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事例5 住友化学 マラリア防除用蚊帳の開発とアフリカへの技術移転 はじめに 蚊が媒介する原虫によって感染するマラリアは、年間100万人の命を奪う 疾患である。被害の90%以上は5歳以下の子供であり、また、地域的にはア フリカに集中している。予防も治療の方法も開発されているにもかかわらず いまだ拡大を続けているマラリアは、エイズと並び国連ミレニアム開発目標 (MDGs)の一つに挙げられている。マラリアの予防には、蚊を防除するこ とが有効であるが、日本を代表する化学メーカーである住友化学が新技術を 駆使して開発したマラリア防除用の蚊帳が、マラリア対策に非常に有効な切 り札として認められ、近年、開発途上国で大量に活用されるようになってき た。さらに同社では、ビジネスとして接点を持った国際機関などとのパート ナーシップを発展させ、社会貢献としてもマラリア関連事業を次々とプログ ラム化してきた。企業の持つ多様なリソースが、人類の感染症との闘いにい かに有効であるかを示す好事例の一つである。 1. 蚊帳の開発に至る経緯 (1)初期の開発 1 住友化学は、石油化学、基礎化学などを主力分野とする総合化学会社であ る。農業化学部門を有し家庭用殺虫剤の原料では世界でトップシェアを誇る 住友化学にとって、マラリアとの関わりは決して新しいことではない。日本 国内にマラリア流行はないものの、同社の殺虫剤は1960年代から開発途上 国のマラリア対策に使用されていた。当時のマラリア対策の主流は、世界保 健機関(WHO)の主導のもとに行われた、殺虫剤のスプレー散布(残留散 『地球規模感染症(パンデミック)と企業の社会的責任 :三大感染症―エイズ・結核・マラリアに立ち向かう 企業』 (2009年、 (財)日本国際交流センター、世界基金支援日本委員会 ISBN: 978-4-88907-130-6) 事例5 住友化学

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事例5 住友化学̶̶̶マラリア防除用蚊帳の開発とアフリカへの技術移転̶̶̶

はじめに

蚊が媒介する原虫によって感染するマラリアは、年間100万人の命を奪う疾患である。被害の90%以上は5歳以下の子供であり、また、地域的にはアフリカに集中している。予防も治療の方法も開発されているにもかかわらずいまだ拡大を続けているマラリアは、エイズと並び国連ミレニアム開発目標(MDGs)の一つに挙げられている。マラリアの予防には、蚊を防除することが有効であるが、日本を代表する化学メーカーである住友化学が新技術を駆使して開発したマラリア防除用の蚊帳が、マラリア対策に非常に有効な切り札として認められ、近年、開発途上国で大量に活用されるようになってきた。さらに同社では、ビジネスとして接点を持った国際機関などとのパートナーシップを発展させ、社会貢献としてもマラリア関連事業を次々とプログラム化してきた。企業の持つ多様なリソースが、人類の感染症との闘いにいかに有効であるかを示す好事例の一つである。

1. 蚊帳の開発に至る経緯

(1)初期の開発1

住友化学は、石油化学、基礎化学などを主力分野とする総合化学会社である。農業化学部門を有し家庭用殺虫剤の原料では世界でトップシェアを誇る住友化学にとって、マラリアとの関わりは決して新しいことではない。日本国内にマラリア流行はないものの、同社の殺虫剤は1960年代から開発途上国のマラリア対策に使用されていた。当時のマラリア対策の主流は、世界保健機関(WHO)の主導のもとに行われた、殺虫剤のスプレー散布(残留散

『地球規模感染症(パンデミック)と企業の社会的責任 :三大感染症―エイズ・結核・マラリアに立ち向かう企業』(2009年、(財)日本国際交流センター、世界基金支援日本委員会 ISBN: 978-4-88907-130-6)事例5 住友化学

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布)であった。居室の壁や天井に殺虫剤を散布することによりマラリアの媒介主である蚊を根絶しようとしたのである。日本の政府開発援助(ODA)の無償援助でも多くの散布が行われ、住友化学の製品も途上国で使われていた。しかしながら、日本をはじめ各ドナー国の支援では、殺虫剤は無償援助の対象となるが、ポンプで散布するために必要な人件費は対象外であった。そのため、散布は必ずしも計画通り実施されず、この方法でのマラリア根絶プログラムは次第に下火になる。同社が再びマラリアとの接点を持つようになるのは1980年代である。

