,東京にとどまり引き続き経済論を訴えた。今度は,左院では

なく政府要人のもとに直接に建言したのであるOその相手は,参議木戸孝允であった。なぜ木

戸に宛てたのかは,長州出身者と本願寺派僧侶(島地黙雷や大洲鉄然)の親しい関係など,いく

つか推測が成り立つであろうが,佐田自身が幕末期に木戸と面会したという経験,これがひと

つの重要な理由であることは間違いあるまい。

1875(明治 8 ) 年 6 月 1 0 日 , 佐田 は木戸に宛て建言書を し た た め た。 こ の建言書で も先の

「二十三題」と同じく,消費力向上を最優先にすべきという持論を開陳している。ところが,

これには「二十三題 Jとは全く異なる意見を見いだすことができる D西洋からの輸入品を排斥

するという方針に,一定の留保をつけているのである O

或人日ク,外国ノ物品輸入ヲ禁シ,内ニ之ヲ用ヒザ、ルヤウニ厳制スルニ如カス O石〔佐田

介石一注谷川 I)日ク,未可也。ソノ所以ハ,今日斯クマデ盛大ニ洋品ヲ入レ,百戸ノ商店

八十戸マデ舶来品ヲ売リ,千戸ニシテ八百戸マデ洋品ヲ売ル。今モシ一時ニ頓ニ之ヲ止メ

ハ天下ノ疲弊尚今日ノ上ニ更ニ百倍セン問。

要するに,今は急激に舶来品の門戸を閉ざすべきではない,というのである。もっとも,こ

れにつづけて,外国製品の流入をくいとめねばますます害がひろがる,と述べているので,単

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人文学報

純に佐田の意見が急旋回したとは言えない。だが,従来描かれてきたような,徹底した舶来品

排斥論者というイメージとは,およそかけ離れた口ぶりである。この建言書に対して木戸は,

「拝謁ヲ許スニ地方会議畢ルヲ期トス」と返事した問。木戸は 1875年 6 月 20日に開会予定の

地方官会議の議長をつとめることになっており,それが終われば面会しても構わない,という

ことであった。 だが, 7 月17 日 の会議終了後 も音沙汰がな い。 し びれを き ら し た佐田 は, 7

月 29 日 に面会を催促す る書簡を送る 。 そ の文面は佐田の も の と し て は丁寧で, 簡潔な内容で

あったが,ここでも注目すべき文言を残している。「二十三題」で強調した「皇国固有ノ開化」

論が,揺らいでいるのであるO佐田は,今まで日本経済のあり方に心を砕き,その方面の思考

を鍛えてきたことを訴えかけたうえで, I長ス ル ト コ ロ ハ , 外国 ト 雛悉 ク 之 ヲ 取 リ , 我皇国 卜

雄ソノ短ナルトコロハ悉ク之ヲ捨テ,毒モ愛憎ノ私ヲ以テ法ヲ柾ゲズ,夕、や目途ヲ実効ニ取リ,

実効アルモノハ巧拙美悪ヲ論セス之ヲ採」削る,と自分の立場と意気込みを強調するOこの文

言だけをとりあげれば,当時の西洋「受容Jについてよく見られる「採長補短一|の説であり,

とりたてて珍しい論法というわけではない。だが,これは佐田の言葉である。あれほど西洋と

の相違を列挙し,強調していた人物の意見とは,にわかに信じがたい。

こうした言説の変容ぷりは,どう理解すべきだろうか。まず, I二十三題J が前年に黙殺さ

れ,自分の主張が政府にとどかなかったという経験を重視する考え方があるだろう。その主張

が政府の意には沿わない,と重々承知した佐田が,自説の一部を変更したのだ,と。 だがそれ

ならば,なぜ佐田は自説を曲げてまで経済論を訴えるのか,という疑問も依然残る。筆者は,

自説の「根幹」は曲げていなかったのであり,撤回したのは「枝葉」部分であった,そう解釈

すべきだと考える。つまり,佐田が訴えたかったのはあくまで消費力向上の一点であり, I皇

国固有ノ開化」などは変更可能な部分にすぎなかったのではないか。「二十三題」でも,民衆

の消費力向上という太い幹からすれば,西洋品輸入の否定さえ,枝葉のひとつとして扱われて

いた(もちろん,佐田が個々の具体的な物品に注視していることは,のちの展開上萌芽としては重要であ

るが)。この木戸宛建言書でも,自説を曲げたというより,肝心の部分は変わらず訴えている

とみるべきである。そしてそれを支えているのは,いうまでもなく消費を中心とした「国家構

想」への関心であった。そのことは, 1874 年に政府へ提出 さ れた と推測さ れ る建白書 「御利

益見込書」からもみてとれるOこれは,共和政体・自主自由への警戒,あるいは貿易・経済政

策の提言で,網羅的な「二十三題」とやや異なり,政府の基本的な心得を説いた建白書である。

そこで佐田は, I方今西洋 ト 交通其美政 ヲ取 リ 行 フ ニハ, 先 ツ上ノ 財権 ヲ 'I昔マ ズ解放チ公共ノ

物トスベシ」同と述べて,政府による経済活動の独占を戒めるOそして,民間から財政担当者

を抜擢するなどの方法を用いて,出費を抑制しがちな政府の財貨運用を改め,率先して消費を

さかんにするよう主張するOしかも,そうすれば西洋の新制度や政策を採用しても人々が「上

ヲ疑フコト」はない,と言い添えているのである 56)。つまり木戸への建言書と同じく,西洋の

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〈奇人〉佐田介石の近代(谷川)

政治・制度を拒むことよりも,まず自説の根幹たる消費力向上が採用されることが第一だ,と

いう発想が明らかであろう。

さらに見ておきたいのは,佐田が「自己演出Jにも神経を遣っていたという点であるO消費

力向上という主張を伝えるために,政府への建白や雑誌刊行という手段を自覚的にとっていく

ことはすでに述べた。だが佐田は,そこでの自らの意見が,どう読まれるべきなのかをアピー

ルしてもいた。「御利益意見書」には,つぎのような文言がみえる。

言路開通忌譜ナキノ盛時少々ニテモ,耳ニ逆ヒ候言論ハ其言不可用モ,其逆フ処精々御賞

揚無之テハ中以下ノ者皆粗暴ナラザレハ詣訣ト相成,議法御引立ノ実崩レ,人気類弛,百

事苛且ト可相成候,且議論ハ切瑳琢磨,事ノ至当ヲ求ル所以ニシテ何程妙論モ小庇ハ必有

之,我ニ逆候論アレパコソ琢磨シテ純然無暇ノ玉トナリ,然、ル後施行スレパ後日取調候事

ナキ様可相成候5九

今は言路洞聞の世であり,少々耳障りな採用しがたい意見が出てきても,それは賞揚せねば

ならなし凡さもなくば「中以下」の人々が粗暴な行動に出るか,単に政府に盲従するだけであ

る。反対意見を姐上にのせて議論を重ねることで,万全の方策ができるO佐田はこのように述

べて,自分の意見は耳障りであっても,議論のさい必要な「小庇」なのだ,と定位する。佐田

には,自分の見解が一見役に立たない奇論だと思われている,という自覚は十分あった。だが

それをあえて「売り物」にしてゆくことが,自分の意見に耳を傾けさせる道であることも,了

解していたのであるO以上のように考えると,佐田がかなり戦略的に言説を変化させる人物で

あったことが見えてくるであろう。「枝葉」を加除するのは,訴える対象を意識してのことで

あり,消費力向上という「根幹」が,耳に届くように注意を払ったためであった。

さて,木戸宛建言のその後である。催促にもかかわらず,木戸からの返答は一向に米ず,結

局面会は果たせずじまいであった。「二十三題」につづいて,政府要人からの反応は佐田にと

り冷淡なものでしかなかった。このころから佐田は,前章でも触れたように,自説を訴える対

象を政府以外に求めるようになってゆく。 1875年 2月,佐田は雑誌『世益新聞Jを創刊す

る問。そこに以前建白書に記した内容の大略や,実際に提出した建白書をそのまま再録するこ

とで,持論を公表していった。木戸の「無視」についても,翌年新たに創刊した『掌珍新論』

第 1 号 (1876 年 10月)に上述の建言書と書簡を掲載している。政府へ直接ものを訴えるのでは

時があかない佐田は,新たな方法を模索していったのであるD

そしてその戦略性は,訴える対象を民衆へ転換し演説活動に力を入れるようになった明治

10 年代に決定的に示 さ れ る O 佐田 の経済論の集大成, 1878(明治 11 ) 年 5 月 末に初編刊行の

『栽培経済論 j59)を検討してみよう。これは上下巻, 30 章か ら な り , 翌年に はそれを敷街 し た

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人文学報

後編も刊行されている。

『栽培経済論』における「富国」の方法は,後編第三章「富国道可必具三事論」での論述に

集約されている。そこでは三つの方法,すなわち,国産品使用・舶来品不使用・消費力向上が

挙げられており附, I二十三題」 と 同様であ る 。 木戸宛建言では, 国産品愛用およ び舶来品排

斥は「ゆらぎ」をみせていたのに対し,消費力向上という主張は「二十三題」→木戸宛建言→

『栽培経済論』と一貫しており,佐田にとってそれが最優先課題であったことは疑い得ない。

同書後編の扉に, I コ ノ 書ノ 趣意物品 ノ 製造 ヲ 後 ト シ タ ぐ消費 ヲ 先 ト ス O 故ニ消費ノ 法ニ於テ

益アルハ悉ク之レヲ取リ,タトヒ善業美術タリトモ消費ノ益ナキハ之ヲ取ラス J60と述べられ

ていることからも,それは明らかである。

だが『栽培経済論』で注目されるのは,国産品愛用・舶来品排斥がふたたび強調されただけ

でなく, I消費」 と 同 じ く , 欠 く べか ら ざ る軸の ひ と つ と な っ てい る こ と であ る 。 後編第三章

では, I三法鼎ノ 三足ノ 如 ク ー ヲ モ欠グベ カ ラ ズ。 若 シー ヲ モ欠ル ト キハ富国ノ 法立ツ ベ カ ラ

ス」と述べられている 62)oそれまで「枝葉」であったのが,三本の幹として鼎立するものとと

らえており,議論の力点がまた微妙に変化していることが読みとれるのであるOそれは, I舶

来品」の範囲の変化としても表れるO佐田は, I舶来 卜 イ へルハ西洋品ニ限ルニ ア ラ ス O 支那

印度ノ品モ舶来品ナリ。而シテ支那品ノ輸入スルコト移シ,防カスンハアルベカラズ」と注記

している 63)0 I舶来品」 は西洋品のみな ら ず, 中国 ・ イ ン ド の製品に ま で広が っ てい る O 舶来

品流入という事態を,より憂慮するようになっていたことがわかるであろう。また,この変化

は別の意味でも重要であるOそれまで,佐田は仏教天文学や排耶論に内包される「対西洋」と

いう基盤から自説を展開していた。それが木戸宛建言でゆらぎをみせ, r栽培経済論J に至 っ

て,日本/西洋ではなく,日本(産)/外国(産)を主たる観点とするようになったからであ

る 64)。

佐田はこののち,民衆へむけて自説を訴えるとき,彼らの身近にある物品へと焦点をあてて

ゆく。そして, I二十三題」 では 「枝葉」 と し て各論的に列挙さ れて い た帽子, こ う も り 傘,

ランプ,洋酒などが,以後の佐田の著述では,次々と前景に現れることとなるOそれを象徴す

る著述が, 1880(明治 13) 年 7 月 1 6 日 と 1 8 日 に 『東京日 日新聞」 に掲載さ れた投書 「 ラ ン プ

亡国の戒め」であった。これには, I富国」 と い う 直接の文言はみ ら れな い。 従来の 「幹」 で

あった消費力向上の重要性も述べられず,もっぱら舶来品排斥へ論が絞られているのである O

投書の中では,ランプが引きおこす大害として,ランプ輸入による金貨流出,行灯・ろうそ

く・種油など約 160品目の産業の壊滅,国内石油の枯渇,それにともないわずかに石油が採取

できた新潟・長野での破産続出,そして火災の頻発が挙げられ,最後に「何ゆへに世人この畏

るべきを早く止めざるそ。各々争ふて国の繁る〉を待つに似たり」と結ぼれている Oもはや,

「愛国」心の緬養や「国恩 J, I富国」 を云々 さ れ る こ と はなか っ た。 「富国」 のために消費力向

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〈奇人〉佐田介石の近代(谷)II)

