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1 ✜今日お話しする最初の言葉はヨハネ福音書 19章17節からです。この個所は主イエス・キリ ストが捕らえられて十字架につけられると決 まり、ローマ軍駐屯兵たちから酷い拷問的な鞭 打ちを受け、苦しみ、侮辱された後、十字架刑が 執行されるゴルゴタの丘に向かう場面です。 いわば、大きな出来事。更に大きな出来事の 間にある「場面の移動──肝心の場面」とも言 えるところで、ヨハネによる福音書はサラリと 記されています。 ✜けれども、聖書の記事とその場面を一つ一つ 丁寧に追い、その場面で主イエスが実際に体験 された厳しい状況、痛みや苦しみを思いながら 読み進めていく方々は、この個所がサラリと場 面を入れ替える記事とはとても言えない、残酷 な痛みと、苦しみが実際に行われ、更により残 酷な「拷問死・死刑」へつながる受難の頂点に近 い記事と理解されるでしょう。 ✜ヨハネによる福音書だけでなく、共観福音書 全部に、私たちの在り方と主イエスの十字架を 結ぶ有名な言葉があります。洗礼を受けておら れる方々は、よくご存じの言葉です。 マタイ福音書では二箇所あって10章38節と 16章24節です。 マタイによる福音書10章38節 38 また、自分の十字架を担ってわたしに従わな い者は、わたしにふさわしくない。 マタイによる福音書16章24節 24後半 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、 自分の十字架を背負って、わたしに従いなさ い。」 マルコによる福音書では8章34節です。 マルコによる福音書8章34節 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分 の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」 ルカ福音書も二箇所あって14章27節と9章23節 です。 ルカによる福音書14章27節 27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなけ れば、だれであれ、わたしの弟子ではありえな い。 ルカによる福音書9章23節 23後半 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、 日々、自分の十字架を背負って、わたしに従い なさい。」 11月4日 降誕前第八主日永眠者記念礼拝説教 「十字架につけられ」武井 惠一牧師 による福音書19章17~27節 新約聖書207頁 豊橋東田教会 440-0055 愛知県豊橋市前畑町 112 ☎0532-54-3435 https://azumada.org/ 11月号 11月18日発行 2018イラストは全て池谷陽子さんご提供

11 - azumada.org · 豊橋東田教会月報 くまさんだより 2018 年11 月号 2 ヨハネ福音書は違います。 共観福音書に一番近い言葉は、今日、先ほど

