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1 1 ー一 貿 稿 使 鴻艫館 に行 く光 る君 83

八 七 六 五 四 三 ニ ー一 梅 大 『源 平 高 唐 東 は 枝 宰 安 麗 物 ア … · 東 ア ジ ア と の 外 交 関 係 や 交 易 事 情 を め ぐ る 歴

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1

『源氏物語』と東アジア交易圏1

八 七 六 五 四 三 ニ ー一

はじめに

東アジア交易圏の形成

唐物の二つのルート

高麗を名乗る渤海国

平安時代の渤海国交易

『源氏物語』のなかの高麗人

大宰府貿易の変遷

梅枝巻と大宰府交易

本稿では、平安時代

の日本と東

アジアとの外交関係

や交易事情をめぐる歴史叙述をふまえることで、新た

に浮かび上がる

『源氏物語』の世

界像を提示したい。

桐壷巻で鴻艫館に滞在した高麗の相人は、渤海国の使

であり、光源氏との対面は東アジア文化圏が崩壊し、

日本と渤海国との外交が終焉する直前にもたれたとい

う設定であ

った。高麗

の相人が予言と贈物、そして桐

壼巻末で明かされるよう

「光る君」の呼名を奉

った

ことは、主人公の人生を大きく決定することにな

った

が、その背景に東アジア文化圏の崩壊から東アジア交

易圏

の形成という、平安前期の対外関係史の

一大転換

期があ

ったことを明らかにしたい。

鴻艫館に行 く光る君83

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はじめに

平安時代の文化

については、ともすれば唐風文化から国

風文化

へ移行したといった通念が出来あが

ってはいな

いだ

ろう

か。平安時代

の初期は唐風文化が優勢であ

ったが、寛

平六年

(八九四)

