42
���� ������������������ �� ��� �� �� The next best thing to saying a good thing yourself, is to quote one. Ralph Waldo Emerson �������������������� Hypnotize Call me up when you thought of somethin' new for me to do girl Hypnotize Call me up when you thought of somethin' new for me to do girl How could your nothings be so sweet? You left your love letters incomplete Ooh, what the girl got nothing to do Mmm, but she got that much for you Ooh, what the girl been puttin' you through Mmm, but she she got that much for you Down on the beach and out in the bay Ooh, but I heard the sirens say You better believe her Or you better leave her now or never Hypnotize How'd you come to be having fun with everyone but me girl? Forgot to tell me Something good You, a word, knew you would Hypnotize How'd you come to be having fun with everyone but me girl? How could your nothings be so sweet? You left your love letters incomplete

紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

  • Upload
    ledan

  • View
    233

  • Download
    3

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

紙と饗宴 ─ポストモダンとニュー・アカデミズム

佐藤さと う

清せい

文ぶん

“The next best thing to saying a good thing yourself, is to quote one”. Ralph Waldo Emerson

なんとなく、ポストモダン─モードとしての

Hypnotize Call me up when you thought of somethin' new for me to do girl Hypnotize Call me up when you thought of somethin' new for me to do girl How could your nothings be so sweet? You left your love letters incomplete Ooh, what the girl got nothing to do Mmm, but she got that much for you Ooh, what the girl been puttin' you through Mmm, but she she got that much for you Down on the beach and out in the bay Ooh, but I heard the sirens say You better believe her Or you better leave her now or never Hypnotize How'd you come to be having fun with everyone but me girl? Forgot to tell me Something good You, a word, knew you would Hypnotize How'd you come to be having fun with everyone but me girl? How could your nothings be so sweet? You left your love letters incomplete

Page 2: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

Ooh, what the girl got nothing to do Mmm, but she got that much for you Ooh, what the girl been puttin' you through Mmm, but she she got that much for you Out on the street, on Avenue A Ooh, but I heard the sirens say You better believe her Or you better leave her now or never (In your eyes) Wanna tell you that your heart keeps rockin' (in your eyes) Wanna tell you that your heart keeps rockin' (in your eyes) Wanna tell you that your heart keeps rockin' (in your eyes) Hypnotize I forget to believe in heaven when I look at you girl GREEN: How could your nothings be so sweet? You left your love letters incomplete Ooh, what the girl got nothing to do Mmm, but she got that much for you Ooh, what the girl been puttin' you through Mmm, but she she got that much for you Ooh, what the girl got nothing to say Mmm, but I love her brand new way Out on the street, on Avenue A Ooh, but I heard the sirens say Oh yeah And it's so hard to tell you That I love you girl (ooh baby) And it's so hard to tell you That I love you girl (ooh baby) And it's so hard to tell you That I love you girl (ooh baby)

Page 3: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

And it's so hard to tell you That I love you girl (ooh baby) And it's so hard to tell you That I love you girl (ooh baby) And it's so hard to tell you That I love you girl (ooh baby)

(Scritti Politti “Hypnotize”) 「ポストモダン(Postmodern)」はファッショナブルで知的な雰囲気を漂わせる一九八〇年代のモードである。「ポストモダン」を冠した数多くの書籍が出版され、ポストモダンを

論じることはカフェバーにおいて欠かせない態度である。こうした時代では、一九八六年

から始まったテレビ・ドラマ『俺がハマーだ!(Sledge Hammer!)』と並ぶ名作と名高い映画『史上最悪のボートレース ウハウハザブーン(Up The Creek)』(一九八四)が劇場未公開だったことも不思議ではない。 けれども、一九九〇年代に入ると、徐々に、ポストモダンを口にするのは、テクノ・ポッ

プやボディー・コンシャスのスーツと同様、時代遅れと見なされるようになる。民衆がベル

リンの壁を破壊したのをきっかけに、東西冷戦構造が崩壊し、多種多様なエスニック・グル

ープが声を上げ始め、世界的に、自閉的で狭量な原理主義や極右勢力、新保守主義、暴力

主義が台頭する。これらは一定の支持を獲得し、政権を担ったケースもあるものの、既存

の政治・経済・文化に対する抗議にすぎない。実際の社会は非線形的あり、そういった反動

的な発想では理解できないことはすぐに察しがつく。流行が終わって、逆に、ポストモダ

ン的認識は人々の間に定着したのである。 「ぼくは今でもわりに、ポストモダンが好きです」と告げる森毅は、『ゆきあたりばったり

文学談義』において、ポストモダンについて次のように述べている。 だからこれは悪で、これは善だというふうに、二元論的になるのはモダンの思想だと

思うのです。モダンの思想では、悪をどんどん取り除いていって、一つのシステムを追

求していくのがいい、そうすれば、どんどん進歩し、成長していくだろうという。でも

今は全体のネットワーク的なものは何かということが問題なのです。ぼくはポストモダ

ンというのを、そういう視点で見ているんです。 モダンの発想は、トム・クランシーの小説の世界のように、素朴で、雑な二項対立であ

る。彼の小説の愛読者が合衆国の軍人に多いというのは合衆国の政治を考える際には参考

になるだろう。これと逆に、ポストモダンが複雑さや多様さへの挑戦であるとすれば、そ

れは非線形認識の発展とパラレルである。アイザック・ニュートンは万有引力の法則と運動

方程式を使って、二体問題を鮮やかに解いている。それは太陽と一個の惑星をおのおの質

Page 4: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

店と見なし、この二点が万有引力によって相互作用する際の運動方程式の解を調べるもの

である。ところが、三つの任意の質量の天体が互いの間に働く引力によってどのような運

動を示すのかを求めることを三体問題と呼ぶが、一般的に、解析的に解を導き出すのは不

可能であり、コンピューターによる数値計算に頼らなければならない。これは典型的なカ

オスであって、本格的に研究され始めたのはパソコンが普及してからであり、ポストモダ

ンの伝播とほぼ同時期である。細分化・専門化が進んだ現代において、ポストモダンは、非

線形現象を扱うカオス学同様、それらを全体的に見直す視点を与え、多様性・複雑性との共

生というわけだ。ポストモダンは、モダンがインディペンデントを志向したとすれば、パ

ラサイトである。 ポストモダニズムは、一九五〇年代頃から、建築・文学・哲学などの領域に登場し始め

ている。モダニズムが世界各地を横断する同時代的かつ明確な方向性を持った運動であっ

たのに対し、ポストモダニズムは拡散する現象である。モダニズムは芸術を単一な原理に

まで純化し、統一的意味を表現する一元的体系の構築を目指していたけれども、ポストモ

ダニズムは現代ではそうした絶対的な中心を見出すことは不可能である以上、意味や価値

の多元性を主張する。そのため、過去との断絶を強調した前者と異なり、後者は進歩主義

と技術革新の要求に反対し、歴史と伝統への回帰も示している。フリードリヒ・ヴィルヘル

ム・ニーチェは、『ツァラトゥストゥラはかく語りき』の中で、精神が「ラクダ」から「ライオ

ン」へと変わり、さらに「幼な子」に至るという三段の変化を遂げると語っているが、それぞ

れプレモダン、モダン、ポストモダンに対応するだろう。 わが兄弟たちよ! なんのために精神においてライオンが必要なのであろうか? 重

荷を背負い、あまんじ畏敬する動物では、どうして十分でないのであろうか? 新しい価値を創造する、──それはライオンにもやはりできない。しかし新しい創造

のための自由を手にいれること──これはライオンの力でなければできない。 自由を手にいれ、なすべしという義務にさえ、神聖な否定をあえてすること、わが兄

弟たちよ、このためにはライオンが必要なのだ。 新しい価値を築くための権利を獲得すること──これは辛抱づよい、畏敬をむねとす

る精神にとっては、思いもよらぬ恐ろしい行為である。まことに、それはかれには強奪

にもひとしく、それならば強奪を常とする猛獣のすることだ。 精神はかつては「汝なすべし」を自分の最も神聖なものとして愛した。いま精神はこ

の最も神聖なものも、妄想と恣意の産物にすぎぬと見ざるをえない。こうしてかれはそ

の愛していたものからの自由を奪取するにいたる。この奪取のためにライオンが必要な

のである。 しかし、わが兄弟たちよ、答えてごらん。ライオンでさえできないことが、どうして

幼な子にできるのだろうか? どうして奪取するライオンが、さらに幼な子にならなけ

ればならないのだろうか?

Page 5: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

幼な子は無垢である。忘却である。そして一つの新しいはじまりである。ひとつの遊

戯である。ひとつの自力で回転する車輪。ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定であ

る。 そうだ、創造の遊戯のためには、わが兄弟たちよ、聖なる肯定が必要なのだ。ここに

精神は自分の意志を意志する。世界を失っていた者は自分の世界を獲得する。 よく知られている通り、イギリスの建築批評家チャールズ・ジェンクスは、『ポストモダ

ニズムの建築言語』(一九七七)において、初めて、「ポストモダニズム(Postmodernism)」という概念を使う。彼はポストモダニズムの建築には少なくとも二つの意味、すなわち建築

のレベルと生活のレベルを伝達するから、意味は多重であると主張する。ただ、これは、

アメリカの建築家ロバート・ベンチューリの著書『建築の多様性と対立性』(一九六六)によって先取りされている。ポストモダニズムは、ル・コルビュジエことシャルル・エドゥア

ール・ジャンヌレ、ヴァルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエといったモダ

ニストの「機能主義(Functionalism)」に異議を申し立て、歴史的様式の遊戯的な引用と自由な折衷とを唱える。 これにはイノベーションの果たした役割が大きい。徐々に、巨大なガラスを製作する技

術が確立され、その上、コンパクトで強力なエアコンが開発されて、寒冷地にも、砂漠に

も、熱帯にも、気候をあまり配慮する必要がなくなる。こうした技術革新により、今まで

とは比較にならないほど、自由な建物を建てられるようになったのである。 さまざまな歴史的素材を自由に引用し、それをコラージュによって多元的に構成したポ

ストモダニズム建築の代表例は、マイケル・グレーブスのポートランド・ビルディング(一九八二)、磯崎新のつくばセンタービル(一九八三)などがある。それらはギリシアやローマ、ゴシックといった歴史的様式が等価的に組み合わされている。 ポストモダニズムは、建築にとどまらず、反体系主義と多元的思考として、すぐに他の

領域にも拡大される。近代哲学・文学は自然科学を理想として、「理性」や「自我」といっ

た単一な原理から演繹的に導き出された体系の構築を試みてきたものの、一九世紀後半以

降の産業革命の登場と共に社会が複雑化し、科学が専門分化していくにつれ、多様な知識

を単一な体系に収納することは不可能であるだけでなく、生産的な認識活動を阻害すると

いう哲学的反省が生まれる。体系に合致しないものは存在すべきではないとして排除され

てしまうホロコーストに帰着する。この歴史を踏まえ、多くの文学者がポストモダン文学

と呼ばれる作品を書き始める。ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、一九四四年、『伝奇集』にお

いて、古今東西の神話や神学や哲学を非体系的に引用する手法を用いて、円環的時間の宇

宙、あるいは迷宮としての世界を描き出す。他にも、トマス・ピンチョンやウンベルト・

エーコ、フリオ・コルタサル、マリオ・バルガス・リョサなどがポストモダニズムを具現

化した作品を著わしている。さらに、映画『シー・デビル(She-Devil)』(一九八九)に登場するメリー・フィッシャーもポストモダニズム的手法を取り入れた作家の一人に数えるべき

Page 6: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

だし、エドワード・ウッド・ジュニアの『エド・ウッドのハリウッドで成功する 100 の方法(Hollywood Rat Race)』がポストモダニズムの傑作であると付け加えなければならない。「もちろんエド・ウッドは映画だけでなく文章においてもとてつもなく個性的だった。ウ

ッドの文章にはいくつか目立って異常な特徴がある。たとえばしつこく冗長なくりかえし

と無意味な羅列。たぶんウッドは華麗な技巧と思っているのだろうが、どう見ても無意味

なものである。あるいは一向に具体性を帯びないまま延々と続く文章。指示代名詞ばかり

の曖昧模糊にして五里霧中な世界で無名俳優たち(ウッドが知っている唯一のハリウッド)

のエピソードが語られる中、ウッドは呪詛と悲嘆をくりかえすのである」(柳下毅一郎『オ

レにやらせろ』)。 こうしたポストモダン現象にはある歴史的状況が可能にしている。ジャン・フランソワ・

リオタールは、『ポストモダンの条件』(一九七九)において、ポストモダンを「一九世紀末に端を発する、科学、文学、芸術の活動規則に影響を与えたさまざまな変化以後の文化の