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1

✜今日お話しする最初の言葉はヨハネ福音書

19章17節からです。この個所は主イエス・キリ

ストが捕らえられて十字架につけられると決

まり、ローマ軍駐屯兵たちから酷い拷問的な鞭

打ちを受け、苦しみ、侮辱された後、十字架刑が

執行されるゴルゴタの丘に向かう場面です。

いわば、大きな出来事。更に大きな出来事の

間にある「場面の移動──肝心の場面」とも言

えるところで、ヨハネによる福音書はサラリと

記されています。

✜けれども、聖書の記事とその場面を一つ一つ

丁寧に追い、その場面で主イエスが実際に体験

された厳しい状況、痛みや苦しみを思いながら

読み進めていく方々は、この個所がサラリと場

面を入れ替える記事とはとても言えない、残酷

な痛みと、苦しみが実際に行われ、更により残

酷な「拷問死・死刑」へつながる受難の頂点に近

い記事と理解されるでしょう。

✜ヨハネによる福音書だけでなく、共観福音書

全部に、私たちの在り方と主イエスの十字架を

結ぶ有名な言葉があります。洗礼を受けておら

れる方々は、よくご存じの言葉です。

マタイ福音書では二箇所あって10章38節と

16章24節です。

マタイによる福音書10章38節 38また、自分の十字架を担ってわたしに従わな

い者は、わたしにふさわしくない。

マタイによる福音書16章24節 24後半「わたしについて来たい者は、自分を捨て、

自分の十字架を背負って、わたしに従いなさ

い。」

マルコによる福音書では8章34節です。

マルコによる福音書8章34節

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分

の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

ルカ福音書も二箇所あって14章27節と9章23節

です。

ルカによる福音書14章27節 27自分の十字架を背負ってついて来る者でなけ

れば、だれであれ、わたしの弟子ではありえな

い。

ルカによる福音書9章23節 23後半「わたしについて来たい者は、自分を捨て、

日々、自分の十字架を背負って、わたしに従い

なさい。」

11月4日 降誕前第八主日永眠者記念礼拝説教

「十字架につけられ」武井 惠一牧師による福音書19章17~27節 新約聖書207頁

豊橋東田教会 〒440-0055愛知県豊橋市前畑町 112 ☎0532-54-3435

https://azumada.org/

11月号

11月18日発行

2018年

イラストは全て池谷陽子さんご提供

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豊橋東田教会月報 くまさんだより 2018年 11月号

2

✜ヨハネ福音書は違います。

共観福音書に一番近い言葉は、今日、先ほど

読まれたところです。

ヨハネによる福音書19章17節 17イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「さ

れこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴル

ゴタという所へ向かわれた。

✜改めて聖書を開くまでもなく、主イエス御自

身が自ら十字架を背負って「されこうべ」に行

かれたのはヨハネ福音書の記事だけです。主イ

エスは、ローマ兵たちから骨などが組み込まれ

ている鞭で、多分四十回打たれ、体中の皮膚は

ズタズタに破れていた。そして、十字架の重さ

は地上に見える大きさではなく、地面に立てて

揺るがない深さが要求されますから、元気な若

者でも音をあげる大変な重量です。

✜先ほど、四福音書を引用しましたが、実際に

主が十字架を背負った記事が記されているヨ

ハネによる福音書だけに「自分の十字架を背負

って」の言葉がないのは、………と思わされま

す。

十二弟子の中で、実際に主イエス・キリスト

の十字架刑に立ち会ったのは多分ペトロ(記事

はありません)とヨハネの二人だけと見られま

す。

✜ことにヨハネの場合は、このあとお話しする

「主イエスと母マリア」の記事が重大な記録と

して聖書にあることから、ヨハネが大変な思い

をしてゴルゴタの処刑場に入り込み、ついには、

死を間近にされた主イエスに呼ばれ、すぐ身元

に行ける場所にいた。

更に、主イエスは、死に向かいつつある苦し

い中でヨハネのいる場所を知られ、声をかけら

れた。これは生身の人間には不可能なことと理

解します。主イエスの奇跡と言っても誤りでは

ないと覚えます。この事は、後でもう少し丁寧

に触れましょう。

