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伝 家 六 習 で 九 本 隊 は 稿 は る う イ ど か 目 の か は じ 本 。 …archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DB/0045/DB00450R119.pdf · 四 年 に か け て

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和歌山藩の兵制改革とカール・ケッペン

依里子

〔抄

録〕

和歌山藩では慶応二年から明治四年にかけて西洋式軍隊導入を

目標とした兵制改革が行われた。特に明治二〜四年には、ドイツ

からお雇い外国人を複数人雇用し、実際に徴兵制が施行されるな

ど他藩が行った兵制改革と比べると特異性が目立つ。軍隊はプロ

イセン式に統一され、弾丸や軍服の製造が行われていた。このよ

うな和歌山藩の兵制改革は、後の明治陸軍に影響を与えたとされ

る。本

稿では、特に最初のお雇い外国人カール・ケッペン(C

arl

Josep

h Wilhelm

Koppen

一八三三〜一九〇七)と、和歌山藩

において施行された徴兵制を中心に考察する。その中でも当事者

や目撃者である、ケッペンの日記やドイツのヘルタ号乗員の見聞

録、村方の記録などを用い、和歌山藩の兵制改革の実態を考察す

る。

キーワード

和歌山藩、兵制改革、徴兵制、カール・ケッペン

はじめに

本稿は、和歌山藩における兵制改革について、特に明治二年(一八

六九)から四年の間を中心に考察しようとするものである。紀州徳川

家では、慶応二年(一八六六)の西洋銃隊や、慶応三年のフランス式

伝習隊の編成が、幕府歩兵と合同で行われていたが、家臣団の解体に

は至らず、軍事技術の端緒的な導入にとどまっていた。

明治二年二月七日、藩主徳川茂承は版籍奉還の上表を呈し1

、大名家

の解散と「和歌山藩」の設置が展望されるとともに、少数の士官と多

数の兵卒によって構成される近代的な軍隊の建設をめざし、本格的な

兵制改革が開始される。その画期は、同年二月の軍務局設置からと考

えられる。

一一九

佛教大学大学院紀要

文学研究科篇

第四十五号(二〇一七年三月)

従来の研究では、この時期には、プロイセン式軍隊の導入が実際に

行われ、徴兵制度も機能していたとされる。すなわち、和歌山藩では、

明治二年二月十五日に軍政一新により、軍務局が設置された。その後、

徴兵規則にあたる「交代兵要領」が布告され、お雇い外国人カール・

ケッペンの和歌山到着を経て、戌営が設置され、さらに「交代兵要

領」の改定版である「兵賦略則」が布告された。和歌山藩兵は評判と

なり、明治政府関係者や各国の公使たちの見学も行われた。その後、

明治四年七月、廃藩置県に伴い、藩兵は解体されることになる。しか

し、旧和歌山藩兵の一部は、東京や大阪、熊本鎮台に吸収され、士官

たちはその指揮官に引き抜かれた。また、和歌山藩の改革は、郡県制

の施行などの面でも、明治政府の政策モデルになったと評される。

特に兵制改革について、先行研究では、主に重久篤太郎、マーガレ

ット・メールがお雇い外国人を中心とした論文を発表している。ここ

では、ケッペンの日本での動きが明らかにされ、和歌山において担っ

た軍事的な役割が整理されている。また一方で、政治史・法制史的観

点からは、木村時夫、石塚裕道、梅溪昇、山中永之佑、小田康徳の研

究が挙げられる。これらの研究では、改革の主導者は誰であったかを

注視し、人民支配のシステムとしての和歌山藩での藩政改革・兵制改

革の意義を考察している。

この二つの視点を複合的に考察した研究としては、梅溪昇「新出の

カール・カッペンの『日記』および『回想録』について」や山田千秋

『日本軍制の起源とドイツ』が挙げられる。

また、カール・ケッペンが和歌山在住時に執筆した日記が、一九八

九年に発見され、研究の転機となっている。梅溪氏は、和歌山出身で

後に陸軍中将となる岡本兵四郎に注目し、「和歌山藩雇員履歴」から

明治陸軍における「ケッペン時代」の軍人の行方を追っている。山田

氏は、西洋史家であるが、和歌山藩の兵制改革が明治陸軍の制度に直

接与えた影響について考察している。

このように、和歌山藩の兵制改革を研究する際の着眼点としては、

お雇い外国人を中心とした人物論的な目線と、兵制改革がいかにして

後の明治政府の徴兵令や軍隊制度に影響を与えたかを考える目線の二

つが存在する。

いずれにせよ、実態を把握するには史料の少ない和歌山藩では、当

事者や目撃者となる外国人の存在を抜きにして、その兵制改革を論じ

てしまうのはもったいない。そのため、本稿では、実態を把握する上

で外国人たちの日記や見聞録を活用しながら、和歌山藩における兵制

改革を論じる。

また、版籍奉還から廃藩置県の間の政治状況や、人の動きは、ごく

短期間であったうえに、史料編纂の上での混乱などのため、不当に軽

視されてきた面があると思われる。和歌山藩では、前述の通り、徴兵

制の施行、お雇い外国人の雇用などと言った特異性が見られ、早くか

ら研究の対象となっていた一方で、現在では、既存史料や新出史料と

のすり合わせが進んでいない事や、政治史的な研究の成果が導入され

ていないことなど、研究が停止している点が目立つ。また、兵制改革

そのものを取り上げた研究も、近年は、なされていない。

本稿はこうした問題点を踏まえ、和歌山藩における兵制改革を再考

一二〇

和歌山藩の兵制改革とカール・ケッペン(二橋依里子)

