1

1991年11月10日 第261号 連 喜 事 一 は 雨 自 に 渡 …...1991年11月10日 第261号 日 本 記 者 ク ラ ブ 会 報 第261号 1991年 いト戒〔1年1 11月祀日発行

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1991年11月10日 第261号

日本記者クラブ会報第261号

1991年

いト戒 〔1年1

11月 祀 日発 行

記者

ラブ

の募

会見出席申し込みにご協力を

け暮

た十

月。

事は

民党

に絡

、宮

一、渡

雄、

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の.一.氏

連続会

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ラブ

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きたく

お願

いいたします

,

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で、

二年度

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ブ賞

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りま

た、

一月

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ジを

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ます

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年互

懇親

.

〔木

)午

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山9。

ごノr{疋くだ

い。

(事務

東洋

)

11[

1991年11月10日 第261号

二ζ黛て煮垂④篭

ラ姉妹

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い出

「バーナーディ

・ドーンに会

って取材せよ」と

いう手配を東京

本社

からもら

って、

当時

ワシン

ン支局

の駆け出

し特派員だ

た私

は途方

に暮

た。

一九

〇年

"アポ

ロの

"で終わ

ったとす

れば、七〇

年代

。ゲリラの年

"

12という

認識

で、七

一年

一月から三、四

同、読売新聞朝刊

で『ゲリラと

現代』と題する続き

物を掲載する

こと

にな

った。

担当

スクは当

時外信部次長で後

に芥川賞作家

とな

った日野啓

三氏。

アジア各地

のジ

ャング

ルで、

中東

の砂漠で、

ある

いはアフリ

の泥壁

の家

の村な

どで活動す

るゲ

リラに直接

って取材する

いう

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デスクの方

った。

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激派

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ルだ

った

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ンと

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を飾

った。

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B

I

(米

)が

反戦

過激

体「ウ

エザ

マン」のリ

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して、

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指名

ップ

に掲

げ、

で探

いる

人物

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が捕

こと

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来な

に会

い。

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ント

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戦学

たち

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バー

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・ド

ンの妹

ェニ

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・ド

ンと

会え

こと

った。

に、ラ.口ってウ

下潜

伏中

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つ、

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同団

目指

いた。

一九

〇年

のク

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いあ

、ニ

ューヨーク市

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の古

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パー

.室

で、ジ

ァー

・ド

に会

った。

 .1.六歳。

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ン。

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くま

い牛皮

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1

大同団結を日指すあなた

の、銀行

や大

の爆破活動

中間派を離

反さ

せ、革命勢力を

に孤立さ

いな

いか。

「全く逆です。爆破は人民に力

の意識を目

ざめ

させる。それは

予段として重要な意味を持ちま

す」ー

ウィスコンシン大学の爆破

ではまじめな

研究者

一人殺さ

れて

いるが。

「犠牲者を出さな

いため爆破

、そ

で予告

した

に行

われ

いま

す。

それ

にも

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らず

が出た

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い」

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か。

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た。

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日後

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ナー

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った町

だ。

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ン湖畔

の美

い白

居住

{2}

1991年11月10日 第261号

が通学

の校

二人

のことを

いた。

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って実

に利

何事

にも積

な生徒だ

った

」と

、冒う。姉

の編

いた、、

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の申

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った

.、姉は名

ゴ大学

で、

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.1.五歳

の若

学博

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.妹

は同

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ロシア史

姉以上

の秀

で「ファイ

・ベ

・カ

ッパ」の

に選

いる。

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一流

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のク

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長だ

った

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婦、

、美

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った

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の娘

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いる

か、

った。

が、

は会

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った

いや

わなか

た。

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ンタ

ーに応

ェニファーが、

父親

の話

にな

と顔を曇

せた。

「父

F

B

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い人

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で悩

いる。

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っと

いてほ

」」

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ーナード

氏は

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.一入

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いた。

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が無

理なら

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ド氏

の考

方を

聞きた

い」と

った。

ァーは

っと

た。

日後

バー

ード氏

り.返し

った

「お手

紙拝

た。

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いま.一.日え

は、私

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ッシ

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〔既成

朴…

)の

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であ

いうこと

、娘

の行動

の思

いを

いる、と

いう

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けです

か私た

っと

して

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い」。

結局

、姉

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えず

、妹

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の会

が連載

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一回

と第

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掲載

れた

あれ

から

っと

二十年

、新

・記者

やめ

学教

にな

って

らも、

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の姉妹

ろどう

いる

か」

した。

先年

「臣界

」(時

事通

)

の求

で、書

め、

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ッド

ロウ

「破

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.題。

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かれ

いた。

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の同

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ッド

が彼

に面会

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れた。

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・ラ

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った。

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い」と

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と、彼

は激怒

して

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った

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武「力

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の革

のため

に貢

ので

はな

った

のか

」と質口え

たそう

だ.

