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1 CAP改革の現状―ヘルスチェックから「2014 年以降の CAP」へ向かって 宇都宮大学名誉教授 是永 東彦 1.WTO ルールに沿った CAP 改革の推進 ································· 3 1)ヘルスチェック後の CAP の現状―WTO ールとの関連で 2)CAP の単一直接支払制度(SPS)のゆくえ 2.農政モデルをめぐる加盟国間の対立 ··································· 9 1)財政改革に関する英国のイニシャティヴ 2)財政見直しに関する欧州委員会の取り組み 3)CAP ヘルスチェックにおける「2014 年以降の CAP」の検討 3.「2014 年以降 CAP」に向けた最近の動き ······························ 15 1)2009 年における欧州委員会の動向 2)「強力な」CAP 理念を推進するフランスの動き 4.新欧州委員会の選択 ················································· 18 1)「2020 年の EU のためのストラテジー」の制定 2)新農業担当委員の所信表明 5.結び ································································ 20

CAP改革の現状―ヘルスチェックから「2014 年以 …...3 CAP改革の現状―ヘルスチェックから「2014年以降のCAP」へ向かって 1.WTO ルールに沿ったCAP

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CAP改革の現状―ヘルスチェックから「2014年以降のCAP」へ向かって

宇都宮大学名誉教授

是永 東彦

1.WTOルールに沿った CAP改革の推進 ································· 3

1)ヘルスチェック後の CAP の現状―WTO ルールとの関連で

2)CAPの単一直接支払制度(SPS)のゆくえ

2.農政モデルをめぐる加盟国間の対立 ··································· 9

1)財政改革に関する英国のイニシャティヴ

2)財政見直しに関する欧州委員会の取り組み

3)CAPヘルスチェックにおける「2014年以降の CAP」の検討

3.「2014年以降 CAP」に向けた最近の動き ······························ 15

1)2009年における欧州委員会の動向

2)「強力な」CAP理念を推進するフランスの動き

4.新欧州委員会の選択 ················································· 18

1)「2020年の EUのためのストラテジー」の制定

2)新農業担当委員の所信表明

5.結び ································································ 20

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CAP改革の現状―ヘルスチェックから「2014年以降のCAP」へ向かって

1.WTOルールに沿った CAP改革の推進

いわゆるヘルスチェックに基づく 2008年 CAP改革の内容につては、昨年度のレポート

で詳しく紹介した1。まず、CAP 直接支持のための共通ルールについては、①デカップリ

ング強化、②クロスコンプライアンス適正化、③モジュレーションの推進などを目標に改

正が行われた。また、単一共通市場組織に関する規則については、①市場介入の適正化、

②酪農政策の改正がなされた。さらに、「新たな挑戦」への対応として、農村開発規則の改

正が行われ、①気候変動、再生可能エネルギー、水管理および生物多様性の 4分野の施策

ならびに②酪農部門の構造調整付随施策が導入された。こうした多岐にわたる改正の具体

的な効果は、いま少し時間を置かなければ正確な把握をすることができない。

ここでは、将来の改革に向けた動向を考える前提として、ヘルスチェックの中心課題で

あった「デカップリングの導入を中心とする 2003年 CAP改革についての見直し」に焦点

をおき、デカップリングの進捗状況と問題点について、まず検討することとしたい。

1)ヘルスチェック後の CAPの現状―WTOルールとの関連で

ガット・ウルグアイラウンド農業交渉の圧力のもと、1992 年に始まった CAP 改革は、

その後1999年、2003年、そして2008年の改革に引き継がれ、2010年から準備される「2014

年以降の CAP」の制定によって、最終段階を迎えるように思われる。

この 20年におよぶ永続的な農政改革の特色は、WTO体制とその農業協定にそって推進

される農業貿易交渉との密接な関連のもとに実施されたことである。保護主義的伝統をも

つ欧州農政が、価格支持制度から直接支払、しかも貿易歪曲性の少ないデカップル型(生

産から切り離された)支払制度へと移行したことは、画期的な変化であった。

図1は、こうした政策の仕組みの変化を財政面から明らかにしている。そして、2009

年のWTO貿易政策レヴューにおける欧州委員会提出資料によれば、ヘルスチェックによ

る 2008年改革が実施された暁には、CAP直接支払いの 91.4%が、デカップル型の支払に

よって占められるにいたるといわれる2。

しかし、WTO交渉と CAP改革との関係は複雑で解りにくいものである。当然のことな

がら、主権国家であるWTO加盟国の農政展開とWTOルールとの関係には、「ルールの

受容」と「ルールの変更」の 2 面があり、WTO 農業協定に従った加盟国の農政展開がみ

られるとともに、主要加盟国の主張を反映したWTOルールの変更が重要なプロセスを形

成する。

1 是永東彦「2008年 CAP改革―「ヘルスチェック」の成果と意義」農水省『主要国の農業情報調査分析報告書』(平成 20年度)農水省ホームページ 2 WTO, 2009 Trade Policy Review-European Communities.WT/TPR/G/214,p.103

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以下においては、WTO 農業交渉が最終局面を迎えつつある今日、予想される農業モダ

リティの諸条件に EUがいかに適応しようとしているか、また、CAPのデカップリング型

支払制度の諸条件をWTOルールに反映させるべく、どのような規定の改正がなされよう

としているかを見ておこう。

ア.EUは WTO交渉の約束水準を如何にして充足するか

WTO 農業モダリティ案から予想される EU の約束水準は、表1のようにみなされてい

る。そして、EUは、近年の CAP改革をつうじてこれらの約束を受け入れる準備をしてい

るようにみえる。特に注目される点を指摘しておこう3。

� 国内支持については、CAP改革によって、すでに「黄の政策」と「青の政策」が削減

されているか、または、2008年改革で削減可能となっていることが重要な点である。

約束のカテゴリー別には、「青」、「黄」、「デミニミス」というカテゴリー別の約束水準

よりも、これらを包摂する「貿易歪曲的支持全体」の水準が低いことが、強い制約条

件となることが分かる。全体としては、「緑の政策」が圧倒的な比率を占めるにいたら

しめた一連の CAP改革の成果が重要な意義をもったといえよう。

� 市場アクセスでは、「重要品目」の仕組み EUにとって重要な役割を持つ。「重要品目」

は、上限の 4%が 88品目(8桁レベル)に相当するが、食肉、乳製品、穀類・同関連

産品、果物・果実などの部門から指定されると予想されている。

� 輸出補助金は、2013年以降の廃止が重要な課題である。米国などの実施している類似

措置(輸出信用、援助など)についての規律強化が条件とされているが、この面の交

渉にも進展があったようである。

3 ここでは主に、欧州議会資料である Gide Loyrette Nouel A.A.R.P.I, “Stocktake of the WTO Agricultural Negotiations after the Failure of the 2008 Talk” European Parliament,June 2009.による。この資料は、欧州議会農業委員会の依頼により、ブリュッセル所在の法律コンサルタント企業(Gide Loyrette Nouel A.A.R.P.I)が作成したものである。

