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戦後政治 o 「戦略論的」歴史認識方 戦後政治史時期区分試論(一)(木下) 一、 「戦略論的」歴史認識方法についての批判 二、批判の具体的作業 (以上本号) 三、批判の具体的作業に含まれる問題点 四、時期区分についての試み 東京歴史科学研究会現代史部会(以下、東京歴科研と略)は、一九七〇年の を「戦後民主主義革命期」と規定する仮説を立てて、以来相ついで『歴史評論』に 料の共有を基礎に、間題意識・方法の一致をつねに求めつつ、共通の歴史認識をめざし 団作業である。以下・主として『歴史評論』に発表された諸論文を手がかりにしながら、私 一25一

一、 「戦略論的」歴史認識方法についての批判 戦後政治史時期 ... · 2005-11-25 · 戦後政治史時期区分試論 o 「戦略論的」歴史認識方法に対する批判をめぐってi

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戦後政治史時期区分試論o

「戦略論的」歴史認識方法に対する批判をめぐってi

戦後政治史時期区分試論(一)(木下)

一、 「戦略論的」歴史認識方法についての批判

二、批判の具体的作業

  ⇒

  (

  ②

  の            (以上本号)

  (

三、批判の具体的作業に含まれる問題点

四、時期区分についての試み

 東京歴史科学研究会現代史部会(以下、東京歴科研と略)は、一九七〇年の夏以来、敗戦から芦田内閣崩壊までの時期

を「戦後民主主義革命期」と規定する仮説を立てて、以来相ついで『歴史評論』に論文を発表している。その研究は「資

                                      ハコロ

料の共有を基礎に、間題意識・方法の一致をつねに求めつつ、共通の歴史認識をめざして」行なわれていて、得がたい集

団作業である。以下・主として『歴史評論』に発表された諸論文を手がかりにしながら、私自身のこれまでの作業に点検

一25一

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説論

を加え、これからの研究方法の確立をめざす作業の一環としたい。

けない)。

剛、 「戦略論的」歴史認識方法についての批判

(『歴史評論』掲載論文については、繁雑になるので注をつ

 ところで、ここで問題にしようとしている「戦略論的」歴史認識方法とは、次のような意味であるが、いまだ成熟した

概念ではなく、論者によっていろいろの表現がされているので、まずその主張を理解するために、これまで説明されてい

るいくつかの表現をあげておこう。

 一九七一年六月号の『歴史評論』に平田哲夫氏が「科学的歴史学としての日本現代史研究f新しい政治史の提唱1」

を書き、次のような問題を提起している。この論文をサマライズしても意味がないし、その能力もないが、そこで平田氏

が提起している問題は、次のように理解していいであろう。

 ①、日本現代史研究には総括すべき成果はないのではないか。一九五六年から五七年にかけて「日本近代史」と「昭和

史」をめぐる論争、いわゆる「昭和史論争」は、「あえて箇条書的に要約すれば」 (平田)次の四つの間題ないし側面を

もっていた。

 「第一に、六全協やスターリン批判を契機とする、マルクス主義とコ、・・ユニズムにたいする批判の一環としての側面。

 第二に、独占資本の復活とあいまって、逆コースの風潮が政策的に強められるなかで、あらためて学問研究の社会的責

任が間いなおされはじめた傾向を代表する側面。

 第三に、歴史の主体としての人間と歴史的必然との関連把握を、いかにして科学的歴史学の方法にたかめるかという問

題。 

第四に、現代政治史をただしくかつリアリスティックに認識・分析する方法とは、どのようなものかという問題」であ

一26一

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戦後政治史時期区分試論O(木下)

ったが、こんにちの日本現代史研究は、「昭和史」論争から「なにひとつまなんでいないといっても、おそらくはいいす

ぎではない」と平田氏はいう。もちろん、平田氏は、日本現代史研究を頭ごなしに批判するというのではないが、「問題

        ヤ  ヤ  ヤ  ヤ                                                                              ヤ  ヤ  ヤ  ヤ

は、日本現代史にかんする研究の成果が一定程度あるということと、日本現代史研究そのものが発展してきているかどう

かということを、単純に同一視できないところにある」とする。それは、対象を日本現代史においていれば日本現代史研

究とみなすような「アナーキーな状況判断」では、日本現代史の分野における科学的歴史学の固有の任務を積極的にはた

していくことはできないとして、日本現代史にかんする研究成果を、

 ①理論史的潮流

 ②問題史的潮流

 ⑧通史的潮流

 ④人民闘争史的潮流

とわけて論じている。その紹介は省くが、ここに、これから問題にする「戦略論的方法」がとりあげられているのであ

る。平田氏の理論史的潮流という呼称では、「前衛党の革命戦略や現状分析をめぐる論争に直接または間接に関与するも

の」で、上田耕一郎『戦後革命論争史』、高内俊一『現代日本資本主義論争』などが例にあげられる。この潮流は、「日

本現代史研究の不可欠の一部分であり、その発展が日本現代史研究全体の発展に深いかかわりをもっていることはあらた

めて指摘するまでもないが、ただ、科学的歴史学の立場からいえば、この潮流の作業は、本来基礎作業のひとつとして位

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置づけられるものであって、日本現代史研究の主作業そのものではないであろう」 (傍点引用者)。

 さて、間題になる「戦略論的日本現代史研究」とは、理論史的潮流と「密接に関連しながら発展して、日本現代史研究

の主流の地位を確立してきた」 「もっぱら戦略論の観点からする日本現代史研究の方法」である。例示すると、 『日本資

本主義発達史講座』、『日本資本主義講座』、現代史研究会編『戦後日本の国家権力』、藤井・石井・大江『日本現代史』

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説論

などである。少し長くなるが、以下に平田氏が展開している批判を引用する。

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 「戦略論的方法の潮流は、日本現代史研究の発展段階のうえでは、不可避的な過渡段階であり、一定の時期には、積極

ヤ   ヤ  ヤ   ヤ   ヤ  ヤ   ヤ      ヤ   ヤ   ヤ   ヤ   ヤ   ヤ   ヤ   ヤ   ヤ  ヤ   ヤ   ヤ   ヤ   ヤ   ヤ  ヤ

