18
Meiji University Title Author(s) �,Citation �, 67: 265-281 URL http://hdl.handle.net/10291/10884 Rights Issue Date 2010-03-31 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

弥生時代中期前半における土器製作技術の革新と その背景に ......269 弥生時代中期前半における土器製作技術の革新とその背景に関する予察

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Page 1: 弥生時代中期前半における土器製作技術の革新と その背景に ......269 弥生時代中期前半における土器製作技術の革新とその背景に関する予察

Meiji University

 

Title《特別研究》弥生時代中期前半における土器製作技術

の革新とその背景に関する予察-

Author(s) 石川,日出志

Citation 明治大学人文科学研究所紀要, 67: 265-281

URL http://hdl.handle.net/10291/10884

Rights

Issue Date 2010-03-31

Text version publisher

Type Departmental Bulletin Paper

DOI

                           https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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明治大学人文科学研究所紀要 第67冊 (2010年3月31日)265-281

弥生時代中期前半における土器製作技術の革新と

      その背景に関する予察

石 川 日出志

Page 3: 弥生時代中期前半における土器製作技術の革新と その背景に ......269 弥生時代中期前半における土器製作技術の革新とその背景に関する予察

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Abstract

Anew hypothesis explaining the background for

     change of pottery producing technique in the

     Setouchi district of Japan in the third and the

                               century B.C.

the radical

central

second

ISHIKAWA Hideshi

    The Yayoi pottery in the central Setouchi district of Japan became radically thinner, lighter

and lost traditional patterns without a row of dots in the the first half of the middle Yayoi period.

This paper propose a new hypothesis explaining the background for the radical change of

pottery technlque. I suppose that such technical change was caused by the pottery technique

derived from the Yan(燕)state in the Warring state period. But we have not a reliable evidence

to prove the hypothesis at present.

    Therefore, at first, I describe the process to come in sight of.the Warring state period, by

retracing the history of archaeological chronology in the middle Yayoi period. And then, I

examined the process of technical change in the district and the change was not considered to

be spontaneous. We know that the casting iron axes of Yan type were certainly imported in

the first half of the middle Yayoi period. And some Korean archaeologists recently stated that

the pottery technique of the Warring state period was introduced to south Korea in the tllird

and the second cen亡ury B.C.. As the above mentioned the hypothesis is expected to be

sufficiently Possible.