の遣唐使廃止から、唐

の文物

の影響も薄

れて、国風文化に推移したというのが、今日なおも

一般的

な理解かもしれな

い。さらに、こうした通念にしたが

って、

『源氏物語』は平安時代の国風文化の極

みに花開

いた、ま

さに国風文化を代表する文学作品という風に捉えられがち

であ

った。

かし現在の歴史学の成果は、遣唐使廃止により唐の文

物が輸入されなか

ったのではなく、遣唐使を媒介とした朝

貢貿易に拠らずとも、唐の文物が自由

に手に入る環境があ

った

ればこそ、宇多朝が遣唐使廃止に踏

み切れたことを教

えてくれる。国風文化とは、鎖国のような文化環境で花開

いた

ものではなく、唐の文物なしでは成り立たない、ある

 エ 

意味

では国際色豊かな文化である。

国風文化とは唐風文化の和様化の謂

いであり、それは唐

風文

の洗練と

一般化

による浸透

にほかならな

った。

『源氏物語』も、また、こうした文化的土壌に花開いた作

品であり、また思

いのほか唐の文物、

いわゆる唐物に囲繞

され、それが横溢する世界である。

さら

にいえば、『源氏

物語』には、広く対外関係に目をむけた箇所もあり、その

限りでは国際感覚あふれる作品とも

いいうる。従来の国風

文化についての常識を異化する歴史学の成果を踏まえた上

で、唐物に注視し、『源氏物語』

の世界と東

アジア交易圏

との関わりを見ていきたい。

そもそも国風文化を支えた唐

の文物、唐物とは具体的

どのような品を指すのか。唐物とは、中国渡来の品ばかり

でなく、朝鮮や南海から渡来する舶載品全般を指す言葉で

ある。『源氏物語』

の中にも、唐

の紙や高麗紙など

の紙類、

錦や絹織物、紫檀などの貴木、蘇芳とい

った染料、瑠璃壺

・杯といったガラス器など、唐物が豊富に散見される。ま

た貴族生活に不可欠な薫物の原料は、沈香

・丁子

・薫陸

白檀

・麝香をはじめとして、当時す

べて海彼からの輸入に

頼らねばならなか

った。

唐物

の品目をより詳しく知りたい時に、やや時代は下る

が、平安末期に成立した藤原明衡の

『新猿楽記』で、日宋

交易の商人である

「八郎真人」なる者が扱

った五十二にも

およぶ品目が参考

になる。

・麝香

・衣比

・丁子

・甘松

・薫陸

・青木

・竜脳

・牛

・難舌

・白檀

・赤木

・紫檀

・蘇芳

・陶砂

・紅雪

・紫

・金益丹

・銀益丹

・紫金膏

・巴豆

・雄黄

・可梨勒

4 

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檳榔子

・銅黄

・緑青

・燕脂

・空青

・丹

・朱砂

・胡粉

豹虎皮

・藤

・茶碗

・籠子

・犀生角

・水牛如意

・瑪瑙帯

・瑠璃壼

・綾

・錦

・羅

・緋

の襟

・象眼

・繧繝

・高

麗軟錦

・浮線綾

・呉竹

・甘竹

・吹玉等なり。

等があげられている。これを分類すると、沈香より白檀ま

での

一〇種類が広くアジアに産する香料

(香薬)類、白檀

・赤木

・紫檀が貴木、蘇芳が染料、陶砂は陶土、紅雪以下

檳榔子

にいたる九種類は薬品、このうち雄黄は砒素の硫化

物、可梨勒は緩下剤薬として貴族社会でさかんに服用され

た。「吉備大臣入唐絵巻」

にも、吉備真備が唐

の役人

に可

梨勒を飲まされた場面が描かれているほどである。次に銅

黄以下胡粉まで六種類は顔料である。これらの品々は、宋

で生産

されたものばかり

でなく、南海からもたらされた

品々も多くふくまれ、海商とよばれる交易商人が、幅広い

産地

の唐物を扱

っていたことが明らかである。

『新猿楽記』は、十

一世紀半ば

の成立とされるが、唐物

の内容

については九世紀以来大きな変化はなか

ったと思わ

れる。これ以外

にも、書籍や鸚鵡

・孔雀

・鴿

・白鵝

・羊

水牛

・唐犬

・唐猫

・唐馬などの鳥獣類、唐紙

・唐碩

・唐墨

   

などの文房具類がもたらされたことが知られている。

また、やはり

『源氏物語』より時代は下るが、入宋した

僧の成

尋が著した

『参天台五台山記』

の延久四年

(一〇七

二)十月十五日条

では、宋

の神宗皇帝から、日本では宋の

どんな品物を求めるかと書状で尋ねられて、「香

・薬

・茶

(碗)・錦

・蘇芳等」と答えている。唐物

でどのような

品が日本で持てはやされ、垂涎の的

であ

ったかをうかがわ

せる格好

の資料であろう。

東アジア交易圏

の形成

ならば、こうした唐物を入手する

ルートはどのように形

成されたのであろうか。遣唐使が廃

止された後

の外交史や

交易史の転機を、続

いて東アジア世界の視点から問い直し

てみたい。

一言でいえば、唐が滅亡した十世紀前半は、古

代東アジア世界の国際的な政治秩序

の崩壊期であり、かわ

って経済的な東アジア交易圏が形成

された時期

であ

った。

この東アジア交易圏の形成

の問題を、歴史学における東ア

ジア世界論の展開から見

ていこう。

戦前にあ

っては、近代国民国家の観点から

一国史が追求

されがちであ

ったが、戦後

の歴史学

ではその反省

に立

って、

世界史

の文脈

のなかで日本史を捉え

ようとする試

みが、

「東アジア世界」を合言葉

に行われてきた。とく

に古代史

にあ

って、「東アジア世界」

の視点

の有効性を説

いて影響

 ヨ 

力があ

ったのが、西嶋定生

の古代東

アジア世界論であ

った。

そこでは、古代日本の歴史と文化を東アジアの歴史や文化

君る光寳断館艫鴻85

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一環

として捉え返そうとする理論が展開されたのである。

西嶋

はまず、中国王朝の政治的権力や権威によ

って漢字

・儒教

・律令

・漢訳仏教といった文化が伝播された世界と

して、東アジア文化圏を定義する。それは空間としていえ

ば、中国

・朝鮮

・ヴ

ェトナム

・日本をさす。そして、その

基盤として冊封体制-中国の皇帝と周辺諸民族の首長との

間の官爵授受による政治圏形成を重視するのである。西嶋

の冊封体制論については、冊封体制だけによ

って東アジア

文化圏

を形成できるか、冊封体制は東アジア文化圏の

一つ

の契機

にすぎない、とい

った堀敏

一説を受けた李成市の批

   

判もあ

る。しかし、李成市も東アジア文化圏の形成を冊封

体制のみならず、多様な要因からたどるべきだとするので

って、古代における東アジア文化圏そのものの存在を否

定するものではない。また李は、冊封体制に朝貢関係を加

   

えて清

代までの中華的秩序をみる濱下武志の説も紹介して

いる。

遣唐

使による朝貢が、中国文化

の受容にぬきがたく重要

な契機

であ

った

一方、逆に日本が宗主国とな

って冊封

・朝

貢によ

る中華的秩序の形成は、海彼

の使節を待遇する平安

朝廷

の原理でもあ

った。六世紀以降、日本は冊封体制から

離脱したが、それは東アジア文化圏からの離脱を意味する

ものではなか

った。六世紀以降

の日本は百済

・新羅を藩国

とみなし、蝦夷や隼人を夷狄とみなして、東夷の小帝国を

自負していた。そのことが中国王朝との冊封関係から離脱

しても、積極的に中国文化の摂取を必要とした理由と考え

  

 

られる。

しかし、十世紀初頭に唐が滅亡し、それと連動して周辺

の諸国が滅んだことにより、東アジ

ア世界

の国際的な政治

秩序は崩壊し、かわ

って経済上の東

アジア交易圏が前景化

し、文化圏をささえることになる。唐末

・五代における経

済力の発展を背景として、国際的な政治秩序

は崩壊した後

も、中国

・朝鮮

・ヴ

ェトナム

・日本を越えて東南アジア

インドまで、活発にして大規模な国際交易関係が出現した

というのである。ただし西嶋

にひと

つ批判を加えるとすれ

ば、東アジア交易圏を支えたのは、中国社会の経済力ばか

りでなく、諸国家

の経済力

の伸長があ

った点を挙げられる

だろう。

   