的な意義をもち、学問的にも大きな成果をあげてきた」 (傍点引用者)。

 「ところが、五一年綱領(日本共産党の当面の要求)の線にそう見解を基調とした、戦後の『日本資本主義講座』は、

意義の点でも成果の点でも『発達史講座』におよぶべくもなく、政治的にも学問的にも批判をまぬがれることはでぎなか

った。両講座のあまりにも対蹟的な達成は、史学史的見地からの厳密な検討を必要とするが、すくなくとも『日本資本主

義講座』の理論的破産は、目本現代史研究にとっては、戦略論的方法の限界を明瞭につげたものであった。にもかかわら

ず、戦略論的方法が、こんにちにいたるまでほぼ一貫して日本現代史研究の主流をなしているのは、第一に、方法的努力

の絶対的貧困を、第二に、とりくみ姿勢の非学間的安易さを証明する以外のなにものでもない。

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 いうまでもなく、このようにいうことは、日本現代史研究の方法として戦略論的方法が、絶対的にまちがっているとい

ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ

うことではない。問題は、戦略的課題そのものを、つねに『歴史のもつ主要な側面』とみ、歴史の発展の多様性を『統

一』するものと考える(大江)ところか(ら)、ほたして科学的歴史学の一分野としての日本現代史研究の固有の任務が

みちびきだせるかどうか、にある。ことばをかえれば、日本現代史研究の科学性を保証するものがなんであるのかが、ま

さに正面から問われているということである」(傍点引用者)という。

 「さらに、この戦略論的方法の具体的内容を構成するものとして無視できないのは、人民闘争を戦術の可否の観点から

      ヤ  ヤ  ヤ   ヤ  ヤ   ヤ

間題にする、戦術論的方法である。一例をあげれば、六〇年安保闘争史の研究にみうけられる『闘争のキメ手』論は、典

型的な例といいうるかもしれない。信夫清三郎『安保闘争史』 (一九六一年)の説くところによれば、『キメ手』とは、

『大衆自身もたたかったことを意識しつつ相手には深刻な打撃をあたえるような行動が展開され、その行動の力を政治の

上に実体化するような戦術』である。このような観点から、安保闘争の個々の局面における戦術を問題にするならば、

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戦後政治史時期区分試論(→(木下)

『彼我の力関係』をかえたかどうか、『政局の主導権』を手に入れたかどうか、ということが、評価の中心課題とならざ

るをえないし、したがって、個々の局面はもちろんのこと、不可避的に安保闘争全体がきわめて清算主義的に評価される

ことになる。それは、そもそも闘争過程の史的分析の方法というよりは、一種の政治的総括の立場でしかない。信夫が、

この本の結論の部分で、『安保反対闘争の成果を評価するには、そのもっとも大きな成果といわれるものが偶発的な事件

によって偶発的にもたらされたという事実が問題にされなければならない』とのべているのは、戦術論的観点からする分

析の無力性をみずから告白しているにひとしい。」

 少し長い引用になったが、従来の日本現代史研究fここで問題にする戦略論的方法ーに対する平田氏の批判のポイ

ソトは以上のようである。

 佐瀬昭二郎氏は、「戦後民主主義革命期の歴史的意義」の冒頭で「戦略論的な歴史認識の方法」とは「結論的にいっ

て、戦略的課題が達成されたかどうかということを最大の判断の基軸とする方法」といっている。この佐瀬氏の論文の目

的である統一戦線運動に関していえば、この方法では「共通にみられるふたつのあやまりがもたらされることになる。第

一に、統一戦線運動の評価を、前衛党の統一戦線理論・政策の評価で代位するあやまり。第二に、このため、前衛党の理

論・政策が人民闘争の展開過程で変化発展する側面を見うしない、理論・政策の評価についても不十分なものになってい

ること」である。

 もう一つの例をあげると、梅田欽治氏は前記平田氏がのべた「戦略論的方法」について、「戦後日本民主主義革命期の

歴史的意義」のなかで次のようにのべている。

 「平田論文がとりあげた『戦略論的方法』という概念は、集団研究の参加者のなかでも必ずしも統一的理解ができあが

っているとはいえないほど、まだ未成熟の概念ではあるが、戦前から戦後の六〇年代にかけて前衛党の革命戦略が不確定

な時期に、戦略をあきらかにする事業と関連して日本現代史研究が科学的歴史学として形成、発展してぎたことは事実で

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説論

あり、われわれはその遺産の上にたっているのであるが、社会科学から歴史科学が分離し、その独自性が確立されてくる

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なかで、そして一九七〇年代という、人民が国の政治をにぎっていくという歴史的時代に相応する科学的歴史学の方法と

しては、ここでひとつの飛躍を必要としているのではないか、という認識は、集団研究参加者の共通のものになっている

といえるだろう。『戦略論的方法』の克服とは、そのようなことを意味している」(傍、息筆者)といっている。つけくわえ

ておくと、梅田氏は前掲平田論文について「筆者(平田)の独創と個性が強烈に表現されている」ことを記し、この論文

には「すべてこれまでの現代史研究をたちきってしまうようにとれる叙述があるのは残念である」とのべている。

 また、平田氏は六月号論文について反省を加えたあと、「戦略論的方法」とは何かということについて次のように言っ

ている(一九七一年一二月号『歴史評論』歴科協第五回大会「討論要旨」)。

 「この『戦略論的方法』についてひとことでいえば、ある時期の人民闘争の評価の基軸を、戦略的課題が達成されたか

否かという点にもとめるもので、この方法は、長期にわたる歴史過程の人民闘争を評価する場合には一定の有効性をもつ

が、画期となる人民闘争をとらえ、その質的達成を評価することにはいちじるしい欠陥をもっている。後者の評価にあた

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っては、長期の歴史過程としての『段階』とは区別するために、 『情勢』の概念を導入し、階級闘争を総体的に把握する

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方法をきたえる必要がある。とりわけ、六〇年代後半から日本の階級闘争は質的に新しい発展をしめしており、歴史的過

