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人 を る 庫 人 同 と 談 学 事 本 事 話 み 抄 大 本 類 同 ま 古 類 る … · 同 話 」 と し 、 『 江 「 同 話 ・ 類 話 」 『 世 継 物 語

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今は昔、小

内裏に札をた

篁に「よめ」

ん。されど、

「たゞ申せ」と

んと申て候ぞ

「これは、をの

(一)

『宇治拾遺物語』

あるし、ストーリ

言いたいのか、よ

野篁広才事」本文

『宇治拾

『宇

野篁といふ人おはしけり。嵯峨の

てたりけるに、「無悪善」と書き

と仰せられたりければ、「よみは

恐にて候へば、え申さぶらはじ」

たび

仰せられければ、「さが

。されば君をのろひ参らせてなり

れはなちては、誰か書ん」と仰

はじめに

は読み方の難しい説話集である

ーや内容も他愛のないものが多い

く分からない説話がある。例えば

は次のとおりである。

遺物語』「小野篁広才事」考

治拾遺物語』「小野篁

御門の御時に、

たりけり。御門、

よみさぶらひな

と奏しければ、

なくて、よから

」と申ければ、

せられければ、

第一文に「

「嵯峨帝の御

とみられる

読むように

天皇は篁以

るかと尋ね

名のねもじ

。文体も平易で

。ところが何が

、第四九話「小

「されば

「さて、

「なにに

を十二

ねこ、

せ給て

広才事」考

小野篁といふ人おはしけり」と中

時」のこととされる。内裏に札

。そこには「無悪善」と記されて

促し、篁が遠慮がちに、天皇を呪

外には書く者はないと疑う。それ

られた篁は、何でも読めるとして

を十二」という謎を見事に読み

こそ、申さぶらはじとは申て候

なにも書きたらん物は、よみて

てもよみさぶらひなん」と申け

書かせ給て、「よめ」と仰せられ

しゝの子の子しゝ」とよみたりけ

、事なくてやみにけり。

心人物が提示される。

が立てられる。「落書」

いた。帝はそれを篁に

うものと読み解くと、

で、天皇に何でも読め

、天皇の出した「片仮

解いた。それで、篁は

つれ」と申に、御門、

んや」と仰られければ、

れば、片仮名のねもじ

ければ、「ねこの子のこ

れば、御門、ほゝえま

八〇

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『宇治拾

人事類、『毘沙門堂

庫本古今集注』、『

る。また『新編日

を「同文話」とし

(人事類)を「類話

(二)

