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Meiji University Title �-Author(s) �,Citation �, 6: 47-59 URL http://hdl.handle.net/10291/13278 Rights Issue Date 1997-03-20 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

処女会組織化の理念 - 明治大学...処女会と婦人会を分けた「結婚」という線 引きを考えるとき,鍵となる概念は「処女」 である。この概念にむけて,本稿では,1920

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Page 1: 処女会組織化の理念 - 明治大学...処女会と婦人会を分けた「結婚」という線 引きを考えるとき,鍵となる概念は「処女」 である。この概念にむけて,本稿では,1920

Meiji University

 

Title 処女会組織化の理念-セクシュアリティの装置

Author(s) 平川,景子

Citation 明治大学社会教育主事課程年報, 6: 47-59

URL http://hdl.handle.net/10291/13278

Rights

Issue Date 1997-03-20

Text version publisher

Type Departmental Bulletin Paper

DOI

                           https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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処女会組織化の理念

一セクシュアリティの装置一

平 川 景 子

はじめに

 今世紀の初頭,日本の各地で処女会という

未婚の女性たちの組織がつくられた。いま高

齢を迎えた女性にうかがうと,なつかしそう

に,あるいは,そういえばそんな活動もあっ

たというように,語りだす方が少なくない。

女子青年・女子消防と呼んだ地域もあったと

いわれるが,処女会という名称で記憶してい

る人もいる。中央組織としての処女会中央部

は1927年に大日本連合女子青年団に改組する

が,いくつかの地域では地方組織としての処

女会がその後も村の娘たちの記憶に残る活動

をしていた。

 処女会は,現代のわたしたちにとって青年

団や婦人会に比べるとなじみのない組織とい

うだけでなく,「処女」という言葉自体ひっ

かかりのある言葉だ。公的な組織名に掲げら

れたこの言葉は,本来秘められているはずの

性的な言説なのだ。処女・貞操・童貞などと

いう言葉が「いずれもかなり死語に近くなっ    *ユている」 というみかたもあるが,性の経験

の有無,とりわけ女性の性の経験の有無を問

う価値基準は,いまもわたしたちに何らかの

リアリティや道徳的な記憶を呼び覚ます。

 処女会組織化の最初を担った内務官僚天野

藤男は,「処女」の語にこだわり,「露骨なよ

うであるが,名称其物が既に一種の制裁と権                  *2威を有ってゐるとも解されるのである」 と

した。処女会の名称に「処女」という言葉が

採用されたとき,この語に込められた意味と

社会的に了解された内容は,どのようなこと

だったのだろうか。

 古庄ゆき子氏は「『処女』性はまったく個

人の領域に属することでありながら,単に生

理の問題ではなく,今日なおつづいている私

有財産制社会…(中略)…とりわけ敗戦まで

の家父長制家族制度下では強力な社会的徳目

なのであり,それ故に処女会指導者を通じて

国家権力は長く娘たちの人格支配を行ってき  *3た」 とみる。それでは,処女性はどのよう

にして,国家・社会の要請する道徳律たり得

たのだろうか。またそれは,古庄氏の指摘の

ように,通歴史的な概念だろうか。「処女」は,

現代のわたしたちにとってどのような意味を

もつ言葉なのだろうか。

 戦前の社会教育は,官府的民衆教化・農村

農民教化中心・非施設団体中心主義・青年教     *4育への偏埼 といった特質を指摘されてい

る。そして,戦前の社会教育団体としては,

女性の団体は未婚者の処女会(女子青年団)

と既婚者の婦人会という二つの組織があっ

た。男性が青年団だけであったことと比べる

と,女性の団体には「結婚」を画期として処

女会・婦人会の区別があったことは,男女の

非対称を示している。

 儒教思想・教育勅語体制下での厳然たる男

女別学は,義務教育の学級編成と,中等教育

以降を複線型教育体系とした学制(処女会組

識化の頃,1919年施行の学制では,高等女学

校・女子高等師範以外に女性の進学の道はな

かった)に貫かれた。こうした学校教育の別

学思想の引き写しとして,青年期の社会教育

団体が「当然に」男女別に組織されたことは

一47一

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想像に難くない。

 青年「団」に対し処女「会」とした違いも,

意図的なものであった。社会教育論者の山本

瀧之助は「青年團の中心は意志である。意志

は團結に依って養われ,團結に於って(ママ)

