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1 修士論文発表会 20160727 アラン・レネの初期作品『ヒロシマ、私の恋人』における記憶、忘却、想起 ―脚本執筆者マルグリット・デュラスの小説世界との比較を通して― ヨーロッパ文化論講座 B4KM1007 呂思璇 一.研究背景と目的 1950 年代末から 1960 年代中盤にかけて、若い監督・映画作家たちは、新しい映像表現の手法を駆使 し、数多くの秀れた映画作品を制作した。こうしたフランスにおいて起こった映画の運動はヌーヴェ ル・ヴァーグ(新しい波) 1 と呼ばれ、それ後の世界の映画界に大きな影響を及ぼした。ヌーヴェル・ヴ ァーグにおいて、左岸派 2 とよばれるグループの初の長編劇映画は、アラン・レネ監督(1922-2013)の 『ヒロシマ、私の恋人』 3 であり、原爆投下後 13 年経った広島を舞台に撮影された。物語は平和につい ての映画を撮影するために日本を訪ねたフランス人女優が日本人の建築家と恋に落ちることで、それま で「忘却」の内に封印していた戦時下のドイツ兵士との初恋とその恋人の死についての「記憶」を再生 させていく過程を描いている。本作はこのように、主体を狂気へと追いやりかねないトラウマを引き起 こした「記憶」とその「忘却」、そしてその忘れ去られたはずの記憶の再生・回復(「想起」)を主軸と して展開していく。こういった内的なプロセスは、ディゾルヴ、トラヴェリング、フラッシュバックな どの手法により、画面の切り替えを通して具体的に表現されている。本研究では、デユラスの脚本テク ストに表された広島におけるヒロインの経験と、それに触発された内的な経験とが映画撮影・編集によ っていかに映像化されているのかを分析し、「記憶」、「忘却」、「想起」というレネにとっての重要なテ ーマの映像化の特徴を探った。 二.先行研究 『ヒロシマ、私の恋人』(以下、『ヒロシマ』と略する)は公開当時から、大きな反響を呼び、映画評 論・映画研究において盛んに論じられてきた。主だった研究書としてはクリストフ・カルリエ(1994) らによる作品論がある他、最も近年ではエリック・コステックスによる総合的な論考『アラン・レネ、 永遠性の記憶』(2013)がある。これらの研究書は、映画『ヒロシマ』を時代のコンテクストに位置づ け、ヌーヴェル・ヴァーグ最初期におけるこの映画の革新的な側面を再確認すると同時に、レネの初期 作品において最も重要な主題である「記憶」と「忘却」、また「想起」について具体的な画面のコマ割 りとその配列を分析しながら論じている。ただし、この映画の脚本を執筆した作家マルグリット・デュ ラスにとっての「記憶」と「忘却」の問題が、映画脚本の段階でいかに反映されているのかについての 本格的な論考はさほど見られない。 すでに述べたように、映画『ヒロシマ』の脚本は小説家マルグリット・デュラスによって書かれたも 1 ヌーヴェルヴァーグ(新しい波)と言う呼称自体は、1957 年 10 月 3 日付のフランスの週刊誌『レクスプレス』誌にフランソワ ーズ・ジルーが「新しい波来る!」と書き、そのキャッチコピーをその表紙に掲げたことが起源とされるこの言葉を映画に対す る呼称として用いたのは、映画ミニコミ『シネマ 58』誌の編集長であったピエール・ビヤールで、同誌 1957 年 2 月号において、 フランス映画の新しい傾向の分析のために流用した。 2 ヌーヴェル・ヴァーグには、カイエ・デュ・シネマ派とセーヌ左岸派二つグループがある。映画批評雑誌『カイエ・デュ・シネ マ』で評論家として活躍することから始めたゴダールやトリュフォー、リヴェットに対して、セーヌ左岸のモンパルナス界隈に 集まっているアラン・レネ、クリス・マルケル、アニェス・ヴァルダ、アラン・ロブ=グリエ、マルグリット・デュラスらを指す。 左岸派においては、ドキュメンタリー的手法を出発点としながら、政治的なメッセージ性が強く、登場人物の喋るセリフに文学 性がある。 3 『ヒロシマ 私の恋人』Hiroshima mon amour (1959 年/91 分/モノクロ/フランス=日本)。邦題は『二十四時間の情事』で あるが、原題の意味を尊重して、これからも『ヒロシマ、私の恋人』と表記する。

修士論文発表会 2016 07 27 - Tohoku University Official ......3 『ヒロシマ 私の恋人』Hiroshima mon amour (1959年/91分/モノクロ/フランス=日本)。邦題は『二十四時間の情事』で

