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9 本稿は 4 つの章から構成されています。まず最初に(ある文学作品の中に出てくる敵に対する 刑法(訳者注:以下「敵刑法」と略す)の事例を示しながら)導入を行います。そしてこれに引 き続いて、ヤコブスの「敵刑法」概念の展開を概略します。B では、敵刑法をめぐる国際的な議 論を紹介します。敵刑法の問題に関する私見は C で示すことにします。最後に D では敵刑法の具 体的な諸事例を各論的に分析します。 A .ヤコブスの「敵刑法」構想の導入、定式化、展開 Ⅰ.導入 ― ある文学作品の中に出てくる事例 ― ある文学作品から取り出した事例を使って本稿を始めることとします。『ドン・キホーテ』の第 22章で 1) 、スペイン人作家のミゲル・デ・セルバンテスは、ドン・キホーテと彼の従者であるサン チョ・パンサが「鎖につながれて、王様に無理強いされてガレー船に船漕ぎに行く者達」、つまり 有罪判決を受けて戦艦の漕手席で働くよう命じられた囚人たち(いわゆるガレー船漕刑)と遭遇 する場面を描いています。ドン・キホーテは彼らが処罰される理由に興味を抱き、護送の役人や 全ての囚人と示唆に富んだ会話をし始めます。ここでは、「30歳ぐらいで、いささかやぶにらみで はあった」(当時は不吉の徴であると考えられていました)が、「堂々たる恰幅の男」とセルバン テスが描写している最後の囚人の姿が注目されます。ここで特に興味深いのは、「彼の縛られ方」 です。それまでの囚人達は、最後の囚人は、ヒネス・デ・パサモンテという名ですが、「全身を長 い鎖で縛られ、それを片方の足で引きずっていたのである。また首には鉄の輪を二重にはめられ、 その 1 つはいま言った鎖につながり、もう 1 つは友枷と呼ばれる種類の首輪であった。そして、 この友枷から 2 本の鉄棒が腰のあたりまで垂れ下がり、その鉄棒の先についている手錠に両手を 押さえられ、かてて加えて、男は手を口に持って行くこともできなければ、頭を手の方に下げる 編集部注 * セビリア大学准教授 ** 甲南大学法学部准教授(法学研究所例外状態と法研究班委嘱研究員) 本稿は、2010年7月23日に開 催された法学研究所第42回シンポジウムの報告原稿を翻訳したものである。 1)M. de Cervantes Saavedra, Der sinnreiche Junker Don Quixote von La Mancha, I. Teil, XXII. Kap., 1905(orig. Ausgabe: 1605) , S. 10.(訳者注―引用部分は、セルバンテス作・牛島信明訳『ドン・キホーテ 前編(二)』 9 頁以下(岩波書店・2001年)の翻訳を参照した) 敵に対する刑法 ある概念の機能的な脱神話化 ミゲル・ポライノオルツ * 森 永 真 綱 **

敵に対する刑法 - Kansai U...Pawlik / R. Zaczyk(Hrsg.), Festschrift für Günther Jakobs, 2007, S. 530参照。 ―11― の男は大胆不敵にして極めつきの大悪党だから、こうやって連行していても決して安心はできな

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Page 1: 敵に対する刑法 - Kansai U...Pawlik / R. Zaczyk(Hrsg.), Festschrift für Günther Jakobs, 2007, S. 530参照。 ―11― の男は大胆不敵にして極めつきの大悪党だから、こうやって連行していても決して安心はできな

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 本稿は 4つの章から構成されています。まず最初に(ある文学作品の中に出てくる敵に対する

刑法(訳者注:以下「敵刑法」と略す)の事例を示しながら)導入を行います。そしてこれに引

き続いて、ヤコブスの「敵刑法」概念の展開を概略します。Bでは、敵刑法をめぐる国際的な議

論を紹介します。敵刑法の問題に関する私見は Cで示すことにします。最後にDでは敵刑法の具

体的な諸事例を各論的に分析します。

A.ヤコブスの「敵刑法」構想の導入、定式化、展開

Ⅰ.導入―ある文学作品の中に出てくる事例―

 ある文学作品から取り出した事例を使って本稿を始めることとします。『ドン・キホーテ』の第

22章で1)、スペイン人作家のミゲル・デ・セルバンテスは、ドン・キホーテと彼の従者であるサン

チョ・パンサが「鎖につながれて、王様に無理強いされてガレー船に船漕ぎに行く者達」、つまり

有罪判決を受けて戦艦の漕手席で働くよう命じられた囚人たち(いわゆるガレー船漕刑)と遭遇

する場面を描いています。ドン・キホーテは彼らが処罰される理由に興味を抱き、護送の役人や

全ての囚人と示唆に富んだ会話をし始めます。ここでは、「30歳ぐらいで、いささかやぶにらみで

はあった」(当時は不吉の徴であると考えられていました)が、「堂々たる恰幅の男」とセルバン

テスが描写している最後の囚人の姿が注目されます。ここで特に興味深いのは、「彼の縛られ方」

です。それまでの囚人達は、最後の囚人は、ヒネス・デ・パサモンテという名ですが、「全身を長

い鎖で縛られ、それを片方の足で引きずっていたのである。また首には鉄の輪を二重にはめられ、

その 1つはいま言った鎖につながり、もう 1つは友枷と呼ばれる種類の首輪であった。そして、

この友枷から 2本の鉄棒が腰のあたりまで垂れ下がり、その鉄棒の先についている手錠に両手を

押さえられ、かてて加えて、男は手を口に持って行くこともできなければ、頭を手の方に下げる

編集部注 * セビリア大学准教授    ** 甲南大学法学部准教授(法学研究所例外状態と法研究班委嘱研究員) 本稿は、2010年 7 月23日に開

催された法学研究所第42回シンポジウムの報告原稿を翻訳したものである。 1) M. de Cervantes Saavedra, Der sinnreiche Junker Don Quixote von La Mancha, I. Teil, XXII. Kap., 1905(orig.

Ausgabe: 1605), S. 10.(訳者注―引用部分は、セルバンテス作・牛島信明訳『ドン・キホーテ 前編(二)』9頁以下(岩波書店・2001年)の翻訳を参照した)

敵に対する刑法―ある概念の機能的な脱神話化―

ミゲル・ポライノオルツ *

森 永 真 綱 訳 **

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こともできないというありさまであった」のです。ドン・キホーテは、「どういうわけで、この男

だけがこれほど厳しく縛られているのか」と、正義感に駆られて、このように取り扱いを区別し

ている理由を尋ねました。これに対する護送の役人の返答に、敵刑法をめぐる現代的問題が極め

て明快な形で集約されていると思われます。セルバンテスはその返答を以下のように書いていま

す。「この男 1人で他の連中全員を合わせたよりも多くの犯罪を犯しているからだ。この男は大胆

不敵にして極めつきの大悪党だから、こうやって連行していても決して安心はできない、それど

ころか、いつ何時逃げ出すかもしれないと気の休まるひまもないのだ」と。

 この一節は、 2種類の行為者が存在すること、つまり―より精確にいえば―規範を侵害した

り、誰かを被害者に陥れることには 2種類の形態が存在することを示しているのです。すなわち、

1つは、基本的には規範に忠実であるが、例外的に犯罪という形で「過ち」を犯す可能性のある

主体です。こうした主体はセルバンテスが本の中で描いているはじめに登場した囚人達です。こ

のような者を市民(Bürger)といいます。この者は市民として取り扱われる最低限の保障を原則

的に与えます。すなわち市民は基本的に規範を尊重する、つまり他者を権利と義務の担い手とし

て尊重するのです。人間は不完全である、つまり過ちを犯しうることから、犯罪を行いうるので

す。ただ、これによって社会の基盤を脅かすわけではないので、(ヤコブスがいうように2))「刺激

( Irritation)、つまり修復可能な失策として」把握されなければなりません。というのも、この行

為者は犯罪を行うことで、一時的には個人として、つまり規範侵害者として振る舞ってはいます

が、その後は再び規範に忠実である(すなわち市民、法における人格にとどまっている)からで

す。犯罪を行った後は、行為者は必要最低限の保障をもたらしているがゆえに、再び市民となる

のです。たしかに過ちを犯した市民ではありますが、それ以上の者ではないのです。

 他方で、犯罪を実行した後も規範を動揺させ続けることで、他の者(法的人格、市民)の危険

源となる行為者が存在します。このように規範妥当を継続的に震撼させることに鑑み、かかる行

為者には「敵」という概念が与えられます。この敵は、上記の「通常の」犯罪者とは異なり、現

行の法律上の諸規定に基づいて比較的厳しく処罰され、あるいは限られた保障しか付与されませ

ん。というのも、彼の行為は単発的な法益侵害にとどまらず、常態的に(も)法における人格の

発展の根本的な諸条件を震撼させるものだからです。かくして、敵の行為は、(イェーリングがい

うように3))「自我の物のみならず、人格にも向けられた攻撃」であり、常に「人格の存在に不可

欠な諸条件にも向けられている」ものなのです。このような敵の取り扱いの一例は、先に紹介し

たセルバンテスの記述における最後の囚人の描写の中に見ることができます。この囚人は特にき

つく縛られていたわけですが、その理由は彼が累犯者であり、法における人格として取り扱われ

るという認知的な保障をもはやもたらさないことにありました。すなわち(セルバンテスが描い

ているように)「この男 1人で他の連中全員を合わせたよりも多くの犯罪を犯しているからだ。こ

2) G. Jakobs, Bürgerstrafrecht und Feindstrafrecht, HRRS 3 (2004), S. 91. 3) イェーリングの見解については、M. Polaino Navarrete, Die Funktion der Strafe beim Feindstrafrecht, in: M.