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《特別研究》

弥生時代中期前半における土器製作技術の革新と

          その背景に関する予察

石 川  日出志

はじめに

 1995年7月に岡山県百間川遺跡群の弥生前期~中期前半の土器群を観察した際に,弥生中期前葉

に土器製作技術が大きく転換することを知った。甕形土器(以下「甕」と略称)にとくに明瞭で,器

壁が薄くなり,軽量化する。成形技法も前期以来の粘土帯接合は観察できず,櫛描文を施文するタイ

ミングも遅くなり,中期初頭に盛用された櫛描文はその直後に甕から姿を消す。中期中頃~後葉の凹

線文土器の段階に西日本で広く土器製作技術が変化するという認識はあったが,それに先立つ前葉に

大きな技術革新があることは驚きであった。中部瀬戸内を中心とする地域では,弥生前期から中期初

頭にかけて甕の外面を盛んに装飾する特徴があり,それが突如姿を消すのは伝統の否定のようにみえ

るが,文様帯下端に付された点列は存続するから「伝統の否定」とみるのは適切ではない。むしろ,

新しい土器製作技術が採用され,それと甕の櫛描文施文が矛盾を来たし,結果として伝統的文様が失

われだのであり,したがってこの新しい土器製作技術は他地域に由来する可能性が高いと考えた。し

かし周辺地域を見渡してみてもこれほど顕著な変化を見出せる地域はない。その結果として,より遠

隔の地域の土器製作技術の間接的影響を受けた可能性はないだろうか,と考えたのである。

 2007年度特別研究の課題として10数年来の疑問を解きほぐす基礎作業に取り組むこととした。筆

者は,確かなことと可能性のあること(しかし不確かなこと)を明確に峻別して議論すべきことを述

べたことがある(石川2007)。その意味からすれば,本稿は明らかに不確かな議論に属す。その遠隔

の地域とは朝鮮半島,それも北西部以遠の地域であり,時期的には楽浪郡設置以前である。通常であ

れば荒唐無稽と斥けられる類の議論である。しかし可能性が低いのであれば,点検してその可能性を

なくすか高めるかすればよい。十分検討する機会がえられず結論までは到らないが,仮説の拠りどこ

ろを提示しておこうと思う。

 本稿では,まず研究史をふりかえって,弥生時代中期を考える際に楽浪郡設置以前を視界に入るま

での過程を述べ,次いで上記の可能性について論じることとする。

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1.楽浪郡設置以前の視覚化一弥生中期年代観の変遷一

(1)弥生中期は楽浪郡設置以後という見解

 弥生時代が,大陸の文化と密接な関係をもつという認識は,鳥居龍蔵が弥生式土器に伴う石器が朝

鮮半島から遼東半島までの一帯の資料と酷似することに気づいたこと(鳥居1908)や,富岡謙蔵が

北部九州で弥生式の甕棺に伴う銅鏡のうち三雲・須玖岡本両遺跡出土鏡群を前漢代,井原鑓溝遺跡出

土鏡群を王葬代に比定したこと(富岡1916)に端を発する。この二つの視点が合わさることで,「弥

生式土器製作者は韓半島を経て渡来した新しい民族」で,「弥生式文化は漢代文化のエキスパンショ

ン」(濱田1930)とみなす見解が生まれる。しかし,日本列島側の編年が整備されない中では,より

具体的に大陸文化との関係を論じることは困難であった。

 やがて小林行雄が畿内弥生式土器に3つの段階を認め(小林1933),これをもとに森本六爾が弥生

時代を前期・中期・後期に3期区分した(森本1935)。これによって,富岡の銅鏡の年代観が弥生時

代理解に果たす重要性を議論する条件が整ったものの,今度は当時の政治状況から漢代文化の影響を

前面に出して議論する環境は失われ,小林行雄「弥生式文化」(小林1938)を瞥見すれば一目瞭然の

ように,もっぱら「国産」青銅器の展開ばかりが論じられることになった。

 戦後になってようやく,楽浪郡をはじめとする大陸の政治権力との関係が,年代論のなかで表だっ

て議論されるようになる。まず小林行雄(小林1947)が,北部九州の前漢鏡を伴う甕棺は弥生中期

であり,福岡県御床松原遺跡の貨泉も中期とみなし,それは楽浪郡を経てもたらされたものであるか

ら「西暦紀元前百八年という年代が,また中期弥生文化の年代に,一つの制限を加える」と述べる。

そして弥生時代の年代観として「弥生文化全体を,西暦紀元後に三世紀紀元前に二世紀か三世紀と

して,その五,六百年を,前・中・後の三期にわりあて」る見解を提示する。小林の弥生時代年代論

は「大体の見当をつける」(小林1947)意味合いであって,1951年に刊行された『日本考古学概説』

でも,前漢鏡と貨泉をもって中期の「上限が紀元前一世紀の初頭より遠く遡りえぬものであり…(中

略)…下限は紀元後一世紀前半以後に求むべき」と述べるにとどめている(小林1951)。

 小林に代わって弥生時代の年代観を大胆に復元する試みを続けたのが杉原荘介であった。杉原はま

ず1950年に,森本六爾・小林行雄の見解を継承して,須玖式土器をもって北部九州の弥生中期を定

め,須玖・三雲両遺跡で前漢鏡を伴うことをもって中期初頭を西暦紀元前100年前後から紀元前後の

問,1944年に王葬鏡がみつかった佐賀県桜馬場遺跡の甕棺を龍渓顕亮作成図をもとに須玖式とみな

して中期の下限を紀元後100年前後から200年前後の間と述べ,編年表でも幅をもつその年代値を表

示する(第1図上:杉原1950)。1955年にも同様の年代数値をあてるが,1952年に鏡山猛を調査主任

として実施した福岡県城ノ越遺跡の成果を反映させて,中期の土器型式のうち従来の須玖式をII式,

新たに認識された土器型式を須玖1式として編年表に加える。須玖1式はH式より遡るから「その開

始は西暦前100年までは遡ることは確実であろう」と述べるものの,編年表の数値表記は変更しな

かった(第1図左中:杉原1955)。長崎県原ノ辻遺跡と大阪府瓜破遺跡の実例から,貨泉は弥生後期

に伴うと改めるが,これにより弥生中期の年代表記を改めてはいない。

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          弥生時代中期前半における土器製作技術の革新とその背景に関する予察