しようとするものである。

第一章

カール・ケッペンとその役割

第一節

雇用のいきさつ

カルル・ヨーゼフ・ヴィルヘルム・ケッペン、通称カール・ケッペ

ン(C

arl Jo

seph Wilhelm

Koppen

一八三三〜一九〇七)は、ドイ

ツ北部にあるシャウムブルグ=

リッペ侯国ビュッケブルグに生まれた。

彼の出自について、以前は戦友であったと回想しているビュッケブル

グのエルンスト・イフランド中佐からドイツ文化研究所主事の日本学

者フリードリヒ・マクシミリアン・トラウツ博士へ送られた書簡を、

重久篤太郎氏が論文中で紹介したもの2

を主な証拠としていた。その後、

梅渓昇氏が入手された、ケッペンが死去したノイミュンスター市の死

亡証明書3

にも同名の出身地が記載されているため、正しいと考えられ

る。また、ケッペン本人も、一九〇〇年頃に書いた「回想録」の冒頭

部に同じ記載をしているため更に確定的になる。

それによると、彼は仕立屋のヨーハン・フリードリヒ・ヴィルヘル

ム・ケッペンとゾフィー・ドロテーアの間に生まれた。また時期は定

かではないが、一八六七年以前にエリーザベト・シェルフと結婚して

いる。

ケッペンの出生や軍隊における階級などを辿ってみると、一番詳細

な経歴が書かれているものは「回想録」の冒頭部分であろう。

私は一八三三年にビュッケブルグに生まれた。同所のギムナジ

ウムに学び、一八五〇年には堅信礼を受け、その後一年間、侯爵

領裁判所の書記局に勤めたが、ある将校のすすめで一八五一年四

月一日に侯爵領軍狙撃大隊兵として入隊した。二年後には狙撃伍

長に、一八五九年四月一日には軍曹に、そして同年同月二十三日

には曹長に昇進し、一八六七年までその地位にとどまった4

これによると彼はシャウムブルグ=

リッペ・ライフル大隊(狙撃大

隊)に入隊し、ほとんどの軍隊生活をシャウムブルク=

リッペの軍隊

で行っている。プロイセンで士官を勤めていたとも言われるが、その

様な記述は見当たらず、「回想録」内の主な従軍経験としては、ルク

センブルク出兵(普墺戦争)を経験したと書き残している。普墺戦争

後、シャウムブルグ=

リッペ侯国は北ドイツ連邦へ加入し、軍事はプ

ロイセン軍へ吸収される。ケッペンが普墺戦争でどの様な役割を務め

たのかははっきりしないが、彼の従軍経験の大半はプロイセン軍では

無い事を念頭に置いておきたい。ただし短期間ではあるが、ケッペン

はプロイセン・ライフル大隊小隊長を務めている。

しかし、本稿での主要史料となる『南紀徳川史』所収「

人を雇聘、

兵制

式に改む」では、

當時大坂に在留之

国人カツピンなる者、元同國之陸軍士官にて

學術技藝共に抜群、一切之兵制に通暁せり5

と書かれている。これは雇用前の記述と考えられ、後に教官としての

伝習を始めた以降の記述には

カツピンは本國陸軍に在ては僅に下士官

曹長)に過きさるよし6

と改められている。ケッペン本人が否定または訂正をしたのかは分か

らないが、和歌山藩内でも彼の母国での立場について認識が変化した

一二一

佛教大学大学院紀要

文学研究科篇

第四十五号(二〇一七年三月)

と捉えられる。

では、なぜ軍隊教練に特別秀でたとは断言できないケッペンが雇用

されたのだろうか。「回想録」によると、本人は、武器商人カール・

レーマンから誘いを受けたとある。しかし、「日記」を見ると

私は今年(一八六九)の七月二日からレーマン・ハルトマン商会

に勤務していたが、十二月十四日に紀州に招聘された。プロシャ

式調練をほどこし、デルシュ式針発銃の弾薬製造設備を作り、ま

た小銃製作者に今後生じ得る修理について教えておくためである7

とのみ書かれている。また、レーマン商会と紀州徳川家に関しては、

小銃購入の約定書が残されている。

約定

今度山本覚馬、中澤帯刀、紀州官府要用のため、カルル・レーマ

ン氏えシュンドナールドケヴェール、見本之通三千挺、左之付属

品相添え注文之事

(中略)

今千八百六十七年第四月二十九日(我慶応三年卯三月廿五日)於

長崎取極ム

カル・レーマン手記

オ・ハルトマン手記

レーマン、ハルトマン申立ニよりて

千八百六十七年第五月一日於長崎

王国プロイス・コンシュル

アル・リンドウ手記8

ここから読み取れることとしては、まず紀州徳川家とレーマン・ハ

ルトマン商会の間で小銃の購入の契約が結ばれた。さらに、直接の史

料引用は省略したが、その際に外国人の雇用についても相談した。

そしてカール・レーマンが紀州の希望に沿った人物を探し出した。

ここで出された和歌山藩の希望は恐らく、近代兵術に明るくまた後装

式小銃の弾丸製造法にも明るい人物と言った所だろうか。そしてその

人物が、ケッペンであった。カール・レーマンを通じ、レーマン・ハ

ルトマン商会が仲介する形で、和歌山藩とケッペンの契約が結ばれた、

と考えられる。事実、大参事津田出は既存の藩兵の視察よりも早い段

階で、ケッペンに点火薬製造についての説明を求めており、強い関心

があることを伺える9

和歌山において、ケッペンは自分を「軍事教官」と称していたとい

う。それは、言葉の通り受け取ってよいものだろうか。ケッペンの約

定書を見ると、

一、カツピン雇聘之事、明治二年十月十八日、左之如く於東京、

外務省へ提出せしに、十一月四日書面承届候間、雇方之儀大阪府

へ可申立との指令を、同府外國事務局より被達、依て本人早速藩

内へ召連度旨をも即日許可を得たり

今度當藩普國より鉞銃多數買入候處、所用のハトロン製法

火薬

製之法等相辨へ

不申候、付ては實用に難相成、當惑仕候間、右製法傳習之為

め、普國人左名前之者、此節雇入申度、此段可奉願旨、國許

より申越候付、何卒早々御許容被成下候様、譯て奉願候、以

一二二

和歌山藩の兵制改革とカール・ケッペン(二橋依里子)

