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604 東京国立近代美術館 ニュース 2014 2–3 月号 あなたの 肖像 工藤哲巳回顧展

現代の眼 604 08 0124 · 604 東京国立近代美術館ニュース2014年2 – 3 月号 あなたの肖像─工藤哲巳回顧展 現代の眼604_08_0124.indd 1現代の眼

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604 東 京 国 立 近 代 美 術 館 ニ ュース 2 0 1 4 年 2 – 3月号

あ な た の 肖 像 ─ 工藤 哲 巳 回 顧 展

現代の眼 604_08_0124.indd 1現代の眼 604_08_0124.indd 1 14/01/27 16:0914/01/27 16:09プロセスシアンプロセスシアンプロセスマゼンタプロセスマゼンタプロセスイエロープロセスイエロープロセスブラックプロセスブラック

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Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Feb.-Mar. 2014] │ 2

「あなたの肖像

│工藤哲巳回顧展」

遅れた追悼

│工藤さんへ

千葉成夫

会期:二〇一四年二月四日│三月三十日 

会場:美術館

企画展ギャラリー﹇一階﹈

1

再会

 

工藤さん、ご無沙汰しました。一九九〇年十一月十四日に東京谷中のお寺での通夜

でお訣れして以来です。あれからもう四半世紀近くも経ったのですね。今度の大きな巡

回展の皮切りの展示を大阪の国立国際美術館で見ました。もう貴方の話に接すること

はできないけれど、沢山の作品が集められた会場を一巡すると、貴方の声が聞こえてく

るようでした。一九八一年末から幾つものシンポジウムを一緒にした﹇註1﹈ので、そし

てそれ以降は貴方とそんなに頻繁に会うことはなかったので、今回の会場で僕に聞こえ

てきたのはあの一九八二年の貴方の話しぶりでした。

 

パリで、堀浩哉に連れられて貴方を訪ねたのが一九七七年。僕が貴方に会った最初

でした。貴方が日本への帰国のランディングを始めたのが一九八一年(軽井沢の高輪美術

館での「マルセル・デュシャン展」で四年ぶりに会いましたね!)でしたから、いま思えば、八二

年のシンポジウムは貴方にとっては「ランディング」のための最初の地ならしの一環だっ

た。そんな熱気のようなものを堀浩哉さん、たにあらたさん、松浦寿夫君、みな感じて

いた筈です。その「熱」に煽られたかのような立て続けの、同じメンバーによるシンポジ

ウムでした。あの時、貴方があと十年も生きないなどとは思いも寄りませんでした。

2

貴方の不在

 

一九五〇年代後半に活動を始めた時、周囲と貴方自身は思想と精神と芸術の焼け

跡、空虚の中にありました。政治と社会の体制は「旧体制(アンシャン・レジーム)」と「ア

メリカによる占領体制(ないし植民地体制)」とを足して二で割ったものであり、いち早く

復活した「画壇」は戦争突入以前と、構造的にはなんら変りがないものでした。鋭敏な

貴方が、これでは「自己の存在の確証」の求めようがないと感じたのも無理はありませ

んでした。「日本反芸術」が、まず何よりもそういう状況に対する「反(A

nti

)」ないし「否

(Non

)」となったのも当然だった。ただ貴方は、東京の「ネオ・ダダ」のすぐ傍に居ながら

グループには入らなかった事が象徴しているように、実作者だけれど批評的でした。貴

方は、自分の活動は結局は「批評活動」だ、と言ったこともありましたね。

 

早々と、とりあえず日本を離れてパリに行ったのも、「自己の存在の確証」を求めて、

日本では遠望するしかないキリスト教社会に身を置いてみるという実験、いや失礼、捨

て身の闘いだったのでしょう。

 

ただ工藤さん、貴方や東京の「ネオ・ダダ」の何人かがパリやニューヨークに居を移し

たために日本美術が弱体化した、かもしれません。いま振り返れば、そうも言いうるの

ではないでしょうか。それが証拠に、一九六〇年代の日本美術は「アンフォルメル」「抽象

表現主義」「ポップ・アート」「オップ・アート」「ピカピカ・チカチカ芸術(テクノロジー・アー

ト)」「ミニマリズム」「概念芸術」と、明治になって西欧美術を次々に「模倣・学習・追随・

日本化」していったのと変らない。まるで同じ映画のリメイク版を観ているみたいです。

またもや、海の彼方からやって来る「新しい美術」に呑み込まれてしまったのです。その

とき海の彼方に居た貴方は、この状況をどう見ていたのでしょうか。自身の捨て身の闘

いで精一杯で、それどころではなかった?それはそうですね。

 

これが、貴方(がた)の不在が、いや「日本反芸術」がもたらしたマイナス面だったか

もしれません。貴方(がた)が日本にとどまっていたら、きっと、たぶん、もしかして、外

来物の花盛りなんて許しはしなかったのではありませんか。いや工藤さん、僕は戦線離

脱を非難しているのではありません。だって、これは「クレオパトラの鼻」という話です

からね。

3

一時帰国

 

でも工藤さん、貴方(がた)が不在の間に同じ映画のリメイク版が制作されたことは

「クレオパトラの鼻」ではなく事実です。「外来物の花盛りなんて許さない」という思想と

作品が本格的に現れるのは、やっと一九六〇年代最末期以降、「もの派」と「ポストもの

派」からです。しかし工藤さん、貴方は本当に敏感な人で、「戦後」の捉え直しで思想的

に揺れ動いていた一九六九年の日本に一時帰国して、「もの派」ではなく、後に「ポスト

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3 │ Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Feb.-Mar. 2014]

ばならなかったのだと思います。

 

鋸山の岸壁のレリーフ《脱皮の記念碑》(一九六九年)﹇図1﹈以降の十年間、一九七○

年代の作品は、僕にはこの「アジャスト」に相当する作品群であるように感じられます。

「脱皮」というタイトルは象徴的ですね。「脱皮」と名づけたハプニングなどはこの時が初

めてではないにしても、です。「脱皮」を「オチンチン」に託したのは如何にも貴方らしい。

「脱皮」とは一種の、あるいは貴方流の「自己否定」です。そしてそこから始まるのが、自

身と他者とに向けられた「貴方の肖像」という、いうならば「人間存在そのものの問い直

し」の作品群でした。少なくとも、貴方が一時帰国した一九六○年代最末期以降、「自

己否定(自分自身の美術行為じたいを問い直して俎上に載せること)」と「人間存在そのもの

の問い直し」は、芸術表現や思想にとっては恒常的に必要なものとなりました。もはや

「精神」に安住の地はないのです。「表現」とは永続的な「問いかけ」の中にあるものです

からね、工藤さん。

 

また、貴方の一九七○年代の作品の中に放射能の主題があることに、僕は驚きます。

勿論、その四十年後の「二○一一年三月十一日」の大震災による福島原発のメルトダウ

ンを僕達は経験してしまったからです。大阪の展示会場でその作品群を見た時、僕はふ

もの派」を代表する一人となる堀浩哉(当時は「美共闘」の闘いのさなかにいた)たちに会っ

ているのですね。それから工藤さん、パリの「五月革命」の時に貴方が学生たちのデモ

の中に飛び込んでいたことについて、僕は亡き平賀敬さんから少し聞いています。貴方

は熱い人だった。平賀さんは貴方の翌年でしたか、同じ「国際青年美術家展」で賞をも

らってパリに行き十年あまり滞在しましたね。いや、この話はまたにしましょう。

 

つまり僕の理解はこうです

│工藤哲巳は「日本反芸術」の渦の中で異和を感じて

いたが、それを未だ言葉にはできなかった。これが、彼の作品が「反芸術」というよりは

「批評的なもの」だった理由である。未自覚な分、「反芸術」的だったが、同時に彼のアン

テナが深部を捉えていたことで、一九六〇年代最末期に表面化する状況をその「作品」

が孕んでいたのだ。

 

貴方を僕(たち)の方に、ちょっと引き付け過ぎるでしょうか。でも、貴方の帰国への

「ランディング」の始まるのが、「ポストもの派」がその作品を実現しはじめる一九八〇年

代初頭であることは、どうも偶然とは思えないのです。貴方は状況を読んでいたに違い

ありません。

4

日本へ

 

従って、貴方の出発というより「日本反芸術」の出発は、日本の「戦後」が行き詰るよ

りも、そして西洋近代美術の終焉よりも、数年ないし十年近く早かった。ちょっと早す

ぎたのです。これは「フライング」ということではなく、敵の本体は少し後になってしか

現れなかったということです。でも、走り出したものはもう止まらないから、そのまま先

の方へ駆け抜けてゆくしかなかったわけです。主戦場は、「日本反芸術」が駆け抜けたあ

とにやってきた。だから、貴方は一九六九年の一時帰国のあと、やがて、こう言ってよけ

ればブレーキを踏んでゆくことになったのではないでしょうか?