 ところが,1960年になると揺れ幅のない年代表示に改める(第1図左下:杉原1960)。その理由は

明記されていないが,1955年論文ですでに触れられていたように,中期の上限年代を遡らせたのは

従来の中期の年代値の前に須玖1式土器の期間を見積もることによるであろうし,下限年代を繰り上

げたのは貨泉を後期に繰り下げることによると考えられる。さらに,小林行雄による1950年代の前

期古墳の精力的な研究をとおして主張された古墳出現を300年前後とみる見解を採用した結果後期

と中期を各200年間とみなし,さらに前期も同じ期間を見積もる繰上げ按分法をとることになったと

考えられる。そして,杉原によるこの年代観は,1979年に全体に50年ずつ繰り上げる変更を表明す

るまで持続した。

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杉原荘介1950「古代前期の文化』

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杉原荘介1955「弥生文化」「日本考古学講座』4

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杉原荘介1960「農業の発生と文化の変革」

   『世界考古学大系」2(抜粋)

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弥生文化

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前期後半

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中期後半

森貞次郎1968「弥生時代における細形銅剣の流入について」

         『日本民族と南方文化』

第1図楽浪郡設置以前を視界にλれる1950~60年代の編年改訂

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 1960年代中ごろまでに発表されたいずれの論文も,上記の年代観を遡ることはなく,したがって

弥生中期はBCIO8年の楽浪郡設置を遡ることはないという了解があったといってよい。もちろん弥

生前期はこれに先立つために,例えば杉原荘介のように「わが国に弥生文化の起こったのは,西暦前

100年よりは古く,300年前後から200年前後の間としたい。東亜において大きな事件の年代からみる

と,周滅・秦覇(前249年),燕の滅亡(前222年),秦亡・漢興(前206年),箕氏から衛氏への朝鮮(前

194年),最後に漢武帝の楽浪郡設置(前108年)等の大きな国家の興亡が繰り返されていた時代に相

当する。これらの大陸における歴史的な事件と弥生文化の発生とに,どのような有機的関係があった

か」と問う場合もあったが,それを論じる資料はなく,「未だ不明である」と述べざるをえなかった

(杉原1950:7頁)。

(2)炭素年代で楽浪郡設置以前が射程に

 ところが1960年代になって,弥生時代中期初頭の年代を遡らせて考える引き金が登場する。放射

性炭素年代法である。1951年に千葉県姥山貝塚の縄文後期初めの資料が測定されたのを嗜矢として

縄文時代各時期の資料が測定され,『世界陶磁全集』(芹沢1958)や『図解考古学辞典』(水野・小林

1959)の縄文土器編年表に測定値が併記される。さらに1967年には芹沢長介が旧石器・縄文時代の

測定値を集成して全体像を示すまでになる(芹沢1967)。弥生時代資料では,鎌木義昌が最初に測定

値を紹介した(鎌木1960)。そして弥生時代年代観の改訂に利用したのは森貞次郎であった。

 森は,1966年に刊行された『日本の考古学』3では,弥生時代の開始は「少なくとも前二世紀初

頭まではさかのぼる可能性は十分ある」,「前三世紀のどこまでさかのぼるかについては検討を要しよ

う⊥中期初頭は「紀元前108年の真蕃郡設置の頃」と述べたように,小林の『日本考古学概説』と

ほぼ同じ年代観であった。ところが,1968年に第1図右下のような弥生時代前期・中期開始年代を

大幅に遡上させる年代観を発表する(森1968)。その根拠は,1965年に調査された佐賀県宇木汲田遺

跡の放射1生炭素年代測定値が,前期初頭は紀元前3世紀前半,前期後半が前3世紀末であったことに

よる。そして,弥生時代開始は前300年前後に燕昭王が遼東に進出したことの余波と見るべきことや,

前二世紀末に遡る前期末の金海式甕棺に伴う青銅器群が示す前期末から中期初頭への変動は,前190

年代に起こった「朝鮮半島への燕人の亡命と,それらを中核とした土着豪族との結合による衛満政権

の樹立,および南朝鮮への勢力の伸張といった政治動向の余波がわが国におよんだことにはじまると

しなければならない」とまで述べる。甕棺編年の整備と青銅器型式との照合により,金海式甕棺から

青銅器の副葬が明確となることを明確にした点は重要であるが,こうした解釈は,あまりにも大陸の

政治動向と弥生文化の形成や転換を直結させるものであり,十分注意する必要がある。しかし,弥生

中期前半の上限を楽浪郡設置以前にまで遡らせる見解が登場した点は,大いに評価すべきであろう。

 ちなみに,森の弥生時代年代の改訂に用いた炭素年代について,岡崎敬は好意的に受け止めたもの

の(岡崎19 71),それが佐原真の批判を招いた(佐原1972)。一方,縄文時代研究に放射性炭素年代

を積極的に利用した杉原荘介も弥生時代資料の測定に積極的であったが,福岡県板付遺跡の前期前半

と後半の測定値が,自らの弥生時代開始年代観に近いとして,これによって年代観の改訂をすること

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弥生時代中期前半における土器製作技術の革新とその背景に関する予察