1 9 8 0 年 代 半 ば 、 殺 虫 剤 ( ピ レ ス ロ イ ド 系 薬 剤 ) 処 理 を し た 蚊 帳(insecticide treated net)がマラリア予防に効果がある、とする論文がいくつかの学者グループによって立て続けに発表され、蚊帳はマラリア対策の切り札としてWHOなどの注目を集めるようになった。

マラリアを媒介するハマダラ蚊は、通常夜間に吸血するため、蚊帳の中で眠ることが感染予防の効果的な手段である。何も薬剤処理をしていない蚊帳でも一定の効果はあるが、完全に被われていなかったり、長年の使用で破れていたりすると蚊はその開口部から中に侵入して吸血してしまう。ところが、殺虫剤処理(蚊帳を薬剤に漬け込み殺虫成分を染み込ませること)をした蚊帳の場合は、蚊が蚊帳の中に入ろうとして止まれば、その短時間の間に薬剤に接触し、気絶しまたは死ぬ。また、一定地域の全住戸でこの蚊帳を使うことで、その地域全体の蚊の発生が少なくなるという効果もある。薬剤処理蚊帳を使用した場合は、何も処理がされていない蚊帳に比べてマラリア感染率を約半減することができる、というデータが発表された2。

この重要な研究成果の発表を受けて、住友化学では農業化学品研究所の研究者を中心に、どのような種類の殺虫薬剤であれば蚊帳への漬け込みが適切か検討を始めた。しかしながら、その過程でいくつかの疑問にぶつかった。こうした薬剤処理蚊帳は洗うと殺虫成分が流れ出すため、蚊帳を薬剤に漬けて再度しみこませるという「再処理」の作業が必要である。蚊帳を使う習慣のない現地の人々にとっては、蚊帳を毎日正しく吊ることでさえ大変なのに、

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定期的な再処理は大変面倒で定着しないのではないかという危惧があった。また、そのころ商品化されていた蚊帳は網目が大変細かいため、アフリカでは暑くて蚊帳の中では寝られず歓迎されないのではないかという点も懸念であった。こうした問題意識から、①通気性が良い、②洗濯しても防虫効果が低下せず薬剤の再処理が不要、③長期間にわたり殺虫効果が持続する、の3点を満たす製品開発が進められることになった。

住友化学の農業化学品研究所では1980年代に樹脂(プラスチックなど)に薬剤を練り込む技術を確立していた。放牧時に牛を識別するための耳輪に薬剤を練りこみ吸血性ハエを防除する技術がそれである。また、バブル期になると、多くの日本企業が郊外へ工場を移転し夜間も操業していたため、製品に虫が混入するのを防ぐために工場での防虫資材の需要が高まり、防虫網戸を開発していた。こうした過程で、ネット状に加工するにはどういう樹脂や薬剤が適切か、樹脂の配合や加工の条件と殺虫効果の関係、殺虫成分が樹脂の中で拡散する速度などの基礎データが蓄積されていた。開発チームには、こうした技術を蚊帳に転用すれば、より効果的で使い易い製品ができる、という確信があった。開発にあたった伊藤氏は「総合化学メーカーとして樹脂部門と殺虫剤部門が協力し、2つの異分野の技術を融合できたことが功を奏した」と振り返る。

こうして製品化を進め、1992年には「オリセットネット」の原型が誕生する。薬剤には安全性と防虫効果の点からペルメトリン3という薬剤を使用し、この薬剤を樹脂に練りこんだ繊維を編んで蚊帳に加工した。通常のポリエステル性と異なり、太いポリエチレン性の繊維を使い堅牢なものとした。また、通気性と防虫効果の双方を満たすため、多くの実験を経て網目は4ミリ×4ミリとした。さらに、洗濯により薬剤が繊維の表面から流れ出しても、再び樹脂の中から薬剤が徐々に滲みだす技術を駆使し、最低5年間は殺虫効果が持続する蚊帳が製品化された。アジアやアフリカのマラリアの流行地域で実験使用が始まる。しかしながら、この蚊帳は一気に普及が進んだわけではなかった。

