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暗黒剣千鳥 字䞋げ䞀 䞉厎修助が、机の䞊に「盧生倢其前日《ろせいがゆめそのぜんじ぀》」ずいう黄衚玙本をひろげ おいるず、枡り廊䞋に足音がした。人が来るらしい。 修助は、いそいで黄衚玙を膝《ひざ》の䞋に敷き、かわりにかねお甚意の史蚘をひろげた。ほず んど同時に、板戞の倖で嫂《あによめ》の声がした。 「修助どの、入りたすよ」 「どうぞ」 顔だけむけお、修助が蚀うず、䞊気したような顔をした嫂の束乃が入っお来た。郚屋に入るず、 䟋によっおすばやく机の䞊に県を走らせる。 「おや、ご勉匷ですか」 束乃はにっこり笑っお蚀った。嫂は、修助が曞物をひろげおいさえすれば、機嫌がいい女である。 十四幎前に束乃が䞉厎吉郎右゚門に嫁しお来たずき、䞉人の矩匟がいた。新次郎、源之䞞、末匟 の修助である。 兄匟の母芪は、束乃が来る二幎前に他界しおいたので、束乃は嫁しお来たその日から、䞉厎家の 嫁ずしおの日日の勀めのほかに、毎日家の䞭にごろごろしおいる嵩《かさ》だかな矩匟たちを、し かるべき家に婿入《むこい》りさせる圹目も背負いこむこずになった。 修助はただ十歳の子䟛で問題がなかったが、矩匟ずはいえ新次郎は二十二、源之䞞は十九で、二 人ずも束乃より幎が䞊だった。よく喰う。 䞉厎家は高癟石で、家䞭では䞭どころに数えられおいる。男の兄匟が倚くお喰うに困るずいうほ どではないが、やがお自分の子䟛が生たれるだろう。矩匟たちにい぀たでも婿の口がかからず、い うずころの厄介叔父《おじ》にでもなっお、生涯家に寄食するなどずいうこずになれば、やはり 倧事《おおごず》である。嫁入っお来るず同時に、䞉厎家の䞻婊の立堎に立たされた束乃は、そう 思ったかも知れなかった。 䞀幎たち、二幎たち、ようやく䞉厎家の䞻婊の貫犄が身に぀くようになったころから、束乃はせ っせず矩匟たちの婿入り口をさがすようになった。 そしおそういうこずでは、束乃はなかなかの手腕を発揮したずいえる。いた新次郎は癟二十石の 堀家、源之䞞は八十石だが組頭《くみがしら》の石野の分家ず、それぞれ身分いやしくない家の婿 におさたっおいる。 この二人を片付けお、束乃は䞀段萜したず思ったに違いなかった。次匟の源之䞞の祝蚀《しゆう げん》が枈んだころ、束乃は、修助どのにもいずれよい婿入り口をさがしおあげたすよ。でも、そ れはただただ先のこずですねず蚀っお笑った。そしお、そのたたほっおおいた。 束乃が自信満満でそう蚀ったずき、修助はただ十六で、ひげもはえそろわない幎ごろだったせい もあるが、束乃自身もその間に子䟛を二人生んでいた。子䟛の教育にかたけお、残っおいた末匟の 成長ぶりにたでは、県がずどかないずいうふうでもあった。 束乃が、ふたたび矩匟の婿入り口をさがしお、あわただしく動きたわるようになったのは、去幎 の春以来である。そのころに束乃が、無粟ひげのはえた修助の顔を、しげしげず芋ながら蚀った。 「修助どの、そなた、いく぀になりたしたか」 「二十䞉です」 「おや、たあ」 ず束乃は蚀った。そう蚀ったたた暫時沈黙したのは、い぀の間にそんな倧人になったかず、䞀方 では怪しみ、䞀方では狌狜《ろうばい》したずいうこずかも知れなかった。 女に嫁入りの適霢期があるように、婿に行くにも、おのずからころあいの幎ごろずいうものがあ る。婿をずる偎の嚘の霢《ずし》ずいうものがあるわけだから、圓然の話だが、婿ずしおよく売れ

Ankokuken Chidori

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Japanese Chambara novel by Fujisawa Shuhei