 

パリの「五月革命」に続いて日本でも「大学闘争」が起っている。それは何を意味す

るのか

│という問いかけこそが、貴方の一時帰国の真の動機だったのだと思います。

戻った日本で貴方は「主戦場」を理解した筈です。勿論、そうだからといって、すでに別

の方向に走ってきてしまっているのに簡単にコースを変えるわけにはいきません。当然、

生活のこともあったでしょう。帰国への「ランディング」まで十年が必要だった、という

ことになります。一方でブレーキをかけ始めながら、他方で、やがて日本で制作するの

だから、コースというか方向性というか、それを切り換えるか、アジャストし直さなけれ

図1 工藤哲巳《脱皮の記念碑》1969年 鋸山(千葉県房総) 撮影:吉岡康弘©ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2013

現代の眼 604_08_0124.indd 3現代の眼 604_08_0124.indd 3 14/01/27 16:0914/01/27 16:09プロセスシアンプロセスシアンプロセスマゼンタプロセスマゼンタプロセスイエロープロセスイエロープロセスブラックプロセスブラック

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Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Feb.-Mar. 2014] │ 4

と、例えば村上龍が二○一○年に出した、百年後の日本を描いた近未来小説『歌うクジ

ラ』を連想しました。その近未来の日本の凄惨な状況、僕達は既にそれとそれほど変ら

ない状態に置かれてしまっているのです。工藤さん、貴方のアンテナはそこまで捉えて

いたのでしょうか?

 

元に戻りますが、一九八二年の「連続シンポジウム」で貴方が僕(たち)に熱く語った

のは、「天皇制」の問題ということでした。

 

その「工藤節」に接した時、「ちょっと違うのではないかな」というのが僕の最初の内

心の反応でした。言うまでもありませんが、貴方は「天皇制」を現実のそれではなくて日

本人の精神の奥深くに依然として横たわるものとして提起している。それはよく判って

いました。それでも、「それじたい」を正面から美術表現の主題にもってくることに少し

の違和感を覚えたのです。でも続けて、「それは確かに日本人にとって半ば永遠の問題

ではあるなあ」、「工藤さんらしいなあ」とも思ったのでした。

 

ただ、それから間もなく貴方が出してきた作品、つまり、なんというか、あちら側(例

えば天皇制の深部)とこちら側(例えば僕達の現実生活)とを「糸」で繋げてみせようとし

た作品は、正直なところ、説明的すぎてあまり感心できませんでした。ただ、「糸」(「意

図」の誤植ではありません!)は、良く判った。感覚的に納得しましたね。「糸」はよかっ

た! 「糸」は両端に何もなくても「繫げるもの」、「繋がるもの」ですね。そして「糸」は、

細い両端の先になんにも無いと、その先の空虚が際立ちますね。か細げな「糸」であって

「紐」でない(使っているのが紐でも紐っぽくなかった)のもよかった。しかしいま思えば、貴

方にはこの主題を展開していく時間がもう残されてはいなかったのですね。

5

行為の立体的心電図

 

工藤さん、ここまで書いてきて、あらためて展示会場に戻ってみます。展示の最初の

所にあるのは平面作品ですが、厚みがあって、それは既に絵画ではありません﹇図2﹈。

貴方は東京藝大在学中に、もう絵画から離れたのでしたね。そのころ貴方は、自分の作

品を、絵とか彫刻とか、芸術とか反芸術とかではなくて、「立体的心電図」だと言ったこ

とがありました。言い換えれば、自分の行為と記録こそが重要だということです。そう

して、五十五年の生涯の終わりまで、絵画に戻ることは終にありませんでした。では彫

刻だったかというと、彫刻でもなかった。今風の「ミックスト・メディアによるインスタ

レーション」というぼやけた名称だと、何のことだか判りませんね。「立体作品」という

のも、何を指しているか判然としない。「立体的心電図」の方が遙かにいいと思います。

 

つまり、工藤哲巳とは「行為」であった、のです。「行為」だから身体に担われるし、そ

の身体は「肉体」と「頭(頭脳)」から成っていると、二元論としてではなく貴方は考えて

いました。しかも貴方の「行為」は自己顕示欲やナルシシズムとは無縁でした。自己顕示

じたいが目的ではなかったからです。貴方の「人間不信」は誰よりも自分自身に向けら

れていたし、「art

」とは自分自身に対する不信、疑い、挑発のためのものでしたからね。

そこに貴方の特異さがありました。自分自身を対象にして、変容ないし消滅過程にある

「人間存在」の研究、いや研究というような生易しいものではない闘いをやっていたので

す。「日本反芸術」全体を見渡してみても、貴方のような作家は、どうやら、いないよう

です。それは壮絶な「闘い」だったに違いありません。

 

貴方は一九八一年の草月会館での個展(「帰国展」といってもいいでしょうね)の図録で

「直感のみで全てを判断する事、その為に酒を使った」とも、「武者修行を支えたのが唯

一の友『酒』であった」とも書いていますが、言い換えるとこの壮絶な闘いには酒が不可

欠だったということでしょう。僕は、貴方が酒に溺れたとは思っていないのです。この草

月の一年ほど前、年譜を見ると、貴方はアルコール依存症治療でパリ郊外の病院にひと

月あまり入院したのでした。そしてそれから五年ほどは酒を断っていましたね。ご一緒

した数々のシンポジウムでは缶コーヒー、その後の酒席ではお茶を飲んでいる貴方の姿

が今でも眼に浮びます。

 「形式」という視点からみても、ほとんどの作家が、時とともに、年齢とともに、ある

図2 工藤哲巳《増殖性連鎖反応 -1》1959年 青森県立美術館蔵©ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2013

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5 │ Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Feb.-Mar. 2014]

いは成熟とともに、あるいは衰弱とともに、「絵画」か「彫刻」へと着地していったと言う

ほかはないように思います。たとえそれが既存の「絵画・彫刻」への回帰ではない場合で

も、です。そしてそういうことは、二〇世紀以降の美術表現にとってはいわば当然のこ

とというか、必然的なことです。何故って、まず「反逆(即ち感覚的ないし言語的な自覚)」

がなければ新しい表現など生れるべくもないし、しかし「反逆」には否応なく「その先」

がある。その先がやってくる。「その先(即ち自覚を通した作品の実現)」ということが待

ち構えているからです。そして、「その先」とは、通常、いずれにしても「着地」のかたち

をとるものです。でも工藤さん、貴方は最後までそういう着地をしなかった。展覧会場

を一巡して、それがよく判りました。この特異さにはほとんど類例がないと言うべきで

しょう。

6

合掌!白刃取り

 

貴方の個々の作品に触れる前に紙数が無くなりました。「追悼」なのでそこまで触れ

なくてもいいのかもしれませんが、心残りです。《インポ分布図とその飽和部分に於ける

保護ドームの発生》﹇図3﹈、「放射能による養殖」連作、《接木の花園/環境汚染

│養

│新しいエコロジー》等について語りたいのですが……。心残り

│貴方も、むろ

ん心残りのまま生涯を終えたのですね。さっき挙げた草月での展覧会について貴方は

「『合掌白刃取り』から『悟り』迄の軌跡」と書いていました。でも、あのあとの貴方の軌跡

は、結局、「合掌白刃取り」に終始しました。また酒を飲み始めたからというばかりでは

ありません。それが貴方の生き方、在り方であり、貴方の作品の在り方だったからなの

だと思うのです。十三歳年下の美術評論家として、没後四半世紀近く経っていることも

あるし、作品解釈以前に、作家と作品との、そしてそれらと時代背景との、繋がりの糸

は明瞭に見えます。今日は、その「糸」が僕自身と、つまり現在と、どう繋がっているか

の一端を述べ得ただけでした。もう四半世紀近く経っているので、「ご冥福をお祈りしま

す」じゃないですね。静かに「合掌!」、でしょうか﹇註2﹈。(美術評論家、中部大学教授)

註1

一九八一年十二月五日、東京、原美術館/一九八二年一月二十九日、東京、ウナック・サロン/六

月二十日、東京、板橋区立美術館/八月十六日、東京、銀座絵画館/九月一日、名古屋、たかぎギャ

ラリー等。パネリストは文中の五人。但し、原美術館では松浦君はおらず、名古屋では工藤さんと千

葉の二人だった。ちなみに、工藤さんは一九八六年まで、夥しい数のシンポジウム、座談会、対談等を

こなしている。

2 

ここでの工藤さんの言葉や発言類は、今度の展覧会の図録から引用した。

後記 

このたびの工藤哲巳回顧展は、国内では約二十年ぶり、東京では初となる。近

年、国内外で日本の戦後美術を検証する機運が高まっている。そのなかで工藤哲巳に

も、多くの関心が寄せられている。それは、彼の回顧展が欧米で相次いで開催されたこ

とからもうかがえよう。しかし工藤がパリで長く活動していたこともあってか、日本に

おいて彼の知名度は、残念ながらそれほど高くないかもしれない。

 