図1 CAP改革と財政支出構造

出所:European commission, EU Budget 2008-Financial Report

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2008

% GDPbillion €

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0.1%

0.2%

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0.4%

0.5%

0.6%

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輸出補助金 市場支持 生産リンク直接援助

デカップル直接援助 農村振興 GDPに対する比率

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表1 2008年 12月 WTO農業モダリティ案から予想される EUの約束水準

国内支持 � 貿易歪曲的国内支持全体:80%削減(22.1)

� 黄の政策:70%削減(20.1)、その他に品目別上限あり。

� デミニミス:50%削減(11.1)

� 青の政策:生産額の 2.5%(5.6)、その他に品目別上限あり。

� 緑の政策:基準の改定

市場アクセス � 関税削減:最高階層 70%削減(平均削減率 54%)

� 重要品目:タリフラインの4%、関税割当の拡大

� 特別セーフガード:直ちに1%に削減、7年後に廃止

� 関税簡素化:85%以上を従価税に転換。

輸出補助金 � 2013年までに廃止

出所:Gide Loyrette Nouel A.A.R.P.L.“Stocktake of the WTO Agricultural Negotiations after the Failure of the 2008 Talk”(Study),European Parliament,2009. 備考:国内支持のカッコ内数値は約束水準の推定値(単位:10億ユーロ)

イ.EUは単一直接支払い制度(SPS)の WTO適合性を如何にして確保するか。

つぎに注目したいのは、EU側における CAP改革との関連におけるWTO農業協定(付

属書2)の一部改正である。具体的には、このグリーン・ボックスの規定における「生産

に関連しない収入支持」の規定の改定である。司法的手続きともいえるWTO紛争処理機

構の機能向上に応じて、他の加盟国からのチャレンジに対する十分な対応がいまや不可欠

となっている。

まず、EU側は次のような問題に直面した。EUの単一直接支払い制度(SPS)は、2003

年の発足以来、受給権の譲渡を認めており、さらに 2008年改革では、「基準期間」の変更

をもたらす恐れがある SPSモデルの変更の手続きが導入された。当初の SPS制度は、加

盟国が歴史モデル(各農業者の歴史的基準額にもとづく支払受給額)、地域モデル(各地域

における農業者たちの受取額にもとづく均一支払受給額)、混合モデル(以上の 2 方式の

組み合わせ、静態的形態と動態的形態がある)のいずれかを選択する4。しかし、今回の改

正により、次のようなモデルの変更が可能とされた5。①歴史モデル採用国は、地域の特性

を考慮して受給単価を接近させる目的で、支払受給額の配分の見直しを行うことができる

(第 45条)。②歴史モデル採用国は、地域モデルへ移行することができる(第 46条)。③

地域モデルの採用国は、受給額の接近のために過去の決定を見直すことができる(第 48

4 歴史モデルの採用国はAustria (2005), Belgium ( 2005), Ireland (2005), Italy (2005), Portugal(2005), UK –

Scotland (2005), UK – Wales (2005), France (2006), Greece (2006), Netherlands

(2006), Spain (2006)、地域モデルの採用国はMalta (2007), Slovenia (2007)、静態的混合モデルの採用国はDenmark (2005), Luxemburg (2005), Sweden (2005), UK – Northern Ireland (2005)、動態的混合モデルの採用国は、Germany (2005), UK – England (2005), Finland (2006)である(カッコ内は採用年次)。 5 是永東彦「2008年 CAP改革―「ヘルスチェック」の成果と意義」農水省『主要国の農業情報調査分析報告書』(平成 20年度)農水省ホームページ

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条)。こうして、加盟国が一度選択したモデルを変更する手続き規定を整備することによ

り、過去の補助金受給実績を反映する歴史モデルから、受給レベルの接近をもたらす地域

レベルへの移行を推進する仕組みを導入した。

他方、現行のWTO農業協定では、「生産に関連しない収入支持」について、「この支

払を受けるための適格性は、定められた一定の基準期間における収入、生産者又は土地所

有者であるという事実、要素の使用、生産水準その他の明確に定められた基準に照らして

決定される」と定められている。EUにおけるモデル変更を含む SPS制度は、現行のWTO

ルールに完全に適合するであろうか。

こうした問題を考慮して、EUは SPSのWTO適合性を確保するため、WTO農業協定

の関連規定の改定を要求した。こうして 2008 年 12 月のモダリティ案6には、次のような

改定が盛り込まれた。

� 「基準期間」の規定が「定められた一定の変更されることのない過去の基準期間」と

明確にされた。

� 「既存の・・・収入支持に対する資格を譲渡すること」および「(基準期間の)例外的

な更新」が排除されないことが明記された。

� 「例外的な更新」には細かな条件が付されており、とくに、「更新に関する決定は関係

加盟国の各領域について一回だけ行うことができる」とされている7。

ともあれ、EUの視点からすれば、このモダリティ案が最終的に合意されれば、SPSの

WTO ルールへの適合性が確保されることになるであろう。しかし、効果的な紛争処理機

構のもとで一種の「訴訟社会」と化した観のある今日のWTO体制下で、農業補助金の合

法性を確立しつつ、「納税者負担型」の農政を展開することは、主要なWTO加盟国にとっ

ても多大な努力を要することが分かる。

2)CAPの単一直接支払い制度(SPS)のゆくえ

ヘルスチェックを通じて、SPSの基本モデルはいまや「地域モデル」となったといって

よい。「歴史モデル」は、過去のある時期における個別的支払実績に依拠するので、時の経

過とともに合理的根拠を喪失することが広く認識されたことが大きな理由といえよう。し

かし、「地域モデル」は、経営間、地域・加盟国間、生産システム間の格差の存在により、

理想的な形を描くことは、容易なことではないようにみえる。

想起されるのは、ヘルスチェックについての最終合意がなされた 11 月段階の農相理事

会において、議長国フランスの提案した「2014年以降の CAPの将来」につての宣言案に

は、

6 WTO(Committee on Agriculture Special Session), REVISED DRAFT MODALITIES FOR AGRICULTURE(TN/AG/W/4/Rev.4),6 December 2008,pp.39-40. 7 この条件について、上記の法律コンサルタントの報告書は、EU規則では将来的に複数回にわたる変更を認めるような規定となっていることに抵触する可能性を指摘している(op.cit.,pp.52-53)。かなり複雑な問題であり、ここでは指摘するにとどめる。