また西嶋は、東

アジア交易圏の特徴として、森克己など

に依拠しながら、経済的な交易圏を支える政治的機構の欠

如、私貿易という形態、営利と共に海賊の危険を挙げてい

る。しかし、東アジア交易圏を私的

(民間)交易とするこ

ぼ 

とについては、山内晋次

の鋭い批判

もある。山内は、諸国

家は自己の支配秩序

へ私貿易を取り込むシステムを構築し、

また海商側もそれを利用したとして、東アジア交易圏の実

6 

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態を

より詳細にたどろうとしている。

唐物

の二つのルート

ころで東アジア交易圏の中の日本

で流通する唐物は、

中国大陸から大宰府を経由してもたらされることが多か

た。しかし、中国から舶載された唐物ば

かりでなく、『源

氏物語』

の中には、別の交易

ルートからもたらされた品々

があり、それが案外、重要な役割を担

っていることにも気

づかされる。

うど

そのころ、高麗人の参れる中に、

かしこき相人あり

けるを聞こしめして、宮

の内に召さむことは、宇多帝

いましめ

こう

かん

の御

誡あれば、

いみじう忍びてこの皇子を鴻臚館

遣はしたり。御後見だちて仕うまつれる右大弁の子の

やうに思はせて率

てたてま

つるに、相人おどろきて、

あまたたび傾きあやしぶ。「国

の親となり

て、帝王の

上なき位にのぼるべき相おはします人の、そなたにて

見れば、乱れ憂ふることやあらむ。朝廷のかためとな

りて、天の下を輔くる方にて見れば、またその相違ふ

べし」と言ふ。

(桐壺三九ー四〇)

いましめ

「宇多帝

の御

誠」、いわゆる寛平の御遺誡

から、か

   

つて宇多朝

の対外意識

について、論じたこともあるが、こ

うど

こでは

「高麗人」という設定

の意味から、この場面に注目

してみたい。

桐壷巻で、七歳

の光源氏が高麗人の相人

(人相見)から将

来に関わる重大な予言を受けたこと

は、あまりにも名高

ぼっかい

が、この相人の出自が、渤海国

(六九八~九二六)からの

使節として設定されていたことは、

それほど知られていな

い。むしろ

「高麗人」という表記からは、九三五年に新羅

こう

らい

を滅ぼし、朝鮮を統

一した高麗国からの来訪者をイメージ

させるし、実際そのような説が有望視された時期もあ

った。

『源氏物語』が成立した

一条天皇の時代、朝鮮半島を支配

していたのは、まぎれもなく高麗であ

ったからである。

しかし、高麗と日本の間ではついに正式な国交は開かれ

ず、平安京の迎賓館ともいう

べき鴻臚館に使者が滞在した

こともなか

ったからである。さら

に、『源氏物語』

の始発

の桐壺巻は、作者紫式部が生きた

一条朝より、ほぼ百年前

の時代の雰囲気をイメージさせるように語り進められてい

こうらい

るとすれぼ、この

「高麗人」は、高麗国が新羅を滅ぼす以

前の使節とみるのが穏当であろう。

それでは、この

「高麗人」が、新羅からの使節の可能性

があるかといえば、新羅と日本

の間は、当初

の問は、正式

な国交があ

ったものの、七世紀後半

から険悪な関係になり、

平安時代

には正式な国交も途絶えていた。新羅でな

いとす

れば、平安時代の鴻臚館に滞在した

のは、どこの国の使節

君る光訳断館艫鴻87

Page 6: 八 七 六 五 四 三 ニ ー一 梅 大 『源 平 高 唐 東 は 枝 宰 安 麗 物 ア … · 東 ア ジ ア と の 外 交 関 係 や 交 易 事 情 を め ぐ る 歴