本話と並行する

学大系』「説話目録

談抄』三、『十訓抄

とみる。『新日本

「同話(1)」とし

本話の意味する

なものであり、さ

話の独自性を明ら

ある。説話の比較

付ける表現を探り

や、説話の基盤の

意味を解明するこ

「事なくてやみにけ遺

物語』「小野篁広才事」考

本古今集註』、『弘安一〇年古今

きのふはけふの物語』上、を「

本古典文学全集』「関係説話表」

、『江談抄』三、『十訓抄』七・

・関連話等」とみる。

『宇治拾遺物語』第四九話の

説話にはどのようなものがある

」は、『小世継』を「同文的な

』七・六、『東斎随筆』人事類を

古典文学大系』「類話一覧」は、

、『江談抄』三、『十訓抄』七・

ところは何か。周知のようにこの

まざまな説話集に採られている。

かにするには、まず説話を比較す

によって得られる異同を手がかり

当てる。そして、それが成書化さ

もつ文脈の違いを参看することに

とができるに違いない。

り」とすることができたという

歌注』、『内閣文

同話(2)」とみ

は『世継物語』

六、『東斎随筆』

まず、内

読めないで

凡投

研究史

か。『日本古典文

同話」とし、『江

「同話・類話」

『世継物語』を

六、『東斎随筆』

ながら、そ

らも高い知

合っている

従来の指

「信頼し合っ

史上有名な

の指摘は、

説話は大変有名

それゆえ、本説

ることが有効で

に、本話を特徴

れた時代の違い

よって、説話の

文学全集』

には、さす

者の心理の

文学大系』

皇との交流

が出した別

っている」

それでは

(三)落書としての「無悪善

裏に立てられた札に書かれた「無

いたことが分かる。『律』「闘訟律

匿名書。告

人罪

者。徒二年。

の抜群の如才に自分が一目を置い

識人であった天皇との忌憚のない

者同士の情愛が底流している、後

摘は次の二点に集約される。すな

ている者同士の情愛」に注目す

謎」を「一つにしぼっている」と

本話の特質に触れている。

は「篁の博識の礼賛であり、その

がの嵯峨帝の怒りもとけて苦笑が

動きが生き生きと写されている」

は「個性的な知識人貴族の篁と、

を語る話。言語遊戯の歴史上有名

のいくつかの謎もふれられている

とみる。『新編日本古典文学全集

本話はどのように読まれてきたの

八一 」悪

善」とは何か。帝は

」はいう。

〔謂。絶匿

姓名。及

ていた若者と、みずか

やりとりには、信頼し

味のよい一件」とみる。

わち「心理の動き」や

る点と、「言語遊戯の歴

する点である。これら

とっさの機知頓才ぶり

浮かぶ。短編だが、両

とみる。『新日本古典

これを愛した知識人天

な謎で、他書には天皇

が本話では一つにしぼ

』は、「圭角のある人物

か。例えば『日本古典

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『律』「名例律」

逆」「不道」「不敬

謂。謀危

シロ〕君之心

と注している。落

ければならなかっ

おいて、帝が「無

として、匿名書を

三八

一二一〇年

捉えることが、中

『宇治拾遺物語』

に「無悪善」と書

島津忠夫氏は「落

文書」であったと

『宇治拾

仮人姓名。

焚之。〔略〕

等。被告者不

『法曹至要抄』は、

案之。匿

見付之輩。

は「八虐」として「謀反」「謀大

」「不孝」「不義」を挙げる。特に

国家。〔謂。臣下将図逆節。而

。不敢指斤尊号。

故託〔ツケテ

書は命を賭けた行動であったがゆ

た。そのようであれば、『宇治拾

悪善」に帝をないがしろにする意

「落書」と注する。『法曹至要抄

)の著と伝える。すなわち、匿名

世の理解であったといえる。

の諸注釈書は明確に触れてこな

いて立てられた札は、明らかに

書というのは、本来は時事を諷刺

いう。なぜ時事の諷刺が匿名の形

遺物語』「小野篁広才事」考

以避己作者。棄置懸之倶是。

若将送官司者。杖一百。官司受

坐。輙上聞者。徒二年半。

この条について、

名成落書立簡札之者。可処

早可焼棄之矣。

逆」「謀叛」「悪

「謀反」に、

有無〔ナイカ

〕云国家。〕

えに、匿名でな

遺物語』本話に

味を読みとり、

は落書に

「無悪善」の

た、誰のし

にも意味は

どで、仁寛

企てが露顕

』は明基(一一

書を「落書」と

かったが、内裏

「落書」である。

嘲弄した匿名の

をとるのか。

いずれも、

判が落書で

今夜

諸卿

是去四

欲危

〕得書者。皆即

即為理者加二

徒二年也。且

謀反の意図

はずである

められない

緩している

から解き放

物語』の表

(『百練抄』永久元(一一一

「金鎖井寒近」と記されていた

ように、このままでは何を意味

わざなのかが記されていない。「

分からなかったのである。

は、

阿闍梨が伊豆国に流されている。

したことによる。

天皇や摂政関白たちによる統治や

あったといえる。例えば、歴史書

。仁寿殿前落書云。金

井寒近。

(『日本紀略』天徳三(九

定申阿闍梨仁寛罪名。配流伊豆

日院御所有

落書。仁寛相

語勝

国家。事依露顕。遣検非違使盛

をうかがうとするならば、篁はた

。しかるに本話には帝と篁の間に

。『宇治拾遺物語』において、帝

ともいえる。あるいは『宇治拾遺

たれようとしていたといえるかも

現を注釈する上で、平安京におけ三

)年一一月二二日条)

という。これも本話の

するか不明である。ま

時人為奇」とある。誰

院御所に落書をしたか

「欲危国家」という

政治に対する匿名の批

には次のようにいう。

時人為奇。

五九)年七月一八日条)

国。党類同処流罪。

覚僧都大童子千手丸。

重所搦取也。

八二

ちまち死罪に問われる

そのような緊張感は認

と臣下の対立関係は弛

物語』は、律令の束縛

しれない。『宇治拾遺

る事例に注目すると、

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『宇治拾

相成云、去

今罷□〔帰カ

似可慎、唯

承有落書之

召遣伯耆守

尤可佳者、即

宇佐宮事異他

故障被改定

者、妻重服事

家楽〔業カ〕

愁、仍放逐、

名性と暗号性によ

質を持つのは法制

らである。例えば

落書の生態が浮か

無量寿院落

禅閣以

宰相

このように、落

遺物語』「小野篁広才事」考

(治安三(一〇二三)

夕□〔即カ〕罷向式光□〔許カ

〕、如四今不

巨害

歟、」其

瘡気頗伏者、招定基僧都問落

由、為遣油小路令尋求、無

可令勤仕、従所方仰遣歟、

報答云、承発遣日明旦可仰遣

如何、又被命云、仰遣伯耆

他人可無便、仍令昇殿可

有甘心気者、為伯耆守落書禅

密々取送、尽以無実、ム姓奉視

似其所為、

って行なおうとするところにある

上、落書が違法行為として処罰の

藤原実資の『小右記』における落

び上がる。

書事禅室被信受云々。

(治安二(一〇二二)

示云、宇佐使無下

奏〔奉

書の特徴は、国家や朝廷に対する年

一一月三日条)

〕、夜加治、只

後忠明来云、猶

書事、答云、即

□〔其カ〕実、

一日

咀之由

生間、

去五

然而下官慥示遣

、但妻重喪者也、

往還程遠、若有

然之者可発遣

室、左衛門権佐

云者度々致百姓

一定、

畢、亦

乎、」定

挿書仗

府、随

可披露

。そのような性

対象となったか

書の事例から、

年三月二〇日条)

カ〕仕

之人上、

相共向

宰相

与馬者

云、伯

雖有

畢、経

諷刺や批判を匿

亦常有

左府有落書云々。民部大輔為任

云々。其事在和泉国之珎保方

如此之事不可断絶、坐事之者

(長和元(一〇

日落書関白第云々、有天下事・

有可□〔早カ〕参上之仰、仍雖

云、廿六日□

〔行カ〕除目

基僧都密々以

皇基

送伯耆

立禅室、禅閣自取見給、命云、

状可左右者、密々所奉也者、

之由有禅命者、有御用意歟

堂廻見、感嘆最甚、

来、相成朝臣云、式光已似

平復

、今朝問遣、申云、如昨者、臨

耆落書事今日禅室被尋問、有下

所憚言争申訖、可致用意者、

朝臣云、播磨守惟憲日次不宜夜

如此之事、人敢不見容、依為

八三 以

陰陽師五人令呪

宿祢知行云々、相府一

已為例事、悲嘆而已、

二八)年六月一七日条)

道俗事、上達部已下悪

日次不宜夜半馳遣使

、金口説出自凡口、嗟

落書、其消息云、件文

可焼失、若可送右

已是前日同書也、不

、(同年一一月一七日条)

(同年一一月五日条)

、言語進退如

例、志

夜左衛門権佐家業来

見我送下官之気色上、

答下

不可外漏

之由上

(同年一一月八日条)