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    修士論文発表会 2016.07.27

    アラン・レネの初期作品『ヒロシマ、私の恋人』における記憶、忘却、想起

    ―脚本執筆者マルグリット・デュラスの小説世界との比較を通して―

    ヨーロッパ文化論講座

    B4KM1007 呂思璇

    一.研究背景と目的

    1950 年代末から 1960 年代中盤にかけて、若い監督・映画作家たちは、新しい映像表現の手法を駆使

    し、数多くの秀れた映画作品を制作した。こうしたフランスにおいて起こった映画の運動はヌーヴェ

    ル・ヴァーグ(新しい波)1と呼ばれ、それ後の世界の映画界に大きな影響を及ぼした。ヌーヴェル・ヴ

    ァーグにおいて、左岸派2とよばれるグループの初の長編劇映画は、アラン・レネ監督(1922-2013)の

    『ヒロシマ、私の恋人』3であり、原爆投下後 13 年経った広島を舞台に撮影された。物語は平和につい

    ての映画を撮影するために日本を訪ねたフランス人女優が日本人の建築家と恋に落ちることで、それま

    で「忘却」の内に封印していた戦時下のドイツ兵士との初恋とその恋人の死についての「記憶」を再生

    させていく過程を描いている。本作はこのように、主体を狂気へと追いやりかねないトラウマを引き起

    こした「記憶」とその「忘却」、そしてその忘れ去られたはずの記憶の再生・回復(「想起」)を主軸と

    して展開していく。こういった内的なプロセスは、ディゾルヴ、トラヴェリング、フラッシュバックな

    どの手法により、画面の切り替えを通して具体的に表現されている。本研究では、デユラスの脚本テク

    ストに表された広島におけるヒロインの経験と、それに触発された内的な経験とが映画撮影・編集によ

    っていかに映像化されているのかを分析し、「記憶」、「忘却」、「想起」というレネにとっての重要なテ

    ーマの映像化の特徴を探った。

    二.先行研究

    『ヒロシマ、私の恋人』(以下、『ヒロシマ』と略する)は公開当時から、大きな反響を呼び、映画評

    論・映画研究において盛んに論じられてきた。主だった研究書としてはクリストフ・カルリエ(1994)

    らによる作品論がある他、最も近年ではエリック・コステックスによる総合的な論考『アラン・レネ、

    永遠性の記憶』(2013)がある。これらの研究書は、映画『ヒロシマ』を時代のコンテクストに位置づ

    け、ヌーヴェル・ヴァーグ最初期におけるこの映画の革新的な側面を再確認すると同時に、レネの初期

    作品において最も重要な主題である「記憶」と「忘却」、また「想起」について具体的な画面のコマ割

    りとその配列を分析しながら論じている。ただし、この映画の脚本を執筆した作家マルグリット・デュ

    ラスにとっての「記憶」と「忘却」の問題が、映画脚本の段階でいかに反映されているのかについての

    本格的な論考はさほど見られない。

    すでに述べたように、映画『ヒロシマ』の脚本は小説家マルグリット・デュラスによって書かれたも

    1ヌーヴェルヴァーグ(新しい波)と言う呼称自体は、1957年 10月 3日付のフランスの週刊誌『レクスプレス』誌にフランソワ

    ーズ・ジルーが「新しい波来る!」と書き、そのキャッチコピーをその表紙に掲げたことが起源とされるこの言葉を映画に対す

    る呼称として用いたのは、映画ミニコミ『シネマ 58』誌の編集長であったピエール・ビヤールで、同誌 1957 年 2 月号において、

    フランス映画の新しい傾向の分析のために流用した。 2ヌーヴェル・ヴァーグには、カイエ・デュ・シネマ派とセーヌ左岸派二つグループがある。映画批評雑誌『カイエ・デュ・シネ

    マ』で評論家として活躍することから始めたゴダールやトリュフォー、リヴェットに対して、セーヌ左岸のモンパルナス界隈に

    集まっているアラン・レネ、クリス・マルケル、アニェス・ヴァルダ、アラン・ロブ=グリエ、マルグリット・デュラスらを指す。

    左岸派においては、ドキュメンタリー的手法を出発点としながら、政治的なメッセージ性が強く、登場人物の喋るセリフに文学

    性がある。 3 『ヒロシマ 私の恋人』Hiroshima mon amour (1959年/91分/モノクロ/フランス=日本)。邦題は『二十四時間の情事』であるが、原題の意味を尊重して、これからも『ヒロシマ、私の恋人』と表記する。

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    のであるため、そこにはデュラスに固有の文学的な問題が反映しているのではないかと推測される。と