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(2)WHOによる推薦と普及の拡大途上国の感染症対策を主導するWHOでは、冒頭に述べた通り、殺虫剤の

残留散布をマラリア対策の一つの有効な手段としてきたが、1980年代半ばからの殺虫剤浸漬蚊帳の開発に伴い、蚊帳の使用も積極的に推奨するようになった。しかし、1992年には住友化学がオリセットネットを製品化していたものの、その蚊帳に注目が集まることはなかった。国際的にはあまりその存在が知られていなかったこと、また、当時の価格では国際機関にとっても途上国政府にとっても高価すぎたためである。また、WHOの中には、住民に対する保健教育のためには、蚊帳の再処理のために保健所等に人が集まるのを絶好の機会と捉えるむきもあり、あえてオリセットのような手間のかからない蚊帳を敬遠する傾向もあった4。

しかしながら、時が経つにつれ、通常の再処理蚊帳では、再処理の手間が普及の妨げになっていることが統計的に明らかになってきた。再処理蚊帳は3~5回洗濯すると薬剤が流れ出し効果がなくなり、漬け直しが必要となる。識字率の低い地域で、住民が家庭で自発的に再処理するのを期待することはむつかしい。集団で再処理をする機会を設けても、そのために遠い所まで出かけていくのは住民にとっては大きな手間であった。再処理実施率は、全国的な再処理システムが整備されている小国や社会主義国を除いては20%を上回ることはなく、アフリカは特に低く5%以下の状態であった5。

こうした状況を打破するため、WHOは、長期にわたり殺虫効果が持続するオリセットネットに注目するようになる。殺虫剤浸漬蚊帳の中でも、定期的に洗濯をしても効果が長期的に持続する蚊帳を「長期残効型蚊帳(Long Lasting Insecticidal Nets)」と名付け、積極的に使用を推奨するよう方針を転換した。長期残効型蚊帳の使用により、再処理の手間が減少し普及が進むだけでなく、殺虫剤の消費量が減り、洗濯時に薬剤が水に溶けることによる環境への負荷も減るというメリットが見込まれた。それでも従来の再処理蚊帳の使用に慣れた途上国政府は、なかなか新しいタイプの蚊帳を導入しようとはしなかった。WHOのベクター・コントロール専門家ピエール・ギレ氏

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は「WHO、国連児童基金(ユニセフ)や各国政府に、長期残効型蚊帳が従来の再処理蚊帳より優れていることを確信させるのに3~4年はかかった」と回想する。

爆発的な普及が実現したのは、ギレ氏らによる根気強い説得もさることながら、いくつかの背景があった。その一つは、オリセットネットがWHOによる推薦を受けたことである。WHOには殺虫剤の効果を評価するスキーム (WHO Pesticides Evaluation Scheme: WHOPES)がある。住友化学は2000年にこのWHOPESにオリセットネットの評価申請を提出し、翌2001年に長期残効型蚊帳の第1号として認定、WHOの推薦を受けた。第2は2002年に世界エイズ・結核・マラリア対策基金(世界基金)が設立され、その資金が途上国に流入し始めたことである。同基金が途上国の感染症対策に供与する資金は平均すると年間約20億ドルにのぼり、このうち4分の一程度はマラリア関連の治療や予防に充てられている。2003年に途上国政府が注文した蚊帳のうち80%が再処理蚊帳で20%が長期残効型蚊帳であったが、2004年にはこの比率が逆転した。ギレ氏は、この劇的な変化は、世界基金の資金が関係したと分析する。こうして世界中で長期残効型蚊帳の需要が高まり、以後、加速度的に普及が進んだ。供給が追いつかなくなり大幅な増産が必要になるほどであった。

2. アフリカへの技術移転

(1) 海外での増産へ住友化学では、オリセットネットの開発直後より、開発途上国で商品を普

及させるには低価格での製品供給が必要であること、また蚊帳の製造は労働集約工程が多いため労働力の安価な海外での生産が必須と考えていた。当初は国内で少量を生産していたが、やがて中国での生産を開始し、地道な技術指導の結果、1999年には2万張りを生産するまでになっていた。その後、前述の通りWHOの認定を取得して以降は、急速にオリセットネットの需要は拡大した。こうした期待に応えるべく、住友化学は2002年に中国・常州にて

