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2012615() レオナルド・ダ・ヴィンチの「ウィトルウィウス的人体図」 と黄金比 名古屋工業大学 先進セラミックス研究センター 井田 隆 黄金分割法は黄金比を利用した一次元の区間分割 で最適化計算を行う計算法です。黄金比とは, r = 1 + 5 2 = 1.6180 ,あるいは 1 r = 1 + 5 2 = 0.6180 という数値で表される比の ことです。 レオナルド・ダ・ヴィンチの「ウィトルウィウ ス的人体図」(Fig. 1)に描かれている正方形の辺 の長さと円の半径との比が黄金比であると述べら れている例が少なくないようです。2003 年に出版 されたダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コー ド」という小説で取り上げられて有名になりまし た。 このことの真偽を確かめるために,インター ネットから入手した画像を元にして,ダ・ヴィン チが正方形を意図して描いたと思われる図形が, 実際に正方形に概ね一致するように画像を変形し た後に寸法を測ることを試みました。この操作に Adobe Photoshop Apple Keynote を用いまし た。結果として,この比の値は 1.6431.649 程度 の値になり,黄金比の 1.618 からは,かなりずれ た値となりました。 Fig. 2 に示すように,ダ・ヴィンチが描いた正 方形(青い実線)と円(赤い実線),ダ・ヴィン チの正方形に対して半径が黄金比の関係にある円 (赤い破線)とを重ねて描き入れれば,この食い 違いがさらにはっきりとします。 ダ・ヴィンチの絵では,描かれた人体が指先を Fig. 1 レオナルド・ダ・ヴィンチの ウィトルウィウス的人体図 Fig. 2 ダ・ヴィンチの描いた線(実 線)と,黄金比の関係にある円(破 線)

年 月 日 金 レオナルド・ダ・ヴィンチの「ウィトル …ida/education/MaterialsDesign/03...2012年6月15日(金) レオナルド・ダ・ヴィンチの「ウィトルウィウス的人体図」

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2012年6月15日(金)

レオナルド・ダ・ヴィンチの「ウィトルウィウス的人体図」と黄金比

名古屋工業大学 先進セラミックス研究センター井田 隆

黄金分割法は黄金比を利用した一次元の区間分割で最適化計算を行う計算法です。黄金比とは,

r = 1+ 5

2= 1.6180,あるいは

1r= −1+ 5

2= 0.6180という数値で表される比の

ことです。 レオナルド・ダ・ヴィンチの「ウィトルウィウス的人体図」(Fig. 1)に描かれている正方形の辺の長さと円の半径との比が黄金比であると述べられている例が少なくないようです。2003 年に出版されたダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」という小説で取り上げられて有名になりました。 このことの真偽を確かめるために,インターネットから入手した画像を元にして,ダ・ヴィンチが正方形を意図して描いたと思われる図形が,実際に正方形に概ね一致するように画像を変形した後に寸法を測ることを試みました。この操作には Adobe Photoshop と Apple Keynote を用いました。結果として,この比の値は 1.643~1.649 程度の値になり,黄金比の 1.618 からは,かなりずれた値となりました。 Fig. 2 に示すように,ダ・ヴィンチが描いた正方形(青い実線)と円(赤い実線),ダ・ヴィンチの正方形に対して半径が黄金比の関係にある円(赤い破線)とを重ねて描き入れれば,この食い違いがさらにはっきりとします。 ダ・ヴィンチの絵では,描かれた人体が指先を

Fig. 1 レオナルド・ダ・ヴィンチのウィトルウィウス的人体図

Fig. 2 ダ・ヴィンチの描いた線(実線)と,黄金比の関係にある円(破

線)

頭頂部の高さに上昇させたときに,指先が円と正方形の両方に接しています。しかし,黄金比で計算した円ではそのような関係が成立しません。もし「正方形の一辺の長さに対して半径が黄金比の関係になる円」が正方形の下辺に接する場合,円の上の部分は正方形の上側の頂点にかなり近い場所を通ります。円と正方形の両方に指先が接するような状況を実現することは,通常の肩の動かし方の範囲では不可能に見えます。この関係は Photoshop による変形の影響は受けませんから,ダ・ヴィンチの描いた円の大きさは,本質的に黄金比からずれていることがわかります。 ダ・ヴィンチの描いた円は,下端が正方形の下辺に接することに加えて,Fig. 3 のように,「上端が正方形を中心の周りに 45° 回転させた図形の頂点と一致する性格を持っている」という説もあるようです。この場合,正方形の辺の長さと円の半径の比は,

