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ロンドン・チャイナタウンの文化空間――他の地域との比較の視点から――
王 維
1 は じ め に
1-1 問題意識
これまで海外のチャイナタウンの定義と性格について様々な議論が行われて
きた。それらをまとめてみると,主に下記のようなものになる。チャイナタウ
ンは�人種隔離ゲート(Peach,1996),�防御的飛び地(Waller,1985),�新
興の寄港地(Lai,1988),�商業的区域(民族経済的集結地)(Zhou,1992),
�文化的コミュニティ(Ling,2004)�海外のチャイナ(E. Luk,2008)など,
である。これらのいずれのチャイナタウンも,華人集団を主体として捉えてい
る。つまり,海外の多くのチャイナタウンは華人にとって商売の場であり,生
活の空間であり,訪れる人も中国系の人が主体とされている。このような議論
から見ると,日本の伝統的な中華街�はかなり特殊で異なる側面を持っている。
日本の中華街は中国人だけのコミュニティではなく,特に神戸や長崎の中華街
の場合には,そこに住んでいる人は少なく,生活の場所というよりも,むしろ
商業の街としての機能が強い。たが,同じ商業的区域として捉えられている
ニューヨークのチャイナタウンと比べると,まず新移民を受け入れる器でもな
ければ,在日中国人の商業活動の中心地でもない。つまり,経済中心の民族経
済的集結地としての機能はない。しかも,構成員の半分以上は中国系の人びと
ではなく,日本人である。横浜中華街でも多くの中国系の人びとが居住してい
(1) 本稿ではチャイナタウンと中華街を併用しているが,それは外国と日本のそれぞれの事情や文脈を考えた上で,表現して区別していることをここでことわっておきたい。
香 川 大 学 経 済 論 叢
第85巻 第4号2013年3月 103-150
るにもかかわらず,中華街を訪れる人達の多くは日本人である。つまり,日本
の中華街は,いろいろな意味で「日本的」であり,日本人を対象にイメージが
作られている。そのため,中華街が提供する料理や祭り,中国的商品などのサ
ービスも,日本人や日本人の観光客を主な対象としている。その意味において
は,北米や東南アジアの中華街と大きく異なっている。中華街における伝統文
化の創造活動では,日本人も中心的な役割を果たしてきた。日本社会と一体化,
つまり地域と一体化した中華街は,世界中のどこでも見られない中華街の姿で
ある。ロンドンのチャイナタウンは,また日本や北米とも異なっている。
同じチャイナタウンと言っても,国や地域,歴史や文化背景によってさまざ
まな違いがある。伝統的な生活空間を守りつつ,ホスト社会(他者)と衝突し
ながらも,文化や経済資本をもって共生の道を歩んでいくチャイナタウンもあ
れば,伝統的な生活空間という脈絡から脱落し,グローバル化の中で周辺の地
域社会(他者)と融合しながら再構築している中華街もある。さらに,グロー
バルの移動によって他のエスニック・グループ(他者)と接触しながら,新た
に伝統的な生活の空間に回帰し形成しつつあるチャイナタウンもある。このよ
うなチャイナタウンの多様性に対して,どのような視点から共時的あるいは通
時的にチャイナタウンの共通性を見出していくのかが,新たな課題になると思
われる。
そこで,これまで社会学,人類学分野において議論されてきたコンタクト・
ゾーンと社会空間という考え方を視野に入れ,複眼的な視点からグローバル化
のチャイナタウン,つまり,異質な文化(ホスト社会文化,他のエスニック文
化,サブエスニック文化)と交渉,融合,共存しながら構築されてきたチャイ
ナタウンについて論じてみたい。具体的に,ロンドンのチャイナタウンを例と
して取り上げ,日本の中華街,そしてサンフランシスコ・チャイナタウンと比
較するという視点から,チャイナタウンの差異性と共通性を考えてみたい。
1-2 概念
コンタクト・ゾーンという用語は Pratt(Mary Louise Pratt)著『帝国のまな
-104- 香川大学経済論叢 380
ざし(Imperial Eyes)』[1992]中で使われた概念である。Prattは下記のように
定義している。ソーシャル・スペース
「コンタクト・ゾーンという社会空間は,まったく異なる文化が出会い,衝
突し,格闘する場所である。それは,植民地主義や奴隷制度など……しばしば
支配と従属という極端な非対称的関係において生じる…。
コンタクト・ゾーンとは,植民地における邂逅の空間である。それは地理的
にも歴史的にも分離していた人びとが接触し,継続的な関係を確立する空間で
ある。それは通常,強要,根本的な不平等,そして手に負えない�藤を巻きこ
んでいる」[Ibid. p4](田中2007:31)。
このように Prattは,コンタクト・ゾーンを互いに異なる文化が接触してい
る領域として捉え,つまり支配者と従属者が出会い,交渉する領域として捉え
ている。
しかし,これはかつて「地理的かつ歴史的な分離によって…分かれていたが,コプレゼンス
いまやその軌道が交差することになった主体の空間的かつ時間的な共在を想起
させる試みである…『コンタクト』という言葉を使うことで,植民地での出会
いにおける相互作用的,即興的な次元を際立たせたい。それは,伝播主義者の
説明では簡体に無視され,また抑えられてきた征服と支配という次元である。
『コンタクト』という視点は,いかにして主体が相互の関係において,かつ相
互の関係によって構築されるのかということを強調する。それは植民地支配者トラヴェラー
と被支配者,旅行者とそれを受け入れる人びととの関係を,分離やアバルトヘ
イトによってではなく,しばしば権力の根本的な非対称的な関係が存在する中
での共在,相互作用,絡み合う理解や実践によって取り扱うつもりである」
[Pratt1992:7](田中2011:4)。ここでは,コンタクト・ゾーンの特徴が相
互交渉によって構築される世界として取り上げられている。
つまり,このような社会空間では現在,単に支配と被支配との関係ではな
く,遭遇することで派生する影響関係の中で主体が形成される。それは,支配
される側の主体性,その能動的な文化形成のありようを重視し,文化接触によ
る影響関係は双方向性を有するものであるという視点であろう。
381 ロンドン・チャイナタウンの文化空間 -105-
さらに,Prattは,コンタクト・ゾーンで生じる現象として,対抗的な表象
に言及し,トランスカルチュレーションという概念を提案している。彼女によ
ると,これは自己民族誌としての表象であり,従属的な立場にある非西欧人
が,支配的な立場にある西欧人あるいは都市民からかれらに伝えられるさまざ
まなものを活用することで新しいものを創出していく過程を意味する[Pratt
1992]。
ここで3つのポイントについて喚起したい。つまり,まずコンタクト・ゾー
ンは異なる文化が遭遇し,衝突し,格闘する社会空間とされること。次に,そ
の空間は現在,単純に対立的なものではなく,非対称的な関係の中で共在,相
互作用,絡み合う理解と実践の場所であること。さらに,コンタクト・ゾーン
では文化の混淆化と多元化が呈され,その現象として対抗的な表象にあるこ
と,である。チャイナタウンをコンタクト・ゾーンとして考える際,この3つ
の点を踏まえた上で検討したい。
次に社会空間という用語は文化人類学よりむしろ社会学や人文地理学の分野
でよく取り上げる概念である。その代表とされるのは Bourdieuの社会空間に
関連する資本とハビトゥスの解釈である。Crossleyの解釈では社会空間とは「ブ
ルデュー社会学の中にみられる鍵となる資本形態,たとえば経済資本,文化資
本,象徴資本,そして社会(関係)資本の配分によって構成される…諸個人が
これらの多様な資本形態の所有に応じて連続線上に置かれたり位置づけられた
りするのなら,そのかぎりにおいて私たちは,これら4つの一般的な諸資源
を,いやむしろこうした諸資源の配分を,(少なくとも)4次元からなる空間
の各次元として考えていくこともできる」(Nick Crossley2008:448)。
Bourdieuは『実践理性 行動の理論について』という本において「社会空間
と象徴空間」の項では,まず,社会空間とは実体論的ではなく関係論的に捉え
るべきであると強調する。社会空間とは明確に定義されて図式化されるもので
はなく,各行為者間の関係性を捉えていく中で浮かび上がっていくポジ(陽画)
であるということである。ある種の性質(気質など)が「差異,隔差,弁別的
特徴,要するに他の諸特性との関係において,かつそうした関係によってしか
-106- 香川大学経済論叢 382
