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70 家とまちなみ 70〈2014.9〉 はじめに ‘What’s in there?’ ‘A garden. All these squares have gardens in the middle for the people around them. They’re like little villages.’ ‘Let’s go in.’ ‘Ah, no. They’re private. They’re only for the people who live here.’ Curtis, Richard, Notting Hill, London: Hodder & Stoughton, 1999 邦題「ノッティングヒルの恋人」の一場面。 ほろ酔い加減になったジュリア・ロバーツと ヒュー・グラントが、スクエアーの柵を越え て入っていく。柵を軽々と飛び越えていく 彼女の後、「これはプライベートな庭だから」 とつぶやきながら、不器用に柵をよじのぼ るヒュー・グラントの姿には、庭に入ること を躊躇する彼の気持ちがよく表れている。 スクエアーは英国特有の共用庭園だから、 英国人である彼には、その文化が作り上げ てきた鍵付きの柵を簡単に飛び越えること ができない。米国人の彼女には、なんで鍵 なんかついている公園があるの、としか思 えないようだ。 ふたりが入り込んだスクエアーとは、周 辺の住民の共用庭園である。ロンドンには 400 以上のスクエアーがあるが、19 世紀にロ ンドンの都市化が進んだ時代から住宅地と しての土地利用が変わらない地区では、ス クエアーが良質な都市住宅の共用庭園であ る形を継承している。対して、ロンドン中 心部のスクエアーは、限られた住民のため の共用庭園から、公共の公園へと変容した 歴史を持つ。400 年の時間をかけて、スクエ アーは英国特有の都市オープンスペースと なった。その歴史をひもときながら、都市 型集合住宅の付加価値としての共用空間の あり方の変化をみてみる。 スクエアーとは スクエアーの起源は、1637年完成のコヴ ェント・ピアッツァ(現在のコヴェント・ガ ーデン)と言われる (図1、2) 。イタリアの都市 広場であるピアッツァをお手本に設計され、 上流階級をターゲットにした賃貸住宅の付 加価値として、教会と回廊を持つタウンハ ウス建築に囲まれた形で開発された。しか ロンドンの都市型タウンハウス: スクエアーという共用庭園 住宅地開発ランドスケープ 北海道大学工学部建築都市コース准教授 坂井 文 新連載 1 連載をはじめるにあたって 住宅地開発とランドスケープと題して、住宅地と外部空間の関係につい て考えていきたいと思います。建築を創造するということは外部空間を規定 しているという敷地計画の重要性、また、コモンや公共空間などの外部空間 の集積がそのまちの顔・景観になっていくこと、を改めて確認するために、 英国や米国の住宅地開発の一断面を紹介していく予定です。第一回として、 ロンドンの都市型タウンハウスの共用庭園であるスクエアーが、現在のロン ドンの都市構造の一部となっていった歴史的な経緯を紹介しながら、共有し ている場所・コモンについて考えてみたいと思います。

1 ロンドンの都市型タウンハウス: スクエアーという共用庭園...72 家とまちなみ70〈2014.9〉 建設され、様々な呼び名がつけられる (写真1)。と同時にスクエアーと建築物、道路との関

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Page 1: 1 ロンドンの都市型タウンハウス: スクエアーという共用庭園...72 家とまちなみ70〈2014.9〉 建設され、様々な呼び名がつけられる (写真1)。と同時にスクエアーと建築物、道路との関

70 家とまちなみ 70〈2014.9〉

はじめに

‘What’s in there?’

‘A garden. All these squares have gardens in the

middle for the people around them. They’re like

little villages.’

‘Let’s go in.’

‘Ah, no. They’re private. They’re only for the

people who live here.’