はなかった。

(3)傾斜編年の修正

 1977年に福岡県立岩遺跡の調査研究報告を上梓した岡崎は,洛陽焼溝漢墓を初めとする中国の出

土鏡と北部九州甕棺墓出土鏡との編年序列の整合性を重視して,中期後半立岩期をBCI世紀後半か

らADI世紀前半と推定した(岡崎1977)。この主張は,従来中国鏡を日本列島の弥生時代の年代を資

料に用いる場合,中国における製作から北部九州の甕棺などに副葬されるまでの期間に相当の年代を

見込む「傾斜編年」という操作をしてきたことへの反省を促すものであった。例えば杉原は中期後

半と後期前半にそれぞれ前漢後期と王葬代の銅鏡が伴うことを認めながら,そこに100年の「仮定加

算年代」を見込んで中・後期の境界年代をAD100年としてきた。しかし,岡崎の年代観ではそれは

半世紀以内とみており,これ以後,この仮定加算年代を縮小する方向で弥生時代年代論が推移するよ

うになる。早くも1979年には橋口達也(橋口1979)が,発棺の型式編年細分を推し進めた結果,や

はり中国での銅鏡編年との併行関係が認められるとし,製作から舶載・副葬までの期間を30年ぐらい

と見込んで,中・後期の境界を紀元前後にまで遡らせた。また,甕棺の細別1型式を平均約30年とし

て前・中期の境界をBCI80年前後としたが,これは森(1968)の年代観とほぼ整合するものであり,

北部九州では多く支持される見解であった。さらに柳田康雄は,金海式甕棺を中期初頭とした上で,

細形銅剣の編年をもとにそれをBC200年前後にまで遡らせた(柳田1983)。

 こうした九州における傾斜編年の修正を受けて,近畿地方でも森岡秀人が主導して弥生時代年代の

改訂が進められ(森岡1984・1985),中期初頭をBC2世紀初めまで繰り上げる。

 こうした年代観を別の角度から支えたのが,年輪年代法の採用である。大阪府池上曽根遺跡で検出

された独立棟持柱大形建物1の柱12の伐採年がBC52年とされ(光谷1996),秋山浩三はこの柱穴12

出土土器および大形建物1の柱穴群に伴う土器群をW-2・3様式に対比し,建物の時期をIV-3と

判断した。秋山は,これによって後期初頭をAD1世紀初頭(~前葉)とみなす。その年代観は,平

井勝が,他の理化学的年代値を参考にして,岡山県高塚遺跡における後期初頭土器と貨泉の共伴事例

から,後期初頭を紀元前後にまで遡上させることと整合的である。1979年に佐原真が表明した,中・

後期の境界が畿内と北部九州で1様式のずれがある(畿内で中期後半の第IV様式が九州の後期初めの

原ノ辻上層式と併行)という指摘(佐原1979)も,田崎博之らが各地の編年細別対比を進めた結果

そのずれはほぼ解消されるようになった(田崎1995など)ことを考え合わせると,大陸側の年代資

料をもちいて弥生土器編年に年代数値を与える際に用いられてきた「傾斜年代」はほぼ解消される状

況に至ったといってよい。

 このようにして,弥生時代中期の年代観が順次明確になり,また遡上することによって,弥生時代

中期の後半はBCI世紀で,中期前半はBC2世紀に遡上することが認識されるようになった。もちろ

ん,中期初頭の年代値は研究者間で揺れ幅があり,2003年に国立歴史民俗博物館チームが発表した,

中期初頭の年代を14C測定・年輪較正法によってBC400年近いという見解(今村ほか2003)まであ

る。しかし,こうした揺れ幅にかかわらず,中期前半が楽浪郡設置以前を含むことでは違いはない。

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このことを確認したうえで,土器製作技術の革新の問題に移ろう。