去の階級闘争史の研究も、この発展をふまえて一定の飛躍を要請されている」(傍点筆者)。

 「戦略論的方法」とは何かという説明は簡明である。特に、発言後半部でふれられている「情勢」の概念の導入を必要

とする六〇年代後半以降の日本の政治情勢にみられる新しい変化については、後にもふれるが、十分に考慮が加えられな

ければならないと考える。

 問題は、やはり、どのように具体的に「戦略論的方法」を克服して新しい歴史学を打ち立てるのかという課題に答えて

いくことにあるであろう。以上のような「戦略論的歴史認識方法」として批判される従来の歴史分析の方法では、「結局、

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戦後政治史時期区分試論O(木下)

人民闘争の敗北、挫折の原因の分析におもむかざるをえ」ず、今日「挫折、敗北の原因ではなく、権力への接近の主体

的・客観的条件が戦後の人民闘争の全過程を通じて、どのように準備され切り開かれてきているかの解明を求めている人

民闘争の現段階の要請にこたえていくうえで重大な欠陥をもっている」という認識が、東京歴科研にあるのである。

 この方法論によると、比較的最近発表された『講座目本史』八巻の戸木田・松尾論文、藤井・大江『戦後日本の歴史』、

『シンポジウム日本歴史22「戦後史」』のいずれも、この戦略論的方法そのものであったり、もしくはその方法をまぬが

れていないとされる。たしかに、一九七〇年代の今日、政治史に要請されている作業は、戦後三〇年「敗北」に「敗北」

を重ねてきた人民闘争の原因分析のみに止まっていては一歩も前進しないし、すでに政治権力把握のための方法とそのた

めの数年単位での政治日程が提起されていることからしても、この現代的な要請に答えることにならない。

 山田氏は「政治史の方法的発展をめざして」の中で、現代史の総体的認識の基軸の第一に、三大革命勢力の闘争が発展

        ヤ  ヤ                                              ヤ   ヤ

し「搾取と収奪の結果に反対するだけでなく、その原因を構造的に改良し、生産力や社会生活の発展を民主的に調整し、

改革していくことが現実の日程にのぼっている。従って現代の革命と反革命の関係には、そのイデオ・ギー的正当性の闘

争だけではなく、現実の矛盾を現実的にどのような計画と実践によって解決するのかという間題解決の能力と現実的利益

をめぐる闘争としての性格が発展している」ことをあげている。このことが、 「戦略論的方法」が排されて、現代史研究

の新しい方法論の確立が要請される理由の一つである。

 第二は、第一にのべた闘争の進展を客観的根拠として「階級闘争において変革主体が階層的にも地域的にも多様化して

いること」が理由である。

 そのような現代の特徴は、大衆運動の側面でも新しい力を作りだしている。労働運動、民族解放運動、平和運動など

が、社会主義の課題と結合しながら発展してきたことは言うまでもないが、いわゆる市民運動・住民運動といわれる諸種

の生活擁護・権利拡大のための大衆運動が、反独占↓社会主義への志向をもちはじめていることである。そのことを、私

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説論

は次のように指摘しておいた。「独占の寡頭支配に対する大衆の闘いも、局面を国内に移すだけで、帝国主義にたいする

大衆の闘いと全く同じことである。すでにみたように、大衆運動は大衆にたいするあらゆる抑圧が増大してくるなかで展

開される。したがって、当初から大衆運動が明確な政治目標を設定することは少なく、一般的にいって、自分の身にふり

かかってくる火の粉をはらうような形で、目の前にあらわれた現象そのものを否定するという形で起こる場合が多い。し

かし、大衆は運動を進める過程で、目の前にあらわれた現象そのものが単純にそれを否定するだけで解決しないこと、も

っと深く政治とのつながりを認識した運動を展開せざるをえないことを教えられる。帝国主義的支配、独占の寡頭支配が

大衆を奥深くとりこんでいる今日では、以前とはちがって、もっと早く深く政治を認識できるところに特徴をもってい

る。それが認識でぎれば、単に否定の運動でなく、建設、創造の運動へと質的に飛躍する条件が生れてくる。有害食品を

例にとれば、有害食品を摘発し、買わない、売らない、作らせないという運動のなかで、自らの力で無害食品を作りだす

必要に迫られ、その製造、販売活動を続けるなかで、生産機構そのものについて考えていかざるをえなくなってくるので

ある。すなわち、大衆運動は今日大衆運動が意識しているかいないかは別にして、客観的にはすべて帝国主義支配体制と

独占の寡頭支配に反対する性格を免がれることはできない。『即自的に』ある事象を否定するところから出発する大衆運

動は、結果的に、世界の、国の、地方の政治を問題にするところに行きつかざるをえないのである。今日、大衆運動は量

と質をひろげていくなかで、世界の、国の、地方の政治体制の変革につながっていく性格を必然性としてもっているとい

        ロ

うことができる。」

                           ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ

 山田氏は、したがって、 「我々の言う政治史の政治とは、単に上部構造としての政治ではなく土台と上部構造を含む社

ヤ   ヤ   ヤ  ヤ   ヤ  ヤ   ヤ   ヤ   ヤ   ヤ   ヤ   ヤ  ヤ   ヤ      ヤ   ヤ  ヤ   ヤ   ヤ   ヤ   ヤ   ヤ  ヤ   ヤ   ヤ  ヤ   ヤ  ヤ   ヤ  ヤ   ヤ   ヤ   ヤ

会構成体の発展の原動力であり、かつその発展を規定する階級の総体的運動」であり、これらの「総体的運動」に対する

分析の必要性を強調する。

 このような「現代」のおかれている状況からすると、科学的歴史学が「敗北」の教訓のなかから莫とした「勝利の展

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戦後政治史時期区分試論(→(木下)

望」しか予測できないなら、それはもう科学的歴史学の名に値しないものであり、

かない。

 そういう意味で、東京歴科研の問題提起と共同作業は重要である。

不確かな予想屋の役罰を果すものでし

(1)次注の論文リストを一見してわかるように、東京歴科研は、敗戦から芦田内閣崩壊までの時期を、戦後民主主義革命期と規定す

 る仮説を立てている。従来、この期間、ないしは、ほぼこの期間と前後する時期は、変革期という表現がとられているのであり、

 この革命期ということばにすでに後述する東京歴科研の考えをうかがわせるものがある。

  これまで『歴史評論』に発表された関係論文は、次のようである。

 犬丸義一「戦後目本の国家権力と天皇制」 (一九七〇・十一)