上を唱え,またそのための舶来品排斥であったのが,この投書ではただ害毒を強調するのみで

あった。

以上,本章で述べたことをまとめておく。排仏の風潮にじかにふれた佐田は,仏教者として

国家および社会への参与を意識するO明治 5年の教化テキス卜執筆を契機に,人々の「愛国」

心緬養のために採るべき施策を建白書で要求するようになる。そこで消費による「国民」統合

構想が打ち出されるO舶来品排斥はその一環ではあるが,代替可能な一つの手段にすぎなかっ

た。しかし明治 10年代に訴える対象を民衆へと転換し,演説という直接的教化を行うように

なると,民衆の実践方針としての舶来品排斥へ力点をおく。そして,とりわけ身近な舶来の物

品(とりわけランプ)についての議論を前面にだしてゆく。その過程は必ずしも一直線ではな

かったし,それは他方で,佐田の思想的基盤である仏教天文学の「対西洋」という視点が,後

景に退いてゆく過程でもあったといえるであろう。

第三章舶来品排斥論のく共有〉

1 舶来品の浸透

ここでひとつの問題が浮上するO佐田はいかなる状況判断のもとに,舶来品排斥論を民衆へ

提起していったのか。つまり,自己の言説が社会に支持されうると考えたのか,ならばそれは

なぜなのか。『東京日日新聞』への投書が入選したことも,社会的支持への自信を深める一つ

の転機であったといえよう。だがより重要なのは,舶来品が排斥を訴えねばならぬほどに人々

の暮らしに浸透していたのか,そして舶来品排斥がまともに受けとめられるような思潮が存在

しえたのか,である。

前者については,周知のとおり, 1881(明治 1 4)年まで,明治前期の日本の貿易収支はー貰

して輸入超過であった。そして,佐田が排斥すべきものとして挙げる舶来品は,明治 10年代

前半においてすでに一定の資産家・上層自作農にも十分入手可能なものであった。経済史の中

西聡は,都市近郊および開港場周辺地域では,資産家のみならず自作農層も,インフレを背景

とした現金収入の上昇などにより砂糖,ランプ,石油,煽幅傘など単価の安い舶来の品物を購

入しはじめていたことを明らかにしている 65)。

そして,ランフ oの不始末による火災が頻発している,という状況認識も広がっていた。 1880

年,東京で発生した火災のうち,ランプによる失火は 437件中 20件で, I放火の疑いJ (208

件)を除けば藁灰 (46件),かまど (24件)に次ぐ第 3位であった。たしかに,決して圧倒的な

数字というわけではなかった。 だが同じ照明具の「行灯及灯明」による火災が, 1877 ,.....,1881

(明治 1 0 """ 14) 年の 5 年間で 40 件で あ っ た の に対 し て, ラ ン プ火災は同 じ 5 年間で倍以上の

98 件 も発生 し てお り 66) , 新た な火災原因と し て無視で き な い存在であ っ た と思われる o I ラ ン

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人文学報

プ亡国の戒め」が『東京日日新聞』に掲載された次の日(同年 7 月 17日付)の同紙にも,東

京・三田の牛鍋屋で発生したランフ。火災の記事が載ったばかりであった。

佐田がランプや石油などの個々の舶来品を論じるようになったのは,明治 10年代前半にお

ける自作農の購買力上昇と,それに伴う消費生活の変化に沿ったものとも言えよう。ただし,

それが同時に,消費者に舶来品の便利さが認識されてゆく過程でもあることは注意せねばなら

ない。つまり,この時期にはもちろん排斥論が高まりうる状況であったものの,逆にそれを固

隔な考え方として退ける風潮もまた広まってゆくと予想されよう。佐田の主張は,微妙な位置

にあったのである。

2 知識人 と の く共有〉 一一 日愛社の存在一一

いま一度,冒頭にあげた『東京日日新聞』の懸賞論題に戻ろう。この間いが発せられたのは,

当時その解決方法がさまざまに想定されていたからにほかならな L、。そして舶来品排斥という

佐田の議論が二等入選を果たしたのは,その議論が決して単に奇妙な発想とだけ受けとめられ

たのではなかったことを示す。

それは,当時の「知識人」たちの動向をみても,理解できる。ここではまず福沢諭吉を挙げ

よう。佐田が「栽培経済論初編』を上梓したのと同じ 1878 (明治 11 ) 年に, 福沢は 『通俗国

権論初篇』を刊行している。その第六章「国を富ます事」のなかで,こう述べているO

外国の製造品を入る〉のみにして,我国天然産の物を出すときは,我国民は製作に由て得

べき利益を失ふのみならず,ついには製作の術をも忘る〉に至る可し。警へば金巾唐綾メ

リンスの類を輸入して之を用るときは,日本人は機織の利益を失ふのみならず,遂には其

手に覚込たる芸をも忘れて,末代まで職業を失うに至る可ければ,是等の輸入品には別段

に税を掛るとか何とか,制限を付ること緊要なが九

舶来品を全く拒絶するわけではないにせよ,輸入に制限をつけるべきだと論じるのであるO

また,手技製作の技術喪失という予測を述べる点で,佐田が「欽上富国議J r二十三題」 で

述べた見解と共通することが見いだせよう。そして福沢は, r苛 も身の為を思ふて国の利を謀

らんとする輩は,内外の品を較べて執れを用るも眼前に損徳なきもの丈けは,内国品を取る様

にしたきことなり」ω)とつづ、けているO要するに,国産品使用を「通俗J,すなわち「民間婦

女子」に要求しているのであるO

このように,佐田の論じる舶来品排除の方向性は,同時期の福沢と重なり合う部分を多く有

していたが,もちろんひとり福沢のみではなし」まずその広がりを示唆するものとして, r栽

培経済論』の序文を書いた人々の存在をみておきた ~ 'o同書の初編では,井上毅(執筆当時太

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〈奇人〉佐田介石の近代(谷川)

政官大書記官),重野安縛(太政官一等編修官),栗本鋤雲(~郵便報知新聞』主筆),中村正直(東京

高等女子師範学校摂理)の四名が序文を寄せているOまた同書後編(1879 (明治 1 2) 年 9月刊行)