    りわけこの映画脚本を執筆する時期の直前に刊行された小説『モデラート・カンタービレ』 (1958)(以

    下『モデラート』と略する)においても、女性が男性の問いかけに答えていくにつれて、忘れ去ってい

    た出来事を次第に思い出していくというプロットが用いられている。したがって、デュラスの初期小説

    の転換点となったと評価されるこの小説作品の世界と、レネに提供した映画脚本の世界とを、両方のテ

    クストに基づきながら詳細に比較検討する必要がある。

    三.研究方法

    二つの側面から本作を研究する。第一に、映画脚本と小説『モデラート』とを対照させながら、『ヒ

    ロシマ』における「記憶」、「忘却」、「想起」の様相を分析する。第二に、レネの初期の短編映画『ヴァ

    ン・ゴッホ』(1948)、『ゲルニカ』と長編映画『夜と霧』(1955)を対象とし、映画の時間と画面の切り

    替わりおよびその繋がり方を分析した。具体的には、映画のそれぞれのディゾルヴ、トラヴェリング、

    フラッシュバック、反復などの映像技術的な特徴がどのように用いられているのを検討し、本作のモン

    タージュの方法がいかに「記憶」、「忘却」、「想起」の主題と緊密に関連しているのか明らかにしていっ

    た。

    四.各章総括

    第一章では、レネの初期映画『ヴァン・ゴッホ』、『ゲルニカ』、『夜と霧』において頻繁に用いられる

    撮影技法の分析を行った。そういった撮影技法が、その後いかに『ヒロシマ』に反映しているのかに着

    目しながら、初期短編映画とレネの最初の長編映画との間の技法上のつながりを見出した。

    第二章では、レネにとって固有の意味を持つ「記憶」、「忘却」、「想起」の主題が、『ヒロシマ』でい

    かに映像化されているのかを分析する前段階として、この映画の脚本執筆者マルグリット・デユラスに

    よって、それらの主題が映画脚本の段階でいかに導入されているのかについて論考した。『ヒロシマ』

    の直前に刊行された『モデラート』の小説世界とレネに提供した映画脚本の世界とを両方のテクストに

    基づきながら詳細に比較した。

    第三章では、デュラスのこの同時期の両作品において、「水」というテーマが「記憶」、「忘却」、

    「想起」の主テーマと緊密に繋がっている点を明確にした後、この「水」の具体的な現れである「海

    岸・川岸」、「血」、「酒」が媒介となって、ヒロインの「忘却」した「記憶」を「想起」させている

    ことを論じた。こういったデュラスにとって固有のテーマが『ヒロシマ』の脚本を通して、レネの

    映像にいかに反映しているかについて、撮影技法を通じて明らかにした。デュラスの小説世界を映

    像化する作業を経て、初期のレネにとって重要な「記憶」、「忘却」、「想起」のテーマがいかに現れ

    るのか、ショット分析によって跡づけた。

    五.まとめ

    本論は映画『ヒロシマ』を、「記憶」、「忘却」、「想起」のテーマとその形象をめぐるデュラスとレネ

    という二人の創作者の共同作業の結果として、言い換えるなら、前者の文学と後者の映画撮影手技法と

    が触発し合った成果として捉え、その詳細を「水・液体」という映画中の重要主題の一つの分析を通し

    て、さらにレネの駆使する映画技法の分析を通して究明した。そのために、脚本のテクストと映画映像

    とを対照させながら、デユラスの脚本テクストに表された広島におけるヒロインの経験と、それに触発

    された彼女の内的な経験とが映画撮影・編集によっていかに映像化されているのかを分析しながら跡づ

    け、「記憶」、「忘却」、「想起」という重要なテーマの特徴を探った。

  • 国際日本研究総合演習 A研究構想発表会 2016.7.27 B5KM1004 鄺知硯

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    香港の新派武侠映画における日本映画の影響

    ―張チャン

    張 徹・ツェー

    徹とと胡金銓キ ン ・ フ ー

    胡金銓の映画を中心に―

    国際日本研究講座

    B5KM1004 鄺知硯

    1. はじめに

    1950年代から 70年代初期まで、日本映画は欧米の映画祭で頻繁に受賞しており、海外特に東南アジア

    における上映も盛んだった。60年代中期以後、香港へも日本映画は大量に輸入された。この時期は香港と

    日本の映画交流の全盛期と考えられる。当時の香港でもっとも有力なスタジオとなった邵氏兄弟有限公司

    (ショウ・ブラザーズ、以下、邵氏と呼ぶ)1には欧米進出という願望があった。さらに東南アジアにお

    ける日本映画の王座を奪う意欲を持ち、国際的に通用する多様なジャンルの映画を開発したいと考えてい

    た。そして市場開拓や新技術の吸収などを求めた邵氏は、日本との合作を選択し、海外撮影や日本の人材

    の導入など様々な形式で映画業界の交流を行った。1960 年代、邵氏によって様々のジャンルの映画が製作

    されていたが、最も成功した作品は、武侠映画だった。それ以前盛んだ「旧派武侠映画」2と区別するた

    めに、また、当時流行していた「新派武侠小説」と呼応することで、この時期の武侠映画は「新派武

    侠映画」と呼ばれている。香港新派武侠映画と日本映画との影響関係について、これまで幾らかの指摘があったが、現段階では、この関連性についてはいまだ研究途上である。そこで修士論文では、「新派武

    侠映画」の代表的な監督―張徹と胡金銓の二人の映画作品を焦点として香港の新派武侠映画に与えた日本

    映画の影響について具体的な検討を行う。

    2. 先行研究の問題点

    ① 監督に関する先行研究

    張徹についての先行研究をはその研究方法により、二種類に分けることができる。第一種は、中国武

    侠映画史或いは香港映画史を総合的に考察する上で、香港武侠映画史の代表的な一人として、張徹を論じ

    た研究である。陳墨の『刀光侠影モンタージュ:中國武侠映画論(刀光侠影蒙太奇:中國武侠電影論)』

    が上げられる3。第二種は、張徹の生涯と彼の映画作品を中心に考察した論述である。例えば、David Desser

    はジェンダーの視点から、張徹の「陽剛」4武侠映画の諸特徴と、映画史における張徹の影響力を検討し

    た5。応雄は、張徹映画における戦闘シーンを中心とし、映画文法、映画表現の視点から、張徹の映画に

    おける運動が呈する形態の諸側面を論じた6。

    胡金銓に関する研究は主に彼の映画作品に含まれている哲学思想や芸術伝統及び映画技法などの方面

    について行われてきた。例えば、呉迎君は胡金銓映画における思想を哲学的に指摘した。賈磊磊(2005)7によると、胡金銓の武侠映画の武術シーンのデザインやリズムや音楽などは中国の京劇から取り入れら

