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―81― 分棟型民家の研究試論 中 尾 七 重 1.分棟型民家 分棟型民家とは、居室棟(床張り)と炊事棟(土間床)が別棟で近接する民家である。この居室 棟と炊事棟が別棟で構成される民家は、分棟型民家、二棟造り、別棟型民家とも呼ばれる。分棟型 民家の居室棟と炊事棟は近接して建てられ、2 棟が並ぶ外観である。2 棟が並ぶ外観の民家は分棟 型だけでなく、主屋と厩や隠居屋が隣接して建てられている場合があるが、これは分棟型民家の範 疇には含まれない。 分棟型の居住棟の棟と炊事棟の棟は、平行な場合、直交方向の場合、正面軒の位置がずれて雁行 となる場合など、さまざまである。別棟独立だったものが、時代が新しくなるにつれ、次第に合体 結合する傾向があるとされる。居室棟と炊事棟の 2 棟が近接するが独立して建てられているもの、 居室棟と炊事棟がテノマ(樋之間)という室や廊下で連結しているもの(樋之間接続型)、軒を接 して屋根の谷に樋をかけているもの(内樋接続型)を分棟型とし、炊事棟が居住棟から別棟で突き 出しているもの(突出接続型)や、コの字型や Z 字型や F 字型の棟を持つ分棟型からの発展形は 分棟系とされる(宮澤 1984)。内樋接続型や突出型では、屋根は 2 つの棟からなるが、土間と床上 の境界が棟位置と対応していない場合も多く、屋内空間は一体化している。 1966 年度から 1975 年度に文化庁の補助金事業として各都道府県が行なった民家緊急調査の報告 書が「日本の民家調査報告集成」にまとめられている。その中で分棟型民家についての記載がある のは、沖縄県、鹿児島県、宮崎県、熊本県、佐賀県、福岡県、東京都、千葉県、茨城県、宮城県、 青森県である。その記載や、各県の指定文化財から分棟型および分棟系の分布をみると、分棟型 は、鹿児島県甑島、口永良部島、トカラ列島、奄美群島と、沖縄県、伊豆諸島の八丈島、青ヶ島に 分布する。分棟系のテノマ型分棟は奄美群島、鹿児島県、宮崎県南部の旧薩摩藩領と、千葉県南部 の安房地方、茨城県に分布する。内樋接続型は、トカラ列島、鹿児島県、宮崎県南部の旧薩摩藩 領、熊本県中部から西北部と福岡県西南部から佐賀県南部、愛知県、静岡県、千葉県、茨城県に分 布する。突出型は、沖縄県、鹿児島県、熊本県、大分県、高知県、千葉県、茨城県、宮城県、青森 県など多くの地域に分布する。鹿児島県の郷士(武士)住宅や宮城県・青森県の武士住宅にも突出 型の分棟系が見られる。それぞれの地域的な名称として、熊本の平行二棟造りの分棟型民家は二 ふた 、東海地方の内樋接続分棟型民家は釜 かま だて と呼ばれる。 日本建築史学は分棟型民家を建物の側から調査研究するため、各地の分棟型民家相互の関連につ いての実証的な研究は困難である。一方、地理学分野では、分棟型民家は分布論としてアプローチ されてきている。そのため、同じ分棟型民家を研究対象として扱いながら、噛み合わない部分があ り、学際研究として成りたつことが困難だった。

分棟型民家の研究試論...―82― 2.研究史 昭和前期には、分棟型民家の詳細な分布はまだ明らかではなく、民家探訪による知見で太平洋岸

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  • ―81―

    分棟型民家の研究試論

    中 尾 七 重

    1.分棟型民家

     分棟型民家とは、居室棟(床張り)と炊事棟(土間床)が別棟で近接する民家である。この居室

    棟と炊事棟が別棟で構成される民家は、分棟型民家、二棟造り、別棟型民家とも呼ばれる。分棟型

    民家の居室棟と炊事棟は近接して建てられ、2棟が並ぶ外観である。2棟が並ぶ外観の民家は分棟

    型だけでなく、主屋と厩や隠居屋が隣接して建てられている場合があるが、これは分棟型民家の範

    疇には含まれない。

     分棟型の居住棟の棟と炊事棟の棟は、平行な場合、直交方向の場合、正面軒の位置がずれて雁行

    となる場合など、さまざまである。別棟独立だったものが、時代が新しくなるにつれ、次第に合体

    結合する傾向があるとされる。居室棟と炊事棟の 2棟が近接するが独立して建てられているもの、

    居室棟と炊事棟がテノマ(樋之間)という室や廊下で連結しているもの(樋之間接続型)、軒を接

    して屋根の谷に樋をかけているもの(内樋接続型)を分棟型とし、炊事棟が居住棟から別棟で突き

    出しているもの(突出接続型)や、コの字型や Z字型や F字型の棟を持つ分棟型からの発展形は

    分棟系とされる(宮澤 1984)。内樋接続型や突出型では、屋根は 2つの棟からなるが、土間と床上

    の境界が棟位置と対応していない場合も多く、屋内空間は一体化している。

     1966 年度から 1975 年度に文化庁の補助金事業として各都道府県が行なった民家緊急調査の報告

    書が「日本の民家調査報告集成」にまとめられている。その中で分棟型民家についての記載がある

    のは、沖縄県、鹿児島県、宮崎県、熊本県、佐賀県、福岡県、東京都、千葉県、茨城県、宮城県、

    青森県である。その記載や、各県の指定文化財から分棟型および分棟系の分布をみると、分棟型

    は、鹿児島県甑島、口永良部島、トカラ列島、奄美群島と、沖縄県、伊豆諸島の八丈島、青ヶ島に

    分布する。分棟系のテノマ型分棟は奄美群島、鹿児島県、宮崎県南部の旧薩摩藩領と、千葉県南部

    の安房地方、茨城県に分布する。内樋接続型は、トカラ列島、鹿児島県、宮崎県南部の旧薩摩藩

    領、熊本県中部から西北部と福岡県西南部から佐賀県南部、愛知県、静岡県、千葉県、茨城県に分

    布する。突出型は、沖縄県、鹿児島県、熊本県、大分県、高知県、千葉県、茨城県、宮城県、青森

    県など多くの地域に分布する。鹿児島県の郷士(武士)住宅や宮城県・青森県の武士住宅にも突出

    型の分棟系が見られる。それぞれの地域的な名称として、熊本の平行二棟造りの分棟型民家は二ふた

    ツつ

    家や

    、東海地方の内樋接続分棟型民家は釜かま

    屋や

    建だて

    と呼ばれる。

     日本建築史学は分棟型民家を建物の側から調査研究するため、各地の分棟型民家相互の関連につ

    いての実証的な研究は困難である。一方、地理学分野では、分棟型民家は分布論としてアプローチ

    されてきている。そのため、同じ分棟型民家を研究対象として扱いながら、噛み合わない部分があ

    り、学際研究として成りたつことが困難だった。

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    2.研究史

     昭和前期には、分棟型民家の詳細な分布はまだ明らかではなく、民家探訪による知見で太平洋岸

    に沿った地域に分布していると観察されていた。1934(昭和 9)年に発行された「日本農民建築」

    Fig. 1 分棟型と分棟系民家の接続による分類

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    で石原憲治博士は、鹿児島県や琉球諸島、伊豆八丈島に住居の部分と炊事の部分が別棟になってい