千葉成夫氏は、七〇年代後半から工藤と交流し、八〇年代に彼が日本に活動の軸足

を徐々に移していくなかで、シンポジウムなどで同席している。このような個人的接触

を端緒に、工藤の創作活動の「糸」(流れ)を、当時の美術動向や社会背景に目配せをし

つつ、現在の地点まで手繰り寄せて論じて下さった。

 

文中、千葉氏は「工藤哲巳とは『行為』であった」と定義している。展覧会の準備を進めな

がら、私もその思いを強く抱いた。記録写真や映像も豊富に盛り込んだ本展で、工藤哲巳

の行為の諸相を皆さまに感じていただければ、望外の喜びである。(美術課研究員 

桝田倫広)

図3 工藤哲巳《インポ分布図とその飽和部分に於ける保護ドームの発生》1961-62年 ウォーカー・アート・センター蔵 撮影:吉岡康弘©ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2013

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Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Feb.-Mar. 2014] │ 6

「ジョセフ・クーデルカ展」

遊動する精神の記録

港千尋

会期:二〇一三年十一月六日│二〇一四年一月十三日 

会場:美術館

企画展ギャラリー﹇一階﹈

 

ジョセフ・クーデルカの展覧会を初めて見たのは、パリの国立写真センターだった。当

時セーヌ河岸にあった展示施設「パレ・ド・トーキョー」だったが、広い全館を使った個

展で、その迫力に圧倒された記憶がある。エントランスを飾った写真は、雪景色の庭園

をうろつく犬を、まるで後をつけるように撮った一枚である。展覧会名は「亡命(エグザ

イルズ)」。黒い犬の背中に誘われて、彷徨いつづける写真家の姿を追う写真展の、鮮烈

な導入だった。「ジョセフ・クーデルカ 

プラハ1

96

8

」(二〇一一年、東京都写真美術館)に

つづく大規模な個展となった東京の回顧展の会場で蘇ったのは、この時に見た犬の姿

だった。

不条理の劇場

 

クーデルカは、森山大道と同じ年に生まれている。美術館では、森山の初期の代表作

となる「にっぽん劇場」が別会場(「M

OM

AT

コレクション」二階)で展示されており、そのこ

と自体が興味深いイベントでもあった。出自もバックグランドもまったく異なる二人の

作家だが、スナップショットとコントラストの強いモノクロームへのこだわりという点で

は共通している。現代写真史を代表する二人を続けて見ることになったことで、以前は

気にしていなかったことを考えるきっかけになった。

 

それはクーデルカが初期に撮影していた舞台写真についてである。それは雑誌用に撮

影した写真で、それだけではクーデルカの強い個性を読み取ることは難しいものではあ

るが、彼が当時どんな芝居を見ていたかは分かる。チェーホフは当然としても、ジロドゥ

やベケットそしてイヨネスコの名がキャプションにある。いわゆる不条理演劇の最盛期

をクーデルカはその舞台の上で共有していたことになる。

 

一九六〇年代というと、後に共産主義政権に対し抵抗運動を指導するヴァーツラフ・

ハヴェルも劇作家としてのデビューを果たした時代である。ハヴェルの代表作のほとん

どは最初プラハで上演されているから、おそらく若きクーデルカも見ていただろう。そ

の舞台を撮影していたかもしれない。いずれにしても後にビロード革命を成し遂げるに

いたる政治的指導者と、「プラハの春」を撮影しそれが匿名で西側に発表されることに

よって、亡命を余儀なくされた写真家が、六〇年代の不条理劇の劇場空間を共有して

いたことに、私はあらためて強い感慨を覚えた。

 

展覧会ではこの劇場のシリーズの反対側の壁に、「ジプシー」のシリーズが掛けられて

いた。「ジプシー」は社会学やジャーナリズムの枠組みを超えた、主観的なドキュメンタ

リーの古典と見なされているクーデルカの代表作である。その個性が確立されたのもこ

のシリーズを通してだったが、そこには不条理演劇を撮影していた経験が強く作用して

いたのではないかと思う。それは技術的な問題というよりは、対象との距離の問題にか

かわっている。「ジプシー」が高く評価されているのは、ジプシーを社会的な問題として

取り上げるのではなく、これを「他者」として描くことに成功したからだろう。この「他

者」への視線を得たのは、舞台ではなかったかと思うのである。

 

ちなみに森山の最初の写真集となった『にっぽん劇場写真帖』はよく知られるように

大衆演劇、芝居小屋、ストリップといったアングラな劇場空間から始まり、寺山修司の

散文詩が添えられるが、その猥雑さの中でこそ写真家の鋭い視角が鍛えられていた。プ

ラハと東京と離れた二都市で、六〇年代の演劇が果たした役割に期せずして気づかさ

れることになった。

亡命者と分身

 

さてチェコスロヴァキアで写真家として活動を始めたクーデルカが、いわゆる「プラ

ハの春」をきっかけに故郷を離れ、以後ヨーロッパ各地を放浪したことは、よく知られ

ている。一九七〇年にイギリスに亡命し一九八七年フランス国籍を取得するまでの十

七年間、彼は亡命者としての身分を生きたのだった。ふつうの人が持つパスポートは無

効である。ヨーロッパ域内を通行できる許可証がその代わりとなったのだが、なにしろ

政治亡命申請中の身である。常識的に考えれば、彼にとって国境はどんな危険が待ち

構えているかわからない、危険な場所だろう。ひとつ間違えば、祖国に残した家族に危

険が及ぶともかぎらない不安定な身分である。それなのになぜ、彼は旅を続けたのだろ

現代の眼 604_08_0124.indd 6現代の眼 604_08_0124.indd 6 14/01/27 16:0914/01/27 16:09プロセスシアンプロセスシアンプロセスマゼンタプロセスマゼンタプロセスイエロープロセスイエロープロセスブラックプロセスブラック

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7 │ Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Feb.-Mar. 2014]

は、亡命者の分身であり、彼につきそう伴侶である。辺境を彷徨い続けることができた

のは、影という伴侶がいたからではなかっただろうか。

越境する精神

 

展覧会場の最終部分は「混沌(カオス)」と題された大型サイズのプリントで構成され

ている。パノラマカメラで撮影されたこのシリーズは一九九九年に発表され、それまでと

ははっきりと異なるスタイルで写真界を驚かせたが、今回はそれ以降の新作も加えられ

た充実した内容だった。発表当時聞かれた批評の中には、クーデルカは変わってしまっ

たのか、もはや人間は撮らないのか、とか、パノラマ画角に頼る一種の構成主義ではな

いかという意見もあったように記憶している。そのいっぽうで、当時これほどストレート

にパノラマ表現を行った写真家はいなかったことも事実で、いずれにしてもクーデルカ

は風景写真に独自の表現を確立したのだった。

 

今回、はじめてこのシリーズを回顧展の中で眺めてみて、クーデルカその人にとっては

何ら変わるものではないことがわかる。少なくともそこにはいくつかの理由がある。ひと

つはその最初期に、パノラマサイズの作品が現れていることだ。ただしそれはパノラマカ

メラで撮影されたものではなく、横長にトリミングされている風景作品である。その初期

には、おそらく写真を志す者が誰もするように、多くの実験を試みている。総じてグラ

フィック的な実験を多く行っていたようだが、その中にパノラマが出てくるのである。

 

パノラマという画面は、ふつう一目では把握できない長さを持っている。撮影する者

は一目でシャッターを切るが、それを眺めるほうは、視線を移動していって初めて知覚

できるような画面ということになる。言い換えれば、目に足が生えて画面上を移動して

ゆくのが、パノラマ写真なのだ。その意味でも遊動するクーデルカにとっては必然的な

展開ということができるだろう。

 

さまざまな「境界」が撮影地に現れる点でも、そうである。内戦後のベイルートや分

断されたパレスチナは、統合され域内の移動が自由化される欧州とは真逆に、域内の

移動が不可能になってゆく土地である。その現実にクーデルカが、変わらぬ犬の視線を

もって執拗に挑むとき、わたしたちは彼の半生が、もうひとつの「抵抗」ではなかったか

と思い当たる。祖国が解放されベケットもイヨネスコもハヴェルもいなくなったその後

にも、ひとときも休むことなく遊動し問い続ける、抵抗する精神の証である。

(写真家、映像人類学者)