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次のような文言が盛り込まれていた。「EU理事会および欧州委員会は、開始された「2014

年以降の CAP の将来」に関する議論において、当該期間に関する新たな財政見通しを妨

げることなしに、共同体における直接支払制度の発展と加盟国間における直接支払の異な

る水準への対処についての可能性を十分に検討することを約束した」。

一体、加盟国間における直接支払の異なる水準について、どのような対処の方法がある

のであろうか。実は、この問題については、欧州委員会はヘルスチェックの準備作業とし

てかなりの検討を行っていたのである8。

加盟国の裁量にゆだねられた SPSのモデルの現状は、歴史モデルが南欧諸国、地域モデ

ルが北欧諸国の傾向を代表すると要約することができる。そして、今かりに、地域モデル

を EU 全域に導入すれば、地域内での ha あたり支払の平準化をもたらす一方、地域・国

別の大きな格差が残ることになる。図2は、現行予算の枠を前提に、面積あたりの直接支

払額および受益者あたりのそれについて、国別格差がいかに大きいかを示したものである。

EU加盟の時期や過去の CAP補助金の受益水準に大きな差異があることから、歴史モデ

ルを捨て去るとの選択をすでに行った以上、いま一歩進めて、国別の格差を完全になくし、

EU 全域に一律の支払いをすることも、合理的な選択であるかもしれない。こうしたシナ

リオにもとづく CAP財源の再配分の効果は、図3に示されるように極めて大きい。

8 CAP Health Check – Impact Assessment Note No.1,Subject :Single Payment Scheme, D(2008)AH/15325, 20 May 2008

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(�)面積当たり支払水準�

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(�)受益者あたり支払水準�

� � � � � � � � � � � � � � � � � � � � � � � � � � � �(単位:��� ユーロ)�

図2� 直接支払の国別格差�

出所:CAP Health Check-Impact Assessment Note No.1, Subject: Single Payment

Scheme, D(2008)AH/15325, 20 May 2008

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ヘルスチェック最終段階で議長国フランスが提起した加盟国間における直接支払いの異

なる水準への対処は、CAPに関する加盟国間交渉に、解決困難なゼロサム・ゲームを持ち

込む恐れがあろう。それは、かつては EU統合の求心力であった CAPをして、EU統合を

阻害する耐えがたいほどの遠心力に転化させるのではなかろうか。

こうした背景から注目されたのが、農業担当委員の 2009年 6月のチェコにおける演説9

および 11月のスウェーデンにおける演説10である。そこでは、EUレベルでの一律支払い

方式について、将来の選択肢の 1つとして言及しながらも、それを支持することはなかっ

たのである。

2.農政モデルをめぐる EU加盟国間の対立

1990年代初頭の冷戦構造の崩壊以来、いわゆるグローバリゼーションの流れにそって、

WTO 体制のもと多分に外圧を利用して農政改革を推進してきた EU においては、「2014

年以降の CAP」をどうするかをめぐって、深刻な内部対立を抱えている。

9 "CAP post 2013: What future for direct payments?" (Speech by Commissioner Mariann Fischer Boel at the Informal Meeting of Agriculture Ministers in Brno, Czech Republic, 02/06/2009) 10 "A strong CAP to face the challenges of the future" (Speech by Commissioner Mariann Fischer Boel at the Swedish Farmers' conference on CAP, Stockholm, 25/11/2009)

図3 EU全域に一律支払水準(面積あたり)を適用する前提

における加盟国間の再配分の影響度

出所:CAP Health Check-Impact Assessment Note No.1, Subject: Single Payment Scheme, D(2008)AH/15325, 20 May 2008

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1)財政改革に関する英国のイニシャティヴ

CAP改革の基本方向をめぐる対立は、EU主要国の農政の伝統を背景にした思想的・理

念的な側面をもつが、より具体的には EU財政の改革問題との関連で登場した11。

中東欧の加盟後の最初の中期財政計画(2007-2013年)は、EUの将来にとって重要な

意義を持つものであり、後進的な社会経済状態にある中東欧をすでに「豊かな社会」を実

現した西欧社会に真に統合し、「欧州社会モデル」を欧州全体に普及させる基礎であった。

他方、中東欧諸国の潜在的な財政ニーズは大きく、1997年の「アジェンダ 2000」の提案

以来、将来の EU財政の規模については、15ヵ国時代の水準を維持し、拡大による財政膨

張を回避する方針が追求されてきた。

欧州委員会が提案した財政計画案は、中東欧の期待に最大限応えるべく、2002年の欧州

理事会の合意ラインをわずかに上回る規模(支払いベースで GNI の 1.14%)であった。

このために、国民所得の 1%に近い水準への圧縮を求める主要諸国と欧州委員会との対立

が発生し、ようやく 2005 年 6 月に、欧州理事会議長国ルクセンブルグの調整によって、

妥協の兆しが見えてきたのである。ところが、最後の難題は英国の EU財政からの「払い

戻し」制度の取り扱いであった。この問題は、7 月以降の議長国イギリスの調整に委ねら

れた。英国は、英国の財政負担問題と従来からの英国の主張である農業保護削減論とを結

合し、CAP改革を含む EU財政の大幅改革を追及する作戦をとった。

11 是永東彦「拡大EUの農業と農業政策――現状と課題」、農水省『主要国の農業情報調査分析報告書』(平成 17年度)農水省ホームページ

図4 CAP支出と農業産出の国別シェアーの比較(2008年)

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最終的には、英国政府は、6 月段階のルクセンブルグ妥協案に近い財政規模を受け入れ