    る民家が分布し、また西日本に分棟系が残存変化した民家が見られることを指摘した。そして、居

    住と炊事を別棟にするインドネシア文化が原始時代に日本に移植された南島系の民家であること、

    伊勢神宮や大嘗祭での忌火屋殿の例から、古代には忌火の風習により炊事を別棟にしていたと述べ

    ている。藤島亥治郎博士は日本建築の源流のひとつを黒潮により北上した分棟型に求め、太田博太

    郎博士は南方系高床住居系統とした。

     第二次世界大戦後の 1961 年に野村孝文博士が「南西諸島の民家」を刊行し、分棟型民家の建築

    史研究が本格的に開始した。1970 年に千葉県安房地方の民家緊急調査報告が出され、1971 年熊本県、

    1972 年福岡県、1973 年宮崎県、1974 鹿児島県と佐賀県、1976 年茨城県の緊急調査報告書で、分棟

    型民家の全国的な分布状況がおおよそわかってきた。

     この間、文化人類学の進展により、日本周辺地域の住居に関する調査研究報告が激増した。ま

    た、考古学分野では、開発に伴う日本各地の発掘調査が行われ、住居址の発掘情報が蓄積された。

    これらのすまいに関する情報の蓄積を背景に、1982 年、杉本尚次博士が国立民族学博物館特別研

    究プロジェクト「日本民族文化の源流の比較研究」において、「日本のすまいの源流―日本基層文

    化の探究―」シンポジウムを開催し、記録集を刊行した。日本のすまいをめぐっては、文化地理学

    の小川徹博士と、日本建築史学の宮澤智士博士と考古学の石野博信博士が講演を行っている。この

    うち、小川博士と宮澤博士が分棟型に言及している。

     小川博士は文化地理学の立場から日本民家を 4つの型に分け、その型のひとつとして二棟造型を

    取り上げている。小川博士の二棟造型民家論の特徴は、南西諸島から関東地方に分布する分棟型民

    家は一系統であり、それぞれの違いは発達の程度の違いとすること、また、火の禁忌により二棟造

    型が成立したとすることである。

     宮澤博士は、江戸期を通じて分棟型から一棟型への転換移行が見られること、肥後藩人畜改帳

    (吉田 1985)や日光社参関係絵図帳類(平井 1982)から、江戸初期には居住棟と台所棟を別棟にし

    た住居が村落上層で多く見られることを指摘した。そして、日本の分棟型に 2つの系譜があるとす

    る仮説を提示した。系譜の 1つは、武士住宅で行われていた主屋と台所を別棟とする形式の影響下

    に近世民家として成立したもので、北・東関東地方の分棟型や旧薩摩藩領郷士層の分棟型のうち広

    間型間取を持つものとする。2つ目は、近世民家成立以前から行われていた分棟型で、九州から南

    西諸島に分布し、独立した閉鎖的な寝室を持たず南方系の文化を基調とするものとした。閉鎖的で

    独立した寝室の有無を分棟型民家の分類に用いるのが適切かどうかは議論があるが、これまで単一

    系統と考えられていた分棟型民家を、単一ではなく複数の系統とした視点は、分棟型民家研究を次

    の段階に導くものであった。

     このシンポジウムの後、杉本博士は、「二棟造りは東南アジアよりもミクロネシア全域とポリネ

    シアの殆どの地域に分布している。」としながらも、「日本列島での二棟造りの分布状態(残存状

    態)や周辺諸地域と比較した場合、現在の資料段階では、南の島々からの直接の伝播を考えるには

    問題があるようだ。むしろ日本への伝播と東南アジアや南太平洋の島々への伝播が、どこか共通の

    起源地(例えば中国大陸南部やインドシナ半島など)をもっていたという仮説を立てる方が蓋然性

  • ―84―

    が高いように思える。」(杉本 1987)として、分棟型が南の島々から直接伝播して日本列島の太平

    洋沿岸に分布しているという考え方に疑問を呈した。そして居住と炊事を分棟にする住まい方がア

    ジアに広く見られ、上層住宅も含め日本の分棟住まいもその中に含められること、現在の分棟型の

    分布が残存状態であることを示唆した。

     宮澤博士は沖縄民家研究を進め、沖縄の民家が掘立柱構造のアナヤ(穴屋)から、軸部と小屋組

    が分離したキタヤ(桁屋)を経て、19 世紀末に礎石建てで軸部を貫で固めるヌキヤ(貫屋)へと

    発達したことを明らかにした(宮澤 1989)。

    3.分棟型の事例

     各地域の分棟型民家について見てゆく。地域ごとに分棟の形式や主屋の間取・構造形式に民家型

    としてのまとまりがあり、まとまりごとに分棟型の系統の違いや、発達方向の違いを見ることがで

    きる。

    3-1 沖縄 南西諸島には、居住棟フーヤと炊事棟トゥーラが独立して建つ分棟型(Fig.1 左上)が多く分布

    していた。それらの分棟型民家の居住棟について宮澤博士は「平面を見ると沖縄全域にわたって同

    じ原理にもとづいており、沖縄列島全体が一つの住文化圏に属していることを強く感じさせる。」

    と、表側に一番座、二番座、三番座と三室が並び、背面を寝床や物置とする間取について述べてい

    る。そして「800kmにもおよぶ沖縄列島の民家平面が、同じ原理によっているのは―中略―薩摩

    藩の支配が終わり、人頭税が廃止されると、人々の暮らしは向上し、住まいもアナヤーではなく、

    柱を礎石の上に建て、柱と柱に貫をとおして構造体を固めるヌキヤ―を建てることができるように

    なった。このときに見本としたのが、豪農の家であり、首里の貴族の住宅であった。ヌキヤーは比

    較的短い期間に一挙に列島全般にいきわたった。この変化がおこったのが 100 年ほど前のことであ

    るので、その後の大きな変化にあわず、そして多様化する間もなく近代に移行していった。同じ原

    理による住まいは、琉球というひとつの文化圏を形成していたことが基礎になっている。」(宮澤

    1993)と、南西諸島の民家について述べている。

     宮澤博士は分棟型の居住棟が 19 世紀末以降の短い間に、近代琉球の文化圏に成立したとされる

    が、この成立時期と過程は分棟形式そのものにもあてはまると思われる。南西諸島に見られた庶民

    住居としての分棟型民家は規模が小さく構造形式が単純であるなど、素朴な印象を与えるためか、

    住まいの原初的な形態のひとつとされることもあるが、実際は中上層住宅で成立した住宅の型が模

    倣され、在地社会の実情に合わせて簡略化され再生産された形態の可能性が高い。