 平田哲男「科学的歴史学としての日本現代史研究」ー新しい政治史の提唱ー(一九七幅・六)

 平田哲男ユ九四六年の政治情勢O」(一九七一・七)

 佐瀬昭二郎「戦後民主主義革命期の歴史的意義」ー統一戦線論の視角からー(一九七一・七)

 東歴研「戦後目本史の通史はどうあるべぎか」1藤井・大江『戦後日本の歴史』批判ー(一九七一・七)

 中西功「一九四五年十月O」iその歴史的事実についてー(一九七一・七)

舗難「戦後民奎義革命期の住暴動饗ノート」ー東京の麩いー(一九七一・七)

 梅田欽治「戦後目本民主主義革命期の歴史的意義」i新憲法体制の成立ー(一九七一・十二)

 梅田欽治「中西功著『戦後民主変革期の諸間題』によせて」(一九七二・十二)

 山田敬男「戦後民主主義革命期の労働運動」1一九四六年六月~四七年四月ー(剛九七三・十二)

 矢部洋三「戦後民主主義革命期の農民運動」1農地改革の視角からー(一九七三・十二)

 佐瀬昭二郎「戦後民主主義革命期の分析視角について」1『シンポジウム日本歴史22「戦後史ヒヘの感想tー(一九七三・十二)

 山田敬男「政治史の方法的発展をめざして」ー現代史研究の立場からー(一九七五・一)

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説論

 柴山敏雄「片山内閣期の政治情勢」 (一九七五・二)

 山田敬男「芦田内閣期の政治情勢」i主に研究の視点といくつかの論点をめぐってー(一九七五・二)

 鈴木しづ子「『昭和五〇年』キャンペ!ンと戦後民主主義」 (一九七五・七)

(2)岡本宏他『現代社会と政治険法律文化社・一四六~一四七頁。

二、批判の具体的作業

                  

                 α

 歴史学研究会・日本史研究会編『講座日本史』(一九七一年・第八巻・日本帝国主義の復活)に対する批判を、平田哲

夫氏が「一九四六年の政治情勢e」で展開している。前に引用したもののなかにすでに具体的批判がでているが、この論

文で展開されている批判をみておこう。

 そこでほ、 「批判の道義とルールにもとる不適切な表現であることを十分承知しているが」とことわりながら、「あま

  ヤ   ヤ   ヤ

りのひどさ」にあきれてしまったという表現である。何に平田氏はあきれているか。それは、まさに「戦略論的方法」で

『講座日本史』の論文が執筆されており、槍丸にあげられているのは、特に、戸木田嘉久「戦後変革と大衆闘争」、松尾

章一「占領下の権力構造」の二論文である。

 ここで平田氏は論文のもつ政治主義的性格を批判し、科学的歴史学として日本現代史研究をみる場合、政治主義的性

格で歴史を総括することは無益でしかないことをのべ、以下のように二論文を批判している。簡単に論点を要約しておこ

うo 

第一に、戸木田氏が設定するように「戦後変革が下からの民主主義的変革たりえなかったのはなぜか」「民主的諸階級

の側に主体的条件においてどのような弱点があったのか」などという問題を問うところからはじめるとすると、平田氏は

一34一

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戦後政治史時期区分試論(→(木下)

「歴史的分析の任務は、たかだか弱点とその反面としての成果とを並列的に指摘することになりさがってしまう」とす

る。

 平田氏は、これに対置して「科学的歴史学の史的分析は、 『敗北』におわらざるをえなかった諸闘争が、歴史の総過程

においてもつ深い意味を問うところからはじまる」とするのである。平田氏は、戸木田氏のような問題設定では、すなわ

ち、先述のような「敗北」におわらざるをえなかった諸闘争が歴史の総過程でもつ深い意味を問わないで、言いかえれば

大衆闘争展開過程をぬきにして歴史の総括をすることは、政治的図式主義・政治的あてはめ主義であるとするのである。

平田氏も指摘しているように、藤井。大江『戦後日本の歴史』に代表される目本政治史の総括の仕方が戦後一貫してもっ

ていたこのような弱点を、戸木田氏が踏んでいることは事実である。平田氏も指摘しているように、戦後日本の政治的出

発点が支配階級の手ににぎられていたことを、主導権として説明していることは、何も説明していないことに等しい。こ

れは、政治史のなかに登場する階級を二色に単純に割りきって、善玉・悪玉と色分けして説明することになる危険を十分

に含んでいる。しかし、平田氏がそれを批判して、抽象的に歴史の総過程においてもつ深い意味を間うという言い方は、

具体的にそれを展開する困難さを思うとき、その具体的展開のされ方まで含めて示さないかぎりまだ不十分である。

 第二に、「進歩と反動の分岐点を『天皇制』にのみさだめているのは明白なあやまり」であるとし、このことが不可避

的に、進歩.自由両党を「支配階級の利益を政治的に代表する政党」として単純化したり、社会党全体にアメリヵ帝国主

義への追随性をみるあやまりとがでてくるとする。このことは、戦後史をみていく場合、わたくしどもがたえず悩まされ

つづけてきた間題である。一般的に言ってもブルジョア階級の階級的立場を代表する政党が、その階級的立場をストレ!