状態」と定義する。現代の文化状況の特徴は、理性の進歩や自由、革命、人間の解放とい

った近代の信念を支えてきた「大きな物語」が効力を喪失した点である。ポストモダンは、

新たな大きな物語を考案するのではなく、多様化と差異を受け入れ、世界を構成する諸要

素の異質性を感受し、今までとは別の構成規則を求める。「大きな物語」は方向性を持った

運動だったが、「大きな物語」の喪失という意識は現象にほかならない。 一九八〇年、田中康夫が『なんとなく、クリスタル』を発表する。日本のポストモダンは「一

九八〇年東京」を描いたこの作品を徴候としている。全体は、モデルをしている女子大生由

利を主人公にした私小説の本文、四四二に及ぶ註、人口問題審議会「出生力動向に関する特

別委員会報告」と「五十四年度厚生行政年次報告書(五十五年度版厚生白書)」の三つの部分によって構成されている。本文で現代の若者の生活を描き、註で、ブランドやディスコなど登

場してくるものを解説、若者に対する非難を批判すると同時に、若者にも苦言を呈し、さら

に、最後の二つの表により、少子高齢化が急激に進み、次作で彼が命名した「ブリリアントな

午後」にある日本社会もいずれ夕暮れが訪れると警告している。 こうした八〇年代を用意したのは、日本の場合、七〇年代であろう。日本経済の二桁成長

は一九七四年に終わるが、七〇年代、アメリカの排ガス規制を世界で最も早く達成した結果、

コンパクトな日本車が輸出され、大馬力のマッスル・カーに代わり、アメリカの道路を占め

るようになる。また、Made in Japanの家電製品は、技術性と安定性において、他国に優位さを獲得し、世界を席巻する。八〇年代に入り、日本はアメリカに次ぐ世界第二位の経

済大国に成長して、日本の自動車産業はビッグ・スリーを脅かし、日米の貿易摩擦が深刻化

する。そのため、プラザ合意が結ばれて円高ドル安が誘導され、八〇年代後半、バブル経済

が急激に膨張していく。 田中康夫は、現代ではすべてが記号化し、等価の時代になっていると宣告する。価値はア・

プリオリではなく、社会的・時代的背景の下、その都度、個人的な欲求・欲望に基づいて構成

される。一切が無価値なのではない。ヒエラルキーが崩壊し、すべてが等価に置かれ、アナ-

Page 7: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

キーに、クロスオーバーしているのが「ぼくたちの時代」だと田中康夫は訴えたのである。狭

義のポストモダニズムはポストモダン的状況を表象する言説の現象である。その上、日本

は、三八度線という visibleな問題がある朝鮮半島と違い、諸問題が invisibleであり、作家はそれを描く繊細さを持たなければならない。「欲望というものは機械であり、諸機械の総

合であり、機械的<仕組み>である。―つまり欲望する諸機械である。欲望は生産の秩序に属しており、一切の生産は欲望する生産であるとともに社会的生産でもある。だからわれ

われは精神分析がこの生産の秩序を押しつぶし、この秩序を表象の中へ押し戻したことを

非難するのである。…〔精神分析のいう〕無意識はオイディプスを信じ、去勢を信じ、法

律を信じている」(ジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス』)。しかし、その社会も急激に進む少子高齢化によって変化せざるを得ないという田中康夫の指

摘は現在も有効である。 高度に発達した消費社会ではすべてが商品化される。神も例外ではない。神が生きてい

ても、死んでいても、商品にはならない。フリードリヒ・ニーチェは「神の死」を宣言し

たが、ポストモダンにおいて、神の死は決定不能に置かれることになったのである。 こうした主張は、少数を除いた既存の文学者・編集者・ジャーナリストから糾弾されたが、

高度消費社会とポストモダニン的状況が融合した時代の中、次々に共鳴する作家がデビュ

ーする。それは、モダニズムのような運動ではなく、現象としての思想である。ポストモダ

ニズムは、ポストモダン的状況に対して、ユーモラスな姿勢をとる。一九八二年、高橋源一

郎が『さようなら、ギャングたち』、翌年には、島田雅彦が『やさしいサヨクのための喜遊曲』、

さらに、一九八四年、小林恭二が『電話男』を公表する。小説の他にも、一九八三年に浅田彰

が『構造と力』、中沢新一が『チベットのモーツァルト』により登場している。特に、『構造

と力』は思想書として類を見ない売り上げを記録する。浅田彰と中沢新一に代表される理論

家は「ニュー・アカデミズム」と呼ばれ、先行世代から反発されながら、若者を中心に受容さ

れる。 ポストモダン文学は、全般的に、理論志向が強く、新たな方法を携えて日本文学にやって

きた越境者である。島田雅彦は現代ロシア小説、高橋源一郎は現代詩、小林恭二は現代俳句、

ニュー・アカデミズムはポスト構造主義に強く影響されている。ポストモダン文学は、その

ラディカルなアナーキズムによって、先行文学との非連続性が強調されるため、日本文学の

後継への期待をこめて作家に与えられる芥川賞とは縁遠い状況になっている。日本の文学

賞は、これ以降、完全に形骸化する。「<それ>は作動している。ときには流れるように、ときには時々止まりながら、いたる所で<それ>は作動している。<それ>は呼吸し、<それ>は熱を出し、<それ>は食べる。<それ>は大便をし、<それ>は肉体関係を結ぶ。にもかかわらず、これらを一まとめに総称して<それ>と呼んでしまったことは、なんたる誤りであることか。いたるところでこれらは種々の諸機械なのである。…乳房は母乳を生産する機械

であり、口はこの機械に連結されている機械である。食思欠損症の口は、いくつかの機械

を前にしてためらっている機械である。すなわち、食べる機械であるのか、肛門機械であ

Page 8: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

るのか、話す機械であるのか、呼吸する機械であるのか(この場合には喘息の発作が起る

のを決めかねているのだ)」(ジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス』)。 お熱いのがお好き─モダニズムの腐敗と頽廃を逆手にとるための準備運動の試み ポストモダンが建築の用語から普及したのに対して、モダニズムが宗教界の動向に由来

するのは、別に、驚くべきことではない。「モダニズム(Modernism)」は、資本主義的市民社会の合理化という原理に基づいて、古い宗教的権威と道徳的規範に縛られた伝統社会を脱

却し、近代にふさわしい社会と文化の構築を目指した精神的態度である。西欧では、一八

世紀末から一九世紀半ばの産業革命を経て産業資本が確立する。一九世紀末から二〇世紀

初頭にかけて、神の死を迎えたキリスト教教会の内部で、外的な権威の束縛を脱し、近代

科学の成果を積極的に取り入れ、キリスト教を現代的にしようとする宗教改革運動が起こ

る。こうしたモダニズムは、カトリック、プロテスタント、英国国教会のいずれにも見ら

れる。第一次世界大戦後の一九二〇年代に、表現主義、未来派、ダダ、シュルレアリスム、

ロシア・フォルマリズムなどの革新的な芸術運動が登場する。こうした芸術のモダニズム

は、一九世紀の支配的な芸術様式であった写実主義を否定して、近代化がもたらす機械文

明や都会的な感覚を重視し、機械美の称揚、装飾よりも機能を優先する態度、細分化され

た現実の断片のモンタージュ手法による再構成といった革新的スタイルによって、伝統や

市民社会に対する急進的な批判を展開する。モダンとモダニズムを同一視してはならない。

モダニズムは、賛否両論あるものの、モダンという時代に対する攻撃的な反応である。モ

ダニズムはモダンの短絡的な二項対立を批判するために、アイロニカルに複雑さを具現化

している。その晦渋さは自己充足的である。しかし、資本主義の進展により社会生活全般

が産業化され機能化されるに伴い、モダニズムはその衝撃力を急速に失っていく。 日本のモダニズムは、ほぼ同時代的に、欧米の二〇世紀芸術の影響を強く受けて成立し

ている。横光利一や川端康成の新感覚派、中村武羅夫ならびに舟橋聖一の新興芸術派、マ

ルセル・プルーストやジェームズ・ジョイスらの作品の翻訳と研究に基づく心理主義、阿

部知二と伊藤整に代表される主知主義がそれに含まれる。モダニズム芸術は、欧米では、

第二次世界大戦以前を指すが、日本の場合、戦後になって、石川淳の世代から安部公房に

至るまで続いている。と言うのも、前者は西洋近代文明の矛盾を人々に印象づけた第一次

世界大戦の経験があるが、後者が近代化の矛盾を実感したのは第二次世界大戦だからであ

る。 宗教界から始まったモダニズムはモダンにおける倫理の創造を試みたものの、全体主義

に対して有効には機能しない。イタリア未来派のようにファシズムに賛同したグループも

あったけれども、ナチス・ドイツでは「頽廃芸術」、ヨシフ・スターリンのソ連においては「人

民の敵」として弾圧される。しかし、その実験的な多彩さが以後の文化に与えた功績は大き

い。多くのモダニストが新大陸に亡命し、芸術の世界的な中心地はニューヨークに移る。

Page 9: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

しかも、モダニズムの過去との暴力的な切断により、後発世代は歴史への身軽さを獲得す

る。伝統はたんなるデータとなり、誰もがアクセスして、自由に引用できるようになる。

ポストモダニズムはこうして用意される。 ポストモダニズムは、モダニズムとは逆に、宗教界への浸透は遅かったが、最近、最も

活発化している。同時多発テロ以降、ジョージ・W・ブッシュ大統領の口から「これは悪で、これは善だというふうに、二元論的になるのはモダンの思想だと思うのです。モダンの思

想では、悪をどんどん取り除いていって、一つのシステムを追求していくのがいい、そう

すれば、どんどん進歩し、成長していくだろう」という発想に基づく言葉がついて出てく

る。メディアも原理主義や保守主義の短絡さと蛮行を報道し続けている。その一方で、ダ

イアナ・エックの『新しい宗教的アメリカ』によると、宗教におけるポストモダニズムとも

呼ぶべき「宗教多元主義(Pluralism)」が人々の間で広く支持されている。テキサス州のモスクに焼夷弾が投げこまれた事件の際に、各宗教の指導者が駆けつけ、一緒に結束の礼拝

を行っているし、ヴァージニア州で、ムスリムの書店が破壊されたとき、何百通という支

援の手紙と花束が届けられている。ただし、メディアはこれらを取り扱っていない。アメ

リカでは、キリスト教原理主義に代表される狭量な宗教右派と無神論を含めて異なる宗教

やエスニック・グループとの共存を尊重する多元主義がせめぎあっている。原理主義や一

元主義は線形近似にすぎず、ポストモダンの持つ非線形の現象を把握することはできない。

モダニズムにしろ、ポストモダニズムにしろ、到来している時代における新たな倫理の生

成に基づいている。ポストモダニズムの場合、それは「共生」であり、その意味で、ポス

トモダニズムはまだ必要とされている。 Life is bigger It's bigger than you And you are not me The lengths that I will go to The distance in your eyes Oh no I've said too much I set it up That's me in the corner That's me in the spotlight Losing my religion Trying to keep up with you And I don't know if I can do it Oh no I've said too much I haven't said enough

Page 10: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

I thought that I heard you laughing I thought that I heard you sing I think I thought I saw you try Every whisper Of every waking hour I'm Choosing my confessions Trying to keep an eye on you Like a hurt lost and blinded fool Oh no I've said too much I set it up Consider this The hint of the century Consider this The slip that brought me To my knees failed What if all these fantasies Come flailing around Now I've said too much I thought that I heard you laughing I thought that I heard you sing I think I thought I saw you try But that was just a dream That was just a dream

(R.E.M. “Losing My Religion”) こうしたポストモダン的状況を最も理解していたのはマーシャル・マクルーハンであろ

う。ポストモダンの思想は、結局、マクルーハンを後追いしているにすぎない。マクルー

ハンを表紙にした一九七六年三月六日号の『ニューズウィーク』誌には、彼に対するさま

ざまな批評が掲載されているが、それさえもポストモダン文学への批判に酷似している。

好意的な評でさえ、「『グーテンベルクの銀河系』と『メディアの理解』は、文学と科学の

統合の反映である。両書がひけらかすのは、マクルーハンの凄まじい博覧表記ぶり、腹立

たしい手法、そして、文化とコミュニケーションに関する彼の理論の無差別掃射である」

という有様で、最終的に、「意図的で、繰り返しが多く、支離滅裂で、教条的」と談じてい

Page 11: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

る。日本でのポストモダンのイメージは浅田彰が『構造と力』の巻末につけたチャートに

よって普及している。このチャート上のモダンとポストモダンの区別はマクルーハン『メ

ディアの理解』における「ホット」と「クール」に対応する(かの有名なパラノ=スキゾより、現在から見て、マクルーハンのシンタックス=モザイクが適切である)。実際、彼は、マクルーハンに対するのと同様の非難にさらされている。「浅田については、なんでも知っ