みなと

かず・お会員

、几

二,年岡山県

生まれ

東京大高.r法学部卒

五.五隼読売

新聞・人社

ワシントン芝局長

論説委員

などを務める

,八一.年連鞭「アメリカNO

W」でボーン上田記念国際記者賞を受賞

八六雫退職

現在お茶の水女ゴ大学教授

〔3)

1991年11月10日 第261号

ワーキングブレス自民党総裁選

「コンチクシ

ョウがまた、集ま

って

いるよう

だ」

自民党

竹下派

の金

丸信会長

指名

で事

実上

、宮沢喜

一総裁

誕生したポ

スト海部

政局

のキ

ワードは

「金

竹小」だ

った。

金丸氏と竹下登元首相、

それ

に小沢

.郎

・竹下派会長代行

頭文字を連ねただけだが、

入、

「金

竹小政

局」

一.「口わ

るほど、政局を左右

し続

けた,

もともと政局の動

向を決

める

のは百丑人を擁する竹下派、

いわれて

いた。国民的人気

の高

い橋本龍

太郎氏が証券

・金融

祥事

で傷

つき、小沢氏は突然

心臓病

で退院したばか

り。

それ

に党内

の幅広

い人気

を集

める羽

川孜

・党選挙制度調査会

長が政

治改革法案廃案

のうず

に巻

き込

まれ、同派が誇るネオ

・ニ

ュー

リーダー

が相次

いでリタイ

ァし

た。残る選択

肢は海

部続投支持

か反海部

一.派

にのるしかな

い。

竹ド派がどう

かじをとる

か、

注目されたゆえんである。

竹ド派は田中角栄.兀首相

が健

在だ

った

ころ

の田中

の伝統を

引き継ぎ、その意思決

は徹底

した秘密主義をとる。

それ

でもボ

スト中曽

政局で

は金

、竹下.両

に小

沢、羽

田、橋木

"七

ηのへ口議

で方針が決

こと

が多/\

が話し合

れたか、

は徐

々に明るみに出

た。

重要

な局

「金

小」会

談がひんばんに開かれた。

取材対象

が..天

だけ、

とあ

って

いわ

る。

の後

の主

いが続

いて

いる

とみ

「竹

ー金丸

不仲

いま

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、。

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では

「小

て、

いま

や竹

-金

では

ー小

沢戦

てき

た。

、..一氏

は小

の妻

の弟

に嫁

竹ド氏

の娘

が金

丸氏

の息

f

「金

」ト

ライ

ング

かな

か本当

の中身

が出

てこな

い。

これが竹ド派担当

記者とし

て最大

の悩

みだ

った.

「金竹小」一.一人

の関係

一定で

いことが、時

に誤

った予測、

推測

つながることもあ

った。

スト

竹ド政変で竹

.卜氏が宇

野宗佑氏をか

つぎ、

それ

を知ら

なか

った金丸氏が福

田赴夫氏

.再登板を

画策して対

立し

のが

竹ド.金丸両氏

の対

の出発点

いる

でも

る。

が聞

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ミリ

ゃれ合

いの部

分もあ

るだる

つ。

クラブ

(自

民党

クラ

)の竹

下派

にぎ

わす

-竹

-小

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った

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芳.[わ

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を繰

り返

に、今

の政

も終

った

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ル、

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は国会

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の交

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た..一角

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づく

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ライ

ング

ル」

と無

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せな

のだ

ろう

か。

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たつじ氏

一馬七一.一年毎日新聞

・人祉

中部本祖報道部を雑て

一年か

ら政治部

〔4}

1991年11月10日 第261号

ワーキングプレスユーゴ内戦取材

「カ

ロバ

ッツ」、

ロア

の首

レブ

から

西

トキ

ロ、

道路

で.二卜

から

い.距

だ。

の町

の南

軍戦車

ルビ

ア側

配地

域。

ロア

ア側

って

は首

都防

の最前

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のは

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の調

によ

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...日凍

の期

で、

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激化

いた

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る高

には、

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、地

.宙

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いた

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る置き

で、

にも

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のプ

ス担当

「一.目葉

りに、

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でき

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の建

いう

ち著

いた町並

の、

ロバ

ッツに

ると

、遠

で砲

が響

、機

など

の連

発射

えて、

が前

の町

であ

とを、

て認

せら

把握

のた

め、

を訪

一足先

に到著

いた欧

記者

たち

が、

ロア

み、

記者

が始ま

ろだ

った。

では

、連

邦軍

ア八

の南部

バ川

沿

って展

開し

ロバ

ッツに攻

を加

てお

の連

軍・基

でも、

これ

ロア

ア側

の間

で、

闘が続

いて

いると

のこレ一だ

った。

の人

が出歩き始めた

のを見計ら

って、

取材を始めた。

旧市街

では、防衛

兵十

の案

で、前

の戦闘で陥落

した連

邦軍

の穴

だらけの建

物内

部など

を撮

し、住民

へのイ

ンタピ

tを

った後、連邦

兵舎

に近

い救急隊詰め所

へ軌ち寄

った。

状況を

聞こうと寄う

のが幸

いす

ると

は、夢

にも

思わ

なか

たが、十

分後には自

たちが、

救急隊詰

め所近く

で被弾

に慣

れて

いる

のか

フリ

ンら

大方

の説

が終

ると

、外

へ飛

った

が、何

こち

たく

いと

を使

って、

市長

からさ

具体

に、

場所

や危

の説

明を

いた

ころ

が、

取材

けよ

とし

た矢

空襲

り響き

の中

で待

こと

一時

助け

を求

めて駆け込

む羽

11

にな

ってしま

った。

たち

は、救急隊

詰め

所から

び町

へ出た。ところが

わず

メート

ル先で、乗

って

いた卓

の右後方

から銃撃を浴

び、助手

の宮

メラ

マンが背中

から腹

を、

運転

胸、足を

負傷した。幸

い運転

支障

がな

ったため、

の場を

脱出

でき

たが、狙撃

の姿は見

いな

い。

は市街

で、私

の前

にも

.兀の車

が何

か通

って

いた

.私

「T

V

」と-入キラ\長

.小して

いたため、

のかも

い。

ロバ

ッツで

の[.