半可任都督事已被

例事、不可驚者、

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実資が定基僧都を

は落書があったこ

拠はない、こんな

い伯耆守資頼に関

道長が尋問し咎め

いての落書を実資

のもとに立文にさ

いう。、

道長は宇佐

させようとしたが

すると資頼につい

事異動に敏感に反

密告などが記され

けでなく、個人的

『宇治拾

事皆注載云々

落書事/治

関白第落書事

、無量寿院に

召して資頼についての落書のこと

とを認め、人を遣わして調べさせ

ことはよくあることだという。

する落書を、家業が実資に送った

たという。

、定基は道長の命に

のもとへに送って来た。消息によ

れており、道長自らこれを取って

使に奉仕すべき人がないので、伯

、実資の意向によって他の者を当

ての落書が道長のもとにあったと

応して生まれることが分かる。非

ていたと考えられる。落書は国家

な人事をめぐって生じていること

遺物語』「小野篁広才事」考

、往古来今未有如此之落書云

(同

安二年三月廿日、落書事、/長元

、/同五年二月廿七日、落書関白

落書があったことを禅室(道長)

を問うと、定基

たが、確たる証

、まだ見ていな

ことについて、

よって資頼につ

ると落書は道長

見、焼却させた。

ないように

な大事とな

以上『小

できる。

落書が匿

「無悪善」の

意味なのか

耆守資頼を勤仕

てようとした。

いう。落書は人

難や誹謗中傷、

や朝廷の次元だ

が分かる。

上達部已下

なかったと

落書は、

る落書の事

多様化して

道長・頼通

のよう

々、

年八月一八日条)

元年八月十八日、

家事、

(「小記目録」)

が伝え聞いたと

定基は実資

だという。

、左大

て道長を呪

いる事例で

、落書

秘匿される。ときに

のように、

る。

右記』の落書は、匿名の密告書の

名による国家や朝廷に対する政治

どこが諷刺なのか。何よりも「

が分からない。諸注は次のように

悪事皆注載」していたという。か

いう。内容は分かるが、表現まで

中国文学の伝統に由来するもので

例を集めると、注意されることは

いることである。『小右記』の事

をめぐって落書が生み出されてい

に、都の話題となり、ときに

に内々のこととして送付したとい

臣道長のもとに落書があった。藤

咀しているという。落書が政治家

ある。

が頼通第のもとにあった。落書に

都全体を揺るがすよう

義であったことが確認

諷刺であるとすると、

無悪善」はどのような

いう。

つてこのような落書は

は分からない。

あろうが、日本におけ

、落書が一一紀以降に

例は、権力の中枢たる

ることが分かる。とき

ように、世人に知られ

八四

う。それも道長の意向

原為任が陰陽師を使っ

その人にも向けられて

は「有天下事・道俗事、

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『宇治拾

という。ただ

八つのなぞを

随筆』では、

暮漏寝」をあ

らなん侘つつ

悪」に「サガ

ト|悪性の人

ナマシ」、十訓

けん」とよん

小野篁の学

『江談抄』三、

「無悪善」を読

たのである。

なくてよし」

和訓栞「さ

(サガナシ)無

清明正直、祥

されば善悪に

悪(サガ)

遺物語』「小野篁広才事」考

し、『江談抄』では、天皇が篁に

示したというのである。また『十

それらのなぞの中で、「一伏三仰

げて、「月よにはこぬ人またるか

もねん」と読ませている。それ

ナシ」と付訓している。日葡「サ

、心の悪い人」。なお江談抄「サ

抄「さがなくてよし」、世継物語

だとある。

(『日本

才とむすびつけて、文字のなぞを

『十訓抄』七、『東斎随筆』など

みといて、天皇からおとがめを

江談抄「サガナクバヨカリナマシ

世継物語「さがなくばよけん」と

(『宇治拾

が祥日本紀、善同、性同、日本

善也、紀中祥善性、皆訓佐我

善性之徳也(中略)佐加はものゝ

つけていふ也(下略)」とあり、

無くて善からむ。サガに嵯峨が通

むかって、別に

訓抄』や『東斎

不来待書暗降雨

きくらし雨もふ

については、「わ

「嵯峨無

『江談

がなく

善悪双

ガ、サガナイヒ

ガナクバヨカリ

「さがなくばよ

古典文学大系』)

取りあげている。

でも、小野篁が、

うけようとした

紀)な

ここは

じて、

この

まし」

ばよけ

さし、

」十訓抄「さが

ある。

遺物語全註解』)

紀通証云、不祥

与直音通、蓋

兆をいふ詞也、

易節用にも「無

月よと

うに、

を十二

じし」

「さが

善もあ

が」(日

じるので遠慮し

らはべ

し」に通じるとしたのである。(

抄』は「さがなくはよかりなま

てよし」と訓じている。「さが」

方に言うが、ここは「悪」を「さ

どの用例があり、「さが」は善、

「悪」を「さが」と読み、「無悪

それと「嵯峨無し」とをかけた。

訓じ方、説話によって相違する。

(『江談抄』)、「さがなくてよし」

ん」(『世継物語』)など。「さが」

善悪双方にいう。ここでは「悪無

云ふ也」と説かれている。それに

『世継物語』や『きのふはけふの

または六つ書いて、「ねこのこの

と読ませたというのである。

」は、生まれつき、性、前兆、

り、悪もあり、前兆にも吉も凶も

本書紀・垂仁紀)、「吉祥

よき

のうつむきさいといふ物に、一つ

八五

『新日本古典文学大系』)

し」、『十訓抄』は「さ

は人間の性分・性質で、

が(嵯峨)と無理に読

悪いずれにも通じる。

」を「さがなし」と訓

(『日本古典文学全集』)

「さがなくはよかりな

(『十訓抄』)、「さがなく

は生まれつきの性分を

(さがな)し」と読み、

対して、本書と同じよ

物語』でも、「子」の字

こねこ、ししのこのこ

(『新潮日本古典集成』)