ているとか、なんでもわかるとか、ま、そうしたことでヒーローになったが、それはまあ、

極端に性能のよいコンピューターのようなものであって、どうということはない。それよ

り、彼の真価は編集能力にある。一見は関係のなさそうなことを変換してきて別の文脈に

関連づけ、それをうまくアレンジして並べる。僕の好みから言うと、少し余白のなさすぎ

るところはあるが、ぼくなどのように余白ばっかりよりはよいだろう」(森毅『世話噺数理巷談』)。

We want to multiply, are you gonna do it I know you're qualified, are you gonna do it Don't be so circumscribed, are you gonna do it Just get yourself untied, are you gonna do it Feel the heat pushing you to decide Feel the heat burning you up, ready or not Some like it hot and some sweat when the heat is on Some feel the heat and decide that they can't go on Some like it hot, but you can't tell how hot 'til you try Some like it hot, so let's turn up the heat 'til we fry The girl is at your side, are you gonna do it She wants to be your bride, are you gonna do it She wants to multiply, are you gonna do it I know you won't be satisfied until you do it Some like it hot and some sweat when the heat is on Some feel the heat and decide that they can't go onV Some like it hot, but you can't tell how hot 'til you try Some like it hot, so let's turn up the heat 'til we fry Feel the heat pushing you to decide

Page 12: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

Feel the heat burning you up, ready or not Some like it hot and some sweat when the heat is on Some feel the heat and decide that they can't go on Some like it hot, but you can't tell how hot 'til you try Some like it hot, so let's turn up the heat 'til we fry Some like it hot, some like it hot Some like it hot, some like it hot Some like it hot, some like it hot Some like it hot, some like it hot

(Power Station ”Some Like It Hot”) ただ、マクルーハンは、メディアの受け手の立場から理論を展開しているが、送り手の

側からだと、少々異なった対応表ができる。彼はラジオと電話、映画とテレビ、写真とマ

ンガを対比している。しかし、制作の特性から判断すると、小栗康平の『映画を見る眼』

によると、テレビはラジオ、映画は写真の延長上にある。メディアの理解は一つの立場だ

けでは十分ではない。 植物化するポストモダン─あるいはポストモダンの彼方 東浩紀は、『動物化するポストモダン』において、アレクサンドル・コジューヴを援用しつ

つ、ポストモダンを「動物」と捉えている。コジューヴは「歴史の終わり」の後、人々には二つ

の生き方しか残されていないと主張する。一つはアメリカ的生活様式の追求、すなわち「動

物への回帰」であり、もう一つは日本的な「スノビズム」である。 コジューヴは戦後アメリカで台頭してきた消費者の姿を「動物」と呼んでいる。人間が人

間的であるためには、与えられた環境を否定する行動、すなわち環境との闘争を経なければ

ならない。一方、動物はつねに自然と協調して生きている。消費者の「ニーズ」に応える商品

に囲まれ、メディアが提供する流行にのっているアメリカの消費社会はもはや「人間的」で

はなく、「動物的」でしかない。「歴史の終わりのあと、人間は彼らの記念碑や橋やトンネルを

建設するとしても、それは鳥が巣を作り蜘蛛が蜘蛛の巣を張るようなものであり、蛙や蝉の

ようにコンサートを開き、子供の動物が遊ぶように遊び、大人の獣がするように性欲を発散

するようなものであろう」(コジューヴ『ヘーゲル読解入門』)。

I'm ready I'm ready for the laughing gas

Page 13: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

I'm ready I'm ready for what's next I'm ready to duck I'm ready to dive I'm ready to say I'm glad to be alive I'm ready I'm ready for the push The cool of the night The warmth of the breeze I'll be crawling 'round On my hands and knees Just down the line...Zoo Station Gotta make it on time...Zoo Station I'm ready I'm ready for the gridlock I'm ready...to take it to the street I'm ready for the shuffle Ready for the deal Ready to let go of the steering wheel I'm ready Ready for the crush (She's just down the line)...Zoo Station (Got to make it on time)...Zoo Station Alright, alright, alright, alright, alright It's alright, it's alright, it's alright, It's alright Hey baby, hey baby, hey baby, hey baby It's alright, it's alright (Alright, you can turn it up)

Page 14: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

Time is a train Makes the future the past Leaves you standing in the station Your face pressed up against the glass I'm just down the line from your love...(Zoo Station) You know I'm under the sign...(Zoo Station) I've gotta make it on time Make it on time...(Zoo Station) That's alright...(Zoo Station) Just two stops down the line...(Zoo Station) Just a stop down the line... All View: 523 time(s), Today: 1 time(s) This song is incorrect and I want to send corrections.

(U2 “Zoo Station”) 「スノビズム」は、環境を否定する理由がないにもかかわらず、「形式化された価値に基づ

いて」それを否定する行動様式である。人間が人間的であるためには、与えられた環境を否

定する行動、すなわち自然との闘争を経なければならない。ところが、「スノビズム」は、そう

した環境を否定する実質的な理由がないにもかかわらず、「形式化された価値に基づいて」、

すなわち儀礼的に、それを否定する行動様式である。スノッブは、「動物」と違って、環境と調

和することを拒否する。否定の契機がなかったとしても、意図的に、環境を否定し、形式的な

対立をつくりだし、その対立に耽溺する。けれども、これはあくまで儀礼でしかなく、歴史を

動かす力にはならない。 東浩紀は言及していないけれども、スノビズムに対抗する姿勢としてダンディズムがあ

る。シャルル・ボードレールの『現代生活の中の画家』によると、ダンディーは精神主義や

禁欲主義と境界を接した「自己崇拝の一種」であり、「独創性を身につけたいという熱烈な熱

狂」であって、「民主制がまだ全能ではなく、貴族制がまだ部分的にしか動揺し堕落しては

いないような、過渡期にあらわれ」、「デカダンス頽廃期における英雄主義の最後の輝き」で

ある。貴族制が完全に後退した二〇世紀において、スノビズムがあまりに凡庸であったと

しても、ダンディズムは陳腐なアナクロニズムにすぎない。そういったダンディズムのポ

ーズ自体凡庸なスノビズムであろう。 しかし、ドゥルーズ=ガタリが「リゾーム」の比喩を用いていたことを思い出そう。ポス

トモダンは「動物」ではなく、「植物」と考えるべきである。「リゾームになり、根にはなるな、

決して種を植えるな!蒔くな、突き刺せ!一にも多にもなるな、多様体であれ!線を作れ、決して点を作るな!スピードは点を線に変容させる!速くあれ、たとえ場を動かぬときでも!幸運の

Page 15: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

線、ヒップの線、逃走線。あなたのうちに将軍を目覚めさせるな!正しい観念ではなく、ただ一つでも観念があればいい。短い観念を持て、地図を作れ、そして写真も素描も作るな!ピンクパンサーであれ、そしてあなたの愛もまた雀蜂と蘭、猫と狒狒のごとくであるよう

に」(ジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリ『リゾーム』)。ポストモダンは決定不能的

なものが多方向的・重層的に拡散し、相互に横断し合いながら生成を続けるこういったリ

ゾーム状の場にほかならない。 すべての生物は自己複製する生成であるが、動物は老い、死ぬけれども、植物は、動物の意

味では、不老不死である。植物においては死や生の概念が異なり、動物的な観点では、生き

ているとも死んでいるとも言えない。死は、有性生殖と共に、生じる。有性生殖では別々の遺

伝子が混合される以上、純粋には複製ではない。細胞は有性生殖によって若返る。一方、単細

胞生物は自分と同じ細胞を複製していくため、すべてが自分自身であるから、死は存在しな

い。原核生物は無限に分裂できる。オリジナルも、コピーも、同様に、存在しない。一種の

ファイルである。“In the midst of death we are in life”(James Joyce “Ulysses”).ポストモダンは、こういった植物や単細胞生物のように、死や老いの決定不能性に到達している。

ドゥルーズ=ガタリは「プレモダン」を「樹木的

ア ル ブ ル

」と譬えている。プレモダンは、確か

に、樹木的な植物である。神は死と再生のヴィジョンを通じて永遠を人々に意識させる。

動物では、生きた細胞によって成り立っているのに対して、樹木は、地面に生えている時点

で、大部分が死んだ細胞で構成されている。縄文杉の中心は腐ってなくなっている場合が多

いが、成長を続けている。植物は、生きている限り、成長を続ける。成長の限界を持たず、老い

ない。そのため、切り出されても、木材は長持ちする。「アルブル」はプレモダンにおけるた

んに階層的な秩序の系統樹以上の意味を持っている。 モダンは、プレモダンを否定するために、動物化する。ヒトはサルから進化したのであ

り、神を殺さなければならない。しかし、ポストモダンは、モダンとは違い、プレモダン

に対する抵抗感はない。プレモダンを蘇らせる。ただし、樹木ではなく、パロディとして、

雑草のようなリゾーム的な植物として具現する。「雑草は樹木よりずっと小さな種子を作り

ますが、何年も土の中に生き残って少しずつ発芽するので、草を取っても取ってもなかなか

根絶やしにできません」(鈴木英治『植物はなぜ 5000年も生きるのか』)。 タイの首都バンコクは、正確には、「クルンテープマハナコーンアモーンラッタナコーシ

ン・マヒン・タラアユッタヤー・マハーディロッカポップ・ノッパラッテナ・ラーチャタニ

ーブリーロム・ウドンラーチャニウェットッマハー・サターン・アモーンラピーンアワタ

ーンサティット・サッカ・タットティヤウィサヌカムプラシット」であり、その意味は「天

使の都、偉大な都、エメラルドの仏陀の住む都、インドラ神の住む信仰篤きアユタヤの都、

九つの宝石を授けられた世界の大いなる都、神の化身が住まわれる天国の様な固き王宮の

幸多き都、インドラ神によって与えられヴィシュヌ神によって造られた都」である。これ

は、そのリゾーム的な長さの点で、ポストモダンであると言わねばなるまい。

Page 16: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

Llanfairpwllgwyngyllgogerychwyrndrobwllllantysiliogogogoch. Adolph Blaine Charles David Earl Frederick Gerald Hubert Irvin John Kenneth Lloyd Martin Nero Oliver Paul Quincy Randolph Sherman Thomas Uncas Victor William Xerxes Yancy Zeus Wolfeschlegelsteinhausenbergerdorff, Senior. 寿限無寿限無五劫の摺り切れ海砂利水魚の水行末雲来末風来末食う寝る所に住む所ヤブ

ラコウジのブラコウジパイポパイポパイポのシューリンガンシューリンガンのグーリン

ダイグーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助。 リゾーム的なクレオソートブッシュは一万一七〇〇年以上も生き続けている。「植物の分

裂細胞はすべてが次世代に遺伝子を伝え得るようにできているために、老化が起こりませ

ん」(『植物はなぜ 5000年も生きるのか』)。植物では、受粉ではなく、種子が発芽したときを一生の始まりとされている。種子のまま一万年以上も休眠した後に発芽した例もある。しか

も、植物は同じ場所で新旧の細胞が交代するわけではなく、古い細胞の外側に新しい細胞が

付け加わる。「根は生き長らえた死者である(La racine est le ort vivant)」(ガストン・バシュラール)。 レオナード・ヘイフリックは、一九六一年、正常な細胞はある回数分裂すると、それ以上分

裂しなくなり、死んでしまうことを発見する。寿命は「ヘイスリックの限界」、すなわち細胞

の分裂回数のプログラムと不可分の関係にある。植物は、体細胞と生殖細胞の分化が遅いた

め、テロメラーゼ酵素が生殖細胞以外にも確認できるため、クローンが容易にできる。樹齢

に関係なく、原則的に──いかなるものにも、例外はある──、葉も老化しない。植物の生殖

能力は老化しない。寿命や死は個体とは何かという問に収斂されるのであって、植物はクロ

ーンによって世代交代を繰り返せる。 ポストモダンは過去を自由に引用する。プレモダンだけでなく、モダンもパロディ化し

ている。グレゴール・ヨハン・メンデルがえんどう豆を使った交雑実験からメンデルの法

則を導き出したように、ゲノムの点から見れば、動物の植物も生物の範疇に収められる。

すべての生物は非線形非平衡系の開かれた生成である。植物に限らず、動物の細胞にも不

死の常態に陥る場合がある。癌化した細胞は不死化する。患者自身が亡くなった後でも、

栄養さえ与えて培養すれば、無限に生き続けられる。不死化には、さまざまな要因が関係

していると考えられ、活発に研究されているけれども、その一つとして DNA合成に伴うテロメア合成があげられる。細胞の DNAの端にテロメアと呼ばれる部分があるが、細胞分裂に先立つ DNA合成の際に、テロメアの一部が合成されないため、細胞分裂の度に、テロメアが短くなっていき、ある程度まで短くなると、遺伝子全体の合成ができなくなる。「正常

細胞ではテロメアが分裂の度に短くなりますが、癌細胞ではテロメラーゼという酵素が発

Page 17: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

現(現れる)して、テロメアが短くならないように合成しています。そのために、何度でも分裂ができるのです」(小城(こじょう)勝相(しょうすけ)『生命にとって酸素とは何か』)。癌細胞単体では生きることはできない以上、それは生きているとも死んでいるとも言えない。