のカ

ンが

弾痕

だら

にな

った

私た

の由rを

兄る

と、

いる

のが

.不

こから

か分

い.

おはら

みちお氏

.拡Lヒ句中部口本

放送(CBC)入甘

テレピニλiス部

(現

。報道離りを経て

瓦○年か∴JNN

-CHCウrーン支局長

ブ ゴ パ ルrh街 に 突 入 寸 る 連 邦 軍 の 戦 卓

〔9,21)写 嵐AFP時}1ト

〔5}

1991年11月10日 第261号

ワーキングプレスバンコクG7

七力国蔵相

・中・央銀行総裁会

(G

7)、国

T

M

F>・世界銀行

ドニ

際金融会議

が十月

.日から

十七日までの

,週闇

、タイのバ

ンコクで開かれた。

橋本蔵相は

G

7の議長とし

て対

ソ支援

コミ

ュニケをとりま

とめ、十四日に

帰国。同日午前

に、既定方針

おり証券

・金融

不祥事

の責任

をと

って辞任と、今

の会議が

文字どおり最後

のお務めとな

た。I

MF

・世銀

総会

は、タイで

めての本格的

な国際会議。同

国政府はバンコク市内

に壮麗な

ム至議場を建設.また悪名h尚い交

滞を

少し

でも

しよう

、最も混雑

が予想さ

れる四日

、官庁や学校を休

みにして、

民に郊外

への旅行を奨励と、

国家

の威信を

かけ

て受

け人れ態

勢を整えた。

それでも、英国

の代表団が渋

に巻き込まれ、初

[のG7開

が遅れるなど、経済

の急拡大

に都市計画が追

いつかな

い実態

見せ

つけた。

G

7

の当

H程

は、

.、

の一.日間

一日

ソ連

表団

のプ

スー会

を交

、支

で集

. 

目中

マク

ロ経済

を議

夕.刻

に声

明を

表す

るはず

った。

ころ

スキー圓

経済

理委

委員

長を団

とす

連側

のバ

が遅

れた

め、

ソ支援

の質問

にも

「講…論

の途

中だ。

申し

上げ

い」「代

ぜ遅

るか

って。

そんな

こと

ソ連

使

でも

いてく

」。

結局

G

7

は三

H

の十.一.日

後、

金融

の実

件や

スク

ワで

の蔵

埋会

の緊

催な

どを

コミ

ケを

採択

閉幕

の枠

った

いては

ソ連

"遅

"

で延長

一.[

に回

ざる

を得

った。

日午

には

シチ

ェン

コ国

ら主

ンバーが

.一行

からさ

らに遅れ、

のプ

スー会

に間

に合

いことが

1,一一.目

にも

G

7、

びプ

ー会

を行

にな

った

ソ連側

の事情

二転

=.転

ケジ

ュー

ルに橋

のイ

ライ

は昂

るば

り。

何も決まらなか

った。も

っとも、

北方領土と

いう固有

の問題を抱

るH本とし

ては、具体策の先

りはもくろみどおり。

「会議

結果は」と水を向

けられて橋本蔵

相、「思わず

ニヤ

ッとし

てしま

う」。前夜

の不機嫌な表情はす

かり消え

いた。

ところで、わ

が国

に対する各

の関心は依然高

い。筆者も地

.兀の記者

に「日本

は金持ちなのだ

議 長役 を終 えて 会見 写 貞.AFP=時 事

ら、も

っと

ソ支

に協

ては」と問われ

方領

問題

、プ

レス

ンタ

の当

スに他国

の記者

が訪

れ、

「ハシ

は東京

に到

したか」

「本

めた

のか

」と

。G

7が延

にも

つれ込

め、

十一二日

午前

のIM

F暫

員会

には七

の蔵相

。そ

の意

でも

G

7ば

つ格

った。

すずき

し、①ういち氏

一九ヒ六年時嘱

通信入廿

社会部

.証券部を縫て

八七

年から経済二部

{6}

1991年11月10日 第261号

ワーキングプレス美術担当記者

美術

には最近シーズ

ンがなく

った。.画廊

を回れば、

一年中

なんらか

の展覧会

が開

かれて

て、夏や冬

にも優

れた内容のも

のがな

いわけではな

い。昔から

美術

の秋と言われ、

この時期

展覧会

が集中してと

りわけ忙し

いのは事実としても

、作口…のは

らんは必ずしも質

の高さを保

証しな

い.