きざしの意。人間性に

ある。「夢祥

ゆめさ

さが」(日本書紀・仁徳

ふして三あふぬけるを

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あるということは

である。嵯

峨天皇御

悪〔サガナク

天。篁所為也

事也。才学之

然者此文可読

用いて、見事に読

ではなく、ひとつ

(四)

本説話の同一説

「嵯峨天皇御時落書

九話の出典といえ

『宇治拾

ませたもの。

すなわち諸注釈が

本来の音や通行の

と訓むのは、解釈

るのは、訓読に許

また、篁が「子

許されるであろう。群書類従本の

時。無悪善ト云落書。世間爾多々

ハ〕善〔ヨカリナマシ〕ト読云

ト被仰天蒙罪トスル之処。篁申

道。然者自今以後可絶申云々。

ト被仰令書給。

んだということも、一義的な正解

の組み合わせを示したにすぎない

『宇治拾遺物語』と『江談抄

話のうち、最も早い文献が『江談

多々事」である。これが『宇治

るかどうかは措くとして、淵源に

遺物語』「小野篁広才事」考(『

新編日本

示すように「悪」を「さが」と読

訓ではできない。従って「無悪」

としての訓読に属する。説話によ

容される幅の問題である。

」の字を「こ」「ね」「し」という

本文は次のよう

也。篁読云。无

々。天皇聞之給

云。更不可作

天皇尤以道理也。

ことである

シ)という

の作った虚

成された説

リナマシ〕」

水言

これに

などというもの

ことになる。

』との比較

抄』第一三八条

拾遺物語』第四

位置する説話で

云々。〕

粟〔

或令

又左

川口久雄氏

在世中にこ

れたのは、

古典文学全集』)

むことは、漢字

を「さがなし」

って訓みが異な

三通りの読みを

十廿

二冂

唐ノ

木頭

一伏

トマタ

から、天皇の在位中に「無悪善

落書の書かれるはずがない。とす

構の話ということになる」とみる

話に他ならない。また、「無悪〔

について、川口氏は次のように

鈔は「無悪」を「悪」に作り、サ

ついては、『日本書紀』の古訓に

栗イ〕天八一沼〔泥イ〕。〔加(如

為市ニハ有砂々々。

縄足出。〔志女砥与布。〕

は本条について「嵯峨天皇という

の呼び名はない。諡号の拠り所に

すでに上皇となって年久しい承和

卅五十海岸香〔有怨落書也。〕

口月ハ三中トホス。〔市中用小斗

ケサウ文谷傍有欠。〔欲日本返事

切月中破。〔不用。〕

三仰不来待書暗降雨暮漏寝。〔傍

ルカキクモリアメモフラナンコヒ(

サガナクハヨカリナマ

ると、この説話は後人

。すなわち本条は、構

サガナクハ〕善〔ヨカ

いう。

ガナシとよんでいる。

その例がある。すなわ

イ)坂都(郡イ)〕

呼び名は諡号であって、

なった嵯峨に移り住ま

元年〔八三四〕八月の

八六

。〕。〕訓|ツキヨニハコヌヒ

ツゝモネン〕〔如此読

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『宇治拾

「十廿卅五十海

が落書であること

雄氏は試解として

多くの怨み

「十廿卅五十」

と訓む「古訓」と

のような「古訓」

もつ嵯峨天皇を配

ているといえる。

『江談抄』では、

の八件が列挙さ

の注釈書によって

サガサガナク

る。「サガナシ

るである、手

で、「悪」をサ

われる。(略)

あるいは嫌悪

奈良時代の文献『

ち同書、神代

遺物語』「小野篁広才事」考

岸香」は注に「有怨落書也」と

は知られるが、訓みも意味も分か

、が津々浦々に満ちているという

は数の多いことを表わし、「海岸

は、平安時代における訓詁である

を基に、訓詁学者として篁と、サ

置することによって、本条は説話

天皇が篁に訓むように求めた謎

れている。これらはいったい何な

も、必ずしも明らかではない。例

テ〕常好哭恙〔ナキフツクムコ

」は、たちがわるい、ひねくれ

におえない、口やかましい、いた

ガナシとよむのは意味の上から

結局「無悪善」は、嵯峨天皇を

・呪咀した落書というふうにとれ

日本書紀』における「悪」の字

上、一書曰に「次生素戔嗚尊。

あるから、これ

らない。川口久

意であろうか。

」はその湾曲し

のなせるわ

して自分の

道」が絶え

かの謎を読

「才学之道

と見られる。そ

ガと同音の名を

として形成され

として、

から

のか。『江談抄』

えば、その中で

字表記の問

必ずしも均

っていたと

わば群書類

そもそも

善」という

落書を篁は

トヲ〕」とみえ

ている、いじわ

ずらだなどの意

よんだものと思

快く思わない、

る。

を、「サガナシ」

「香」は

ように

という。

一方、

とあるから

わけで、こ

ものといえ

此神性悪〔カム

たこと

ざであるとみて、罪を加えようと

所為ではない、さらに自分が捕

ることになるという。天皇は然り

ませようとした、という。

」という表現は『宇治拾遺物語

題も含まれている。すなわち、こ

一ではない。この八件は『江談抄

いうよりも、後に漸時付加された

従本の類聚本としての性格を示し

『江談抄』は、「嵯峨天皇御時」

「落書」があった、しかも落書の

「サガナクハヨカリナマシ」と訓

海べに行くと磯の香りがあたり

、津々浦々に満ちているという意

「二冂口月ハ三中トホス」は、注

、いずれも文字に縦の線をもって

れなどは訓詁の学の問題ではなく

る。ところが、

の例のように、

を、浦曲(うらみ)というところ

八七

する。篁は申し開きを

らえられれば「才学之

と考え、改めていくつ

』や『世継物語』には

れら八件は質において

』の初期形態から備わ

ものと考えられる。い

ている。

のこととして、「無悪

多かったことをいう。

じた。天皇は落書が篁

一面にただよっている

であろうか。

に「市中用二小斗一」

貫くと意味が顕われる

、頓智や謎なぞに近い

和歌「一伏三仰」の漢

から怨みの意を表わし、

Page 9: 人 を る 庫 人 同 と 談 学 事 本 事 話 み 抄 大 本 類 同 ま 古 類 る … · 同 話 」 と し 、 『 江 「 同 話 ・ 類 話 」 『 世 継 物 語