2.岡山平野の中期初頭~前葉土器にみる甕の変化と評価

(1)土器編年と甕製作技術の変化

 冒頭に述べたように,この仮説の出発点は岡山平野の弥生中期初頭~前半期土器にある。この地域

の弥生土器の資料数は,前期初頭から前期末へと順次増加するが,中期初頭から前半期まではいたっ

て少なくなり,中期後半になってふたたび飛躍的に増加する。そのためにこれまで中期初頭から前半

代の土器編年は資料的な裏づけに苦慮してきた。しかし,ようやく10数年来の調査で充実しつつあ

る。第2図は平井典子による当地域の弥生土器編年(平井1996)のうちの前期初頭~中期中頃を抜

粋したものである。ここで注目するのは前期末ないし中期初頭のff -1期から中期中頃の皿期に至る

甕の変化である。そのためにまず平井の見解を確認しよう。

 ll-1期は,壷・i甕に施文されたヘラ描き文が1-2期から多条化が進んだ一群で,甕では新しく

なるほど条数が増える傾向があり,2本同時施文もみられる。所謂如意形口縁は減少して三角形突帯

貼付による逆L字状(27)が主となる。H-2期は,ヘラ描き文が櫛描き文に置換され,壷・甕とも

装飾が顕著である。ll-3期は,櫛描き文が壷ではなお明瞭であるが甕からは消滅し(47・48),甕

の三角形突帯貼付による口縁もなくなって如意形が折れたくの字形口縁となる。皿期は前期的な様相

払拭される時期であり,壷でも櫛描き文が減少し,甕は胴上部が膨らむ形態となる。平井が皿一1期

とした一群は,従来1期=弥生前期の末葉に位置づけてきたものだが,畿内・大和地域の資料を分析

した藤田三郎・松本洋明が,ヘラ描き沈線が多条化した段階を櫛描き文の出現に密接することを重視

して1様式から分離した(藤田・松本19989)のを受けた措置である。本稿では前期末葉と理解して

おきたい。

 平井がll-1~3・IH期とした資料やその後報告された該当資料を例示した第3図をもちいて注

目点を確認しよう。上段はll-1期,中段右はII-2期に該当する総社市窪木遺跡の溝155で3点出

土した櫛描き文甕である(平井ほか1998)。中段左1751~1753は総社市よりさらに西方に位置する

矢掛町清水谷遺跡の環濠上層でヘラ描き文甕多数(451・465)のなかに少数検出された櫛描き文甕

(466~469)であり,後者のみII-2期である。窪木・清水谷両遺跡例とも櫛描き文帯の下端に刺

突列がめぐる。下段右はII-3期を認定するもととなった雄町3類(正岡ほか1972)の基準資料で

ある岡山市雄町遺跡土坑32出土資料のうち甕を抜粋したものである。まったく櫛描文は消失してお

り,刺突列のみが残存し,口縁部形態はくの字形のみとなる。

 ここで注目したいのはll-2期と3期の土器製作技術の違いである。9-3期土器は,口縁部内外

面の痕跡から明らかなように強く横ナデされて,頸部で屈折し,口縁部が滑らかに外反する。胴部の

器壁は1-2期に比べて著しく薄く仕上げられ,軽さが目立つ。器壁を薄くするために,土器の内面

はヘラナデやミガキ,外面は刺突列のある胴部最大径より上は縦方向のハケメ,下は縦にミガキが,

それぞれ強く施される。その結果 II-1・2期のように内面に指頭圧痕が残ることはなく,入念な

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弥生時代中期前半における土器製作技術の革新とその背景に関する予察

仕上げとなっている。ll-2期に比べると急に胴部が膨らむことからタタキ技法による成・整形が行

われた疑いがあるが,入念なハケ・ナデ・ミガキのためにその痕跡を見出すことは困難である。器壁

自体が内外から圧せられた状態で,前期の遠賀川系土器に特徴的であった粘土帯を積み上げて成形す

る技法を確認することもできない。成形および整形の両面で土器製作技術の転換が進んでいると判断

できる。

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第2図 平井典子氏による備前・備中の弥生前期~中期前半期土器編年(平井1996)

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274

このH-2期からH-3期にかけての技術革新を考える場合に重要なのが平井が「櫛描沈線が浅

く消えかかったTt 汳i階への過渡的なもの」とした第3図下段左の5907である。本例は,櫛描き文

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11-1期:百間川原尾島遺跡三ノ坪調査区溝164出土(抜粋:高畑ほか1984)