トに「出さない」し、「出せない」ことは事実であり、それは階級的機能と社会協調的機能として説明される。しかし、

特に戦後初期の日本政治史の展開は、ブルジョア政党の主体性の未確立とそれからくる自信のなさからと、対立する国際

。国内情勢の客観的事態から、とても主張をストレートに出せない情況におかれていたことも事実である。また、社会

一35一

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説論

                (1》

主義政党の側にも重大な欠陥があった。この辺の複雑な情況を、単調に割りきうてしまうことは、主要な基調を説明する

場合には見落してはならないことはもちろんだが、それほど単調でないことも事実である。

 この辺の事情が、今日まで『戦後日本の歴史』に代表されるような形で説明されてきて、戦後史に関する論文が、いつ

も大衆闘争の勝利を語りながら、読後、現実との剰離にむなしくなったり、現実には実現していない勝利の予測に裏切ら

れたりということにつらなっていることは、明白な事実である。

 第三には、食糧問題の深刻さを「危機的状況の底流」としてしか把握していないために、食糧問題が主要な矛盾に転化

する事態をとらえることができないとしている。

 第四には、具体的事実のからみあいのなかで歴史的必然性を明らかにするのでなく、 「歴史的必然であった」とか「必

然の帰結であった」とか断じていると平田氏は主張している。

 第五に、「民主的諸改革」に関して、占領軍の力を「基本的」としてとらえ、日本人民の力を「反映」としてとらえて

いるとする点である。平田氏は、これでは「歴史をつき動かしていく基本的な力を見出す努力を放棄していると批判され

ても抗弁することはできないであろう」としている。

 以上が、戸木田氏に対する平田氏の批判であり、平田氏は、戸木田論文は「まさに『戦略論的方法』そのもの」という

のである。戸木田論文は、この従来の歴史の叙述をふんでいることは事実であるように思われる。

 次に、松尾論文についての平田氏の批判は痛烈である。平田氏は、 『日本資本主義講座』にたいする政治的・学間的批

判に松尾氏は耳をかさず、「『亡霊』にもひとしい論文が、こともあろうに一九七〇年代にどうして登場してきたのか」と

いい、「占領下の権力構造」というタイトルの論文でありながら、およそ権力構造らしきものがあきらかにされていない

し、この論文では、なにも間題が提起されておらず、したがって、なにひとつ問題があきらかにされていないとまで極言

する。その点についての平田氏の批判の当否は別にして、松尾氏に対する批判は次の四点である。

一36一

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戦後政治史時期区分試論e(木下)

第一に、極東委員会の役割の全面的否定評価、第二に、歴史の具体的事実にたいする一面的誇大評価。例えば、平田氏

は次のような例をあげている。「アメリカが戦後日本に注入しようとした『民主主義』は、『反共主義』であった」「米日

独占資本は、『民主主義』の名の下に反民主主義的・反人民的政策をとりつづけた」「大独占資本H財閥の代弁者である

                                レ

自由党」 「反共主義で統一されていた」社会党などとする叙述である。

 第三には・財閥解体についての「左」翼偏向的な評価についてである。この点については従前の批判ともつながってい

るが・占領政策としての財閥解体が、米国への従属的再編成としてのみ評価されている点である。平田氏は、今日では、

「従属的再編成」は・ 「旧日本軍国主義の物質的基盤を解体させるという意昧における民主政策の一貫としての側面」と

「特殊日本的形態の旧日本独占資本の前近代性を解体させるという立目心味における民主化政策の一環としての側面」からす

すめられたことはもはや常識であるとする。

 問題は・解体・民主化↓従属的再編成という場合、解体・民主化という政策は、そのままの形では従属的再編成が不可

能であったので・もっぱら従属的再編成のために行なわれたとするのか、解体.民主化に一定の意味が独自的に与えら

れ・従属的再編成は・その解体・民主化の一つの結果である、すなわち、解体.民主化はちがったいくつかの結果をも音心

図しているとみるかどうかという点である。この点については、後に論じよう。

 第四に幣原内閣と・吉田内閣との質的相違を松尾氏がみることができないので、当時の共産党の理論家の論文を注釈な

く引用している点を批判する。平田氏もいうように、第一次吉田内閣を幣原内閣の延長線上に評価すること自体、かなら

                                                  ハ レ

ずしもあやまりといえるほど質的相違をみる見方が確立している訳ではないが、問題点であることはたしかである。

 以上・平田氏の批判を紹介したところからもわかるように、論点はすべて戦後史論争の評価にかかわる重大な問題であ

るの

 特に平田氏が戸木田氏を批判している第一の論点に関わる部分を、『シソポジウム日本歴史22「戦後史」』(以下『戦後

一3アー

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説論

史』と略)についての佐瀬論文でもう少し具体的に見ておこう。

                 ②

 もちろん、この『戦後史』も、佐瀬昭二郎氏は「方法論上の基調もやはり、戦略論的であるといわざるを得ない」もの

であるとしているのであるが、 「本書はそれを克服しようとするさまざまの契機をも含んでお」るとする立場に立って、

評価を加えようとする。その点で具体的にここにあげられているいくつかの問題が、東京歴科研の戦後史分析の方法を示

している。その前に、一つつけ加えておかなければならないことは、「とくに七三年に入ってからの時期にこそ、いわゆ

る七〇年代闘争の諸特微がとくに明瞭に、急速な政治的諸局面の展開のなかにあらわれてきている事情」がこの方法論の

前提にあり、その前提は全く正しいと思われることである。そういう意味で『戦後史』が刊行された七一年秋から数えて

も二年がすぎているので、 「本書にとって一つの不幸であるかもしれない」と云う。しかし六〇年代後半からこれらの情

勢の諸特徴はあらわれてきているのであり、むしろ問題は、そういう情勢の考慮の上に科学的歴史学をくみ立てる努力

が、戦略論的方法の上では欠落していたことの方が重大な問題であるといわざるをえないだろう。

 ところで、佐瀬氏の評価している第二報告(藤原彰「占領下の改革」)に注目しよう。ここでは、たしかに従来の諸見

                                         (4)

解が、一〇月-二ニストにいたる人民闘争の高揚を「政治的空白期」(佐瀬論文は政権空白期)に比していちじるしく低

い評価しか与えてこなかったのに対して、「片山内閣期を戦後民主主義創出とのかかわりで積極的に評価しようという新

しい論点を提出している」として評価の対象にしている。それは、藤原氏によると「片山内閣のとぎの諸改革が戦後改革

の具体的内容」であり、「これが現在まで残って、民主化のトリデになっている法律で」あるという点である。ここに、

「戦後史」評価の佐瀬氏の具体的基軸をわれわれはみることができる。それは、片山内閣が従来労働者の闘争をにぶらせ

る幻想性の側面からもっぽら位置づけられてきたのに対し、片山内閣のもっていた「改良」的性格から「よりましな政府

への転化の可能性」をさぐることにも重要な意味を持たせようとする試みである。そして、そのことは、戦後の政治的争

一38一

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戦後政治史時期区分試論(→(木下)