11/ 2 +1/ 2( ) / 2 =

41+ 2

= 1.657

となるはずで,確かに実測の値 1.643~1.649 は,この値にかなり近い値になっています。 しかし,ダ・ヴィンチがそのような作図をしたという形跡は残っていませんし,どのような意図でそのような円の作図をしたのかが不明です。結果的にはかなり良く合っているように見えますが,このことから,ダ・ヴィンチの円がこの規則に従って描かれたものだという結論が導けるとも思えません。

 ダ・ヴィンチがウィトルウィウスの記述に従ってこの絵を描いたことを前提とすれば,円を描く際に採用した規則として,最も有力な条件は以下のことと思われます。(1) 円の中心が臍(へそ)の位置にある(2) 適当な角度で両腕と両足を広げたときに,両

手の指先と両足裏とが円に接するしかし,これだけでは円の位置も半径も確定しません。中心となる臍の位置に関しては,ある程度の範囲でずらしても不自然でない絵が描けることが想像できますし,両腕や両足を広げる角度によって接する円の大きさも変化させることができます。

Fig. 3 ダ・ヴィンチの描いた線と45°回転した正方形(実線),黄金比の関係にある円(点線)

Fig. 4 閉じた足元の拡大図。ダ・ヴィンチの描いた正方形と円はここで接す

る。

 ところで,ダ・ヴィンチの描いた円には,(3) 下端が「直立したときの足裏」(正方形の下

辺)に接する(Fig. 4)(4) 頭頂部の高さ(正方形の上辺)まであげた指

先と接する(Fig. 5)という明らかな特徴が現れており,これらを無視するのは不自然だと思います。なお,「両脚を適当な角度に広げたときに足裏に接する」という特徴(Fig. 6)もありますが,脚を広げる角度を調整すれば,円の半径が変わってもある程度任意の範囲で足裏と円とが接するようにできますから,このことは円の中心位置と半径とを確定する条件にはなりません。

 ウィトルウィウス的人体図には,ダ・ヴィンチ本人が描いたと思われる線分と点とが認められます。また,図の下部に目盛りのようなものがついています。Fig. 7 にダ・ヴィンチが描いたと思われる円と正方形,線分と点,目盛りを赤線で描いています。さらに,正方形の一辺の長さを 1 としたときの線分の間隔の概算値を記します。 ウィトルウィウス的人体図の下部に記載されているメモには,「胸上部から頭頂部までは身長の 1/6」「胸上部から髪の生え際までは身長の 1/7」「肩幅は身長の 1/4」「胸から頭頂部までは身長の 1/4」,「肘から指先までは身長の 1/4」「肘から腋の下までは身長の 1/8」,「手(指と掌)の長さは身長の 1/10」,「鼠蹊部の位置は身長の半分」「足の長さは身長の 1/7」,「足の裏から膝の下までの距離は身長の 1/4」,「膝の下から鼠蹊部までの距離は身長の 1/4」などと書いてあるそうで

Fig. 6 開いた足元の拡大図。足の裏が円と接しているが,脚を開く

角度には任意性がある。

Fig. 7 ダ・ヴィンチが描いた線(赤線)と,正方形の一辺の長さを 1 としたときの寸法の概算値。A, A’, B, B’ の

位置には点が描き入れられている。

Fig. 5 指先の拡大図。正方形とも円とも接している。

す。実際に描かれている線分の間隔は,この記載内容と良く対応したものになっています。 図の下に描かれている目盛りは,Fig. 7 に示すように 1/96 の間隔と 1/24 の間隔に相当します。「手(指と掌)の長さは身長の 1/10」のはずですが,「1/24 目盛り2 つ分と 1/96 目盛り2 つ分を合わせた長さ」,つまり

2 × 124

+ 2 × 196

= 548

= 19.6

を近似的な長さとして用いた可能性があり,同じように,「胸上部から髪の生え際まで 1/7」についても「1/24 目盛り 3 つ分と 1/96 目盛り 2 つ分を合わせた長さ」,つまり,

3× 124

+ 2 × 196

= 748

= 16.9

を用いているかもしれません。

 Fig. 7 に示した多くの線分のうち,線分 AA’ と BB’ の端点だけ,明瞭に点が描き入れられています(Fig. 8)。線分 AA’, BB’ は,それぞれ頭頂部から 1/6,1/4 の距離に位置し,それが意図されたことであることは,メモの内容からもわかります。しかし,線分の長さに関する記載はありません。 実際に描かれている BB’ の長さは 1/5 に近い値です。個人差はあるでしょうけれど, 乳首の位置に手をあてると, 確かに胸の幅は手の大きさ二つ分に近いことがわかります。他の寸法でも整数の逆数が使われていることから,ダ・ヴィンチは胸の幅が手の大きさ (1/10) 二つ分として 1/5 という値,あるいは近似値として 20/96 = 1/4.8 を用いている可能性が高いでしょう。 一方で,線分 AA’ の長さがどのように決定されたかは明確ではありません。後述するように,点 A, A’ の位置は,腕を回転させたときの中心と位置づけられると考えられます。そのことを前提とすれば,肩の幅(1/4)より狭くなければいけないという制約はありますが,肩の動かし方によって腕の動き方も変わるので,ある程度の自由度が残ると考えられるからです。