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H-1・2期:清水谷遺跡環濠上層出土(抜粋:

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藤江・武田2001)

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11-2期 窪木遺跡溝155出土(平井ほか1998)

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               第3図 平井編年皿一1~3期の資料

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         25.0-3土321°’°”3±32

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ll-3期:雄町遺跡第3調査区土坑32

   (抜粋:正岡ほか1972)

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弥生時代中期前半における土器製作技術の革新とその背景に関する予察

が残る点では[-2期の特徴を備えるが,口縁部の強い横ナデと胴部内外面の入念なハケメ・ミガキ

整形,および胴部の張り,薄くなった器壁の諸点はむしろH-3期に下る特徴といえる。櫛描き文も

一見しただけでは見逃すほどに施文が浅く,H-2期の甕よりも乾燥が進んだ段階で施文されたと考

えられる。器壁が薄く作られるために,それまでのようにまだ器壁がやわらかい段階で施文すること

が難しくなり,硬化してから施文すると文様が不鮮明となってしまう。まさに甕から櫛描き文が消失

する過程を暗示する資料とみることができよう。

(2)在来伝統と齪甑をきたした土器製作技術の転換

 さて,上記のような岡山平野の弥生中期初頭~前葉における土器製作技術の転換と文様の喪失とは

どのような関係にあるのであろうか。この問題を考える際に重要なのは,九州から東北までの各地の

弥生土器の展開を比較したとき,岡山平野およびその周辺地域はもっとも独立的な型式展開が連続す

る地域のひとつとみなせる点である。ここでは甕の装飾帯を取り上げて説明しよう。

 第4図で1期末と記した7は平井のH-1期に相当する。口縁部に断面三角形の突帯(〉印)を巡

らす逆L字形口縁の直下の胴上半部に多条のヘラ描き直線文が密に描かれ,下端の刺突列(レ印)ま

での問が帯状の装飾帯(破線部)をなす。この装飾帯は,前期初頭の津島式(5:平井の1-1期)

で大振りの山形文が施されたものが,甕外面の沈線の多条化に取って代られたものである。さらにそ

の源流をたどると津島岡大式(3),前池式(2),さらに縄文晩期中葉の谷尻式(1)まで遡上する

ことができる。口縁部処理を追跡すれば,谷尻式(1)で口縁上端の刻みであったのが,前池式(2)

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第4図 岡山平野における縄文晩期から弥生後期初頭までの甕装飾の連続性と断絶(石川2008)

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で口縁直下に突帯が貼付されると上端と同様に突帯にも刻みが施され,津島岡大式に継承される

(3)。津島式ではいったん如意形口縁(5・6)が主流となるが,1期後半~末には突帯文が多数派

となり逆L字形口縁が普及する(7)。文様帯下端の刺突列も谷尻式に始まり(1),前池式を経て

(2),津島岡大式の2条突帯の胴部側突帯に受け継がれ(4),さらに津島式の胴部段の刻み(6)

