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xdomainyutakayasui.html.xdomain.jp › shoin › enma2.docx · Web viewそれは福音書の記事から、『旧約聖書』で語られていることや、エジプト神話からのパクリと思われることなどを取り除けば、それしかなくなるというもので、まさしくイエスが宗教家として生きたことを否定するような扱いになっています。

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閻魔裁判《聖徳太子の封印》

10、「須佐之男命」とは何か?

六世の孫が娘の婿になる、浮かび上がるは二人の須佐之男

鬼検事:神話を歴史知で捉えて歴史物語に組み込み、それを古代史の知識の重要な構成要素だということにすると、元々神話は構想されたものにすぎないので、いろんなアイデアが集められると、歴史としては辻褄が合わなくなります。

 例えば須佐之男命などは出雲の建国神ですが、彼の六世の孫が大穴牟遅命すなわち大国主命なのに、大穴牟遅命は須佐之男命の娘の須世理姫命と結婚しています。ですから神話は神話でよく、歴史とは区别すべきでしょう。

やすい:饒速日神は天照大神の孫の筈なのに、天照大神の孫である邇邇芸命の曾孫である磐余彦大王(神武天皇)に降伏して臣属しています。年齢的にそんなことはあり得ないのですが、よく読めば事情が浮かんできます。

 『先代旧事本紀』によると、饒速日神の息子の宇摩志麻治命(味間見命)を妻の御炊屋姫が身籠っていました。そして生まれる前に饒速日神は亡くなっているのです。ですから宇摩志麻治命が後に饒速日神を名乗ったと考えられます。

閻魔:そう言えば、大国主命になる八千矛神が侵攻した時に初代の饒速日神は斃されたという解釈で、宇摩志麻治命は大国主命を奇襲作戦で倒した武御雷神たちの侵略軍を、父の仇である大国主命支持派を糾合して撃退して、饒速日王国を再建したということだったな。恐らくそれから半世紀以上は経っているから、磐余彦大王に臣属したのは四世か五世の饒速日神だということになるわけだ。

山本耕一「そうなんですよ、川崎さん」

やすい:そうなんですよ、閻魔様、だから大穴牟遅命の祖先の須佐之男命と、須世理姫の父親である三貴神の須佐之男命とは別人であるみなすべきでしょう。

鬼検事:それなら三貴神の須佐之男命は出雲国の建国神ではなくなってしまいませんか?

翡翠とカワセミのブローチ

やすい:厳密に言えばね、初代須佐之男命は百年ほど前に出雲国を統一して国家を作ったのですが、恐らく高志(こし)の勢力に侵略されてしまったのでしょう。それで出雲のトーテムである蛇を使って出雲国を支配したようですね。それで高志を追い出すことが八岐之大蛇退治ということになるのです。

閻魔: 高志は翡翠が出るので、高志のトーテム動物は翡翠と書いてカワセミと読む鳥だ。それで高志の勢力はどうして蛇を操れたのだ。

やすい:それは謎ですが、巨大な蛇を操るのを見て、蛇と同族意識を持つ出雲の人々は敵わないと思ったのかもしれませんね。ともかく若者や娘を徴発されるので、出雲は衰えるばかりでしたので、三貴神の須佐之男命は高志の連中を酒で酔いつぶれさせて、寝込みを襲って撃退したのでしょう。

これは後のヤマトタケルの熊襲タケルを倒したのと似たやり方です。それで出雲国を再建したのです。どうして建国者の須佐之男命と同じ名前を名乗ったかは、想像するしかありませんが、恐らく、高志に侵略されたのは須佐之男命が亡くなって跡目争いで弱体化してからだったので、須佐之男命が再来して出雲を救うという伝承があったのかもしれませんね。あるいは初代の須佐之男命の死体は隠されて、いなくなっただけのように言われていたのかもしれません。

鬼検事:それならそういう伝承はどうしてなくなったのですか、ただ亡者やすいはつじつま合わせをしているだけです。

やすい:元の伝承は物語としてまとまった構成だったはずです。不自然な箇所、飛ばされているようなところについては、辻褄が合うようにすべきだし、改変と思しき箇所は、矛盾のない形に戻しておくことは大切です。三貴神の須佐之男命は高志勢力と戦う際にそういう伝承に基づいて須佐之男命を名乗ったのかもしれませんね。

閻魔:一世紀前に出雲国があったかどうか今となっては実証は難しいだろう。その建国者が須佐之男命だったかも、「六世の孫」からの類推に過ぎない。三貴神の須佐之男命にしても、須佐之男命という人物がやってきて、高志勢力を撃退したというよりも、嵐が須佐之男命の実体なのだから、建国にあたっても、侵略者の放逐にあたっても激しい戦乱の末だったということを物語にしたのが須佐之男命伝説だということではないのか?

それから三貴神がそれぞれの倭国を作ったというのも実は逆で、太陽神信仰の国、月や星信仰の国、大地や嵐を信仰する国があって、その三国は倭人が作った国だったので、仲良く助けあって行くために祖先神が兄弟だったことにしたのではないのか。  亡者やすいの表現では歴史物語も含めた歴史ということになるが、やはり物語から史実として確認できた部分だけで歴史として展開すべきではないのか?

やすい:そこはじっくり考え直さなければならないところですが、歴史物語と歴史を厳密に区別するとそうなのですが、文字史料が殆ど無い七世紀まではその境界はファジーにならざるを得ません。現人神の役割というのが、人間が歴史世界に足を踏み入れる第一歩だと思われます。つまり自然神と自己を同一視した人物がオカルト的な儀礼を習得して、地縁的な共同体から心服された時に国家ができたと思われます。ですから歴史になるためには個人の現人神化が前提ですから、現人神の兄弟がいて海下りして倭人三国を形成したことも歴史の出発点に置く必要があるのです。

鬼検事:しかしそれでは未開社会におけるシャーマンの支配や族長の支配との区别がはっきりしないのでは?

やすい:三貴神とも大八洲の人々との水運を介して交易をした上で、大陸の農耕土木や水運・水産、武器など金属器の技術をもたらしています。その文化的優位性の象徴として剣・鏡・玉などの器物を使った現人神信仰で、王権を形成しています。 それに未開社会のように同族だけでなく、天つ神と国つ神の接触がきっかけになって、その衝突と融合のプロセスを経て王権が形成されているところなど区别できます。

壱岐の月讀神社

閻魔:しかし例えば筑紫が月讀命の「夜の食国」だと言っても、ほとんど月讀命を祀った神社はのこっていないし、むしろ国名に日のつくところが多いから「日の食国」とも言えるわけで、それを「つく」という音の共通性で強引にいくのは説得力が欠けるよ。

やすい:それは差し替えたものの差し替えがなかったことにしたので、痕跡が消された結果として説明がつきます。また三貴神が古層なのだから、三倭国が三貴神の特性のある形で統治されたという伝承があったことは確かです。それに場所も須佐之男命出雲国は動かせないので、饒速日王国という太陽神の国が河内・大和も堅いですから、月讀命が筑紫というのも極めて蓋然性が高いと言えます。そういう歴史についての了解は科学知とまでは言えなくても、歴史知として弁えておけば、宇気比の差し替えにも気づけますし、従って七世紀の主神・皇祖神の差し替えの発見にも繋がるので、歴史学的に極めて重要な知だということができるのです。

鬼検事:大国主命の民間説話の中にも、八岐之大蛇退治の話があったりして、神話段階なので、須佐之男命と大国主命の区别も明確ではなかったりします。後に倭建命(ヤマトタケルノミコト)が天叢雲剣を受け継ぎ、須佐之男命の現人神のようにも解釈できますね。そうなると須佐之男命を歴史上の人物として捉えるのは無理があるということでしょう。

やすい:須佐之男命は自然現象である嵐が実体です。嵐や地震や津波など荒れ狂う自然を須佐之男命として信仰しているのです。須佐之男命と嵐とは別で、須佐之男命が嵐を起こしたり、嵐に須佐之男命が宿っているのではありません。嵐がそれ自体で須佐之男命なのです。しかし自然現象であるだけなら、国を建てたりできません。やはり現人神の須佐之男命が必要なのです。自分自身を嵐と同一視する人間つまり須佐之男命の現人神です。

現人神としての須佐之男命が現われて、櫛名田姫を守るために八岐之大蛇を退治して、その威力を認められ出雲国が建ち上がったのです。

須佐之男命は自然神としては嵐それ自体ですから、嵐を巻き起こす性格の人物は自分を須佐之男命と同一視します。また周囲の人々や、彼に侵攻された人々は須佐之男命の再来とみなすのです。だから八千矛神も須佐之男命の再来であるという受け止め方をされ、両者の説話が混同されるようになります。時代が下れば倭建命も天叢雲剣を持って須佐之男命の再来となります。

閻魔:だんだん亡者やすいの考え違いというのが分かってきたぞ。現人神による国家形成という発想に立つことで、神話を歴史に取り込んでしまったので、歴史時代に入っても、神話的要素が歴史に大きな役割を占める。

結局大国主の大国形成も国譲りも、神武東征も、景行天皇の熊襲征伐も、ヤマトタケルの大活躍も、神功皇后の新羅侵攻も逆になんでもありになってしまう。つまり歴史文学が歴史だということで、七世紀までの歴史を学問から文学にしてしまっておる。