    3-2 旧薩摩藩領 鹿児島県には、平入りの居住棟(オモテ)と妻入りの炊事棟(ナカエ)を左右に並べ、両棟を樋

    の間(テノマ)で繋いだテノマ型分棟が鹿児島県北半と宮崎県の旧諸もろかたぐん

    県郡に分布している。テノマ

    がナカエに取り込まれ、屋内平面が一体化したナカエ接合型は薩摩半島中西部の日置市や南さつま

  • ―85―

    市に分布している。樋を用いず、繋棟で居住棟と炊事棟を接続した知覧型分棟は旧知覧町に分布し

    ている(鈴木 1975)。

     日向国諸県郡は中世に島津庄の政所島津院があった。1587(天正 15)年の豊臣秀吉による九州

    征伐後、島津氏は薩摩・大隅に加えて諸県郡を安堵され、島津領となった。明治になり、北諸県郡

    は宮崎県、南諸県郡は鹿児島県に属することとなった。このことより、これらの分棟系民家の分布

    地は旧薩摩藩領ということになる。宮崎県では、旧諸県郡以外に分棟型民家は分布していない。

     民家緊急調査で報告された旧薩摩藩領の分棟型民家のうち、江戸時代に建築された分棟型民家は

    武士住宅である。江戸時代に遡る庶民住居遺構に分棟型炊事棟の例は確認できない。明治以降に、

    庶民住居に炊事棟が増設されテノマで接続したと考えられる。

     薩摩藩は領内各地に拠点となる城砦と半農半士の武士集団が居住する麓集落を設置する外城制に

    より在地支配を行った。麓集落の武家住宅は分棟系であり、その住宅形式が明治以降、一般に広

    まったと考えられる。知覧型分棟は知覧麓の武家住宅に由来するもので、テノマ型分棟やナカエ接

    合の古遺構は外城武家住居である。

    3-3 熊本県 平行二棟造りと鉤屋 熊本県の分棟型民家は、居住棟と炊事棟の棟を平行に並べ内樋をかける平行二棟造りと、居住棟

    に炊事等をL字形に接続した鉤屋系統の 2種類が存在する。平行二棟造りは熊本県北西部に広く分

    布し、鉤屋は球磨地方に分布している。1990 年代以降に、原田聰明博士が熊本県の民家を調査研

    究し、多くの分棟系民家の調査報告を行い、報告棟数の少なかった民家緊急調査報告を補ってい

    る。また、原田博士は、「寺院本末間数御改帳」(文政六~十一年)などの寺院記録の分析を行い、

    寺院庫裏に分棟型が見られることを明らかにしている

    (原田 1998)。

     熊本県の平行二棟造りは縦割り型間取で、南西諸島

    や鹿児島県の分棟型とは別系統の平面形式である。縦

    割り型間取は、民家の間取では、兵庫県、大阪府、京

    都府に分布する摂丹型民家がある。摂丹型民家は室町

    幕府管領細川氏の領地に分布していることが明らかに

    なっており(永井 1977)、江戸時代以前に遡る形式を

    伝えていると考えられる。また、新潟県村上市の古渡

    路遺跡では、15 世紀の遺構面から縦割り型間取の住

    居址が検出されている。さらに、平行二棟造りと同様

    の屋根が架けられていたと推測される住居址も見つ

    かっている(中尾 2012)。平行二棟造り、摂丹型、古

    渡路遺跡住居址のいずれも梁間は 2間から 2間半であ

    り、これらに共通する縦割り型間取は近世以前に成立

    が遡る可能性の高い間取である。平行二棟造民家は局 Fig. 2 古渡路遺跡住居跡 SB5301

  • ―86―

    所的集中的な分布域を持つことも摂丹型民家と共

    通する。これについては今後の課題とする。

     一方、熊本県南部の球磨地方に分布する鉤屋は

    居住棟と炊事棟の棟方向が直交し、平行二棟造り

    とは系統が異なる。民家緊急調査報告と日本建築

    学会で報告された熊本県分棟系民家を地図上に記

    すと、鉤屋が旧薩摩藩領諸県郡に接する地域に分

    布していることがわかる。球磨地方の鉤屋は薩摩

    藩(鹿児島県)の分棟型の影響を受けていると考

    えられる。

    3-4 佐賀県 佐賀県の民家については、青山賢信博士が 1972

    年に 1次調査 271 棟のうちの 191 棟の実測・架

    講・痕跡調査を行い、1974 年に報告している(青

    山 1974)。調査棟数が多く、痕跡図や架構図など

    民家情報が豊富で、調査報告としてのみならず佐

    賀県民家の分類と分析においてすぐれている。

     これによると、佐賀県民家の棟は直線形、L字

    形、Z字形、コの字形、ロの字形と屋根形態は多

    様であるが、間取は 2系統である。1つは平入系

    間取で、広間型三間取平面を基本とし、下手の土

    間や上手の寝室が背面に拡張、あるいは上手座敷

    が表側に拡張することで、L字型やZ字型の屋根

    となる。もうひとつは分棟型民家系統の縦割系間

    取で、妻入片側土間平面を基本とし、熊本の平行

    二棟造りのようなコの字型や、漏じょうごづくり

    斗造とよばれる

    ロの字型の屋根がある。

     佐賀県の民家は、同じ縦割系平面でも屋根の形が異なることがあり、一方でコの字型やロの字型

    の屋根でも平面は縦割系の場合もあれば平入系の場合もあるというねじれ現象が生じている。分棟

    系の縦割系間取は佐賀県の南西部有明海沿いに遺構が多く残っていた。九州北部の分棟系民家は、

    福岡県、大分県、熊本県中部から北西部、福岡県南西部、佐賀県南部に分布している。本稿では、

    福岡県と大分県の分棟系民家についての検討が欠けている。今後の課題としたい。

    3-5 高知県 石原博士は、他の四国三県と異なり、高知の民家は炊事場が別棟になったものが多く、主屋の土

    Fig. 3 熊本県の分棟系民家分布

    Fig. 4 佐賀県の分棟系民家分布

  • ―87―

    間が狭いことを指摘している。主屋

    土間の前や後ろや側面に室を設けて

    炊事場にするか、釜屋を別棟に建

    て、あるいは廊下で連結しているな

    ど変化に富んでいる、と述べ、南島

    系民家と位置付けている。突出型分

    棟系の民家例として、四万十市(幡

    多郡具同村)と須崎市(高岡郡多ノ

    郷村)(石原 1935)があげられてい

    る。また、高知市大津の土佐藩の郷

    侍住宅に、分棟系喰い違い二棟造り

    の事例が紹介されている(小川

    1999)。

     1972 年に刊行された緊急調査報

    告書「土佐の民家」では、緊急調査

    を行った林野博士は、高知県の民家

    に分棟系を認めなかったが、重要文