癌化した動物の細胞は植物化する。ポストモダンは、ある意味で、癌化したモダンである。 ポストモダンにおいて、善悪や真偽、美醜、新旧、生死も決定不能になっている。従って、ポ

ストモダンは植物化していくのである。 ネットワークとプロトコル─モダニズムの呪縛から逃れるための ポストモダニズムの思想はニーチェを援用していたけれども、むしろ、ポストモダニズ

ムが体現していたのは現象学的世界である。その世界像は間主観性に基づいている。竹田

青嗣は、『現象学入門』において、間主観性は私と他者の関係ではなく、「“他我が〈私〉と

同じ〈主観〉として存在し、かつこの『他我』も〈私〉と同じく唯一同一の世界の存在を

確信しているはずだ“という〈私〉の確信」、すなわち「〈私〉と〈他者〉の相互関係を言

うのではなく、私の確信のある構造をさしている」と言っている。 竹田青嗣は、『現代思想の冒険』において、「確信の構造」について次のように述べている。

だが〈主観〉に固有の真理しか存在せず、はじめから「ほんとう」が一切存在しない

なら、なぜわたしたちに、この言い方は「ほんとうだ」という納得が訪れるのか、全く

説明できないことになるだろう。懐疑論的パラドックスは、つまり、認識にはどんな根

拠(客観という〉もないにもかかわらず、なぜ人間は相互理解の可能性をもち、あるレベルでは極めて広い共通認識が成立するのかを、まったく説明できないのである。 フッサールがこれに与えた説明のかたちを簡単に示そう。 まず彼は、〈客観〉なるものはそもそも存在しないと言う。だから〈主観〉どうしの間

(間主観性)で成立する「ほんとう」は、その根拠を〈客観〉によって明かすことはで

きない。ではいったい「ほんとう」の根拠はなんなのか。それはただ〈主観〉の内側だ

けで生じる「確信の構造」としてだけ言える。そうフッサールは言うのである。 彼によれば、近代哲学が〈客観〉と呼びその実在を確かめようとしていたものの正体

は、じつは、間主観性として(二つ以上の主観に共通して)成立する、恣意的にはどうしても動かし難い「確信の構造」ということなのである(略)。 われわれが〈客観〉とか〈真理〉(ほんとう)とか呼んでいるものはどういうことか。それは要するにひとが二人いればその二人の間に、百人いれば百人の間に、共通の確信が

成立するか否かということのみにかかっている。これはたしかに存在する、これはこう

いうことだという動かし難い確信が共通に成立すれば、それをわたしたちは〈客観〉と

いい〈真理〉と呼んでいる。だがこのとき注意すべきは、〈客観〉や〈真理〉とはまさし

くそういうものだから、それは究極的な最後の知として確定されることは決してあり得

ないということにほかならない。

Page 18: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

フッサールは〈客観〉や〈真理〉は「超越」(信憑)であると言うが、その意味は、この確信の像は、いつも必ずそうでないかもしれないという可能性を残している、というこ

とだ。それらはそれ以上の意味を決してもっていない。だがここで重要なのは、これら

の核心は、たまたま一致したり、恣意的に一致させたりできるものではないという点だ。

それらは〈主観〉の内側だけで固有の構造を持っているのである。 フッサールは、この構造を、〈ノエシス-ノエマ〉、〈内在-超越〉という概念によって

説明している。フッサールの言わんとするところをわたしなりに噛み砕いてみよう。 たとえば人間の一番強固な(動かし難い)共通の確信(信憑)は、〈自分〉の外側に実在する自然世界が拡がっており、〈自分〉はその中で、ものや〈他人〉とともに、それらと関係

して生きているという了解である(懐疑論者はただ論理的にそれを疑って見せているにすぎず、実際は彼らもそれを確信している)。ただし、〈自分〉は〈自分〉として存在しているという確信、〈他者〉は〈自分〉と同じような〈意識〉として存在しているという確信

も、〈世界〉が存在するという確信と同時的かつ対応的に成立する。 逆にいちばんあいまいな確信は、ものごとの本質(現象学では、言葉の形でだけ所有される意見や世界観という意味で使われる)に関する確信である。なぜこれがもっともあいまいな確信であるかもはっきりしている。 確信の強度は簡単に言ってふたつの要素を持っている。ひとつは、他人の確信から訪

れ(間主観性の構造)、もうひとつは自分自身の確信(超越論的主観の構造)からくる。 このような認識のポストモダンの世界像はネットワークとプロトコルとして具体的に理

解できる。現代は通信社会であって、ポストモダンは通信網であり、その規則はプロトコル

である。ネットワークはノードとリンクによって構成される。ポストモダンの芸術は相互に

リンクされたハイパーメディアのようだ。 ポストモダンは World Wide Web ではなく、ユビキタスと理解しなければならない。

WWW リンクは、確かに、世界中のインターネット上に存在し、大規模なマルチメディア

知識データベースを形成する。マーク・ワイザーが提唱したユビキタス・コンピューティ

ングは、メインフレームと PCに続く第三世代を示している。一人が複数のコンピューターを使うコンセプトであり、アクセスに用いる端末は、パソコンや携帯電話に限らず、冷蔵

庫や電子レンジといった家電製品、自動車、自動販売機等もインターネット接続され、ウ

ェアラブル・コンピューターも開発中である。これらの情報端末間はケーブルではなく、

無線 LANやブルートゥースという無線ネットワークで接続される。また、現在のインターネットの接続規約(IPv4)では約四三億個のアドレスしかなく、一人が複数の端末を使うようになると不足してしまう。IPv4 の四乗個というほぼ無限のアドレスを持つ IPv6 の導入が予定されている。無線 LANはすでにアメリカで実用化されている。ホット・スポットと呼ばれるノート PCや PDAを利用するユーザーが多い空港、ホテルの他にスターバックス店舗などでも利用可能である。日本でも、モスバーガーや JR東日本が、現在の携帯電話より

Page 19: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

高速でインターネットにアクセスできる無線 LANサービスの実験を発表している。ポストモダンはユビキタス化して、ありとあらゆるところに入りこんでいる。これこそがリゾー

ムであり、こうしたリゾームには誰もがアクセスできる。八〇年代のメディアの大きな変化

を背景に登場するポストモダニズムにはメッセージ性とマッサージ性を備えていたけれど

も、九〇年代になると、そういった狭義のポストモダニズムに代わって、衝撃的ではない

ものの、さらなる広義のポストモダニズムがエントロピー的に現象化している。 マクルーハンはメディアにおける「参加(Participation)」を重視している。ネット世界は、テレビ以上に、それが増加する。「ヴァーチャル(virtual)」の反対語は「リアル(real)」ではない。「名目(nominal)」がそれに相当する。名目の類義語は「仮想(supposed)」や「擬似(pseudo)」である。前者は仮に想定したものであり、後者は外見は似ているが、本質的には異なるものを指す。また、リアルの反意語は、「実数(real number)」と「虚数(imaginary number)」の関係が示している通り、「虚(imaginary)」である。ヴァーチャルは、むしろ、現実の類義語であり、それは表面的にはそう見えないけれども、本質あるいは効果において

現実を感じさせるものを意味する。視覚障害者が白い杖を使って道を歩くことはヴァーチ

ャル・リアリティの一例である。ドニ・ディドロの『盲人書簡』や『聾唖者書簡』に見ら

れるヴァーチャル・リアリティはいまだに古びてはいない。リアルは間主観性としてのみ

感じられる。リアルとヴァーチャル・リアルは対等に置かれ、コミュニケーションも同様

に行われる。 こうした世界は非線形的な複雑系を体現している。複雑系では微分方程式が十分に使え

ないため、極限の特権性は失われている。コンピューター・グラフィックによるシミュレー

ションとしてアトラクターを描くことができる。ファン・コッホが発見したコッホ曲線

(Koch curve)は自己相似性、微分不可能性、有限の範囲で無限の長さを持つため、通常の次元の概念が通用しない。ペアノ曲線(Peano curve)も同様である。また、ジュリア集合(Julia set)やマンデルブロー集合(Mandelbrot set)などは、フラクタル次元というハウスドルフ次元が位相次元より大きい集合である。これらはフラクタルと呼ばれている。「大きな物語」が崩

壊した後、フラクタルな物語が出現している。モデル学の変遷において、ニュートン力学で

は、運動方程式を書き、解を求める。アンリ・ポアンカレの力学においては、方程式を書くも

のの、解は求めない。しかし、アルゴリズムでは、式さえ書かない。マルティン・ハイデガー

は答えを出すことではなく、問いを発し続けることの重要性を説いたが、それはポアンカレ

的な姿勢である。ポストモダニズムはアルゴリズムにほかならない。さらに、今では、アル

ゴリズム離れも進んでいる。アルゴリズムを知らなくとも、オープン開発された既存のも

のを組み合わせたり、改変したものを新たな作品として提出している。引用に次ぐ引用が

ネットワーク効果としてこの世界を加速させる。 しかし、そういった状況がいかなる世界をもたらすかについて、マクルーハンは、一九

六七年、『ホット・アンド・クール』の中で、次のように警告していたのである。

Page 20: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

どんな家族でも一つ屋根の下に置かれたら、同じ都市の何千もの家族以上に多くの相

違と少ない調和に悩まされるのです。村の条件が整えば整うほど、断絶や分裂、多様性

がまします。グローバル・ヴィレッジはあらゆる点において最大の不調和を確実にもた

らします。均一性や平穏さがグローバル・ヴィレッジの特性だなどと思ったことは決し

てありません。(略)部族的なグローバル・ヴィレッジは、いかなるナショナリズムと比

べても、はるかに分裂的です。紛争に満ちています。ヴィレッジの本質は分裂(fission)であって、融合(fusion)ではありません。(略)グローバル・ヴィレッジは理想的な平穏や調和を見出すための場所ではありません。その逆です。

ポスト構造主義の消費─ニュー・アカデミズムのテーマによるラフ・スケッチの試み 日本のポストモダンの特徴はニュー・アカデミズムの流行であろう。その最大のスター

は浅田彰であり、彼は日本的なポストモダンの現象を完全に体現している。 浅田彰は、一九八三年、『構造と力 記号論を超えて』において、衝撃的に登場する。浅

田彰は、先行する吉本隆明や江藤淳、山口昌男、蓮実重彦、柄谷行人らとは異なった時代に属

している。スキゾ=パラノは、一種の流行語になり、翌年には、『逃走論 スキゾ・キッズの

冒険』を刊行し、これでも「逃走」をめぐって話題になっている。彼は、以降も著作を発

表しているものの、次第に書かなくなってきている。「いや、単純に怠惰ゆえにです。しい

ていえば、矮小な範囲で物事が明晰に見えてしまう小利口かつ小器用な人間なので、大い

なる盲目をもてず、したがってどうしても書きたいという欲望ももてない。要するに、本

当の才能がないということですね。書くことに選ばれる人間と、選ばれない人間がいるん

で、ぼくは選ばれなかったというだけのことですよ。と、今言ったことすべてが逃げ口上

にすぎないということも、明晰に意識していますけれど」(浅田彰『伝統・国家・資本主義』)。 一般的にはともかく、若き俊才が浅田彰以上に影響力をアカデミズムに及ぼしたケース

もある。久保亮五は、二七歳のときに、『ゴム弾性』を書いている。「ゴムは奇妙な物質で

ある」から始まるこの著作は、現在に至るまで、高分子科学や統計力学、エントロピーの

古典的名著である。彼は、一九四三年に、橋かけゴム分子のエントロピー弾性についての

統計力学的理論を発表している。これにより、彼の名前は、湯川秀樹と並んで、世界の物

理学会に知られるようになっている。また、谷山豊が、後に谷山=志村予想と呼ばれる大

胆な予想を発表したのも二〇代後半である。彼はアンドレ・ヴェイユに絶賛され、自ら命

を絶ってしまったため実現しなかったものの、プリンストン大学から招聘されている。こ

の予想はアンドリュー・ワイルがフェルマーの最終定理の証明の際に鍵として使ったこと

で知られている。ただ、両者とも、画期的な業績を残したものの、あくまでアカデミズム

の内部にとどまっている。 彼らとは違い、浅田彰はアカデミズムを越境する。モダニズムはサロン性は強かったも

のの、反アカデミズムの運動であったのに対し、ポストモダニズムは必ずしもアカデミズ

ムと対立はしない。彼はポスト構造主義を消費し、それによってニュー・アカデミズムを

Page 21: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

一般にイメージさせている。「ニューアカというのは、アカデミズムのファッション化だと

思うのです。浅田だって『構造と力』で初めて出たときには、別にフランス現代思想を論

ずるというより、そのチャート式見取り図をつくるのだと言っていました。チャート式見

取り図というのは、いわばファッションの世界とアカデミズムの世界をつなぐのです。つ

まり、本郷と六本木をクロスオーバーさせるというのがニューアカの役割なんです」(森毅『ゆきあたりばったり文学談義』)。大学は「ルーズ・カップリング(Loose Coupling)」と呼ばれる通り、従来から多様な人々の緩やかな連合体であったが、その頃には、「大学