Pawlik / R. Zaczyk(Hrsg.), Festschrift für Günther Jakobs, 2007, S. 530参照。

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の男は大胆不敵にして極めつきの大悪党だから、こうやって連行していても決して安心はできな

い、それどころか、いつ何時逃げ出すかもしれないと気の休まるひまもない」、つまりは、新たな

犯罪の実行が懸念されていたからなのです。

Ⅱ.出生証明書―「敵刑法」概念の創造(1985)

 1985年にヤコブスはフランクフルト・アム・マインで開催された刑法学者大会において、「法益

侵害の前段階における犯罪化」に関する講演の中で、初めて「敵刑法」という概念を用い、これ

をいわゆる「市民刑法」と対置しました。講演は後に全刑法学雑誌(ZStW)にて公刊され4)、こ

の対概念の出生証明書となりました。論文の中でヤコブスは両名称を創造し、これらをいくつか

の―部分的には数百年来―従前より周知の刑法上の諸問題に応用しています。それは刑法が作

動する時点が、より大きな危険を回避する目的から、立法者の刑事政策的考慮に基づき例外的に

早期化されているというものです。ここでヤコブスが敵刑法という概念で把握しようとしたもの

として、例えば犯罪団体やテロ結社の創設(ドイツ刑法第129条、第129条 a)、関与の未遂(ドイ

ツ刑法第30条)、「予備行為が私的領域で行われる場合における」物理的な予備行為の犯罪化の全

てが挙げられています5)。ヤコブスによれば、いくつかの抽象的危険犯6)や「処罰の早期化が周知の

領域」もこの現象に含まれるとされ、これには秘密警察活動が周知であるいくつかの領域が伴っ

ているとされています。例えば薬物犯罪、国家保護犯罪、通貨偽造犯罪などが挙げられていま

す7)。

 ヤコブスは、これらの敵刑法規範は市民刑法規範といくつかの点において相違することを確認

しています。上記の敵刑法規範は―伝統的な市民刑法と対比した場合―際だった特殊性を体現

し、かつ敵刑法の典型的な特徴を示しているのです。それは、処罰が早期化されていること、こ

の早期化に見合った形で刑が減軽されていないこと、通常の刑事立法から闘争立法へと変遷して

いること、被疑者に対する刑事手続上の保障が縮減されていることなどです。

 敵刑法の下では―市民刑法と比較すると―物質的な法益の危殆化の兆候が早期に克服されま

す。行為者は、ヤコブスのいう「側防的規範(fl ankierende Normen)」を侵害しているのです。こ

れは「主要規範(Hauptnorm)が妥当するための諸条件を保障することを任務とする」規範のこ

とです8)。ここでは行為者は敵、つまり法益にとって危険性を有する個人として定義され、その危

険発生の時点は潜在的には際限なく拡大されえます9)。こうしたことをヤコブスは当時以下のよ

うに要約していました。「法益保護の最適化を推し進めると、ますます行為者は内部的な領域を持

4) Jakobs, Kriminalisierung im Vorfeld einer Rechtsgutsverletzung, ZStW 97(1985), S. 751 ff. 5) Jakobs, Kriminalisierung,(Fn. 4), S. 757. 6) Jakobs, Kriminalisierung,(Fn. 4), S. 767 ff. 7) Jakobs, Kriminalisierung,(Fn. 4), S. 752. 8) Jakobs, Kriminalisierung,(Fn. 4), S. 775. 9) Jakobs, Kriminalisierung,(Fn. 4), S. 753.

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たない敵であると定義されることになる」10)。そして「敵刑法は……法益保護」を最適化し、「市

民刑法は……自由領域」を最適化するものだと確認できる、と11)。

Ⅲ.この概念のさらなる展開(1999‒2008)

 この1985年のヤコブスの論文は、その内容が講演された刑法学者大会の中では、ドイツにおけ

る目立った議論を呼び起こさず、それは他の諸国においても同じでした。当時ヤコブスの講演は

ドイツ語圏ではいわば受け入れられたのです。このことが意味しているのは、「敵」という用語が

学説にとって克服し得ない問題ではなかったということです。この用語(敵刑法/市民刑法)と

ともに、ヤコブスの構想は、例えば「市民の自由に対する感銘的な賛意」12)とまでいわれていた

のです(これはフリードリッヒ・クリスチャン・シュレーダーの表現です)。

 それから数年後、ヤコブスは1990年代に発表したいくつかの学術文献において、敵という概念

及び敵刑法の諸現象について言及しています。例えば1991年には総論の体系書、1997年には『規

範、人格、社会―法哲学に関する予備的考察―』という名の広く知られた書物13)、そして1998年

の現代刑法理論に関する論文14)においてです。これら一連の敵刑法への言及は、最初の論文と同

じ運命をたどりました。すなわち、目立った反応はほとんどみられなかったのです。より正確に

いえば、この概念のさらなる展開に対して、特に批判的ないしドラスティックな拒絶はみられな

かったのです。

 1999年にヤコブスはベルリンでの専門家会議において、「現代の挑戦に対する刑法学の自己理

解」という題名の講演を行い15)、そしてそのすぐ後の2001年には、「刑法における人格性と疎外」

という題名の論文がスピネリスの祝賀記念論文集において公刊されました16)。これらの論文は世

紀の変わり目頃に公刊されたのですが、―これまでの論文とは反対に―学術上大きな反響を呼

びました。これらの論文に対する学説の反応は批判的ないし否定的である点でほぼ一致していま

した。しかし、なぜ「敵刑法」という概念の使用がこのようにほぼ一致した反応を、しかも15年

前ではなく、2000年頃になって初めて呼び起こしたのでしょうか。その理由は明白です。学説は

ほぼ一致して、敵刑法という現象を、2001年 9 月11日のテロ攻撃に対する国際的な対応及び立法

上の反応、イラク戦争、さらにはグアンタナモとさえ結びつけたのです。しかしヤコブスが述べ

10) Jakobs, Kriminalisierung,(Fn. 4), S. 784.11) Jakobs, Kriminalisierung,(Fn. 4), S. 756.12) フリードリッヒ・クリスチャン・シュレーダーの見解については、W. Gropp, Diskussionsbeiträge der

Strafrechtslehrertagung, ZStW 97(1985), S. 926.13) Jakobs, Norm, Person, Gesellschaft, 2. Aufl . 1999(3. Aufl ., 2008), S. 109 ff.14) Jakobs, Zur Gegenwärtigen Straftheorie, in: K.-M. Kodalle(Hrsg.), Strafe muß sein! Muß Strafe sein?, 1998,

S. 37 ff.15) Jakobs, Das Selbstverständnis der Strafrechtswissenschaft vor den Herausforderungen der Gegenwart, in: A.

Eser(Hrsg.), Die deutsche Strafrechtswissenschaft vor der Jahrtausendwende, 2000, S. 47 ff.16) Jakobs, Personalität und Exklusion im Strafrecht, in: N. Courakis(Hrsg.), Die Strafrechtswissenschaften im

21. Jahrhundert, Festschrift für Dionysios Spinellis, 2001, S. 447 ff.

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ていた敵刑法は、その反対者が理解しているようなものではなかったのです。