だから物語として語られても、その中から何が歴史として学問的に残るのかというと、何も残らないのではないか、結局確たる証拠もなしに、聖徳太子を大罪人に仕立てあげているだけなのだ。

やすい:閻魔様、それはあまり清算主義的な批評ですね。物事も議論も弁証法的に捉えてください。先ず共通認識として、七世紀までの歴史は文字史料がほとんどないので、実証的に史実として確定できるものは極めて少ないわけです。その上で考古学的な裏付けがはっきりしないものは歴史に含めないことにすれば、歴史伝承はほとんど「歴史の消しゴム」で消えてしまいます。

ところが前方後円墳や三角縁神獣鏡などの分布、箸墓古墳の年代測定などで考古学者のほとんどが邪馬台国大和説で決まりみたいにいうわけです。これが科学的な実証のつもりなのです。

それでは箸墓伝説はどうなるのでしょう?百々襲姫は祟り神の御杖代、神の花嫁でしょう。それがどうして倭国の大王を兼ねるのですか?全く伝承との折り合いはついていないわけですね。それで応神天皇と卑弥呼を同一視したり、弟と姉にしてみたり、却って好き勝手に物語を改作して辻褄を合わせようとするわけです。物語を考古学的史料で修正しているつもりかもしれませんが、女王だった人を祟り神の御杖代に仕立て直すなんてことがどうしてあり得るのでしょう?説得力のある説明が必要ですね。

それに、記紀を読めば、神武東征以来、四世紀半ばの大帯彦大王(景行天皇)の筑紫遠征までは全く統一の動きはありません。神武東征が西日本統一だという立場で記紀は書かれていますから、それはある意味当然です。しかし、神武の家系は一夜妻に出来た子の孫というつながりです、認知されたとしても、せいぜい地方豪族です。山で狩猟、海で漁労に携わっていて、宮にいて王家を引き継いでいたようには伝承されていないわけです。

鬼検事:それは天津神が国津神と融合して来たことを示す説話を東アジア各地の伝承の型にはめたもので歴史のプロセスを反映しているとみるべきではないと思われます。

やすい:もちろんそういう面があるにしても、記紀の目的は奈良時代の朝廷が高天原の主神である天照大神の直系であるということで大義名分を押し出しています。ですから磐余彦系図もその主旨から言いますと、邇邇芸命の王統を引き継いで、代々大王として君臨し、統治してきた歴史を書くはずですが、一切そういう記事がないのです。一夜妻の子供たちがたとえ認知されても、王子として宮で暮らしてきた様子などありません。

閻魔:だから神話に囚われることはないというのじゃ。山や海の国津神との交流の中で天津神の御子が土着の民の血とエネルギーを引き継いでたくましくなり、その勢いで東征に乗り出したと神話の構成を解釈すれば良いのだ。

やすい:では次は神武東征が筑紫倭国あげてかどうかを議論しましょう。その前に須佐之男命の捉え方に結着をつけておかなくては。

大八洲における倭国形成史を天照大神の直系の歴史に統合してしまったのが七世紀の神道大改革なのですが、元々は三貴神の三倭国形成の話が古層にあって、その興亡が口誦伝承の内容だったと考えられますね。

鬼検事:それはいろんな倭国形成の流れが考えられるから、その一つのパターンとして三倭国形成、興亡、統合という説話もあったでしょう。それは説話のパターンの一つで、どの説話のパターンが歴史と一番対応しているかは、考古学的史料と付き合わせてみなければならないのです。亡者やすいは、三貴神の三倭国形成をあたかも実証済みの史実であるかにおいて、その上で宇気比での物実の矛盾を唯一の突破口にして、月讀命と天照大神の差し替えを指摘し、天照大神が皇祖神であることを否定し、歴史の大改変を実証したつもりなのです。

やすい:それはやはり高天原ー海原ー大八洲の位置関係をどう見るかですね。これを半島ー対馬・壱岐ー大八洲に置いてみるのです。海原の神は「底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命三柱神者、墨江之三前大神也。」とありますので、対馬・壱岐に当たります。

閻魔:それも亡者やすいの妄想ではないのか?

やすい:息長帯媛の新羅侵攻の際に参戦を求めに来たわけで、海戦を指揮して大勝利をもたらしたわけですから、海原は日本海であり、住吉三神は壱岐・対馬の頭領にあたるのです。それに「海」と「天」を倭人は「あま・あめ」と呼んで同一視していたのです。だから高天原は高海原であり、大八洲からみて海原の向うということになり、半島の南端部にあたります。

対馬の阿麻氐留(あまてる)神社

鬼検事:それで先ず倭人は中国の沿海地方にいた海洋民だったとし、戦国末・秦の戦乱を避けて半島に避難し、そこを本拠に、対馬・壱岐に橋頭堡を築き、大八洲に進出したという図式が、亡者やすいの議論の出発点です。それなりに筋は通っているものの、やはり一仮説に過ぎません。

やすい:そんな、酷い、鬼検事さん、何か私に怨みでもあるのですか?壱岐の月讀神社は日本の神社で最も古いと言われています。そこから京都の松尾大社の摂社になっている月讀神社は分霊されています。対馬には阿麻氐留神社があります。その御祭神は天日神命と呼ばれ、饒速日命の天上での妃である天道日女の父にあたるとされているようです。別名は天照御魂神という男神です。これらは天照大神を後に女神にしてしまったので、いろいろ説明しているだけで、元々天照大神は対馬出身だったということでしょう。このように元々の口誦伝承では、海原から三貴神が渡海して大八洲にやってきたということです。

もちろん須佐之男命も記紀では海原で泣きいさちってばかりで、神逐ひされ筑紫に来て月讀命と宇気比で聖婚し、そこでもトラブって、出雲へ行って、八岐之大蛇を退治して、国を建てたわけですから、肇国譚として歴史の出発点にあるわけで、説話としてであれ、三貴神の三倭国形成に触れて置く必要が歴史知的にはあるわけです。

  11.磐余彦(神武天皇)東征の意義付け

日の神の嫡流なれば大八洲知ろしめすべし大義ならずや

閻魔大王:ではいよいよ磐余彦(神武天皇)の東征の吟味じゃ。亡者やすいゆたかは、神武天皇は歴史上実在し、東征したとしておる。その際に筑紫倭国全体が東征したのではなく、磐余彦一族の東征だったという立場じゃな。

鬼検事:神武天皇は紀元前六六〇年に即位されたことになっていますが、これは辛酉革命説にもとづいて逆算されたもので、今日だれも信用しておりません。

亡者やすいは御間城入彦大王(崇神天皇)を四世紀初めと置いていまして、これが十代なので、遡れば西暦二世紀の初めではないかと考えているようです。

ただし記紀にほとんど記述のない第二代から第九代までは神武紀元を古くするためにデッチ上げた「欠史八代」の架空の大王だとみられます。それに神武天皇も崇神天皇もハツクニシラススメラミコトと呼ばれていて実は同一人物ではないかという説が有力です。しかし亡者やすいは両者を区别して神武実在説に固執しております。

やすい:鬼検事、ご説明ありがとうございます。欠史八代が時代を古くするための架空の可能性もありますが、それは断定出来ないと思います。だって古い伝承は残らないので、初代の東征という画期的な記事は口誦伝承では重点的に語られたのでよく伝わったわけですが、平凡な二代~九代は時代とともに消え去ったという可能性も大であろうということです。

神武天皇は「始馭天下之天皇」で、崇神天皇は「御肇国天皇」と使い分けられています。漢字が歴史の記述に使用されたのは七世紀からですから、発音が一緒なら 意味も一緒だろうと思われそうですが、それなら漢字にするときに使い分ける必要もありません。神武天皇は饒速日王国を倒した東征王であり、大和政権を樹立したわけですが、崇神天皇は即位されて12年にやっと祟りも収まり、平穏に治められるようになったということで、はじめて国を治められたという意味で、 「御肇国天皇」と呼ばれたのです。

十二年の春の三月の丁丑の朔にして丁亥に、詔したまはく、「朕、初めて天位を承け、宗廟を保つこと獲たれども、明も蔽る所有り、徳も綏みすること能はず。是を以ちて陰陽謬り錯ひ、寒暑序を矢ひ、疫病多に起り、百姓災を蒙る。然るを今し罪を解へ過を改め、敦く神祇を禮ふ。亦教を垂れて荒俗を緩みし、兵を擧げて不服を討つ。是を以ちて官に廢事無く、下に逸民無し。教化流行はれ、衆庶業を樂しぶ。異俗も譯を重ねて來り、海外既に歸化す。此の時に當り、更に人民を校へ、長幼の次第と課役の先後とを知らすべし。」とのりたまふ。 秋九月の甲辰の朔にして己丑に、始めて人民を校へて、更調役を科す。此を男の弭調、女の手末調と謂ふ。是を以ちて天神地祇、共に和享ひて、風雨に順ひ、百穀用ちて成り、家給り人足り、天下大きに平なり。故、稱へて謂はく、御肇國天皇と。