    れたことを指摘している8。David Bordwell は胡金銓映画の監督手法や美学の追求やアクション・シーン

    の表現技法などを分析した9。

    しかし、前述の先行研究では、二人の映画作品と日本映画との関連性についての論述は少ないので、

    1 香港の映画会社。60 年代末から 70 年代に香港映画の黄金時代を築いた。香港の民営テレビ局「無綫電視」(電視廣播有限公司)の筆頭株主

    でもある。 2 1950 年代、量産されていた技術的に幼稚な広東語武侠映画であり、こういった武侠映画が 60 年代に入って時代遅れと感じられ、「旧派武侠映画」と呼ばれている。 3 陳墨 著『刀光侠影モンタージュ:中國武侠映画論(刀光侠影蒙太奇:中國武侠電影論)』(中国電影出版社、1996) 4 中国語で、「陽剛」は「男らしく勇ましい」を意味している。 5 David Desser ,“Making Movies Male: Zhang Che and the Shaw 17 Brothers Martial Arts Movies,1965-1975”,Masculinities and Hong Kong Cinema, in Laikwan Pang, Day Wong, eds. (Hong Kong: Hong Kong University Press, 2005), 17-34. 6 応雄 著「張徹映画における運動」(特集 映像批評の現在)『層1』(ゆまに書房、2007 年 06 月)、70-94 頁参照。 7 賈磊磊著『中国武侠映画史(中國武侠電影史)』(文化芸術出 1 版会、2005) 8 呉迎君『陰陽界:胡金铨の映画世界(陰陽界:胡金铨の電影世界)』(復旦大學出版社、2011) 9 David Bordwell, “Richness through imperfection: King Hu and the glimpse”,The Cinema of Hong Kong: History, Arts, Identity, in Poshek Fu and David Desser, eds. (New York: Cambridge University Press, 2000),113-136.

  • 国際日本研究総合演習 A研究構想発表会 2016.7.27 B5KM1004 鄺知硯

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    日本の映画が二人の武侠映画に与えた影響が具体的にどのような性格であったかについては、これまで十

    分な考察がなされてきたとは言いがたい。

    ② 影響関係に関する先行研究

    邱淑婷は、日本映画からの影響に関する歴史的事実に絞り、香港映画が日本映画からの影響を受けた

    ことを考察した10。David Desser は 2008 年、黒澤明の『七人の侍』(1954)の影響力について、「張徹の

    映画『辺城三侠』は、黒澤明の監督映画のリメイク映画『三匹の侍』11を再度リメイクした映画である」

    と指摘した12。2015 年、彼は映画史に基づいて 1960 年代から邵氏など映画会社は、どのように日本映画

    業界との交流、または日本映画を参考するという手段を通じて、香港会社のグローバル化を押し進めたの

    かという問題に関して、考察を行った13。だが現段階では、日本映画と新派武侠映画との関連性について

    はいまだ研究途上であり、中国の新派武侠映画の内容及び技法の面において、どのような日本映画からの

    影響が存在しているのかについて、また、作品のシナリオ及び演出に関する分析を踏まえた、より具体的

    な考察は未だ不十分と言える。

    3. 論文仮構成

    序章

    第一章 新派武侠映画について

    第一節 中国(香港)武侠映画の歴史14

    第二節 1960年代日本・香港の映画交流の背景

    第二章 張徹映画における日本からの影響

    第一節 評論家張徹の日本映画への姿勢

    第二節 『三匹の侍』から『辺城三侠』への転換

    第三節 『片腕必殺剣』と『座頭市』から見る

    「男らしさ」

    第三章 胡金銓映画における日本からの影響

    第一節 胡金銓映画の製作背景

    第二節 『大酔侠』における「殺陣」

    第三節 『残酷ドラゴン 血闘!竜門の宿』に

    おける撮影法

    終章

    4. 論文内容

    本論文は、序章及び終章を除いて、三章からなる。以下、その内容を簡潔に述べたい。まず第一章では、

    先行研究を踏まえながら、中国(香港)武侠映画の歴史、邵氏「カラー武侠映画世紀(彩色武侠映画世紀)

    彩色武侠映画世紀」の経緯、及び日本映画会社との交流活動について考察を行う。その考察によって、新

    派武侠映画の誕生の歴史的コンテキストを提示したい。

    続く第二章では、張徹が執筆した映画評論及び彼の武侠映画を対象とし、日本映画と横断的に比較する

    ことで両者の間の影響関係を検討する。具体的には、(1)1959 年から 1962年まで、張徹がペンネーム「何

    観」で発表した映画評論を取り上げ、日本映画に関する 15 編の評論を中心として分析することを通じて、

    その評論の内容と特徴、監督を務める以前の張徹が日本映画から得た見解、及びその評論と香港武侠映画

    との関連性などを明らかにする。(2)リメイク映画『辺城三侠』(1966)と原作との比較を通じて、新派

    武侠映画が改良された過程における「現地化」及び「国際化」という二つの特徴を考察し、さらに、これ

    に関する日本映画からの影響を把握する。(3)映画『片腕必殺剣(独臂刀)』(1967)と日本映画『座頭

    市』シリーズを取り上げ、男性人物の人物造形と人物関係という二つの視点から、張徹の映画における「陽

    剛」美学と日本映画との関連性を探求する。

    第三章では、中国武侠映画史における胡金銓映画の位置を歴史的に検討して、彼の映画の製作背景にお

    ける日本映画との交流活動の実態を明らかにし、同じ時期の日本映画と比較し、分析することで、胡金銓

    における日本映画からの影響を検討してみる。『大酔侠』(1966)におけるアクション・シーンを取り上げ、

    日本映画『座頭市』シリーズにおける殺陣のシーンとの比較を行い、内容と映画技法と二つの面に焦点を

    当てて、両者の異同を探究したい。さらに、映画『残酷ドラゴン 血闘!竜門の宿(残酷ドラゴン 血闘!