うか。

 「エグザイルズ」のシリーズには、その問いに対する答えがある。というよりも、これら

の作品がすなわちひとつの答えとなっている。それは彼の厳しい精神が、そうさせたの

だ。身ひとつで祖国を追われたクーデルカに残された道は、ひとつしかなかった。写真を

撮り続けること以外に生き延びる道は、なかったのである。その時点で彼の記憶にあっ

たもっとも重要な人間像は、祖国で抵抗する人間、そしてジプシーである。クーデルカ

は、自分の記憶に焼き付いた人間像に従うことを、どこかで意識したのではないだろう

か。

 「エグザイルズ」に含まれる写真をひとことで要約することは難しい。人間、風景、動

物とあらゆる要素が含まれており、モノクロームのトーンだけがそれらを統合している。

だが誰もがそこから、強い孤独感や疎外感を受け取るのは、写っているモノの中にクー

デルカの心の状態を感じてしまうからだろう。

 

その画面にはしばしば影が現れる。それは壁に落ちる影のこともあれば、正体不明

の人形や、テレビ画面に映る人

物のこともある。実体が何なのか

はわからないモノの影、あるいは

実体から取り残されてしまったよ

うなモノが、微妙なバランスで画

面に現れるのである。それは、た

とえば森山大道やリー・フリード

ランダーが撮る自分自身の影と

は異なる。鏡像的な影でもなけれ

ば思弁へ誘うような影でもない。

言ってみれば、人間から切り取ら

れて浮遊する、根無し草としての

影である。

 

亡命者の心をほんとうに理解す

ることは難しい。だがその影から、

亡命という状態を想像することは

できる。おそらく画面に現れる影

ジョセフ・クーデルカ 「エグザイルズ」より《ウェールズ、イギリス》1974年© Josef Koudelka / Magnum Photos

現代の眼 604_08_0124.indd 7現代の眼 604_08_0124.indd 7 14/01/27 16:0914/01/27 16:09プロセスシアンプロセスシアンプロセスマゼンタプロセスマゼンタプロセスイエロープロセスイエロープロセスブラックプロセスブラック

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Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Feb.-Mar. 2014] │ 8

「現代のプロダクトデザイン

│Ma

de

in J

ap

an

を生む」展

日本のものづくりを活かした

プロダクトデザイン

萩原修

会期:二〇一三年十一月一日│二〇一四年一月十三日 

会場:美術館ギャラリー4﹇二階﹈

 

展覧会「現代のプロダクトデザイン

│Mad

e in Jap

an

を生む」の会場には、日本全

国の様々な産地の製品が並んでいる。それらからは、伝統的な技術や素材、丁寧につく

られた手仕事の雰囲気を感じるとともに、精緻なデザインならではの実用的な造形美

があり、日本におけるプロダクトデザインの新しい潮流を垣間みることができる。もち

ろんそれらは、突然に生まれたわけではなく、時代の流れの中で様々な要因が重なって

社会の変化にあわせるように生まれてきた。

 

出品デザイナーである大治将典、小泉誠、城谷耕生、須藤玲子の四人は、それぞれに

仕事の中で、つくる現場を大事にして、時間をかけて産地やメーカーとの関係を再構築

することで、時代の変化に対応しながら、素晴らしい製品を生み出し世に送り出して

きた。また、センヌキデザインプロジェクトのメンバーである大治将典、小野里奈、増田

尚紀、山崎宏、山田佳一朗、吉田守孝の六人は、一緒にプロジェクトを立ち上げ、協力

しながら、デザイナー自らリスクを負ってものづくりに取り組み、販売まで手がけるこ

とで、依頼に頼らないデザインの方法を模索している。今後、彼等のような動きがます

ます増え、日本におけるものづくりのあり方が大きく変わり、日常的に使う良質な日用

品が広まっていくことに期待したい。

暮らしから考えるデザイン 

一九九四│九九年

 

僕が多くのデザイナーと接するようになったのは、一九九四年に新宿にできた「リビ

ングデザインセンターO

ZO

NE

」で、デザインに関する展覧会の企画をするようになった

からだ。十年間で、大小三〇〇以上の展覧会を担当する中で、千人以上のデザイナーと

出会った。建築、インテリア、プロダクト、グラフィックと様々なジャンルのデザイナー

と、これからの暮らしにおけるデザインについて考え提案する日々だった。ちょうどバブ

ル経済もはじけ、大量生産、大量消費、大量廃棄が見直され、自分たちの足元を見つめ

直し、地に足のついた等身大のデザインが求められていた。

 

数人のプロダクトデザイナーが大企業を飛び出し独立し、マーケットに対してどうし

たら売れるかのデザインではなく、デザイナー自身の感覚として自分が使いたくなるモ

ノをデザインし提案するような動きがはじまった。それまで、大学を卒業した優秀な人

の多くは、企業のインハウスデザイナーとして仕事し、家電製品、自動車など日本の工

業デザインを世界に広める役割の一旦を担ってきた。それはそれで重要なことだったの

だが、右肩上がりの経済成長にかげりが見え時代が変わっていく中で、デザイナー自身

が本当にいいと思うものをデザインするために、独立したデザイナーとして活動するこ

とがひとつの選択肢として現実的になってきた。

 

高度経済成長前の一九六〇年代の日本のデザインが見直され、柳宗理がふたたび脚

光を浴びたのもこの時期のことだ。建築の分野では、三十代の建築家が注目され、一

般の人が建築家に住宅のデザインを依頼することがブームになった。「デザイナーズマン

ション」や「デザイン家電」といった怪しげな言葉が雑誌を賑やかし、良くも悪くも「デ

ザイン」という言葉が誤解も含め、多くの人に浸透していった。

産地におけるデザイン 

二〇〇〇│〇四年

 

日本各地には、ものづくりの産地がたくさんある。それは、陶磁器、木工、漆、金属

加工、繊維、紙製品など、様々な素材や技術が集積している場所である。江戸時代か

ら続く伝統的な産地もあれば、明治以降、あるいは、戦後に生まれた産地もある。古

くからの産地は、時代の変化に対応しながら、自ら変化することで生き延びてきたと

ころもあれば、時代の変化についていけずに、後継者がいないことから衰退していっ

たところもある。明治以降の西欧化、近代化の中で、機械化、量産化されたものづく

りは、大きく変化してきた。それでも、伝統的な手仕事の良さを継承しながら、必要

な機械化、合理化をして、その価値を失わずに、差別化することで続いてきた産地も

ある。

現代の眼 604_08_0124.indd 8現代の眼 604_08_0124.indd 8 14/01/27 16:0914/01/27 16:09プロセスシアンプロセスシアンプロセスマゼンタプロセスマゼンタプロセスイエロープロセスイエロープロセスブラックプロセスブラック

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9 │ Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Feb.-Mar. 2014]

 

高度成長期やバブル経済期には、こうした伝統的な手仕事の延長線にある高額な商

品でも売れた時代があった。この時期にもデザイナーの多くが産地とのものづくりに取

り組むことになったが、デザイナーの作品づくりや話題性が先行して、「デザイナーがデ

ザインすると売れない」とまで言われた時代もあった。

 

こうした時代を経て、二〇〇〇年以降、ふたたび、そうした産地に出向き活動するデ

ザイナーが増えてきた。彼らは、日本の伝統的な素材や技術に興味を持ち、何よりもつ

くる現場から発想するデザインを重視する傾向がみてとれる。一過性の取り組みではな

く、時間をかけて、いいものをつくっていきたいという欲求が高い。芸術品ではなく、暮

らしの中で使える道具として、適正な価格で流通させたいという気持ちがある。こうし

たスタンスのデザイナーが産地との関係を築くことで、産地のデザインは、静かに変化

してきている。そして、これからも産地のメーカーとデザイナーによる様々な取り組みが

続いていくことになるのだろう。

海外からみる日本のデザイン 

二〇〇四│一〇年

 

二〇〇四年にリビングデザインセンターO

ZO

NE

を退社した後、国際交流基金が主

催し、パリ日本文化会館で開催された展覧会「W

A

│現代日本のデザインと調和の

精神」のキュレーターのひとりとして、二〇〇〇年以降を中心とする日本のプロダクト

デザインを一六一点紹介する機会を得た。二〇〇八年以降数年にわたり、この展覧会

の巡回に立ち会うかたちで、フランス、ドイツ、ポーランド、韓国の四カ所を回る機会

があった。各地で日本のプロダクトを並べてみて、来場者の反応を直に感じることで、

日本のデザインの特殊性みたいなものが実感をもってわかってきた。日本のプロダクト

のデザインにおける創意工夫と、精緻できめ細かいつくり込みは、どの国にいっても驚

かれる。と同時に、そのかたちは、どこか日本らしさをまとっているらしく、小ささや

かわいらしさ、削ぎ落とした形状やシンプルな構造など、独特にみえる点を指摘され

ることで、日本ではあたり前のことが、海外ではそうでないことを思い知ると同時に、

まだまだ、日本の現代の日常的なプロダクトが海外では、知られていないことを知る

のだった。

 