「暮三伏一向夜」を

なわち、漢詩漢文

の難訓を勘ずるこ

この群書類従本

訓もしくは謎なぞ

中で、神田本の他

態本」と捉えてい

ねもじ(子文字)

り、『きのふはけふ

ている。これでは

ても、広才をたた

は「一伏三仰」の

それらをここに一

書暗降雨暮漏寝」

『宇治拾

見えない、『江談抄

は大江匡房が儒学

ったとされている

之道」継承の主張

ある。その核心は

では『一伏三仰』

ユフヅクヨと訓んでいることを

の訓詁こそ大江家の才学の中心で

ともその学に連なるものであった

にみえる「十廿卅五十海岸香」以

である。すでに益田勝実氏は『江

に、醍醐寺本『水言鈔』系統の前

る。群書類従本は類聚本であり、

を十二書かせて、給て、『よめ』

の物語』でも/子の字を六つ書

、なぞ解きにすぎず、篁の機知を

える説話にはならない」という。

和歌以外の難読文は「説話を分類

括した」とみる。川口氏は「一伏

の和歌について『万葉集』一八

遺物語』「小野篁広才事」考

』独自の表現である。周知のよ

の家の口伝・教命を口述筆記させ

。歴代天皇の侍読であった大江家

こそ、本条を相伝の説話として伝

、訓詁の秘義にある。川口久雄氏

の和歌のことはなく、その代わり

指摘される。す

あり、万葉仮名

。下の八件は、難

談抄』の伝本の

田本本文を「古

後人によって改

ろ、「才学」

が継承され

学の重んじ

このよう

之道」に対

(略)となってお

て、(略)となっ

示す話とはなっ

そして、川口氏

・再編したとき、

三仰三仰不来待

七四歌の第三句

一伏三

|コヌ

如此読

ここには和

すなわち

難訓であっ

きる「才学

うに、『江談抄』

たものが元とな

にとって「才学

え記した理由で

は「『宇治拾遺』

に/かた仮名の

めて編纂し

条は次のよ

嵯峨

善マシ

ル之処

可絶止

によって天皇から讃賞される。

ることによって、嵯峨天皇の代は

られる聖代こそ、匡房の家の願い

(五)『宇治拾遺物語』の主

に『江談抄』と比較すると、『宇

する危機意識は関心の外と見える

仰〔傍訓|ツキヨニハ〕不来待

キミマタルカキクモリアメモフラ

云々。

歌「一伏三仰」だけが記されてい

、『江談抄』の「無悪善」は和歌

たとみられる。『江談抄』は、難

之道」の重要性を伝えている。篁

直されたものといえる。その醍醐

うにある。

天皇御時。無悪善止落書世間多々

止読云々。天皇聞之給。篁所為

。篁申云。更不

候事也。才

被仰天令書給。

篁によって「才学之道」

聖代となる。まさに儒

であった。

張治拾遺物語』は「才学

。そのとき『宇治拾遺

書暗降雨暮漏寝〔傍訓

ナンコヒツゝモネン〕。

る。

「三伏一仰」と同様に、

訓を読み解くことので

は処罰されるべきとこ

八八

寺本『水言鈔』に、本

也。篁読云。無具ハ悪

也ト被仰テ蒙罪トス

学之道。然者自今以後

Page 10: 人 を る 庫 人 同 と 談 学 事 本 事 話 み 抄 大 本 類 同 ま 古 類 る … · 同 話 」 と し 、 『 江 「 同 話 ・ 類 話 」 『 世 継 物 語

『宇治拾

右に見るように、

会話を通して、本

3に至る前半は、

「無悪善」を天皇

「さればこそ

御門、「さて

れければ、

「なににても

5「よめ」と仰

「ねこの子の

御門、篁に

「よみはよみ

ぶらはじ」と

2「たゞ申せ」

「さがなくて

せてなり」と

3「これは、を

物語』は、篁の立

遺物語』「小野篁広才事」考

本話は帝と篁との会話から構成さ

話には、二度の転換が組み込まれ

天皇の仰せと篁の奏上とが交互に

から「よめ」と言われるが篁は拒

、申さぶらはじとは申て候つれ

、なにも書きたらん物は、よみ

よみさぶらひなん」と申ければ

せられければ、

こねこ、しゝの子の子しゝ」と

「よめ」と仰せられたりければ、

さぶらひなん。されど、恐にて

奏しければ

とたび

仰せられければ、

、よからんと申て候ぞ。されば

申ければ、

のれはなちては、誰か書ん」と

場に立って物語を叙述している点

(篁)

れている。この

ている。1から

繰り返される。

否する。「たび

問題は叙

天皇の要請

へば、え申

なる要請に

いかと疑う

(天皇)

」と申に、(篁)

てんや」と仰ら

(天皇)

(篁)

(天皇)

よみたりければ、

抄』と『宇

によって生

ころに認め

一方、二

る難訓であ

本的な頓智

とができる

(天皇)

候へば、え申さ

(篁)

(天皇)

君をのろひ参ら

(篁)