 この表層的かつ不正確な同定( Identifi zierung)に応えるために、ヤコブスはこのテーマに関す

る 2つの論文をモノグラフィーの形で公刊しました。一つ目の論文は、「市民刑法と敵刑法」とい

うタイトルで、台湾の許教授を編者として出版された論文集(祝賀論文集)において2003年に公

刊し17)、その後まもなく、「権利性の諸条件」に関する 2つ目の論文を世に送り出したのです18)。

 前者の論文においてヤコブスは敵刑法構想の哲学的基礎について論じたのですが、それは非常

に興味深く、また深い感銘を与えるものでした。より詳しくいいますと、ホッブズ、カント、フ

ィヒテ、ルソーといった 4人の哲学者の諸見解について検討が加えられたのです。その記述の中

でヤコブスは、既にホッブズとカントが市民刑法と敵刑法とを区別した上で、前者を単発的に犯

罪を犯したに過ぎない者に、後者を常習的な犯罪者に適用すべきであると主張していたことを明

らかにしています。前者の場合、行為者は人格としての地位を保持しますが、後者の場合には共

同体から排除されるのです。このような構想には、ヤコブスの敵刑法と市民刑法という構想との

一定の類似性を見い出せます。さらにヤコブスはルソーとフィヒテの見解について言及していま

す。そしてこれら 2人の論者にとって、あらゆる犯罪者は既にそれ自体として敵であるため、そ

もそも敵刑法のみが予定され、市民刑法は原理的にありえないとされています。以上のような記

述に加えてヤコブスはこの論文の中で、保安監置(刑法第66条)のような現行ドイツ法に見られ

るアクチュアルな例もいくつか挙げています。

 「権利性の諸条件」に関する後者の論文において、ヤコブスは特に 2つのテーゼを展開していま

す。 1つめは、現実の法は観念的な法とは無関係であるということです(そのため違法な平行国

家(Parallelstaat)を擁護する危険性は存在しないということです19))。 2つめは、あらゆる規範

的制度は、現実的なコミュニケーションを提供しようとすれば、認知的な裏付け(Kognitive

Untermauerung)を必要とするということです。すなわち、名ばかりの(nur postuliert)法治国

家や法における人格は、現実的には何ら指針をもたらすことはできないということです。

 最近ヤコブスは、再三再四このテーマについて言及しています。例えばノルトヴェストファー

レン学術アカデミーにおける「国家刑罰の意義と目的」に関する講演(2003年)20)、フランクフル

ト・アン・デア・オーダーで開催された刑法学者大会における「テロリストと法における人格」

に関する講演(2005年)21)、及びいくつかのスペイン語文献22)が挙げられます。この問題に関する

17) Jakobs, Bürgerstrafrecht und Feindstrafrecht, in: Yu-hsiu Hsu(Hrsg.), Foundations and Limits of Criminal

Law and Criminal Procedure, Anthology in Memory of Professor Fu-Tseng-Hung, 2003, S. 41 ff.; später auch

in: Bürgerstrafrecht(Fn. 2), S. 91 ff.18) Jakobs, Feindstrafrecht? ― Eine Untersuchung zu den Bedingungen von Rechtlichkeit, HRRS 8-9(2006), S.

289 ff., im Internet unter: http://www.hrr-strafrecht.de/hrr/archiv/06-08/hrrs-8-06.pdf.

19) K. Gierhake, Feindbehandlung im Recht? Eine Kritik des so genannten «Feindstrafrechts» und zugleich eine

Auseinandersetzung mit der Straftheorie Günther Jakobs’, ARSP 94.3(2008), S. 352 ff.参照。20) Jakobs, Staatliche Strafe. Bedeutung und Zweck, 2004, S. 40 ff.21) Jakobs, Terroristen als Personen im Recht?, StW 117(2005), S. 838 ff.22) Jakobs in: G. Jakobs / M. Polaino-Orts, Derecho penal del enemigo: algunas tesis fundamentales, JuS. Doctrina

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最近の講演は2009年にドイツ語で行われましたが、なお未公刊です23)。

Ⅳ.ヤコブスにおける敵刑法の特色

 それではヤコブスのいう敵刑法とはどのようなものなのでしょうか。ヤコブスによれば、敵

刑法とは例外の法であり、それ自体として把握されなければならないものであって、市民刑

法との混同は避けなければならないとされています。敵刑法の下では、行為者は危険源と見な

されるがゆえに、処罰が早期化されるわけですが、これは最終的には行為者の非人格化

(Depersonalisierung)を意味することになります。「認知的な裏付けが欠ける場合には、強制が行

使されなければならない。これは常に非人格化なのである」とされています24)。

 敵刑法の典型的な特徴として以下のものが挙げられます。

1.処罰の大幅な早期化、つまり「既に行われた犯罪から将来行われる犯罪へと視線を転じるこ

と」25)。すなわち危険志向的な未来予測が基礎とされ、市民刑法のように回顧的な考察は加えら

れません。よって、「過去に行われた犯罪の処罰は市民に対応し、将来行われうる犯罪の防除は

敵に対応する」26)のです。

2.早期化に見合った形で刑が減軽されないこと。

3.いくつかの分野における通常の刑事立法から闘争立法への変遷。例えばテロリズム、組織犯

罪、性犯罪、経済犯罪など。

4.刑事手続上の保障の縮減(Abbau)。

Ⅴ.論点

 この章では、 1.ヤコブスの敵刑法構想には断絶があるのではないか?、 2.敵刑法に対する

評価は正統化なのかそれとも記述にすぎないのか?、 3.既に正統化されている敵刑法を正統化

するものか?という 3つの論点について考察したいと思います。

1 .ヤコブスの敵刑法構想には断絶があるのではないか? ヤコブスの敵構想への反対者は27)、「 2人のヤコブス」が存在する、すなわち1985年のヤコブス

と1999年のベルリンにおける公演後のヤコブスの間には隔絶がみられると主張しています。 1人

& Práctica 5(2007), S. 33 ff.; G. Jakobs in: G. Jakobs / M. Polaino Navarrete / M. Polaino-Orts, Derecho penal

del enemigo y concepto jurídico-penal de acción en la Dogmática contemporánea, 2007, S. 11 ff.; Jakobs in:

G. Jakobs / M. Polaino Navarrete / M. Polaino-Orts, Derecho penal del enemigo en el contexto del

Funcionalismo, 2008, S. 15 ff; G. Jakobs, En los límites de la orientación jurídica: Derecho penal del enemigo,

in: G. Jakobs / M. Polaino-Orts, Delitos de organización: un desafío al Estado, 2009, S. 21 ff.23) Jakobs, Zur Theorie des Feindstrafrechts(Manuskript), 2009, S. 1 ff.24) Jakobs, En los límites(Fn. 22), S. 55.25) Jakobs in: A. Eser(Hrsg.), Deutsche Strafrechtswissenschaft(Fn. 15), S. 51 f.26) Jakobs, En los límites(Fn. 22), S. 55.27) 例えばL. Greco, Über das so genannte Feindstrafrecht, GA(2006), S. 107 ff. さらにK. Ambos, Feindstrafrecht,

ZStrR 124(2006), S. 13(19).

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目は敵刑法を否定していたが、もう 1人の方はそれを批判的ないし否定的に見るのではなく、む