    竜門の宿龍門客桟)』15(1967)、『侠女』(1971)を扱い、撮影法の視点からシーンにおけるショットの比

    10 邱淑婷『香港・日本映画交流史 : アジア映画ネットワークのルーツを探る』(東京大学出版会、2007) 11 『三匹の侍』は、元々1963 年から放映された連続テレビ時代劇であった。映画版『三匹の侍』(1964/五社英雄)は、第 1 シリーズ放映終了後に、テレビドラマ版の人気を受けて松竹とさむらいプロの共同制作により、五社英雄監督の演出で映画化されたものであった。 12 David Desser ,“Remaking Seven Samurai in world cinema” , East Asian Cinemas:Exploring Transnational Connections on Film,in Leon Hunt, Leung Wing-Fai, eds. (Padstow: I.B.Tauris,2008 ),17-40. 13 David Desser ,“Globalizing Hong Kong Cinema Through Japan”, A Companion to Hong Kong Cinema, in Esther M. K., Cheung Gina Marchetti, Esther C. M. Yau, eds. (Pondicherry: John Wiley & Sons,2015), 168-184. 14 1949 年中国国共内戦の終結をきっかけとして中国映画界は大陸映画、香港映画、台湾映画の三つの支流に分かれた。1949 年からの 30 年間、中国大陸は武侠に関する作品(映画や小説なと)を禁止した。武侠映画の中心は香港に移動しながら、台湾にも影響を与えた。それゆえ、『刀光侠影モン

    タージュ:中國武侠映画論(刀光侠影蒙太奇:中國武侠電影論)』(1996)など中国映画に関する先行研究において、この時期の香港武侠映画は中国武

    侠映画の一つの支流として論じられている。

  • 国際日本研究総合演習 A研究構想発表会 2016.7.27 B5KM1004 鄺知硯

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    較を行い、黒澤明の映画『七人の侍』(1954)との共通点の考察を試みる。

    現在のところ、本研究第二章の第二節あたりまで進んでおり、これから第二章の第三節と第三章の内容

    を明らかにする。

  • 1

    研究題目発表会 28.07.27

    ガストン・ルルー『オペラ座の怪人』の映画化における改編の研究

    ―ジョエル・シュマッカーとロニー・ユーによる翻案―

    ヨーロッパ・アメリカ研究講座

    B6KM1002 ゴ シエン

    1. 問題意識

    改編は「再創作」であり、新たな作品創造の過程として捉える必要がある。

    映画製作時の条件の違いにより、同一の文学作品の映画であっても、相違点が生じる。

    本研究はガストン・ルルーの小説『オペラ座の怪人』と、改編された二本の映画との比較研究

    を行う。映画の製作された文化的背景の違いも考慮に入れながら、文学から映画へという表現メ

    ディアの根本的な転換の際に生じる形式面と内容面における変容を考察する。

    2. 研究対象

    A.原作小説:Gaston Leroux, Le Fantôme de l’Opéra,1910.

    ガストン・ルルー (1868-1927)1、『オペラ座の怪人』

    B.翻案映画:『オペラ座の怪人』The Phantom Of The Opera(ジョエル・シュマッカー監督、2004 年、

    アメリカ、カラー、143 分)

    『夜半歌声やはんかせい

    (逢いたくて、逢えなくて)』(ロニー・ユー監督、1995 年、中国、カラー、100 分)

    *選択理由:二本の映画に 3 つの共通点

    1. 原作のストーリーの筋を大幅に削減し、倒叙の手法で物語を展開していくこと。

    2. 映画中の物語の主な筋立てとしてのオペラの上演があること、および音楽がそれぞれの物語の展

    開を推進していること。

    3. 「怪人」(エリック、または宋ソン

    丹タン

    平ピン

    )の人物像を美化していること。

    3. 研究方法と目的

    方法:原作小説と二本の翻案映画の内容上及び形式上の比較考察。

    目的:①映画化における改編の諸相を、小説とその映画化作品二本との比較により明らかにする。

    ② 映画を製作する側と作品受容する側の文化(アメリカ文化と中国の文化)のそれぞれの

    特性も考慮しながら、監督の創造者としての個人的な要因、さらに変容の仕方を左右す

    る異なる文化的、社会的な要因を究明する。

    ③ <文字>から<映像-音声>へ表現メディアが変化したという根本的条件を視野に入れ、映画

    表現の特性を明らかにする。

    4. 内容と形式の比較対照

    ガストン・ルルーによる原作小説とシュマッカーの『オペラ座の怪人』、およびロニー・ユーの『夜半

    歌声』との間には以下の表1で示すような異同点が見られる。さらに 2 本の映画の撮影手法に見られる

    特徴は、表 2 で示すとおりである。これらの内容上・形式上の特徴を中心に、小説とその翻案映画の分

    析と論考を進める予定である。なお、映画化の参考とされた可能性のあるミュージカル『オペラ座の怪

    人』(アンドリュー・ロイド=ウェバー音楽担当、1986年ロンドンにて初演)も考察対象とし、既に DVD化されてい

    るこの演劇作品のストーリーや演出から映画に取り入れられた要素を抽出することも必要であろう。

    1 ガストン・ルルー(Gaston Leroux, 1868-1927)はフランスの大衆小説作家。1910 年に発表した『オペラ座の怪人』は、

    その後何度も映画、テレビドラマやミュージカルに翻案されている。

    https://ja.wikipedia.org/wiki/1910%E5%B9%B4https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%9A%E3%83%A9%E5%BA%A7%E3%81%AE%E6%80%AA%E4%BA%BAhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%AB%E3%83%AB