この時期、展覧会だけでなく、メーカーやデザイナーと一緒に、日本で企画・デザイン・

開発したプロダクトを海外の見本市で発表する機会もあり、ロシア、フランスに行くこ

とがあったが、ここでは、さらにリアルに現代の日本のプロダクトがどれだけ、世界に欲

しがられているのかを実感した。

 

これからますます、日本のものづくりを活かしたデザインが海外に広まっていくのだ

ろう。ことさらに日本らしさを意識するのではない、伝統や文化をきちんとふまえ、物

まねではない、日本のデザインがさらに花開こうとしている。

信頼関係から生まれるデザイン 

二〇一〇年以降

 

産地のメーカーは、戦後から切り盛りしてきた経営者や職人から、世代が変わりはじ

めている。三十代、四十代の若手の経営者も増えてきた。少し前まで、産地には、金儲

けが好きな経営者と頑固な職人がいるイメージがあったが、こうした若い世代は、デザ

インへの理解度が高い経営者も多く、「技術を持ったものづくりが好きな職人」と「セン

スを持った暮らしを知るデザイナー」が話し合いながら、デザインと品質を大事にして、

お互いを認め合って積極的にものづくりを進めている。

 

また、メーカーからの依頼で、デザインするだけでなく、メーカーとデザイナーがパー

トナーのようなかたちでプロジェクトを立ち上げ、推進するケースも増えている。ものを

つくるだけでなく、それをどうやって伝えていくのか、そして、どうやって売っていくの

かまできちんと考え、模索しながら進めていくことが大事になってきている。さらには、

デザイナーが自らリスクをもって、製品をつくり販売することもある。

 

時代の変化の中で、メーカーもデザイナーも社会全体の中でのものづくりやデザイン

の役割を考え直す必要に迫られている。既成のしくみを越えたところに何か新しい可

能性が潜んでいるようにみえる。インターネットの普及も流通のしくみを大きく変えて

いる。伝統的な技術と最新の技術が融合することから、新しいものが生まれる予感がす

る。産地にこだわらないものづくりが進んでいる反面、徹底的に産地にこだわることで

新しい動きが加速しそうな気もしている。「ものづくり」と「まちづくり」が同時並行で

進み、あたらしいタイプの観光と融合することで、消費地に売りにいくのではなく、生

産地に買いに来てもらう流れも再び起きはじめている。

 

混沌とした変化する社会の中で、日本のものづくりがどうなっていくのか。不安であ

りながら、楽しみでもある。結局は、人と人との信頼関係から生まれるデザインこそが、

これからも日本の社会をつくっていくのだと信じたい。全国各地のものづくりの技術

と、デザイナーが出会い融合することで、良質なものが広がり、もっと暮らしが豊かに

なっていく道筋がようやく見えはじめている。

(デザインディレクター)

現代の眼 604_08_0124.indd 9現代の眼 604_08_0124.indd 9 14/01/27 16:0914/01/27 16:09プロセスシアンプロセスシアンプロセスマゼンタプロセスマゼンタプロセスイエロープロセスイエロープロセスブラックプロセスブラック

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Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Feb.-Mar. 2014] │ 10

 

二〇〇三年より工芸館は主に夏休みの

時期にあわせ、来館者が自分なりの方法

で展覧会を楽しめるようなプログラムを

提供してきた。本稿は、二〇一三年六月二

十五日(火)から九月一日(日)まで開催さ

れた所蔵作品展「ボディ3」にて実施した

プログラムのうち、子どもを対象とした三

種を紹介し、それらの背景にある企画意

図と、参加者の姿を省みることで、工芸館

における鑑賞プログラムの成果と課題に

ついて検証するものとしたい。

ボディ×スタンプラリー(セルフガイド)

みんなでつくるボディ図鑑(ワークシート)

 「セルフガイド」とはその名の示すとお

り、それを片手に展覧会を見ることで展

示作品や展覧会に対する理解を深めた

り、みどころを見つけたりするリーフレッ

トで、多くの美術館で作成されている極

めてポピュラーな鑑賞ツールだ。工芸館で

はここ数年、いくつかの作品を選び、写真

とみどころを示唆するコメントを併せて掲

載し、それらをヒントに作品を探したり実

作品と照らし合わせる行為の中で鑑賞を

深めてもらえることを企図して制作して

きた。当館のこれまでのセルフガイドでは

多くの場合、作品の一部をクローズアップ

した写真を載せてきたが、今年はモノクロ

の全体図を採用してみた。部分写真と同

様に情報量を制限することで利用者の好

奇心を掻き立てるのが目的である。肉眼

(=フルカラー)でとらえる大量の情報から

モノクロームで供された情報の持ち主(作

品)を探すことで例年に比べ、より作品の

フォルムや人形のポーズ、着物に描かれた

文様の構図や配置に注目している姿が看

取された。一点における部分と全体とを

行ったり来たりしながら作品を同定、観

察するのがこれまでのアプローチとするな

らば、今年は画像と実作品、周囲の作品

と掲載作品を比較し、画像と作品とを一

致させた上で鑑賞に進んでいたようだ。ク

ローズアップやモノクロといった情報が選

択された写真は、会場では作品を探し、み

どころを観察するためのアイコンとなり、

使用後は記憶を呼び覚ます鍵となる。こ

の度のモノクロ写真の導入を通じ、改めて

画像の適切な選択について考えることで、

掲載作品のみどころと写真の特性とを精

査する必要性など、セルフガイド制作をと

らえ直す機会となった。

 

ワークシートは、参加者が皆に紹介し

たい作品を絵とコメントで表すもので、セ

ルフガイドとセットで配布。鑑賞のアウト

プットとして位置づけているが、作品をス

ケッチすることで更なる鑑賞/観察を促

すだけでなく、紹介したい理由の言語化

により、その作品を選んだ根拠を与え、自

らの鑑賞活動に客観性を持たせることを

励ますのが目的である。自分の成果を発

表すると同時に他者の活動も見られるよ

う、会期中会場エントランスで「みんなで

つくるボディ図鑑」と称して公開した。展

示同様に一枚一枚を味わう観覧者も年代

を問わず見られ、さながら子どもの眼に

より再構築された展覧会として、それら

は今では夏の工芸館の風物詩のひとつだ。

我々自身も彼らの切り口に驚かされ刺激

されることも多々あり、相互作用的なプロ

グラムとして成長してきたと感じた。

*配布対象:中学生以下(先着二千名)

親子でタッチ&トーク

こどもタッチ&トーク

 

これらふたつは工芸館における鑑賞プ

ログラムの核となる「タッチ&トーク」か

ら派生したものである。「親子でタッチ&

トーク」は様々な、作品や資料を手にとっ

て鑑賞できる「さわってみようコーナー」

と展示室での鑑賞との二パートで構成さ

れ、工芸館ガイドスタッフ(ボランティアス

タッフ)との対話を通じて進められる。二

齊藤佳代

動き続ける美術館を目指して

教育普及

「こどもタッチ&トーク」 さわった感想の共有。「こどもタッチ&トーク」 指差しながら発見を言語化。

現代の眼 604_08_0124.indd 10現代の眼 604_08_0124.indd 10 14/01/27 16:0914/01/27 16:09プロセスシアンプロセスシアンプロセスマゼンタプロセスマゼンタプロセスイエロープロセスイエロープロセスブラックプロセスブラック

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11 │ Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Feb.-Mar. 2014]

〇〇七年以降は一般と子どもの参加者が

いるグループを分けて案内し、難易度や

情報量はもとより、参加者の興味や理解

に沿うガイドを目指している。ここでは子

どもが鑑賞のリーダーとなることがしばし

ば起こるのが特徴的である。彼らの発言

に大人は驚かされ、気づかされ、そして視

点に誘われて作品の思いがけない魅力に

触れる。ばらばらな属性のグループがガイ

ドスタッフによるナビゲーションを通して

鑑賞が深まる様は、対話を通じたトーク

プログラムの醍醐味であるが、近年ではあ

えて「親子でタッチ&トーク」への参加を

希望する一般来館者が少なくないことか

らも、より多様な着眼点に基づいたグルー

プ鑑賞への期待が確認できるのではない

だろうか。

 

一方、二〇〇三年より行っている「こど

もタッチ&トーク」は未就学児を積極的に

受け入れるものとして早くから好評を得

てきた。ともすれば初めて親と離れる体

験ともなる本プログラムへの参加を通じ、

極めて短い時間の中で子どもが大きく成

長することに毎年驚かされる。タッチ&

トークに工作を加えたこれは、鑑賞(みる、

話す、さわる)と、つくる行為とが相互に働

きあうよう工芸館とガイドスタッフとの協

働によって内容が練り上げられる。企画

者の意図がストレートに伝わるか否かは

参加者の年齢からして難しいことではあ

るが、彼らは動き、話し、交わることで確

実に何かを体得していることはその姿を

見れば疑いの余地はない。

 

