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争争争争争争争 争争争争争 誰誰誰誰誰誰 一、一、一――誰 誰 誰 誰 、。、、――誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰 「、。 誰誰 、。 誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰 、。 争争誰誰誰誰誰誰誰誰誰 争争争誰誰 、。 誰誰 誰 誰誰誰誰誰誰誰誰誰 、。 誰誰誰 「、 誰誰誰 /\、一。 誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰 ……誰 誰誰誰誰……誰誰誰誰誰誰誰誰誰 誰誰誰誰誰誰誰誰 「」 誰誰 ……誰誰……誰誰誰誰 誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰 。。 ―― 誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰 、、。 誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰 。。、。一。、。 争争争争誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰 、。、 争争誰誰誰誰誰 誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰 、、、。 ――誰 誰 誰 誰 、、。 誰誰誰誰 誰誰 誰誰誰誰誰誰 誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰 、。 誰 誰誰 「、 誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰 、、、。 争争誰誰 誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰 。、「

争われない事実 / Takiji Kobayashi

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争われない事実

小林多喜二

  誰よりも一番親孝行で、一番おとなしくて、何時でも学校のよく出来た健吉がこの世の

中で一番恐ろしいことをやったという――だが、どうしても母親には納得がいかなかっ

た。見廻りの途中、時々寄っては話し込んで行く赫ら顔の人の好い駐在所の旦那

が、――「世の中には恐ろしい人殺しというものがある、詐偽というものもある、強盗と

いうものもある。然し何が恐ろしいたって、この日本の国をひッくり返そうとする位おそ

ろしいものがないんだ」と云った。

  矢張り東京へ出してやったのが悪かった、と母親は思った。何時でも眼やにの出る片方

の眼は、何日も何日も寝ないために赤くたゞれて、何んでもなくても独りで涙がポロポロ

出るようになった。

 かど角 屋の大きな荒物屋に手伝いに行っていたお安が、兄のことから暇が出て戻ってき

た。

「お安や、健は何したんだ?」

  母親は片方の眼からだけ涙をポロ/\出しながら、手荷物一つ持って帰ってきた娘にき

いた。

「キョウサントウだかって……」

「な何にキョ……キョ何んだって?」

「キョウサントウ」

「キョ……サン……トウ?」

  然し母親は直ぐその名を忘れてしまった。そしてトウトウ覚えられなかった。――

  小さい時から仲のよかったお安は、この秋には何とか金の仕度をして、東京の監獄にい

る兄に面会に行きたがった。母と娘はそれを楽しみに働くことにした。健吉からは時々検

印の押さった封緘葉書が来た。それが来ると、母親はお安に声を出して読ませた。それか

ら次の日にモウ一度読ませた。次の手紙が来る迄、その同じ手紙を何べんも読むことにし

た。

                  *

  とり入れの済んだ頃、母親とお安は面会に出てきた。母親は汽車の中で、始終手拭で片

方の眼ばかりこすっていた。

  何べんも間誤つき、何べんも調らべられ、ようやくのことで裁判所から許可証を貰い、

刑務所へやってきた。――ところが、その入口で母親が急に道端にしゃがんで、顔を覆っ

てしまった。妹はびっくり吃驚 した。何べんもゆすったが、母親はそのまゝにしていた。

「お母ッちや、お母ッちゃてば!」

  汽車に乗って遥々と出てきたのだが、然し母親が考えていたよりも以上に、監獄のコン

クリートの塀が厚くて、高かった。それは母親の気をテン倒させるに充分だった。しかも

その中で、あの親孝行ものゝ健吉が「赤い」着物をきて、高い小さい鉄棒のはまった窓を

見上げているのかと思うと、急に何かゞ胸にきた。――母親は貧血を起していた。

 「ま、ま、何んてこの塀! とッても健と会えなくなった……」

  仕方なくお安だけが面会に出掛けて行った。しばらくしてお安が涙でかたのついた汚い

顔をして、見知らない都会風の女の人と一緒に帰ってきた。その人は母親に、自分たちの

している仕事のことを話して、中にいる息子さんの事には少しも心配しなくてもいゝと

云った。「救援会」の人だった。然し母親は、駐在所の旦那が云っているように、あんな

恐ろしいことをした息子の面倒を見てくれるという不思議な人も世の中にはいるもんだと

思って、何んだか訳が分らなかった。然しそれでも帰るときには何べんも何べんもお辞儀

した。――お安は長い間その人から色々と話をきいていた。

  母親はワザ/\東京まで出てきて、到々自分の息子に会わずに帰って行った。

「お安や、健はどうしてた……?」

  汽車の中で、母親は恐ろしいものに触れるようにビクビクしながらきいた。

「何んぼ働いても食えない村より、あこはウンと楽だって、笑っていたよ。――帰るとき

まで、お母アにたッしゃでいてけろと……」

  母親はたった一言も聞き洩さないように聞いていた。――それから二人は人前もはゞか

らずに泣出してしまった。

                  *

  それから半年程して、救援会の女の人が、田舎から鉛筆書きの手紙を受取った――それ

はお安が書いた手紙だった。

  あなたさまのお話、いまになるとヨウ分りました。こちらミンナたッしゃです。あれか

らこゝでコサクそうぎがおこりましたよ。私もやってます。あなたさまのお話わすれませ

ん。兄さんのことはクレグレもおたのみします。母はまだキョウサントウと云えません

よ。まだ自分のむすこのことが分らないのです。元気でいて下さい。――云々。

  救援会の人は手紙を前にしばらくじッとしていたが、そこに争われない事実を見たと

思った。

――一九三一・八・一七――

底本:「日本プロレタリア文学集・20  「戦旗」「ナップ」作家集(七)」新日本出版社

      1985(昭和 60)年 3月 25日初版

      1989(平成元)年 3月 25日第 4刷

底本の親本:「小林多喜二全集第三巻」新日本出版社

初出:「戦旗」

      1931(昭和 6)年 9月号

 入力:林 幸雄

校正:ちはる

2002年 1月 14日公開

2005年 12月 12日修正

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(   http://www.aozora.gr.jp/   )   で作られま

した。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

●表記について

このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。

「くの字点」は「/\」で表しました。

傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。

蟹工船

小林多喜二

                一

「おい地獄さえ行ぐんだで!」

  二人はデッキの手すりに寄りかかって、かたつむり蝸牛 が背のびをしたように延びて、海を

かか抱 え込んでいる

はこだて函館 の街を見ていた。――漁夫は指元まで吸いつくした

たばこ煙草 を

つば唾 と一緒に捨てた。巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い

サイド船腹 を

すれずれに落ちて行った。彼はからだ身体 一杯酒臭かった。

  赤い太鼓腹をはば巾 広く浮かばしている汽船や、積荷最中らしく海の中から

かたそで片袖 をグ

イと引張られてでもいるように、思いッ切り片側に傾いているのや、黄色い、太い煙突、

大きな鈴のようなヴイ、ナンキンむし南京虫 のように船と船の間をせわしく縫っているランチ、

寒々とざわめいている油煙やパンくず屑 や腐った果物の浮いている何か特別な織物のような

波……。風の工合で煙が波とすれずれになびいて、ムッとする石炭の匂いを送った。ウイ

ンチのガラガラという音が、時々波を伝ってじか直接に響いてきた。

  この蟹工船博光丸のすぐ手前に、ペンキのは剥げた帆船が、へさきの牛の鼻穴のようなと

ころから、いかり錨 の鎖を下していた、甲板を、マドロス・パイプをくわえた外人が二人同

じところを何度も機械人形のように、行ったり来たりしているのが見えた。ロシアの船ら

しかった。たしかに日本の「蟹工船」に対する監視船だった。

「おい俺 らもう一文も無え。――

くそ糞 。こら」

  そう云って、身体をずらして寄こした。そしてもう一人の漁夫の手を握って、自分の腰

のところへ持って行った。はんてん袢天 の下のコールテンのズボンのポケットに押しあてた。

何か小さい箱らしかった。

  一人は黙って、その漁夫の顔をみた。

「ヒヒヒヒ……」と笑って、「はな花札よ」と云った。

  ボート・デッキで、「将軍」のようなかっこう恰好 をした船長が、ブラブラしながら煙草を

のんでいる。はき出す煙が鼻先からすぐ急角度に折れて、ちぎれ飛んだ。底に木を打った

ぞうり草履 をひきずッて、食物バケツをさげた船員が急がしく「おもて」の船室を出入し

た。――用意はすっかり出来て、もう出るにいいばかりになっていた。

 ざつふ雑夫 のいるハッチを上から

のぞ覗 きこむと、薄暗い船底の

たな棚 に、巣から顔だけピョコ

ピョコ出す鳥のように、騒ぎ廻っているのが見えた。皆十四、五の少年ばかりだった。

「お前はどこ何処だ」

「××町」みんな同じだった。函館の貧民くつ窟 の子供ばかりだった。そういうのは、それだ

けで一かたまりをなしていた。

「あっちの棚は?」

「南部」

「それは?」

「秋田」

  それ等は各 棚をちがえていた。

「秋田の何処だ」

 うみ膿 のような鼻をたらした、眼のふちがあかべをしたようにただれているのが、

「北秋田だんし」と云った。

「百姓か?」

「そんだし」

  空気がムンとして、何か果物でも腐ったすッぱい臭気がしていた。漬物を何十たる樽 も

しま蔵 ってある室が、すぐ隣りだったので、「糞」のような臭いも交っていた。

「こんだおど親父抱いて寝てやるど」――漁夫がベラベラ笑った。

  薄暗いすみ隅 の方で、

はんてん袢天 を着、

ももひき股引 をはいた、風呂敷を三角にかぶった女

でめん出面 らしい母親が、

りんご林檎 の皮をむいて、棚に腹ん

ば這いになっている子供に食わして

やっていた。子供の食うのを見ながら、自分ではむ剥いたぐるぐるの輪になった皮を食って

いる。何かしゃべったり、子供のそばの小さい風呂敷包みを何度も解いたり、直してやっ

ていた。そういうのが七、八人もいた。誰も送って来てくれるもののいない内地から来た

子供達は、時々そっちの方をぬすみ見るように、見ていた。

  髪や身体がセメントの粉まみれになっている女が、キャラメルの箱から二粒位ずつ、そ

の附近の子供達に分けてやりながら、

「うちの健吉と仲よく働いてやってけれよ、な」と云っていた。木の根のように

ぶかっこう不恰好 に大きいザラザラした手だった。

  子供に鼻をかんでやっているのや、てぬぐい手拭 で顔をふいてやっているのや、ボソボソ何

か云っているのや、あった。

「お前さんどこの子供は、身体はええべものな」

  母親同志だった。

「ん、まあ」

「俺どこのア、とても弱いんだ。どうすべかッて思うんだども、何んしろ……」

「それア何処でも、ね」

  ――二人の漁夫がハッチから甲板へ顔を出すと、ホッとした。ふきげん不機嫌 に、急にだまり

合ったまま雑夫の穴より、もっと船首の、ていけい梯形 の自分達の「巣」に帰った。錨を上げ

たり、下したりする度に、コンクリート・ミキサの中に投げ込まれたように、皆はは跳ね上

り、ぶッつかり合わなければならなかった。

  薄暗い中で、漁夫は豚のようにゴロゴロしていた、それに豚小屋そっくりの、胸がすぐ

ゲエと来そうなにお臭 いがしていた。

「臭せえ、臭せえ」

「そよ、俺だちだもの。ええ加減、こったら腐りかけた臭いでもすべよ」

  赤いうす臼 のような頭をした漁夫が、一升

びん瓶 そのままで、酒を端のかけた

ちゃわん茶碗 に

つ注

いで、するめ鯣 をムシャムシャやりながら飲んでいた。その横に仰向けにひっくり返って、

林檎を食いながら、表紙のボロボロした講談雑誌を見ているのがいた。

  四人輪になって飲んでいたのに、まだ飲み足りなかった一人が割り込んで行った。

「……んだべよ。四カ月も海の上だ。もう、これんかやれねべと思って……」

 がんじょう頑丈 な身体をしたのが、そう云って、厚い下唇を時々癖のように

な嘗めながら眼を

細めた。

「んで、財布これさ」

  干柿のようなべったりした薄いがまぐち蟇口 を眼の高さに振ってみせた。

「あのごけ白首、身体こったらに小せえくせに、とても

うめ上手えがったどオ!」

「おい、止せ、止せ!」

「ええ、ええ、やれやれ」

  相手はへへへへへと笑った。

「見れ、ほら、感心なもんだ。ん?」酔った眼を丁度向い側の棚の下にすえて、あご顎 で、

「ん!」と一人が云った。

  漁夫がその女房に金を渡しているところだった。

「見れ、見れ、なア!」

  小さい箱の上に、しわ皺 くちゃになった札や銀貨を並べて、二人でそれを数えていた。男

は小さいてちょう手帖 に鉛筆をなめ、なめ何か書いていた。

「見れ。ん!」

「俺にだってかかあ嬶 や子供はいるんだで」

ごけ白首のことを話した漁夫が急に怒ったように

云った。

  そこから少し離れた棚に、ふつかよい宿酔 の青ぶくれにムクンだ顔をした、頭の前だけを長

くした若い漁夫が、

「俺アもう今度こそア船さ来ねえッて思ってたんだけれどもな」と大声で云っていた。

「周旋屋に引っ張り廻されて、文無しになってよ。――又、長げえことくたばるめに合わ

されるんだ」

  こっちに背を見せている同じ処から来ているらしい男が、それに何かヒソヒソ云ってい

た。

  ハッチの降口に始めかまあし鎌足 を見せて、ゴロゴロする大きな昔風の信玄袋を

にな担 った男

が、はしご梯子 を下りてきた。床に立ってキョロキョロ見廻わしていたが、

あ空いているのを見

付けると、棚に上って来た。

「今日は」と云って、横の男に頭を下げた。顔が何かで染ったように、油じみて、黒かっ

た。「仲間さえ入れて貰えます」

  後で分ったことだが、この男は、船へ来るすぐ前まで夕張炭坑に七年も坑夫をしてい

た。それがこの前のガス爆発で、危く死にそこ損 ねてから――前に何度かあった事だが――

フイと坑夫が恐ろしくなり、やま鉱山を下りてしまった。爆発のとき、彼は同じ坑内にトロッ

コを押して働いていた。トロッコに一杯石炭を積んで、他の人の受持場まで押して行った

時だった。彼は百のマグネシウムを瞬間眼の前でたかれたと思った。それと、そして1/

500[#「1/500」は分数]秒もちがわず、自分の身体が紙ッきれ片 のように何処かへ飛び上っ

たと思った。何台というトロッコがガスの圧力で、眼の前を空のマッチ箱よりも軽くフッ

飛んで行った。それッ切り分らなかった。どの位た経ったか、自分のうなった声で眼が開い

た。監督や工夫が爆発が他へ及ばないように、坑道に壁を作っていた。彼はその時壁の後

から、助ければ助けることの出来る炭坑夫の、一度聞いたら心に縫い込まれでもするよう

に、決して忘れることの出来ない、救いを求める声を「ハッキリ」聞いた。――彼は急に

立ち上ると、気が狂ったように、

「駄目だ、駄目だ!」と皆の中に飛びこんで、叫びだした。(彼は前の時は、自分でその

壁を作ったことがあった。そのときは何んでもなかったのだったが)

 「馬鹿野郎! ここさ火でも移ってみろ、大損だ」

   だが、だんだん声の低くなって行くのが分るではないか! 彼は何を思ったのか、手を

振ったり、わめいたりして、無茶苦茶に坑道を走り出した。何度ものめったり、坑木に額

を打ちつけた。全身ドロと血まみれになった。途中、トロッコの枕木につまずいて、

ともえな巴投 げにでもされたように、レールの上にたたきつけられて、又気を失ってしまっ

た。

  その事を聞いていた若い漁夫は、

「さあ、ここだってそう大して変らないが……」と云った。

  彼は坑夫独特な、まばゆいような、黄色ッぽくつや艶 のない

まなざし眼差 を漁夫の上にじっと

置いて、黙っていた。

  秋田、青森、岩手から来た「百姓の漁夫」のうちでは、大きくあぐら安坐 をかいて、両手を

はすがいにまた股 に差しこんでムシッとしているのや、

ひざ膝 を抱えこんで柱によりかかりな

がら、無心に皆が酒を飲んでいるのや、勝手にしゃべり合っているのに聞き入っているの

がある。――朝暗いうちから畑に出て、それで食えないで、追払われてくる者達だった。

長男一人を残して――それでもまだ食えなかった――女は工場の女工に、次男も三男も何

処かへ出て働かなければならない。なべ鍋 で豆をえるように、余った人間はドシドシ土地か

らハネ飛ばされて、市に流れて出てきた。彼等はみんな「金を残して」くに内地に帰ることを

考えている。しか然 し働いてきて、一度陸を踏む、するとモチを踏みつけた小鳥のように、

函館や小樽でバタバタやる。そうすれば、まるッきり簡単に「生れた時」とちっとも変ら

ない赤裸になって、おっぽり出された。くに内地へ帰れなくなる。彼等は、身寄りのない雪の

北海道で「おつねん越年 」するために、自分の身体を手鼻位の値で「売らなければならな

い」――彼等はそれを何度繰りかえしても、出来の悪い子供のように、次の年には又平気

で(?)同じことをやってのけた。

  菓子折を背負った沖売の女や、薬屋、それに日用品を持った商人が入ってきた。真中の

離島のように区切られている所に、それぞれの品物を広げた。皆は四方の棚の上下の寝床

から身体を乗り出して、ひやかしたり、じょうだん笑談 を云った。

「おがし菓子めえか、ええ、ねっちゃよ?」

「あッ、もッちょこい!」沖売の女がとんきょう頓狂 な声を出して、ハネ上った。「人の

しり尻

さ手ばやったりして、いけすかない、この男!」

  菓子で口をモグモグさせていた男が、皆の視線が自分に集ったことにテレて、ゲラゲラ

笑った。

「このあねこ女子 、

めんこ可愛 いな」

  便所から、片側の壁に片手をつきながら、危い足取りで帰ってきた酔払いが、通りすが

りに、赤黒くプクンとしている女のほっ頬 ぺたをつッついた。

「何んだね」

「怒んなよ。――このあねこ女子 ば抱いて寝てやるべよ」

  そう云って、女におどけた恰好をした。皆が笑った。

「おいまんじゅう饅頭 、饅頭!」

  ずウとすみ隅 の方から誰か大声で叫んだ。

「ハアイ……」こんな処ではめずらしい女のよく通る澄んだ声で返事をした。「なん幾 ぼで

すか?」

「なん幾  ぼ? 二つもあったら

かたわ不具 だべよ。――お饅頭、お饅頭!」――急にワッと笑い

声が起った。

「この前、竹田って男が、あの沖売の女ば無理矢理に誰もいねえどこさ引っ張り込んで

行ったんだとよ。んだけ、面白いんでないか。何んぼ、どうやっても駄目だって云うん

だ……」酔った若い男だった。「……さるまた猿又 はいてるんだとよ。竹田がいきなりそれを

力一杯にさき取ってしまったんだども、まだ下にはいてるッて云うんでねか。――三枚も

はいてたとよ……」男がくび頸 を縮めて笑い出した。

  その男は冬の間はゴム靴会社の職工だった。春になり仕事が無くなると、カムサツカへ

でかせ出稼 ぎに出た。どっちの仕事も「季節労働」なので、(北海道の仕事は

ほと殆 んどそれ

だった)イザ夜業となると、ブッ続けに続けられた。「もう三年も生きれたら有難い」と

云っていた。粗製ゴムのような、死んだ色の膚をしていた。

  漁夫の仲間には、北海道の奥地の開墾地や、鉄道敷設の土工部屋へ「たこ蛸 」に売られた

ことのあるものや、各地を食いつめた「渡り者」や、酒だけ飲めば何もかもなく、ただそ

れでいいものなどがいた。青森辺の善良な村長さんに選ばれてきた「何も知らない」「木

の根ッこのように」正直な百姓もその中に交っている。――そして、こういうてんでんば

らばらのもの等を集めることが、雇うものにとって、この上なく都合のいいことだった。

(函館の労働組合は蟹工船、カムサツカ行の漁夫のなかに組織者を入れることに死物狂い

になっていた。青森、秋田の組合などとも連絡をとって。――それを何より恐れていた)

 のり糊 のついた真白い、

うわぎ上衣 の

たけ丈 の短い服を着た

ボーイ給仕 が、「とも」のサロンに、

ビール、果物、洋酒のコップを持って、忙しく往き来していた。サロンには、「会社の

オッかない人、船長、監督、それにカムサツカで警備の任に当る駆逐艦のおんたい御大 、水上

警察の署長さん、海員組合のおりかばん折鞄 」がいた。

「畜生、ガブガブ飲むったら、ありゃしない」――給仕はふくれかえっていた。

  漁夫の「穴」に、浜なすのような電気がついた。煙草の煙や人いきれで、空気が濁っ

て、臭く、穴全体がそのまま「くそつぼ糞壺 」だった。区切られた寝床にゴロゴロしている人

間が、うじむし蛆虫 のようにうごめいて見えた。――漁業監督を先頭に、船長、工場代表、雑

夫長がハッチを下りて入って来た。船長は先のハネ上っているひげ髭 を気にして、始終ハン

カチで上唇をな撫でつけた。通路には、林檎やバナナの皮、グジョグジョした

たかじょう高丈 、

わらじ鞋 、飯粒のこびりついている薄皮などが捨ててあった。流れの止った

どぶ泥溝だった。監

督はじろりそれを見ながら、無遠慮に唾をはいた。――どれも飲んで来たらしく、顔を赤

くしていた。

「ちょっと一寸 云って置く」監督が土方の

ぼうがしら棒頭 のように

がんじょう頑丈 な身体で、片足を寝

床の仕切りの上にかけて、ようじ楊子 で口をモグモグさせながら、時々歯にはさまったもの

を、トットッと飛ばして、口を切った。

「分ってるものもあるだろうが、云うまでもなくこの蟹工船の事業は、ただ単にだ、一会

社のもうけしごと儲仕事 と見るべきではなくて、国際上の一大問題なのだ。我々が――我々日本

帝国人民が偉いか、露助が偉いか。一騎打ちの戦いなんだ。それにも若し、若しもだ。そん

な事は絶対にあるべきはず筈 がないが、負けるようなことがあったら、

きんたま睾丸 をブラ下げ

た日本男児は腹でも切って、カムサツカの海の中にブチ落ちることだ。身体が小さくたっ

て、野呂間な露助に負けてたまるもんじゃない。

「それに、我カムサツカの漁業は蟹罐詰ばかりでなく、さけ鮭 、

ます鱒 と共に、国際的に云っ

てだ、他の国とは比らべもならない優秀な地位を保っており、又日本国内の行き詰った人

口問題、食糧問題に対して、重大な使命を持っているのだ。こんな事をしゃべったって、

お前等には分りもしないだろうが、ともかくだ、日本帝国の大きな使命のために、俺達は

命を的に、北海の荒波をつッ切って行くのだということを知ってて貰わにゃならない。だ

からこそ、あっちへ行っても始終我帝国の軍艦が我々を守っていてくれることになってい

るのだ。……それを今はや流行りの露助の

まね真似をして、飛んでもないことをケシかけるものが

あるとしたら、それこそ、取りも直さず日本帝国を売るものだ。こんな事は無い筈だが、

よッく覚えておいて貰うことにする……」

  監督は酔いざめのくさめを何度もした。

  酔払った駆逐艦の御大はバネ仕掛の人形のようなギクシャクした足取りで、待たしてあ

るランチに乗るために、タラップを下りて行った。水兵が上と下から、カントン袋に入れ

た石ころみたいな艦長を抱えて、殆んど持てあましてしまった。手を振ったり、足をふん

ばったり、勝手なことをわめく艦長のために、水兵は何度もまとも真正面から自分の顔に「唾」

を吹きかけられた。

「表じゃ、何んとか、かんとか偉いこと云ってこのざま態 なんだ」

  艦長をのせてしまって、一人がタラップのおどり場からロープを外しながら、ちらっと

艦長の方を見て、低い声で云った。

「やっちまうか ……」

  二人は一寸息をのんだ、が……声を合せて笑い出した。

                二

 しゅくつ祝津 の燈台が、廻転する度にキラッキラッと光るのが、ずウと遠い右手に、一面灰

色の海のようなガス海霧の中から見えた。それが他方へ廻転してゆくとき、何か神秘的に、長

く、遠く白銀色のこうぼう光茫 を何

かいり海浬 もサッと引いた。

 るもい留萌 の沖あたりから、細い、ジュクジュクした雨が降り出してきた。漁夫や雑夫は蟹

のはさみ鋏 のようにかじかんだ手を時々はすがいに

ふところ懐 の中につッこんだり、口のあた

りを両手でま円るく囲んで、ハアーと息をかけたりして働かなければならなかった。――納

豆の糸のような雨がしきりなしに、それと同じ色の不透明な海に降った。が、わっかない稚内

に近くなるに従って、雨が粒々になって来、広い海の面が旗でもなびくように、うねりが

出て来て、そして又それが細かく、せわしなくなった。――風がマストに当ると不吉に

鳴った。びょう鋲 がゆるみでもするように、ギイギイと船の何処かが、しきりなしにきしん

だ。宗谷海峡に入った時は、三千トン噸 に近いこの船が、しゃっくりにでも取りつかれたよ

うに、ギク、シャクし出した。何か素晴しい力でグイと持ち上げられる。船が一瞬間宙に

浮かぶ。――が、ぐウと元の位置に沈む。エレヴエターで下りる瞬間の、小便がもれそう

になる、くすぐったい不快さをそのたび度 に感じた。雑夫は黄色になえて、船酔らしく眼だ

けとんがらせて、ゲエ、ゲエしていた。

  波のしぶきで曇った円るいげんそう舷窓 から、ひょいひょいと

からふと樺太 の、雪のある山並の

堅い線が見えた。しか然 しすぐそれはガラスの外へ、アルプスの氷山のようにモリモリとむ

くれ上ってくる波に隠されてしまう。寒々とした深い谷が出来る。それが見る見る近付い

てくると、窓のところへドッと打ち当り、砕けて、ザアー……と泡立つ。そして、そのま

ま後へ、後へ、窓をすべって、パノラマのように流れてゆく。船は時々子供がするよう

に、身体をゆす揺 った。棚からものが落ちる音や、ギ――イと何かたわむ音や、波に横ッ腹

がドブ――ンと打ち当る音がした。――その間中、機関室からは機関の音が色々な器具を

伝って、じか直接に少しの震動を伴ってドッ、ドッ、ドッ……と響いていた。時々波の背に乗

ると、スクリュが空廻りをして、翼で水の表面をたたきつけた。

  風は益々強くなってくるばかりだった。二本のマストはつりざお釣竿 のようにたわんで、

ビュウビュウ泣き出した。波は丸太棒の上でも一またぎする位の無雑作で、船の片側から

他の側へ暴力団のようにあばれ込んできて、流れ出て行った。その瞬間、出口がザアーと

滝になった。

  見る見るもり上った山の、恐ろしく大きな斜面におもちゃ玩具 の船程に、ちょこんと横に

のッかることがあった。と、船はのめったように、ドッ、ドッと、その谷底へ落ちこんで

 ゆく。今にも、沈む! が、谷底にはすぐ別な波がむくむくとた起ち上ってきて、ドシンと

船の横腹と体当りをする。

  オホツック海へ出ると、海の色がハッキリもっと灰色がかって来た。着物の上からゾク

ゾクと寒さが刺し込んできて、雑夫は皆唇をブシ色にして仕事をした。寒くなればなる

程、塩のように乾いた、細かい雪がビュウ、ビュウ吹きつのってきた。それはガラス硝子 の細

かいカケラのように甲板には這いつくばって働いている雑夫や漁夫の顔や手に突きささっ

た。波が一波甲板を洗って行った後は、すぐ凍えて、デラデラにすべ滑 った。皆はデッキか

らデッキへロープを張り、それに各自がおしめのようにブラ下り、作業をしなければなら

なかった。――監督は鮭殺しのこんぼう棍棒 をもって、大声で怒鳴り散らした。

  同時に函館を出帆した他の蟹工船は、何時の間にか離れ離れになってしまっていた。そ

れでも思いっ切りアルプスの絶頂に乗り上ったとき、できししゃ溺死者 が両手を振っているよう

に、揺られに揺られている二本のマストだけが遠くに見えることがあった。煙草の煙ほど

の煙が、波とすれずれに吹きちぎられて、飛んでいた。……波浪と叫喚のなかから、確か

にその船が鳴らしているらしい汽笛が、間を置いてヒュウ、ヒュウと聞えた。が、次の瞬

間、こっちがアプ、アプでもするように、谷底に転落して行った。

  蟹工船には川崎船を八隻のせていた。船員も漁夫もそれを何千匹のふか鱶 のように、白い

歯をむいてくる波にもぎ取られないように、縛りつけるために、自分等の命を「安々」と

か賭けなければならなかった。――「貴様等の一人、二人が何んだ。川崎一

ぱい艘 取られてみ

ろ、たまったもんでないんだ」――監督は日本語でハッキリそういった。

  カムサツカの海は、よくも来やがった、と待ちかまえていたように見えた。ガツ、ガツ

に飢えているしし獅子のように、えどなみかかってきた。船はまるで

うさぎ兎 より、もっと弱々

しかった。空一面の吹雪は、風の工合で、白い大きな旗がなびくように見えた。夜近く

なってきた。しかししけ時化は止みそうもなかった。

  仕事が終ると、皆は「糞壺」の中へ順々に入り込んできた。手や足は大根のように冷え

て、感覚なく身体についていた。皆は蚕のように、各 の棚の中に入ってしまうと、誰も

一口も口をきくものがいなかった。ゴロリ横になって、鉄の支柱につかまった。船は、背

に食いついているあぶ虻 を追払う馬のように、身体をヤケに振っている。漁夫はあてのない

視線を白ペンキが黄色にすす煤 けた天井にやったり、

ほと殆 んど海の中に入りッ切りになって

いる青黒い円窓にやったり……中には、ほお呆 けたようにキョトンと口を半開きにしている

ものもいた。誰も、何も考えていなかった。漠然とした不安な自覚が、皆を不機嫌にだま

らせていた。

  顔を仰向けにして、グイとウイスキーをラッパ飲みにしている。赤黄く濁った、にぶい

電燈のなかでチラッとびん瓶 の角が光ってみえた。――ガラ、ガラッと、ウイスキーの空瓶

が二、三カ所に稲妻形に打ち当って、棚から通路に力一杯に投げ出された。皆は頭だけを

その方に向けて、眼で瓶を追った。――隅の方で誰か怒った声を出した。時化にとぎれ

て、それが片言のように聞えた。

「日本を離れるんだど」円窓をひじ肱 で

ぬぐ拭 っている。

「糞壺」のストーヴはブスブスくすぶ燻 ってばかりいた。鮭や鱒と間違われて、「冷蔵庫」

へ投げ込まれたように、その中で「生きている」人間はガタガタふる顫 えていた。ズックで

おお覆 ったハッチの上をザア、ザアと波が

おおまた大股 に乗り越して行った。それが、その度に

太鼓の内部みたいな「糞壺」の鉄壁に、ものすご物凄 い反響を起した。時々漁夫の寝ているす

ぐ横が、グイと男の強い肩でつかれたように、ドシンとくる。――今では、船は、断末魔

の鯨が、荒狂うはとう波濤 の間に身体をのたうっている、そのままだった。

「飯だ!」まかない賄 がドアーから身体の上半分をつき出して、口で両手を囲んで叫んだ。

「時化てるから汁なし」

「何んだって?」

「腐れ塩引!」顔をひっこめた。

  思い、思い身体を起した。飯を食うことには、皆は囚人のような執念さを持っていた。

ガツガツだった。

  塩引の皿を安坐をかいた股の間に置いて、湯気をふきながら、バラバラした熱い飯を頬

ばると、舌の上でせわしく、あちこちへやった。「初めて」熱いものを鼻先にもってきた

ために、みずばな水洟 がしきりなしに下がって、ひょいと飯の中に落ちそうになった。

  飯を食っていると、監督が入ってきた。

「いけホイドして、ガツガツまくらうな。仕事もろくに出来ない日に、飯ばたらふく鱈腹 食わ

れてたまるもんか」

  ジロジロ棚の上下を見ながら、左肩だけを前の方へゆす揺 って出て行った。

「一体あいつにあんなことを云う権利があるのか」――船酔と過労で、ゲッソリやせた学

生上りが、ブツブツ云った。

「浅川ッたら蟹工の浅か、浅の蟹工かッてな」

「天皇陛下は雲の上にいるから、俺達にャどうでもいいんだけど、浅ってなれば、どっこ

いそうは行かないからな」

  別な方から、

 「ケチケチすんねえ、何んだ、飯の一杯、二杯! なぐってしまえ!」唇をと尖んがらした

声だった。

「偉い偉い。そいつを浅の前で云えれば、なお偉い!」

  皆は仕方なく、腹を立てたまま、笑ってしまった。

  夜、余程過ぎてから、雨合羽を着た監督が、漁夫の寝ているところへ入ってきた。船の

動揺を棚のわく枠 につかまって

ささ支 えながら、一々漁夫の間にカンテラを差しつけて歩い

た。かぼちゃ南瓜 のようにゴロゴロしている頭を、無遠慮にグイグイと向き直して、カンテラ

で照らしてみていた。フンづけられたって、目を覚ます筈がなかった。全部照し終ると、

一寸立ち止まって舌打ちをした。――どうしようか、そんな風だった。が、すぐ次の賄部

屋の方へ歩き出した。末広な、青ッぽいカンテラの光が揺れる度に、ゴミゴミした棚の一

部や、すね脛 の長い防水ゴム靴や、支柱に懸けてあるドザや

はんてん袢天 、それに

こうり行李 などの

一部分がチラ、チラッと光って、消えた。――足元に光がふる顫 えながら一瞬間

た溜まる、と

今度は賄のドアーに幻燈のような円るい光の輪を写した。――次の朝になって、雑夫の一

人がゆくえ行衛 不明になったことが知れた。

  皆は前の日の「無茶な仕事」を思い、「あれじゃ、波にさら浚 われたんだ」と思った。イ

ヤな気持がした。然し漁夫達が未明から追い廻わされたので、そのことではお互に話すこ

とが出来なかった。

「こったらしゃ冷  ッこい水さ、誰が好き好んで飛び込むって! 隠れてやがるんだ。見付け

たら、畜生、タタきのめしてやるから!」

  監督は棍棒を玩具のようにグルグル廻しながら、船の中を探して歩いた。

  時化は頂上を過ぎてはいた。それでも、船が行先きにもり上った波に突き入ると、「お

もて」の甲板を、波は自分の敷居でもまたぐように何んの雑作もなく、乗り越してきた。

一昼夜の闘争で、満身に痛手を負ったように、船は何処かびっこ跛 な音をたてて進んでい

た。薄い煙のような雲が、手が届きそうな上を、マストに打ち当りながら、急角度を切っ

て吹きとんで行った。小寒い雨がまだ止んでいなかった。四囲にもりもりと波がムクレ

上ってくると、海に射込む雨足がハッキリ見えた。それは原始林の中に迷いこんで、雨に

会うのより、もっと不気味だった。

  麻のロープが鉄管でも握るように、バリ、バリに凍えている。学生上りが、すべる足下

に気を配りながら、それにつかまって、デッキを渡ってゆくと、タラップの段々を一つ置

きに片足で跳躍して上ってきた給仕に会った。

「チョッと」給仕が風の当らない角に引張って行った。「面白いことがあるんだよ」と

云って話してきかせた。

  ――今朝の二時頃だった。ボート・デッキの上まで波が躍り上って、間を置いて、バ

ジャバジャ、ザアッとそれが滝のように流れていた。夜のやみ闇 の中で、波が歯をムキ出す

のが、時々青白く光ってみえた。時化のために皆寝ずにいた。その時だった。

  船長室に無電係があわ周章ててかけ込んできた。

「船長、大変です。S・O・Sです!」

 「S・O・S? ――何船だ 」

「秩父丸です。本船と並んで進んでいたんです」

「ボロ船だ、それア!」――浅川があまがっぱ雨合羽 を着たまま、

すみ隅 の方の椅子に大きく

また股

を開いて、腰をかけていた。片方の靴の先だけを、小馬鹿にしたように、カタカタ動かし

ながら、笑った。「もっとも、どの船だって、ボロ船だがな」

「一刻と云えないようです」

「うん、それア大変だ」

  船長は、舵機室に上るために、急いで、みじたく身仕度 もせずにドアーを開けようとした。然

し、まだ開けないうちだった。いきなり、浅川が船長の右肩をつかんだ。

「余計な寄道せって、誰が命令したんだ」

  誰が命令した?「船長」ではないか。――が、とっさ突嗟 のことで、船長は

ぼうぐい棒杭 より、

もっとキョトンとした。然し、すぐ彼は自分の立場を取り戻した。

「船長としてだ」

「船長としてだア――ア 」船長の前に立ちはだかった監督が、尻上りの侮辱した調子で

おさ抑 えつけた。「おい、一体これア誰の船だんだ。会社が

チアタア傭船 してるんだで、金を

払って。ものを云えるのア会社代表の須田さんとこの俺だ。お前なんぞ、船長と云って

りゃ大きな顔してるが、糞場の紙位えのねうち価値 もねえんだど。分ってるか。――あんなも

のにかかわってみろ、一週間もフイ  になるんだ。冗談じゃない。一日でも遅れてみろ!

それに秩父丸にはもったい勿体 ない程の保険がつけてあるんだ。ボロ船だ、沈んだら、かえっ

て得するんだ」

  給仕は「今  」恐ろしい喧嘩が! と思った。それが、それだけで済む筈がない。だが

(!)船長はのど咽喉へ綿でもつめられたように、立ちすくんでいるではないか。給仕はこん

 な場合の船長をかつて一度だって見たことがなかった。船長の云ったことが通らない?

 馬鹿、そんな事が! だが、それが起っている。――給仕にはどうしても分らなかった。

「人情味なんか柄でもなく持ち出して、国と国との大相撲がとれるか!」唇を思いッ切り

ゆがめてつば唾 をはいた。

  無電室では受信機が時々小さい、青白いスパアクル火花 を出して、しきりなしになってい

た。とにかく経過を見るために、皆は無電室に行った。

「ね、こんなに打っているんです。――だんだん早くなりますね」

  係は自分の肩越しにのぞ覗 き込んでいる船長や監督に説明した。――皆は色々な器械のス

ウィッチやボタンの上を、係の指先があち、こち器用にすべるのを、それに縫いつけられ

たように眼で追いながら、思わず肩とあごね顎根 に力をこめて、じいとしていた。

  船の動揺の度に、はれもの腫物 のように壁に取付けてある電燈が、明るくなったり暗くなっ

たりした。横腹に思いッ切り打ち当る波の音や、絶えずならしている不吉な警笛が、風の

工合で遠くなったり、すぐ頭の上に近くなったり、鉄のとびら扉 を隔てて聞えていた。

  ジイ――、ジイ――イと、長く尾を引いて、スパアクルが散った。と、そこで、ピタリ

と音がとまってしまった。それが、その瞬間、皆の胸へドキリときた。係はあわ周章てて、ス

ウィッチをひねったり、機械をせわしく動かしたりした。が、それッ切りだった。もう

打って来ない。

  係は身体をひねって、廻転椅子をぐるりとまわした。

「沈没です!……」

  頭から受信器をはず外 しながら、そして低い声で云った。「乗務員四百二十五人。最後な

り。救助される見込なし。S・O・S、S・O・S、これが二、三度続いて、それで切れ

てしまいました」

  それを聞くと、船長は頸とカラアの間に手をつッこんで、息苦しそうに頭をゆすって、

頸をのばすようにした。無意味な視線で、落着きなくあたり四囲 を見廻わしてから、ドアーの

方へ身体を向けてしまった。そして、ネクタイの結び目あたりを抑えた。――その船長は

見ていられなかった。

  ……………………

  学生上りは、「ウム、そうか!」と云った。その話にひきつけられていた。――然し暗

い気持がして、海に眼をそらした。海はまだ大うねりにうねり返っていた。水平線が見る

間に足の下になるかと、思うと、二、三分もしないうちに、谷からせ狭ばめられた空を仰ぐ

ように、下へ引きずりこまれていた。

「本当に沈没したかな」ひとりごと独言 が出る。気になって仕方がなかった。――同じよう

に、ボロ船に乗っている自分達のことが頭にくる。

  ――蟹工船はどれもボロ船だった。労働者が北オホツックの海で死ぬことなどは、丸ビ

ルにいる重役には、どうでもいい事だった。資本主義がきまりきった所だけの利潤では行

き詰まり、金利が下がって、金がダブついてくると、「文字通り」どんな事でもするし、

どんな所へでも、死物狂いで血路を求め出してくる。そこへもってきて、船一艘でマンマ

と何拾万円が手に入る蟹工船、――彼等の夢中になるのは無理がない。

  蟹工船は「工船」(工場船)であって、「航船」ではない。だから航海法は適用されな

かった。二十年の間もつな繋 ぎッ放しになって、沈没させることしかどうにもならないヨロ

ヨロな「梅毒患者」のような船が、恥かしげもなく、上べだけのこいげしょう濃化粧 をほどこさ

れて、函館へ廻ってきた。日露戦争で、「名誉にも」ビッコにされ、魚のハラワタのよう

に放って置かれた病院船や運送船が、幽霊よりも影のうすい姿を現わした。――少し蒸気

を強くすると、パイプが破れて、吹いた。露国の監視船に追われて、スピードをかける

と、(そんな時は何度もあった)船のどの部分もメリメリ鳴って、今にもその一つ、一つ

がバラバラにほ解ぐれそうだった。中風患者のように身体をふるわした。

  然し、それでも全くかまわない。なぜ何故なら、日本帝国のためどんなものでも立ち上るべ

き「とき秋 」だったから。――それに、蟹工船は純然たる「工場」だった。然し工場法の適

用もうけていない。それで、これ位都合のいい、勝手に出来るところはなかった。

  利口な重役はこの仕事を「日本帝国のため」と結びつけてしまった。うそ嘘 のような金

が、そしてゴッソリ重役のふところ懐 に入ってくる。彼は然しそれをモット確実なものにす

るために「代議士」に出馬することを、自動車をドライヴしながら考えている。――が、

恐らく、それとカッキリ一分も違わない同じ時に、秩父丸の労働者が、何千マイル哩 も離れ

た北の暗い海で、割れたガラスくず硝子屑 のように鋭い波と風に向って、死の戦いを戦っている

のだ!