では,柳原前光(元老院幹事),桜井能監(内務省社寺局長)が執筆しているO若手ながら有力な

官僚や,著名な知識人が名を連ねていることがわかるだろう。もちろん,序文はその書物に

「箔をつける」という意味合いも強く,序文を書いたからといって,そのまま本文筆者との濃

いつながりを示すとはいえまい。 だが,まったく必然性のない人々が依頼されるとも考えにく

い。たとえば『郵便報知新聞』では, 1878 年5 月9 日 に早 く も栗本鋤雲の同書序文が掲載さ

れている(中村正直の序文も同 6 月 3日に)。刊行前にもかかわらず序文を発表したのは,同新聞

主筆たる栗本が単に依頼に応じただけでなく, r栽培経済論』 を積極的に評価す る が故の こ と

であるとみてよいだろう 69)o

そして井上毅も,ただの「箔つけ」で依頼され寄稿したというわけではなかった。井上の場

合,佐田と同郷・熊本出身であることもさることながら,舶来品排斥という考えも自身の見解

と重なっていた。それを端的に示すのが,井上らが結成した「舶来品排斥結社Jの存在である。

これについては,福沢『通俗国権論」にも少し触れられている。

近日,社友矢野文雄君及び其他諸有志者の発起にて,自家に用る舶来品を全く廃する欺,

又は之に限りを付けんとて,一社中を結ぽんとせり。其趣意も蓋し愛(~通俗国権論』注

谷川〕に論ずるものに異ならざる可し70)。

福沢らが設立した都市民権結社・交詞社の社員であった矢野文雄(龍渓)らが中心となって,

舶来品排斥(ないし制限)を主張する結社が, 1878 年の段階で作 られよ う と し て い たのであ る O

矢野の伝記には,より詳しく記述されている O

先生〔矢野一注谷川〕はまた,或時にはーの産業運動もやった。日本の産業が頗る幼稚で

あるがために舶来の輸入品が多く,貿易は連年輸入超過が続き,移しく正貨が流出すると

いふ心細い有様で、あったので,先生は井上毅や,小野梓や,三好退蔵等と協議を重ねて,

なるべく輸入を防止し,国民をして出来るだけ内地の製品を用ひさせる一大運動を起すべ

く,ーの協会を組織しようとした。その宣言は先生の筆に成ったものである。然るに上記

の会員は,先生の外は皆在朝の壮年若手の官員であったから…・一井上等は岩倉右府から内

諭を受けた結果(内実は某国公使から岩倉に苦情が出たので)効果を挙げるに至らなかった71)。

この伝記は昭和前期に弟子筋に当たる人物が著したものであり,確証とはいえないが,重要

な証言である。メンバーの足並みがそろわず効果をあげるに至らなかった,とされているもの

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人文学報

の,実際に結社が存在したことが予想されよう。そのメンバーの中に,井上毅の名前がみえる O

井上は,外国公使の苦情を受けた右大臣岩倉具視の干渉によって運動から手を号|し、たというが,

その経緯は不明である。さらに, r明教新誌JI 1880(明治 13)年 2月 14日付の論説「報国の志

あらん者は外国輸入品を用ふべからず」には, I曽て同志結合 し て一社を盟立 し名て 自愛社と

いふ(内閣大書記官井上毅。太政官少書記官小野梓。大蔵少書記官矢野文雄。本社〔明教社〕々長大内青

轡等その発起人たり〕社中堅く約て萄くも外国輸入に係るものは一品も之を用ふることなし」と

ある。前の史料とあわせて読むと,井上毅・小野梓・矢野文雄という面々が重なっており,同

じ結社についての言及と考えられる。とすれば,彼らに加え三好退蔵・大内青轡といった人々

を中心として,舶来品を一切用いず国産品愛用を実践および鼓吹する結社・「自愛社」が存在

したことがはっきりする Oまた, 1878 年7 月13 日付の 『読売新聞』 に も 自愛社につ いて記事

が載っている。そこではメンバーとして上記に加えて江木高遠(東京大学予備門教員),岸田吟

香(元『東京日日新聞」記者),中村正直,前島密(内務少輔),神田孝平(文部少輔)らが名を連

ね,一昨日(同年 7月 11日)に東京・日吉の共存同衆館にて会合がもたれた,と報じられてい

るO翌 1879年にも活動しているようで,小野梓の日記の同年 2月 20日条, 23 日条に も会合

を開催した旨記されている72)。残念ながら,自愛社の具体的な活動内容を知ることはできない

が,とにかく政府の有力官僚や在野の知識人が舶来品排斥という方針のもとに糾合したことを,

まず重視せねばなるまい。

では,佐田はこの自愛社とどのようなかかわりをもっていたのであろうか。それを示すのが,

1880 年5 月27 日 に長野県 ・ 上回警察署へ提出 し た答弁書であ る 。 佐田 は1880 年5 月 , コ レ

ラ予防の演説のため長野を訪れ,長野の善光寺を皮切りに,飯山,中野,小布施,須坂,松代,

上回などの町を巡回している Oそのうち同 5月 25日に別所村・安楽寺(現小県郡塩田)で演説

を行った際,政府の推奨する舶来の石炭酸による予防法や,一概に、清潔にせよという説諭方法

に対して疑問を呈した。それが政府への誹誘に当たるとして,上田署に拘引され二週間ほど取

り調べをうけることになったのである。その際の答弁書で,佐田は次のように述べた。

〔大輔〕

宮内ノ大輔万里小路通房,内務ノ大丞前島密,内閣ノ大書記官井上毅,大蔵ノ少書記官矢

野文雄,正院ノ少書記官小野梓,元老院ノ議官神田孝平等斥洋社(洋品ヲ斥ケル社ナリ)ト

イヘル一昨年社ヲ設ケ,尚又当年ソノ社名ヲ自愛社ト改メ舶来品ヲ用ヒサル結社ニ相成リ,

専ラ輸入品ヲ減スルコトニ尽力ニ及ハル、 m

佐田の見解では, 1878 年に出来た結社の名称は最初 「斥洋社」 で, 1880 年に な っ て 自愛社

と改めた,というのである。すでに見たとおり,自愛社の名は 1 878年に新聞紙上でも出てい

るので,佐田の言は正確ではな ~ \oだが,この「不正確」は重要である。なぜなら,佐田が白

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〈奇人〉佐田介石の近代(谷川)

愛社には参加していなかったことを示唆しているからであるOそれは同時に,佐田が直接関与

しないところで舶来品排斥論が広く共有されていることを物語っているOもっとも,上に挙げ

た面々と接する機会も,少なからずあったようであるO井上毅,中村正直らに『栽培経済論』

序文の執筆を依頼している以外にも,たとえば 1880年 2月には,三田演説会において「経済

論J (1 4 日 ) , r富国三法J (28 日 ) と い う 論題で演壇に立 っ てい る 74) 。 いずれにせよ , 佐田 は 自

らの説が受容されうる状況にあると了解していたのである O

以上より, r栽培経済論』 を刊行 し た 1878 年前後にお いて, 舶来品排斥と い う 方向性自体は,

福沢や井上毅をはじめとする官僚や知識人,ジャーナリストのあいだで幅広く存在していたこ

とがわかる。してみれば,彼らとの思想的交差や「すれ違いJ,そして当時の財政指導者であ

る井上馨や大隈重信の見解との比較検討が,つぎに深めるべき論点になると思われるが,それ

は別に稿を用意せねばなるまし、。だが少なくとも,佐田が舶来品排斥を精力的に説いて回った

点だけをもって, r奇人」 と は言えな い こ と は理解で き る であ ろ う 。

第四章演説と結社

1 演説の実相 新聞 ・ 雑誌記事よ り 一一一

本章では,佐田の演説,および結社の実相を探ってみたい。聴衆による直接的な証言が之し

いので,新聞や雑誌の記事群を集積して,おおまかな様子を析出する方法をとることにする。

佐田の演説に関する記事は,管見の限りでは, 1878 年3 月17 日 , 東京浅草 ・ 伝法院で行わ

れたのを報じた『明教新誌Jが最初である。この演説は 19日まで 3日間連続で行われ,初日

には小石川・伝通院,上野・寛永寺の貫主をはじめ,高橋泥舟や三遊亭円朝らがその門弟を引

き連れて来るなど,聴衆は会場いっぱいに集まった。そこで行われたのは,前年に再度製作し

た視実等象儀の展覧と解説であった問。

これ以後,佐田は各地へおもむき演説活動を展開してゆく。【表 3】には,大新聞および仏

教系新聞の記事を中心に,演説の実施状況を示した。まず開催地であるが,主として東京,京

都,大阪で,前章に挙げた【図 3】で見たように,消費の中心地・三都を重要視していること

がわかるO東京を起点にいくども京阪へ足を運び,その経路である東海道沿いの各地や,群馬,

千葉,長野でも実施している。ほとんどの場合,佐田がひとりで演説したようであるO会場は,

支持者の商店舗・自宅や,三田演説館,小学校,女子手芸学校などのケースもあるが,最も多

いのは寺院であった。目下判明する分では,大方が宗派立学校を含めた寺院での開催であった。

また 1880 (明治 1 3) 年 11 月 28 日正午か ら大阪 ・ 西区の千代崎学校で行われた演説では, 聴聞

希望者に対して傍聴牌,すなわち整理札が,近隣の世話人宅で配られていたという問。

もっとも,【表 3】で挙げた実施状況は,実際の回数よりかなり少ないと思われる o 1881 年

- 83

人文学報

【表 3 】 佐田の演説開催 一新聞 ・ 雑誌記事よ り 一 (I )

年!日付 i開催地:会場!内容:備考!出典

11年3 月17-19 日 ;東京 ・ 浅草 ;伝法院 (天台宗大 ;視実等象儀講演 :高橋泥舟 ・ 三遊亭円朝 i明教1 1. 3.20 付

教支院)ら門人連れ来場!5日 i7~ょ-19 邑 :東京 涙章 一 一 一 一 一 一 浅草寺丙天面京天7福美一等象議同 一一一 一 一一 輯野1 1. 5.9 什

教院 I地不動説」5~ ---'---'~東京一;曹洞宗専門本校 7仏教天文学園有種山の招請 7浅野i:i : 57

(5-8 月 J 神蚕nf -'---~本覚寺:キリスト教 I新副聴衆約 2, 000瓦錆木町略伝 i6 r~ '

i 旧 と も ) を痛罵 j 目黒某 ら3名の妨害(未i

i遂)

7天文 :師範学校生徒が地域平7 朝野 1" i : 'Ei. ' 2'Z 付[面説に疑義,返答に窮す J

!日野Ll iffi張所一一一一福実等象儀じり縦覧「一一一一一一一一一一一一一明教 ' iTEi.-Ei討

および講演

「真言宗天教院 j視実写象議ゐ縦覧嗣教 iTEi'.-Ei付および講演

;立世阿昆曇論;白:曹洞宗専門校助教師の 7明教 iTEi . 24 村一一(月行品,老子二千;招請(西有穆山か)

i年眼

8 月3 日 ;千葉 曹洞宗中一教院 !等豪儀展覧 ・ 講演:岡県の八宗派の 合議7明教1 1. 7.18 ,(日蓮宗は不同意) 7. 24付

8Jj_____'__,諸府県一一一一天 X ·, i経済一一一一一一一躍何一一一一一一一;浅野, p 貯9 月18 日 頃 (東 海道近辺各府県 巡阿 ;伸知録 p. 4 ,

-11月 (東京~京阪, 長野 明教1 1. 12.12 付,

!など)朝野 12. 3. 28付

12 年 6月 (中旬f-'~ 愛知 ー 名 占屋 の ち大垣, 岐阜を経て7報知 也5.21 付

i京阪へ。 聴衆は 「移 し ::く参集 J

:':'::'i'i~:l~j~f: 二二!群馬正面積二二 二二二二 :二二二二 二二 : 3 画面 二二二二:聞知;録',P ,有 一 一 一 一 一12 月10-14 日 ;東京 ・ 浅草 ;伝法院 (天台宗大 伝法院の招請 明教12. 12.10 付

教支院)i3 年 t月 1 ' ;':': ' 5-6 -i 東京 ・ '# 場面j" -"--,福出会育児院三選亭両朝の演説と両 7読売 以 C2'7村

時開催 1t月14 日 (東京 ー 三国 一 ;三出演説語 J経済論j -'-'---,第 1 45同三出演説会;三白演説日記第 2号-2"~語 Ef U__: 東京一 三回 三由演説信一一 一 一 一 一 - ' J言国三語了 一 一 (第i46同三回演説云;雨i三白通一説司記議2号

:J11彦次郎「富国一法アル(

(ノミ」演説の予定も抹消!

7仏教説法お L瓦 u·天 「西福寺徒弟白石pt ;じめ7明教 i'3: '2''- 2'4 付!文経済の演説 1招請 1

天台・真言・浄土・曹 i伸知録 p. 0洞有志の招請 1

:善光寺 (5日間),飯飯出は小布施の誤り明教 1 3. 7 . 1 0付,

!山忠恩寺,中野法か。聴衆は-[n1の演説j伸知録 p. 43

運寺,飯田玄照寺で 34,000 -数万

須坂浄念寺,松代

長明寺,塩崎天用

寺, r. 出 芳 泉寺 ・

大輪寺,日IJ所安楽 J

寺等

5JJZZ;':':Z5 白 :長野 ・ IJ、県郡 一 経済; 天動説 一 一 可申知諒p:38

T虎列刺病ノ 事」

J栽培経済 天輪寺岩井超元; 刷所村7伸知録 p. i sI富国強兵」 安楽寺若林祥麟の招請 i

I経済論」 お よ びI政体誹誘」 の廉で i伸知録 p. 0,25,28,i虎列刺予防説諭 ; 回署に拘引 (-6月 9 日 ) ~朝野 1 3. 6 . 6 付,

i 明教 1 3 . 7 . 1 0 付

6 月 rCB --'-,長野 ~::;J\県郡刷新柑!安秦主二二二二二二二二雨量oj録, p, 49,6 月 1 3 日 (長野 ・ 日出村 :弥勅寺 貞祥寺鈴木正光の招請!伸知録 p. 50

7月 i 出 東示 ・ 浅草 :伝法院 (天台宗元7視渠等象儀講演 明教 1"3:'7'.'8 什教支院)

8 月i;':':ii 白 「京都 「真宗夫呑派 正等普 I立世願昆曇論ム 「聴衆は2回 入~'2EiO 岩 o 闘導'i:f8.i6 , zEi付i通教校 I 日 月行品J 渥美契縁 ・ 細川千巌 もi

j 出席

8j=j '(下両 r - ':長者~-' ---'-'----:真宗大呑派七等書!須弥 w説, I千 ;\ 正等普通教校生徒有志7開導 i'3:'8:' 2"6 付

1通教校 (疑問J 1 0 名余の招請 !