しろ肯定的で正統化されるものであると捉えているというのです。

 私の見るところ、この主張は当を得ないものであり、その証拠をヤコブスの規範概念の中に見

つけることができます。1985年にも、1999年以降と同様、ヤコブスは、規範妥当は潜在的行為者

の態度だけでなく、潜在的被害者(Betroffene)の予期にも依存するものだと前提していたので

す。1985年の段階でヤコブスは、「それゆえ規範妥当は、規範と潜在的行為者、すなわちふつう唯

一規範の名宛人と呼ばれている者との間の関係であるのみならず、規範と潜在的被害者との関係

でもある。規範妥当は多面的なものであるため、潜在的被害者サイドは行為者サイドから否定的

に定式化されたものであるにとどまらず、むしろ固有の積極的な意味内容を有しているのであ

る。それは規範に対する信頼(Normvertrauen)である」28)と述べています。2006年にヤコブス

は、機能している社会は「法が給付すべきもの、すなわち指針を与えることであるが、それは被

害者に対しても行われる」29)としています。もし規範妥当の認知的な裏付け、すなわち最低限の

保障がなければ、規範による指針の提示はなしえません。このような事態は、(1985年にヤコブス

がいったように)まさに「側防的規範」が侵害されたときに発生します。つまり犯罪者が安全性

を給付しないだけでなく、法治国家の破壊を彼らの規準(Maxime)として掲げるようなときで

す。

 以上のことから、ひとまず以下のようにいうことができると思われます。すなわち、敵刑法に

関するヤコブスの評価に断絶は存在せず、「記述的な」ヤコブスと「正統化的な」ヤコブスとに区

別することはできないのです。むしろその分析には学問的連続性と継続的発展性が見られ、この

問題をめぐる首尾一貫した考察が加えられているのです。こうしたことは、規範ないし規範妥当

といった概念によって示されています。

2 .正統化かそれとも記述か? ヤコブスの敵刑法に関する叙述は、既に存在している法秩序を記述したものなのか、それとも

特に重大な犯罪を克服する目的からこれを正統化する主張も含んでいるのか(さらにヤコブスが

独裁国家を正統化するのか)、学説上議論の対象となっています。多数説は、ヤコブスがこのよう

な諸規範をも正統化し、独裁制も正統化する可能性を認めていると明言しています。しかしヤコ

ブスは、正統化しているわけではなく記述しているのだと自ら述べています。ヤコブスは、既に

存在している現実、しかも現代の法秩序において既に認められる現実を記述しているにすぎない

と思われます。ヤコブスは、どの論文においても、法哲学的ないし理論的基礎について論じるに

とどまらず、犯罪団体やテロ結社の構成員となることを処罰する構成要件、保安監置、スパイ投

入、弁護人と未決拘禁者との間における外部交通の遮断など、敵刑法のアクチュアルな諸事例を

常に挙げています。かくしてヤコブスの考察は、争う余地のない経験的基盤を有するものであり、

現に法秩序において存在する周知の諸規範を記述するものなのです。それゆえ、「敵刑法」という

28) Jakobs, Kriminalisierung,(Fn. 4), S. 775.29) Jakobs, Feindstrafrecht?(Fn. 18), S. 290.

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概念の結付能力(Leistungsfähigkeit)を全て―記述的なそれも含めて―否定するグレコの見解30)

は維持できないものと思われます。

3 .既に正統化されている敵刑法を正統化するものか? 最後の問題についてですが、「正統化か記述か」をめぐる上記の論争は無用なものだと述べまし

た。ただし、ヤコブスの論証が記述的なものにとどまらず、正統化を目指したものであるとして

も、既に正統化されている諸規範(例えば犯罪団体やテロ結社の結成、保安監置、外部交通の遮

断など)、すなわち既に法治国家において存在しているだけでなく、法治国家や連邦憲法裁判所に

よって形式的にも実質的にも既に正統化されている諸規範に関するものである限り、これは意外

なことではないのです。このことについても、さらに言及されなければなりません。

B.国境を越えた議論

Ⅰ.敵刑法をめぐる国境を越えた議論

 2000年頃に敵刑法が学術上の議論に再導入されたことは―Aで述べたように―、ドイツ語文献

において大きな反響を喚起しましたが、これは外国文献においてもそうでした。ドイツ語では数

年の内に多くの文献が公刊されましたが、それは多数の論文にとどまらず、数冊の論文集、モノ

グラフィー、コンメンタールも刊行されましたし、体系書においても言及されるようになりまし

た。例えば、特にアンボス、ブンク、カンシオ、ギールハーケ、ゲッセル、グレコ、ヘーフェン

デール、ヘルンレ、キントホイザー、リューダーセン、プリットヴィッツ、シューネマン、ジン

らの論文、ロクシンの体系書第 1分冊第 4版における考察、そして最近のものとしては、法律家

でジャーナリストのプラントルの「立法者としてのテロリスト」というタイトルのモノグラフィ

ーを挙げることができます。これらの論文は全て、多かれ少なかれ、ヤコブスの見解に取り組ん

でいます。さらに、ここではパブリックとポライノ・ナヴァレッテの業績も挙げなければなりま

せん。この 2人は(いくつかの点で相違しますが)基本的にヤコブスの立場を支持しています。

 スペイン語圏において、敵刑法は小革命を巻き起こしました。そして新種の刑法文献すら産み

出し、これはそうこうするうちに小さな図書館を埋め尽くすほどになりました。(ヤコブスの論文

に並ぶ本の中の)カンシオの最初の論文以降、今日までに、この敵刑法というテーマに関して、

約200本の論稿がスペインとラテンアメリカにおいて公刊されています。約90本の論稿はカンシ

オとゴメス・ハラ編の論文集(分厚い 2分冊本)に収録されていますが、その他にも様々なモノ

グラフィー、論文、書評、コンメンタールの形でも公刊されています。

 広く読まれている文献として、アポンテ(彼のドイツ語の博士論文を元に書かれたものである。

ただし社会学的色彩が強い)、グラシア・マルティン、ザッファローニらの業績を挙げることがで

きます。これらの公刊物の大半は、基本的に敵刑法というカテゴリーを否定していますが、その

理由は様々です(そのうちのいくつかは後で検討します)。さらに、ヤコブスの出発点を一般論と

30) Greco, Feindstrafrecht(Fn. 27), S. 107 ff. さらに K. Ambos, (Fn. 27) S. 13, 19.

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して承認しつつ、敵刑法概念を展開しているものとして、ペレス・ド・バジェ、ポライノ・ナバ

レッテ、ポライノオルツ、(留保を伴ってはいますが)シルヴァ・サンチェスの業績を挙げること

ができます31)。

 以上のような今日の学説状況について概観することを通じて、諸々の批判を個別的に抽出した

上で、以下では、国際的な議論においてヤコブスに対して通常なされてる批判について要約し、

これに対する回答をしたいと思います。

Ⅱ.論点

1 .カール・シュミットの後継者?  1つ目は反対説の側でかなり広まっているものなのですが、それはヤコブスは以前に政治学者

のカール・シュミットが「友と敵」を対置する形で用いた用語法を蘇生させているというもので

す。こうしたことからさらに進めて、シュミットが民主主義思想の反対者であり、しかもナチス

御用論者でさえあること、さらに(あくまでも批判者が言っていることですが)敵刑法が法治国

家の諸権利や保障と矛盾し、調和しえないものであることから、シュミットの思想とヤコブスの

敵刑法はほとんど変わらないものだと批判されているのです。

 しかしこうした批判は的を射たものではありません。この批判はヤコブスとシュミットが同じ

敵概念を用いていることを前提としていますが、これがそもそもの誤りなのです。1932年に『政

治的なものの概念』という、かの世界的に有名な書物が出版されました32)。これは『憲法の番人』、

『憲法論』及び『大地のノモス』といった書物とともにシリーズ的な側面も有していたわけです

が、その中でシュミットは友敵シェーマから出発した上で、「友と敵という区別」は「特殊政治的

な区別」であり、「政治的な行動や動機の基因」であるとしています33)。このような理由からシュ

ミットはこの区別を非規範的な基準から導出しています。すなわち「政治上の敵が道徳的に悪で

ある必要はなく、美的に醜悪である必要はない。経済上の競争者として登場するとはかぎらず、

敵と取引するのが有利であると思われることさえ、おそらくはありうる」のです34)。そしてシュミ

ットにおいては、敵とは「他者、異質者に他ならない」のであり35)、このことは以下のように政治

的に規定されていますが、規範的には規定されていません。すなわち「極端な場合には、敵との

衝突が起こりうるのであって、この衝突は、あらかじめ定められた一般的規定によっても、また

『局外にあり』、従って『不偏不党である』第三者の判定によっても、決着の着くものではない」

31) 詳細及び文献についてはM. Polaino-Orts, Derecho penal del enemigo. Fundamentos, potencial de sentido y

límites de vigencia, 2009, passim.

32) C. Schmitt, Der Begriff des Politischen: Text von 1932 mit einem Vorwort und drei Corollarien, 1963.(訳者注―以下の引用部分は、C・シュミット著/田中浩・原田武雄訳『政治的なものの概念』(未来社・1970年)14頁以下を参照した)

33) Schmitt, Das Politische(Fn. 32), S. 26.34) Schmitt, Das Politische(Fn. 32), S. 27.35) Schmitt, Das Politische(Fn.32), S. 27.