日本橋本石町にあ

ときわ.画

から出発し、口本

橋、京橋を

て銀座八丁Uま

で。

この間、

いた

い.一十な

いし三十軒

の画

廊を兄

て回る,午前

一時にス

タートし、銀座七丁目

の村松画

廊あ

たりにくる

ころは

そろそろ

夕方。

やれやれこれ

で今

目の日

課も終わ

った、と足

の疲れを覚

る。

文化欄

で展覧会

評を

かくよう

にな

った数年前は、

毎週

の月曜

そんなふうに過

ごした。何事

も慣れ

で、回る

コー

スはしばら

くた

つと身体化され、見落とす

所も少なくな

ってくる。最初

一年間は、たまたま

作家

が画廊

いてもほとんど話をしなか

た。人

兄知

りす

にも

が、それ以上

に作

家から受ける

印象

に左右さ

れず

に、作

品だけ

でよしあしを

判断

した

いと思

いたからだ。画

の入たちと

あまり話を

しな

った。

これは

いわゆる新聞記者らし

くな

い態度、

とみられるかもし

れな

い。取材

らしきも

のはひた

ら作品を見ることだけで、人

の話を聞かな

いのだから.しか

ではな

い)、.

画廊

ご.年

にな

って、

っと様

ってき

てて

スを

けな

った

のである

一因

は新

い画廊

が増

こと

であ

る、

い訳し

てお

こう

(実

は画廊

の他

にも新

いろ

んな

があ

るからな

のだ

が)。

渋谷

・青

面、池

新木

・佐

町方

など

日本

-銀座

「コー

」に

る変

し、作家は作

品です

べてを語る

べき

であり、

制作

の意図はす

からく作品に構造

化されて

いな

てはならな

い、

いった本質

な問題

のほか、

いろんな埋由

から芙術担当

の基

本は

これに

きる、と今も思

って

いる(も

っと

画廊

を回

って

いれば、作家を

はじめ次第に顔

見知り

ができる

のは事

実だが、

そうした人間関

を作

品の評価

に結び

つける

以外

の画廊

のほか、東京

はもち

ろん近県

の美術館

など行かなけ

ればならな

い個所が増えてきた。

だから離れた場所

一軒だけポ

ツンとある所

は、

つい足が向か

いまま、会期

が終わりがちだ。

こうなると

「決

め打ち」と

でも

べそうな歩き方

が始まる。

日はこことこことあそこ、と

ふう

に、あら

かじめ案内状な

で展覧会

の内容

の見当を

つけ

て回る

こう

いう

り方

は物

理的

.昌

っても

やむ

いに違

いな

いの

が、

では

が悪

いと感

は、

二年

の間

でき

た習

によ

のだ

か。

いや、

ではな

いよ

だ。

発表

る作

たち

の名前

いち

いるわ

では

にし

ても

[日の

記憶

いう

がある

これ

はあ

の時

に兄

の作

はな

いだ

ろう

い出

せる

が、後

にな

って

品を

価す

に役

つ。

ング

ィーを

るにも

それ

はた

ぶん

いてく

であ

る、

こう

ともな

-日本

の見

した

覧会

て歩

こと

にな

る。歩

にな

ってし

った

が、

し美

の基

は、歩

て作

品を

て回

こと

つき

だ。

すがわら

のりお氏

.㎜九七乱年読売新

聞入社

浦和支局

地方部を繰て

.八〇

年から文化部

(7)

1991年11月10日 第261号

(8)

カ イ ロ轟"定 例

"なく連絡待つだけ

秋 元 隆

エト

ハディア

・パ

レスと呼ばれ

クリーム色

のし

ょうし

ゃな大統

領官邸

.室

では現在、中束和平

開催

の最

のた

め、カイ

ロを訪れ

いるアメリカ

べー

カー国務

長官

ムバラク大

統領

の会談が進行中

であ

る。中庭

には、数時間前

から会談後

の共同

記者会見を期待

て、内外百八余

の記者

やテレビ

・カメラ

マンが

っている。

記者会見用

の演壇

もす

でにし

つらえら

れて

いて、

レビ各局の

マイ

ロホ

ンも所狭し

ットさ

いる。

は、今

のか

いうと

、必

そう

は限

い。

だ準

れて

いると

いう

であ

って、

いか

もし

のであ

る。

の報

に尋

ねても、

「イ

ンシャーラ

(神

が思し

〃目せば

)」。

のこと

で記

たち

も慣

いるか

ら、

昌.門

ても焦

った

はし

い。

ブ流

のん

つし

かな

い。

いにし

の日は

四時

った揚

記呂会

われ、

べー

バラク

の二昌葉

から

巾-の中

開催

は間

いな

いう感

こと

でき

通常、

こう

.要

ント

日時

は、

の夕

に、情

の管

にあ

るプ

ンタ

ーか

派員

に電

えら

れる。

の連絡

があ

それ

は当

が取

可し

いる

いう

こと

であ

聞、

レビ

て十.五社

十九

の特

いる大

所帯

のカ

ロ日本

の場

は、

で新

ら各

.社

が幹

にな

スセ

ンタ

連絡を

れを各

にな

って

る。

カイ

ロで

のよ

一方

は、

スポ

マン

によ

例会

のよ

スサ

一切な

い。

官僚

や政

府制関

係}

に会

こと

が、実

に時

すぎ

るし、

ても実

に口が堅

い。

エジプ

.要情

が滅

!