I天動地静J 説 ・ ; 大朝 1 3. 11.14 付

栽培経済論

l 四天王寺 大朝 1 3. 1 1. 14 付

6 月 1 2 日 ;神奈川 ・ 伊勢山

-qu-no

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6 月

2 月29 日 ;埼玉 ・ 厳 ; 旧区務所

-3 月2 日 :

4 月 ー ー 「長野 ー 佐久

5 月-6 月 :長野

5 月24B 長野 . IJ\県郡 一上田両!大輪寺

6月25B ''--,長野一小県郡迫iIM村'1長渠寺

10-11月 頃 京都

11月13-白 白 民阪

- 84

く 奇人 ) 佐田 介 石の近代 ( 谷川 け

[ 表 3] 佐田の演説開催 ―新聞・雑誌記事より― (2) 年 日 付 開催地 会場 内容 備 考 出 典

大朝 13 ・ 11 ・ 20 付 「 天経惑 間日月行

11 月頃 滋賀・彦根

十 2 月 io 」 l 寸 -; 大阪 " , 主津寺両 " … "" 大福 院 ; 天動 " 説 ,経済論な ,天朝 丁 3;"i2.-7" 付 ; 大日 13.12 ・ 8 付

斗 月末 頃 が数十人 両教 14 ・ 1 ・ 20 付 干教正閨 無学 方摺華 "

' 金地 院 7 月 :20 日 京都・ 南 禅寺

集会条例抵触の 廉 で解 散命令

10 月 7 ― 8 日 ・三重・ 律寺 町 四 来寺 ; 法教 "1"4 ・ 山 li" 付 10 月 (9 ― 10 日 ・三重・ 津寺町 天然 寺

IO 片 il 口 … " 三重・ 葎 茶屋 両 " 四天主手

15 年 1 月 ;22 口 東京・両国 中 村楼 13 付

"'L@ 15. G.Jig'^

聞 』,問答 … 『栽培経済問答 新誌 』,浅野 … 浅野前掲 書 ,をそれぞれ 略。

ム 85 -

人文学報

5 月下旬か ら6 月 にかけて, 佐田 は京都でほぼ毎 日演説を行 っ てい る が, そ の典拠と な る記録

は「法教雑誌』という新聞(月 6回刊行)の報道であるOこれは西本願寺派の系列(法教社)新

聞であり,自宗派を中心lこ,仏教関係記事を中心に載せている。したがって佐田の,ことに京

都で行われている演説の情報は,他の新聞よりも刻々把握して報じている可能性が高いのであ

る。また, r東京日 日新聞J 1882 年3 月29 日付で は, r 目今は神田区内ニ毎夜二 ヶ所位ゐかけ

持ニ歩行,例の舶来品用ゆべからずの説を懇ろニ訓さる」とあるように,一晩のうちに二か所

で開催する場合もあり,佐田の実際の演説頻度ははるかに高いことが予想される。大新聞や仏

教系の新聞以外に,地方紙まで目配りすれば,より正確な実施状況が明らかになると思われる

が77),【表 3】はそこまで至っておらず,だいたいの傾向を示すにとどまっている O

つぎに聴衆であるが,新聞記事を完全に集積したとしても,聴衆の階層などを特定すること

は,なかなか困難と思われる。というのも,聴衆人数や著名な人物の来聴が報じられることも

まれで,たいていの記事は「聴聞人影しく参集する J78)と触れるだけである。もちろん,演説

の実施方法などに着目すれば,ある程度の推測もできるかもしれない。佐田の演説は,支持者

の招請をうけて行われる場合が少なくな l)。その招請者は,大半が僧侶であった。よって,聴

衆は彼らの檀家がひとつの中心をなしていた,といってよいだろう。だが,その宗派などは特

定できない。 1878 (明治 1 1) 年 8 月 に千葉県で実施さ れた演説の場合, 同県曹洞宗中教院の招

きで行われたが,これは県内の天台・真言・浄土・臨済・曹洞・日蓮宗妙満寺派の各宗寺院の

決議によるものであった(評議には真宗・時宗も参加)79)。 さ き に触れた, 1880 年5 月 に長野で

行ったコレラ予防演説も,天台・真言・浄土・曹洞四宗僧侶有志の依頼をうけて出向いている

し 80),東京でも各宗の寺院で演説を行っているO何々宗の檀家が主たる聴衆であった,という

ような全体的傾向を析出することは難しいのであるOしかも佐田自身, 1879 年末 ごろ に真宗

本願寺派から天台宗へと転宗してもいる8九むしろ,宗派にこだわらず有志の招きに応じて赴

いた,点こそみるべきであろう。

演説内容に日をうっすと,やはり天文論と舶来品排斥を中心とした経済論が圧倒的に多いこ

とがわかる。 1 880年 12月 10日の大阪・三津寺町大福院における演説開催について, r大坂 日

報』は「又々例の得意の天動説経済説杯を説教さる、よし」と報知している(同 12月 8日付)。

はじめに紹介した 1 882年 1月 13日付『東京日日新聞Jの「例の輸入品防逼説Jといった表現

は,実は各紙でひんぱんに登場しているのである 82)。会場による内容の偏りは特にはみられな

いが, 1880 年4'"'"'6 月 の コ レ ラ 予防演説は長野の ほかに はな く , 特殊な例 と いえ る 。 た だ,

そこでも話題はコレラにとどまらず,舶来品排斥へと移っていったようである。更級郡網掛

村・大井常吉なる人物は,商売の年間収益 500円のうち 100円を舶来品の購入に充てるという

家則を立てていたが,佐田の演説に接すると一転してそれを改めた83)。つまり,コレラ予防演

説を聴きにきたつもりが,いつのまにか内容が経済論に変わっていったのであるOこの事例だ

86-

〈奇人〉佐田介石の近代(谷川)

けで,演説の内容はすべて舶来品排斥へと収赦していく,と単純に把握することは慎まねばな

らないが,建白書の叙述様式にみられるように,佐田の議論は話題が中心から外れて別の課題,

ことに演説では舶来品排斥へ転じてゆく傾向があったのではないだろうか。

2 結社の形成 一一三部の場合一一

こうした演説の結果, Iは じ め に」 で も述べた よ う な , 舶来品排斥論を支持す る結社が各地

に形成されていった。【表 4】に挙げた各結社の創設には,たいていの場合佐田自身が深く関

与していた。佐田は演説先で地元の支持者たちと協議し,結社の命名や,結成に際しての趣意

書・運営の基本的規則などの作成を,中心となって行ったのであるO本庄栄治郎はこうした結

社について, I演説を聴いて感動 し た者が, そ の場で直ち に舶来品排斥に賛成 し た と い う 程度

のものでありJ,会則を作り会員を糾合して強固な団結をなしたというものではなかった,と

【表 4】佐田を支持する結社 cr明教新誌J r栽培経済問答新誌J r朝野新聞J r大阪毎日新聞J r伸知録」

『略伝J r彦根市史 下巻』 よ り 作成)

年代 場所 結社 介石 結社の動き

13 年5 月下旬 長野北部 憂国社 。 寺院 700 ~800

13 年7 月 頃 長野県更級郡 佐田社 ラ 長野県更級郡網掛村の大井常吉が同志を募集

13 年10 月 頃 金沢 愛国社 ラ『栽培経済論」に触発された舶来品不用論者

たち

13 年11 月 中旬頃 大阪 保国社 。難波月江院の岡大愚らが尽力。「愛国有志の

輩」入社相次ぐ

13 年12 月末 彦根 報国社 ラ 佐田の演説に影響うけた商人結成

13 年秋~冬 滋賀県蒲生郡 共憂社 。

// 滋賀県滋賀郡 護国社 。

/ノ 滋賀県坂田郡・浅井郡 博済社 。

/ノ 岐阜 済急、社 。

// 愛知 輔国社 。

/〆 三重 魁益社 。

// 尼崎・徳島・岩国・島根 保国分社 ム

浅田宗伯,大内青轡へ相談。桜井能監,福田

14 年1 月 東京 観光社 。 行誠,新居日薩,唯我詔舜,釈雲照,黒田清

紙矢野文雄,小野梓ら入社

六波羅蜜寺玉井豊如ら。呉服商下村大丸,六

14 年6 月下旬頃 京都 六益社 。 益社入社を乞い,そのうえ出入りの者 850名

にも佐田の説を強く勧奨

14 年11 月 中福知山・宮津・綾部・与

六益分社 ム 玉井豊如の巡回謝郡

15 年1 月上旬頃 益田 里仁社 ラ

15 年1 月 東京 曳尾社 。

15 年3 月 桐生・足利・品崎 観光分社 。 群馬県下よりの招請を受けて,岡県を巡回

15 年10 月 頃 長野中南部 報国社 。 筑摩郡など 4郡を巡回

16 年4 月 頃 新潟 富国本社 ム

※「介石 l の項は, 佐田の関与に よ り 設立 し た も のを0, そ の結社が設立 し た も のを6., 関与 し て い な い も のを × と し た。

- 87

人文学報

述べているが84),その評価の根拠は明らかではない。いずれにせよ,支持者の広がりを考える

場合,結社の存在は注目に値するであろう。それらの活動の様子を,三都に出来た結社を事例

にみてみよう。

三都のうち最初に結成されたのは, rは じ め に」 で も挙げた, 大阪の保国社であ る O 保国社

は,佐田が大阪へ演説にやってきた 1880 (明治 1 3) 年秋, 11 月 中旬に結成さ れてい る O 結成

に当たっては,佐田の支持者である難波・月江院(曹洞宗)住職の岡大愚の尽力によるところ

が大きかったという刷。岡らの周旋もあって支持者が結集され,尼崎,徳島,島根,岩国と

いった遠方にも,同年末までに分社が結成されていった船。佐田は翌年春に京都で連日演説し

ていたが, 6 月11 日 に は大阪へ足を運び, 尼崎の分社と と も に巡察 し てい る 87)。 こ う し た巡

察を佐田自身が行うことによって,保国社はしだいに組織をかためていったようである o 1881

(明治 14) 年 5 月現在で, 社員数は じつ に 54 ,625 名 にのぼ っ た。 こ の こ ろ , 社員の う ち特別有

志者 80名を選出,彼らを構成員として会議を聞き,社則・永続方法を議決したほか,大阪府

下に 80か所の分社をおき,演説者を巡回させる方針も立てたという 88)。また保国社では,結

成時に結社の趣意書である「同盟帳緒言 Jを作成している。そこでは,日本の総人口約 3, 800

万人が一人当たり毎日 2厘 7毛ず、つ舶来品を消費するとすれば,日本の正貨 3, 800万円が海外

へ流出してしまう,と警告したあとで,こう述べている O

如此金貨の外国へ濫りに出る,たぜ一年限りのことにあらず。年々際限なく我日本の利潤

を失ふに至りては,安ぞ我国の金貨尽ざらんや。然るに金貨はこれ国の魂なり。魂抜け去

らば安ぞ国の命亡びざらんや……今日の困窮は,これ困窮の初めにて,真の困窮は今日よ

り始る故に,終にこの困窮の極るや,放火盗賊縦横に興り,切り取り窃盗いたすもの道路

に充満,強きもの怒に暴行し,弱きものは山野に倒れ臥し,終に盗み取るべき品物尽き,

而して後各々殺害を行ひ,互に人の肉を割き噸ふ程の憂目を見る世の中に至る……その原

因ーとして舶来品の所為ならざるはなし 89)。

今日は舶来品のせいで「国の魂」が抜かれた状態であり,やがて放火や窃盗,殺人など真の

困窮を招くことになる。そこで諸悪の根源である舶来品をうちすて,ことごとく日本品にせよ,

という実践がうたわれるのである Oおそらく演説でも,佐田はこのように恐怖心をあおる文言

を織り交ぜて,舶来品の排斥を訴えたのであろう。

ついで 188 1 (明治 14) 年 1 月 , 佐田は東京に観光社を結成 し , 同 1 5 日 か ら 1 9 日 にかけて,

浅草・伝法院にて結成記念の演説を行った。大阪や滋賀では結社が次々と結成されているのに,

東京では未だ結社もなく人びとは「因循困難」の状態にある,そういった思いから,佐田が漢

方医浅田宗伯や大内青轡らと協力して結成したものであった附 oこの観光社には新居日薩,福

- 88-

〈奇人〉佐田介石の近代(谷川)