    化財安岡家住宅について、「主屋の裏にある大きい釜屋―中略―は土間と井戸および小室からなる

    が、前記主屋に炊事の土間をもちながらこのように大きい別棟の釜屋のあることは不思議である。」

    と述べている。安岡家住宅は江戸時代の郷士の住宅で、文化財保存修理工事にかかる解体調査で、

    当初は主屋の土間に竈などの炊事施設が無かったことが判明した。安岡家住宅は炊事棟を居住棟の

    背後に置いており、広義の分棟系といえる。また、四万十町(高岡郡窪川町)の民家も安岡家と同

    様、炊事棟が別棟で主屋の裏側にある(石原 1935)。

     伊野の町家でも居住棟と炊事棟が別棟で、分棟型のように横に並ばない事例が報告されている

    (秋元 1992)。土佐清水市の重要文化財吉福家住宅は近代の住宅であるが、主屋と並ばない別棟の

    炊事棟を併設している。以上より、高知県には突出型分棟系のほかに、炊事棟は別棟であるが居住

    棟と並ばない形態の民家が分布していた。

     この別棟炊事棟が居住棟と並ばない民家は、分棟型民家と違って、炊事棟が居住棟の背後や離れ

    た位置にあり、正面からは見えない。別棟炊事棟が居住棟の一部として認識されないため、分棟型

    民家として認知されなかったと思われる。

    3-6 釜屋建 愛知県・静岡県に分布する分棟系民家は釜屋建と呼ばれる。釜屋建は昭和 30 年頃まで数百棟も

    あったという。重要文化財望月家住宅に見られるように、居住棟の妻側面と炊事棟の平側面が軒を

    接して建ち、接続部分に大樋を架ける。愛知県の東三河地方と静岡県の引佐郡に釜屋建てが分布す

    る。その北側の設楽町・東栄町には釜屋の棟が居住棟と並行で、釜屋は板葺切妻で並ぶ、別棟構え

    Fig. 5 重要文化財安岡家住宅配置図公益財団法人 文化財建造物保存技術協会 重要文化財 安岡家住宅主屋ほか 5 棟 設計監理事務所提供より作成

  • ―88―

    と呼ばれる分棟型が見られる。

     居住棟は表側に広い板敷室があり背面に寝室と

    居間がある、前広間型あるいは前座敷三間取と呼

    ばれる間取である。

     「愛知の民家」によれば、釜屋建の民家は 18 世

    紀以降の遺構が残されており、それらの古遺構の

    多くは古材による建造である。小規模な構造であ

    るにもかかわらず、梁に長尺物が使用されず、不

    自然な継ぎがなされているという。建築材料の調

    達に困るような地域ではないので、古材による民

    家形式の踏襲は、伝統や由緒といった価値を意図

    的に表現している可能性がある。釜屋建は 18 ~

    19 世紀に盛んに建築されたらしいが、これは由緒書が盛行する時期でもある。後で述べるように、

    中世の武士住居では炊事棟は家け

    人にん

    の居所であって、主人が住まう居住棟とは別棟であった。釜屋建

    は江戸時代に、中世末から近世初頭の遠州在地武士住宅の由緒を再現した民家形式の可能性があ

    る。

    3-7 千葉県 千葉県の分棟系民家は安房地方に密度が高く分布しており、そのほか木更津市と九十九里町に分

    棟系の遺構があった。千葉県の分棟系は、渡り廊下型分棟と内樋タイプがある。渡り廊下型分棟は

    安房地方に見られる。九十九里町の重要文化財旧作田家住宅(川崎市立日本民家園に移築)は鹿児

    島県の「ナカエ接合」や浜松市周辺の「釜屋建」と同じ内樋タイプである。

     このような居住棟と炊事棟が並ぶ分棟型のほかに、炊事用のカマドを備えた別棟小屋を敷地内に

    設置するタキバ型分棟も見られるという(日塔 2015)。

    タキバは庇や小屋に設けられるなど、耐久性が低い施設

    である。現在のタキバ棟建物の建築年は不明であり、分

    棟の炊事棟をこわしてタキバ棟を設ける例があるなど、

    タキバの存在が安房の民家史の中でどの程度遡るのか不

    明である。しかし、分棟型・非分棟型を問わず、土間が

    狭い居住棟を持つ安房の民家において、炊事施設は必要

    である。分棟型の場合は炊事棟にカマドを設置するが、

    炊事棟を持たない場合は、炊事棟より簡便なタキバ小屋

    を設けることになると思われる。あとで述べるように、

    居住棟と炊事棟を隣接した分棟型は、近世前期に於いて

    ある種の由緒格式を表現した。そのため、地域社会が階

    層分化を深化させた安房農村部では、階層表現としての

    Fig. 6 釜屋建民家の分布地域川村 1973、城戸 1975 より作成

    Fig. 7 千葉県分棟型民家の分布大河 1970.1972、日塔 2015 より作成

  • ―89―

    分棟型が、格式の高い民家形式として再生産された。一方、階層変動の少ない山間部や、炊事棟建

    設よりは船などの漁労用具への投資が重要視された漁村では、格式装置を兼ねた立派な炊事棟建設

    に積極的ではなかった。そこで、居住棟に接続しないので設置が簡単なタキバを炊事施設として用

    いたと考えられる。タキバは簡便な炊事施設であり、居住棟に並べて外観を整えるようなことがな

    く、居住棟の側面や背後など屋敷内の任意の利便性のある位置に設置された。

     安房のタキバ型分棟民家は、形態としては高知県の「別棟炊事棟が居住棟と並ばない民家」と共

    通する。居住棟の土間が大変狭いことや、自然災害が多く古民家の残存が少ないことも安房と土佐

    は良く似ている。

     旧作田家住宅は房総九十九里の網元の住宅である。江戸期の九十九里浜は鰯漁と干ほし

    鰯か

    の生産で大

    いに賑わった。干ほし

    鰯か

    は速効性の肥料として、綿作などの全

    国の商品作物に用いられた。作田家は佐久田村の名主で、

    鰯漁の網元を勤めた財力のある有力な家柄であった。作田

    家は千葉県上総地方に残された唯一の分棟型民家で、居住

    棟は 17 世紀末頃の建築と推定されている。高い財力に見

    合う豪壮かつ高質な民家で、分棟型の形式が村落最上層の

    身分を表象していたと考えられる(Fig.10)。

    3-8 茨城県 茨城県の分棟型民家は、内樋型分棟型民家と、分棟系曲

    屋がある。内樋型分棟型民家は、笠間市の重要文化財塙家

    住宅や重要文化財旧太田家住宅(川崎市立日本民家園に移

    築)に見られ、茨城県中央部西側に分布している。分棟系

    曲屋は、重要文化財旧飛田家住宅(古河総合公園に移築)