昂められる。庭女會の方は感情である。感情           5の火元は家庭にある」 と,処女会を家庭に

擬して「團は如何にも…封抗を意味して男性

的らしい。庭女會は會組織であって,其の名

稽の如きも庭女會といった方が穏當らしう思   *6へる」 としている。このように,青年期民

衆を集団化し組織する目的意識は,男女に違

いがあった。目的の相違に従い活動内容もま

た,処女会は裁縫・料理講習など男性の青年

団と異なるカリキュラムが組まれていた。

 男女別組織は当時の「常識」であり,その

後の政策・実践の諸研究もそれを裏づけるも

のだが,女性の団体として処女会(女子青年

団)と婦人会の二組織をもったこと,未婚・

既婚の別をもったことの解明は,必ずしも充

分でない。先行研究では,処女会の教育思想

における女性性にかかわる価値観を一括して

〈良妻賢母主義思想〉としてとらえてきた。

筆者の前稿において,「『処女性』は『母性』

の準備段階」ないし「コインの両面としての    *7性規範」 と,処女性と母性をほぼ同一視し

ていることもその枠をでない。しかし,女性

一般から〈青年期の女性〉を特化した理由に

むけて,「処女性」と「母性」という概念を

文節化して考える必要がある。〈青年期の女

性〉にたいする良妻賢母主義の教育は,女性

一般を対象とする組織のなかでも可能だった

はずだ。既婚婦人と別組織を必要とした理由

は他にあったのではないか。

 この問題を考えようとするとき,一つの鍵

となるのは,なぜそれがこの時期に行われた

のかという,時代状況の理解にあるように思

う。処女会中央部の設立は1918年である。明

治以降の国家体制・産業の近代化が基盤の確

立をみ,思想的には大正デモクラシーと呼ば

れる西欧近代の思潮の洗礼を受けていた時

代,『青轄』誌上等でのちにフェミニズム第

一波と呼ばれる諸論が展開した時代である。

 処女会と婦人会を分けた「結婚」という線

引きを考えるとき,鍵となる概念は「処女」

である。この概念にむけて,本稿では,1920

年前後のセクシュアリティと近代科学・とく

に身体にかかわる言説に注目したい。戦間期,

青年期の女性の身体・自己認識は,新たな価

値観をともなって再構成されたのではなかろ

うか。

1 社会教育史研究としての問題構制

一大正デモクラシーとファシズムの架橋

①体制による女性の掌握一家父長制と国家

主義の相克一

 国家の主導により処女会という団体が各地

につくられ全国組織となっていくにあたっ

て,どのような目的意識がはたらいていたの

か。社会教育の分野では,政策研究,とりわ

け内務・文部官僚を主とした社会教育論者の

処女会論の検討を通して,国家的組織化の目

的をめぐって〈社会対策的側面〉が注目され

てきた。

 千野陽一氏は,第一次世界大戦・米騒動・

大正デモクラシー期の思想と運動の状況・婦

人の労働者化・女子教育の普及・女性ジャー

ナリズム(雑誌等)の活況といった当時の社

会情勢にたいし,「新たな婦人対策展開」が

求められたとしている。そして,①先進諸

国間の競争に勝利するため,婦人の活動を家

庭内に限ってきた儒教主義的婦人観を国家主

義的立場から補強・修正する②社会主

義・婦人解放などの思想・運動の波及から婦

人を隔絶する③①②とからみあいなが

ら,伝統的婦人観の維持・強化の強い要求に       *8応えるという課題が認識され,国家による

処女会組織化が政策化されたとする。そのひ

とつが,女子教育の基本的な目的を「家父長

的家族制度の維持強化が要求する伝統的な婦

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人観を,国家主義的な文脈から補強しつつ,                 *9女子教育の基本方針をさだめること」 にお

いた臨時教育会議答申「女子教育二関スル件」

(1918年)であり,いまひとつが女子青年団

に関する内務・文部大臣「訓令」(1926年)