る(約束ベースで GNIの 1.045%、支払いベースで 0.99%)とともに、英国財政負担問題

について一定の譲歩を示した。しかし、それと引き換えに、将来における CAP のさらな

る改革への努力を欧州理事会に認めさせることができた。すなわち、2005年 12月の欧州

理事会合意には、次のような農業財政の見直し条項が含められた。

� 欧州理事会は、グローバリゼーションと急速な技術変化に鑑み、欧州における近代化

の促進のために EU財政の枠組みの包括的な再評価を行うべきことに合意する。

� 欧州理事会は、欧州委員会に対して、EU財政の、CAPを含む支出および英国への払

い戻しを含む収入のすべての側面について、完全かつ広範なレビューを行い、2008/9

年に報告することを要請する。

� このレビューに基づき、欧州理事会は決定を行うことができる。このレビューは、次

期財政計画に関する準備作業においても考慮される。

この間に、英国政府は、次のような「CAPの将来に関するヴィジョン」12を発表した。

� 10-15年の長期的展望のもとに CAPのラディカルな改革が必要。

� 「補助金や保護なしに国際競争力をもつ産業」としての農業の確立

� 農業生産は市場のみに依存し、市場の提供できない社会的便益のみが納税者の負担で

賄われれること。

� 環境・景観・自然を保全し、農村社会のニーズに対応し、動物愛護に配慮。

� 国際貿易と世界経済に歪曲効果を持たないこと。

このような CAP に対する英国の立場はどのように説明されるのであろうか。それは、

農業予算を中心とする EU財政構造は英国にとって本質的に不利であることによる。農業

予算からの各国の受益の程度は基本的に農業部門の規模を反映する(図4)。他方において、

EU 財政への拠出は、各国の国民経済の規模を反映する。その結果、国民経済における農

業の相対的地位が低い国、とくにドイツや英国にとって、EU 財政に対する収支が不利に

なる(表2)。ドイツは EU 中心国としてそれを甘受してきたが、英国は支払超過分の一

部償還を要求してそれを獲得してきたのである。だが、この英国の特権は、EU 拡大とと

もに存続が次第に困難になってきている。英国としては、この特権の廃止は、農業中心の

EU 財政構造の改革なしに受け入れることはできないということになる。ともあれ、EU

財政との関連における不利益を最小にすることが英国の対 EU外交政策の最優先課題の 1

つであり、CAPに対する英国の基本的態度はかかる外交政策を反映するものである、

そして、この英国の農業ヴィジョンは、英国の EU財政負担問題へのアプローチにおい

て重要な役割をはたすことになる。それは、英国・北欧を中心に CAP 改革派の人々によ

って支持され、CAP予算の削減にむけた世論の形成に大きく寄与することになったからで

ある。

12 A Vision for the Common Agricultural Policy,DEFRA,HM Treasury,December 2005

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12

表2 国別にみた EU財政収支(2008年)

加盟国への 加盟国からの 収支差額

支出(a) 収入(b) (a-b)

ベルギー 6,108 4,631 1,477

デンマーク 1,557 2,301 -744

ドイツ 11,194 22,215 -11,022

アイルランド 2,052 1,577 475

ギリシャ 8,514 2,328 6,186

スペイン 12,094 9,966 2,128

フランス 13,722 18,025 -4,303

イタリア 10,306 15,145 -4,838

ルクセンブルグ 1,410 259 1,150

オランダ 2,267 6,669 -4,402

オーストリア 1,777 2,194 -417

ポルトガル 4,117 1,466 2,651

フィンランド 1,321 1,710 -389

スウェーデン 1,464 3,223 -1,759

英国 7,310 10,114 -2,804

ブルガリア 972 364 608

チェコ 2,441 1,396 1,045

エストニア 368 161 207

キプロス 130 180 -50

ラトビア 610 216 395

リトアニア 1,135 329 805

ハンガリー 2,003 947 1,056

マルタ 87 60 27

ポーランド 7,640 3,473 4,167

ルーマニア 2,666 1,218 1,449

スロベニア 456 409 48

スロバキア 1,242 595 647

出所:European Commission, EU Budget 2008-Financial Report.