両者は歴史内容が全く違いますから呼ばれた音が同じだということで、同一とみなすのは根拠が薄弱すぎます。

鬼検事:亡者やすいは、磐余彦大王が邇邇芸命の一夜妻の孫というところに拘り、認知はされても王子として王宮で育ったわけではない、せいぜい地方豪族に過ぎなかったとして、東征は磐余彦の一族によるもので、筑紫倭国全体が東遷したわけではないことを強調しております。その結果、四世紀半ばの大帯彦大王(景行天皇)の熊襲征伐までは西日本は統一していなかったと結論づけました。結局、三世紀半ばに亡くなった邪馬台国の女王卑弥呼の邪馬台国の所在地は筑紫だったとしています。

やすい:ええ、先ず実在説を唱えるのは、もちろん科学的に神武天皇の実在を実証できることを主張しているわけではありません。しかし歴史には前後関係がありますから、饒速日王国を味間見(宇摩志麻治)命は再建したのですが、その際に大国主命支持勢力を糾合して、高天原・海原・筑紫倭国の連合奇襲軍を撃退したわけです。武御雷神ら奇襲軍にすれば、饒速日一世を斃した大国主命に対して敵討ちをしてやったわけですから、恩を仇で返されたのです。それで饒速日王国に対していつか懲罰を加えなければと高天原や海原、筑紫倭国の一部の連中は考えていたわけです。

閻魔:なるほど、それで饒速日王国を討つ大義名分があったというわけだな。ところが記紀では、天照大神の直系が大八洲を支配すべきだという高天原の決定だけが大義名分になっているのは何故なのだ。

鬼検事:亡者やすいの言い分はこうです。宇気比で天照大神と月讀命は七世紀に差し替えられたのですから、邇邇芸命もその曾孫である磐余彦大王も元々の伝承では天照大神が祖先神ではなかったのです。ですから天照大神の直系が大八洲を支配すべきだというような高天原の決定など七世紀の改作だというのです。ということは、磐余彦大王は恩を仇で返された奇襲軍の仕返しを大義名分にしていたということです。

やすい:ええ、饒速日王国を討って、畿内に王権を樹立するように勧めたのは塩椎神です。彼は瀬戸内の海運を仕切っていたようですから、おそらく海原倭国の有力者が磐余彦たちをそそのかしたのでしょう。「筑紫にくすぶっていても一夜妻の子の孫では大王には成れない、難波に行って、饒速日王国を打倒すれば、そこに自分たちの王権を樹立できる。海原も高天原も支援してくれるからやってみたら」ということでしょう。

閻魔:亡者やすい説でいけば、饒速日王国を建てたのは、実は天照大神自身だった、饒速日一世はその孫だったわけで、磐余彦大王は何と、天照大神が祖先神の国に侵攻したわけだな。高天原の決定というのは全く逆さまだったというのだな。

やすい:そうなんですよ、川崎さん、じゃなかった閻魔様。あまり逆さまなものだから『千四百年の封印 聖徳太子の謎に迫る』を読んだ哲学者に「こりゃ面白いけれど、学問的にどうだと論評するのは無理だ」と言われちゃいました。

閻魔と鬼検事は腹を抱えて笑った。

閻魔:そりゃあ、そうだろう。まさか神武天皇が天照大神の建国した国を侵略したなんて、全くあり得ない発想だからな、ワ、ハ、ハ、ハ。疑うのが本領の哲学者でなくても、信じられないだろう。

やすい:でしょう。だから私は、何も学問的に賛成できるかどうかを論じて欲しいのではなく、何故、面白く感じたのか、そういうとんでもない発想が出てきた根拠にはそれなりの説得力があるのかなどを論じて欲しいわけです。

鬼検事:論拠として、次の六つをあげておきましょう。

①『隋書』「俀国伝」の西暦六〇〇年の遣隋使の記事で未明の祭祀、②宮中で太陽神を祭祀したのは崇神紀の記事だけで、それも祟り神としてと解釈できること、③御杖代がついていたので男神で、しかも祟り神ではないかと思われること。④そして三貴神は「御寓の珍子」と呼ばれた建国神で、高天原ではなく大八洲を支配すべきと考えられていたこと、⑤三貴神の誕生に際して、天照大神にだけしかも勾玉を授けたのは不自然であること、⑥三貴神の物実は天照大神ー鏡、月讀命ー勾玉、須佐之男命ー剣が相応しいのに、宇気比では天照大神の物実は鏡でなく物実だったこと。

 これらの積み重ねの上で、立論しており、それなりの根拠が示されているわけです。それだけに六〇〇年から六〇七年の二つの遣隋使の間に主神・皇祖神の差し替えがあったのではないかと思わせる議論になっています。だからこそ聖徳太子を罪に陥れる危険性も大きいから、亡者やすいの罪も大きいかと存じますが。

閻魔:なんと鬼検事は亡者やすいの議論は的を得ているようにみえるから余計に罪が重いというのか?では亡者やすいの議論が的を得ているように見えるだけでなく、本当にそうだったと実証できたらどうだ、聖徳太子の大罪を暴いた功績によって、今度は罪がないどころか大英雄に成れるのか。

鬼検事:七世紀初めのことゆえ、ほとんど物証などありませんから、土台実証はできっこありません。それ故、実証しきれないことに余計な知恵を絞って、聖者に対して要らざる疑惑を生じしめることになります。それ故、亡者やすいの研究は弾劾されるべきものかと存じますが。

やすい:歴史の真実を見極め、そこから人間としていかに生きるべきかを学び、過ちの原因を明確にするのが歴史学です。歴史研究者が良心に従って研究することは閻魔裁判では罪深いことだということになるのですね。

鬼検事:誤解してもらっては困るが、歴史研究者としての良心に従っていれば、歴史研究者としての罪はないけれど、その研究がもたらす結果や影響について無責任ではいられない。聖徳太子が大罪を犯したことが明らかになったことによって、その罪を今度は亡者やすい及び亡者やすいの説を納得した人々が贖っていかなければならないことになる。

閻魔:原発を作れば、いつかは無限に近い電力が供給できるという話だが、それだけに事故によるリスクが大きくなる。その結果は原発を開発し、容認し、使用し続けている限り、すべての人が背負わなければならないということじゃ。

やすい:確かにそうですね。千四百年の封印が解かれた以上、この国のあり方を一から問い直し、人間としての生き方を原理的に問い直さなければなりません。その苦悩を背負っていくことになります。しかし私はもう死んでいるのですから、解脱してしまっているのでしょうか?

閻魔:聖徳太子は亡者やすいによると主神・皇祖神を差し替えて、太陽神の国にした。しかもはじめからそうだったように説話を改変して歴史を創作したということで、その罪を永劫に背負っている。もちろん肉体的には厩戸皇子は存在しないのだが、彼の創りだした偽りの権威を有難がって、その旗のもとに多くの血が流された。その修羅こそ聖徳太子自身の呻きでもある。

やすい:ええ、だから私は厩戸皇子の行った神道大改革を明るみにすることで、太子の菩提を弔うことになると考えているわけです。

鬼検事:それは結局聖徳太子の罪を亡者やすいが自覚し、自覚に基づいて新たな国のあり方を模索することになるので、それはまた地獄の苦しみになるのだ。

やすい:しかし、私はもう死んでいるので、それは私の著作に共鳴した読者の地獄でしょう。

閻魔:いいや、お前の精神に共鳴した読者は、もう一人のお前になって生きるしかなく、それは「我が生きるのではなく、我にあってキリストが生きるのである」と言ったパウロの言葉があるではないか、亡者やすいは厩戸皇子の大罪を暴いて、もう一人の厩戸皇子となり、亡者やすいの読者はもうひとりのやすいゆたかとなる。

鬼検事:その意味で個体的にはやすいゆたかは亡者となって既に存在しないが、イエス・キリストや聖徳太子の聖蹟の秘密を暴露したことによって、人類に新たに苦悩を与えた。その地獄こそ亡者やすいゆたかそのものではないでしょうか?