    に見られる、主屋の前面に土間が突き出した形態で、霞ヶ

    浦周辺から県中部に分布している。

     千葉県・茨城県の分棟型民家の居住棟は、表側に広い板

    敷間、上手に書院造の座敷がある九間系間取りとなってい

    る。

    3-9 宮城県 東北地方の分棟型はあまり知られていないが、宮城県中

    部から北部にかけて、主屋と土間を分けた民家が分布して

    いる(佐藤 1974)。

     仙台藩の在地支配は、飛び地を除く陸奥国内 21郡を奥・

    中奥・北方・南方の 4人の郡奉行の下、20 の代官区に分

    け、それぞれに代官所を設置した。代官を勤める地頭の城

    Fig. 8 茨城県の分棟型民家の分布一色 1976、田中 1996 より作成

    Fig. 9 宮城県の分棟系民家の分布登米郡、玉造郡、遠田郡、志田郡、加美郡

  • ―90―

    館は在郷城下町の中心となり、周囲に陪臣層(家中)や百姓が集住した。登米、玉造、遠田、志

    田、加美の在郷城下町の家中層の住宅に、別棟や鉤形の分棟系が見られる。

    重要文化財松本家住宅は加美町(旧小野田町)の家中屋敷で、桁行 5間半、梁間 3間半の居住棟

    と、桁行 3間・梁間 2間半の炊事棟からなり、寄棟茅葺で棟高の異なる屋根が接続している。近年

    の文化財修理の結果、居住棟は広間形三間取に復原された。

     松本家住宅は、地頭古内家時代の家中屋敷で、18 世紀の建築と考えられる。仙台藩士奥山家が

    宝暦七(1757)年にこの地に入封して以来、奥山家家老松本家の住宅として用いられた。武家住宅

    としても古い遺構である。

    3-10 青森県 青森県にも分棟型の武家住宅が存在する。弘前市の武家屋敷町として伝統的建造物群保存地区に

    指定された仲町(若党町、小人町、博労町)に近世武家住居(家中住居)が残されている。若党町

    の青森県重宝旧岩田家住宅もその一つで、寄棟茅葺の本屋(居住棟)に木造柾葺切妻の炊事棟が突

    き出した、突出型分棟系民家である。寛政年間から文化年間(1789~1818 年)の建築と推定され、

    数回の改造を加えられているものの、柱や小屋組などと主要構造部材は建築当初のままである。岩

    田家は代々弘前藩に仕える中級武士で石高は 200 ~ 300 石程度を領していた。岩田家住宅は石高に

    応じて弘前藩が規定した建物規模よりひとまわり小さく建てられている。

     民家緊急調査報告書(草野 1980)には、3棟の若党町の家中住宅について、伝統的建造物群調査

    の資料が報告されている。これによると、いずれもいろりのある室が表側に中央にあり、その上手

    に書院造の続座敷がある間取りで、下手の土間は小さい。その土間前面に別棟で炊事場を接続して

    いる。岩田家住宅と同様の突出型分棟系民家である。

    4.分棟型居住棟の間取り

     沖縄の分棟型の居住棟は「間口と奥行きが大きく変わらず、正方形に近いのが一般的で、この表

    側に主室を並べる。―中略― 部屋は上手から一番座、二番座、三番座と呼ぶ。一番座は床の間が

    ある座敷、中央の二番座は位牌檀を造りつけた仏間、三番座は居間である。規模の大きい家では裏

    側にも部屋を造る―後略―」(宮澤 1993)と述べられている。居住棟正面にこの 3室を並べる間取

    りは沖縄諸島以西の琉球国支配地に分布している。この前後分割が特徴的な平面構成は、前広間型

    と呼ばれる民家平面分類に属すると思われる。

     薩摩藩領および奄美諸島以北の島嶼部では、下手が梁間いっぱいのオモテで、上手表側が床の間

    付の座敷、その背面がナンド(寝室)の 3室構成である。これは土間を欠いた広間型三間取の平面

    である。琉球国領では前広間型系、薩摩藩領では広間型三間取系と、居住棟の平面形式は全く異

    なっている。

     熊本県から佐賀県・福岡県南部に分布する平行二棟造り系統の分棟型民家の居住棟の間取りは妻

    入り縦割り型である。桁行いっぱいに片側が土間、片側が床上となる。床上は表にゴゼンや座敷と

    呼ばれる一番大きい部屋があり、その背後は土間境がダイドコロ、上手側がナンドとなる。つま

  • ―91―

    り、平行二棟造りの間取は、琉球国領や薩摩藩領の分棟型とは大きく違っている。このような縦割

    り型間取は、近畿地方と長野県の民家に見られる。縦割り型床上 1列間取の摂丹型民家は近畿地方

    の摂津・丹波・山城に分布する。摂丹型民家は室町幕府管領細川氏の支配領域に分布しており(永

    井 1977)、室町時代の由緒を江戸時代に再現した民家形式と思われる。縦割り型床上 2列間取の本

    棟造民家は、長野県の中でも、室町時代の信濃守護小笠原氏の支配領域に分布しており(中尾

    2006)、これも室町時代の由緒を江戸時代に再現した民家形式と思われる。

     九州・沖縄地方の分棟型居住棟の間取りは、平行二棟造りの縦割り系と、旧薩摩藩領の三間取り

    系と、琉球国の前広間型三番座形式の 3系が存在するのである。

     高知県の民家は、分棟非分棟にかかわらず、居住棟の間取りは、高知市近辺の突出型では四間

    取、周辺平野部では平地型と呼ばれる 6室間取となる。表側にゲンカン、シキダイ、ザシキの格式

    客間 3室を並べ、背後にダイドコとオク(寝室)を置く。下手表側がヨウノマでその背後に妻入り口

    のある小さい土間がある。このように、平地型民家は、格式空間が大きく生活空間はたいへん狭い

    もので、農民住居というより、格式を重んじる武家住居の間取りである。土佐藩では、在地に居住

    し農業に従事した下層武士身分の郷士にならって民家も郷士風の家作がなされたため、武家屋敷風

    の民家が普及したと考えられる。表側に格式間を 3室並べる空間構成は琉球国の分棟型と共通する。

     釜屋建民家の居住棟は、愛知県山間部と静岡県では表側に広い部屋を 2室取り、背面に奥行きの

    狭いナンド、(寝室)とダイドコを持つ。愛知県平野部でも室の配置は山間部と同じであるが、上手

    列の前後室の間仕切りが下手列の前後室の間仕切りと食い違う間取りとなる。いずれも上屋柱で室

    を囲って屋内空間を形づくる上屋造の構造なので、梁間を 2間半以上に大きくすることができない。

     千葉県の分棟型居住棟の間取りは、九間系間取(中尾 2017)で、間口 3間以上奥行 2間半から 3

    間の広い板敷室が正面にあり、その背後は台所と寝室、上手は続座敷となる。この九間系間取は室

    町時代に遡る武家住宅会所の格式を江戸時代に再現した間取りである。釜屋建てと共通する間取と

    いえる。

     茨城県の分棟型居住棟の間取りは、九間型間取である。間口 3間×奥行 3間の広い板敷室(九間)

    が正面にあり、その背後は台所、上手表が書院座敷で上手背面が寝室となる。千葉県の分棟型居住

    棟と少し室配置が異なるのは、四方下屋造りの構造の制約によるものである。九間型間取の民家

    Fig. 10 左:重要文化財旧作田家住宅 千葉県九十九里町より川崎市立日本民家園に移築 原未織作図     右:重要文化財塙家住宅 茨城県笠間市 原未織作図 /いずれも分棟型民家 