存在しない関係的特性にほかならない」という。この差異や隔差の概念は空間
という概念の根底にあると Bourdieuは指摘し,彼にとって空間とは「明確に
異なりつつ共存する複数の位置の集合」にほかならない。「つまりたがいに相
手の外部にあり,他の位置との相互関係において,すなわち相互的外在性に
よって,また近接関係や隣接関係,さらには何々の上にとか下にとか間にと
いった序列関係によって定義される,そうした集合のこと」である(Bourdieu
1989(邦訳2007):20~21)。
このような社会空間における位置が決まっただけでは不十分で,ハビトゥス
も考慮される必要がある,と Bourdieuは指摘する。この点について Bourdieu
は「社会的位置の空間は,ディスポジション(あるいはハビトゥス)の空間を
媒介として立場決定の空間のうちに具体化して現れる。あるいは言葉を換えれ
ば,社会空間の主要な2つの次元においてさまざまな位置を決定する示差的な
隔差の体系にたいしては,行為者(または構築された行為者集合)の諸特性同
士,すなわち彼らの慣習行動や彼らが所有している財同士の,示差的な隔差の
体系が対応しているということである。位置の集合の各々にたいして,(ある
いは趣味)の集合が対応し,さらにこれらのハビトゥスとその生成能力を媒介
として,たがいにスタイルの親近性によって結び付けられている財や特性の体
系的な集合が対応している」のだと述べる。
さらに Bourdieuは「社会空間の総体を界として記述」し,「社会空間とはい
ろいろな力の界」だと指摘する。「力の界の必然性は界に参加している行為者
に不可避的に作用」する。「行為者は力の界の構造の中で彼らが占める位置に
応じて差異化した手段と目標を持って対決」し,そして「界の構造を維持した
り変容したりすることに寄与する」とある(前掲書:65-66)。
しかし,社会空間は現在さまざまな場で生成・変容している。モダニティの
人類学実践における社会空間は人々の生きる生活の現場において,異質的なも
のが共存する局面として捉えている。その関心は異質な関係性や志向や行為の
重層性・変容の過程にあり,そこにおける様々な関係性のずれや適応,抵抗様
態を把握することが目的とされる(西井・田辺2006:2)。
383 ロンドン・チャイナタウンの文化空間 -107-
ここで社会空間とは,人々が日常的実践の現場において,重層する関係性や
行動を生きているアクチュアリティにそって,異質な個人や関係性を共有する
場であると考える。そうした場合,身体を基点とするマテリアリティへの視点
と主体生成への視点を接合する場でもある。そこでは,他者とともに行為する
主体が社会空間を生成するプロセスと,また逆に,そこにおいて主体が生成さ
れるという二重プロセスがみられる(前掲書:9-10)。
上記のような視点をまとめてみると,次のようなものになる。社会空間は行
為者の資本の配分によって構成されるが,その際行為者の相互関係が重要視さ
れる。社会的位置の空間は,ハビトゥスの空間(慣習や性向)を媒介として立
場決定の空間のうちに具体化して現れる。社会空間はまたいろいろな力の界で
あり,そこで行為者が占める位置に応じて差異化した手段と目標を持って対決
することによって,界の構造を維持・変容することに寄与する。社会空間は異
質的なものが共存する場であり,具体的な人びとの生と社会関係がかれらの現
実の行為(実践)によって築き上げられて行く場である。本文は主にこのよう
なことに視点を置きながら,チャイナタウンをまたこのような社会空間として
考えてみたい。
2 ロンドンの華人�社会
2-1 イギリス華人の概況
歴史上,ヨーロッパ華人社会の中心は,イギリスであった。イギリス内務省
の資料によれば,イギリスのエスニック・グループの人口は2001年~2009年
の間に,およそ660万人から910万人までの250万人ほど増加している。特に
華人人口は2001年から2009年の間,毎年の増加率が8.6%であって,2009年
(2) イギリスでは華僑や華人,中国系移民などのことをチャイニーズ・ブリティッシュ,或いはブリティッシュ・チャイニーズと呼ぶが,その概念には,中国大陸,台湾,香港及び東南アジア出身の中国系移民が含まれる。そのような内容をもつチャイニーズ・ブリティッシュという語を,本稿ではロンドンとサンフランシスコを述べる部分「華人」という用語で統一し,日本についての論述では伝統的な学術用語「華僑」を用いたい。(なお,華僑と華人の概念については,王2001を参照)
-108- 香川大学経済論叢 384
の時点では45.2万人に達しているという。さらに最近になって,イギリスの
華人人口がすでに50万人を超えていると推測されている。しかし,華人人口
の数は急速に増加しているにもかかわらず,イギリスの人口総数のわずか
0.4%にすぎず,非白人のエスニック・グループのうちにも5.3%しか占めな
く,その人口の比率は南アジア(インド,パキスタン,バングラデシュなど)
の50%より遙かに低い�。なお,華人人口のうち約32%はロンドンに集中して
いるが,そのうちの70%は香港の出身者である。イギリスに香港人が多く移
住したのは,1997年まで香港はイギリスの直轄植民地であったからである。
もともと彼らの出身地は広東省であった。香港といっても,九龍の北側の新界
(ニューテリトリー)周辺の出身者がイギリスの華人人口の大半を示しており,
華人社会の中核を成してきた。中国の改革開放後,イギリスに大陸の出身者が
増加し,なかにも留学生の数は多くなっている。ロンドンの他に,イギリス中
西部にある港町のリバプールやかつて工業都市のマンチェスター,およびバー
ミガム,エジンバラ,グラスゴーなどでも,華人が多く居住するようになって
おり,各地でチャイナタウンも形成されている。
2-2 華人移住の歴史と現状
華人がイギリスへ移住する流れは歴史上3つの段階がある。
� 1850年代~1945年
初期にイギリスに入ったのはいわゆる「華工」,つまり広東省出身の契約労
働者である。これはそれより先にアメリカや東南アジアで行われた中国人契約
労働者の移住の経緯と相似しているが,その背景はアヘン戦争で敗戦した中国
(3) http://lkcn.net/news/content/view/1741/41/『英華新聞』2012年6月4日付け,Long-TermInternational Migration time series1991 to2010Components and adjustments used to estimateLTIM1http://www.ons.gov.uk/ons/taxonomy/index.html?nscl=International+Migrationhttp://www.mpldigital.com/omega-group/uk-chinese-times,http://www.ukchinese.com/英中綱,Pete Large and Kanak Ghosh. “Estimates of the population by ethnic group for areas withinEngland”National Statistics Centre for Demography Office for National Statistics9-10)
385 ロンドン・チャイナタウンの文化空間 -109-
の開港に関連している。中国の開港によって,イギリスの商人が中国に出入り
することは自由になった。そして,19世紀末頃から,東インド会社に契約させ
られた多くの中国人労働者が,中国からイギリスへの船で船員として働くよう
になった。この時期において,イギリスに入った華人があまり多くなく,しか
もそのほとんどは独身で若い男性であった。彼らは主にロンドン,リバプー
ル,カーディフのような大きな港を出入りしていた。後になって,故郷へ戻っ
たものもいれば,そのままイギリスに残ったものもいる。イギリスに残った華
人の中でもロンドンやリバプールなどでの定住を求める人もいれば,別の船会
社の契約を待っている人もいた。第1次世界大戦の際にヨーロッパ系の船会社
と契約し,船員として働いた中国山東省,浙江省,広東省,そして上海からの
労働者は約10万人いたという(Pidke1998)。戦争後彼らのほとんどは中国へ
戻ったが,�かの広東人だけイギリスにとどまって定住するようになった。
1851年頃イギリスの華人がわずか78人であったのに対して,1911年に1,319
人,1921年に4,382人,さらに1930年になると,その数は5,973人になって
いたという�。