クさ

い国

である

。自

の取

で生

の情

こと

にむず

い。

い頼

得な

いのが

B

BC

ラジ

ロイ

ター

A

P

西側通

の報

だ。

エジ

.フト

アラ

ア語

の通信

・M

E

N

A

し、官

の内

は、

ほと

ど役

たな

い。

ュー

にし

ムバ

統領

の動

一日

の出来

が大

に伝

えら

で、

い発

い。

やむな

支局

でチ

ッカ

にら

っこ

る。

たま

の休

日、

フを

ても

、時

が来

4時1用 待 一って へ」っ と 厩iま っ た べ ・.カ ー一・ム パ ラ

ク 会 ∋己く大 彰ヒ寧頁'1'f唾1玉1Ω.14,箏 者'撮 景多

とプ

レイ

断し

短波

オを

り出

BB

C放

い性

にな

って

いる

ロの特

から

ロイ

ー、

A

P

ッカー

と短波

オを

間違

いな

ック

に陥

ことだ

ろう

こう

間接

情報

収集

にき

うき

ゅう

た生活

ら解

した時

だ。

月末

マド

で開催さ

る中

に、

ロ特

いる。

あきもと

たかし氏

一九六κ年テレビ朝日

入社

「ニュースステーシ,ン」ディレクダー

を軽て

.八瓦年からカイロ特派員

〔81

1991年11月10日 第261号

ク ラ ブ ゲ ス ト

民党総裁

連続

記者

会見

几月三-「U

の海

部首相

の「重大

意」発菖以後、様

…変した今回

民党総裁

。卜

月四日

の臨時

会閉幕を受けて、.五

日には宮沢喜

一.兀

総理.渡辺美

知H雄.兀政掴剛Aム長、一二塚

博前

政調会

の"3

M"が正式

に出馬

を表

明した。

クラブでは、十加

Bの告示を前

に連

続会

見を行

い、各候

補折から総裁選

む決意、他候

者との政策の相違な

どを

っても

った.

兄の内容

ついては各紙

に譲る

ことにするが、紀八,心署名は次のとおり

で、"できたてウのクラプタイをプレゼ

ントしたヒころ、=,入三様

のデザイ

を選んだ、いみじくも各八の.違い〃が、

兄前

に明らか

にされ

た格好とな

た。以ド、裏話を。

ずはト

ップ

ッターとして登場

した渡辺氏。『本

音と決断

責任と実

』のキ

ャッチ

フレーズに、「.道は近き

にあり・̀と付け

加えた

(会見終了後「道

ゃしょうがな

いな。(総理の)いすじ

ゃな

いとな」シ一.可.[ったAム昌只がいたよ・つ

だが…)。また、渡

氏はふだん芦田淳

のネクタイを愛

用し

ているそうだ

が、

三本

のクラプタイを提

示すると、迷わ

・,え

んじ

トを

、「これ

一番

い」。

の早

:

ルし

『勇

』と

フを

.

..塚

、あ

ッチ

.笑

附必

』と

、司

・,紺

"を

「(総

)届

の時

」ヒ

(後

、会

コク

った

」と

の声

)..

、・.水

1り.7【 月1、 記 名』ゴ≧レ↓

司 ニセ ゴ可幽奇{守 ・・摸1二委 貝

日}席∫17【[入

大』。司会者が「水

ゆるければ魚大き

い」

と.解読

"し

が、意

昧、出典など

は明

らかにな

ず。「竹

ド派、宮沢

へ」との報道

が流

れて

いる中で

の会見

とあ

って、表情

終始穏やか.『紺

ストライプ』を

レゼントされ

ると、

「〔クラブから

いただ

いた)何本

目かの

ネクタイで、私は

に愛用しています」

と相妊をくず

た。

さて、一.-,七

日の投票の結果はド表

のとおりで、第

.回投票で宮沢氏

が過

半数をL回

一.百

八レ丘票を

得、

第卜五代総裁

.ただし、投票

11前

1〔」,呂r、'火Ll言 己名`≦奇多己

百1≦~ 川1・正響一一誠 委 昊ミ

}1け富室 皇7〔[人

予想に比

べ、宮

沢氏の得票

が大

きく下

回り、渡辺

が善戦した、と

いう

のが

人方

の論

調だ

った。

河つ1卜.[≦セ詞覧`し唱匡`ま、 非塗5衷 裂悲数395ぴ)う ち 、

1抽男隻4を 除 く

10.lll金1記 昔 会 見

司 会 田 畑 光 水 委貝

ll}席24〔1人

(9)

1991年11月10日 第261号

トスゲブラク

三井

恒夫

東京電力最高顧問

0,16髪 水1研 究 会

ま買ナ寛 と手支循L〔1)

il会 堤 佳 辰 委 貝

良r窩'43ノ 、

大気中

のCO2濃度

は、

この=.卜

年間

、毎年

.・五PP

mず

つ増え

じように気

温も上昇

いるが、

「私

自身、

CO

2の増加

温暖

因果

関係

は、必ずしも

っき

りしな

いと思

って

いる。

しかし、

エネ

ルギ

ーを供給している企業

の務

めとして、

CO2を

いか

に軽減し

いく

か、

・実践していかなければいけな

い」。

オー

パー

ヘッドプ

ロジ

ェクターを

使

って、

CO2軽減対策

を説

明。

の中

で化

石撚料

エネ

ルギーをなる

く使

わな

いようにする

こと

(省

エネに

努めること)、

エネ

ルギー効率を高

こと、な

どを強調する

ととも

に、

CO

2の海洋処分や

バイ

オ技術

によ

る固定など、現在

の技術

開発

の現状

を分

かりやすく説明した。

ガスからCO

2を分離

する技術

とし

ては、

吸収法

(化学的

分離)と吸

着法

(物

理的分離)の二通

りがあるそ

で、

「東

・横須賀

発電

CO

2総An研

究施設では

、今

年中に

も分

離実験を

開始する。

興味

のある

は見学

に来

てほし

い」

PRも忘

れな

った。

ハイ

・パ

・サ

モラ

リピ

々の秋

晴れ.「両国

の国

旗が、東

の空

に翻

のを見てと

てもうれし

い」と

[火を

った。独

以来百六

十年

に百九

十回も

の政

変を

経験し

たボリビ

アだ

が、大統

自身

も十

.