田行誠,釈雲照らの高名な僧侶が入社した。そして,桜井能監,矢野文雄,小野梓らも社員と

して名を連ねた91)。彼らは前章で見たとおり, r栽培経済論」 の序文寄稿者お よ び自愛社の中

心メンバーであり,佐田の考えに共鳴する人びとであった。自愛社が結成された 1878年から

3 年が経過 しで も , 依然 と し て著名な官僚 ・ 知識人のあ いだで佐田 と意見を共有す る者は存在

していたのである。ちょうど結成のころ,佐田は小野梓邸を訪問して直接会っているが92),こ

れも観光社についての意見交換であったかもしれない。さらに 1 882年 3月には,群馬でも高

崎・桐生・足利の三か所に分社が結成された93)o

さて,観光社の活動としては,他の結社同じく舶来品排斥を実践してゆくとともに,その一

環である代用品の生産・販売が重要であった94)。なかでも代表的なのは,ランプの代用品とし

て,佐田が河野龍渓なる人物とともに発明した「観光灯」であるOこれは舶来品である石油の

かわりに種油を用いた照明器具であるが,【図 4】をみるとわかるように,ランプを模したも

【図 4】観光灯(家庭用) Cf社会経済史学」 第 9 巻第 2 号, 1939 よ り )

- 89-

人文学報

のであった。『栽培経済問答新誌J (188 1 年 1 2 月創刊) に数号にわた っ て掲載さ れた 「 日本製国

益品広告」では,正貨流出を防ぐ点,石油より明るい点,石油の光線は目に害がある点などが

列挙されており,大・中・小,上・中・下95)と種類も取り揃え販売していたようである制。佐

田はすでに前年から,その生産には着手していた。 1880 (明治 13) 年 7 月 13 日 に は, 滞在先

の京都から「栽培経済問答新誌」の編集長であった清水純崎97)に宛てて書簡を送っている。そ

こには, r新発明之種油相用ひて之 ラ ン プ」 を 1 0 個ばか り 東京へ送 り , それを と く に有志の者

へ折々披露するよう手配しておいた,と述べられている 98)。この新発明のランプが,観光灯に

あたると考えられるO先ほどの「国益品広告」にも「観光灯製造の時,柳かぶりきを用ひたれ

ども,これハ全く職工の失策なれハ,諸君請ふ,深く笹むること勿れ,其後製造に係るものハ

事もぶりきを用ひ不申候J99)と添書きがあるので,おそらく最初は舶来のブリキを用いたもの

であったのを,その後東京で有志の声をとりいれて改良をほどこしたものと合わせて,観光社

を起点に大いに売り出そうとしたものと思われる O

もうひとつ, 1881(明治 14) 年 6 月 頃に は京都で六益社が結成さ れた。 京都では, 前年に も

聖光寺神阿・大原寺園辺によって,大阪保国社のごとき結社の設立が企図されたが,資金の都

合で断念していた。だが翌年 1月には,大阪保国社の岡大愚や京都の玉樹遊楽らがふたたび結

社結成に動き出した 100)。そして,春に京都へやって来た佐田と連携して結成したのが六益社

であった。その資金の面では,地元の古い豪商たちの支援によって克服したようで,とくに呉

服商大丸の下村惣太郎は,出入りの者ら約 850名とともに入社したという 101)。六益社には,

結成した直後からこのような入社希望者が殺到し,同年 8月にはすでに社員は 5万を数え

た刷。また,六波羅密寺住職・玉井豊如ら中心的な社員は,京都の市中で舶来品排斥演説を

行ったほか問),京都府下の郡部を巡回して演説を行い,その先で分社を結成している。さら

に,観光社同様,国産のランプ・偏幅傘といった代用品発明も手がけている。三条通東洞院の

太物商・日下部某を窓口として,舶来品を用いている地域へ代用品を輸送し,説諭の上交換す

るという運動も行っていた 104)o

以上三つの結社の事例から,佐田が民衆へ接近するひとつのすがたが見えてくる Oそれは,

自説を多くの見知らぬ人びとに訴える演説家というよりも,自分の支持者を結社に囲い込み,

確保するために出張するという,オルガナイザーとしてのすがたである。その過程で(とくに

明治 1 3 年以降の) 佐田 は, 支持者のなかに身を置 く こ と が必然的に多 く な っ てゆ き , い っ そ う

彼らの実践活動にかかわる部分に関心を注ぐことになっていったと考えられる。それが,具体

的な物品への焦点化であった。代用品の発明・販売も,その文脈から出てきた活動ともいえる

だろう。第二章で明らかにした, r栽培経済論』 か ら 「 ラ ン プ亡国の戒め」 への変化は, ま さ

にこうした支持者との接近が大きな要因となって生じたものであった。

そして,代用品の発明は,ある意味で舶来品の「受容」にほかならない。国産品であろうと,

- 90

〈奇人〉佐田介石の近代(谷}I I )

ランプや偏幅傘を生産することは,佐田自身がそれらの便利さを無意識のうちに認めていたた

めであった。それを端的に示すエピソードがある。 1881年 7月 1日,佐田は演説のため大阪

から京都へ向かった。ところが急いでいたためか,こともあろうに鉄道に乗って入洛してしま

う。その夜本能寺で行われた演説において,下京の舶来品問屋の手代から,汽車か人力車か船

か,どのような手段で京都に来たのかと問われた。佐田はそこで汽車を用いたと正直に答えた

のである。すると手代は「成程如何ニも汽車は便利ですナァ」と語りかけ,それにも「左様」

と返してしまった。その後は手代がここぞとばかりに舶来品の利点を堂々と述べ,佐田は完全

にやりこめられる格好となり,黙り込んだというのである 105)。舶来品排斥を訴えるために,

「舶来品の鉄塊」を利用してしまったこの事件は,佐田の軌跡がただ「西洋化」を拒む過程で

あったわけではないことを,如実に物語っているO舶来のランプから行灯へ回帰するのではな

く,まさにランプを受容するひとつの「西洋化」の過程にあったのである。

3 佐田 「受容」 の諸相 一一金沢 ・ 彦根 ・ 益田の結社をめ ぐ っ て 一一

これら佐田が直接関与した結社以外にも,佐田の影響を受けて成立した結社も少なからず存

在した。そうした結社は,単に佐田の支持者の広がりを物語るだけでなく,佐田の舶来品排斥

論が人びとにどう受容・消化されたのかについて,示唆を与えてくれる O

『大阪朝日新聞」によると, 1880(明治 1 3) 年 10 月 頃に石川県 ・ 金沢では, 有志者の協議に

よって結社・愛国社が設立され,舶来品を用いない活動方針が立てられようとしていた。そこ

で定められつつある規則のなかでは,輸出入の不均衡による正貨流出がわが国財政の疲弊の根

源であり,それを解決するにはこれ以上理論を重ねても遅い,各自がなるだけ国産品を用いる

という実践こそが必要だ,との認識が示されているという。このことを新聞社に報知してきた

人物は,制作途中の規則の内容を知っているので,おそらく愛国社内部の者であると推測され

るOその人物は, I夫等の項目 は彼佐田介石氏が著述せ られ し栽培経済論 と云ふ書籍に就て,

其の趣意を玩味し玉は Y自ら富国強兵の基ゐともならん」という意見を述べていた 10 6)。つま

り, r栽培経済論』 に学び, 舶来品排斥 ・ 国産品愛用の実践が 「富国強兵」 につ ながる と の見

解をもっていた人物が,金沢愛国社に参与していたことになる。この愛国社においては,佐田

の総論的著作が,舶来品排斥という実践のもととなる理論を提供していた。逆にいうなら,佐

田が示した「富国」構想が,実践方法とともに受容されていたことを示しているであろう。

だが,こうした佐田の構想の「すなおな」受容とは異なる事例もみえる o 1880(明治 13) 年

冬,佐田は滋賀県・彦根で演説を行った。その直後,演説に共感した彦根の商人たちを中心に,

結社・報国社が設立された 10 7)。活動の眼目はもちろん舶来品排斥にあったが,その規約には

興味深い項目が立てられた。舶来品を五種類に区別し,それぞれに排斥の度合いを分けること

を提唱したのである。

91

人文学報

《第 l種》断然購求不可。既に買った物も売却または破棄。

(洋酒,洋食,洋装,懐中時計,帽子,偏幅傘,靴,西洋紙など 18品目)

《第 2種》新調不可。既に買った物はしばらく使用可。

(客席用台ランプ,褒賞品用ガラス類,舶来製金物,掛時計,寒暖計など 10品目)

《第 3種» I中等以上ノ 者」 は断然排斥, 日本製の絹 ・ 麻 ・ 木綿等織物を充用。 「下等ノ 者ニ

シテ一家多人数」の場合は舶来品でもやむを得ず可。

(金巾木綿,羅紗など 4品目)

《第 4種》しばらくは使用可。精々注意して自国品購求すべき。

(洋糸混じりの日本製織物,中国産砂糖を用いた日本製菓子)

《第 5種》不可欠ゆえ使用可。舶来製購求不可,かわりに自国製の代用品使用。

(ランプ,石炭拍,商店に用いるガラスなど 4品目)※ただし石油は5JIJ I 08)。

そして,結社に 12年の年限を定め,その存続は 12年後あらためて考える,としたのである O

たしかに,大阪保国社の「同盟帳緒言」においても, I当分の内, 従前在 り 来 り の洋品を用ひ

ると,或は即今改むるとの両様は,各自の適宜たるべき事」という但し書きが末尾に添えられ

てはいる 109)。だが,報国社規則のような段階的実践という方法は,どの著作にも出てこない。

報国社の舶来品排斥は,佐田の著作にあらわれた構想からはみでる形で行われたといえるで

あろう。「富国」という構想を云々するよりも,まず目前の問題としてある社員の実践を具体

的に示すことが,報国社にとっては重要事であった。彼らは佐田の影響を,理論的背景や構想

から受けたというよりも,かけ声や実践の次元で受容したという側面が色濃いのであるOそれ

は佐田の側からいえば,演説内容自体を変化させてゆき,聴衆の期待する個別具体的なことが

らへ論を焦点化していったことを示す。演説した直後にこのような結社ができるのは,まさに

佐田の演説が具体的な排斥実践に焦点を絞っていたからであって,報国社の規則はそれを忠実

に反映しているのだ,という説明も成り立つであろう。

また, 1882 年初頭, 島根県の益田において設立さ れた結社 ・ 里仁社を紹介す る 「朝野新聞』

の記事も,佐田が著作から遊離して受容されていることを示している O

石州美濃郡益田本郷ニて近来有志者が結合して里仁社とし、ふを設立し,入社するもの日増

ニ多しとのことなるが,矢張り佐田介石翁の主義を遵奉したるものか,節倹を主とし飽ま

で舶来品を掻斥し,且つ宗旨の信仰ハ各自の随意たるべしといへども神仏の外ハ信仰すべ

からずとの盟約なりといふ110)。

島根には,前述のとおり京都六益社の分社はできていたものの,県西部の益田にまで佐田が

直接演説に赴いたという記録はない。しかし,金沢(愛国社)と同様に佐田が訪れていない士

- 92-

〈奇人〉佐田介石の近代(谷]I I )