なお20世紀初期,イギリスに渡った華人にはもう1つのグループがある。
それは香港,シンガポール,マレーシアなどイギリスの旧植民地から渡ってき
た華人系留学生であったが,中にはカリビアン,東アフリカなどほかのイギリ
ス植民地から来たものもいる。彼らのほとんどは学業が終わった後ホームへ
戻ったが,�かな一部だけイギリスに残留していた。
ロンドン初期のチャイナタウンの形成は上記のような経緯があった。つま
り,初期の華人は主に19世紀の植民地時代に東インド会社の船員として英国
に渡った船員達であった。彼らの多くは広東の出身者で,もともと流動性が高
い一時の滞在者に過ぎなかったが,次第に当初の海への出入り口であったロン
ドン東部テムズ川沿いのライムハウス周辺に定住するようになった。そして,
先に到着した船員達は新たに港から下船した船員に宿泊先などを斡旋した。や
(4) Wai-ki E. luk2007:47,呉2007:30
-110- 香川大学経済論叢 386
がて雑貨屋,洗濯屋,タバコ屋,靴の修理屋及びレストランなどが立ち並び,
初期のチャイナタウンの規模を成していた。それはロンドンでの初めてのチャ
イニーズコミュニティでもあった。1930年代以降,世界中の不景気によって
ロンドンに訪れる中国系船員がすくなくなり,船員を相手とする商売も徐々に
衰退していくにつれて,すでに定住していた華人の一部も結局帰国することと
なった。
� 1945年~1980年代
この時期の華人は主に香港を経由してイギリスに渡った広東人と広東系香港
人の2つのグループであったが,中には広東系香港人のほうが圧倒的に多かっ
た。彼らはイギリスに渡る背景が2つある。一つ目の背景としては,第2次世
界大戦直後英連邦の市民権所有者は英国臣民の地位が付与されたが,その英連
邦に旧植民地の香港も含まれていた。当時の香港人がイギリスへ入国すること
は自由であって,しかも入国と同時にすべての政治的社会的権利も行使でき
た。当時のイギリスでは,こうした移民の流入がもっぱら私企業によって受け
入れられることになっているが,香港の場合,親戚に頼って飲食業に従事する
ものが多かった。その背景には労働市場の不足から発生するような経済的な側
面がある一方,旧植民地という政治的文脈の中で決定されていたことでもあ
る。旧植民地からの移民によってイギリスは1960年代より移民労働力経済時
期に入っていた。
2つ目の背景は中華人民共和国の建立,および1950年代より香港の経済不
況や植民地政府よりの土地徴用などのような出身地の事情であった。香港人の
場合移住する自体それほど難しいことではないが,広東人の場合,その移住は
主に香港にいる親戚に頼っていた。つまり,まず親戚に頼って香港に渡り,そ
れからイギリスに移住するような,いわゆる伝統的家族連鎖的な移民ルートで
あった。戦後から1960年半ばまで,華人の人口は約6万人に達していた(Wai
-ki E. luk2007:47)。1960年代半ばから香港系の華人はさらに増加し,その主
な職業は中華料理業であって,しかも,家族経営式の店が多く見られるように
387 ロンドン・チャイナタウンの文化空間 -111-
なった。伝統的かつ独特な職業及び家族経営式によって,連鎖的な家族移民は
さらに活性化し,この時期における主な移住形式となった。
しかしその後,イギリスでは民間企業が自由に旧植民地からの労働力を導入
できた時期も終焉を迎えることになった。旧植民地からの移民は,人種の上で
非白人の有色人種であり,こうした有色人種の増大を嫌悪する風潮が強まった
ので,彼らの入国を制限する方向へと政策が変化したのである。
中国系移民は香港人や広東人以外,この時期にイギリスの移住が見られな
かったのは,こうしたイギリスの移民政策に関連していた。実は1962年から
1990年代終わりまでイギリスの移民政策とは,出来る限り移民を入国阻止する
ためのものであった。1962年の英連邦移民法(Commonwealth Immigrants Act)
が,有色移民を制限するという意図の下作られた法律であるが,戦後最初の移
民政策の転換点はこの移民法にある。ここでは英連邦諸国といっても,英国本
土生まれでない限り入国審査の対象とするという内容を盛り込んでいた。しか
し,入国の際に,就業先が決まっている者,イギリス国内で必要とされる技術・
資格を持つ者以外は,外国人労働力としての入国者数に制限が設けられた。
1968年英連邦移民法が改めて改正された。この法律では,両親ないし祖父母
のうち1人でもイギリス国内で出生していない者については,入国制限の対象
とした。さらに1971年英連邦移民法この法律により,パトリアル�という概念
が提出された。この概念は,その血統をイギリスに�ることが出来る者を指
し,この人たちだけがイギリスへの定住権を獲得することができた。パトリア
ル以外の人は,労働許可証を保持しない限り入国不可能となり,定住と労働の
自由を拒否されることになった。英国政府のパスポートを所持していても,他
の外国人と同様に12か月間有効の労働許可証が必要となったのである。
このような一連の移民法の下で,1971年時点で法律上,イギリスは英連邦
国の人であっでも,イギリスに親戚や友人及び仕事がない外国人(中国人も含
めて)はイギリスに入国はほとんど不可能である。しかし,現実には家族の呼
(5) patrial:英国籍所有者。自由居住権者と訳す場合もある。
-112- 香川大学経済論叢 388
び寄せあるいは婚姻を目的とする入国によって,1971年移民法成立後も,イ
ギリス国内在住の移民数は増加したのである。イギリスに血縁(家族),地縁
(同郷),業縁(職業=中華料理業)がある大陸の広東出身者,そして香港出身
者はその縁故に頼って1960年代後半から1980年代初期まで,イギリスに渡っ
た人は少なくなかった。1970年代において中国や東南アジアの政治,社会情
勢によって,イギリスに新たに移住してきた華人は,仕事を目的とする者だけ
ではなく,留学生,政治亡命など民主自由を求める者が多く見られ,中には香
港を経由しイギリスに入った中国本土の出身者,そしてシンガポール,マレー
シア,ベトナムの華人も含まれる。1970年代の末頃イギリスに在住の中国系
の人口はすでに96,035人に達していた(前掲書:46-47)。
� 1980年代~現在
この時期は従来と異なり,華人の移住は最も多元的であり,新しいディアス
ポラが見られた。前記のように,1960年代をピークにイギリスに移住した華
人の多くは貧しく,教育レベルが低く,同じ夢をもつ異境地にいる寄寓者のよ
うなものであって,比較的に均質的であった。しかし,1980年代以降イギリ
スの華人が移住する背景には,出身国中国の政治や経済の台頭,東南アジア諸
国における華人への差別,経済のグローバル化,交通手段の発達,移民政策の
変化などが取り上げられるが,その出身国は中国に限らない。この時期にイギ
リスに渡った華人は以下のようなグループに分類することができる。
まず,これまで移住の延長線にある香港人のグループである。1980年代に
なるとイギリスに生まれる華人が増加したにもかかわらず,依然として家族や
親戚に頼ってイギリスに渡った人は多い。これも従来のイギリスの移民政策の
結果でもある。つまり,前記のように1960年代特に1970年代にイギリス政府
は移民を制限し,その移住は入国の際に,就業先が決まっている者,イギリス
国内で必要とされる技術・資格を持つ者,そしてすでにイギリスの居住権を持
つ人の家族だけに限定する政策を実施した。香港人の場合,1960年代ピーク
にイギリスに移住したのは,新界出身の男性単身農夫が多く,そのほとんどは
389 ロンドン・チャイナタウンの文化空間 -113-
中国料理に関わる飲食業に携わり,稼いだお金を故郷の家族に定期的に仕送り
をしていた。この時期の女性達は,故郷で夫の仕送りによって親や子供の世話
をして暮らしていたのである。だが,より安い手軽な中国料理のテイクアウェ
イ・ショップが多くなり,家族の労働力が必要となったため,1970年代から
家族労働力としての家族の移住が顕著に見られるようになった。このような移
住形式は,1980年代以降も続いていた。初期に移住してきた単身男性は,故
郷に帰ることを夢見ていたが,家族移住によって妻や子供もイギリスに住むよ
うになると,彼らは家族でイギリス社会に根をはって生きるように変化してき
た。
1980年代以降イギリスに移住した香港人の中では,1997年の香港返還前後
にイギリスに移住してきたいわゆる「ニューカマー」も含まれていた。1981
年国籍法は,当時まだ独立していなかった地域の住民について,独立後に英国
政府がなんらかの移民政策上の優遇措置を与えることを想定していなかった。