(University)」から「マンモス大学(Multiversity)」にまで拡大している。一九八四年、ハーバード大学総長のデレク・ボック(Derek C. Bok)は『象牙の塔を超えて』を表わしている。浅田彰はそれを実践していたのである。 今日のアカデミズムは大学と不可分の関係にあると見なされている。大学は、ヨーロッパ

で、同業者組合、すなわちギルドの一種として誕生している。修士号を意味する「マスター

(Master)」はその名残である。アカデミズムは、誕生した当時、必ずしも、こうした大学とは直結していない。 森毅は、『メディアのなかのアカデミズム』において、アカデミズムの歴史を次のように

解説している。 アカデミズムと言っても、ギリシアは問わない。それは、世界が違うから。 ルネサンスのアカデミズムというのは、フィレンツェあたりの都市貴族が工房の職人

たちをまきこんだグループだったはずだ。いくらかは都市間の交流があっても、まあ今

年の村祭りはどんな趣向でやろうか、といった気分。実際にパフォーマンスぐるみで成

立している。レオナルドを万能の人のように言ったりするのは、後世の専門家どものひ

がみで、もともとルネサンス職人に専門なんかない。 十七世紀あたりで、フランスやイギリスになっても、確かに王の中央権力が強くなる

から、そちらに義理を立てたり、頼ったりするのだが、別に制度化がしっかりしている

わけではない。ひょっとすると、バラ十字の地下ネットワークもあったのかもしれぬが、

いくらか力をつけてきた知的階層のなかよしグループのようなものだろう。 つまりはサロン。なにより集まって論じあう。そして、やたらと手紙を書く。手紙は

あまり私的でなかったようで、書きうつされては読まれている。印刷されてもごく小部

数。十八世紀になって、王のまわりにアカデミズムが作られていっても、事情はそれほ

ど変わらぬ。だから、アカデミズムとは、サロンから発生している。このごろだと企業

がスポンサーになってシンポジュームなどがあるが、今のほうがよほど権威的である。 今のアカデミズムという制度は、百五十年ぐらい前からのものだろう。つまりは、近

代国家の制度なのである。近代教育の制度が作られるのと同じこと。同時に活字メディ

アのあり方が変わる。大部数の出版もそのころだが、新聞や雑誌が成立するのも同じ時

代である。学校では、教科書がつくられて、カリキュラムが制度化する。活字メディア

Page 22: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

の時代が来て、近代アカデミズムも近代学校体制も作られたのだ。 そうして、現代がある。この現代を、近代的制度の発展と見るか、近代的精度の過剰

と見るか。たとえば、日本人が学校に囲いこまれる期間は、この百年に、三年から十五

年ぐらいに、つまり五倍になった。あと百年たって、今の五倍になったら、死ぬまで学

校にいかなければならない。それがまあ、生涯学習というわけだが。 学術団体としてのアカデミーの起源は、フランク王国のカール大帝やイギリスのアルフ

レッド大王の事業に遡るが、アカデミーが本格的に発展したのはルネサンス期である。イ

タリアでは、一四三八年、コジモ・デ・メディチがアカデミア・プラトニカを開設、フィ

レンツェの自宅を開放し、会員に談論の場を提供する。その後、一五世紀から一六世紀に

かけて多くのアカデミアが誕生したが、その多くが古典や自然科学の研究に取り組み、最

新の知識を生み出している。特に、フェデリコ・チェシが一六〇三年に設立したローマの

アカデミア・デイ・リンチェイには、ガリレオ・ガリレイも所属している。その他、イタリ

ア語辞典を刊行した詩人アントン・フランチェスコ・グラッツィーニの開設によるアカデ

ミア・デラ・クルスカも有名である。イタリア・ルネサンス発展を支えたこれらのアカデミ

アは、教会や大学、職人組合などと対抗することが多く、自己防衛のために君主や資産家

の支援のもとで生き延びるか、あるいは組織を形成するといった措置をとっている。 アカデミーは、一七世紀以後、パトロンの支援を離れ、国家と結びつく。イタリア・ルネ

サンスの影響を受けて、一六世紀にアカデミー・デュ・パレが開設されたフランスでは、

一七世紀には国家がアカデミーを直接的に組織する。リシュリュー枢機卿によるアカデミ

ー・フランセーズ(一六三五)、王立彫刻絵画アカデミー(一六四八)、科学アカデミー(一六六六)、音楽アカデミー(一六六九)はフランス国家認定の学術団体であり、フランスの文化・科学技術の向上のための重要な役割を担っている。同様に、イギリスではローヤル・ソサ

エティ(一六六〇)が設立され、一八世紀に入り、フランスの科学アカデミーと並び、ヨーロッパ各地での国立科学アカデミー設立に大きな影響を与える。プロイセンの王立科学協会

(一七〇〇)やスウェーデンの王立科学アカデミー(一七三九)などが相次いで、誕生している。 さらに、植民地アメリカでは、ベンジャミン・フランクリンが最初にアカデミーという言

葉を紹介すると同時に、一七四三年、フィラデルフィアにアメリカ哲学協会を設立し、八

〇年にはボストンにアメリカ学術アカデミーが発足している。独立後の一八世紀に発生し

た中産商業階級の実学的中等教育の必要性に応じて、マサチューセッツ州アンドーバーの

フィリップス・アカデミーなどのように、私立のアカデミーが登場している。学校教育機

関としてのアカデミーは、一九世紀前半に最盛期となるが、次第にパブリック・スクール

にその役割を譲る。二〇世紀までに、合衆国では各地に学術研究団体としてのアカデミー

は誕生したものの、中央集権が弱い体制であるため、ヨーロッパのような国家権力と結び

ついたアカデミーは育っていない。むしろ、空軍士官学校(アカデミー)や陸軍士官学校(アカデミー)、海軍士官学校(アカデミー)、ポリス・アカデミー、映画のアカデミー賞などに

Page 23: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

使われている。 国家と癒着してからのアカデミズムはペーパー・アカデミズムと化す。ペーパーは、アカ

デミズム自身の保存として機能し、大学のギルド性を強調するために、おしゃべりを排除

し、単一化に向う。合衆国の場合、中央集権的なアカデミーは発達しなくても、アカデミズ

ムの三権や産業界との結びつきは強く、論文の量でその人の業績が判断されるという状態

に至る。アカデミズムは閉じられ、蓄積が成果と確信される。系が閉じられなければ、近

代アカデミズムの業績である線形と平衡の手法が使えなくなってしまう。 日本のアカデミズムは事情が少々異なる。ニュー・アカデミズムは日本的なアカデミズ

ムとジャーナリズムの関係を再検討を促している。日本のアカデミーは国民国家の形成と

共に登場する。東京帝国大学が創設されるが、これは、西洋と異なり、神学部を持たない

大学である。アカデミズムは、最初から、神の死に置かれている。国民国家体制と帝国趣

旨政策推進の一機関という色彩が強い。ペーパー・アカデミズムとして機能した日本のア

カデミズムには、ルネサンス的なサロン性が希薄である。欧米では、アカデミズムの支配

力は強く、そこから離れて活動し、その手法を用いながら、一般にも影響力を持っていた

のはジャン=ポール・サルトルくらいだろう。今日でも、欧米と比べて日本の企業経営者

に大学院修了者が少ないように、大学院の認知度が低く、アカデミズムの持つ発言力はそ

の内部に限定されている。メディアへの露出度はアカデミズムの貢献度には換算されない。

その一方で、小林秀雄を筆頭に、有力な文芸批評家の多くはアカデミズムに席を置かず、

ジャーナリスティックに活動している。棲み分けていたアカデミズムとジャーナリズムを

ニュー・アカデミズムはクロスオーバーさせたのでああ。 ニュー・アカデミズムは、そのため、メディア・タレントとして振舞うことを要求され

るが、これは歴史的な流れである。一八世紀の知識人は、ヨーロッパにおいて、宮廷に属し、

パトロンを持っていたけれども、一九世紀に入ると、大学に籍を置くようになる。彼らは活

字メディアを使い、行動している。ペーパー・アカデミズムは書籍を権威の場所にしてい

たが、次第に、雑誌へと変わり、さらに、電波メディアが取って代わると、アカデミズム

自体の重点がシンポジウム・アカデミズムへと変容する。知識人はメディアと密接な関係

を築いてきたのであり、二〇世紀では、知識人はメディア・タレントでなければならない。 森毅は、『アカデミズムの行方』において、アカデミズムの今後について次のように述べ

ている。 専門が栄えるということは、同じ関心の同業者に対してメッセージしているだけで間

にあうということでもある。そのことで業界が繁栄するようでも、その業界が閉じる傾

向を持つ。そして文化というものの正確として、世界が閉じることは閉塞することであ

るのは、文化史をふりかえればわかる。現代のアカデミズム文化が例外である保証はな

い。 現在のアカデミズム体制は、十九世紀半ばからというが、一世紀たった二十世紀の後

Page 24: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

半になって、閉じた世界で満できなくなったのではないか・この半世紀はぼくの生きた

半世紀であったわけだが、そこではピア(同業者)・アカデミズムが支配していて、何か

居心地が悪い気分がないでもなかった。戦後の半世紀に業界が量的に二桁増えることで、

逆に繁栄が心配になったりする。 ポストモダニズムがモダニズムの恩恵に預っているように、ニュー・アカデミズムは従

来のアカデミの没落から生まれているが、それは一九六〇年代に決定的になる。全共闘の功

績の一つは講座制を破壊したことである。その結果、ハードからソフトへと知をめぐる認識

が変容し、ソフト化を志向するアカデミズムはジャーナリズムと接点を見つけられるよう

になる。「ハードな学力はシステム化されて制度となるが、ソフトな学力はネットワークだ

け。いま生涯学習時代で、必要になるのはむしろソフトな学力だろう。少なくとも、ハー

ドな学力とソフトな学力がバランスしたほうがよい。ハードな学力の要求で、ソフトな学

力が衰弱しては困る。ただ、学校という制度では、こうしたものをシステムとしてハード

化したがる。ソフトな学力は、勝手にやってもらうしかないのに。だから、自由化」(森毅

『学校自由化論』)。 Give me a F! F! Give me a U! U! Give me a C! C! Give me a K! K! What’s that spell? Fuck! What’s that spell? Fuck! What’s that spell? Fuck! What’s that spell? Fuck! What’s that spell? Fuck!

(Country Joe McDonald “Woodstock”) 森毅は、『過去は白紙』において、アカデミズムの変化について次のように述べている。

このごろ、論文業績を積んでいくペーパーアカデミズムが、こわれつつある徴候もある。

まず、ふつうだとアカデミズムが権威ある雑誌を出して、そこで権威あるレフェリーがい

て、そこへのせたことがその人の業績になる。ところがそんなことしていたら三年も四年

もかかって、アホくさい。それで間にあわんわけ。実際プレプリントという原稿のコピー

が個人的なネットワークを通じて世界じゅうに出回る。それがさらにコンピューターネ

ットワークにどんどん流れる。それからオーラルな部分でけっこう流れる。電話とか、そ

れからシンポジウムなんかで人が行き来することによって。人間がオリジナルで、論文は

Page 25: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

ハードコピー。ペーパーアカデミズムの世界に、シンポジウムアカデミズムが入りこんで

いる。 最近あったおもしろい話は、アメリカの若いやつで、数学基礎論の分野で賞をもらった

んだけど、実は論文を出していないというのね。もう評判になって、あっちこっちのシン

ポジウムで引っぱりだこで、賞をもらっちゃったけど、まだ論文を書いていないという。 これからのアカデミズムは、著作を著さなかったソクラテスが饗宴で哲学を語っていた

ように、シンポジウムの姿をとるようになるとすれば、それはニュー・アカデミズムが実

践していたことである。ニュー・アカデミズムは、大学や国家と結びつく前のアカデミズ

ム、サロン・アカデミズムを復権させる。アカデミーは内部と外部、中心と周辺の区別によ

って成立しているが、それを決定不能に追いこむ。境界は地平線になる。ニュー・アカデ

ミズムはそのようにしてすべてをアカデミーの対象にし、固定されたアカデミズムを浪費

する。 シンポジウムはおしゃべり、情報の交換に意義がある。おしゃべりは、今では、掲示板・Eメール・チャットなどによって、偶然に、未知の人物と国境を超えてすることが可能になって

いる。おしゃべりがネット社会の最大の貢献である。「I LOVE YOU.vbs」の製作者として知られるオネル・デグスマンは、「技術は全部インターネットで学んで、ネット仲間とのチャッ

トで磨いた。学校で教わった知識なんて 10%だけだ」と言っている。彼はフィリピンのコンピューター単科大学の学生だったが、「パスワードの盗用方法」という卒論を書いたために、