である。

 ここでいう 〈社会対策的側面〉は,伝統的

家族主義(儒教主義的婦人敗)と近代的国家

主義(女性に「国民としての自覚」を求める)            *1oという「矛盾する諸要求」 の並存・葛藤す

る状態としてとらえられている。いわば,封

建遺制と近代化の相克として,処女会組織化

のプロセスが説明されている。

 1980年代前半までの諸研究は,この認識に        *11立つものが多い。 井上恵美子氏は,基本的

に上述の視点から,女工の労働争議対策を視

野に入れつつ,政策側(内務官僚天野藤男・

田子一民,文部官僚片岡重助)の処女会論を

検討し,「天野藤男が『共同体』に,そして,

田子一民が『家』に女性をしばりつけておこ

うとしたのに対し,片岡は,国家と個人を直           *12接結びつけたのである」 と分析を進めてい

る。

 これらの研究は,前近代一近代の対置ない

し歴史的展開という基本的な枠組みをもって

いる。この枠組みのなかでは,「家」に縛ら

れていた女性は近代に入ってあらたに「国家」

との関係を求められる。処女会活動のなかで,

近代的価値観を経験し,デモクラシー思潮が

媒介した解放の幻想と引き替えに,近代国家

との〈契約〉(=国民としての自覚)を結び,

ファシズムのなかで結果として翼賛体制にか         *13らめとられていく。 青年期の女性たちに

とって,処女会の集団活動が大正デモクラ

シーからファシズムへつながる架橋としての

役割をはたした。

 こうした歴史理解は,戦後の社会教育それ             *14自体が,戦前の「上からの」 組織化の否定

を出発点として「下からの」民主化をめざす

というパラダイムをもち,「組織化の主体」          *ユらを「第一義的に重要」 な問題とする課題意

識をもってきたこととかかわっている。この

ような研究視角のなかで,戦前の処女会・女

子青年団の〈国家による〉組織化の問題性が

重くとらえられ,相対的に女性の主体性は見

いだし難いものとされるか,あるいはファシ

ズムへの〈自発的服従〉として総括される。

 このように,処女会の組織化は,のちのファ

シズムにつながる近代国民国家の形成との関

連で理解されてきた。しかし,小山静子氏は,

第一次世界大戦後の女子教育思想について,

こうした見方に疑問を投げかける。

  「わたしには,このような国体観念の酒

  養の強調,伝統的な女性の強化という総

  括の仕方ではたして十分なのだろうか,

  という疑問がある。というのは,この当

  時の女子教育論を読んでいくと,婦徳や

  国体観念の酒養といったイデオロギー的

  な側面からの発言はほとんどなく,第一

  次大戦後の社会にふさわしい,もっと新

  しい女性観が積極的に模索されていった              *16  ことがわかるからである。」

 小山氏の「新しい女性観の模索」の時代と

いうみかたに学ぶと,国家主義・家族主義以

外の視点から,青年期女性の組織化の軸と

なった,「処女」概念を再考することができ

るのではないか。良妻賢母の準備段階として

だけではない,「処女」の意味を検討するこ

とは,婦人会以外に未婚女性の組織化をめざ

した政策意図の解明にもつながるのではなか

ろうか。

②処女会の「自治」・「修養」

 このような処女会組織化の理解を「体制側          *ユ7からの女性掌握の過程」 として,むしろ「下

からの」自発性に注目する視点が,1980年代

後半の研究傾向にみられる。それらは,民衆

史・社会史への志向を伴って,社会教育論者

の自己形成史や地域処女会の実態の究明,機

関紙「処女の友」の分析など,おもにミクロ

な視座に立つものである。

 例えば,処女会の父と呼ばれた天野藤男の

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教育思想をめぐって,処女会の組織形態を部

落・郡単位とし,村以上の連合体を否定した

点などを評価して,男子の青年団と同様の農

村自治の一貫として位置づける,野田久美子    *l8氏の理解がある。

 そのような「自治」の評価の一方で,渡邊

洋子氏は,天野の「公民の妻」育成に注目し,

地方改良運動遂行や農村女子の離村防止・思

想対策の側面を前提としつつ,次のように指

摘する。

   「青年団で青年男子の指導効果をあげ

  るのに団体としての女子の存在の必要性

  を痛感したことが,天野にとっては最も

  大きな動機であったろう。かれは,農村

  女子の『愛郷土着』を通じて農村青年男

  子の『愛郷心』を培おうとした。同時に,

  女子が『良兵良民』を好むように導くこ

  とで,女子の視線を意識しながら行動す

  る青年期男子を間接的に支配して指導効                 *19  果をあげようと,かれは考えた。」

 渡邊氏自身は「天野は家庭・女性の領域に

着目することによって,当時のこの『公民』

形成の停滞状況を農民生活の内側から打開す         *2oることをめざした」 として,公民教育推進

という点で男女の青年への期待を同一軌条に

見ているように思われるが,むしろ先の指摘

のなかでは,農村自治において男性と女性に

期待される役割の〈差異〉こそが重要である。

渡邊氏の分析に従えば,① 当時の青年期女

性の「自治」は農村を担う「公民の妻」とし

ての役割に基づくものであって,男性の「自

治」とは異質であったのであり,さらに②

「女子の視線を意識する」男性心理・男女青

年のセクシュアリティを組織化の方法論の軸

としているという点で,注目される。

 また,渡邊洋子氏は,機関紙「処女の友」

の限られた投稿紙面である文芸欄に注目し,

青年期の女性の「自己表現」を読み解こうと   *21する。 しかし,ファシズム期の言論状況を