なのか。それが、新羅の北方に位置する渤海国なのである。

七世紀の終わりに建国され、唐を模倣した文化的国家と

して見

る見るうちに頭角を表した渤海国は、しかし十世紀

初頭

に滅び、後代に継承する国を持たなか

ったためか、謎

めいた存在として

一九九〇年以降に、渤海国ブームを巻き

こし

た。渤海国の歴史や、日本との交流についても、そ

の時期

に調査が飛躍的

に進展したのである。

一九九〇年以

降、上

田雄

・孫栄健

『日本渤海交渉史』

(六興出版、

一九

九〇)、上田雄

『渤海国

の謎』

(講談社現代新書、

一九九

二)、中西進

・安田喜憲編

『謎の王国

・渤海』

(角川選書、

一九九

二)、「アジア遊学6

特集-渤海と古代東アジア」

(勉誠出版、

一九九九

・七)、濱田耕作

『渤海国興亡史』

(吉川

弘文館、二〇〇〇)、石井正敏

『日本渤海関係史

研究』

(吉川弘文館、二〇〇

一)が相次

いで出版された。

こうし

た研究

により、当時の渤海国の使節との交流や交易

がいかなるものであ

ったのか、その実態がかなり判明した

ので、以下それらの成果に導かれながら、平安時代

の渤海

国と

の文化交流と交易

の実態を概観していきた

い。

高麗を名乗る渤海国

中国

の東北部、朝鮮半島よりさらに北

の旧満州国の辺に

建国さ

れた渤海国は、新羅によ

って滅ぼされた高句麗の遺

民により建国された。日本に対しても、高句麗の後裔とし

て、高麗国を名乗り、隣国の新羅とは緊張関係に陥りがち

であ

った。それだけに大唐国や日本との外交を積極的に展

開することで、文化的な国家を維持しようとしていたので

ある。

渤海国が最初に日本

に使節を派遣

したのは、神亀四年

(七二七)九月に始まり、出羽に使節八人が到着し、翌年

だい

げい

正月には、渤海郡王の大武芸の啓書

(国書)を聖武天皇に

かたりけな

差し出した。その際、国書には、「武

忝くも列国に当た

らんそう

たも

り、諸蕃を濫惣し、高麗の旧居を復

して、扶余

の遺俗を有

てり」と自らを紹介し、高句麗

の再興をめざした王権であ

ることと、日本と隣好

の交流を求め

ることを伝えて、あわ

だい

せて貂皮三百張を献上した。続

いて、大武芸を継承した大

きん

欽茂の使節が天平十

一年

(七三九)七月に出羽に到着した。

同十月、平城京に入京し、大使が死亡していたため、副使

が啓書と、信物

(方物)と呼ばれる献上品として、大虫皮

(虎皮)・羆皮各七張

・豹皮六張

・人

参三十斤、蜜三斗を

差し出したと、『続日本紀』

には記されている。

さらに大欽茂は、天平勝宝四年

(七五二)に第二回目の

使節を送るが、九月に佐渡島に着

いた使節は、翌年五月に

入京して、啓書と信物を差し出した。この際、孝謙天皇か

ら返された勅書

には、『高麗旧記』

を引用して、かつて日

  

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本と高句麗とは君臣の関係

にあり、高句麗の後裔を名乗る

渤海

の啓書に、日本の臣下

であることを示す表現がないこ

とを咎

めている。その経緯は、唐との関係から日本と対等

の外交関係を求める渤海と、臣下として朝貢

の関係を求め

る日本

の朝廷との間で葛藤が生じはじめたことを物語

って、

興味

ぶかい。

の後、渤海国からの次の使節は、天平宝字

(七五八)

