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39 企業環境研究年報 No.14, Dec. 2009 中小企業とディーセントワーク 松丸 和夫 (中央大学) 要  旨 中小企業におけるディーセントワーク実現の意義はきわめて大きい。中小企業が生き残 活力を持続させるためにはなんといっても社員・従業員の生活が保障されやりがいの ある仕事に従事できることが必要である。 労働者にとって労働は生活の手段であり経営者にとって労働者を雇用するのは企業の 目的を実現するためである。しかしディーセントワーク実現は中小企業経営者の努力だ けで実現できるかといえばそうではない。したがって中同協「労使見解」に示されているよ うに中小企業の置かれている環境を改善しディーセントワーク実現の条件整備のために あらゆる社会的・政策的努力が経営者には求められる。「労使見解」と「中小企業憲章」の 制定運動は車の両輪である。 2009年9月に千葉県野田市で制定された公契約条例は一地方自治体の立法とはいえ国的な意義と発展の可能性をもっている。公共工事設計労務単価等を考慮して法定最低賃 金以上の水準の賃金を「公契約労働者」に保障しようとする試みはディーセントワーク実 現の運動に弾みをつけるものである。しかし目先の問題として公契約事業の受注者にとっ てはさしあたりそれは賃金・人件費のアップを意味する。このコストアップをカバーす るために中小企業経営者が執るべき手段は①人件費以外のコスト削減努力②労働者一人 当たりの労働生産性の引き上げ③不採算業務のアウトソーシング④受注価格の引き上げ である。当然のことながら公共工事や公共発注が適正な予定価格で設定されることが前提 となろう。 中小企業におけるディーセントワーク実現のためには日本の経済社会の基礎にしっかり とした土台を再構築することから始めなければならない。1970年代末からの新自由主義政策 の30年間に破壊されてきた「働くルール」や公正な「取引ルール」を「ポスト新自由主義 時代」の社会政策として確立し労働基準の最低水準引き上げ+中小企業憲章・地域経済振 興+公契約法・公契約条例の三位一体の基礎構造建設が急務である。そして中小企業家運 動の力強い発展と地域的労働運動の発展及び非正規労働者の組織化をバックボーンにしなが 中小企業の労使交渉が地域業種別に展開されその妥結点を労働協約として確認し要に応じて事業所協定を結ぶことが必要である。双方が自立し力をもった労使交渉当事者 に成長することが求められる。 キーワード ディーセントワーク 公契約条例 社会政策 ダンピング 働くルール

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39企業環境研究年報No.14, Dec. 2009

中小企業とディーセントワーク

松丸 和夫(中央大学)

要  旨 中小企業におけるディーセントワーク実現の意義は,きわめて大きい。中小企業が生き残り,活力を持続させるためにはなんといっても社員・従業員の生活が保障され,やりがいのある仕事に従事できることが必要である。 労働者にとって労働は生活の手段であり,経営者にとって労働者を雇用するのは,企業の目的を実現するためである。しかし,ディーセントワーク実現は,中小企業経営者の努力だけで実現できるかといえばそうではない。したがって中同協「労使見解」に示されているように,中小企業の置かれている環境を改善し,ディーセントワーク実現の条件整備のためにあらゆる社会的・政策的努力が経営者には求められる。「労使見解」と「中小企業憲章」の制定運動は,車の両輪である。 2009年9月に千葉県野田市で制定された公契約条例は,一地方自治体の立法とはいえ,全国的な意義と発展の可能性をもっている。公共工事設計労務単価等を考慮して,法定最低賃金以上の水準の賃金を「公契約労働者」に保障しようとする試みは,ディーセントワーク実現の運動に弾みをつけるものである。しかし,目先の問題として公契約事業の受注者にとっては,さしあたり,それは賃金・人件費のアップを意味する。このコストアップをカバーするために中小企業経営者が執るべき手段は,①人件費以外のコスト削減努力,②労働者一人当たりの労働生産性の引き上げ,③不採算業務のアウトソーシング,④受注価格の引き上げである。当然のことながら,公共工事や公共発注が適正な予定価格で設定されることが前提となろう。 中小企業におけるディーセントワーク実現のためには,日本の経済社会の基礎にしっかりとした土台を再構築することから始めなければならない。1970年代末からの新自由主義政策の30年間に破壊されてきた「働くルール」や公正な「取引ルール」を,「ポスト新自由主義時代」の社会政策として確立し,労働基準の最低水準引き上げ+中小企業憲章・地域経済振興+公契約法・公契約条例の三位一体の基礎構造建設が急務である。そして,中小企業家運動の力強い発展と地域的労働運動の発展及び非正規労働者の組織化をバックボーンにしながら,中小企業の労使交渉が地域業種別に展開され,その妥結点を労働協約として確認し,必要に応じて事業所協定を結ぶことが必要である。双方が自立し,力をもった労使交渉当事者に成長することが求められる。キーワードディーセントワーク 公契約条例 社会政策 ダンピング 働くルール