Fig. 8 胸の付近の拡大図。点 A, A’, B, B’ のみ明瞭に線分の端点が描き入れられている。

Fig. 9 点 A, A’, B, B’ の位置関係。ABを通る直線とA’B’を通る直線は頭頂部で交差する。

 ダ・ヴィンチの描いた点 A, A’, B, B’ の配置を比較すると,Fig. 9 に示すように,A, B を結ぶ線と A’, B’ を結ぶ線は,ちょうど頭頂部の位置で交差する関係があります。 Fig. 9 の関係が成立するとすれば,線分 AA’ の長さは

15× 1/ 61 / 4

= 215

という値になるはずです。

 Fig. 10 に示したように,水平に腕を伸ばしたときの指先の位置(C)は,位置 A と同じ高さにあります。また,頭頂部と同じ高さに動かしたときの指先(D)は,線分 AC と AD の長さが等しくなるような位置にあります。点 A の位置は,肩の関節の位置からかなりずれているのですが,腕と肩が連動して運動することも含めて考えれば,腕を上昇させたときの実質的な回転中心に相当すると考えるのが自然です。 ダ・ヴィンチは点 A の位置にコンパスの軸をあて,水平の指先位置(点 C)で半径を決めて,正方形の上辺と交差する点として D の位置を決めたと想像できます。この点 D を通り正方形の下辺に接する円は一意に確定します。描かれた円の中心(臍)の位置をどのような方法で探したかは明確ではありませんが,D の位置が確定したらコンパスや定規を使って決めることは難しくないでしょうし,試行錯誤で求めたのかもしれません。最終的に正方形の下辺と接するようにすることだけ気をつければ,正方形の上辺との交差点が少し本来の位置からずれたとしても目立たないでしょう。 正方形の中心を原点とすれば,点 A の座標は (–1/15, 1/3),点 C の座標は (–1/2, 1/3),線分 CD の長さは 1/2 – 1/15 = 13/30,点 D の x 座標は

xD = − 115

− 1330

⎛⎝⎜

⎞⎠⎟2

− 16

⎛⎝⎜

⎞⎠⎟2

= − 115

− 25= − 7

15となります。ダ・ヴィンチの描きたかったと思われる円の半径を R とすれば,

R2 − xD2 + R = 1

の関係が成立するはずなので,円の半径とその逆数は

R = 1+ xD2

2= 121+ − 7

15⎛⎝⎜

⎞⎠⎟2⎡

⎣⎢

⎦⎥ =

137225 = 0.608889

1R= 225137 = 1.64234

という値になります。

Fig. 10 点 A と,「腕を水平にした時の指先の位置」

C,「頭頂と同じ高さにしたときの指先の位置」 D

との関係。点 A と C は同じ高さにあり,AC と AD

の長さが等しい。

 かりにダ・ヴィンチが 1/10 の替わりに近似値として 5/48 という長さを使ったとすれば, 点 A の座標は (–5/72, 1/3),点 C の座標は (–1/2, 1/3),線分 CD の長さは 1/2 – 5/72 = 31/72,点 D の x 座標は

xD = − 572

− 3172

⎛⎝⎜

⎞⎠⎟2

− 16

⎛⎝⎜

⎞⎠⎟2

= − 5 + 81772

となります。このときの円の半径は,

R = 1+ xD2

2= 121+ − 5 + 817

72⎛

⎝⎜⎞

⎠⎟

2⎡

⎣⎢⎢

⎦⎥⎥= 3013+ 5 817

5184 = 0.60878

という値になります。 実測の R は 0.606 ~ 0.609 程度の値でした。結論として,レオナルド・ダ・ヴィンチは,半径 137 / 225 ~ 0.609 の円を描くことを意図し,それに成功していると解釈するのが自然だと思われます。 正方形を 45º 回転させた場合の R = 0.604 を意図したと言う説もやや説得力を欠いていますが, この「ウィトルウィウス的人体図」という絵を描いた画家が相当な技量を持っていることは明らかですから,黄金比に相当する R = 0.618 を意図していたという説は成立しえないと思われます。