年前

、政敵

の仕組んだ航

空機爆破嘱

に遭

い、重

傷を負・り。

が八

二年

の民政移欺官後

、政情

安定

。経済も

徹底した緊

縮財

政や輸

入自

由化など

で、年率

四、ヒ○○

%

(八五年Vと

いう超イ

ンフ

レを

.O

%台

に収束、

混乱状態を

した。

平洋

への臨口となる

幹線

道路の

整備

や、中南

への天妖一ガ

ス供給パ

イプ

ライ

ン建設計画などを語

り、

「産

1〔1.18〔金}記 者 会 見

司 会 遠 藤 勝 巳理 事

通,」く 横 田 佐 知r・

出 席6{,人

盤整傭

に日本

から

の融資を期待

する」と。大西洋

に向け

いた顔を太

平洋「にも向

ける

いう

のが基本姿勢

のよう

で、「我

々にと

ってH本は

一番

大き

い重要なド

アだ」。

の社会問題

は麻

。経済支援

をす

ると

しても

その点

が気

がかりと

いう質問

には、

「我が国

の人

々は何r

年も

の間

コカを栽培し

のな

い形で

使

ってき

た。そ

こに麻

とし

てのコ

カイ

ンが外

から

ってき

た。

コカが

"悪

力とな

ったのは外的

因による。

麻薬

問題

は、原料

コカを栽培する

国、

・販売

する国

、消

費す

る国す

べての国

の共同責任

であり、世界的に

えな

ければな

らな

い」と匁口えた。

コカ

生塵農民

は、

~四十万

。「他

の作物

への転換

を促

すために

も、

まず資金が必要」と訴

た。

経済

同友

幹事

に就

ょう

ど半

年。

「スタート直後

から

いろ

いろ

"た

たかれ

"まして…」。

目銀

には...重野

総裁

と同期

で入行、=.十

四年間

"通

の番

力に携わ

った

固定相場制

ら変動相場制

に移行

た当時

の内

つづ

った

『海図な

航海』

の著

る。そ

後、

に移

10.25(金1昼 食 会

司会 藤 原f乍弥 委 貝

出 席52八.

り、

現在会長。

一連

の経済不祥事

の.原因

として①

{昌セ導

の固定的規制、②

企業人

のモ

ル欠如、③

日本社会

の不

透明体質

どをあげる。「時

の変

化に日本

・慣行が合わなく

って

いる、

米諸

国と同じ上俵

にのるためには、

日水-的な倫理感覚だ

では通用しな

い。

フランス革命

の自由

、.平等

(・公

正)、

社会

)の精神を

U

企業

も目指す

べき」。

政権

が取り組む

べき課

題は、と

の問

いには「政治改革・と

コメ問題」と

竺口え、

「ど

こかで思

い切

った改直をし

くては

いけな

い」。

コメの市場開放

は欧米

が求め

る関税

化に後追

い的

に乗

っていくことを懸念。

「これ

の・ゼ張を繰り返し

いたら、ガ

ット

のリーダーシ

ップ

を失う。タ

ングを失

せず政治

決断す

べきだ」

と述

べた。

記念

著名は一、上

の器』。

「大きな家に

(1ω

1991年11月10日 第261号

ク ラ ブ ゲ ス ト

は金

銀だけ

でなく、木や

の器もあ

る。

もし入が卑

しいも

のを取

りー3一り

・目分を清

めるな

ら、そ

の八は尊

い漁佃

められた器と

って、す

べての善業

をそなえたも

のとなる」,

聖書

のテモ

テ後

書から

の引

用だ

った。

フゲ

ニイ

・ア

レクサ

ンド

ロビ

・エフ

ェン

コ氏

[⇔、29汰;,{1].名'f?ら ~.

、・陰fl・ 嘔i:友 郎 奏 玉工

通IJく 十く1巧リ バ[

出11?;61へ

この八月

一日は/詩歌

と伝説

称賛さ

れるだろう…戦車

のわき

で良

心がよみが・凡

ってくる/戦

のヒに

エリ

ツィンが仁王疏ち・:(「八

月卜

九日」より∀

八月二十

日、

ロシァ共和

国議事堂

の反クー

デター集会。

エフト

ンコ氏は自作

のこの詩を朗読

た。

一九三}.一年生まれ

の五十八歳,高

校、大

学とも

"退学

"さ

せられ

たた

め阜業

証書

は持たな

い。

四九年

初め

ての詩隼飛ヰ」発表。以来、小

説家

、映

画監督、写真家など七

つの職業

を経

験、八八年

には人民代議員

に選

出さ

れた。

ゆと

ユーモアを巧みにちりばめ、

ソ連

の文学

.