へと至る。

 このように,1期末の甕胴上部の装飾帯は,口縁部の刻目と装飾帯下の刺突列と組み合わさって谷

尻式から連綿と継承されてきたものであり,色濃い在来伝統と見るべき特徴である。ところが,平井

のII-3期になるとこの装飾帯は消失し,本来下端にあった刺突列のみがそれ以後も継承される。単

にヘラ描き手法から櫛描きに転じた延長線上で装飾が消失したのではなく,第3図5907でみたよう

にII-2期から3期にかけて達成された土器製作技術の転換が伝統的な装飾帯と齪飴をきたし,消失

するに至ったとみるべきであろう。したがって,櫛描き文とは異なって器面に連続的に施文具が当た

ることのない刺突列だけが受け継がれる。1期末(平井ll-1期)の逆L形口縁も,口縁部の強い横

ナデとは齪齪をきたしてll -3期には消滅する。

 このように在来伝統と齪酷をきたすような土器製作技術の転換が,はたして当地域内で生まれ,多

数派になっていくものであろうか。もちろん,当地域内で独自に達成された技術転換である可能性は

考え置く必要はあろうが,ここでは他地域の影響下に達成された可能性を考えたいのである。

(3)他地域土器製作技術一大陸系の可能性一

 岡山平野の弥生中期前葉に認められた土器製作技術の転換は中部瀬戸内から北部九州までの広い

範囲で連動しながら進行していたと考えられる。しかし,地域ごとにその発現は差異があり,広域編

年の問題が障壁となる点については十分留意しておく必要があるものの,北部九州では口縁部の横ナ

デや外面の入念なハケ整形は中部瀬戸内と同様に明瞭なのに,器壁が薄くなる程度はより緩やかであ

るように見える。こうしたなかにあって,中部瀬戸内で独自に生じた技術転換でない可能性が高い点

と,北部九州までの広域で緩やかに連動する点とから,飛躍的な発想ながら大陸の土器製作技術から

間接的影響を受けた可能性をさぐりたい。

 その際に,障壁となるのは,朝鮮半島南部では同時期,すなわち無文土器後期の円形粘土帯土器や

円形から三角粘土帯土器へ推移する過程ではまったくこれと連動する現象すなわち口縁部の強いヨ

コナデ,器壁の薄手化(調整具の強いナデッケと可能性としてのタタキ技法)が認められない点であ

る。むしろ,弥生早期末~前期前半に併行する無文土器中期から,弥生前期後半~中期前半に併行す

る無文土器後期にかけては,器面のハケ・ナデ整形や口縁部の横ナデなど土器製作技術の簡略化が進

行して,土器の形態のひずみや整形時の粘土紐接合で生じた器面の凹凸をよくとどめるようになる傾

向がみられる。つまり,弥生土器の変化の方向性とまったく逆であるようにみえるのである。そして,

ようやく弥生中期後半併行の段階になるとまったく異質な,楽浪土器の影響のもとにロクロ回転を利

用した強い横ナデやタタキ,ケズリ技法を用い,還元焔で焼き上げた瓦質土器が登場するようにな

る。こうした瓦質土器の登場に先立って,弥生土器において瓦質土器よりはるかに間接的で表層的な

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弥生時代中期前半における土器製作技術の革新とその背景に関する予察

模倣として,強い横ナデと器壁の薄手化を理解できる可能性はないであろうか,というのが本稿の仮

説である。

 この朝鮮半島南部の課題に対しては二つの解明の糸口がある。第一は,半島南部と西日本との間で

土器の相互交通が確認される点から探る道であり.第二は瓦質土器成立の時期と淵源を再検討する道

である。第一の点は,韓国南海岸部の慶尚南道勒島遺跡・莱城遺跡・朝島貝塚・温泉洞遺跡などで城

ノ越式・須玖1式土器およびその系統の土器が検出され(第5図:申1995),一方北部九州を中心に

西日本各地から円形・三角形粘土帯土器およびその系統の土器が確認されおり(片岡1999など),弥

生前期末から中期中頃までの間,頻繁な相互交流が行われていることが明らかな点である。だたし,

これだけではより遠隔地・北方の土器の要素が弥生土器に引き継がれることを立証することは困難で

あり,楽浪郡設置以前の土器要素が半島南部に出現していることを立証する第二の道を探る必要があ

る。この点については,瓦質土器に先行する粘土帯土器の段階を含めて三韓時代とし,その粘土帯土

器後半の三角形粘土帯土器段階をもって古朝鮮準王勢力の南下を考える見解(申1995など)がある

ことや,瓦質土器が洛東江流域で楽浪郡設置以前の戦国系土器の影響下に出現した可能性を考える見

解(鄭2008)が出てきたことが重要である。これに第一の道を重ねることで,本稿の仮説が,荒唐

無稽の域を脱して仮説として検討に値するものになりえる可能性が出てくる。

 そしてもう一点,中期前半代の鋳造鉄器の流通を考えることが,この問題を現実のものとする条件

付けになる。

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第5図 釜山市域の弥生土器及び弥生系土器(申1995)