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とされているのです36)。

 結局において、シュミットの敵性概念は公的なものではありますが、その定義付けは当事者の

判断に委ねられるものなのです。すなわち「衝突という極端な事例は、当事者自身が相互間で決

着をつけるしかない。つまり、具体的に存在する衝突事例において、他者としてのあり方が、自

己流の、存在の否定を意味するか否か、従って、自己流の、存在に応じた生活様式を守るために、

それに抵抗しそれと闘うか否かは、当事者のそれぞれが、自分で決定するしかないのである」と

されています37)。

 要するに、シュミットの敵概念によって想定されているのは犯罪者ではなく、「公敵(hostis)」、

すなわち異質者です。これに対し、敵刑法の敵概念は「私仇( inimicus)」、すなわち犯罪者です。

犯罪者はおよそ当事者間で把握できるものではなく、重要な規範違反によってのみ定義可能で

す。「犯罪者は異質者ではなく同質者として振る舞っているのである。それゆえ彼には刑法上の責

任も帰属されることになる。この点においてシュミットの公敵とは違っている」のです38)。すなわ

ち機能的な敵概念は特に危険な犯罪者(私仇)のことを指しているのであって、敵概念を異質者

(公敵)として理解するシュミットとは異なるものなのです。

 このようにしてヤコブスとシュミットの敵概念は完全に異なるものなのです。両者に相互的な

関連性はありません。加えて、想定されている場面も全く異なります。このことは次の批判と関

係しています。

2 .独善的な規範、独裁制の正当化? ヤコブスの敵刑法構想は非民主主義的秩序の理論的根拠を生み出すものであり、独裁制を正当

化しうるものだという批判も(少数ながら)みられます。これはヤコブスの構想をナチズムにな

ぞらえた批判です。こうしたおよそ非学問的な批判はやはり斥けなければなりません。というの

もこれは敵刑法に関する議論において想定されている場面を誤解し、法治国家と独裁国家の本質

を完全に混同するという誤謬に他ならないからです39)。

 法治国家における敵刑法は独裁国家におけるそれとは無関係です。独裁制の下ではあらゆる法

が必然的に正統性を有しません。これは敵刑法だけでなく、市民刑法にも当てはまることです。

というのも、こうした諸国では民主主義が原則的なものとして妥当していないからです。

 独裁国家とは異なり、法治国家においては、それが予期・規範を安定化し、社会の規範構造に

寄与するものである限り、あらゆる法に正統性が認められます。法治国家における敵刑法は観察

内容の記述にすぎず、それは法政策的主張を含まず、いずれにせよ既に社会の中で正統化されて

いる(sozial intralegitimieren)ものです。かくして、現代法治国家において敵刑法には、二重の

意味で、つまり民主主義的基盤を有する議会の手続で決定されたという意味で形式的に、そして

内容の合憲性を審査する機関―憲法裁判所―によってこれまで違憲判断が下されていないとい

36) Schmitt, Das Politische(Fn.32), S. 27.37) Schmitt, Das Politische(Fn. 32), S. 27.38) Jakobs, Feindstrafrecht?(Fn. 18), S. 294.39) M. Polaino Navarrete, Funktion der Strafe(Fn. 3), S. 529 ff.も同じ見解を唱えている。

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う意味で実質的に、反証が許されてはいるが、妥当性の推定(Iuris-tantum-Gültigkeitsvermutung)

が与えられているのです。以上のような内在的・外在的および形式的・実質的正統性は独裁国家

にはおよそ備わっていません。この点にこそ独裁制と民主主義の違いを見いだすことができるの

です。

3 .敵と人格という対概念 敵という概念を用いることについて、多くの論者が批判の目を向けています。敵という概念に

は卑劣な意味が込められており、あえて用いるべきものではないとして、その使用を拒絶するの

です。以下ではこの概念が学問的に明確かつ正確であると思われることの根拠を示すことにしま

す。

 市民刑法で想定されているのは単発的な法益侵害であり、そこでは人格性の理念は侵されませ

ん。これに対して敵刑法のテーマは人格性の重大な阻害です。敵刑法は市民が市民として行動す

ることの妨害に向けられるのです。つまり市民の理念の否定、市民の人格性の完全な阻害です。

こうした法における人格性の否認、人格性の理念の否定、そしてそれに伴う生活条件の根本否定

を極めて明確に記述するのが、哲学史及び教義史の展開において長く奥深い伝統を有する敵概念

なのです。

 法敵対性とは、社会的に拘束力を持った行動の模範、つまり社会共同生活の諸条件にとって本

質的な人格的行動の基本方針としての規範に対する反抗的姿勢です。いうまでもなく、こうした

姿勢はアグレッシヴな形で公言されることもあります。

 法における人格とは、規範に従うことを原則とする者、つまり自己の行為によって市民精神

(Bürgersinn)を形成する者をいいます。市民精神を発揮するということ、これは法的市民性ない

し法における人格性の本質です。そして規範は社会的な期待を凝縮したものですから、規範に従

うこと(つまり法における人格であること)は、市民間の平和的関係を可能ならしめることを意

味します。規範を指針付与の枠組みとして尊重することは、他者を法における人格として尊重す

ることで、世界が機能することを可能ならしめるのです。すなわち、法における人格であるとい

うことは、認知的安全を造りだし、そのパターン形成をすることなのです。

 この認知的安全は天から降ってくる奇跡ではなく、市民全員による集団的協働の所産です。認

知的安全を享受するためには、社会構成員全員、すなわち市民精神を発揮し、法における人格と

して取り扱われることを欲する者の協働が必要となるのです。個々の市民は誰もが、こうした法

的「営み」に対して大筋において協力する義務を負っているのです。いかなる市民も自らの側で、

認知的安全と規範的安全をもたらすことに協力しなければならないのです。

 公然と協力しなかったり、(テロリストのように)法治国家の破壊を彼の規準(Maxime)とし

て掲げる者が出れば、規範の指針化はもはやなしえません。なぜなら規範妥当に不可欠な認知的

安全がおよそ失われることになってしまうからです。こうした状況下では、誰も、そして国家で

すらも、規範に指針を求めることができなくなります。このような行為者は他者を人格として尊

重しない行動をとることによって、指針を与える枠組みである規範に対しておよそ背を向けてし

まっているのです。そうなると、もはや認知的な安全をもたらさないし、その振る舞いは法にお

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ける人格としてのそれではなく、敵対的なものとなります。彼が人格としてみなされないという

のはこのような意味なのです。

4 .敵概念の定式化とメルクマール 敵概念は以下のように定義することができると思われます。すなわち、敵とは自己の外部的行

為を通じて社会システムから(部分的に)疎外されることを―完全責任能力が認められる状態で

―自ら自由意思に基づき決定した者をいいます。敵は、指針を与える規範の枠組み、人的・社会

的行為の基本方針である規範を否定し、市民が給付することを求められる認知的・規範的安全を

もたらしません。しかしこの安全は他の市民が人格として存在することの条件です。敵は人格と

して存在することを阻害するような行動をとっているがゆえに、震撼させた安全性を回復させる

目的から、法秩序によるドラスティックな対抗措置を受けるのです。敵を法的なものとして語る

ことは、最小限かつ必要な範囲、すなわち規範及び市民に対する最低限の保障にかぎられるので

す。

敵概念の特徴として以下のものが挙げられると思われます。

・学問的です

・記述的です(正統化する意味はありません)

・価値中立的です(ネガティヴな意味は込められていません)

・相対的です(個別具体的な権利が剥奪されたり制限されるに過ぎず、これは自らによる脱人格

化(Selbsentpersonalisierung)、より適切に表現すると非人格化)

・自己疎外を意味します(行為者は市民として給付すべき認知的安全性をもはやもたらしません

が、これは自発的になされています)

・その有効性は限時的です(敵は再び認知的安全を給付することで、直ちに再び法における人格

として取り扱われます)

・バランスのとれたものです(剥奪する利益は敵の危険性に見合っています)

 これまで述べてきたことを要約します。人格概念は多義的です。法秩序においては、完全な人

格性(法における人格)と縮減された人格性(敵)という 2つのレベルの人格性が存在していま

す。完全な人格性を有するのは、それに値する者、すなわち安全性をもたらす振る舞いにより社

会的な信頼を得るに値する者です。このような信頼を受けるに値しない者は、社会生活における

最低限の安全性を回復させる目的から、すなわち市民が法における人格たりうるための諸条件を

備えるために必要な限度で(そしてその程度に見合った形で)、人格性が縮減されるのです。法に

おける人格とは、他者を法における人格として尊重し、他者が人格として存在することを可能に

する者のことをいいます。敵とは、他者を人格として尊重しない者、すなわち人格という概念を

社会の中で妥当させない者、自己の行為を通じて規範が規範として妥当するのを阻害する者のこ

となのです。

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C.法治国家において敵刑法は必要か?―機能的に制御された敵刑法構想の支持