Curtis, Richard, Notting Hill, London: Hodder & Stoughton, 1999

 邦題「ノッティングヒルの恋人」の一場面。ほろ酔い加減になったジュリア・ロバーツとヒュー・グラントが、スクエアーの柵を越えて入っていく。柵を軽々と飛び越えていく彼女の後、「これはプライベートな庭だから」とつぶやきながら、不器用に柵をよじのぼるヒュー・グラントの姿には、庭に入ることを躊躇する彼の気持ちがよく表れている。スクエアーは英国特有の共用庭園だから、英国人である彼には、その文化が作り上げてきた鍵付きの柵を簡単に飛び越えることができない。米国人の彼女には、なんで鍵なんかついている公園があるの、としか思えないようだ。

 ふたりが入り込んだスクエアーとは、周辺の住民の共用庭園である。ロンドンには400以上のスクエアーがあるが、19世紀にロンドンの都市化が進んだ時代から住宅地としての土地利用が変わらない地区では、スクエアーが良質な都市住宅の共用庭園である形を継承している。対して、ロンドン中心部のスクエアーは、限られた住民のための共用庭園から、公共の公園へと変容した歴史を持つ。400年の時間をかけて、スクエアーは英国特有の都市オープンスペースとなった。その歴史をひもときながら、都市型集合住宅の付加価値としての共用空間のあり方の変化をみてみる。

スクエアーとは

 スクエアーの起源は、1637年完成のコヴェント・ピアッツァ(現在のコヴェント・ガーデン)と言われる(図1、2)。イタリアの都市広場であるピアッツァをお手本に設計され、上流階級をターゲットにした賃貸住宅の付加価値として、教会と回廊を持つタウンハウス建築に囲まれた形で開発された。しか

ロンドンの都市型タウンハウス:スクエアーという共用庭園

住宅地開発とランドスケープ

北海道大学工学部建築都市コース准教授

坂井 文

新連載

第1回

連載をはじめるにあたって 住宅地開発とランドスケープと題して、住宅地と外部空間の関係について考えていきたいと思います。建築を創造するということは外部空間を規定しているという敷地計画の重要性、また、コモンや公共空間などの外部空間の集積がそのまちの顔・景観になっていくこと、を改めて確認するために、英国や米国の住宅地開発の一断面を紹介していく予定です。第一回として、ロンドンの都市型タウンハウスの共用庭園であるスクエアーが、現在のロンドンの都市構造の一部となっていった歴史的な経緯を紹介しながら、共有している場所・コモンについて考えてみたいと思います。

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し、ピアッツァや教会、回廊といった都市装置はたちまちその他大勢の市民をひきつけ、都市のにぎわいを創出し、元々の開発コンセプトであった良好な賃貸住宅を求める上流階級の要求と乖離してしまう。この失敗を教訓に、1663年に整備されたセント・ジェームス・スクエアー以後、中央の四角いオープンスペースを壁面線のそろった住宅建築物で取り囲む形が、ロンドンの上流階級の都市型タウンハウス開発のプロットタイプとなる(図3)。 18世紀になると、四角いオープンスペースの部分は市民が自由に行きかう道路と、中央部分のスクエアーに分離される。道路の部分は地域の教会区や自治区の管理となり、スクエアーは取り囲む集合住宅に住む住民によって共同管理され、その特定の人達の共用オープンスペースとなる。図4にみるように、管理の区分を明確にするために、スクエアーには柵と施錠のついた入り口が設けられ、緑や水といった要素がもちこまれて庭園としてデザインされるようになる。

この緑や水の導入が、他の西欧諸国に多くみられる全面舗装の都市の広場と、緑豊かな今日の公園のイメージに近い英国のスクエアーとの空間構造の違いを導くこととなる(図5)。 余談であるが、ロンドンを訪れる友人をスクエアーにつれていくと、みな公園みたいという。冒頭のジュリア・ロバーツ扮する米国女性と同じく「なんで公園に鍵がついているの?」という印象を持つ。「公園」というものがいつどのように誕生し、現在のように当たり前の存在となったのか、という経緯は実はそれぞれの社会の近代化を物語っているが、英国の場合、スクエアーと公園の誕生には少なからず関係がある。このことについては次回のお題としたいと思う。