✜前置きにあたる部分がかなり長くなりまし

たが、わたしは、今日の説教ではこれを前置き

ではなく、大切な本文としてお話しています。

ここからは、丁寧に聖書に触れながらお話いた

します。

ヨハネによる福音書19章17節 17イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「さ

れこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴル

ゴタという所へ向かわれた。

主イエス・キリストがピラトによってローマ

兵に引き渡された歴史的な場所は、考古学で研

究され、エルサレム市街を囲んでいる城壁、北

側の二重になっている外側の城壁のステパノ

門から入ると、真っすぐ進むと約350メートル

で内側の城壁があり、120~130メートルのとこ

ろに主イエスがピラトや大祭司たちに裁かれ

た場所「ガパタ=敷石」になります。

✜そこは、ローマ駐留軍のアントニア要塞と隣

り合っていて、主イエスはこの要塞で鞭打ちと

恥辱の苦しみを受け、ここから現在は聖墳墓教

会が建てられているゴルゴタまで、大ざっぱに

測って700~800メートル、それは五箇所の折れ

曲がりがあるヴィァ・ドロローサ<苦難の道>

です。 現在エルサレムを訪れると、この狭い

道が観光の中心地で、道のあちこちに「ここで、

イエス・キリストが何々をされた」という、細か

な説明が語られ大勢のグループでは進むのに

時間がかかります。

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豊橋東田教会月報 くまさんだより 2018年 11月号

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✜ヨハネによる福音書によると、この「苦難の

道」を主イエスは十字架を背負って歩かれた。

ちょうど今、カール・バルトが書かれた『教会教

義学・神の国抜粋』(私家本A4ハードカバー、8冊

梱包21㎝×20㎝、長さ31㎝)の紙の固まりと言

える梱包が手元にあり、重量は一梱包約9㎏で

す(吊り下げ秤SANKO)この十包で3.1メートル、

十字架の長さは分かりませんが大柄の処刑者

は身長2メートルとすると、少なくとも、上は頭

の先から十字架の先端まで50㎝、下は釘打たれ

た足先から地面まで1メートル、更に、十字架が

倒れないように地下に打ち込まれる部分が最

低3メートルとすると、十字架は縦の長さが

6.5m、横幅2.5mとして、少なく見ても合計9m

です。これを、本の重さで換算しますと261.3kg。

体重200キロ以上のお相撲さんがいますが、

一人でこの重量を背負うのは無理でしょう。実

際には下部は地面に接し、十字架のクロス部分

に肩を入れ、引きずって移動するしかないと見

ます。それにしても、頑丈な男が、ようやく引き

ずって動かす重さです。

✜主イエス・キリストはローマ兵によって体を

鞭打たれ、血だらけの痛さと苦しみの中、この

重い十字架を約800メートル引きずって移動さ

れた。

✜わたしが算出したのは、十字架も最小限であ

り、重量は木材ではなく、本での換算です。十字

架の木が乾燥状態でなければ重さは大きくな

り、少なくとも何割も増すはずです。

主が「十字架を背負って、従いなさい」と言わ

れた十字架は、このような、具体的な重さを伴

うものです。

ヨハネによる福音書19章18節 18そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、

イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん

中にして両側に、十字架につけた。

ここでヨハネ記者は二人の罪人をも言って

います。罪人と主イエスとの会話がルカによる

福音書(23章40節から43節[158~159頁])にあ

りますが、彼らも主と同じように鞭打ち刑を受

け、それぞれが自分の十字架を背負ってゴルゴ

タへの道をたどったはずです。

✜そう考えると、主は、御自身の苦しみ、体の限

界に及ぶ疲労を思い、この二人が絶望以外の何

もなしに、苦しみの死に向かっていると知られ

たでしょう。言い換えれば、主イエスは、ルカに

よる福音書23章43節での犯罪者との会話を実

際に行われ「はっきり言っておくが、あなたは

今日わたしと一緒に楽園にいる。」と言われた

記事を、ヨハネ記者は否定していない事実があ

ります。

ヨハネによる福音書記者ヨハネは、「自らの

信仰と、真理をもつて」共観福音書マルコ、マタ

イ、ルカの各福音書を精査しました。20年前後

の年月をかけて『ヨハネによる福音書』刊行集