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Page 1: Ankokuken Chidori

暗黒剣千鳥

字䞋げ䞀

䞉厎修助が、机の䞊に「盧生倢其前日《ろせいがゆめそのぜんじ぀》」ずいう黄衚玙本をひろげ

おいるず、枡り廊䞋に足音がした。人が来るらしい。

修助は、いそいで黄衚玙を膝《ひざ》の䞋に敷き、かわりにかねお甚意の史蚘をひろげた。ほず

んど同時に、板戞の倖で嫂《あによめ》の声がした。

「修助どの、入りたすよ」

「どうぞ」

顔だけむけお、修助が蚀うず、䞊気したような顔をした嫂の束乃が入っお来た。郚屋に入るず、

䟋によっおすばやく机の䞊に県を走らせる。

「おや、ご勉匷ですか」

束乃はにっこり笑っお蚀った。嫂は、修助が曞物をひろげおいさえすれば、機嫌がいい女である。

十四幎前に束乃が䞉厎吉郎右゚門に嫁しお来たずき、䞉人の矩匟がいた。新次郎、源之䞞、末匟

の修助である。

兄匟の母芪は、束乃が来る二幎前に他界しおいたので、束乃は嫁しお来たその日から、䞉厎家の

嫁ずしおの日日の勀めのほかに、毎日家の䞭にごろごろしおいる嵩《かさ》だかな矩匟たちを、し

かるべき家に婿入《むこい》りさせる圹目も背負いこむこずになった。

修助はただ十歳の子䟛で問題がなかったが、矩匟ずはいえ新次郎は二十二、源之䞞は十九で、二

人ずも束乃より幎が䞊だった。よく喰う。

䞉厎家は高癟石で、家䞭では䞭どころに数えられおいる。男の兄匟が倚くお喰うに困るずいうほ

どではないが、やがお自分の子䟛が生たれるだろう。矩匟たちにい぀たでも婿の口がかからず、い

うずころの厄介叔父《おじ》にでもなっお、生涯家に寄食するなどずいうこずになれば、やはり

倧事《おおごず》である。嫁入っお来るず同時に、䞉厎家の䞻婊の立堎に立たされた束乃は、そう

思ったかも知れなかった。

䞀幎たち、二幎たち、ようやく䞉厎家の䞻婊の貫犄が身に぀くようになったころから、束乃はせ

っせず矩匟たちの婿入り口をさがすようになった。

そしおそういうこずでは、束乃はなかなかの手腕を発揮したずいえる。いた新次郎は癟二十石の

堀家、源之䞞は八十石だが組頭《くみがしら》の石野の分家ず、それぞれ身分いやしくない家の婿

におさたっおいる。

この二人を片付けお、束乃は䞀段萜したず思ったに違いなかった。次匟の源之䞞の祝蚀《しゆう

げん》が枈んだころ、束乃は、修助どのにもいずれよい婿入り口をさがしおあげたすよ。でも、そ

れはただただ先のこずですねず蚀っお笑った。そしお、そのたたほっおおいた。

束乃が自信満満でそう蚀ったずき、修助はただ十六で、ひげもはえそろわない幎ごろだったせい

もあるが、束乃自身もその間に子䟛を二人生んでいた。子䟛の教育にかたけお、残っおいた末匟の

成長ぶりにたでは、県がずどかないずいうふうでもあった。

束乃が、ふたたび矩匟の婿入り口をさがしお、あわただしく動きたわるようになったのは、去幎

の春以来である。そのころに束乃が、無粟ひげのはえた修助の顔を、しげしげず芋ながら蚀った。

「修助どの、そなた、いく぀になりたしたか」

「二十䞉です」

「おや、たあ」

ず束乃は蚀った。そう蚀ったたた暫時沈黙したのは、い぀の間にそんな倧人になったかず、䞀方

では怪しみ、䞀方では狌狜《ろうばい》したずいうこずかも知れなかった。

女に嫁入りの適霢期があるように、婿に行くにも、おのずからころあいの幎ごろずいうものがあ

る。婿をずる偎の嚘の霢《ずし》ずいうものがあるわけだから、圓然の話だが、婿ずしおよく売れ

Page 2: Ankokuken Chidori

るのは、二十ぐらいから二十五、六たでである。そのあずに䞀服があっお、次に䞉十前埌ずいった

時期に、もうひず盛りが来るが、このあたりになるず、受け入れ偎にも、あたり芳しいずころは残

っおいない。

家柄は申し分なくずも、ああでもない、こうでもないず婿えらびのわがたたが過ぎお、ずうに婚

期を逞した嚘ずか、芪が聞こえた吝嗇《りんしよく》家である䞊に、嚘がたた䞍噚量で婿のなり手

がなかった家であるずか、芪も圓の嚘もたあたあだが、薄絊で子沢山、行けばそのあくる日から、

婿どのがさっそく内職にはげたざるを埗ない家ずかである。

䞭には、早くに婿をずったが、芪ずそりが合わずに婿が二児を残しお去った埌、などずいうコブ

぀きの瞁談もある。

しかし䞉十前埌の郚屋䜏み連䞭には、埌がない。ここで遞りごのみしおこずわったりするず、あ

ずは䞀生実家に寄食する厄介叔父ずいう頭があるから、そういう家にも必死になっおもぐりこむ。

それで、この幎ごろの連䞭も、ひずしきり瞁談でにぎわうのである。

じっさいに䞉十を過ぎるず、婿の口はばったり絶える。あずは二十過ぎるず早早に他家の婿にな

った男が、数幎たっお思いがけなく病死し、その埌釜《あずがた》をさがしおいるなどずいう幞運

にでもあり぀かない限り、ひずり身の郚屋䜏みを䜙儀なくされる。

実家でもあきらめお、ゆずりのある家なら離れを建おお䜏たわせ、床䞊げず称する癟姓、町人出

の嚘をあおがっお暮らしを持たせるが、子䟛は生たれるずすぐに間匕くのである。

「そんなふうになったら、たいぞん」

嫂はひずずおり、婿に行くこずがどんなに倧事なこずかを蚀い聞かせたあず、そう蚀っお笑った。

そしお倀螏みするように、修助を䞊から䞋たで眺めたわしたあずで蚀い足した。

「でも、修助どのはそんな心配はいらぬそうな。旊那さたに䌌お、䞈はあり、男ぶりはよし」

ず嫂は、厚かたしくも自分の倫を匕き合いに出し、腕を撫《ぶ》すずいった感じできっぱりず蚀

ったのである。

「おたかせなされ。案倖に、匕く手あたたかも知れたせんよ」

しかし、嫂の自信ありげだった蚀葉にもかかわらず、䞀幎たっおも、修助の婿入り口は定たらな

かった。いく぀かの話はあったようである。だが、たずたらなかった。

嫂の束乃は、それを修助の孊問嫌いにむすび぀けたようである。家䞭《かちゆう》の子匟は、十

歳になるず藩校䞉省通に通い、孝経、論語から、倧孊、䞭庞たで教授をうける。その課皋が終っお

十五、六歳になるず、今床は終日授業に倉り、四曞五経のほかに、巊䌝、戊囜策、史蚘などを習う。

このあたりで、孊問奜きずそうでない者ずの色分けがはっきりしお来るようだった。孊問に打ち

こむ者は、そのたた終日生の課皋をおさめお、さらに䞀段䞊の寮生にすすむ。寮生は、藩校の敷地

内に建぀䞉省寮に入り、さらに高床の読曞、䌚読、詩文䜜成などに励むのである。

だがそこたで行かずに、終日生の段階で萜ちこがれる者もかなりいた。修助もその䞀人である。

藩校に行くず告げお、嫂に匁圓を぀くっおもらい、せっせず城䞋で䞉埳流を指南する曟我道堎ぞ通

った。終日生の課業は必修ではなく、剣術修行などの名目で䌑むこずが、ある皋床蚱されおいるの

だが、この時期に孊問から離れた者は、ほずんどそのたたになる。

修助も䟋倖ではなかった。皜叀《けいこ》が面癜くなり、たた生来の気質にも合ったらしく、道

堎で頭角をあらわすようになるず同時に、藩校の課業から次第に足が遠のいた。したいには道堎に

入りびたりになっお、孊問は䞭途で投げた圢になった。

そういうこずを、嫂の束乃は修助の婿入り口をさがしおいる間に、どこかよその家で指摘されお

知ったらしかった。そのこずで修助を呌び぀けたずき、束乃はあきらかに狌狜しおいた。

「修助どの」

束乃は、長幎自分を欺《あざむ》いお来た矩匟をじっず芋぀めながら蚀った。

「剣術の皜叀がいけないずは申したせんよ。でもそなた、そのために䞉省通のご授業を、途䞭でや

めおいるそうではありたせんか」

「   」

Page 3: Ankokuken Chidori

「よもやそのようなこずがあるずは思いもしたせんでした。旊那さたに知れたら、どうなさる぀も

りでしたか」

「   」

「でも、いたさらそれを申しおも仕方ありたせん」

束乃は、どこかでそのこずを指摘されお恥をかいたに違いなかったが、䞀応はあきらめた顔぀き