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企業環境研究年報 第 14 号40

はじめに

 2008年夏にアメリカ合衆国に端を発した世界的な経済危機は,さまざまな深刻度を伴いながら世界各国の国民経済,地域経済に打撃を与えている。ILO(国際労働機関)は,2009年9月に世界全体の失業者数が年内に2億1,000万人を越えると予測している。失業者に加えて賃金の低いワーキングプアも世界的に増加する見通しである。 こうした激震ともいえるかつてない深刻な経済危機に対して,各国政府は大型の景気対策予算や措置をとりつつある。しかし,G8やたびたび開催されたG20も現在の世界経済危機に対して有効な打開策を見出せないでいる。これまで多くの国々で規制緩和が嵐のように進められ,また多国籍企業やグローバルな投機活動をおこなうヘッジファンドの活動には何の規制もなされず,現在の危機の真の原因が除去されないままである。しかし,世界では新自由主義の嵐の後に,国民経済の再生を願い,働くルールを確立して現在の困難をのりこえようとする動きも強まりつつある。 本稿では,このような世界経済情勢のなかでグローバルな視点をもつと同時に,地域に根ざした地道な事業活動に体を張って取り組んでいる中小企業家の生き残る途を展望して,ディーセントワーク実現の意味と方策を中心に考察する。

Ⅰ ディーセントワークとは何か

1 ILOの追求するディーセントワーク ILO(国際労働機関)の事業目的の冒頭には,「全ての人にディーセントワークの実現を」というスローガンが掲げられている。それは,1999年3月就任のILO第9代事務局長でチリ出身のフアン・ソマヴィア(Juan Somavia)の次の言葉に集約的に表現されている。

 「現在のILOの第一目標は,女性と男性にディーセントで生産的な仕事を獲得する機会を促進することである。その条件として,自由,平等,安心そして人間の尊厳がある」。1)

 「働きがいのある人間らしい仕事」と訳されるディーセントワークの実現のためには,以下の4つの条件が確保されなければならない。 第1に,働く機会と持続可能な生計を支えるのに十分な収入 第2に,労働三権(団結権・団体交渉権・団体行動権)が保障され,職場で発言する自由が認められること 第3に,家庭生活と職業生活が両立可能で,労働環境及び社会保障等のセーフティ・ネットの確保 第4に,公正な,男女の平等2)

 2006年11月にウィーンで設立された国際労働組合総連合(ITUC)が主導して,世界130カ国において2008年10月7日を世界ディーセントワーク・デー(WDDW)として,労働組合等がデモンストレーション,音楽イベント,会議等を通じてディーセントワーク実現のための行動を開始した。2009年はさらに国の数を増やして世界各地で同様のイベントがおこなわれた。日本では,労働組合ナショナルセンターの一つ,連合などが主催して2年連続して10月に集会とアピール行進,各地でのイベントが繰り広げられた。他方,WDDWとは時期をずらしているが,もう一つのナショナルセンターである全労連は,新自由主義的政策に対抗し,ディーセントワークを実現するための集会や学習会を実施している。

2 進む「雇用劣化」とディーセントワークの意義

 こうした世界的なディーセントワークの実現を目指す取り組みが始まった背景には,これまでILOや各国の労使関係当事者が追求してきた「労働のルール」が,グローバリゼーションの負の影響により,空洞化させられてきたこと

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がある。日本では,第一に,3人に1人以上が非正規雇用となり,パートタイム,派遣,業務請負,契約社員等々ありとあらゆる形で雇用の「多様化」が進められている。第二に,これらの非正規雇用にある人々の「労働の対価」としての賃金は,生活を営むにはきわめて低く,「生活できる賃金」の実現が切実な要求として表明されている。だが第三に,「正規雇用」の労働者にとっても,その雇用の安定の度合いは著しく低下し,また「名ばかり正社員」が増加している。総じて,「雇用劣化」と呼ばれる状況が生まれている。3)

 ディーセントワークの実現にいたる道のりは,長いのかもしれない。しかし,日本の現実においてディーセントワークと反対の傾向が今のまま続くと,企業経営はもちろんのこと,日本経済の活力それ自体が「劣化」し,健全な経済・社会の崩壊に帰結する恐れがかつてないほど強

まっている。つまり,上の図1に示されるような日本の労働者の「働き方」「働かせ方」を解消するためには多くの克服すべき課題がある。4)

 4象限の図の縦軸は,「雇用」「所得」基準,横軸は,「労働時間」「労働強度」で区分けされている。この図の第1象限に目指すべきディーセントワークは位置づけられる。破線の楕円で囲まれているのは,一部の働き方を除いて実現していないからである。その対極は第3象限であり,具体的には,「労災・過労死に罹災する非正規雇用」「日雇い派遣」「複数の職を持つフルタイムの非正規雇用」が配置される。雇用の安定度でみると,第2象限と第3象限にまたがっている「名ばかり正社員」は,「長時間・過密労働」を強いられ,ディーセントワークからはほど遠いところに位置する。そして,「精鋭的働き方の正社員」,今やこれくらいでない

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と正社員としての扱いをしてもらえない現実があるのだが,このような正社員は,相対的な雇用の安定と所得水準の高さあるいはそれらへの期待と引き換え条件に「過労死予備軍」を形成している。もちろん,所得が低く,雇用の安定度も低い労働者の中には,「自発的選択のパート」のように第4象限に位置するものもある。しかし,この「自発的選択のパート」もよく見ると,現行の所得税法の課税最低限と被扶養者控除,公的医療・年金保険における加入の強制適用範囲の設定という制度の壁(年収103万円以下あるいは年収130万円未満の壁)によって「自発的」選択を強いられている女性の非正規労働者であることにその本質がある。文字通りの短時間就業者としての「パートタイム」の就労機会であれば,正規雇用の人々の中にもそのような条件で働く要求をもつ人々が相当含まれているだろう。仕事と家族生活の調和(ワーク・ライフ・バランス)が,低賃金のパート「身分」としてしか実現できないところに「自発的選択のパート」の「自発性」がフィクションであることの証左がある。 このように見てくると,ディーセントワークといくら叫んでも,それは労働者の基本的権利,公正な労働条件と持続的に勤労生活を営む権利を保障するための「労働基準」と「社会的標準」を守ることによってしかその実現は展望できないだろう。一面ではその通りである。あえてディーセントワークという言葉を使わなくとも,労働三権をきちんと保障し,生活できる賃金・労働条件を実現することは,長年にわたって労働組合運動の課題であったし,また志ある企業経営者が経営戦略上強く意識してきたことに他ならない。 企業の労使にとっては,ディーセントワークそれ自体は自己目的ではない。なぜなら,労働者は生産や販売のための経営資源をもっていないからこそ自分の労働力を他者に一定の条件で賃貸しするのであり,使用者は,企業の経営を通じて利益の実現や社会的責任を追求するから