地でも舶来品排斥結社がつくられており,その結社が佐田の「主義を遵奉」したものと見なさ

れていることがわかるO佐田の影響がやはり全国的なものであったことを示す記事といえるが,

重要なのは,いかなる「主義を遵奉」したのかを述べた後半部分である。

おそらく記事の書き手は,里仁社の舶来品排斥とキリスト教信仰禁止という項目をとらえて,

これは佐田介石の考えだ,とその影響力を認識しているようである。だが,ことはそう単純で

はな L、。第二章でみたように,佐田は「二十三題」のなかで、「節倹Jの必要性を強調していた

が,そこでは消費活動の抑制ではなく,分相応な消費を行えという意味に力点を置いていた。

ところがこの記事での「節倹」は,舶来品をあくまで買わないという実践と結び、ついており,

単に消費を抑える方向でのみ用いられている。したがって,この結社は佐田の影響を全く受け

ていない可能性もあり,記者の勇み足にすぎない,という見方も可能ではある。だが逆にいえ

ば,人びとの佐田「受容」は,消費抑制・舶来品排斥・キリスト教排除という主張にあらわれ

る,とする見方が広く存在していたとも考えられるのではないだろうか。人々にまとまった構

想や眼目を正確に理解されたからというより,さまざまに「曲解」される余地があったことに

こそ,佐田が「時の人」となった理由を見るべきであろう。

いずれにせよ,演説を精力的に行い,結社が成立してゆくにつれて,佐田は国内消費力向上

による「富国」構想から遊離するようなかたちで,あるいは実践面を重視されるかたちで,受

容されていったのである。

以上,演説の実態,および、結社について述べてきた。 1878年以降,佐田の演説は三都をは

じめ各地で支持者を生んでいった。支持者たちは結社をつくったが,それには佐田自身が関与

する場合も多く,いわば彼らの「囲い込み」を行っていった。それは決して,佐田の持論で

あった消費による「中人以上/以下」の「国民」統合構想が,各地に広まるという過程ではな

かった。むしろ,支持者たちはもっぱら具体的な舶来品排斥実践に関心を寄せた。彦根の事例

に明らかなように,人びとは佐田の演説を柔軟にうけとめ,自分たちの都合にひきつけ受容し

たのである。

本稿では,佐田の「戦略性」を強調してきた。しかし,身近な物品への注目や具体的実践か

ら,ふたたび根幹にある構想の理解へ人びとを導く,という戦略まで立てていたのだろうか。

その点は,大いに疑問がある。たしかに明治ゼロ年代,自説が容れられないうちは,その再検

討や戦略的な工夫も行ってきた。だが皮肉にも,明治 10年代以降,演説によって人びとに受

容されるようになると,そうした戦略性は影をひそめてし、く。演壇から熱っぽく自説を訴えか

け,聴衆から熱狂的な支持を得るにつれ,それを自己目的化していった。それが,佐田の最晩

年におけるすがたであった 111)。

-93-

人文学報

おわりに

周知のとおり, 1882(明治 1 5) 年, 日本の貿易収支は出超に転 じ , ま た松方デ フ レ に よ る紙

幣整理により,農村を中心に国内消費力は急激に低下する O自説の論拠となる状況が変化し,

舶来品排斥論の説得力が失われつつあるなかで,佐田は死ぬ間際まで支持者を組織するため演

説に奔走し,同年 12 月 9日,出張先の上越高田で 65歳の生涯を終える O

佐田という人物を,いかに把握すべきだろうか。本稿で描いた佐田のすがたは,僧侶・仏教

天文学者として培った素地が,経済論を訴えるさいにどう反映されてゆくか,という視点から

とらえることができる。佐田は仏教天文学の研究によって,他の僧侶以上に包括的な「対西

洋」意識をもつことになった。経済論へと視野を広げえたのも,その素地ゆえであった。しか

し経済論者としての佐田は,舶来品排斥論を展開させてゆくにつれて,単なる西洋への反発に

とどまらない変容 (I舶来品」の範囲拡大,代用品という「西洋」受容)を示してゆく。それは同時

に,培ったもうひとつの素地一一いかに説得的に自説を訴えるかという,その戦略的意識が,

消費を軸とした「国民 J統合構想からランプ排斥実践へと,自説を嬢小化させてゆく過程でも

あっ fこO

もちろん,佐田を通じて明治初期の諸相をかいま見る,という視点から位置づけることも可

能であろう。第三章で述べた舶来品排斥論の広がり以外に,主張を世に訴える伝達手段が複合

化してゆくという様相が見いだせる。すなわち,個人建白が大きな位置を占めた明治ゼロ年代

から,演説・新聞・雑誌・結社・連名建白・学塾などを駆使する時代を迎える 10年代へとい

う変化は,佐田の行動に典型的に示されているのである Oこうした「新しい政治文化」の形成

は民権運動の文脈で指摘されてきたが 1 12),佐田は民権運動と直接関わりのない人物であり,

当時の風潮としてより広く理解することができょう。

また,近代仏教の方向性という問題を考えるときにも,浮かび上がることがらがある。明治

初年の仏教者は,社会における仏教「無用」視の顕在化に直面して,その克服という課題に取

り組むことになる。佐田の行動は,明治 10年代におけるその取り組みがいかなるものだった

かを示唆している。この時期は,大教院を中心とする神仏合同教化という万針が崩れ,仏教各

宗が独自に教院制をしいて組織強化を図り,近代教団として自立してゆく過渡期としてとらえ

られる 1 1 3)。だが,各地の僧侶たちは,宗派を越えて佐田に演説を依頼した。佐田もそれに応

え,さまざまな宗派の僧侶に招かれ,教理説教に天文学や舶来品排斥論を結び、つけ演説した。

これは,彼らが宗派単位で組織される客体であるだけでなく,上記の課題克服の方法を主体的

に模索していたことを物語っている Oそして,佐田のような宗派にとらわれない行動は,既成

教団に対するひとつの批判のあり方としても把握できる Oその点では,清沢満之の精神主義運

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〈奇人〉佐田介石の近代(谷川)

動をはじめとする,日清戦後の多様な仏教者の意識・動向も視野におさめつつ言説を位置づ、け

るべきであろう。

佐田をのちの時代につながる存在として位置づける場合,先行研究では,明治 20年代のナ

ショナリズム勃興,具体的には政教社114)や鳥尾小弥太,谷干城ら 11 5)との連関などが示唆され

てきた。しかし佐田は,おそらくそれにとどまらない,明治初期の社会のありように対して多

様な見方を喚起する存在であると思われる。大漬徹也は,明治 10年代を「日本の民衆が非常

に流動的な状況のなかで,さまざまなところに組織されていっているときであった」であると

述べているOそれは農談会の組織化,キリスト教会や仏教系教会・講社の増加などにみられる

が,そうした「組織化の時代」を象徴する存在として,佐田の演説活動を意義づけている 1則。

きわめて重要な把握である。

最後に,佐田に付されてきた「奇人」という言葉がもっ意味について,述べておきたい。森

銑三は,天保期に「寛政三奇人J (高山彦九郎・林子平・蒲生君平)の呼称、が成立しており,幕末

には「奇人」の語はく奇勝なる人),つまり他と異なりすぐれた人という意味で把握されてい

たと述べる 11 7)。また,佐田と親交の厚かった福田行誠は, r肥後の人な り 豪道学を好む, 等象

儀を造る,著書数部あり,国事のために志を尽す,一奇人なり」と評している 1 18)。一方で,

佐田を批判する側の文言として, 1882 年7 月 に発表さ れた論説 「佐田介石和尚能ク 聴ケ」 で

は,佐田を「北向キナル者J r変物J r奇物J と い う 語を用 いて批判 し てい る l則。 つ ま り , 少

なくとも佐田が死ぬ 1882年前後まで, r奇」 と い う 言葉は くす ぐれた , 殊勝な〉 と い う 意味で

も,今日よく使われるく異様な,珍妙な〉の意味でも用いられていたのであるOそれを後世の

者が吟味せず, r変人」 的な意味合いを こ めた見方を踏襲 し , イ メ ー ジが増幅 し てい っ たため

に, r佐田 =奇人」 と い う レ ッ テ ルにつ なが っ たのだ と いえ る か も し れな い。 も っ と も , そ れ

を安易に研究者の責にのみ帰してしまうのは慎まねばならない。第二章でも指摘したように,

佐田自身がく珍妙な〉存在と目されるよう「自己演出」した側面もあるのだから。佐田にとっ

て「奇人」というレッテルは,迷惑なものでもあり, r望む と こ ろ」 で も あ る , と い う べ き か

もしれない。

本稿は経済論と行動の「変化」を中心に,佐田像を描こうとしたものであるOもとより考察

を深めるべき個所は多々残っており,散漫な試論の域を出ていない。ただ,微妙に揺れ動き随

所に矛盾を示すその言説や行動は, r結局00な存在だ っ た」 と位置づけ ら れ る こ と を拒むか

のようでもある。そこで本稿ではあえて,佐田をより広い歴史的文脈のなかに厳密に位置づけ

る作業をせず120),今後の研究のおおまかな論点を示すにとどめた。だが少なくとも, r奇人」

というショウケースにとじこめておいては見えなかった,佐田のそうした動態を照射すること

はできたのではないかと思う。

- 95-

人文学報

1)佐田の寄稿文は『東京日日新聞J 1877(明治 10 )年 8月 1 0 .......14, 16.......18 日付に掲載。

2) 同前, 1877 年8 月10 日付。

3) 奇峰樵者 「佐田介石師J (I 明治崎人伝J r文芸倶楽部』 定期増刊号 (第 1 2 巻第 6 号) , 1906,

pp.140-141) 。

4) 内田魯庵 「額の舌J (r 内田魯庵全集』 補巻 2 , ゆ ま に書房, 1987) p.26 。 原典は 『読売新

聞J 1920 年6 月4 日付。

5) こ の記事につ いて , 1七万余人」 と い う 文言を演説聴衆の延べ人数と みて, 誇張 しす ぎてい る ,

と断じてはならないだろう。吟味すべき筒所が二つある。第一に, 1昨今」 がいつなのか。 佐田

はこの 188 1 (明治 14)年末から翌年 1月には東京で雑誌『栽培経済問答新誌」の創刊に取り組

んでいるので,大阪にいるとは考えられな l 'oだが 1881年 3月末から 8月ごろに京都・大阪を

演説して廻ったという記録が残っており,それが時期的に最も近い。よって「昨年来」ととる

べきであろう。とはいえ,京都での演説が大半であったため, 1七万余人」 と い う 数字を 「昨

今」の演説の聴衆動員数と見るのは,無理がある。一方,後に述べるように,佐田を支持する

結社・保国社が 1880年 11月に作られており,翌年 5月には 5万名を超える社員を擁していた。

この記事までの半年あまりの聞に,社員が「七万余人」にまで増加したというならば,決して

この数字は誇張とはいえないのではないか。つまり, 1881 年半ばに大阪で演説 し た結果, な お

佐田の支持者が増えつづ、けているという状況こそ読み取るべきなのである。

6) そ の牽引車のひ と つ と な っ たの は, 明治文化研究会であ っ た。 そ の代表的人物のひ と り , 吉

野作造は「佐田介石著述目録並解題」を発表している (r国家学会雑誌』第 43巻第 11号, 1929,

pp.87-117) 。 ま た木村泰賢 「佐田介石氏の視実等象論 (ー) J (r 新旧時代』 第 3 年度 1 月号,

1927) に も , 1本誌が明治文化史のー材料と して佐田介石氏の関す る事共を記載す る と いふので,

私には視実等象儀に就て書くやう吉野博士からの注文である」という記述があり (pp. 52-53) ,

吉野作造を拠点として佐田研究に火がついていったことがうかがえる。

7) 浅野に よ る佐田の研究論文は数多い。 「明治初年の舶来品排撃運動J (~無尽通信』第 10巻第

2 ・3 ・5 号, 1933) を皮切 り に, 翌年に は 『明治初年の愛国僧佐田介石J (東方書院, 1934)

を刊行している。これを一つの到達点として,以後も補遺的なエッセイの発表,史料紹介を精

力的に行っている O浅野は同書のなかで, 1佐田介石全集」 を近 く 刊行す る予定であ る と述べて

おり (p. 55),書翰などの一次史料の集積につとめていたようであるが,結局全集の刊行は実

現することなく終わった。

8)浅野前掲『明治初年の愛国僧佐田介石J pp.1-20

9) 本庄栄治郎 「佐田介石の研究J (r 日本経済思想史研究」 増補版下, 日本評論社, 1966, pp.