だった。そのかわりに、いたからでも遅くはないから曞物を読めず、声をはげたしお蚀った。

「そうなさるなら、このこずは旊那さたには内緒にしおあげたす。それにな、史蚘や挢曞を読めぬ

ようでは、なかなか婿にもらっおくれる家もありたせんよ。新次郎どのず源之䞞どのが、思い通り

の家に婿入り出来たのも、おさおさ人に劣らぬ孊問が身に぀いおいたからです」

新次郎ず源之䞞は、終日生の課業はおろか、二人ずも寮生にすすみ、ずくに新次郎は秀才で、寮

生からさらに詊舎生ず呌ぶ課皋にたですすんだのである。詊舎生は、寮生の䞭からずくに孊業にす

ぐれ、品行方正な者を遞んで孊問を授ける制床で、詊舎生になるず、䞀人に䞀宀をあたえられお孊

問に専念する。

長兄の吉郎右゚門も寮生の課皋を終えおいる。そこたで蚀われるず、修助は䞀蚀もなかった。昌

の道堎通いはやむを埗ないが、倜は぀ずめお曞物を読むず誓うず、嫂は機嫌をなおしお、読むべき

挢籍を、山のように修助の郚屋に運んで来た。

四曞五経から、巊䌝、囜語、戊囜策、史蚘、前挢曞、埌挢曞、唐詩遞、唐詩正声  。机のそば

に積たれおいるそれらの曞物を眺めただけで、修助は頭がくらくらする。そこで勉匷しおいるず芋

せかけお、抌し入れの小櫃《こび぀》からひっぱり出した黄衚玙、狂歌本、排萜《しやれ》本のた

ぐいに読みふける。

小櫃の䞭のこうした本は、数幎前病死した父が、若幎のころ江戞詰で䞊府したずきに買いもずめ

お来たものらしかったが、兄も嫂も、修助が自分の郚屋に䜿っおいる隠居郚屋に、そんな本が隠さ

れおあるずは気づいおいないようである。䞀床も芋咎《みずが》められたこずはない。

だが嫂は挢籍を苊もなく読みこなせたので、油断は出来なかった。机の䞊に䜕がひろげおあるか

は、ひず県で芋砎る。

しかし、今倜の嫂はどこかうきうきしおいた。すぐに修助に顔をもどすず、吉郎右゚門の郚屋に

来いず蚀った。嫂はこらえきれないような笑いをうかべおいる。

「磯郚の叔母《おば》が、ずおもいいお話を持っお来られたした。むろん、修助どのを婿に欲しい

ずいう話ですよ」

字䞋げ二

磯郚の叔母ずいうのは、嫂の束乃の母方の叔母である。背が䜎く小ぶずりで、萜ち぀いた物蚀い

をする、四十過ぎの女である。倫の磯郚匥五右゚門は物頭《ものがしら》を勀め、たしか癟五十石

ほどを頂いおいるはずで、家䞭では矜振りがいい家だった。叔母は登䞎ずいう名である。

登䞎は、吉郎右゚門ずむかい合っお、い぀ものもの静かな声で話しおいたが、束乃ず修助が郚屋

に入っお行くず、すぐに二人に埮笑をむけた。修助の挚拶《あいさ぀》にも、おだやかに挚拶を返

しおから、吉郎右゚門に蚀った。

「ほんずに、い぀の間にか倧人になられたしたなあ。これならば、どこに婿に出されおも恥ずかし

いこずはありたせん。朝岡さたでも、きっずお喜びになるず思いたすよ」

「はお、いかがなものですか」

吉郎右゚門は苊笑した。

「なりはごらんのずおり、それがしを凌《しの》ぐほどになりたしたが、なにせ末子。぀い甘く育

おおしたったようでもござる」

「束乃の話では、曟我ずいう道堎で、熱心に剣術の皜叀をなさっおおられるずか」

Page 4: Ankokuken Chidori

「さよう。そちらの方が性に合ったようでござる。しかし、文歊䞡道ずはなかなかいかぬものらし

くおな。藩校の方は、終日課業を終えたずころで断念したようでござる。わが家の男どもの䞭では、

めずらしく孊問の䞍出来な人間でござる」

よけいなこずを蚀っおくれるな、ず修助ははらはらした。話のすすみ具合で、その終日課業も、

䞭途で投げ出したなどずいうこずが露芋すれば、せっかくの瞁談もフむになりかねない。

束乃も同じ危険を察知したらしく、倫の口を封じるように、いそいで口をはさんだ。

「そのかわり、ナニでございたすよ、叔母さた。修助どのは、曟我道堎では免蚱取り。お垫匠さた

にも、倧そう信甚されおいるようでございたすよ。な 修助どの」

「は。四幎前に免蚱をうけ申した」

䞉埳流の剣は、修助のただひず぀の売りどころである。門匟の筆頭は、垫範代を勀める鷹野《た

かの》甚五郎だが、修助は次垭を占め、いたは鷹野ずもども埌茩に皜叀を぀けおいる。そこたで吹

聎《ふいちよう》したかったが、遠慮しお、それだけ蚀った。

ずころが登䞎の方が県をたるくした。

「四幎前ずいうず、二十のずきですか」

「さようです」

「たあ、たあ」

ず登䞎は感嘆の声をあげた。

「それならば、近ごろはさぞかし、道堎ではもう高匟に数えられおいるこずでしょうな」

「は、次垭ずいうこずになっおおりたす」

「おや、たあ」

日ごろもの静かな登䞎が興奮した顔になっお、姪《めい》に蚀った。

「束乃はただ、熱心に道堎に通っおいるずいうだけで、修助どのの腕前のこずは䜕も蚀わなかった

ではありたせんか」

登䞎はさらに、吉郎右゚門に顔をむけた。

「吉郎右゚門どの。曟我道堎の次垭なら、蚀うこずなしでございたすよ。この瞁談、きっずたずめ

おさしあげたす」

兄倫婊よりも、ちんちくりんの登䞎の方が、はるかに歊芞の䜕たるかに通じおいるようだった。

登䞎は勢いよく、瞁談の盞手のこずを話した。

登䞎が芋぀けた盞手は、二幎前たで郡奉行《こおりぶぎよう》を勀めた朝岡垂兵衛の嚘秊江

《はたえ》。霢は十八で、近所では評刀の矎しい嚘である。家犄は癟䞉十石で、秊江の䞋に今幎十

䞉になる効がいるだけ、仲む぀たじい家である。

登䞎は若いころ秊江の母ず䞀緒に、茶の䜜法を習ったこずがあった。しかし、それぞれに嫁入っ

おからはすっかり疎遠になっおいたが、぀い数日前、圌岞の墓参りに行った寺の境内でばったり顔

が合い、嚘の婿に来るような若者に、心あたりはないかずたずねられたのである。

「ほんずに、瞁ずいうものはどこにころがっおいるか、知れないものですよ。私などもあなた、束

乃は知っおいたすが、芪同士が磯に魚を釣りに行きたしお、そこで出た冗談のような話がほんずの

こずになっお、磯郚の家に参るこずになったのですから」

静かで切れ目のない登䞎の声が、快い楜の音のように耳にひびくのを聞きながら、修助は突然に

立ちあらわれお来た秊江ずいう嚘のこずを考えおいた。

矎人だずいうからには、醜くない嚘だろうが、どんな顔をしおいるのか。声はどんな声か。高慢

でなければいいが。いくら矎人でも、家぀きの嚘を錻にかけるような女子ではかなわん。興ざめす

る。

「よしなに頌み入る」

「叔母さた、お願いいたしたする」

䞍意に兄倫婊の声がしお、修助ははっず顔をあげた。機嫌のいい顔で、登䞎がこちらを芋おいる。

修助は束《぀か》の間《た》の攟心を芋抜かれた気がしお、赀くなりながら頭をさげた。

「修助、叔母埡を門たでお送りしろ」

Page 5: Ankokuken Chidori

玄関たで芋送っお出た吉郎右゚門がそう蚀ったので、修助は履物をはいお、ひず足先に庭に出た。

登䞎は、藀䜜ずいう老爺《ろうや》を䟛に連れお来おいた。門を出たずころで、登䞎は修助に蚀

った。

「気だおのよろしい嚘埡ですよ。䞀床お䌚いになれば、すぐにわかりたす。修助どのにはお䌌合い

の嚘埡です。このお話、ぜがひでもたずめおあげたすから、楜しみにしおいらっしゃい」

垰っお行く登䞎を、修助はしばらく芋送った。お䟛の藀䜜は、先代の時から磯郚家に奉公しおい

る䞋男で、かなり腰が曲っおいる。提灯《ちようちん》をさしむけお登䞎をみちびいお行く姿が、

逆に登䞎に連れお歩いおもらっおいるようにも芋えお、修助は埮笑した。

二人の姿が、角を曲ったのをたしかめお門の内に入ろうずしたずき、塀わきに立ち䞊がった黒い

圱が、䞉厎ず呌んだ。

「   」

それがあたりに突然だったので、修助は思わず声にむかっお身構えたが、近づいお来る人圱を透

かし芋るず蚀った。

「奥田か いた時分、どうした」

男は曟我道堎で同門の、奥田喜垂郎だった。顔を぀き合わせるずころたで寄っお来おから、奥田

がささやいた。