である。労働者にとって労働は生活の手段であり,経営者にとって労働者を雇用するのは,企業の目的を実現するためである。重要な点は,「働きがいのある人間らしい仕事」は,労使双方にとってそれ自体が究極目標ではなくて,それぞれの経済活動上置かれた位置の違いを認めた上で,なおかつ双方にとって望ましい状態として設定されるべきものなのである。すくなくとも市場経済を前提とする限り,適正な労働条件としてのディーセントワークは,ルールに基づくまともな労働力の取引条件として実現されなければならない公準であり,願望や慈悲心だけでは現実化しない。

3 日本の中小企業とディーセントワークの可能性

 今日,中小企業が存在し,存続することの意義,おしなべてグローバル化が進むなかでの中小企業が果たす役割への期待が世界的に高まっていることはよく知られている事実である。地域経済の要,国民経済の健全な発達に果たす主体としての中小企業の役割,世界最適地生産の原理から地球上どこへでも利潤追求のためには進出していく巨大企業,短期的な利益のために一国の通貨・経済危機を引き起こしてもとどまることを知らないヘッジファンドなどの投機マネー,これらに翻弄されながらも地域経済・国民経済に根を下ろし,雇用創出を通じて働く人々の生活の条件を提供し,また国民生活に欠かせない生活手段を提供しているのも中小企業である。 しかし,グローバル化が進む中で,かつてのように大企業が恵まれた労働条件を社員に保障し,中小企業はいつも相対的に低位の条件しか労働者に与えていないというパラダイムが崩壊しつつある。大企業の正社員の働き方の中に,「過労死予備軍」や「名ばかり管理職」が増大し,相対的に高い賃金と引き換えに命まで提供させるような働き方が増加する一方で,中小企業の中にも,大企業に倣って,人を直接雇用するの

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ではなくて派遣労働やアウトソーシングによって,企業のリスクをヘッジしようとする傾向が見られる。当座しのぎのこのようなやり方は,中小企業そのものの経営力,活力を萎縮させてゆくだろう。リスクの付け廻しの果てるところには,いつでも犠牲になる労働者や小規模事業の経営者の姿が見られる。 願望や慈悲心だけでは実現しないディーセントワーク,日本の中小企業にとってその実現の展望はどのように考えられるのか。 労働市場における需要独占,とりわけ新規学卒者に対する独占的買い手としてあらわれる大企業は,労働力の追加調達が可能な限りディーセントワークを追求する内発的インセンティブをあまりもたないであろう。売り手である求職者が殺到する限り,買い手として有利な条件を享受するだけである。また大企業は,自己の勝手や横暴が最末端の下請企業や海外展開した事業所に直接的あるいは間接的に劣悪な労働条件を生み出していることに関心を払わないだろう。取引相手や自社の海外ブランチがそこでどのような働かせ方を社員や下請労働者に求めているかについては知ったことではない,というアパシー(無関心)は,販売市場に至るまでの取引連鎖の中で,アンカー(最終ランナー)役を務める大企業の性向でもある。 中小企業の場合はどうだろうか。中小企業は,労働市場の需要独占という有利な買い手の条件をもたない。だからこそ,中小企業にとって,若年労働力を調達し,企業の経営資源として育て上げていくということは,ひときわ重要な意味を持つ。なぜなら,時代の変化に対応して経営革新を進めていくためには,若いやる気のある社員とベテラン先輩社員や企業トップとの緊張と協調が不可欠だからである。資金力や販売力の力にものをいわせた経営は中小企業にはなじまない。人の育成に投資を行い,社長が先頭に立って手塩にかけて育て上げた社員が,もしも短期間の内に離職したらその打撃は大きいし,会社全体の士気を引き下げる。一部大企業のよ

うに,大量採用と大量離職によって労働力の入れ替えをどんどん進めるやり方も中小企業にはなじまない。中小企業こそ「働きがいのある人間らしい仕事」を従業員に保障することを通じて,企業の発展を展望できる。こうした展望は,夢物語だろうか。 現実の中小企業の多くは,販売市場におけるアンカー役となりえず,製品やサービスの開発力もそのための資金や人材にも不足があるために,専属下請あるいは準専属下請として従属型の中小企業として存立している。ディーセントワークの実現には,企業が今よりも高いコストを支払わねばならないから,中小企業経営者の本音として,「ない袖は振れぬ」「もうけが増えない限りディーセントワークなどというものは考えられない」という声が聞こえてきそうである。中小企業がおかれた経営環境を固定的に捉えれば,このような意見には相当の根拠があるように見える。しかし,これでは,「負の連鎖」すなわち相対的に劣悪な労働条件しか提供できない中小企業には,優秀な労働力が集まりにくく,そのことが企業の活力を弱め,低賃金・低コストだのみの経営に終始してしまうという悪循環から抜け出せないだろう。 これは中小企業経営者だけの責任だろうか。一面その通りである。生半可な決意で起業・事業承継をし,うまくゆかなくなると経営を投げ出してしまう,これは経営者としての使命感,責任感の欠如を表している。 しかし,他面では,断じてノーである。公正な市場競争には公正な市場ルールが必要である。この市場ルールが守られていないのは中小企業経営者の責任ではない。このルールは,二つの側面をもっている。第一に,優越的地位にある強者としての独占的大企業が,中小企業や取引先に対してその権力を行使して不当に利益を獲得する行動を規制するルールであり,日本では,独占禁止法(「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律」)及び「下請代金支払遅延等防止法」に代表されるルールがある。第二の