団は全力を尽くしたと信じます。

✜そして、更に重要なことは、主イエスの十字

架処刑の現場に、ヨハネ記者自身が居たことを

ヨハネ福音書はあきらかに示しています。もし、

ルカが記述した二人の罪人の記事が、付け加え

られた記事・ハッキリ言ってルカの創作であれ

ば、──ヨハネ記者自身がその現場にいた以上、

「これは、付け加えられた記事だが……」と、何

かしらの言葉を付け加えたはずです。

✜ヨハネ記者は、十二使徒の隠れたリーダーと

して、「主に愛された弟子」である自分自身の責

任をどこまでも意識して『ヨハネによる福音書』

を世に送り出した中心人物です。見せかけの記

事と知りつつ、それをそのままに黙認したとは

考えられません。 このような、考察の土台を

歴史に刻んだこと自体。聖書を「真理」として人

間世界に著した働きはかけがえがありません。

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豊橋東田教会月報 くまさんだより 2018年 11月号

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✜もう一つ、とても重要な歴史に残る現実があ

ります。これまでも、既に何度か触れた、「主イ

エスが、母マリアをヨハネ記者に委ねる」エピ

ソードです。

ヨハネによる福音書19章25節から27節まで

の記事は、「主イエス・キリストの実在と愛」を、

改めて全世界、全歴史に公開し、決定づける最

大の記録、証言だと申しあげます。

この記事自体、主イエス・キリストの十字架

の場面に使徒ヨハネ=ヨハネ福音書刊行責任

者が「現実にそこに居た」ことを、全てのキリス

ト者・全ての人間世界歴史に現わしています。

最大の注目点は、母マリア自身が「主イエス・

キリストの母」であり、死に至るまで「一つ」と

言える関係にあったこと。この歴史と聖書に刻

まれていることは、どのような人間にも否定不

可能です。

✜四つのイエス・キリストの福音書は、それぞ

れを採り上げると様々な歴史的、神学的問題を

はらんでいます。21世紀の今日、最高学府と呼

ばれる大学・大学院・研究室で『聖書神学』が

高い学問的立場を今も保ち続けているのは、決

して偶然ではありえません。

しかも、現在の世界でその先端にいる学者、

研究者の中には「イエス・キリストと信じる」告

白と無縁な人々がたくさん存在し、それぞれに

その「権威」を保っている現在があります。

✜言い換えれば、「神学研究の領域」は、現在す

べての学問・研究・探索に関係し、無視できない

存在なのです。むしろ、これに無関心なのはキ

リスト教を信じる人々ではないかとさえ考え

られます。

これは、私自身の確信、と限定した上で申し

上げます。

✜わたしは、膨大な過去・現在の「人間存在」す

べての領域にある、「人間」の中で、「最も真理に

忠実な人間」は、イエス・キリストの母「マリア」

と特定いたします。「真理」は、神様御自身です

から。

もちろん、「イエス・キリスト」を「人間存在」

とは別の「存在」と特定した上です。そして、ロ

ーマ・カトリックをはじめとする「聖母マリア」

信仰は、尊重し、認めますが「神存在」ではない、

と理解し、その意味で、「まったく、かけがえの

ない人間」と受け止めています。

✜すべての聖書で記されている「主イエスの母

マリア」は、「神様の御心と愛」を、「まったくの

人間」としてそのまま受けとめています。「完全

な人間」とは言えません。主イエス御自身がマ

リアの言動を否定される場面も聖書に記され

ています。

ただし、それは人間としての「言動」です。マ

リア自身の存在ではありません。

✜このことは、私たち自身の中に「マリアのよ

うな人間になる」「なることが出来る」可能性を

指し示しています。もちろん、女性と男性の

様々な違いを論じるのは、ここでは無意味です。

「母マリア」について、わたしがこのように、

ほとんど「断言」できるのは、今日の説教準備の

中で様々に「人間存在」を考え、思う中で、前半

にお話ししたマタイによる福音書16章24節 24後半「わたしについて来たい者は、自分を捨て、

自分の十字架を背負って、わたしに従いなさ

い。」を、母マリアがそのまま表し、そのまま生

きていると気づいたからです。

わたしたちは「人間」です。出来ないことが誰

にも山ほどあります。中でも「自分を捨て、自分

の十字架を背負う」ことは最大の難題と自覚し

ます。そして、今、母マリアはこれを成し遂げた

方と知りました。

祈り 讃美歌(21) 385「花彩る春を」

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豊橋東田教会月報 くまさんだより 2018年 11月号