点の基軸は、「社会主義か帝国主義か」もしくは「帝国主義か民主主義か」という点からみていかなければならないとす

る考え方につながっていくのである。それは、藤原氏が、「片山内閣が許容できる限度で、いわば片山内閣にみられるよ

うな線が占領政策における限界である。また力関係からいっても、そのとぎの目本の大衆運動がかちとりえた限度だと思

います」という評価によると、 「片山内閣期に形成された民主主義をこえる、より民主的な諸制度を実現する可能性は存

在せず、また片山内閣の限界をこえるような民主的政府を樹立する可能性は存在しなかったということになる。占領下に

おける変革の可能性をなぜこのように狭い枠におしこめてしまうのか」、それは、佐瀬氏によると、藤原氏が戦後民主主

義革命期の評価の基軸を「社会主義か帝国主義か」においていることにあると考えているのである。

 小稿「炭鉱国管法」は、例えば「新内閣は社会党首班とはいえ、その政策は四党政策協定にしばられ、社会党が公約し

た『重要産業の国有国営』や『最低賃金制』はおろか、『戦時公債の利払い停止』ていどのことさえもしないことになっ

ていた。要するにこの内閣は、労働者階級に幻想をあたえ、社会党が労働運動の指導権を共産系からうばい、内閣そのも

のが昂揚した労働攻勢にたいする資本の防波堤となり、その間に独占資本を再建する任務をマッカーサー及び財界、保守

党から背負わされたのである。そのことは四党政策協定にも、『超重点産業政策』、 『企業者と労働者の積極的な自主的

            (5)

協力』などと表現されていた」とする評価に代表される従来の見方に一つの疑問をもつところから出発している。これほ

ど端的に、片山内閣に政治的評価を与えるのは、共産党中央委員会政治局アピール(一九四七年八月)「新しい人民闘争

を前に全党員に訴う」が、社会党がすでに人民の信頼を失いつつあることに注目し、社会党の影響下にある人々の社会党

に対する信頼感を打ちこわすことによって階級的にめざめさせることを訴える従来の対応がいささかも変化していないこ

となどが基軸であろう。山川均が「社会党は支持すべぎか」の中でのべている見解について、考慮を払わなければならな

いことについての指摘である。山川の指摘は「社会党単独内閣の線にまで左によせられる」という限界はもっているが、

次のように言う。 「この中間段階(旧支配勢力との連立“筆者注)を通過することが、げんざい与えられた条件のもと

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説論

でーそれはきゅうきょくは階級間の相対的な勢力の現在の関係のもとではということに帰着するーさけがたい道程だとす

るならば、政権が自由”民主両党の連立から社会n民主両党の連立にうつったことは、政治勢力の均衡点が、そして政権

の重心点の所在がそれだけ左の方向へ動いたことを意味する。そしてこの政権移転の過程をできうるかぎり、急速に完

了させる方法はi平和革命の仮定のもとで、そして政治上、社会上、国際関係の上の条件に重大な変化がおこらぬ限り

ーまず第一には、少しばかり左にずれたこの新しい重心の位置をしっかりと確保すること、次には、さらに左の方向に

                    (6)

それを推しすすめることいがいにはありえない」という。少なくとも社会党を第一党の位置に押しあげたのは、民衆の力

であり期待であったのは間違いのない事実であり、その背景で形成された内閣の施策を全面否定的に解釈するのは間違い

であろう。とくに民衆は、その中で実現した諸権利を武器にすることを身につけ、一九七〇年代に「ブルジョア革命的」

性格の権利武装と闘いを展開しているのであり、歴史の上で一つ一つは「敗北」にみえる闘いが、次の闘いを準備してい

く糧になっているのである。それを見ない評価は、六〇年代後半からあらわれた「民主主義ナンセンス」 「戦後民主主義

虚妄」論と同じ誤りを犯しているのである。これらの論義が一時期一定の同情者を確保したことは事実であるが、心情的

非科学的な論義であったことは明白である。

 『戦後日本の歴史』で、この片山内閣に関する評価の部分をみてみよう。「総選挙で社会党に投票した大衆の要求は、社

会主義的政策の実現にあった。片山内閣は、社会主義的よそおいで国民の抵抗をなだめながら、日本独占資本の回復をさ

さえ、目本の資本主義を危機から救いつつ、冷戦政策下の占領政策の転換を円滑にする露払いの役割をはたすことになっ

    (7)

たのである」というのがそれである。これなども典型的な「戦略論的」評価であるといえよう。

 片山内閣に関していえば、内務省・司法省解体、国家公務員制度創設、独占禁止法による財閥解体、農地改革推進、

労働省設置、失業保険創設、児童福祉法制定、刑法・民法改正などを行なっている。もちろん、それらが片山内閣の全

面的功績でもないし、それ以後の民主的運用が民衆の運動を背景にしていることは云うをまたない。しかし、これらの功

一40一

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戦後政治史時期区分試論O(木下)