  • ―92―

    は、戦国時代の古河公方の支配地に分布している(中尾 2017)。これは、江戸時代初期に、源氏の

    棟梁を引き継ぐことで関東支配の正統性を打ち出した徳川幕府の在地政策として、九間型間取の民

    家が、古河公方ゆかりの地に建設されたと考えられる。すなわち、九間型間取の民家は、室町時代

    に遡る武家住宅会所の格式を江戸時代に再現した間取りである。茨城県の九間型民家のごく一部が

    分棟型であり、古河公方の由緒にさらに分棟ならではの格式付けがなされていると思われる。

     宮城県分棟型武家住居の居住棟の間取は、広間型三間取系、前広間系、九間系が混在している。

     青森県弘前市仲町の分棟型武家住居の居住棟は、青森県重宝岩田家住宅、仲町伝建地区の蒔苗家

    住宅、津島家住宅、平川家住宅、いずれも九間系間取である。表側にジョイと呼ばれる大きな部屋

    があり、その背後は寝室と物置となる。上手は書院造の続座敷である。下手は突出型分棟の土間部

    で、その奥側に寝室を置くのが、仲町分棟型武家住居に特徴的である。

     以上より、日本の分棟型居住棟の間取りは、広間型三間取系、前広間型系、縦割り形、九間系の

    4種類があることがわかった。

    5.分棟型と武士住居

     各地の分棟型民家は在地武士住居との関連がたいへんに強い。

     沖縄の分棟型重文民家は首里の士族屋敷に範をとったものと考えられる。琉球国では地頭職をつ

    とめるのは上級士族で、その住まいを殿どんち

    内と呼ぶ。石垣島の重要文化財宮良家住宅は、宮良間切の

    地頭職だった八代当演が 1819 年に首里の士族屋敷を真似て建築したもので、宮みや

    良ら

    殿どん ち

    内と呼ばれる。

    久米島の重要文化財上江洲家住宅も石垣殿内と呼ばれる。上江洲氏は具志川城主の末裔で、代々地

    頭をつとめた。伊是名島の重要文化財銘苅家住宅の銘苅氏は、琉球王朝第二尚氏王統の始祖尚円王

    の叔父の家門で、伊是名島の地頭職だった。沖縄本島北中城村の重要文化財中村家住宅の中村氏も

    護佐丸に従い読谷から中城城に移転した士族賀氏で、1720 年頃から地頭代となっている。地頭代

    は間切行政の現地最高責任者で、身分は百姓であったが、在職中は親べ ー ち ん

    雲上の称号を許され、中級士

    族並みの黄冠を戴いた。また、慶良間島の重要文化財高良家住宅は分棟型ではないが、琉球王府時

    代末期に唐への公用船の船頭職を務めた仲なかんだかり

    村渠親雲上によって、19 世紀後半に建築されている。

    高良家住宅は琉球分棟型居住棟と同じつくりで、前広間型三番座形式である。三番座背面に小さい

    土間台所が設けられているが、この台所土間は妻側に出入口があり、高知城下の分棟型主屋と共通

    する間取となっている。このような在地の士族屋敷が、簡略化されて庶民住居に広まったと思われ

    る。

     旧薩摩藩領の分棟型民家も外城制の麓集落に住む郷士の住宅が民家のモデルとなったと考えられ

    る。大隅半島中部にある重要文化財二階堂家住宅は代表的な鹿児島県の分棟型民家である。二階堂

    氏は戦国時代には薩摩国の有力国人(武士)で、後に島津氏家臣となり、江戸時代には高山麓の郷

    士であった。二階堂家住宅は 1810 年に建築された郷士住宅である。重要文化財祁け

    答どう

    院いん

    家住宅も伊

    佐市大口麓の郷士住宅で、突出型分棟である。宮崎県旧薩摩藩領の諸県郡高原町にあった重要文化

    財黒木家住宅(宮崎県総合博物館に移築)も薩摩藩高原麓のテノマ分棟型の郷士住宅である。

     一方、平行二棟造り系統の民家は、武士住宅との直接的なかかわりが見いだせない。分布範囲も

  • ―93―

    江戸時代の藩領域とは異なっている。江戸時代の開拓地に多く建てられているので、郷士住宅に由

    来する分棟型とはその成り立ちが異なると考えられる。

     高知県の分棟型は、城下武士住居の突出型分棟と、在地郷士住宅の別棟炊事棟が居住棟と並ばな