  • 2

    表 1:原作と二本の映画化作品の内容上の異同点一覧

    項目 『オペラ座の怪人』 (原作)

    ガストン・ルルー

    『オペラ座の怪人』

    シュマッカー監督

    『夜半歌声』

    ロニー・ユー監督

    物語の時代 19 世紀末のパリ 19 世紀末のパリ 20 世紀前半の北京

    主な登場人物 ① 話者の「私」

    ② エリック(ファントム)

    ③ クリスティーヌ(ファント

    ムの思慕の対象)

    ④ラウル(クリスティーヌの恋

    人)

    ⑤ ペルシア人など

    ①エリック(ファントム)

    ②クリスティーヌ(ファントム

    の思慕の対象)

    ③ラウル(クリスティーヌの恋

    人)

    ①宋丹平(ファントムに相当する人物)

    ② 杜 云 嫣ドウユンエン

    (宋丹平の恋人)

    ③ 韦ウェイ

    青チン

    (クリスティーヌに相当する

    人物であるが、男性で、ファントムで

    ある宋丹平と師弟関係である。)

    物語の主な出来事 ① エリックの犯罪的行為

    (クリスティーヌの誘拐、

    ラウルの幽閉、等)

    ②ファントムの指導によるクリ

    スティーヌの成功

    ③ファントムとクリスティー

    ヌ、ラウルとの恋愛の三角関

    ①ファントムの指導によるクリ

    スティーヌの成功

    ③ ァントムとクリスティー

    ヌ、ラウルとの恋愛の三角

    関係

    ①宋丹平の指導による韦青の成功

    ②宋丹平と杜云嫣との悲恋

    結末 エリックの死 エリックの失跡 宋丹平と杜云嫣の出奔

    表 2:二本の映画化作品の形式上の異同点一覧

    映画作品

    手法

    『オペラ座の怪人』(シュマッカー監督)

    『夜半歌声』(ロニー・ユー監督)

    ショットサイズ クローズ・アップの多用 ミディアム・クローズ・アップの多用

    カメラの移動

    トラベリング(カメラをレールの上など

    で滑らせながら撮影する)の多用

    パン(カメラの設定軸は固定させながら、カ

    メラを上下・左右に回転させる)の多用

    参照文献(抄)

    李姝穎「『歌劇魅影』与『夜半歌声』的空間互文」『電影文学』2013 年 22 期、pp.66-67.

    Susan Kavaler-Adler, ABPP, Ph.D. (2009)“Object Relations Perspectives on Phantom of the Opera and its Demon

    Lover Theme”,The Modern Film American Journal of Psychoanalysis, 69: pp.150-166.

    ルイス・ジアネッティ『映像技法のリテラシー Ⅰ 映像の法則・Ⅱ 物語とクリティック』[2002]、堤和子・増田珠子・

    堤龍一郎訳、フィルムアート社、2003 年・2004 年.

    ベラ・バラージュー『映画の理論』[1949]、佐々木基一訳、学藝書林、1992 年.

  • 1

    研究題目発表会 平成 28年 7月 27日

    中国における『枕草子』の翻訳比較について

    ―周作人と林文月の訳本比較を中心として―

    アジアアフリカ研究講座

    B6KM1008 費 思嘉

    一、研究背景と研究目的

    『枕草子』は平安時代中期に中宮定子に仕えた女房清少納言が執筆した作品である。『源氏物

    語』に比肩する中古文学の双璧として、後世の文学にも大きな影響を与えた。当時の宮廷生活に

    関する様々な面が清少納言によってこの随筆の中で生き生きと表現されている。随筆文学の最初

    の作品として史的位置は重く、その後に『方丈記』、『徒然草』などがつらなってゆくことにな

    る1。

    『枕草子』は中国でいくつかの訳本がある。今のところ、中国語を母語としている中で、影響

    力が最も深い訳本が二つあって、それぞれは周作人と林文月の訳本である。周作人(1885-1967)