績が、炭鉱国管法や類似の政治的妥協、また「社会主義的政策らしきもの」の不実行などによって、あまりにも政治主義

的に否定的側面ばかりが強調される。だとすると、一体民衆はその時役立たずでなにもしていなかったのか。それとも片

山内閣などとは全く関係のないところで運動を進めていたのであろうか。決してそうではない。それらの民衆の側の運動

についての評価が加わらなければ科学的な歴史学としての意味を持たないであろう。

                 の

                 (

 つぎには、これらの従来の作業に対する批判を通じて、新らしく試みられている作業として公表されている論文につい

てみておこう。先にあげたように、この作業はすでに幾つかあるが、ここでは柴山敏雄『片山内閣期の政治情勢』と山田

敬男『芦田内閣期の政治情勢』とについて少し詳しく検討しておこう。

 まず片山内閣の評価については、すでにのべたように従来の研究は、人民に対する幻想を与えながら独占資本主義復活

の道ならしをしたとする評価が一般で、その意味では、芦田内閣と特別に異ったところのない「中道政権」として考えら

れてぎたといっても過言ではないであろう。したがって、 「片山内閣のもつ『改良』的性格やこの時期の人民闘争の可能

性についてはほとんど間題にならな」いできた。柴山氏は、従来のこのような方法に対置して「片山内閣を成立させた政

治情勢の諸特徴を明らかにしつつ、片山内閣の『改良』的性格の内容とこの時期の人民闘争の可能性がどのように存在し

ていたのか、片山内閣が社会主義的政策を実現するのかそれとも独占資本の政策を実現するのかという観点ではなく、よ

り民主的な統治形態、よりましな政策を実現させ、片山内閣を『よりましな政府』に転化させる可能性が人民闘争との関

係でどのように存在しているかを考察してい」くことに課題を設定している。こういう視角の提起は、このことを一面的

に強調すると問題であることは必然であるが、少なくとも、これまでの研究動向を見るとき、欠けていた評価の基軸であ

りまさに「戦略論的方法」に対する対照的なアソチテーゼになっている。論文内容について詳述している余裕はないが、

そういう視角から、片山内閣の改良的性格に注目して、柴山氏はその改良的性格の二つの側面を指摘する。

一41一

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説論

 改良的性格の二つの側面とは、 「労使協調による資本家的経済復興をおしすすめ資本家階級の要請に道を開く改良主義

的な側面」と「労働者階級の闘争の発展によって戦後民主主義の実体を形成し労働者階級のヘゲモニーによる民主的経済

復興をおしすすめうるようなよりましな政府に転換しうる側面」である。片山内閣は、この二つの性格をもっていたが、

炭鉱国管法が骨抜きにされていく過程で民主党のヘゲモニーが確立したことによって、片山内閣の経済政策の反動的性格

の最終的確定と、よりましな政府への転化の可能性が基本的に消滅したと柴山氏は指摘する。したがって、以後は片山内

閣に対する人民闘争の課題も変化してくるのであり、それは内閣総辞職・総選挙による民主政府の樹立になるとするので

ある。

 この指摘は、明らかに従来の研究が、社会党首班内閣への労働者の配慮が作りだす闘争のほこ先のにぶりを利用し、労

働者の闘争を抑制する機能を利用して、GHQ・保守党が、社会党首班内閣に課した資本主義復興の基盤整備に結果的に

奉仕した片山内閣、という基調で貫かれてぎた研究傾向に対する修正である。こういう研究方法が、初期占領期間中、す

なわち戦後民主主義的変革期分析の上で占める位置は高いと考える。そういう方法が駆使されることによって、たとえば

第一次吉田内閣の成立を第一次小転換、二・一スト中止命令を第二小転換、片山内閣の崩壊を大転換として時期区分のメ

ルクマールにしていく意義が明白になる。それは、占領権力・政府・資本の側と、人民闘争の側との相互連関を明らかに

することのできる方法であり、同時に総合的評価の基軸を鮮明にすることにもなるのである。

 山田氏の指摘も同様である。氏の論文からそのまま引用しておこう。

 「これまでの芦田内閣期の研究は、占領政策の転換や外資導入による日本資本主義の再建等、反動的政策がいかに予定

通りに貫徹されたかを基軸とする傾向が強い。また芦田中道政権の吉田保守政権への移行もあらかじめ占領軍や目本の支

配階級の計画のなかにあって、中道政権が無事に任務を完了し、やがて第二次吉田内閣に移行するとの見解が一般的傾向

のように思われる。しかし、このような視角で、政治危機が深化し様々な可能性の討議が発展するこの時期の政治情勢を

一42一

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戦後政治史時期区分試論(→(木下)

