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43 THE JOURNAL OF SURVEY 測量 2009. 2 ある時, 監督が 「お前ら, それでも活動屋か!」と 叫んだことがあった。 それが, 何というか, ちょっと僕は感動でした。 映画 劔岳 点の記 応援企画 木村大作監督 いよいよ本年620日 全国ロードショー7 螢 雪次朗 出演者連続インタビュー (宮本 金作 役) (写真手前。後左は蟹江一平さん, 右は仁科 貴さん)

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Page 1: 劔岳 点の記 - jsokuryou.jp · るんだから当然だと思っていたし。26歳で結婚もし て,親や親戚のオジサンには,やめろやめろと言われ ていたけどね。

43THE JOURNAL OF SURVEY 測量 2009. 2

ある時, 監督が 「お前ら, それでも活動屋か!」と 叫んだことがあった。 それが, 何というか, ちょっと僕は感動でした。

映画「劔岳 点の記」応援企画 木村大作監督 ★いよいよ本年6月20日 全国ロードショー★

第 回 7 螢 雪次朗 氏 出演者連続インタビュー

(宮本 金作 役)

(写真手前。 後左は蟹江一平さん, 右は仁科 貴さん)

Page 2: 劔岳 点の記 - jsokuryou.jp · るんだから当然だと思っていたし。26歳で結婚もし て,親や親戚のオジサンには,やめろやめろと言われ ていたけどね。

「僕の荷物には醤油の一升瓶がぶら下がっていましたよ」

木村大作さんという人は,さまざまな名

作・大作映画のカメラマンとして,僕ら映画

の仕事をしているものは,皆,知っているわ

けです。僕はほとんど全部の作品を見ていま

すし,『八甲田山』(1977年・森谷司郎監督)

のときの噂も,伝説のように日本映画界に残

っていますしね。自分から真冬の十和田湖に

ジャブジャブ入っていって,「ここから撮

る!」と言い出したとか。雪の中に何時間も

役者を待たせたとか,役者が逃げ出したと

か。「木村というのはおかしいらしいぞ」と。

その木村大作さんが監督をされるという。

その話を最初に聞いたときは,正直いってヘエッ?!

という感じはしました(笑)。だけど,原作を読み,監

督とお会いし,あの名カメラマンが山に何カ月もこも

って撮るということで,これはスケールの大きな作品

になる,面白そうだと思いましたね。

ただ,撮影としては苛酷だと。それは承知してもら

いたいと念押しされ,僕も覚悟して行きましたが……

まあ,大変でした。

裏高尾のあたりを毎週末登ったりして自分なりに準

備はしましたけれど,最初の撮影が4月でまるっきり

雪山でしたからね。やはり雪は厳しかった。現場まで

は近代的な登山靴にアイゼンをはめて行きますが,撮

影は足元も当時のまま。地下足袋にかんじきで登るの

で,ズボッと新雪にはまってしまったら身動きがとれ

ない。

「ダメだ,お前は山登りの名人だという設定なんだ。

金作谷という谷だってあるんだぞ」とずいぶん言われ

ました。

だけどね,荷物が! 重いんですよ,とにかく。

金作たち人夫は,テント,干し魚や缶詰・米などの

食糧,鍋釜など全部運ぶわけで,僕の荷物には醤油の

一升瓶がぶら下がっていましたよ。美術さんが作った

偽の醤油ですが,まるまる一升入ってチャプチャプ揺

れている。「ずっとここにぶら下げておくの?」と聞

いたら,「徐々に量は少なくなっていきますから」と

言われました(笑)。

当然,撮影用に少しは荷を軽くしてくれていました

が,それでも何十㎏あったのか……背負うときにしゃ

がんだ状態から一人で立ち上がることができなかった

ですよ。

あのね,浅野君とか,(松田)龍平君の荷物は我々よ

りは,少ないんですよ。人夫とは違うにしても,あれ

は,軽くし過ぎじゃないのかなあ(笑)。

「ああいう巨匠たちと,活動屋といわれる人たちといつか仕事ができたらいいと憧れていた」

酸素も薄くて,初めはゼーゼーいって。監督からは

「俺も3年前はそうだった。そのうちに体が慣れるよ」

と言われ,たしかにそうでした。でも,考えてみたら

監督は僕より一回り上なんですよ。同じ卯年で。僕は

あまり根性とか言いたくないけれど,監督を見ている

と情熱とか,心意気とか,そういうもので支えられて

いる部分は大きいなと思います。

何しろ3000mの山の上で,しょっちゅう怒鳴ってい

るわけですよ。「そこ,どけーっ」とか「梯子なんかい

らねえよ!」とか。

で,ある時,監督が「お前ら,それでも活動屋

か!」と叫んだことがあった。それが,何というか,

ちょっと僕は感動でした。「活動屋」という言葉は死

語になってしまったと思っていたから。

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第 回 7 螢 雪次朗氏 (宮本 金作 役)