Ⅰ.敵刑法の構想について

 本稿の第 3部では、この問題に関する私見を述べたいと思います。以下では、機能的に制御さ

れた敵刑法構想を支持します。これは―想像できることでしょうが―「敵刑法」概念に関する普

通の解釈の脱神秘化をも必然的に伴います。ヤコブスの構想が誤解されている部分もあることは

否定できません。そこでここで私見を明らかにしたいと思います。私が敵刑法構想を支持する上

で前提としている最重要ファクターとして、以下の 5つが挙げられます。

・「人格」及び「敵」という概念の定義は、規範概念だけでなく、敵刑法をめぐる全問題にも依

存します。

・規範妥当の必要条件は認知的・規範的安全です。

・敵刑法における刑罰の機能は市民刑法における刑罰とその原則及び質において異なるところは

ありません。敵刑法の場合、市民的人格性の一部に対する他者による強制的管理(erzwungene

Fremdverwaltung)が、市民刑法と比べると量的に見て、よりドラスティックであるにすぎま

せん。

・敵刑法の機能的アプローチ構想は法治国家を保障するものです。

・最後に、混同によって生じる不明確さを回避するには、敵刑法は市民刑法と区別されるべきで

あるというテーゼを擁護します。

Ⅱ.基本

1 .重要ファクターとしての規範概念 機能的意味における敵刑法は、規範的な刑法解釈学の内部及びその枠内でのみ正確に理解し、

擁護することが可能になります。人格概念は規範的にのみ理解することが可能です。すでに1794

年に公布された「プロイセン一般ラント法」において「人は、市民社会において一定の諸権利を

享受できる点で、人格と呼ばれる」という人格の定義付けが見られます。ここでは人格は権利と

義務の担い手と定義します。すなわち人格とは、その振る舞いを規範と対応させることで記述さ

れるものなのです。規範に従うことを原則とすることを通じて、(自己の)人格概念を形成すると

同時に、他の市民の人格的地位の確立を可能ならしめるのです(一般的人格概念)。

 敵概念もまた―人格概念と同じように―規範的にのみ定義されるものです。すなわち、規範概

念を参照せずに人格も敵も定義することはできません。こうした参照は欠かすことができないの

です。規範を社会的な指針付与の枠組みとして、すなわち一般的な保護のメカニズムとして承認

しないことを原則とする者は非人格化された取り扱いを受けます。なぜならこのような者は、規

範を規範として承認しないことで、具体的な社会やその市民に対して背を向け、人格としての取

り扱いのために法的に要請される認知的安全を給付していないことになるからです。

 このようにして、ある主体が人格と敵のいずれとして記述されるかは、当該主体が規範に対し

てどのような態度をとっているかに依存しています。当該主体が規範を大筋において尊重してい

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る場合には、人格として振る舞っていることになります。当該行為者が規範からの逸脱を原則と

している場合には、人格から敵へと移行することになります。なぜならこの者自身が他者を人格

として承認せず、人格として取り扱われるための認知的な最低限の保障をもはや給付していない

からです。

 「敵を定義するのは誰か」という学説上一般になされている(レトリック的な)問いに対して

は、極めて明快な形で回答することが可能です。敵は(法における人格と同様に)、(社会的な期

待の凝縮であり、指針付与の社会的枠組みでもある)規範、すなわち社会によって、(その社会の

期待に応じた形で)規定されるのです。より正確にいえば、敵と法における人格は、彼らの法に

対する姿勢によって定義されるのです。法における人格とは、規範に忠実であることで認知的安

全をもたらす者のことなのです。

 規範には、予期の安定化と行動指針の付与という 2つの機能があります。これらの機能を充足

するためには、規範そのもの以外にも必要なものがあります。それは、個々の市民全員による積

極的な「協働」です。「この法的営み」に不参加であるにとどまらず、社会の破壊を規準として掲

げるような者がいた場合、社会はこの者を法における人格として把握することはできなくなりま

す。なぜなら規範が規範として妥当し得ないことになるからです。それゆえ(人格と同様)規範

が指針たり得るためには、一定の認知的裏付けが必要なのです。

 以上を要約します。規範概念は決定的な意味を持っています。誰を人格あるいは敵として取り

扱うべきかは、規範概念によって定義されます。機能的意味における敵刑法とは、規範概念を現

実に適用することを意味します。

2 .人格ないし規範概念の認知的な裏付け 規範は、国会で可決され、刑法典に書かれていれば、妥当しているというものではありません。

規範が現実に妥当するためには、個々の市民全員による「協働」が必要となるのです。個々の市

民は皆、権利性を可能化し、促進する義務を社会に対して負っているのです。市民は、自分が人

格として扱われることを欲するのならば、認知的な最低限の保障を給付しなければなりません。

もっとも、市民が最低限の保障を給付することが求められるのは、規範が妥当することで、他者

が自分の福利を規範妥当と結合させ、自分のプロジェクトを間人格的に推進させることを可能に

するためでもあるのです。

 規範は認知的に裏付けられている場合にのみ規範として妥当します―すなわち安定化と指針

の付与をもたらします。これはあらゆる規範的制度に妥当し、人格概念にもあてはまります。あ

らゆる規範的制度は、指針を付与しようとすれば、一定の認知的裏付けを必要とします。例えば

規範は道路交通を規制する信号によって提示されていますが、この規範は当事者によって大筋に

おいて考慮されている場合にのみ妥当しているといえます。さらに歩行者が道路の向かい側に行

くために横断歩道を渡るのは、横断歩道に関する道路交通規範が原則として尊重されていること

を確信していることが大前提です。もし交通規範が車の運転手によって一般的に考慮されていな

ければ、規範によって実定化されている期待は失望させられ、規範はもはや妥当していないとい

うことになります。このような状況では、歩行者はもはや人格として尊重されているとはいえま

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せん。したがって歩行者が車道を通ろうとしても、自己の諸権利の享受と行使に必要な安全性を

保持しているとはいえず、むしろ反対に、轢かれる危険性にさらされているのです。

 規範概念は、人格概念もそうであるように、それが妥当するためには一定の規範的裏付けを必

要とします。このような認知的安全は人格によって任意にもたらされるか、法によって強制され

るかのいずれかです40)。前者の場合における行為者の行動は、法における人格、すなわち市民とし

てのものです(市民刑法)。後者の場合は、敵としての行動です(敵刑法)。この安全をもたらす

べきであったのにもたらさなかった者は、認知的安全を回復する目的から非人格化されます。こ

れは非人格化、すなわち部分的な脱人格化です。なぜなら行為者の処罰が早期化されているから

です。処罰の早期化が非人格であることの理由は、それが行為者の過去の行為ではなく、その危

険性に結びつけられているからです41)。

 以上に述べたことを要約します。規範が規範であるために(つまり安定化と指針をもたらすた

めに)必要な認知的安全性は、人格によって任意にもたらされるか、法秩序によって早期化され

た処罰によって強制されるかのいずれかです。なぜならこの強制を目的とした処罰の目的は、ま

さに規範が妥当し現実性を持つのに必要となる、認知的な最低限の保障を作り出すことにあるか

らです。

3 .苦痛の付与か、それともコミュニケーションか?―他者による強制的管理を通じたコミュニケーション

 ヤコブスは刑罰の機能について公然的なものと潜在的なものとに区別した上で、これに対応さ

せる形で、市民刑法における刑罰の機能と敵刑法におけるそれとを対置していることは周知の通

りです。「市民刑法の下では」―ヤコブスによれば42)―「刑罰の公然たる機能は否認であり、敵刑

法の下では危険の除去である」とされています。そして刑罰の目的は、市民刑法においてはコミ

ュニケーションあるいは否認された規範の回復であるが、敵刑法において考慮されているのは苦

痛の付与のみであり、これはコミュニケーションではなく、「物理的強制の無言の行使」であると

されています43)。(苦痛の付与か、それともコミュニケーションか?)というこうした対置に対し

ては、以下のような異論があります。

 敵刑法においても刑罰の象徴的な側面が放棄されているとは思われません。刑罰はいずれの場

合においても(つまり市民刑法と敵刑法の両方において)コミュニケーション的意味を有してい

るのです。国家刑罰は常にコミュニケーション的なのです。それは市民刑法だけではなく、敵刑

法においても当てはまることです(苦痛も規範的産物です)。国家が敵と闘争する場合にも常にコ

ミュニケーションは行われているのです。これには 2つの意味があります。

40) M. Polaino Navarrete, Funktion der Strafe(Fn. 3), S. 552参照。41) G. Jakobs, En los límites(Fn. 22), S. 55.42) G. Jakobs, Feindstrafrecht?(Fn. 18), S. 290.43) これはG. Roellecke, Der Rechtsstatt im Kampf gegen den Terror, JZ 61(2006), S. 265 ff.(268「テロリストとの関係で、法治国家に留保されているのは、物理的強制の無言の行使のみである」) による定式化であるが、ヤコブスによって( in: Feindstrafrecht?(Fn. 18), S. 297, Fn. *, in fi ne)も受け入れられている。

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 国家は特に市民の保護を重視していることから、市民とコミュニケーションしているというの