備考:英国からの収入は償還金 6,252百万ユーロを控除した後の数値。

単位は 100万ユーロ。

2)財政見直しに関する欧州委員会の取り組み

EU の財政見直しに関する取り組みは、EU 全体の民意を聞くためのコンサルテーショ

ン(協議)の形で始められた。それは 2007年 9月から 2008年 11月にかけて行われ、CAP

ヘルスチェックの時期とほぼ重なっていた。CAPの長期的なあり方というテーマをめぐっ

て、ヘルスチェックのゆくえに圧力を加える意味でも注目された。

2007-2008年は、WTOドーハ・ラウンドが大詰めを迎えて、先進国農業保護の協調的

削減の方式について大枠の合意が形成されてきた時期であり、また世界農業市場では「地

殻変動」とも呼ばれるほど需給基調の変化が予測され、EU 農業にとって対外保護政策の

必要性が消滅するであろうことが専門家たちによって提示された時期である。27ヵ国に拡

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13

大した EUにおいて、CAP批判がかつてないほどの盛り上がりを見せたのである。

コンサルテーションは、欧州委員会の予算・財政計画担当委員の責任のもとに行われた

が、一切のタブーなしに、EU 財政の在り方についての意見を広く求めることとされた。

加盟国政府、地方政府などの公的部門、各レベルでの民間団体、各種職能団体、大学・研

究機関等々、EUの全域から広く意見が寄せられ、その件数は約 300に達した。その成果

を発表する会合が、2008年 11月 12日、ブリュッセルで開催された13。また、意見を集約

した事務局報告書が別途作成されている14。

CAP に関する意見は多様であったが、農業予算の削減を求める意見が支配的であった。

以下では、その急先鋒である英国の意見と予算担当・財政計画委員の報告のうち、CAPに

関する部分を紹介しよう。

英国は、「グローバル・ヨーロッパ:21 世紀予算に関するヴィジョン」のタイトルを付

した文書を提出したが、そこには、農業部門を含む EU予算の改革方針が次のように述べ

られていた15。

① EU予算は、21世紀における市民にとって重要な主要課題に取り組むために根本的

な改革を必要とする。財政資金は次の 3つの優先分野における EUの活動にむけて再

編されなければならない。農業支持のための支出は削減されなければならない。

� 力強い世界経済における繁栄する欧州の建設。

� 気候変動に関する挑戦に対処すること。

� 安全、安定および貧困軽減の確保。

② CAPの第1の柱における支出は、漸進的に廃止する。また、気候変動に対処すべく、

再編される CAP の第2の柱における支払が、市場によって保証されない社会に対す

る環境的便益の提供に、集中的に充当される。

③ 構造基金および格差是正基金は、繁栄水準の相対的に低い加盟諸国の利益のための

重要な財源再配分機構として維持される。したがって、相対的に豊かな加盟諸国にお

ける構造基金は、漸進的に廃止される。

④ 輸送、自然資源保護、公安および市民サービスの分野における EUの政策は、引き

続き EUの財政支援を受けるものとする。

⑤ 予算支出計画の企画および管理の改善により、効果的かつ効率的な政策目的の達成

が確保されなければならない。予算規律の一層の強化のもとで、最高レベルの財政管

理および独立した監査が必要である。

いま1つ注目すべきは、予算・財政計画担当委員ダリア・グリバウスカイテ(Dalia

Grybauskaite)女史が 11月 12日の会合で報告したスライド資料における農業関係の記述

13 その会合は“Reforming the Budget,Changing Europe”とよばれ、詳しい内容が EUホームページに掲載されている。 14 European Commission,Consultation Report.Reforming the Budget,Changing Europe:Short Summary of Contribution, SEC(2008)2739 15 “Global Europe: vision for a 21st century budget”,HM Treasury,June 2008,p.3.

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14

であった。そこでは、農業はコンサルテーションの最もホットな話題の 1つであったとし

て、次のように要約された16。

① 農業への支出は改革を要する。

② 新たな共通目標に沿った政策として CAPを維持する。

③ CAP支出の削減:直接支払いを漸進的に消滅させる。

④ 第 2の柱の増強、第 1の柱の共同負担(EUと加盟国との間で)。

⑤ 農村開発から地域格差是正への振り替え。

驚くべきは、予算・財政計画担当委員の名において、第 1の柱の「直接支払の漸進的廃

止」がコンサルテーションの帰結として提示されていることである。英国の主張をそのま

まに取り上げたこの記述は必ずしも正確なものではないと思われる。事務局の整理し、バ

ローゾ委員長と予算・財政計画担当委員の連名の「前書き」が付された報告書が別途公表

されており、そこでは、農業について多様な相反する意見が提出されたことが細かく指摘

されている17。

それとともに、重要なことは、コンサルテーションの帰結が、直ちに欧州委員会の見解

となるのではないことである。上記報告書のバローゾ委員長と予算・財政計画担当委員の

連名の「前書き」には、「このコンサルテーションに対するわれわれの政治的回答は、2009

年に欧州委員会が提出する財政見直しに関する報告書によって提示される」と述べられて

いる。しかし、この予告された欧州委員会の報告書は 2009 年には発表されることはなか

った。それは 2010年に発足する新委員会により 2010年春に提出されるが、後述のように

極めて政治的な配慮を加えたものとなると予想される。

3)CAPヘルスチェックにおける「2014年以降の CAP」の検討

2007年後半期から 2008年を通じるヘルスチェックの作業において、欧州委員会が CAP

の短期的な適応にますます傾斜する中で、ヘルスチェック作業を完了させるべき 2008 年

後半の議長国として、フランスは「2014年以降のCAP」という長期的な課題に固執した18。

フランスは、2008年 9月 23日アネシーで開催された非公式農相会議で、長期的な視点

から、将来の CAPが応えなければならない基本目標として次の4点を提示して、拡大 EU

の農政理念とこれにもとづく CAPの方向を議論するように取り計らった。

� EUの食料安全保障(衛生面を含む)の確保。

� 世界の食料の需給均衡への寄与。

16 原文では次のとおり。①spending on agriculture needs reform; ②maintain CAP as policy aligning with new common goals;③less for CAP: gradually eliminating direct aid; ④reinforce pillar 2, co-financing pillar 1;⑤shift rural development to cohesion policy. 17 上記の注6の報告書。なお、予算担当委員ダリア・グリバウスカイテは、リトアニア出身、「リトアニアの鉄の女」の異称をもつ若手女性政治家であり、欧州委員会の予算担当委員に就任するとともに、CAPに対する激しい批判によって著名となった人物である。2009年の春には、母国の大統領選挙に立候補し、大差で当選を果たした。 18 是永東彦「2008 年 CAP 改革―「ヘルスチェック」の成果と意義」農水省『主要国の農業情報調査分析報告書』(平成 20年度)農水省ホームページ