大坂在留ブローズ商社元同國歩軍小隊長

カツピン

右月給貳百ドル雇入日數六ヶ月10

とされている。ここでは、ケッペンが雇用された理由は「ハトロン製

火薬

製之法」の伝習のためであり、契約期間は六ヶ月であった。

明治四年三月ケッペンの契約延長に際し太政官政府宛てに提出された

書類においても、次の様に記述され、火工術伝習のためであったと捉

えている。

和歌山藩普國人カツピンヲ雇継ク

和歌山藩願

辨官宛

去巳年ヨリ伺済ヲ以、火工術為傳習、

漏生國左之一名、當藩ヘ

雇入レ有之、當三月、右雇入期限ニ候處、猶又来ル四月ヨリ十二

ヶ月之間、雇増致度奉存候間、此段御許容、被成下條様奉願候、

以上

四年三月十日

大坂在留レーマン商社

當時和歌山藩府中

普魯西國人

カツピン

右之通11

また、ケッペン本人に関しても「日記」の明治三年四月一日条で弾

薬工場の用地検分など、その設立に向けて本格的に動き出してからは、

弾薬工場での仕事が主になる。そのため、例え本人が「軍事教官」だ

と名乗っていたとしても、ケッペンは技術者としての役割を期待され

て招かれたのだろうと思われる。

とは言え、ケッペンが一つの大隊を管理下に置き、訓練を行ってい

たのは確かである。ケッペンは和歌山入りの許可が下りる前から大坂

で伝習御用掛りの遠藤勝助と岡本兵四郎と共に、大坂にやってきた二

十名の若者の訓練を行っていた。

遠藤・岡本両名に関してはケッペンの回想録中では名字でのみ記載

されている。しかし、繰り返し登場するほどケッペンに近い人物であ

ると推測できるため、『南紀徳川史』に「

人滞留中傳習御用掛り相

勤可申候」と記されている遠藤勝助・岡本兵四郎と考えられる。二人

に率いられて大坂へやってきた若者たちへの訓練は、ケッペンが和歌

山での軍事訓練をスムーズに進めるための準備として行われたようで

ある。

遠藤・岡本の両名は、少しではあるがフランス語の会話が出来たと

ケッペンの「回想録」には書かれている。特に遠藤勝助は元々フラン

ス式伝習隊に入っており、その際に身に就けたものだろう。ケッペン

本人もまた妻のエリーザベト・シェルフはフランス出身であるため、

簡単な意思疎通が出来たと考えられる。

しかしこの大阪での軍事訓練は、日本語での号令がまだ定まってい

なかったため、ドイツ語で行われていた。最初は、戸惑いがあったが

段々と言語の障害も無くなったようである。また、遠藤・岡本を中心

に教程書の和訳も行い、ケッペン本人の日本語も上達したと記録され

ている。この時からドイツ語の習得を始めたと考えられる岡本兵四郎

一二三

佛教大学大学院紀要

文学研究科篇

第四十五号(二〇一七年三月)

は、明治四年に和歌山に寄港したドイツ軍艦ヘルタ号乗員の見聞録で

は、岡本兵四郎とドイツ語のコミュニケーションが取れたとしており、

他にも数名とドイツ語での会話が可能だったと記されている12

主に日本側の史料によって、ケッペンがどのような形で雇用された

のかを見ると、前述のように約定書では、ハトロン製法や火薬製造

法・弾薬製造法などの技術伝習のために雇用されたと考えられる。ケ

ッペン本人は「軍事教官」と名乗っており13

、従来ケッペンの役割はそ

の言葉通り受け止められてきた。軍事指導を和歌山で行っていたこと

は事実である。しかし、史料上ではケッペンが期待された役割は技術

伝習であり、軍事指導と同等もしくはそれ以上の意義があると考える

べきであろう。つまり、現代においてケッペンを称する場合、「軍事

教官」とただ言うだけでは本来の和歌山におけるケッペンの役割の一

部を示しているだけに過ぎない。

第二節

弾薬製造と服装の改革

ケッペンが和歌山にもたらした弾薬製造技術については、軍事機密

であった関係上、具体的な記述が残らず、詳しいことは不明である。

弾薬工場は現在の和歌山市高松に「火薬兵器司所

高松火工所」とし

て設置され、司長は佐藤蒼太郎であった14

。明治三年十一月十五日には

日本人二名(氏名不明)が弾薬について、秘密を守ることを宣誓し、

ケッペンと共に最初の点火火薬を製造している。

弾薬製造に関して以前から和歌山藩が熱心に取り組んでいたことは

事実であるが、更にケッペンの契約延長もあり力を入れていく事とな

った。十二月二十一日には弾覆製造が、十二月二十三日には製紙、紙

裁断、弾覆巻き付け、薬莢製作が開始したとされ、明治三年十二月下

旬に和歌山での弾薬工場が全面稼働を始めたと解釈できる15

弾薬製造に関しては「回想録」内で大まかな設備が分かる。

弾薬工場ができた。そこには工場長の住居、衛兵所、弾覆プレス

機用の堅固な建物、点火薬用の仮小屋、できあがった弾薬の貯蔵

庫、弾覆や薬莢、原料紙などの倉庫、化学薬品貯蔵用の仮小屋、

弾覆包装工や薬莢製造工の作業場のある建物、それに事務所や宿

泊室のある家、があった。化学薬品と完成した弾丸などを置くい

くつかの建物はここから約二キロ離れた所にあり、非常に堅固な

高い塀に囲まれていた。そこには二箇所の歩哨所があって、警戒

していた。上記の弾薬工場も高い塀で囲まれ、一名の下士官に率

いられた十二名の衛兵によって守られていた。工場の仕事がいよ

いよ始まり、私も一日に何時間かはそこにいなければならなかっ

た。ここでの仕事はきわめて精密に行う必要があったからである。

老兵四十人が命令で工員として働いたが、彼らは仕事を容易に理

解し、非常に正確に働いた16

弾薬工場について具体的な様子が分かるのは、ほぼこれだけである。

しかし、ヘルタ号乗員の見聞録では、実際に毎日一万発の弾薬が製造

されていたことが記載17

されている。弾薬工場がその後どうなったのか

は不明である。火薬工場でもあったというならほかの用途に転用がさ

れても良いと考えられるが、そのことを示すものはない。しかし、製

造していたのはドリッシュ&バウムガルデン銃用と言う特殊な弾薬で

一二四

和歌山藩の兵制改革とカール・ケッペン(二橋依里子)