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側面は,事業法や市場ルールに関する立法には含まれないが,労働基準法をはじめとする労働に関する諸法令および労働者世帯の長期的生活保障の体系としての社会保障システムが存在する。 後者のルールは,一般に企業経営者にとっては,人件費負担の増加要因として否定的に捉えられがちである。しかし,公正取引の市場ルールという観点から労働法令をみると,適正な労働条件が社会的に確立することは,公正な競争の条件整備に資するものである。賃金や労働条件のダンピングに頼らないで,企業家としての技術革新や経営革新といった前向きな努力と工夫にエネルギーを集中できることになる。労働者にとっては,大企業と比べて遜色のない賃金や福利厚生が確保されることは,その中小企業への定着につながるのみならず,働きがいひいては生きがい追求の場として職場に誇りを持てるようになるだろう。 中小企業におけるディーセントワークの可能性をこのように考えると,そこにいたる道筋の構想の仕方も,「常識」とは異なったものとなるであろう。

Ⅱ 中小企業の社会的責任と社会政策

1 社会政策における中小企業問題 「社会政策」ということばは,政府の経済政策について議論する時,時折登場する。たとえば,格差社会の進行,貧困の拡大,失業の危機などの社会現象に対して,セーフティ・ネットということばと一緒に「社会政策的」対応の必要性が説かれたりする。 学問の世界では,「社会政策」の本質や定義をめぐってかつて激しい論争が展開されたことはよく知られている。そして過去30年間にわたる「新自由主義」が吹き荒れた時代の試練を経て,なお「社会政策」の意義を確認するならば次のように考えることが出来るだろう。 「一見関連のない社会の諸事象が,社会の仕

組みや制度と深く結びつきながら,引き起こされていることを認識しなければならない。社会政策の研究と議論は,ある国の,あるいはある地域の一般の人々,庶民がどのように生きているか,そのためにどのように働き,どのように稼ぎ,どのように消費しているか,そして社会を支える住民・市民としてどのような態度をとり,行動しているかについての認識を基礎にもつことが前提となる。労働と生活をめぐる人々の行為とその結果,これこそ社会政策の考え方の出発点であり,また終着点でもある。」5)

 しかしながら,社会政策学会を中心とした研究では,中小企業問題は時折取り上げられるか,取り上げられたとしてもメインテーマとなることはほとんどなかった。労働問題や労働者家族の生活問題は,賃金,労働時間,労使関係,社会保障,企業内福利厚生の現実のあり方を研究するものではあったが,肝心の政策としての「社会政策」が現実的に重要な役割を担うべき中小企業の労働条件,社会保障の問題として議論されることが少なかった。たとえば,賃金に関する社会政策の代表例である「法定最低賃金制度」,中小企業労働者の多くが加入する政府管掌健康保険制度(2008年10月以降は「協会けんぽ」),中小企業退職金共済制度などはいずれも社会政策的テーマであるが,最低賃金制度以外は社会政策学会ではあまり取り上げられなくなっている。 2009年9月に千葉県野田市議会で採択された日本初の「公契約条例」を社会政策の視点から評価する作業も始まったばかりである。「公契約条例」は,地方自治団体の立法である。これに基づく施策は,社会政策の現代的形態の一つとして評価されるべきである。6)

 これまで,地域の建設事業者やその他の事業者に対する公共発注事業の契約内容に,事業者に雇用される労働者の賃金等労働条件に関する項目が含められることは少なかった。国や地方自治体の態度としても,「最低賃金制度がある」あるいは「民間における民-民契約には介入で

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きない」という理由で,公共工事や民間委託事業で働く労働者の賃金について,なんらかの基準を設定することは行われてこなかった。その結果,国や自治体は,合理的な事業の積算単価を余り配慮しなくなり,行財政の「効率化」のかけ声の下,民間企業と同様にコスト削減,「予定価格」の引き下げに遮二無二取り組んできた。その結果,手抜き工事やサービスの質低下が露見し,社会から指弾されてきたことはよく知られている。しかしよく見ると,そのような低い単価で受注した事業者のもとで働く労働者の賃金・労働条件がどんどん悪化してきたことは,これまであまり注目されなかった。自治体の指定管理者の中には,最低賃金制度自体を知らずに,労働者に最低賃金以下の賃金しか支払わなかったことで,事業者の指定を取り消される事件まで発生している。こうして「官製ワーキングプア」と呼ばれる,働いても貧困状態から抜け出せない労働者の大群を,公権力自身がつくりだすという結果に到っている。 地域経済の担い手として,また地域の雇用・就業機会を生み出してきた中小企業にとって,公契約条例が制定されて,最低賃金以上の賃金を労働者に支払うことが義務づけられることはどのような影響をもたらすのだろうか。その他の条件に変化がなければ,時給850円でこれまで労働者を働かせてきた中小企業経営者が,公契約を受注した場合,一定の賃金日額を労働者に支払わなければならなくなる。それを忌避するのであれば,公共発注に入札することが出来なくなる。時給850円で一日8時間働かせると賃金日額は6,800円であるが,この日額がたとえば8,400円に設定された場合,賃金の時間当たり単価は1,050円になり,24%の上昇率になる。このコストアップをカバーするために中小企業経営者が執るべき手段は,①人件費以外のコスト削減努力,②労働者一人当たりの労働生産性の引き上げ,③不採算業務のアウトソーシング,④受注価格の引き上げである。従来は,重層的下請やアウトソーシングの展開が,賃金