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� 地域的格差是正のための農村空間の均衡の維持。

� 経済的成果と環境的効果を両立させる農業の建設。

これらの課題はあまりにも一般的な農政課題であり、加盟国間の意見の違いは明白に現

れず、27カ国間のコンセンサスが得られたように見える。しかし、具体的な政策手法、と

くに第 1の柱の直接支払の将来、デカップリングのモデル選択、デカップリング化の進捗

テンポおよび限度、市場介入の役割などとなると、コンセンサスは十分ではなかった。

ヘルスチェックについての最終合意がなされた 11月段階の農相理事会において、議長

国フランスの提案した「2014以降の CAPの将来」についての宣言案は、次のようなもの

であった。「欧州理事会および欧州委員会は、開始された「2014年以降の CAPの将来」

に関する議論において、当該期間に関する新たな財政見通しを妨げることなしに、共同体

における直接支払制度の発展と加盟国間における直接支払の異なる水準への対処について

の可能性を十分に検討することを約束した」。第 1の柱の直接支払について、長期的には

大幅な削減を追求する英国や北欧諸国は、それの長期存続をめざすフランスなどの立場と

は異なる。11月 28日、最終的には、英国、スエーデン、リトアニアの 3カ国は、上記宣

言案への署名を拒否した。

以上のような議長国としてのフランスのスタンスとは別に、CAPヘルスチェックとの関

連で、CAPへのフランスの基本的考え方もバルニエ農業大臣のもとで検討され、「CAP

の遵守すべき 4原則」として次のように整理された19。これはフランスの本音が良く現れ

ていて興味深い。

① 欧州特恵の維持:かつての「共同体特恵」の概念を引き継ぐものであるが、新たな

概念を模索しているようにみえる。それはWTOルールに適合する形で行われるとと

もに、消費者には購入する産品の衛生的、環境的な質を保証し、また、EU と同水準

の要件を遵守しない第三国との競争に耐えることのできない欧州農業者には必要事項

である。この原則が、WTOや第三国との二国間交渉を導くのでなければならないし、

輸入品の質を保証するための国境管理の強化を正当化する。

② 市場の安定化:市場の短期変動とリスクの拡大は、需要拡大のもとでも、適合し強

化された市場の安定化戦略を採用することを正当化する。公的介入メカニズムの漸進

的な廃止と援助のデカップル化は、農業を市場の法則のみに委ねることになる。CAP

は、規制の撤廃が人々や環境にもたらすリスクを考慮して、市場安定化を可能にする

適切な手段を備える必要がある。手段を更新した市場安定化のための共同体措置、リ

スクに対する個人的な保険手段、価格が農業者所得の主要要素となるように強化され

た異部門間組織などに依拠しなければならない。

③ CAP予算の維持:CAPは、EU財政に関する決定の調整変数となってはならない。

予算は政策遂行の必要性を反映する。現在取り組むべき挑戦は、共通農業政策につい

19 是永東彦「CAP ヘルスチェックの課題と展望」農水省『主要国の農業情報調査分析報告書』(平成 19年度)農水省ホームページ

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て定められた目標には財政手段が必要ということだ。2009/2010年以降の EU財政の

議論の際に、考慮されなければならないのは、農業政策の目標である。消費者のニー

ズ、食料や環境についての市民の期待に照らして、農業の役割をより良く正当化する

ことが、CAP予算の維持を可能にする。

④ 環境および国土の面を考慮に入れて、持続的農業のための的確な行動を確保する :

CAPは、農業経営の環境的役割に相応し、脆弱な農業地域における生産的農業の維持

を可能にする諸手段を導入しなければならない。

3.「2014年以降 CAP」に向けた最近の動き

1)2009年における欧州委員会の動向

2009 年の EU 農業界は、年頭にヘルスチェック関係の法令が施行された後、深刻な農業

不況への対応と 2014年以降の CAPの展望の問題に揺れ動いた。2014年以降の CAPの在

り方は、6月の欧州議会選挙の主要テーマの 1つとなり、また農業予算の削減を含む EU財

政見直しに関する欧州委員会の報告が予定されていたことを背景に、論争を引き起こした。

しかしながら、長期的で、かつ論争的なこのテーマにつて、欧州委員会と農業担当委員

マリアン・フィッシャー・ボエルが明確で、立ち入った態度を表明することはなかったよ

うに思われる。たしかに、農業担当委員は、2009年 6月から 11月にかけて数回にわたる

スピーチにおいて、2014 年以降の CAP の方向について、自らの視点を提示した20。しか

し、2014年以降の CAPについて、「強い CAP」を支持すると明言したのは、ようやく 11

月に入ってからのスピーチにおいてあった21。こうした欧州委員会の消極的ともいえる対

応は、次のような理由から説明できるように思われる。

2007年 11月、欧州委員会がヘルスチェック報告を公表した際の基本的考え方は、次の

ようなものであった。その目的は、2003年以降の CAPに必要な調整を加えることにあり、

根底から改革することではない。2003年の改革について 2009-2012年の期間を対象とし

た微調整を施すとともに、より長期的な農業のプライオリティに関する議論に寄与する。

こうした考え方は”One Vision,Two Steps”と呼ばれた。1つのヴィジョンとは、2014年以

降に向けた CAPの大幅な改革ヴィジョンの形成をめざすことであり、2つのステップとは、

小幅な改革にとどめる 2008-2013 年と、大幅改革を実現すべき 2014 年以降との、改革 20 上記の6月のチェコおよび 11月のスエーデンでの演説のほかに、次の2点が注目された。"The challenges ahead for the CAP" (Speech by Commissioner Mariann Fischer Boel at the Agriculture Committee of the European Parliament, Brussels, 01/09/2009);"The future of the CAP after 2013" (Speech by Commissioner Mariann Fischer Boel at the Workshop on "The Future of the Common Agriculture Policy after 2013" at the EP Committee on Agriculture and Rural Development, Brussels, 11/11/2009). 21 特に興味深いのは、11月 11日の欧州議会農業委員会ワークショップでのスピーチにおける次のような発言である。「私は、我々が将来にわたり強い CAPを必要としていると確信している。私の見解について

新聞紙上で色々書かれているのを読んでいるが、私自身がすべてのことを市場に委ねたいと欲しているウ

ルトラ自由主義者であると書かれているのを知っている。これは全くのナンセンスである」と。自由主義

的伝統の強いデンマークの女性農政家であるだけに、存在感に欠ける印象を与えていたのかもしれない。

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のプロセスを 2つの段階に区別することを意味する。かかる考え方は EUの政治日程が関