卒業できなくなり、あのウィルスのプログラムに「学校に行くのは大嫌い」と書いている。二

〇〇〇年五月、わずか二日間で、四五〇〇万台のコンピューターに感染している。グローバ

ル・ヴィレッジのおしゃべりは熱力学第二法則と初期値敏感性を世界に知らしめる。 サイバー・スペースはペーパーの権威を時代遅れにし、シンポジウム・アカデミズムに

適している。ペーパーは、アカデミズム自身の保存として機能し、結果のみ公開する。他方、

シンポジウムは過程も公開する。ペーパー・アカデミズムがテキストだとすると、シンポジ

ウム・アカデミズムは、おしゃべりの過程で話題が飛ぶことがあるように、ハイパーテキス

トであろう。 モダニズムの時代に、最も影響力があった哲学者としてマルティン・ハイデガーが上げ

られる。彼はおしゃべりが蔓延し、大衆化していく社会を厳しく批判している。ハイデガ

ーの『存在と時間』によると、人間存在はたんなる「主体」ではなく、「他者と共なる存在」で

あり、「世人であること」は「本来的」な存在から「頽落」していることを意味する。「人間存在

の本質」は「現」の本質、すなわち「情状性」・「了解」・「語り」の三つの契機によって取り出され

る。ハイデガーは「平均的日常」における人間存在はすでに「頽落」していると主張する。「頽

落」には「空談」・「好奇心」・「曖昧性」の三つの性格がある。人間存在は他者と語り合う。「語

り」において、人間の実存は他者に向って「開放」されている。ところが、日常的には、「語り」

を持たない。「空談」は「語り」が本来的ではなく、頽落形態である。「空談」はおしゃべり、井戸

Page 26: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

端会議である。同様に、「好奇心」は「了解」にともなう「視」の頽落形態である。「了解」は「情状

性」を受けとることであり、それを出発点として、人間存在は「視」にある状態から「ありう

る」へ「めがける」、「企投」する。ところが、「平均的日常」では、目新しく、面白いことへの「好

奇心」にかられ、「空談」に明け暮れている。「好奇心」は野次馬根性である。「曖昧性」は「了解」

の頽落形態である。何か社会的事件や出来事が起きると、原因を追求する。誰もがそれにつ

いて問題を感じられる。しかし、それは思い込みにすぎない。実存に固有の「ありうる」へと

めがけていないからだ。 しかし、ハイデガーの「平均的日常」批判こそが「曖昧性」である。と言うのも、誰もがそう

論じられるからである。彼は「本来性」=「非本来性」の二項対立を導入し、現代社会は非本来

的な状態にあると憂う。ハイデガーの哲学は、この社会は悪の状態にあるから、浄化しなけ

ればならない。というナチズムや原理主義的思想につながりかねない。「ひところ言われた

表現では、目的合理性(俗)でも価値合理性(聖)でもなく、それは無償性(遊び)に属

する。なんの目的もなく、つい持ってしまうから知的好奇心なのだ。持てと言われようと、

持つなと言われようと、ともかく知的好奇心を持つのは、その人の本性による。そして、

その人の個性によってさまざまなタイプがある」(森毅『知的好奇心は人生のいろどり』)。 イマニエル・カントにとって、道徳は哲学的願望であり、ゲオルグ・ヴィルヘルム・フリード

リヒ・ヘーゲルにとって、人間が社会的存在であることは自明である。ハイデガーは、人間が

社会的存在であることが怪しくなっている時代において、超越性に頼らず、生を価値付けら

れる道徳を模索するが、「平均的日常」から出発しない。哲学のギリシア性と森の生活という

ゲルマン的なるものへの回帰を夢見た彼は、そのため、グレコ=ローマン的なるものをゲ

ルマンに奇妙に結びつけたナチズムに傾倒していったのである。 けれども、ハイデガーを克服するために、「頽落」の突き詰め、すなわちニヒリズムの極

限を提案することはできない。ポストモダンにおいて、人間は「頽落」しきれない。極限は、

数列や級数が示している通り、仮想的に想定できる。ルネ・デカルトは、方法的懐疑、すなわ

ち懐疑の極限によって、コギトを見出している。極限は近代的方法であり、極限概念の発見

によって、微積分を含めた解析学は飛躍的に発展する。デカルトが解析学の創始者であるの

はこの極限の発見による。だとするなら、ポストモダンが極限化することはありえない。「平

均的日常」に見られる現象のほとんどは非線形に属している。こういった現象に対して極

限化は有効ではない。別の態度が必要となる。 シンポジウム・アカデミズムは「頽落」をユーモアラスに尊重する。シンポジウムは真理を

追究しない。「平均的日常」では、問題解決として、真理ではなく、間主観の方が重要だからだ。

森毅がニュー・アカデミズムを「六本木と本郷のクロスオーバー」と呼んだ通り、「平均的日

常」から出発する。ニュー・アカデミズムはおしゃべりを肯定する。ポストモダンにおける倫

理である共生の基盤をおしゃべりに見出したのだ。 こうしたおしゃべりのポストモダンは、坂本龍一と高橋悠治が一九八四年に魅力的な『長

電話』を刊行しているように、電話的=双方向会話的世界と見なせよう。携帯電話はポス

Page 27: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

トモダン的風景には欠かせない。電話に人々はおしゃべりの道具としての可能性を見出し

ている。電話は一八七〇年代に新たなビジネス・チャンスと捉えられるようになる。電話

会社は、当初、電話がニューヨークなど大都市から広まっていくだろうと予想し、農村部

を後回しにして、マーケッティング戦略を立てている。ところが、電話が最初に普及した

のは、彼らが想定していなかった中西部の農村部である。家と家の間が遠く、地域のコミ

ュニティを無ズ美つけられる電話が情報交換には便利だったからである。電話に先行して

普及していたのは電信であり、電信は、株価やアポなど必要最低限の情報のやりとりに使

われている。電信の延長と見られていた電話はまだ雑音が多く、電信と違い、情報を記録

できない理由から敬遠される。地方では、そんなことは考えず、電話でおしゃべりを楽し

んでいる。一八八〇年代になって、欧米の大都市で電話が知られるようになるが、それは

有線放送としてである。電話会社は契約者に、現在のインターネット・ライブのように、

市内の劇場公演や教会のミサを中継している。さらに、電信の配達人は男性であったのに

対し、電話の交換手は女性が採用される。最初は男性が使われていたが、飽きっぽく、言

葉遣いが乱暴で、不向きだったのである。女性たちはたんに電話の交換をしているだけで

なく、聞かれれば、地域の出来事から選挙の結果に至るまでさまざまな情報も提供してい

る。機転のきく交換手とのおしゃべりもその頃の電話の魅力である。後に、プライバシー

の考え強まり、彼女たちの声や応対は規格化される。それが確立していく中、ビジネスと

して以上に、距離を超えた友人や家族とのおしゃべりの道具として電話が定着していく。

アメリカの電話会社も、大衆文化が開花するローリング・トゥエンティーズの一九二〇年

代に入り、広告戦略を変更する。おしゃべりに電話ビジネスの将来性を変更したのである。

これは現在の携帯電話をめぐる状況にまでつながっている。 電話は、母親と妻が聴覚障害者であり、聾学校の教師でもあったアレキサンダー・グラ

ハム・ベルや聴覚が弱かったトーマス・エジソンによって、聴覚を補う道具として開発さ

れている。電話はバリアフリーとして誕生したのである。現在の携帯電話はメールやバイ

ブレーション機能、写真撮影が装備され、障害者や高齢者を健常者とつないでいる。また、

GPS 装備の携帯電話は、一九九九年、線上からモールス信号を駆逐し、インモルサット端末の衛星電話を通じて、ジャーナリストたちは、二〇〇二年以降、アフガニスタンやイラ

クから記事や写真、動画を世界中のメディア各社に送信している。その上、携帯端末はユ

ビキタス・コミュニケーターのプロト・タイプとして考えられている。これからは、さら

にその方向に進んでいくだろう。電話はポストモダニズム的理想を追求している。 ポストモダンにおいて人々が直面するのは、東浩紀が言っている「郵便的不安」、すなわ

ちコミュニケーションの断絶と誤配ではない。電話社会で、間違い電話は不安にならない。

人々を悩ませるのは「電話的不安」、一方的なコミュニケーションである。それは無言や卑

猥な内容を含む嫌がらせの電話、他人のコンピューターへの不正アクセス、ジャンク・メ

ールやウィルス、ワーム、スパム、スパイウェア、そして盗聴である。ウォーターゲート

での盗聴の発覚はリチャード・ニクソン大統領を辞任に追いこんだが、今では、エシュロ

Page 28: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

ンによって世界中の電波通信が盗聴されている。その盗聴もさらに盗聴されている可能性

さえ否定できない。フランシス・フォード・コッポラ監督は、一九七三年に、『カンバセー

ション…盗聴…(The Conversation)』で、ジーン・ハックマン演じるハリー・コール(Harry Caul)という盗聴屋が自分自身も誰かに盗聴されているのではないかと不安に陥っている姿をすでに描いている。”Bit Brother is Watching You!”

Small talk Small talk Small talk, ooh we're tired of prophecying We heard the word was good but it's stupefying Small talk, get up and do some death defying Small talk I heard a whisper That careless talk costs more than you bargained for In seventh heaven If a thing's worth doing, it's worth doing badly baby Small talk Small talk, oh, baby it's so inconsequential Everybody heard enough about your big potential Small talk, oh, no information give Small talk I heard a whisper That careless talk costs more than you bargained for In seventh heaven If a thing's worth doing, it's worth doing badly baby (ba-ba-ba...) I heard a whisper That careless talk costs more than you bargained for In seventh heaven

Page 29: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

If a thing's worth doing, it's worth doing badly baby Small talk, oh, you're such a little socialite We heard your chit-chat, now you get it up and get it right Small talk, oh, show us what you're made of baby Small talk I heard a whisper That careless talk costs more than you bargained for In seventh heaven If a thing's worth doing, it's worth doing badly baby I heard a whisper That careless talk costs more than you bargained for In seventh heaven If a thing's worth doing, it's worth doing badly baby I heard a whisper That careless talk costs more than you bargained for In seventh heaven If a thing's worth doing, it's worth doing badly baby

(Scritti Politti “Small Talk”) 浅田彰はこうした電話性を実践している。それはシンポジウムの司会者として能力を発

揮していることからも明らかであろう。司会者は問題を要約し、質問を繰り返す。けれど

も、アンリ・ポアンカレ流の答えることではなく、問いを発し続けることが重要だという

わけではない。彼はアルゴリズムを編み出す。マクルーハンの『メディアの理解』による

と、クールなメディアを代表するテレビにおいて、視聴者は固定されたイメージを受け取

るのではなく、固定しやすいイメージを期待する。それはルックスに限定されない。おし

ゃべりや対話の能力も含まれる。「テレビはプロセスの相互作用やあらゆる種類の形式発展

を他のメディアでは表現不可能なやり方で開示できる」。浅田彰はこうした哲学を具体化さ

せている。メディアを通じて、人々は情報を入手するが、決定に際しては、メディアの影

響以上に、家族や友人、周囲、ネットを通じた情報交換、おしゃべりが最も重要となって

いる。「人間はたいてい、内容より印象で受けいれるものだ。学会の講演ですら。ましてテレ

ビともなると、人はたいてい、日常のなにかをしながら、ブラウン管を眺めている。語りかけ

られる内容に神経を集中していることもない。それだけにかえって、対人関係の防衛から無

Page 30: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

防備になってもいる。それで直接に、その印象が伝わっていく。(略)考えてみれば、これだけ多くの人間のネットワークのなかにあって、たいていは印象によって人のイメージが作ら

れている。電波のネットワークのなかで、たまたまブラウン管に映像が現れているように。

それはすぐに消えて別の映像になるかもしれぬが、時間を共有しながら印象を残していく。

人間の関係というのは、そうしたものなのだ」(森毅『ブラウン管から』)。日本のポストモダン文学は同世代に限定された派閥を形成しない。中森明夫は浅田彰を「謀略公家」と呼んで

いるが、彼ら以降、そうしたグループをつくることはできない。ネットワークを拡充するだ

けだ。合衆国における ABC・CBS・NBC は、放送局ではなく、ネットワーク事業を運営している企業である。ネットワーク事業者が全米に点在する放送局を持っているのであっ

て、アメリカではネットワークが先にある。一方、日本の場合、東京に本社を置く大手の

民間放送局が地方の各放送局とネットワークを提携している。ニュー・アカデミズムはそ

ういった日本のネットワークの様相を変換する。思想のネットワーク事業者である。一九

八五年に坂本龍一と村上龍の鼎談集『EV. Cafe』は、女性との鼎談がない点があるものの、それを具現した日本のポストモダニズムにおける最高傑作である。シンポジウムにおいて