仰せられければ、

否できなく

なくなった

危機に瀕す

4と5か

れた難題を

ことを証明

難題によっ

に特徴がある。

」とあ

述の視点である。「無悪善」の意

に、篁は「よみはよみさぶらひな

さぶらはじ」と難渋している。痺

答えた篁に、案の定天皇が不快を

や、篁は「さればこそ、申さぶら

治拾遺物語』との共有する話型は

まれた危機を、難題を読み解くこ

られる。

つの難題を比較すると、「無悪善

るが、子の字は仮名文字の読み方

ともいうべき謎なぞである。つま

ところに、『宇治拾遺物語』の世

なる。物語は繰り返しの果てに篁

とする。「無悪善」の意味を口に

る。

ら成る後半は、天皇の勅勘に触れ

見事読み解くことによって落書は

することによって放免される。篁

て晴らす機会が与えられたと読む

るように、重ねて天皇から「よめ

八九

味を教えるよう求めた

ん。されど、恐にて候

れを切らした天皇の重

示し、犯人は篁ではな

はじとは申て候つれ」

、難題を読み解くこと

とによって克服すると

」は訓詁の学にかかわ

を利用した、極めて日

り、両者を並び置くこ

俗性がある。

が沈黙を破らざるをえ

出すことによって篁は

た篁が、天皇から出さ

ひとり篁の所為でない

の無実を「ねもじ」の

ことができる。『江談

」と言われて、篁は拒

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ければ。よみ

申候はじと申

なくはよけん

んとて。咎に

其時に御門。

ば。よみ候ひ

きてよめと仰

雄氏は『世継物語

の系譜を、「原世継

物語」から「原宇

道筋とを示してい

の説話として比較

今は昔。嵯

無善悪〔悪善

『宇治拾

と呟いている。断

会話を中心に構成

ある。

(六)

すでに第四九話

にはよみ候らひなむ。されど恐り

けれど。唯申せとたび

仰せら

とよみたるに。是はをのれはなち

おこなはるべきに成りにけり。篁

何も書きたらん物はよみてんやと

なんと申ければ。かたかんなのね

せられければ。ねこのこのこねこ

』を「鎌倉期の成立」とみる。そ

物語」から『世継物語』に至る

治大納言物語」を経て『宇治大納

る。伝写の系統は措くとして、両

できる。『世継物語』本文は次の

峨の御門の御時に。内裏に札を立

歟〕と書きたりけるを。御門篁に

遺物語』「小野篁広才事」考

罪と赦免の説話が、篁の心の動き

されているところに、『宇治拾遺

同時代の同一説話『世継物

と『世継物語』は同一説話とされ

候ふうへは。え

れければ。嵯峨

ては。誰か書か

さればこそと申。

。仰せられけれ

文字を。十二書

。しゝのこのこ

ことが

3『世継

という

という

れるこ

標目が

4『世継

して、書写伝来

道筋と、「原世継

言物語』に至る

者は同じ鎌倉期

とおりである。

てたりけるに。

よめと仰せられ

1『世継

ところ

人おは

は篁と

2『世継

はるべ

物語』

をうかがわせる

物語』の特質が

語』

ている。小林忠

しゝと

とにも

流され

とある。『宇

おいて対照

知られる。

物語』は天皇が提示した謎を篁

。『宇治拾遺物語』は「なににて

。どんな問題でも解くことができ

とによって、篁の広才がより強く

「小野篁広才」とするとおりであ

物語』は前半が一文、後半が一

物語』は冒頭、天皇の御時にお

から始まる。『宇治拾遺物語』は

しけり」と、中心人物の紹介を最

いう人物に向けられている。

物語』は、無悪善を読み解いた

きに成にけり」と断罪、処罰しよ

は具体的には記されていないが、

。よみてまいらせたりければ。御

あたらてやみにけりとぞ。又何事

て。まかりけるに。

わたの原八十嶋かけて漕出ぬと人

治拾遺物語』と同話とされる『

させ、主な異同について列挙してが

「よみさふらひなん」

もよみさぶらひなん」

るということが強調さ

証明されることになる。

る。

文、後日譚が一文とい

ける出来事が示される

冒頭に「小野篁といふ

初に置く。話題の中心

篁を天皇は「咎に行な

うとする。『宇治拾遺

不快感を表明している

九〇

門ほうゑませ給て。こ

にてやらん。隠岐国へ

には告げよあまの釣舟

世継物語』とを表現に

みると次のようである。

Page 12: 人 を る 庫 人 同 と 談 学 事 本 事 話 み 抄 大 本 類 同 ま 古 類 る … · 同 話 」 と し 、 『 江 「 同 話 ・ 類 話 」 『 世 継 物 語

『宇治拾

悪善〔さかな

ゝは。篁より

申したるは。

る時。篁申し

事。迷惑の由

江戸初期の成立

四九話の同一説話

本文は次のようで

むかし嵯峨

なされ。ある

にこれを明か

治拾遺物語』

その後のすべ

5『世継物語』

流罪になって

ない。危機が

(七)