1981年時点でまだ残っていた英領植民地の中で,最大の人口を抱えていた香港
に対しても同じであった。1985年香港法(Hong Kong Act1985)制定の結果,
1997年の中国返還までに申請した者については,「イギリス属領地市民」から
「イギリス公民」への切り替えが可能となったが,イギリス政府は「イギリス
公民」に対しては英国への入国及び居住の自由を認めなかった。1990年国籍
法でも,専門職優先などの厳しい資格を設け,受入数が厳しく制限された(柄
谷2003:186-188)。
しかし,イギリス側が制限したほどには,香港からイギリスへの移住はな
かった。移住先として,カナダ,オーストラリア,アメリカ,シンガポールの
方が,より好まれたからであり,便宜を図るためイギリスのパスポートだけ必
要とした人も多かったからである。香港を離れた人の一部はビジネスなどの理
由で香港に戻ったり,或いは「宇宙人」のように香港と移住国の間を往来した
りしていた。1990年代後半の香港から世界へ流出した移民総数は,1996年に
は40,300人,1997年には30,900人,1998年には19,300人と減少している
[Benton and Gomez2008]。
-114- 香川大学経済論叢 390
第2のグループは中国大陸からの移民である。世界他の地域に分布している
華人の新移民と同様に,移住の背景には出身国と移住国の押しと引き2つの要
因がある。押し要因として,1978年の中国改革開放及びその後1990年代以降
の移住自由開放政策は,大陸からの移住者が増加する引きがねとなった。引き
要因として,2000年前後イギリスの移民禁止政策が大きく転換し,積極的受
入れ政策へと転じることであった。これはイギリスの労働市場の需要,そして
北米の移民政策に影響されるものでもあった。福祉国家として,イギリス政府
は公共サービスの質を低下させないために不足する労働力を移民として導入す
ることが必要と判断し,2000年に労働許可制が改正され,医師,看護師,教
員,IT関連職種に就労する移民の規制緩和が実施された。また労働許可証の
有効期限が従来の4年から最長5年間へと延長され,EU域外外国人も大学卒
業後は従来のように一旦はイギリス国外に出国する必要性がなくなり,卒業後
に労働許可証を取得することが可能となった。
一方,1990年代後半に,アメリカを中心としてニューエコノミーブームと
なり,まずアメリカが IT技術者不足から H1-Bヴィザ枠を拡大して専門技術
者をインド,中国を中心に世界各地から受け入れた。この潮流は,世界で希少
な IT技術者を国家間で獲得する競争となり,カナダ,ドイツ,日本との競争に
負けぬようイギリスも高度技能移民導入プログラムを2002年から導入し,そ
の際まず多くの留学生や技能者の移住を受け入れた。この政策は留学生の就職
に大きな可能性を提供し,それは多くの留学生が学業が終わってもそのままイ
ギリスに残り仕事ができる要因となった。イギリスは海外から受け入れる留学
生の数がアメリカに次ぎ2番目に多いが,特に最近イギリスでの留学生のう
ち,中学校や高校からイギリスに渡った者の増加が著しい。中国大陸からの新
移民は1990年から増加し始め,1991年に400人ほどであったが,2003年の数
は2,600人であった。そして1991年から2001年までその数は22,058から
48,459まで倍増した(Wai-ki E.luk2007:214)。2010年にイギリス政府は留学
生の入国及び学業後の就労を規制する法令を改正したが,それによって今まで
のように留学生が卒業をしてからそのままイギリスに残り,仕事につくことは
391 ロンドン・チャイナタウンの文化空間 -115-
容易ではなくなった。2008年の国勢調査では,グレーター・ロンドンに居住
している中国で生まれた華人の数は12万ほどに上り�,そのうち留学生の数は
約6万人という(Robin Pharoah2009:10-11)。
もう一つのグループは東南アジアからの中国系移民である。1991年国勢調
査によると,イギリスの中国系移民の出身地は,香港(34.07%),イギリス
(28.44%),中国(11.79%)(2001年:19.22%),マレーシア(9.66%),ベ
トナム(6.02%),シンガポール(3.10%),台湾(1.04%),タイ(0.44%),
フィリピン(0.26%),日本(0.13%),その他(5%)である(Wai-ki E. luk
2007:72Table2.7)。
3 華人の伝統的職業及び分散型居住形態
戦前までイギリスにおける華人の経済活動は,主に洗濯業と中国料理業であ
る。イギリスの初期の中華料理店は,1930年代にリバプールやロンドンの波
止場に小さな飲食店ができたことに始まる。前記のように1950年代,経済不
況とイギリス政府の土地の徴用などで,イギリスの旧植民地である香港から広
東系移民がイギリスに一気に流入した。しかし,言葉や人種差別などの問題に
よって,職を見つけにくく,やがて中華料理店を開くしかなくて,特にテイク
アウェイのような中華料理店が多かった。1970年代に入っても,さらにテイ
クアウェイの店が増加しつつあった。テイクアウトの店は各地域に散在するた
め,イギリスの華人は比較的に分散して居住している。その主な原因は,他の
店と競合しないように全国に散らばる必要があったからである。この形式はイ
ギリスだけでなく,ヨーロッパ全体に見られる中華料理店の特徴である。散住
型かつ目立たない存在であるのはイギリスの華人の最も大きな特徴として付け
られているが,かれらは「サイレント・マイノリティ」といわれてきた[Benton
and Gomez2008:172]。そのため,イギリスの華人は他の地域と比べると,伝
統的な華人組織が少なく,機能も弱いと見られる。
(6) Office for National Statistics, UK,“Control of Immigration : Annual Statistics”; HomeOffice,2008
-116- 香川大学経済論叢 392
華人の分散型居住形態は統計から見ることができる。2001年国勢調査によ
れば,最も多いグレーター・ロンドンに居住する華人人口は80,210人である
が,それはイギリスの全中国系人口247,403人の32%しか占めていない。そ
して,グレーター・ロンドンにおいてさえ,中国系人口が2%以上を占める
地区はない(�2006:3)。また中国系移民は10人中9人が中国系人口1%以
下の地区に住んでいるのに対して,西インド諸島系は21%,インド系は18%,
パキスタン系は14%,バングラディッシュ系は30%しか1%以下の地区に住
んでいない[Benton and Gomez2008]。
ところで,何故イギリスでは中華料理,特に中華のテイクアウェイ・ショップ
が受け入れられるようになったのだろうか。実はイギリスの民衆が,中華料理
に「目覚める」そして中華料理がイギリスで定着するようになったのは,第2
次世界大戦以後のことである。その原因は主に以下のようなことと考えられる。
まずホストイギリス社会の原因として,戦後イギリス人の飲食に対する嗜好
の変化が挙げられる。それは第2次大戦中に中国で任務をしていた英兵士がイ
ギリスに帰還したことに関係している。彼らの影響もあり,国内において,中
華料理に対して関心が徐々に高まってきたことである。また,戦後のイギリス
の経済を支えてきたのは移民労働力であった。移民によってもたらした中華料
理業を含むエスニック料理が安くて美味しい,そして手軽く食べられることが
イギリス人の飲食に対する嗜好の変化を与えるもう1つの要素として挙げられ
る。
次に移民側の要因としては,飲食業にはそれほど言語のレベルが必要としな
いこと,そして,華人の大量の移住によって中華料理の消費者ができたこと,
華人が中華料理に拘る嗜好もイギリス社会に影響を与えたこと,などが考えら
れる。イギリスの中華料理店のうち特にテイクアウェイのような中華ファスト
ショップが多いということも,普通の中華料理店を経営するより,労働力や税
金などが安く,リスクが高くないからであろう。実はテイクアウェイの店の中
でも中華料理を提供する傍ら,フィッシュ&チップスも売っているところもあ
る。
393 ロンドン・チャイナタウンの文化空間 -117-
テイクアウェイの店は最初コインランドリーがある場所から分布し,後に都
市だけではなく,小さい町にも散在するようになった。
テイクアウェイは各地に散住することに対照して,チャイナタウンは主に中
華料理店が集中している。現在のチャイナタウンは実は1960年代以降,香港