あったため、そのままの転用や継続的稼働は不可能であったのではな

いかと考えられる。

ケッペンが制度整備や訓練の際に、まず気にしたことは、兵士の服

装であった。この時の兵士の服装は袴に草履ばきで各自ばらばらの物

を着用していた。ケッペンがもともと所属していたプロイセン軍は近

世の早い時期から服装の統一に乗り出していたこともあり、余計に目

についたのかもしれない。

そして和歌山藩でも、画一的なプロイセン式の軍装を導入するため

に、綿ネルの製造、軍靴や皮革製品の自給が計画される結果となった。

当初は輸入物に頼っていたそうだが、明治四年三月には、プロイセン

から製革師ルボルスキーと製靴師ハイトケンペルを招聘している。彼

らにより、和歌山商会所に西洋沓仕立方並鞣革製法伝習所が設立され

る運びとなった。その時の記録はあまり残されていない。『南紀徳川

史』によると、

一、雇入之

人、西洋沓製作及なめし革製法を、商會所に於て開

業之處、往々盛大壙張の計晝を以て、該業傳習受度者は、商會所

へ可申出、藩内牛馬皮初諸皮類、商會所へ買入へくに付、賣渡す

へく、値段難引合節は、勝手次第に可捌旨、明治四未年四月四日、

市在へ布告す、本邦にて洋沓の製造は、之か開基にて、後來益盛

大に至り、大坂鎭臺の需用をも一手に供給、紀州沓の聲譽を博し

たり18

とある。ケッペンの「回想録」では、ここでも老兵が従事していたと

いう。製靴師のハイトケンぺルは、藤田伝三郎の藤田組に技術伝習を

行い、日本の軍事産業発展に寄与している。

ケッペンは「日記」中に、たびたび岡本・遠藤とプロイセン型の軍

装採用について話し合ったと記述している。制服について「回想録」

によると、

制服を定めることもやはりこの両人の仕事であった。一度見本を

作り、その後さしあたって四〇〇人分の制服をそれを手本として

作った。ズボンも同じ布地である。上着の背面にはバンド用の巾

広のフックが二箇ついている。階級章は皮革と絹でできていて、

下士官は肩飾りと黄色い袖口皮緒をつけ、大尉までの士官は胸に

青い絹地騎兵用胸紐を五本、袖口には青い巾広の袖緒を一本、肩

には一本から三本までの青い肩飾りをつけた。参謀将校は青い絹

の階級章、そして将軍は白絹の階級章であった。頭には黒塗りで

たいそう見栄えのする紙粘土性の帽子をかぶった19

とされている。この記述が正しいのならば、和歌山藩におけるプロイ

セン式軍服の導入を規定として設けたのは、「両人」として挙げられ

ている岡本兵四郎と遠藤勝助であった。また、日記中にも二人と話し

合ったと記録しているため、ケッペンは必ずしも指導者ではなく、プ

ロイセンでの状況を報告したに過ぎないと言える。

弾薬工場や軍装規定などは、元々和歌山で考えられていたものでは

ないか。和歌山における兵制改革の主導者は津田出だとされるが、

個々の具体的な法令に関する提案者ははっきりとしない。しかし、ケ

ッペンがそれ自体を提案したと言う事は、誇張が含まれる「回想録」

からも見て取れず、「日記」では意見を求められたと言った記述があ

一二五

佛教大学大学院紀要

文学研究科篇

第四十五号(二〇一七年三月)

る。ケ

ッペンに関する記述において興味深いのは、同時代史料や日本側

の編纂物において徴兵令などの和歌山における軍隊の仕組みそのもの

をケッペンが作り上げたという記述が見当たらない事だ。ケッペンは

当時の和歌山において一個大隊を管理下に置く権利を与えられ、和歌

山藩兵制改革に従事し、日本にプロイセン式軍隊を紹介したことに異

論はない。しかし、ケッペン本人は生粋のプロイセン軍人と言う経歴

でもなく、本人が「回想録」で特に誇っているのは弾薬製造などの技

術における軍事機密を扱っていた事である。それでは、徴兵制を中心

とする兵制改革は、誰によって、どのように進められたのだろうか。

そのためには、和歌山における徴兵制と言われる「交代兵要領」、「兵

賦略則」の検証を行わねばならない。

第二章

和歌山における徴兵制

第一節

「交代兵要領」

和歌山藩では、明治六年の明治政府による「徴兵令」に先立ち、徴

兵が実際に行われていた。「交代兵要領」は、版籍奉還後の明治二年

十月五日布達されたもので、徴兵規則が初めて具体的に示されたとさ

れる20

。しかし、『南紀徳川史』所収のものは「下げ紙」が付けられて

いる状態である。「下げ紙」はいわゆる付箋のようなものであり、そ

れが付けられた状態で布達されたとは考えられない。「交代兵要領」

の前文では、「下げ紙」のない状態が交代兵規則であり、「下げ紙」の

内容に変更したものが交代兵による二大隊編成の際に適用されるとし

ている(「下げ紙」のカギカッコは引用者が付した)。

同年同月五日、政事府より軍務知局事へ

一、此度、交代兵之規則に準し、今二大隊御編制之儀別紙之通被

仰出候處、交代兵規則は別紙之通に有之、此度御編制之筋は

下け紙之通相成候筈に候間、本文

下紙之趣共篤と相心得候

上、入隊之儀可願出事

交代兵要領

一、管内人民農工商を不論、其子弟當年歳二十にして、無妻之者

より、可撰取事

「下げ紙」身分

年齢等之儀は、別紙に被

仰出候通候事

一、屯集中諸事規則を守り、殊に遊歩日たり共、酒店遊里等へ立

寄候儀は、堅禁制可候事但、寮中も平常は禁酒と相心得、時

宜に寄り隊長より免し候儀は、格別之事

「下げ紙」皆屯集には不相成筈に候得共、若し便宜に寄り一

小隊つゝ繰廻し屯集致候はゝ、屯集中本文之規則

に可隨事

一、毎月朔望之日、隊長より父母状を讀聴可申事

一、角打操練未熟之間は、兵書を讀み申間、敷課目の兵書を不了

間、都て他書籍を不可讀事

本業之學術其職に叶ひ候上は、傍ら和漢西洋之書を讀んで

知見を

充せんと欲する者は、諸科之學門何に不寄職務之

餘暇非所禁事

一二六

和歌山藩の兵制改革とカール・ケッペン(二橋依里子)