うふうに、文

遺物語』「小野篁広才事」考

くはよからん〕と読みた。其時

はるかに物知りさへえ読まぬもの

さだめて其篁が立てつらんと。既

けるは。物を知り候へば。結句罪

申し上げれば。物を知りたらば。

|『昨日は今日の物語』|

といわれる仮名草子『昨日は今日

である。これはもはや笑話と呼ん

ある。

の天皇の時。無悪善といふ落書を

ほどの物知りを寄せて。御読ませ

す者なし。爰に小野の篁と申者

は、中心人物の紹介が一文、落書

てが一文で叙述されている。

は二度危機が回避されたのに、

しまう。『宇治拾遺物語』は篁の

回避されたことをもって結末とす

漢才から謎なぞへ

の単位で説話の構成を

御門逆鱗なさる

を。此の物読み

に流罪に及びけ

過に行なはるゝ

さらば何にても

小野篁の

分けること

の物語』も、第

でもよい。その

立てた。御不審

候へども。さら

まかり出て。無

んだことを

る。罪に問

ちに読めな

た難題は、

ない。難題

いる。

の存在が一文、

結局は隠岐国に

最期には興味が

る。

仰付ら

く読み

された

し〕

本話は細部

無悪善は明

なかのひと

示している。『宇

むつか

伝説を、天皇が篁に出す難題の内

ができる。すなわち、

漢字の難訓

子の字の謎

不審として、落書が篁のしわざと

われようとしたとき、篁が抗議す

いものをこしらえて篁に読ませよ

もはや才学の道の危機を云々する

は、落書から頓智や謎なぞとでも

(八)小野篁説話の系譜

れければ。子の字を六つ書きて御

けるほどに。さては物知りと仰ら

。〔子子子子子子/ねこのこのこ

において、『宇治拾遺物語』とは

確に落書であるとされる。そして

りにすぎない。天皇は、物知りの

しく読まれぬ事をたくみて。読ま

九一

容から、

の二群に

見て流罪にしようとす

ると、天皇は物知りた

という。子の字を重ね

ような深刻なものでは

いうべきものに堕して

よませ候へば。篁難な

れて。流罪を御許しな

ねこ/ししのこのこし

微妙に異なっている。

、篁は物知りの群れの

読めない文字を篁が読

せ候へと物知りどもに

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『古今集注』

『世継物語』

『十訓抄』

『東斎随筆』

『昨日は今日

ここに、秘義を

へと変容・馴化し

読者と基本とする

なぞをもって置き

小野篁の伝説を

に、篁に天皇の出

る。各文献の成立

『江談抄』大

『宇治拾遺物

『宇治拾

の二群である。

この伝説の源泉

侍読の家に伝えら

れは、言談の方法

のである。

『宇治拾遺物語』

顕昭

鎌倉初期

鎌倉期

鎌倉期

一二

一条兼良

室町期

の物語』

江戸初期

慶長

伝授することを目的とする言談が

て行くさまが見てとれる。すなわ

。それゆえに、難訓を難題とする

換えていると推測される。

伝える代表的な文献を、年代順に

す難題から

の判別を加えると

年代はおよその目安を示すもので

江匡房

院政期

語』

鎌倉初期

遺物語』「小野篁広才事」考

にあたると考えられる『江談抄』

れてきた、漢詩漢文の「才学」を

によって伝承される、訓詁の学の

は、そのような基盤とは異なり

五二年

頃、開放的な笑話

ち、篁の説話は、

かかわりの

同薨伝に

篁の乗る舶

遣唐副使に

の勅勘に触

紀』に、是

ことを避け、謎

配列するととも

、次のようであ

ある。

皇実録』に

篁。

篁随父

聞之。

慚悔。

とある。篁

をきっかけ

は、歴代の天皇

基本とする。そ

奥義を伝えるも

、編者と幼少の

古代におけ

ている。

見てきた

次のような

端緒がある。

は、遣唐使四舶のうち大使が「第

と交換することを求められて、篁

任ぜられながら、乗船を拒否した

れた、という有名な記事がある。

。勅曰。小野篁。内含綸旨。出

おける小野篁の薨伝に、

参議正四位下岑守長子也。岑守。

客遊。便於拠鞍。後帰京師。

歎曰。既為其人之子。何還為

仍始志学。

は、嵯峨天皇が篁の「不事学業

に「始志学」したとある。ここ

る秘義的な言談から、開放的な咄

(九)小野篁説話の基盤

ような小野篁説話における、嵯峨

基盤に基くものと考えられる。す

一舶」に駕しながら、

は後に乗船を拒否する。

ことで篁は、嵯峨天皇

その経緯は『続日本後

使外境。空称病故。

弘仁之初為陸奥守。

不事学業。嵯峨天皇

弓馬之士乎。篁由是

」ことを歎いたこと

に、嵯峨天皇と篁との

九二

へと、緩やかに変容し

天皇と篁との組合せは、

なわち、『日本文徳天

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『宇治拾

のは、漢字の難訓

謎なぞまで解ける

うだけでは足りな

本説話は、わず

一文は主人公の提

史的な装いをもっ

義を伝えるのに、

とができる。(

一〇

『宇治拾遺物語』

する讃美がある。

流上

。仍配流

とある。そのよう

あるといえる。

『江談抄』に始ま

間に起こった歴史

要はない。むしろ

型として記憶され

不遂国命。

遺物語』「小野篁広才事」考

を読み解くとともに、仮名文字の

ということを含んだ評価である。

い。

か三つの文

だけで成り

示、第二文は落書という難題の提

た伝承として記憶されていたとい

両者の対偶関係が設定として利用

)まとめにかえて

第四九話には、標題のいうよう

いうまでもなく才は漢字の才であ

隠岐国。

な嵯峨天皇と篁との確執、葛藤が

る小野篁説話が、そのような嵯

的事件を、史実として踏まえてい

この二人の組み合わせが、対立的

ていたのではないか。天皇と臣節

准拠律条。可処絞刑。宣下

性質を利用した

しかしそれをい

立っている。第

示。その後の

三木紀

書店、一

渡辺綱

店、一九

に同

える。難訓の秘

されたとみるこ

に篁の広才に対

る。広才という

いと躊躇す

の悩みがあ

い。篁の無

ことによっ

で説話は完

めなかった

、伝説の基盤に

峨天皇と篁との

るとまでいう必

な人間関係の典

との対偶が、歴

むように強

しわざだと

つれ」と愚

ような笑い

えて理解し

を心情的に

意味すると

死一等。処中

之遠

末は、第三

人・浅見和彦校注『新日本古典文学大

九九〇年、一〇二

三頁。

也・西尾光一校注『日本古典文学大系

六〇年、四〇頁。

じ、五二三頁。

るところにある。そこには臣とし

る。篁の危機は篁みずからが無実

実は、改めて帝から出された謎を

て明らかになり、われわれも笑い

結する。篁の説話を単に謎解きの

ところに、『宇治拾遺物語』の特

いる。口重く篁が落書を読み解い

断罪した。篁は「さればこそ、申

痴をつぶやく。われわれはまずこ

は幼少の者には及ばない。ひとし

うる性質の笑いである。そしてこ

擁護している。『江談抄』と異な

ころを承知していながら、天皇に

文によって一気に説明されている

九三 系

宇治拾遺物語』岩波

宇治拾遺物語』岩波書

ての節度、凡俗なる者

を証明するより他にな

みごとに解きおおせる

をもって安堵すること

面白さや頓智話にとど

質がある。

たところ、天皇は篁の

さぶらはじとは申て候

こで笑わされる。この

きり人生の経験を踏ま

の叙述そのものが、篁

る一点は、篁が落書の

畏れながら奏上できな

。天皇が篁に落書を読

Page 15: 人 を る 庫 人 同 と 談 学 事 本 事 話 み 抄 大 本 類 同 ま 古 類 る … · 同 話 」 と し 、 『 江 「 同 話 ・ 類 話 」 『 世 継 物 語