  ……学生上りは「くそつぼ糞壺 」の方へ、タラップを下りながら、考えていた。

「ひとごと他人事 ではないぞ」

「糞壺」のはしご梯子 を下りると、すぐ突き当りに、誤字沢山で、

雑夫、宮口を発見せるものには、バット二つ、手拭一本を、賞与としてくれるべし。

                                    浅川監督。

  と、書いた紙が、糊代りに使った飯粒のボコボコを見せて、は貼らさってあった。

                三

  霧雨が何日も上らない。それでボカされたカムサツカの沿線が、するすると八ツ目

うなぎ鰻 のように延びて見えた。

  沖合四かいり浬 のところに、博光丸が

いかり錨 を下ろした。――三浬までロシアの領海なの

で、それ以内に入ることは出来ない「ことになっていた」。

  網さばきが終って、いつ何時からでも蟹漁が出来るように準備が出来た。カムサツカの夜明

けは二時頃なので、漁夫達はすっかり身支度をし、また股 までのゴム靴をはいたまま、折箱

の中に入って、ゴロ寝をした。

  周旋屋にだまされて、連れてこられた東京の学生上りは、こんなはず筈 がなかった、とブ

ツブツ云っていた。

「ひと独 り寝だなんて、ウマイ事云いやがって!」

「ちげえねえ、独り寝さ。ゴロ寝だもの」

  学生は十七、八人来ていた。六十円を前借りすることに決めて、汽車賃、宿料、毛布、

ふとん布団 、それに周旋料を取られて、結局船へ来たときには、一人七、八円の借金(!)に

なっていた。それが始めて分ったとき、かね貨幣だと思って握っていたのが、枯葉であったよ

り、もっと彼等はキョトンとしてしまった。――始め、彼等は青鬼、赤鬼の中に取り巻か

れた亡者のように、漁夫の中に一かたまりにかたま固 っていた。

 はこだて函館 を出帆してから、四日目ころから、毎日のボロボロな飯と何時も同じ汁のため

に、学生は皆身体の工合を悪くしてしまった。寝床に入ってから、ひざ膝 を立てて、お互に

すね脛 を指で押していた。何度も繰りかえして、その

たび度 に引っこんだとか、引っこまない

とか、彼等の気持は瞬間明るくなったり、暗くなったりした。脛をなでてみると、弱い電

気に触れるように、しびれるのが二、三人出てきた。たな棚 の端から両足をブラ下げて、膝

頭を手刀で打って、足が飛び上るか、どうかを試した。それに悪いことには、「通じ」が

四日も五日も無くなっていた。学生の一人が医者に通じ薬を貰いに行った。帰ってきた学

生は、興奮から青い顔をしていた。――「そんなぜいたくな薬なんて無いとよ」

「んだべ。船医なんてんなものよ」そば側 で聞いていた古い漁夫が云った。

「どこ何処の医者も同じだよ。俺のいたところの会社の医者もんだった」坑山の漁夫だった。

  皆がゴロゴロ横になっていたとき、監督が入ってきた。

「皆、寝たか――ちょっと一寸 聞け。秩父丸が沈没したっていう無電が入ったんだ。生死の詳

しいことは分らないそうだ」唇をゆがめて、つば唾 をチェッとはいた。癖だった。

  学生は給仕からきいたことが、すぐ頭にきた。自分が現に手をかけて殺した四、五百人

の労働者の生命のことを、平気な顔で云う、海にタタキ込んでやっても足りない奴だ、と

思った。皆はムクムクと頭をあげた。急に、ザワザワお互に話し出した。浅川はそれだけ

云うと、左肩だけを前の方に振って、出て行った。

 ゆくえ行衛 の分らなかった雑夫が、二日前にボイラーの側から出てきたところをつかまっ

た。二日隠れていたけれども、腹が減って、腹が減って、どうにも出来ず、出て来たの

だった。つか捕 んだのは中年過ぎの漁夫だった。若い漁夫がその漁夫をなぐりつけると云っ

て、怒った。

「うるさい奴だ、煙草のみでもないのに、煙草の味が分るか」バットを二個手に入れた漁

夫はうまそうに飲んでいた。

  雑夫は監督にシャツ一枚にされると、二つあるうちの一つの方の便所に押し込まれて、

表から錠を下ろされた。初め、皆は便所へ行くのを嫌った。隣りで泣きわめく声が、とて

も聞いていられなかった。二日目にはその声がかすれて、ヒエ、ヒエしていた。そして、

そのわめきが間を置くようになった。その日の終り頃に、仕事を終った漁夫が、気掛りで

す直ぐ便所のところへ行ったが、もうドアーを内側から

たた叩 きつける音もしていなかった。

こっちから合図をしても、それが返って来なかった。――その遅く、きんかく睾隠 しに片手を

もたれかけて、便所紙の箱に頭を入れ、うつぶせに倒れていた宮口が、出されてきた。唇

の色が青インキをつけたように、ハッキリ死んでいた。

  朝は寒かった。明るくなってはいたが、まだ三時だった。かじかんだ手をふところ懐 に

つッこみながら、背を円るくして起き上ってきた。監督は雑夫や漁夫、水夫、火夫の室ま

で見廻って歩いて、かぜ風邪をひいているものも、病気のものも、かまわず引きずり出した。

  風は無かったが、甲板で仕事をしていると、手と足の先きがすりこぎ擂粉木 のように感覚が無

くなった。雑夫長が大声で悪態をつきながら、十四、五人の雑夫を工場に追い込んでい

た。彼の持っている竹の先きには皮がついていた。それは工場でなま怠 けているものを機械

のわくご枠越 しに、向う側でもなぐりつけることが出来るように、造られていた。

「ゆうべ昨夜 出されたきりで、ものも云えない宮口を今朝からどうしても働かさなけアならな

いって、さっき足でけ蹴ってるんだよ」

  学生上りになじんでいる弱々しい身体の雑夫が、雑夫長の顔を見い、見いそのことを知

らせた。

「どうしても動かないんで、とうとうあきらめたらしいんだけど」

 そこ其処へ、監督が身体をワクワクふるわせている雑夫を後からグイ、グイ突きながら、押

して来た。寒い雨にぬ濡れながら仕事をさせられたために、その雑夫は風邪をひき、それか

らろくまく肋膜 を悪くしていた。寒くないときでも、始終身体をふるわしていた。子供らしく

ないしわ皺 を

まゆ眉 の間に刻んで、血の気のない薄い唇を妙にゆがめて、

かん疳 のピリピリして

いるようなまなざ眼差 しをしていた。彼が寒さに堪えられなくなって、ボイラーの室にウロウ

ロしていたところを、見付けられたのだった。

  出漁のために、川崎船をウインチから降していた漁夫達は、その二人を何も云えず、見

送っていた。四十位の漁夫は、見ていられないという風に、顔をそむけると、イヤイヤを

するように頭をゆるく二、三度振った。

「風邪をひいてもらったり、ふてね不貞寝をされてもらったりするために、高い金払って連れて

来たんじゃないんだぜ。――馬鹿野郎、余計なものを見なくたっていい!」

  監督が甲板をこんぼう棍棒 で叩いた。

「監獄だって、これより悪かったら、お目にかからないで!」

「こんなことくに内地さ帰って、なんぼ話したって本当にしねんだ」

「んさ。――こったら事って第一あるか」

  スティムでウインチがガラガラ廻わり出した。川崎船は身体を空にゆすりながら、一斉

に降り始めた。水夫や火夫も狩り立てられて、甲板のすべる足元に気を配りながら、走り

廻っていた。それ等のなかを、監督はとさか鶏冠 を立てた

おんどり牡鶏 のように見廻った。

  仕事の切れ目が出来たので、学生上りが一寸の間風を避けて、荷物のかげに腰を下して

いると、やま炭山から来た漁夫が口のまわりに両手を円く囲んで、ハア、ハア息をかけなが

ら、ひょいと角を曲ってきた。

「えのぢ生命

まと的 だな!」それが――心からフイと出た実感が思わず学生の胸を

つ衝いた。

「やっぱし炭山と変らないで、死ぬ思いばしないと、え生きられないなんてな。――

ガス瓦斯も

お恐ッかねど、波もおっかねしな」

  昼過ぎから、空の模様がどこか変ってきた。薄いガス海霧が一面に――

しか然 しそうでないと

云われれば、そうとも思われる程、淡くかかった。波は風呂敷でもつまみ上げたように、

無数に三角形に騒ぎ立った。風が急にマストを鳴らして吹いて行った。荷物にかけてある

ズックのおお覆 いの

すそ裾 がバタバタとデッキをたたいた。

「兎が飛ぶどオ――兎が!」誰か大声で叫んで、右舷のデッキを走って行った。その声が

強い風にすぐちぎり取られて、意味のない叫び声のように聞こえた。

  もう海一面、三角波の頂きが白いしぶきを飛ばして、無数の兎があたかも大平原を飛び

上っているようだった。――それがカムサツカの「突風」の前ブレだった。にわかに底潮

の流れが早くなってくる。船が横に身体をずらし始めた。今まで右舷に見えていたカムサ

ツカが、分らないうちに左舷になっていた。――船に居残って仕事をしていた漁夫や水夫

は急にあわ周章て出した。

  すぐ頭の上で、警笛が鳴り出した。皆は立ち止ったまま、空を仰いだ。すぐ下にいるせ

いか、斜め後に突き出ている、思わない程太い、ゆおけ湯桶 のような煙突が、ユキユキと揺れ

ていた。その煙突の腹のドイツ独逸 帽のようなホイッスルから鳴る警笛が、荒れ狂っている暴

風の中で、何か悲壮に聞えた。――遠く本船をはなれて、漁に出ている川崎船が絶え間な

く鳴らされているこの警笛を頼りに、しけ時化をおかして帰って来るのだった。

  薄暗い機関室への降り口で、漁夫と水夫が固り合って騒いでいた。斜め上から、船の動

揺の度に、チラチラ薄い光の束がも洩れていた。興奮した漁夫の色々な顔が、瞬間々々、浮

き出て、消えた。

「どうした?」坑夫がその中に入り込んだ。

「浅川の野郎ば、なぐり殺すんだ!」殺気だっていた。

  監督は実は今朝早く、本船から十哩ほど離れたところにとま碇 っていた××丸から「突風」

の警戒報を受取っていた。それにはも若し川崎船が出ていたら、至急呼戻すようにさえ附け

加えていた。その時、「こんな事に一々ビク、ビクしていたら、このカムサツカまでワザ

ワザ来て仕事なんか出来るかい」――そう浅川の云ったことが、無線係から洩れた。

  それを聞いた最初の漁夫は、無線係が浅川ででもあるように、怒鳴りつけた。「人間の

命を何んだって思ってやがるんだ!」

「人間の命?」

「そうよ」

「ところが、浅川はお前達をどだい人間だなんて思っていないよ」

  何か云おうとした漁夫はども吃 ってしまった。彼は真赤になった。そして皆のところへか

け込んできたのだった。

  皆は暗い顔に、然し争われず底からジリ、ジリ来る興奮をうかべて、立ちつくしてい

た。父親が川崎船で出ている雑夫が、漁夫達の集っている輪の外をオドオドしていた。ス

テイが絶え間なしに鳴っていた。頭の上で鳴るそれを聞いていると、漁夫の心はギリ、ギ

リと切りさ苛いなまれた。

  夕方近く、ブリッジから大きな叫声が起った。下にいた者達はタラップの段を二つ置き

位にかけ上った。――川崎船が二隻近づいてきたのだった。二隻はお互にロープを渡して

結び合っていた。

  それは間近に来ていた。然し大きな波は、川崎船と本船を、ガタンコの両端にのせたよ

うに、交互に激しく揺り上げたり、揺り下げたりした。次ぎ、次ぎと、二つの間に波の大

きなうねりがもり上って、ローリングした。目の前にいて、中々近付かない。――歯がゆ

かった。甲板からはロープが投げられた。が、とどかなかった。それは無駄なしぶきを散

らして、海へ落ちた。そしてロープは海蛇のように、たぐり寄せられた。それが何度もく

り返された。こっちからは皆声をそろえて呼んだ。が、それには答えなかった。漁夫達の

顔の表情はマスクのように化石して、動かない。眼も何かを見た瞬間、そのままこ硬わばっ

たように動かない。――その情景は、漁夫達の胸を、ま眼のあたり見ていられない

すご凄 さ

で、えぐり刻んだ。

  又ロープが投げられた。始めゼンマイ形に――それからうなぎ鰻 のようにロープの先きが

のびたかと思うと――その端が、それを捕えようと両手をあげている漁夫の首根を、横な

ぐりにたたきつけた。皆は「アッ!」と叫んだ。漁夫はいきなり、そのままのかっこう恰好 で

 横倒しにされた。が、つかんだ! ――ロープはギリギリとしまると、水のしたたりをし

ぼり落して、一直線に張った。こっちで見ていた漁夫達は、思わず肩から力を抜いた。

  ステイは絶え間なく、風の具合で、高くなったり、遠くなったり鳴っていた。夕方にな

るまでに二艘を残して、それでも全部帰ってくることが出来た。どの漁夫も本船のデッキ

を踏むと、それっきり気を失いかけた。一艘は水船になってしまったために、いかり錨 を投

げ込んで、漁夫が別の川崎に移って、帰ってきた。他の一艘は漁夫共に全然行衛不明だっ

た。

  監督はブリブリしていた。何度も漁夫の部屋へ降りて来て、又上って行った。皆は焼き

殺すようなぞうお憎悪 に満ちた視線で、だまって、その度に見送った。

  翌日、川崎の捜索かたがた、かに蟹 の後を追って、本船が移動することになった。「人間

の五、六匹何んでもないけれども、川崎がいたまし」かったからだった。

  朝早くから、機関部が急がしかった。錨を上げる震動が、錨室と背中合せになっている

漁夫をいりまめ煎豆 のようにハネ飛ばした。サイドの鉄板がボロボロになって、その度にこぼ

れ落ちた。――博光丸は北緯五十一度五分の所まで、錨をなげてきた第一号川崎船を捜索

した。結氷のかけら砕片 が生きもののように、ゆるい波のうねりの間々に、ひょいひょい

からだ身体 を見せて流れていた。が、所々その砕けた氷が見る限りの大きな集団をなして、あ

ぶくを出しながら、船を見る見るうちに真中に取囲んでしまう、そんなことがあった。氷

は湯気のような水蒸気をたてていた。と、扇風機にでも吹かれるように「寒気」が襲って

きた。船のあらゆる部分が急にカリッ、カリッと鳴り出すと、水に濡れていた甲板や手す

りに、氷が張ってしまった。船腹はおしろい白粉 でもふりかけたように、霜の結晶でキラキラ

に光った。水夫や漁夫は両頬をおさ抑 えながら、甲板を走った。船は後に長く、

こうや曠野 の一

本道のような跡をのこして、つき進んだ。

  川崎船は中々見つからない。

  九時近い頃になって、ブリッジから、前方に川崎船が一艘浮かんでいるのを発見した。

それが分ると、監督は「畜生、やっと分りゃがったど。畜生!」デッキを走って歩いて、

喜んだ。すぐ発動機が降ろされた。が、それは探がしていた第一号ではなかった。それよ

りは、もっと新しい第 36[#「36」は縦中横]号と番号の打たれてあるものだった。明らかに

×××丸のものらしい鉄のヴイ浮標がつけられていた。それで見ると×××丸が

どこ何処かへ移動する時

に、元の位置を知るために、そうして置いて行ったものだった。

  浅川は川崎船の胴体を指先きで、トントンたたいていた。

「これアどうしてバンとしたもんだ」ニャッと笑った。「引いて行くんだ」

  そして第 36[#「36」は縦中横]号川崎船はウインチで、博光丸のブリッジに引きあげられ

た。川崎は身体を空でゆすりながら、しずく雫 をバジャバジャ甲板に落した。「

ひと一 働きを

してきた」そんな大様な態度で、釣り上がって行く川崎を見ながら、監督が、

「大したもんだ。大したもんだ!」と、ひとりごと独言 した。

  網さばき  をやりながら、漁夫がそれを見ていた。「何んだ泥棒猫! チエンでも切れ

て、野郎の頭さたたき落ちればえんだ」

  監督は仕事をしている彼らの一人々々を、そこから何かえぐり出すような眼付きで、見

下しながら、側を通って行った。そして大工をせっかちなドラ声で呼んだ。

  すると、別な方のハッチの口から、大工が顔を出した。

「何んです」

  見当はず外  れをした監督は、振り返ると、怒りッぽく、「何んです? ――馬鹿。番号を

けずるんだ。カンナ、カンナ」

  大工は分らない顔をした。

「あんぽんたん、来い!」

 かたはば肩巾 の広い監督のあとから、

のこぎり鋸 の柄を腰にさして、カンナを持った小柄な大

工が、びっこでも引いているような危い足取りで、甲板を渡って行った。――川崎船の第

36[#「36」は縦中横]号の「3」がカンナでけずり落されて、「第六号川崎船」になってし

まった。

「これでよし。これでよし。うッはア、ざま様 見やがれ!」監督は、口を三角形にゆがめる

と、背のびでもするようにこうしょう哄笑 した。

  これ以上北航しても、川崎船を発見する当がなかった。第三十六号川崎船の引上げで、

足ぶみをしていた船は、元の位置に戻るために、ゆるく、大きくカーヴをし始めた。空は

晴れ上って、洗われた後のように澄んでいた。カムサツカの連峰が絵葉書で見るスイッツ

ルの山々のように、くっきりと輝いていた。

  行衛不明になった川崎船は帰らない。漁夫達は、そこだけが水たま溜 りのようにポツンと

空いた棚から、残して行った彼等の荷物や、家族のいる住所をしらべたり、それぞれ万一

の時に直ぐ処置が出来るように取りまと纏 めた。――気持のいいことではなかった。それを

していると、漁夫達は、まるで自分の痛い何処かを、のぞ覗 きこまれているようなつらさを

感じた。中積船が来たらたくそう托送 しようと、同じ

みょうじ苗字 の女名前がその

あて宛 先きになっ

ている小包や手紙が、彼等の荷物の中から出てきた。そのうちの一人の荷物の中から、片

仮名と平仮名の交った、鉛筆をなめり、なめり書いた手紙が出た。それが無骨な漁夫の手

から、手へ渡されて行った。彼等は豆粒でも拾うように、ボツリ、ボツリ、しか然 しむさぼ

るように、それを読んでしまうと、いや嫌 なものを見てしまったという風に頭をふって、次

ぎに渡してやった。――子供からの手紙だった。

  ぐずりと鼻をならして、手紙から顔を上げると、カスカスした低い声で、「浅川のため

だ。死んだと分ったら、弔い合戦をやるんだ」と云った。その男は図体の大きい、北海道

の奥地で色々なことをやってきたという男だった。もっと低い声で、

「奴、一人位タタキ落せるべよ」若い、肩のもり上った漁夫が云った。

「あ、この手紙いけねえ。すっかり思い出してしまった」

「なア」最初のが云った。「うっかりしていれば、俺達だって奴にやられたんだで。ひと他人

ごとでねえんだど」

 すみ隅 の方で、

たてひざ立膝 をして、

おやゆび拇指 の

つめ爪 をかみながら、上眼をつかって、皆の云

うのを聞いていた男が、その時、うん、うんと頭をふって、うなずいた。「万事、俺にま

 かせれ、その時ア! あの野郎一人グイとやってしまうから」

  皆はだまった。――だまったまま、然し、ホッとした。

  博光丸が元の位置に帰ってから、三日して突然(!)その行衛不明になった川崎船が、

しかも元気よく帰ってきた。

  彼等は船長室から「糞壺」に帰ってくると、たちま忽 ち皆に、渦巻のように取巻かれてし

まった。

  ――彼等は「大暴風雨」のために、一たまりもなく操縦の自由をなくしてしまった。そ

うなればもうえりくび襟首 をつかまれた子供より他愛なかった。一番遠くに出ていたし、それ

に風の工合も丁度反対の方向だった。皆は死ぬことを覚悟した。漁夫は何時でも「安々

と」死ぬ覚悟をすることに「慣らされて」いた。

  が(!)こんなことは滅多にあるものではない。次の朝、川崎船は半分水船になったま

ま、カムサツカの岸に打ち上げられていた。そして皆は近所のロシア人に救われたのだっ

た。

  そのロシア人の家族は四人暮しだった。女がいたり、子供がいたりする「家」というも

のに渇していた彼等にとって、そこ其処は何とも云えなく魅力だった。それに親切な人達ばか

りで、色々と進んで世話をしてくれた。然し、初め皆はやっぱり、分らない言葉を云った

り、髪の毛や眼の色のちが異 う外国人であるということが無気味だった。

  何アんだ、俺達と同じ人間ではないか、ということが、然し直ぐ分らさった。

  難破のことが知れると、村の人達が沢山集ってきた。そこは日本の漁場などがある所と

は、余程離れていた。

  彼等は其処に二日いて、身体を直し、そして帰ってきたのだった。「帰ってきたくはな

 かった」誰が、こんな地獄に帰りたいって! が、彼等の話は、それだけで終ってはいな

い。「面白いこと」がその外にかくされていた。

  丁度帰る日だった。彼等がストオヴのまわ周 りで、身仕度をしながら話をしていると、ロ

シア人が四、五人入ってきた。――中に支那人が一人交っていた。――顔がおおき巨 くて、

赤い、短いひげ鬚 の多い、少し猫背の男が、いきなり何か大声で手振りをして話し出した。

船頭は、自分達がロシア語は分らないのだという事を知らせるために、眼の前で手を振っ

て見せた。ロシア人が一句切り云うと、その口元を見ていた支那人は日本語をしゃべり出

した。それは聞いている方の頭が、かえってごじゃごじゃになってしまうような、順序の

狂った日本語だった。言葉と言葉が酔払いのように、散り散りによろめいていた。

「あなた貴方 方、金キット持っていない」

「そうだ」

「貴方方、貧乏人」

「そうだ」

「だから、貴方方、プロレタリア。――分る?」

「うん」

  ロシア人が笑いながら、その辺を歩き出した。時々立ち止って、彼等の方を見た。

「金持、貴方方をこれする。(首を締めるかっこう恰好 をする)金持だんだん大きくなる。

(腹のふくれるまね真似)貴方方どうしても駄目、貧乏人になる。――  分る? ――日本の

国、駄目。働く人、これ(顔をしかめて、病人のような恰好)働かない人、これ。えへ

ん、えへん。(偉張って歩いてみせる)」

  それ等が若い漁夫には面白かった。「そうだ、そうだ!」と云って、笑い出した。

「働く人、これ。働かない人、これ。(前のを繰り返して)そんなの駄目。――働く人、

これ。(今度は逆に、胸を張って偉張ってみせる、)働かない人、これ。(年取った乞食

のような恰好)これ良ろし。――  分かる? ロシアの国、この国。働く人ばかり。働く人

ばかり、これ。(偉張る)ロシア、働かない人いない。ずるい人いない。人の首しめる人

いない。――  分る? ロシアちっとも恐ろしくない国。みんな、みんなウソばかり云って

歩く」

  彼等は漠然と、これが「恐ろしい」「赤化」というものではないだろうか、と考えた。

が、それが「赤化」なら、馬鹿に「当り前」のことであるような気が一方していた。然し

何よりグイ、グイと引きつけられて行った。

「分る、本当、分る!」

  ロシア人同志が二、三人ガヤガヤ何かしゃべり出した。支那人はそれら等をきいていた。

それから又ども吃 りのように、日本の言葉を一つ、一つ拾いながら、話した。

「働かないで、お金もう儲 ける人いる。プロレタリア、いつでも、これ。(首をしめられる

恰好)――  これ、駄目! プロレタリア、貴方方、一人、二人、三人……百人、千人、五万

人、十万人、みんな、みんな、これ(子供のお手々つないで、の真似をしてみせる)強く

なる。大丈夫。(腕をたたいて)負けない、誰にも。分る?」

「ん、ん!」

「働かない人、にげる。(一散に逃げる恰好)大丈夫、本当。働く人、プロレタリア、偉

張る。(堂々と歩いてみせる)プロレタリア、一番偉い。――プロレタリア居ない。みん

な、パン無い。みんな死ぬ。――分る?」

「ん、ん!」

「日本、まだ、まだ駄目。働く人、これ。(腰をかがめて縮こまってみせる)働かない

 人、これ。(偉張って、相手をなぐり倒す恰好)それ、みんな駄目! 働く人、これ。

(形相すご凄 く立ち上る、突ッかかって行く恰好。相手をなぐり倒し、フンづける真似)働

かない人、これ。(逃げる恰好)――日本、働く人ばかり、いい国。――プロレタリアの

 国! ――分る?」

「ん、ん、分る!」

  ロシア人が奇声をあげて、ダンスの時のような足ぶみをした。

「日本、働く人、やる。(立ち上って、刃向う恰好)うれしい。ロシア、みんな嬉しい。

バンザイ。――貴方方、船へかえる。貴方方の船、働かない人、これ。(偉張る)貴方

方、プロレタリア、これ、やる!(拳闘のような真似――それからお手々つないでをや

り、又突ッかかって行く恰好)――  大丈夫、勝つ! ――分る?」

「分る!」知らないうちに興奮していた若い漁夫が、いきなり支那人の手を握った。「や

るよ、キットやるよ!」

  船頭は、これが「赤化」だと思っていた。馬鹿に恐ろしいことをやらせるものだ。これ

で――この手で、露西亜が日本をマンマとだま騙 すんだ、と思った。

  ロシア人達は終ると、何か叫声をあげて、彼等の手を力一杯握った。抱きついて、硬い

毛の頬をすりつけたりした。めんくら面喰 った日本人は、首を後に硬直さして、どうしていい

か分らなかった。……。

  皆は、「糞壺」の入口に時々眼をやり、その話をもっともっとうながした。彼等は、そ

れから見てきたロシア人のことを色々話した。そのどれもが、吸取紙に吸われるように、

皆の心に入りこんだ。

「おい、もうよ止せよ」

  船頭は、皆が変にムキにその話に引き入れられているのを見て、一生懸命しゃべってい

る若い漁夫の肩を突ッついた。

                四

 もや靄 が下りていた。何時も厳しく機械的に組合わさっている通風パイプ、

チェムニー煙筒 、

ウインチの腕、つ吊り下がっている川崎船、デッキの手すり、などが、薄ぼんやり輪廓をぼ

かして、今までにない親しみをもって見えていた。柔かい、生ぬるい空気が、ほお頬 を

な撫で

て流れる。――こんな夜はめずらしかった。

  トモのハッチに近く、蟹の脳味噌の匂いがムッとくる。網が山のようにつま積 さっている

間に、高さのびっこ跛 な二つの影が

たたず佇 んでいた。

  過労から心臓を悪くして、身体が青黄く、ムクンでいる漁夫が、ドキッ、ドキッとくる

心臓の音でどうしても寝れず、甲板に上ってきた。手すりにもたれて、フ糊でも溶かした

ようにトロッとしている海を、ぼんやり見ていた。この身体では監督に殺される。しか然

し、それにしては、この遠いカムサツカで、しかも陸も踏めずに死ぬのはさび淋 し過ぎ

る。――すぐ考え込まさった。その時、網と網の間に、誰かいるのに漁夫が気付いた。

  蟹の甲殻のかけら片 を時々ふむらしく、その音がした。

  ひそめた声が聞こえてきた。

  漁夫の眼が慣れてくると、それが分ってきた。十四、五の雑夫に漁夫が何か云っている

のだった。何を話しているのかは分らなかった。後向きになっている雑夫は、時々イヤ、

イヤをしている子供のように、すねているように、向きをかえていた。それにつれて、漁

夫もその通り向きをかえた。それが少しの間続いた。漁夫は思わず(そんな風だった)高

い声を出した。が、すぐ低く、早口に何か云った。と、いきなり雑夫を抱きすくめてし

まった。けんか喧嘩 だナ、と思った。着物で口を抑えられた「むふ、むふ……」という息声だ

けが、ちょっと一寸 の間聞えていた。然し、そのまま動かなくなった。――その瞬間だった。

柔かい靄の中に、雑夫の二本の足がローソクのように浮かんだ。下半分が、すっかり裸に

なってしまっている。それから雑夫はそのまましゃが蹲 んだ。と、その上に、漁夫が

がま蟇 の

ようにおお覆 いかぶさった。それだけが「眼の前」で、短かい――グッと

のど咽喉につかえる瞬

間に行われた。見ていた漁夫は、思わず眼をそらした。酔わされたような、な撲ぐられたよ

うな興奮をワクワクと感じた。

  漁夫達はだんだん内からむくれ上ってくる性慾に悩まされ出してきていた。四カ月も、

五カ月も不自然に、このがんじょう頑丈 な男達が「女」から離されていた。――函館で買った

女の話や、露骨な女の陰部の話が、夜になると、きまって出た。一枚の春画がボサボサに

紙に毛が立つほど、何度も、何度もグルグル廻された。

…………

床とれの、

こちら向けえの、

口すえの、

足をからめの、

気をやれの、

ホンに、つとめはつらいもの。

  誰か歌った。すると、一度で、その歌が海綿にでも吸われるように、皆に覚えられてし

まった。何かすると、すぐそれを歌い出した。そして歌ってしまってから、「えッ、畜

生!」と、ヤケに叫んだ、眼だけ光らせて。

  漁夫達は寝てしまってから、

 「畜生、困った! どうしたってね眠れないや」と、身体をゴロゴロさせた。「駄目だ、伜

が立って!」

「どうしたら、ええんだ!」――しま終 いに、そう云って、

ぼっき勃起 している

きんたま睾丸 を握り

ながら、裸で起き上ってきた。大きな身体の漁夫の、そうするのを見ると、身体のしま

る、何かせいさん凄惨 な気さえした。

どぎも度胆 を抜かれた学生は、眼だけで

すみ隅 の方から、それ

を見ていた。

  夢精をするのが何人もいた。誰もいない時、たまらなくなって自涜をするものもい

た。――たな棚 の隅にカタのついた汚れた猿又や

ふんどし褌 が、しめっぽく、すえた

にお臭 いを

してまる円 められていた。学生はそれを野糞のように踏みつけることがあった。

  ――それから、雑夫の方へ「よば夜這い」が始まった。バットをキャラメルに換えて、ポ

ケットに二つ三つ入れると、ハッチを出て行った。

  便所臭い、つけものだる漬物樽 の積まさっている物置を、コックが開けると、薄暗い、ムッと

する中から、いきなり横ッ面でもなぐられるように、怒鳴られた。

 「閉めろッ! 今、入ってくると、この野郎、タタキ殺すぞ!」

                ×          ×          ×

  無電係が、他船の交換している無電を聞いて、その収獲を一々監督に知らせた。それで

見ると、本船がどうしても負けているらしい事が分ってきた。監督がアセリ出した。する

と、テキ面にそのことが何倍かの強さになって、漁夫や雑夫に打ち当ってきた。――いつ何時

でも、そして、何んでもドン詰りの引受所が「彼等」だけだった。監督や雑夫長はわざと

「船員」と「漁夫、雑夫」との間に、仕事の上で競争させるように仕組んだ。

  同じかに蟹 つぶしをしていながら、「船員に負けた」となると、(自分の

もう儲 けになる仕

事でもないのに)漁夫や雑夫は「何に糞ッ!」という気になる。監督は「手を打って」喜

んだ。今日勝った、今日負けた、今度こそ負けるもんか――血のにじ滲 むような日が滅茶苦

茶に続く。同じ日のうちに、今までより五、六割もふ殖えていた。然し五日、六日になる

と、両方とも気抜けしたように、仕事の高がズシ、ズシ減って行った。仕事をしながら、

時々ガクリと頭を前に落した。監督はものも云わないで、なぐりつけた。不意をく喰らっ

て、彼等は自分でも思いがけない悲鳴を「キャッ!」とあげた。――皆はかたき敵 同志か、

言葉を忘れてしまった人のように、お互にだまりこくって働いた。ものを云うだけのぜい

たくな「余分」さえ残っていなかった。

  監督は然し、今度は、勝った組に「賞品」を出すことを始めた。くすぶ燻 りかえっていた

木が、又燃え出した。

「他愛のないものさ」監督は、船長室で、船長を相手にビールを飲んでいた。

  船長は肥えた女のように、手の甲にえくぼが出ていた。器用にきんぐち金口 をトントンと

テーブルにたたいて、分らないえがお笑顔 で答えた。――船長は、監督が何時でも自分の眼の

前で、マヤマヤ邪魔をしているようで、たまらなく不快だった。漁夫達がワッと事を起し

て、此奴をカムサツカの海へたたき落すようなことでもないかな、そんな事を考えてい

た。

  監督は「賞品」の外に、逆に、一番働きの少いものに「焼き」を入れることをはりがみ貼紙

した。鉄棒を真赤に焼いて、身体にそのまま当てることだった。彼等は何処まで逃げても

離れない、まるで自分自身の影のような「焼き」に始終追いかけられて、仕事をした。仕

事がしりあが尻上 りに、目盛りをあげて行った。

  人間の身体には、どの位の限度があるか、然しそれは当の本人よりも監督の方が、よく

知っていた。――仕事が終って、丸太棒のようにたな棚 の中に横倒れに倒れると、「期せず

して」う、う――、うめいた。

  学生の一人は、小さい時は祖母に連れられて、お寺の薄暗いお堂の中で見たことのある

「地獄」の絵が、そのままこうであることを思い出した。それは、小さい時の彼には、丁

度うわばみのような動物が、沼地ににょろ、にょろとは這っているのを思わせた。それと

そっくり同じだった。――過労がかえって皆を眠らせない。夜中過ぎて、突然、ガラス硝子 の

表に思いッ切りきず疵 を付けるような無気味な歯ぎしりが起ったり、寝言や、うなされてい

るらしいとっぴょうし突調子 な叫声が、薄暗い「糞壺」の所々から起った。

  彼等は寝れずにいるとき、フト、「よく、まだ生きているな……」と自分で自分の生身

の身体にささやきかえすことがある。よく、まだ生きている。――そう自分の身体に!