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生産能力を増強し、本格的に蚊帳を供給できる体制を整えた。

(2)タンザニアでの現地生産とオリセット・コンソーシウム一方、WHOの側には、大きな被害をもたらしているアフリカのマラリア

対策にはオリセットのような長期残効型蚊帳が大量に供給されることが必要であり、そのためには、蚊帳の製造技術をアフリカの現地企業に移転させ多くの現地企業が製造に参画すること、ひいてはそのことによってアフリカの経済発展につなげることが重要であるという明確な意図があった。そこでギレ氏は住友化学に対し、オリセットネットの製造技術をアフリカの蚊帳メーカーに無償移転し現地で生産することを提案した。住友化学の側には、こうした期待に応じることに特に異論はなく、アフリカへの無償の技術供与に同意した。オリセットネットは同社のビジネス全体の中ではマーケットが小さいと予想されたため、無償で技術を供与することに大きな反対はなかったのである。

むしろ問題は、同社にはアフリカでの現地生産の経験がなく、パートナーとなる企業をどう選んでよいか見当がつかないことであった。そこで、ギレ氏を中心とするWHOの主導のもと官民7者のパートナーシップによる「オリセット・コンソーシウム」(図1参照)が作られ、オリセットネットの技術移転を支援することになった。コンソーシウムの一員であるアキュメン・ファンドが候補として挙げたのが、タンザニア有数の蚊帳製造会社A to Z社(A to Z Textile Mills)である。同社は、オリセットネットの生産に必要なプラスチック押出しと繊維紡糸の両方の技術と経験を有する唯一の企業であった。オリセット・コンソーシウムは、各自が独自の強みを活かしたパートナーシップを構築し、タンザニアでの大量生産に向けて始動した。その結果、2003年9月にタンザニアのアルーシャにて現地生産を開始、わずか1年後の2004年には30万張りの生産が可能になった。この官民パートナーシップを支えたギレ氏は、成功の要因は「個人」だったと分析する。「もちろん、参加した各組織の支援も大事だったが、このパートナーシップで働いた個人

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がお互いを理解し尊敬していたこと、チームとしての精神と自信があったことが、技術移転のプロセスを動かし、成功に導いたと思う」と述べている6。以下は、このパートナーシップに参加した各組織が果たした役割である。

A to Z社:タンザニアにあるアフリカ最大の蚊帳製造会社。ポリエチレン製品の生産も行う。オリセットネットの現地生産を担う。

住友化学:オリセットネットの開発者として、その製造技術の無償供与、製造のための最適な樹脂成型機・製縫機械の推薦また、殺虫成分を含有した樹脂の供給、現地生産の全体的な品質管理も行う。

アキュメン・ファンド:米国ロックフェラー財団等の資金で設立された公益目的のベンチャー基金。アフリカでの投資先を選定しA to Z社に資金を提供した。初年度は生産設備投資に32.5万ドルを融資、2005年には2回目の資金提供として、設備拡大のみならず流通網の開発のため67.5万ドル(融資40万ドル、助成27.5万ドル)を提供した。

エクソンモービル:米国に本社を置く石油会社。当初の計画では、住友化学が高濃度の殺虫成分を含有した樹脂原料をA to Zへ供給、エクソンモービルはサウジアラビアにある工場からバージン樹脂を供給、A to Z社は両者を混合してオリセットネットを製造することであったが、エクソンモービルのバージン樹脂はオリセットネットの製造に適さないことが判明し、この枠組みは実現していない。一方同社は、蚊帳の調達と配布をすすめるユニセフに25万ドルを寄付し、カメルーンにおける全国的な蚊帳配布プログラムを支援した。

ユニセフ:製造された蚊帳を購入し貧困層に直接配布するのは、主としてユニセフの役割。ユニセフでは積極的に長期残効型蚊帳の普及をはかり、病院や妊産婦クリニックを通じてマラリアのリスクが高い人口層にオリセットネットを配布した。また、タンザニア政府が世界基金からの供与資金で実施するマラリア・プログラムに協力し、タンザニアにおける蚊帳バウチャー制度の確立を進めた。長期残効型蚊帳の調達を確約することで、世界のメー