人の移住によって形成されていたのである。
1960年代のイギリスは景気の低迷に入り,地価はそれほど高くなかった。
2千ポンドがあれば一軒の料理店を開ける時代ではあったが,当時にしては大
金であったため,店を開くためにはやはりある程度の財力が必要であった。よ
く見られたのは何人からか資金を集めて,共同で一軒の中華料理店を開く形式
である。
しかし,当時の中華料理は現在のように多様ではなかった。1960年代頃,
当時のロンドン・チャイナタウンでも中華雑貨や中華風のスーパーマーケット
がなかった。華人達はなかなか本場の中華材料を手に入れることができず,市
場で買えたのは極限られているイギリス風の野菜だけであった。それを使って
各種の肉類を合わせて炒め,中華風料理にしたのだが,意外にも料理の種類が
少ない当時のイギリス社会に受け入れられて,中華料理ブームまで引き起し
た。そのため,開業した中華料理店のほとんどは景気がよかったという�。1970
年代になると,やがて中華風スーパーマーケットができて,中華料理に使う原
材料も手に入りやすくなったため,中華料理店の料理の品も多くなり,質もか
なり本場らしくなった。それにつれて,中華料理店の商売もますます繁栄して
いった。
特に1970年代,家族がイギリスへ渡航することが許可されたため,多くの
華人の家族は香港からやってきた。それとともに,香港系の中華料理店は雨後
の筍のようにイギリスの全国に現れるようになった。さらに,1980年代に入
ると,政府によって中華料理店が直接に香港のコックを招くことが許可される
ようになると,多くの中華料理店は高賃金で香港から有名なコックを招き,料
(7) 華埠商会前会長李志章氏の教示による(2010年8月)。
-118- 香川大学経済論叢 394
理の質はさらに高められ,次第に本場の香港風広東料理がイギリスに定着する
ようになった。それに伴って,イギリス人も徐々に中華料理の深さが分かるよ
うになり,中華料理はイギリスで花が咲く時期を迎えた。
なお,中華料理店はテイクアウェイと異なる意味合いを持っていた。後者は
ロンドンをはじめ,イギリスの各地に見られ,早く安いということで,一般の
市民やイスラム以外の移民にとって日常的な存在である。前者は華人達にとっ
て日常的存在であるのに対して,現地人にとって異文化の体験のような非日常
的なものである。つまり,テイクアウェイの消費者は主に現地社会の人々であ
るのに対して,中華料理店の消費者は華人を中心とするが,一部の現地人も含
まれている。
このように,中華料理業がチャイナタウンに多くの客を呼び寄せることがで
きるのは,華人社会内外の2つの背景がある。つまり,華人の増加による日常
的中華料理と中華食料品の消費者数の拡大という華人社会内部の要因,そして
戦後のイギリスでは中華料理の需要と受容によって一部の消費者層が現れたと
いう華人社会外部の要因である。しかし,チャイナタウンが本格的に整備され
るまで,チャイナタウンの主体はやはり華人であり,チャイナタウンは華人の
ビジネスの集結地であると同時に一部華人の生活の場であった。華人によって
作られた香港系中華料理はチャイナタウンのブランドの1つとなり,チャイナ
タウンのゲートや道路などのようなハードウェアが建設される前に,チャイナ
タウンソフトウェアとして用意されていた。
4 ロンドン・チャイナタウンの形成と発展
4-1 チャイナタウンの形成
ロンドンにはいくつかのチャイナタウンがあると言われているが,初期の
チャイナタウンはロンドンの東のライムハウス地域を指している。つまり,前
記のように19世紀の植民地時代に東インド会社の船員として英国に渡った広
東系移民たちは,当初は海への出入り口となるロンドン東部テムズ川沿いのラ
イムハウス地区に最初のチャイナタウンを形成していた。初期の華人は常に人
395 ロンドン・チャイナタウンの文化空間 -119-
種差別の対象とされ,上位社会に排除された一方,一部の上流階級にとって
は,チャイナタウンがエキゾチック,神秘性の�れる幻想的空間であって,
「東旅の門」(Gateway to the East)と呼んでいた。第2次世界大戦前まで,チャ
イナタウンが犯罪かつ貧困,不思議かつエキゾチックな町として文学作品や映
画などを通してイメージされ,次第にイギリス的な東洋認識となってきた。特
に第2次世界大戦でロンドン東部が破壊的な打撃を受けると,ロンドン東部の
チャイナタウンはほぼ壊滅する。
1960年代広東系の香港人の増加にとともに,多くの華人は,当時はまだ売春
宿が散在しており,土地の値段も極めて低かったソーホー地区に進出し,彼ら
の居住や商売によって新たなチャイナタウンが形成されていた。これは現在ま
で続いているロンドンのいわゆる「チャイナタウン」の原型である。ソーホー
地域のメインストリートであるジェラード・ストリートの地域(Gerrard street)
は17世紀末頃成立し,当時多くのアーティストがこの地域に居住していた。
写真1 ライムハウスの旧跡 Source : The English IllustratedMagazine July1900
写真2 ライムハウス時代の華人についての記事
出典:http://www.bbc.co.uk/radio4/factual/chinese_in_britain2.shtml
-120- 香川大学経済論叢 396
1800年代半ばまちが衰退した。この地域は物件が安いということで,19世紀
半ば頃より,フランスやハンガリーなどヨーロッパからの移民やユダヤ人の亡
命者が移住し,いくつもの移民コミュニティが見られたことで,移民のタウン
に変身したのである(City of Westminster2005:3)。
つまり,ロンドンのチャイナタウンは1950年代に形成され,パリ13区の
チャイナタウンよりも大きく,現在ヨーロッパにおける最大規模とされるが,
現在のようなロンドンのチャイナタウンが正式に整備し発展したのは,1980
年代以後のことである。
4-2 チャイナタウンの発展
1978年にチャイナタウンの発展をするためにチャイナタウンの有志達に
よって「倫敦華埠街坊会」(後に倫敦華埠商会と改名。以下は華埠商会で統一)
が設立された。その背景には華人達が抱えた二重的なジレンマがあった。当時
の香港はまだイギリスの植民地であるにもかかわらず,香港系華人はイギリス
人と同じような扱いをされるどころか,常に人種差別的な対象とされていた。
その1つの現れとしてチャイナタウンにある多くの店は常に地元の一部の人に
よって起こされた理由のない金銭的な悶着を受けていた。彼らは勝手に店に
入って食べて,そして払わず帰ってしまうが,チャイナタウンはまだ正式に認
められていなく,店主達はどこでもその是非を裁判してもらえない立場にあっ
た。
一方,1980年代前後,中国の国際影響力の増大及びイギリスとの関係の改
善などによって,華人達は宗主国の臣民より中国系移民(中国人)として主張
することも可能となった。このようにイギリスの宗主国の国民そして中国系移
民という2つの立場から,イギリス政府と堂々と会話し交渉できる窓口が必要
とされた。「倫敦華埠商会」が設立した後,まず宗主国の国民としての立場か
ら,所在地のウェストミンスター政府に,自分達の正当性を訴えながら,常に
遭遇した差別的なことの是非を求めた。その結果として政府の関係者が調停に
乗り出すことによって,支払いや賠償などの問題が解決できた。これはチャイ
397 ロンドン・チャイナタウンの文化空間 -121-
ナタウン組織が政府との会話を通して納めたはじめての成功であったが,それ
以来同じ問題がほとんど起こらなかった。
「倫敦華埠商会」が当時において抱えたもう一つ重要なことはチャイナタウ
ンの整備であって,政府の協力を必要としていた。1970年代の末頃,チャイ
ナタウンに中華料理店を始め中国物産やスーパーマーケットなどの店舗が多く
なりつつあるにもかかわらず,正式にチャイナタウンとしてまだ政府に認めら
れていなかった。倫敦華埠商会初代の会長李志章の話によると,彼は当時政府
と交渉するとき,華人達が1950年代にこの地域に来てから特に中華料理業は
イギリスにいろいろ貢献をしてきたが,政府として華人達のようなエスニッ
ク・グループの成績と発展をサポートするべきであるし,英国と中国との国交
も樹立したこともあり,華人の町としてチャイナタウンの設立を支援してほし
いという話を持ちかけていた。一連の会話や交渉の段階を踏んだ後,ウェスト
ミンスター政府はチャイナタウンの建設の提案を受け入れて,1985年にチャ
写真3 春節期間中ロンドン・チャイナタウンのゲート(2013年2月)
写真4 あずまやで寛いでいる多様なフェイス(2010年8月)