一、役料拾二俵

為積置宛、外に三俵被下候事

「下げ紙」勤役中役料、本文同様十二俵被下候事

但し屯集不致候はゝ、別段積置米は無之事

一、役料之儀都て隊長へ差出し、衣食等を賄を受、残餘之分は、

寮中へ積置可申事

「下げ紙」役料之儀は銘々へ相渡可申、就ては若し一小隊

つゝ屯集致候はゝ、諸賄私費之事

一、三年乃至五年之年限相勤、職を免し候節は、各々郷里へ帰り、

産業に就き可申、尤年限無故障相勤候規模として、勤務中積

置候胸牌も其侭賜り、其身一代苗字帯刀差免し候事

免職之節は、勤務中積置之金を一時に下渡し、産業に有附

せ方之儀、郷里之父兄、親族

市長郷長等を呼出し、隊長

より懇切に申聞、粗略無之様厚く世話致し可遣候、尤品有

之年限不満内免職之者は、積置は不被下筈に候事

「下げ紙」在勤之期限、本文同様之事

一、無役高

元給扶持有之者は、免職之節も被下候事

一、勤役中、隊長士官に昇進致候者は、前條之例にあらす兵士た

り共、格別御用立候者、隊長之願に依り、年限を延へ候儀も

可有之事

「下げ紙」本文同様之事

(後略21

農工商関係なく、妻帯していない二十歳以上の男子から、三〜五年

を年限に徴兵される。この際、年齢や身分に関する規定は見られるが、

身体的な制限などは記述されていない。交代兵要領にて徴兵された兵

士は、苗字帯刀を一代限り許されることになる。交代兵要領によって

どのような徴兵がなされたのか具体的な記述は存在しない。

軍務知局事は当時津田出であった。その軍務局に政事府から、この

「交代兵要領」が提出されたとは書かれているが、これが公布された

とは書かれていない。つまり、明治二年十月五日段階で「交代兵要

領」が公布されたと言うのは、誤りである。『和歌山縣史料』を参考

にするならば、明治二年十月七日に公布されたというが、それを裏付

ける史料は残されていない。それに、『和歌山縣史料』所収の交代兵

要領では「下げ紙」の内容が載せられていない。「下げ紙」部分は交

代兵が集まり大隊編成が出来るような人数に達した後の話になるので、

保留もしくは審議中の素案であろう。そのため、『南紀徳川史』の状

態の「交代兵要領」は公布されていないと言う事になる。また、あく

まで「交代兵要領」は交代兵に対する規則・心得を示すものであり、

簡単な該当者項目は存在するものの、この令をもって徴兵制が始まっ

たとは一概に言えないのである。

そして、明治二年十月十八日、交代兵による二大隊を編成するまで、

常備四大隊とするために、非役の士族に対する追加徴集が行われる。

(前略)此度、農工商子弟當年二十歳之者ヲ以、交代兵御組立、

常備兵ハ四大隊ト定限相立候處、藩士

右子弟、及兵卒無役、是

迄銃隊ニテ當時離隊、又ハ銃隊御免ニ相成有之候者之内、猶武職

ニテ御用立所存之輩モ可有之付、右等ノ内ヨリ御人撰之上、交代

兵規則ニ准シ、今二大隊御編成相成候筈候間、年齢四十歳以下十

一二七

佛教大学大学院紀要

文学研究科篇

第四十五号(二〇一七年三月)

八歳以上、身

強壮ニテ入隊願度者ハ、姓名年齢等短冊ニ記シ、

當月中軍務局ヘ可申出事(後略22

これが追加徴収であると言う記述は『南紀徳川史』には見られず、

『和歌山縣史料』にのみ存在する。十八歳以上四十歳以下で銃隊訓練

を受けた者の内希望者を対象としている。ここでの西洋銃隊は、慶応

二年に和歌山においてイギリス式の銃隊訓練を受けたものを指す。交

代兵によって編制された二大隊ができあがるまでの繫ぎのような役割

を持ったのだろう。

和歌山藩では、徴兵の準備が進められていたが、明治二年十二月に

軍務局は廃止され、津田出を都督とする戌営に改編される。同年十二

月晦日、全ての隊がプロイセン式兵制に統一される。「交代兵要領」

は徴兵規則の素案であり、これによる徴兵は行われていないと言える。

第二節

「兵賦略則」

「兵賦略則」は明治三年正月二十九日、戌営より一般に向け、藩内

に布達されたもので、いわゆる徴兵令という形通りのものと言える。

兵賦略則

此度、交代戌兵取方相改向後、毎年二月徴兵使、各郡民政局へ出

張致し、管内の男子士農工商之無差別、當年二十歳に相成候者を、

取調

査之上、兵役に服せしめ候事

本文之通りに候得共、兵員繰替の御都合も有之付、今午年に限り

二十一歳二十二歳の者も、取調させ候筈

一、二十歳男子にても、左之ヶ條有之者は、御取調之上兵役を被

免候事

第一

一家の主人たる者

但し、一家の主人たり共、父猶存し兄弟有之者は、服役可致

第二

身材格段矮小なる者、且つ天性虚弱なるか、或は宿痾あり

て兵役に不堪者

但、二十歳にて

査の節、此ヶ條に属する者は二十一歳にて

査し、尚同様なれは又二十二歳にて

査、其節強壮に相成

候はゝ、御規則之通兵役に服し候筈

第三

獨子獨孫

但、其年の兵賦若寡少なる時は、服役致し候儀も有之事

第四

父兄存すれ共、病氣もしくは他の事故ありて、父兄に代り

家を治へき者

第五

若兄弟悉く戌営の籍にある者は、其中一人を免し、長兄豫

備籍に入る時に至り、初て役に可服事

一、交代戌兵服役年限、且唱振左之通

二十歳より二十二歳に至る

三ヶ年

交代戌兵と唱、各營に屯す

二十三才より二十六才に至る

四ヶ年

豫備兵と唱へ、家に帰り、一ヶ年一度若干日、

入營し演習を爲す

二十七才より三十才に至る

四ヶ年

補闕兵と唱へ、豫備兵の豫備にて、家に居住す

一二八

和歌山藩の兵制改革とカール・ケッペン(二橋依里子)