単価それ自体の引き下げをもたらしてきた。しかし,公契約条例では,そのような多層次にわたる下請であっても,労働者の賃金等の水準を基準以下に引き下げることは認められない。先に紹介した野田市公契約条例の第6条は,この条例が適用される労働者に支払われるべき賃金を次のように規定している。

第6条 受注者,下請負者及び法の規定に基づき受注者又は下請負者に労働者を派遣する者(以下「受注者等」という。)は,適用労働者に対し,市長が別に定める賃金(最低賃金法(昭和34年法律第137号)第4条第1項に規定する賃金をいう。以下同じ。)の最低額以上の賃金を支払わなければならない。 2 市長は,前項に規定する賃金の最低額を定めるときは,次に掲げる額を勘案して定めるものとする。(1)工事又は製造の請負の契約 農林水産省及び国土交通省が公共工事の積算に用いるため毎年度決定する公共工事設計労務単価(基準額)(2)工事又は製造以外の請負の契約 野田市一般職の職員の給与に関する条例(昭和26年野田市条例第32号)別表第1の2の3の項1級の欄に定める額

 ここに明らかなように,最低賃金法による都道府県別最低賃金の最低額以上の賃金水準とは,①農林水産省と国土交通省が毎年度決定する「公共工事設計労務単価」,②野田市の一般職の職員(公務員)の最下級の給与表に定められる賃金水準を「勘案」して市長が決定することになる。2010年4月の施行までには,野田市公契約条例を根拠に定められる賃金水準が明らかになるだろう。中小企業経営者にとって,公契約条例による賃金コストの上昇だけに目を奪われると悲観的に見えるが,当然のことながら野田市公契約条例の前文に示された理念からすると,公共発注の予定価格や落札価格(最低制限価格)の改善が期待される。ここがポイントである。

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野田市公契約条例の前文では次のように述べている。 「地方公共団体の入札は,一般競争入札の拡大や総合評価方式の採用などの改革が進められてきたが,一方で低入札価格の問題によって下請の事業者や業務に従事する労働者にしわ寄せがされ,労働者の賃金の低下を招く状況になってきている。このような状況を改善し,公平かつ適正な入札を通じて豊かな地域社会の実現と労働者の適正な労働条件が確保されることは,ひとつの自治体で解決できるものではなく,国が公契約に関する法律の整備の重要性を認識し,速やかに必要な措置を講ずることが不可欠である。本市は,このような状況をただ見過ごすことなく先導的にこの問題に取り組んでいくことで,地方公共団体の締結する契約が豊かで安心して暮らすことのできる地域社会の実現に寄与することができるよう貢献したいと思う。この決意のもとに,公契約に係る業務の質の確保及び公契約の社会的な価値の向上を図るため,この条例を制定する」。 地方分権と地方自治の真の担い手である地域産業と地域住民の切実な願いと地域振興のためには,この前文にあるように「低入札価格の問題によって下請の事業者や業務に従事する労働者にしわ寄せがされ,労働者の賃金の低下を招く状況」を一日も早く解消しなければならない。まさに「豊かで安心して暮らすことのできる地域社会」の実現に向けた基礎自治体の勇気ある,しかも大きな第一歩が踏み出されたのである。

2 中小企業家同友会「労使見解」の意義 1975年1月に中小企業家同友会全国協議会から公表された「中小企業における労使関係の見解」(以下「労使見解」)は,8項目にわたってあるべき中小企業労使関係について簡潔に,奥行きをもって語りかけている。これまで述べてきたディーセントワークの考え方,あるいは中小企業と社会政策の関係を踏まえながら,ここでは今日の時点で研究者の視点から「労使見解」

の意義を検証する。 まず第1項の「1.経営者の責任」では,特に「新製品,新技術の開発につとめ,幹部を育て,社員教育を推進するなど,経営者としてやらねばならぬことは山ほどありますが,なによりも実際の仕事を遂行する労働者の生活を保障するとともに,高い志気のもとに,労働者の自発性が発揮される状態を企業内に確立する努力が決定的に重要です」と述べている。労働者の生活を保障することが経営者の責任であり,優先課題であるとしている点に注目したい。すでに述べたように,どんなにやる気と能力がある労働者でも,生活がままならない状態が続けば,仕事への意欲も低下し,困難な中小企業でがんばって働こうという士気が弱くなるのは当たり前のことである。 従って第2項「2.対等な労使関係」では,経営者と労働者の関係にも合理的な原則が必要だと述べている。その際,労働者は使用者に対して「一定の契約にもとづいて」労働力を提供するのであり,経営者が「労働者の全人格を束縛する」ものではないことが重要な視点である。このように自立・独立した人格としての労働者と使用者の関係は,お互いの求める方向はさしあたり食い違うことを前提に関係が形成されなければならない。つまり,「契約は双方対等の立場で取り交わされることがたてまえですから,労働者が契約内容に不満をもち,改訂を求めることは,むしろ当然のことと割り切って考えなければなりません。その意味で労使は相互に独立した人格と権利をもった対等な関係にある」というように,それぞれの独立した人格を認め合うことが労使関係の基礎である。しかし,人格的に独立して対等な位置にあるとはいっても,経営者は経営に責任を負い,労働者は一定の条件で経営者の指揮命令に従うのは職務遂行上当然のことである。「人格としてまったく対等であるが,企業の労働時間内では経営権の下における管理機構や,業務指示の系統は従業員にとって尊重されるべきものです」。経営権の下