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新共同訳聖書

〔ヨハネによる福音書19章17~27節〕 17イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆ

る「されこうべの場所」、すなわちヘブラ

イ語でゴルゴタという所へ向かわれた。 18そこで、彼らはイエスを十字架につけ

た。また、イエスと一緒にほかの二人を

も、イエスを真ん中にして両側に、十字

架につけた。19ピラトは罪状書きを書い

て、十字架の上に掛けた。それには、「ナ

ザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いて

あった。20イエスが十字架につけられた

場所は都に近かったので、多くのユダヤ

人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘ

ブライ語、ラテン語、ギリシア語で書か

れていた。21ユダヤ人の祭司長たちがピ

ラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『こ

の男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書

いてください」と言った。22しかし、ピラ

トは、「わたしが書いたものは、書いたま

まにしておけ」と答えた。23兵士たちは、

イエスを十字架につけてから、その服を

取り、四つに分け、各自に一つずつ渡る

ようにした。下着も取ってみたが、それ

には縫い目がなく、上から下まで一枚織

りであった。24そこで、「これは裂かない

で、だれのものになるか、くじ引きで決

めよう」と話し合った。それは、「彼らは

わたしの服を分け合い、わたしの衣服の

ことでくじを引いた」という聖書の言葉

が実現するためであった。兵士たちはこ

のとおりにしたのである。25イエスの十

字架のそばには、その母と母の姉妹、ク

ロパの妻マリアとマグダラのマリアと

が立っていた。26イエスは、母とそのそば

にいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人

よ、御覧なさい。あなたの子です」と言わ

れた。27それから弟子に言われた。「見な

さい。あなたの母です。」そのときから、

この弟子はイエスの母を自分の家に引

き取った。

教文館 日本語対訳ギリシア語聖書

〔ヨハネによる福音書19章17~27節〕 17そして、自身で十字架を背負って「されこうべ

の場所」と呼ばれる(ところ)、それは、ヘブル語

でゴルゴタと呼ばれる(ところ)に、彼は出てい

った。18そこで、彼を彼らは十字架につけた。そ

して、彼と共に他の二人をこちら(イエスの右

側)と、あちらに(左側に)そして、イエスを真ん

中にして。19そして、ピラトは罪状書きも書い

た。そして、十字架に掛けさせた。そして、(そこ

には、)「ユダヤ人の王ナザレのイエス」と書い

てあった。20そこで、この罪状書きをユダヤ人ら

の多くの者が読んだ。イエスが十字架につけら

れたところの場所は町に近くあったから、そし

て、(そこには)ヘブル語、ラテン語、ギリシア語

で書かれていた。21そこで、 ユダヤ人らの祭司

長らはピラトに言った、「『ユダヤ人の王』と書

くな、そうではなく『「ユダヤ人の王」でわたし

は(ある)と彼は言った』と(書け)。22ピラトは

答えた。「わたしが書いたものは、わたしが書い

た(ままにしておけ)」。23さて、兵士らは、イエス

を十字架につけた時、彼の衣(複)を取った、そ

して、四つの部分にした、兵隊おのおのに一つ

が(渡るように)。また、下衣をも(取った)しか

し、この下衣は上から全体にわたって織られて

縫い目が無かった。24そこで、(彼らは)互いに言

った。「それを私たちは裂くまい、そうではな

く、それがだれのものになるか、わたしたちは

くじをひこう」と話し合った。それは、/「わた

しの衣(複)を自分らの間彼らは分配した、そし

て、「わたしの衣服について、彼らはくじを引い

た」と言っている聖書が成就されるために、そ

れゆえ、兵士らはこれらのことを行った。25しか

し、イエスの十字架のそばに、彼の母と母の姉

妹、クロパの(妻)マリアとマグダラのマリアが

立っていた。26そこで、イエスは、母と、彼が愛し

たところの弟子が彼女の横に立っているのを

見て、母に彼は言う、「婦人よ、見よ、あなたの子

(です)」。27それから弟子に言う。「見よ。あな

たの母。」そして、そのときから、その弟子は彼

女を自分の(家)に引き取った。