思えば,機関紙に対する指導者側のバイアス

は極大値にあったとみざるをえない。処女会

の成員自身の証言の記録化は急務である。

 上述のような農村自治をめぐる施策側の構

想は,通俗教育・社会教育として政策化され

ていく。その際,教育一学習プロセスと組織

化の主体性をめぐって,「教化」と「修養」

という二方向からのメカニズムが指摘され

る。前項で取り上げた体制による女性の掌握

過程という枠組みにおいては,体制側の「教

え込み」として「教化」の側面がより注目さ

れ,この項で考察している先行諸研究では「修

養」の語がキーワードである。

 「修養」とは,明治以降の社会教育草創期

における学習概念の一つである。一般に「修

養」は,伝統的倫理観(儒教道徳など)をモ

デルとして自己を高めていく,その規範に自

己をあてはめていく教育観と考えられる。そ

の意味では,社会適応的・自己抑制的な教育

観と言えよう。渡邊氏も,先の天野藤男分析

のなかで,青年団・処女会の合同活動では

「『修養』(=心身の自己抑制)を積んだ男女

        *22の『清い』交際」 が前提とされたとして,

自己抑制としての「修養」観にたつ。

 これにたいし,この時期の処女会活動の実

態分析の研究には,近代諸科学の知識を身に

つけることで,青年期の女性の自己実現・自

己確立につながった,あるいはその契機と

なったとする「修養」観がある。

 岡田洋司氏は,「結果としては,農村の民

衆女性たちは,処女会=女子青年団のなかで,

国家,社会のあり方を客観化することなく,

政治的社会的変革を目ざす大正デモクラシー

の対極に位置するものとしての自己を形成し

ていったし,ほとんど疑念もないままにファ

シズムのなかにとりこまれていったのであっ *23た」 と,大状況にとりこまれた主体を前提

としながらも,

  「国家,社会のにない手たることをも

  とめることは,彼女らに種々の点での資

  質の向上をもとめることでもあり,彼女

  らは,そのなかで,農村生活にたいする

  啓蒙的な知識を得,彼女らの『生活』を,

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  おかれた客観的な状況を意識的に見つめ

  る手がかりを得ていく。その結果,彼女

  らは,徐々に,『家』から出て,『社会』

  にむきあうことになったし,そこで集団

  生活を体験した。…(中略)…

   女子青年団は,一方では,農村の民衆

  女性を一九二〇年代から三〇年代の歴史

  の変転にまきこみ,彼女らを,ファシズ

  ムのなかに導いていく役割をはたした

  が,他方,その体制の崩壊したとき,彼

  女たちが,その地位を変革していくため

  の次の一歩をふみだすためのいくつかの

  手がかりを用意するものであったといえ            *24  るのではなかろうか。」

 と処女会活動に学校教育の代位以上の積極

的な意味を見いだそうとする。ここで評価さ

れている「資質の向上」は,戦前戦後の一時

期,婦人会や女子青年団によって取り組まれ

た生活改善運動などの生活の科学化・合理化

の活動である。それは,日本の農村生活の(欧

米並み)近代化をめざしていた。処女会活動

における集団生活の経験と科学的な知識・技

術の獲得が,敗戦後の女性の地位向上(例え

ば婦人参政権の獲得・母親運動などだろう

か)を準備したと見るみかたである。

 福西信幸氏も同様な「修養」観である。奈

良県田原村の処女会活動における生活改善運

動について「修養による自己拡充も一つには,

こうした家庭をつくり,そのために女子青年

たちは家事や料理や育児などに関する科学的                  *25で近代的な知識や技能の習得に励んだ」 こ

とを「多様な知識を獲得し,自立的な個とし             *26て自己を確立しつつあった」 と高く評価す

る一方で,「それはまったく別個の世界への

架け橋でも解放でもなく,専ら農村のより善

き母,主婦へのレールを走っていたのである」*27

 と,再び大状況としての良妻賢母主義に帰

結してしまう。

 女性にとって,「自我の確立」・差別から

の「解放」とは何を意味しているのか。福西

氏の分析において女性の自立の獲得への道程

とされている,近代の所産としての〈科学性

の獲得〉によって,むしろ新しい家族像のな

かでの性別役割分業観が醸成されていたこと

として理解できるのではないか。

 本稿では,処女会が各地にでき始めた1910

-一@1920年代に,女性の自立がどのように考え

られていたかということを考察し,天野藤男

と片岡重助の「修養」観を検討したい。

1 処女の成立と組織化

一セクシュアリティと「修養」をめぐっ

 て一

①処女の成立 1910・一一 1920年代には,『青鞘』誌上などで

展開した婦人解放の議論があった。「新しい

女」たちは,恋愛・結婚・母性・処女性・堕

胎・「廃娼」などのセクシュアリティの深み

にむけて錘(おもり)をたらし,さまざまに

女と男の関係を探ろうと試みたのである。そ

のなかで,処女会設立と同時代的な思潮をな

した論争に処女論争がある。

 牟田和恵氏は,幕末から明治初年の慣習と

しては「『処女』は文字どおり,家に処(い)                  *28る未婚の娘を意味しているにすぎない」 も

のであったのが,処女論争のなかで,意味内

容が変わったとしている。以下に,牟田氏の

指摘をふまえ,わたしなりに処女論争の展開

を追ってみる。

 処女論争のはじめは,貞操という言葉を

使ってはいるが,現代的な用語では〈セクシャ         *29ル・ハラスメント〉 や,女性の〈性の自己       *3o決定権〉の問題など,セクシュアリティに

