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物 で て 銃 防 葉 短 は わ い も ノ た 斎 す く で も …会 員 の 、 誰 と は 言 わ な い 、 某 細 君 な ど は 「 捨 て な い で!! ( の

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Page 1: 物 で て 銃 防 葉 短 は わ い も ノ た 斎 す く で も …会 員 の 、 誰 と は 言 わ な い 、 某 細 君 な ど は 「 捨 て な い で!! ( の

会員の、誰とは言わ

ない、某細君などは

「捨てないで!!(の活動)

に行ってくる」と言う

と、「ああ、ゴミ拾いね」

と念を押すそうだ。

確かに、土蔵や埃ま

みれの書斎(として使

われていた部屋)に入

ると、図書と一緒に

様々なモノが出てきて、

「一緒に持って行ってほ

しい」と言われると、

断り切れずにもらって

くるケースが多い。中

にはゴミ収集でもお断

りせざるを得ないよう

な汚れたものもないわ

けではないので、ゴミ

拾いと言われても言い

返す言葉はない。

絵画や短歌や俳句の

短冊、絵葉書、写真、

なかには防空頭巾や軍

隊手帳、銃弾除けの千

人針なんていうのもあ

った。中でも多いのが、

書額や軸物である。本

来、地域の印刷資料の

発掘が目的だが、こう

した一緒にいただいて

くる付付属付物付がなぜこの

地にあるのか、「ここに

ある理由」を、仲間の

推理を交えた解説を聞

くのも、この活動の楽

しみの一つである。

処分を依頼された十

数枚の書額に混じって、

「明治壬午(みずのえう

ま)晩秋書於飯田客以」

の書き込みがある「

松間

茶味清」(写真)の横額

が見つかった。例の通

り、仲間の「ああだ、

こうだ」推論が始まる。

賛の干支をなんとか判

じ、添えられた落款

(らっかん)を見ると

「東作」と読める。干支

を調べると「壬午」は

明治15年、もしやと思

って、作成中の文学史

年表を繰ると、その年

10月28日に「日下部鳴

鶴(東作)が天龍峡に

遊び、岩峯十勝を選ぶ」

とメモがある。

つまり、この書額、

今から130年前、中

林梧竹・巌谷一六と共

に明治の三筆と呼ばれ

た近代書道の確立者の

一人、日下部鳴鶴が天

竜峡来遊の際、乞われ

て揮毫したモノではな

いかというのだ。鳴鶴

はその折、天竜峡の10

の奇岩を選定し「天竜

峡十勝」と命名、それ

ぞれに自筆の銘を彫っ

た。幕末、漢学者の阪

谷朗廬が命名した天竜

峡が、この鳴鶴の十勝

を得て、近代の観光地

として文人墨客文化人

の注目するところとな

った記念すべき出来事

だが、この書は、その、

まさに歴史的瞬間に書

かれた可能性が強い。

明治15年暮れといえば、

その年の1月9日発刊

された「深山自由新聞」

が出しては発行停止に

なり、経営が立ち往か

なくなりつつある反面、

翌16年には愛国正理社

が飯田にも出来、平民

の救済と権利獲得に動

き出していた。さらに

翌17年暮れ、明治政府

に対して挙兵計画準備

したとして発覚する

「飯田事件」前夜である。

松籟に耳を傾け茶を

いただきながら静かな

時を感じる階層がある

一方では、人間として

の権利獲得に地を這う

ような時間を生きてい

た人々がいたことに思

いを馳せるのである。

書額の美術的価値は

問わない。痛みや汚れ

も目立つものの、当地

にとって、なかんずく

天竜峡にとって、歴史

的な価値のある額では

ないか(推理)…、と、

これが、ブレインスト

ーミング(集団思考)

の醍醐味であり、知の

発見に遭遇した愉楽

(ゆらく)だ。一文の得

にもならないが、ゴミ

拾いに嵌(はま)って

ゆく所以(ゆえん)で

もある、嗚呼。(嶋)

日下部鳴鶴の書

〜「捨てないで!」の愉楽