    は近代中国の大作家、翻訳家、日本研究者であり、林文月(1933-)は台湾の女性作家、学者、

    翻訳者である。周作人と林文月の訳本にはそれぞれの特徴がある。今まで、中国語では周作人の

    訳本がもっとも最初の訳本となり、中国近代白話に近い言葉で原作の意味をよく表現している。

    二人の翻訳者の翻訳背景、文学観、文体、翻訳方法と言語表現などの分析を通して、その訳本の

    表現により表される表現方法と世界観、及び、文学的価値をいかに伝えられるかについても考察

    する。

    二、先行研究

    これまで『枕草子』についての研究が数多く行われているが、『枕草子』の中国訳本比較を中

    心とする研究がはまだ少ない。日本古典文学の中国訳本比較の先行研究の中で、「『源氏物語』

    に関する翻訳検証研究の必要性―豊子愷、林文月、姚継中の翻訳した『源氏物語』和歌を例とし

    て」2という論文が挙げられる。作者は具体例を挙げ、翻訳の背景から、訳文の形式、語彙選択ま

    で分析し、三訳者による訳文の正確性、文学性などについて比較研究を行った。同じ平安時代女

    流作家による執筆した古典作品である『枕草子』の中国訳本比較研究に参考になると考えている。

    周作人と林文月の翻訳と文学観についての近年の先行研究では、潘秀蓉は、「1920年代の中国

    における日本文化の研究について―周作人の日本古典の翻訳紹介を中心に」3という論文の中で、

    特に周作人の日本古典の翻訳に注目し、周作人の日本文化観から翻訳の方法までを論じている。

    翻訳の方法について、特に「直訳の方法」、「白話文の採用」などの例を挙げて、周作人による

    日本古典文学の翻訳方法を分析するという点も参考になると考える。閻琳は「林文月訳『源氏物

    語』における和歌の翻訳特色について」4で、林文月による「楚歌体」の翻訳方法を中心とし、具

    体例をあげ、林文月の翻訳の特徴を分析した。これらの先行研究を踏まえ、二訳者の翻訳背景を

    分析した上で、二つの訳本に関する比較分析では、具体的に翻訳方法から使用されている語彙ま

    で分析を行うのは二訳者の翻訳思想の解明と訳文の正確性、文学性の分析に有利だと考えている。

    1 池田亀鑑、岸上槙二、秋山虔『日本古典文学大系』19 『枕草子 紫式部日記』 岩波書店 1958 年 27頁

    2 姚継中「『源氏物語』に関する翻訳検証研究の必要性―豊子愷、林文月、姚継中の翻訳した『源氏物語』和歌を

    例として」『山口大学東アジア研究科客員教員研究報告』 2014 年 287-302 頁 3 潘秀蓉「1920 年代の中国における日本文化の研究について―周作人の日本古典の翻訳紹介を中心に」『東京外

    国語大学日本研究教育年報』2009 年 123-136 頁 4 閻琳「林文月訳『源氏物語』における和歌の翻訳特色について」『剣南文学』第八期 2013年 248-251頁

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E5%B1%B1%E8%99%94https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%95%E8%8D%89%E5%AD%90https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AB%E5%BC%8F%E9%83%A8%E6%97%A5%E8%A8%98

  • 2

    三、研究内容

    1.周作人による『枕草子』の翻訳の背景を検討する。

    周作人は一生をかけて、膨大な量の翻訳作品を完成し、現代中国翻訳史上大きな貢献した。

    周作人が早い時期から日本文化へ特に日本古典への関心を示した。日本の俗謡、俳句、短歌、

    川柳、狂言などの古典文学を中国に紹介したほか、『古事記』、『徒然草』、『枕草子』、『平

    家物語』などの日本古典名作も翻訳した。彼の翻訳に対する見解がしばしば翻訳作品の序文に

    散見していた。「日本近三十年小説の発達」5、「翻訳四題」6などのエッセイの中で、彼の文学

    翻訳に対する見解と使用した翻訳手法などがよく見られる。その一方、散文家である周作人の

    文学観が彼の翻訳作品にも大きな影響を与えた。それは訳文のスタイルと語彙選択などへの影

    響だけでなく、どんな作品を翻訳すべきか、何のために翻訳するかなどの根本的な問題にも影

    響を与えた。

    2.林文月による『枕草子』の翻訳の背景を検討する。

    林文月は 1933年上海の日本租界に生まれる。小さい頃から日本教育を受け、台湾に戻った後

    中国教育も受け、台湾大学の中文系に進学する。中国六朝文学、日中比較文学の研究者である

    ほか、散文創作と文学作品の翻訳にも従事し、台湾文壇に多大な影響を及ぼした。中国文学と

    日本文学の両方とも高い知識を持つ林文月が特に日本文学翻訳に貢献した。『源氏物語』、『枕

    草子』、『伊勢物語』、『和泉氏部日記』などの有名な中国語訳作品がある。散文作品と翻訳

    作品に一貫する女性特有な繊細さが林文月の翻訳スタイルにおける重要な要素である。林文月

    は日本文学を翻訳することから、執筆の方法をも吸収し、懸け隔たる時空を越えて、千年前の

    作者と対話を行い、自らの人生の感得を述べる。林文月は「あなたの心情―『枕草子』の作者

    へ」7で、清少納言の悲哀の心境を細やかに理解し、宇宙・自然に対する、四季の移りゆきに対

    する鋭敏な観察力に感嘆する。女性という角度から互いの心を通わせ、作者への尊敬と愛慕を

    表現する8。

    3.周作人と林文月の訳本比較は三つの視点から比較分析を行うことにする。

    1)二訳者の翻訳背景を比べる。二人の翻訳者の人生経験、文学観と文体などの違いが訳本

    の言葉遣いとスタイルに一定の影響を与えると考える。このように訳本のスタイルと世界観

    に影響を与える可能性を分析する。

    2)二訳者の翻訳方法と使用されている語彙を比べる。本研究はある特定の「章段」と言葉

    の翻訳を比較分析することによって、翻訳方法と言語選択の重要性を検討する。特に、周作

    人が唱える「直訳」の方法に着眼し、林文月の翻訳方法に比べて、それぞれの優劣について

    の考察を試みる。

    3)二訳者における和歌に関する翻訳手法を比べる。周作人は『枕草子』の中に出ている和

    歌を訳す時、三行に分けて白話文の形で独創的な翻訳方法を用いた。それに対して、林文月

    は自分で作った「楚歌体」で和歌を翻訳した。外国詩歌の翻訳については、周作人は定型詩

    ではなく、散文の形で訳す方法を提唱していた。その翻訳思想も和歌の翻訳によく体現して

    いる。

    5周作人「日本近三十年小説の発達」『新青年』第 5巻第 1号(1918年 7月 15日)