「䌊織がやられたぞ」

「なに」

修助は鋭い県で奥田を芋た。奥田は無蚀で修助を芋返しおいる。

「い぀のこずだ」

「぀いさきほど、六ツ半午埌䞃時ごろのこずらしい。犰宜《ねぎ》町を歩いおいお、やられた」

犰宜町は、䞋玚藩士の組長屋があ぀たっおいるずころなので、路は暗い。

「絶呜したか」

「この前の服郚ず同様、䞀倪刀だったらしいぞ」

「盞手はわからんのだな」

「むろんだ。䌊織が倒れおいるのに気づいた者が、すぐにあたりを窺《うかが》ったが、人圱は芋

えなかったそうだ」

修助は䜎く唞《うな》った。しばらく沈黙しおから、ふず気づいお蚀った。

「寄っお、話しお行かぬか」

「いや、ずりあえず知らせに来たが、今倜は垰る。明日道堎で䌚おう」

奥田は手を䞊げお歩き出した。その黒い背に、修助はきびしい声をかけた。

「垰り途《みち》に、気を぀けろ」

ちらりず振りむいた奥田が、貎様も気を぀けろ、ず蚀った。

奥田が足早に遠ざかるのを芋送っおから、修助はしんかんず暗い路に䞀瞥《いちべ぀》を投げ、

門を入るずしっかり閂《かんぬき》をおろした。

家の䞭から、明るい灯の色が掩《も》れおいる。兄倫婊は、最埌の煩《わずら》いずもいうべき

末匟の瞁談にめどが぀き、それも予想以䞊の良瞁が舞いこんで来たのに気をよくしお、たださっき

の話を蒞し返しおいるに違いなかった。修助が家の䞭にもどれば、話に加えお二、䞉説教らしきも

のを蚀い聞かせる぀もりでいるかも知れない。

重い足を、修助は入口に運んだ。五日前の服郚繁之䞞の死、今倜の戞塚䌊織の死は、兄倫婊に掩

らしおはならない秘事だった。

──それにしおも  。

盞手は䜕者だ、ず修助は思った。戞塚䌊織は同じ曟我道堎で、服郚繁之䞞は笄《こうがい》町に

ある䞀刀流の増村道堎で、それぞれ五指に数えられる遣い手である。

その二人を、さっきの奥田の話が間違いでなければ、ただひず倪刀の闇打《やみう》ちに屠《ほ

ふ》った者がいる。匷い疑惑が湧《わ》き䞊がるのを、修助は感じた。秊江ずいう嚘のこずは、ほ

ずんど念頭からうすれかけおいた。

Page 6: Ankokuken Chidori

字䞋げ䞉

郚屋に銖を぀っこんで、皜叀を぀けおいただけたせんか、ず蚀ったにきび面の少幎を、奥田はい

きなりどなり぀けた。

「ちゃんず坐っお蚀わぬか。近ごろの子䟛は、たったく瀌儀を知らん」

修助は苊笑しお助け舟を出した。赀面しお膝を぀いた少幎に、もう少しで話が終る、それたで自

分たちでやっおおれず蚀った。少幎が戞をしめお去るず、修助は奥田をたしなめた。

「そう苛立《いらだ》぀な。垫範代に怪したれおはたずい」

道堎には、垫範代の鷹野ず、高匟の䞀人である柚朚兵之進が皜叀を぀けおいるはずだったが、た

だ皜叀を぀けおもらえず、あぶれお遊んでいる者がいるらしい。二人が籠《こも》っおいるのは、

道堎わきの着換え郚屋だった。

ふだんはあたり気にしたこずもないが、そうしお籠っおいるず、ろくに掃陀もしない郚屋の䞭に

は、男の汗ず脂がたじり合った異様な匂《にお》いが柱《よど》んでいお、錻がひん曲るほどだっ

た。もっずも異臭がこずさら濃く匂うのは、八月も終るずいうのに、倉に蒞し暑い陜気のせいもあ

るだろう。

奥田は顔にうすく汗をかいおいた。その顔を手のひらで぀るりず撫《な》でおから蚀った。

「するず䞉厎は、あの䞀件が掩れたず考えるわけだな」

「そう考えるのが筋だろう」

修助は、奥田の浅黒くお平べったい顔を芋ながら、䜎い声で答えた。

「服郚が死んだずき、おや ず思ったのだ。死にざたが䞍審だった。今床は戞塚だ。今床戞塚の

家に寄っお、線銙を䞊げながらおやじどのに話を聞いたが、貎様が昚倜蚀ったずおりだった。敵は

䞀撃で頞《くび》の血脈を断っおいる。服郚のずきず同じだ」

「   」

「残る䞉人も狙《ねら》われるぞ」

修助の蚀葉に、奥田はかすかに身顫《みぶる》いしたようだった。青ざめた顔をそむけお、くそ

ッず呟《぀ぶや》いた。

だが、奥田はすぐに顔を䞊げお、粘り぀くような県で修助を芋た。

「敵ずいうのは、誰だ」

「それがわかれば、貎様ずこうしおひそひそ話などはしおおらん。こちらから斬り合いを挑みに行

く」

「   」

「しかし、いずれにしろ明石の瞁に぀ながるや぀だろう」

「だが、服郚も戞塚も、柄《぀か》に手をかけるひたもなく斬られおおる。明石のたわりに、そん

な男がいたか」

今床は修助が沈黙した。服郚繁之䞞、戞塚䌊織、家䞭の若者の䞭で、屈指の遣い手ず呌ばれる二

人を斃《たお》した者は、暗黒の䞭に姿をひそめおいた。ただその圱すら芋えおいなかった。

「やむを埗ん。あのお方に䌚っお、お指図をいただこう」

修助が蚀うず、奥田も匷くうなずき、それがいいず蚀った。

十幎ほど前から、異様なほどの立身を遂げお、家䞭の泚目をあ぀めた男がいた。明石嘉門である。

明石嘉門が、家督を぀いで近習《きんじゆう》組に出仕したずき、家犄は家代代の八十五石だっ

たずいう。だが嘉門は、数幎の間に異䟋の立身を遂げ、䞉十歳になるず郡代を勀め、犄高は二癟五

十石にはね䞊がった。

郡代は、倚くは四十前埌の蟲政ず経枈に明るい人物が占める職で、䞉癟石以䞊の䞊士が勀めるな

らわしである。長く郡代を勀め、その地䜍から抜擢《ば぀おき》されお組頭、家老にもすすんだ者

もいお、藩では芁職ずされおいる。䞉十歳の郡代は空前のこずず蚀われた。

Page 7: Ankokuken Chidori

だがこの若い郡代は職にある二幎の間に、蟲政の䞊で芋事な手腕を発揮し、次いで偎甚人《そば

ようにん》に転じた。偎甚人は、垞に藩䞻に接觊し、藩政の枢機にこずごずく参䞎する芁職䞭の芁

職である。この偎甚人を勀めおいる間、藩䞻右京《うきよう》倪倫《だゆう》の明石嘉門に察す

る寵愛《ちようあい》はただならないものがあった。

そのころ家䞭には、嘉門を奞物《かんぶ぀》呌ばわりする者が少なからずいたが、その蚀葉には、

異様な立身を぀づける男に察する疑惑ず同時に、藩䞻の偏愛に察する嫉芖《し぀し》がふくたれお

いたかも知れない。

しかし明石嘉門は奞物だったのか、どうか。嘉門は近習ずしお出仕した圓時から、鋭い頭脳で䞀

頭地を抜いおいた。端麗な男ぶりをしおいたが、倩心独名流の奥儀をきわめた剣客でもあった。切

れる頭脳ず胆力をあわせ持った人物であり、郡代ずしおも偎甚人ずしおも、有胜で氎ぎわだった政

治力を発揮したずも芋えたのである。

「しかし、あの男は奞物じゃ」

ひそかに、修助たち五人の剣士を呌びあ぀めた次垭家老の牧治郚巊゚門は、明晰《めいせき》な

口調で、そう蚀った。

牧は、嘉門がこれたで犯しおいる倱策を、五぀ほど数えあげた。どれも修助たちがはじめお耳に

するこずで、さほど目立たないこずのようにも思えたが、牧はその倱策を、嘉門ずいう人物に぀き

合わせおひず぀ひず぀説明し、かりに嘉門が執政の地䜍にのがったずき、どのような匊政があらわ

れるかを䞁寧に指摘した。牧はこれたで、明石嘉門の人物ずやるこずを冷静に芳察しお来たらしか

った。

その指摘のあずで、牧は茶飲み話の぀づきのような平静な口ぶりで、芜のうちに摘み取るにしか

ずだず蚀った。嘉門はその幎、偎甚人から組頭に昇進し、四癟石に加増されおいた。䞭老に手がず

どく地䜍にのがったわけである。芜ずいうには倧きすぎる存圚だったが、牧はただ間にあうず考え

おいるらしかった。

「のぞくず申しおも、衚沙汰《おもおざた》にはしにくい。殿の寵愛が過ぎお、たず効なかろう。

明石には気の毒じゃが、闇に葬る䞀手じゃな」

石のように身䜓《からだ》を硬くしおいる修助たちを眺めながら、牧は埮笑した。そしお蚀葉に

わずかに嚁嚇《いかく》をこめた。

「躊躇《ちゆうちよ》すれば、いたに芋よ。藩政は明石䞀人にかきたわされお、やがお砎滅するぞ」

藩䞻の寵を埌だおにした嘉門が執政に加われば、蟲政はここで躓《぀たず》く、家䞭、領民の暮

らしはこう倉るず、牧は掌を指すように、ぎたりぎたりず予蚀しおみせた。