-122- 香川大学経済論叢 398
イナタウンに中華式ゲートと中華式あずまやを建設し,チャイナタウンの道路
も舗装した。その意図にはチャイナタウンは都心近くに位置し,都市の重要な
観光地としての役割を果たせるためである。それによって「倫敦華埠」つまり
ロンドン・チャイナタウンは正式に成立することになった。チャイナタウンの
成立につれて,ますます多くの店が進出してきた。
4-3 今日のチャイナタウン
今日のチャイナタウンは,ジェラード通り(Gerrard St),ウォーダー通り
(Wardour St)の一部,ルパート通り(Rupert St)とルパートコート(Rupert
Court),シャフツベリー通り(Shaftesbury Avenue)の一部,ライル通り(Lisle
St),マックルズフィールド・ストリート(Macclesfield St)とニュー・ポート・
プレイス(Newport Place),ニューポート・コート(Newport Court),そして
リトルニューポート通り(Little Newport St)などの地域を網羅している。区域
内に中華料理店は78,薬屋,雑貨,スーパー,旅行代理店など53,他にバー
やパブなど12店舗がある。
ジェラード通り(Grerrard Street:爵禄街)は最も賑やかで,チャイナタウ
ン大通りといったところで「倫敦華埠」(ロンドン・チャイナタウン)と書か
れた中国式の赤い牌楼が3か所にもうけられており,チャイナタウンのシンボ
ルとなっている。チャイナタウンの内の電話ボックスも中華風の赤いつくりに
なっており,そして中国式のあずまやも立てられている。
チャイナタウンにある多くの中華料理は,「飲茶 Dim Sam」などの看板を出
しており,広東料理店が多いことを示している。それは香港的な景観でもある。
現在,チャイナタウンは中国系の人だけでなく,各国からの旅行客までも集
まる観光名所となっている。ロンドンの中心地でピカデリサーカスは,三越な
どの日系デパートもある賑やかな場所であるが,その近くには,映画館,劇場,
レストラン,ナイトクラブなどが多い歓楽街ソーホーである。ロンドンのチャ
イナタウンはこのソーホーの一角に位置しており,観光地の立地条件としては
非常に恵まれている。
399 ロンドン・チャイナタウンの文化空間 -123-
ロンドンのチャイナタウンは横浜中華街と性格がよく似ている。どちらも都
心近くに位置し,その都市の重要な観光地として成立している。中国料理店が
集中する観光地であり,しかも広東系の出身者が多いという点でも,ロンドン,
横浜の両チャイナタウンは共通の特色を持っている。規模でみると,ロンドン
のチャイナタウンは横浜中華街のおよそ3分の1といったところだろうが,ロ
ンドンのチャイナタウンはイギリスをはじめヨーロッパだけではなく,世界各
図1 ロンドン・チャイナタウンの分布図
Barnet NewChineseCommunity
LimehouseTower Hamlets
West EndChinatownWestminster
ロンドンの中心部
ロンドンの近郊
図2 ソーホー・チャイナタウンの位置 図3 チャイナタウンの構図
-124- 香川大学経済論叢 400
地の観光客を集めている。しかし,日本の中華街と異なるのは,ロンドンの
チャイナタウンは,海外中国系世界の情報の発信地であり,スーパーやレスト
ランなどは,チャイナタウンの周辺だけではなく,ロンドンに居住している中
国系の人達にとって日常生活に欠かせない存在である。
ロンドンのチャイナタウンが現在のような観光地,特に世界各地からの注目
を集めるようになったのは,実は2000年代に入ってからのことである。特に
チャイナタウンからスタートしたチャイニーズ・ニューイヤー行事が,2002
年当地の政府の参画と協賛によって拡大されてからである。その背景に大きな
経済的発展を遂げている中国の台頭及びその国際社会での影響力の増大が見ら
れる。それによって,チャイナタウンは地元の政府だけでなく,中国政府とイ
ギリス政府との関係にも重要な位置が占められており,現在英中政府間の文化
交流の窓口の1つとして大きな役割を果たしている。
5 チャイナタウンとチャイニーズ・ニューイヤー
5-1 チャイナタウンにおける春節行事
チャイナタウンの春節を祝う行事は1970年代つまりチャイナタウン華埠商
会ができる前に始まっていた�。1971年の時点ではイギリスにいる香港人特に
新界からの香港系華人はすでに5万人ほどに達しており,その多くはソーホー
のジェラード・ストリートの周辺に点在していた。かれらはレストランやテイ
クアウェイなどの飲食業に集中し,ヨーロッパ社会の注目する焦点ともなって
いた。1971年に華人の春節祭行事は,今のチャイナタウンの区域であるジェ
ラードストリートを中心に行われていた。中華料理店の店主達は獅子舞や龍舞
を演じたが,祭りの参加者は主に男性だった。中には非チャイニーズもいたと
いう。しかし,1972年にはこういった行事が見られなかった。その理由はネ
ズミ年ではよく病気などを発生するので,あまり新しい事業や祝いごとが望ま
(8) Chinese New Year Celebrations in London1971-1973by A. ROY VICKERY and MONICAE. VICKERY, : Folklore, Vol.85, No.1(Spring,1974), pp.43-45Published by : Taylor &Francis, Ltd. on behalf of Folklore
401 ロンドン・チャイナタウンの文化空間 -125-
しくないことにあった。そして,1973年の丑年には,ジェラードストリート
で再び盛大な行事が行われたが,地域の一部の人から反対の声があった。それ
はあまり発展してない地域が,新年のイベントを手段として,チャイナタウン
を公共区間にしようとすることに脅威を感じたからである。それにもかかわら
ず,1973年の春節イベントはより盛大となり,地下鉄の駅にもポスターなど
が貼られて,この地域を訪れた者は華人だけでなく,多くの現地の人や観光客
も含まれていた。演じものの1つであった獅子舞の踊り手に香港から来ても
らった人もいて,祭りの収益の一部はかれらに支払ったという。当時ではチャ
イナタウン内の商業組織ができておらず,新年の行事は主に当時チャイナタウ
ンの店主達によって自主的に行われていた。
1978年,華埠商会が設立されてから,チャイナタウンの店主達は定期的に
春節祭を開催することを計画し実施した。李志章の話によると,彼らは自分達
でお金を集めて春節を祝うイベントをしていた。当時の規模は小さく,屋台を
開き,獅子舞の採青�を行うことが主な内容であった。そしてチャイナタウンに
小さい舞台を設けていた。最初その舞台は歌が好きな人のためのものであっ
て,自分達が歌いながら楽しんでいた。次第にアマチュアやセミプロの人達に
よってコンサートや民族楽器の演奏,武術などが舞台で演じられるようになっ
て,舞台は鑑賞する意味合いが濃厚になった。当時の行事は主に春節前後の日
曜日に行われ,チャイナタウンでの1日だけのイベントであった。
1985年にウェストミンスター政府によってチャイナタウンのゲートの建設
と一部の道路の舗装が完成された後,チャイナタウンをもっと多くの人に知っ
てもらうため,春節祭をチャイナタウンから,そのすぐ近くにある小さな公園
広場レスタースクエアー(Leicester square)で開催するようになった。イベン
トにロンドンにいる中国系新移民の芸術家のグループの演奏も登場した。しか
し,その周辺には映画館や劇場,カジノなど娯楽施設が多く,普段でも観光客
(9) 採青は「生財」と関係づけられている「青」は「生菜」(生野菜)を指すが,「生菜」は「生財」(財を成す)と同じ発音なので,獅子が「生菜」を採るのはめでたいこととされている。
-126- 香川大学経済論叢 402
など人の流れが多いが,春節の時期になるとさらに混雑していた。その上,毎
年春節祭に訪れる人が増加し,道路がほとんど歩けないほど混雑するように
なっていた。
春節のイベントの会場について華埠商会は何回も市政府と交渉し,双方で2
つめのチャイナタウンを作る必要があるかどうかなどを含めていろいろな提案
を考えてみた。丁度その前後にトラファルガー・スクエア(Trafalgar square)
が大規模的に,新しく整備され,市長も交代する時期であった。
2001年,華埠商会は新しい倫敦市長をチャイナタウンに招いた。その際,
市長にトラファルガー・スクエアで春節イベントを開催しようという意思を示