閻魔:(パチ、パチと手を叩きながら)鬼検事、なかなか良いことを言うようになったな。しかしそれでは幕引きになってしまう。神武東征がどうにも信用できないのが、欠史八代の扱い次第で時期が大幅にずれてしまうからじゃ。崇神天皇と同一だとすれば、卑弥呼女王の後になってしまう。それで卑弥呼は天照大神ではないかという説もでてくる。

やすい:記紀の記述は矛盾点などから何か見えてきた場合に問題にするというのも一つの方法です。欠史八代というのも早急に時代を古くするためだと決めつけないで、さし当り百年で五代ぐらいの世代交代として、神武天皇が二世紀初頭、応神天皇が四世紀初頭と見なしておきます。何かそれに対して積極的に疑問を差し挟み、変更する必要が生じれば変えればいいわけです。

 卑弥呼女王は筑紫倭国の女王か畿内の女王かのいずれであっても、磐余彦大王が筑紫の豪族だったという前提に立てば、大王家の祖先神は月讀命ですので、太陽神信仰ではありえません。卑弥呼の時代に皆既日食があったので、それを理由にする人がいますが、大王の祭祀は夜だったわけです。

鬼検事:神武東征は太陽神信仰から日が昇るところに行って国を建てるという理念を物語にしたもので、まったく史実とは関係がないという学者もいますね。

やすい:確か遠山美都男さんだったかな、そんな説を唱えていますが、それこそ思いつきにすぎません。歴史の流れを見ていないわけです。これも結局、神武以前は神代で歴史ではないという偏見があって、大国主命の大国形成で饒速日王国が滅ぼされたこと、建御雷神たちの奇襲軍によって大国主命が国譲りさせられ滅ぼされたこと、宇摩志痲治が大国主命支持勢力を糾合して、奇襲軍を撃退し、饒速日王国を再建したことなどを歴史的な流れとして踏まえていないから、牧歌的に出てくる思いつきですね。

同時代の文字史料がないので、伝承も七世紀に全部作られたみたいに極論することもできるわけですが、国を建てるということはやはり大変なことだったようで、そのいきさつを語り継ぐという仕事はあったと考えるべきです。とすれば三貴神伝承はもちろん出雲説話や饒速日伝承などを七世紀の創作と軽く考えるのは歴史に対する冒瀆ではないでしょうか。

閻魔:亡者やすいは、科学的には実証できなくても説話の内容については、矛盾がなければ一応信じておこうということじゃな。そうでないと歴史の流れが分からなくなる。科学的な実証された知識だけでは脈略がつけられない。それでも矛盾を精査すれば神道大改革みたいなとんでもない歴史の改変と封印が露見するということじゃな。

やすい:ええ、神話だから勝手な創作ということで、大国主命の大国形成、饒速日王国の興亡などを歴史から削除してしまうと、神武東征だけは歴史だとはいえなくなり、太陽の昇る土地に建国という理念になってしまうわけです。でも実際に筑紫豪族が高天原や海原の有力者から唆されて、難波に東征したということは、大いにありそうな話ですから、何かあり得ないという確たる証拠でもない限り、歴史知的には信憑しても問題ないわけです。

鬼検事:『古事記』だと17年近くかかってやっと難波に到達しますが、『日本書紀』だと東征に3年ほどしかかかっていません。そのことからどうも神武東征というのは怪しいのではないかという疑問がありますね。

やすい:それは『古事記』の方が古い伝承でしょう。もし筑紫倭国全体が東遷したのだったら、あまり期間をかけすぎるわけにはいきません。その間の食糧なども調達がむつかしくなりますから。磐余彦一族の東遷なので、安芸とか吉備で何年も勢力を伸ばし戦備を整えてから難波に到達したのです。ところが『日本書紀』の編集者は、それでは筑紫倭国全体の東遷でない印象を与えると考えて期間を短縮したのではないでしょうか。

12邪馬台国論争は終わったか?

おおたらし熊襲たわむけ統合す卑弥呼の御世はその前世紀

鬼検事:亡者やすいゆたかによれば、磐余彦大王は筑紫の一豪族と捉えられますから、筑紫倭国はそのまま継続していたことになります。四世紀半ばに、大帯彦大王(景行天皇)が筑紫の熊襲を征伐し、出雲倭国も臣属してはじめて西日本の統一がいえるということになります。となりますと三世紀中頃に亡くなった邪馬台国の女王卑弥呼は、畿内の女王ではなく、筑紫の女王だったことになります。

箸墓古墳

閻魔:考古学者の間では八割から九割は邪馬台国大和説で決まりだというではないか?前方後円墳の分布や三角縁神獣鏡の分布が大和を中心にして広がっていることとか、箸墓古墳の築造年代が卑弥呼の死に照応していることなどが根拠らしいが。

やすい:古墳には文字が残っていないので、たとえ大和と筑紫と出雲が同じ様式の前方後円墳であるとしても、それは文化的統一性ではあっても、王朝として西日本が統合されていた証拠とは断定できないわけです。私は記紀の解読によって、朝鮮半島の南端部が大八洲の倭人たちから見て高天原だったと考えます。そして伊邪那岐・伊弉冉大神の時に対馬・壱岐を中心に海原倭国を造り、そこから三貴神の時期に大和・河内倭国、筑紫倭国、出雲倭国が建国されたということです。

としますと、高天原は宗主国のような支配的な地位を持ち、海原倭国は半島と海原と大八洲三国を水運で結びつける倭国連合ができていたわけで、そこから王朝的に統合できていなくても前方後円墳の分布は説明できるのではないかと思われます。

鬼検事:三角縁神獣鏡は箸墓古墳を中心に同心円状に分布しているので、邪馬台国大和説の有力な証拠です。

http://katsi.blog.fc2.com/blog-entry-25.htmlより

やすい:卑弥呼がもらったのは鏡百枚なのに三角縁神獣鏡は四、五百枚も出土しているので、卑弥呼の鏡とは言えないという説もあります。もちろん魏の鏡だということは大和が魏と深く交流していたことになり、その意味では大和説に有利ですね。ただし、邪馬台国が筑紫にあったとしても、魏志倭人伝の記述では、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」となっています。邪馬台国連合の東にも倭人の国があると言っているので、魏の使いが何故か大和倭国に行かなかっただけの話とも解釈できます。

閻魔:しかし考古学的に畿内の方が遺物が圧倒しているのだから、魏の使いが畿内の方に行かなかったとか、魏の鏡が大量に出回っている国の話を書かないのは、いかにも不自然だな。

やすい:私も不自然だとは思いますが、当時は戦乱だったので、経済的文化的には畿内の倭国の方がつながりが深かったにしても、朝鮮半島情勢を考えますと、戦略的価値は筑紫倭国の方が大きかったという可能性は大ですね。

鬼検事:しかし卑弥呼は死に直系百余歩の墓に葬られ、それから古墳時代が始まったわけです。箸墓古墳は丁度その時期の墓なので、卑弥呼の墓だと言われています。

やすい:布留〇型の土器が周濠部の深いところから出てきて、その土器の年代が卑弥呼の死んだ頃と一致するということですが、それは被葬者が使ってきたものを埋めたとすると箸墓の築造年代はもっと降るとも考えられます。

閻魔:そう言えば、古墳自体の年代は以前は四世紀初めと言われていたけれど、それがぐっと卑弥呼の年代に近づいたということだったな。

やすい:もともと箸墓伝説があり、百々襲媛の墓とされていたわけですから、応神天皇や百々襲媛が三世紀中頃で亡くなったという根拠を示さないでは説得力はありません。

鬼検事:話は逆ではないですか?三世紀中頃の卑弥呼の墓がみつかったのだから、百々襲媛が卑弥呼だった。だから百々襲媛が亡くなったのは実は三世紀中頃だったといえるのでは。百々襲媛が大物主神の御杖代、神の花嫁になったのを崇神天皇の時代においていますが、百々襲媛は七代孝霊天皇の娘とされています、十代の崇神天皇とは2世代も開いているのですから、大物主神は老婆を嫁にしたことになってしまいます。だから崇神天皇の時期に祟りの話をまとめたとも解釈できます。とすれば百々襲媛と卑弥呼の年齢差は解消するでしょう。

閻魔:それはいい思いつきだ。しかし、女王が同時に祟り神の花嫁という設定には、無理がある。やはり大王は主神や大王家の祖先神を祀り、王女や王妹が祟り神を慰める御杖代として斎宮になるという図式を崩すのは難しいだろう。

茉奈佳奈

鬼検事:それは箸墓伝説の特色を大王か斎宮かということで、両方は無理だとみなすからでしょう。もちろん百々襲媛は女王なので、大物主神の花嫁にはなっていません。しかし祟り神は大王の娘を花嫁に所望しますね。百々襲媛も大王の妹あるいは娘として所望されたいうことになってしまったわけです。だからそこで取り違えがあるわけで、斎宮は百々襲媛の妹の話だったかもしれません。あ、そうだ百々襲媛と双子だったりして。

やすい:なるほど、それは楽しい発想ですね。ア、ハ、ハ、ハ。ともかく、三世紀半ばでは筑紫倭国も存続していたので、墓は確かに箸墓が同時期だったとしても、邪馬台国大和説は無理かと思います。

閻魔:だからその前提になっている、磐余彦東征が筑紫の一豪族の東征だというのが間違っているのか、それとも東西統合の伝承があったけれど失われてしまったということも考えられるだろう。亡者やすいは神武天皇実在説を前提するから、一夜妻の子の孫ということで、筑紫王朝の王位継承者ではないことになり、東征の動きも部分的で、年数がかかっているが、それはお話を楽しくするためで、実際には、正妃の子の孫で王位を継承していたとすれば、邪馬台国大和説でいいことになる。お伽話をそのまま史実に結びつけることもなかろう。

やすい:磐余彦の血統しか筑紫倭国の伝承が残っていないわけです。それは四世紀前半に熊襲に筑紫倭国が滅ぼされたので、筑紫にいた語り部は全員殺されてしまったからです。磐余彦一族は難波や大和に移ったので、そこで磐余彦の伝承だけが残っています。それでその内容が海の神や山の神との交流であったり、異類婚姻譚などの民話的要素が混ざっているので、創作的な面も強いですが、木花咲耶媛が産屋を燃やしてお産をする話などは、かえってリアリティがあります。