本年は自分の身体の長さや幅などをそ

のまま作品化する意味で、ベルトやブレス

レットなど身体の部位に巻き付けるもの

を紐状の素材を織ってつくった。経紐を

上下させつつ緯紐を右に左にはわせる動

作の蓄積によって紐が面になるという、あ

る種工芸的な理路を体で感じる姿が見ら

れたことは大きな収穫であった。

*親子でタッチ&トーク 

実施日:会期中の

水・土曜日午後二時│

*こどもタッチ&トーク 

対象:三歳│小学三年

生 

実施日:八月四、五、二十五、二十六日

ワークショップ 

ボディ×ファイバー

 

毎年作家を講師に招き本格的な制作体

験を提供するワークショップを小学校高学

年から中学生を対象に実施している。今

年はアーティストの川井由夏氏を迎え、テ

キスタイル作家としての氏の活動をボディ

という切り口で参加者に還元するとした

ら何が出来るかを考えた。その結果、羊

毛を使ってボディのかたちを転写すること

で身体の構造をとらえ直す活動になるこ

とを本年の目的とした。当日はウォーミン

グアップとして素材に親しむための活動

からスタート。拳にまきつけた羊毛をフェ

ルト化させるのだが、ウールを絡み付かせ

石鹸水と摩擦を加えると、ふんわりと綿

状だった羊毛がみる間に面になり、やがて

は固く縮んで拳を圧迫する。この素材の

変容に対して方々から驚きの声が上がり、

中には拳から抜くのが難しくなるほど夢

中に縮充を進行させた参加者もいた。あ

る程度素材に触れたタイミングで、講師よ

り素材のメカニズムについてのレクチャー

がある。フェルト化に関する羊毛にしかみ

られない構造を知るこの過程で彼らは自

分の体験を一旦客観視し、素材の仕組み

を理解することで、自身のつくり出した

イメージを膨らませ、創作へとつなげるの

だ。このように本格的な制作体験を提供

することの意味は、あくまでも素材の特性

を身体全体で知り、講師とのコミュニケー

ションを通じて素材や技法に関する論理

的な裏付けを得、両者を結び付けること

で自分なりの作品をつくること、即ち工芸

作品の成り立ちを体感することにある。

*対象:小学四年生│中学三年生(各回十二名、

抽選) 

実施日:七月二十一、二十二日

 

さて、ここまで本年の取り組みについて

触れてきたが、工芸館における〝教育普及〞

活動の一端が伝わっただろうか。今ここで

教育普及をカッコでくくったのは、個人的

にこの語に対する居心地の悪さからであ

る。筆者にとって美術館における学びは、

学校あるいは家庭などこれまで築いてきた

関係性から飛び出したものでありたい。日

常の関係性や物事の成り立ちを壊したり、

そうでなくても少し別の角度からみられる

ような、日常の語彙では表すことの難しい

仕掛けのようなものではないだろうか。工

芸館ではこうした活動を、何よりもまず工

芸/工芸館を楽しむためのツールとして設

定してきたが、それらの介入により作品を

鑑賞する行為の解体が促され、鑑賞者の

内に眠っていたかもしれないセンサーを呼

び覚ませられればと思う。作品に触れ、他

者に触れ、作者の思いに触れ、改めて自

分に戻った時に自分の中の何かが更新さ

れていたらと願う。日常における体験や知

識、感性と呼応しあい、触感を始めとした

あらゆる感覚を覚醒する工芸だからこそ

できるシステム形成を来館者の声に耳を

傾けながら、工芸館自体が変化し続けなが

ら目指していきたい。

(工芸課研究補佐員)

ワークショップ ボディ×ファイバー。 2人1組となり、羊毛のメカニズムを体感。

現代の眼 604_08_0124.indd 11現代の眼 604_08_0124.indd 11 14/01/27 16:0914/01/27 16:09プロセスシアンプロセスシアンプロセスマゼンタプロセスマゼンタプロセスイエロープロセスイエロープロセスブラックプロセスブラック

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Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Feb.-Mar. 2014] │ 12

新しいコレクション

奈良美智(1959-)《Harmless Kitty》

1994年アクリリック・綿布150.0×140.0cm平成25年度購入─© NARA Yoshitomo

奈良美智

《Ha

rmle

ss Kitty

奈良がドイツのケルンにアトリエ

を構えていた頃の作品です。猫

の着ぐるみを着た

│と、とりあえずは

言っておきます

│子どもが、おまるに

座ってこちらを見ています。いや、視線は

ちょっとだけ上の方向にずれているようで

しょうか。

 

タイトルのうちH

armless

は「悪意や罪

のない」とか「いたいけな」を意味し、Kitty

の方は「子猫ちゃん」を意味します。この

作品の裏面には奈良自身による書き込み

があって、そこからタイトルが「H

armless

Kitty

Bo

y

」「Do

n’t m

ind

Kitty

Bo

y

「Harm

less Kitty

」と変わっていったことが

わかります。最終的に「B

oy

」がなくなって

いるのがポイントです。

 

実は、この頃の奈良の作品には、おかっ

ぱ頭でスカートをはいた子どもがしばしば

登場するのですが、そのことについて彼は

こう話しています。「それはたぶん、バラ

ンスの問題じゃないかな。髪型でいろんな

ヴァリエーションができるじゃない。でも、

僕はこれを女の子だと思って描いてるわ

けじゃない。中性だと思って描いている。

というか、子どもと思って描いてる」(『美

術手帖』一九九八年四月号、一三一頁)。

 

この作品では、着ぐるみのおかげで髪

型を描く必要性がなくなっています。つま

り、中性的な存在であることを強調する

ことができているのです。しかも、同時に、

まなざしをより際立たせることにも成功

しています。ただ、着ぐるみやおまるとい

うのがいささか非日常的ではありますが。

少なくとも、大人にとっては。

 

いや、ひょっとしたら、これは着ぐるみな

どではないのかもしれません。そう思って見

れば、おまるに座っているのに何も脱いで

ないことの合点がいきます(もちろん、ただ

座っているだけという可能性もあります)。つま

り、想像力をたくましくすれば、ここに描

かれているのは、人間の子どもでもなけれ

ば動物でもない、あるいは人間の子どもで

もあり動物でもある、そんな特別な存在な

のではないかと考えることもできるのです。

 

どちらにしても、そうした存在を現実の

世の中に見ることはできません。多分でき

ません。でも、そうした存在を考えること

はできます。もっと言えば、そうした存在

を考えることは、人間が生きていく際に、

重要なことであり続けてきました。かつ

て、天使や菩薩といった存在が生まれた

ように。実際、八〇年代の奈良は、天使的

なモチーフを描いています。

 

この作品は四月六日まで、「M

OM

AT

レクション」展に展示されます。しかも、収

蔵を祝って、H

armless

な子どもを描いた

日本近代美術史上の代表作、岸田劉生の

《麗子五歳之像》(一九一八)と並べますの

で、どうぞお見逃しなく。

(美術課主任研究員 

保坂健二朗)

現代の眼 604_08_0124.indd 12現代の眼 604_08_0124.indd 12 14/01/27 16:0914/01/27 16:09プロセスシアンプロセスシアンプロセスマゼンタプロセスマゼンタプロセスイエロープロセスイエロープロセスブラックプロセスブラック

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13 │ Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Feb.-Mar. 2014]

新しいコレクション

二十代堆朱楊成(1880 -1952)《彫漆六華式平卓》

1915年漆高さ 11.5, 径 37.6cm

平成24年度購入

二十代堆朱楊成

《彫漆六華式平卓》

本作《彫

ちょう

漆しつ

六りっ

華か

式しき

平ひら

卓しょく》は、六弁の

花びら形をした天板を持つ卓し

ょく

で、

重厚感に溢れた作品です。全体は、漆を

何千回と塗り重ね厚い層にして、そこに

模様を彫り込んでいく彫漆という技法で

装飾されています。通常漆は百回塗って

ようやく厚さ三ミリになると言われ、こう

して塗り重ねられた漆はずっしりと重く

なります。本作も例外ではなく、一番下に

朱色、次に黒、朱、黒、黄、黒、朱、緑、朱、

黒と異なる色の層を重ね(全十層)、素材

の重みが見た目に結びついています。

 