政治、社会

,経済

につ

いて興味深

い発..臼が聞

かれ

た,

「我

々は多

.兀ト義を求めてきたが、

共和

国単位

の通貨

の多.兀性

は、

ープ

ルの交

性を確立す

るう

で脅

威ヒなる」

「ゴ

ルバチ

ョフの欠

点は、

白分よ

り賢

い氏に囲ま

いる

のが好き

こヒ.

エリ

ツ,

ンの長所

は自分柔

り優

れた尺

に囲ま

るこヒ

を恐れな

い点

」などなビ。

「ク

デタ

ーに

ついて

いろ

いろな

報道

がで

いるが、あ

のヒ十

二時間

は本

に危

った」。それま

で柔和

った表情

一瞬険しく

った。

外相

副総

理兼外

に渡辺美智

∴疋政

調会長

が確定

.と

の報道

が流

れる中

の会

見。

まずは、

「外

相としてこれほど厳し

く過酷な時

はなか

った

のでは」と述

懐し、「この一.年一一.か月で、

球を十

周半回

り、

三分

.は海

出張、

るで

ウ国

際宅急便

のような

生活"

った」と、珍

妙な造語で形

容した.

「自

の体力

に限界を感じたことも

びたび

で、

アメーーカから帰

ってす

った

」と

「口

,

(外

田門訪

……凹-…Tは

ム試P睡山山席

丁しな

/、ザ、JU

いと

いう

)自

こと

ヰ.口いた

った

」。

った

って

「ヒ

ソ連

」。

コプ

フの訪

11

(,八・几年・}か

の交

ー見学 会 イ ンデ ィペ ンデ ンス

ドを交じえて

ケ解説

"し、「八月十几

日のクーデター

の前

と後

は、明ら

に日本

に対する見方

は変わ

った。

今後、指…導者間

の接触

、意兄交換

ひん度を

より

一層多く

する必要があ

る」と結

んだり

賦1.31〔1、1,i己 呂.ゴミト↓

rllfミ 窪奉川 委鬼1亘 委 蛋4

鮭~F桑∫1け δノ\

1,月

(火

).

「イ

〔排

ン、

.、一.一六

)を

.

焦へA12,

ン報

で、

一時

ッジ

(写

Vな

どを

った。

のた

か主

のF

14

.

姿

ット

いた

(1D

1991年11月10日 第261号

囲碁

の会

-,月

の例会は二十六

(土)。レ九

が集ま

って、クラブ宴

で行わ

れま

た。

績.優秀

者は石僑俊彦

六段

、川本

和孝

、大

久保啓一.一の.両四段

でした。

お、

規定により細金

人、田中

信義

の両氏が二段に昇

段されました。

の例会

は十

一月一二十

〔L)午

一時

から。

アマチ

ュア囲碁

の第

一人

者、菊池康郎氏を

いて

の指導

対局

を予定

しています。

●ゴ

フの会●

(KBS京聾

五十

八回ゴルフ会

は、

クラブ創…

立記

のト

一月

一日

(金)、

武蔵丘

ルフ

コースで行

われ、渡

辺圭介会

(K

BS京都)が、

アウト

48、イ

53

の01、

ハンデ

ィキ

ップ

31の70で

1

初優

勝した。

の11は..十

一人

が熱戦を繰り広

たが、未明から

の雨

が続き、

スタ

ト時

は.霧雨

(午後

はL

った)。

半は、吉岡秀

が41、近浪廣

42と飛び出し

が、渡辺氏が前

後半

とも無難

にま

とめ、優勝

の栄冠

かちと

った。

準優

勝は坂井田几

美雄氏

(東電)、

三位

は近浪貞予氏

レー終了後、

お互

いの健闘をた

たえ

て、懇親会

が行

われ

た。

辺圭介会員

の話H日本

記者

クラ

コンペに優勝

でき

て、本当

にう

れし

い。

「生

の思

い出

にした

い。

会員

の著書

(ご恵贈いただきました}

メリカのジ

ャー

ナリズム藤

(岩

波新書

五八〇円)

ドナウ河紀行

-東

・中欧

歴史

と文化

加藤

稚彦

(岩

波新書

五八〇円)

NHK年鑑91

N

H

K放送文化研究

OMAN9ー

マー

ン大使館

糊十

.一卜

・韓國

言論会館常

理事

奇宇卓

・同↓.口論事業部長

團第

(F

P

C

10

・27

-

11

23

)

M

・F

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ッチ

〔ラ

・ナ

ン紙

ンチ

ン)

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・D

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ーー

V

F

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・メ

ル)

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ルナ

ンデ

マキ

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ンサ

・リ

)F

・フ

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ルド

ンジ

ュラ

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(エ

コV

C

・グ

エレス

・タ

(ラ

・プ

ンサ

)

S

・パ

・ロ

(エ

スプ

)

日新聞社から

「ルー

ル美術館特別展」

招待券を

ご恵贈

いただきました。

(12)

憎回企

画委員会〔10

・8

大会議室∀

員交

(読売

・阿部

正氏

から

飯沼…健㍗具氏)を了承

、 剛回

以降

の行

を報

告した後、十月以降

のクラプ

スト

ついて協議した

。終

了後、

ッシ

ュ小委

員会を開き

、対応策

した。

11

の各

口貝。

〔10

・8

2会譲室

)

一月

一H

退

へ答

瀬、大塚

出畑、中村、柴崎

の各委員

撚回会報委

会(P

・9

第2会議室)