したとき,市長は積極的に応じてくれた。その理由にはこの広場でイベントを
するのはチャイナタウンが初めてのマイノリティグループであること,ロンド
ンは世界のトップの都市として,ヨーロッパに最大なチャイナタウンを持つイ
メージをアピールできることがある。華埠商会はそれについて早速検討し,
2002年春節イベントはトラファルガー・スクエアで開催することが実現でき
た。2012年まですでに11回ほどおこなわれていたが,2012年のチャイニー
ズ・ニューイヤーはロンドンオリンピック年の最初のイベントとして位置づけ
られていた。
運営組織は華埠商会を始め,チャイナタウンライオンズクラブ,チャイナタ
ウンのチャイニーズ・コミュニティセンター,さらにウェストミンスター政府
の関係者によって構成される。しかし,日本の中華街と異なり,実際イベント
の実施は,運営組織によるものではなく,ロンドンのフェスティバルのマネジ
メント会社に依頼される。そして,150人程の華人のボランティアも参加して
おり,中には中国大陸から来た新移民も含まれる�。
トラファルガー・スクエアでのチャイニーズ・ニューイヤーの期間は2011
年までは1日だけであったが,チャイナタウンではその前日から獅子舞の「採
青」が行われている。チャイニーズ・ニューイヤーの期間中,チャイナタウン
(10)2010年の時点でチャイナタウン華埠商会の呉国�会長(2010年9月),チャイニーズ・コミュニティセンターの会長 Christine Yau(2013年2月)の教示による。
403 ロンドン・チャイナタウンの文化空間 -127-
をはじめ,トラファルガー・スクエアとレスター・スクエアで様々なイベント
が繰り広げられる。ここで注目したいのは,チャイニーズ・ニューイヤーが
2002年より拡大されてから,毎年中国国務院僑務弁公室から文化芸術団を派
遣することである。つまり,チャイニーズ・ニューイヤーはロンドン・チャイ
ナタウン或いはロンドンのイベントだけではなく,国家間レベルの文化交流行
事となっていたことである。トラファルガー・スクエアの舞台に演じる音楽な
どイベントは,現地の華人やその子供達による獅子舞や龍踊り以外,文化芸術
交流団の演技も加えるようになった。それによって,チャイニーズ・ニューイ
ヤーは年々規模が大きくなってきた。
春節行事の最大の目的は中国の伝統文化をホスト社会に紹介し,華人のこと
を知ってもらい,チャイナタウンをアピールすることである。それと同時に華
人達に自分達のルーツ,そして春節を自分達の結束の紐帯の1つとして再認識
してもらう。当然ながらチャイナタウンに大きな経済利益がもたらされる。
2011年よりチャイナタウンの中ではイベントが1週間程行われることに
なった。期間中,仮装パレード,獅子舞,龍舞,踊りなどが参加している。そ
して,チャイナタウンを中心にレストランにて獅子舞の採青も行われる。イベ
ント会場は,トラファルガー・スクエアの舞台では獅子舞,龍舞,そして中国
写真5 チャイニーズ・ニューイヤー(2011年2月)
-128- 香川大学経済論叢 404
からの芸術団による芸能を中心としているのに対して,レスター・スクエアで
は飾り物や花火大会を中心とするように振り分けされている。2012年ロンド
ンオリンピックの年であったため,チャイニーズ・ニューイヤーはオリンピッ
クに関連する行事のスタートとして,トラファルガー・スクエアでミニ万里長
城つくり,夜はレーザーで輝くようになり,イベントも夜遅くまで繰り広げら
れていた。舞台に龍踊りなど登場するが,太鼓のリズムに合わせてネルソン記
念柱及び周辺はレーザーによって龍を始め様々な模様も呈していた。ロンドン
のチャイニーズ・ニューイヤーは日本の長崎より期間が短いものの,規模とし
ては現在中国以外の海外で最も大きいと言われる。
なお,春節行事に関する資金について,2002年以前まで春節の行事に関わ
る資金主にチャイナタウンで商売している店主からの出資であったが,2002
年のチャイニーズ・ニューイヤーは地元のウェストミンスター政府が資金を出
していた。以来,政府からというよりむしろ地域の企業などのスポンサーから
の資金と協賛金である。
5-2 変容するチャイナタウン
1990年代以降,中国大陸の新移民の到来によってチャイナタウンの変容を
もたらした。従来広東系出身者特に香港系の移民はチャイナタウンの主人公で
あったが,新しい移住者は中国の各地,とりわけ東北や福建地域からイギリス
に渡ってきたものが多い。彼らは現在チャイナタウンの新しい労働者とされ
る。
東北の出身者は留学生としてイギリスに渡るものが多いが,その目的は学業
ではなく就労であって,しかもよく見られるのは親も伴って移住していること
である。親を伴って移住するのは東北の出身者だけではなく,現在中国各地か
らの留学生の共通の特徴でもある。従来チャイナタウンの経営者の第二世代の
多くは,高い教育を受けて専門職に就き,親の世代が携わっていた飲食業から
離れたが,そのかわりに安い労働力となったのはマレーシア人であった。しか
し,チャイナタウンに進出した東北出身者は,マレーシア人を退け,チャイナ
405 ロンドン・チャイナタウンの文化空間 -129-
タウンのレストランで働くようになり,そのほとんどが学業終了後もイギリス
に留まった(Pieke and Xiang2008)。
中国福建省は移民の伝統を持つ地域の1つである。従来の移民の移住先は主
にインドネシアやフィリピン,マレーシアなどの東南アジア地域であった。し
かし,1980年代より福建省から大量な新移民を世界に流出し,その移民ルー
トの多くはスネークヘッドに代表される密入国の斡旋ネットワークであった。
かれらの移住先はアメリカ,日本,ヨーロッパであって,イギリスに福建系移
民が目立つようになってきたのは1990年代からである。福建省出身者は,不
法移民であるため庇護申請者が多い。イギリスにおける中国人の庇護申請者数
は2000年以降急速に増加したのはこのような背景があると考えられる�。
福建系移民の多くは,イギリスへ移住後は広東系中国料理店に安い労働力と
して雇われた。彼らは,野菜を下調理したり厨房の清掃をしたりといった労働
から始めて,数年でシェフとして働くようになった。2004年の時点では,ロ
ンドンのチャイナタウンのレストランの75~80%は福建系移民を雇い,調理
場スタッフの半数は福建系移民となり,総勢300人から400人の福建系移民が
いた。しかし,彼らは,より安い賃金でも働く新しく来たばかりの者に職を取
られていたので,安定的に一つの職に就いていることはなく,多くの者が数か
月で転職した。学生として来ていた中国東北部出身者とレストランでの職を争
わなければならなく,教育程度の高い東北部出身者はウェイターの職に就くこ
とができたが,英語能力が低い福建系移民の仕事は厨房内に限られた[Pieke,
Nyíri, Thunø, and Ceccagno2004:110]。
近年は不法移民を雇用する経営者への警察の取り締まりが強化されることに
よって,福建系移民が飲食業から押し出されていった。さらに最近,イギリス
では中国本土からシェフを呼ぶことが厳しく規制されるようになり,チャイナ
タウンのレストランの多くは,シェフの不足のような状態に陥って,現在チャ
イナタウンの中華料理業の大きな問題となっている�。
(11) イギリスにおける中国人の庇護申請者数は1989年には5人であったのが,2000年は2,625人,2001年は4,000人,2002年は3,735人と増加している[�2006:30]。
-130- 香川大学経済論叢 406
新移民の登場によって,チャイナタウンコミュニティの構造も重層化になっ
てきたが,かれらの到来及び新しい需要によって中華料理業の多様化ももたら
した。これまでのチャイナタウンは主に広東料理が中心となっているが,現在
四川料理,北方料理,日本料理,韓国料理,台湾料理などの様々な料理がある。
業種もまた料理業から銀行業,旅行業,マーサージサービス業,漢方医業など
のように多様化になっている。以前チャイナタウンでは広東語しか聞こえない
が,今標準語が主流となっている。
ロンドンのチャイナタウンは世界各地の観光客が訪れる人気の観光スポット
である。こじんまりして回りやすいことはその利点である一方,敷地も道路も
限られて土日や休日になると非常に混雑するという弊害もある。2007年つま
り中国のオリンピック前の年にイギリスの王子チャールズがチャイナタウンを
訪れたことをきっかけとし,チャイナタウンの発展のために王子資金会を設け
る予定だったため,チャイナタウン華埠商会とウェストミンスター政府は新中
華門を含め,5千万ポンドでチャイナタウンの再開発計画が検討された。しか