スクエアーと19世紀の都市化

 19世紀、スクエアーはさらに変化する。四角いスクエアーから、三角のトライアングル、三日月型のクレッセントなど多様な形で

図1 17世紀後半のコヴェント・ピアッツァ 図2 18世紀前半のコヴェント・ガーデン

図3 17世紀後半のセントジェームス・スクエアー

図4 18世紀半ばのセントジェームス・スクエアー

図5 18世紀半ばのグロヴゥナー・スクエアー

図1〜図5 出典:The history of the squares of London, topographical & historical, 1923

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建設され、様々な呼び名がつけられる(写真1)。と同時にスクエアーと建築物、道路との関係性にも変化が現れる。つまり4面が道路に面する共用庭園であったスクエアーは、建築に隣接し他の3面が道路に接したものや、建築に挟まれた形で2面のみ接道しているものなどが出現し、共用庭園と建築の接点が多様化する(図6)。 こうなってくると、例えば建築と建築に挟まれて2面のみ接道しているスクエアーは、どうみてもその建築物の住民たちの庭にしか見えない。このことがさらにスクエアーとは? を見た目から判断するのを難しくしている。しかし、スクエアーの所有は周囲のタウンハウスと一体的に開発した地主にあり、その管理と利用はスクエアーを囲む住民によって行われている「共用庭園」という歴史的な形成過程を思い出せばわかりやすいであろうか。建築とスクエアーの間に道路があるか、ないか、によって公園のように見えたり庭園のように見えたりするのであって、一体的なタウンハウス開発の中心部分に位置する共有庭園であるスクエアーにはかわりがない。 スクエアーが多様化した背景には、産業構造の変換にともなう19世紀のロンドンの人口急増による都市化に対応すべく急激に

進んだ住宅地開発があった。19世紀の100年の間にロンドンの人口は6倍となり、住宅供給は急務であり、ロンドンにまとまった土地を所有する貴族は住宅地開発を行った。大規模な住宅地開発ではあるが、住宅建築そのものはタウンハウス型であり、豊かなまちなみ形成のために個性的なタウンハウスの並び方と共有庭園が計画されたと考えられる。その際、共用庭園と建築物の関係性に変化が生まれ、そのかたちが従来の四角いスクエアーから多様な形へと発展していく。 例えば、図7はハイドパークの北側に隣接するベイズウォーター地区の住宅地開発である。現在でも、中心部に近いうえ歩いてハイドパークへ行ける立地のよさと、住宅地区内に点在する複数のスクエアーの緑が潤いをもたらせる良好な住宅街となっている。ハイドパークに南面するタウンハウスはその前面にスクエアーを配置し共有庭園のその先に公共公園を見る計画となっていたり、円形のスクエアーが四角い街区の中央

図6 スクエアーの形態の多様化(出典:英国公文書館HLG 10/3/10)

写真1 三日月形(クレッセント)のスクエアー(ロイヤル・スクエアー)(以下特記なき場合、筆者撮影)

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住宅地開発とランドスケープ

に配置されていたり、様々な共用庭園が開発されている。

スクエアーとランドスケープ

 こうしてスクエアーの型が多様化し舞台がたくさん用意されると、いよいよランドスケープ・デザイナーが登場することになる。当時の英国では、各地にちらばる領主が自らの屋敷の広大な庭を風景画のようにつくる自然風景式庭園(ピクチャーレスク・ガーデン)が流行していた。ベッドフォード卿は屋敷の庭園を設計したランドスケープ・ガーデナーのハンフリー・レプトンに、ロンドンに所有するブルームスバリー地区の住宅地開発にともなうスクエアーのデザインを依頼する。 ブルームスバリー地区は先のベイズウォーター地区ほど広くなく、よって住宅地開発の規模も小さい分、スクエアーの数も少なくなっている。しかしながら、英国の多くの代表的な自然風景式庭園をデザインしたレプトンが、郊外の広大な個人の屋敷庭園ならぬ都市のいち街区ほどの広さの共用庭園をデザインした貴重な例であるラッセル・スクエアーがある。図8の中央右よりにみえる

正方形のスクエアーがラッセル・スクエアーであり、その南西角にある館のような建築物の場所が、現在の大英博物館である。 レプトンは、私有の共用庭園であることを強調するかのように、ラッセル・スクエアーと道路との境界の植栽を密にした閉じられた空間の中に庭園を計画しており、プライバシーを確保するという意図が感じられる。同時に、ラッセル・スクエアーとその南側に計画されたブルームスバリー・スクエアーの端にそれぞれ、ベッドフォード家にちなんだ人物の彫刻を向き合うように設置し、ふたつのスクエアーの連続性を強調し、単体としての庭園ではなく住宅地開発の中心的存在としてのスクエアーを計画していた(写真2)。 しかしながら、このレプトンの閉じられた空間デザインはJ.C.ラウドンによって批判されている。ラウドン