都て十一ヶ年にして、全く兵役を被免候事

但し、常備年限中に兵學又は技藝に達し、行状方正にして

士官隊長にも昇進致し候者、此例にあらす

(後略23

毎年二月に、民政局から徴兵使を村や町に送り、二十歳になるもの

に対し徴兵検査を行う。兵員が総替えになるため、午年(明治三年)

に限り二十一、二十二歳も検査対象となっている。また兵役免除の条

項についての記述に具体化がみられる。

行われた徴兵のありさまについて、カール・ケッペンの日記には

一八七〇年)五月十六日には三百二十六名の第1期徴募兵が当地に

参集した24

。」とある。その後、遅くとも一八七〇年七月二十三日には

十八中隊、約千四百四十人の徴募を行っている25

ことが、ケッペンによ

る日記から推測される。

また、これまでの研究では、実際に徴兵が行われた確証は、例示さ

れていなかったが、本稿が新たに紹介する和歌山大学紀州経済史文化

史研究所所蔵『近代産業関係文書』所収の「山田原村公用留」には、

明治四年正月に行われた徴兵名簿が、次のように収められている。時

間的に見て、第二期徴募兵として、入営することになったものの名簿

である。

山田原村

楠本為助二男

楠本岩吉

当廿五年十月

下等歩兵

明治四年未正月晦日和歌山藩戌営

に而被申付候事

御前惣右衛七長男

御前市太良

当廿七年一月

下等歩兵

御前多七長男

御前常松

当廿六年二月

御前政ヱ門四男

御前安吉

当廿七年二月

御前源蔵弟

御前富松

当廿四年

楠本吉左ヱ門二男

楠本由松

一二九

佛教大学大学院紀要

文学研究科篇

第四十五号(二〇一七年三月)

当廿三年十一月

貴志源二郎長男

貴志留二良

当廿三年九月26

山田原村は、現在の和歌山県有田市山田原に当たる。徴兵年齢に関

しては、未だ考察の余地があるが、和歌山藩における徴兵が実際に行

われたことを示す史料である。入営該当者に関しては「撰みに當る

者27)

」という言葉がある事から、検査合格者から抽選されたのではない

かと推察できる。

この兵賦略則による徴兵制は、現実に運用されたとみられる。その

判断を裏付けるのが、明治四年二月四日に兵賦略則が増補され、家族

の病気による一時帰村や、死亡による忌引きなど、極めて具体的な運

用規則が追加されている事である。

(前略)

明治四未年二月四日

一、交代兵々賦略則に無之廉々、別紙之通、猶取極候間、其段可

相心得候也

別紙

一、交代兵

査之節、病氣等にて不参之者軽症者、

査場所爲差

出、重病者、醫生召連、徴兵使致巡察候筈、尤

査後、臨時病

氣之者は、快復次第入營爲致候事

一、父

弟有之者、父六十歳以上弟十六歳以下之者は、徐役之事

一、父

兄弟有之者、父癈疾兄又は弟癈疾之者は、徐役之事

一、兄弟の内、他之常備兵に入隊之者有之共、其兄弟等交代兵期

一本年

限)に當る者、勿論之事

一、兵役年限中、父没し主人となる者は、入營六ヶ月にして成業

之後、豫備籍へ入へし、兄弟の内没し獨子となる者は、服役期

限を相終候事

一父母大患なるに依り、看病願出候共、不相濟、末期面會願出候

はゝ、往來之他、左日割之通、

村差免候事

十里以内

往来の外

二日

二十里以内

三日

二十里以外

五日

一、父母之忌中には、遠近共往来之外、一週間之日数を免許し、

村致させ候事

一、一時面會等にて

村致させ候内、父母相果候得は、直に其日

より御定之日數を免許致候事

但、帰營後は、服飾を改め、忌は定式之日數を相受、操練

可爲致事

一、祖父

兄弟等相果候時は、服飾を改め、營中にて定式之忌相

受、操練等可爲致事

一、一時面會且忌中等にて

村致し候内、病氣等相発し、帰營難

出來候はゝ、一週間迄は、其地方醫生容躰書を其出廳へ

出、

延日之儀同廳より戌營へ可申合、猶延日致し候はゝ、病院醫生

一三〇

和歌山藩の兵制改革とカール・ケッペン(二橋依里子)