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における業務指示にもしも誤りや労働者の人格を否定するものがあれば,それは労使間の紛争の原因となり得る。ここで大事なことは,経営者が経営のプロフェッショナルであることを自任することと,労働者がその指揮系統に納得することとは別の次元の問題だということである。労使関係の「予定調和」を金科玉条のごとく捉えると,それは経営者の専横につながり,労働者の自発性や積極性を台無しにすることになる。 このことは,次の第3項「3.労使関係における問題の処理について」において明白に述べられている。「中小企業経営者と労働者は経営内において雇用と被雇用の関係という点で立場がまったくちがうわけですから,労使の矛盾や紛争がまったくなくなるということは決してありません。」労使関係における矛盾や紛争が生じるのは当たり前だという観点にたつと,どうしたら紛争を予防できるか,あるいは矛盾を解決できるか,粘り強い労使のコミュニケーション=意思疎通を通じて解決することが常態となり,企業内の風通しが良くなるのである。 それでは,労使のコミュニケーションの徹底があれば,紛争や矛盾は全て解決するのか。答えは,否である。労使関係におけるもっともホットで利害が対立する事項こそ賃金問題であり,第4項「4.賃金と労使関係について」では,労働者の生活実態を理解しながら,①社会的な賃金水準,賃上げ相場,②企業における実際的な支払い能力,力量,③物価の動向,という三つの側面を正確につかみ,誠意を持って労働者を説得することが強調されている。これらのなかで,今日のデフレ経済の環境においては,③は主要な争点とはなりにくく,①も大企業並みの賃金への引き上げ要求に対しては有効性があるものの,同規模企業同業他社との相場比較をしても賃金水準の改善にとってはあまりプラス材料にならない場合が多い。とすれば,②の「支払い能力」が決定的になる。当該企業の財務状況が根拠として強調され,受注確保,利益向上に悪戦苦闘している中小企業の経営者は,賃金

をめぐる労使交渉のむなしさを嘆く。景気が回復し,企業の支払い能力が改善しない限り,賃金の引き上げは不可能,と開き直ったところで,問題はいっこうに解決しないだろう。 「支払い能力」という言葉を正確に分析すると,「支払い意欲」と混同されている場合が多い。経営計画から導き出される利益計画と投資計画,そしてその計画遂行のために労働者・社員・経営幹部が果たすべき役割への期待の大きさ,これらはむしろ「支払い能力」ではなくて「支払いの意思・意欲」である。労働者の処遇を改善すれば企業の業績が向上することに確信を持てない場合,経営者は「労働条件を改善してもそのコストに見合った業績の改善は期待できない」と考えがちである。いくら経営努力をしても,また労働者が企業の目標を認識し,一生懸命努力しても企業業績が改善しない場合もある。だからといって,「支払い能力」が増大しない原因を外部環境にだけ責任転嫁する経営者は,労働者からの信頼を獲得できないだろう。また,労働組合が存在する中小企業の場合,どうしても苦しい生活実態から賃金要求を発するので,「支払い能力」の増大をまつことが難しく,まず賃金の改善を要求するのは当然のこととなる。 一般則というものは存在しないが,労使間の粘り強い話し合いによっても妥協が成立しない場合,労働組合は組合員の要求に基づきながらストライキ権を確立し,それを実行する場合もある。労使紛争である。この労使紛争は,基本的に労働組合の要求を経営者が受け入れることによってしか解決しない。賃金を引き上げれば紛争は解決する。しかし,その結果企業の業績が悪化して,経営計画に大幅な変更が必要となった場合,経営者は展望を失う。これは最悪の事態である。賃金の問題は,労使関係におけるもっともホットな問題であり,安易な妥協は,結局企業そのものの弱体化につながることもある。労働者の生活を保障するということは,きれい事ではすまされない。企業の存続と労働者の生活をかけた労使間の交渉である。

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 続く第5項「5.労使における新しい問題」では,労働者にとって「やりがいのある仕事」にスポットを当てている。ディーセントワークの「働きがいのある人間らしい仕事」を,ILOが唱え始める遙か以前からこの「労使見解」は,主張していたのである。まさしく,労働法令を遵守し,それなりの賃金報酬を与えたとしても,その働き方や働かせ方が,非人間的で,顧客の満足や喜びにつながらないばかりか,働く労働者自身が誇りを持てないような仕事では,永続きしないだろう。この第5項では「技術革新の進む中で,仕事はますます単純化され合理化されるので,なおいっそう,労働者の労働に対する自発性と創意性をいかに作り出していくかは,とくに中小企業家の関心をもつべき大きな課題」とすれば,仕事それ自体の意味,やりがいを労働者に実感してもらうために,いろいろな工夫と改善が必要になる。単調な仕事さえ出来ない新米社員に,高度でやりがいのある仕事など出来るはずがない,と正当な労働者の要求を却下すれば,若い労働者は会社を後にしてしまうだろう。欠勤率も上昇するだろう。オートメーション化が進む部品・製品の組み立てラインでは,単調な仕事に判断や動機付けをするための仕掛けを作らないと,製品の欠陥を予防することは出来ない。ペナルティーだけで労働者に恐怖感を与えても,それは品質保証の十分条件とはならない。 第6項は,「6.労使関係の新しい次元への発展」として,それまでに中小企業家同友会の会員企業が経験した苦悩や失敗例,成功例を背景に,それでもなお,ジグザグを伴いながらより高次の労使の信頼関係の確立に向けて努力する必要が説かれている。中小企業が置かれた経営環境は,時代の推移とともに変化している。一般則はそれほど変転するものではないが,労使の紛争や矛盾の解決方法や問題の決着の仕方は変化する。大企業のように労務専門のセクションや人事部を強化し,あるいは外部コンサルタント,弁護士などを活用できない中小企業