265-314。 初版は1942) 。

10) 衣笠安喜 「開化期の伝統主義者たち J (林屋辰三郎編『文明開化の研究』岩波書店, 1979),

大漬徹也「反耶蘇教運動とリパイパルJ (大漬『明治キリスト教会史の研究」吉川弘文館,第 2

章第 2節, 1979) , 柏原祐泉 「佐田介石の仏教経済論 一一近代におけ る封建仏教の倒錯 一一一」

(~仏教史学研究」第 27巻第 1号, 1984) , 牧原憲夫 「徴兵制か士族兵制かJ (牧原『明治七年の

大論争」日本経済評論社,第 2章, 1990) , 奥武則 「開化 と迷蒙の はざ ま で 一一佐田介石の こ

と J (奥『文明開化と民衆』新評論, 1993) 。

11) 柏原祐泉は, 明治初年の言説を分析 し その変化に注視 し てい る ほぼ唯一の論者であ り , そ

の点は高く評価したい。だが柏原は,佐田に封建仏教からの脱皮の萌芽と,その挫折をみてい

- 96

〈奇人〉佐田介石の近代(谷}I I )

るが,挫折の要因を佐田の「奇人」性に求めている(柏原前掲「佐田介石の仏教経済論J pp.

19-20) 。 こ の点では, r奇人」 の レ ッ テ ルを相対化す る よ う な再解釈と はほ ど遠い と いわざ る

を得ない。

12) r明治建白書集成』 第 3 巻, p.9250

13) 1877 C明治 10 ) 年 9 月 24 日付の 『読売新聞』 に は 「浅草森下町の桃林寺に寄留の佐田介石

といふ人」とあり, r栽培経済論』 奥付に も 「東京浅草森下町五十五番地桃林寺同居」 と記さ れ

ている cr明治文化全集』第 15巻思想篇,日本評論社, 1929, p.308) 。

14) 長野憂国社編 『伸知録J 非売品, p.12。

15) r明教新誌J 1880 年7 月20 日付 「寄書」 欄。

16) r助字襲」 巻 8 奥付。 ま た , 同書末尾に は, r実字噴き』 を上中下各 4 巻, r虚字襲」 を全 30 巻

で「追刻」すると付記されている。

17) 浅野研真 「佐田介石の建白 に就てJ cr 明治文化研究』 第 3 輯, 1934), p.1040

18) 浅野研真 「佐田介石建白集 (ー) J cr伝記』 第 2 巻 1 0 号, 1935, p.143) 。

19) ただ し 明治 3 年執筆と推測さ れ る , r窃試」 と題 し た長文の意見書が横浜市立大学附属図書

館に残されている。これは「本邦最後の党暦家」とされる僧侶・工藤康海の旧蔵書で(同図書

館編『党暦蒐書目録 J 1969 , 参照) , 管見の限 り 同図書館にのみ現存す る 。 内容は, 維新政府の

政策に対して「定則 J r封建郡県J r兵制J r椿幣J r耶蘇」 な ど 11 項目 につ いて提言を行っ た も

のである Oその冒頭に, r肥後国飽田郡小島村 等象斎介石」 の名で上表文が書かれてい る が,

実際に政府へ送付したかどうかは不明である。

20) r明治建白書集成』 第 4 巻, p.4370

2 1) 同前, p.441。

22) 佐田 の天文論につ いて簡潔に ま と め た も の と し て は, 木村泰賢 「佐田介石氏の視実等象論」

cr宗教研究』 新第 l 巻第 2 号, 1925) 参照。

23) 日本にお け る地動説の導入につ いて は, 渡辺敏夫 『近世日本天文学史 (上) J c恒星社厚生閣,

1986)pp.265-285, を参照。

24) 岡田正彦 「忘れ ら れた 「仏教天文学」 一党暦運動と 「近代J -Jcr宗教 と社会」 第 7 号,

2001)pp.72-79 。

25) 本書は, 竜谷大学大宮図書館に写本で残 っ てい る 。 『鎚地球説略」 を批判す る勝聞道人著 『護

法新論』を入手した門人島村七五三八が,佐田に同書の記述について問いかけ,佐田が逐一反

駁してゆくという形式で叙述されている。よって,少なくとも『護法新論』が刊行された慶応

3 (1 867)年のあとに書かれたことがわかる。

26) 本書は, 横浜市立大学附属図書館に, 注19) で触れた工藤康海が筆写 し た写本と し て残 っ て

いる(1936 C昭和 1 1) 年 11 月 1 9 日 に筆写済)。

27) r明治九年 島根県歴史 政治部J cr 府県史料」 国立公文書館所蔵, 本稿では雄松堂マ イ ク ロ

フィルム版参照)明治 9年 8月 18日条。この口達のきっかけとなったのは, 1876C明治 8 ) 年

11 月 の, 京都 ・ 勧修寺住職釈雲照 ら に よ る 島根県巡回説教であ っ た。 雲照は, 岡県下での説教

のさい,フランス人 L・ c・ボンヌが著した『泰西勧善訓蒙 J C箕作麟祥訳) の内容を非難 し た。

この本は当時全国の小学校で口授科などの教科書として広く用いられていた。雲照にとって,

キリスト教の天主を奉じる「敬天」を説く同書が子どもに教え込まれている状況は,由々しき

事態と思われたのである。そして,同書には地動説も紹介されており,それについても須弥山

説を堅持する立場から否定的な態度を示した。島根県庁はこの点を問題視し,雲照を県政,こ

-97-

人文学報

とに学校教育を妨げる存在とみて糾弾し,最終的には説教差し止めという命令を下すに至った

(翌年 3月)。これをうけて,教部省は須弥山説説教禁止令を口達したのである。この過程につ

いては「明治九年島根県歴史政治部J,および『明教新誌」第 276 -282 号, 1876 年4 月26

日 """ 5月 8日イ寸。

28) ~朝野新聞 J 1878 年6 月22 日付。

29) ~七一雑報 J 1880 年10 月29 日付。

30) ~大坂日報 J 1880 年11 月20 日付。

3 1) 岡田前掲 「忘れ られた 「仏教天文学JJ pp.75-79 。

32) た だ し 『世益新聞』 第9 号 (1876 年8 月 ) に は, すでに 「 ラ ン プの戒め」 と題 し た論説があ

る。その論旨にはのちの「ランプ亡国の戒め」と大きな変化はないが,本稿では佐田の経済論

全体において主軸となる構想をトレースすることに眼目を置いており, 1876 年当時に は ま だ ラ

ンプなど個々の物品は前景に押し出されてはいない,と把握しているので, I枝葉」 部分 と し て

一旦捨象したし」むしろ, 1880 年に な っ てか ら , わ ざわ ざあ ら ためて新聞に投書す る と い う 行

動をこそ重視すべきと考える O

33) ~龍谷大学三百五十年史』史料編第 2巻, 1989, pp.656-6570

34) こ の政策につ いて は多角的な研究がすすめ ら れてい る 。 最近の も の と し て, 谷川穣 「教部省

教化政策の転回と挫折一「教育と宗教の分離」を中心として-J cr史林』 第 83 巻第 6 号, 2000),

小川原正道「大教院の一考察J cr 日本歴史」 第 640 号, 200 1) な どがあ る 。

35) 現存する説教用テ キ ス ト の存在につ いては, 河野省三 「明治初年の教化運動J cr国学院大学

紀要』第 1号, 1932) , 大林正昭 「教導職に よ っ てな さ れた公民教育につ いてJ c~広島大学教育

学部紀要」第 l部,第 32号, 1985) な どで明 らかに さ れてい る 。

36) r明治仏教思想資料集成』 第 2 巻, 同朋舎出版, 1980, p.2840

37) 同前, pp.284-2850

38) r明治建白書集成」 第 2 巻, pp.375-3770

39) 同前, p.376。

40) 同前, p.3770

41) ~明治建白書集成』第 3巻, pp.922-9770

42) 順に , 文明開化, 改暦, 洋席, 断髪, 服制, 学問, 和洋婚姻, 養獣, 備米, 立礼, 富国強兵

ノ次序(以上上巻),煉化石,鉄道,造幣寮,楕幣,自主自由,租税,開墾山林(以上中巻),

旧藩士進退,人材登庸,兵制,富国方法,城市存亡(以上下巻)。同前 p. 9250

43) 牧原前掲 「徴兵制か士族兵制かJ p.670

44) r明治建白書集成』 第 3 巻, p.9470

45) 内田前掲 「額の舌J p.360

46) r明治建白書集成J 第 3 巻, p.9310

47) 同前, p.923。

48) 同前, pp.962-9630

49) I二十三題」 の序文に は, I皇帝陛下ノ 親覧 ヲ経テ聖断 ヲ 乞 ヒ 奉 ラ ン ト 欲ス 」 と言い添え ら れ

ている。同前, p.9240

50) r鹿児島県史料 玉里島津家史料J 8 , 鹿児島県歴史資料セ ン タ ー繁明館, 1995, p.790

5 1) 牧原前掲書 『明治七年の大論争J pp.173-181 参照。

52) ~明治仏教思想資料集成』第 4巻, 1980, p.408 。

98

く奇人〉佐田介石の近代(谷川)

53) 同前, p.4120

54) 同前, pp.412-413。

55) 前掲 『玉里島津家史料J 8 , p.ll00

56) 同前。

57) 同前, p.l08。

58) 浅野研真は, IW世益新聞』 の初めの諸号に於け る論文の執筆者名は種々 あ る が, すべて は介

石の筆になるものと云って良からう J (浅野前掲書, p.13) と述べてい る が, 真偽の ほ どは確

かではない。だが,主たる論説がのちに佐田の著作に転載されていることから,佐田の文章が

多いとは言えるだろう。ちなみに,のちに東洋社会党を設立した樽井藤吉も,この『世益新聞』

発行に携わっている。

59) W明治文化全集』 第 1 5 巻, 日本評論社, 1929, pp.309-4100

60) 同前, p.3570

6 1) 同前, p.3530

62) 同前, p.3570

63) 同前。

64) 佐田の中国に対す る見方を示す も の と し て , 1874(明治 7 )年 9月の建白「清国不可討之議」

が挙げられる。これは台湾出兵と,それに端を発し清国との戦争へ発展する事態を非とする論

で,大義を失すること,日本国内が疲弊し混乱していること,そして小国たる日本が大国たる

清国には結局勝てないことなどを,纏々述べている。だが,清国への敬意らしきものはそこに

は見出せない (W明治建白書集成』第 3巻, pp.876-88 1) 。

65) 中西聡 「文明開化と民衆生活J (W 日本経済史 1 幕末維新期』 東京大学出版会, 2000) pp.