十二月

に越前から入京し、大使

の楊承慶は口奏で大欽茂を

「高麗国王しとし、表面上は日本の姿勢

に従うかのようで

った。そもそも唐

に遣唐使を派遣し、朝貢をしている立

場の日本が、「東夷の小帝国」を自負し、三韓時代の神話

に固執

して、渤海にも新羅にも日本

への朝貢を求めたこと

は、国際外交の上では滑稽であ

った。そのため新羅との国

交が断絶したのに対して、渤海は結局のところ実利を選ん

だと

いう

べきか。ともかくも、渤海国の使節がなぜ日本の

朝廷

「高麗人」として扱われたのか、その起源をたどれ

ば以上

のような次第であ

った。

平安時代の渤海国交易

て、渤海国からの日本

への使節の来訪は、平安時代に

も続き、平安遷都の翌年

の延暦十四年

(七九五)'十

一月、

すうりん

大欽茂の後継者の大嵩燐からの使節が出羽に到着し、越後

に移され、翌年、国書と方物を献

じている。その後も渤

海使

の派遣は、醍醐朝の延喜十九年

(九

一九)まで、二十

数回にも及んでいる。渤海使

の当初

の目的は、共通の敵で

ある新羅を牽制しようとする軍事的

なものだ

ったが、平安

期に入ると、むしろ文化交流や、交易の利を求める経済的

な目的が主にな

ってくる。渤海から

の朝貢が建前である以

上、使節

のもたらす信物より、日本

から返す信物の方がは

るかに多か

ったからである。

渤海国の使節は日本海を渡り、おおむね出羽から若狭

かけて日本海側に寄岸した。そこから正式

の使者と認めら

れると、平安京の鴻臚館に迎え入れられた。平安朝廷は、

渤海国からの使節を対等な国家使節としてではなく、あく

まで朝貢使として接待し、官爵と回賜の品々を与えるとい

う扱

いであ

った。もとより使節は朝

貢の信物をもたらすだ

けでなく、

一方で抜け目なく交易用

の品々

(「遠物」「和市

物」)を持参していたが、それは平安朝廷の建前

からすれ

ば、あくまで朝貢関係

に付随する交

易であ

ったのである。

渤海国の使節を賓客として受け入れることは、朝廷側の負

担も大きいので、日本側から六年を

一貢、さらに十二年を

一紀として

一貢と制限をもうけて、

渤海側に申し入れた。

それを守らない使節には、入京を許

さないこともあ

ったの

である。

君る光v行に館艫鴻89

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れて入京を許され、鴻臚館

に到着した使節は、まず国

書と、方物

(信物)と世ばれる献上品を朝廷に差し出し、

信物

は内蔵寮に収められる。その後、使節には官位と朝服

が与

えられ、引見や賜宴の儀があ

った。また使節は、天皇

や高官

に別貢物と称する個人的な献上をしたり、鴻臚館で

くらつか

えんもの

内蔵

寮の官人と

「遠物」

(積んできた交易品)を交易した

り、和

市を開

いての民間との交易がある場合もあ

った。こ

の辺

の事情については、『日本紀略』や

『扶桑略記』に詳

しい。主たる交易品は、最初の使節が貂皮三百張、二度目

の使節

が大虫皮

・羆皮各七張

・豹皮六張をもたらしたよう

に、

毛皮であ

った。そして渤海側が朝貢の形をと

った対価

あしぎぬ

とし

て朝廷

から得たのが、絹

・絶

・糸

・綿などの繊維製

の原料

であ

った。それは延喜式

の規定に拠れぼ、「絹三

十疋

・絶三十疋

・糸二百絢

・綿三百屯」であ

った。

渤海国使の信物の記録はけ

っして多くはないが、貞観十

三年

(八七

一)年暮に来朝し、翌年五月に入京した渤海国

使

の折も、大虫皮

・羆皮各七張

・豹皮六張

・蜜五斗が信物

とし

てもたらされたことが明らかにな

っている。この時は、

朝廷

への正式な信物のほかに、五月二十日にも内蔵寮と交

易を

おこない、翌日

には平安京

の官人、さらに二十二日に

京市

の商人とも交易したことが明らかにな

っている。さら

に大使楊成規は、清和天皇と皇太子に別貢物として貂皮や

 む 

麝香、暗模靴を献上した。他

の渤海使の入京の折も、交易

品として多量の毛皮がもたらされたであろうことは、延喜

式の弾正令で貴族

の着用の基準を定

めていることからもう

かがえる。それは、渤海国からの毛皮が、平安京の冬

の寒

さを凌ぐ貴重品として、貴族

の問で

いかに重宝されたかを

彷彿とさせる条令

でもあ

ったのであ

る。

ところで、渤海国使を迎えて、入京から帰朝までの接待

役となる渤海客使らには、眉目秀麗

で漢詩文に熟達した文

人が選ばれ、互いに共通理解

のできる漢詩文を贈答するこ

とで、意志疎通をはかっていた。渤海国の使節の大使

・副

使クラスも、武官に替わ

って漢詩に秀でた文官が任命され、

日本

での詩宴

にそなえることが多くな

った。早くは

『経国

集』に天平勝宝四年

(七五二)に来朝した渤海国副使楊泰

の漢詩二首が入集されている。特

に弘仁年間

(八

一〇-

八二三)では嵯峨天皇が渤海使の来

朝を歓迎したこともあ

って、宮中で漢詩の宴がしばしば開

かれ、たとえば

『文華

秀麗集』には、弘仁五年

(八

一四)年来朝した渤海国大使

の王孝簾の詩や、それに応じた坂上今継などの詩が撰ばれ

ている。また弘仁十二年

(八二

一)来朝した渤海使が豊楽

殿での宴席で披露した打毬

(ポ

ロのような球技)に感激し

た嵯峨上皇と滋野貞主

の漢詩が

『経国集』に残されている。

弘仁期と並んで貞観期

(八五九-

八七六)も文化交流は

09

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盛ん

で、貞観十三年

(八七

一)十二月に渤海国使が来朝し

た折

には、詩人としても官人としても頭角を現し始めた菅

原道真

や都良香が渤海客使に選ばれている。また元慶六年

はいてい

(八八二)に渤海国大使の斐麺が来朝した際にも、菅原道

真と嶋

田忠臣という当代に並び称される文人がともに接待

となり、鴻艫館の送別の宴

で交わした漢詩

『菅家文

草』

(道真の家集)や

『田氏家集』

(忠臣

の家集)に十六首

残さ

れている。また、菅原道真はこの折、大使の斐麺をは

じめ渤海国氏使が作

った漢詩

五十九首を軸

に編集

して、

「鴻艫館贈答詩序」という序文を

つけ、斐題に贈

ったらし

い。そ

の序

に拠れば、斐廸には詩才があるので、道真は嶋

田忠臣

と相談の上、予め準備せず、その場で即興

の詩を

くり、

日本

の風雅の水準の高さを示そうとした

のであ

(『菅家文草』巻七)。

『源氏物語」のなかの高麗人

『源氏物語』に話を戻すと、桐壺巻での第二皇子

(後の

光源氏)高麗の相人との対面では、前半

の謎め

いた予言ば

かりが

クローズアップされてきた観がある。しかし、渤海

国の使節との文化交流や交易という面では、むしろ後半の

相人と右大弁と第二皇子が漢詩を作り交わし、そして相人

が七歳

の第二皇子の異能ぶりを賛美して、渤海国から持参

した品々を多く贈

ったという

一節

の方が、はるかに興味ぶ

かい問題をはらんでいる。

弁も、いと才かしこき博士にて、言ひかはしたるこ

とどもなむいと興ありける。文など作りかはして、今

日明日帰り去りなむとするに、

かくありがたき人に対

面したるよろこび、かへりては悲しかるべき心ば

へを

おもしろく作りたるに、皇子も

いとあはれなる句を作

りたま

へるを、限りなうめでた

てまつりて、いみじき

贈物どもを捧げたてま

つる。朝廷よりも多くの物賜す。

(桐壷四〇)

右大弁が送別の漢詩

の名句を作

ったのは、延喜八年

(九

〇八)六月、相人と右大弁と光源氏

で交わされた漢詩の中

で、大江朝綱

「夏夜鴻臚館に於

いて北客を餞すの序」

(『本

朝文粋』『古今著聞集』所収)の

一節、

前途程遠し

思ひを雁山の暮雲

に馳す

後会の期遥か

うるほ

なり

纓を鴻艫

の暁の涙に霑す

はいちん

が、大使斐膠を感涙させるほどの名

句として人口に膾炙さ

れ、『和漢朗詠集』にも収められた

ことから連想されたと

君る光剥断館艫鴻91

Page 10: 八 七 六 五 四 三 ニ ー一 梅 大 『源 平 高 唐 東 は 枝 宰 安 麗 物 ア … · 東 ア ジ ア と の 外 交 関 係 や 交 易 事 情 を め ぐ る 歴