産屋炎上

鬼検事:なんですって、産屋を燃やしてお産をして母親だけでなく子供三人も無事だったというのは荒唐無稽でしょう。

やすい:別嬪の木花咲耶は邇邇芸命に求婚され、父に相談すると父は磐長姫というあまり別嬪じゃない姉を一緒につけようとする。それで邇邇芸命は姉を戻してしまい、木花咲耶とも一夜だけの関係になってしまったのです。一夜妻の子をいちいち認知していますと、騙されて、地方豪族の子を王子にすることになりかねず、筑紫倭国にとっても大問題なので、邇邇芸命は認めなかったのですが、それではということで、産屋を燃やして子を生むという命がけのパフォーマンスに木花咲耶媛は踏み切ったわけです。大王は、事を荒立てないために認知したものの、生まれた子たちが王子として宮にいた様子はなく、狩猟や漁労で暮らしを立てていました。だから地方豪族だということです。

鬼検事:それはあくまでも血統が盟神探湯(くがたち)のような産屋炎上で確かだと証明された事を示す説話です。ドキドキハラハラさせることで万世一系の皇統を強調しているのです。

やすい:それは承服できませんね。一夜妻だから信用出来ないけれど、産屋を燃やしてまで命がけで認知を迫ったわけですね。この話を聴いて万世一系がかえって怪しまれる効果しかないのじゃないでしょうか。もし本当に磐余彦が邇邇芸命の曾孫だと強調したいのなら、正妃の血統にしていればいい話でしょう。わざわざ血統を疑われる話を入れるのは、それが元々の口誦伝承だったからです。つまり一夜妻が子を認知させるために産屋を燃やそうとしたので、仕方なく邇邇芸命が認知したけれど、王宮には入れず、地方豪族として暮らしていたということです。本当に産屋を燃やして子を生んだのなら、土遁の術みたいな高度なトリックを使ったことになりますね。

閻魔:要するに、その口誦伝承には目的に反して、血統を疑われることまで書いているので、却ってリアリティがあると言いたいのだな。しかし逆に血統を疑われることをわざと書くことで、架空の磐余彦説話にリアリティを感じさせたとも解釈できるのではないか?

やすい:なるほど、それは相当なテクニックですね。もちろん、私の解釈も説話の矛盾から元の口誦伝承を再現することで、古代史像をより納得できるものに再構築しようというだけで、それが史実で確定だとまでは言っていません。

七世紀までの古代史は文字史料が殆ど無いので、そういう歴史知的な内容を充実させることが大きな部分を占めるということです。磐余彦伝承の場合は、むしろ実証史学のオーソリティは全否定する傾向が強いので、リアリティのある部分に注目して、筑紫王朝の王統を引いているという自覚を持つ地方豪族像を鮮明にしたわけです。それによって饒速日王国打倒の動機や大義名分の解明ができますし、東征後も筑紫倭国は存在したことも分かります。そして四世紀までは東西統合はなかったのだから、邪馬台国大和説には無理があるということも言えるわけです。

鬼検事:邪馬台国大和説は説話資料は七世紀・八世紀の都合で書かれている物が多いので、棚上げにして、中国側文献と考古学的資料からだけ構成しようというところがあります。それに対して、説話資料からどこまで口を挟めるのかということですね。亡者やすいの説では高天原・海原の役割を説話から強調することで、大和説が根拠にする文化的一体性を倭国連合という倭人国際社会の統合性によって説明し、邪馬台国九州説にも生き残る余地を残そうという目論見ですね。

やすい:邪馬台国論争に参画するのだったら、『魏志倭人伝』の解読を本格的にしなければならないのですが、まだそこまで私の研究は進んでいません。卑弥呼をだれに比定するかでは、祟り神の御杖代が女王を兼ねるのでは納得出来ないということがありますね。それから卑弥呼を天照大神に比定するのも承服しかねます。それは筑紫倭国は月讀命を祖先神にしていましたし、河内・大和政権も磐余彦大王以降は月讀命が祖先神だったので、女王が天照大神の現人神であるという ことはありえないからです。

鬼検事:欠史八代が架空で、神武天皇=崇神天皇ということになれば、卑弥呼は天照大神に当たるのではないかという議論が登場します。記紀では天照大神の孫の邇邇芸命の曾孫が神武天皇なので、崇神天皇の六代前にあたりますね。そうしますと、百年以上前になります。崇神天皇と卑弥呼は半世紀ほどの隔たりでしょうから、まあ天照大神が卑弥呼というのは年代的には無理があります。

閻魔:年代的に無理はあるのだが、そこはなにぶん神々のことだからルーズに受け止められやすいようじゃ。卑弥呼の死と日食が重なっているという議論や、卑弥呼をモデルに創作されたと一部で解釈されている神功皇后には沙庭で卑弥呼が憑依している。そういうところから卑弥呼=天照大神という議論があるようじゃ。

やすい:まず『魏志倭人伝』では卑弥呼が「鬼道を行う」とはされていても、太陽神信仰と関連するような記述は全くありません。「ひのみこ(日の巫女)」に由来するという思い込みから解釈しているのです。「ひ」は「霊」の意味もあります。霊性の高い巫女という意味で「ひめ巫」から「ヒミコ」が由来しているという説の方が説得力があります。それに何度も言ったように三世紀半ばは畿内も筑紫も大王家の祖先神は月讀命であり、未明に大王の祭祀は行われていたのです。 七世紀になって主神・皇祖神を差し替えたので、憑依した神も天照大神に差し替えられました。

神功皇后像

神功皇后に憑依したのは、沙庭は夜中に行われていたので、太陽神ではなく、高天原の主神であった天之御中主神だったはずですが、天照大神だったことに七世紀に改変されたのです。それで住吉大社にも天之御中主神を天照大神に差し替えるように言われて、妥協で祀る神の神功皇后を本宮に祀ったということなのです。 これは前にも述べましたが。

13.大帯彦大王の大八洲統合

豊秋津瑞穂の国を束ねたる一番槍はオオタラシヒコ

景行天皇の山車

鬼検事:邪馬台国大和説が認められない理由として、亡者やすいは西日本の統一を四世紀前半の大帯彦大王(景行天皇)の筑紫遠征以後においています。だから三世紀中ごろには筑紫倭国と大和政権は別々に存在したと主張しているようです。

ただしその根拠として亡者やすいは一夜妻の子の孫であるという磐余彦の出自をあげているのです。此花佐久夜姫が産屋を燃やしてお産するというパフォーマンスで認知させているものの、子供たちは王宮で暮らしたわけではなく、弟は狩猟、兄は漁猟を生業にしていました。ですからせいぜい地方豪族だったというのです。

その結果たとえ神武東征が成功しても、筑紫倭国はそのままだったわけで、三世紀半ばまでの卑弥呼の時代は東西に倭人の国が別々にあったので、邪馬台国大和説には無理があるという結論になります。しかし家系が一夜妻の子の孫という血統説話であり、異種婚譚などの外来民話などが混ざったもので、とても史実を反映しているとはいえません。

 もし亡者やすいの分析通りならば、大帯彦大王が三倭国をはじめて統合した大王として、磐余彦大王にも優る大英雄であったことになります。ところが『古事記』では大帯彦大王の筑紫遠征は無視され、『日本書紀』では熊襲が筑紫倭国を滅ぼしたことにはまったく触れていません。従いまして、熊襲は大和政権に貢をよこさず、筑紫で熊襲政権を立てようとしただけであり、それまで筑紫倭国が続いていたのが熊襲に滅ぼされたというのは、亡者やすいの幻想史学です。

室伏志畔著『法隆寺の向こう側』題字保井晶華

やすい: 鬼検事、「幻想史学」などと不用意に言ったら、畏友の室伏志畔さんにしかられますよ。ですから記紀は、磐余彦東征を筑紫倭国の東遷であるかに描いたものですから、それ以降の筑紫倭国の歴史をまったく描写できなかったわけです。 というより、熊襲に滅ぼされた時に語り部が全員殺されてしまったので伝承が全く途絶えてしまったので、磐余彦東征を西日本統合であるかのように描かざるをえなかったのでしょう。

閻魔:なにしろ女王卑弥呼のモデルになりそうな女王の話も残っていないからのう。一部に神功皇后が卑弥呼のモデルというが、むしろ神功皇后伝承を作るときに卑弥呼を参考にしたというところだろう。邪馬台国九州説を取るのなら、熊襲に筑紫 倭国が滅ぼされたというのが一番説得力があるだろう。

やすい:そういうように神功皇后伝承を卑弥呼を参考に作ったという場合に、暗にシャーマンであり、しかも天照大神の霊が憑依したシャーマンだという前提があります。しかし卑弥呼は天照大神のシャーマンだったとは『魏志倭人伝』では書かれていないのです。「日の巫女」が「卑弥呼」の名前の意味だろうという類推なのです。「比売巫女(ひめみこ)」つまり霊性の高い女性の巫女という意味なのです。神功皇后に憑依したのが天照大神だというのも七世紀の改変の結果なのです。憑依したのは天之御中主神だったというのが元の口誦伝承だったのです。

鬼検事:先ず研究者ならば史料が単なる作り話なのか、それとも史実を反映しているのかについて、史料の信憑性を吟味する史料批判が厳格になされなければなりません。景行天皇の筑紫遠征についても大和政権が各地の反抗を抑えて盤石になったことを物語化したフィクションなのか、それとも実際あった史実なのかの判断は難しいでしょう。