  学生上りは一番「こたえて」いた。

「ドストイェフスキーの死人の家な、ここから見れば、あれだって大したことでないって

気がする」――その学生は、くそ糞 が何日もつまって、頭を

てぬぐい手拭 で力一杯に締めない

と、眠れなかった。

「それアそうだろう」相手は函館からもってきたウイスキーを、薬でも飲むように、舌の

先きで少しずつな嘗めていた。「何んしろ大事業だからな。人跡未到の地の富源を開発す

るッてんだから、大変だよ。――このかにこうせん蟹工船 だって、今はこれで良くなったそうだ

よ。天候や潮流の変化の観測が出来なかったり、地理が実際にマスターされていなかった

りした創業当時は、幾ら船が沈没したりしたか分らなかったそうだ。露国の船には沈めら

れる、捕虜になる、殺される、それでも屈しないで、立ち上り、立ち上り苦闘して来たか

らこそ、この大富源が俺たちのものになったのさ。……まア仕方がないさ」

「…………」

  ――歴史が何時でも書いているように、それはそうかも知れない気がする。然し、彼の

心の底にわだかまっているムッとした気持が、それでちっとも晴れなく思われた。彼は

黙ってベニヤ板のように固くなっている自分の腹をな撫でた。弱い電気に触れるように、

おやゆび拇指 のあたりが、チャラチャラとしびれる。イヤな気持がした。拇指を眼の高さにか

ざして、片手でさすってみた。――皆は、夕飯が終って、「糞壺」の真中に一つ取りつけ

てある、割目が地図のように入っているガタガタのストーヴに寄っていた。お互の身体が

少しあたたま温 ってくると、湯気が立った。蟹の生ッ臭い

にお匂 いがムレて、ムッと鼻に来

た。

「何んだか、理窟は分らねども、殺されたくねえで」

「んだよ!」

  憂々した気持が、もたれかかるように、そこ其処へ

なだ雪崩れて行く。殺されかかっているん

 だ! 皆はハッキリした焦点もなしに、怒りッぽくなっていた。

「お、俺だちの、も、ものにもならないのに、く、くそ糞 、こッ殺されてたまるもんか!」

 ども吃 りの漁夫が、自分でももどかしく、顔を真赤に筋張らせて、急に、大きな声を出し

た。

 ちょっと一寸 、皆だまった。何かにグイと心を「不意」に突き上げられた――のを感じた。

「カムサツカで死にたくないな……」

「…………」

「中積船、函館ば出たとよ。――無電係の人云ってた」

「帰りてえな」

「帰れるもんか」

「中積船でヨク逃げる奴がいるってな」

「んか   ……ええな」

「漁に出る振りして、カムサツカの陸さ逃げて、露助と一緒に赤化宣伝ばやってるものも

いるッてな」

「…………」

「日本帝国のためか、――又、いい名義を考えたもんだ」――学生は胸のボタンをはず外 し

て、階段のように一つ一つくぼ窪 みの出来ている胸を出して、あくびをしながら、ゴシゴシ

か掻いた。

あか垢 が乾いて、薄い雲母のように

は剥げてきた。

「んよ、か、会社の金持ばかり、ふ、ふんだくるくせに」

  カキの貝殻のように、段々のついた、たるんだまぶた眼蓋 から、弱々しい濁った視線をスト

オヴの上にボンヤリ投げていた中年を過ぎた漁夫がつば唾 をはいた。ストオヴの上に落ちる

と、それがクルックルッとまんまる真円 にまるくなって、ジュウジュウ云いながら、豆のよう

には跳ね上って、見る間に小さくなり、油煙粒ほどの小さいカスを残して、無くなった。皆

はそれにウカツな視線を投げている。

「それ、本当かも知れないな」

  然し、船頭が、ゴム底タビの赤毛布の裏を出して、ストーヴにかざしながら、「おいお

いてむかい叛逆 なんかしないでけれよ」と云った。

「…………」

「勝手だべよ。糞」吃りが唇をたこ蛸 のように突き出した。

  ゴムの焼けかかっているイヤな臭いがした。

「おい、おど親爺、ゴム!」

「ん、あ、こげた!」

  波が出て来たらしく、サイドがかす微 かになってきた。船も子守

うた唄 程に揺れている。

腐ったほおずき海漿 のような五燭燈でストーヴを囲んでいるお互の、後に落ちている影が色々

にもつれて、組合った。――静かな夜だった。ストーヴの口から赤い火が、ひざ膝 から下に

チラチラと反映していた。不幸だった自分の一生が、ひょいと――まるッきり、ひょい

と、しかも一瞬間だけ見返される――不思議に静かな夜だった。

「煙草ね無えか?」

「無え……」

「無えか?……」

「なかったな」

「糞」

「おい、ウイスキーをこっちにも廻せよ、な」

  相手はかくびん角瓶 を逆かさに振ってみせた。

「おッと、もったい勿体 ねえことするなよ」

「ハハハハハハハ」

「飛んでもねえ所さ、然し来たもんだな、俺も……」その漁夫は芝浦の工場にいたことが

あった。そこの話がそれから出た。それは北海道の労働者達には「工場」だとは想像もつ

かない「立派な処」に思われた。「ここの百に一つ位のことがあったって、あっちじゃス

トライキだよ」と云った。

  その事から――そのキッかけで、お互の今までしてきた色々のことが、ひょいひょいと

話に出てきた。「国道開たく工事」「かんがい灌漑 工事」「鉄道敷設」「築港埋立」「新鉱発

掘」「開墾」「積取人夫」「にしん鰊 取り」――

ほと殆 んど、そのどれかを皆はしてきてい

た。

  ――内地では、労働者が「おうへい横平 」になって無理がきかなくなり、市場も大体開拓さ

れつくして、行詰ってくると、資本家は「北海道・樺太へ!」かぎづめ鉤爪 をのばした。

そこ其処

では、彼等は朝鮮や、台湾の殖民地と同じように、面白い程無茶な「虐使」が出来た。然

し、誰も、何んとも云えない事を、資本家はハッキリ呑み込んでいた。「国道開たく」

「鉄道敷設」の土工部屋では、しらみ虱 より無雑作に土方がタタき殺された。虐使に

た堪えら

れなくて逃亡する。それがつか捕 まると、

ぼうぐい棒杭 にしばりつけて置いて、馬の後足で

け蹴ら

せたり、裏庭で土佐犬にか噛み殺させたりする。それを、しかも皆の目の前でやってみせる

のだ。ろっこつ肋骨 が胸の中で折れるボクッとこもった音をきいて、「人間でない」土方さえ

思わず顔を抑えるものがいた。気絶をすれば、水をかけて生かし、それを何度も何度も繰

りかえした。しま終 いには風呂敷包みのように、土佐犬の

きょうじん強靱 な首で振り廻わされて

死ぬ。ぐったり広場のすみ隅 に投げ出されて、放って置かれてからも、身体の何処かが、ピ

クピクと動いていた。やけひばし焼火箸 をいきなり尻にあてることや、六角棒で腰が立たなくな

る程なぐりつけることは「毎日」だった。飯を食っていると、急に、裏で鋭い叫び声が起

る。すると、人の肉が焼ける生ッ臭い匂いが流れてきた。

「やめた、やめた。――とても飯なんて、食えたもんじゃねえや」

  箸を投げる。が、お互暗い顔で見合った。

 かっけ脚気 では何人も死んだ。無理に働かせるからだった。死んでも「暇がない」ので、そ

のまま何日も放って置かれた。裏へ出る暗がりに、無雑作にかけてあるムシロのすそ裾 か

ら、子供のように妙に小さくなった、黄黒く、つや艶 のない両足だけが見えた。

「顔に一杯はえ蠅 がたかっているんだ。側を通ったとき、一度にワアーンと飛び上るんでな

いか!」

  額を手でトントン打ちながら入ってくると、そう云う者があった。

  皆は朝は暗いうちに仕事場に出された。そしてつるはし鶴嘴 のさきがチラッ、チラッと青白

く光って、手元が見えなくなるまで、働かされた。近所に建っている監獄で働いている囚

人の方を、皆はかえってうらやま羨 しがった。

こと殊 に朝鮮人は親方、

ぼうがしら棒頭 からも、同

じ仲間の土方(日本人の)からも「踏んづける」ような待遇をうけていた。

  其処から四、五里も離れた村に駐在している巡査が、それでも時々手帖をもって、取調

べにテクテクやってくる。夕方までいたり、泊りこんだりした。然し土方達の方へは一度

も顔を見せなかった。そして、帰りには真赤な顔をして、歩きながら道の真中を、消防の

まね真似でもしているように、小便を四方にジャジャやりながら、分らない独言を云って帰っ

て行った。

  北海道では、字義通り、どの鉄道の枕木もそれはそのまま一本々々労働者の青むくれた

「死骸」だった。築港の埋立には、脚気の土工が生きたまま「人柱」のように埋められ

た。――北海道の、そういう労働者を「タコ(蛸)」と云っている。蛸は自分が生きて行

 くためには自分の手足をも食ってしまう。これこそ、全くそっくりではないか! そこで

は誰をもはばか憚 らない「原始的」な搾取が出来た。「

もう儲 け」がゴゾリ、ゴゾリ掘りか

えってきた。しかも、そして、その事を巧みに「国家的」富源の開発ということに結びつ

けて、マンマと合理化していた。抜目がなかった。「国家」のために、労働者は「腹が減

り」「タタき殺されて」行った。

「あこ其処  から生きて帰れたなんて、神助け事だよ。有難かったな! んでも、この船で殺さ

れてしまったら、同じだべよ。――何アーんでえ!」そしてとっぴょうし突調子 なく大きく笑っ

た。その漁夫は笑ってしまってから、然しまゆ眉 のあたりをアリアリと暗くして、横を向い

た。

 やま鉱山でも同じだった。――新しい山に坑道を掘る。そこにどんな

ガス瓦斯が出るか、どんな

飛んでもない変化が起るか、それを調べあげて一つの確針をつかむのに、資本家は「モル

モット」より安く買える「労働者」を、乃木軍神がやったと同じ方法で、入り代り、立ち

 代り雑作なく使い捨てた。鼻紙より無雑作に! 「マグロ」の刺身のような労働者の肉片

が、坑道の壁を幾重にも幾重にも丈夫にして行った。都会から離れていることを好い都合

にして、此処でもやはり「ゾッ」とすることが行われていた。トロッコで運んでくる石炭

の中におやゆび拇指 や小指がバラバラに、ねばって交ってくることがある。女や子供はそんな

事には然し眉を動かしてはならなかった。そう「慣らされていた」彼等は無表情に、それ

を次の持場まで押してゆく。――その石炭が巨大な機械を、資本家の「利潤」のために動

かした。

  どの坑夫も、長く監獄に入れられた人のように、つや艶 のない黄色くむくんだ、始終ボン

ヤリした顔をしていた。日光の不足と、たんじん炭塵 と、有毒ガスを含んだ空気と、温度と気

圧の異常とで、眼に見えて身体がおかしくなってゆく。「七、八年も坑夫をしていれば、

およ凡 そ四、五年間位は

ぶ打ッ続けに

まっくらやみ真暗闇 の底にいて、一度だって太陽を拝まなかっ

たことになる、四、五年も!」――だが、どんな事があろうと、代りの労働者を何時でも

沢山仕入れることの出来る資本家には、そんなことはどうでもいい事であった。冬が来る

と、「やはり」労働者はその坑山に流れ込んで行った。

  それから「入地百姓」――北海道には「移民百姓」がいる。「北海道開拓」「人口食糧問

題解決、移民奨励」、日本少年式な「移民成金」など、ウマイ事ばかり並べた活動写真を

使って、田畑を奪われそうになっている内地の貧農をせんどう煽動 して、移民を奨励して置き

ながら、四、五寸も掘り返せば、下が粘土ばかりの土地に放り出される。ほうじょう豊饒 な土

地には、もう立札が立っている。雪の中に埋められて、馬鈴薯も食えずに、一家は次の春

には餓死することがあった。それは「事実」何度もあった。雪が溶けた頃になって、一里

も離れている「隣りの人」がやってきて、始めてそれが分った。口の中から、半分の嚥みか

けているわらくず藁屑 が出てきたりした。

 ま稀れに餓死から逃れ得ても、その荒ブ地を十年もかかって耕やし、ようやくこれで普通

の畑になったと思える頃、実はそれにちアんと、「外の人」のものになるようになってい

た。資本家は――高利貸、銀行、華族、大金持は、うそ嘘 のような金を貸して置けば、(投

げ捨てて置けば)荒地は、肥えた黒猫の毛並のように豊饒な土地になって、間違なく、自

分のものになってきた。そんな事を真似て、濡手をきめこむ、目の鋭い人間も、又北海道

に入り込んできた。――百姓は、あっちからも、こっちからも自分のものをか噛みとられて

行った。そしてしま終 いには、彼等が内地でそうされたと同じように「小作人」にされてし

まっていた。そうなって百姓は始めて気付いた。――「しま失敗った!」

  彼等は少しでも金を作って、ふるさと故里 の村に帰ろう、そう思って、津軽海峡を渡って、

雪の深い北海道へやってきたのだった。――蟹工船にはそういう、自分の土地を「他人」

に追い立てられて来たものが沢山いた。

  積取人夫は蟹工船の漁夫と似ていた。監視付きのおたる小樽 の下宿屋にゴロゴロしている

と、かばふと樺太 や北海道の奥地へ船で引きずられて行く。足を「

いっすん一寸 」すべらすと、ゴ

ンゴンゴンとうなりながら、地響をたてて転落してくる角材の下になって、南部センベイ

よりも薄くされた。ガラガラとウインチで船に積まれて行く、水で皮がペロペロになって

いる材木に、拍子を食って、一なぐりされると、頭のつぶれた人間は、のみ蚤 の子よりも軽

く、海の中へたたき込まれた。

  ――内地では、何時までも、黙って「殺されていない」労働者が一かたまりに固って、

資本家へ反抗している。然し「殖民地」の労働者は、そういう事情から完全に「

しゃだん遮断 」されていた。

  苦しくて、苦しくてたまらない。然しころ転 んで歩けば歩く程、雪ダルマのように苦しみ

を身体に背負い込んだ。

「どうなるかな……?」

「殺されるのさ、分ってるべよ」

「…………」何か云いたげな、然しグイとつまったまま、皆だまった。

「こ、こ、殺される前に、こっちから殺してやるんだ」どもりがブッきら棒に投げつけ

た。

  トブーン、ドブーンとゆるくサイド腹 に波が当っている。上甲板の方で、何処かのパイプ

からスティムがもれているらしく、シー、シ――ン、シ――ンというてつびん鉄瓶 のたぎるよ

うな、柔かい音が絶えずしていた。

  寝る前に、漁夫達はあか垢 でスルメのようにガバガバになったメリヤスやネルのシャツを

脱いで、ストーヴの上に広げた。囲んでいるもの達が、こたつ炬燵 のように各 その端をもっ

て、熱くしてからバタバタとほろった。ストーヴの上にしらみ虱 や南京虫が落ちると、プツ

ン、プツンと、音をたてて、人が焼ける時のような生ッ臭いにお臭 いがした。熱くなると、

居たまらなくなった虱が、シャツの縫目から、細かい沢山の足を夢中に動かして、出て来

る。つまみ上げると、皮膚のあぶら脂肪 ッぽいコロッとした身体の感触がゾッときた。かまき

り虫のような、無気味な頭が、それと分る程肥えているのもいた。

「おい、端を持ってけれ」

 ふんどし褌 の片端を持ってもらって、広げながら虱をとった。

  漁夫は虱を口に入れて、前歯で、音をさせてつぶしたり、両方のおやゆび拇指 の爪で、爪が

真赤になるまでつぶした。子供が汚い手をすぐ着物にふ拭くように、

はんてん袢天 の

すそ裾 にぬぐ

うと、又始めた。――それでも然し眠れない。何処から出てくるか、夜通し虱とのみ蚤 と

ナンキンむし南京虫 に責められる。いくらどうしても退治し尽されなかった。薄暗く、ジメジメ

している棚に立っていると、すぐモゾモゾと何十匹もの蚤がすね脛 を

は這い上ってきた。

しま終

いには、自分の体の何処かが腐ってでもいないのか、と思った。うじ蛆 や蠅に取りつかれて

いるふらん腐爛 した「死体」ではないか、そんな不気味さを感じた。

  お湯には、初め一日置きに入れた。身体が生ッ臭くよごれて仕様がなかった。然し一週

間もすると、三日置きになり、一カ月位経つと、一週間一度。そしてとうとう月二回にさ

れてしまった。水のらんぴ濫費 を防ぐためだった。然し、船長や監督は毎日お湯に入った。そ

れは濫費にはならなかった。(!)――身体が蟹の汁で汚れる、それがそのまま何日も続

く、それで虱か南京虫がわ湧かない「

はず筈 」がなかった。

  褌を解くと、黒い粒々がこぼれ落ちた。褌をしめたあとが、赤くかたがついて、腹に輪

を作った。そこがたまらなくか掻ゆかった。寝ていると、ゴシゴシと身体をやけにかく音が

何処からも起った。モゾモゾと小さいゼンマイのようなものが、身体の下側を走るかと思

うと――刺す。その度に漁夫は身体をくねらし、寝返りを打った。然し又すぐ同じだっ

た。それが朝まで続く。皮膚がひぜん皮癬 のように、ザラザラになった。

「死に虱だべよ」

「んだ、丁度ええさ」

  仕方なく、笑ってしまった。

                五

  あわてた漁夫が二、三人デッキを走って行った。

  曲り角で、急にまがれず、よろめいて、手すりにつかまった。サロン・デッキで修繕を

していた大工が背のびをして、漁夫の走って行った方を見た。寒風の吹きさらしで、涙が

出て、初め、よく見えなかった。大工は横を向いて勢いよく「つかみ鼻」をかんだ。鼻汁

が風にあふられて、ゆが歪 んだ線を描いて飛んだ。

  ともの左舷のウインチがガラガラなっている。皆漁に出ている今、それを動かしている

わけがなかった。ウインチにはそして何かブラ下っていた。それが揺れている。つ吊り下

がっているワイヤーが、その垂直線の囲りを、ゆるく円を描いて揺れていた。「何んだ

べ?」――その時、ドキッと来た。

  大工はあわて周章 たように、もう一度横を向いて「つかみ鼻」をかんだ。それが風の工合で

ズボンにひっかかった。トロッとした薄い水鼻だった。

「又、やってやがる」大工は涙を何度も腕でぬぐ拭 いながら眼をきめた。

  こっちから見ると、雨上りのような銀灰色の海をバックに、突き出ているウインチの

腕、それにすっかり身体を縛られて、吊し上げられている雑夫が、ハッキリ黒く浮び出て

みえた。ウインチの先端まで空を上ってゆく。そしてぞうきん雑巾 切れでもひッかかったよう

に、しばらくの間――二十分もそのままに吊下げられている。それから下がって行った。

身体をくねらして、もがいているらしく、両足がくも蜘蛛の巣にひっかかった

はえ蠅 のように動

いている。

  やがて手前のサロンの陰になって、見えなくなった。一直線に張っていたワイヤーだけ

が、時々ブランコのように動いた。

  涙が鼻に入ってゆくらしく、水鼻がしきりに出た。大工は又「つかみ鼻」をした。それ

から横ポケットにブランブランしているかなづち金槌 を取って、仕事にかかった。

  大工はひょいと耳をすまして――振りかえって見た。ワイヤ・ロープが、誰か下で振っ

ているように揺れていて、ボクンボクンと鈍い不気味な音はそこ其処からしていた。

  ウインチに吊された雑夫は顔の色が変っていた。死体のように堅くしめている唇から、

あわ泡 を出していた。大工が下りて行った時、雑夫長が

まき薪 を

わき脇 にはさんで、片肩を上げ

た窮屈なかっこう恰好 で、デッキから海へ小便をしていた。あれでなぐったんだな、大工は薪

をちらっと見た。小便は風が吹く度に、ジャ、ジャとデッキの端にかかって、はねを飛ば

した。

  漁夫達は何日も何日も続く過労のために、だんだん朝起きられなくなった。監督が石油

のあきかん空罐 を寝ている耳もとでたたいて歩いた。眼を開けて、起き上るまで、やけに罐を

たたいた。かっけ脚気 のものが、頭を半分上げて何か云っている。

しか然 し監督は見ない振り

で、空罐をやめない。声が聞えないので、金魚が水際に出てきて、空気を吸っている時の

ように、口だけパクパク動いてみえた。いい加減たたいてから、

「どうしたんだ、タタき起すど!」と怒鳴りつけた。「いやしくも仕事が国家的である以

上、戦争と同じ  なんだ。死ぬ覚悟で働け! 馬鹿野郎」

  病人は皆ふとん蒲団 を

は剥ぎとられて、甲板へ押し出された。脚気のものは階段の段々に足先

きがつまずいた。手すりにつかまりながら、身体を斜めにして、自分の足を自分の手で持

ち上げて、階段を上がった。心臓が一足毎に無気味にピンピンけ蹴るようにはね上った。

  監督も、雑夫長も病人には、ままこ継子 にでも対するようにジリジリと陰険だった。「肉

詰」をしていると追い立てて、甲板で「爪たたき」をさせられる。それをちょっと一寸 してい

ると「紙巻」の方へ廻わされる。底寒くて、薄暗い工場の中ですべる足元に気をつけなが

ら、立ちつくしていると、ひざ膝 から下は義足に触るより無感覚になり、ひょいとすると膝

の関節が、ちょう蝶 つがいが離れたように、不覚にヘナヘナと坐り込んでしまいそうになっ

た。

  学生が蟹をつぶした汚れた手の甲で、額を軽くたたいていた。一寸すると、そのまま横

倒しに後へ倒れてしまった。その時、側にか積さなっていた罐詰の空罐がひどく音をたて

て、学生の倒れた上に崩れ落ちた。それが船の傾斜に沿って、機械の下や荷物の間に、光

りながら円るく転んで行った。仲間が周章てて学生をハッチに連れて行こうとした。それ

が丁度、監督が口笛を吹きながら工場に下りてきたのと、会った。ひょいと見てとると、

「誰が仕事を離れったんだ!」

「誰が ……」思わずグッと来た一人が、肩でつッかかるようにせき込んだ。

「誰がア――  ? この野郎、もう一度云ってみろ!」監督はポケットからピストルを取り

出して、玩具のようにいじり廻わした。それから、急に大声で、口を三角形にゆがめなが

ら、背のびをするように身体をゆすって、笑い出した。

「水を持って来い!」

  監督はおけ桶 一杯に水を受取ると、枕木のように床に置き捨てになっている学生の顔に、

いきなり――一度に、それを浴せかけた。

「これでええんだ。――い要らないものなんか見なくてもええ、仕事でもしやがれ!」

  次の朝、雑夫が工場に下りて行くと、旋盤の鉄柱に、前の日の学生が縛りつけられてい

るのを見た。首をひねられた鶏のように、首をガクリ胸に落し込んで、背筋の先端に大き

な関節を一つポコンとあら露 わに見せていた。そして子供の前掛けのように、胸に、それが

明らかに監督の筆致で、

「此者ハ不忠ナル偽病者ニツキ、あさなわ麻縄 ヲ解クコトヲ禁ズ」

  と書いたボール紙を吊していた。

  額に手をやってみると、冷えきった鉄に触るより冷たくなっている。雑夫等は工場に入

るまで、ガヤガヤしゃべっていた。それが誰も口をきくものがない。後から雑夫長の下り

てくる声をきくと、彼等はその学生の縛られている機械から二つに分れて各々の持場に流

れて行った。

  蟹漁が忙がしくなると、ヤケに当ってくる。前歯を折られて、一晩中「血の唾」をはい

たり、過労で作業中に卒倒したり、眼から血を出したり、平手で滅茶苦茶にたた叩 かれて、

耳が聞えなくなったりした。あんまり疲れてくると、皆は酒に酔ったよりも他愛なくなっ

た。時間がくると、「これでいい」と、フト安心すると、瞬間クラクラッとした。

  皆が仕舞いかけると、

「今日は九時までだ」と監督が怒鳴って歩いた。「この野郎達、仕舞いだッて云う時だ

け、手廻わしを早くしやがって!」

  皆は高速度写真のようにノロノロ又立ち上った。それしか気力がなくなっていた。

「いいか、ここ此処へは二度も、三度も出直して来れるところじゃないんだ。それに

いつ何時だっ

て蟹が取れるとも限ったものでもないんだ。それを一日の働きが十時間だから十三時間だ

からって、それでピッタリやめられたら、飛んでもないことになるんだ。――仕事のたち性質

がちが異 うんだ。いいか、その代り蟹が採れない時は、お前達を勿体ない程ブラブラさせて

おくんだ」監督は「糞壺」へ降りてきて、そんなことを云った。「露助はな、魚が何んぼ

眼の前でくき群化てきても、時間が来れば一分も違わずに、仕事をブン投げてしまうんだ。ん

だから――んな心掛けだからロシア露西亜の国がああなったんだ。日本男児の断じて

まね真似てなら

ないことだ!」

   何に云ってるんだ、ペテン野郎! そう思って聞いていないものもあった。然し大部分

は監督にそう云われると日本人はやはり偉いんだ、という気にされた。そして自分達の毎

日の残虐な苦しさが、何か「英雄的」なものに見え、それがせめても皆を慰めさせた。

  甲板で仕事をしていると、よく水平線を横切って、駆逐艦が南下して行った。後尾に日

本の旗がはためくのが見えた。漁夫等は興奮から、眼に涙を一杯ためて、帽子をつかんで

振った。――あれだけだ。俺達の味方は、と思った。

「畜生、あいつを見ると、涙が出やがる」

  だんだん小さくなって、煙にまつわって見えなくなるまで見送った。

  雑巾切れのように、クタクタになって帰ってくると、皆は思い合わせたように、相手も

なく、ただ「畜生!」と怒鳴った。暗がりで、それはぞうお憎悪 に満ちた

おうし牡牛 の

うな唸 り声に

似ていた。誰に対してか彼等自身分ってはいなかったが、然し毎日々々同じ「糞壺」の中

にいて、二百人近くのもの等がお互にブッキラ棒にしゃべり合っているうちに、眼に見え

ずに、考えること、云うこと、することが、(なめくじが地面をは匐うほどののろさだが)

同じになって行った。――その同じ流れのうちでも、勿論よど澱 んだように足ぶみをするも

のが出来たり、別な方へそ外れて行く中年の漁夫もある。然しそのどれもが、自分では何ん

にも気付かないうちに、そうなって行き、そして何時の間にか、ハッキリ分れ、分れに

なっていた。

  朝だった。タラップをノロノロ上りながら、やま炭山から来た男が、

「とても続かねえや」と云った。

  前の日は十時近くまでやって、身体はこわ壊 れかかった機械のようにギクギクしていた。

タラップを上りながら、ひょいとすると、眠っていた。後から「オイ」と声をかけられて

思わず手と足を動かす。そして、足を踏みはず外 して、のめったまま腹ん

ば這いになった。

  仕事につく前に、皆が工場に降りて行って、かたすみ片隅 に

たま溜 った。どれも泥人形のよう

な顔をしている。

「俺ア仕事サボるんだ。出来ねえ」――やま炭山だった。

  皆も黙ったまま、顔を動かした。

  一寸して、

「大焼きが入るからな……」と誰か云った。

「ずるけてサボるんでねえんだ。働けねえからだよ」

 やま炭山が袖を

じょうはく上膊 のところまで、まくり上げて、眼の前ですかして見るようにかざ

した。

「長げえことねえんだ。――俺アずるけてサボるんでねえんだど」

「それだら、そんだ」

「…………」

  その日、監督はとさか鶏冠 をピンと立てた

けんかどり喧嘩鶏 のように、工場を廻って歩いていた。

「どうした、どうした 」と怒鳴り散らした。がノロノロと仕事をしているのが一人、二

人でなしに、あっちでも、こっちでも――ほと殆 んど全部なので、ただイライラ歩き廻るこ

としか出来なかった。漁夫達も船員もそういう監督を見るのは始めてだった。上甲板で、

網から外した蟹が無数に、ガサガサと歩く音がした。通りの悪い下水道のように、仕事が

ドンドンつまって行った。然し「監督のこんぼう棍棒 」が何の役にも立たない!

  仕事が終ってから、煮しまったてぬぐい手拭 で首を拭きながら、皆ゾロゾロ「糞壺」に帰っ

てきた。顔を見合うと、思わず笑い出した。それがなぜ何故か分らずに、おかしくて、おかし

くて仕様がなかった。

  それが船員の方にも移って行った。船員を漁夫とにらみ合わせて、仕事をさせ、いい加

減に馬鹿をみせられていたことが分ると、彼等も時々「サボリ」出した。

「昨日ウンと働き過ぎたから、今日はサボだど」

  仕事の出しなに、誰かそう云うと、皆そうなった。然し「サボ」と云っても、ただ身体

を楽に使うということでしかなかったが。

  誰だって身体がおかしくなっていた。イザとなったら「仕方がない」やるさ。「殺され

ること」はどっち道同じことだ。そんな気が皆にあった。――ただ、もうたまらなかっ

た。

                ×          ×          ×

 「中積船だ! 中積船だ!」上甲板で叫んでいるのが、下まで聞えてきた。皆は思い思い

「糞壺」の棚からボロ着のままは跳ね下りた。

  中積船は漁夫や船員を「女」よりも夢中にした。この船だけは塩ッ臭くない、――函館

の匂いがしていた。何カ月も、何百日も踏みしめたことのない、あの動かない「土」の匂

いがしていた。それに、中積船には日附の違った何通りもの手紙、シャツ、下着、雑誌な

どが送りとどけられていた。

  彼等は荷物を蟹臭い節立った手で、わし鷲 づかみにすると、あわてたように「糞壺」にか

け下りた。そして棚に大きなあぐら安坐 をかいて、その安坐の中で荷物を解いた。色々のもの

が出る。――側から母親がものを云って書かせた、自分の子供のたどたどしい手紙や、手

拭、歯磨、ようじ楊子 、チリ紙、着物、それ等の合せ目から、思いがけなく妻の手紙が、重さ

でキチンと平べったくなって、出てきた。彼等はその何処からでも、陸にある「うち自家」の

匂いをかぎ取ろうとした。乳臭い子供の匂いや、妻のムッとくる膚のにお臭 いを探がした。

………………………………

おそそにかつれて困っている、

三銭切手でとどくなら、

おそそ罐詰で送りたい――かッ!

  やけに大声で「ストトン節」をどなった。

  何んにも送って来なかった船員や漁夫は、ズボンのポケットに棒のように腕をつッこん

で、歩き廻っていた。

「お前の居ないま間に、男でも引ッ張り込んでるだんべよ」

  皆にからかわれた。

  薄暗いすみ隅 に顔を向けて、皆ガヤガヤ騒いでいるのをよそに、何度も指を折り直して、

考え込んでいるのがいた。――中積船で来た手紙で、子供の死んだしらせ報知 を読んだのだっ

た。二カ月も前に死んでいた子供の、それを知らずに「今まで」いた。手紙には無線を頼

む金もなかったので、と書かれていた。漁夫が   と思われる程、その男は何時までも

ムッつりしていた。

  然し、それと丁度反対のがあった。ふやけたたこ蛸 の子のような赤子の写真が入っていた

りした。

「これがか 」と、とんきょう頓狂 な声で笑い出してしまう。

  それから「どうだ、これが産れたんだとよ」と云ってワザワザ一人々々に、ニコニコし

ながら見せて歩いた。

  荷物の中には何んでもないことで、然し妻でなかったら、やはり気付かないような細か

い心配りの分るものが入っていた。そんな時は、急に誰でも、バタバタと心が「あやし

く」騒ぎ立った。――そして、ただ、無性に帰りたかった。

  中積船には、会社で派遣した活動写真隊が乗り込んできていた。出来上っただけの罐詰

を中積船に移してしまった晩、船で活動写真を映すことになった。

  平べったい鳥打ちを少し横めにかぶり、ちょう蝶 ネクタイをして、太いズボンをはいた、

若い同じようなかっこう恰好 の男が二、三人トランクを重そうに持って、船へやってきた。

「臭い、臭い!」

  そう云いながら、上着を脱いで、口笛を吹きながら、幕をはったり、距離をはかって台

を据えたりし始めた。漁夫達は、それ等の男から、何か「海で」ないもの――自分達のよ

うなものでないもの、を感じ、それにひどく引きつけられた。船員や漁夫は何処か浮かれ

気味で、彼等のしたく仕度 に手伝った

  一番年かさらしい下品に見える、太い金縁の眼鏡をかけた男が、少し離れた処に立っ

て、首の汗を拭いていた。

「弁士さん、そったらとこ処 さ立ってれば、足から

のみ蚤 がハネ上って行きますよ!」

  と、「ひやア――ッ!」焼けた鉄板でも踏んづけたようにハネ上った。

  見ていた漁夫達がドッと笑った。

「然しひどい所にいるんだな!」しゃがれた、ジャラジャラ声だった。それはやはり弁士

だった。

「知らないだろうけれども、この会社がここ此処へこうやって、やって来るために、

いくら幾何

もう儲  けていると思う? 大したもんだ。六カ月に五百万円だよ。一年千万円だ。――口で

千万円って云えば、それっ切りだけれども、大したもんだ。それに株主へ二割二分五厘な

んて滅法界もない配当をする会社なんて、日本にだってそうないんだ。今度社長が代議士

になるッて云うし、申分がないさ。――やはり、こんな風にしてもひどくしなけア、あれ

だけ儲けられないんだろうな」

  夜になった。

「一万箱祝」を兼ねてやることになり、酒、しょうちゅう

焼酎 、するめ、にしめ、バット、

キャラメルが皆の間に配られた。

「さ、おど親父のどこさ来い」

  雑夫が、漁夫、船員の間に、引張りだこ凧 になった。「

あぐら安坐 さ抱いて見せてやるから

な」

 「危い、危い! 俺のどこさ来いてば」

  それがガヤガヤしばらく続いた。

  前列の方で四、五人が急に拍手した。皆も分らずに、それに続けて手をたたいた。監督

が白い垂幕の前に出てきた。――腰をのばして、両手を後に廻わしながら、「諸君は」と

か、「私は」とか、普段云ったことのない言葉を出したり、又いつ何時もの「日本男児」だと

か、「国富」だとか云い出した。大部分は聞いていなかった。こめかみとあご顎 の骨を動か

しながら、「するめ」をか咬んでいた。

「やめろ、やめろ!」後から怒鳴る。

 「お前えなんか、ひっこめ! 弁士がいるんだ、ちアんと」

「六角棒の方が似合うぞ!」――皆ドッと笑った。口笛をピュウピュウ吹いて、ヤケに手

をたたいた。

  監督もまさかそこ其処では怒れず、顔を赤くして、何か云うと(皆が騒ぐので聞えなかっ

た)引っ込んだ。そして活動写真が始まった。

  最初「実写」だった。宮城、松島、江ノ島、京都……が、ガタピシャガタピシャと写っ

て行った。時々切れた。急に写真が二、三枚ダブって、目まいでもしたように入り乱れた

かと思うと、瞬間消えて、パッと白い幕になった。

  それから西洋物と日本物をやった。どれも写真はキズが入っていて、ひどく「雨が降っ

た」それに所々切れているのを接合させたらしく、人の動きがギクシャクした。――然し

そんなことはどうでもよかった。皆はすっかり引き入れられていた。外国のいい身体をし

た女が出てくると、口笛を吹いたり、豚のように鼻をならした。弁士は怒ってしばらく説

明しないこともあった。

  西洋物はアメリカ映画で、「西部開発史」を取扱ったものだった。――野蛮人の襲撃を

うけたり、自然の暴虐に打ちこわ壊 されては、又立ち上り、

いっけん一間 々々と鉄道をのばして

行く。途中に、一夜作りの「町」が、まるで鉄道の結びコブのように出来る。そして鉄道

が進む、その先きへ、先きへと町が出来て行った。――其処から起る色々な苦難が、一工

夫と会社の重役の娘との「恋物語」ともつれ合って、表へ出たり、裏になったりして描か

れていた。最後の場面で、弁士が声を張りあげた。

「彼等幾多の犠牲的青年によって、遂に成功するに至った延々何百マイル哩 の鉄道は、長蛇

の如く野を走り、山を貫き、昨日までの蛮地は、かくして国富と変ったのであります」

  重役の娘と、いつ何時の間にか紳士のようになった工夫が相抱くところで幕だった。

  間に、意味なくゲラゲラ笑わせる、短い西洋物が一本はさまった。

  日本の方は、貧乏な一人の少年が「納豆売り」「夕刊売り」などから「靴磨き」をや

り、工場に入り、模範職工になり、取り立てられて、一大富豪になる映画だった。――弁

士はタイトル字幕 にはなかったが、「げに勤勉こそ成功の母ならずして、何んぞや!」と云っ

た。

  それには雑夫達の「真剣な」拍手が起った。然し漁夫か船員のうちで、

「うそ嘘  こけ! そんだったら、俺なんて社長になってねかならないべよ」

  と大声を出したものがいた。

  それで皆は大笑いに笑ってしまった。

  後で弁士が、「ああいう処へは、ウンと力を入れて、繰りかえし、繰りかえし云って貰

いたいって、会社から命令されて来たんだ」と云った。

  最後は、会社の、各所属工場や、事務所などを写したものだった。「勤勉」に働いてい

る沢山の労働者が写っていた。

  写真が終ってから、皆は一万箱祝いの酒で酔払った。

  長い間口にしなかったのと、疲労し過ぎていたので、ベロベロに参ってしま了 った。薄暗

い電気の下に、煙草の煙が雲のようにこめていた。空気がムレて、ドロドロに腐ってい

た。はだぬ肌脱 ぎになったり、鉢巻をしたり、大きく安坐をかいて、尻をすっかりまくり上げ

たり、大声で色々なことを怒鳴り合った。――時々なぐり合いのけんか喧嘩 が起った。

  それが十二時過ぎまで続いた。

 かっけ脚気 で、何時も寝ていた函館の漁夫が、枕を少し高くして貰って、皆の騒ぐのを見て

いた。同じ処から来ている友達の漁夫は、側の柱に寄りかかりながら、歯にはさまったす

るめを、マッチの軸で「シイ」「シイ」音をさせてせせっていた。

  余程過ぎてからだった。――「糞壺」の階段を南京袋のように漁夫が転がって来た。着

物と右手がすっかり血まみれになっていた。

 「出刃、出刃! 出刃を取ってくれ!」土間をは匐いながら、叫んでいる。「浅川の野郎、

何処へ行きゃがった。居ねえんだ。殺してやるんだ」

  監督のためになぐられたことのある漁夫だった。――その男はストーヴのデレッキを

持って、眼の色をかえて、又出て行った。誰もそれをとめなかった。

「な!」函館の漁夫は友達を見上げた。「漁夫だって、何時も木の根ッこみたいな馬鹿で

ねえんだな。面白くなるど!」

  次の朝になって、監督のまどガラス窓硝子 からテーブルの道具が、すっかり滅茶苦茶に

こわ壊 さ

れていたことが分った。監督だけは、何処にいたのか運良く「こわされて」いなかった。

                六

  柔かい雨曇りだった。――前の日まで降っていた。それが上りかけた頃だった。曇った

空と同じ色の雨が、これもやはり曇った空と同じ色の海に、時々なご和 やかな円るい波紋を

落していた。

 ひる午 過ぎ、駆逐艦がやって来た。手の空いた漁夫や雑夫や船員が、デッキの手すりに

寄って、見とれながら、駆逐艦についてガヤガヤ話しあった。物めずらしかった。

  駆逐艦からは、小さいボートが降ろされて、士官連が本船へやってきた。サイドに斜め

に降ろされたタラップの、下のおどり場には船長、工場代表、監督、雑夫長が待ってい

た。ボートが横付けになると、お互に挙手の礼をして船長が先頭に上ってきた。監督が上

をひょいと見ると、まゆ眉 と口隅をゆがめて、手を振って見せた。「何を見てるんだ。行っ

てろ、行ってろ!」

「偉張んねえ、野郎!」――ゾロゾロデッキを後のものが前を順に押しながら、工場へ降

りて行った。生ッ臭い匂いが、デッキにただよって、残った。

「臭いね」綺麗なくちひげ口髭 の若い士官が、上品に顔をしかめた。

  後からついてきた監督が、あわ周章てて前へ出ると、何か云って、頭を何度も下げた。

  皆は遠くから飾りのついた短剣が、歩くたびに尻に当って、跳ね上がるのを見ていた。

どれが、どれよりも偉いとか偉くないとか、それを本気で云い合った。しまいに喧嘩のよ

うになった。

「ああなると、浅川も見られたもんでないな」

  監督のペコペコしたかっこう恰好 を

まね真似して見せた。皆はそれでドッと笑った。

  その日、監督も雑夫長もいないので、皆は気楽に仕事をした。うた唄 をうたったり、機械

越しにこわだか声高 に話し合った。

「こんな風に仕事をさせたら、どんなもんだべな」

  皆が仕事を終えて、上甲板に上ってきた。サロンの前を通ると、中から酔払って、無遠

慮に大声でわめ喚 き散らしているのが聞えた。

 ボーイ給仕 が出てきた。サロンの中は煙草の煙でムンムンしていた。

  給仕の上気した顔には、汗が一つ一つ粒になって出ていた。両手に空のビールびん瓶 を一

杯もっていた。あご顎 で、ズボンのポケットを知らせて、

「顔を頼む」と云った。

  漁夫がハンカチを出してふいてやりながら、サロンを見て、「何してるんだ?」ときい

た。

「イヤ、大変さ。ガブガブ飲みながら、何を話してるかって云えば――女のアレがどうし

たとか、こうしたとかよ。お蔭で百回も走らせられるんだ。農林省の役人が来れば来たで

タラップからタタキ落ちる程酔払うしな!」

「何しに来るんだべ?」

  給仕は、分らんさ、という顔をして、急いでコック場に走って行った。

 はし箸 では食いづらいボロボロな南京米に、紙ッ切れのような、実が浮んでいる塩ッぽい

味噌汁で、漁夫等が飯を食った。

「食ったことも、見たことも無えん洋食が、サロンさ何んぼも行ったな」

「糞喰え――だ」

  テーブルの側の壁には、

一、飯のことで文句を云うものは、偉い人間になれぬ。

一、一粒の米を大切にせよ。血と汗のたまもの賜物 なり。

一、不自由と苦しさに耐えよ。

  振仮名がついた下手な字で、ビラがは貼らさっていた。下の余白には、共同便所の中にあ

るようなわいせつ猥褻 な落書がされていた。

  飯が終ると、寝るまでの一寸の間、ストーヴを囲んだ。――駆逐艦のことから、兵隊の

話が出た。漁夫には秋田、青森、岩手の百姓が多かった。それで兵隊のことになると、訳

が分らず、夢中になった。兵隊に行ってきたものが多かった。彼等は、今では、その当時

の残虐に充ちた兵隊の生活をかえってなつか懐 しいものに、色々

おも想 い出していた。

  皆寝てしまうと、急に、サロンで騒いでいる音が、デッキの板や、サイドを伝って、此

処まで聞えてきた。ひょいと眼をさますと、「まだやっている」のが耳に入った。――も

う夜が明けるんではないか。誰か――給仕かも知れない、甲板を行ったり、来たりしてい

る靴のかかと踵 のコツ、コツという音がしていた。実際、そして、騒ぎは夜明けまで続い

た。

  士官連はそれでも駆逐艦に帰って行ったらしく、タラップは降ろされたままになってい

た。そして、その段々に飯粒や蟹の肉や茶色のドロドロしたものが、ゴジャゴジャになっ

たへど嘔吐が、五、六段続いて、かかっていた。嘔吐からは腐ったアルコールの

にお臭 いが強

く、鼻にプーンときた。胸が思わずカアーッとくる匂いだった。

  駆逐艦は翼をおさめた灰色の水鳥のように、見えない程に身体をゆすって、浮かんでい

た。それは身体全体が「眠り」をむさぼ貪 っているように見えた。煙筒からは煙草の煙より

も細い煙が風のない空に、毛糸のように上っていた。

  監督や雑夫長などは昼になっても起きて来なかった。

「勝手な畜生だ!」仕事をしながら、ブツブツ云った。

  コック部屋のすみ隅 には、粗末に食い散らされた空の蟹罐詰やビール瓶が山積みに積ま

さっていた。朝になると、それを運んで歩いたボーイ自身でさえ、よくこんなに飲んだ

り、食ったりしたもんだ、とびっくり吃驚 した。

  給仕は仕事の関係で、漁夫や船員などが、とてもうかが窺 い知ることの出来ない船長や監

督、工場代表などのムキ出しの生活をよく知っていた。と同時に、漁夫達のみじ惨 めな生活

(監督は酔うと、漁夫達を「ぶため豚奴 々々」と云っていた)も、ハッキリ対比されて知って

いる。公平に云って、上の人間はゴウマンで、恐ろしいことをもう儲 けのために「平気」で

たくら謀 んだ。漁夫や船員はそれにウマウマ落ち込んで行った。――それは見ていられな

かった。

  何も知らないうちはいい、給仕は何時もそう考えていた。彼は、当然どういうことが起

るか――起らないではいないか、それが自分で分るように思っていた。

  二時頃だった。船長や監督等は、下手に畳んでおいたために出来たらしい、色々な折目

のついた服を着て、罐詰を船員二人に持たして、発動機船で駆逐艦に出掛けて行った。甲

板で蟹外しをしていた漁夫や雑夫が、手を休めずに「嫁行列」でも見るように、それを見

ていた。

「何やるんだか、分ったもんでねえな」

「俺達の作った罐詰ば、まるで糞紙よりも粗末にしやがる!」

「然しな……」中年を過ぎかけている、左手の指が三本よりない漁夫だった。「こんな処

まで来て、ワザワザ俺達ば守っててけるんだもの、ええさ――な」

  ――その夕方、駆逐艦が、知らないうちにムクムクと煙突から煙を出し初めた。デッキ

を急がしく水兵が行ったり来たりし出した。そして、それから三十分程して動き出した。

艦尾の旗がハタハタと風にはためく音が聞えた。蟹工船では、船長の発声で、「万歳」を

叫んだ。

  夕飯が終ってから、「糞壺」へ給仕がおりてきた。皆はストーヴの周囲で話していた。

薄暗い電燈の下に立って行って、シャツから虱を取っているのもいた。電燈を横切るたび度

に、大きな影がペンキを塗った、すす煤 けたサイドに斜めにうつった。

「士官や船長や監督の話だけれどもな、今度ロシアの領地へこっそり潜入して漁をするそ

うだど。それで駆逐艦がしっきりなしに、側にいて番をしてくれるそうだ――大部、コレ

やってるらしいな。(拇指と人差指で円るくしてみせた)