牧治郚巊゚門は、長く筆頭家老を勀めたが、二幎ほど前に病を埗お、職をしりぞこうずした。だ

が十数幎にわたっお藩政を牛耳《ぎゆうじ》り、藩はじたっお以来ずたで称される善政を実珟した

牧には、䞊䞋の信頌が厚かった。

牧は懇望されお次垭家老にずどたり、病間から藩政に加わるこずになった。重芁な議事があるず

きは、牧のあずを襲っお筆頭家老ずなった野沢垂兵衛が、牧家の病間に入っお懇談するのが慣䟋ず

なり、牧は病床の名執政ず呌ばれおいた。郚屋䜏みの修助たちからみれば、牧はほずんど神に䌌た

人物だった。

修助たちは、牧に呜じられるたたに、その堎で神文誓詞をさし出し、数日埌、䞋城する明石嘉門

を五間川の河岞に襲っお、殺した。䞉幎前の倏の倜のこずである。

蚎手《う぀お》は曟我道堎の䞉厎修助、奥田喜垂郎、戞塚䌊織、増村道堎の服郚繁之䞞、山口駿

䜜の五人だった。寵臣を闇蚎ちされた藩䞻は、激怒しお䞋目付に探玢を呜じたが、五人は銖尟よく

远及をたぬがれた。五人の刺客が、すべお郚屋䜏みの若者だったこずが、探玢の盲点ずなったよう

でもあった。

以来䜕事もなく䞉幎が過ぎた。ほかの四人もそうだったろうが、修助には藩のために䞀奞物を斃

したずいう考えしかなかった。次第に明石暗殺の䞀件を忘れた。そのこずを、あざやかに思い出し

たのは、服郚繁之䞞が䞍審な死を遂げたずきである。そしお今床は戞塚䌊織が死んだ。二人の死が、

Page 8: Ankokuken Chidori

䞉幎前の事件に぀ながっおいるこずは疑う䜙地がなかった。䜕者かが、死んだ明石嘉門の埩讐《ふ

くしゆう》をくわだおおいるずしか思えない。

他ニ蚀ワズ、互ニ語ラズ  。指揮した牧家老にも䌚わないず誓ったこずだったが、いたは牧に

䌚っお指図を仰ぐしか途《みち》はないようだった。

修助ず奥田が、黙然《もくねん》ず顔を芋合わせおいるず、戞の倖に足音がしお、怒気をふくん

だ声が、こら、䞭の二人ず蚀った。垫範代の鷹野の声である。

「出お来お皜叀を぀けんか。い぀たで怠けおおる」

字䞋げ四

だが、二人の焊燥を芋抜いたように、その日の䞃ツ午埌四時ごろ、牧家老から䜿いが来た。

修助ず奥田を道堎の入口たで呌び出したのは、牧家の老婢《ろうひ》である。六ツ午埌六時過

ぎたでに、家老屋敷に来るようにず、にこにこしながら告げるず、老婢はすぐに垰っお行った。䞉

幎前に呌びあ぀められたずきず、方法も同じ、䜿いも同じ人間だった。

二人は、急に元気になった。家老が、すでに異倉に気づいお、すばやく察策を講じようずしおい

るのを感じたのである。䜿いはむろん増村道堎の山口にも回ったに違いなかった。

修助ず奥田は、さらに半刻《はんずき》䜙、汗を流しお皜叀を぀け、終るず母屋に行っお湯をも

らい、身䜓の汗をぬぐった。垫の曟我平倪倫ず垫範代の鷹野に䌚い、埌刻戞塚の通倜の垭で萜ち合

うこずを打ち合わせお道堎を出るず、倖はもううす暗くなっおいた。

真倏がよみがえったかず思われるほど、蒞し暑かった䞀日も、暮れおみれば、やはり秋だった。

うす青い霧のようなものが路䞊を這《は》い、その䞭にはひやりずした倜気が含たれおいる。ただ

西の空に、巚倧な倕焌けがあった痕《あず》が残っおいた。通りすぎる家家の間から、時どき血の

ように赀い空が芋えた。

「気を぀けろ」

灯のない町を通りすぎるずき、路を歩いおいる人は、ほずんど黒い圱にしか芋えない。そういう

人圱が前方に珟われるのを芋ながら、奥田がそう蚀った。

「いたごろの時刻が、䞀番あぶない」

修助は䜎い笑い声を返した。奥田の声にも緊迫感はない。二人連れで歩いおいるせいもあったが、

行先が牧の屋敷だずいうこずが、二人を昚倜からの緊匵から解き攟っおいた。牧が圌らを芋捚おず、

誓詞にそむいお救いの手をのべお来たのを感じおいたのである。

元銬堎町の牧の屋敷に着くず、二人はすぐに牧の居間に通された。思ったずおり、山口駿䜜が来

おいた。

居間ずいっおも、その郚屋は牧の病間を兌ねおいる。牧はその郚屋で、倧方は寝おすごし、来客

があるずきだけ起き䞊がっお人に䌚い、たた気分がよければ、ごく短い間机にむかっお曞芋するず

聞いおいた。

いたも郚屋の䞻は、脇息《きようそく》によりかかっお坐っおいたが、背埌に倜具が敷いたたた

になっおいた。薬の銙が匷く匂った。

二人は牧に挚拶し、山口ず黙瀌をかわした。牧は挚拶をうけた時だけ、県をひらいお二人を芋た

が、二人を案内した䞭幎の家士が、今床はお茶ず干菓子を運んで来お去るたで、軜く県を぀むっお

いた。

修助は、䞉幎ぶりに䌚った家老の衰容に胞を衝《぀》かれた。䞉幎前も、牧はたしかに病人だっ

た。肌に照りがなく、顔も手足もむくんだように青癜かった。だがそのずきはただ、牧は倪っおい

たのである。いか぀く倧きな身䜓だった。

だが県の前の牧は、頬《ほお》の肉が萜ちお顎骚《かんこ぀》がずび出し、喉《のど》がずけも、

胞もずの鎖骚も高くあらわれおいた。肌は黄ばみ、県の䞋には黒い隈《くた》が出来おいる。尋垞

でない病いが、家老の身䜓を蝕《むしば》んでいるこずは明らかだった。牧はほずんど別人かず疑

うほど、面倉《おもがわ》りしおいた。

Page 9: Ankokuken Chidori

修助が、思わず息をのんだずき、牧が県をひらいお䞉人を芋た。その県の光ずひびきのよい声だ

けが、以前の牧のものだった。

「そなたたちを呌びあ぀めたわけは、わかっおおるな」

牧は射抜くような鋭い県を、ゆっくり䞉人に配りながら蚀った。

「容易ならぬこずが起きた。䜕者か知れぬが、明石の䞀件に気づいた者がおるらしい。あのこずを、

誰ぞほかに掩らした者がいるか」

䞉人は顔を芋合わせ、修助が代衚しお、そのような事実はござりたせん、ず蚀った。

「どこから嗅《か》ぎ぀けお来たか、䞍思議だ。よし、なお誰にも蚀うな。おびえお他にあの件を

掩らしたりすれば、身の砎滅だぞ。そなたらも、このわしもだ」

「   」

「服郚ず戞塚をあやめた者に、心あたりがないか」

「それが  」

ず山口が蚀った。

「それがしも調べたしたが、皆目芋圓も぀きたせん」

「よい。いた、藩の調べずはべ぀に、わしの手で探玢をすすめおおる。いたに正䜓が知れよう。そ

の調べが぀くたで、圓分の間は倜の倖出をひかえよ」

「   」

「申すこずはそれだけだ。十分に甚心しお次に䜿いするたで埅お」

䞉人が頭をさげるず、牧は倪い吐息を぀いお、軜く県を぀ぶった。

「服郚ず戞塚は、気の毒なこずをした。今倜は戞塚の通倜か。誰か、行っおやるか」

「は、われわれ二人が参りたす」

ず修助が答えた。牧の甚件はそれで終ったらしかった。県をひらくず、ものうい手぀きで菓子を

喰えず合図した。

深山のように、生いしげる暹朚に囲たれた家老屋敷を出るず、修助ず奥田は戞塚の家に向かった。

山口ずは途䞭で別れた。別れるずき、䞉人は口ぐちに気を぀けろずささやき合った。

しかし山口は、自分もそう蚀ったくせに、なに、出お来たらもっけの幞い、逆に切っお捚おおや

るさず蚀った。山口は背が䜎く小倪りの䜓躯《たいく》をしおいるが、軜劙な剣を遣い、籠手《こ

お》打ちの名手ずしお知られおいる。

修助ず奥田は、癜銀《しろがね》町の戞塚の家に行っお、曟我ず鷹野、柚朚兵之進の䞉人ず萜ち

合い、四ツ半午埌十䞀時ごろたで通倜の垭に぀らなった。戞塚の家では酒を出したが、修助ず

奥田は飲たなかった。

曟我がひず足先に垰ったので、垰りは四人になった。そしお奥田は鷹野ず柚朚の二人ず同じ方角

なので、修助は途䞭で䞉人ず別れお䞀人になった。

暗い倜だった。途䞭商人町を通りすぎたずきだけ、わずかにたたたく灯の色を県にしたが、そこ

を通りすぎお歊家町に入るず、四囲はたた足もずもおが぀かないほど、濃い闇になった。歩いお行

く道ず、ずころどころに土塀があるのががんやり芋えお来るだけだった。

修助が歩いおいる堎所は、巊内町である。䞭士が䜏む町だが、やや構えの倧きな屋敷がならんで

いる。そこを抜けるず、自分の家がある町だった。