閻魔:「オオタラシヒコ」という名前にしても、「大いなる支配者」ぐらいの意味で、これでは普通名詞じゃないか、とても個人名とは言えないという解釈もある。つまり架空の人物だとする説が有力なのだ。

やすい:それはひどく主観的な解釈ですね。現代でも全く個性のないような名前もあるのじゃないですか。太郎・一郎・花子とか「治(おさむ)」という名前もあります。ですから「おおたらしひこ」なんて大変ありそうな名前でしょう。そういう名前の意味が単純すぎるので架空の人物だと決めつけるのは、実証史学とは名ばかりで、屁理屈ですね。そういう「歴史の消しゴム」になってしまっている学説を一流と言われる歴史家者でも唱えていて、プロフェッショナルなつもりでいるのです。

鬼検事:しかし四世紀前半で熊襲に筑紫が席巻されてしまったといいますが、古墳などの考古学的資料で裏付けられているわけではありません。熊襲に筑紫を抑えられて大和から大王が遠征してきたという記事をつくって、歴史に色彩を添えたということでしょう。

やすい:大帯彦の筑紫遠征自体が創作という可能性は否定できません。しかし創作の範囲はどれくらいかとか、だれがどうして、何時創作したかも分からないのに、創作したと断定しても、創作した証明にはなりません。いなかった証拠もないのに、いた物証がないといっていなかったことにしますと、歴史のつながりが切れてしまって、すべて幻想ということになってしまいます。それよりも記紀などで書かれているのだから、いなかった証がないのなら、一応いたとして論じるのが筋です。

閻魔:国家の歴史をまとめる必要を感じるのはやはり国家意識の高揚があってのことだろう。そうすると律令体制を整えようとした七世紀、六四五年の乙巳の変、大化の改新以降ということになるのではないか?だからそれ以前の口誦伝承はもちろん参照にされたものの、天武・持統朝でかなりの部分は創作されたということになるのではないのか。本格的な国家形成史にしようとすると、口誦伝承ではあまりに貧弱すぎるので、多くの架空の大王や英雄の物語を創作し、花を添えたことは十分考えられるのじゃないか?

やすい:確かに大帯彦大王は歴史上実在したことを物証で示し、科学的に証明するのは困難です。とは言え、逆に実在しなかった事を証明するのはもっと困難ではないでしょうか?記紀を信用出来ないということで、架空で創作だったと決めつけて、じゃあどんな歴史になるかというと、かなり無制約な議論になりかねません。むしろ記紀の矛盾点を精査して、元の形を復元する程度に限った方が、よりリアルな歴史に接近できるのではということです。

筑紫倭国が熊襲に壊滅させられたらしいことは、ほとんど筑紫倭国の伝承が残っていないことからも類推できます。内容的にみても、大帯彦が筑紫に行った時に、筑紫は熊襲に抑えられていて、熊襲同士で筑紫の覇権を争っていたのです。それで大帯彦は、神夏磯媛を味方につけるなどし、彼等の仲間割れを最大限に活用してなんとか熊襲を七年以上かかって制圧したようです。

鬼検事:熊襲が本当に筑紫倭国を滅ぼしたのなら、その分家だという大和政権の大帯彦が西征してきたら、一致団結して排除したでしょう。それが神夏磯媛のように簡単に「三種の神器」を差し出して仲間を裏切るなど、設定に無理があり、フィクションでしょう。

神夏磯媛の熊襲征伐

やすい:仲間割れと言っても、覇権争いで戦争ですから、敵の敵は味方ということで、倭人の力を利用することは大いにあり得ます。熊襲の女王と言われた神夏磯媛を密かに拉致して、離間工作したかもしれません。筑紫での支配権をある程度与えて、熊襲の同志の戦いに介入して制圧したのでしょう。三種の神器は武御雷軍が大和を制圧した時に手に入れていて、筑紫倭国に持ち帰っていたので、熊襲が筑紫倭国を滅ぼした時に手に入れたのでしょう。大帯彦大王をフィクションにしてしまいますと、西日本の倭国統合が何時なされたのか分からなくなります。逆に大帯彦大王の熊襲・出雲統合を認めることで歴史の筋道がはっきりします。

閻魔:そのはっきりするというのは、歴史物語に過ぎないわけで、それを歴史だというのは科学的ではないのだが、そこを亡者やすいは開き直って、歴史物語に過ぎなくても、一応記紀から矛盾を精査した上で、言えることだから歴史知として納得しておくことが古代史研究として重要だということだな。その方が、大帯彦大王が怪しいと言って、筑紫遠征を消したり、別の人物に置き換えたりするよりは、はるかに学問的だと言いたいわけだ。

それはある意味、言えているかもしれぬな。筑紫遠征を消してしまうと、どうして統一がなされたかは、神武の時になってしまうが、どうも出自からいって納得出来ない。しかし逆に大帯彦大王も歴史物語として認めてしまうと、それなら倭建命の説話や、息長帯媛説話も歴史物語としてなら認められるわけで、物語と歴史の区別がなくなってしまう。

鬼検事:そうなのですよ、閻魔様、結局記紀の矛盾を衝いて、歴史の真相を浮かび上がらせると言っていますが、実際は神々が作った国家とその歴史として皇国史観の焼き直しになってしまっています。それならそれで神々や英雄たちに対して尊重すればいいのですが、天照大神まで祟り神だとしたり、聖徳太子が主神・皇祖神を差し替えたなど、瀆神や名誉毀損のオンパレードです。一見、面白いかもしれませんが、これでは破茶目茶ではないでしょうか?

やすい:いや、そこが文字史料のほとんどない七世紀までの古代史研究の限界づけの問題なのです。いかに歴史物語としての限界があっても、歴史の流れがありますから、史実と確定できる箇所以外は、物語的了解で埋めて置く必要があります。

例えば熊襲の首領の娘を取り込んで、首領を討伐するのに協力させるなど、謀略が描いてあり、それらはあまりにひどい話なので、信じられないところもありますが、謀略をいろいろ使って、やっつけたことは歴史として了解できます。

閻魔:小碓皇子に女装させてクマソタケルを討伐するというやり方に通じている。だから大帯彦大王の筑紫遠征と小碓皇子の熊襲征伐は一つの話を、二つに分けているのではないのか?実際、『古事記』でヤマトタケルの能褒野での「国偲歌」が、『日本書紀』では大帯彦が日向で詠んだことになっている。

やすい:その際に、現存する記紀などの歴史書には権力のバイアス(偏りや歪み)がかかっていて、粉飾や書き換えがあるので、矛盾点をよく精査して、元の姿を最大限復元する必要があるというのです。その結果、神々の差し替えや歴史の偽造などが分かってきて、歴史物語の範囲でさえ、驚くべき改変が明らかになったということですね。それは史料に起因するので、結果だけ見て破茶目茶というのは、それこそ名誉毀損です。

似た話があれば、一つの史実がネタで歴史物語にそれに似た話をあちこちに散りばめるということはあったかもしれません。それは可能性であって、似たような史実はいくつもあるので、決めつけることはできません。

「国偲歌」は、「夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯やまとはくにのまほろば、たたなづく あおがき やまごもれる やまとしうるはし」という望郷の思いではどちらにあってもおかしくないのですが、「伊能知能 麻多祁牟比登波 多多美許母 幣具理能夜麻能 久麻加志賀波袁 宇受爾佐勢 曾能古いのちのまたけむひとは、たたなづくへぐりのやまの、くまがしがはをうずにさせ、そのこ」という箇所は「命にあふれた若者、自分の生命力を過信して、熊樫の葉を髻華に挿していると長生きできるというまじないをばかにして捨ててしまうけれど、そういう若者こそつい無理をして若死にしてしまうものだから、髻華に挿しておきなさい」という意味です。これはまさに今無理をして病身をおして大和に帰ろうとして死んでいくヤマトタケルの境遇にぴったりですね。

 この「国偲歌」そのものは読人しらずの歌として知られていて、それを歴史物語にも使ったことも考えられるでしょう。

鬼検事:では、大帯彦大王の熊襲征伐による西日本統合という歴史物語には、敢えて否定すべきものがないということでしょうが、大帯彦大王は既に東国も版図にしていたことに記紀ではなりますね。何時東国まで兵を進めていたのですか?倭武建命説話では、東国の蝦夷が背いたので、それを抑えるために派遣されています。これは五世紀以降の歴史をそれ以前にも遡らせているのではないでしょうか?

やすい:それは難しい問題ですね。谷川健一先生の『白鳥伝説』という名著がありまして、長髄彦の残党が蝦夷たちと合流して、大和政権に追われながら、常陸とかさらに陸奥に逃れていく、ついに津軽に日ノ本の国を建てたという話があります。ですから、わりと早い時期から尾張以東の東国にも大和政権の版図は広がっていたかもしれません。もちろん政庁をきちんと建てて支配したというのではなく、蝦夷の豪族たちに定期的貢を出させ、その見返りにその地域の支配権を認めていたということではないでしょうか?

 

 

 

         14.ヤマトタケルの大冒険

一、大帯彦大王・小碓皇子は架空の人物か?