の場合,社長を先頭に他企業での事例や教訓を謙虚に学び,また,労働者と労働組合側からの解決方向について熱心に耳を傾け,対応することが必要である。経営者と労働者が互いにもたれ合い,当事者意識を持つことなく,成り行きにまかせるようなことがあってはいけない。労使関係の「新しい次元」では,労使双方が高い識見を持ち,合理的な判断力に基づいて,持てる力を十分発揮して交渉することが必要となる。強い経営者と強い労働組合こそが互いを切磋琢磨し,強い経営を構築することにつながるのである。その点で,日本の大企業などに見られる多くの企業内労使関係においては,企業経営者側の圧倒的な強さと,労働組合の「ものわかりよさ」と団結力の弱体化が,労使協調を超えて「労使融解」型の労使関係を蔓延させている。 第7項「7.中小企業における労働運動へのわれわれの期待」は,労働運動,とりわけ労働組合運動のリーダーたちに対するメッセージである。社会的存在である中小企業の労使関係上の解決すべき課題は,個別企業の努力だけでは解決できないとの主張は説得力を持っている。この項では,「中同協(同友会)は,中小企業をとりまく社会的,経済的,政治的環境を改善し,中小企業の経営を守り,安定させ,日本経済の自主的,平和的な繁栄をめざして運動しています。それは,大企業優先政策のもとで,財政,税制,金融,資材,労働力の雇用や下請関係,大企業との競争関係の面で多くの改善しなければならない問題をかかえているからです」と率直に現状を述べている。そして労働運動に「節度あるたたかい」を求めている。 労働組合が節度をもつたたかいをする前提は,中小企業経営者が中小企業労働者の要求実現と問題解決のために,個別の経営努力はもちろんのこと,中小企業の地位向上のための社会的運動にも積極的に取り組んでいることである。最後の第8項は「8.中小企業の労使双方にとっての共通課題」として,物価問題,住宅問題,社会保障問題,福利厚生施設問題の解決を,政

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府や地方自治体には求め,政治による解決にも努力することが必要だと述べている。これらは,中小企業の労使にとって共通の課題であり,同友会運動の意義について「広く中小企業をとりまく諸環境の改善をめざす同友会運動は,そこに働く労働者の問題でもあり,その意味において中小企業経営者と中小企業労働者とは,同じ基盤に立っていると考えます」と結んでいる。 以上「労使見解」の意義を検証したが,全体としてここに述べられているあるべき中小企業家の資質は相当高い水準が期待されている。大企業の経営者でもそれに耐えられるかどうか。だが,中小企業の社会的役割を正しく認識し,使命感に燃える中小企業家は,自分だけの幸せではなく,従業員とその家族,地域社会に働き暮らす人々の幸せを誰よりも強く求める人でなければならないのだろう。一人ひとりは弱い存在である。だから,個人加入の同友会は,互いに助け合いながら「強い中小企業家」を目指して努力しているのである。7)

 さて,「労使見解」はこんにち中小企業家同友会の内外でどのように受け止められているのか,あるいは実践されているのか,もし若干の停滞があるとすればそれは何故なのか。 今後の「労使見解」についての活発な議論を期待しながら,以下では中小企業におけるディーセントワーク実現の具体的方策について私論を展開する。

Ⅲ 中小企業におけるディーセントワーク実現の道筋

 これまで述べてきたように,グローバル化が急速に進行し,1970年代後半から今日に至るまで輸出偏重と地域経済循環を軽視した経済運営が日本経済に危機的状況を生み出してきた。そうした中で,ディーセントワーク実現をめざす可能性と制約についても考察した。先進工業国では,経営者団体や経営者の意識として労働者の権利保障や労使交渉は当然のルールと考える