「皆の話を聞いていると、金がそのままゴロゴロころ転 がっているようなカムサツカや北樺

太など、この辺一帯を、行く行くはどうしても日本のものにするそうだ。日本のアレは支

那や満洲ばかりでなしに、こっちの方面も大切だって云うんだ。それにはここの会社が三

菱などと一緒になって、政府をウマクつッついているらしい。今度社長が代議士になれ

ば、もっとそれをドンドンやるようだど。

「それでさ、駆逐艦が蟹工船の警備に出動すると云ったところで、どうしてどうして、そ

ればかりの目的でなくて、この辺の海、北樺太、千島の附近まで詳細に測量したり気候を

調べたりするのが、かえって大目的で、万一のアレに手ぬかりなくする訳だな。これア秘

密だろうと思うんだが、千島の一番端の島に、コッソリ大砲を運んだり、重油を運んだり

しているそうだ。

「俺初めて聞いてびっくり吃驚 したんだけれどもな、今までの日本のどの戦争でも、本当は

――底の底を割ってみれば、みんな二人か三人の金持の(そのかわり大金持の)指図で、

きっかけ動機 だけは色々にこじつけて起したもんだとよ。何んしろ見込のある場所を手に入れ

たくて、手に入れたくてパタパタしてるんだそうだからな、そいつ等は。――危いそう

だ」

                七

  ウインチがガラガラとなって、川崎船が下がってきた。丁度その下に漁夫が四人程居

て、ウインチの腕が短いので、下りてくる川崎船をデッキの外側に押してやって、海まで

それが下りれるようにしてやっていた。――よく危いことがあった。ボロ船のウインチ

は、かっけ脚気 の

ひざ膝 のようにギクシャクとしていた。ワイヤーを巻いている歯車の工合で、

グイと片方のワイヤーだけがびっこ跛 にのびる。川崎船が

くんせいにしん燻製鰊 のように、すっか

り斜めにブラ下がってしまうことがある。その時、不意をく喰らって、下にいた漁夫がよく

けが怪我をした。――その朝それがあった。「あッ、危い!」誰か叫んだ。真上からタタキの

めされて、下の漁夫の首が胸の中に、くい杭 のように入り込んでしまった。

  漁夫達は船医のところへかか抱 えこんだ。彼等のうちで、今ではハッキリ監督などに対し

て「畜生!」と思っている者等は、医者に「診断書」を書いて貰うように頼むことにし

た。監督は蛇に人間の皮をきせたような奴だから、何んとかキット難くせを「ぬかす」に

違いなかった。その時の抗議のために診断書は必要だった。それに船医は割合漁夫や船員

に同情を持っていた。

「この船は仕事をして怪我をしたり、病気になったりするよりも、ひッぱたかれたり、た

たきのめされたりして怪我したり、病気したりする方が、ずウッと多いんだからねえ」と

驚いていた。一々日記につけて、後の証拠にしなければならない、と云っていた。それ

で、病気や怪我をした漁夫や船員などを割合に親切に見てくれていた。

  診断書を作って貰いたいんですけれどもと、一人が切り出した。

  初め、吃驚したようだった。

「さあ、診断書はねえ……」

「この通りに書いて下さればいいんですが」

  はがゆかった。

「この船では、それを書かせないことになってるんだよ。勝手にそう決めたらしいんだ

が。……後々のことがあるんでね」

  気の短い、ども吃 りの漁夫が「チェッ!」と舌打ちをしてしまった。

「この前、浅川君になぐられて、耳が聞えなくなった漁夫が来たので、何気なく診断書を

書いてやったら、飛んでもないことになってしまってね。――それが何時までも証拠にな

るんで、浅川君にしちゃね……」

  彼等は船医の室を出ながら、船医もやはり其処まで行くと、もう「俺達」の味方でな

かったことを考えていた。

  その漁夫は、しか然 し「不思議に」どうにか生命を取りとめることが出来た。その代り、

日中でもよく何かにつまずいて、のめる程暗いすみ隅 に転がったまま、その漁夫がうなって

いるのを、何日も何日も聞かされた。

  彼が直りかけて、うめき声が皆を苦しめなくなった頃、前から寝たきりになっていた脚

気の漁夫が死んでしまった。――二十七だった。東京、にっぽり日暮里 の周施屋から来たもの

で、一緒の仲間が十人程いた。然し、監督は次の日の仕事に差支えると云うので、仕事に

出ていない「病気のものだけ」で、「お通夜」をさせることにした。

 ゆかん湯灌 をしてやるために、着物を解いてやると、身体からは、胸がムカーッとする臭気

がきた。そして無気味な真白い、平べったいしらみ虱 が

あわ周章ててゾロゾロと走り出した。

うろこがた鱗形 に

あか垢 のついた身体全体は、まるで松の幹が転がっているようだった。胸は、

ろっこつ肋骨 が一つ一つムキ出しに出ていた。脚気がひどくなってから、自由に歩けなかった

ので、小便などはその場でもらしたらしく、一面ひどい臭気だった。ふんどし褌 もシャツも

あかぐろ赭黒 く色が変って、つまみ上げると、硫酸でもかけたように、ボロボロにくずれそう

だった。へそ臍 の

くぼ窪 みには、垢とゴミが一杯につまって、臍は見えなかった。肛門の

まわ周

りには、糞がすっかり乾いて、粘土のようにこびりついていた。

「カムサツカでは死にたくない」――彼は死ぬときそう云ったそうだった。然し、今彼が

命を落すというとき、側にキット誰もみ看てやった者がいなかったかも知れない。そのカム

サツカでは誰だって死にきれないだろう。漁夫達はその時の彼の気持を考え、中には声を

あげて泣いたものがいた。

  湯灌に使うお湯を貰いにゆくと、コックが、「可哀相にな」と云った。「沢山持って

行ってくれ。随分、身体が汚れてるべよ」

  お湯を持ってくる途中、監督に会った。

「何処へゆくんだ」

「湯灌だよ」

  と云うと、

「ぜいたくに使うな」まだ何か云いたげにして通って行った。

  帰ってきたとき、その漁夫は、「あの時位、いきなり後ろからあいつ彼奴 の頭に、お湯を

ブッかけてやりたくなった時はなかった!」と云った。興奮して、身体をブルブルふる顫 わ

せた。

  監督はしつこく廻ってきては、皆の様子を見て行った。――然し、皆は明日いねむ居睡 りを

しても、のめりながら仕事をしても――例の「サボ」をやっても、皆で「お通夜」をしよ

うということにした。そう決った。

  八時頃になって、ようやく一通りの用意が出来、線香やろうそく蝋燭 をつけて、皆がその前

に坐った。監督はとうとう来なかった。船長と船医が、それでも一時間位坐っていた。片

言のように――切れ切れに、お経の文句を覚えていた漁夫が「それでいい、心が通じる」

そう皆に云われて、お経をあげることになった。お経の間、シーンとしていた。誰か鼻を

すすり上げている。終りに近くなるとそれが何人もに殖えて行った。

  お経が終ると、一人々々焼香をした。それから坐を崩して、各々一かたまり、一かたま

りになった。仲間の死んだことから、生きている――然し、よく考えてみればまるで危く

生きている自分達のことに、それ等の話がなった。船長と船医が帰ってから、ども吃 りの漁

夫が線香とローソクの立っている死体の側のテーブルに出て行った。

「俺はお経は知らない。お経をあげて山田君の霊を慰めてやることは出来ない。然し僕は

よく考えて、こう思うんです。山田君はどんなに死にたくなかったべか、とな。――イ

ヤ、本当のことを云えば、どんなに殺されたくなかったか、と。確に山田君は殺されたの

です」

  聞いている者達は、抑えられたように静かになった。

 「では、誰が殺したか? ――  云わなくたって分っているべよ! 僕はお経でもって、山

田君の霊を慰めてやることは出来ない。然し僕等は、山田君を殺したもののかたき仇 をとる

ことによって、とることによって、山田君を慰めてやることが出来るのだ。――この事

を、今こそ、山田君の霊に僕等は誓わなければならないと思う……」

  船員達だった、一番先きに「そうだ」と云ったのは。

  蟹の生ッ臭いにおいと人いきれのする「糞壺」の中に線香のかおりが、香水か何かのよ

うに、ただよった。九時になると、雑夫が帰って行った。疲れているので、居睡りをして

いるものは、石の入った俵のように、なかなか起き上らなかった。一寸すると、漁夫達も

一人、二人と眠り込んでしまった。――波が出てきた。船が揺れるたび度 に、ローソクの灯

が消えそうに細くなり、又それが明るくなったりした。死体の顔の上にかけてある白木綿

がと除れそうに動いた。ずった。そこだけを見ていると、ゾッとする不気味さを感じ

た。――サイドに、波が鳴り出した。

  次の朝、八時過ぎまで一仕事をしてから、監督のきめた船員と漁夫だけ四人下へ降りて

行った。お経を前の晩の漁夫に読んでもらってから、四人の外に、病気のもの三、四人

で、麻袋に死体をつめた。麻袋は新しいものは沢山あったが、監督は、直ぐ海に投げるも

のに新らしいものを使うなんてぜいたくだ、と云ってきかなかった。線香はもう船には用

意がなかった。

「可哀相なもんだ。――これじゃ本当に死にたくなかったべよ」

  なかなか曲らない腕を組合せながら、涙を麻袋の中に落した。

「駄目々々。涙をかけると……」

「何んとかして、函館まで持って帰られないものかな。……こら、顔をみれ、カムサツカ

のしやっこい水さ入りたくねえッて云ってるんでないか。――海さ投げられるなんて、頼

りねえな……」

「同じ海でもカムサツカだ。冬になれば――九月過ぎれば、船一そう艘 も居なくなって、

凍ってしまう海だで。北の北のはず端 れの!」

「ん、ん」――泣いていた。「それによ、こうやって袋に入れるッて云うのに、たった

六、七人でな。三、四百人もいるのによ!」

「俺達、死んでからも、ろく碌 な目に合わないんだ……」

  皆は半日でいいから休みにしてくれるように頼んだが、前の日から蟹の大漁で、許され

なかった。「私事と公事を混同するな」監督にそう云われた。

  監督が「糞壺」の天井から顔だけ出して、

「もういいか」ときいた。

  仕方がなく彼等は「いい」と云った。

「じゃ、運ぶんだ」

「んでも、船長さんがその前にちょうじ弔詞 を読んでくれることになってるんだよ」

   「船長オ? 弔詞イ? ――」あざ嘲  けるように、「馬鹿! そんな

ゆうちょう悠長 なことして

れるか」

  悠長なことはしていられなかった。蟹が甲板に山積みになって、ゴソゴソ爪で床をなら

していた。

  そして、どんどん運び出されて、さけ鮭 か

ます鱒 の

こもづつ菰包 みのように無雑作に、船尾につ

けてある発動機に積み込まれた。

「いいか――?」

「よオ――し……」

  発動機がバタバタ動き出した。船尾で水がか掻き廻されて、アブクが立った。

「じゃ……」

「じゃ」

「左様なら」

「さび淋 しいけどな――我慢してな」低い声で云っている。

「じゃ、頼んだど!」

  本船から、発動機に乗ったものに頼んだ。

「ん、ん、分った」

  発動機は沖の方へ離れて行った。

「じゃ、な!……」

「行ってしまった。」

「麻袋の中で、行くのはイヤだ、イヤだってしてるようでな……眼に見えるようだ」

  ――漁夫が漁から帰ってきた。そして監督の「勝手な」処置をきいた。それを聞くと、

怒る前に、自分が――したい屍体 になった自分の身体が、底の暗いカムサツカの海に、そうい

うようにけおと蹴落 されでもしたように、ゾッとした。皆はものも云えず、そのままゾロゾロ

タラップを下りて行った。「分った、分った」口の中でブツブツ云いながら、塩ぬれの

ドッたりしたはんてん袢天 を脱いだ。

                八

  表には何も出さない。気付かれないように手をゆるめて行く。監督がどんなに思いッ切

り怒鳴り散らしても、タタキつけて歩いても、口答えもせず「おとなしく」している。そ

れを一日置きに繰りかえす。(初めは、おっかなびっくり、おっかなびっくりでしていた

が)――そういうようにして、「サボ」を続けた。水葬のことがあってから、モットその

足並がそろ揃 ってきた

  仕事の高は眼の前で減って行った。

  中年過ぎた漁夫は、働かされると、一番それが身にこたえるのに、「サボ」にはイヤな

顔を見せた。然し内心(!)心配していたことが起らずに、不思議でならなかったが、か

えって「サボ」がき効いてゆくのを見ると、若い漁夫達の云うように、動きかけてきた。

  困ったのは、川崎の船頭だった。彼等は川崎のことでは全責任があり、監督と平漁夫の

間に居り、「漁獲高」のことでは、すぐに監督に当って来られた。それで何よりつらかっ

た。結局三分の一だけ「仕方なしに」漁夫の味方をして、後の三分の二は監督の小さい

「出店」――その小さい「○」だった。

「それア疲れるさ。工場のようにキチン、キチンと仕事がきまってるわけには行かないん

だ。相手は生き物だ。蟹が人間様に都合よく、時間々々に出てきてはくれないしな。仕方

がないんだ」――そっくり監督の蓄音機だった。

  こんなことがあった。――糞壺で、寝る前に、何かの話が思いがけなく色々の方へ移っ

て行った。その時ひょいと、船頭が威張ったことを云ってしまった。それは別に威張った

ことではないが、「平」漁夫にはムッときた。相手の平漁夫が、そして、少し酔ってい

た。

「何んだって?」いきなり怒鳴った。「てめ手前え、何んだ。あまり威張ったことを云わねえ

方がええんだで。漁に出たとき、俺達四、五人でお前えを海の中さタタキ落す位朝飯前だ

んだ。――それッ切りだべよ。カムサツカだど。お前えがどうやって死んだって、誰が分

るッて!」

  そうは云ったものはいない。それをガラガラな大声でどなり立ててしまった。誰も何も

云わない。今まで話していた外のことも、そこでプッつり切れてしまった。

 しか然 し、こういうようなことは、調子よく

は跳ね上った

からげんき空元気 だけの言葉ではなかっ

た。それは今まで「屈従」しか知らなかった漁夫を、全く思いがけずに背から、とてつも

ない力で突きのめした。突きのめされて、漁夫は初め戸惑いしたようにウロウロした。そ

れが知られずにいた自分の力だ、ということを知らずに。

  ――そんなことが「俺達に  」出来るんだろうか? 然し成る程出来るんだ。

  そう分ると、今度は不思議な魅力になって、反抗的な気持が皆の心に喰い込んで行っ

た。今まで、残酷極まる労働でしぼ搾 り抜かれていた事が、かえってその為にはこの上ない

良い地盤だった。――  こうなれば、監督も糞もあったものでない! 皆愉快がった。一旦

この気持をつかむと、不意に、懐中電燈を差しつけられたように、自分達のうじむし蛆虫 その

ままの生活がアリアリと見えてきた。

「威張んな、この野郎」この言葉が皆の間ではや流行り出した。何かすると「威張んな、この

野郎」と云った。別なことにでも、すぐそれを使った。――威張る野郎は、然し漁夫には

一人もいなかった。

  それと似たことが一度、二度となくある。そのたび度 毎に漁夫達は「分って」行った。そ

して、それが重なってゆくうちに、そんな事で漁夫達の中からいつ何時でも表の方へ押し出さ

れてくる、きまった三、四人が出来てきた。それは誰かが決めたのでなく、本当は又、き

まったのでもなかった。ただ、何か起ったり又しなければならなくなったりすると、その

三、四人の意見が皆のと一致したし、それで皆もその通り動くようになった。――学生上

りが二人程、ども吃 りの漁夫、「威張んな」の漁夫などがそれだった。

  学生が鉛筆をなめ、なめ、一晩中腹ば這いになって、紙に何か書いていた。――それは学

生の「発案」だった。

            発案(責任者の図)

                                   A B C

                                   | | |

 二人の学生 ┐  ┌    雑夫の方一人 国別にして、各々そのうちの餓鬼大将を一人ずつ

            │  │  川崎船の方二人 各川崎船に二人ずつ

 吃りの漁夫 │  │水夫の方一人┐

            │  │            │  水、火夫の諸君

「威張んな」┘  └火夫の方一人┘

      A――――→B――――→C→┌全部の┐

        ←――――  ←――――  ←└  諸君 ┘

  学生はどんなもんだいと云った。どんな事がAから起ろうが、Cから起ろうが、電気よ

り早く、ぬかりなく「全体の問題」にすることが出来る、と威張った。それが、そして一

通り決められた。――実際は、それはそうたやす容易 くは行われなかったが。

「殺されたくないものは来れ  !」 ――その学生上りの得意の宣伝語だった。

もうりもとなり毛利元就 の弓矢を折る話や、内務省かのポスターで見たことのある「綱引き」の例

をもってきた。「俺達四、五人いれば、船頭の一人位海の中へタタキ落すなんか朝飯前

だ。元気を出すんだ」

「一人と一人じゃ駄目だ。危い。だが、あっちは船長から何からを皆んな入れて十人にな

らない。ところがこっちは四百人に近い。四百人が一緒になれば、もうこっちのものだ。

 十人に四百人! 相撲になるなら、やってみろ、だ」そして最後に「殺されたくないもの

は来れ!」だった。――どんな「ボンクラ」でも「飲んだくれ」でも、自分達が半殺しに

されるような生活をさせられていることは分っていたし、(現に、眼の前で殺されてし

まった仲間のいることも分っている)それに、苦しまぎれにやったチョコチョコした「サ

ボ」が案外効き目があったので学生上りや吃りのいうことも、よく聞き入れられた。

  一週間程前の大嵐で、発動機船がスクリュウをこわ毀 してしまった。それで修繕のため

に、雑夫長が下船して、四、五人の漁夫と一緒に陸へ行った。帰ってきたとき、若い漁夫

がコッソリ日本文字で印刷した「赤化宣伝」のパンフレットやビラを沢山持ってきた。

「日本人が沢山こういうことをやっているよ」と云った。――自分達の賃銀や、労働時間

の長さのことや、会社のゴッソリしたかねもう金儲 けのことや、ストライキのことなどが書か

れているので、皆は面白がって、お互に読んだり、ワケを聞き合ったりした。然し、中に

はそれに書いてある文句に、かえってはんぱつ反撥 を感じて、こんな恐ろしいことなんか「日

本人」に出来るか、というものがいた。

  が、「俺アこれが本当だと思うんだが」と、ビラを持って学生上りのところへき訊きに来

た漁夫もいた。

「本当だよ。少し話大きいどもな」

「んだって、こうでもしなかったら、浅川のしょ性 ッ

ぽね骨 直るかな」と笑った。「それに、

あいつ彼奴 等からはモットひどいめに合わされてるから、これで当り前だべよ!」

  漁夫達は、飛んでもないものだ、と云いながら、その「赤化運動」に好奇心を持ち出し

ていた。

  嵐の時もそうだが、霧が深くなると、川崎船を呼ぶために、本船では絶え間なしに汽笛

を鳴らした。はば巾 広い、牛の

なきごえ啼声 のような汽笛が、水のように濃くこめた霧の中を一

時間も二時間もなった。――然しそれでも、うまく帰って来れない川崎船があった。とこ

ろが、そんな時、仕事の苦しさからワザと見当を失った振りをして、カムサツカに漂流し

たものがあった。秘密に時々あった。ロシアの領海内に入って、漁をするようになってか

ら、あらかじ予 め陸に見当をつけて置くと、案外容易く、その漂流が出来た。その連中も

「赤化」のことを聞いてくるものがあった。

  ――何時でも会社は漁夫を雇うのに細心の注意を払った。募集地の村長さんや、署長さ

んに頼んで「模範青年」を連れてくる。労働組合などに関心のない、云いなりになる労働

者を選ぶ。「抜け目なく  」万事好都合に! 然し、蟹工船の「仕事」は、今では丁度逆に、

それ等の労働者を団結――組織させようとしていた。いくら「抜け目のない」資本家で

も、この不思議な行方までには気付いていなかった。それは、皮肉にも、未組織の労働

者、手のつけられない「飲んだくれ」労働者をワザワザ集めて、団結することを教えてく

れているようなものだった。

                九

  監督はあわ周章て出した。

  漁期の過ぎてゆくその毎年の割に比べて、蟹の高はハッキリ減っていた。他の船の様子

をきいてみても、昨年よりはもっと成績がいいらしかった。二千ばこ函 は遅れている。――

監督は、これではもう今までのように「おしゃか釈迦 様」のようにしていたって駄目だ、と

思った。

  本船は移動することにした。監督は絶えず無線電信を盗みきかせ、他の船の網でもかま

わずドンドン上げさせた。かいり二十浬ほど南下して、最初に上げた渋網には、蟹がモリモリと

網の目に足をひっかけて、かかっていた。たしかに××丸のものだった。

「君のお陰だ」と、彼は監督らしくなく、局長の肩をたたいた。

  網を上げているところを見付けられて、発動機が放々のてい態 で逃げてくることもあっ

た。他船の網を手当り次第に上げるようになって、仕事が尻上りに忙しくなった。

仕事を少しでもなま怠 けたと見るときには大焼きを入れる。

組をなして怠けたものにはカムサツカ体操をさせる。

罰として賃銀棒引き、

函館へ帰ったら、警察に引き渡す。

いやしくも監督に対し、少しの反抗を示すときは銃殺されるものと思うべし。

                                          浅川監督

                                          雑夫長

  この大きなビラが工場の降り口には貼られた。監督は弾をつめッ放しにしたピストルを始

終持っていた。飛んでもない時に、皆の仕事をしている頭の上で、かもめ鴎 や船の

どこ何処かに

見当をつけて、「示威運動」のように打った。ギョッとする漁夫を見て、ニヤニヤ笑っ

た。それは全く何かの拍子に「本当」に打ち殺されそうな不気味な感じを皆にひらめかし

た。

  水夫、火夫も完全に動員された。勝手に使いまわされた。船長はそれに対して一言も云

えなかった。船長は「看板」になってさえいれば、それで立派な一役だった。前にあった

ことだった――領海内に入って漁をするために、船を入れるように船長が強要された。船

長は船長としての公の立場から、それを犯すことは出来ないとがんば頑張 った。

「勝手にしやがれ!」「頼まないや!」と云って、監督等が自分達で、船を領海内に

てんびょう転錨 さしてしまった。ところが、それが露国の監視船に見付けられて、追跡され

た。そしてじんもん訊問 になり、自分がしどろもどろになると、「

ひきょう卑怯 」にも退却してし

まった。「そういう一切のことは、船としてはもちろん勿論 船長がお答えすべきですか

ら……」無理矢理に押しつけてしまった。全く、この看板は、だから必要だった。それだ

けでよかった。

  そのことがあってから、船長は船を函館に帰そうと何辺も思った。が、それをそうさせ

ない力が――資本家の力が、やっぱり船長をつかんでいた。

「この船全体が会社のものなんだ、分ったか!」ウァハハハハハと、口を三角にゆがめ

て、背のびするように、無遠慮に大きく笑った。

  ――「糞壺」に帰ってくると、ども吃 りの漁夫は仰向けにでんぐり返った。残念で、残念

で、たまらなかった。漁夫達は、彼や学生などの方を気の毒そうに見るが、何も云えない

程ぐッしゃりつぶされてしまっていた。学生の作った組織もほご反古のように、役に立たな

かった。――それでも学生は割合に元気を保っていた。

「何かあったら跳ね起きるんだ。その代り、その何かをうまくつかむことだ」と云った。

「これでも跳ね起きられるかな」――威張んなの漁夫だった。

「かな――  ? 馬鹿。こっちは人数が多いんだ。恐れることはないさ。それに彼奴等が無

茶なことをすればする程、今のうちこそ内へ、内へとこもっているが、火薬よりも強い不

平と不満が皆の心の中に、つまりにいいだけつまっているんだ。――俺はそいつを頼りに

しているんだ」

「道具立てはいいな」威張んなは「糞壺」の中をグルグル見廻して、

「そんな奴等がいるかな。どれも、これも…………」

  愚痴ッぽく云った。

「俺達から愚痴ッぽかったら――もう、最後だよ」

「見れ、お前えだけだ、元気のええのア。――今度事件起こしてみれ、いのち生命 がけだ」

  学生は暗い顔をした。「そうさ……」と云った。

  監督は手下を連れて、夜三回まわってきた。三、四人固まっていると、怒鳴りつけた。

それでも、まだ足りなく、秘密に自分の手下を「糞壺」に寝らせた。

  ――「鎖」が、ただ、眼に見えないだけの違いだった。皆の足は歩くときには、

インチぶと吋太 の鎖を現実に後に引きずッているように重かった。

「俺ア、キット殺されるべよ」

「ん。んでも、どうせ殺されるッて分ったら、その時アやるよ」

  芝浦の漁夫が、

 「馬鹿!」と、横から怒鳴りつけた。「殺されるッて分ったら? 馬鹿ア、いつ何時だ、それ

ア。――今、殺されているんでねえか。小刻みによ。彼奴等はな、上手なんだ。ピストル

は今にもうつように、何時でも持っているが、なかなかそんなヘマはしないんだ。あれア

「手」なんだ。――分るか。彼奴等は、俺達を殺せば、自分等の方で損するんだ。目的は

――本当の目的は、俺達をウンと働かせて、しめぎ締木 にかけて、ギイギイ搾り上げて、しこ

たま儲けることなんだ。そいつを今俺達は毎日やられてるんだ。――どうだ、この滅茶苦

茶は。まるで蚕に食われている桑の葉のように、俺達の身体が殺されているんだ」

「んだな!」

「んだな、も糞もあるもんか」厚いてのひら掌 に、煙草の火を転がした。「ま、待ってく

れ、今に、畜生!」

  あまり南下して、がら身体の小さい女蟹ばかり多くなったので、場所を北の方へ移動するこ

とになった。それで皆は残業をさせられて、少し早目に(久し振りに!)仕事が終った。

  皆が「糞壺」に降りて来た。

「元気ねえな」芝浦だった。

「こら、足ば見てけれや。ガク、ガクッて、段ば降りれなくなったで」

「気の毒だ。それでもまだ一生懸命働いてやろうッてんだから」

 「誰が! ――仕方ねんだべよ」

  芝浦が笑った。「殺される時も、仕方がねえか」

「…………」

「まあ、このまま行けば、お前ここ四、五日だな」

  相手は拍手に、イヤな顔をして、黄色ッぽくムクンだ片方のほお頬 と

まぶた眼蓋 をゆがめた。

そして、だまって自分のたな棚 のところへ行くと、端へ

ひざ膝 から下の足をブラ下げて、関節

をてがたな掌刀 でたたいた。

  ――下で、芝浦が手を振りながら、しゃべっていた。ども吃 りが、身体をゆすりながら、

あいづち相槌 を打った。

「……いいか、まア仮りに金持が金を出して作ったから、船があるとしてもいいさ。水夫

と火夫がいなかったら動くか。蟹が海の底に何億っているさ。仮りにだ、色々なしたく仕度 を

して、此処まで出掛けてくるのに、金持が金をだせたからとしてもいいさ。俺達が働かな

かったら、一匹の蟹だって、金持のふところ懐 に入って行くか。いいか、俺達がこの一夏こ

こで働いて、それで一体どの位金が入ってくる。ところが、金持はこの船一艘で純手取り

四、五十万円ッて金をせしめるんだ。――さあ、んだら、その金の出所だ。無から有は生

ぜじだ。――分るか。なア、皆んな俺達の力さ。――んだから、そう今にもお陀仏するよ

うな不景気なつら面 してるなって云うんだ。うんと威張るんだ。底の底のことになれば、う

そでない、あっちの方が俺達をおッかながってるんだ。ビクビクすんな。

  水夫と火夫がいなかったら、船は動かないんだ。――労働者が働かねば、ビタ一文だっ

て、金持の懐にゃ入らないんだ。さっき云った船を買ったり、道具を用意したり、仕度を

する金も、やっぱり他の労働者が血をしぼって、儲けさせてやった――俺達からしぼり

取って行きやがった金なんだ。――金持と俺達とは親と子なんだ……」

  監督が入ってきた。

  皆ドマついたかっこう恰好 で、ゴソゴソし出した。

                十

  空気がガラス硝子 のように冷たくて、

ちり塵 一本なく澄んでいた。――二時で、もう夜が明け

ていた。カムサツカの連峰が金紫色に輝いて、海から二、三寸位の高さで、地平線を南に

長く走っていた。さざなみ小波 が立って、その一つ一つの面が、朝日を一つ一つうけて、夜明

けらしく、寒々と光っていた。――それが入り乱れて砕け、入り交れて砕ける。その度に

キラキラ、と光った。鴎の啼声が(どこ何処にいるのか分らずに)声だけしていた。――さわ

やかに、寒かった。荷物にかけてある、油のにじんだズックのカヴァが時々ハタハタと

なった。分らないうちに、風が出てきていた。

 はんてん袢天 の袖に、カガシのように手を通しながら、漁夫が段々を上ってきて、ハッチか

ら首を出した。首を出したまま、はじかれたように叫んだ。

「あ、うさぎ兎 が飛んでる。――これア大

しけ暴風になるな」

  三角波が立ってきていた。カムサツカの海に慣れている漁夫には、それがす直ぐ分る。

「危ねえ、今日休みだべ」

  一時間程してからだった。

  川崎船を降ろすウインチの下で、そこ其処、

ここ此処七、八人ずつ漁夫が固まっていた。川崎船

はどれも半降ろしになったまま、途中で揺れていた。肩をゆすりながら海を見て、お互云

い合っている。

  一寸した。

「やめたやめた!」

「くそ糞 でも

くら喰 らえ、だ!」

  誰かキッカケにそういうのを、皆は待っていたようだった。

  肩を押し合って、「おい、引き上げるべ!」と云った。

「ん」

「ん、ん!」

  一人がしかめたまなざし眼差 で、ウインチを見上げて、「

しか然 しな……」と

ため躊躇らってい

る。

  行きかけたのが、自分の片肩をグイとしゃくって、「死にたかったら、ひと独 りで

え行げ

よ!」と、ハキ出した。

  皆はかたま固 って歩き出した。誰か「本当にいいかな」と、小声で云っていた。二人程、

あやふやに、遅れた。

  次のウインチの下にも、漁夫達は立ちどまったままでいた。彼等は第二号川崎の連中

が、こっちに歩いてくるのを見ると、その意味が分った。四、五人が声をあげて、手を

 振った。

「やめだ、やめだ!」

「ん、やめだ!」

  その二つが合わさると、元気が出てきた。どうしようか分らないでいる遅れた二、三人

は、まぶしそうに、こっちを見て、立ち止っていた。皆が第五川崎のところで、又一緒に

なった。それ等を見ると、遅れたものはブツブツ云いながら後から、歩き出した。

  吃りの漁夫が振りかえって、大声で呼んだ。「しっかりせッ!」

  雪だるまのように、漁夫達のかたまりがコブをつけて、大きくなって行った。皆の前や

後を、学生や吃りが行ったり、来たり、しきりなしに走っていた。「いいか、はぐれない

 ことだど! 何よりそれだ。もう、大丈夫だ。もう――!」

  煙筒の側に、車座に坐って、ロープの繕いをやっていた水夫が、のび上って、

「どうした。オ――イ?」と怒鳴った。

  皆はその方へ手を振りあげて、ワアーッと叫んだ。上から見下している水夫達には、そ

れが林のように揺れて見えた。

「よオし、さ、仕事なんてやめるんだ!」

  ロープをさっさと片付け始めた。「待ってたんだ!」

  そのことが漁夫達の方にも分った。二度、ワアーッと叫んだ。

「まず糞壺さ引きあげるべ。そうするべ。――ひで非道え奴だ。ちゃんと大

しけ暴風になること

分っていて、それで船を出させるんだからな。――人殺しだべ!」

「あったら奴に殺されて、たまるけア!」

「今度こそ、覚えてれ!」

 ほと殆 んど一人も残さないで、糞壺へ引きあげてきた。中には「仕方なしに」

つ随いて来た

ものもいるにはいた。

  ――皆のドカドカッと入り込んできたのに、薄暗いところに寝ていた病人が、びっくり吃驚

して板のような上半身を起した。ワケを話してやると、見る見る眼に涙をにじませて何度

も、何度も頭を振ってうなずいた。

  吃りの漁夫と学生が、機関室のなわばしご縄梯子 のようなタラップを下りて行った。急いでい

たし、慣れていないので、何度も足をすべらして、危く、手でつりさが吊下 った。中はボイ

ラーの熱でムンとして、それに暗かった。彼等はすぐ身体中汗まみれになった。かま汽罐の上

のストーヴのロストルのような上を渡って、またタラップを下った。下で何かこわだか声高 に

しゃべっているのが、ガン、ガ――ンと反響していた。――地下何百尺という地獄のよう

なたてこう竪坑 を初めて下りて行くような無気味さを感じた。

「これもつれえ仕事だな」

「んよ、それに又、か、甲板さ引っぱり出されて、か、蟹たたきでも、さ、されたら、た

まったもんでねえさ」

「大丈夫、火夫も俺達の方だ!」

「ん、大丈――夫!」

  ボイラーの腹を、タラップでおりていた。

「熱い、熱い、たまんねえな。人間のくんせい燻製 が出来そうだ」

「冗談じゃねえど。今火たいていねえ時で、こんだんだど。た燃いてる時なんて!」

「んか、な。んだべな」

「インド印度 の海渡る時ア、三十分交代で、それでヘナヘナになるてんだとよ。ウッカリ文句

をぬかした一機が、シャベルで滅多やたらにたたきのめされて、あげくの果て、ボイラー

に燃かれてしまうことがあるんだとよ。――そうでもしたくなるべよ!」

「んな……」

 かま汽罐の前では、石炭カスが引き出されて、それに水でもかけたらしく、

もうもう濛々 と灰が

立ちのぼっていた。その側で、半分裸の火夫達が、煙草をくわえながら、ひざ膝 を抱えて話

していた。薄暗い中で、それはゴリラがうずくまっているのと、そっくりに見えた。石炭

庫の口が半開きになって、ひんやりした真暗な内を、無気味にのぞ覗 かせていた。

「おい」吃りが声をかけた。

「誰だ?」上を見上げた。――それが「誰だ――誰だ、――誰だ」と三つ位に響きかえっ

て行く。

  そこへ二人が降りて行った。二人だということが分ると、

「間違ったんでねえか、道を」と、一人が大声をたてた。

「ストライキやったんだ」

「ストキがどうしたって?」

「ストキでねえ、ストライキだ」

「やったか!」

「そうか。このまま、どんどん火でもブッた燃いて、函館さ帰ったらどうだ。面白いど」

  吃りは「しめた!」と思った。

「んで、皆せいぞろ勢揃 えしたところで、畜生等にねじ込もうッて云うんだ」

「やれ、やれ!」

「やれやれじゃねえ。やろう、やろうだ」

  学生が口を入れた。

「んか、んか、これア悪かった。――やろうやろう!」火夫が石炭の灰で白くなっている

頭をかいた。

  皆笑った。

「お前達の方、お前達ですっかり一まと纏 めにして貰いたいんだ」

「ん、分った。大丈夫だ。何時でも一つ位え、ブンなぐってやりてえと思ってる連中ばか

りだから」

  ――火夫の方はそれでよかった。

  雑夫達は全部漁夫のところに連れ込まれた。一時間程するうちに、火夫と水夫も加わっ

てきた。皆甲板に集った。「要求事項」は、吃り、学生、芝浦、威張んなが集ってきめ

た。それを皆の面前で、彼等につきつけることにした。

  監督達は、漁夫等が騒ぎ出したのを知ると――それからちっとも姿を見せなかった。

「おかしいな」

「これア、おかしい」

「ピストル持ってたって、こうなったら駄目だべよ」

  吃りの漁夫が、ちょっと一寸 高い処に上った。皆は手を

たた拍 いた。

 「諸君、とうとう来た! 長い間、長い間俺達は待っていた。俺達は半殺しにされながら

も、待っていた。今に見ろ、と。しかし、とうとう来た。

「諸君、まず第一に、俺達は力を合わせることだ。俺達は何があろうと、仲間を裏切らな

いことだ。これだけさえ、しっかりつかんでいれば、彼奴等如きをモミつぶすは、虫ケラ

よりたやす容易 いことだ。――そんならば、第二には何か。諸君、第二にも力を合わせること

だ。落伍者を一人も出さないということだ。一人の裏切者、一人の寝がえり者を出さない

ということだ。たった一人の寝がえりものは、三百人の命を殺すということを知らなけれ

ばならない。一人の寝がえり……(「分った、分った」「大丈夫だ」「心配しないで、

やってくれ」)……

「俺達の交渉が彼奴等をタタキのめせるか、その職分を完全につくせるかどうかは、一に

諸君の団結の力に依るのだ」

  続いて、火夫の代表が立ち、水夫の代表が立った。火夫の代表は、普段一度も云ったこ

ともない言葉をしゃべり出して、自分でどまついてしまった。つまるたび度 に赤くなり、

ナッパ服のすそ裾 を引張ってみたり、すり切れた穴のところに手を入れてみたり、ソワソワ

した。皆はそれに気付くとデッキを足踏みして笑った。

「……俺アもうやめる。然し、諸君、彼奴等はブンなぐってしまうべよ!」と云って、壇

を下りた。

  ワザと、皆が大げさに拍手した。

「其処だけでよかったんだ」後で誰かひやかした。それで皆は一度にワッと笑い出してし

まった。

  火夫は、夏の真最中に、ボイラーの柄の長いシャベルを使うときよりも、汗をびっしょ

りかいて、足元さえ頼りなくなっていた。降りて来たとき、「俺何しゃべったかな?」と

仲間にきいた。

  学生が肩をたたいて、「いい、いい」と云って笑った。

「お前えだ、悪いのア。別にいたのによ、俺でなくたって……」

「皆さん、私達は今日の来るのを待っていたんです」――壇には一五、六歳の雑夫が立っ

ていた。

「皆さんも知っている、私達の友達がこの工船の中で、どんなに苦しめられ、半殺しにさ

れたか。夜になって薄ッぺらい布団に包まってから、家のことを思い出して、よく私達は

泣きました。此処に集っているどの雑夫にも聞いてみて下さい。一晩だって泣かない人は

いないのです。そして又一人だって、身体に生キズのないものはいないのです。もう、こ

んな事が三日も続けば、キット死んでしまう人もいます。――ちょっとでも金のあるうち家

ならば、まだ学校に行けて、無邪気に遊んでいれる年頃の私達は、こんなに遠く……(声

がかすれる。吃り出す。おさ抑 えられたように静かになった)然し、もういいんです。大丈

夫です。大人の人に助けて貰って、私達は憎い憎い、彼奴等に仕返ししてやることが出来

るのです……」

  それは嵐のような拍手をひ惹き起した。手を夢中にたたきながら、眼尻を太い指先きで、

ソッとぬぐ拭 っている中年過ぎた漁夫がいた。

  学生や、吃りは、皆の名前をかいた誓約書を廻して、なついん捺印 を貰って歩いた。

  学生二人、吃り、威張んな、芝浦、火夫三名、水夫三名が、「要求条項」と「誓約書」を

持って、船長室に出掛けること、その時には表で示威運動をすることが決った。――陸の

場合のように、住所がチリチリバラバラになっていないこと、それに下地が充分にあった

ことが、スラスラと運ばせた。ウソのように、スラスラ纏った。

「おかしいな、何んだって、あの鬼顔出さないんだべ」

「やっきになって、得意のピストルでも打つかと思ってたどもな」

  三百人は吃りの音頭で、一斉に「ストライキ万歳」を三度叫んだ。学生が「監督の野

郎、この声聞いて震えてるだろう!」と笑った。――船長室へ押しかけた。

  監督は片手にピストルを持ったまま、代表を迎えた。

  船長、雑夫長、工場代表……などが、今までたしかに何か相談をしていたらしいことが

ハッキリ分るそのままの恰好で、迎えた。監督は落付いていた。

  入ってゆくと、

「やったな」とニヤニヤ笑った。

  外では、三百人が重なり合って、大声をあげ、ドタ、ドタ足踏みをしていた。監督は

「うるさい奴だ!」とひくい声で云った。が、それ等には気もかけない様子だった代表が

興奮して云うのを一通りきいてから、「要求条項」と、三百人の「誓約書」を形式的にチ

ラチラ見ると、「後悔しないか」と、拍子抜けするほど、ゆっくり云った。

「馬鹿野郎ッ!」吃りがいきなり監督の鼻ッ面をなぐ殴 りつけるように怒鳴った。

「そうか、いい。――後悔しないんだな」

  そう云って、それからちょっと一寸 調子をかえた。「じゃ、聞け。いいか。明日の朝になら

ないうちに、色よい返事をしてやるから」――だが、云うより早かった、芝浦が監督のピ

ストルをタタキ落すと、拳骨でほお頬 をなぐりつけた。監督がハッと思って、顔を押えた瞬

間、吃りがキノコのような円椅子で横なぐりに足をさらった。監督の身体はテーブルに

引っかかって、他愛なく横倒れになった。その上に四本の足を空にして、テーブルがひっ

くりかえって行った。

   「色よい返事だ? この野郎、フザけるな! 生命にかけての問題だんだ!」

  芝浦ははば巾 の広い肩をけわしく動かした。水夫、火夫、学生が二人をとめた。船長室の

窓がすご凄 い音を立てて

こわ壊  れた。その瞬間、「殺しちまい!」「打ッ殺せ!」「のせ!

のしちまえ!」外からの叫び声が急に大きくなって、ハッキリ聞えてきた。――何時の間

にか、船長や雑夫長や工場代表が室のかたすみ片隅 の方へ、固まり合って棒杭のようにつッ

立っていた。顔の色がなかった。

  ドアーを壊して、漁夫や、水、火夫がなだ雪崩れ込んできた。

  昼過ぎから、海は大嵐になった。そして夕方近くになって、だんだん静かになった。

「監督をたたきのめす!」そんなことがどうして出来るもんか、そう思っていた。ところ

 が! 自分達の「手」でそれをやってのけたのだ。普段おどかし看板にしていたピストル

さえ打てなかったではないか。皆はウキウキとはしゃ噪 いでいた。――代表達は頭を集め

て、これからの色々な対策を相談した。「色よい返事」が来なかったら、「覚えてろ!」

と思った。

  薄暗くなった頃だった。ハッチの入口で、見張りをしていた漁夫が、駆逐艦がやってき

たのを見た。――あわ周章てて「糞壺」に

か馳け込んだ。

「しまったッ 」学生の一人がバネのようにはね上った。見る見る顔の色が変った。

「感違いするなよ」吃りが笑い出した。「この、俺達の状態や立場、それに要求などを、

士官達に詳しく説明して援助をうけたら、かえってこのストライキは有利に解決がつく。

分りきったことだ」

  外のものも、「それアそうだ」と同意した。

「我帝国の軍艦だ。俺達国民の味方だろう」

「いや、いや……」学生は手を振った。余程のショックを受けたらしく、唇を震わせてい

る。言葉がども吃 った。

 「国民の味方だって? ……いやいや……」

 「馬鹿な! ――国民の味方でない帝国の軍艦、そんな理窟なんてあるはず筈 があるか 」

「駆逐艦が来た!」「駆逐艦が来た!」という興奮が学生の言葉を無理矢理にもみつぶ潰 し

てしまった。

  皆はドヤドヤと「糞壺」から甲板にかけ上った。そして声をそろ揃 えていきなり、「帝国

軍艦万歳」を叫んだ。

  タラップの昇降口には、顔と手にホータイをした監督や船長と向い合って、吃り、芝

浦、威張んな、学生、水、火夫等が立った。薄暗いので、ハッキリ分らなかったが、駆逐

艦からは三艘汽艇が出た。それが横付けになった。一五、六人の水兵が一杯つまってい

た。それが一度にタラップを上ってきた。

 あ呀  ッ!

つけけん着剣  をしているではないか! そして帽子の

あごひも顎紐 をかけている!

「しまった!」そう心の中で叫んだのは、吃りだった。

  次の汽艇からも十五、六人。その次の汽艇からも、やっぱり銃の先きに、着剣した、顎

 紐をかけた水兵! それ等は海賊船にでもおど躍 り込むように、ドカドカッと上ってくる

と、漁夫や水、火夫を取り囲んでしまった。

 「しまった! 畜生やりゃがったな!」

  芝浦も、水、火夫の代表も初めて叫んだ。

「ざま、見やがれ!」――監督だった。ストライキになってからの、監督の不思議な態度

が初めて分った。だが、遅かった。

「有無」を云わせない。「不届者」「不忠者」「露助の真似する売国奴」そうばとう罵倒 され

て、代表の九人が銃剣を擬されたまま、駆逐艦に護送されてしまった。それは皆がワケが

分らず、ぼんやり見とれている、その短い間だった。全く、有無を云わせなかった。――

一枚の新聞紙が燃えてしまうのを見ているより、他愛なかった。

  ――簡単に「片付いてしまった」

「俺達には、俺達しか、味方がね無えんだな。始めて分った」

「帝国軍艦だなんて、大きな事を云ったって大金持の手先  でねえか、国民の味方? おか

しいや、糞喰らえだ!」

  水兵達は万一を考えて、三日船にいた。その間中、上官連は、毎晩サロンで、監督達と

一緒に酔払っていた。――「そんなものさ」

  いくら漁夫達でも、今度という今度こそ、「誰が敵」であるか、そしてそれ等が(全く

意外にも!)どういう風に、お互が繋がり合っているか、ということが身をもって知らさ

れた。

  毎年の例で、漁期が終りそうになると、蟹罐詰の「献上品」を作ることになっていた。

然し「乱暴にも」何時でも、別に斎戒もくよく沐浴 して作るわけでもなかった。その度に、漁

夫達は監督をひどい事をするものだ、と思って来た。――だが、今度はちが異 ってしまって

いた。

「俺達の本当の血と肉をしぼ搾 り上げて作るものだ。フン、さぞうめえこったろ。食ってし

まってから、腹痛でも起さねばいいさ」

  皆そんな気持で作った。

「石ころ  でも入れておけ! かまうもんか!」

「俺達には、俺達しか味方が無えんだ」

  それは今では、皆の心の底の方へ、底の方へ、と深く入り込んで行った。――「今に見

ろ!」

  然し「今に見ろ」を百遍繰りかえして、それが何になるか。――ストライキがみじ惨 めに

敗れてから、仕事は「畜生、思い知ったか」とばかりに、過酷になった。それは今までの

過酷にもう一つ更に加えられた監督のふっきゅうてき

復仇的 な過酷さだった。限度というものの

一番極端を越えていた。――今ではもう仕事は堪え難いところまで行っていた。

「――間違っていた。ああやって、九人なら九人という人間を、表に出すんでなかった。

まるで、俺達の急所はここだ、と知らせてやっているようなものではないか。俺達全部

は、全部が一緒になったという風にやらなければならなかったのだ。そしたら監督だっ

て、駆逐艦に無電は打てなかったろう。まさか、俺達全部を引き渡してしまうなんて事、

出来ないからな。仕事が、出来なくなるもの」

「そうだな」

「そうだよ。今度こそ、このまま仕事していたんじゃ、俺達本当に殺されるよ。犠牲者を

出さないように全部で、一緒にサボルことだ。この前と同じ手で。吃りが云ったでない

か、何より力を合わせることだって。それに力を合わせたらどんなことが出来たか、とい

うことも分っている筈だ」

「それでも若し駆逐艦を呼んだら、皆で――この時こそ力を合わせて、一人も残らず引渡

 されよう! その方がかえって助かるんだ」

「んかも知らない。然し考えてみれば、そんなことになったら、監督が第一あわ周章てるよ、

会社の手前。代りを函館から取り寄せるのには遅すぎるし、出来高だって問題にならない

程少ないし。……うまくやったら、これア案外大丈夫だど」

 「大丈夫だよ。それに不思議に誰だって、ビクビクしていないしな。皆、畜生! ッて気

でいる」

「本当のことを云えば、そんな先きの成算なんて、どうでもいいんだ。――死ぬか、生き

るか、だからな」

「ん、もう一回だ!」

  そして、彼等は、立ち上った。――もう一度!