  いさおしの皇子は帝に成り代わり熊曾・蝦夷の標的となる

『ヤマトタケルの大冒険』講義

鬼検事:亡者やすいは『長編哲学ファンタジー ヤマトタケルの大冒険』を創作し、それを倫理学入門の講義でテキストとして使っております。ヤマトタケルの熊襲征伐は単身熊襲の館に乗り込み、酒に酔わせて、熊襲タケルという首領の兄弟を殺し、熊襲たちを平伏させて凱旋しております。誠に荒唐無稽な説話です。その後の蝦夷東征も吉備の建日子だけをお供に蝦夷を鎮めに行ったという、これもお伽話にすぎません。歴史を超人的な英雄のロマンにしてしまうことで、歴史の真実から目をそらさせる罪を犯しているのではないでしょうか。

やすい:ヤマトタケルの話は、『古事記』と『日本書紀』では全く内容が違いますから、あくまで歴史物語として受け止める必要があります。ただモデルになっている小碓皇子は息子が倭国西朝の建国者なので、歴史上実在した人物と考えておいてもいいのじゃないかと思われます。

閻魔:おいおい、神功皇后は、『魏志倭人伝』の卑弥呼を歴史上に登場させるために、記紀の作者たちが作り上げた架空の人物だという説が有力らしいというじゃないか。だからその夫の仲哀天皇も実在は疑わしいらしい。第一大王が「死んでしまえと」と沙庭で言われて、ほんとうに死んだというのは信用できない設定だな。要するにこの激動の四世紀は西日本の統一がなされていくプロセスで何があったか、今となってはさっぱりわからないので、英雄時代として創作されているというのではないのか。

やすい:全くの創作だとつじつま合わせがやりやすいので、矛盾が少ないわけですね。ところがヤマトタケル死後34年経ってから、息子の帯中彦が生まれています。

鬼検事:それは帯中彦の父が30歳で死なずに64歳まで生きていたということではないでしょうか?

やすい:それならモデルになった人物はいたということになりますね。みんな架空の人物なら年齢の矛盾は起こらないでしょう。

閻魔:だいたい、ヤマトタケル説話は、『古事記』と『日本書紀』では中身が違いすぎる。兄大碓皇子は、『古事記』では弟小碓皇子に殺されているのに、『日本書紀』では殺されていない。小碓皇子が熊襲征伐から凱旋したので、蝦夷征伐では兄に行かせようとしたら、兄は怖がって姿を隠した。それで小碓皇子が蝦夷征伐にもでかけたことになっている。『古事記』では小碓皇子に軍勢をつけないで、熊襲や蝦夷の中に放り込んだ。でも『日本書紀』はしっかり軍勢をつけてくれている。

だからヤマトタケル説話はまるっきり歴史には使えない。

やすい:大帯彦大王の筑紫遠征は、熊襲との大戦争です。熊襲が筑紫倭国を滅ぼしたために、筑紫王家の血統ということになっている大帯彦大王は本家の仇討をしなければなりません。それに筑紫を熊襲に抑えられてしまうと、朝鮮半島との交易をしづらくなりますので、どうしても命運をかけて遠征せざるを得なかったのです。それに比べて、小碓皇子は熊襲の首領を殺してこいという命令で、刺客なのです。それで女装して酒に酔わせて殺したという設定ですね。

鬼検事:皇子が刺客なんてあり得ないでしょう。

やすい:もちろんお話でしょうが、古代朝鮮を描いた韓流ドラマでは王子が刺客になったりすることがよくあります。当時は少々不穏な動きがあるからといって簡単には軍勢は動かせないので、刺客を動かしたのでしょう。その際に王子が手柄を立てるために刺客を動かしたのかもしれません。それがお話になると王子自身が刺客になった話になったのかも。

閻魔: しかも親子の葛藤が絡んでいる。当時は譲位という制度がなくて、大王は死ぬまで大王なので、有力な王位継承者は待っていたら自分が先に死ぬかもしれないと思って、父帝に毒を盛ったりすることもあったようだ。『法華経』ではそういう例がたくさん列挙されている。そこで父帝も成人した皇子たちを危険な仕事につけて、熊襲や蝦夷に殺させようとする。そういう親子の葛藤を浮かび上がらせているところが『古事記』の文学的価値を高めている。それに比べて『日本書紀』は立派な帝としてまた父親としても立派に描いていて、きちんと軍勢をつけて送り出している。それだけ景行天皇は大きな仕事をした英雄なので『古事記』のように心の闇までは描けなかったということだろう。

景行天皇の山車

やすい:ええ、だから『古事記』では景行天皇の筑紫遠征の話はカットしています。ヤマトタケルという悲劇を際立たせるために危険な仕事をさせる悪役なのです。これはあるいは西日本の統一は景行天皇の偉業ではなく、磐余彦大王の時に行われたのだと言いたいのでしょう。だから熊襲の反乱を抑えただけで、しかも七年以上かけてしまったということで、それほど英雄視していないわけです。

鬼検事:だからヤマトタケルはあくまで歴史文学上の存在であって、歴史上の人物として扱うべきではないのではないかと思われます。それを亡者やすいは、歴史の流れで、亡者やすいだけの幻である倭国の東西分裂への布石としての役割を与えて、歴史上の人物とみなそうとしているわけです。

やすい:全く架空の人物なのか、ある程度モデルになるような人物はいたのか、それを今となったら確定することは出来ないわけですから、歴史物語からその時代の匂いを嗅ぎとったり、あるいは伝承が受け継がれてきて、記紀として記されたものから歴史的事情を幻視していくしかないわけです。

ところが実証史学は考古学的な裏付けが取れないかぎり歴史から消去してしまおうとするのです。小碓皇子のように朝廷の権威が揺るがないように、東奔西走し熊襲や蝦夷を力や知恵で従わせる、極めてリスクの高い仕事をさせられ、犠牲になった皇子もいたというのがやはり歴史の一面を語っていると思います。

鬼検事の言われるように、大帯彦大王と小碓皇子の父子葛藤が下敷きになって、両者の息子同志の若帯彦大王と帯中彦大王の倭国東西分裂へと展開するので、小碓皇子を架空の人物であるかのように決めつけられるのは困るわけですね。話の中身は潤色だらけにしても、やはり小碓皇子に当たる人物が実在したと歴史知的に了解しておいていいのじゃないかと思います。

閻魔:どうも大帯彦大王も小碓皇子も架空の人物だとしたら、その息子同志の対立や分裂騒ぎというのも歴史として認定できるのか怪しい話ではないのか?

やすい:もし熊襲に筑紫倭国が滅亡させられたのでなかったら、筑紫倭国の伝承が磐余彦の血統しか残っていないというのは解せませんね。

鬼検事:それは磐余彦が筑紫倭国全体を東遷させたということになるからかも。

やすい:それなら筑紫王家の話がもう少し詳しく残っている筈です。それに磐余彦大王が西日本を統合したのなら、邪馬台国大和説が正解ということになり、卑弥呼に当たる女王のモデルも伝承されていた筈ですね。磐余彦が邇邇芸の一夜妻の孫という話から、一豪族の東征に過ぎないことが分かり、従って筑紫倭国が四世紀まで続いていて、大帯彦大王の西征の前に熊襲に滅ぼされたとすれば、一番歴史の流れが分かります。とすれば大帯彦大王にあたる人物がいて、西日本をはじめて統合したということになり、その息子はその綻びを繕うためにリスクの高い仕事をやらされた。熊襲の首領に刺客を送ったり、蝦夷たちを大和朝廷の威に服させる工作をしたわけです。これは物証を挙げて実証しろと言われても無理ですが、大いにありそうな話で、一人でいかせたとか、お供は建彦一人で途中で弟橘媛が追ってきたとかは七世紀末の人麻呂らの歌人が作った物語としてもです。

二、英雄時代に平和主義はあり得るか

吾妻はや修羅の哀しみ極まれば足柄山で三度さけべり

鬼検事:亡者やすいゆたかは、『長編哲学ファンタジー ヤマトタケルの大冒険』を書いて、これを倫理学入門のテキストに大阪経済大学で使っています。まあ梅原猛のスーパー歌舞伎戯曲『ヤマトタケル』のファンタジー版というか焼き直しみたいなものですね。倫理学のテキストとなるとどうしても近現代の倫理思想史とか、環境倫理学や生命倫理学などの応用倫理学になりがちですが、そこを『長編哲学ファンタジー 鉄腕アトムは人間か?』で自己意識あるロボットの登場で人間とのサバイバルをかけた戦争を背景に人間とは何かを原理的に問い直すとか、古代に戻って戦いに明け暮れるヤマトタケルの痛切な平和への思いが、死後戦士から白鳥に変身して河内湖に舞い戻る話に形象化されるわけです。そういう形で、人間のあり方を問い直すという試みですね。それがなかなか好評で前期と後期で五〇〇人ずつ、年間千人が受講しています。