かかわる複数の要素を含んでいた。女性に

とっての最初の性交の意味・価値は,少なく

とも主要な争点ではなかった。

 ところが,生田花生の「私は『処女』を棄             *3ユてて『愛』を取ったのです」 「自分一個人

の所有する処女としての体を自分が棄てると    *32いふ事」 という主張から,処女は〈初めて

の性交〉をさす言葉として使われるようにな

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る。

 当時『青鞘』の編集にあたっていた伊藤野

枝の編集方針は,はっきりと「ヴァージニ   *33ティ」 の問題,女性にとってのく初めての

性交の価値〉であった。しかし伊藤は,「何

故に処女と云ふものがそんなに貴いのだと問

はるれば…それはほとんど本能的に犯すべか

らざるものだと云ふ風に考へさ・れるからと

答へるより他はない。だから私は私のこの理

屈なしの事実をすべての人にあてはめるわけ       *34にはゆかない」 と結論に迷う。

 これらの議論を受けて,平塚らいてうが「貞

操問題のなかの処女の価値といふこと丈を切     *35り放して」論ずるとした時点で,この論争

の争点は〈初めての性交の価値〉というただ

一点に集約する。「自己の所有であるべき処  *36女」 を「最もよき時」に捨てることが「婦

人の生活の中枢である性的生活の健全な自然

な発達を遂げしめるか,しめないか,ひいて

は婦人の全生活を幸福にするか,しないかの       *37重要な第一条件」 とするらいてうの思考は,

まさに近代的「処女」概念の完成とそれを女

性のセクシュアリティの重要な与件とする意

識の誕生を示している。その背後に「処女を

捨てないのはそれは彼等の本能で(これは自

然がよりよき種族を得んがため,不適当な性

交を避けしめやうとして婦人に与へた一種の       *38本能であろう)」 という,優種学・優生思

想があることに留意しておこう。

 与謝野晶子の「貞操と言ふものは…自分が           *39自分のために持つもの」 「知識的にも,感

情的にも,話にならぬほど低級であった昔の

女は不用意な心から,取り返へしのつかぬ過

みをし兼ねないとも限らなかつたので,女の

ためを思つて,女の知識や感情が進むまで,

一時男が女の貞操を預つていたのかも知れま

せん。…(中略)…が,今はもう何の顧慮す

ることもなく,男から取り返へしても宜い時

期になつてゐます。女も自分に目覚めて,自

分を守るに充分な強さと賢さを得て来まし  *4oた」 とする発言は,女性の近代的な自我の

主張であると同時に,「自らのセクシュアリ

ティが他者の所有物であることを敢然と否   4ユ定」 し去る点で,〈処女の所有〉のマニフェ

ストである。

 牟田氏はこれを

   「女性たちの強烈な自立と自我の意識

  ゆえに,処女や貞操は女性の自我・自己

  の確立手段として,拠って立つ最重要の

  すべてであるとまでに観念される。…(中

  略)…今度は,『家』や夫にではなく,

  女性自らが枷を作り,セクシュアリティ

  を囲い込むのである。こうして時代を先

  駆ける女性たちによってまず,家制度の

  もとでの結婚制度への反抗から出発しな

  がら,性一愛一致の強力なイデオロギー

  をまとって性は不可侵の祭壇に祭り上げ     *42  られる」

と分析している。

 処女論争はこのあとも男女の多様な論者に

よって続けられるが,これまでみてきた論争

の経過のなかでは,婦人解放思潮のなかから

〈最初の性交の価値化〉が始まり,女性が自

我の主張の論拠として,自分の〈身体の所

有〉・〈処女(性)の所有〉の感覚をもった

ことを示している。女性の身体と処女性は,

女性のパーソナリティ・女性の存在を成立さ

せるためにそこと切り離された次元に立つの

である。

 処女性は〈身体の所有〉の感覚とともに,

女性の新しい価値観を形成した。経済的・政

治的な女性の抑圧状況が厳しい時代であった

ことが,女性をして「性」という価値観に向

かわせた。セクシュアリティは解放の切り札

となったと同時に,処女性は「変愛」の成立

まで犯すべからざるものとして,女性がみず

からを縛ることになる。民俗学によるツマド

イ・ヨバイ・足入れ婚・娘宿・独り居の部屋

などの前近代の性風俗の歴史を想起すれば,

性愛にかかわる女性の側の認識が大きく転換

していると考えられる。

 さらに,川村邦光氏の諸研究において,青

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年期の女性の自己認識を考える上で注目すべ

き転換点が指摘されている。川村氏は,処女

をめぐる事象の検討などの作業を通して,セ

クシュアリティ概念を日本の女性史のなかで

検証し直すなかから,次のように述べている。

   「“新しい女”たちの運動は社会的に

  はスキャンダラスな面ばかりが強調さ

  れ,奇異なものとする侮蔑的な眼差しを

  むけられた。しかし,その影響はわずか

  ではあれ,着実に浸透していく。女性雑

  誌の女性執筆者の文章では,一九一九年

  頃から,処女という言葉が眼につくよう

  になる。女性雑誌の読者投稿欄をみると,

  投稿者の自称が一九二〇年あたりを境に

  して,次第に変わっている。未婚の女性

  の場合,「わたし」「妾(わたくし)」「乙

  女」「一九歳の女」といった自称であり,

  既婚女性の場合は「わたし」「妾」のほ

  かに「二十四歳の妻」といった自称が用

  いられるのがごく一般的であった。とこ

  ろが,この年に「十八歳の処女ですが」

  といった風に,処女という言葉が自称と

  して使用され始めるのである。

   女性雑誌の投稿欄で,この処女という

  自称がすぐさま広まったわけではなかっ

  たが,三年ほど経つと,未婚女性はほぼ

  処女と名乗るようになっている。ここに

  は,未婚女性の自分自身に対する意識や

  イメージ,アイデンティティの変容が

  あったと考えられよう。(1)社会的・道

  徳的な規範としての処女の受容。性行為

  がなく“汚れのない”未婚女性として,

  自分を認識し始めたといえる。(2) “処

  女の純潔”という精神的な価値による自

  己意識の形成。らいてうや晶子などの影

  響のもとで“純潔”“無垢”の処女として,

  人格を形成しようとする意思がそれであ

  る。(3)両者の複合。とりあえず処女意

  識をこのような三タイプに分けることが      *43  できる。」

 1920年前後に,青年期の女性の自称に変化

がみられたとするこの指摘は,その端緒に女

性誌の編集者のバイアスを考慮しても,少な

くとも読者が処女という語を青年期の女性の

呼称として了解し得るほどに,この時期に一

般的になったということは間違いない。この

ような「処女」概念の普及は,未婚の女性の

アイデンティティを変化させ,川村氏の分類

にみるように,「純潔」や「無垢」という価

値観を含み込んだ自己認識を形成したと考え

られる。

 これは,先の母性再編と同時期にあって,

母性と処女性を分かつ論理である。「純潔」

「無垢」」のイメージは,身体のリアリティ

としては〈セックスの経験の有無〉の問題で

あり,儒教道徳にみられた夫・家に対して〈操

を立てる〉発想と異なる。この時期形成され

た「処女」アイデンティティは,女性個人の

身体にかかわる問題として意識化されている

とみることができる。

②セクシュアリティの組織化

 婦人解放の議論を通して処女の価値化が進

み,他方で処女の語が自称として大衆化する

など青年期女性のアイデンティティが変容を

遂げるなかで,1917年,臨時教育会議が設置

され,翌1918年に「女子教育二関スル件」が

答申された。この答申は,女性に対する教育

の基本指針を示したもので,国家が期待する

女性像を示すものと考えられる。「答申理由

書」のなかで,それは次のように述べられて

いる。

   「一 教育二関スル勅語ノ聖旨ヲ十分

  二体得セシムルハ我国教育ノ基本ニシテ

  固ヨリ男女二依テ其ノ別アルヘカラス/

  然ルニ従来女子教育二在リテハ主トシテ

  家庭二於ケル婦徳ノ養成二力ヲ用ヒタル

  カ如キノ感アリテ国家観念ヲ輩固ニスル

  ニ至テハ未タ十分ナラサル所アルカ如シ

  /女子ハ自ラ忠良ノ国民タルヘキノミナ

  ラス又忠良ノ国民タルヘキ児童ヲ育成ス

  ヘキ賢母タラサルヘカラス/故二女子ノ

一53一

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教育二於テモ第一二国体ノ観念ヲ輩固二

シ国民道徳ノ根抵ヲ固クスルト共二家庭

ノ主婦トシテ又母トシテ其ノ責務ヲ尽ス

二足ルヘキ人格ヲ養成スルニ努ムヘク又

近時舅姑二対スル務メヲ重ンセス貞烈ノ

風漸ク頽廃セムトスルノ傾ナキニアラサ

ルヲ以テ淑徳節操ヲ重ンスルノ精神ヲ酒

養シテ舅姑二対シ夫二対シ女子タルモノ

ノ本分ヲ尽スニ遺憾ナカラシメルヘカラ

ス/又従来我国二於テハ女子ノ体格ヲ軽

視スルノ弊ナキニアラス将来民族ノ発展

ヲ図ルニハー層女子ノ体育二重キヲ置ク

コトヲ要ス/且ッ近来女子ノ勤労ヲ厭ヒ

浮華二流ルルノ弊益々太甚シカラムトス

ルノ傾向ナキニシモアラサルヲ以テ特二

  矯正スルニ於テ十分ノカヲ致スノ要アリ

  /斯ノ如クニシテ我国国体及家族制度二

  適スルノ素養ヲ与フルニ主力ヲ注クノ必        *44  要アリト認ム」

 「理由書」のこの文章を整理すると,女性

の人格形成について,期待される「責務」

(社会的・国家的な役割)との関係で次のよ

うに説明している。

 ①国体の観念を輩固にすること一女性自

  らが国民であると共に次世代の国民を育

  成するという国家に対する二重の責務

 ②「家庭」における主婦・母としての責

  務

 ③淑徳節操を重んずる一舅・姑・夫に対

  する(「嫁」としての)責務

 「答申理由書」のこの部分には,国体観念

と良妻賢母主義が打ち出されている。女性は

「国民」「主婦」「嫁」としての責務(役割)