係していた。欧州委員会の任期が 2009 年秋で終了し、同時に新委員会が発足する。上記

の2つのステップのうち、第 1のステップは現委員会のもとで進められるが、第 2のステ

ップは次期委員会が担当する。こうして現行委員会は、2014年以降の CAPヴィジョンに

ついて必ずしも十分に熱が入らなかった。

しかし、2008 年後半に議長国を務めたフランスは、2014 年以降に向けた CAP の長期

ヴィジョンの検討を重視した。さらに、2008-2009 年における農業不況の深刻化が、フ

ランスをはじめとする農業的性格の強い諸国において、CAP改革のゆくえについて危機感

を高めた。フランスでは、元来、農業インタレストと縁のなかったサルコジ大統領が、欧

州委員会の CAP 改革における過度の規制撤廃と WTO 農業交渉における外圧への過度の

譲歩を激しく攻撃し始めた。

こうした中で、2009年 6月 2日、チェコを訪問した農業担当委員は、「2014以後の CAP」

をテーマとしたスピーチで、直接支払いの 90%以上がデカップルされ、中東欧を含む EU

諸国全体に所得支持制度が普及するとの 2003年改革の成果を誇示しつつ、「経済危機が終

了して農産物価格への圧力が軽減することを希望する」22との楽観的な見方を提示してい

たのである。

ようやく 2009年 11月下旬になって、再任されたバローゾ欧州委員会委員長が、次期委

員会の構成と「2020 年 EU 戦略」の策定に向けた基本政策とを決定したあと、欧州委員

会は「2014年以後の CAP」に関する準備を始めたように見える。

2009年 12月には、欧州委員会ウエッブ・サイト“The common agricultural policy after

2013”が設置され、欧州委員会は「農業政策展望ブリーフ」(Agricultural Policy

Perspectives Briefs No 1)を発表した。そこには今後検討すべき論点が整理されている。

また、ほぼ同じ時期に、次期農業担当委員に指名されたダチアン・チオロシュに対する

欧州議会の承認手続きが開始され、CAPの長期的方向についての新委員の所信などが欧州

議会から開示されはじめた。2010 年半ばには、2014 年以後の CAP について、新委員会

による提案が予定されている。

2)「強力な」CAP理念を推進するフランスの動き

フランス農政の展開に強力な主導性を発揮するサルコジ大統領は、2009年 10月 27日、

フランス・ジュラ地方のポリニーで、「我が国農業にとっての新たな将来」と題する演説23

を行い、次のように述べた。「フランスは、EU議長国を務めた 2008年、農業市場の規制

の改善のため、2014年以後の CAPの基本原則に関する議論を開始した。拡大 EUにおい

て、かかるイニシャテイヴがとられたのは初めてであったが、フランスの考える諸目標を

22 "CAP post 2013: What future for direct payments?" (Speech by Commissioner Mariann Fischer Boel at the Informal Meeting of Agriculture Ministers in Brno, Czech Republic, 02/06/2009) 23 Discours du président de la République « Un nouvel avenir pour notre agriculture », Poligny (Jura) – mardi 27 octobre 2009

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めぐって、27カ国中 24カ国の合意を得ることができた。」そこで提示されたフランスの農

政目標は、次のようなものであった。

� 新たに定義される共同体特恵の確認。

� 真に機能する市場の制御手段の確立。

� 脆弱な国土空間(草地地帯、山岳地帯)における生産活動の存続。

� 環境保全的な生産的農業の重視。

こうした経緯を踏まえて、2009 年 12 月 11 日、パリにおいて、フランス農業大臣ブル

ーノ・ル・メールのイニシャティヴにより、「CAP の将来に関するパリ会議」が開催され

た。農業市場の新たな規制を支持する 22の EU加盟国の代表が参集し24、2014年以降に

ついて「強い CAP」を支持する合意文書「共通農業・食料政策に関するパリからの訴え」

25が作成された。そこでは、22ヵ国が支持する政治的選択が次の 4点に整理されている。

� 欧州の多様性を反映する欧州型食料モデルの選択。

� 市場の変動により良く対処し、欧州の食料生産の全部門で勝者となることを可能にす

る経済戦略の策定について、農業者を支援する必要性。

� 「農業は持続的なものとならなければ存在しえない」のであるから、環境に関する挑

戦に対処する必要性。

� 価格と農業者所得の安定化を可能にする欧州レベルの規制を確保する必要性。

C APの将来について EU加盟国がこうして 22カ国と5ヵ国に分断したことは、いかな

る意味を持つのであろうか。会議終了後、フランスの農業大臣は「積極的で、開かれた、

そして建設的な政治的シグナル」と意義づけた。彼は 2010 年 1 月には英国を訪問し、英

国の農業担当大臣と話し合うこと、22ヵ国の代表も欠席した諸国との意見交換をし、今後

2013年にかけて CAPの近代化の方途をともに検討する旨を表明した。2つの農業モデル

の間の論争の行方は、未だ不透明であるといえよう。

4.新欧州委員会の選択

2010 年初頭の時点で、CAP の「理想像」をめぐる論争の行方を見定めることは容易で

はない。農業政策における自由主義と保護主義の対立は古くして常に新しい問題であり、

歴史的にみれば、経済理論としては前者が優勢、政策理念としては後者が優勢であったと

いえよう。しかし、多少大胆にいえば、EU における今回の論争でも、歴史は繰り返され

ようとしているように見える。その背景としては、まず次の 3点が重要である。

� 現下の世界経済危機の衝撃とそのもとでの世界農業市場の過度の不安定性。

� WTO交渉の混迷と世界的に農政改革を推進する米国の主導力の低下。

� リスボン条約(EUの新基本条約)の発効と CAP制定における欧州議会の権能の強化。

24 欠席した加盟国は、英国、デンマーク、オランダ、マルタ、スウェーデン。 25 « Appel de Paris pour une politique agricole et alimentaire commune »,11/12.2009. フランス農業省ホームページ掲載

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このような背景のもとで、経済政策における市場原理主義的な過度の自由放任や CAP