   

いう説

もあるほどである。また、

一説には、右大弁には、

鴻艫館

で活躍した左大弁菅原道真

の面影があるとも

いわれ

る。たしかに相人と右大弁と光源氏

の対面の場面は、天皇

主催

の賜宴より、日渤を代表する文人たちが、漢詩の才を

った鴻艫館の送別の宴

の雰囲気を髣髴とさせるものであ

ろう。鴻艫館でのさまざまな詩宴

の記憶を、『源氏物語』

では、

三者が漢詩を交わすこの場面に溶かしこめたともい

えよう

か。

『源氏物語』

に先行する長編物語

『宇津保物語』の首巻

「俊蔭

」でも、

七歳になる年、父が高麗人にあふに、この七歳なる

子、父をもどきて、高麗人と詩を作り交はしければ、

おほやけ聞こしめして、あやしうめづらしきことなり。

いかで試みてみたいと思すほどに、十二歳にてかうぶ

りし

つ。

(俊蔭)

とあるように、七歳の俊蔭が父を見習

って渤海国使と漢詩

を作り交わした異能ぶりが賞賛されている。俊蔭の父清原

の王も、菅原道真や紀長谷雄が歴任した式部大輔左大弁

ポスト

にあり、おそらく渤海客使とな

って高麗人と会

った

という場面設定

であろう。

つまり、「俊蔭」

の場面も、日

の文人たちの鴻艫館での文化交流

の経緯を踏まえたもの

であろうし、桐壷巻

への影響が指摘

されるところでもある。

ただし、この条には渤海国との朝貢交易を暗示する記述

がないのに対して、桐壺巻

での高麗

の相人の光源氏

への贈

り物は、むしろ渤海国からの朝貢品

や交易品を連想させる。

『源氏物語』が先蹤として

『宇津保物語』だけを意識して

いたわけではな

いのは明らかで、「いみじき贈物

ども」と

は朝廷に収める

「信物」や交易品の

「遠物」の毛皮類より、

かつて渤海大使

の楊成規が清和天皇

と皇太子に貂皮や麝香、

暗模靴など洒落た品を献上したよう

に、貴人

への

「別貢

物」のようなイメージで捉えるべきかもしれない。

すでに述

べたように、渤海国との通交

については、日本

が朝貢交易を求めたのに対して、渤海国が初回から対等の

関係を求めていたという葛藤が、記録類には刻まれていた。

しかし、『文華秀麗集』『経国集』

の勅撰詩集

をはじめ、

『菅家文草』

『田氏家集』『本朝文粋』からは、渤海国と日

の文人相互

の美しい文化交流の幻想が紡がれるばかりで

ある。桐壷巻では、こうした文化交流

の場を意識しながら、

相人と光源氏

一回的な交歓の場面

を描き出したといえよ

うか。

そして敢えていえば、それは日本

と渤海国との文化交流

の終末の光景

でもあ

った。渤海国はやがて衰亡し、その使

29

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節は延喜十九年

(九

一九)を境に日本

に来なくなり、都の

鴻臚館を舞台とした文化交流や交易も途絶えたのである。

延喜年間は、高麗を称する渤海国との交渉が終焉すると同

に、また中国大陸との交易も変貌するという、対外関係

の上での

一大転換期

であ

った。言い換えれば、東アジア

文化圏の崩壊から東アジア交易圏

へと、歴史

の流れが大き

く切り換わ

った時期だ

ったのである。

壼巻の高麗の相人も、渤海国の使節であり、光源氏と

の対

面は、東アジア文化圏が崩壊し、日本と渤海国との外

交が終焉する直前

にもたれたという設定であ

った。高麗の

相人が予言

と贈物、そして桐壺巻末

で明かされるよう

「光

る君」の呼名を奉

ったことは、主人公の人生を大きく

決定

することにな

ったが、その背景

にこうした歴史的経緯

があ

ったことを押さえておきたい。

大宰府貿易の変遷

最後

に東アジア交易圏の形成という観点から、大宰府を

経由

した交易の変遷を振り返

ってみたい。平安初期では、

唐船が博多周辺に到着すると、大宰府はその報告を朝廷に

し、日本での滞在を許可するか否かの伺

いを立てる。朝廷

から許可されると、唐船の乗員は、大宰府

の出先機関であ

る博多

の鴻艫館に迎えられる。朝廷からは蔵人所

の官人か

ら唐物使が任命され、大宰府に派遣された。そして唐物使

が、朝廷

の必需品をまずは買

いつけ

るという、いわゆる先

買権を掌握した形での交易が進められ、その後

に民間との

 ね 

交易が許されるのが原則であ

った。

延喜三年

(九〇三)、

太政官が出した禁制によると、唐船