一月号

の編

ついて協議し

後、

明年

一月号

『新春随想』を坂

本朝

一会員

〔N

H

K名誉顧問Vに依頼

する

ことに決定

た。

出席

深川委員

。山崎、川.戸、宝

子山

の各委員。

82回施

設運営委員会

(10・31

第2会議室〕

年末

年始

の休

(十二月

.一卜

一月五日)を決

定したほか、

アラス

カおよび貸室

の売

リ上げに

ついて事

務局から報告

した。

出席

宮地、

八木、田中

の各委

員。

1991年11月10日 第261号

111

1991年11月 工0日 第261号

Il

1991年11月10日 第261号

写真 間山 公雅e騨 艶 姦構r戴86年)

刻 一 刻 の 水 位

一刻

て来る

にす

の、

の金縛

にあ

うな

恐怖

の秋

のヒ

つの台

西

がそれ

わさ

れた

のだ

こう

いう写

みる

と、

私と

うし

ても伊

い出

う、

三十

で、

㌦.日本

の素

』と

いう

N

H

K

のドキ

ュメ

ンタリー

リー

が始

って閻もな

であ

りた.

マンと駆

名占

の競

かく

一.卜

のリ

ポー

りもず

っと深

.

った

で撮

を続

なく

動す

がな

った

っそ

にし

よう

と、

ンと水

の中

に並

で動

かず、す

ぐ前

たく

の悲

の姿

った

であ

る、

の人

いて

いるよ

うな

っぱ

のズボ

ンも

った

し、

こんな

いな

でな

べき

ロ水

った

ら、終

った

体中

ふやけ

ひど

い目

にあ

った。

おま

に東

へ帰

った

ふれ

切橋

のわ

アパ

し。妻

被災

にな

って

いた

げに

ど大事

はな

い.

(吉

直哉

V

(15)

1991年11月10日 第261号

二年

「日本記

ラブ

賞」の

候補

ご推

薦く

取材、報道、評論活

動などを通じて、

ジャ

ーナリストとして顕

著な業績をあげ、ジ

ーナリズムの信

用と権威

を高めた個人を、

明年

「目.一.レ

一日ま

でに候補としてご推薦

くださ

い。

「選考基準」は左記

の通

りです。

現役ジ

ャーナリスト個

入に与えられる賞

である。

(現役と

いう

意昧

は現に活動し

いると

いうこと

で、

故人

は対象としな

い)

活動が長期にわたると

いう意昧での

"敬

老賞

"でもなく、目

の当

たらない困難なと

ころで活動して

いると

いう意昧での

"風雪

嘗滑

で・もな

い。

スクープ賞ではなく、

に最近数年間

績が顕著である

こと

が重

視される。

その存在および業績

が、

ジャーナリズム

の活性

化と成熟にイ

ンパクトを与えるよう

個人を顕彰する。

◇会員

およびプ

レス会

員社

に属する方

々が候

補有

資格者

です。

◇推

薦者

は所定

用紙

に記

し、推薦

理由

参考資料を添えて提出

います。

◇詳

細につきましては、

事務局

へお問

いA口わ

せく

ださ

い。

新し

い記念品ー

ペーパ

ーウ

エートを作製

ット

.

スト

いま

・人

バーウ

エート

(写真

)を作製し

した。

この

ペー

パ:ウ

エートは、

直径

六〇ミリ

、厚さ

κ

ミリの銅を

下地とし、表は金

ッキで

"N

KC

のシンポ

マーク、裏には「J

A

PAN

N

AT

1

0

NA」

P

RESS

CL

U

B」の文

が入

います

『と

っておき

の話

お分

けし

現役時代

の取材

・報道上

の思

い出、

エピ

ソード

を随想風

にま

とめていただ

いて

いる

「と

っておき

の話」は

、本

の閲読率の中

でも常

にト

ップ

を占

ています

ころで、

「と

っておき

の話」

が単行本

にな

って

いる

ことを

ご存

じですか

?ク

の創立

記念行事

一環とし

てま

とめたも

ので、

これまで

二巻刊行して

います

また、新

規会員

の中には

『日本

記者

クラ

ー.年

の歩

み』

『ゲストサイ

ン集

』を

お持ち

でな

いら

っし

ゃるようです。

ご希

の方は、事務局

(三

五〇三

-二七二

二)へ

お申し出

ださ

い。

い「会

簿」を

ご確

新し

い会員

名簿を十月末

にお屑け

しました。今

春導入した会員

事務

のオフ

コンに入力されて

いる

データを使

って作成、判を大き

くしました。落「、

乱rがありま

したら、お取

リかえ

いたします。

また、会口員名簿

のデータは会

コ会合

のお

らせ」

のあ

て名ラベルと連動

しております。誤植、

変更等があ

りましたらご連絡

います.

会員現況

入会員

.四几社

基本会員

.二

四八

八A云"貝

一、六丘五入

法入

・個人替八助

会員

七.二社

二三八人

賛助会員

ヒ○入

名誉会員

=二人

二一.社

一.、八

一〇入

(5

日現在v

20

〔水

)午

6

7

40

『ロケ

〔行

童F案

一〇

=一ー=…丘

一ニ

ー...卜】⊥ハ四日〕

会報委員長

・深

・宝

山崎英祐

金林

正義

川.戸恵子

事務局連

"長谷川

河野

〔電話

〇三

-三五〇

-二七二二〕

(16)