やすい:ご紹介いただいてありがたいですが、物語にくるんで考えさせたほうが、理屈として捉えるだけでなく、感情でも捉えられるわけで、それは倫理学という学問の性格からいっても良い試みではないかと感じています。なにしろ近年日本では 大学生も含めて学力低下問題が深刻です。特に学ぼうとする意欲、士気(モラール)が低下しているわけです。日本人は中国や韓国を嫌っていますし、また破廉恥みたいに酷評する人が多いですが、少なくとも勉学に対する士気においては日本は完全に遅れを取っています。一人あたりの国民所得がもう五年ほどで韓国と並ぶようですが、並んだらすぐに日本は遅れを取っていくでしょう。何故なら、勉学意欲、勤労意欲において劣っているのですから。中国の大学の教員が一番心配なのは、学生が勉強しすぎて病気になることだそうですが、そんな大学の教員は日本には一人もいないでしょう。どうしたら興味をもって勉強する気になってくれるだろうかと苦心惨憺です。

閻魔:その話は、それくらいにしておいて、古代の英雄時代において、ヤマトタケルはスサノヲの天叢雲剣を持って活躍するのであって、嵐のごとく暴れまわるということだな。当時は強い集落やムラをつくり、周囲を従えて地域国家を作っている。弱ければ支配され、厳しい貢の取り立てや、強制労働をさせられる。だから何時でも戦える訓練をしていて、強くなろうとしているのであって、戦争なんかいやだといっていたら、奴隷的な地位に甘んじるしかない。つまり古代国家の形成期に平和主義なんていうのは通用しないのだ。

安保法制反対集会二〇一五年

やすい:だからこそ平和への思いは切実なのです。第二次世界大戦後の日本は侵略戦争 を反省させられ、日本人自身戦争なんかもうこりごりだということで、絶対に戦争できない体制を作ろうとして『憲法第九条』を成立させました。それで戦争しない国というイメージで来たわけですが、平和ボケして平和への思いも切実さを欠けてきているわけです。それで侵略されたらどうするんだとか、いろいろ言われて、結局日米安全保障条約と自衛隊で国を守ろうということになって、普通の国になっているわけです。それでもまだ足りないということで、二〇一五年には集団的自衛権を行使できる、世界で戦える国にしてしまったわけですね。

古代国家形成期には確かに戦わざるを得なかったかもしれません。そして戦って、戦果を上げると更に戦いが待っているわけで、修羅の世界から抜けられない。その哀しみが溢れているところが『古事記』の文学性なのです。それは熊襲や蝦夷といった辺境の人々との戦いだけではない、骨肉の争いがあるわけです。

鬼検事:先ず兄大碓皇子を殺す話があります。大碓皇子は兄媛・弟媛を大王に仕えさせるために迎えに行って、ついあまりに美しいので自分の女にしてしまい、帝には別の女を差し出しました。それがバレてないか心配で朝餉の儀礼に出れないのです。父帝は弟の小碓皇子に兄を朝餉に連れてくるように命じますが、小碓皇子は兄とトラブってしまって手足を引きちぎって薦にくるんで捨てたというのです。

左梅原猛 右やすいゆたか

閻魔:梅原猛は戯曲『ヤマトタケル』でこの兄殺しは余りに唐突なので、その背景をつけている。継母にあたる叔母の八坂入媛が、皇后だった母が没後皇后になり、その息子の若帯彦を皇位継承者にするために、邪魔になった大碓皇子・小碓皇子を 殺そうとしていたという設定だ。そこで父帝の寵愛が叔母に移っている以上、叔母を告発したり、殺したりすれば父帝から殺されるので、ここは父帝を殺して自ら帝になるしかないと大碓皇子は腹を括った。ところが小碓皇子は父を殺すぐらいなら殺されたほうがましだと言って、企みに乗ってこないので、兄は弟に斬りかかり、あっさり弟に殺されてしまったという話にしている。

鬼検事: その事情が分かって、小碓皇子を兄殺しで処刑するわけにいかなくなって、熊襲の首領が貢をよこさず、館を修築とか無断でしているので、殺してくるように命じます。しかも軍勢をつけず単身でやらせるという無茶な話です。帝の妹の倭姫が女装して近づき、酒に酔わせて討ち取るように知恵をさずけて見事に成功したわけです。でもたとえ成功しても熊襲たちに殺られますよね。

やすい:ええ、だから私は更に工夫しまして、倭姫が伊勢神宮の巫女たちに大和撫子舞踊団を造らせて、その巡業で筑紫に行ったことにし、小碓皇子もその一員にしたわけです。そしてみんなで熊襲の兵士たちを酔いつぶれさせ、睡眠薬や痺れ薬をまぜておいて、抵抗できなくして熊襲タケル兄弟を仕留めたことにしたのです。

鬼検事:そりゃあしかしお芝居としてはいいアイデアだけれど、大和撫子舞踊団を作って筑紫まで巡業させるなど果たして現実性があるのか、歴史としては詰めが甘すぎるでしょう。

やすい:いやもちろんお芝居であり、ファンタジーです。私は実際には小碓皇子に刺客を送りつける仕事をさせたんのじゃないかと思いますね。要するに『古事記』のヤマトタケル説話の作者は、父帝が小碓皇子の乱暴を恐れて自分に危害が及ぶ前に熊襲に片付けさせるつもりだったと言いたいのです。ところが帝の目算が外れて、小碓皇子は首級を二つも取って戻ってきたという豪傑談になっているのです。

それは歴史的に見れば非現実的です。臣下たちの目があるのですから、そこまでは息子に対して残虐なことはできないでしょう。ただ歴史的知に学べることは、帝は皇子たちに危険な仕事をさせて、皇子に命や権力を奪われないようにしてきたということです。それは皇子にすればとても悲しいことですね。父に命を脅かされるのですから、父帝も本当はそんな無情なことはしたくなかったけれど、自己防衛本能からついそういう命令を出してしまうということです。自己嫌悪で苦しんだでしょう。だから戦争は親子の中にもあるということで、その哀しみはとても深いものです。それがにじみ出ているところに『古事記』の文学的価値があります。またそれが歴史の一面なのでたんなる嘘八百じゃないのです。

倭建命は足柄峠で「吾妻はや」と三度叫んだ

閻魔:確かに小碓皇子は大和政権対辺境のまつろわぬ民との対決だけでなく、父帝に虐げられているという感情があって、その面では熊襲や蝦夷と同じなのに、果てしない修羅の道を歩まなければならないと厭戦的な気分があって、白鹿を殺してしまった時に、哀しみのあまり「吾妻はや」と嗚咽して叫んだのだろうな。

そういう戦争の一面を描いているという意味で、英雄時代にも平和主義はあったというわけだな。しかしそれは白鳳時代・奈良時代の蝦夷との戦いの厭戦気分の投影で、英雄時代の話ではないのかもしれない。

やすい:閻魔様、歴史研究者の悪い癖が閻魔様にまで感染するとは、困ったものですね。第一閻魔様は人間の歴史をトータルにご覧になっておられるので、それが奈良時代の厭戦気分の投影であるにしても、英雄時代にも決して英雄たちは面白おかしくあるいは力自慢、知恵自慢のネタとして戦争を愉しんでいたのではないことぐらいよくご存知の筈です。

鬼検事:ヤマトタケルが美夜受媛との婚礼の床の辺に草薙剣を置いて、伊吹山の山神退治にでかけ、雹に打たれて深傷を負い、病をおして大和に帰ろうとして能褒野で力尽きて死にました。その時に国偲歌を歌っていますが、それを亡者やすいは平和主義的に解釈しています。つまり国のまほろばである大和が美しいのは周辺の山で囲まれ守られているからである。そこからヤマトと辺境の関係に拡大して、 熊襲や蝦夷が平和で豊かに暮らせてこそ、大和も栄えるというように解釈しているのです。

閻魔:あの歌は『日本書紀』では父帝大帯彦大王が日向で歌った事になっておるから、その解釈はどうかな。まあヤマタタケルが歌ったとしたら、言えるかもしれぬ。だってかれは軍勢をつけてもらえず、蝦夷の海の中でさんざん揉まれて、蝦夷との融和を模索していただろうからな。

鬼検事:しかし辞世の歌では「嬢子の床の辺にわが置きし剣が太刀その太刀はや」と草薙剣を持って行かなかった油断を後悔していますから、武断主義ではないでしょうか?

やすい:確かに後悔はあるでしょうね。元々戦士ですから、どんな場合にも備えておかなくてはなりません。その油断から犠牲になったのですが、この犠牲は、やはりヤマトタケル説話の悲劇としての要素になっています。無事生還では悲劇になりません。熊襲や蝦夷を平定して、大和政権の基盤が盤石になるためには、熊襲や蝦夷の屈辱的な思いを何かで晴らさなければならず、そのためにはヤマトタケルという英雄の死で贖われるという図式にハマる必要があったのです。倭人が大八洲を統合する必然性があったとしても、そのことで屈従を強いられる熊襲や蝦夷の思いを受け止めるための生け贄ですね。そのことでやっと平和が踏み固められるということなのです。

鬼検事:更に英雄ヤマトタケルは死んで白鳥に成ります。これを亡者やすいは近代日本史にオーバーラップさせるのです。明治維新から第二次世界大戦末までは日本は戦士だった。それが敗戦後平和憲法と共に白鳥になったというのです。つまり 『古事記』のヤマトタケル説話の中に近代史の図式が先取りされているということですね。平和のシンボルといえば鳩がよくあげられますが、鳩は虫を食べたりしています。白鳥は苔や藻しか食