背埌から、䜕か重苊しいものが迫っお来るのを感じたのは、现い暪䞁があっお四蟻になっおいる

堎所を通りすぎようずした時だった。ずっさに刀の鯉口《こいぐち》を切るず、修助は数間の距離

を猛然ず前に走った。そしお刀を抜くず同時に、振りむいお迎え撃぀構えをずった。

凝然《ぎようぜん》ず、闇の路䞊に構えたたた、修助は埅った。だが斬りかかっお来る者は、珟

われなかった。重苊しく銖筋を圧迫した、物の気配は消えおいた。

刀をさげたたた、修助は四蟻たでもどった。暗い暪䞁に鋭い県を配ったが、物の気配はなかった。

仄癜《ほのじろ》い板塀が぀づいおいるだけである。

どこの屋敷からか、疳症《かんしよう》らしい高い咳《せき》ばらいが、぀づけざたに聞こえお

来たあずは、町は物音ひず぀せずに静たり返った。修助は刀を鞘《さや》にもどした。

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──気づかれたず知っお、暪䞁に逞《そ》れたのだ。

その感觊は動かなかった。気づくのが䞀瞬おくれおいたら、戞塚の二の舞いだったろうず思った

ずき、党身にどっず汗がにじみ出た。䜕者かが、背埌から襲っお来たこずは疑い埗なかった。だが、

終始足音を聞かなかったず思った。

修助は顔を流れ萜ちる汗をぬぐいながら、いそぎ足に歩いた。歩きながら、䜕かが異物のように

蚘憶にひっかかっおいるのを感じたが、それが䜕かはわからなかった。修助は腕を䞊げお、もう䞀

床気味悪いほど流れる顔の汗をぬぐった。

字䞋げ五

道堎の門を出るず、修助は空を芋䞊げお憂鬱《ゆうう぀》な顔になった。风色《あめいろ》の重

苊しい感じの雲が空を芆《おお》い぀くし、いたにもひず雚来そうな空暡様だった。

空気は冷えびえずしお、日暮れには少し間があるずいうのに、路䞊には歩いおいる人圱も芋えな

かった。そのたたで、町は暮れお行く気配だった。

途䞭で降られるかな、ず思いながら歩き出すず、しばらく行ったずころで、うしろから女の声で

名前を呌ばれた。おどろいお振りむくず、䞉十前埌ずみえる、たるたるず倪った女が立っおいた。

女はすぐそばの寺門の䞭から出お来たらしい。修助をみるず、満月のように䞞い顔に、いっぱい

に笑いをうかべお、䞉厎さたですねず蚀った。

「さようですが、そちらは」

「ああ、よかったこず」

女は修助の問いには答えず、胞を撫でおろすようなしぐさをしお芋せた。

「二、䞉床、遠くから拝芋しおはおりたすけれども、もしや人違いではないかず、ひやひやいたし

たした」

女はもう䞀床満面に笑いをうかべるず、どうぞこちらぞず、寺の門内にいざなうそぶりになった。

蚀うこずもするこずも奇劙だが、女の顔にもそぶりにも邪気はみえない。修助はいくぶん狐に぀た

たれたような気分で、女のあずに぀いお行った。

寺は竜泉院ずいう曹掞《そうずう》宗の寺院で、さほど倧きい寺ではない。境内も狭かった。修

助が女のあずに぀いお寺の門をくぐるず、境内の石燈籠《いしどうろう》の陰から、若い女が珟わ

れお、こちらを芋た。

「朝岡の秊江でございたす」

若い女は、修助が近づくず自分も歩み寄っお来お、深ぶかず頭をさげるずそう蚀った。修助は棒

立ちになった。

秊江はうすく化粧しおいた。わずかに玅を刷《は》いた頬が、匂い立぀ように若わかしく、黒目

がちの県、小さくふくらんだ唇が可憐《かれん》な嚘だった。修助は、䞀瞬声を倱ったようである。

「や、これは」

ようやくそう蚀った。しどろもどろに、名前を名乗った。そしお、すぐに名前など蚀うこずはな

かったのだず思いあたっお、少し赀くなった。

秊江はその様子を埮笑しお眺めおいたが、䞍意に胞が觊れ合うほど近づいお来お蚀った。

「今日は、䞉厎さたにぜひずもおたずねしたいこずがあっお、恥をしのんでお䌚いしに参りたした」

「はお、䜕であろう」

ず修助は蚀ったが、秊江が䜕を蚀いに来たかは、およそ芋圓が぀いおいた。

牧家老の屋敷に呌ばれおから、あらたしひず月ほど経ったが、その埌牧からの連絡はず絶えおい

た。探玢が行きづたっおいるずしか考えられなかった。そしおその間に、籠手《こお》打ちの名手

山口駿䜜が死んだ。牧や修助たちの譊戒を嘲笑《ちようしよう》したような、䞀撃の頞郚《けい

ぶ》斬りだった。

死んだ䞉人の身の䞊に起きたこずは、いずれ自分の身にも降りかかっお来るず思わないわけには

いかなかった。げんに䞀床、戞塚の通倜の垰りに襲われかけおいる。

Page 11: Ankokuken Chidori

修助は、兄倫婊に朝岡ずの瞁組み話を、しばらく延期しおもらいたいず蚀った。兄倫婊は怒った。

こずに兄は、修助に生意気に女でもいるかず疑ったらしく、激怒しおわけを蚀えずきびしく問い぀

めお来たが、修助は貝のように口を閉じおいるしかなかった。

今朝も道堎に来る前に、嫂にはげしく叱責《し぀せき》されたばかりである。わけのわからない

延期話は、間に立぀登䞎を困惑させ、぀いに先方の朝岡の家にも掩れお、䞍審を持たれおいるのだ

ろう。

この矎しい嚘も、そのわけを問いただしに来たのだ。

「䞉厎さたずのお話を、父母も倧そう喜んでおりたした。しかし䞉厎さたは、このお話をすすめる

のは埅っお欲しいず申されたず聞きたした。なぜですか」

はたしお、秊江は真盎ぐにその話を持ち出しお来た。修助は黙っお䞋をむいた。

「おいやなら、おいやず正盎に申しおくださればよいのです」

「   」

「父も母も、䞉厎さたのこずはあきらめお、ほかに話をさがすず申しおおりたす。しかし私は  」

秊江の声が、か现く顫《ふる》えた。

「䞀たんこのおひずこそず思い決めたお方を、すぐに忘れおよそのお話に耳傟ける気にはなれたせ

ん。どんなにさげすたれようずも、䞀床あなたさたにお䌚いしお、本心をお聞きした䞊で、心を決

めようず思っお参りたした」

「   」

「今床のお話、おいやなのですね。それならそうず、はっきりおっしゃっおくださいたせ」

修助は顔を䞊げた。するずちょうど秊江の県から、涙の粒がひず぀こがれ萜ちたずころだった。

秊江はあわおお袂《たもず》を掬《すく》いあげるず、さっず顔を隠しお暪をむいた。

「いや、そうではない」

ず修助は蚀った。うしろを振りむいお芋たが、さっきの女䞭ず思われる女はいなかった。門の倖

に出お、人を芋匵っおでもいるのだろう。

「磯郚の叔母埡に今床の話を聞いたずき、それがしには過分の瞁組みだず思った。今日、そなたに

䌚っお、たすたすそう思う。だが、やはりしばらく埅っおいただかねばならぬ。事情がござる」

「事情」

袂をはずしお、秊江がこちらをむいた。県の䞋の化粧がはげお、倉に生なたしく、そのかわり芪

しみやすい顔になっおいた。秊江はじっず修助を芋぀めた。

「その事情ずいうのを、お聞かせねがえたせんか」

「それは蚀えぬ」

修助はきっぱりず蚀った。

「ただ、それがしを信甚しお、いたしばらくお埅ちいただきたいず申しあげるほかはござらん。そ

れがかなわぬなら、この瞁談は、なかったものずしおいただくしかない」

「はしたないこずをお聞きしたすが  」

秊江は、ぱっず顔を赀らめお、小声になった。

「事情ず申されるこずですが、それは、女子にかかわりがございたすか」

「いや、いや」

修助も赀面しお手を振った。

「それがしは、そういうこずはいたっお䞍調法。若い女子ず、このように長話をしたのは、今日が

はじめおでござる」

「やはり、お䌚いしおようございたした」

突然に秊江が蚀った。秊江は埮笑しおいた。かがやくような癜い歯が、ちらず芋えた。

「私、䞉厎さたをお埅ちいたしたす。家の者が䜕ず申したしょうずも。もうこのこずに぀いおは、

ご懞念くださいたすな」

「すたぬ」

Page 12: Ankokuken Chidori

ず修助は蚀った。兄倫婊でさえ䞍信の県で芋たおれを、この嚘は䜕も蚀わずに信じおくれるずい

うのか。そう思ったずき修助は、ほっそりした秊江の肩を抱きしめおやりたいような、熱いものが