図7 19世紀後半のベイズウォーター地区(出典:Old Ordinance Survey Map [1869-82])

図8 1830年代のブルームスバリー周辺(出典:Old Ordinance Survey Map [1789-c.1840] )

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は、当時、都市における見せるための庭(ガーデンレスク・ガーデン)を提唱していたランドスケープ・ガーデナーであった。実際に入ることのできない庭でも、視覚的にアクセス可能なオープンスペースが都市には必要である、という主張を展開していた。 この19世紀初頭のラウドンの主張には、その後展開される公園の誕生を予感させられる。つまり、産業革命、市民革命の影響を受け、英国においても、大衆が台頭し民主的な政治が求められる時代へと転換期をむかえていた。特定少数の住民のための共用庭園だけの都市は、当時の変容する社会構造と乖離しはじめており、不特定多数の市民のための公園という公共施設の必要性も言われるようになっていたのであった。はからずも、後述する経緯によって、ラッセル・スクエアーは現在、都市公園として写真3のような市民の憩いの場となっている。

スクエアーの開発危機と保護法成立

 19世紀のロンドンの人口増加にともなう都市化と住宅地開発によって、スクエアーの多様化と増加という発展の一方で、スクエアーに新たな建築を建てる地主が現れた。スクエアーは住民によって共同管理された共用庭園であるが、そもそもは地主の私有地である。すでに400以上のスクエアーのあったロンドンでは、スクエアーを不動産開発の適地とみなす地主もいた。

 いくつかのスクエアーの地に建築物が開発されるなかで、開発計画に反対の声をあげたスクエアー住民たちがいた。現在も高級住宅地として知られるケンジントン地区にあるエドワーズ・スクエアーでは、1904年に浮上した開発計画に対して、スクエアーを共同利用・管理している周辺住民が反対運動をおこし、開発事業者と裁判になった(写真4)。その判決が住民側の勝利となったことが、その後のロンドンのスクエアー全般の保護に大きな影響を与えている。つまり、1906年のロンドン・スクエアー法を経て、最終的に1931年にロンドン・スクエアー保護法が制定され、オープンスペースとして保護するために、スクエアーの開発は認められないこととなったのである。 こうしてスクエアーは、特定のコミュニティの共用庭園ではあるが、その存在は人口増加によって建て込んでくる都市全体のオアシスとして意義がある、という再評価のもと開発が認められないオープンスペースとして保護されることとなった。つまり、一定のコミュニティに帰属する空間ではあるが、複数のコミュニティが共存する都市の都市オープンスペースとして位置付けられたと言える。 都市はコニュニティ(小さな公共体)の集合体である、ということが特に認識されるようになったのは、産業革命によって農村からの流入人口が増加し、社会構造の急激な変化が同じ都市において起こっていた

写真2 ブルームスバリー・スクエアーの彫像の背後からラッセル・スクエアーを見る

写真3 現在のラッセル・スクエアー

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住宅地開発とランドスケープ

からでもある。複数の新旧のコミュニティから成る集合体としての社会の構造の変化と、産業と人口の集積によって拡大された都市構造の変化が19世紀を通して進み、現在のロンドンの都市構造の基盤を形作っている。共用庭園として利用されていたコミュニティのスクエアーが、都市構造の変化に対応しながら残されたともいえる。 現在、開発が認められなくなった共用庭園を、地元自治体に借用して都市公園としているスクエアーがある一方で、歴史的な経緯をそのままに限られた住民の共有庭園としているスクエアーも多くある。この違いは、19世紀には住宅地として開発された地区がその後、都市の拡大とともに、住宅から商業や業務地区となり、スクエアーを近隣の就業者や観光客なども憩える公園として開放する中心部と、現在においても住宅地として利用されている地区といった、周辺の環境変化に起因している(写真5)。

国民のためのスクエアーの誕生

 スクエアーに住むとは、余分な管理費を納める財力があり、共用とはいえ大都市ロンドンに庭園を持つことができることを示唆する社会的なステイタスであった。しかしながらそれは、裏を返せば階層社会の象徴ともいえた。 社会的な格差の開きが表象化し、不安定な状況にあった19世紀半ばのロンドンにお