的確に把握することが出来るであろうか。」とする疑問を提起し、コ九四八年前半の政治情勢の特質は、片山内閣の崩

壊によって中道政権崩壊の危機が成立し、次の芦田内閣に対抗する三月闘争から六・七月の諸闘争への発展の中で、上層

の危機が一段と深化し、芦田内閣の危機が頂点に達するところにある。この危機の発展は、中道政権によって占領政策の

転換と従属的日本資本主義の再建を意図する占領軍や日本の支配階級の政権構想の危機であった。この危機の形成過程

は、一九四七年片山内閣の成立によって後退を余儀なくされた統一戦線運動や人民諸闘争が、再び戦闘力を回復しその可

能性を発展させながら危機の進行を促進させていく過程であった」と評価を加える。勿論「戦略論的方法」に対する批判

は、その方法で欠落していた人民諸闘争に対する評価を浮き上らせようとすることを必然的に含んでいる。したがって、

実際以上に人民諸闘争を評価しすぎる危険が皆無とはいえない。前掲諸論文について、以上の疑問を持たない訳ではない

が、当面は保留しておきたい。ともあれ、山田氏は以上のような立場から、「芦田内閣から第二次吉田内閣への移行過程

を、支配階級の意図実現としてのみ説明する結果論的な、または予定調和論的なこれまでの傾向を批判し、新しい研究の

視点を検討することを課題としている」とする立場でこの論文を展開している。

 もはや、東京歴科研の「戦略論的方法」に対する批判および克服のための作業の方向は明らかであろう。問題は、その

具体化の作業である。 「戦略論的方法」批判の内容の紹介は終るが、この前掲二論文で展開されている内容と、私自身の

これまでの作業とを点検する次の作業に入ることにする。

(1)その辺の事情については、私も何度か論じてきた。例えばそれは、木下「憲法制定史の中の天阜制」ーその二ー『九大法学』第

 一四号五頁ー八頁。当時の社会主義政党による理論酌分析についての重大な欠落部分、天皇制の変化と革命図式とを直結する誤り

 などについては上田耕一郎『戦後革命論争史』 (上)一〇五頁など。占領軍権力の「民主化」作業が全ての政党が予見する線をは

 るかにこえたことなどを考えれば、特に保守党の対応がどぎまぎしていたことは当然といえる。

 「民主化」という場合、そこでカッコをつけて使われる意味は、本来的にその政策が真実民主化を志向していたという意味ではな

一43一

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説論

く、政策は真実の民主化を意映してはいないが、それ以前のあまりにも反動的な旧来の(日本の)政策に対しては客観的にはそ

の政策が民主的な内容をもっている、という意味につかわれてきたといっていいであろう。

 そういう意味での「民主化」の時期には、まだ戦後日本の占領政策は十分な方向性をもちえていなかった。すなわち、 「民主

主義的傾向の復活強化」 (ポ宣言)という政策全体のなかで、運動の側からするとその「復活強化」に追いつくのがせいいっぱ

いで、例えば次のような評価すら生れてくるのである。

 「過去一年の革命は、われわれによってではなく、むしろ、マ司令部を本営として、進行せしめられた。われわれも大いに奮

進はした。しかし、われわれは追随に堕し、時には落伍に甘んじ、われわれが一歩先んじた時には、われわれは進みすぎてい

た。….そのためにブレーキをかけられた」『人民評論』一九四六年八月号の松本慎一論文(九頁)。

 しかし、運動の側がその「復活強化」で意図されていた占領政策の内容を超えようとした時には、当然占領政策は自らの考え

の範囲内に運動を閉じこめようとする。では、一体.「復活強化」で意図していた占領政策の内容”というものが、当初から存

在したのかどうかということが「占領政策の転換」を問題にする場合に論点になる。もともと一貫した占領政策が存在しなかっ

たのであれば、 「転換」といわれるような事態は起りようがないのである。しかし、同時に一定の政策の中に意図された大枠が

ないということは不自然であり、特にそれが「占領」政策である限り、自らに敵対する、ないしは対立すると考える政治勢力の

政権獲得をも許容するほどに寛大であることはない。したがって、運動の側が占領政策の意図に障害となるまで成長したと判断

される事態を作りだしたとき、占領政策は、運動の側にとって変更されたとみえる対応をとりはじめるとみるのが至当ではない

だろうか。

 「民主主義的傾向の復活強化」「正当に選挙された国民の代表にょる政府の選出」などという表現は、それ自体極めて抽象的

なものであって、アメリカンデモクラシーの枠をこえるものでもなんでもない。したがって、占領政策にとって、反民主主義的

なるものの解体↓民主化という方向は当然の措置であって、それが主観的に占領政策の枠と考えられる範囲に収まっている限り

                                                     ヤ  ヤ  ヤ

は、何らの干渉を行なわないし、むしろ奨励しているのは当然である。ところが運動の側がこの枠と考えられるものを、彼らの

主観で超えたと判断した時は、干渉がはじまるのである。従って客観的に考えると、その政策の変更がいわば「正当」であるか

一44一

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戦後政治史時期区分試論O(木下)

 どうかは全く別の間題であるといえる。むしろ、われわれの間題とすべぎは、政策変更のための主観的判断が、客観的に正当であ

 るかどうかであろう。

  占領期についての時期区分は、このような占領権力の主観的判断、運動の客観的条件の確定などを材料にして行なわれなければ

 ならない。単に占領政策の転換ということだけで片づけられない。ところが、これまでは、概ね占領権力の側に時期区分の主軸を

 設定してきていて、ためにそこでの運動の力量についての評価を無視もしくは軽視Lて、時期区分が試みられてきた。したがって、

 イニシァティブは絶えず占領権力の側にあり、運動の側の敗北の連続が結果的にそこで記録され、叙述としては、 「必ず障害をこ

 えて民衆は勝利するであろう」というような非科学的な総括が行なわれるということにつらなっているのである。問題は、やはり

 戦後史の一っ一つの時期に、権力の志向と状況、それに対応する運動の全体的状況把握を基礎にしてエポックメーキングを決定し

 ていくことが必要である。その場合の視点は、もちろん、歴史を決めていく民衆の運動への参加、政治的意思表示の方法、形態、

 権利感覚などを基軸にすえることが重要である。

(2)たしかに、アメリカは目本に、結果として、反共主義を押しつけたが、当初からそうであったか、アメリヵが単一の反共主義の

 押しっけで】致していたかというと、そうではないことは明白である。松尾氏のような表現からは、敗戦までの日本の反動性、ニュ

 ーディーラーの一定の影響力、とくに日本の民衆の民主主義擁護の運動などについての評価が完全に欠落してしまうことになる。

  社会党についても、社会党が反共主義で統一されていたかというと、基本的にはそうであろうが、そういういい方で単純化する

 誤りも明白である。左派の存在や民衆の運動が社会党の行動枠を拡げる問題は、歴史の中で何度も生起しているのである。

  例えば木下「政治的空白期」『法政研究』第三三巻第一号二一頁ー一一六頁及び「炭鉱国管法」『法学論集』第七巻第二号一

  一〇頁以下参照。

(3) 「政治的空白期」について、私自身は、従来の研究では評価が不足していると考えている。もちろん「政治的空白期」について

 の論争・評価が鮮明になるほど、研究が行なわれていないことを認めての上である。かつて、私はそのことについて、前掲論文で

 次のように指摘しておいた。 「ここ(『目本資本主義講座』狂巻服部之総論文)で言っている空白は政府空白の意味である。政府

 空白は明らかにこの時期の政治勢力の力のバランスがとれていたこと(政治的空白期の前段では、この勢力関係を打ち破る政策が

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説論

 打ち出せない雰囲気にあった)から生れている。日本の政治(具体的な政策実行)は放棄されていたに等しい。従って、それを客

 観的に眺めるなら、政治は空白であった。しかし、内実は、将に次の胎動を秘めて、各政治勢力の権力把握をめぐる政治は充実し

 て行われていたと言っていい。」(八四頁)。

  また幣原の天皇による任命と異って、吉田は、占領権力の援護をうけて組閣に成功する。このことを占領政策転換の一つのパイ

  冒ヅト・ランプとみるかどうかという問題も存在している。

(4)政権空白期という表現は、当然「政治空白」期が政治の空白を意味するようにとれるので、むしろ「政治充実」の事実を表現す

 る用語として使われていると思われる。しかし、私は、すでに「政治的空白期」の中で指摘しておいたように、政権空白期という

 言葉を使っても、類似の事態は外にもあり、必ずしも適当な用語とは考えられない。

(5)引用文は井上清『戦後目本の歴史』七四頁。藤井松一他『目本現代史』一八三~四、一八九頁も同様な評価。歴研編『戦後日本

 史』〇一八七~一八八頁、清水慎三『戦後革新勢力』二一三~三頁も若干ニュアンスは異るがほぼ同じ評価であるとみていいであ

 ろう。

(6)『前進』一九四七年一〇月号。なお執筆は九月四日。

(7)上巻九一~九二頁、一九七〇年七月刊、青木書店。

一46一