が 1つ目の意味です。つまり敵との闘争を通じて、この市民の地位を維持、強化しているのです。

すなわち、機能的に制御された正統な敵刑法が敵と闘争するのは、これによって同時に市民を保

護することになるからです44)。要するに国家刑罰は敵刑法においてもコミュニケーションし、規

範の回復(規範の安定化及び規範による指針の付与)を図っているのです。

  2つめの意味は、敵自身ともコミュニケーションが行われているということです。国家は当初

より、敵が攻撃的な態度をとるのやめて、再び社会に立ち戻ってくるのを期待しているのです。

国家はドアを開放して、敵の攻撃的なポーズをできるだけ早くやめさせようとしているのです。

敵は社会において常に歓迎されています。敵は、法における人格ないし市民が給付すべき認知的

な規範の指針化を規範遵守の実行を通じて提供するだけでよいのです。それゆえ敵とのコミュニ

ケーションは、願望を内容とするコミュニケーションなのです。つまり国家は、敵が自分自身の

人格的地位を再び現実化すること、すなわち再び他者を法における人格として尊重し、規範を妥

当させることを望んでいるのです。このように敵とのコミュニケーションとは敵の潜在的な人格

性との道具的なコミュニケーションなのです。

 これまで見てきたように、市民刑法における刑罰のコミュニケーション性は敵刑法における刑

罰のそれと同視できません。

 前者(市民刑法)の場合、通常は認知的な最低限の規範的保障を任意にもたらしている行為者

との間で、機能的な安定化をもたらすコミュニケーションが行われます。

 後者(敵刑法)の場合、―高度の危険性を有していたり、他の市民の諸権利を尊重していない

がゆえに―人格性の一部を自分で理性的に管理できないことから、その人格性の一部を他者の管

理に委ねられている行為者との間で、潜在的かつ道具的なコミュニケーションが行われます。も

っとも、このような徹底した他者による管理は、管理される者の姿を表してもいます。なぜなら

彼はもはや人格ではなく、まさに克服されるべき危険源であり、その限りでは敵だからです。こ

こでは完全な他者による管理が行われるわけではありません。こうした管理は、危険を受忍でき

る程度に押さえるのに必要な限度で実施するにとどめなければなりません。法治国家ないし法秩

序は、敵が完全に脱人格化されることを望んではいません。敵が再び社会に立ち戻るのを、つま

り法における人格として給付することが求められる最低限の認知的安全性をもたらすのを期待し

ながら、法治国家ないし法秩序は敵とコミュニケーションしているのです。

4 .法治国家性を保障するものとしての敵刑法 それでは相対的な次元の法治国家性について見ていくことにします。これは絶対的原理ではな

く、現実によって限界づけられた制度です。100パーセントの法治国家など存在しないのであり、

国家には阻害的要素がいくつか存在するのが常であり、そうしたものを孕みながら国家は成り立

ってます。こういった阻害的要素は、―ヤコブスの適切な用語法に倣えば―「側防的規範」を侵

害しない限り、通常は受け入れられなければなりません。側防的規範とは、「主要規範が妥当する

44) M. Polaino Navarrete, Funktion der Strafe(Fn. 3 ), S. 552参照。

Page 17: 敵に対する刑法 - Kansai U...Pawlik / R. Zaczyk(Hrsg.), Festschrift für Günther Jakobs, 2007, S. 530参照。 ―11― の男は大胆不敵にして極めつきの大悪党だから、こうやって連行していても決して安心はできな

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ための諸条件を保障することを任務とする」規範のことです45)。(例えばテロリズムのように)行

為者がこの側防規範を侵害することにより不安定化の危険をもたらせば、法治国家の構造全体が

危険にさらされることになります。このような場合、法秩序は袋小路に陥ります。すなわち、そ

のまま放置し、このような不安定化を招く行為を容認するか(こうなると規範は規範として―つ

まり指針付与の枠組みとして―もはや妥当しないことになり、法秩序は没落し修復不可能となり

ます)、それとも、こうした行為を「社会的に許されないもの」として、しかも効果的かつ予防的

な処罰の早期化によってドラスティックに隔離する(敵刑法)かのどちらかです―第 3の道はあ

りません!制御された機能的な敵刑法の諸規範をいくつか用いることによってのみ、法治国家の

理念をさらに生かすことができるのです。換言すれば、適切に用いられた敵刑法(つまり機能的

な敵刑法)は規範の安定化や予期の保障をもたらすだけでなく、法治国家を保障するものなので

す。

5 .敵刑法は市民刑法と分けられるべきか? 法治国家において、敵刑法は市民刑法と分けられるべきかについて、最後に検討を加えること

にします。これはヤコブスの提唱によるものですが、彼は「明確な輪郭を与えられた敵刑法は、

あらゆる刑法を敵刑法的な諸規定と混同する場合に比べれば、法治国家的に、より危険性は少な

い」と述べています46)。この見解に対して多数説は反対していますが、私はヤコブスの見解を支持

しています。

 敵刑法は、市民刑法に比べて行為者の取り扱いを厳格化することを内容としています。このよ

うな厳格化が行われるのは、行為者の特別な危険性が正確に確認されている場合に限られます。

すなわち行為者がより厳格に取り扱われるのは、彼が現実に敵である場合だけなのです。こうし

た確認がなされるまでは、この行為者は完全に法における人格として取り扱われることになりま

す。もっとも現実に妥当している法は、機能的な意味における敵刑法と比べて、より少ない保障

しかもたらしていないこともしばしばです(すなわち、より厳格であることも少なくないので

す)。敵刑法適用の前提は、危険性が証明されていることです。すなわち人格として取り扱われる

保障をもたらさないことが明らかな者だけが、敵として取り扱われることになります(なぜなら

これは例外だからです―敵刑法は例外の法なのです)。ところが、すでに現行法の中には、推定

されるにとどまる危険源に向けられた規定が存在します。そこでは、そうした危険源が実際に存

在しているかのように想定されているにすぎず、実際に敵なのかどうか事前におよそ確かめるこ

とすらしていないのです。その例として、スペインの新しい道路交通法(2007年)、家族間の接近

禁止刑(Entfernungsstrafe)(夫婦間暴力)、あるいはスペインの新少年法(2006年)が挙げられ

ます。これらは旧規定と比べてかなり厳格化されています。このことが意味しているのは、現在

のスペイン法下では、実際にはそうではない者が敵としての取り扱いを受けているということで

す。こうなると行為者を危険源として取り扱うことが法治国家を阻害する形で作用していること

45) Jakobs, Kriminalisierung,(Fn. 4), S. 775.46) Jakobs, Bürgerstrafrecht(Fn. 2), S. 95.

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になります。すなわち、これは不必要な敵刑法なのです。こうしたことは、市民刑法と敵刑法を

明確に区別することで回避することが可能となるのです。

D.敵に対する刑法・各論

Ⅰ.一つの例

 次のような事例を想定してみてください。何人かのテロリストが会合して、 1つのテロリスト

集団を組織しました。このテロリストたちは、来年、すなわち2011年に東京(ベルリン)で多数

の死者を発生させる大規模なテロを計画し、爆発物と武器を集めました。問題は、国家はこの目

的犯(すなわち多数のテロリストの会合が目指した犯罪、この場合、計画されたテロ)が実行さ

れる(または少なくとも構成要件実行の着手がある)を待つべきか、それとも国家は、前倒しし

て、すなわち今日の時点の行為、テロリストたちの会合、集団の結成、危険物(爆発物、武器)

の収集を、この集団がさらなる行為を行わなくても、テロリストたちが危険物を使用または濫用

しなくても処罰することが許されるかということです。 この問題提起は、これに対する 2つの処

罰の可能性、すなわち既に犯された行為の処罰と将来の行為の防止のどちらを選択するかという

ことです。前者は、市民に対するものであり(市民刑法)、後者は敵に対するものなのです(敵刑

法)。

 なぜ現代の法秩序が、一致して第 2の解決(すなわち、敵刑法による解決)を採用するのかは

謎ではありません。その答えは、次のようなものです。なぜならば敵刑法の規範は、法治国家に

おいて機能的である、すなわち法治国家は、その法治国家的な構造を維持するために、いくつか

の具体的な敵刑法規範を必要とするからなのです。

 この規範(わたしはそれを「中核敵刑法(Kernfeindstrafrecht)」と呼びます)に属するのは 3

つ の グ ル ー プ の 制 度、 す な わ ち い わ ゆ る「 地 位 犯 罪( 組 織 犯 罪 )(Statusdelikte

(Organisationsdelikte))、所持犯罪(Besitzdelikte)およびいくつかの保安改善処分です。

Ⅱ.中核敵刑法(Kernfeindstrafrecht)