しかし、こうした物理的な要因以外に

も、この重厚感には理由がありそうです。

天板中央の丸い縁取りの中に黒漆で表さ

れているのは、向かい合う双龍。そのまわ

りには、獅子や孔雀といった六種の鳥獣

が同じく一対で表され、背景は葡萄の実

のついた唐草文で埋め尽くされています。

いずれも美術工芸の長い歴史のなかで好

まれてきたモチーフです。とりわけ茶の湯

の世界では、和物に対する唐物の重厚感

を演出するものとして用いられます。

 

作者の二十代堆つ

朱しゅ

楊よう

成ぜい(

一八八〇│一九

五二)は、代々彫漆を家業とする家に生ま

れました。初代楊成は、室町時代、中国か

ら渡来した堆朱彫を模倣制作しその出来

が素晴らしかったことから、賞賛され、我

が国における堆朱彫の元祖となったとい

われています。その技は連綿と受け継が

れ幕末に至りますが、明治の政変後は一

時中断を余儀なくされます。二十代の兄、

十九代楊成が家業を再興するも夭折。二

十代は、兄の意志を継ぎ、大正から昭和に

かけて数々の充実した作品を残しました。

本作の重厚さが、唐物趣味を如実に反映

した部分に多くを負っているとすれば、そ

れは二十代がまさに五百年におよぶ先祖

伝来の技を正統に受け継いでいる証です。

 

黒漆を基調として異なる色の漆の層を

彫りの断面に見せる「黒く

金きん

糸し

」と呼ばれる

手法に、「紅こ

花か

緑りょく

葉よう

」(花の部分を朱漆、葉の

部分を緑漆になるよう彫り表した彫彩漆技法)

を併用して、モチーフを巧みに色分けする

など、伝統技法を自在に使いこなしている

様子が本作からもうかがわれます。

 

一方で、二十代は渡来品の写し物を嫌

い、創作性を重視したことでも知られて

います。刀を漆面に垂直に深く彫り込み、

モチーフをシャープに浮き出させるスタイ

ルは、中国伝来の堆朱、堆黒作品との違

いを際立たせるため、二十代が特にこだ

わった点でした。彫技を明治の彫刻家・石

川光明に学んだ二十代は、写実性を作品

に取り込もうとするなど、近代の創作精

神にのっとって制作を進めました。家業の

存続と創作の狭間で制作にあたった二十

代堆朱楊成の気迫が、この作品に一層の

重みを与えているようです。

(工芸課主任研究員 

北村仁美)

現代の眼 604_08_0124.indd 13現代の眼 604_08_0124.indd 13 14/01/27 16:0914/01/27 16:09プロセスシアンプロセスシアンプロセスマゼンタプロセスマゼンタプロセスイエロープロセスイエロープロセスブラックプロセスブラック

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Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Feb.-Mar. 2014] │ 14

 

江戸小紋という名称は、小宮康こ

助すけ(

一八

八二│一九六一)を一九五五(昭和三十)年

に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認

定する際、命名され誕生した。文様や技

法が多様化し、意味や解釈が広がってい

た小紋染の仕事の中で、江戸時代からの

技法や模様を受け継ぐものを江戸小紋と

して区別したのである。小宮は、様々な小

紋の中から江戸時代に武家の間で流行し

発展した裃

かみしも

の小紋柄に着目し、合成染料

による色糊を用いて地色を染める「しご

き」の技法を実用化して、極めて精緻で風

格ある作品を生み出していった。《清せ

雅が

地じ

江戸小紋着物

極ごく

鮫ざめ

》﹇図1﹈は、同じく一

九五五年に重要無形文化財「伊勢型紙

錐きり

彫ぼり

」保持者の認定を受けた型彫師の六ろ

谷たに

紀き

久く

男お

(一九〇七│七三)と小宮が、その認

定を機に最も難しい柄のひとつとされる

「極鮫」にあらためて挑み、約五十年ぶり

に完成した型紙を用いてつくり上げた作

品である﹇註1﹈。

 

江戸小紋は、和紙を柿渋で加工した型

地紙に文様を彫り抜いた「型紙」を用い

て、細かく精緻な文様を単色で表現する

型染の技法を用いた染めものである。そ

れは型紙を作るための紙漉きや、型紙に

強度をもたらすための渋加工、微細な文

様を彫る型彫り、そして染めの工程では

防染と着色のための糊作り、糊を型紙の

上から篦へ

で生地に塗布していく型付け、

染めなど、多くの職人技術の集積により

構築されている。どの工程にも勘や経験、

熟練した技が必要だが、特に型彫りと型

付けが難しい仕事とされている。型彫師

には、染め上がりをも想定した精緻な彫

りを施すことが求められ、型付師において

は微塵の狂いもなく生地に型を配置し、

そして型をずらさないよう、且つ染め際が

ぼやけないように糊を置く技量が求めら

れる。型がいい加減であれば、それは後に

何十反の染め傷となってしまい、また、ど

んなに優れた型であっても型付けの技術

が伴わなければ柄の狂いや染めむらを起

こし、型の良さを発揮することはできな

い。小紋の仕事において型彫師と型付師

は特に密接な関係にあり、相互する技の

緊張によって巧緻な技術が生まれ、精緻

極まる作品がつくり出されているのであ

る。そしてその仕事が精巧化し、技術的に

大きな進展を見せたのは、小紋が盛んに

用いられるようになった江戸時代と、染織

の分野で改良進歩が行われた明治、大正

時代にかけてのことであった。

 

礼服としての裃に小紋を着用した江戸

時代の諸大名たちは、他藩の大名に対す

る衣服への気遣いから好みの小紋柄を染

めさせ、そのニーズにあわせるかのように

新しい柄がつぎつぎに生み出された。やが

て大名らは独自に技巧を凝らした特定の

小紋柄を占有し、「留め柄」または「定め小

紋」と称して他家でその柄を使用するこ

とを禁じた。「定め小紋」には、徳川家(御お

召めし

十じゅう)、紀州徳川家(極ごく

鮫ざめ

)、加賀前田家(菊きく

菱びし

)などがある。江戸末期から明治にかけ

ては、特に細かい小紋が流行し職人の間

でその技が競われていたという。「定め小

紋」は家紋の結晶を意味し、大名たちはそ

こに品格と精緻さを求めた。職人達もそ

の「定め小紋」を手がける栄誉を獲得しよ

うと技術の競い合いが行われ、その結果、

技の極地とも言える柄が生み出されて

いったであろうことは想像に難くない。明

治以降、廃藩とともにこうした定めは消

え、一般の着物の柄にも自由に取り入れ

られるようになった。*

 

一八九四(明治二十七)年、小宮は十三歳

で浅草象き

潟かた

町の若松屋という小紋の型付

屋に弟子入り奉公をし、染織の世界に足

を踏み入れた。当主の浅野茂十郎は型付

師の間で名人として知られ、他にも優れた

職人が揃っていたという。初めは、主にゆ

かた地に用いられる中形の型付けを学び、

後に中形よりも技術を要する小紋の型付

けを学んだ。明治維新後の服装の改正で

裃が廃止され、中形が全盛の時代で小紋

を手がける職人が減少していた中、小宮は

「最も手間のかかるものをすれば仕事がな

くなることは無い」と考え、後に関東大震

災や戦争などの動乱、人々の生活スタイル

の変化により幾度となくその継続が難し

い状況に陥った中でも、ひたすらに小紋の

仕事に向き合っていった。二十一歳で年季

奉公が終わると、小紋の研究のために東

京および近県の小紋屋へ修行に出る。当

時はよい技術を持ってさえいればどこでも

仕事ができるという渡職人のシステムがあ

り、型付師は自分の竹て

篦べら

を持参して各板

場をまわって修行をし、小紋屋は宿泊場

所や食事を与えて職人を迎え入れていた。

その仕事ぶりは一目置かれ、難しい型付け

の仕事が入ると小宮に注文が来るように

なり、その後一九〇七(明治四十)年に独立

内藤裕子

小宮康助《清雅地江戸小紋着物

極鮫》について

作品研究

現代の眼 604_08_0124.indd 14現代の眼 604_08_0124.indd 14 14/01/27 16:0914/01/27 16:09プロセスシアンプロセスシアンプロセスマゼンタプロセスマゼンタプロセスイエロープロセスイエロープロセスブラックプロセスブラック

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15 │ Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Feb.-Mar. 2014]

して浅草で開業し、当初は京都の型彫屋

から型紙を取り寄せ、小宮が得意として

いた精緻な極柄の小紋と長板中形を専業

としていた。そして、独立を機に明治三十

年代から東京にも普及しはじめた合成染

料を用いて、奉公中からはじめていた染色

の研究を本格的に手がけていく。その狙い

は、褪色しやすい植物染料にかわる染めの

改良と、型付けの仕事だけに飽き足らな

かった小宮の、型付けと染めの分業体制を

改革して両者を兼ねた染物屋を確立した

いという思いからであった﹇註2﹈。

 