                附記

  この後のことについて、二、三附け加えて置こう。

イ、二度目の、完全な「サボ」は、マンマと成功したということ。「まさか」と思ってい

た、面くら喰 った監督は、夢中になって無電室にかけ込んだが、ドアーの前で立ち往生して

しまったこと、どうしていいか分らなくなって。

ロ、漁期が終って、函館へ帰港したとき、「サボ」をやったりストライキをやった船は、博

光丸だけではなかったこと。二、三の船から「赤化宣伝」のパンフレットが出たこと。

ハ、それから監督や雑夫長等が、漁期中にストライキの如き不祥事をひきおこ惹起 させ、製品高

に多大の影響を与えたという理由のもとに、会社があの忠実な犬を「無慈悲」に涙銭一文

くれず、(漁夫達よりも惨めに!)首を切ってしまったということ。面白いことは、「あ

――あ、くや口惜  しかった! 俺ア今まで、畜生、だまされていた!」と、あの監督が叫んだ

ということ。

ニ、そして、「組織」「闘争」――この初めて知った偉大な経験をにな担 って、漁夫、年若い

雑夫等が、警察の門から色々な労働の層へ、それぞれ入り込んで行ったということ。

――この一篇は、「殖民地に於ける資本主義侵入史」の一頁である。

(一九二九・三・三〇)

底本:「蟹工船・党生活者」新潮文庫、新潮社

      1953(昭和 28)年 6月 28日発行

      1968(昭和 43)年 5月 30日 32刷改版

      1998(平成 10)年 1月 10日 89版

初出:「戦旗」

      1929(昭和 4)年 5月、6月号

※「からふと樺太 」と「

かばふと樺太 」の混在は、底本通りにしました。

※複数行にかかる波括弧には、罫線素片をあてました。

入力:細見祐司

校正:富田倫生

2004年 11月 30日作成

青空文庫作成ファイル:

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小林多喜二

「モップル」(赤色救援会)が、「班」組織によって、地域別に工場の中に直接に根を下

し、大衆的基礎の上にその拡大強化をはかっている。

  ××地区の第××班では、その班会を開くたびに、一人二人とメンバーが殖えて行った。新

しいメンバーがはいってくると、簡単な自己紹介があった。――ある時、四十位の女の人

が新しくはいってきた。班の責任者が、

「中山さんのお母さんです。中山さんはとう/\今度市ヶ谷に廻ってしまったんです。」

  といって、紹介した。

  中山のお母さんは少しモジ/\していた。

  私は自分の娘がなか監獄にはいったからといって、救援会にノコ/\やってくるのが何だか

ずるいような気がしてならないのですが……

  娘は二三ヵ月も家にいないかと思っていると、よくしょ所 かつの警察から電話がかゝって

きました。お前の娘を引きとるのに、どこそこの警察へ行けというのです。私はぎょう天

して、もう半分泣きながらやって行くのです。すると娘が下の留置場から連れて来られま

す。青い汚い顔をして、何日いたのか身体中プーンといやなにおいをさせているので

す。――娘の話によると、レポーターとかいうものをやっていて、捕かまったそうです。

  ところが娘は十日も家にいると、またひょッこり居なくなるのでした。そして二三ヵ月

もすると、警察から又呼びだしがきました。今度は別な警察です。私は何べんも頭をさげ

て、親としての監督の不行届を平あやまりにあやまって連れてきました。二度目かに娘は

「お前はまだレポーターか」って、ケイサツでひやかされて口惜しかったといっていまし

た。私はそんなことを口惜しがる必要はない。早く出て来てくれてよかったといゝまし

た。

  娘が家に帰ってくると、自分たちのしている色んな仕事のことを話してきかせて、「お

母さんはケイサツであんなに頭なんか下げなくったっていゝんだ。」といゝました。娘は

どうしても運動をやめようとはしません。私もあきらめてしまいました。それから直ぐ矢

張り、又いなくなったのです。ところが今度は半年以上も、消息はありません。そうなる

と、私は馬鹿で毎日々々警察からの知らせを心待ちに待つようになりました。(笑声)

  スパイが時々訪ねてくると、私は一々家の中に上げて、お茶をすゝめながら、それとな

しに娘のことをきくのですが、少しも分りません。――すると、八ヵ月目かにです、娘が

ひょっこり戻ってきました。何んだか、もとよりきつい顔になっていたように思われまし

た。私はその間の娘の苦労を思って、胸がつまりました。それでも機嫌よく話をしていま

した。

  私たち親子はその晩久しぶりで――一年振りかも知れません――そろって銭湯に出かけ

て行きました。「お母さんの背中を流してあげるわ。」この娘がいつになくそんなことを

いゝます。私は今までの苦労を忘れて、そんな言葉にうれしくなりました。

  ところがお湯に入って何気なく娘の身体をみたとき、私はみる/\自分の顔からサーッ

と血の気の引いて行くのが分りました。私の様子に、娘も驚いて、「どうしたの、お母さ

ん?」といゝました。私は、どうしたの、こうしたのじゃない、まア、まア、お前の体は

何んとしたことだといゝました。いゝながら人前だったが、私は半分泣いていた。身体中

いたる所に紫色のキズがついている。

「あゝ、これ?」娘は何んでもないことのように、「警察でやられたのよ」といった。

  それから笑いながら、「こんな非道い目に会うということが分ったら、お母さんはあい

つらにお茶一杯のませてやるなんて間違いだということが分かるでしょう!」――それは

笑いながらいったのですが、然しこんなに私の胸にピンと来たことがありませんでした。

これは百の理窟以上です。

  娘は次の日から又居なくなり、そして今度という今度は刑務所の方へ廻ってしまったの

でした。私は今でもあの娘の身体のきずを忘れることが出来ません。

  中山のお母さんはそういって、唇をかんだ。

――一九三一・一一・一四――

底本:「日本プロレタリア文学集・20  「戦旗」「ナップ」作家集(七)」新日本出版社

      1985(昭和 60)年 3月 25日初版

      1989(平成元)年 3月 25日第 4刷

底本の親本:「小林多喜二全集第三巻」新日本出版社

初出:「帝国大学新聞」

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号 5-86)を、大振りにつくって

います。

      1931(昭和 6)年 11月 23日号

 入力:林 幸雄

校正:ちはる

2002年 1月 14日公開

2005年 12月 13日修正

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級長の願い

小林多喜二

  先生。

  私は今日から休ませてもらいます。みんながイジめるし、馬鹿にするし、じゅ業料もお

さめられないし、それに前から出すことにしてあった戦争のお金も出せないからです。先

生も知っているように、私は誰よりもウンと勉強して偉くなりたいと思っていましたが、

吉本さんや平賀さんまで、戦争のお金も出さないようなものはモウ友だちにはしてやらな

いと云うんです。――吉本さんや平賀さんまで遊んでくれなかったら、学校はじごくみた

いなものです。

  先生。私はどんなに戦争のお金を出したいと思ってるか分りません。しかし、私のうち

にはお金は一銭も無いんです。お父さんはモウ六ヵ月も仕事がなくて、姉も妹もロクロク

ごはんがたべられなくて、だんだん首がほそくなって、泣いてばかりいます。私が学校か

ら帰えって行くたびに、うちの中がガランガランとかわってゆくのです。それだのに、お

父さんにお金のことなんか云えますか。でも、みんなが、み国のためだというのでこの

前、ほんとうに思い切って、お父さんに話してみました。そしたら、お父さんはしばらく

考えていましたが、とッてもこわい顔をして、み国のためッてどういう事だか、先生にき

いてこいと云うんです。後で、男のお父さんが涙をポロポロこぼして、あしたからコジキ

をしなければ、モウ食って行けなくなった、それに私もつれて行くッて云うんです。

  先生。

  お父さんはねるときに、今戦争に使ってるだけのお金があれば、日本中のお父さんみた

いな人たちをゆっくりたべさせることが出来るんだと云いました。――先生はふだんか

ら、貧乏な可哀相な人は助けてやらなければならないし、人とけんかしてはいけないと

云っていましたね。それだのに、どうして戦争はしてもいいんですか。

  先生、お父さんが可哀そうですから、どうか一日も早く戦争なんかやめるようにして下

さい。そしたら、お父さんやみんながらくになります。戦争が長くなればなるほどかゝり

も多くなるし、みんながモット/\たべられなくなって、日本もきっとロシヤみたいにな

る、とお父さんが云っています。

  先生。私は戦争のお金を出さなくてもいゝようにならなければ、みんなにいじめられま

すから、どうしても学校には行けません。お願いします。一日も早く戦争をやめさせて下

さい。こゝの長屋ではモウ一月も仕事がなければ、みんなで役場へ出かけて行くと云って

います。そうすれば、きっと日本もロシアみたいになります。

  どうぞ、お願いします。

  この手紙を、私のところへよく話しにくる或る小学教師が持って来た。高等科一年の級

長の書いたものだそうである。原文のまゝである。――私はこれを読んで、もう一息だと

思った。然しこの級長はこれから打ち当って行く生活からその本当のことを知るだろうと

考えた。

――一九三一・一二・一○――

底本:「日本プロレタリア文学集・20  「戦旗」「ナップ」作家集(七)」新日本出版社

      1985(昭和 60)年 3月 25日初版

      1989(平成元)年 3月 25日第 4刷

底本の親本:「小林多喜二全集第 3巻」新日本出版社

初出:「東京パック」

      1932(昭和 7)年 2月号

 入力:林 幸雄

校正:ちはる

2002年 1月 14日公開

2005年 12月 12日修正

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(   http://www.aozora.gr.jp/   )   で作られま

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「くの字点」は「/\」で表しました。

傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。

工場細胞

小林多喜二

                     上 一

  金網の張ってあるまどわく窓枠 に両手がかゝって――その指先きに力が入ったと思うと、男

の顔が窓に浮かんできた。

  昼になる少し前だった。「H・Sせいかん製罐 工場」では、五ラインの

スリッター錻刀切断機、

ボデイ・マシン胴付機 、

フレンジャー縁曲機 、

キャンコ・シーマー罐巻締機 、

エアー・テスター漏気試験機 がコンクリート

で固めた床を震わしながら、耳をろうする音響をトタン張りの天井に反響させていた。鉄

骨のはり梁 を渡っているシャフトの

プレー滑車 の各機械を結びつけている幾条ものベルトが、

色々な角度に空間を切りながら、ヒタ、ヒタ、ヒタ、タ、タ、タ……と、きまった調子で

たるみながら廻転していた。むせッぽい小暗い工場の中をコンヴェイヤーに乗って、機械

から機械へ移っていく空罐詰が、それだけ鋭く光った。――女工たちは機械の音に逆った

大きな声で唄をうたっていた。で、窓は知らずにいた。

  ――あらッ!

「田中絹代」が声をあげた。この工場の癖で、田中絹代と似ているその女工を誰も本名を

云うものはなかった。彼女は窓際に走った。コンヴェイヤーの前に立って、罐のテストを

していた男工の眼が、女の後を辿った。――外から窓に男がせり上がっている。その男は

細くまるめた紙を、工場の中に入れようとしているらしい。

  女が走ってくるのを認めると、男の顔が急に元気づいたように見えた。彼女は金網の間

から紙を受取ると、耳に窓をあてた。

  ――監督にとられないように、皆に配ってくれ。頼みますよ。

  男は窓の下へ音をさして落ちて行った。が、す直ぐ塀を乗り越して行く

たくま悍 しい後姿が

見えた。

  昼のボーが鳴ると、機械の騒音が順々に吸われるように落ちて行って――急に女工たち

のかんだか疳高 い声がやかましく目立ってきた。

  ――何ァによ、絹ちゃん、ラヴ・レター?

  ――  ラヴ・レターの見本か? 馬鹿にで太ッかいもんでないか。

  それを見ていた男工も寄ってきた。

  ――そんな事すると、伝明さんが泣くとよ。

  ――そうかい、出目でなけァ駄目とは恐ろしく物好きな女だな?

  皆が吹き出した。

  田中絹代がビラを皆に一枚々々渡してやった。

  ――な、何ァんでえ、これはまた特別に色気が無いもんでないか。

  ――組合のビラよ。

      失業労働者大会

・市役所へ押しかけろ!

・我等に仕事を与えよ!

・失業者の生活を市で保証せよ!

  仕上場の方から天井の低い薄暗いトロッコ道を、レールを踏んで、森本等が手拭いで首

筋から顔をゴシ/\こすりながら出てきた。ズボンのポケットには無雑作に同じビラが

突ッこまされていた。

  ――  よオッ!かなけづ鉄削 りやッてきたな!

  連中を見ると、製罐部の職工が何時もの奴を出した。

  ――何云ってるんだ。この罐々虫!

  負けていなかった。

  ――鉄ばかり削っているうちに、手前えの身体ばかつおぶし鰹節 みてえに削らねェ用心でも

せ!

  製罐部と仕上場の職工は、何時でもはじき合っている。片方は熟練工だし、他方は機械

についてさえいればいゝ職工だった。そこから来ていた。普段はそれでもよかったが、何

かあると、知らないうちに、各々は別々に固まった。――例えば、仕上場の誰かゞ「歓

迎」か「観迎」か分らなかったとする。すると、仕上場全部が「一大事」でも起ったよう

に騒ぎ出す。彼等はこんな事でも充分に夢中になった。頭を幾つ並べてみたところで、同

じ位の頭では結局どうしても分らず、持てあましてしまう。然し彼等は道路一つ向うの

「事務所」へ出掛けて行って、ネクタイをしめた社員にきくことがあっても、製罐部の方

へは行かないのだ。

  相手の胸にこたえるような冗談口をさがして、投げ合いながら、皆ゾロ/\階段を食堂

へ上って行った。上から椅子の足を床にずらす音や、女工たちのキャッ/\という声が

「塩鱒」の焼ける匂いと一緒に、にぎ賑 やかに聞えてきた。

  この日、Yの「合同労働組合」のビラは「H・S工場」へ三百枚程入った。職場々々の「

おやじ職長 」さえもビラを持っていた。然し、そのビラのことは食事中ちっとも誰もの話題に

ならなかった。

  飯が終って、森本が遅く階段を降りてくると、段々のところ/″\や、工場の隅々に、

さっきのビラが無雑作にまるめられたり、鼻紙になったり、何枚も捨てられているのを見

た。――彼はありありと顔をゆが歪 めた。

                    二

「H・S製罐会社」は運河に臨んでいた。――Y港の西寄りは鉄道省の埋立地になって居

り、その一帯に運河がほ鑿られている。運河の水は油や煤煙を浮かべたまゝ

よど澱 んでいた。

発動機船やかれい鰈 のような平らべったい

はしけ艀 が、水門の橋梁の下をくゞって、運河を出

たり入ったりする。――「H・S工場」はその一角に超弩級艦のような灰色の図体を据え

ていた。それは全く軍艦を思わせた。罐は製品倉庫から運河の岸壁で、そのまゝ荷役が出

来るようになっていた。

 まち市 の人は「H・S工場」を「H・S王国」とか、「Yのフォード」と呼んでい

る。――若い職工は帰るときには、ナッパ服をぬ脱いで、金ボタンのついた

えり襟 の低い学生

服と換えた。中年の職工やおやじ職長 はワイシャツを着て、それにネクタイをしめた。――Y

駅のプラットフォームにある「近郊名所案内」には「H・S工場、――約十八町」と書か

れている。

  Y市は港町の関係上、海陸連絡の運輸労働者――浜人足、仲仕が圧倒的に多かった。朝鮮

人がその三割をしめている。それで「労働者」と云えば、Yではそれ等を指していた。彼

等はその殆んどが半自由労働者なので、どれもみじ惨 めな生活をしていた。「H・S工場」

の職工はそれで自分等が「労働者」であると云われるのを嫌った。――「H・S工場」に

勤めていると云えば、それはそれだけで、近所への一つの「誇り」にさえなっていたの

だ。

 

  森本は仕事台に寄っても仕事にみ実が入らなかった。――彼は今日組合のビラが

ま撒かれる

ことは知っていたし、又そのビラが撒かれたときの「H・S工場」内の動きについて、あ

る会合で報告しなければならないことになっていた。だが、見ろ、こんなざま様 をオメ/\

と一体誰に報告が出来るものか。職工の一人も問題にしないばかりか、巡査上りの守衛か

ら、工場長さえ取り合いもしない。ビラの代りに、工場の中にあぶ虻 か蜂の一匹でも迷いこ

 んだ方が、それより大きな騒ぎになるかも知れないのだ。「虻」と「ビラ」か! それさ

え比較にならないのだ。――そこまでくると、彼はもう張り合いが感ぜられなくなった。

  職場の片隅に取付けてある十馬力のモーター発動機 は絶え間なく陰鬱な

うな唸 りをたてながら、

眼に見えない程足場をゆすっていた。停電に備えるガソリン・エンジンがすぐ側に据えつ

けられている。――そこは工場の心臓だった。そこから幹線動脈のように、ベルト調帯 が職場

の天井を渡っているメエンシャフト

主動軸 の滑車にかゝっていた。そして、それがそこを基点と

して更にそれ/″\の機械に各々ちがった幅のベルトでつながっていた。そのまゝが人間の

動脈網を思わせる。ボールバン穿孔機 、旋盤、

ミーリング穿削機 ……が鋭い音響をたてながら鉄を削

り、あな孔 をうがち、火花を

ひら閃 めかせた。

  働いている職工たちは、まるで縛りつけられている機械から一生懸命にもがいているよ

うに見えた。腰がふん張って、厚い肩が据えられると、タガネの尻を押している腕先きに

全身の力が微妙にこもる。生きた骨にそのまゝやすり鑪 を当てられるような、不快さが

じか直接

に腕に伝わる。刃先から水沫のように、よれた鉄屑が散った。鍛冶場から、

リベッティング鋲付 の音が一しきり、一しきり機関銃のように起った。

  こゝは製罐部のようなこきざみ小刻 な、一定の

リズム調子 をもった音響でなしに、図太い、グヮ

ン/\した音響が細い鋭い音響と入り交り、スチーム・ハンマー

汽槌  のドズッ、ドズッ! と

いう地響きとかなじき鉄敷 の上の疳高く張り上がった音が縫って……ごっちゃになり、一つに

なり、工場全体がごうごう轟々 と唸りかえっていた。鍛冶場の火焔が送風器で勢いよく燃え上

ると、仕上場にいる職工の片頬だけが、瞬間メラ/\と赤く燃えた。

  天井を縦断している二条のレールをワイヤー・プレーをギリ/\と吊したグレーンが、

皆の働いている頭のすぐ上をものすご物凄 い音を立てゝ渡って行った。それは鋳物場で型上げ

したばかりの、機関車の車輌の三倍もある大きな奴で、ワイヤー受けの溝をほるために、

横ボールバン穿孔機 に据えつけるためだった。

  ――  頼むどオ! 南部センベイは安いんだ!

  身体をの除けながら、上へ怒鳴っている。

  ――  まず緊縮! 文句云うな。手前一人片付けば、サバ/\するァ!

  ハンドルを握っていた職工が上でつば唾 をひッかける真似をした。

  ――畜生々々!

  下のは大ゲサに横へは跳ねた。

  ――上から見れア、どいつもこいつも薄汚くゴミ/\してやがる。

  ――少し高いところさ上ったと思って、可哀相に畜生、すぐブル根性を出しやがる。

  ――ヘン、だ。手前らをあご顎 で一度は使っても見たくならァ。

  横ボール盤の側に、四五人の職工とパンパン帽をかぶった職長が集って、ワイヤー・プ

レーをびっこ跛 に吊したグレーンがガラ/\と寄ってくるのを見ていた。

  ――オーライ!

  渡り職工の職長が手を挙げた。手先きを見ていたハンドルの職工がグイと手元にひい

た。グレーンがとまると、ワイヤー・プレーは余勢でゆるく揺れた。その度にチエンが、

ギーイ、ギーイときしんだ。ま周わりを取巻いていた職工たちが、その揺れの拍子を捕え

て、丁度足場の上へ押して行った。

  ――レッコ、レッコ!

  職長は手先きをお出で/\をするように動かした。チエンがギクシャクしながら、延び

てきた。エンヤ、コラサ、エンヤ、コラサ……皆は掛声をかけ始めた。ワイヤー・プレー

は底を二つの滑車にのせ、ボールバン穿孔機 の腕にその軸と翼を締めつけて、固定された。グ

レーンがやかま喧 しい音をたてゝ、チエンを捲き上げた。白墨を耳に

はさ挟 んだ彼等は、据え

つけた機械のまわりを歩いたり、指先きでこすってみたり、ヤレ、ヤレという顔をした。

  ――森本のところからは、それがあり蟻 が手におえない大きなものを寄って、たかって引

きずッているように見えた。素晴しく大きな鉄の機械の前には、人間は汚れた鉄クソのよ

うに小さかった。彼は製罐部のライニング・マシン

護謨塗機 の壊れた部分品を、バイス万力台にはさん

で、やすり鑪 をかけていた。――足場の乗りが一分ちがったとする。その時チエンがほぐれ

て……。と、あの大きなワイヤー・プレーはたった一つの音もたてずに、グイと手前にの

めってくる。四人の職工のあばら骨が障子の骨より他愛なくひッつぶされてしまう。たっ

た一分のちがいだとしても。二円にもならない、そこそこの日給を稼ぐために、職工は

安々と命をかけている。――だのに、この職工たちは「ビラ」を鼻紙にしてしまった!

  彼はマシン油で汚れた手を、ナッパの尻にゴシ/\こすった。「ま、それでもいゝだろ

う……!」――そして彼はフン、と鼻をならした。

                    三

  終業のボーが鳴ると、皆は仕事場から一散に洗面所へか馳け出した。狭いコンクリートの

壁が、女湯のような喧ましさをグヮン/\響きかえした。顔のところどころ

所々 しか写らない

剥げた鏡の前で、膚ぬぎになった職工たちが、せっけん石鹸 の泡とお湯をはね飛ばした。悍し

い肩と上膊の筋肉がその度にグリ、グリッとムクレ上った。

  ――馬鹿野郎め、石鹸が泣きやがる、オイ鑪でゴシ/\やってくれ。

  ――田中絹代さんにふられたいってね。

  ――オヤ/\だ、この野郎。

  割り込んで来る奴を、両方のが尻と尻をくッつけて邪魔をした。

  ――何んだ、大きくもないけつ尻  を! 尻を割るど、此奴!

  ――へえ、済みませんね、エミちゃんのお尻でなくて。

  ――抱くにも、抱かれぬッてとこだな。ハハヽヽヽヽヽ。

  その後で、皆はてぬぐい手拭 を首にまきつけて、つッ立ったり、白い

かく角 の浮石鹸を手玉に

したり、待っていた。

  ――こん畜生、だまってるとえゝ気になりやがって、ぼうぐい棒杭 じゃないんだど。

  と、云われた奴が石鹸で顔中をモグモグさせながら、

  ――へえ、いつ何時人間様になったかな。俺はまた職工さんだとばかり思っていたが!

  見当ちがいの方を見て、云いかえした。

  申訳程の仕切りがあって、女工たちの洗面所がすぐ続いていた。洗面所にしゃがむと、

女工たちの腰から下が見えた。職工たちは腰から下だけの「格好」で、誰が誰かを見分け

るのに慣れていた。顔を何時までも洗っている振りをして、職工たちはそれを見ていた。

  ――あの三番目が「モンナミ」のあや彩 ちゃんだど。

  工場では、Y市の有名なカフエーやバーのめずらしい名前をとってきて、「シャン」な

女工を呼んでいる。

  ――どうだいあの腰の工合は!

  ――あいつ、この頃めっきり大人になってきたぞ。フン!

  ――腰がものを云うからな。

  ――こっちは誰だ?

  ――おッと、動いたぞ。足を交えた。……いゝなア、畜生!

  ――オイッ!

  後に立っているものが、それを見付けて、いきなり二つ並んでいる頭を両方からゴツン

とやった。

  ――出歯亀!

  女の方で何か云いながら、一度にワッ、と笑い出した。すると、こっちでもわざと声を

あげた。

  洗面所を出ると、出口で両方から一緒になった。帰るとき、女たちはまるッきり別な人

になって出てきた。

  ――お前は誰だっけな?

  煙筒や汽罐のリベッティング

打鋲 をやっている六十に近い眼の悪い、耳の遠い職工には、本

当に見分けがつかない。

  ――  プッ! お爺さん、色気なくなったね。

  そして女に背中をたゝかれた。

  ――お婆さんを間違わないでね。

  ――こん畜生!

  会社は、女工が帰りに「お嬢さん」になることにも、カフエーの「ウエイトレス

女給 」にな

ることにも、職工が「学生」になることにも、「会社員」になることにも、黙っていた。

それだけの事が出来るから、そうするので、そこには少しの差支もあるはず筈 がない。Y市

を見渡してみても、職工にそれだけのことの出来る待遇を与えている工場はあるまい、工

場長はそう云っていた。

  洗面所を出ると、狭い廊下を肩で押し合いながら、二階の「脱衣室」に上って行った。

両側がアウト廃品 倉庫になって居り、箱が何十階のビルジングのように、うず高く積まさって

いた。そこは暗かった。――  女がキャッ! と叫んだ。そこへ来ると、誰か女によく

いたずら悪戯 した。

  ――この、いけすかない男!

  ――オイ、今日は……?

  ――  今日? 約束があるの。

  ――本当か。何んの約束だ。誰と?

  ――これでも、ちァんとね。

  ――こん畜生!

 そこ其処では、何時でも手早い「やりとり」が交わされることになっていた。

  職工はよく仕事をしながら、次の持場にいる女と夜会う約束をするために、コンヴェイ

ヤーに乗って来る罐詰に、

「ハシ、六」

  と書いてやる。男は手先きだけ動かしながら、その罐が機械の向うかげにいる女の前を

通って行くのを見ている。女はチラッと見つけると、それを消して、そして男にほほえ微笑 ん

でみせる。

  ――「六時、何時もの橋のところ」というのが、その意味だった。そういうのが幾組も

ある。

  森本は顔をしかめた。こういう中から一体自分たちの仕事の仲間になってくれるような

ものが、何人出るのだ。それを思うと、胸の下が妙に不安になり、落付けなくなった。

  脱衣所の入口に掲示が出ていた。森本は始め「ホオッ!」と思った。皆が服の袖に手を

通しながら、その前に立っていた。

      告

  皆サンモ知ッテイル通リ、本日何者カヾ当工場ニ「失業者大会」ノビラヲ撒イテ行キマ

シタ。云ウマデモナク最近ノ不況ハドシ/\失業者ヲ街頭ニ投ゲ出シテ居リ、ソレハ全く

見ルニ忍ビナイモノサエアルノデス。然シ我工場ハ幸イニシテ、皆サンノ勤勉努力にヨッ

テ、ソノ些々タル影響モ受ケテイナイノデアリマス。一度工場外ニ足ヲフミ出シテ見レバ

分ル通リ、当工場ハマサニ「Yノフォード」タル名ニ恥シクナイ充分ノ待遇ヲ、ソノ時間

ノ点カラ云ッテモ、ソノ賃銀ノ上カラ云ッテモ、皆サンニ与エテ居ルノデアリマスカラ、

コノ際決シテ、カヽル宣伝ニ附和雷同セザル様、呉々モ申述ベテ置ク次第デアリマス。

  右

工場長

  森本はそれを読むのに何故かあせりを感じて、字を飛ばした。  ――  チエッ! 行きとゞいてやがる!  彼はその言葉が、自分ながら不覚にもかぶとを脱いだ心のゆるみを出しているのにハッとした。彼は油っぽい形のくずれた鳥打ちを無雑作にかぶった。  工場の前の狭い通りを、その幅を一杯にみたして、職工や女工が同じ方向へ流れてい

た。彼はその中に入りながら、ひと独 りであることのうそ寒さを感じていた。

  運河の鉄橋を渡ると、税関や波止場、水上署、汽船会社、倉庫続きの浜通りだった。――

浜人夫がタオ/\としわむ「あゆみ歩板 」を渡って、艀から荷降しをしていた。然し所々に何

人もの人夫が固まって、立っていた。それ等の労働者は瀬戸を重ねた大きな弁当を、地べたにそのまゝ置いたり、ぶら下げたり、他の人達の働いているのを見ていた。――「あぶれた」人夫達だった。

 なつがれ夏枯 時で、港には仕事らしい仕事は一つもないのだ。市役所へおしかけようとして

いる連中がそれだった。岸壁につながっている艀はどの艀も死んだ鰈を思わせた。さんばし桟橋 に近い道端に、

りんご林檎 や夏

みかん蜜柑 を積み重ねた売子が、人の足元をポカンと坐っ

て見ていた。

  その「あぶれた」人足たちは「H・S工場」の職工達が鉄橋を渡ってくるのを見ていた。ありありと羨望の色が彼等の顔をゆがめていた。「H・S」の職工たちは「俺らはお

前たちの仲間とはちが異 うんだぞ」という態度をオッぴらに出して、サッサと彼等の前を通

り過ぎてしまった。この事は然し脱衣室の前の貼紙がなくても、そうだったのだ。  浜人足――この運輸労働者達は「親方制度」とか「現場制度」とか、色々な小分立や封建

的な苛酷なさくしゅ搾取 をうけ、頭をはねられ、追いつめられた生活をしているので、何かの

キッカケでよくストライキを起した。Y市の「合同労働組合」はこれ等の労働者をその主体にしていた。しかし「H・S工場」の職工は一人も入っていないと云ってよかった。  森本はその浜の労働者のうちに知った顔を幾つか見付けた。組合で顔を合せたことのある人達だった。然し彼は今、この職工たちの中にいては、その人達に言葉をかける「図々しさ」を失っていた。

                    四

  父は帰っていなかった。――六十を越している父は、彼より朝一時間早く出て行って、二時間遅く帰ってくる。陸仲仕の「山三現場」に出ていた。耳が遠くなり、もう眼に「ガス」がかゝっていた。電話の用もきかず、きまった仕事の半分も出来ないので、親方から毎日露骨にイヤな顔をされていた。然し二十年以上も勤務している手前、親方も一寸どう手をつけていゝか困りきっているらしかった。  ――つらいなア……!

  フッとそれが出る。朝やっぱりでしぶ出渋 るのだ。

  ――仕事より親方の顔ば見てれば、とッても……なア!  まだ暗い出掛けに上り端で、仕事着の父親がゴリ/\ッと音をさして腰をのばす。それを聞く度に彼は居たまらない苦痛を感じた。――然し彼は、何時かこの父親をもっと、もっと惨めにしてしまわなければならない事を、フト考えた。――  家の中は一日中の暑気で湿ッ気と小便臭い匂いがこもり、ムレた畳の皮がブワ/\ふくれ上っていた、汗ばんだ足裏に、それがベタ/\とねばった。  猿又一つになって机の前に坐ると、手紙が来ていた。「中野英一」というのが差出人だった。それは工場の女工だった。その女を森本はようやく見付けたのだった。そのたった「一つ」をまず足場に、女工のなかにつながりを作って行かなければならなかった。彼は組合の河田からその方針について、指令をうけていた。手紙は簡単に「トニカク、クワシイ事ヲオ話シマショウ。明日八時、石切山ノ下デマッテイマス。」――書くなと云った

通り、自分の名前も、あ宛てた森本の名も書いてなかった。

  夏の遅い日暮がくると、うちわ団扇 位のなま涼しい風が――分らないうちに吹いてきてい

た。白い、さらしのじゅばん襦袢 一枚だけで、小路に出ていた長屋の人達が、ようやく低いパ

ンかまど窯 のような家の中に入ってきた。棒切れをもった子供の一隊が、着物の前をはだけ

て、どぶ泥溝板をガタ/\させ、走り廻っていた。何時迄も

ゆうばえ夕映 を残して、澄んでいる空

に、その喚声がひゞきかえった。

  ――腹減らしのがき餓鬼どもだ!

  父が帰ってきた。父は入口でノドをゴロ、ゴロならした。

  ――どうだった、とっ父 ちゃの方は?

  ――ン?

  彼は父が何時でも「労働者大会」とか「労働組合」とか、そんなものに反対なのを知っている。父はそれだから二十何年も勤めて来られたのかもしれない。そして今毛一本程のあやう危 さで、首をつないでいるにしても、自分は「日雇」でない、だから、そんなワケの

分らないことに引きずり込まれたらことだと思っているらしかった。  ――事務所の前で気勢ば上げていたケ。あぶれた奴等ば集めてナ。  ――組合のものだべ、あれア!  父は新聞の話でもするような無関心さで云った。

  ――ひと他人事でないど、父ちゃ。今に首になればな。

  父は返事をしないで、薄暗い土間にゴソ、ゴソ音をさせた。少しでも暗いと、「ガス」のかゝった眼は、まるッきり父をどまつかせた。父は裏へまわって行った。便所のすぐ横に、父は無器用な棚をこしらえて、それに花鉢を三つ程ならべていた。その辺は便所の匂

いで、プン/\していた。父は家を出ると、キット夜店から値切った安いはち鉢 を買ってく

る。  ――  この道楽爺! 飯もロク/\食えねえ時に!

  母はその度に怒鳴った。その外のことでは、ひどいけんか喧嘩 になることがあっても、鉢の

ことだと父は不思議に、何時でもたゞニヤ/\していた。――父はおかしい程それを大事にした。帰ってくると、家へ上る前に必ず自分で水をやることにしていた。仕方なく誰かに頼んで、頼んだものが忘れることでもあると、父は本気に怒った。――可哀相に、奴隷根性のハケ口さ、と森本は笑っていた。  ――今日の暑気で、どれもグンナリだ。

  裏でひとりごと独言 を云っているのが聞えた。

「H・S工場」にも、少し年輩の職工は小鳥を飼ってみたり、花鉢を色々集めてみたり、きちょうめん規帳面 にそれの世話をしてみたり、公休日毎に、家の細々した造作を作りかえてみ

たりする人がたくさん沢山 いた。職工の一人は工場へ鉢を持ってきて、自分の仕事台の側にそ

れを置いた。

  ――花のようなべっぴん美人 ッて云うべ。んだら、これ

べっぴん美人 のような花だべ。美人の花

ば見て暮すウさ。  工場に置かれた花は、マシン油の匂いと鉄屑とほこりと轟々たる音響で身もだえした。そして、其処では一週間ももたないことが発見された。  ――へえ!皆は眼をまるくした。  ――で、人間様はどういう事になるんだ?  居合わせた森本がフト冗談口をすべらした。――すべらしてしまってから、自分の云った大きな意味に気付いた。

 ボデイメエカー

胴付機 の武林が小馬鹿にして笑った。

  ――夜店で別な奴と取りかえてくるさ。労働者はネ、よ選りどり自由ときてらア、

ハヽヽヽヽヽ。  新聞社の印刷工などに知り合いを持っているアナアキストの職工だった。――

  父が裏口から何か云っている。声が聞えず、動く口だけが汚れたガラス硝子 から見えた。

  ――お前、十五銭ばかし持ってないかな。

  具合悪そうに、そう云っているのだ。  彼は又かと思った。「うん」と云うと、父は子供のような喜びをそのまゝ顔に出した。

  ――えゝ鉢があってナ、まち市 さ出るたびに眼ばつけてたんだどもナ……!

                    五

  暗くなるのを待った。その「会合」は秘密にされなければならなかった。  ――活動へ行ってくるよ。  家へはそう云った。昼のほとぼりで家の中にいたまらない長屋の人達は、夕飯が済む

と、家をあ開けッ放しにしたまゝ、表へ台を持ち出して涼んだ。小路は

どぶ泥溝の匂いで、プン

/\している。それでも家の中よりはさっぱりしていた。大抵裸だった。近所の人たちと

声高に話し合っていた。若い男と女は離れた暗がりにしゃが蹲 んでいた。団扇だけが白く、

ヒラ/\動くのが見えた。森本はそのなかを、挨拶をしながら表通りへ抜けた。――この町は「工場」へ出ている人達、「港」へ出ている人達、「日雇」の人達と、それ/″\何処かに別々な気持をもって住んでいる。

  この一帯はY市のは端ずれになっていた。端ずれは端ずれでも、Y市であることには違い

なかった。然しこのT町の人達は、用事で市の中央に出掛けて行くのに、「Yへ行ってくる」と云った。何か離れた田舎からでも出掛けて行くように。乗合自動車も、円タクも、人力車もT町迄だと、市外と同じ「割増し」をとった。――こゝは暗くて、ジメ/\して

いて、くさ臭 くて、

すす煤 けていた。労働者の街だった。つぶれた

ようかん羊羹 のような長屋が、

足場のすわ据 らないジュク/\した湿地に、床を埋めている。

  森本は暗いところを選んで歩いた。角を曲がる時だけ立ち止った。場所はワザと賑かな、明るい通りに面した家にされていた。裏がそこの入口だった。彼は決められていたように、二度その家の前を往復してみて、裏口へまわった。戸を開けると、鼻ッ先きに勾配

の急な階段がせまった。彼は爪先きでさぐ探 って――階段の

きざ刻 みを一つ一つ登った。粗末

な階段はハネつるべのようなキシミを足元でたてた。彼は少し猫背の厚い肩を窮屈にゆがめた。頭がつッかえた。  ――誰?  上から光の幅と一緒に、河田の声が落ちてきた。  ――森。  ――あ、ご苦労。

  室一杯煙草の煙がこめて、の喫みつくしたバットの口と吸殻が小皿から乱雑に畳の上に、

こぼれていた。何か別な討議がされた後らしい。立ってきた河田は、森本の入った後を自分で閉めた。彼は大きな臼のような頭をガリ、ガリに刈っていた。それにのそりと身体が大きいので、「悪党坊主」を思わせた。何時でも、ものゝ云い方がブッキラ棒なので、人

にはごうまん傲慢 だと思われていたかも知れなかった。然しそれだから岩のようなすわりがあ

るんだ、と組合のものが云っていた。

 あおむ仰向 けになって、バットの銀紙で台付コップを

こし拵 らえていた石川が、彼を見ると頭

をあげた。  ――よオッ!  石川はもと「R鋳物工場」にいたことがあるので、前からよく知っていた。彼が河田を知ったのも、石川の紹介からだった。石川が組合に入るようになってから、森本はそうい

う方面の教育を色々彼から受けた。それまでの彼は、普通の職工と同じように、安淫売をひやかしたり、活動をのぞいたり、買喰いをしたり喧嘩をして歩いていた。それから青年団の演説もキッパリやめてしまった。  もう一人の鈴木とは前に一寸しか会っていなかった。神経質らしい、一番鋭い顔をしていた。何時でも不機嫌らしく口数が少なかったので、森本にはまだ親しみが出ていなかっ

た。彼は膝を抱えて、からだ身体 をゆすっていたが、煙を出すために窓を開けた。急に、波の

ような音が入ってきた。下のアスファルトをゾロ/\と、しっきりなしに人達が歩いてい

る。その足音だった。スズラン多燈 式照明燈が両側から腕をのばして、その下に夜店が並んで

いた。――植木屋、古本屋、万年筆屋、果物屋、支那人、大学帽……。人達は、方向のち

がった二本の幅広いベルト調帯 のように、両側を流れていた。何時迄見ていてもそれに切れ目

が来ない。  ――暇な人間も多いんだな。  ――鈴木君、顔を出すと危いど。

  河田が謄写版刷りの番号をそろ揃 えていたが、顔をあげた。

  ――顔を出すと危いか。ハヽヽヽ、汽車に乗ったようだな。  ――じァ、やっちまうか……。  灰皿を取り囲んで四人が坐った。  ――森本君とはまだ二度しか会っていないから、或いは僕等の態度がよく分っていないかと思うんだ……。  河田は眉をひそめながらバットをせわしく吸った。  ――手ッ取り早く云うと、こうだと思うんだが……。これまでの日本の左翼の運動は可なり活発だったと云える。殊に日本は資本主義の発展がどの分野でゝも遅れていた。それが戦争だとか、其他色ンナ関係から急激に――外国が十年もかゝったところを、五年位に

距離を縮めて発展してきた。プロレタリアも矢張り急激にあふ溢 れるように製造されたわけ

だ。そこへもってきて、戦争後の不景気だ。で、日本の運動がそこから跳ねッかえりに、持ち上ってきたワケだ。然し問題なのは、その「活発」ッてことだ。何故活発だったか、これだ。――僕らにはあの「三・一五事件」があってから、そのことが始めてハッキリ分ったんだが……手ッ取り早く云えば、工場に根を持っていなかったという事からそれが来ていた。それも「大工場」「重工業の工場」には全然手がついていなかったと云ってもいゝんだ。Yをみたってそうだ。労働組合の実勢力をなしているのが、港の運輸労働者だ。それはそれ/″\細かく分立している。それに実質上は何んたって反自由労働者で、職場から離れている。だから成る程事毎に動員はきくし、それはそして一寸見は如何にもパッとして華やかだ。日本の運動が活発だったというのは、こゝんとこから来ていると思

うんだ。然し何より組織の点から云ったら、ゼロ零 だった。チリ/\バラ/\のところから

起ったんだから、終ったあとも直ぐチリ/\バラ/\だ。統計をみたって分るが、その間大工場は眠っている牛のように動かなかったんだ。――工場が動きづらい理由はそれァある。ギュッ/\させられている小工場は別として、何千、何万の労働者を使っている高度に発達した大工場となると、とても容易でないのだ。――容易でないが、「大工場の組織」を除いて、僕らの運動は絶対にあり得ないのだ。早い話が、この近所に小さい争議を千回起すより、夕張と美唄二つだけの炭山にストライキを起してみろ。日本の重要産業がピタリと止まってしまう。これは決して大それた事でなくて、ストライキは必ずこういう方向に進んで行かなければならない事を示していると思うんだ。――今迄の繰りかえしのようなストライキはやめることだ。だから……どうも、何んだかすっかり先生らしくなったな……。

  河田が「臼」をひとな一撫 でした。

  ――ま、詳しいことは又色んな時にゆっくりやれるとして。とにかく今になって云うのも変だが、「三・一五事件」で、何故僕らがあの位もの要らない犠牲を払ったか、ということだ。それは、さっき云ったあの華々しい運動をやっていた先輩たちが、非合法運動なのに、今迄の癖がとれず、時々金魚のように水面へ身体をプク/\浮かばしていたところから来てるんだ。工場に根をもった、沈んだ仕事をしていなかったからだ。――実際、僕たちの仕事が、工場の中へ、中へと沈んで行って、見えなくなってしまわなければならな