が到着した際、「諸院

諸宮諸王臣家」が、

つまり都に住む皇族や貴族層が争

って

使者を出して、「遠物」(交易品として積んできた唐物)を

い漁るので、その値段が釣り上がり、朝廷が先売権を行

使して適当な価

で貨物を購入できな

いとして、皇族や貴族

や社寺の諸使が関を越えて私的に唐物を買うことを禁止し

ている。当時、

いかに唐物が都の貴族や富裕な階層

にもて

はやされていたかがうかがわれよう。

ところが、延喜七年

(九〇七)、大唐国が

ついに滅亡し、

東アジア世界の国際秩序が崩壊し、

それにともな

い醍醐朝

が政策を転換しはじめたことも相俟

って、朝廷が外国との

交易を直接に管理しようとする規制力は弱ま

ってくる。延

喜九年

(九〇九)、蔵人所

から派遣

されていた唐物使を廃

止して、必要品のリストを大宰府

に送り、買い上げさせる

という経費節減の方式がとられるようにな

った。も

っとも、

この時、醍醐天皇は、買い上げさせた唐物と孔雀を親閲す

「唐物御覧」により、唐物使廃止

の制度とのバランスを

 お 

取ろうとした。しかし延喜十

一年

(九

)には、外商の

君る光叡断館艫鴻93

Page 12: 八 七 六 五 四 三 ニ ー一 梅 大 『源 平 高 唐 東 は 枝 宰 安 麗 物 ア … · 東 ア ジ ア と の 外 交 関 係 や 交 易 事 情 を め ぐ る 歴

来航を三年に

一度に規制し、鴻艫館

で賓客としてもてなす

費用も節減しようとした。山内晋次

のいうように、中国海

商と

の交易も国家が管理するという姿勢はくずさな

いもの

の、しばしばその権限を唐物使でなく、大宰府にゆだねる

方針が採られたのである。その後、延喜十九年

(九

一九)

に、唐物使は復活したものの、その後は在廃をくり返して、

十二世紀にはま

ったく廃止されてしまう。

つまり延喜年間以降、日中貿易

では、朝廷主導

の交易か

ら転じ

て、出先機関であ

った大宰府がしだいに唯

一の窓口

となり、対外貿易を管理する権限を

一手

に掌握するに至

たのである。権帥や大弐など大宰府の高官たちは、海外の

珍品を

入手する利権を享受することになる。紙

・香

・布を

はじ

め、貴族生活の優雅さに不可欠であ

った舶載品は、大

宰府

と直結し、博多

の鴻臚館は、対外交渉の場というより

交易所

として繁栄をきわめたのである。

こで権帥や大弐など大宰府

の高官たちの利権

に目を

けた摂関家は、自分たちの息

のかか

った人物や家司クラス

を任命

することで、良質の舶載品を確保するようになる。

権帥

や大弐は、朝廷から任された唐物

の買

い付けを行

った

はかりでなく、摂関家に極上の唐物を献上した。こうした

大宰府

高官と摂関家の癒着

の構造が、朝廷中心の対外貿易

から

の質的転換にさらに拍車をかけたのである。

対外貿易の利権を

一手

に掌握した大宰府の役人が、いか

に巨額の私財を蓄えうる立場にあ

ったか、史実に目を向け

るならば、『小右記』

に見える藤原隆家や藤原惟憲

の例な

どに顕著である。ともあれ、東アジ

ア文化圏の崩壊から東

アジア交易圏

の形成という推移、交

易の形態が政治的な意

味をも

つ国家間の公的朝貢と交易から、海商による民間交

ヘシフトするという変化の兆しは、大宰府交易の変遷に

もうかが

い見ることができるのである。

梅枝巻と大宰府交易

『源氏物語』の展開を先取りする

ことになるが、光源氏

三十九歳

の春を語る梅枝巻でも、大宰府の次官である大弐

が、時の太政大臣である光源氏

に香や綾

・羅を献上したこ

とが明らかになる。

正月のつごもりなれば、公私

のどやかなるころほひ

に、薫物合はせたまふ。大弐

の奉れる香ども御覧ずる

に、なほいにし

へのには劣りてやあらむと思して、二

条院

の御倉開けさせたまひて、唐の物ども取り渡させ

たまひて、御覧じくらぶるに、

「錦、綾なども、なほ

古き物こそなつかしうこまやかにはありけれ」とて、

近き御しつらひのものの覆

ひ、敷物、褥などの端ども

に、故院の御世のはじめつ方、高麗人の奉れりける綾、

49

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金錦どもなど、今の世の物に似ず、なほさまざま御

じ当てつつせさせたまひて、このたび

の綾、羅など

は人々に賜す。

(梅枝四〇三ー四)