は、発言する資格を問われない。司会者は議論を完全にまとめあげることなく、ゆとりを持

たせなければならない。妥協は点ではない。「議長で会議を仕切ったこともあるが、なにか

の結論へ向けてまとめようと無理するのが、一番よくない。リーダーシップなんていらない。

そのかわり、まとまった結論というのは、当面の指針になっても、それだけが正しいわけで

はない。もともとが、いくつかのルートがあって、そのどれもがいくらかは正しいからこそ

議論になっているのであって、結論が出たから急に、正しいのはそれ一つということになる

はずはない。今後のことを考えれば、まとまった結論で正しいと安心するより、しりぞけら

れた意見のほうが役に立つ」(森毅『うっとおしいけど楽しい』)。 ニュー・アカデミズムのおしゃべりという倫理は、後の世代には、必ずしも受け継がれ

ていない。それどころか、彼らは開かれたおしゃべりを重要とは考えていない。 九・一一以前、東浩紀を筆頭に、オタク文化がポストモダンであるという意見が唱えら

れているが、オタクはポストモダンを代表してはいない。なるほどオタク文化は決してマ

イナーというわけではなく、無視できないほどの産業規模を持っている。また、マニアッ

クな知識や姿勢は、『なんとなく、クリスタル』が示しているように、ポストモダン文学の

重要な要素である。彼の註は部外者への説明のためにつけられている。しかし、オタク文

化には、モダニズム同様、デスコミュニケーションがある。それは母の過剰、強すぎる母

の支配に起因する。モダニズムは父の不在がアイロニカルに生み出しているが、オタクは

父の存在の決定不能性、すなわちいるのかいないのかわからない状況に対するアイロニー

である。ユーモアを欠いた攻撃性がそこにはある。「今日の所帯においては、子供達は騒い

だり、物を壊したり、喧嘩したり、勉強をいやがったり、そんなことばかりに熱心である

が、そのおなじ子供達を[累進セクト]または[集団系列]に入れてやった場合、うるさ

くいわないでも競って仕事に精を出すようになり、よろこんで耕作や製造、学問や芸術を

Page 31: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

学ぶようになる。(略)父親たちがこの新秩序を見たら、自分の子供達がセクトの中では感心だが、不統一所帯のなかでは憎らしいと知るであろう」(シャルル・フーリエ『四運動の理

論』)。ポストモダン文学は、田中康夫が少子高齢化を前提に作品を展開したように、母の

過剰へのユーモアがある。ポストモダン的状況は意識的に過去のものを復活させてきたが、

オタクは意識されていないモダニズムである。 森毅は、『ぼけとモダニズム』において、「九〇年代と三〇年代とは、時代の変わりめと

いう点で共通している」としながら、モダニズムを「ぼけ」であると次のように述べている。 時代の流れとしては、三〇年代から社会が規格化される方向に進んで、それが破綻し

て多様性を模索しているのが九〇年代。そして、三〇年代はモダニズムの時代だったが、

今ではピカソもジョイスも社会風俗に溶け込んでしまって、なにやらべったりしている

ところが皮肉。 モダニズムでは、人間の意識の多様性を反映して、時間や空間が交錯し、名詞を持つ

主体が変化した。(略)過去や未来の出来事が現在形で語られたり、ひとつの文章のなかで主語や場面が転回したり、会話と瞑想の境界がはっきりしなかったり。考えてみると、江

戸浄瑠璃の文体もそれに似ていた。(略) ところがテレビで「ぼけの前兆」という番組を見ていると、これがすべて当てはまる。

モダニズムというのは、ぼけのことであったのか。名詞が、とくに固有名詞が少なくな

って、代名詞が多くなる。話の途中で主語が変わったり、現実に起きたことと頭で考え

たことが交錯し、時間や空間は平気でワープする。規格によって解釈が一義化できない

分、イメージの多様性に豊かさがある。 ピカソやジョイスはポストモダニズムにとって極めて重要なアーキタイプである。彼ら

は、反逆を試みたがゆえに、伝統を熟知している。また、戦前に内務省の検閲が始まる前

の日本製の輸出用時代劇映画は、高橋留美子のマンガに出てくるようなハチャメチャさで

日本を描いている。クエンティン・タランティーノが見たら、泣いて喜ぶことだろう。ポ

ストモダニズムはモダニズムのパロディであり、大衆化であるけれども、それが見失われ

ている状態である以上、浅田彰はあえてモダンの導入を訴えている。それはポストモダンへ

の解毒、ポストモダン自身の相対化である。「精神をどれほど純化しても、バクテリアは防げ

ない。(略)ゆえに、テレビに抗うには、活字などの関連するメディアを解毒剤として摂取しなくてはならない」(マクルーハン『メディアの理解』)。 「打った!入った!同点!3対 1!1点勝ち越し! 長島一茂がプロ入り二本目のホームラン!」

(菅野”ミスター・ヴォルテージ”詩朗) ポストモダンは階層化された差異を並列化し、それをクロスオーバーさせたにもかかわ

Page 32: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

らず、オタクは流動化した差異を固定化させている。固定化された差異を細分化させ、それ

らは互いに干渉しない。オタクは既存のヒエラルキーの方向性を逆にし、ポストモダニズム

が実践していた「共生」の倫理に欠けている。「世間とのかかわりから言えば、もう少しは

オタクの自覚を持ってよい。世界を閉じていることを自覚しただけで、その世界が軽やか

に見えてくるじゃないか」(森毅『オタクの世界』)。オタクのクロスオーバーがポストモダンでは求められる。オタクのクエンティン・タランティーノは蓄積してきたデータをクロ

スオーバーさせ、『キル・ビル(Kill Bill)』(二〇〇三)という素晴らしいポストモダニズム作品を製作している。さらに、それに先立って、一九九四年にティム・バートンが監督した

『エド・ウッド(Ed Wood)』はまさにオタク映画が傑作となりえている。「まさに近ごろの傑作である。生涯一作も当たらぬという監督と彼が主役に選んだ二流スタアのベラ・ルゴ

シのスケッチ。映画のすべてが二流ムード。一九九四年の新品映画がモノクロで一九五〇

年代の二流スタイル画面で統一という念の入った面白さ。しかし映画は二流どころか、『シ

ザーハンズ』『ギルバート・グレイプ』のジョニー・デップを主演に『シザーハンズ』のテ

ィム・バートン監督」(淀川長治『淀川長治の銀幕旅行』)。「エド・ウッド映画史上最低の

映画監督である。『プラン 9・フロム・アウタースペース』は史上最低の映画として万人の認めるところになっている。これは地球人に戦争を止めさせようとしてやってきた宇宙の

支配者が、大統領と面会できなかったので墓場からゾンビを甦らせて地球を征服しようと

する侵略 SF映画である。理解不能なプロット、学芸会並の演技、ボール紙で作ったようなセット、間抜けなセリフ。すべての要素が揃ったおかげで、つまらなさを通り越してほと

んど芸術のようにシュールな作品ができあがってしまった。誰にも真似られない唯一無二

の--傑作かどうかはともかく--他に類を見ない映画なのである。彼の生涯はティム・

バートンの手によって『エド・ウッド』として映画化されている。しかしこの映画は真実

の半分しか伝えていない。映画は『プラン9』完成とともに終わるのだが、その後のエド・

ウッドの人生は悲惨の一語に尽きた。作った映画は売れず、さらにはまともに金を集める

こともできなくなり、ポルノ小説を書き飛ばして糊口をしのぎ、友人のポルノ映画に脚本

を書き、それでも食っていくのがやっとだった。やがてアルコールに溺れ、家賃も払えな

くなって極貧の中で死ぬ。晩年の彼はひどく陰気になり、苦々しくこぼすことが多かった

という」(柳下毅一郎『オレにやらせろ』)。

Ed Wood: What happened? Bela Lugosi: How dare that a------ bring up Karloff? You think it takes talent to play Frankenstein? It's all makeup and grunting! Ed Wood: Bela, I agree 100%. Now, Dracula. That's a role that requires talent. Bela Lugosi: Of course. Dracula requires presence. It's all in the eyes, in the voice, in the hands. Ed Wood: That's right, that's right. You seem a little agitated. You want to go outside

Page 33: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

and get some air? Bela Lugosi: Bulls---! I'm ready now. Roll the camera!

(Tim Burton “Ed Wood”) 東浩紀がオタク文化としてあげているポストモダンの特徴はアニメーションの特性であ

る。CGと実写で表現できる世界を自意識の優位性のためにアニメで描いているようなものだ。実写はカメラを用いるため、どこかに焦点を合わさなければならないのに対して、ア

ニメはカメラの制約から解き放たれている。カメラはあくまでも「見えるもの」を映すに

すぎない。フレームの外には別の世界あるいはその全体性がある。同一の画面の中で一本

の木と一人の人間を描こうとした場合、実写では焦点の都合上、どちらかを主にせざるを

得ないが、アニメにおいては、「スーパーフラット」であるため、両方を主にできる。アニ

メは、カメラの遠近法に縛られず、どこまでも平面的な視覚を提供する。ジョージ・ルー

カスがリチャード・ドレイファスに「アニメーションは俳優が邪魔をしない」と言ったよ

うに、役者の演義という曖昧なものを排除し、世界を平面に分割して、時空間は自由に扱

え、寓話的なリアルさを観客に訴える。「シュミラークルの全面化」(ジャン・ボードリヤール)であるアニメは、物語性が希薄であるなら、すべてが主役であり、同時に主役が不在の世界を描ける。実写はどんなに平面的たらんとしても、カメラの遠近法が作用しているた

め、観客に立体性・実存性を思い起こさせてしまう。ところが、物語性を強くしようとす

ると、その遠近法の欠落さにより、その展開をセリフに依存せざるをえない。ウォルト・

ディズニーのアニメでキャラクターがセリフを喋らせたように、何かを主にするため、セ

リフがその記号の機能を果たす。「なにもかもが『見えるもの』から『わかるもの』になっ

てしまったのです」(小栗康平『映画を見る眼』)。東が強調するキャラクターへの偏愛はここから生まれたにすぎない。キャラクターとセリフへの傾倒はアニメをラジオ・ドラマと

してそのまま使えるようにさせてしまう。この背景の下、声優が脚光を浴びる。それでい

て、大部分の日本のアニメは映像的には極めて保守的であり、アニメで描写する必要性は

皆無になってしまい、自己完結性だけが強まっている。「カメラが入るポジション、見せ方

は、オーソドックスで、落ち着きのいい実写のそれとなんら変わっていません。実写の映

画のセオリーをそのまま引き継いでいます。動植物が人間の言葉を喋ることで人間化して

いるとしたら、どんなお化けであろうが、これは人間ドラマです。さまざまに工夫された

絵柄によって、ファンタジーであることから目を覚まさせない、人間のセリフ劇です」(『映画を見る眼』)。アニメ的映像を賞賛するなら、アニメが盛んな「日本的スノビズム」(アレクサンドル・コジューヴ)を評価するのは必然的である。けれども、ポストモダン的「スーパーフラット」をアニメーションに求めて、マイナー志向のために、特定のキャラクターに焦点

をあわせるとしたら、それは背理であろう。 オタクの持つマイナー=マージナル志向とメジャー=センターの忌避にとどまることな

く、フラクタルに向かうクロスオーバー、オタク文化のパロディがポストモダンに値する。

Page 34: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

「二十歳前後の浅田というのは、本人が言っていましたが、オールラウンド・オタクみたい

なところがありました。映画を話すときは映画オタクと話をし、文学のことになると文学

オタクと話をし、思想の話をするときには哲学オタクと話をする。そして彼は、みんなそ

れぞれに専門化していて気に入らないと言っていました。そういう意味では、彼は原理的

にクロスオーバーです。それにしては、この頃はちょっとカッコつける面が出ているよう

です。これから彼がどうなるかは別です。(略)浅田は二十代のときは若さが愛嬌だったけれど、もう三十代も後半ですし、ちょっとシンドイでしょう。やはり四十代をどういう芸風

でやるかというのが彼の課題です」(森毅『ゆきあたりばったり文学談義』)。

How come you're always such a fussy young man Don't want no Cap'n Crunch, don't want no Raisin Bran Well don't you know that other kids are starvin' in Japan So eat it, just eat it Don't want to argue, I don't want to debate Don't want to hear about what kinds of foods you hate You won't get no dessert 'till you clean off you're plate So eat it Don't you tell me you're full Just eat it... eat it Get yourself an egg and beat it Have some more chicken Have some more pie It doesn't matter If it's boiled or fried Just eat it, just eat it Just eat it, just eat it... Woo! Your table manners are a crying shame You're playing with your food, this ain't some kind of game Now, if you starve to death You'll just have yourself to blame So eat it. Just eat it.