 かったのに、それを演壇の上にかけのぼって、諸君は! とがなってみたり、ビラを持って街を走り廻わることだと、勘ちがいをしてしまったのだ。――日本の運動もこゝまで分ってきた…………。  ――ところが、本当は仲々分らないんだよ。恐ろしいもんだ。  石川が河田の言葉をとった。銀紙のコップをバットの空箱に立てながら、何時ものハッキリしない笑顔を人なつッこく森本に向けた。

  ――ボロ船のかじ舵 のようなもので、ハンドルを廻わしてから一時間もして、ようやくき

いてくるッてところだ。今迄の誤ッてた運動の実践上の惰勢もあるし、これは何んてたって強い。それに工場の方は仕事はジミだし、又実際ジミであればあるほどいゝのだから……仲々ね。――  ――それは本当だ。でねえ、僕らが何故口をひらけば「工場の沈んだ組織」と七くどく云うかと云えば、仮りにYのような浮かんだ労働組合を千回作ったとしても、「三・一五」が同様に千回あれば、千回ともペチャンコなのだ。それじゃ革命にも、暴動にも同じく一たまりもないワケだ。話が大きいか。ところが、こうなのだ。最近戦争の危機がせ

まっていると見えて、官営の軍器工場では、この不況にもかかわらず不拘 、こっそり人をふや

してるらしい。M市のS工場などは三千のところが、五千人になっているそうだ。この場合だ。僕らが、その工場の中に組織を作って行ったとする。それは勿論、表面などに「活

発にも」「花々しく」も出すどころか、絶対に秘密にやって行くわけだ。そこへいよいよ愈々

戦争になる。その時その組織が動き出すのだ。ストライキを起す。――軍器製造反対だ。軍器の製造がピタリととまる。それが例えば大阪のようなところであり、そして一つの工場だけでなかったとしたら、戦争もやんでしまうではないか。こゝを云うのだ。――然しこんなことをY労働組合の誰かに云ったら、夢か、夢を見てるのかと云われそうだ。がこ

れだけは絶対に今からやって行かないと、こじき乞食 の頭数を集めるように、その場になっ

て、とてもオイそれと出来ることではないんだ。  ――僕らはそれをやって行こうと思っているんだ。そのために……。

  ――俺もしくじ失敗 ったよ。

  石川が云った。  ――職場ば離れるんでなかった。な、河田君!  ――然しあの頃と云ったら、組合へ必ず出てきて、謄写版を刷って、ビラをまくことしか「運動」と云わなかったもんだ。  ――そうなんだ。正直に云って、工場にじっとしていることが、良心的にたまらなかったんだ、あの頃は。  森本は初めて口を入れた。  ――然し工場は動きづらいと思うんです。大工場になると「監獄部屋」のようなことはしないんですから……。  彼は今日の工場の様子を詳しく話した。河田たちは一つ、一つ注意深くきいていた。  ――それはそうだ。  と河田が言った。

  ――だから今迄何時も工場が後廻わしになってきたのだ。

                    六

  森本は河田に云われて、「H・S工場」の地図を書いた。河田はその他に、市内の色々な工場の地図を持っていた。それからY市の全図を拡げて「H・S」のところに赤い印をつけた。  ――水上署とは余程離れてるだろうか。  ――四……四町位でしょう。  ――四町ね?  ――悪いところに立ってるな。  石川が顔をあげた。

  ――このまち市 の水上はドウ猛だからな。

  森本は工場について一通り説明した。――工場Aが製罐部で、罐胴をつくるボデイ・ラインと罐蓋をつくるトップ・ラインに分れている。ボデイの方は、ブリキを切断して、円

く胴をつくり、ふた蓋 をくっツけて締めつけ、それが空気が

も漏れないか、どうかを調べる。

スリッター切断機 、

ボデイ・マシン胴付機 、

フレンジャー罐縁曲機 、

キャンコ・シーマー罐巻締機 、

エアー・テスター空気検査機 な

どがその機械で、トップの方はプレス錻力圧搾機、

スクロール波形切断機、と蓋の溝にゴムを巻きつける

ライニング・マシン護謨塗機 がある。――工場Bは、階下はラッカー工場で、罐に

うるし漆 を塗ると

ころで、作業は秘密にされていた。階上は罐をつめる箱をつくるネーリング工場で、側板、妻板、仲仕切りを作っている。――出来上った罐とこの空箱が倉庫の二階のパッキング・ルームに落ち合って、荷造りされるわけである。工場Cは森本たちのいる仕上場になっていた。  ――その外の附属は?  河田がきいた。  ――実験室。これはラバー(ゴム引き)の試験と漆塗料の研究をやっています。こゝにいる人は私らにひどく理解を持ってゝくれるんです。どッかの大学を首になったッて話です。  ――自由主義者ッてところだろう。  ――それから製図室と云って、産業の合理化だかを研究しているところがあります。  ――ホ、産業の合理化?  河田が調子の変った響きをあげた。  ――「H・S工場」が始めて完全なコンヴェイヤー組織にかえられたのも、こゝの部員

があずかって力があったそうです。――その時は一度に人が随分要らなくなったので、と

う/\ストライキになって、職工たちが夜中に工場へ押しかけて行って、守衛をブンな殴

ぐって、そのコンヴェイヤーのベルトを滅茶苦茶にしてしまったことがありました。何ん

しろ、作業と作業の間に一分のすき隙 もない程に連絡がとれて居り、職場々々の職工たち

は、コンヴェイヤーに乗って徐々に動いて来る罐が、自分の前を通り過ぎて行く間に割り当てられた仕事をすればいゝというようになってしまったのですから、たまりません。フレンジャー縁曲機 なども、もとは職工がついていたが、今使っている機械は自動化されて、一

人も要らなくなったんです。  ――ん。  ――今工場ではブリキ板を運ぶのに、トロッコを使っていますが、あれも若しコンヴェ

イヤー装置にでもしてしまうような事があったら、そこでもまた亦 人がオッ出されるわけで

しょう。  ――なるだろう。なるね。  ――なるんです。製図室や実験室の人達には懸賞金がかけられているんです。  ――うまいもんだ。  ――その人達は何時でも、アメリカから取り寄せて、モーターやボイラーの写真の入った雑誌を読んでいます。  ――これから色々僕たちの仕事を進めていく上に、職工のことゝは又別に、会社のいわゆる所謂 「高等政策」ッてものも是非必要なのだ。で、上の方の奴をその意味で利用する

ことを考えてもらいたいと思うんだ。  森本はうなずいた。  ――工場のことでも、私らの知っていることは、ホンのちょッぴりよりありません。  ――そうだと思うんだ。……それでと……。  眼が腕時計の上をチラッとすべった。  ――そうだな……。

  疲れたらしく、石川が口の中だけで、小さくあくびをか噛んだ。

  ――ン、それから工場の中の対立関係と云うかな……あるだろうね。  ――え……職場々々で矢張りあります。仕上場の方は熟練工だし、製罐部の方はどっちかと云えば、女工でも出来る仕事です。それで…………。  森本がそう云って、頭に手をやった。河田は彼のはにかんだ笑い顔を初めてみたと思っ

た。角ばった、ごッつい顔だと思っていたのに、笑うとりんかく輪廓 がほころんで、眼尻に人

なつッこい柔味が浮かんだ。それは思いがけないことだった。  ――私らなど、何んかすると……金属工なんだぜ、と……その方の大将なんです。それ

から日雇や荷役方は職工と一寸変です。事務所の社員に対しては、これはどこ何処にでもある

でしょう。――女事務員は大抵女学校は出ているので、服装から違うわけです。用事があって、工場を通ることでもあると、女工たちの間はそれア喧しいものです。  森本は声を出して笑って、  ――男の方だって、さアーとした服を着ている社員様をみるとね。ところが、会社には勤勉な職工を社員にするという規定があるんです。会社はそれを又実にうまく使っているようです。ずウッと前に一人か二人を思い切って社員にしたことがあります。然しそれはそれッ切りで、それからは仲々したことが無いんですが、そういうのが変にきいてるらしいんです。

  河田は誰よりも聞いていた。鈴木は然し最後まで一言もしゃべらなかった。おやゆび拇指 の

爪を噛んだり、頭をゴシ/\やったり――それでも所々顔を上げて聞いたゞけだった。  森本は更に河田から次の会合までの調査事項を受取った。「工場調査票」一号、二号。  河田はこうしてY市内の「重要工場」を充分に細密に調査していた。それ等の工場の中に組織を作り、その工場の代表者達で、一つの「組織」と「連絡」の機関を作るためだった。「工場代表者会議」がそれだった。――河田はその大きな意図を持って、仕事をやっていたのだ。ある一つの工場だけに問題が起ったとしても、それはその機関を通じて、直ちにそして同時に、Y市全体の工場の問題にすることが出来るのだ。この仕事を地下に沈

 ませて、強固にジリ/\と進めていく! それこそ、どんな「弾圧」にも耐え得るものとなるだろう。この基礎の上に、根ゆるぎのしない産業別の労働組合を建てることが出来る。――河田は眼を輝かして、そのことを云った。

  ――ブルジョワさえこれと同じことをすで已 にやってるんだ。工場主たちは「三々会」だ

とか、「水曜会」だとか、そんな名称でチャンとお互の連絡と結束を計ってるんだ。  暗い階段を両方の手すりに身体を浮かして、降りてくると、河田も降りてきた。  ――君は大切な人間なんだ。絶対に警察に顔を知られてはならないんだからね。  森本は頬に河田の息吹きを感じた。  ――「工場細胞」として働いてもらおうと思ってるんだ。  彼の右手は階段の下の、厚く澱んだ闇の中でしっかりと握りしめられていた。

  彼は外へ出た。気をとられていた。小路のドブ板を拾いながら、足は何度もつまず躓 い

た。  ――工場細胞!  彼はそれを繰り返えした。繰りかえしているうちに、ジリ/\と底から興奮してくる自分を感じた。

                    七

  この会合は来るときも、帰るときも必ず連れ立たないことにされていた。森本も鈴木も別々に帰った。  ……俺へばりついても、この仕事だけはやって行こうと思ってる。命が的になるかも知れないが……。  前に帰ったものとの間隔を置くために待っていた河田が厚い肩をゆすぶった。

  ――警察ではこう云ってるそうだ。俺とか君とか鈴木とか、おもて表 に出てしまった人間

なんて、チットも恐ろしくない。これからは顔の知られない奴だって。きゃつ彼奴 等だって、

ちァんと俺たちの運動の方向をつかんだ云い方をするよ。だから彼奴等のスパイ政策も変ってきたらしい。特高係とか何んとか、所詮表看板をブラ下げたものに彼奴等自身もあまり重きを置かなくなってきたらしいんだ。  ――フうん、やるもんだな。  ――合法活動ならイザ知らず、運動が沈んでくれば、そんなスパイの踏みこめるところなど知れたものだ。恐ろしいのは仲間がスパイの時だ。或いは途中でスパイにされたときだ。買収だな。早い話が……。  ――オイ/\頼むぜ。  石川がムキな声を出した。  ――ハヽヽヽヽ。まアさ、君がこっそり貰ってるとすれば、今晩のことはそのまゝ筒抜けだ。特高係など、私が労働運動者ですと、フレて歩く合法主義者と同じで、恐ろしさには限度があるんだ。外部でなくて内部だよ。  ――また気味の悪いことを云いやがるな。

  河田はだが屈託なさそうに、鉢の大きい頭をゴシ/\か掻いて笑った。それから、

  ――本当だぜ!  と云った。そして腕時計を見た。  ――今日は俺が先きに帰るからな。  河田はそこから出ると、萬百貨店の前のアスファルトを、片手にハンカチを持って歩いていた。一寸蹲めば分る小間物屋の時計が八時を指していた。彼は其処を二度往き来した。敷島をふかしてくる男と会うためだった。彼が前にその男から受取った手紙の日附から丁度十日目の午後八時だった。それは約束された時間だった。彼は表の方を注意しながら、三銭切手を一枚買った。会ったときの合図にそれが必要だった。その店を出しなに、フト前から来る背広の人が敷島をふかしているのに気付いた。彼はその服装を見た。一寸ちゅうちょ躊躇 を感じた。然しその眼は明かに誰かを探がしていた。彼は思わずハンカチを

握っているてのひら掌 に力が入った。

  男が寄ってきた。で彼も何気ない様子を装って、その男と同じ方へ歩き出した。彼から口を切った。  ――山田です。  すると、背広の男は直ぐ  ――川村。  と云った。

「山」と「川」が合った。二人は人通りのあまり多くない河ぶち端 を下りて行った。少し行

くと、男が、  ――何処か休む処がないですか。  と云った。  ――そうですね。  河田は両側を探して歩いた。そして小さいレストランの二階へ上った。  テーブルに坐ると、男がポケットから三銭切手を出した。その 3sn の 3 がインクで消されていた。河田もさっきの三銭切手を出して、その sn の方を消した。二人は完全に「同志」であることが分った。――男は中央から派遣されてきた党のオルガナイザーだった。  河田はY地方の情勢や党員獲得数などを、そこで話し出した。

                    八

  鈴木は少しでも長く河田や石川などゝいることに苦痛を覚えた。彼は心が少しも楽しまないのだ。誇張なしに、彼は自分があらゆるものから隔てられている事を感じていた。そしてその感情に何時でも負かされていた。――  およそ、プロレタリヤ的でない! 然し自分は一体「運動」を通じて、運動をしているのか、「人」を信じて運動をしているのか? 河田や石川が自分にとって、どうであろうと、それが自分の運動に対する「気持」を一体どうにも変えようが無い筈ではないか。――又変えてはならないのだ。そうだ、それは分

 る。然し直ぐ次にくるこの「淋しさ」は何んだろう? ――彼はもう自分が道を踏み迷っていることを知っていた。  理論的にも、実践的にも、それに個人的な感情の上からでも、あせっている自分の肩先きを、グイ/\と乗り越してゆく仲間を見ることに、彼は拷問にたえる以上の苦痛を感じた。こういう迷いの一ッ切れも感じたことのないらしい他の同志を、彼はうらやましく思った。――然し彼はこういう無産運動が、外から見る程の華々しい純情的なものでもなく、醜いいがみ合いと小商人たちより劣る掛引に充ちていることを知った。それは彼に恐ろしいまでの失望を強いた。  ――運動ではお前は河田達の先輩なんだぜ。

  その言葉の陰は「それでもくや口惜しくないのか。」と云っていた。それは撒ビラのこと

で、二十九日食ったときの事だった。然しそんな事を云うのは、よく使われる特高係の「手」であることを彼は知っていた。  ――お前も案外鈍感だな。一緒に働いていて、河田や石川たちから何処ッかこう仲間外れにされていることが分らないのかな。  彼はだまって外ッ方を向いた。――然し彼は自分の意志に反して、顔から血のひいてゆくのをハッキリ感じた。  ――「手」だな、とお前はキット考えてるだろう。  特高主任が其処で薄く笑った。  ――それアねえ、僕らも正直に云って、そんな「手」をよく使うよ。だが、これが「手」かどうかは、僕より君が内心知ってるんだろうと思うんだ。この前、石本君とも話したが、鈴木は可哀相に置いてけぼりばかり食ってる。あれでよく運動を一緒にやって行く度量がある。俺たちにはとても出来ない芸当だって云ってたんだ。  ――…………。  ――……じゃ知らせようか。  特高主任がフト顔をかしげた。鈴木はその言葉の切れ間に思わず身体のしまる恐怖を感じた。  ――これは或いは滅多に云えない事だが、僕等はある方法によって、そこは世界一を誇る警察網の力だが、すでに河田たちが共産党に加入しているということの確証を握ったのだ。――ところが、それに君が入っていないのだ。……入っていないから、こんな事君に

云える。うそ嘘 か本当かは君の方が分ってるだろうよ……。

  ――…………。  ――おかしい云い方をするが、僕はそのことが分った時、喜んでいゝか、悲しんでいゝか分らなかった。  ――入っていないときいて、僕等が喜ぶのは勝手だと君は云いたいだろう。それならそれでいい。僕等はどうせ、人に決して喜ばれることの出来ない職業をしているのだから。

然し「同志」というものゝ気持は、僕等からはとてもうかが覗 い知ることの出来ないほど、

深い信頼の情ではないかと思うんだ。だが、君はそれに裏切られているのだ。それが分ったとき、僕は君に対して何んと云っていゝか分らない、淋しい、暗い気持にされたのだ。  ――勝手なことを云え!  胸がまくれ上がって、のどへ来た。それを一思いにハキ出さなければならなかった。で、怒鳴った。――彼は胸一杯の涙をこらえた。  特高主任は鉛筆をもてあそびながら、彼の顔をじッと見た。一寸だまった。  ――そればかりではないんだ。紛議の交渉とか争議費用として受取った金の分配などで、君がどの位誤魔化されているか知れない。――河田たちが、そんな金で遊んでいる証拠がちァんと入ってるんだ。――それでも清貧に甘んじるか……。  それ等が嘘であれ、本当であれ、彼が内心疑っていた事実をピシ/\と指していた。  気にしまい、気にしまい、そう意識すると、逆にその意識が彼の心を歪める。河田と素直な気持ではものが云えなくなった。河田たちの顔を見ていることが出来なかった。自分

ながらおか可笑しい程そわ/\して、視線を迷わせた。そして一方自分の何処かでは、河田の

云うことにかみそり剃刀 の刃のような鋭い神経を使っているのだ。

  少し前だった。何時も自分の宿に訪ねてくる特高係が、街で彼を見ると寄ってきた。

  ――君は大分宿代をとど滞 こらせてるんだな。

  と、ニヤ/\云った。  ――じゃ、君か!

  彼はそのまゝ立ち止った。刑事は大きな声で笑った。――四五日前、鈴木の友人だと云って、彼の泊っている宿へ来て、今迄滞らせていた宿代を払って行ったものがあったのだ。  ――いゝじゃないか、こういう事は。お互さ。別に恩をきせて、どうというわけでないんだから。

  それから、一寸聞きたいことがあるんだが、と赤い薄いひげ鬚 を正方形だけはやしたその

男が、あたり四囲 を見廻わした。

  二人は大通りから入ったカフエー・モンナミを見付けた。そこのバネ付のドアーを押して二階へ上った。――特高は彼には勝手に、ビールやビフテキを注文した。  ――断っておくが、こういう事は君たちの勝手にすることで、別に……。  みんな云わせずに、  ――分ってるよ。固くならないでさ。一度位はまアゆっくり話もしてみたいんだよ。――いくら僕等でもネ。  と、云って、ヒヽヽヽヽと笑った。  彼はもう破れ、かぶれだと思った。彼はそこでのめる程酔払ってしまった。――「二階」の会合の時も、河田が急いでいたらしかったが、鈴木は自分から先きに出てしまった。ジリ/\と来る気持の圧迫に我慢が出来なかったのだ。――下宿に帰ってくると、誰か本の包みを置いて行ったと云った。彼はそれを聞くと、その意味が分った。  二階に上って行って解いてみると、知らない講談本だった。彼は本の背をつまんで、頁を振ってみた。ぺったり折り畳まった拾円紙幣が二枚、赤茶けた畳の上に落ちてきた。  彼はフイに顔色をかえた。――拾円紙幣が出たからではない。知らずに本の頁を振る動作をしていた自分にギョッと気付いたからだった。  彼はそれをつかむと、階段を下りて、街へ出て行った。だが、彼の顔色がなかった。

                     中 九

  ――君ちァん、君ちァん。――キイ公オ!

  二階のパッキング・ルーム

函詰場 で、男工と女工がコンヴェイヤーの両側に向い合って、空罐

を箱詰めにしていた。パッキングされたはこ函 は、二階からエスカレーターに乗って、運河

の岸壁に横付けにされている船に、そのまゝ荷役が出来る。――昼近くになって、罐が切れた。皆が手拭で身体の埃を払いながら、薄暗い階段を下りて行った時だった。暗い口を開らいている「製品倉庫」のなかから、低くひそめた声が呼んでいる。前掛けはしめ直していたお君が「クスッ」と笑って、――急いで四囲を見た。だまっていた。  ――キイ公、じらすなよ!  お君はもう一度クッと笑って、倉庫の中へ身体を跳ねらした。  ――ア、暗い。  ワザと上わずった声を出して、両手で眼を覆った。居ない、居ないをしているように。  ――こっちだ。  男の手が肩にかゝった。  ――いや。  女が身体をひいた。

  ――何が「いや」だって。手ばの除けれよ。

  ――…………。

  お君は男の胸をじか直接に感じながら、身体をいや/\させた。

  ――手ば取れッたら。な。さ。ん?

  女はもっとそうしていることに妙な興奮と興味を覚えた。男は無理に両手を除けさせて、後に廻わした片手で、女の身体をグイとしめつけてしまった。女は男の腕の中に、身体をくねらした。そして、顔を仰向けにしたまゝ、いたずらに、ワザと男の唇を色々にさけた。男は女の頬や額に唇を打つけた。  ――駄目だ、人が来るど!  男はあせって、のどにからんだ声を出した。お君はとう/\声を出して笑い出した。そして背のびをするように、男の肩に手をかけた……。  ――上手だなア。  男が云った。

  ――  モチ! 癖になるから、あんたとはこれでおしま終 いよ!

  男が自由にグイ/\引きずり廻わされるのが可笑しかった。お君はそう云うと、身体をひる翻 がえして、上気した頬のまゝ、階段を跳ね降りて行った。

  お君は昼過ぎになってから、然し急にはし燥 ゃぐことをやめてしまった。

  昼飯時の食堂は何時ものように、女工たちがガヤ/\と自分の場所を仲間たちできめていた。お君は仲良しの女工に呼ばれて、そこで腰を並べて、昼食をたべた。  ――ねえ!  ワザ/\お君を呼んだ話好きな友達が、声をひそめた。  ――驚いッちまった!  女は昨日仕事の跡片付けで、皆より遅くなり、工場の中が薄暗くなりかけた頃、脱衣場から下りてきた。その降り口が丁度「ラバー小屋」になっていた。知らずに降りてきた友達はフトそこで足をとめた。小屋の中に誰かいると思ったからだった。女の足をとめた所から少し斜め下の、高くハメ込んである小さい硝子窓の中に――男と女の薄い影が動いている。  ――それがねエ!  女は口を抑えて、もっと低い声を出した。  男はこっちには背を見せて、ズボンのバンドをしめていた。女は窓の方を向いたまゝうつ向いて、髪に手をやっている。男はバンドを締めてしまうと、後から女の肩に手をかけた。そして片方の手をポケットに入れた。ポケットの中の手が何かを探がしているらしかった。  ――  お金よ! 男がそのお金を女の帯の間に入れてやったのよ、どう?  ――…………  ――で、その女の人一体誰と思う?  いたずらゝしい光を一杯にたゝえた眼で、お君をジッと見た。  ――誰だか分ったの?  ――  それアもう! そういうことはねえ。  ――…………?  ――芳ちゃんさ!  ――馬鹿な!  お君は反射的にハネかえした。  ――フン、それならそれでいゝさ。  女は肩をしゃくった。  お君は一寸だまった。  ――相手は?  ――  相手? お金商売だもの一日変りだろうよ。誰だっていゝでしょうさ。  何時でも寒そうな唇の色をしている芳ちゃんは、そう云えば四人の一家を一人で支えていた。お君はそのことを思い出した。――それをこんな調子でものを云う女に、お君はもち前の向かッ腹を立てゝしまった。

  ――でも、わたし妾 たちの日給いくらだと思っているの。五十銭から七八十銭。月いくら

になるか直してごらんよ。――すき淫乱なら

ただ無償でやらせらアねえ!

  お君は飯が終って立ちかけながら、上から浴びせかけた。そして先きに食堂を出てしまった。  ――馬鹿にしてる!

                    十

  午後から女学生の「工場参観」があると云うので、男工たちは燥ゃいでいた。  ――  ヘンだ。ナッパ服と女学生様か! よくお似合いますこと!  女工たちは露骨な反感を見せた。

  ――  口惜しいだろう! ――女学生が入ってくると、ここ工場のお嬢さん方の眼付が変るか

ら。すご凄 いて!

  ――眼付きなら、どっちがね!  ――オイ、あまりいじめるなよ。たまには大学生様だって参観に来るんだからな。  何時でもズケ/\と皮肉なことを云う職工だった。

  ――と、どうなるんだ。大学生様と女工さんか。ハ、それア今はやり流行 だ!

  ――ネフリュウドフでも来るのを待ってるか……!「芸術職工」が口を入れた。  ――女学生の参観のあとは、不思議にお嬢さん方の鼻息がおとなしくなるから、たまにはあった方がいゝんだ。  年老った職工が聞いていられないという風に云った。  ――  「友食い」はやめろって! キイ公まで黙ってしまった。――何んとか、かんとか云ったって……どんづまりはなア!   どんづまりは? で、みんなお互気まずく笑い出してしまった。「Yのフォード」は、その完備した何処へ出しても恥かしくない工場であると云うことを宣伝するために、広告料の要らない広告として、「工場参観」を歓迎していた。「製罐業」を可成りの程度に独占している「H・S会社」としては、工場の設備や職工の待遇を

この位のものにしたとしても、別に少しの負担にならなかった。しか而 も、その効果は更に

職工たちに反作用してくることを予想しての歓迎だった。――「俺ンとこの工場は――」「俺の会社は――」職工たちはそういう云い方で云う。自分の工場が誰かに悪口をされると、彼等はおかしい程ムキになって弁護した。三井に勤めている社員が、他のどの会社に

勤めている社員の前でも一つのキンじ恃をもっている。そういう社員は従って決して三井を

裏切るようなことをしない。「H・S」の専務はそのことを知っていたのだ。  伝令が来た。幼年工を使ってよこした。  ――来たよ。シャンがいるよ。  ――キイ公、聞いたか。シャンがいるとよ。  ――どれ、俺も敵状視察と行ってくるかな。

  同じパッキングにいるおとな温 しい女工が、浮かない顔をしていた。

  ――ね、君ちゃん、私いやだわ。女学校なら、小学校のとき一緒の人がいるんだもの。  ――構うもんかい!  お君は男のような云い方をした。  ――こっちへ来たら、その間だけ便所へ行ってるわ、頼んで。――本当に、どんな気で

他人の働いてるのを見に来るんだか。

  ――何が恥かしいッて。お嬢さん面へ空罐でもぶ打ッつけてやればいゝんだ。動物園と間

違ってやがる。  ――  よオ! よオ!  ――何がよオだい。働いた金でのお嬢さん面なら、文句は云わない。何んだい!  ――へえ、キイ公も偉くなったな。どうだい、今晩活動をおごるぞ。行かないか。月形竜之介演ずるところの、何んだけ、斬人斬馬の剣か。人触るれば人を斬り、馬触るれば馬

 を斬る! 来いッ、参るぞオ――だ。行かないか。  ――たまには、このお君さんにも約束があるんでね。  ――キイ公めっきり切れるようになったな。  お君は今晩「仕事」のことで、森本と会わなければならなかった。――  階段を上ってくる沢山の足音がした。  ――さア、来たぞ

                    十一

  その昼、森本は笠原を誘って、会社横のきれい綺麗 に刈り込んだ芝生に長々とのびた。――

彼はこういう機会を何時でも利用しなければならなかった。笠原は工場長の助手をしていた。甲種商業学校出で、マルクスのものなども少しは読んでいるらしかった。  そこからは、事務所の前で、ワイシャツの社員がキャッチボールをやっているのが見えた。力一杯なげたボールがミットに入るたびに、真昼のもの憂い空気に、何かゞ筒抜けて

いくような心よい響きをたてた。側に立っていた女事務員が、受け損じると、手をう拍って

ひやかした。  が、工場の日陰の方には、子供が負ぶってきた乳飲子を立膝の上にのせて、年増の女工が胸をはだけていた。それが四五組あった。  森本は青い空をみていた。仰向けになると、空は殊更に青かった。――その時、胸にゲ

ブゲブッと来た。森本は口の中でそれをか噛み直した。

  ――オイ!  側にいた笠原が頭だけをムックリ挙げて、森本を見た。

  ――……  ?はんすう反芻  か? 嫌な奴だな。

  彼は極り悪げにニヤ/\した。  森本が会社のことを色々きくのは笠原からだった。  会社は今「産業の合理化」について、非常に綿密な調べ方をしていた。然し合理化の政策それ自体には大した問題があるのではなくて、その政策をどのような方法で実行に移すかということ――つまり職工たちに分らないように、憤激を買わないようにするには、どうすればいゝか、その事で頭を使っていた。「H・S」では、新たに採用する職工は必ず現に勤務している職工の親や兄弟か……でなければならなかった。専務は工場の一大家族主義化を考えていた。――然しその本当の意味は、どの職工もお互いが勝手なことが出来ないように、眼に見えない「責任上のれんけい連繋 」を作って置くことにあった。それは更に、賃銀雇傭という冷たい物質的関係以

外に、会社のその一家に対する「恩恵」とも見れた。然し何よりストライキ除けになるのだった。で、今合理化の政策を施行しようとしている場合、これが役立つことになるわけだった。  会社は更に市内に溢れている失業労働者やすぐ眼の前で動物線以下の労働を強いられている半自由労働者――浜人足たちのことを、たゞそれッ切りのことゝして見てはいなかっ

た。そういう問題が深刻になって来れば来るほど、それが又「Yのフォード」である「H・S」の職工たちにもデリケートな反映を示してくるということを考えていた。――そういう一方の「劣悪な条件」を必要な時に、必要な程度にチク/\と暗示をきかして、職工たちに強いことが云えないようにする。――「H・S」はだから、イザと云えば、そういう強味を持っていた。  合理化の一つの条件として、例えば労働時間の延長を断行しようとする場合、それが職

工たちの反感をまとも真正面に買うことは分り切っている。然し、軍需品を作るS市の「製麻会

社」や、M市の「製鋼所」などでは、それが単なる「営利事業」でなくて、重大な「国家的義務」であるという風に喧伝して、安々と延長出来た例があった。――「抜け道は何処にでもある。」だから、その工場のそれ/″\の特殊性を巧妙につかまえれば、案外うまく行くわけだった。――「H・S」もそうだった。

自慢じゃ御座んせぬ

  製罐工場の女工さんは

露領カムチャツカの寒空に

  命もとでの罐詰仕事

無くちゃならない罐つくる。

羨ましいぞえ

  製罐工場の女工さんは

一度港出て罐詰になって

  帰りゃ国を富まして身を肥やす

無くちゃならない罐つくる。

自慢じゃ御座んせぬ

  製罐工場の女工さんは

怠けられようか会社のために

  油断出来ようかみ国のために

命もとでの仕事に済まぬ。

(「H・S会社」発行「キャン・クラブ」所載。)

  そういう歌や文章が投稿されてくると、会社は殊更に「キャン・クラブ」で優遇した。又、会社がこっそり誰かに作らせて、それを載せることさえした。「H・S会社」はカムサツカに五千八百万罐、蟹工船に七百八十万罐、千島、北海道、樺太

に九百八十万罐移出していた。パーセント割合 にして、カムサツカは圧倒的だった。

  笠原は工場長のもとで「サエンテフィック・マネージメント

科学的管理法 」や「テイラー・システム」を読ませられたり、色々な統計を作らされるので、会社の計画を具体的に知ることが出来た。日本ばかりでなく、世界の賃銀の高低を方眼紙にひかされた。――世界的に云って、名目賃銀は降っていたし、生活必需品の価格と比較してみると、実質賃銀としても矢張り下降を辿っている。「H・S」だけが何時迄もその例外である筈がなかった。又、生

産力の強度化を計るために、現在行われている機械組織がモット分業化され、賃銀の高い熟練工を使わずに、婦女子で間に合わすことが出来ないか、コンヴェイヤーがもっと何処ッかへ利用出来ないか、まだ労働者が「油を売ったり」「息を継ぐ」暇があるのではないか、箇払賃銀にしたらどうか……。職工たちがせゝッこましい工場の中のことで、頭をつッこんでグズ/\しているまに、彼等は「世界」と歩調を合せて、その方策を進めていた。「H・S工場」の五カ年の統計をとってみると、生産高が増加しているのに、労働者の数

は減っている。これは二つの意味を持っていた。――一つは今迄以上に労働者がしぼ搾 られ

たと云うこと、一つはそれだけが失業者として、街頭におッぽり出されているわけである。コンヴェイヤーが完備してから、「運搬工」や「下働人夫」が特に目立って減った。熟練工、不熟練工との人数の開きも賃銀の開きも、ずッと減っている。驚くべきことは、何時のまにか「女工」の増加したことで、更に女工が増加した頃から、工場一般の賃銀が眼に見えない位ずつ低下していた。――工場長は、女を使うと、賃銀ばかりの点でなく、労働組合のような組織に入ることもなく、抵抗力が弱いから無理がきく、と云っていた。  然しこれ等のことは、どれもたゞ「能率増進」とか「工場管理法」の徹底とか云ってもいゝ位のことで、「産業の合理化」という大きな掛声のホンの内輪な一部分でしかなかった。――「産業の合理化」は本当の目的を別なところに持っていた。それは「企業の集中化」という言葉で云われている。中や小のゴチャ/\した商工業を整理して、大きな奴を益々大きくし、その数を益々少なくして行こうというのが、その意図だった。  で、その窮極の目的は、残された収益性に富む大企業をして安々と独占の甘い汁を吸わせるところにあった。そして、その裏にいて、この「産業の合理化」の糸を実際にあやつ操 っているものは「銀行」だった。

  例えば銀行が沢山の鉄工業者に多大の貸出しをしている場合、自分の利潤から云っても、それ等のもの相互間に競争のあることは望ましいことではない。だから銀行は企業間の競争を出来るだけ制限し、廃止することを利益であると考える。こういう時、銀行はその必要から、又自分が債権者であるという力から、それ等の同種産業者間に協定と合同を策して、打って一丸とし、本来ならば未だ競争時代にある経済的発展段階を独占的地位に導く作用を営むのだ。――合理化の政策は明かに「大金融資本家」の利益に追随していた。  毎月三田銀行へ提出する「業務報告」を書かせられている笠原は、資本関係としての「銀行と会社」というものが、どんな関係で結びつけられているか知っていた。――「H・S工場」の監督権も、支配、統制権もみんな三田銀行が握っていること、営業成績のことで、よく会社へ文句がくること、専務が殆んど三田銀行へ日参していること、誇張して云えば、専務は丁度逆に三田銀行から「H・S」へ来ている出張員のようなものであること……。こういう関係は、いずれ面白いことになりそうだ……笠原がそんなことを話した。森本はだん/\青空を見ていなかった。  産業の合理化は更に購買と販売の方にもあらわれた。資本家同志で「共同購入」や「共同販売」の組合を作って、原料価格と販売価格の「統制」をする。そうすれば、彼等は一方

では労働者を犠牲にして剰余価値をグッとふ殖やすことが出来ると同時に、こゝでは価格が

「保証」されるわけだから、二重に利潤をあげることが出来るのだった。彼等の独占的な 価格協定のために、安い品物を買えずに苦しむのは誰か? 国民の大多数をしめている労

働者だった。  ――要らなくなったゴミ/\した工場は閉鎖される。労働者はドシ/\街頭におッぽり出される。幸いに首のつながっている労働者は、ます/\科学的に、少しの無駄もなくしぼ搾 られる。他人事ではないさ。――こういう無慈悲な

まさつ摩擦 を伴いながら、資本主義と

いうものは大きな社会化された組織・独占の段階に進んで行くものなのだ。だから、産業の合理化というものは、どの一項を取り出してきても、結局資本主義を最後の段階まで発

達させ、社会主義革命に都合のいゝ条件を作るものだけれども、又どの一項をとってみても、皆結局は「労働者」にその犠牲を強いて行われるものなんだ。――「H・S」だって今に……なア……。  笠原は眼をまぶしく細めて、森本を見た。  ――「Yのフォード」も何時迄も「フォード」で居られなくなるんでないか、と思うがな。

                    十二

  始業のボウで、二人が跳ね上った。笠原はズボンをバタ/\と払って、事務所の方へ走って行った。

 スチーム・ハンマー

気槌 のドズッ、ドズッという地ゆるぎが足裏をくすぐったく揺すった。薄暗い職場の入口で、内に入ろうとして、森本がひょいと窓からゴルフへ行く専務の姿を見て、足をよどました。給仕にステッキのサックを背負わしていた。拍子に、中から出てきた佐伯と身体を打ち当てゝしまった。  ――失敬ッ!

  ――ひょっとこめ奴!

   佐伯? 何んのために、こっちへやって来やがったんだ、――森本は臭い奴だと思った。

  ――何んだ、手前の眼カスベかかれい鰈 か?

  ――何云ってるんだ。窓の外でも見ろ!  佐伯はチラッとそれを見ると、イヤな顔をした。  ――あの格好を見れ。「昭和の花咲爺」でないか。ゴルフってあんな恰好しないと出来ないんか。  ――フン、どうかな……。  あやふやな受け方をした。佐伯には痛いところだった。  ――実はね、安部磯雄が今度遊説に来るんだよ。……それを機会に、市内の講演が終ってから、一時間ほど工場でもやってもらうことにしたいと思ってるんだ。これは専務も賛成なんだが……。  ――  主催は? ……君等が呼ぶのか?  ――冗談じゃない、専務だよ。  ――専務が  森本が薄く笑った。  ――へえ、馬鹿に大胆なことをするもんだな。  ――偉いもんだよ。  佐伯は森本の意味が分らず、き真面目に云った。  専務が「社民党」から市会議員に出るという噂を森本がきいたことがあった。そんな話を持ち出してきたのも矢張り佐伯だった。その時、森本は、  ――じゃ、社民党ッて誰の党なんだ。「労働者の党」ではないのか。  と云った。  佐伯が顔色を動かした。そして  ――共産党ではないさ。  と云ったことがある。  会社では、職工たちが左翼の労働組合に走ることを避けるために、内々佐伯たちを援助して、工場の中で少し危険と見られている職工を「労働総同盟」に加入させることをしていた。それは森本たちも知っている。――然しその策略は逆に「H・S」の専務は実に自由主義的だとか、職工に理解があって、労働組合にワザ/\加入さえさせているとか――そういうことで巧妙に隠されていた。それで働いている多くの職工たちは、その関係を誰

も知っていなかった。工場の重だった分子が、仮りに「社民系」で固められたとすれば、およそ「工場」の中で、労働者にどんな不利な、酷な事が起ろうと、それはそのまゝ通ってしまう。分りきったことだった。――森本は其処に大きな底意を感ずることが出来る。会社がダン/\職工たちに対して、積極的な態度をもってやってきている。それに対する何かの用意  ではないか? ――彼はます/\その重大なことが近付いていることを感じた。  彼はまだ「工場細胞」というものゝ任務を、それと具体的には知っていない。然し彼は

今までの長い工場生活の経験と、この頃のようやく分りかけてきたその色々なしくみ機構 のう

ちに、自分の位置を知ることが出来るように思った。――  ――で、この機会に、工場の中にも社民党の基礎を作ろうと思うんだ。……仕上場の方にも一通りは云ってきた。――その積りで頼むぜ。  佐伯はそれだけを云うと、トロッコ道を走って行った。走って行きながら、ブリキを積んだトロッコを押している女工の尻に後から手をやった。それがこっちから見えた。女が

 キャッ! とはね上って、佐伯の背をな殴ぐりつけた。

  ――ぺ、ぺ、ぺ!  彼はおどけた恰好に腰を振って、曲がって行った。  佐伯は労働者街のT町で、「中心会」という青年団式の会を作っていた。その七分までが「H・S」の職工だった。彼は柔道が出来るので、その会は半分その目的を持っていた。道場もあった。「H・S会社」から幾分補助を貰っているらしかった。何処かにストライキが起ると、「一般市民の利益のために」争議の邪魔をした。精神修養、心神錬磨の名をかりて、明かにストライキ破りの「暴力団」を養成していたのだ。会社で「武道大会」があると、その仲間が中心になった。  森本は職場へ下りて行きながら、自分の仕事の段取と目標が眼の前に、ハッキリしてくるのを感じた。

  その日家へ帰ってくると、河田の持って来た新聞包みのパンフレットが机にのってい

た。歯車のそうてい装幀 のある四五十頁のものだった。

・「工場新聞」

・「工場細胞の任務とその活動」

  表紙に鉛筆で「すぐ読むこと」と、河田の手で走り書してあった。

                    十三

  ――女が入るようになると、気をつけなければならないな。運動を変にしてしまうことがあるから。  河田がよく云った。――で、森本もお君と会うとき、その覚悟をしっかり握っていた。「石切山」に待ってゝもらって、それから歩きながら話した。  胸を張った、そり身のお君は男のような歩き方をした。工場で忙がしい仕事を一日中立って働いている女工たちは、日本の「女らしい」歩き方を忘れてしまっていた。――もう少し合理的に働かせると、日本の女で洋服の一番似合うのは女工かも知れない、アナアキストの武林が、武林らしいことを云っていた。  工場では森本は女工にフザケたり、笑談口も自由にきけた。然し、こう二人になると、

彼は仕事のことでも仲々云えなかった。一寸云うと、まずくども吃 った。淫売を買いなれて

いることとは、すっかり勝手がちがっていた。小路をつッ切って、明るい通りを横切らな

ければならないとき、彼はおかしい程あわ周章てた。お君が

うしろ後 で、クッ、クッと笑っ

た。――彼は一人先きにドンドン小走りに横切ってしまうと、向い小路で女を待った。お

君は落付いて胸を張り、洋装の人が和服を着たときのように、着物の裾をパッ、パッとはじいて、――眼だけが森本の方を見て笑っている――近付いて来た。肩を並べて歩きながら、  ――森本さん温しいのね。  とお君が云った。  ――あ、汗が出るよ。  ――男ッてそんなものだろうか。どうかねえ……?

  薄いゆかた浴衣 は円く、むっつりした女の身体の線をそのまゝ見せていた。時々肩と肩がふ

れた。森本はギョッとして肩をひいた。  ――のどが乾いた。冷たいラムネでも飲みたい。何処かで休んで、話しない?