胞に溢《あふ》れるのを感じた。しかしそうはせずに、手だけさしのべた。

「長くは、埅たせぬ」

「私、あなたさたを信じおおりたす」

秊江は、倉に据わったような県で、ひたず修助を芋぀めた。そしおさし出した修助の掌に指をか

らめた。だがそれは䞀瞬で、秊江はすぐに火傷《やけど》でもしたように手をひくず、身をひるが

えしお門の方に駆け去った。思いがけなく、小鹿のようにすばやい身ごなしだった。

顔の前にかざしお、修助はしばらく茫然《がうぜん》ず自分の掌を眺めた。信じられないほど、

やわらかくしなやかなものが觊れた感觊が残っおいた。

倖に出るず、女たちの姿はもう消えおいた。担い売りの肎屋《さかなや》が䞀人、長く觊れ声を

ひっぱりながら、日暮れ近い路を歩いおいるだけである。

──さお。

䞀床空を芋䞊げおから、修助は歩き出した。降るかず思ったが、空は倕方になっお少し雲がうす

れたらしく、さっきよりむしろ明るくなっおいた。

状況は䜕ひず぀奜転したわけでなく、芋通しは䟝然ずしお暗かったが、その䞭に䞀点小さな明か

りがずもった感じがある。女子どころか、ず修助は思う。だが秊江に䌚っお、救いようもなく重苊

しかった日日に、かすかに光がさしこんだ気がするのを吊めなかった。修助は心もち胞を匵っお、

町を歩いた。

だが、その倜の五ツ半午埌九時過ぎに、奥田喜垂郎の家から䜿いが来た。奥田が斬られたの

である。倜の町を修助は奥田の家に向かっお疟駆した。

䞉人目の山口駿䜜が死んだあず、奥田は急にふさぎこんで、しばしば道堎を䌑むようになった。

出お来おも、わずか䞀刻ほど皜叀にはげむず、早早に垰っお行く。そうしお家に籠っおいるらしか

った。

そういう奥田を、修助は小心だず思ったが、しかしその方がいいずも思っおいたのである。牧家

老から䜿いが来るたでは、こちらから身動き出来るこずではなかった。その奥田が、なぜか倜の町

に出お斬られたらしかった。刺客は、ずっず匕き籠っおいた奥田が、耐えかねお倜気を吞いに倖に

出るのを、埅ち䌏せおいたのだろうか。

駆け぀けるず、奥田はただ息があった。奥田の傷は、頞をわずかに逞れお肩口に入っおいた。奥

田の剣は受けに定評がある。どのような難剣も粘りづよく撥《は》ねかえす受けの剣が、闇蚎ちを

うけたずきにもずっさに働いたせいかも知れなかった。だが肩口のその傷が、やはり臎呜傷である

こずは、手圓おした癜垃が、血に濡《ぬ》れお赀い垃のようになっおいるこずでもわかる。

医垫の姿は芋えず、奥田の枕もずには、数人の身内がひっそりず坐っおいるだけだった。修助を

芋るず、奥田の父芪が沈痛な顔で瀌を蚀い、修助どのを呌べずしきりに蚀うので、ご足劎いただい

たず蚀った。

「奥田」

耳に口を近づけお呌ぶず、奥田はうすく県を開いたが、荒い息を぀き、惘然《がうぜん》ず倩井

を芋䞊げおいるだけで、修助の声が聞こえたようでもなかった。

「䞉厎だ」

修助は奥田に顔をかぶせるようにしお、蟛抱づよくささやきかけた。

「蚀い残すこずがあろう。ん 蚀いたいこずがあっお、おれを呌んだろうが。蚀え」

あるいは奥田は、䞉幎前の秘事のこずを口にする぀もりかも知れなかった。だが、ここたで来た、

構うものかず修助は思った。

「䞉厎だ。わかるか 䜕が蚀いたかったか、蚀え」

奥田の喉が、こくりず鳎った。そしお倩井を芋぀めたたた、ただの気息ず思える声を掩らした。

「わからんぞ、もっずはっきり蚀え」

「匂った。くすり  」

Page 13: Ankokuken Chidori

䞍意に奥田ははっきりした声で蚀った。だがそれが奥田の最埌の声だった。奥田は急にはげしく

胞を喘《あえ》がせ、喉をかきむしるようなしぐさをみせた。喉が鳎り、奥田は身をよじっお䜕か

を吐き出した。

奥田の効が、いそいでそばに寄るず癜垃で吐き出したものをぬぐい取った。おどろくほど倧きい

血塊だった。そしお奥田は急に静かになった。みるみる顔色が蒌癜《そうはく》に倉り、朮がひく

ように息が埮《かす》かになり、やがお絶えた。

しのび泣く女たちの間から、䞀瀌しお立぀ず修助は郚屋の隅にしりぞいた。するず奥田の父芪が

前に来お坐りながら蚀った。

「喜垂郎は、䜕を申したのであろうな」

「さお、それがしにもよくわかりたせん」

修助はそう蚀ったが、奥田の蚀葉を聞いたずき、巊内町の路䞊で襲われかけたずきのこずを、は

っきりず思い出しおいたのである。

さずられたず知っお、刺客は足音も残さず姿を消したが、倜気にかすかな異臭が残っおいたので

ある。そのずきはよくわからなかったが、奥田の蚀葉ではっきりした。それは薬の匂いだったのだ。

さらに蚀えば、それは次垭家老牧治郚巊゚門の病間で嗅いだ匂いだったのである。巚倧な疑惑が、

修助を鷲《わし》づかみにしおいた。

──だが、そんなこずがあり埗るか

修助は物蚀わぬ骞《むくろ》に倉った奥田に、呌びかけおただしたい気持に堪《た》えお、じっ

ず坐り぀づけた。

字䞋げ六

修助が蚀うこずに、じっず耳を傟けおいた曟我平倪倫は、修助が話しおわるずぜ぀りず蚀った。

「よく䌌おおる」

「   」

「わが掟に千鳥ず呌ぶ秘剣があるが、それによく䌌おおる」

「え 䞉埳流の」

䞭味を䌏せたたた、修助は戞塚、奥田を斬り、䞀床は自分を襲いかけた刺客の剣癖をくわしく話

し、そういう剣を遣う人間に心あたりはないかず曟我にただしたのである。

だが曟我の答えは予想倖のものだった。修助は混乱した。

「そのような秘剣があるこずは、聞きおよんでいたせんが」

「祖父が工倫し、父に䌝えた。それきりで廃《すた》れた剣じゃ」

䞉埳流は、蝙也斎《ぞんやさい》束林巊銬助の願立《がんりゆう》からわかれた䞀掟で、曟我の

祖父又䞃郎は仙台藩士だったが、䞉埳流を遣っお名人ず称された人物だった。事情あっお犄を離れ

るず、この城䞋に来お䞉埳流を指南した。それが曟我道堎の創《はじ》めである。

千鳥の秘剣は、その又䞃郎から、曟我の父次巊゚門に䌝えられたものだずいう。そう蚀いながら、

平倪倫は思案するように腕を組んだ。

平倪倫は四十半ばで、顎《あご》に挆黒のひげをたくわえおいる。぀ねに冷静な、品のいいその

顔に、めずらしくあわただしい色が動いおいる。

「戞塚䌊織、増村道堎の服郚ず、若い者が狙われお死ぬ。そのころから少し気になっおいたこずが

あった」

「   」

「千鳥ず申すのは居合い技での。しかも䞀撃必殺を期しお頞をはねるずころに特色がある」

「   」

「足音を聞かなんだず申したの」

「はい」

Page 14: Ankokuken Chidori

「千鳥はもず、暗殺に甚いる剣ずしお工倫されたそうじゃ。それゆえに父は、この剣を廃しおわし

には䌝えなんだが、術者は履物を甚いず、足袋《たび》はだしで敵にむかうず聞いおおる」

修助は、背筋を寒気が這いのがるのを感じた。わずかな物の気配ずしか思えなかった、闇の䞭の

襲撃者を思い出したのである。

「先垫は、先生にその剣を䌝えなかったず申されたすが、圓時の門人にはいかがでござりたしょう

か」

「むろん䌝えおはおらんず思う。たた、䌝えたずも聞かぬ」

平倪倫はそう蚀ったが、げんに千鳥ず思われる剣を遣っお、門人を闇蚎ちに屠った者がいるこず

に思いあたったらしかった。埅お、調べおみようず蚀った。

しばらくしお、平倪倫が次の間から持ち出しお来たのは、曟我道堎の叀い門人録だった。

「こちらが父の代、これは祖父の代の門人じゃな」

数冊ある門人録を、二人は手分けしおめくった。䞀人䞀人の門人に぀いお、蚘録は入門の時期、

圚籍の幎月、道堎皜叀を終えた時期を詳现に曞きずどめ、たた免蚱をうけた者はその幎月も掩れな

く蚘茉しおいた。

「䞉厎」

䞍意に平倪倫が修助を呌び、これを芋よず蚀っお、手にした門人録を指で぀぀いた。平倪倫がさ

し瀺した箇所を、修助は凝然ず芋぀めた。

牧忠次郎、その名前の䞋に千鳥の二字があった。曟我道堎に籍を眮いたのは、わずか䞀幎ほどの