1 .地位犯罪(Statusdelikte) いわゆる地位犯罪または組織犯罪は、あらゆる刑法典に含まれている形象です。犯罪集団また

はテロリスト集団の通常の記述は、 2つの異なるメルクマール、主観的なメルクマールおよび客

観的なメルクマールを含んでいます。前者は、複数の主体が会合する(すなわち 2人、 3人ある

いはそれ以上の一定の犯罪的企行との関連で集まること)です。後者は、犯罪行為を行う目的、

すなわち犯罪を犯す潜在的な傾向です。

 そのような要素は、厳密にいえば 2つの中立的な要素であり、それ自体は犯罪的意味を持ちま

せん。というのも、最初の要素は、通常の状況ではすべての憲法・基本法で保護されている集会・

結社の自由(例えば日本国憲法21条「集会、結社及び言論、出版のその他一切の表現の自由は、

これを保障する。」)の基本権だからです。つまり、ほかの仲間とスポーツクラブを作ること(例

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えばサッカークラブ(Fußballverein):レアルマドリッドのメンバーになること)、文化・学術団

体を設立すること(例えば「宮沢浩一基金」)などです。 なぜこの犯罪的またはテロリスト的集

団の形成が基本権の行使とはされないのでしょうか?なぜこの場合と他者との集団形成がゆるさ

れないのでしょうか? よくある答えは次のようなものです。サッカーチームを支援することや

学術研究を助成することは、法秩序が単に禁止していないばかりか、基本権の形式で保障してい

る良い目的だからというものです。これに対して犯罪またはテロリスト的集団においては目的が

犯罪を犯すことに向けられている限りで、その目的がもっともなものではありません。ある集団

の構成員を、犯罪的な傾向を持っているから処罰する場合、そこには第二の要素、すなわち目的

が付け加わります。目的は思想によって設定されるのです。計画の段階においては行為者の表象

に従って行為が思考の中に先取りされます。しかしこの段階で既に処罰することはできません。

思想を誰も処罰することはできない(Cogitationis poenam nemo patitur)47)からです。

 この両要素が中立的で、法的に相当なもの(rechtsadäquat)だとすれば(結社の自由、思想の

原則的不処罰)、どこに犯罪またはテロリスト的集団の処罰の不法が認められるのでしょうか?

そのような集団形成の不法は、単に二つの要素を足しただけのものではないのです。そのような

集団を結成すること(そのような集団のメンバーの地位をもつこと)は 一つの犯罪的な企行

(Unternehmen)を組織することであり、その企行が現実に、事実上、社会的不安定を惹き起こ

すのです。それゆえ、ある犯罪またはテロリスト的集団のメンバーは、他人に作用するから処罰

されるのであって、集団として犯罪傾向をもっているから処罰されるのではなく、まさにそのよ

うな集団の形成が認知的・規範的な不確実性を生み出しているという客観的理由から処罰される

のです。それゆえ立法者は他人と集団を形成したテロリストが社会の基盤に攻撃を加え、そして

それによって通常の規範妥当のために必要な最低限の安全を破壊すると考えているのです。この

理由から、行為者はもはや人格としては承認されず、敵とみなされ、早期化されて処罰されるこ

とになります。このような早期化された処罰の理由は、そうしないとその保護の期待が大きく損

なわれてしまうであろうような、市民の保護にあるのです。

 現在の立法者が法治国家において一致して、そのような敵刑法的な早期化された処罰を採用し

た理由は明らかです。犯罪は通常、実行の着手があって初めて未遂として処罰されます。犯罪的

集団においてテロ行為の実行の着手を待たなければならないという考え方は、法治国家的には理

想的かもしれませんが、秩序を脆弱なものにし、理想に反したダーティーな世界をもたらしてし

まいます。それゆえこのような行為は、たとえこの計画が準備段階にあった「だけ」だとしても、

それ自体として処罰されるのです(既遂の自立的犯罪行為)。集団形成という犯罪行為は、目的犯

罪とは完全に異なります(なぜならば、集団を形成したテロリストはテロリスト的集団の形成の

既遂として、その目的犯罪の実現が全く始まることなしにも処罰されるのです。テロリスト的に

47) D. Klesczewski, Tatbestandsbildung als Feinderklärung? in: K. Gaede / F. Meyer / S. Schlegel(Hrsg.), HRRS-

Festgabe für G. Fezer zum 70. Geburtstag am 29. Oktober 2008, 2008, S. 114 ff., im Internet unter: http://

www.hrr-strafrecht.de/hrr/archiv/hrrs-fezer-festgabe.pdf.参照。

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動機づけられた目的設定に資する犯罪のみならず(暗殺、武器輸出など)、既に事実上社会に脅威

を与えるテロリスト的な作戦の予算を確保する行為もその対象になります。

2 .所持犯罪(Besitzdelikte) 同じことは、最近いくつかの国の刑法典で注目されている犯罪の形式である所持犯罪にもあて

はまります。そこでは一定の客体の所持が処罰されるのです。立法者は、「所持する(besitzen)」

という語以外にも、「備蓄する(vorrätig halten)」、「保管する(aufbewahren)」、「貯蔵する(lagern)」

などの用語も使っています。処罰されているのはとりわけ爆発物や銃器、薬物、児童ポルノなど

です。

 なぜこのような客体の単なる所持が、早期化された形で、それが全く使用されなかった場合で

さえも処罰されるのでしょうか?ここでも所持の犯罪的目的は処罰の理由ではありません(なぜ

なら思想は処罰されないからです)。その理由は、そのような態度―厳密にいえば主体と危険な

客体の間の相互作用―が既に事実的に認知的な不確実性を生み出し、規範妥当を、市民がもはや

規範を信頼できなくなってしまうような態様で、侵害するということに求められます。市民にと

っての最小限の認知的な安全を保障するために、いくつかの客体の所持が早期化されて犯罪とさ

れているのです。

3 .保安処分(Maßregel) 例えばロクシンは以下のように言っています。「刑罰とは異なり保安・改善処分が行為者刑法的

思考の果実であることに長い説明は要しない。それはリストの特別予防理論から展開され、原則

的に行為者のパーソナリティを基準としている。責任は前提とされないので、答責性の基礎とし

ての個別行為は大きく後退する。けれども処分システムにも法治国家的な保障が組み込まれてい

るので、その限りにおいては行為のウエイトも全く失われてしまっているわけではない。しかし

刑罰との関係においてはその優先関係は逆転する。行為者のパーソナリティが前面に押し出され

るのである」48)。敵刑法の批判者であるロクシンのこの言葉を、ヤコブスの敵刑法の記述と比較す

れば、それは殆ど同じことをいっていることがわかるでしょう。そして実際、伝統的で正当なも

のとされる保安・改善処分は、構造的に見て、特に危険な個人と闘争し、行為者刑法的な思考の

果実であり、排除または非人格化する敵刑法的なリアクションなのです。例えば隔離処分(行為

者または被疑者に被害者への接近を禁じることなど)や、有罪とされた行為だけはなく、主に将

来の危険―「重大な行為への傾向」が公共に対して「危険に」作用しうること―を防止するいわ

ゆる保安監置(Sicherungsverwahrung)(ドイツ刑法第66条第 1項第 3号)がその例です。

 とりわけ責任無能力で、危険な行為者に適用される保安・改善処分は、法治国家的な中核敵刑

法の明確な例となるものです。そのような行為者は、危険な主体とみなされ、効果的な処分によ

る闘争の対象とされるのです。

4 .その他 (中核敵刑事訴訟法(Kernfeindstrafprozessrecht)) さらに、敵刑法的にしか解釈しえない訴訟法上の規定が存在します。例えば、住居の秘密傍聴、

48) C. Roxin, Strafrecht Allgemeiner Teil Band I, 2006, § 6 Rn. 23.

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電話の傍聴などの法制度は、市民に対して妥当するものではなく、ヤコブスが強調するように49)、

敵であることが推定される行為者に対するものなのです。

Ⅲ.結語

 敵刑法は、現代の法治国家において疑いなく 1つの実証的基礎をもっています。現実に機能す

る敵刑法が存在するのです。そのような法は、完全に正当な法制度を含んでいます。市民刑法が

刑法の最後の手段(ultima ratio)であるならば、敵刑法は刑法の最後の手段の最後の手段(die

ultima ratio der ultima ratio des Strafrechts)、すなわち刑法による排出弁(Auslaßventil)として

法治国家のより良き安定化と、単に想定されるだけで、実際には存在しない法治国家ではく、最

良に実現可能な法治国家を目指すものなのです。

49) G. Jakobs, En los límites(Fn. 24), S. 49.