  少し行くと、こおり氷水 店があった。硝子のすだれが凉しい音をたてゝ揺れていた。小さい

築山におもちゃの噴水が夢のように、水をはね上げていた。セメントで無器用に造った池の中に、金魚が二三匹赤い背を見せた。  ――おじさん、冷たいラムネ。あんたは?  ――氷水にする。  ――そ。おじさん、それから氷水一ツ。  森本を引きずッて、テキパキとものをきめて行くらしい女だと分ると、彼はそれは充分喜んでいゝと思った。彼はこれからやっていく仕事に、予想していなかった「張り」を覚えた。  ――で、ねえ……。  のど仏をゴクッ、ゴクッといわせて、一息にラムネを飲んでしまうと、又女が先を切ってきた。  ――途中あんたから色々きいたことね、でも私ちがうと思うの。……会社が自分でウマク宣伝してるだけのことよ。女工さんは矢張り女工さん。一体女工さんの日給いくらだと思ってるの。それだけで直ぐ分ることよ。  お君は友達から聞いた「芳ちゃん」のことを、名前を云わず彼に話してきかせた。

  ――友達はその女がふしだら不仕鱈 だという。でも不仕鱈ならお金を貰う筈がないでしょう。

悪いのは一家四人を養って行かなければならない女の人じゃなくて――一日六十銭よりく れない会社じゃない? ――あんただって知ってるでしょう。会社をやめて、バアーの女

給さんになったり、たまにはごけ白首になったりする女工さんがあるのを。それはね、会社を

やめて、それからそうなったんでなくて、会社のお金だけではとてもやって行けないので、始めッからそうなるために会社をやめるのよ。――会社の人たちはそれを逆に、あいつは堕落してそうなったとか、会社にちアんと勤めていればよかったのにと云いますが、ゴマかしも、ゴマかし!   森本は驚いて女を見た。正しいことを、しかもこのような鋭さで云う女! それが女工である!  ――女工なんて惨めなものよ。だから、可哀相に、話していることってば、月何千円入る映画女優のこととか、女給や芸者さんのことばかり。  ――そうかな。

  ――それから一銭二銭の日給のぐち愚痴。「工場委員会」なんて何んの役にも立ったためし

もないけれども、それにさえ女工を無視してるでしょう。  ――二人か出てるさ。  ――あれ傍聴よ。それも、デクの棒みたいに立ってる発言権なしのね。  ――ふウん。  ――氷水お代り貰わない?  ――ん。

  ――あんた仕上場で、私たちの倍以上も貰ってるんだから、おごるんでしょう。  お君は明るく笑った。並びのいゝ白い歯がハッキリ見えた。森本はお君の屈託のない自由さから、だんだん肩のコリがとれてくるのを覚えた。お君はよく「――だけのこと」

「――というこうふん口吻 。」それだけで切ってしまったり、受け答いに「そ」「うん」そん

な云い方をした。それだけでも、森本が今迄女というものについて考えていたことゝおよ凡

そちがっていた。――こういうところが、皆今迄の日本の女たちが考えもしなかった工場の中の生活から来ているのではないか、と思った。  ――会社を離れて、お互いに話してみるとよッく分るの。皆ブツ/\よ。あんた「フォード」だからッて悲観してるようだけれども、私各係に一人二人の仲間は作れるッて気がしてるの。――女ッて……  お君がクスッと笑った。  ――女ッて妙なものよ。一たん方向だけきまって動き出すと、男よりやってしまうものよ。変形ヒステリーかも知れないわね。  ――変形ヒステリーはよかった。  森本も笑った。  彼は河田からきいた「方法」を細かくお君に話し出した。するとお君はお君らしくないほどの用心深い、真実な面持で一々それをきいた。  ――やりますわ。みんなで励げみ合ってやりましょう!  お君は片方の頬だけを赤くした顔をあげた。  氷水屋を出て少し行くと、鉄道の踏切だった。行手を柵が静かに下りてきた。なまぬる

く風をあお煽 って、地響をたてながら、明るい窓を一列にもった客車が通り過ぎて行った。

ボイラー汽罐 のほとぼりが後にのこった。――ペンキを塗った白い柵が闇に浮かんで、静かに

上った。向いから、澱んでいた五六人がすれ違った。その顔が一つ一つ皆こっちを向いた。  ――へえ、シャンだな。  森本はひやりとした。それに「恋人同志」に見られているのだと思うと、カアッと顔が赤くなった。  ――何云ってるんだ。  お君が云いかえした。  彼女は歩きながら、工場のことを話した。……顔が変なために誰にも相手にされず、それに長い間の無味乾燥な仕事のために、中性のようになった年増の女工は小金をためているとか、決して他の女工さんの仲間入りをしないとか、顔の綺麗な女工は給料の上りが早いとか、一人の職工に二人の女工さんが惚れたたゝめに、一人が失恋してしまった、ところが失恋した方の女工さんが、他の誰かと結婚すると、早速「水もしたゝる」ような赤い

手柄のまるまげ丸髷 を結って、工場へやって来る、そしてこれ見よとばかりに一廻りして行く

とか、日給を上げて貰うために、おやじ職長 と活動写真を見に行って帰り「そばや」に寄るも

のがあるとか、社員が女工のお腹を大きくさせて置きながら、その女工が男工にふざけられているところを見付けると、その男と変だろうと、突ッぱねたことがあるとか……。  坂になっていて、降りつくすと波止場近くに出た。凉み客が港の灯の見える桟橋近くで、ブラブラしていた。

  ――林檎、夏蜜柑、なし梨子は

いかが如何 ですか。

  道端の物売りがかすれた声で呼んだ。  ――林檎喰べたいな。  独言のように云って、お君が寄って行った。

  他の女工と同じように、お君も外へ出ると、買い喰いが好きだった。――お君は歩きな

がら、たもと袂 で真赤な林檎の皮をツヤ/\にこすると、そのまゝ皮の上からカシュッとか

ぶりついた。暗がりに白い歯がチラッと彼の眼をすべった。  ――  おいしい! あんた喰べない?  林檎とこの女が如何にもしっくりしていた。  ――そうだな、一つ貰おうか……。  ――  一つ? 一つしか買わないんだもの。

  女はこ堪らえていたような笑い方をした。

  ――……人が悪いな。

  ――じゃ、こっち側をひとかじ一噛 りしない?

  女はもう一度袂で林檎をぬぐ拭 うと、彼の眼の前につき出した。

  彼はてれてしまった。  ――じゃ、こっち?  女は悪戯らしく、自分の噛った方をくるりと向けた。  ――……。  ――元気がないでしょう。じゃ、矢張りこっちを一噛り。  彼は仕方なく臆病に一噛りだけした。  其処から「H・S工場」が見えた。灰色の大きな図体は鳴りをひそめた「戦闘艦」がもや舫 っているように見えた。  この初めての夜は、森本をとらえてしまった。彼はひょっとすると、お君のことを考えていた。彼はそれに別な「張り」を仕事に覚えた。それがお君から来ているのだと分ると、彼はうしろめいた気がした。――そして、もう自分は、河田の注意していることに陥入りかけているのではないか、とおもった。

                    十四

  どれもこれもロクな職工はいない、みんなマヒした奴ばかりだとか――又彼等も外からはそう見えたということは、本当ではなかった。「フォード」と云っても、矢張り労働者は労働者位しかの待遇を受けていないのだ。たゞ、どっちを向いても底の知れない不景気で動きがとれないので、とにかくしがみついていなければならなかったし、それに彼等は矢張り「Yのフォード」だという自己錯覚の阿片にも少しは落とされていた。  ――会社を離れて話してみると、皆ブツ、ブツよ。  お君が云ったことがある。これは当っていた。たゞ、いくらそんな工合でも、彼等は誰かゞ口火を切ってくれる迄は待っているものだ、ということだった。  森本は今迄は親しい仲間と会っても、工場の問題とか、政治上の話などをしゃべったことがなかった。それは仲のよかった石川が組合に入るようになってからだった。それまでの彼は見習からタヽキ上げられた、女工の尻を追ったり、白首を買ったり、女の話しかしない金属工でしかなかった。――然し、今度彼がその変った意識で以前のその仲間に話し

かけると、不思議なことには、その同じわいだん猥談 組の仲間とは思われない答を持ってやっ

てきた。それを見ても、今迄誰も彼等のうちにある意識にキッカケを与えなかったことが分る。彼等は皆自分の生活には細かい計算を持っていた。一日一銭のこと、会社の消費組合で買うするめの値が五厘高いというので、大きな喧嘩になるほどの議論をするのだ。  月々の掛金や保険医の不親切と冷淡さで、彼等は「健康保険法」にはうんざりしていた。そればかりか、「健保」が施行されてから、会社は職工の私傷のときには三分の二、公傷のときには全額の負担をしなければならないのをウマク逃れてしまっていた。「健保

は当然会社の全負担にさせなければならないたち性質のもんだ。」――誰にも教えられずに、

職工はそう云っていた。「工場委員会」も職工たちには「狸ごッこ」だとしか思われていない。「おとなしい」「我ン張りのない」職工を会社が勝手にきめて、お座なりに開くそんな「工場委員会」に少しも望みをつないでいなかった。  今迄一人の女工も使っていないボデイ・ラインを、賃銀の安い女工で置きかえるかも知れないというので、職工は顔色をなくしていた。――  表面の極く何んでもなさにも不拘、たったこれだけを見ても森本はうちにムクレ上がっている、ムクレ上がらせることの出来る力を充分に感ずることが出来た。  森本は毎朝工場へ出掛けて行く自分の気持が、――今迄とは知らないうちに変ってきているのを発見した。寒い朝、肩を前にこごめ、首をちゞめて、ギュン/\なる雪を踏んで家を出るときは、彼は文字通り奴隷である惨めさを感じた。朝のぬくもっている床の中に、足をゆっくりのばして、もう一時間でいゝ寝て居れないものか、と思った。――朝が

早いので、まだ細い雪道を同じ方向へ一列に、同じ生気のない恰好をして歩いているしみ汚点

のような労働者たちのくねった長い列をみていると、これが何時、あの「ロシア」のような、素晴しい力に結集されるのか、と思われる。その一列にはたゞ鎖が見えないだけだった。陰気な囚人運動を思わせた。  だから彼は工場でも仕事には自分から気を入れてやった事がなかった。彼はもっと出世して「社員」になろうと、一生懸命に働いたことがあった。然しいくら働いても、社員にしてくれないので、彼は十九頃からやけを起していた。殊に、そこでは人間が機械を使うのではなくて、機械が何時でも人間をへばりつかせていた。人間様が機械にギュッ/\さ

せられてたまるもんかい、彼はだらしなく、ふところで懐手 をしている方がましだと思ってい

た。――猫を何匹も飼っている婆の顔がだんだん猫に似てくるが、それと同じように、今にお前たちは機械に似てくるぞ、と森本はしゃべって歩いた。工場の轟音のなかで話して

いる彼等は、グラインダー金剛砥 が鉄物に火花を散らすような声でしかものが云えない。彼等の

腰は機械の据りのようなねばりと適確さを持っている。彼等の厚い無表情は鉄のひやゝかな黒さに似ている。彼等の指の節々はたがねの堅さを持っている。彼らはそしてスチーム・ハンマー

汽槌 のような意志を持っていた。――この労働者の首ッ根にベルトがかゝ

れば、彼等は旋盤がシャフトを削り、ボール盤が穴をうが穿 ち、セーパーやステキ盤が鉄を

平面にけずり、ミーリングが歯車を仕上げると同じそのまゝの力を出す。ハンドルを握った労働者の何処から何処までが機械であり、何処から何処までが労働者か、それを見分けることは誰にも困難なことだった。  そこでは、人間の動作を決定するものは人間自身ではない。コンヴェイヤー化されている製罐部では、彼等は一分間に何十回手先きを動かすか、機械の廻わりを一日に何回、どういう速度でどの範囲を歩くかということは、勝手ではない。機械の回転とコンヴェイヤーの速度が、それを無慈悲に決定する。工場の中では「職工」が働いていると云っても、それはあまり人間らしく過ぎるし、当ってもいない。――働いているものは機械しかないのだ。コンヴェイヤーの側に立っている女工が月経の血をこぼしながらも、機械の一部にはめ込まれている「女工という部分品」は、そこから離れ得る筈がなかった。  このまゝ行くと、労働者が機械に似てゆくだけではなしに、機械そのものになって行く、森本にはそうとしか考えられない。「人造人間」はこんな考えから出たのだろう。職工たちは「人造人間」の話をすると、イヤがった。――誰が機械になりたいものか。労働者はみんな人間になりたがっているのだ。――  森本は自分たちの「仕事」をやるようになり、色々なことが分ってくると、その工場が今更不思議な魅力を持ってきたのだ。――朝出るとき、今日は誰にしようかを決める。そ

の仲間の色々な性質や趣味や仕事から、どういう方法で、どんな話から近付いて行ったらいゝか、家へブラッと遊びに行ったらいゝか……そんな事を考えながら家を出て行くと、自分の前や後を油で汚れたナッパ服を着て、急いでいる労働者がどれも何時か自分達の「仲間」になる者達ばかりだ、と思われる。――それは今迄のジメ/\と陰気な考えを、彼から捨てさせた。

  彼は河田や石川の指導のもとに、班を二つに――男工と女工に分け、男工は彼が責任者になり、女工の方はお君が当り、その代表者だけが「二階」で河田たちと連絡をとり、そこで重要な活動の方法を決定して行くことにきめた。  その各班では基礎的な直ぐ役立つ経済上や政治上の知識を得るために、小さい「集り」を持つことにされた。  その初めに、河田が中央の指導者の書いた短い文章を森本に読んできかせた。――それはある地方の一小都市にいる同志に与えたその指導者の手紙の形をとっていた。「……通信によれば、君は貴地で労働者の研究会を組織することに成功したと云うではないか。僕はすっかり嬉しくなっている。然かも××鉄工所の労働者が七名も参加しているとは何んと素晴しいことだ。たしかに、その××鉄工所は貴地に於ける一番大きな工場だ。大

 したもんだ。タッタ七名! 誰がそんな軽蔑した言葉を発するのだ。若し我々が何千名と云う工場で、而も懐柔政策と弾圧とで金城鉄壁のような工場に、一人でもいゝ資本の搾取

に反対してた起とうとする労働者を友人とすることが出来たら、我々はもうそれだけで、こ

の工場の半ばを獲得したも同様なのだ。――要は如何にして、その獲得へ到達するかであ

る。我々の与える政策が正しいなら、みち途 は急速に開けて行くだろう……。

「で、その研究会だが、君は九人の労働者を物識りに仕立てようとしているのではないだろう。若しそうだとすれば、それは一応労働運動や社会運動やマルクスの経済学を先ず理解させて、然る後組織し、闘争するというあの有名な、陳腐な、そして何時でもシタヽカの失敗と精力の濫費を重ねて来たようなやり方でなしに、――今、その地の労働者は、資本家に対して如何なる不平を持っているか。殊に××鉄工所の労働者の労働条件はどうか。現在持っている労働者の不平をどんな要求に結びつけて闘争を煽動すべきか、という形で進められるべきで、そうしたならばその集会は物識り研究会から、すっかり様子をかえて

くる。現実にい活きた興味をもって活気が起きてくるのだ。」

  ――僕等はもうその有名な失敗に足をふみ入れかけていたんではないかな。それはもう少し続いていた。「例えば、××鉄工所に闘争激発のために、アジテエションのビラ等を持ち込む場合、その七名の労働者を矢面に立てることは断じて得策でない。それはまだ事の初まらない前に、我々の工場に於ける芽を敵のために刈り取られることを意味しているからである。かゝる仕事は当該工場の外部のものが担当するのが最もいゝ。そして工場内の労働者はそのビラが工場内でどのような反響を起したか、何人の共鳴者があったかを、その晩の研究会での報告者の役目をつとめる。で、今日の工場内の動揺に対して、次にはどういう形で更にアジテエションが与えられねばならぬか、新たに出来た工場内の共鳴者は逃がさず捕えて、どんな風に組織を進めてゆくか……等、集会は全く活気を呈するに至るだろう……。」  ――これは全く正しい。  と河田は云った。  ――危なかったな。僕等もこの線に沿って行かけなればならない。

                    十五

  ドンナ困難があろうと、何より先きに「工場新聞」が発行されなければならなかった。プロレタリアの新聞は「宣伝、煽動」の機関であるばかりでなく、同時に集合的な「組織者」の役目を持っていた。  工場新聞は工場内の労働者が自分で体得した日々の経験、工場内の出来事、偽瞞的な政策

等を分り易く、具体的に暴露して、それにマルクス主義的な解答を与え、漸次彼等を階級意識に目覚めさせて行く任務を持っていた。――だが、この新聞の持つ究極の意味は、それによってプロレタリアの党(共産党)の影響を深く工場の労働者大衆の中に浸透させ、やがては党を工場の基礎の上に建設する目的をもっていた。河田の努力の本当の目的はこゝにあった。然しそれはまだ誰も知っていなかった。「H・S工場」の場合、工場新聞は謄写版刷りで、「H・Sニュース」として出すことにした。河田は沢山の先輩の例で、自分のように離れた立場にいるものが、その目当てとしている工場の中の具体的な事実も知らずに、何時でも極まり文句の抽象的なことばかり書いて、それが工場の中の誰にも飽かれたことのあるのを知っていた。だが、彼は森本やお君と共同の知識を使って作れるのだった。河田は又、他の鉄工場、ゴム工場、印刷工場にも同じ計画を進めていた。「H・Sニュース」が出る。それは小型でもいゝ。労働者にむさぼり読まれ、そして愛され、親しまれるようなものでなければならない。中に挿入されてある漫画や似顔絵は、労働者にニュースを取ッ付き易いものにするだろう。工場長の似顔が素晴しくそっくりだったら、どうだろう。長いクドイ、ゴツ/\した論文はやめよう。そんなものは労働者は読

まないから……、河田は自分の子供でも産まれるのを、こぶし拳 のグリ/\で数えるような

喜びをもって、そのニュースを空想することが出来た。「H・Sニュース」の発行で、森本と工場の多くの職工たちの関係が、今迄のような漠然とした、弱い不充分なものでなくなるし、更に優れた「工場細胞」をそれ等のなかゝら見付け出すことも出来るようになる。「ニュース」はその他にも大きな任務を持っていた。「H・S会社」は会社の雑誌として、「キャン・クラブ」を定期に発行していた。それは

何処の会社でもそうであるように、へんしゅう編輯 には一人の職工をも加えず、集った原稿は

社員だけで勝手に処理し、更に工場長が眼を通して、会社の利益に都合の悪いものを除ける。こういう御用新聞の持つ欺瞞的な記事、逆宣伝、ブルジョワ的な教化に対して、「H・Sニュース」は絶え間なく、抗争し、暴露し、それを逆に利用して「鼻をあかして」行かなければならなかった。

「キャン・クラブ」に投稿するにはとくめい匿名 でもいゝので、表立って云えないことをド

シ、ドシ書いてくるらしかった。  ――こんなことを考えている職工が居るのかと思うほど、凄いことを書いた原稿がくるんだ。と編輯をしている社員が云っている。  それがウソでないことは、河田も知っていた。Y港に帝国軍艦が二十数隻入ったことがある。旗艦である「陸奥」はその艦だけの「新聞」を持っていた。新聞はこんなに色々な

 場合に使われる! その編輯をしていた士官が、「原稿は余るほど集まるが、いゝ原稿が無いんで――埋合せに大骨だ。」と云っていた。「兵卒ッて無茶なことを書くんでね。」  河田はそれを聞いたとき、思わず俺の眼がギロリと光ったよ、と石川に云ったことがあった。  ――  帝国軍艦だぜ! 喜んだなア、中には矢張り居るんだ!「ニュース」はその「凄いこと」を書く奴を、その「無茶なこと」を書く奴を、砂の中に交っていても、その中から鉄片を吸いつける磁石のように吸いつけなければならなかった。

  三カ月すると、女工で集会に出てくるのが四人になった。男の方より一人しか少なくなかった。お君と芳ちゃんがその中心だった。――「H・Sニュース」は、それで用心深く九枚しか刷られなかった。「集り」で、女工たちにちっとも退屈させないで、面白くやってのける鈴木がみんなに喜ばれた。  ――鈴木は最近馬鹿に積極的になった。  と河田が云った。それから、  ――女がいるからかな?

  と笑った。  仲間が一人増せば、ニュースは一枚だけ増刷りされた。集会にきている職工たちから、「手渡し」で見当をつけた一人に渡された。――白蟻のように表面には出ずに、知らないうちに露台骨をかみ崩していて、気付いた時にはその巨大な家屋建築がそのまゝ倒壊してしまわなければならなくなる白蟻を、そのニュースは思わせた。  ――これからの運動は、街へ出てビラを撒いたり、演説をしたりすることではないんだぞ。  河田は少し意識のついた若い職工が、ジリ/\し出すのを見ると、それを強調しなければならなかった。  ――これからニュースを五年続けてゆく根気が絶対に必要なんだ。「H・Sニュース」には安部磯雄と専務が握手をして、後手でこっそり職工の首を絞めている漫画が出た。「狐会議」が開かれている。大テーブルを囲んで、狐の似顔にされた工場長以下職長、社員が、職工に「馬の糞」の金を握らしている。それが「工場委員会」だった。「共済会」の基金や「健保」の掛金が何処にどう、誰の利益のために流用されて

いるか。――こうでん香奠 や出産見舞に職工が一々「礼状」を書かせられて、食堂の入口に貼

られるカラクリが嘲笑された……。  そのどれもが、会社を「Yのフォード」だと思っていた職工を驚かした。

                    十六

  ――嫌になるな、君。お君と河田が変なんだぜ。  集会の帰り、鈴木が不愉快げに云った。森本はフイに足をとめた。――彼は前から、工場でもお君にキッスをしたというものが二人もいるのを知っていた。然し、それは如何にもあの  お君らしく思われ、不思議に気にならなかった。が、それが河田と! と思うと、彼は足元が急にズシンと落ちこむのを感じた。  ――河田ッて、実にそういうところがルーズだ。  ――…………。

  然しそういう鈴木が本当はお君を恋していた。彼は自分の「最後のわら藁 」がお君だと

思っていたのだった。彼はもう警察の金を二百円近くも、ズル/\に使ってしまっていた。彼は自分の惨めさを忘れなければならなかった。あせった。然しそのもがきは彼を更につき落すことしかしなかった。足がかりのない泥沼だった。――そして、今、彼は最後のお君までも失ってしまった。何んのために、自分は「集会」であんなに一生懸命になっ

 たのだ! ――こうなって彼は始めて自分の道が今度こそ本当に何処へ向いているかを、

マザ/\と感じた。夜、ねあせ盗汗 をかいたり、恐ろしい夢を見るようになった。

  四五日してからだった。  ――芳ちゃんが、とても誰かに参っちまってるのよ。  とお君はいたずらゝしく笑った。  ――そしてクヨ/\想い悩んでるの。それアおかしいのよ。で、私云ってやったの。あんた一体「お嬢さん」かッて。月を見ては何んとか思い、花を見ては……なんて、お嬢さんのするこッた。思ってることをテキパキと云って、テキパキと片づけてしまいなさいって、ね。  ――君ちゃんらしいな!  と森本は淋しく笑った。  ――そんなことで、仕事がおかしくなったら大変でしょう。私その人に云ってあげるから……キッスして貰いたかったら、キッスして貰おうし……そしたら仕事にも張り合いが出来るんでないの、と云ってやった。そしたら、とてもそんな事、恥かしくッてと。――どう?  お君は遠慮のない大きな声を出した。こういう云い方が、みんな河田から来ているので

はないかと、フト思うと、彼は苦しかった。  ――恥かしいなんて、芳ちゃん何だか、お嬢さん臭いとこあってよ。  お君を男にすれば河田かも知れない、森本はその時思った。――河田が若し恋愛をするとすれば、それは「仕事と同じ色の恋」をするだろうと皆冗談を云った。それは彼が恋をしたって、彼の感情の上にも、いわんや仕事の上にも少しの狂いもずりも起らないだろうという意味だった。  お芳の想っている相手が誰か、お君は云わなかった。

                     下 十七

  その夏は暑かった。しかし秋は雨と氷雨が代り番に続いて、港街が荒さんだ。冬がくると、秋のあとをうけて、今度は天候がめずらしくよかった。が、天気が続けば、除雪の仕

事もなくなって、労働者はや瘠せなければならない。

  港の労働者の生活はその上、政府の緊縮政策のために、更にドン底に落ち込ませられた。――「親方制度」「歩合制度」の手工業的な搾取方法を昆布巻きのように背負込んでいる労働者たちは、仮りに港に出て稼げても、手取りは何重にも削り取られて、半分になって入ってきた。歩合制度になっていながら、親方は「水揚げ高」(取扱高)の公表もせずに、勝手にごまかして、そのゴマかした高の何割しかくれなかった。金菱が石炭現場にコンヴェイヤー積込機械 を据えつけてから、パイスキを担いでいたゴモが五十人も一かたまりに失

業した。  女房たちは家の中にジッとして居れなくなった。然しポカンと炉辺に坐っていれば、坐ったきりで一日中そうしていた。呆けたようになっていた。何も考えていなかった。――台所に立って行く。然し台所に行けば、何んのために立って行ったのか、忘れていた。一所にいることが出来ない。何か心の底で終始せき立てられていた。――女房たちは、夫の稼いでいる運河のある港通りへ出てきた。  日暮れまでいて、帰りに女房たちは親方へ寄った。幾らでも貸して貰いたかった。

  ――じょうだん笑談 じゃない!

  受付から親方が顔を出した。  ――この不景気をみてくれ。こっちが第一喰えないんだ。

  そう云われても、女房たちは受付の手すりにひじ肱 をかけたきり、だまっていた。帰るこ

とを忘れていた…………。「H・S工場」の窓から、澱んだ運河を越して、その群れが見えた。――浜が騒がしくなった。「Y労働組合」はそれ等の間を縫って活動していた。不穏なストライキが起るのは、たゞ「きっかけ」だけあればよかった。組合はそれに備える充分の連絡と組織網を作って置かなければならなかった。「工場代表者会議」が緊急に開かれた。それはこの場合二つの意味をもっていた。――運

輸労働者が一斉にけっき蹶起 したとしても、Y市の「工場労働者」がその闘争の外に立つこと

は、他の何処の市でもそうであるように分りきっていた。それをこの「工代」の力によって、全市のストライキに迄発展させなければならなかった。一つは「H・S工場」の最近の動揺についてゞあった。  四つの鉄工場から六人、三つの印刷工場から三人、二つのゴム工場から四人集った。それは各々背後にその工場の何十人かの意見を代表していた。  その中に、森本が見習工のとき廻って歩いていた鉄工場の仲間が二人もいた。  ――やっぱり俺達はな……!  と云って、お互いに笑った。「工代」をこのくらいのものにするのに、河田たちは半年以上ものジミな努力をしてきていた。――で、

「H・S会社」はせんせんきょうきょう

戦々兢々 としていた。社員も職工も仕事が手につかなかった。――それは三田銀行が日本の一流銀行である金菱銀行に合同されることから起った。政府は金融機関の全国的統制――その集中をはかっていた。この合同もそれだった。銀行

はます/\巨大な、数の少ないものにまと纏 められて行っている。で、今までの「H・S会

社」に対する三田銀行の支配権は、当然金菱銀行にそのまゝ移って行った。  ところが、金菱銀行は自分の支配下に「N・S製罐会社」「T・S製罐会社」この二つの会社を持っていた。然し今まで製罐業では、金菱系の会社は何時でも「H・S会社」に圧倒されていた。だから、今「H・S」が一緒になれば、日本に於ける製罐業を安全に独占出来るのだった。――その製品を全国的に「単一化」して生産能率を挙げることも、技術や工場設備の共通的な改良整理も出来、人員の節約をし、殊にその販売の方面では、今迄無

駄にひ惹き起された価格の低下を防いで、独占価格を制定し思う存分の利潤をあげることも

出来るのだった。――だから、三田銀行が今迄とっていたような「単純な支配」ではなしに、金菱が積極的に事業そのものゝ中に、ドカドカと干渉してくることは分りきってい

た。――これは職工たちの恐れていた「産業の合理化」がじか直接に、そして極めて惨酷に実

行されることを意味していた。工場はその噂でザワめいていた。  然し問題はもっと複雑だった。

  ――今度のことでは、君、専務や支配人、工場長こいつ等の方がまっさお蒼白 になってるん

だぜ。  と、引継のために新しい銀行に提出する書類の作成で、事務所に残って毎日夜業をやらせられている笠原が云った。

  ――金菱では自分の系統から重役やおも重 だった役員を連れてきて、あいつ等を追っ払う

積りらしいんだ。然しあゝなると、あいつ等も案外モロイもんだ。――然し問題は面白くなるよ。死物狂いで何か画策してるらしい。  然し何時でも側にいる笠原には、大体その見当がついていた。――彼等は、金菱の悪ラツな進出が如何に全工場の「親愛なる」職工を犠牲にし、その生活を低下させ、「Yの

フォード」を一躍「Yの監獄部屋」にまでけおと蹴落 してしまうものであるか、と煽動し、全

従業員の一致的行動によって、没落に傾いている自分達の地位を守ろうとでもするらしかった。  ――どうも一寸ひッかゝりそうだな。  と笠原が云った。

  ――然し金菱にかゝったら、いくら専務がジタバタしようが、けた桁 から云ったって

すもう角力 にならない。これからは「金融資本家」と結びついていない「産業資本家」はドシ

/\没落してゆくんだ。度々あるいゝ手本だよ。そう云えばかなたつ※ [#「┐<辰」、屋号を示

す記号、82-3]鈴木だって、手はこれと同じ手を喰らわされたんだ。金融資本制覇の一つの過程だな。  そればかりでなく、「H・S」の製罐数の大部分は親会社である「日露会社」に売込まれて、カムチャツカに出ていた。それで、一方にはソヴエート・ロシアの「五カ年計画」の進出、他方には国内資本家間の無駄な競争に、何時でもおびやかされていた。漁区落札数の増減はテキ面に生産高にひゞいた。――「H・S」はそれに備えるために、政府を動

かして、国民一般の愛国心とソヴエート・ロシアに対するてきがいしん敵慨心 を煽り立てなけれ

ばならなかった。  今年は更にロシアが組織的に、色々な手段を借りて、わが優良漁区の蚕食をやるという確実な噂さが立っていた。「日露」と「H・S」の株価は傾きかけた水のように暴落していた。『H・S』のそういう情勢に対しては、河田は「工場細胞」の積極的な活動、「ニュース」による暴露、煽動、新しい「細胞」の獲得は云うまでもないとして、更にこの当面の「戦々兢々」たる動揺をつかんで、職工が労働者としての自分の立場と利益を擁護するために、「工場委員会」の自主化

  の闘争を起すように努力しなければならない事を提議した。  労働者がどんな資本の「攻勢」にもグイと持ちこらえ得るためには、何より工場全部の

労働者が「足並」を揃えることだった。もちば職場 、職場で態度がチグハグなために、滅

茶々々にされることはめずらしくないのだ。それは彼等が色々な問題について、工場の全部にわたって充分に討議する「機関」を持っていないところから来ていた。――その機関として、自主的な工場委員会が必要なのだ。今のところ、それは工場長や、社員できめた役付職工や去勢された職工によって、勝手にされている。我々はそれを労働者の利益のための機関として、労働者によって組織されることを要求しなければならない。――それが可決されて、時期、方法その他の具体案が長い時間かゝって、慎重に練られた。  それから他の代表者の情勢報告があった。  運輸労働者のストライキには、そのかゝげる「要求」の中に、必ず工場労働者をも動かし得るような「条項」を入れること。それには工場細胞が全力をあげて、それと工場独特の問題と結びつけて、宣伝、煽動をまき起すこと等が決議された。  終ると、河田は仰向けに後へひッくりかえった。

  ――これで俺三日ばかりろく碌 に寝てないんだ。

  河田は特に警察の追求をうけていた。転々と居場所をかえて、逃げまわっていた。そしてその先き/″\で連絡をとって、組合や森本たちを指導していた。然し二十万に足りない

小さいまち市 では、それは殆んど不可能なほど危険なことだった。

                    十八

  会合が終ると、外へは一人ずつ別々に出た。賑やかな通りをはずれて、T町の入口に来た頃、森本の後から誰か、すイと追いついてきて、肩をならべた。オヤッと思うと、それが河田だった。  ――一寸これからT町へ用事があるんだ。  森本はその時フト変な予感を持った。――河田はお君のところへ行くのではないか。  河田は一緒に歩きながら、自分たちの運動のことを熱心な調子で話し出した。河田のその熱心な調子は何時でもそうだが、独断的なガムシャラなところを持っていた。それは初めての人に、無意識な反感さえ持たせた。然し森本はその調子を河田から聞いているときは、何時でも自分のしていることに、不思議な「安心」を覚えた。彼は力と云っていゝものさえ、そこから感じることが出来た。  ――君はこの仕事に献身的になれるかい。  ときいた。森本は、なれるさ、と答えた。  ――献身的の意味だが……。  河田はそう云って、一寸考えこんで間をおいた。――人通りはまだあった。自動車のヘッドライトが時々河田の顔を半分だけ切って――カーヴを曲がって行った。  ――献身的と云っても、一生を捧げると云う位の気だな。  と云った。  足元で春に近いザラメのような雪がサラッ、サラッとなった。

  ――勿論俺だちの仕事は遊び半分には出来ることでもないし、それに俺だちのようなものが、後から後からと何度も出て来て、折り重なって、ようやくものになるというようなものだから、分りきった事だが……。  森本は今更あらたまった云い方だ、と思った。  ――「ニュース」だって半年のうちに、とにかくこの位になったという事は、一糸乱れない「組織」の力だったと思うんだ。――でねえ、俺だちの目的だな、社会主義の国を建てるということだ。そのためには鉄のような「組織」とそれを動かし、死守していく所謂その献身的な同志の力が要るわけだ……。  又そこで河田らしくなく言葉を切った。  ――分るな?  ――分ってるよ。変だな、今更……。  彼がそう云うと、河田は口の中だけで「ムフ」と笑ったようだった。  ――その鉄のような組織というのは、工場細胞を通して工場労働者にしっかりと基礎を置き、労働者の最先端に立って闘う政党ということになる。――で、労働者の党と云えば、それは「共産党」しかないわけだろう。  然しそんなことも森本は飽きる程きかされていたことだった。だから、彼は「それアそうだ」と云った。  ――鍋焼でも喰いたいな。

  河田は立ち止って、その辺を見廻わした。すこし行くと、小さいところ処 が眼についた。

二人はそこで鍋焼を食った。――河田は森本の家の事情や、収入や係累のことを聞きながら、自分のことを話し出した。  こういう運動をやるようになった動機とか、スパイ三人を向うにまわして、鉛のパイプを持って大乱闘をやったことがある話とか、どん底の生活をしている可哀相な女が時々金を自分に送ってきてくれる。それが自分のたった一人の女だとか、自家では然し母が彼のことを心に病んで、身体を悪くしているとか、そんなことを話した。彼は「お前にだけ親があると云うのか。」という詩を読んできかせた。それは聞いていると、胸をしめつけた。――何時でも冷やかに動いたことのない彼の瞳が、その詩を云い終ると潤んでいた。森本はこういう河田を初めてみたと思った。仕事をしている河田は一分もそういう彼を誰にも見せたことがなかったのだ。  ――工場はまだ大丈夫かい。  と河田がきいた。彼は何時でも森本の「顔」のことを心配していた。  ――少ォしは。長い間だから。  ――ん、少ォしでも悪いな。  ――会社の笠原さんの話だと、最近バカに工場長のところへ警察の高等係がきて、何か話してるそうだ。  鍋焼の熱いテンプラを舌の上で、あちこちやっていた河田が、眉毛を急にピクッと動かした。  ――工場長が時々顔の知らない人をつれて、工場のなかを案内して歩くけれども、ひょっとすると、それが高等係かも知れない。それに君ちゃんの話だと、職工のなかには皆の動きを一々報告している、会社に買収された奴がいるそうだ。佐伯たちの手下と知らないで、鉢合せでもしたら事だからな!  ――……   注意しなけれアならないな。  ――「ニュース」は矢張り分ってるんだ。参ってるらしい。何処で作って、どんな経路で入ってくるかを躍起になってるらしい。  ――フン!「ニュース」は初め厳密に手渡しされていた。然し、組織の根が広まり、それが可なりしっかりしたものになってくると、それを工場内の眼のつく所にワザと捨てゝ置いたり、小規模だが、バラ撒いたりするようになっていた。  ――組合のものが作ってるんだッて、工場長は云ってる。「ニュース」の No.16 かに、専務の一カ年間の精細な収入と家庭生活と一年間の芸者の線香代と妾のことを載せたア

レ、とても人気を呼んで、とう/\グル/\廻ってしまった。あれで、女工のうちでは、これが本当なら、専務さんの「ナッパ服」に今迄だまされていたッて、泣いた奴が沢山いたそうだ。噂のような話だけど――  二人は声を出して笑った。

  ――何んしろ細大もら洩 さずだから、彼奴等も浮かぶ瀬が無いだろう。

  外は人通りがまばらになっていた。二人は用心して歩いた。  森本の家の近くの坂に来たとき、河田が内ポケットから新聞の包みを出した。  ――これ明日まで読んでおいてくれ。そして読んでしまったら、すぐ焼いてくれ。  森本はそれを受取った。  ――じゃ、明日九時頃君のところへ行くから、家にいてくれ。  そう云って、河田が暗い小径を曲がって行った。  ――彼はその足音を聞いて、立っていた。  次の日、森本は河田から「共産党」加入の勧誘をうけた。

                    十九

「H・S工場」の細胞が毎日々々集合した。手落ちのないように、細かい方法がそこで決められた。河田も顔を出した。  ビラの形で撒かれる大衆的なニュースが、本当に生きた働きをするためには、その「時期」が絶対に選ばれなければならなかった。工場委員会が開かれる少し前であって、それが同時に「金菱」の整理断行が確定した日でなければならなかった。  ビラを撒いてからの第二弾、第三弾の戦術、従業員大会開催の件などが、決議された。  こん度は、専務の方からも職工も利用しようとしていた。普通のストライキと異っていた。専務は没落しかけている。だから、闘争の相手は専務や工場長ではなかった。この大きな「動揺」をつかんで、職工の結束の機関を獲得することにあった。然し、専務たちのもくろんでいることも、職工を結束させるという点では、その形態は同じだった。――この同じ一点に向ってる丁度逆の二つの力がどのようにもつれ合うか?

  ビラは大体次のような骨組を持った。  1。工場長が天下り的に工場委員会をきめるのでは何んになる。われ/\は全職工の選挙によって、全委員をきめることを要求する。2。今迄提出する議案は工場長は一応眼を通して、差支えのないものばかり出していた。こんなベラ棒なことがあってなるものか。労働者の本当の日常利害の問題をドシ/\出すこと。3。委員長には工場長が勝手になっていた。これでは職工の利益になる事項が決議されるわけがない、委員長は全委員の互選できめること。4。委員会で決めたことでも、決めッ放しのものがあるし、又工場内の大切な規約を改正する場合などは一度だって委員会に出したことがなく、専務や工場長だけで勝手に決めてしまう。結局どうでもいゝことだけ委員会に出す。これでは委員会は看板より劣る。我々はこんなゴマカシに全部反対だ。5。女工も働いている工場であるからには、女工からも委員を選ぶこと。6。「金菱」の惨酷な整理、労働者の虐使と首切りにそなえるたった一つの力は、この工場委員会の自主化を握って、足並をそろえ、全職工が結束することを措いて他にないこと。7。専務らが自分の地位にしがみつくために策動するかも知れない。それに乗せられてはならないこと。8。市内のゴム会社、印刷会社、鉄工場も同じ問題をひッさげて、立ちかけている。「H・S」の同志に握手を求めていること。9。浜の人夫の窮状はもはや対岸の火事ではない。同じ運命がわれ/\にも待ちかまえている。彼等とも我々は手を握って、共に立たなければならないこと…………等々。

  色々のところから出る噂さや、憶測がグル/\廻わっているうちに、雪だるまのように

大きくなった。それが職工たちを無遠慮にか掻き

ま廻わした。皆は落付くことを忘れてしまっ

た。休憩時間を待ちかまえて、皆が寄り集った。おやじ職長 さえその仲間に首を差しこんでき

た。  何時でもこッそり工場長に色々な小道具を造ってやっていた仕上場の職工などは、今度は露骨に悪口をたゝきつけられた。職工は工場で自分のものを作ることは愚か、鉄屑、ブリキ片一つ持ち出しても首だったのだ。  ――  又新しい工場長にもか? ハヽヽヽヽ、精々どうぞね!