    い分棟系民家である。土佐藩の郷士制度を反映した武士住居と郷士住宅である。

     釜屋建は武士住宅との直接的なかかわりが見いだせない。分布範囲も江戸時代の藩領域とは異

    なっている。

     安房の分棟型民家は、分布範囲が近世の藩領域と異なる事から、郷士住宅など近世の在地支配と

    直接の関連は見いだせない。しかし、里見氏家臣の家柄であるなど、里見氏に関連する由緒を持つ

    分棟型の家系が散見される。また、里見氏の支配地と安房分棟型の分布域が重なるようでもある。

    安房の分棟型民家は九間系の間取りであるが、関東平野の九間型間取を持つ民家は古河公方の由緒

    と関連している。安房分棟型と里見氏にも同様な、由緒に基づく関連があるのかもしれない。

     宮城県の分棟型は、在郷城下町の家中住宅である。在地の武士住居に分棟型が見られるのは、沖

    縄県、鹿児島県、高知県と同様である。但し、登米、玉造、遠田、志田、加美の在郷城下町の家中

    層の住宅にだけ、別棟や鉤形の分棟系が見られる理由は不明である。

     青森県の分棟型は弘前城下の仲町武家屋敷町に見られる。仲町の分棟型居住棟は突出型分棟で、

    間取は九間系である。

     以上をまとめると、沖縄県、鹿児島県、高知県、宮城県、青森県では分棟型は武家屋敷や郷士住

    宅およびその影響を受けた周辺民家である。九州中北部の平行二棟造りと愛知静岡県境の釜屋建て

    および千葉県茨城県の分棟型は、直接的な武家住居とのかかわりは見いだせなかった。この地域の

    分棟型民家については、成立に関する地域史の掘り起こしと再検討が必要である。今後の課題とし

    たい。

    6.分棟型が表現するもの

     各地の分棟型民家を検討した結果、日本各地の分棟型民家が単一の系統ではないことが判明し

    た。前広間系三番座間取りの沖縄の分棟型と、薩摩藩領に分布するテノマ型やナカエ接合の分棟型

    と、熊本県中部以北の平行二棟造りは異なる系統の分棟型である。

     また、分棟型民家と武士住居がきわめて近い関係にあることが分かった。沖縄の間切り、鹿児島

    の外城制、宮城県の在郷城下町という、中世以来の地付きの外様藩の在地支配は、在郷武士が担っ

    た。在郷武士の住居が分棟型であり、武士が在地で百姓町人と混住することで、在地武士の分棟型

    住居形式が、身分制の撤廃後、民家に採用されたと考えられる。

     それでは、武士住居はなぜ分棟型なのだろうか?

     宮澤博士は、中世の武士住宅や寺院の住居では居住棟と炊事棟が別棟だったが、武士は近世に城

    下町へ移住し、僅かに地方に残存したものが分棟型民家だとした(宮澤 1984)。

     法然上人絵伝などの中世の絵巻物を見ると、武士の屋敷内には主人が起居する主屋のほかに、別

    棟の厨くりや

    がある。厨は下人所従が調理や食品の調製をする調理場で、厨の一部に彼らが起居する場合

    もあった。土間床の厨は下人所従の居所であり、床張りの主屋は主人と家族の居所だった。すなわ

  • ―94―

    ち、中世武家住居では、主屋と厨は、そこにいる人の身分が違うのである。身分の違う者は同じ屋

    根の下で暮らさない。こうした身分社会の生活を反映し、中世武士の館で居住棟と台所棟は別棟で

    あった。

     しかし、中世武家住居の別棟と、近世の分棟型民家は決定的に違う点がある。それは、近世民家

    の分棟型は、居住棟と炊事棟を並べて、両方ありますよ、というところを見せつけている。

     中世武家屋敷では、居住棟の小寝殿と、炊事棟の厨を並べる理由は全くなかった。厨は屋敷地の

    中の方位や勝手のよろしいところに設置すればよかった。このような中世武家屋敷は、別棟ではあ

    るが、分棟型ではない。それでは、分棟型が居住棟と炊事棟を近接して並べるのはどのような意味

    があるだろうか。

     百姓身分は建前として所従下人を持たないので、住まいも、百姓にふさわしく、厨を別棟にしな

    い=下人を持たないスタイルの民家が標準となる。だから本百姓の住まいは土間(調理・炊事場)