を生きることを期待され,そうした人間形成

をめざして(「婦人」形成というべきか)女

子教育が位置づけられた。

 「理由書」ではさらに,

 A 女子の体育に重きを置く一将来民族の

  発展を図る

 B 勤労を尚(たっと)び倹素を重んずる

  一虚栄奢修を矯正する

の2点があげられている。近代日本社会の

「公」領域=国家の支配は,女性に対する役

割規定という形で「私」領域に貫徹する。上

記の①~③の「私」領域は家族であるのに対

し,A・Bでは女性自身の身体・労働が射程

にある。前項までにみてきたように,女性の

アイデンティティとしての「処女」の形成・

近代的自我としての処女性の誕生という時代

状況をふまえると,女子教育論として,国民

としての自覚や良妻賢母という役割の自覚だ

けではなく,女性の身体・労働にたいするこ

のダイレクトな国家の接近の意図を再び検討

する必要がある。

 Aについては,〈将来母となる〉身体・〈子

を産む=生殖する〉身体ゆえに国民国家の支

配が及んでいるのだが,そこには,青年期の

女性の身体が体育によって期待される発達を

得るという発達観が含まれている。いいかえ

れば,母となってから,妊娠してからの支配

では遅いとする考え方,また女性の身体は変

えられるもの・発達しうるものと考える,医

学・生理・教育の科学における女性の身体へ

のまなざしがある。

 Bについては,儒教的「質実勤倹」の思想

としてあらわされているが,産業構造の変

化・都市型の単婚小家族の形成という時代状

況を視野にいれ,女性の生産労働・再生産労

働の内容の変化と併せて考察する必要があ

る。この労働をめぐる問題は,処女会組織化

の重要なファクターと考えられるが,別稿の

課題とし,本稿ではAにみられた女性の身体

へのまなざしを検討する。

 前項でみたように,1920年代の「処女」概

念は,第一波フェミニズム思潮において女性

の自我の確立を構成する,〈身体の所有〉の

感覚にともなって成立してきた。これと同時

代に国策として処女会の全国的な組織化が行

われる。すぐれて個人的な概念であり,女性

の自己認識にかかわる問題であった処女とい

う概念を軸に,なぜ,青年期の女性に対して

一54一

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集団的・組織的な教育活動が目指されたの

か。

 冒頭述べたとおり,「処女会」という名称は,

内務官僚天野藤男のこだわりに示されるよう

に,意識的に選ばれたものである。天野は,

明確に青年期の身体への関心を示していた。

例えば,男子の壮丁検査を対照して女子に対

しても「一般庭女の膿位傾向を知るが為に毎

年一回庭女の身燈検査を行はんことを奨め  *45る」 としたことにも,それはあらわれてい

る。

 さらに,前述の渡邊氏の指摘にあったよう

に,天野が処女会を「公民を養成するに非ず

して公民の妻たり母たるべき女子の教養を         *46もって主眼とする」 と位置づけたこと,そ

して男子青年団の指導効果をあげるために,

青年男女のセクシュアリティに注目していた

ことを示す次のような文章がある。

  「庭女會は妻たり母たる豫備訓練の機關

  である。運動會競争旅行其の他に依つて

  身艦を鍛へることの必要なることは固よ

  り,生理の智識を修め,保健衛生の思想

  を培ふことが肝要である。殊に肝要なる

  は庭女の衛生思想にして月経時の注意手

  當の如き,適當なる教師につき教養を受

  けねばならぬ。庭女期の衛生は婦人の生

  涯を左右すると言はれている。…(中略)

  …貞操を守ることも一種の衛生である。

  守操の如き他より強要せらる・ものに非

  ずして,庭女自ら之を尊重すべきもので

  ある。又女操は男子の品位を高むる原動

  力となるものである。庭女の修養如何は,

  青年の風教とも密按の關係を有す    *47  る。」

 このなかで天野は,身体にかかわる科学的

知識(月経など)の獲得を奨励している。そ

して,女性が自主的に処女を守ること,そう

した処女性に関する「修養」が男性の性の認

識をよりよく導くことを主張する。天野は,

女性のセクシュアリティの自己抑制(修養)

によって,間接的に男性のセクシュアリティ

を領導しようとする。天野の理論のなかでは,

処女会の組織化は,青年期の男女のセクシュ

アリティを媒介にして,青年団との関連で構

想されている。

 その際,「衛生」という観念が持ち込まれ

ている。天野の所属した内務省は,思想対策          *48だけではなく,公衆衛生も所管していた。                *49当時,内務省は産児制限や花柳病対策など,

セクシュアリティの国家管理を課題としてい

たのである。又,欧米の諸科学の導入にとも

ない,社会的にも公衆衛生への関心は高まっ    *5oていた。 すでに,女性のセクシュアリティ

は個人の私的な問題ではなく,国家・社会の

近代化が必然とした,公的な問題となってい

たのである。

 天野がセクシュアリティを媒介にした組織

論を示したことは,公衆衛生という内務省の

政策課題を,処女の「制裁と権威」をもって

国家のレンジで解決しようとした,とみるこ

とができるのではないか。

③「修養」の科学化

 天野のあとを引き継いで処女会の組織化に

あたったのは,文部省嘱託片岡重助であった。

天野の処女会構想が青年団との関係で構想さ

れたのにたいし,片岡は,学校教育の補足的                  *51側面を重要視していた。「教育の機会均等」

をめざした片岡にあっては,貧富の差によっ

て学校教育を受けらられない場合,その代位           *52として「学校以外の修養」 は可能であると

した。

 学校教育の補足として処女会が位置づけら

れていたことは,次のような記述にもあらわ

れている。

 「庭女會員の年齢は通常義務教育終了

後即ち満十二歳から満二十歳以下の未婚

女子即ち庭女と云ふことになつている。

二十五歳までとして青年會と封磨せしめ

ようとしてゐるものもあるが之は謂なき

ことである。…(中略)…實際二十一二

歳が女子としては身燈的にも心理的にも

一55一

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  成人となる時期であるから二十三歳まで             *53  とするのが適當と思ふ。」

   「女を其の一生涯の各期に分かつて其

  の本領を見いだすと云ふことは大いに意

  味のあるものである。少なくともそこに

  は研究の醗地もあり,又考慮すべき慣値      *54  もある。」

 片岡の処女会論は義務教育(尋常小学校)