日本に合成染料がもたらされた明治初

期には、まず紅、赤、紫色の染料が京都

に輸入され、かつて見たこともないその鮮

やかな美しさは、従来の渋い植物染料の

色になれた眼には大変な魅力であったと

いう。合成染料は植物染料に比べ簡便に

染め出すことができたためすぐさま全国

に普及し、京都の広瀬治助は文様と地色

を同時に染めることを可能とした写し糊

を開発する。小宮が型付けを始めた頃は、

植物染料を用いて生地の地色を刷毛で染

めていたが、この写し糊にヒントを得て、

型付け後の生地の上に合成染料を混ぜた

色糊を塗布して地色を染める「しごき」の

技法を取り入れることに成功し、型付け

から地染めまでを自ら一貫して行うこと

が可能となった。「しごき」は、型付けした

糊を傷めないよう、平坦に、均一に色糊を

塗らないと染むらが起こり、厚く塗りす

ぎると余分な染料や水分が柄に染み込ん

でしまい、反対に薄ければ、柄がはっきり

と染まらない。型付け同様、細心の注意

と技が必要とされる。そして、植物染料で

の染めは、藍や茶、グレーなど、ごく限ら

れた淡い色調のものであったが、「しごき」

によって自由な色を表現することが可能

となり、いままでにない色彩の小紋が生み

出されていった。合成染料の実用化という

小宮が成し得た改革は、確かな技術を基

にして時代の流れに即した新しい感覚の

小紋をつくり出し、古くからある型紙と

糊、そして新しい合成染料という材料を

組み合わせて小紋の仕事を新しいステー

ジへといざなったのである。

 

こうした改革とともに、小宮は自身の

仕事と不可分の関係にある型紙の保存と

復元に力を注ぎ、生涯のライフワークとし

た。「型さえ残せば、小紋は誰かがやる」を

口癖にし、古い型紙を金銭惜しまずに買

い集め、後々の役に立つようにと保存し

た。型紙は、生地一反分の柄を染め終わ

ると、保存のために型付けで用いた糊が

乾かないうちに何回となく水洗いし染料

や糊を落とす。柿渋で補強してあるとは

いえ、元来は紙であるため使用に伴う傷

みが出てくるもので、型の寿命はよい型で

あれば百反分、特別なものでは十反分で

使えなくなるものもあるという。つまり型

紙は消耗品であり、新たに製作していく

必要がある。型彫りの仕事が途絶えれば

型ができず染めもできなくなり、また彫り

の技術が低下すれば、染めものの質も低

下する。小宮は収集した型紙の優品を手

本に新たな製作を定期的に依頼すること

で、型紙の仕事そして技術の廃絶を防い

だのである。小宮自身、関東大震災での火

災で型紙を失い、新たに蒐集するため一

年ほどかけて地方を巡ったが、型彫師は

伊勢と京都に数人残るだけとなっており

入手までには苦労があったという。その後

も戦災などで幾度となく型紙を失う経験

をしている。型紙を蒐集することは、まず

は目先の仕事を行うために必要だったで

あろうが、過去の優れた型紙が失われる

ことへの危機感と、技術の機械化や技法

の合理化が進められる社会や経済の変化

の中で型彫師の減少と質の低下の状況を

肌で感じ、技を守り伝える一つの方法で

あることを見出したのであろう。以後、小

宮は縞し

彫ぼり

で知られた児玉清(人間国宝)、錐き

彫ぼり

の六谷紀久男らに型紙製作を依頼し、

図1 小宮康助《清雅地江戸小紋着物 極鮫》部分 1958年絹、型染 156.0×124.0cm 東京国立近代美術館蔵

現代の眼 604_08_0124.indd 15現代の眼 604_08_0124.indd 15 14/01/27 16:0914/01/27 16:09プロセスシアンプロセスシアンプロセスマゼンタプロセスマゼンタプロセスイエロープロセスイエロープロセスブラックプロセスブラック

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技の共同構築に努めていった。

 

六谷紀久男は、錐彫の中でも精緻な鮫

小紋や通し小紋の研究を行い、その名手

と知られていた。錐彫は、ごく薄い鋼を半

円形に曲げた針のように細い錐により、微

細な点の並びで文様をあらわす伊勢型紙

の彫りの中でも古くからある技法のひと

つである。錐彫による柄の中で、鮫皮を文

様化し点を並べて円弧形に重ねて構成し

た「鮫」、斜めにはしる点からなる「行儀」、

縦横均等に並ぶ点からなる「通し」は、格

調の高い柄として「小紋三役」と言われ、

最も密度があり細かいものは「極」と呼ば

れ、「極鮫」﹇図2﹈「極行儀」﹇図3﹈「極通し」

﹇図4﹈は一見すると無地に限りなく近い

が、近づいてみると粒の一つ一つが乱れ無

く整然とし、ただ細かいだけではない繊細

さと精美な味わいがある。その中でも「極

鮫」は、図柄の割り出しの方法は不可解と

されており、彫りを行う際には過去の型紙

を転写して原型にすることが多いという。

着物地に染め上げられた極鮫に視線を落

とすと、完全に計算し尽くされた精緻な

割付文様に見えながらわずかな揺らぎが

見られ、しかしそれが乱れにはなっておら

ず全体を不思議な秩序に導いている。そ

れは無限に広がる水のようにも、増殖する

生命体のようにも見え、もっと有機的な文

様のようである。父・康助の伝統を継承し

て一九七八(昭和五十三)年人間国宝となっ

た小宮康孝は「極鮫」について、「昔の人が

なぜこんな細かい柄を精魂込めてやるのか

理解できなかったが、型彫師は眼にも気持

ちにもさわらない無を求めて、こんな小紋

が生まれたのではないか。自分で染めた極

鮫の粒を眼で追っていると、非常に美しい

無限の宇宙を表現する小紋ができあがる

のだと感じた」﹇註1﹈という。

 

あくまでも点の連続性をもとにしている

鮫紋は、一見単純な模様に見えるが、最も

細かいとされる「極鮫」の文様には一寸角

のサイズの中に九百近い点が施されてお

り、一枚の型紙には六万以上もの点を彫る

計算になる。気の遠くなるような仕事に錐

一本で挑むことは、技術力はもちろんのこ

と、持久力、集中力、そしてそれを支える

精神力が必要とされる。こうした鮫小紋の

仕事は身を削るような苦労の割にその手

間が理解されにくく、型彫師らは敬遠して

いた。小宮康助は、手がける職人がいなく

なっていた「極鮫」の型紙の製作を、戦前

戦後、六谷に幾度となく依頼していたが完

成には至らず、人間国宝の認定をきっかけ

に、あらためて依頼をした。小紋の神髄は

細かさに挑むことであるとした小宮は、難

しい染めに生涯情熱を傾けたが、江戸小紋

の極地のひとつとも言える「極鮫」に向き

合うことで、自身の仕事の到達点を形にし

後世にしめそうとしたのではないだろうか。

小紋の仕事は、質を落とさずにその技を継

承するだけでも大変な修行を必要とする

ものである。小宮が成し得た小紋の仕事の

改革からは、新しい時代にふさわしいもの

をつくり、時代の変化に挑もうとする姿勢

を感じるのである。

(工芸課客員研究員)

註1

小宮康孝ギャラリートーク「現代の型染

くりかえすパターン」東京国立近代美術館工芸

館、一九九四年一月十五日。

2

小宮康助「江戸小紋と共に」『日本工藝』第十

八号、芸艸堂、一九五七年五月。

図3 小宮康助《清雅地江戸小紋着物 極行儀》部分 1958年 東京国立近代美術館蔵

図4 小宮康助《清雅地江戸小紋着物 極通し》部分 1958年 東京国立近代美術館蔵

図2 図1小宮康助《清雅地江戸小紋着物 極鮫》部分

2014年 2月1日発行 (隔月1日発行) 現代の眼 604号編集:独立行政法人国立美術館 東京国立近代美術館/美術出版社制作:美術出版社発行:独立行政法人国立美術館 東京国立近代美術館

〒102 -8 322 東京都千代田区北の丸公園 3-1 電話 03(3214)2561

表紙:工藤哲巳 ハプニング「インポ哲学」ブーローニュ映画撮影所(パリ)1963年 2月 撮影:工藤弘子 ©ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2013

お詫びと訂正:本誌 603号、8頁、図 1の内容に一部誤りがございました。「1801年の」→「1881年の」 訂正してお詫びいたします。

次号予告 2014年4- 5月号 4月1日刊行予定

605映画をめぐる美術─ マルセル・ブロータースから始める/所蔵作品展 花Review

あなたの肖像─ 工藤哲巳回顧展/泥とジェリー

東京国立近代美術館賛助会員 (MOMATメンバーズ)

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