    を棟内に納めた民家である。

     薩摩藩や土佐藩や仙台藩では、郷士や家中などの在郷武士は、百姓と混住していた。混住してい

    るからなおさら身分の違いを目に見える形ではっきりさせる必要が生じた。住まいに「百姓じゃな

    い、武士だ」という表現が用いられた。分棟型の郷士の住居は、武士の住まいである居住棟と下人

    の居所である炊事棟を並べて、「家来を持つ武士の家」を表現したと考えられる。

     高知県の郷士住宅が「別棟炊事棟が居住棟と並ばない分棟系民家」なのは、土佐郷士が在地での

    武士としての身分表象を許されなかったためと考えられる。薩摩郷士や仙台家中に比べて、土佐郷

    士は土佐藩武士身分のなかでの地位が低かったと考えられる。

     居住棟と炊事棟を別棟にすることは江戸時代以前の在地武士の住居に由来する。これを近世的な

    文脈で組み替え、居住棟と炊事棟を並べたのが、分棟型民家である。薩摩藩や仙台藩の在郷武士の

    住居形式が分棟型だったのは、武士のしるしだった。この点で、分棟型民家はきわめて近世的な民

    家形式といえよう。また、居住棟と炊事棟を「並べる」ことで身分を示すことがこの民家の最大の

    Fig. 11 漆間時国邸 法然上人絵伝よりリライト

  • ―95―

    特徴であるから、屋根型をもとにして建築史学が用いてきた「分棟型民家」の呼称や、地理学が用

    いてきた「二棟造り」は本質を表現した民家名称といえるだろう。居住棟と炊事棟が並ばない、別

    棟の民家は、「分棟型」や「二棟造り」とは別の用語でカテゴライズすると、議論の混乱を招かな

    いと思われる。

     近世後期には、郷士の身分が株となって売買され、あるいは郷士と上層農民の縁戚関係が増加す

    るなどの社会変容が進行し、在地武士の分棟型住居形式が上層農民の民家に採用されはじめたと考

    えられる。庶民住居の分棟型民家の建築年代は 19 世紀以降が多いことから、分棟型民家が庶民住

    居として大量に建設されたのは、1872 年の明治政府による身分制度の撤廃以降と考えられる。

    7.分棟型民家の分布

     日本各地の分棟型民家は単一の系統ではなく、それぞれの藩の在郷武士在地支配が分棟型に影響

    を及ぼしたことが推測された。しかし、それだけでは、分棟型が日本列島の南岸にだけ分布してい

    ることの説明がつかない。日本列島の太平洋側に分棟型が点在して分布することから、黒潮に運ば

    れた南方系の民家と考えられてきたのではないか。それを、各藩の在地政策とするなら、分棟型が

    日本列島南岸に分布することは偶然だったのか。

     まず、厳密にいえば、分棟型民家が日本列島の南岸に分布しているわけでないことを、再確認し

    たい。九州では、旧薩摩藩領以外の宮崎県に分棟型は分布しない。一方、福岡県と大分県にまたが

    る内陸部から有明海沿いの熊本県中部と佐賀県に平行二棟造りの分棟型が分布している。高知県、

    愛知県、千葉県では、分棟型は太平洋岸に面した地域を含む範囲に分布しているが、茨城県では分

    棟型分布の中心は茨城県中西部の内陸である。宮城県や青森県の分棟型も内陸部である。これらの

    分棟型民家の分布をみると、分棟型は日本列島南岸に分布するとは言えないことがわかる。しか

    し、それでも何かしら傾向といったものがあるように思える。

     分棟型の分布を考える時、北を上にした日本地図で考えるのではなく、畿内を中心にして日本海

    を南に置く日本地図で見てみると、中央文化の伝播領域の周縁に分棟型民家が分布していることが

    わかる(Fig.12)。この分布から、近世以前には中世武士住居に見られるような居住棟と炊事棟が

    別棟になった民家が日本各地に広く分布していたこと、そして近世の身分制と武士の城下集住と本

    百姓制度が浸透した本州中央の地域では居住棟と炊事棟が別棟の在地武士住居がほぼ消滅したこと

    が読み取れる。

     近世民家は 17 世紀中期から 18 世紀初頭の時期に成立の画期がある。この時期に、前の時代の由

    緒や武士住居の形態を近世的に再構成して地域の民家型が生み出された。その時点で日本列島の辺

    縁部に残存していた分棟系の在地武士住居が、その地域の最上層農民の民家モデルとなったと考え

    られる。江戸初期の農村最上層は、戦国時代に主家が滅亡し土着した元国人被官層や在地土豪の場

    合が多い。

     地付きの外様大名領では、郷士制度が近世の分棟型民家成立の契機となったが、分棟型民家が庶

    民に広がったのが幕末明治期と考えるなら、東北地方に庶民住居としての分棟型民家が存在しない

    ことを説明できる。東北地方の多くの諸藩は戊辰戦争中に結成した奥羽越列藩同盟に参加し、明治

  • ―96―

    新政府と戦った。そのため明治初期に旧藩武士団が解体され、県庁が旧城下とは異なる地域に移動

    させられた。この地域では、身分制が解除されても、旧藩の武士住居をモデルに民家が再生産され

    る条件が無かったと考えられる。

    8.南方の民家

     日本の分棟型民家の源流と考えられてきた南方の民家について考えてみる。

     分棟型が南方系であるとする考え方の根拠となっている、東南アジアからミクロネシア、ポリネ

    シアの居住棟と炊事棟が別棟になっている民家の多くは屋敷地内に居住棟と炊事棟が独立して建て

    られている(浅川 1991)。これは居住棟と炊事棟を並べる日本の分棟型民家と直接の関連性は見い

    だせない。また、居住棟と炊事棟を廊下で繋ぎ、あるいは軒を接して建てる分棟系の事例がマレー

    シア、ベトナム、タイに見られることが報告されている(杉本 1978)。これらの分棟系住居が古い

    伝統を持つか、それとも古い伝統を下敷きにして近年に成立したものであるかを検討する必要があ

    る。

     近代化以前の伝統社会における「別棟炊事棟が居住棟と並ばない分棟系民家」の住まい方は、伝

    統的な大家族や拡大家族で維持されてきたもので、広い屋敷地で多くの家族構成員が家事労働を分

    担することで成り立っている暮らしである。一方、近代化は伝統的な家族制度を変容させ、単婚小

    Fig. 12 分棟型民家の分布地図

  • ―97―

    家族に収斂する傾向がある。ここでは家事労働を分担する人数は減少するため家事労働は集約化さ

    れ、また家族内身分差は縮小される。そこで、炊事棟を接続し利便性を高めた結果、居住棟と炊事

    棟が近接連結した分棟系住居が成立した可能性を指摘したい。

     ただ、炊事棟と居住棟を別棟とする住まい方は、杉本博士が指摘しているように、古い伝統を

    持っていると思われる。平安時代の寝殿造がそうであるし、タイやベトナムなどアジアの各地に寝

    殿造のもととなった中国貴族住宅系統の住宅文化が広がっている。中国ではその後、各棟の連結が

    進み、四合院住宅へと発達する。一方、アジアの中国文明圏の辺縁島嶼部に、住居棟と炊事棟とを

    別棟にする民家の分布が見られるのである。

    9.まとめ

     本論を以下にまとめる。

     1.�分棟型民家は、居住棟と炊事棟を別棟にして接続した民家で、居住棟と炊事棟の両方がある

    ことの表現を本質としている。

     2.�分棟型民家は多系統であり、ひとつの原型から発達したとする一系統ではない。

     3.�分棟型民家は、中世の在地武士住居に起源を持つ。

     4.�近世初頭の民家形式成立期に、居住棟と炊事棟を別棟にする住居形式が日本列島の辺縁部に

    残存していた。

     5.�分棟型民家は、江戸時代に、在郷武士の住居形式として、農民身分との差別化を目的とし

    て、各地域の状況下に再構築された民家形式である。

     6.�江戸初期に居住棟と炊事棟を別棟にする住居形式が残存した地域では、江戸時代を通じて分

    棟型民家が在地最上層の住居形式として用いられた。

     7.�身分制の撤廃と社会変容に伴い、分棟型が庶民住居に広がった。

     8.�日本の分棟型民家は、東南アジアからミクロネシア・ポリネシアなど南方地域の住居と直接

    的な伝播影響関係にはない。居住棟と炊事棟を別棟にする住まいは、中国文明圏の辺縁島嶼

    地域に共通する住様式である。

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