梅枝巻

の冒頭で、光源氏は、薫物をはじめ、愛娘である

明石姫

君の裳着の準備に没頭し、大宰大弐から献上された

香料や綾

・羅を検分している。明石姫君は裳着に続いて、

すぐ

に東宮

のもと

へ入内の予定

であり、裳着の調度はその

まま入内の調度となるので、光源氏もここぞとぼかり力が

入る

のである。

ころで、この場面で大宰大弐

からの献上品が明らかに

なる設定も、朝廷が先売権を掌握しようとした交易から、

大宰府

の管理にお任せの交易

へと時代が推移した歴史的経

緯を取り込んでいるだろう。しかし見落としてはならない

のは、大弐が吟味に吟味を重ねて献上したであろう極上の

唐物

に、光源氏が手放しで有難が

っているわけではなく、

むしろ旧邸の二条院の倉を久方ぶりに開

いて、蓄えられて

いた古

渡りの唐物と比較し、少しでも品質が落ちるものは、

容赦なく女房たちに下げ渡していることである。そこには、

大宰府

の官人が交易を管理し、また時

の権力者におもねる

風儀

に対する、

一種の批判意識のようなものさえ感じられ

るのではないか。

そし

て、明石姫君の調度

の敷物や褥などの縁には、まさ

に桐壷巻

での高麗人からの贈物

であ

る綾や緋金錦を使うこ

とにしたのである。同じ舶載品とい

っても、大弐の献上品

と、高麗人の贈物では、時間的

にいえば、ちょうど三十年

のタイムラグがあるわけだが、

この二種類の唐物には空間

の上でも入手ルートにあなどりがた

い差異があ

ったのであ

る。

つまり梅枝巻では、渤海国交易、大宰府経由の貿易と

いう二つの違う交易

ルートからの唐物が交差している。し

かも、そこには、交易ルートという空間の問題ばかりでな

く、渤海国の交渉とその終焉や、また中国との交易も質的

に変貌する対外関係史上の

一大転換

期という時間的変遷の

意識も刻まれていたのである。

大宰府の官人たちが対外貿易

への利権を有したこと

への

批判意識は、大宰府の三等官である大夫監を玉鬘巻で、夕

顔の遺児玉鬘

の求婚者として登場させ、戯画的

に描いたと

ころからもかいま見れよう。

そもそも

「監」という官職は、在地

で任命される大宰府

の三等官であり、さらに

「大夫」が

つくのは、監のなかで

も、従五位に叙せられたという、

いわば実力者である。そ

の大夫監は、肥後国に

一族

の多い土着

の豪族で、およそ玉

に釣り合わぬ無骨者として紹介される。しかし彼が、大

宰府

での日中交易に直接に関わりう

る立場にあ

ったことは、

玉鬘

への求婚の手紙を送るに際して、

君る光叙断館艫鴻95

Page 14: 八 七 六 五 四 三 ニ ー一 梅 大 『源 平 高 唐 東 は 枝 宰 安 麗 物 ア … · 東 ア ジ ア と の 外 交 関 係 や 交 易 事 情 を め ぐ る 歴

手などきたなげなう書きて、唐の色紙かうばしき香

に入れしめつつ、をかしく書きたりと思ひたる、言葉

ぞいとたみたりける。

(玉鬘九五)

とあ

り、唐物を代表する

「唐

の色紙」や

「かうぼしき香」

を使

っていることからも明らかである。特に唐

の紙は、鮮

やかな色彩と雲母刷りが特徴

で、光源氏でさえも、朝顔姫

君や朧

月夜といった相手

の消息

にしか使わな

いような貴重

な品

であ

った。ここでの

「唐

の色紙」は、田舎者まるだし

の大夫

監には分不相応なものとして印象づけられている。

しかし、これは

一方では、大夫監が大宰府の三等官として、

博多

の鴻臚館での交易に直接関わりうる立場

であ

ったこと

を鮮

やかに示す指標でもあろう。しかし、当時、台頭して

きた大宰府の在庁官人

の曲ハ型ともいえる立場

の大夫監を、

『源氏物語』では徹底的

に戯画化することで、そうした交

システム

への批判意識をあらわにしたともいえるのでは

ないか。

梅枝巻の冒頭の場面

にもどると、いにしえの渤海国との

交流と、現在

の大宰府経由の日宋貿易という二つの時代の

唐物が交差することで、光源氏は

一面では他の登場人物た

ちよりも物質的に優位

にあるという幻想をかきたてる。光

源氏

は、そうした極上の唐物

によ

って、物語の主人公とし

て荘厳されているともいえる。しかし

一方で、大宰府交易

の舶

に検

から

の舶

に軍

いる

であ

『源

の東

アジ

の崩

の形

いう

歴史

への批

りげ

アジ

の物

の面

いえ

か。

注(1)

榎本淳

「「国風文化」と中国文化L『古代を考える

唐と

日本』吉川弘文館、

一九九

二。

(2)

森克己

『日宋文化交流

の諸問題』国立書院、

一九四八。

(3)

西嶋定生

『古代東アジ

ア世界と日本』岩波現代文庫、

二〇

・ '

(4)

李成市

『東

アジ

ア文化圏

の形成』山川ブ

ックレット、

二〇

・ '

(5)

濱下武志

『朝貢

システムと近代アジ

ア』岩波書店、

一九九

七。

(6)

西嶋、前掲書、

一四八頁。

(7)

森克己

『日宋貿易

の研究』国立書院、

一九四八。

(8)

山内晋次

『奈良平安朝の日本とアジア』吉川弘文館、二〇

〇三。

(9)

拙稿

「源氏物語

の時空意識」「解

釈と鑑賞」二000

・1

二。

(10)

濱田耕作

『渤海

国興亡史』吉川弘文館、

二〇〇〇。

69

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(11)

『新編日本古典文学全集

源氏物語

一』補注。本文

の引

もそれ

に拠

る。

(12)

森克己

『日宋貿易の研究』国立書院、

一九四八、田村圓澄

「大宰府、鴻臚館、そし

て博多商人」『大宰府探求』吉川弘

文館、

一九九〇。

(13)

保立道久

『黄金国家』青木書店、

二〇〇四。

鴻艫館に行 く光る君97