木村大作監督 ★いよいよ本年6月20日 全国ロードショー★

僕は高校3年の頃,ほとんど学校へ行かないで芝居

と映画ばかり見ていたんですよ。アルバイトをしなが

ら仲間と芝居やコントをやっていた頃も。映画ファン

として,あるいはぺーぺーの役者として,ああいう巨

匠たちと,「活動屋」といわれる人たちといつか仕事

ができたらいいと憧れていたわけです。

それが,あ,今ここに活動屋がいるんだなと。もち

ろん映画界には優秀な監督,スタッフ,たくさんいる

んだけれど,木村さんや今回のスタッフの仕事ぶりは,

これが活動屋魂なんだと感じさせるものだったという

か……いいものを見たと思いました。

僕が映画の仕事を始めたのは30歳過ぎてからで,も

ともとは舞台なんで。4つ上の姉がアマチュア劇団で

芝居をしていた影響で自然と役者になりたいと思うよ

うになってね。20代半ばまで東京演劇アンサンブル

(俳優座系)にいました。それからロマンポルノ,成

人映画をやり。ヌード劇場のコントみたいなものをや

り。モロ(師岡)とは,その頃出会っているんですよ。

幕間のコントがあった時代。山口君と竹田君とか,コ

ント赤信号とか。レオナルド熊さん。僕がコンビを組

んだルパン鈴木。僕も相方と螢雪次朗一座というお笑

いグループを作ってお笑いをやってました。

食べられなくても,苦じゃなかった。好きなことや

るんだから当然だと思っていたし。26歳で結婚もし

て,親や親戚のオジサンには,やめろやめろと言われ

ていたけどね。

「僕のこの年齢と,キャリアが,この木村組に,この役に呼んでくれたんだなという意味では,ラッキーだった」

どちらかというと,楽観主義というところはあるで

しょうね。何とかなるだろうと。自分の可能性をどこ

かで信じていた。今,俺は運が向いていないだけだ。

俺の才能をどこかで誰かが見てくれているはずだ。き

っと何かが変わるはずだと。

だいぶ後で思ったことですが,その時代だったり,

仲間だったり,自分自身の年齢だったり。すべての

要素がぴたりと合ったときに,必ず何かが破れて,変

わっていくんですよ。

僕の場合,ピンク映画時代に滝田洋二郎監督(08年

『おくりびと』で各映画賞を受賞)と出会ったことが

大きかった。そこで映画における芝居を勉強させても

らいました。何しろ僕なんか,京都の撮影所へ初めて

行ったのも40歳過ぎてからなんですよ。

こういう僕のこの年齢と,キャリアが,この木村組

に,宮本金作役に呼んでくれたんだなという意味で

は,ラッキーだったと思うし。10年前だったら,この

役には呼ばれなかったかもしれないし。木村さんも10

年前だったら,撮ろうと思わなかったかもしれないし。

本当にこのタイミングなんだと思いますね。

金作という役は,日本山岳会のほうの案内人は日当

が10銭だか20銭だか高いそうだとかいう噂を聞きつけ

て,柴崎に「日当が安い」と文句を言ったりするとこ

ろもある人間で。長次郎や他の人夫たちともまた違う

冷ややかな思いもありながら,それでも最後まで柴崎

の仕事を手伝うわけです。

僕としては,とにかくこの土地で,山で生まれ育っ

た人として,違和感のないようにしようというのがテ

ーマでした。役者が変なものを持ち込んだら絶対に浮

くだろうと。

だから,ラストカットにも特別なものは持ち込まな

いようにしましたが。金作はどうなんでしょう。安い

金でやったけれど,何だか俺は面白い人たちに出会っ

たなとか思ったんでしょうかね。

(取材 中田ひとみ)

螢雪次朗(宮本金作 役)ほたるゆきじろう:1951年生まれ。埼玉県出身。映画・テレビ・舞台と幅広く活躍。最近の映画出演作としては『阿修羅城の瞳』(滝田 洋二郎監督),『犬神家の一族』(市川崑監督),『クライマーズ・ハイ』(原田眞人監督)など。『笑う警官』(角川春樹監督)が今秋公開予定。

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