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カーによる増産を後押しする役割も果たしている。ポピュレーション・サービス・インターナショナル(PSI):人口・保健

問題を専門とする国際的な非政府組織(NGO)。オリセットネットの商業ベースでの普及のため、アフリカの消費者の嗜好にあった製品作りのための調査、小売店等の商業ルートに流通させるための調査、ラジオ番組などを通じたオリセットネット広報などを通して普及を拡大させた。

WHO:パートナーシップ全体をコーディネートする役割。 また、蚊帳の殺虫効果や安全性などについて技術的な助言を行う。

図1 オリセット・コンソーシウム

出典:WHO(2003)和訳筆者

WHO

技術的助言

アキュメン・ファンド

プロジェクト管理と融資・助成

住友化学

技術・殺虫成分

エクソン モービル

樹脂

A to Z

製造・流通

アキュメン・ファンドおよび

MSHビジネス・プラ

小売市場

ユニセフ蚊帳調達と購入のための資金補助

PSI

マーケティング

さらなる資本調達によって、蚊帳製造拡大を支援し、また他の起業家の蚊帳製造を支援することによって競争

的な環境の醸成

アフリカの人々

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(3)現地生産のインパクト生産開始から数年の間に、A to Z社では年間400万張りを生産できるまでに

生産能力が拡大した。住友化学ではさらなる需要の拡大に対応するためA to Z社とのジョイントベンチャーでオリセットネット製造会社ベクターヘルス社(Vector Health International)を設立し、2007年2月にはアルーシャの新工場で生産が開始された。2008年12月現在、2社合計のタンザニアでの生産能力は年間1900万張りにまで拡大されている。

オリセットネットを使用している村では、マラリアの感染率が目に見えて減少する等のデータが報告され始めている。ケニアのある村では、オリセットネット配布の2年後に住民の血液検査をした結果、マラリア原虫保有者は50.1%から10.8%に減少したことが報告されるなど、具体的な成果が見えるようになってきた7。

また、間接的な経済効果としては、オリセットネットの製造を始めたことでA to Z社全体の生産効率が向上し、アフリカ大陸で最も生産性が高い企業の一つと認められるようになったことが挙げられる8。また、タンザニアで約4000人を比較的高い給料で雇用し地元の経済に寄与していること、治療費出費を回避していることなども成果として挙げられる。

一方、生産コストについては、当初の期待とは異なり、現状では、必ずしもアフリカでの現地生産がコストダウンに繋がっているわけではない。材料調達の輸送インフラが完備されていないこと、中国やベトナムと比較すると従業員の熟練度が必ずしも高くなく全体として人件費削減につながっていないため、と分析される9。企業がアフリカでの現地生産を進めやすいよう、さらなる促進策を検討する必要がある。

3. ビジネスから社会投資へ

(1)トップ・リーダーシップによる増産の決断アフリカ現地生産に限らず、住友化学全体におけるオリセットネットの生

産は急速に拡大している。1999年にはわずか2万張りだった生産量は、2002

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年に中国・常州、2003年にタンザニア・アルーシャ(A to Z社)に次々と工場を新設し増産をはかったことにより、2005年に合計500万張りとなった。さらにその後も、中国・大連、ベトナム・ホーチミン、タンザニア・アルーシャの新工場(ベクターヘルス社)と拡大し、2008年12月には合計で3800万張りに達した。加えてナイジェリアで、最大2000万張りの生産能力を有する新工場の建設も計画中である。また、オリセットネットを核に、殺虫スプレーやボウフラ防除剤など他製品も含め総合的なマラリア防除システムの提供を進めている。