し,イギリスの不景気によって資金会が見合わせとなって,この計画は未だに
実施できない状態である。
ニューヨークやサンフランシスコと同様に,ロンドン南部のクロイドン地区
を始め,ロンドン郊外の各地にも郊外型チャイナタウンといわれる中国系移民
のコミュニティがある。その例の1つとして,ロンドンの近郊バーネット地域
が挙げられる。伝統的中華街と対照的に1990年代より,ロンドンの中心部か
らバーネット(Barnet)地域に新移民が集中し,新しいスタイルのチャイナタ
ウンが形成された。中国からの輸入製品店や旅行会社,飲食店など小規模な自
営業者が最も多く,当該地域の白人社会,パキスタンや西アフリカなど他のエ
スニック・グループなとど共存しながら,経済活動を行うのは特徴として挙げ
られる。店やショップなどは主に商業地域あるいはショッピングプラザーに近
いストリートに集中しているが,その中心だったのはオリエントシティであ
(12)2010年の調査による。
407 ロンドン・チャイナタウンの文化空間 -131-
る。オリエントシテイはもともと日本人が保有するものであって,海外にある
最も大きな日本人ショッピングセンターであった。しかし,1990年代半ば国
内の不景気や企業の倒産などによって衰退したことで,その経営権が中国系企
業によって買収された。その後,中国系だけではなく,韓国系そして東南アジ
ア系の企業が進出したことで,近郊のチャイナタウンからアジアタウンに変身
している。それにもかかわらず,オリエントシティに表象されている中国的文
化要素は,都市の近郊に分散し居住している中国系新移民のアイデンティティ
を保持するのに重要な役割を果たしていた。オリエントシティは様々な要因に
よって最近閉鎖されたが,その地域の周辺は依然として中国系移民をはじめ,
多くのエスニック移民が集まっている。
6 チャイナタウンの比較の試み
これまでロンドンの華人社会及びチャイナタウンについて論じてきた。より
ロンドン・チャイナタウンの特徴,そしてグローバル現象としてのチャイナタ
ウンの共通性と差異性を見いだすため,ここでまず日本の中華街そしてサンフ
ランシスコの概況を紹介し,そして,それらを比較しながらロンドンのチャイ
ナタウンの特徴を考えていく。最後,コンタクト・ゾーンと社会空間の概念を
用いて,チャイナタウンの共通性と差異性を検討したいと思う。
6-1 日本の中華街とサンフランシスコ・チャイナタウンの概況
� 日本の中華街と華人社会の特徴
日本の中華街の夜明けは江戸時代に始まる。まず,当時日本で唯一の開港地
だった長崎に,三江(漸江,江蘇,江西)や福建などから貿易に従事する華僑
が渡来してきた。そして,日本の開国前後に神戸,横浜,函館が開港される
と,広東からも多くの華僑がやってきた。
開港後の長崎,神戸,横浜では,条約国の外国人を集中的に居住させる外国人
居留地が設置された。しかし当時,日本と条約を締結していなかった国の民で
ある華僑は,基本的に居留地のなかでの居住,そして居留地以外の地域で日本
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人との雑居も許されていなかった。しかし,来日する中国人の多くは,欧米の
商船に乗って,欧米人を対象にした商売に従事していた。そのため,外国人居
留地の一角にひっそりと雑居することができたのであった。そして,その一角
がのちの中華街として発展したのである。
つまり,日本の中華街の歴史は日本の開港を伴い,華僑を含める外国人の来
日と同時に始まり,中華街は外国人居留地とともに,横浜,神戸,長崎の町に
異文化の色彩をもたらしたのである。
しかし,中華街は,歴史の上で日清戦争や日中戦争により,大きなダメージ
を受けた。第2次世界大戦後から1970年代頃まで,戦前の賑わいと中国的な
景観が戻ることはなかった。大阪世界万国博覧会のころから中華街を訪れる人
は増え始め,さらに中華街を整備・発展させるために,横浜中華街では,1971
年に中華街で商売する華僑と日本人が協力して,発展会を前身とする,横浜中
華街発展会協同組合が設立された。その協同組合は,次々と活発な活動を行い,
街を盛り上げるのに大きな役割を果たした。中華街のイメージを改善する目的
で,シンボルとなる中華門(牌楼)が再建された。
1972年の日中国交回復による友好ムードのもとで,牌楼はテレビやラジ
オ,新聞,雑誌などで頻繁に取り上げられた。さらに1980年代に入るとエス
ニックブームが巻き起こり,中華街への関心はさらに高まり,全国各地から観
光客が訪れるようになった。横浜中華街の建設を皮切りに,神戸南京町と長崎
新地中華街には,中華街を発展させるという目的で,中華街商店街振興組合が
設立され,中華街の建設が始められた。1980年代の前半までには,両中華街と
も,中華門をはじめとする中華街のハード面における建設と整備が完成した。
つまり,現在の中華街のイメージは,たかだか20数年間で形づくられてき
たものにすぎない。しかし,それは街並の特徴が徐々に失われつつあった状況
に危機感をもった中華街の人々が自らを変えていこうとした結果,得られたも
のである。華僑のルーツを意識しながら,地域の特徴を活かし差異化を図ると
同時に,日本の中で受け入れられ溶け込むように工夫が凝らされたのであっ
た。
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中華街に現在のような繁栄をもたらしたのは,1980年代半ばに中華街で始
められた「春節祭」であった。これを皮切りに,横浜の「関帝祭」,「媽祖祭」,
「中秋祭」,神戸南京町の「中秋祭」,長崎の「唐人屋敷祭」「中秋祭」など,中
国伝統文化をベースにしたイベントが次々と生み出され,実施されるように
なった。これら中華街のソフト面における行事はすべて,観光客を呼び,街お
こしのために企画されたものである。
中華街の春節祭は,中国の春節と元宵節の習慣にちなんだイベントだが,そ
れは必ずしも伝統文化をそのまま踏襲したものではない。各地域の状況にあわ
せ,中国文化の一部を選択し,新たに創り出されたものである。これらのイベ
ントは年々盛大になり,地域の観光に大きく寄与するようになっている。特に
長崎の春節祭はランタンフェスティバルに発展し,長崎市の冬を飾る大きな風
物詩ともなり,日本全国の主要な伝統行事・祭・イベントの1つとされるまで
になっている。
中華街の建設であれ,それによって生まれた春節祭文化であれ,中国的な情
緒が濃厚に漂っているにもかかわらず,中国風文化にすぎず,中国文化ではな
い。これは,長崎の地域観光を振興し,より多くの観光客を呼び寄せるため作
られた新しい地域の伝統にほかならない。この新しい伝統は400年間築いてき
写真6 長崎新地中華街の近くにある湊公園に設置するオブジェ(2013年2月)
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た長崎華僑社会,及び長崎対アジア諸地域の歴史的関係を土台に作り出された
新たな観光資源である。長崎ランタンフェスティバルは,まさにこうした特徴
を活用した地域文化の創造であり,ローカルをコアとした当該地域の歴史的な
チャネルの復活と再構築である。その再建過程はグローバル化の時代において
地域文化を再建するという文化「生成の語り」の典型的な事例である。
日本華僑(華人,在日中国人)社会は四極多元の構造として分析することが
できる。四極とは近代日本開港以来,日本へ移住してきた「老華僑」と1980
年代以後来日した「新華僑」,そしてイデオロギーの対立によって分断された
「大陸系」と「台湾系」の華僑のことである。多元とは華僑の学校,出身地,
職業,在留資格などによって構成されている華僑社会の多様性を指している。
これらを併せて日本に在住している中国人は現在およそ70万人�であるが,そ
のうち戦前に日本に来た老華僑及びその子孫は10%もない。しかし,彼らの
�かの一部は中華街の主人公となる。その他,中華街の文化創造運動に関わっ
ているのは,新華僑の中での音楽などの文化活動に関連するものに限られてい
る。多くの在日中国人は日本伝統的な中華街に関わらない。そういう意味では,
日本の中華街は新移民の受け皿でもなければ,在日中国人にとって経済中心地
でもなく,日常的な存在でもない。
� サンフランシスコ・チャイナタウン及び華人コミュニティ構成
アメリカのサンフランシスコのチャイナタウンは,1850年代のゴールド
ラッシュから始まった広東出身者の集団的移住によって形成された。1950年
代まで,華人社会はほとんど広東一色であって,チャイナタウンは彼らにとっ
て生活の居住地で