237-2710

66) 以上の統計は, 1883 年11 月刊 「内務省統計書」 上巻の 「東京府下火災ノ 原由」 よ り (大 日

方純夫・勝田政治・我部政男編『内務省年報・報告書』別巻 1 ,三一書房, 1984, pp.77-80) 。

67) 福沢諭吉 『通俗国権論 初篇J (W福沢諭吉全集』 第 4 巻, 岩波書店, 1959), p.6320

68) 同前, p.6330

69) W郵便報知新聞』 において 『栽培経済論 初編」 刊行が報 じ られた記事をみ る と , 消費力向上

を優先せよという主張を「実に未発の奇論てあります」と評している(1 878年 5月 31日付)。

70) 福沢 『通俗国権論 初篇J, p.6330

7 1) 小栗又一 『龍渓矢野文雄君伝」 大阪毎日新聞社, 1930, p.1200

72) W小野梓全集』 第 5 巻, 早稲田大学出版部, 1982, p.336 。 ま た同3 月15 日条に も , I中村

〔敬宇〕・三好〔退蔵〕と会し,終に井上毅を訪ふ。自愛社のことを談ぜんが為め也」とある

(同 p. 336) 。

73) 1880(明治 13) 5 月27 日 , 上田警察署宛。 長野憂国社前掲 『伸知録J p.3 。

74) W三田演説日記』 第 2 号 (松崎欣一 『三田演説会資料』 慶応通信, 1991, p.143) 。 な お , 14 ・

28 両 日 は 「聴衆満堂」 であ っ た と特記さ れてお り , と く に14 日 は佐田の熱弁が過ぎたためで

あろうか,次に予定されていた福沢の演説が時間の都合上中止になったという。

75) W明教新誌J 1878 年3 月20 日付。

76) W大阪朝日新聞J 1880 年11 月27 日付。

77) た と えば, 1881 年10 月 の 『伊勢新聞」 では, 同月7 日 か ら10 日 にかけて 「大講義佐田介石

説教」が行われるという広告を掲載し ( 7 --- 9日付), 13 日付の紙面に は小学校の休校と佐田

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人文学報

の演説開催とのかかわりを示唆する記事が出ている。

78) r郵便報知新聞J 1879 年5 月21 日付。

79) r明教新誌J 1878 年7 月24 日付。

80) r伸知録』 序文。

81) r略伝J 10 丁裏, お よ び 『明教新誌J 1880 年2 月4 日付。

82) r大阪朝 日新聞J 1882 年6 月11 日付の記事に至 っ て は, r彼佐田介石師ハ此程再び来坂せ ら

れ一昨九日より法善寺に於て例の説を講ぜらる」とあり,人びとにとってもはや佐田の話の内

容は周知のこととなっていたのである。

83) r伸知録J p.44 。 こ のの ち も大井の舶来品排斥への関心は高ま っ た よ う で, 同年夏 ごろ に は,

結社を結成すべく同志を募った。結社の名は,ずばり「佐田社」であった。『明教新誌 J 1880

年 8月 2日付。

84) 本庄栄治郎前掲論文, p.306 。

85) r大阪朝 日新聞J 1880 年12 月5 日付, お よ び 『明教新誌J 1880 年11 月22 日付。

86) r明教新誌J 1881 年1 月10 日付。

87) ri法教雑誌J 1881 年6 月21 日付。

88) r明教新誌J 1881 年6 月16 日付。

89) 本庄栄治郎 「佐田介石の舶来品排斥の思想と運動J cr 経済論叢J 27 巻5 号, 1928)pp.161

1620

90) r明教新誌J 1881 年1 月10 日付, お よ び同12 日付。

91) r明教新誌J 1881 年1 月12 日付, お よ び 『両教雑誌J 1881 年3 月26 日付。

92) r小野梓全集」 第 5 巻, p.346 , 1881 年1 月24 日条。 ま た , 同 l 月29 日 に は佐白書簡を受け

取り,返事を書いている(同 p. 346)。

93) r略伝J 12 丁裏。

94) 観光灯以外に, シ ャ ボ ン , レ モ ン , 偏幅傘の代用品 と してそれぞれ 「都々ーあ ら ひ粉J r名物

みかん糖 J r観光傘」 な どが作 ら れた よ う であ る 。 代用品の発明につ いて は, 浅野前掲書, pp.

34-370

95) 1881 年12 月上旬 ごろ , 観光灯は東京府よ り 発売免許を取得す る 。 値段は上等12 円, 中等6

円,下等 2円 50銭であった。『開導新聞 J 1881 年12 月19 日付。

96) r栽培経済問答新誌』 第 17 号, 1882 , 扉広告。

97) 清水純崎 (時太郎) は元幕臣で, 人足寄場奉行 もっ と めた (小川恭一編 『寛政譜以降旗本家

百科事典』第 3巻,東洋書林, 1997, p.137 1) 。 そ の任務に あ っ た慶応2 (1866) 年, 清水は

寄場南端に常夜灯を築いている。これは寄場で絞りとった種油での収益金を充当した灯台で

あった。佐田との出会いや交流のほどは詳らかではないが,こうした行動が佐田と気脈を通じ

る糸口であったことは確かであろう。

98) 浅野前掲書, 扉写真。

99) 同注96) 。

100) r両教雑誌J 1881 年1 月 10 日付。

101) r大阪朝 日新聞J 1881 年7 月8 日付。 も っ と も大丸の場合, 佐田が出向いて演説 し たい と 申

し入れたところ謝絶されたという記事もある cr大阪新報 J 1881 年6 月21 日付, 本庄前掲論文

p.3 1O ) 。 真偽の ほ どは と も か く , 必ず し も全員が納得 し て入社 し た と い う わ けではなか っ た と

思われる。

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〈奇人〉佐田介石の近代(谷川)

102) ~明教新誌 J 1881 年8 月20 日付。

103) 玉井は1881 年10 月17 日 に長寺町 ・ 勝円寺にて舶来品排斥演説を行っ てい る 。 それを報 じ た

『開導新聞』では,佐田にも劣らぬ達弁である,と評されている(同年 10月 29日付)。

104) ~開導新聞 J 1881 年9 月9 日付。

105) ~朝野新聞 J 1881 年7 月7 日付。

106) ~大阪朝日新聞 J 1880 年10 月20 日付。

107) ~彦根市史』下巻, 1987, pp.153-1540

108) 同前, pp.154-157。

109) 本庄栄治郎 「佐田介石の舶来品排斥の思想と運動J (~経済論叢J 27 巻5 号, 1928)p.1610

110) ~朝野新聞 J 1882 年1 月20 日付。

111) 最晩年の佐田を照 ら し 出す も う ひ と つ の視角 と し て, 門人養成につ い て述べてお き た い。

1878 年7 月 ごろ , 佐田の門人に よ っ て私塾 ・ 枕流社が設立さ れてい る 。 こ れ は仏教天文学と経

論を講義する仏教塾で,諸人の入社を許可し,月謝を寄宿生 2円,通学生 25銭と定めていた

(~明教新誌 J 1878 年7 月18 日付) 。 ただ, こ の枕流社に対す る佐田の関わ り かたや, 具体的な

門人養成のありょうも,明らかではない。この時点ですでに門人が存在することを確認しうる

のみである。その後, 1882 年8 月 に は, ~略伝』の著者仁藤巨寛や成田固頑(この名! )ら門

人たちが協議し,佐田に学林の設立を進言したうえ,その学林の教頭就任をも要請した。佐田

が教頭になれば,当然単に仏教の専門的な教理を授けることにとどまらず,佐田自身の考え方

を生徒たちに説くことになるであろう。仁藤らの意図はそこにあり,思想、の継承を期待しての

要請であったと思われる Oだが佐田は,演説で忙しいことを理由にそれを断わり,かわりに上

野寒松院(曹洞宗)住職・多国孝泉を推薦する(~明教新誌 J 1883 年12 月4 日付)。 同 じ こ ろ ,

佐田は前年末創刊の通信講座的な雑誌『栽培経済問答新誌」を休刊した。佐田はこれを「筆教」

と位置づけていたが,その「問答」に対する熱意を失っていたのである。最晩年の佐田は,問

答をもって自説をねばり強く理解させ,発展・継承をはかるという「教育」への関心が薄かっ

た,少なくとも持続的に関心をもちえなかったといえる O天文学の研究成果を世に問うさいに

は,批判者との論争もいとわなかった佐田が,舶来品排斥を訴えるうちにその姿勢を失って

いったのである。

なお,佐田の死から一年ほど経過した 1884年 1月 15日,門人たちは私塾・持海学林を設立

している O講師は多国孝泉(~四教儀集註 J ~古事記」講義),清水純崎(~春秋左氏伝 J ~日本政

記』講義)であった。規則では,教師 I名(任期 l年)の招鴨,学監 2名,寮監 l名の在学生

による選挙, 3 年の修学年限な どが定め ら れ, 第3 条に は 「都て就学者は偏幅傘, 洋帽, 襟巻,

廻合羽,指輪,屈漉帯等を用ゆるを禁す」と注記された。そして同 3月に置かれた「等外学課 J

では, I 日月行品J I須弥山疑問弁」 な どが講義課目 と し て挙げ られた。 も っ と も , 仔海学林で

の教育の実態やその後の推移については詳らかで、はない(以上, ~明教新誌 J 1884 年1 月16 日 ,

18 日 , 3 月2 日付) 。

112) た と えば稲田雅洋 『自 由民権の文化史J (筑摩書房, 2000) は, 民権運動を新聞 と演説に よ っ

て担われた運動ととらえ,その諸相を論じている。

113) 近代的 「 自治」 的教団形成につ いて は, 羽賀祥二 『明治維新 と宗教』 筑摩書房, 1994 , 第5

章などを参照。

114) 中野目徹 『政教社の研究」 思文閤出版, 1993, pp.101-1020

115) 衣笠安喜前掲論文, p.5380

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人文学報

116) 大漬徹也 「近代日本のキ リ ス ト 教J C国学院大学日本文化研究所編 『近代化と宗教ブー ム 』 同

朋社出版, 1990)p.1440

117) 森銑三 「寛政三奇人ノ 称呼J CW伝記』 第 7 巻第 6 号, 1940) 。

118) 福田行誠 「結縁録J CW行誠上人全集』 下巻, 東光社, 1906)p.2170

119) 荒川鮎之助 「佐田介石和尚能ク 聴ケ J CW東京輿論新誌」 第 88 号, 1882 年7 月22 日付) 。

120) 藤田貞一郎は, 佐田の経済論の位置づけにつ いて展望 し てい る 。 すなわち , 本庄栄治郎のよ

うに佐田を欧化反対の思想と限定するのではなく,山片幡桃と同様,内需中心型の自生的国民

経済構想、の系譜上に位置づけ,開放体系に立つ経済構想との路線対立の角度から考察する必要

がある,と述べる(藤田『国益思想の系譜と展開』清文堂出版, 1998, p.353) 。 こ う し た経済

思想の系譜へ位置づけるという視座も,多角的な佐田研究には有益といえる。だが筆者は,佐

田の思想の総体的把握という観点からすれば,中野目徹が鋭く指摘するように,仏教天文学と

経済論との「内的連関」をときほぐすことがより重要な課題であろうと考えている(中野目前

掲書, p.10 1) 。

※なお本稿執筆にあたり,落合弘樹,黒岩康博,鈴木伸治,平良聡弘,塚本明の各氏より,佐田に

関する未見史料およびその閲覧に関して,種々ご教示賜った。末筆ながら記して謝意を表したい。

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