差向、診察致させ候事

一、忌中且病氣養生或は徐役等にて

村之者は、其聯隊長より免

状差遣し

村爲致、其旨可相達事

但、末期面會一時

村等之節は、其隊長より免状差遣し

致させ候事

(後略28

これにより、本人の病気、親兄弟の事情による兵役免除や入営中の

忌引き、帰村に関する条項が、より具体的に定められるようになった。

先に出された「兵賦略則」に比べ、より細かく様々な状況に対応でき

るようになっている。実際に運用した結果、不十分な点を補強したも

のだと考えられる。

「交代兵要領」に比べ、「兵賦略則」は、具体的な事項への言及が多

い事、徴兵者の名簿が発見された事、改定について言及する史料が多

く、運用実態がうかがえることから、実体性のある徴兵令であると言

える。

「交代兵要領」と「兵賦略則」を合わせて和歌山藩の徴兵制と言わ

れるが、「交代兵要領」はあくまで徴兵された兵士に対する規則の面

が強い。また、これを統括していた軍務局もすぐ廃止となってしまう

ので「兵賦略則」が布達された後まで運用されたとは考えられない。

そのため、徴兵準備のために作られたものであり、期間の短さからも

実際に『南紀徳川史』が収録する形で布達されたわけではない。

「兵賦略則」では、前述の通り、制度としての具体化、例えば運営

していく上で必要になった兵役免除条項や忌引きによる一時帰村の制

度も補充されている事から、実際に制度として存在していた事は間違

いないだろう。徴兵は、各郡に徴兵使を派遣して行われる。そのため、

今回提示した「山田原村公用留以外にも他村の記録に徴兵の実態が残

されている可能性は非常に高い。

従来、和歌山藩では「交代兵要領」や「兵賦略則」が施行され、徴

兵制が導入されたと語られてきた。しかし、史料の状況や日付の関係

から「交代兵要領」の実際の施行を考える際に『南紀徳川史』を閲覧

するだけでは、実際に布達された文面を見ることはできない。また、

ケッペンの直接指導の下、「兵賦略則」が制定されたとされる場合が

あるが、ケッペン本人は「日記」において徴兵令の制定に関わったと

は記述していない。また、「兵賦略則」に示される兵役免除に対する

規定は日本の戸主、家族制度を理解していなければ制定することも不

可能である。ケッペンが意見を述べたであろうことは想像に難くない

が、規定一つ一つの制定を主導していたのは、西洋兵学に詳しい日本

人ではないだろうか。

おわりに

このように、和歌山藩では徴兵制が施行されていたことが分かる。

しかし、その実際の発案者は誰であったのか。今まで漠然と、津田出

やカール・ケッペンの名前やフランス・イギリスからの影響など挙げ

られるが、言ってしまえば一地方である和歌山において、なぜこれほ

どまでに詳細な徴兵制が発案され、実行されたのだろうか。また、徴

兵制を細かく見ていくと、日本のいわゆる家族制度に精通していなけ

一三一

佛教大学大学院紀要

文学研究科篇

第四十五号(二〇一七年三月)

れば出てこない項目も存在する。

直接影響を与える事が出来た人物として明治三年に戌営副都督とな

った小参事、塩路嘉一郎(号は孝門)が挙げられるのではないかと考

える。彼は、大阪の適塾で蘭学を学び、福沢諭吉と交流を持ち、慶應

義塾へ遊学したという経歴を持っている。また、ケッペン雇用後は伝

習御用掛も兼任し、意見交換の機会が多いことが「日記」から伺える。

次に、陸奥宗光の人的ネットワークである。陸奥は直接現地で兵制

改革に関わったわけではないが、戌営都督と同権として名前が挙げら

れている。また、長州から元奇兵隊士鳥尾小弥太を和歌山へ呼び寄せ

ている29

。また、当時伊藤博文と懇意にしており、その伊藤を通じて大

村益次郎の思想が和歌山へ入ってきたのではないだろうか。陸奥を介

して長州と和歌山を結ぶには、まだ確証があるとは言い難いが、一考

する価値があると考える。

和歌山では、農兵組立の思想はあった。そこに西洋的な思想を持っ

た人物たちの刺激により、具体的な徴兵制のアイディアが出てきたの

ではないだろうか。

ここまでなら、他藩でも実際に行うことは可能であっただろう。し

かし、和歌山藩では実際に徴兵制を公布し、「交代兵」と呼ばれる徴

兵された兵士たちの調練まで行われている。その違いはなにか。やは

りここは、近代的な軍隊の実際を知っているケッペンの存在が大きい

だろう。近代軍隊を作ろうと思い至ることは、知識さえあれば、だれ

にでも可能である。しかし、実態や委細を知らなければ速やかに実行

し、改正を重ねていくことは不可能である。その要素二つが重なった

という特異性が和歌山藩には存在する。そのため、和歌山藩の兵制改

革は実行され、注目される存在になったのだ。

和歌山藩における兵制改革が、明治政府による「徴兵制」に影響を

与えた事について異論はない。その点を、人的関係に注目して補足し

ておこう。ケッペンは「日記」において、見学者が来たという記述を

残しており、それを整理する事で、和歌山が与えた影響を追う事が出

来るのではないだろうか。

まず、山田顕義が訪れている30

。「日記」では、諸施設の見学とのみ

記録され、詳細な行動は分からない。山田顕義はこのとき、明治四年

正月の辛未徴兵に向けて動き始めており、その関連で和歌山を見学に

来た可能性が高い。また、大阪からG

ondeii k

o Scein

go

(西郷信吾

﹇従道﹈か)が兵舎と士官学校(兵学寮)の見学に訪れている31

。西郷

従道は山縣有朋と共に渡欧し帰国、兵部権大丞に任じられていた。西

南戦争の際には陸軍卿代理を務めており、兵制改革後も津田出と近い

人物であったと言える。和歌山で実行段階であった徴兵制を見学に来

たのだろう。直接的な影響を論ずるにはまだ早いが、参考にした可能

性は高い。

以上に述べたように、和歌山における徴兵制は、和歌山藩士族が主

導し、お雇い外国人が実際を検分し、補強を重ねることによって実行

された。お雇い外国人は技術伝習を主に期待されたもので、アドバイ

ザーという立場に過ぎなかったのだ。

本稿では、お雇い外国人カール・ケッペンと、士族たちによって具

体化がなされた徴兵制についての考察を行った。和歌山では、実態を

一三二

和歌山藩の兵制改革とカール・ケッペン(二橋依里子)