Page 35: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

You better listen, better do as you're told You haven't even touched your tuna casserole You better chow down, or it's gonna get cold So eat it. I don't care if you're full Just eat it... eat it Open up your mouth and feed it Have some more yogurt Have some more Spam It doesn't matter if it's fresh or canned Just eat it! Eat it! Eat it! Eat it! Don't you make me repeat it! Have a banana, have a whole bunch It doesn't matter what you had for lunch Just eat it! Eat it! Eat it! Eat it! Eat it! Eat it! If it's too cold, reheat it Have a big dinner. Have a light snack If you don't like it, you can't send it back Just eat it! Eat it! Get yourself an egg and beat it! Have some more chicken. Have some more pie It doesn't matter if it's boiled or fried Just eat it! Eat it! Don't you make me repeat it!

("Weird Al" Yankovic “Eat It”)

Page 36: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

消費、すなわち欲望の刺激は個人的だけでなく、社会的・時代的な背景によっても形成

される。それがモードを生み出す。モダニズムはまさにモードとして登場している。消費

優先はモードを招く。流行から逃れることはいかなるものもできない。流行は、景気同様、

循環する。モードの循環は、今では、臨界状態に達し、決定不能性に至っている。決定的

なものは何もなない。売られている物はなくてもいいけれど、あってもいい程度にすぎな

い。一九八〇年代、糸井重里が西武百貨店のために考案してコピーの変遷がそれを物語っ

ている。一九八一年が「不思議、大好き。」、翌年は「おいしい生活。」だったのが、一九八

八年になると、ファッション狂騒曲として「ほしいものが、ほしいわ」になっている。物

があふれているのに、欲しいものは何もないという逆説に到達している。欲望は、そのと

き、デフレに陥る。欲望のデフレ、すなわち欲望へのユーモアがポストモダン的状況であ

り、完全に植物化する。広告は、この環境において、商品の宣伝ではなく、新たな生活の

提案を主眼にしている。 森毅は、『ややこしさのモラルのために』において、こうしたポストモダンの政治・経済

は、シャルル・フーリエの著作を読めば、理解できると次のように述べている。 もう三十年も昔に読んだ、フーリエの情念論のことが、このごろ気になっている。そ

のころはよくわからなかったが、情念の解放を言っているようでじつは抑圧している、

時代の空気を考えるヒントになりそうに思う。 価値観がイデオロギーの形で幻想化すると、それは情念を抑圧する。とくに、その価

値観の実質が空洞化していると、それが幻想の形で抑圧性が増える。 フーリエの言っているのは、ありふれた欲望ではない。その上に三つの情念を設定す

るのが、昔はよくわからなかったのだが、自分流にこの時代を解釈するのに向いている。

時代が違うが、今に読みかえられるのが、古典というもののよさ。 欲望から政治・経済を考えると、「時代の空気」を掴み損ねる。ポストモダンにおいて、消

費を生み出すのはフーリエの三つの情念、すなわち「心がわりの情念」・「裏ぎりの情念」・

「ややこしさの情念」である。「道をきめずに『心がわり』をして、ときにまわりの思いを

『裏ぎり』ながら、それでもおたがい、楽しく生きるための『ややこしさ』。これが、この

時代に適合したモラルのような気がしている。道が決まらず、思ったとおりに進まず、や

やこしいけれど」。このモラルの下、家のリフォームが流行し、ユニヴァーザル・デザイン

が提唱され、建築家ではなく、使う人の視点が最優先される。すべてが等価であるとすれ

ば、欲望は刺激されない。高度消費社会は欲望ではなく、三つの情念に基づいている。「ほ

しいものが、ほしいわ」が示す多品種少量生産がモードを満足させる。「ここには、大きな

流れとして、産業社会から情報社会への移行がある。今だって、物を作るのが主流だろう

が、付加価値部分が大きくなって、規格品大量生産よりコンセプトが多様化して、デザイ

Page 37: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

ンなどのウェートが増えてきている。本来の情報産業は、そうした変化の最先端を示して

いるとも考えられる。つまり、システム的なものに、ネットワーク的なものを加味しよう

としているのではないか」(森毅『社会主義から社交主義へ』)。その結果、アクセサリーの

ような小さな自己表現が主流になり、世界はより複雑系を体現する。 『「J 回帰」の行方』の中で「二〇〇〇年になって振り返ってみると、一九九〇年代の日本文化を『J回帰』という言葉で括り、特徴付けられるのではないかと思う。J?JAPANの Jである」と浅田彰が言う九〇年代に登場した文学はベーシックな文学へと向かっている。先

人を踏襲しつつ、再構築するというポストモダン文学の手法を生かして、オルタネイティ

ヴな志向を示す作品もあるが、高価で奇抜なコム・デ・ギャルソンに代わり安く何の変哲

もないユニクロが時代を代表するように、多くは方法論で行きづまり、不十分な引用が目

立ち、ゴシップ化したり、かつてのカテゴリーではサブカルチャーに属していた領域をと

りこんだり、クラシックと化した日本近代文学を切り詰めて融合したりしている。「ニュー

アカの後どんどん若い世代が出てくるかと思ったら、案外出てこないんです。若い子はあ

あいう出方を真似しようとするけれども、もう一つパッと出てこない。もっとも真似をし

て出られるものでもないですけれども。ある意味で、彼らが出てきたということが、次の

世代の抑圧になっていないかということをいくらか気にする人もいます。たしかに、そう

いうことはあり得るわけです。だけど、これはしょうがないんです。それこそ小説の世界

でも、美術の世界でも、ある層というのは固まって出ます。ところが、その後を追ったっ

てやっぱりしょうがないんです。ある一つの流れが出てくると、次の世代の抑圧になるも

のなんです」(森毅『ゆきあたりばったり文学談義』)。それには、オルタネイティヴの意識を強く持つほかない。

I took her back to her room Gonna get back to the basics for you, oh yeah You gotta conscience, a compassion Got a way with the word You got a heart full of complacency too (But it's not like that) I don't have a purpose or mission I'm empty by definition I got a lack girl that you'd love to be (Up until the day) You want a diva, a deduction You wanna do what they do You wanna do a damage that you can undo

Page 38: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

(Up until the day) Apart from everyone Away from your life A part of me belongs Apart from all of the hurt above I got a perfect way to make a new proposition I got a perfect way to make a justification I got a perfect way to make a certain a maybe I got a perfect way to make the girls go crazy I took a day job, amendment I took a liking to you I took a page out of my rulebook for you You want a message, a confession You wanna martyr me too You want a margin of error for two (But it's not like that) Maybe tomorrow, the next letter Or when the weather gets better I gotta wait here for your moon to turn blue I made an offer, an exception I made a sense out of you You took a good look at your book and I knew (Up until the day) In times of tenderness, and tears baby so true Until such time as I can understand the things you do Want to forgive you for the things that you do Wanna forget how to remember with you Maybe tomorrow, the next letter Or when the weather gets better I gotta wait here for your moon to turn blue

Page 39: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

Apart from everyone Away from your life A part of me belongs Apart from all of the hurt above I got a perfect way to make a new proposition I got a perfect way to make a justification

(Scritti Politti “Prefect Way”) 九〇年代に始まった世界的な状況は、インターネットの普及に伴い、誰もがそこにアク

セスして、情報を検索し、獲得することができるようになっている。こうしたポストモダ

ンの下、引用の対象も拡大する。表層的なものにとどまらず、その社会的・歴史的・文化

的背景も引用し、クロスオーバーさせることが作品作成に求められるようになる。表層的

なものの引用に終始し、たんに戯れるのは後退である。それを試みるのであれば、タラン

ティーノやバートンのように、そこに敬意をこめ、愉快にしなければならない。オタク文

化には二八歳の女性とのおしゃべりが欠けている。以前にも増して、おしゃべりをする範

囲を広げる必要がある。「道が決まらず、思ったとおりに進まず、ややこしいけれど」。 『世界がもし 100 人の村だったら』が示しているように、今や個人ではなく、集団的匿名として作品を作成しなければならない。マクルーハンの警告通り、グローバリズムとロ

ーカリズムのクロスオーバーが九〇年代はアンバランスだったが、二〇〇〇年代には、そ

の共生も模索されるだろう。「道が決まらず、思ったとおりに進まず、ややこしいけれど」。

ポストモダン下では、老若男女、国籍、宗教、立場、居住地、ジェンダー、セクシャリテ

ィ、障害、病気は問われない。九・一一以降、その倫理が求められている。誰からともな

く始まり、在日コリアンのパンク・ミュージシャンとベイルートのアルメニア人小学生少

女、メキシコ在住の老バスク人マルクス主義者、コンゴで人道援助の活動をするレスビア

ンのスコットランド人、バンコクのクラブで働くナイジェリア出身のニュー・ハーフ、ケ

ープタウンの知的障害者、イヌイットの生物学専攻の大学院生、マレーシアのエコロジス

ト、スーダンの反政府ゲリラ、トロントに移り住んだパルーシーの女性経済学者、チュー

リッヒの金庫破り、パキスタンのベテランのホッケー選手、マウマウの娘、パームビーチ

に引退した民主党の元上院議員、ブタペストに運送中のトルコ人のトラック運転手、ウズ

ベキスタンの映画監督、ロシア移民でエルサレムに住むゲイのコンピューター・プログラ

マー、タロイモ栽培に従事するトンガの農民、アイスランドの DJ、ニューヨークのチベット人僧侶、チリのイタリア系女性弁護士、メルボルンの筋萎縮性側索硬化症の患者、マサ

イステップのマサイキリン、西表島のガジュマル、DNAコンピューターとが共同で刺激的なおしゃべりの作品が形成される。Eメールや携帯電話で連絡を取り合ってできた作品は、さまざまな社会的・歴史的・文化的・個人的背景によって構成され、多種多様な言語が入

Page 40: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

り混じり、CGや動画が盛りこまれ、世界中で手にすることができる。さらに、参加者が増えて、文化触変が続き、変化を重ね、拡散していく。それが植物化するポストモダンの生

成である。 しかし、九〇年代以降の世界を「ポストモダン」の名称で把握することには無理がある。

それぞれの分野・領域が相互浸透している。決定不能性はより進み、クロスオーバーでさ

えない。フェリックス・ガタリはカオスとコスモス、浸透の三つの意味を組み合わせた「カ

オスモーズ(Chaosmos)」を提唱している。多元主義あるいは多文化主義という思考さえこのカオスモーズにさらされている。ポストモダンはベルリンの壁に代表される壁の時代に

おける相対主義的な動向であるが、九〇年代から膜の時代へ突入している。壁は消え、半

透膜が世界各地にはりめぐらされている。あるものは通し、別のものは通過させず、そこ

に浸透圧が生じる。現代社会はこのように開かれている。ポストモダンに代わって、むし

ろ、ガタリに倣い、「カオスモダン(Chaosmodern)」を使うべきだろう。「情報化社会というのは、過去の情報がどんどんデータベースに蓄積されていくんだけど、その結果、逆説的

なことには、現在の輝きだけで評価されるようになる。もう、過去のことなんて、どうだって

いいんですよ」(森毅『過去は白紙』)。

“I know who I am. No one else knows who I am. Does it change the fact of who I am what anyone says about it? If I was a giraffe, and someone said I was a snake, I'd think, no, actually I'm a giraffe”.

(Richard Gere “The Guardian” June. 2002) 〈了〉

プレモダン モダン ポストモダン 神の権威 神の死 神の死の決定不能性 アルブル(ツリー)/ラディセル

クラインの壺 リゾーム

計画/放任 ギャンブル 遊戯 人間 動物 植物 存在 運動 現象 デカルト/カント パスカル/キルケゴール ニーチェ/フッサール ワーグナー/ヘーゲル シェーンベルク/アドルノ ジョン・ケージ/マクルーハン 金 不換紙幣 クレジット ルソー/モンテスキュー ジョン・ロー ハイエク/レーニン ケインズ

シャルル・フーリエ

モーツアルト/ルノアール カザルス/ピカソ グールド/ウォーホル マジメ/シリアス イロニー ユーモア/ポップ

Page 41: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

ラクダ ライオン 幼な子 決定論 確率論 決定論的非周期性 トータリティ インフィニティ アトラクター リアル イマジナル ヴァーチャル ヒエラルキー アナーキー カオス 主人と奴隷 インディペンデント パラサイト 権威主義 ニヒリズム 商業主義 定住 競争 逃走 メジャー/セントラル マイナー/マージナル フラクタル 固体 気体 液体 本 雑誌 インターネット ドメスティック ワイルド イージー ウェット ドライ ドラスティック 答え 問い アルゴリズム 高精細度のメディア 低精細度のメディア ホット クール 郵便/ラジオ 電話 活字 話し言葉 写真 マンガ 映画 テレビ 講演 セミナー システム ネットワーク エネルギー エントロピー ペーパー シンポジウム」 ハード ソフト Visible Invisible 内部/外部 地平線 一/多 ゆらぎ 線形 非線形 平衡 非平衡 主観/客観 間主観 自己/他者 集団的匿名 微積分 複雑系 弁証法/二律背反 永遠回帰 生産/蓄積 流通/消費

Page 42: 紙と饗宴 佐藤清文 なんとなく、ポストモダン─モードと …infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/... · Hypnotize Call me up when

シンタックス モザイク