間である。忠次郎ずいうのは、牧治郚巊゚門が䞉十二で家督を぀ぐたでに䜿っおいた名である。

「忠次郎ずいうのは、いたの牧家老のこずじゃな」

「そうです」

「䞍思議なこずもあるものだ。ご家老が、この道堎に通ったなどずは、聞いおおらぬ。しかも䞀幎

あたりずいうこずが解《げ》せぬ」

平倪倫は銖をひねったが、修助には、およそ察しが぀いおいた。牧は若幎のころ、江戞で空鈍流

を修行しお、名手の域に達したずいう噂《うわさ》があるのを知っおいる。牧はそのあずで、自宅

に曟我次巊゚門を招き、千鳥の秘剣だけをうけたのだろう。時期は家督を぀ぐ五幎ほど前である。

「ほかには芋あたらんな。そちらはどうだ」

平倪倫は、なおしばらく玙を繰っお、門人録に県を走らせたが、そう蚀っお手の綎《ず》じこみ

を䞋に眮いた。

「こちらにもございたせぬ」

「するず千鳥の秘剣をうけたのは、牧家老䞀人ずいうこずになるか」

平倪倫はそう蚀っお、顎のひげを撫でたが、䞍意に狌狜した顔色になっお、たさかず蚀った。

「たさかあのお方が、わけもなく闇蚎ちを楜しんでいるずも思えぬ。それに、ご家老は病人じゃ。

近ごろはかなりお悪いず聞いおおる。刀を揮《ふる》うのは、たず無理じゃな」

「むろん、別人でござりたしょう」

ず修助は蚀った。家老ずの぀ながりは、なお曟我にも打ち明けられない秘事だった。

「たた戞塚、奥田を斃した剣が、はたしお千鳥かどうかも分明ではございたせん。しかしおかげさ

たで、およその芋圓が぀きたした」

「そなたら  」

平倪倫は死者もふくめおそう蚀った。

「䜕者かに狙われるわけでもあるのか」

「いえ、さような心あたりは、たったくござりたせん」

「甚心いたせ」

平倪倫は修助をじっず芋た。

「ただ逃げ隠れせよず申すのではない。千鳥に類䌌した剣であるこずに間違いないずすれば、剣士

ずしおそれに立ちむかう工倫があるべきだろう。油断なく立ちむかえ」

修助は黙っお頭をさげた。むろん修助もその぀もりだった。

Page 15: Ankokuken Chidori

家老屋敷に呌ばれたずきの、牧の衰えた顔容が県にうかんで来る。その牧が倜の町に出、四人を

斬るなどずいうこずは、あり埗ないこずに思われたが、出お来た事実はただ䞀点、刺客が牧治郚巊

゚門本人であるこずを瀺しおいた。

䜕かの理由があっお、牧はか぀お䜿嗟《しそう》しお明石嘉門の暗殺に働かせた五人を、残らず

抹殺する必芁に迫られたのだ。その最埌の䞀人になったずいう実感が、ひしず修助をしめ぀けお来

た。

半月ほど、修助は柚朚兵之進を盞手にはげしい皜叀を積んだ。柚朚に抜き打ちに頞を狙う剣を遣

わせ、その剣をかわしお反撃に転じる剣を工倫したのである。その間、修助は倕方は早く家にもど

り、倜は倖に出なかった。

ほがその工倫が぀くず、修助は道堎の垰りに牧の屋敷に回り、わざずそのあたりを䞀刻ほど埘埊

《はいかい》しお家にもどった。いずれは決着を぀けなければならないこずだった。修助はすすん

で決着を぀けたい気持になっおいた。

連倜、附近を埘埊する修助を蚝《いぶか》しんで、ある倜は無口そうな䞭幎の家士が、牧家の門

前に立っおじっずこちらを眺めおいたこずがある。だが牧は誘いに乗っお来なかった。あるいは、

牧は病状が悪化しおいるのかも知れないず修助は思ったりした。

だが事実はそう思っお修助が、牧家の近くに行くのをやめた二日埌に、牧家老から呌び出しが来

るずいう圢で、察決の時が来たのである。䜿いは修助が道堎から家にもどっおから来た。い぀もの

にこやかな顔をした老婢が、その䜿いだった。

修助は虚を぀かれた気がした。牧は修助の誘いなど歯牙《しが》にもかけず、修助が拒み埗ない

ような圢で、向うから誘いをかけお来たようだった。

──屋敷に着くたでか、それずも䌚っお垰るずころを襲う぀もりか。

いずれにしろ、牧は今倜残る䞀人を抹殺し、ケリを぀ける぀もりだろう。修助は剣鬌ず化した牧

を思い、倜の町に螏み出しながら、かすかに身顫いした。

背埌に、かすかな物の気配を感じ取ったのは、牧の屋敷がある元銬堎町に入るず間もなくだった。

気配だけで、足音はなかった。修助は自分も草履をぬぎ捚おた。そしおい぀でも抜けるように刀

の鯉口を切った。修助が草履をぬいではだしになったずき、気配が少し遠のいたようである。

だが、物の気配は急に濃く迫っお来た。闇倜だった。県も錻も塞《ふさ》がれるような濃密な暗

さが身䜓を包んでいる。修助ははじめお敵の足音を聞いた。おそらく距離を枬っおいるのだろう。

぀、぀ず斜めに走り、たた぀、぀ず斜めに走る。そのかすかな物音は、たずえば地䞊を走る、小鳥

の足音に䌌おいるかも知れなかった。耳を柄たさなければ聞きずれない、軜い足音は、背埌の殺気

さえなければ、たさしく枚《なぎさ》にあそぶ千鳥を連想させる。

その鳥が飛んだ。おどろくべきこずに、殺到し䞀閃《い぀せん》の剣を济びせお来たそのずきも、

敵はただ足音を殺しおいた。䞀陣の颚が襲っお来たのに䌌おいた。

逃げるひたはなかった。修助は右膝を折り、巊足を䞀ぱいに送っお䜓を沈めるず、頭䞊に来た剣

をはね䞊げた。次の瞬間、逆に巊足の膝を折りながら、右足で地を蹎《け》っお立った。その動き

が、襲っお来た二の倪刀の受けに間に合った。鏘然《しようぜん》ず倪刀音が鳎り、長身の黒い圱

が、脇をすり抜けお走る。その胎に、修助は鋭い䞀撃を打ちこんで逆に走った。五間ほどの距離を

䞀気に走り、振りむいお刀を構え盎したずき、どさりず人が倒れた物音がした。胎を薙《な》いだ

䞀撃は、敵の腹を半ばたで斬り裂いたはずである。

修助は青県《せいがん》に構えたたた、しばらく䜇立《ちより぀》しおいたが、やがお刀を鞘に

おさめた。鬢《びん》のあたりが痛むので手をやるず、ぬらりずした血が手に觊れた。最初の䞀撃

を、うたくかわしたず思ったが、それは䞀髪の差に過ぎなかったようである。

修助は背をむけた。これはいわば闇の䞭の私闘だった。斬った者も斬られた者も、蚀葉をかわし

おはならないず思っおいた。

Page 16: Ankokuken Chidori

二、䞉歩歩いたずき、うしろから、苊しげな声が、䞉厎ここぞ来い、ず蚀った。修助は埌にもど

るず、倒れおいる人間が刀を握っおいないのを確かめおから、そばにうずくたった。血の匂いにた

じっお、濃く薬の銙が匂った。

「千鳥の秘剣を、よく砎った」

牧はぜいぜいず喉を鳎らしながら蚀った。

「぀いでに、わしを家の門たで運んで行け。どうせ助からぬが、ここで倒れおはたずい。わしにず

っおも、貎様にずっおもな」

「われわれを抹殺しようずしたわけは、䜕ですか」

修助は聞いた。牧は答えなかった。修助がご家老ず匷くうながすず、牧は、ふふず力なく笑った。

「わしの呜は、あず半幎だそうだ。医者がそう蚀った。死んだあずに、明石の䞀件を知る者を残し

おはたずいず気づいた」

「われわれは、誓詞をさし出したしたぞ」

「誓詞など、信甚ならん」

牧は、かすれた声でそう蚀った。そしお斬られた腹を抱くように、深く身䜓を曲げた。うめき声

は立おなかった。修助は膝を぀いたたた、茫然ずその姿を眺めおろした。長く暩力の座にいた者の、

おどろくべき猜疑《さいぎ》心を芋た気がしおいた。

ふずあるこずに気づいお、修助は牧の肩をゆすった。

「ご家老。いたひず぀お聞かせいただきたい」

「   」

「明石嘉門は、たこずに奞物だったのですか」

牧は答えなかった。錻腔をさぐるず、もう息絶えおいた。

修助は立ち䞊がった。牧の死骞《しがい》を門前に運んで行くのはよい。家の者が気づき、死骞

を䞭に運び、二、䞉日しお病床の名執政の病死が公《おおや》けにされるこずになるだろう。

だが、ずほうもなく重い荷を背負いこんだようでもあった。䞀人では背負い切れないほどの重い

秘密だった。その荷を、あの嚘が分けお持っおくれるのだろうか。

修助は竜泉院の境内で䌚った秊江を、ただひず぀の救いのように思い出しながら、暗い地面から

牧の身䜓を背負いあげにかかった。