示す史料が少なく、どうしても推論の域を出ないものが多い。しかし、

主導者は誰かという点において、人間関係から長州の存在を割り出し、

その点について、今後考察を深めていけたらと考えている。

和歌山藩における兵制改革は、徴兵制の施行を含む先駆的なもので

あった。それは、洋学を学んだ者、他藩からの知識の流入、現状を知

った外国人の存在など、複合的な要因により、成立したのである。

〔参考文献〕

淺川道夫『明治維新と陸軍創設』錦正社

平成二十五年

荒木康彦『近代日独交渉史研究序説』雄松堂出版

平成十五年

石井良助編『太政官日誌』第三巻

東京堂出版

昭和五十五年

石川光庸、B・ノイマン訳「カール

ケッペン和歌山日記(1869〜7

1)(前)」和歌山市立博物館『研究紀要5』平成二年

石川光庸、B・ノイマン訳「カール

ケッペン和歌山日記(1869〜7

1)(後)」和歌山市立博物館『研究紀要6』平成三年

石田光庸訳「和歌山藩軍事教官カール・ケッペン回想録」和歌山市立博物

館『研究紀要7』平成四年

石塚裕道「明治初期における紀州藩藩政改革の政治史的考察」歴史学研究

会編『歴史学研究』一八二号

昭和三〇年

小田康徳『近代和歌山の歴史的研究-中央集権下の地域と人間-』清文堂

出版

平成十一年

竹本知行『幕末・維新の西洋兵学と近代軍制』思文閣出版

平成二十六年

梅渓昇『日本近代化の諸相』思文閣出版

昭和五十九年

梅渓昇『お雇い外国人の研究

下巻』青史出版

平成二十二年

木村時夫「明治初年における和歌山藩の兵制改革について」早稲田大学社

会科学部学会編『早稲田人文自然科学研究04』所収

昭和四十四年

重久篤太郎『お雇い外国人

地方文化』鹿島出版会

昭和五十一年

セバスチャン・ハフナー『図説

プロイセンの歴史

伝説からの解放』東洋

書林

平成十二年

マーガレット・メール「和歌山藩におけるお雇い外国人カール・ケッペン

(一八六九〜一八七二)|ドイツ側の史料を中心に|」『日本歴史』第

488号

平成元年

マーガレット・メール著

石川光庸訳「紀州藩におけるケッペンの働きを

見た人々の証言」

和歌山市立博物館『研究紀要8』所収

平成四

松尾正人『廃藩置県の研究』平成二十三年

吉川弘文館

福岡万里子『プロイセン東アジア遠征と幕末外交』東京大学出版会

平成

二十三年

山田千秋『日本軍制の起源とドイツ』原書房

平成八年

山中永之佑「幕末,維新期における紀州和歌山藩の兵制改革と人民」

健二博士米寿記念論集刊行会編『日本法制史論集』所収

昭和五十六

〔注〕

1)石井良助編『太政官日誌』第三巻

東京堂出版

昭和五十五年

明治二年第一五号、八〇頁

2)重久篤太郎『お雇い外国人

地方文化』鹿島出版

昭和五十一年

3)梅渓昇『お雇い外国人の研究

下巻』青史出版

平成二十二年

4)「カール・ケッペン回想録」七七頁

5)堀内信編『南紀徳川史』南紀徳川史刊行会

昭和五〜八年発行

之百十九(第十三冊)「

人を雇聘、兵制

式に改む」二四九頁

6)『南紀徳川史』巻之百十九(第十三冊)

人を雇聘、兵制

式に

改む」二五二頁

7)「カール・ケッペン和歌山日記」

序文

8)長崎県立歴史文化博物館所蔵「独逸人レーマンより旧会津藩足立泉

相手取小銃代金滞一件」

9)「カール・ケッペン和歌山日記」一八六九年十二月二十二日条

10)『南紀徳川史』巻之百十九(第十三冊)

人を雇聘、兵制

式に

一三三

佛教大学大学院紀要

文学研究科篇

第四十五号(二〇一七年三月)

改む」二四九〜二五〇頁

11)国立公文書館所蔵「和歌山藩普國人カツピンヲ雇継ク」

12)マーガレット・メール「紀州藩におけるケッペンの働きを見た人々

の証言」

13)「ナツィオナール・ツァイトゥング」紙、一八七一年七月二十一日掲

載記事

マーガレット・メール著

石川光庸訳「紀州藩におけるケ

ッペンの働きを見た人々の証言」和歌山市立博物館『研究紀要8』

所収

平成四年

14)『南紀徳川史』巻之百十九「軍務局ヲ廃シ戌営ヲ置ク」二五六頁

15)「カール・ケッペン和歌山日記」日付は本文中参考

16)「カール・ケッペン回想録」五四〜五三頁

17)マーガレット・メール「紀州藩におけるケッペンの働きを見た人々

の証言」

18)『南紀徳川史』巻之百二十(第十三冊)「西洋沓製法傳習を許す」三

二二頁

19)「カール・ケッペン回想録」六九頁

20)木村時夫「明治初年における和歌山藩の兵制改革について」早稲田

大学社会科学部学会編『早稲田人文自然科学研究04』所収

昭和

四十四年

21)『南紀徳川史』巻之百十九

第十三冊)

「交代兵要領」二三九〜二四

一頁

22)和歌山県立文書館所蔵『和歌山縣史料』(5-

7)の

11.

23)『南紀徳川史』巻之百十九

第十三冊)

「兵賦略則」二四一〜二四五

24)「カール・ケッペン和歌山日記」一八七〇年五月十六日条

25)「カール・ケッペン和歌山日記」一八七〇年七月二十三日条

六月一

日から七月二十三日の回想

26)和歌山大学紀州経済史文化史研究所所所蔵『近代産業関係文書』所

収「山田原村公用留」

27)『南紀徳川史』巻之百十九

第十三冊)「兵賦略則」二四一頁

28)『南紀徳川史』巻之百十九

第十三冊)「交代兵に關する布告」二四七

〜二四八頁

29)堀内信編『南紀徳川史』(第四冊)南紀徳川史刊行会

昭和五〜八年

発行

名著出版昭和四十六年復刻「長藩鳥尾小彌太ヲ雇聘」六三二

30)「カール・ケッペン和歌山日記」一八七〇年一〇月二十五日条

31)「カール・ケッペン和歌山日記」一八七一年三月十三日条

注も参考

の事

(にはし

えりこ

文学研究科歴史学専攻修士課程)

(指導教員:

青山

忠正

先生)

二〇一六年九月二十九日受理

一三四

和歌山藩の兵制改革とカール・ケッペン(二橋依里子)