 1~6 葉城遺跡,7・8朝島貝塚、9温泉洞遺跡

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3.弥生時代中期前半の鋳造鉄器

 熊本県斎藤山遺跡など最初期の鉄斧が燕系統の文物であることは,潮見浩が早くから指摘していた

(潮見1982)。村上恭通も1994年に弥生中期以前の42例を集成して鋳造鉄斧を燕に起源をもつ文物と

し,破損した部品の再加工品が多いことを明確にした(村上1994)。ところが,2003年に弥生時代早

期・前期開始年代が従来よりも500年ずつ遡上させるべきだという見解が表明されて(今村ほか

2003),弥生早期の福岡県曲り田遺跡と前期初頭の斎藤山遺跡の鉄斧は,所属年代を中期初頭以後に

繰り下げるべきだと主張された(春成2004a)。筆者も,歴博の年代観に従うことはできないものの,

曲り田・斎藤山両遺跡の鉄器は前期末~中期初頭以後と考えるべきで,前期末の山口県山ノ神遺跡・

福岡県前田山遺跡例が最古と改めるべきと述べた(石川2003・2004)。その後,春成秀爾はその2例

も中期に下らせるべきよう求めた(春成2004b)。この問題は鋳造鉄器を考える際に重要であるので,

その後の判断の変更をまず述べよう。

 前田山遺跡例については報告データのチェック不足であり,春成の指摘に従う。山ノ神遺跡(第6

図)は,貯蔵施設である袋状竪穴が埋没した状況の土層のうち最下層から,川越哲志が戦国時代の「一

字形鉄器」と判断した鋳造鉄器(1)が土器群(2~7)とともに出土した。鋳造鉄器の出現年代を

押さえるには格好の出土状態であり,土器の時期認定が問題となる。2003・2004年の時点で筆者は,

5の甕口縁部破片の存在が気になりながらも,壷2~4と甕6の特徴から前期の範晦と考えた。しか

しその後,下関市下村遺跡において,山ノ神遺跡2~4・6と同時期と認定すべき綾羅木IIr b式第7

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第6図 山口県山の神遺跡の舶載鋳造鉄器と共伴土器(富士埜1992・宝川2000・野島2008)

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弥生時代中期前半における土器製作技術の革新とその背景に関する予察

図1~5が,中期初頭に下ることが確実な櫛描き文甕7と袋状竪穴埋没層下部で共伴する事例(小南

ほか2007)を知った。もちろん綾羅木皿b式が中期初頭に下るという考えが1993年に示され(山本

1993),山口市赤妻遺跡例のように1個体の壷に綾羅木皿b式の特徴と櫛描文が共存する事例は把握

していたが,その共伴がどの程度普遍性をもつのか疑問視していた。下村遺跡ではSU25・SU29の

2基で,綾羅木皿b式多数の中に瀬戸内系の櫛描き文甕が1点ずつ共伴しており.しかも如意形口縁

甕5の底部形態が,上げ底であるとはいえ,城ノ越式甕と対比し得る特徴を備えているので,綾羅木

Mb式が中期初頭に下ることは動かし難い事実となった。これにより,前期末唯一の鉄器資料とした

山ノ神遺跡の鋳造鉄器も中期初頭に下げる必要が生じ,当然ながら鋳造鉄器は弥生時代中期初頭~中

頃に日本列島に将来されたと考え改めることとなった。

 こうした鋳造鉄器を,個々の資料に当たって判断の妥当性を徹底的に再検討した野島永は,従来板

状鉄斧や鉄盤とみなしてきた資料も多くは鋳造鉄斧の再加工品であり,また炭素量で鍛造と扱ってき

た資料もX線CTによる断面観察によると鋳造鉄器と改めるべきであるという重要な指摘を行った

(野島2008)。そして,野島の集計によると,中期中頃までの出土例は分布密度の差はあるものの北

部九州から近畿までの西日本一帯にひろがる。もちろん,鋳造鉄斧が燕系文物であるとしても製作地

が西北朝鮮以遠とのみ限定してしまい,それによって本稿の仮説の傍証とするのは危険かもしれな

い。しかし,朝鮮半島南部での鋳造の可能性は考えおくとしても,その際は先にあげた,瓦質土器が

洛東江流域で楽浪郡設置以前に出現したという見解があることに期待したいところである。

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第7図 山口県下村遺跡様相2の貯蔵穴SU25出土土器(小南ほか2007)

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おわりに

 本稿では,中部瀬戸内北岸で,弥生中期初頭から前葉にかけて進行した在来伝統を否定するかのよ

うな土器製作技術の変革が,遠く楽浪郡設置以前の朝鮮半島西北部方面の土器製作技術の間接的影響

をうけた結果である可能性を述べた。荒唐無稽の思いつきというべきだが,考古学はありえる可能

性・選択肢をより多くもった上で多角的な検討を進めることが求められる。もちろん確実1生のあるこ

とと,実証性の乏しいことと間のどこにその仮説が位置するかをわきまえることが必須である。本稿

は,断片的なデータをつないで仮説の成立しえる可能性を探ったものであり,諸賢のご批判を仰ぎた

いo

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