  上役にうまく取入って威張っていたもの等が、ガラ/\とその位置をてんとう顛倒 して行っ

た。支え柱を一旦失うと、彼等は見事に皆の仲間はず外 れを食った。

  ――ざまア見ろ!  皆は大ッぴらに、唾をハネ飛ばした。  そんな関係を持っている職長などは顔色をなくして、周章てゝいた。が、早くも彼等は、職工の大会を開いて、対策を講じなければならないと云った。佐伯たちがその先頭に

立った。「H・S危急存亡のとき秋 、諸君の蹶起を望む!」と、愛社心を煽って歩いた。――

彼等はそんなときだけ、職工をだしに使うことを考えた。  昼休みに女工たちは、男工の話し込んでいる所をウロ/\した。  ――どうなるの?  ときいた。  ――男も女も半分首だとよ!  男工がヤケにどなった。

                    二十

  ビラは深い用意から、女工の手によって工場に持ち込まれた。夜業準備のために、女工たちの帰えりが遅くなったとき「脱衣室」の上衣に一枚々々つッこまれた。十人近くの女工がそのために手早く立ち働いた。  朝、森本が工場の入り口で「タイム・レコーダー」を押していると、パンパン帽をかぶった仕上場の職長が、  ――大変だぜ!  と云った。  ――大変なビラだ。「ニュース」と同じ系統だ。  ――へえ。  ――今度は全部配られているんだ。何処から入るんかな。こゝの工場も小生意気になっ

 たもんだ。 職長は鶴見あたりの工場から流れて来た「渡り職工」だった。皆を「田舎職工」に何が分ると、鼻あしらいしていた。ストライキになったら、専務より先きに、この職長をグレエンにぶら下げて、下から突き上げしてやるんだ、と仕上場では云っていた。――「フン、今に見ろ!」森本は心の中でニッと笑った。  工場の中は、いよ/\朝刊に出た金菱の態度と、ビラの記事でザワついていた。一足ふみ入れて、それを感じとると、森本はしめたと思った。仕事の始まる少し前の時間を、皆は機械のそばに一かたまり、一かたまりに寄ってビラのことをしゃべっている。  ――こうなったら、これが矢張り第一の問題さ。  森本は集りの輪の外へとんでくるそんな言葉をつかんだ。  製罐部に顔を出すと、トップ・ラインにいたお君が、素早く見付けて、こっちへ歩いてきた。何気ない様子で、  ――大丈夫よ。委員会は選挙制にするのが理屈だって云ってるわ。あんたの方の親爺、

あのはげ禿  の頑固! あいつ

め奴だけが皆からビラをふんだくって歩いてるのよ。

  それだけ云って、男のように走って行った。

  アナアキストの武林がフレンジャー罐縁曲機 に油を差していた。ひょいと上眼に見て、

  ――お前だな。

  と云った。  ――何んだ、皆こうやって興奮しているのに、お前だけ工場長にでもなったように、ツウーンとしているんだな。  森本はギョッとして、キツ先を外した。  ――指導精神が違いますだ。  ――そうか。自分だけは喰わなくてもいゝッて指導精神か。結構だな。  ――そ。正にそう。  森本は製罐部で見て置かなければならなかったのは、肉親関係をお互に持っている職工たちの動きだった。それはお君や、この方の同志にも殊更に注意して置いた。然しまだそれは見えていなかった。  たゞ心配なことは、工場全体の動きを早くも見てとって、工場長が「H・S」全体に利害を持つことだからと、「工場大会」か何かの形で「先手」を打って来ないか、ということだった。――工場内の動きのうちには、ハッキリ分ることだが、自分たちの立場、階級的な気持からではなくて、矢張り其処には「会社全体の大問題」だという興奮のあることを見逃すことが出来なかった。乗ぜられ易い機微を、彼はそこに感じた。  鋳物場では車輪の砂型をとってある側に、三四人立ち固まっていた。木型の大工も交っ

ていた。すぐ下がってくるみずばな水洟 を何度も何度もすゝり上げていた。

  ――誰か思いきって、グイと先頭に立つものが居なかったら、こういうものは駄目なんだ。  云っているのは増野だった、――見習工のとき、彼は溶かした鉄のバケツを持って、溶炉から砂型に走って行く途中、足下に置き捨てゝあった木型につまずいて、顔の半分を焼いた。そのあとがひどくカタを残していた。  ――各職場から一人か二人ずつ出るんだな。  森本は彼を「細胞」の候補者にしていた。

  鋳物工の職工は、どれも顔にひッちりをこしらえたり、手にほうたい繃帯 をしていた。砂型

に鉄を注ぎ込むとき、水分の急激な発散と、それと一緒に起る鉄の火花で皆やけどをしていた。  鍛冶場の耳の遠い北川爺は森本をみると、  ――ビラの通りに何んか起るのか。どうしても、こういう工合にしなけア駄目なもんかなア、森よ!  と云った。

  ――そうだよ。そうなればじい爺 ちゃだって、安心ッてもんだ。

  北川爺は耳が遠いので、彼を見ながら、頭をかしげて、あやふやな笑い顔を向けた。

 リベッチング

打鋲 の山上は、  ――やるど!  と云った。彼は同志の一人だった。  ――仕上場はどうだい?  腕を少し動かしても、上膊の筋肉が、グル、グルッとこぶになった、堅い身体を持っていた。  ――それア何たって本場さ。  ――本場はよかった。出し抜かれるなよ。  と笑った。  ――出し抜かれて見たいもんだ。  熟練工のいる仕上場は「金菱」のことで、直接にそうこたえるわけではなかったが、製罐部のように直ぐ代りを入れることの出来ない強味を持っていたし、何より森本を初め「細胞」の中心がこゝにあったので、しっかりしていた。  ボールバンに白墨で円を描いていた仲間が森本をちらッと見ると、眼が笑った。白墨の

粉のついた手をナッパの尻にぬぐって、  ――「紙」は?

  と、き訊いた。

  ――朝すぐ。先手を打つ必要がある。

  旋盤やシカルバン平鑿盤 や

ミーリング穿削機 についている仲間が、笑いをニヤ/\含んだ顔でこっち

を見ていた。機械に片足をかけて「金菱政策」を泡をとばして話していた。穿削機には昨日から歯を削っていた歯車が据えつけられたまゝになっていた。  大乗盤の側の空所に、註文の歯車やシャフトや鋲付する煙筒や鉄板が積まさっていた。仕上った機械の新鮮な赤ペンキの油ッ臭い匂いがプン/\鼻にきた。  就業のボーが波形の屋根を巾広くひゞかせた。職長は二人位しか工場に姿を見せていない。事務所に行ってるらしかった。――皆はいつものように、ボーがなっても、直ぐ機械にかゝる気がしていなかった。  ベルトがヒタ、ヒタ………と動き出すと、声高にしゃべっていた人声が、底からグン/

\と迫るように高まってくる音におぼ溺 れて行った。シャフトにベルトをかけると、突然生

物になったように、機械は歯車と歯車をか噛み合わせ、シリンダアーで風を切った。一定の

間隔に空罐をのせたコンヴェイヤーが、映画のフイルムのように機械と機械の間をすべ辷 っ

て行った。ブランク台で大板のブリキをトロッコから移すたびに、その反射がキラッ、キラッと、天井と壁と機械の横顔を刃物より鋭く射った。トップ・ラインの女工たちが、蓋を揃えたり、数えたりしながら何か歌っている声が、どうかした機械の轟音のひけ間に聞

えた。――天井のビーム鉄梁 が機械の力に

た抗えて、見えない程揺れた。

  ――あのニュースとかッて奴は共産党の宣伝をしてるんだろ、な。  職長が両手を後にまわしながら、機械の間を歩いていた。  ――さア。  きかれた職工は無愛想につッぱねた。が、フト、ぎょッとした。――それは細胞の一人

だった。「H・Sニュース」に漫画が多かったりすると、彼はよくのりづ糊付 けにぺったり機

械へはったりした。  ――後にはキッと共産党がいるんだ。どうもそうだ。  ――然しあんなものが共産党なら、共産党ッてものも極く当り前のことしか云わないもんだね。  ――だから恐ろしいんだよ。  彼は笑ってしまった。  ――だから何んでもないッて云うのが本当でしょうや。  仕事が始まってから二十分もした。――働いていた職工が後から背を小突かれた。  ――何処ッかゝら廻ってきた。  紙ッ切れをポケットの中にソッと入れられた。いゝことには、職長が二人位しかいないことだった。「工場委員会」の選挙制協議のため時間後一人残らず食堂へ集合の事。危機は迫っている。

団結の力を以って我等を守ろう。

  ――次へ廻わしてやるんだそうだ。変な奴には廻さないそうだど。  ――  ホ! 矢張りな。  同じ時に、それと同じ紙片が「仕事場」にも「鋳物場」にも、「ボデイ・ライン」に

も、「トップ・ライン」にも、「ラッカー漆塗工場」にも、「

ネーリング釘付工場 」にも、「

パッキング函詰部 」

にも同じ方法で廻っていた。――  職長たちが話しながら、ゾロ/\事務所から帰ってきた。機械についていた職長がそれを見ると、周章てゝ走って行った。彼は工場の隅で立話を始めた。職工たちは仕事をしながら、それを横目でにらんだ。  仕上場の見張りの硝子戸の中から、「グレエン」職長が周章てゝ飛び出してきた。――グラインダー金剛砥 に金物をあてゝいた斉藤が、その直ぐ横の旋盤についていた職工から、何か

紙片を受取って、それをポケットに入れた。それをひょッと見たからだった。神経がと尖

がっていた。――皆は何が起ったか、と思った。その「渡り職」の後を一斉に右向けをしたように見た。  ――おいッ!  大きな手が斉藤の肩をつかんだ。然し振返った斉藤は落付ていた。  ――何んですか?  ゆっくり云いながら、片手は素早くポケットの紙片をもみくしゃにして、靴の底で踏みにじっていた。  ――あ、あッ、あッ、その紙だ!  職長がせきこんだ。  ――紙?  砂地の床は水でしめっていた。斉藤は靴の先きで、紙片をいじりながら、  ――どうしたんです。

  ――  どうした?ふて太 え野郎だ。

  然しそれ以上職長にはどうにも出来なかった。「うらめし」そうに踏みにじられた紙片を見ながら、  ――  この野郎、とう/\誤魔化しやがった! 畜生め!  と云った。  機械から手を離して見ていた職工たちは、ざまア見やがれ、と思った。

  ――グレエンにつる吊 されるのも、もう少しだぞ。

  職長はもくろみ目論見 外れから工合悪そうに、肩を振って帰って行った。職工たちの眼はそれ

を四方から思う存分あざけ嘲 った。

  ――バーカーヤーロー。  ステキ盤でシャフトに軌道をほっていた仲間が、口を掌で囲んで、後から悪戯した。皆がドッと笑った。職長がくるりと振りかえって、職場を見廻わした。急に皆が真面目な顔をして、機械をいじる真似をした。我慢が出来なくて、誰か隅の方で、プウッと吹き出してしまった。  ――いま/\しい奴だ!  硝子戸を乱暴に開けて、中へ入った。  ――自分の首でも気をつけろ、馬鹿!  昼休みには、森本と重な仲間が四人同じ所に坐って、もう一度綿密に考えを練った。  ――女の方はどうかな。  ――戦術としてもな。ハヽヽヽヽ。  ――そうだよ。  お君は余程離れた向う隅で、仲間に何か一生懸命しゃべっているのが見えた。顔全部を自由に、大げさに動かしながら、口一杯でものを云っている。お君がそこにすっかり出ていた。――森本はその女に自分の気持をチットモ云えないことを、フト淋しく思った。飯が終る頃、お君が食器を持ったまゝ皆のいる所を通った。  ――どうだ?

  ――四分の一位。別に反対の人はないのよ。それでも女は一度も出つけないでしょう。  ――うん。  ――でも、頑ん張ってみる。  ――頼む。  ――森さん、今日は「首」を投げてやってよ。首になったら、皆で養ってあげるから。  お君は明るく笑って、スタンドへ行った。  ――それから「偉い方」はどうかな。  と森本が仲間にきいた。  ――事務所ではまだ勿論「工場大会」のことには気付いてはいないんだが、対策はやってるだろう。――給仕が云ってた。自動車で専務がやってきたって。工場長が電話で呼んだらしい。ところが専務は気もでんぐり返えして、馳け廻ってるんだ。まだ/\工場どころでないらしいんだ、  ――こゝは俺達のつけ目さ。

  脱衣場は集合場になる「食堂」と隣り合って、二階になっている。そして降り口は一つしかなかった。――で、帰るのにはどうしても二階に行って、食堂を通り、服を着かえて、その階段を又降りて来なければならない。それが偶然にも森本たちに、この上もない有利な条件を与えた。食堂の会合に出なければ、どうしても帰ることが出来ないようになっていた。――普段から職工仲間に信用のある「細胞」を階段の降り口に立たせて置いて、職工を引きとめた。  不賛成な職工や女工はしばらく下の工場で、機械のそばや隅の方を文句を云いながら、

ブラブラしていた。帰るにも帰れなかったのだ。としと年老 った職工や女房のいるのが多かっ

た。女工たちは所々に一かたまりになって、たゞ立っていた。女の方は別な理由はなかっ

た。何んだか工合わるく、それに生意気に感じてちゅうちょ躊躇 しているらしかった。

  ――ストライキの相談じゃないんだよ。委員を選挙にして下さい。これだけの事なんだよ。  森本がそれを云って歩くと、それだけの事なら、もっと穏やかな話し様もあるんでないかと云った。  ――何処にか穏やかでない処でもあるかな。会社と一喧嘩をするわけでもないし、お願いなんだ。女工はお君やお芳に説かれると、五六人が身体を打ッつけ合うように一固りにして、階段を上がった。  職長たちは事が起ると見ると、事務所の方へ引き上げていたので、一人も邪魔にならなかった。  食堂には思いがけず、三分の二以上もの職工が押しつまった。然しその殆んどが、「会社存亡の問題」という考えから集まっていた。それは誤算すると、飛んでもないことだった。そうでなかったらこのフォードの職工がこれだけ集まる筈がなかった。然しそれをすかさず捉えて、強力なアジを使って、その方向を引き寄せて来なければならなかった。――  その時、薄暗い工場の中を影が突ッきって来た。工場の要所々々に立てゝ置いたピケット見張 だった。

  ――森君、佐伯あいつ等が盛んに何んか材料倉庫で相談しているよ。それも柔道着一枚で!  ――佐伯  森本の顔がサッと変った。――  暴力で打ッ壊しに来る? それが森本の頭に来た。彼はそんなことになれていなかった。  ――よし、じゃ仕上場の若手に、こゝに立ってゝ貰おう。――そして愚図々々しないで始めることだ!  森本は階段を上った。五百人近くの職工のこもったどよめきが、足踏みや椅子をずらす

音と一しょになり、重い圧力のように押しかぶさって来た。手筈をきめて置いた激励の演説がそれを太くつらぬいた。離れていると、その一つ一つの言葉が余韻を引きずるように、ハッキリ職工たちをとらえている。潮なりに似た群衆の勢いが――どよめきが分った。それによって、何より会社主義で集っている職工たちを、その演説で引きずり込まな

ければならないのだ。――彼はか嘗つて覚えたことのない血の激しい流れを感じた。これか

らやってのけなければならない、大きな任務を考えると、彼はガタ/\と身体がふるえ出した。グイと後首筋に力を入れ、顎をひいてもとまらなかった。彼は内心あやふやな恐怖さえ感じていた。こんな時に、河田が側にいてくれたら、たゞいてだけくれても、彼は押し強くやれるのだが、と思った。  知った顔が振り返って、笑った。――しっかりやってくれ、笑顔がそう云っていた。  食堂の中はスチィムの熱気と人いきれで、ムンとむれ返っていた。油臭いナッパ服が肩と肩、顔と顔をならべ、腰をかけたり、立ったり――それが或いは腕を胸に組み、ほおづえ頬杖 をし、演説するものをにらんでいた。彼等はそして自分たちでも知らずに、職場

別に一かたまりずつ固まっていた。アナアキストの武林の仲間は、一番後にふてく不貞腐された

図太い恰好で、板壁によ倚りかゝっていた。

  左寄りの女工たちは、皆の視線を受けていることを意識して、ぎこちなく水たまりのように固まっていた。今迄の会社のどんな「集会」にも、女工だけは除外していた。女たちは今、その初めてのことゝ、自分たちの引き上げられた地位に興奮していた――。  壇には鋳物場の増野が立っていた。「俺は何故顔の半分が鬼になったか」彼はそのことをしゃべっていた。身体を振って、ものを云う度に、赤くたゞれた顔がそのまゝ鬼になって、歪んだ。――初め、みんなの中に私語が起った。  ――また、ひでえ顔をしてるもんだな!  時々小さい笑い声が交った。然しそれ等がグイ/\と増野の熱に抑えられて行った。――我々はこれだけの危険を「毎日の仕事」に賭けている。こんな顔になって、諸君は笑うだろう。だが、可哀相な僕は顔だけでよかったと思っている。一日二円にもならない金で、我々は「命」さえも安々と賭けなければならない。ブリキ罐をいじっている製罐部の諸君に、私は何人指のない人間がいるかを知っている。――  指の無い人間! それが製罐工場が日本一だということをきいている。で、我々はそんな場合、会社の云いなりしかど

 うにも出来ない。何故だ? 我々は我々だけの職工の利益を擁護してくれる機関を持っていないからではないか。――増野はもっと元気づいて続けた。  ――金菱がどうのとか、産業の合理化がどうとか、面倒な理窟は知らない。たゞ我々のうちの半分以上も今首を――首を切られようとして居り、賃銀は下がり、もっとギュウ、

ギュウ働かされるそうだ。偉い人はもっと/\もう儲 けなければならないのだそうだ。――

  彼はそこで水をのむコップを探がした。  ――で…………。

  水の入ったコップが無かった。彼はそこでども吃 ってしまった。カアッと興奮すると、彼

は又同じことを云った。すると彼は何処までしゃべったか、見当を失ってしまった。無数の顔が彼の前で、重って、ゆがんで、揺れた。それが何かを叫んでいる。彼は仕方がなくなってしまった。彼は最後のことだけを怒鳴った。  ――で、工場委員会です。彼奴等の勝手にされていた委員会を我々のものにしなければならない。その第一歩として、委員の選挙です。我々は全部結束いたしまして、この目的のために闘争されんことを、コイ希うものであります。――俺、何しゃべったかなア!

  おしま終 いに独言ともつかない事をくッつけた。それが皆にきこえたので、ドッと笑っ

た。

  ――よオッく分ったぞ!  ワザと誰かゞ手をたゝいた。  お君が森本の後に来ていた。ソッと背を突いた。お君は興奮している時によくある片方の頬だけを真赤にしていた。  ――耳……。一寸。  ――ん。

  ――あのね、よっ芳 ちゃんに出てもらう事にしたの。

  ――芳ちゃん?   あの「漂泊の孤児」がかい? と思った。何でもものをズケ/\云う河田に従うと、お

芳は「漂泊の孤児」だった。顔の膚がカサ/\とつや艶 がなく、何時でも寒そうな、肩の狭

い女だった。無口であったが、思慮のあることしか云わなかった。お君がそばにいると、日陰になったように、その存在が貧相になった。  ――え、真面目な人は案外思いきったことをするものよ。私でもいゝはいゝけれども、私ならそんな事を云うかも知れない女だってことが分ってるでしょう。だから、そうひど

 く感動は与えないと思うの。然し芳ちゃんなら、へえッ! って皆がね。――煽動効果満 点よ! 無理矢理出さすの。

  お君はずるそうに笑った。しめった赤い唇が、耳のすぐそばにあった。  次に誰が出るか、それをみんな待った。然し人達は意外なものを見た。片隅から出て行ったのは、「女」ではないか、皆は急にナリをひそめた。――そして、それがあの「芳ちゃん」であることが分ったとき、抑えられた沈黙が、急に跳ねかえった。ガヤ/\とやかましくなった。  ――あの女が  芳ちゃんは壇の上へ、あやふやな足取りで登ると、仲間の女たちのいる方へ少し横を向

いて、きちんと両手をさげたまゝ、うつむいて立った。――顔がそうはく蒼白 だった。

  ――これだけの男の前だぜ。あれで仲々すれッてるんだろう。  横で、ラッカー工場の職工が云っているのを、森本は耳に入れた。  芳ちゃんはそのまゝの恰好で、顔をあげずに云い出した。聞きとれないので、皆はしゃべることをやめた。耳の後に掌をあてゝ、みんな背延びをした。  ――……こゝへ上るのに、どんなに覚悟が要るでしょう……私は生意気かも知れません……でも必死です……誰か矢張り先に立って生意気にならなければ、私たちはどうなって行きますか……。  ――あの温しい芳公がな。  一句切れ、一句切れ毎に皆の言葉がはさまった。  ――ねえ、どう?  お君は云った。  ――しっかりしている。  ――私たち皆と仕事をするようになってから、自分でも分るほど変ってきたわ。  ――……私たちは男からも、会社からも……何時でも特別待遇をうけてきました……。  言葉が時々途切れた。  ――女がこういう所に出て、こうやって話が出来るのは……この工場始まって以来のことかと思います……私たちも一人残らず一緒になり……お助けして行きたいと思っています。皆さんも……どうぞ……。  芳ちゃんが降りると、ワァーッという声と一緒に、拍手が起った。それが何時迄も続いた。お君の云った通り、男工たちに予想以上の反響を与えた。  ――矢張り、少し温し過ぎる。  とお君が云った。  ――芳ちゃんにしたら大出来だ。然し、よくやってくれた。聞いていると、こう涙が出て来るんだ。

  ――そうね。  お君は自分の眼をこすった。

  ――さ、行って、ほ賞めてやらないと。

  お君は女工たちの方へ走って行った。芳ちゃんは皆に取り巻かれていた。見ると、彼女 は堪えていた興奮から、自分でワッ! と泣き出してしまっていた。

  ――安心出来ないよ。廻って歩くと、こゝに集ってるのは矢張り「会社存亡組」が多いんだ。仲間の一人が森本に云った。

  ――然しいったん一旦 こう集ってしまえば、一つの勢いに

ま捲き込まれて、案外大したことに

ならないかも知れない。  ――然し、俺達も危ない機微をつかんで、成功したな。あとはしゃり無理、こっちへ引きずることだ。  次に各職場の代表者が一人ずつ、壇に上った。彼等は全部「細胞」だった。一人々々が火

のような言葉を投げつけた。「会社存亡のとき秋 」を名として、全職工を売ろうとしている

彼奴等のからくりをそこで徹底的にさらけ出した。――と、職工たちのなかに、風の当っ

たそうりん

叢林 のような動揺がザワ/\と起った。森本はハッとした。然しそれが代る/″\立つ容赦のない暴露で、見る/\別な一つのうねりのような動きに押され出した。  電燈がついた。薄暗がりの中に、たゞ灰一色に充満していた職工たちが――その集団が

――悍しい肩と肩が、瞬間にクッキリとおど躍 り上った。誰かゞ、

  ――そら、電燈がついたぞ!  と云った。  その意味のない言葉は、然し皆の気持ちを急にイキ/\とさせた。

  結束はアこの時ぞ。

  突然四五人が足踏みをして歌い出した。バアーを飲み歩いている職工たちは、誰でもその歌位は知っていた。それが今少しの無理もなく口をついて出たのだ。皆が一斉にその方を見たので、彼等は少してれたように、次の歌が澱んだ。然し、太い揃わない声が続いた。

  卑怯者去らばア去れエ。

  森本が壇に上ったのは一番後だった。彼は何も云う必要がなかった。たゞ用意していた「決議文」と「要求書」の内容を説明して、皆の承諾を得ればよかったのだ。これ等のあらゆる細かい処に、河田たちの用意が含まっていた。  彼がまだ云い終らないうちだった。激しい云い争いが下の階段に起った。――職工は一

度に腰掛けをけ蹴った。一つの勢いを持った集団の彼等は、そのまゝ狭い入口に押してい

た。  ――邪魔するに入った奴なら、やッつけッちまえ!  その時、抑えられたように、下の争いがとまった。と、見張りの一人が、周章てゝ駈けあがってきた。  ――佐伯の連中が上がるッて云うんだ。それで一もみしてるところへ、専務や工場長や職長が来たんだ。どうする?  ――よし!  森本はキッパリ云った。  ――専務と工場長だけ上げよう。職長や佐伯の連中は絶対に上げないことだ。  ――そうだ。異議なし!

  一挙に押し切るか、一挙に押しきられるか、そこへ来ている!  工場長が先に立って、専務が上ってきた。工場長は興奮した唇に力をこめて、キリッとしめていた。然し専務の顔には柔和なほゝえみが浮かんでいた。職工や代表者たちにていねい丁寧 に挨拶した。何時もの温厚な専務だった。女工と男工の一部が、さすがに動い

た。――専務の持ってきた腹を読んでいる森本は、先手を打って出なければならないこと を直感した。この動きかけている動き、先手! これ一つで、この勝負がきまると彼は

思っている。専務にたった一言先きにしゃべられることは、この集会をまんまと持って行かれることを、意味していた。――  彼は全職工の前で、ハッキリと、今迄の経過を述べ、一人も残らない賛成をもって「工場委員会」の委員選挙制が決議されたことを報告し、「決議文」と「要求書」を提出した。

その瞬間、細胞のトップ先頭 で、一斉に拍手がされた。計画的なことだった。五百人の拍手

が、少し乱れて、それに続いた。森本はハラ/\した。然し拍手は天井の低いトタン屋根を、硝子窓をゆるがし、響きかえった。その余韻はそれ等の中にいてたった一人しか味方を持っていない専務の小柄な身体を木ッ端のように頼りなくした。  専務は明かに周章てゝいた。「要求書」を手にもった専務はそれを持ったまゝ自分が今どうすればいゝかを忘れたように、あやふやな様子をした。――実は、彼はこの食堂に入るまで一つの明るい期待を持っていたのだった。自分が今迄長い間、職工たちに与えてきた「Yのフォード」としての、過分な温情はそう安々と崩されるものでない。それを信じていた。たとえ、小部分の「忘恩な」煽動者たちに幾分いゝ加減にされていても、この自

分さえ其処へ姿をあらわせば、職工の全部は「たちま忽 ち」自分のもとに

なだれ雪崩 を打ってく

るのは分りきったことだ、と。――然し、それがこんなに惨めになるとは本当だろうか   そして一斉の拍手! 専務は何よりこの裏切られた自分自身の気持に打ちのめされてし

まった。それにもっと悪いことには、専務は問題を両方から受けていた。一方には、自分 自身の地位について! これは充分に専務を気弱にさせていた。「金融資本家」に完全に

牛耳られて、没落しなければならない「産業資本家」の悲哀が、彼の骨を噛んでいた。そればかりか、今年ロシアが蟹工船の漁夫供給問題の復仇として、更にカムチャツカの、優良漁区に侵出してくることは分りきっていた。  けれども工場長が口をきった。――危い、と見てとったのだ。  ――とにかく重大問題で、専務が全部の職工にお話ししたいことがあるんだから……それは、まずそれとして……。  ――  おッ! 一寸待ってくれ!  森本の後から、ラッカー工場の細胞が針のような言葉を投げつけた。  ――お、俺だちば、ばかりの力でやったか、会ば……。それば、それば!

  言葉より興奮がのど咽喉にきた。で、森本が次を取った。

  ――そんなわけで……一寸、貴方々の……勝手には……。  彼は専務や工場長に、而も彼等を三尺と離れない前において、ものを云うのは初めて

だった。彼は赤くなって、何度もドギマギした。普段から、専務の顔さえもろく碌 に見れな

い隅ッこで、鉄屑のように働いている森本だったのだ。それに顔をつき合わせると、専務は案外な威厳を持っていた。――だがそう云われて、この「鉄屑のような」職工に、工場長は言葉をかえせなかった。  ――まず「確答」だ!  ――  要求を承諾して貰うんだ! それからだ!  食堂をうずめている職工のなかゝら、誰かそれを叫んだ。上長に対して、そんな云い方は、この工場としては全くめずらしかった。こういう風に一つに集まると、彼等は無意識のうちにその力を頼んでいた。そして彼等は全く別人のようなことを平気で云ってのけた。

  工場長とそれに森本も同時に眼をみはった。誰が何時の間に職工をこんな風に育てたのか?  ――直ぐこゝでは無理でしょう。余裕を貰わなければなりますまい。  初めて専務は口を開いた。この言葉使いは「ナッパ服」とゝもに「H・S」の誇りだったのだ。  ――  余裕? 然しこの少しの無理のない決議はこれ以上どうにもならないのですから。  ――然し、こっちの……。  森本はくさびを打ち込まなければならない。  ――こんな困難な、どんなことになるか分らない時に、その日暮しゝか出来ない我々は、せめてこの機関だけを死守しなければならない所へ追いつめられているわけです。さっきから何人も何人もの職工がこゝの壇へ飛び上って、この要求が通らなかったら、全員のストライキに噛じりついても、獲得しなけア駄目だと云ってるのです。我々は勿論ストライキなど、望んでるわけではありません……。   ストライキ! 「今」この言葉が専務と工場長にこたえない筈がないのだ。カムチャツカの六千六百万罐の註文!  ――……。  職工たちはなりをひそめた。  森本はもう一つ重要な先手を打たなければならなかった。  ――勿論「金菱」のことでは、専務自身としても色々と一緒に御相談したいこともあることゝ思いますが……。   専務は急に顔を挙げた。森本は思わずニヤリ! とした。然し、彼は無遠慮にその手元へ切り込んだ。  ――然しそれがすべて、この要求書が承諾され、規約の中にハッキリそうと改正されてからの事にしたら、お互いに相談が出来ると思われます。……でなかったら私たちの方が全く可哀相です。  ――………………。  専務はさっきのさっき迄、この「労働者大会」を自分のために充分利用することを考えていた。自分に対する全職工の支持を決議させて「金菱」が新しく重役を入れることに対

して全職工こぞ挙 って反対させる。各自が

きょきん醵金 して、職工と社員の「上京委員」を編成

し、関係筋を歴訪、運動させる。――殊に、今度のことが自分一個人の問題でないことが好都合だった。その証拠には、職工たちでさえ自発的に集会を持つところまで来ているではないか。だから、専務は、職長から職工の集会のことを聞いたとき、彼等の周章てゝいるのとは反対に、かえってほくそ笑んだのだ。こう意気が合ってうまく行くもんでない。と。でなかったら、専務は直ぐにも警察へ電話をかけるがよかった。それをしなかったではないか。――が、今専務は明かに、職工の自分に対する気持を飛んでもなく誤算していたことに気付いた。又、こんな形でやって来られるとは思いもよらなかった。誰か後にい

 る! 然し「Yのフォード」はこうももろ脆 いものか。労働者って不思議なものだ。――し

 てやられたのだ! そして、もう遅かった!  ――じゃ、二三日中……。  専務は自分でもその惨めな弱々しさに気付いた。  ――  二三日中! 然し「金菱」は二三日待ってくれるわけはありません。  ――……。  森本は勝敗を一挙に決してしまわなければならない最後の「詰め手」をさしているのだ!  ――……。  五百の労働者の耳は、専務のたった一つの言葉を待っている。専務の味方をするものも、飛んでもない会合に出てしまったと思う職工たちも、こゝへくるともう同じだった。五百人の労働者はたった一つの呼吸しかしていなかった。  ――………………。

  誰か一番後で、カタッと靴のかかと踵 を下した音が聞えた。

  ――明日の時間後まで……。  波のようなどよめきが起ったと思った。次の瞬間には、食堂をうちから跳ね上げるような轟音になって「万歳」が叫ばれた。  彼はたゞ、眼に涙を一杯ためて、手をガッシリと胸に握り合せ、彼の方を見つめているお君を、人たちの肩越しにチラリと見たと思った……。

                    二十一

  河田がどんなに待っているだろう。あの「二階」で河田は居ても立っても居られないで、待っているだろう。――だが、森本は一体今日のこの素晴しい出来栄えを、どういう風に、どこから話したらいゝか分らなかった。お君も同じだった。  二人は河田に情勢報告をし、専務の返答如何による対策をきめ、すぐ帰って、仲間の家で開かれる細胞集会に出なければならなかった。「二階」に上る前には、必ず二度程家の前を通って、様子を見てからにされていた。――二人は道の反対側の暗いところを通りながら、二階をみた。電燈はついていた。別に人影はなかった。下の洋品店に、顔見知りのおかみさんが帳場に坐りながら、表を見ていた。――ひょいと、こっちが分ったらしく、顔が動いたようだった。  と、おかみさんは眼の前の煙でも払うように、手を振った。それは「駄目々々」という合図らしかった。  ――変だな。  立ち止っていることが出来ないので、そのまゝ通り過ぎた。少し行って、又同じところ

を戻った。あたり四囲 に注意しなければならなかった。

  ――ね、君ちゃん、お客さんのふりをして、チリ紙でも買って来てくれ。  ――そうね。変んだ。あすこが分ることなんて絶対にない筈だわ。  お君は小走りに明るい洋品店の中に入って行った。森本は少し行った空地の塀で待っていた。――一寸して、お君の店を出てくる姿が見えた。  ――どうした?  ――大変らしい。  お君は息をきっていた。  ――おかみさんが声を出して云えないところを見ると、中に張り込んでいるらしいわ。お釣りを寄こすとき、私を早く出ろ、早く出ろという風に押すのよ。――

 おかん悪寒 が彼の背筋をザアーッ、と走った。明るかったら、彼の顔は白ちゃけた鈍い土の

ように変ったのを、お君が見たかも知れなかった。それは専務をとッちめた彼らしくもなかった。  ――フム、何んだろう。ストライキのことかな。彼の舌が不覚に粘った。  ――何んにしても、この辺危いわ。  彼等は明るい大通りをよけた。集会のある仲間の家に一寸顔を出した。心配すると思っ

て、そのことは云わなかった。二三人来ていた。皆興奮して、元気よくはし燥 ゃいでい

た。――彼は自分の家が気になった。そして咽喉がすぐ乾いた。彼は二度も水を飲むために台所へ立った。  彼は出直してくることにして外へ出た。  ――顔色が悪いな。大切なときだから用心してくれ。  仲間が出しなにそう云った。  お君も一緒だった。彼は全く何時もの彼らしくなく何も云わずに、そのまゝ歩いて行った。  ――鈴木さんて変な人。

  お君が何か考えていたらしく、フトそう云った。それに何時迄も、黙って歩いているのに堪えられないという風だった。  ――あの人変なことを云うのよ。……お前は河田にも……キッスをさせたんだから、俺

 にだっていゝだろうッて! そして酒に酔払って、眼をすえてるの。それから、とてもあの人嫌になった。何か誤解してるらしいの。私に誤解され易いところがあるッて云うけれ

どもね。……私ねえ、この仕事をするようになってから、もとのようなむだ無駄なこと、キッ

パリやめたのよ。第一そんな気がなくなったの、不思議よ。それに芳ちゃんの想いこがれている相手というのが、河田さんなんですもの。あの人まだ河田さんに云ってないらしいけど……。     彼はハッ! とした。自分でもおかしい程、ドギマギした。だが、本当だろうか? そう云えば、河田が、自分にはどん底の生活をしている可哀相な女がいる。それが自分のたった一人の女だ、と話したことがあった。  ――鈴木さんに限らず、男ッて……。  お君がそう云って、――何時もの癖で、いたずらゝしく、クスッと笑った。  ――あんたゞけはそれでも少ォし別よ……。  ――それはね。  森本は自分でも変なハズミから、言葉をすべらした。然し、何んだか、今云わなければ、それがそれッ切りのような気がした。彼は恐ろしく真面目な、低い声を出した。  ――それはね、君ちゃんを本当に……愛してるからさ!

 「ま、おかしい! 何云ってるのさ、この男が!」――あの明るい、無遠慮に大きい笑い声が、この我ながら甘ッたるい、言葉を吹き飛ばしてしまうだろう、森本は云ってしまった瞬間、それに気付いて、カアッと赤くなった。――が、お君はフイに黙った。二人はそ

れっきり何も云わないで、ばつ撥 の悪い気持のまゝ歩いて行った。

  橋の上へ来たとき、彼が気付いた。――彼はお君を一寸先きに行って貰って、服のポケットを全部調べた。内ポケットの中から、四つに折った、折目がボロ/\になった薄いパンフレットが出た。河田から貰った焼き捨てなければならないものだった。彼はそれを充分に細かく幾つにも切って河に捨てた。闇の澱んでいる暗い河の表に、その紙片がクッキリと白く浮かんで、ひらひらと落ちて行った。時間を置いて、何回かにそれを分けた。――そうしているうちに、彼は落着いてくる自分を感じた。  お君は厚いショウ・ウインドウの硝子に身体を寄りかけたまゝ、彼を待っていた。彼は矢張り何も云わなかった。  別れるところへ来て、立ちどまった時、森本は始めて女の手を握って云った。  ――  元気を出して、もう一ふんばり、ふんばろう! 「Yのフォード」が俺たちの力で、ピタリと止まることもあるんだからな!  お君はうつむいたまゝ、彼の顔を見ないで、――握りかえしていた。   森本は家の戸を開けたとき、ハッ! とした。彼は然し何も見たわけではなかった、が、それはこんな時に、彼等だけが閃きのように持つ一つの直感だった。――ガラッと障

子が開いた。見なれない背広が二人そこへ突ッ立った。――しま失敗ったと思った。彼には初

めての経験だった。――だがこうなってしまった時、彼は不思議に落付きを失っていなかった。  ――どなたです?  ――フン。  背広の顔が皮肉にゆがんだ。  ――本署のものだよ。  彼はだまって上へあがった。父はまだ帰っていないのか、居なかった。  ――まア/\、お前!  母親は顔色をなくして、坐ったきりになっていた。待たしていた間、この可哀相な母親

が背広にお茶を出したらしく、「南部せんべい」のお盆とゆのみちゃわん湯呑茶碗 が二つ並んでい

た。それを見ると、彼は胸をつかれた。彼は次を云えないでいる母親に、  ――何んでもないんだ。直ぐ帰るよ。  と云った。  彼は二人の背広にポケットというポケットを全部しらべられた。家の中はすっかり「家宅捜索」をうけて散らばっていた。  土間で靴の紐を結びながら、背のずんぐりした方が、  ――こんな所に関係しているものがいようとは思わなかったよ。  と云った。  彼はその言葉の中に、当り前でない意味を聞きとった。彼は河田に云われたことを守っていた。今迄一度だって、彼等に顔を知られたことがなかった筈だ。河田でも云ったのだろうか。そんなことは絶対にない。とすれば――。彼は何かあったんだ、と思った。  母親は坐ったきりだった。彼は何か云えば、それッ切り泣けてしまうような気がした。  ――行ってくるよ。  彼はそして連れて行かれた。

                    二十二

  初めての臭い留置場は森本を寝らせなかった。そこは独房だった。  彼は澱んだ空気の中に、背を板壁に寄らせたまゝ坐っていた。――色々な考えが、次ぎ

から、次ぎから頭をかすめて行く。然し不思議に恐怖が来なかった。ただ頭だけがさ冴えて

くる一方だった。  明け方が近かった。然しまだ明けなかった。切れ/″\に、それでも、お君のことを夢に見たと思った。寒かった。彼は顎を胸に折りこんで、背を円るめた。

  コツ、コツ……コツ、コツ、コツ……。

  冴えていた彼の耳が、何処から来るとも知れないその音を捉えた。耳をそばだてると、

その時それが途絶えた。彼は息をひそめた。耳がジーンとなっていた。ものゝすべてがい凍

てついていた。

  コツ、コツ、コツ……コツ……コツ……。

  彼は耳を板壁にあてた。――と、それは隣りからだった。然し何の音か分らなかった。彼は反射的に表へ気を配った。それから、ソッと拳をあて、低く、こっちから、コツ、コツ、コツと三つほど打ちかえしてみた。――向うの音がとまった。こんな事をして、だがよかったろうか、森本はフトぎょっとした。しばらく両方がだまった。

  コツ、コツ、コツ……。

  又向うが打ち出した。が、今度はその打つ場所がちがっていた。彼はその方へ寄って

行った。すると、其処から小さい光の束がも洩れていた。何処の留置場でもよくあるよう

に、前に入れられた何人かによって、少しずつ開けられたらしく、そこだけ小さく板がはげて、穴になっていた。――いゝことには、そこは表からは奥になっていた。彼は思いきって、その同じ場所をコツ、コツ、コツと、打ってみた。  低い声がそこから洩れてきた!  彼はソロ/\と身体をずらして穴の丁度、そこへ耳をあてた。  ――ダ…………。

  はっきりしなかった。何度も耳をあてかえ直した。  ――ダレダ……。  「誰だ?」――然し、そういうもの自身が一体誰だろう。彼は口を穴に持って行った。  ――誰だ?  ときいた。そして、直ぐ耳をあてた。相手はだまったらしかったが、少ォし大きな声で、  ――ダレダ?  と繰りかえした。     アッ! その声は河田ではないか! 彼は急に血が騒ぎ出した。表の方へ気を配ってから、口をあてた。  ――河田か?

  相手は確かにびっくり吃驚 したらしかった。

  ――ダレダ?  ――森!  ――モリカ?  相手も分ったのだ。彼は全身の神経を耳に持って行った。  ――ゲン……  ――げん?  ――ゲンキカ。  ――あ、元気か。元気だ。  …………。  何を云ったか、分らなかった。  ――分らない、もう少し大きく!  ――コーバ……。  ――工場、ん。  ――ダイジョウブカ。  ――ん、うまく行った。  ――アトハ……。  ――後は?  ――ドウダ。  ――大丈夫だ。  ――ヘ…………。  ――ん?  ――ヘコタレルナ。  ――ん!  ――イツ……。  ――何時?  ――イヤ、イツデモ。  ――何時でも。  ――ゲンキで……………。  ――分った!  彼は、この不自由に話されているうちにも、いつもの河田を感じた。フウッと胸が熱くなった。彼はのどをゴクッとならした。  ――ダレカ……、  ――ん。  ――ナカマデ……。  ――  ん? 中迄?  彼は一生懸命に耳をあてた。  ――イヤ、ナカマ。  ――あ、仲間。

  ――ウ……ラ……。  ――う……ら……。   河田の言葉がハッキリしなかった。が彼はアッ! と思った。  ――裏切った?  思わず大きな声を出した。  ――ン。  ――本当か?  ――ホントウ。  知らないうちに握りしめていた彼の掌は、ネト/\と汗ばんでいた。  ――ワカル……。  ――ん、分る。  ――ハズノナイ……。  ――  ん? ん?  ――ワカルハズノナイコトマデ……。  ――分る筈の……、ん。  ――ミンナ……。  ――皆、  ――ワカッタ。  ――……!  ――ジケンハ……。  ――  事件? ん。  ――ジケンハ……。  ――ん、分った。  ――キョウサントウ!  ――矢張り!  矢張りか、と思った。彼は胴締めをされたような「胸苦しさ」を感じた。  ――サイ……。  ――ん?  ――サイゴマデ……。  ――ん。  ――ガンバレ。  ――分った!  ――アノ……。  その時、彼はギョッとして、身体を跳ね起した。廊下を歩いてくる靴音を聞いたと思ったからだ。  そしてそれは本当に靴音だった。――何か騒がしい事が、向う端で急に起ったらしかった。  形式だけの検束をうけて、留置場の中で特別の待遇をうけて居た鈴木が、この明け方、

首をくく縊 っていたのを、看守の巡査が発見したのだった。

                               * *  次の日「H・S工場」の労働者たちは、予期していたように「工場委員会」の自主化を獲得した。たとえ、そのなかにはどんな専務の第二弾の魂胆が含められているとしても。――然し彼等は、次にくる今度こそは本物の闘争にたえるために「足場」を堅固に築いて置かなければならなかった。森本の後は残されていた。――  初めて二人を結びつけた握手が、別れるためのものだったことをお君は思った。それを考えると、胸が苦しくなった。――然し彼が帰ってくる迄、自分たちのして置かなければならない仕事をお君は知っていた。  お君は工場の帰り、お芳とそのことを話し合った。――お芳はそっと眼をぬぐった。

  ――  泣くんじゃない! 泣いちゃだめ駄目!

  お君は薄い彼女の肩に手をかけた。お芳は河田のことを考えていた。  春が近かった。――ザラメのような雪が、足元でサラッ、サラッとなった。

(一九三〇・二・二四)

底本:「工場細胞」新日本文庫、新日本出版社

      1978(昭和 53)年 2月 25日初版

初出:「改造」改造社

      1930(昭和 5)年 4、5、6月号

入力:細見祐司

 校正:林 幸雄

2006年 12月 23日作成

2008年 4月 17日修正

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(   http://www.aozora.gr.jp/   )   で作られま

した。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

●表記について

このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。

[#…]は、入力者による注を表す記号です。

「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。

「くの字点」をのぞく JIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。

傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。

この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本

中の出現「ページ- ※行」数。)これらの文字は本文内では「 [#…]」の形で示し

ました。

「┐<辰」、屋号を示す記号    82-3