もともと、オリセットネットの開発を始めた当初は、同社としてもこのような大々的なビジネス展開は予想していなかった。殺虫剤原料メーカーとしてマラリア対策用の資材の開発に努力を続けてはいたが、当初は社内で特に注目されていたわけではなかった。長年開発にあたってきた伊藤氏は、社内で注目され始めた転換点は2003から2004年だったと振り返る。同社は、2003年9月に東京で開催された第3回アフリカ開発会議の前夜祭に、ユニセフと共同でオリセットネットの展示を行い、またアフリカへの無償供与について共同発表を行った。これが、本格的にメディアに取り上げられた最初の記事となった。翌2004年11月には、A to Z工場の起工式がタンザニア大統領の出席のもとに現地で行われ、これが官民連携の好事例として各種メディアに大々的に取り上げられたことで経営陣や他部門のよく知るところとなった。以降、国際的なマラリア・キャンペーンの追い風を受けて社内での認知度が拡大していった。

2005年の1月に開催された世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)に招待を受けた同社の米倉弘昌社長(当時)は、ジェフリー・サックス・コロンビア大学教授や、リチャード・フィーチャム世界エイズ・結核・マラリア対策基金事務局長と記者会見に臨み、蚊帳の開発やタンザニアでの現地生産について紹介し、高い評価を受けた。米倉社長自身が「マラリア撲滅をめざす国連などからの強い要請で、表舞台に引っ張りだされた感じもある」10

と述べているように、WHOやユニセフなど国際機関からのハイレベルな協

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力要請が直接届いたことが、経営トップによる増産の決断を促したと言えるだろう。また、国際機関による製品の需要予測が具体的・明確であったこと(ユニセフは当初、当面必要な数として2000万張りの需要を予測した)もその一助となっている。

(2)フィランソロピーへの拡大住友化学では、2000年代前半からの業績好調や、企業の社会的責任

(CSR)の議論の高まりを受けて、2005年以降、防虫蚊帳という本業を通じてのマラリア対策貢献だけでなく、この分野でのフィランソロピー(社会貢献)にも踏み出した。

2005年では、まず3月、国連財団からの要請により、マラリア防圧をよびかけるコンサート「アフリカライブ2005 ロールバックマラリアコンサート」に4400万円を寄付し主要スポンサーとなった。コンサートの模様はアフリカ各国や欧州に放映され、4億5000万人が視聴するという効果を生みだした。8月と12月にはオリセットネットから得た利益の還元として、計3000万円をアフリカの教育支援に役立てる目的で、NGOワールドビジョン・ジャパンに寄付し、同団体との連携でアフリカにおける小学校建設に着手した。

2006年には、同社のフィランソロピーはさらに拡大する。3月には、コロンビア大学のアース・インスティテュートが運営する「ミレニアム・ビレッジ」プロジェクトにオリセットネットの寄付を決定した。このプロジェクトは、国連ミレニアム開発目標の一つである極度の貧困をなくすため、アフリカで貧困が特に深刻な村をモデル地区に、農業技術、食糧、教育、医療支援を行うものである。住友化学は、モデル村を徹底的にマラリアフリーにするため、33万張り(約1.5億円相当)のオリセットネットを無償で提供した。これにより、人口約5000人の100村に蚊帳が配布され、約50万人をマラリアの脅威から守ることができるようになった。

2007年以降も引き続き、ロールバック・マラリア・パートナーシップ、ユニセフ、国際NGOであるMalaria No Moreなどの関係機関とのグローバルな

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協力で、アフリカを中心に蚊帳の寄付や資金・物品寄付を行っている。こうした一連の開発努力と社会貢献が認められ、国内外でその貢献を称

えられることも増えてきた。2005年6月には、オリセットネットが米タイム誌の“Coolest Inventions of 2004”(2004年の最も素晴しい発明)に選ばれた。また2006年9月には朝日企業市民賞(朝日新聞社主催)、11月には“The Tech Museum Awards”(米サンノゼ・Tech イノベーション博物館主催)の健康分野最優秀賞を受賞するなど、国内外で注目が集まっている。