と接続する年齢を設定している。また,片岡

の女性のライフサイクルへの関心は,生涯に

亘る発達を傭鰍する教育論を示すものといえ

よう。

 欧米留学を経験した片岡は,特にアメリカ

のプラグマティズム教育論に依拠していたと   *55され, 4Hクラブをモデルとした女子青年     *56団の組織論を残している。このことは,片

岡の「修養」観に影響している。

   「修養の本義は自己の覚醒と自己の満

  足にある。自己の満足と云ふ,本能満足

  や己惚を云ふのでない。自己の存在を見

  出し自己の慣値を静に評定して,そこに

  向上を圖り生存の意義を明確にせんが為

  に,全力を傾け審したる効果を再び評定                *57  して自ら満足するの意である。」

 天野の自己抑制的な「修養」観に対し,片

岡のそれは「自己の覚醒と満足」に重点があ

る。さらに,より具体的な中身として,

   「庭女會の目的は云ふまでもなく,女

  子に必須なる知識技能の錬磨,徳操の酒

  養,身艦の発達保全に存する。良妻賢母

  となるとか,生活に關する素養と云ふ事

  も自らこの目的中に含まれてゐると見て

  もよろしいのである。併し之等は寧ろ第            *58  二義的のものである。」

とするみかたからは,科学性の獲得や身体の

発達など,近代的な教育観を読みとることが

できる。

 片岡はまた,処女や衛生の教育についても

その著書に展開しているが,「良妻賢母主義

で凝り固まつた校長」にたいして女生徒が

「『先生妾はまだ十七歳です,日本人は早婚

の弊があると云ふことを承つてゐますので,

まだ五六年はお嫁に行きますまいと思つてゐ

          ママます,學校を卒業させて載けば更に上京して

勉學したい考ですから,お嫁に行って後のこ

となど考へてゐる閑がありません』と答へて             *59意氣軒昂たるものがあつた」 とする女性

観・教育観には,むしろ「新しい女」たちの

自我の主張に通じるモダニズムが感じられ

る。

 1926年,内務大臣・文部大臣の「訓令」が

女子青年団の組織化推進の方向性を明示し,

翌1927年処女会中央部が解散,大日本連合女

子青年団として改組する。中央レベルでは二

大臣「訓令」を境に「処女」から「女子青年」

という新たな概念への転換がある。片岡の主

張をひいて,青年期の女性を学校以外の組織

で教育対象とする国家的な政策決定は,同時

に「処女」概念を国家の表舞台からおろすこ

とになる。

   「軌近女子青年団ノ設置漸ク全国二沿

  ク実績亦見ルヘキモノナキニアラスト難

  一層其ノ普及ヲ促進スルト共二其ノ適順

  スル所ヲ明ニシテ堅実ナル発達ヲ遂ケシ

  ムルノ要愈々切ナルモノアリ

   惟フニ女子青年団体ハ青年女子ノ修養

  機関タリ其ノ本旨トスル所ハ聖訓ニモト

  ツキ青年女子ヲシテ其ノ人格ヲ高メ健全

  ナル国民タルノ資質ヲ養ヒ女子ノ本分ヲ

  完フセシムルニアリ之力指導誘抜二関ス

  ル方途固ヨリーニシテ足ラント難特二左

  ノ事項二就キテハ深ク意ヲ用ヒムコトヲ

  要ス

  ー 忠孝ノ本義ヲ体シ婦徳ノ酒養二努ム

  ルコト

一 実生活二適切ナル智能ヲ研磨シ勤倹

質実ノ風ヲ興スコト

ー 体育ヲ重ンシ健康ノ増進ヲ期スルコ

ー 情操ヲ陶冶シ趣味ノ向上ヲ図ルコト

ー 公共的精神ヲ養ヒ社会ノ福祉二寄与

スルコト

一56一

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 今ヤ内外ノ情勢ハ女子青年団体ノ振興

ヲ促シテ止マサルモノアリ局二当ル者克

ク古来ノ美風二稽へ日進ノ大勢ヲ察シ督

励指導其ノ宜シキヲ制シ女子青年団体ノ

目的ヲ達スルニ於テ遺憾ナカラシムルコ       *60トヲ期スヘシ」

おわりに

 本稿では「処女」概念を,近代的自我の成

立に伴う女性の自縛として,また近代国民国

家の国民のセクシュアリティの管理として考

察してきたが,処女が「衛生」との関係で語

られるとき,セクシズムに貫かれてきた日本

の近・現代史がある。

 「軍隊慰安婦」は,日清戦争時の日本軍シ

ベリア駐屯部隊に性病が蔓延したことへの対              *6o策として発想されたという。 そして,十五                  *61年戦争下では「皇軍将兵への贈り物」 とし