コンセンサスが形成されている。ところが,日本では,大企業の労使関係が「企業主義」のくびきの下に,「労使融解」状況にあり,他方で中小零細企業では労働組合の組織率が極端に低い現状が久しく続いている。つまり,労働組合の交渉力が多少弱くとも恵まれた労働条件を従業員に保障してきた大企業分野において労働組合組織率が高く,しかも労使紛争があまり発生しない。それに対して,「労使見解」に示されているように,労使が対等な当事者として交渉すべき中小企業分野では,労働組合の組織化がなかなか進まず,時として中小企業経営者と従業員あるいは労働組合の紛争が,感情的レベルで膠着状態に陥る事例をわれわれは多数知っている。 労働組合がもっとも必要な中小企業分野で組織化が進まない。相対的に恵まれた労働条件を実現しやすい大企業で労働組合組織は整備され,しかし「融解」型の労使関係に陥っている。これはパラドックスである。これまでも,中小企業分野の労働組合組織化が取り組まれたことはよく知られている。しかし,組合結成と同時に労使紛争が発生し,結局企業自体が倒産し,経営者が責任放棄をしてしまうと,労働組合それ自体も消えてしまう。「労使見解」にいわれている「労使は対等な関係」も,実質的には労働組合による団結力と労働条件規制力が伴わなければ形式的可能性にとどまる。 まさに,労使関係の対立と紛争が,労使双方が一歩も引けない平行線をたどり,労使関係がもはや安定状態に戻る展望を失うような「矛盾」関係に陥った時,中小企業そのものがもはや存続できない事態に至る。つまり,労使関係両当事者の「対立」から「矛盾」関係への転化は,中小企業にとって致命的な結果をもたらす。中小企業分野の労働組合がこれまで,「背景資本の追求」「使用者概念の拡大」「倒産させないたたかい」など教訓的な運動方針に取り組んできたのは,「結果から原因へ」さかのぼる取り組みとしては評価される。しかし,今日の中小企

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業を取り巻く危機的状況の背景と原因が,経済のグローバル化の破壊的作用と,日本の大企業中心の経済運営と取引慣行に根源がある以上,結果が出てから労使双方が問題を解決しようとしても限界があることは明白である。「一見関連のない社会の諸事象が,社会の仕組みや制度と深く結びつきながら,引き起こされている」ことは社会政策研究のα(アルファ)でありΩ(オメガ)である。結果の原因をはっきりと特定化し,ダイレクトにその原因を除去すること,中小企業の労使関係における問題を社会的に解決する努力が今強く求められている。 中小企業におけるディーセントワーク実現は,上の図2に示したように,日本の経済社会の基礎にしっかりとした土台を再構築することから始めなければならない。1970年代末からの新自由主義政策の30年間に破壊されてきた「働くルール」や公正な「取引ルール」を「ポスト新自由主義時代」の社会政策として確立し,労働基準の最低水準引き上げ+中小企業憲章・地域

経済振興+公契約法・公契約条例の三位一体の基礎構造建設が急務である。そして,中小企業家運動の力強い発展と地域的労働運動の発展及び非正規労働者の組織化をバックボーンにしながら,中小企業の労使交渉が地域業種別に展開され,その妥結点を労働協約として確認し,必要に応じて事業所協定を結ぶことが必要である。双方が自立し,力をもった労使交渉当事者に成長することが求められる。 日本におけるディーセントワーク実現は,まだ遠い道のりの先にあるように見える。中小企業労使関係当事者が手をこまねいて何もしなければ,ゴールはさらに遠のくだろう。しかし,危機が深刻であればあるだけ,「対立」から「矛盾」への飛躍条件が成熟しているともいえる。ディーセントワークを追求することによってしか健全な成長を期待できない中小企業こそ,その先頭に立つ役割を期待されているのである。

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1)http://www.ilo.org/global/About_the_ILO/Mainpillars/WhatisDecentWork/lang--en/index.htm,2009年12月13日アクセス2)石畑良太郎・牧野富夫編著『よくわかる社会政策』ミネルヴァ書房2009年刊,35ページ(執筆担当者松丸和夫)3)この点に関しては,竹信三恵子『ルポ・雇用劣化不況』岩波新書2009年刊160ページでは,「周辺的正社員」として「労働時間が週60時間以上」で「月収20万円以下」で働く若者の実態を告発している。4)図1は,作成者である金沢大学の伍賀一道氏の了解を得て,2009年12月4日~5日に韓国ソウルの中央大学で開催された非正規労働に関する国際フォーラムの予稿集『日韓非正規労働フォーラム2009』に所収されたものを引用した。5)石畑・牧野編著,前掲書27ページ(執筆担当者松丸和夫)6)石畑・牧野編著,前掲書,41ページ(松丸執筆担当)には,「社会政策とは,働く人々を中心に国民生活の最低保障と安定をめざす国家の政策である」と述べられている。今,日本では国家の政策としての公契約法制定の遅延に対して,地方自治体から公契約条例という形で社会政策の訴求運動が始まっている。7)「労使見解」に関するこれまでの中同協内部および研究者による論評については,以下の資料が参

考になる。本論文執筆に当たって参考にした。この場を借りて,お礼申し上げたい。同友会運動の当事者で,「労使見解」の形成過程に深く関わった上野修氏作成のメモ「中同協 =労使関係の見解を学ぶ」(1998年3月),同「わたしの同友会」(『同友京都』Lounge2001年7月~ 2003年3月に連載)が当時の同友会の雰囲気や議論の経過を知る上で参考になる。他方,研究者による「労使見解」の絵解き,形成史として次の2点の業績が参照されるべきである。「研究センターレポート」19集(2008年刊121ページ)所収の永山利和企業環境研究センター座長の「変化する労使関係の中で『労使見解』の精神で困難な時代を乗り越える」は,その中で「ディーセントワーク実現という世界的にも安定的な労使関係づくりが重要課題」とディーセントワークへの簡単な言及が見られる。阿部克己東邦学園大学教授は,「『中小企業における労使関係の見解』の形成過程について」(上)(中)(下)『企業環境研究年報』9号,10号,11号(2004年~ 2006年)所収において,2004年秋のDOR特別調査の結果に基づき,「労使見解」は予想外に同友会会員に読まれていない(41.4%が読んだと回答)と指摘している。<(上)62ページ>さらに,「労使見解」は「労組のある企業の問題」と受け止められる傾向があり,その後は「労使見解」の普及が芳しくない,という。<(下)83ページ>