住友化学はもともと、四国の別子銅山において、銅の精錬の際に生じる排出ガスの中から煙害の原因となる亜硫酸ガスを取り除き肥料を製造することを目的として発足した。発祥の段階から、事業による利益の拡大だけではなく社会への貢献を目的としてきた企業である。ビジネスとしての蚊帳の開発から発展させたマラリア対策への多様な貢献は、期せずして同社の理念を体現するものとなった。住友化学の技術開発が生み出した使いやすい製品によって蚊帳の普及が進んだことは、国際保健分野では広く知られる事実である。また、近年の国際マラリア・キャンペーンへの積極的な参画も、数少ない日本の貢献として国際的に知られるようになってきた。技術陣による日々の開発努力と、マラリアというグローバルイシューの国際的な潮流に呼応した経営トップの判断がうまくかみ合ってプログラムが発展した事例であると考えられる。MDGsの目標に具体的にフォーカスしている数少ない日本企業として、また技術力を活かし他の日本企業とはスケールの違うインパクトを生み出し人命を救っているという点で、日本の国際貢献のシンボルの一つと言ってよいだろう。

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1 本節は、住友化学でオリセットネット開発にあたった伊藤高明氏へのインタビューに基づく。

2 World Health Organization (WHO) (2006), p.7.

3 ペルメトリンは、欧米や日本で蚊をはじめとする生活害虫に広く使われており、米国では頭シラミの駆除にも使われる安全な薬剤である。住友化学ベクターコントロール事業部によれば、同社は、WHOが定める殺虫剤処理蚊帳の安全性リスク評価の指針A Generic Risk Assessment Model for Insecticide Treatment and Subsequent Use of Mosquito Nets (2004年)に基づき、オリセット・ネット使用時の皮膚や経口摂取、揮散などによるペルメトリン摂取量を求め、安全性・毒性との比較から、オリセットネット使用者に対する安全性を確認している。

4 伊藤氏へのインタビュー。

5 Guillet et al. (2001), p. 998.

6 Guillet氏へのインタビュー。

7 Wariero et al. (2008)に基づく。ミレニアム・ビレッジの一つであるケニア・サウリ村での調査結果。2005年の配布開始前には22%の世帯しか蚊帳を所有していなかったのに対し、 2007年には87.8%の世帯がオリセットネットを吊るすようになっており、その9割近くが毎日使用するようになった。ただし、マラリア原虫保有者の減少は、蚊帳の配布だけでなく、マラリア治療薬(ACT)の配布やスプレー散布なども含めた総合的なマラリア対策の結果である。

8 Acumen Fund (2005).

9 住友化学和田英男氏へのインタビュー。

10 『国際開発ジャーナル』(2005年)12~13頁。

参考文献

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Global Health Initiative. 2006. “Public-Private Partnership Case Example: Building a Public-Private Partnership to Transfer the Technology of a Life-Saving Malaria Prevention Tool in Africa.” Geneva: World Economic Forum.

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Guillet, Pierre et al. 2001. “Long-Lasting Treated Mosquito Nets: A Breakthrough in Malaria Prevention.” Bulletin of the World Health Organization 79(10).

Wariero, James O. et al. 2008. “Bednet Use in the Sauri Millennium Villages.” Powerpoint presentation at the annual meeting of the Alliance for Malaria Prevention, Geneva, October 6.

World Health Organization (WHO). 2001. “Report of the Fifth WHOPES Working Group Meeting: Review of Olyset Net, Bifenthrin 10% WP.” Geneva: WHO.

———. 2003. “Transfer of Olyset Technology for Scaling up Production of Long-Lasting Insecticidal Nets (LLINs) in Africa.” WHO internal document.

———. 2006. “Malaria Vector Control and Personal Protection: Report of a WHO Study Group.” WHO technical report series 936. Geneva: WHO.

伊藤高明、奥野武「マラリア防除用資材オリセットネットの開発」『住友化学2006-II』住友化学、2006年

『国際開発ジャーナル』584号、2005年

住友化学CSRレポート各年度、その他資料

インタビュー

Pierre Guillet (Vector Control & Prevention, Global Malaria Programme, WHO)

伊藤高明(住友化学生活環境事業部海外マーケティング部)

黒田浩(住友化学生活環境事業部海外マーケティング部課長)

坂井克行(住友化学総務部部長補佐)

鈴木美音(住友化学コーポレートコミュニケーション部)

和田英男(住友化学農業化学業務室企画チームリーダー)

インタビュー日時 2006年11月22日、12月12日、2007年1月5日(敬称略、所属・役職はインタビュー当時のもの)