、二二五頁、

三』一九六四年

『小右記

一〇』

日本において

である。呵

我終為

(九〇〇年頃

桜嶋忠信

(藤原明衡編、

『群書類従

九三頁。

『群書解題

島津忠夫『中

島津氏の御論に

に同じ、二

『国史大系

『国史大系

『大日本古

『宇治拾

小林保治・増

語』小学館、一

小林智昭校注

七三年、一六五

に同じ、一

に同じ、一

黒板勝美編『

お〔

〕は割注

、二二六頁、

、二二七頁、

二三

、三九頁、

『小右記

八』一九七

「小記目録」一九八二年、一七頁。

政治批判や諷刺が漢詩に托された事例

実落書、今年人謗非真説、

)(「詩情怨」『日本古典文学大系

落書〔依此落書拝任大隅守云々。

一〇三七

四五年頃)(『日本古典文

六輯

法曹至要抄』続群書類従完成

六巻』続群書類従完成会、一九六〇

世文学史論』和泉書院、一九七九年、

導かれるところ多大である。記して謝

頁。本

紀略

下』吉川弘文館、一九六五

練抄』吉川弘文館、一九六五年、五

記録

小右記

六』岩波書店、一九六

遺物語』「小野篁広才事」考

古和子校注・訳『新編日本古典文学

九九六年、五四〇頁。

・訳『日本古典文学全集

宇治拾遺物

頁。

〇三頁。

三八頁。

国史大系

律』吉川弘文館、一九七三

を示す。以下、他の文献においても同

一頁、

『小右記

六年、八二頁、

は次のようなもの

家文章』岩波書店)

〕学大系

本朝文粋』

同書、

につ

が加えら

同書、

益田勝

六七年三

植松茂

年、一一

小林忠

会、一九八三年、

年、一九頁。

一一三頁。本稿は

意を表する。

年、七六頁。

〇頁。

三年、一〇〇頁、

に同

に同

に同

『群書

七八

川口久

同書、

同書、

同書、

全集

宇治拾遺物

語』小学館、一九

年、一四四頁。な

様。

岩波書店

これら

書の事例

る落書に

中島悦

に同

大島建

年、一四

五〇七頁。なお「一伏三仰」の問題は

いて」『国語国文』一九五八年五月、

れているが、ここでは紙幅上割愛した

五〇五

六頁。

実「『江談抄』の古態(二)」『日本文

月。

他校注『古本系江談抄注解〔補訂版

三頁。

雄解題『群書解題

第八巻』続群書類

じ、一六五頁。

じ、一〇二頁。

じ、一三八頁。

類従

第二七輯

江談抄』続群書類従

頁。

雄・奈良正一校注『江談證注』勉誠社

五〇五頁。

五〇八頁。

五〇七頁。

)『菅家文章』『本朝文粋』や、注

は、むしろ早い事例と見られる。なお

ついては、島津氏の考察に詳しい注

次『宇治拾遺物語全註解』有精堂、一

じ、一四七頁。

彦校注『新潮日本古典集成

宇治拾遺

九頁。

、井手至「諸伏〈まにま

を始めとして詳細な検討

。学誌要』第一七号、一九

〕』武蔵野書院、一九七八

従完成会、一九七六年、

完成会、一九七八年、五

、一九八四年、五〇七頁。

九四

の『日本紀略』などの落

『太平記』に記されてい

1、一一五頁以下)。

九七〇年、一八〇頁。

物語』新潮社、一九七六

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『宇治拾

論考があれば、

なお、語義や

一巻・第五巻』

『古語大辞典』(

(修訂第二版、大

第一三巻』(第二

黒板勝美編『

四三頁。

黒板勝美編『

頁。

〔付記〕本

話は説話と

な先行研究があ

た。従来の代表

同書、三五五

『続群書類従

年、一六三頁。

た。『

続群書類従

一九八五年、一

本文紹介を省

全評釈

中巻』

注釈』新典社、

筆』三弥井書店

三五四頁。

遺物語』「小野篁広才事」考

非礼を詫びたい。

用例の検索については、中村幸彦他編

(角川書店、一九八二年・一九九九年

小学館、一九八三年)、諸橋轍次『大

修館書店、一九八九年)、『日本国語

版、小学館、二〇〇一年・二〇〇二

国史大系

日本文徳天皇実録』吉川弘

国史大系

続日本後紀』吉川弘文館、

して多数の文献に採られているので、

るのか、管見のかぎりで十分調査する

的注釈書の範囲で愚考を述べることに

頁。第

三二輯下

世継物語』続群書類従

ただし、私に清濁を定め、漢字を宛て

第三三輯下

昨日波今日の物語』続

四三頁。ただし、私に清濁を定め、漢

略した引用文献は次のとおり。

片桐

講談社、一九八九年、八八〇頁。

一九九四年、四四三

四頁。

久保田

、一九七九年、一八九

九〇頁。

『古語大辞典

)、中田祝夫他編

漢和辞典

巻九』

大辞典

第二巻・

年)などを参考と

文館、一九六六年、

一九七二年、八一

それぞれどのよう

ことができなかっ

したので、未見の

完成会、一九八一

るなど表記を整え

群書類従完成会、

字を宛てた。

洋一『古今和歌集

村全二『十訓抄全

淳他校注『東斎随

した。記して謝意を表する。

九五