改革における「外圧」利用についての反省が高まりつつある。

こうした中で、2010年発足の新欧州委員会は、リスボン条約の理念特に欧州議会の新た

な役割を重視する方針を示し、CAP改革の理念論争についても、異なる理念間の調整と妥

協を導くための仕組みを導入しようとしている。2003年改革の際のように、外圧を利用し

多数決で決着させる「強い委員会」のイメージとは異なる政治手法が用いられるのではな

いかと思われる。

1)「2020年の EUのためのストラテジー」の制定

この新方式を代表するものが、2009 年 11 月 24 日欧州委員会が決定し、同年 12 月 11

日の欧州理事会で承認された「2020年の EUのためのストラテジー」26の制定である。

その目的は、10年前に制定された経済・社会計画である「リスボン・ストラテジー」の

成果をふまえつつ、新たな長期目標を制定するものである。伝統的に「社会的市場経済」

の理念を掲げる EU だけに、「知識に基づく成長」、「すべての者に開かれた社会」、「クリ

ーンで競争力ある経済」などのテーマは従前の計画の継続のようにもみえる。しかし、過

去の成果の限界に学ぶ必要も指摘されている。とくに、注目される点は、「2020年の EU」

に関して EU 全体を通じたコンサルテーションが実施されることである27。これを踏まえ

た欧州委員会の提案が 2010年春の欧州理事会に提出される。

CAP改革との関連で注目されるのは、財政見直しに関する欧州委員会提案が、この「2010

年の EUのためのストラテジー」で設定される優先事項を反映する形で策定されるとされ

ていることである28。前委員会で策定されるはずであったこの提案が、意図的に新委員会

に委ねられ、春の欧州理事会で制定されるストラテジーにつながることは、欧州委員会の

テクノクラートの検討結果だけでなく、高度に政治的な判断を反映するものとなると思わ

れる。

2)新農業担当委員の所信表明

新農業担当委員に指名されたダチアン・チオロシュ(Dacian CIOLOS)は、ルーマニ

ア出身、2007-08年にルーマニアの農業大臣を、2009年 7月から大統領府農業発展政策

委員会会長を務める若き政治家である(1969年生れ)。

CAP 改革の行方をめぐり深刻な論争が展開しつつある EU 農政界における彼の立場を

26 「2020年の EUのためのストラテジー」は、バローゾ欧州委員会委員長が 2009年 9月、次期委員会の任期について委任を受けるために欧州議会議長に提出した政治方針(political guidelines)で述べた「2020年の EUのためのヴィジョン」の構想を引き継ぐものである。 27 Commission working document Consultation on the Future “EU 2020” Strategy, COM(2009)647 final, 24.11.2009. なお、コンサルテーションに対する回答期限は 2010年 15日である。 28 この点は、新欧州委員会の予算・財政計画担当委員に指名された Janusz Lewandowskiが欧州議会に提出した次の文書による。 ”Answer to European Parliament Questionnaire for Commissioner-Designate Janusz Lewandowski (Budget and Financial Programming)” (EUホームページ掲載)。

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予想する人々が、まず注目するであろうことは、彼がフランスの農業大学で学位を取得し

た農業経済学者であり、母国語のルーマニア語の他は、「フランス語に堪能(fluent)、英

語は良好(good)」という語学力をもち、農業担当委員に指名された時は、フランスのサ

ルコジ大統領の祝福を受けたことが報道されたことであろう。

CAPの将来の「理想像」について、フランスの立場に近い政治家であろうことは、想像

に難くないであろう。むろん、欧州委員会委員としては義務遂行の責任と個人的独立性と

いった強い規律に従わなければならない。

新欧州委員会の欧州議会での承認手続きの一環として、欧州議会からの質問事項に従っ

てキオロスが作成した回答書29には、現下の CAPの懸案事項についての彼自身の考え方が

記載されている。

� 将来の CAP は、欧州と世界の市場に対して食料および非食料の 1 次産品の安定的供

給を確保するとともに、環境的公共財を供給し、活力ある農村部と国土の均衡ある発

展に寄与する必要がある。デカップルされた直接支払により、市場のシグナルに従っ

た持続的農業活動を維持するとともに、社会の必要とする基礎的水準の公共財を提供

すること、さらに、良好な市場機能を確保し、過度の価格変動の問題に対処するとと

もに、農業者の所得を安定化する必要がある。

� CAPに含まれる農村開発政策は、農業の近代化と農村地域の経済的・社会的活性化と

の関係を適正に確保するとともに、農業が環境および気候変動に関連する公共財の増

進を図ることを可能にする優れた政策手段である。この視点から、農村開発と地域開

発の整合性をもった推進について熟慮する必要がある。

� 我々は CAP について適正な予算を持っていると考えるが、その財源の再配分に関す

る議論は、CAPについて規定する政策目標との関連で行われなければならない。農業

政策の目標を考慮せずに農業財政比率の削減目標を議論することは、無内容な議論と

なるように私には思われる。農業担当委員としては、CAPの適正な実施のために、適

正な財政手段を確保する配慮を行うであろう。すなわち、条約に規定された連帯原則

が尊重され、EU の食料安全保障の確保、市場の期待に応じた供給、環境の保護と農

村部の維持、気候変動に関連する挑戦への取り組み、農業者に対する適切な所得水準

の確保が課題となる。

� 私は、CAPは今後も強い政策でなければならない、そして近代的で、共同体的なもの

でなければならないと信じる。私は、CAPに関する共同決定方式については熱心な支

持者である。

29 « Reponses au questionnaire du Parlement européen destiné au Commissaire-Désigné Dician CIOLOS(Agriculture et développement rural) » 、EUホームページ掲載。

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4.結び

今日、CAPの長期的展開の規定要因には多くの未知数があるが、客観的な諸条件を考慮

して CAP長期展望に関する2つのシナリオをとりあげ、やや大胆な推論を試みたい。

2014年以降に向けた CAPの長期展望について、中心的な課題は第1の柱の直接支払の

行方にあり、それについては次の2つのシナリオが考えられる。

第1のシナリオは、英国や北欧諸国の1部が支持したもので、第1の柱の直接支払を段

階的に削減して最終的に廃止することである。第1の柱の直接支払は、1992年および 1999

年の CAP 改革における支持価格の引き下げにともない農業者に対して所得補償を行うた

めの措置であった。元来、それは公共政策の激変に対する一時的な激変緩和措置であった

はずであり、時の経過とともにその正当性が失われるはずである。

第2のシナリオは、フランス、ドイツなどの多くの諸国が支持したもので、第1の柱の

直接支払の正当性を再確立しつつ、これを維持することである。正当性の確保の方法とし

ては、WTO 適合的で、市民社会の支持を得やすい農業の多面的機能支援の諸政策を工夫

することであろう。その他に、直接支払い理事会規則第 68 条規定による環境・国土機能

支援、市場リスク防止なども国によっては重視される。

EU では、2003 年 CAP 改革から 2007 年ごろまでは、国際農産物価格の上昇のもと、

第 1のシナリオが優勢となっていたように見えた。しかし、2008年以降は、EU内の農業

不況の深化とともに、価格・所得の安定化政策の必要性が再認識されはじめた。ヘルスチ

ェックを通じて、2014 年以降においても「強い CAP」の必要性を追求したフランスのサ

ルコジ大統領の戦略が功を奏したのであろうか、2010 年発足の新欧州委員会は、1 月 11

-16日の欧州議会における新委員の所信表明を見る限り、第 2のシナリオを目指している

ように見える。

新農業担当委員は、「CAP 予算比率の低下を受け入れるか」との質問に対して、政策ニ

ーズに照らして適正規模の農業予算確保の必要性を強調した。特に、農業不況下の所得問

題や中東欧の小農民問題への対応の必要性について多くの議員から要請があった。今後、

欧州議会の CAPプロセスへの本格的関与のもと、CAPの役割についての新たな議論が展

開されるものと予想される。