写真5 現在でも周囲の居住者の共用庭園として利用されている一例

写真4 現在のエドワーズ・スクエアー

いては、都市環境の改善は空間的に進められると同時に、社会システム的にも対処する必要があった。スラムや公害といった都市環境が物理的に悪化したことと、階層や格差による社会的にひずみのある社会環境の双方の改善をめざして、都市の改良が進められた。例えば都市公園の整備は、そうした都市改良のひとつともいえるが、当時の王室は、特定の住民に限らない、市民のためのスクエアーの整備の必要性も理解していた。それは、大英帝国の繁栄を支える戦争の勝利や植民地との貿易などによる国益の分配であり、労働者と兵士を労うことでもあった。労いを目に見える形で示すために、トラファルガー海戦の勝利をたたえる記念碑を、都市の中心の象徴的な場所に建造する要望もあった。大衆のための都市広場の整備と、記念碑の建造を同時に満たす場所として、1844年に整備された国民広場がトラファルガー・スクエアーである。 トラファルガー・スクエアーの名称は、その開発が、それまでの地主の名前がスクエアーの名称となっていた開発と一線を引くことを象徴している。王室による国民のための開かれた広場の創造のために、英国が戦勝した記念すべき戦いの名を広場の名称とし、尽力した国民を讃えている。と同時に、一定の階層が構築してきた、社会的なステイタスを象徴する空間の呼称であるスクエアーを踏襲している。ロンドンの大地主による住宅地開発の共用庭園として展開され

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てきたスクエアーが、国民全体が共用する都市広場を指し示す言葉にも適用されたのである。つまり歴史を通して、スクエアーはそれを共用するコミュニティの象徴的な空間名称となったが、コミュニティの規模が時代とともに変容していったのにともない、共用する場所を創造する主体が大地主から国王(そして、その後自治体)へと変化した時代の変遷を示している。 それまで柵がまわりにはりめぐらされているのがスクエアーであったのに対して、トラファルガー・スクエアーははじめて柵のない空間として整備された。この柵の不在は、これまでの特定の住民のための共用庭園であったスクエアーではなく、不特定の住民、つまり広く市民に開かれた都市の広場であることを伝えている。 トラファルガー・スクエアーは整備後、実際、大衆によって様々に利用されてきた。特に、大衆の成熟とともに政治集会の恰好の場所となり、早くは1848年には1万人とも言われる増税に反対する人々が集まっている。今日においても、デモ行進の終点として最も活用される場所であり、ワールドカップ・サッカーの際には観衆が一体となって応援し、まさにロンドン市民のみならず英国国民が結集する都市広場となっている(写真6)。

おわりに

 再び、冒頭のノッティングヒルの映画を振り返ってみる。 映画に登場するロンドンは、思いのほかに少ない。グラントの営む本屋、彼の住宅、彼の友人の住宅とレストラン、サボイホテル、そしてスクエアーで映画はエンディングを迎える。都市のオアシスともいうべき緑豊かなスクエアーのベンチでくつろぐ二人のハッピーエンドの姿とは対照的に、二人の仲がどうなるのかと思わせる場面は、彼の狭いタウンハウス住宅の階段の上り下りの場面から構成されることが多い。決して広くない住宅とゆったりとしたスクエアー、垂直方向の動きと水平に広がる緑、こうした空間的な対比と話しの進行をうまくからませながら、ロンドン特有の都市空間を経験できる構成にもなっている。 スクエアーをはじめとする共用の空間がどのように形成されたのか、その手法を見ると、その社会が考える公共とか社会のビジョンが垣間見えてくる。グローバル化の流れのなかで、どのような社会を構築したいのか、どのようなコニュニティを築きたいのか。そうした社会のコミュニティのビジョンを提示するひとつの場所としての「共用している場所」のデザインがあると考える。

写真6 現在のトラファルガー・スクエアー

坂井 文(さかい・あや)ハーバード大学デザイン大学院ランドスケープ修士。ロンドン大学PhD。一級建築士。JR東日本にて駅ビル開発などに、また米国ササキ・アソシエイツにてキャンパス計画や都市公園の計画・設計に携わる。オックスフォード大学、UCLAなどで客員研究員。ケンブリッジ大学、ニューヨーク市立大学などで客員教授。2007年より現職。北海道景観審議会会長、札幌市都市景観審議会や都市計画審議会などの委員を務める