て性病のおそれのない処女が適当とされ,朝

鮮半島をはじめ近隣iアジア諸国の女性たちに

甚大な被害をもたらした。それから半世紀を

経た現在もなお,日本をはじめとする先進資

本主義国の男性がフィリピンで少女買春をす

る動機は,エイズへの感染をおそれるためだ    *62という。

 この日本の男性の,「処女信仰」ともいう

べき買春感覚。強姦(あえてこういおう)と

自己保身と(とりわけアジアの)女性たちの

セクシュアリティへの蔑みと躁躍を反省もな

く繰り返す思考の裏側には,「衛生」の観念

がある。

 一方,処女会の後身である女子青年団が「大

陸の花嫁」の送り出しに組織的にかかわって    *63きたことは,植民地建設のために日本の処

女が利用されてきた歴史であり,中国残留を

余儀なくされた女性たちが今もなお帰国を切

望している。

 日本の「処女」が生殖の性に,アジアの「処

女」が快楽の性に分断されてきた歴史を,わ

たしたち自身の問題として語らなければなら

ない。

*1 @折井美耶子  「解題」 同編『論争シリーズ

 5 性愛をめぐる論争』 ドメス出版1991

 p.227

*2@天野藤男  『農村処女会の組織及指導』

*3@古庄ゆき子  『ふるさとの女たち』 ドメス

 出版 1975p.47-48*4@碓井正久 「戦後社会教育観の形成」 碓井

 正久編 『戦後日本の教育改革 10社会教育』

 東京大学出版会 1971p.8-11 このなかで

 青年期教育について「軍事予備教育・工業補習

 教育の教化が,体制的に重要視されてきたJ

  (p.11)との記述からは,「青年」概念は男性

 として想起されているものと思われる。

*5 @山本瀧之助 『庭女會の育成』 希望社出版

 部1923年pp.55-56*6 @同前 P.57

*7 @平川景子  「処女会および女子青年団組織化

 の理念一近代的『母性』観と『国民としての自

 覚』の関係を中心に一」 早稲田大学教育学部

  「学術研究 教育・社会教育・教育心理・体育

 編」 第四〇号 1991p.38*8 @千野陽一  『近代婦人教育史一体制内婦人団

 体の形成過程を中心に一s ドメス出版 1979

 pユ66*9 @千野 前掲書 p.172

*10 @「この訓令が発せられたころ,わが国はすで

 に慢性的な不況とともに思想問題に直面し,第

 一次世界大戦下欧米婦人の活動にてらしても,

 女子青年層の積極的な国策協力を必要としてい

 た。…(中略)…したがって,思想対策もから

 ませながら,女子の国民的自覚の必要性を高唱

 しつつ,一定の方向でのその社会活動を容認奨

 励するだけでなく,政府みずからその集団活動

 を組織化しなければならない。と同時に,そこ

 には,労働婦人運動の擾頭・活濃化を視野にお

 さめながら,女性の実質的な地位向上をおしと

 どめる家族制度をより強固にする必要性がまつ

 わりつかざるをえなかった。これらのかさなり

 あいと矛盾する諸要求をうちにふくめながらひ

 とつの文章に成文化されていったのがこの訓令

 であったといえよう。」同前 p,218

*11 @「女子青年団に関する訓令」をめぐる理解と

 して,「天皇制国家への忠誠を体する国民とし

 ての自覚をもつ女と伝統的封建的な婦徳に培わ

 れた良妻賢母,つまり家族主義を内から整える

 女とが同時に求められているのであった。」(中

 村幸・村上雍子 「女子青年団の教化教育」

一57一

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 日本女子大学女子教育研究所編  『昭和前期の

 女子教育』 国土社 1984pp.31-32)とす

 る見解も,同じ歴史観に立つものといえる。

  また,「(処女会=女子青年団の)設立者の側

 にとって課題となったのは,大正デモクラシー

 状況下での既成の価値意識の動揺に対応する旧

 来の女性観の動揺(それは『新しい女』の出現

 に象徴される)を,どのようにして国家体制を

 ささえる方向に収敏していくかという点,また,

 それと関連して,どのようにして,女性たちに

 国家,社会をになう存在としての自覚を喚起す

 るかという点であり,この二点をめぐって処女

 会=女子青年団の活動は展開していく」(岡田

 洋司  「農村社会における女子青年団活動の実

 態とその論理一愛知県下の一地域女子青年団の

 事例を通して一」 「日本史研究」 No.234

 1982 p.32)も同様である。

*12 苡繻b美子  「処女会の体制的組織化過程一

 一九一〇一二〇年代にみる内務・文部両省の処

 女会政策を中心に一」 「信州白樺」第59・60合

 併号 1984.9.30.p.224

*13 M者の前稿において,国家が女性に対し母性

 を媒介としつつ「国民としての自覚」を求めた

 とする理解も,基本的にこの枠組みのなかにあ

 る。*14@「過去のわが國における社会教育は,右のよ

 うな與件をもたない社会教育なのであって,そ

 の大部分は事実上,海外からの刺戟による民衆

 の民主主義的自覚をいちはやく阻止するため

 の,上からの一方的な活動であった」  (宮原

 誠一 『教育と社会』 金子書房 1949 p.166)

 また,「社会教育が,民主主義の発展にささえ

 られて発達しながらも,かならずしもつねに民

 主主義的な目的や内容をもつものではなかつた

 とはどういう意味か。…(中略)…すなわち,

 社会教育は,社会的民主主義の勃興にともなつ

 て,民衆の下からの要求として発展したが,ま

 た一方,民衆の民主主義的自覚にたいする支配

 的階級の上からの対朦策として推しすすめられ

 た。これまでの歴史的なものとしての社会教育

 のなかには,この下からの要求と上からの要求

 とが合流して混じりあっている。」(宮原誠一

  「社会教育の本質」 同編  『社会教育』 光

 文社 1950P.43-44)*15 ャ川利失  「社会教育をどうとらえるか」

 同著  『社会教育と国民の学習権』 勤草書房

 1973p.22初出*16 ャ川静子  『良妻賢母という規範』 勤草書

 房1991pp.123-124

*17 ?c久美子  「天野藤男の処女会構想」

  「信州白樺」第59・60合併号 1984.9.30.

 P.67

*18 ッ前 pp.67-82

*19 n邊洋子 「公民教育における『中間指導者』

 の意義と役割一天野藤男を一事例として一」

 日本社会教育学会紀要 No.24 1988.6. p,62

*20 ッ前 p.64

*21 n邊洋子  「戦前・戦中農村女性と自己表現

 一雑誌『処女の友』「文芸欄」から一」 お茶

 の水女子大学女性文化研究センター  「お茶の

 水女子大学女性文化研究センター年報」 第2

 号(通巻9号) 1988pp.69-95*22 n邊 前掲書  「公民教育における『中間指

 導者』の意義と役割」 p.62

*23 ェ田 前掲書 p.59

*24 ッ前*25 汾シ信幸  「戦前農村社会教育と女子青年集

 団」 梅花女子大学文学部紀要(人文・社会・

 自然科学篇)23 1988 p.52*26 ッ前 p.53

*27 ッ前*28 エ田和恵 「戦略としての女一明治・大正の

 女の言説をめぐって一」 「思想」No812岩

 波書店 1992,2.p.224*29 カ田花世  「食べることと貞操と」 折井編

 前掲書 pp.13-18(初出 「反響」 1914.9.)

*30 タ田皐月 「生きる事と貞操と一反響九月号

  『食べる事と貞操と』を読んで」(同前pp.18

 -24)について,「私は私を生かす為に生きて

 居る」(p24)という言葉からも,大意としては,

 女性が望まない性関係を強要されたとき拒否す

 べきだ,拒否できるはずだという〈性の自己決

 定〉の主張として読みとりたい。(初出 「青轄」

 第四巻一一号 1914. 12.)

*31 カ田花世  「周囲を愛することと童貞の価値

 と一青鞘一二月号安田皐月様の非難について」

 同前 p.36(初出 「反響」 1915.1.)

*32 @同前 p.39

*33 ノ藤野枝 「貞操についての雑感」 同前

 p.63(初出「青鞘」第五巻二号 1915.2.)

*34 @同前 p.62

*35 ス塚らいてう 「処女の真価」 同前 p,65

 -66(初出 「新公論」 1915.3.)

*36 @同前 P.71

*37 @同前 P.70

*38 @同前 p.67

*39 ^謝野晶子 「貞操に就いて」 同前 p.93

  (初出 「婦女新聞」 第七八三号 1915.5.

一58一

Page 14: 処女会組織化の理念 - 明治大学...処女会と婦人会を分けた「結婚」という線 引きを考えるとき,鍵となる概念は「処女」 である。この概念にむけて,本稿では,1920

 21.)

*40 ッ前*41 エ田 前掲書 p.226

*42 @同前 P.227

*43 ?コ邦光  「“処女”の近代一封印された肉

 体一」 井上俊・上野千鶴子・大澤真幸・見田

 宗介・吉見俊哉 編  『岩波講座 現代社会学

 10セクシュアリティの社会学』岩波書店 1996pp,137-138 ならびに 川村邦光 『オ

 トメの身体一女の近代とセクシュアリティー』

 紀伊國屋書店 1994p.189にも,1920年12月

 号の『婦人世界』から,処女という自称が使わ

 れたとする分析がある。*44 嚼¥理由書 千野 前掲書 pp.171-172よ

 り転載 文末の/記号と下線は平川*45 V野藤男  『青年団及庭女會i 丙辰出版社

 1918  p.154

*46 ッ前*47 @同前  PP.151-152

*48 燒ア省衛生局は,1912年から,欧米の公共衛

 生に関する研究や法律を収録した『衛生叢書』

 を発行している。*49@内務省衛生局 『接客業婦健康診断施行概況』

 1916*50 痰ヲば,大原社会問題研究所(1918年創立)

 は『日本社会衛生年鑑(大正八年)』1920 を

 発行している。*51 ミ岡重助  『新時代の庭女會及び其の施設経

 営』 興文社 1923 p.13*52 ッ前 P.14

*53 ッ前 p.46

*54 ッ前 P.3

*55 ?c満智子  「片岡重助の生涯と思想」

  「信州白樺」 第59・60合併号 1984.9.30.

 pp.124-125*56 ミ岡重助  『女子青年団指導教範』 啓文社

 書店 1931*57 ミ岡  『新時代の庭女會及び其の施設経営』

 P.9

*58 @同前 P.44

*59 ッ前 P.7

*60 P令 千野 前掲書 p.217 より転載

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