    6周作人(署名遐寿)『翻訳通報』第 2卷第 6期(1951年 6月 15日)

    7林文月『作品』九歌出版社 1997年 88頁

    8倪金華(中井政喜訳)「台湾作家林文月の日本文学とのゆかり」『多元文化』(1) 2011年 3月 175-184頁

  • 1

    研究題目発表会 平成28年7月27日

    アフリカ系アメリカ人から見た日系アメリカ人リドレス運動

    ヨーロッパ・アメリカ研究講座

    B6KM1001 阿部純

    1. 研究の背景

    ・リドレス運動:第二次世界大戦時にアメリカ政府が講じた日系アメリカ人(以下、日系人)強制収容政

    策1に対する日系人自身による補償要求運動。

    *運動以前のアメリカ政府と日系人の対応

    「1948 年日系アメリカ人立退き賠償請求法 The Japanese-American Evacuation Claims Act of 1948」:

    強制立退き・収容による補償金の支給を規定(しかし、補償金は実損額の 10 分の 1。その後、

    補償を求める動きは一切なくなる)。

    ・運動の背景:1950 年代以降の公民権運動を契機とする一連のマイノリティ運動によって日系人の間で強

    制収容政策への批判的視点が生まれる。

    ・運動の開始:JACL(日系アメリカ人市民同盟)におけるリドレス要求議決案の採決(1970 年)。

    ・運動の展開:日系団体の働きかけにより全米各地で公聴会が開催。議会に法案を提出し補償を訴える。

    ・運動の成果:当初、アメリカ政府は強制立退き・収容を「軍事上の必要性」として正当化したが、レー

    ガン政権期に「1988 年市民的自由法 Civil Liberties Act of 1988」が成立し、アメリカ政府による公式な謝

    罪と補償金の支給が決定。

    ・着眼点:リドレス運動は公民権運動やブラックパワー運動等から触発されて始まったとして見られてい

    るが、アフリカ系アメリカ人の運動とリドレス運動の関係は主に日系側の視点から論じられてきた。

    ➜アフリカ系アメリカ人はリドレス運動をどのような観点から見ていたのか?

    2. 先行研究とその問題点

    以上の視点に立った研究

    Thornton, Michael & Tajima, Atsushi. “A ‘Model’ Minority: Japanese Americans as References and Role Models in

    Black Newspapers, 2000–2010.” Communication and Critical/Cultural Studies 11, no. 2 (2014): 139-157.

    ・近年の、アフリカ系アメリカ人とアジア系アメリカ人の関係を明らかにするためにアフリカ系アメリカ

    人の対日系人意識を調査・分析。

    黒人新聞における“Japanese American”や“Japanese in America”に関する記事やコラムを対象に調査。

    ‣ 奴隷制以来の黒人に対する犯罪行為に対する謝罪や補償がないことへの不満

    ‣ 黒人への補償金を獲得した場合、その使い方に関する意見

    ‣ 日系人の強制収容における被害と奴隷制下における黒人の被害の違いに関する議論

    1 1941 年、日本の真珠湾攻撃後に太平洋戦争が開始。アメリカ政府は国防に危険をもたらす可能性があると

    して、アメリカに住む日系人に当時住んでいた区域からの立退きを強制し、収容所へと送った。

  • 2

    ➜黒人新聞が日系人をアフリカ系アメリカ人補償運動の「手本 role model」として見なしていることを指摘。

    (「まず、アジア系アメリカ人が一つの集団として考えられているにもかかわらず、日系アメリカ人

    は他のアジア系とは異なる一つの集団であり補償運動の手本として利用するのに十分であると黒人

    新聞は見なしている(“First, despite the notion that Asian Americans are a group, black papers see Japanese

    America as distinct, notably enough to use them as a role model for a reparations movement”)2」)

    本研究の功績:アジア系をひとくくりにするのではなく、アフリカ系アメリカ人と日系人との関係性に注目。

    ➜2000 年から 2010 年の間の黒人新聞の日系人に関する報道内容から、「2000 年以降の黒人新聞が日系人を補

    償の手本として見ていること」を導き出すことにより、対立ばかりが強調されてきたアジア系アメリカ人と

    アフリカ系アメリカ人の関係性に修正を加える。

    問題点

    ・2000 年以前のアフリカ系アメリカ人と日系人の関係に関する記述が不十分

    ➜2000 年以前の両者の関係が不明確

    ・アフリカ系アメリカ人が日系人を補償という点で見始めたのは 2000 年以降なのか?

    ➜ローズウッド事件に対するリドレスの実現例3を見るなら、少なくとも、1993 年以前にアフリカ系アメリ

    カ人がリドレス運動に注目していた可能性。

    3. 研究課題と方法

    研究課題:2000 年以前のアフリカ系アメリカ人のリドレス運動観を検討することで、彼らの対日系人意識

    を解明し、両者の関係の歴史的構築過程を明らかにする。これによって、対立ばかりが強調されてきたアジ

    ア系アメリカ人とアフリカ系アメリカ人の新たな関係を明らかにすることができる4。

    研究方法:1 )1970 年から 1988 年までの黒人新聞におけるリドレス運動関連の記事やコラム等の分析。

    2 )リドレス運動に携わった黒人議員の思想とその具体的活動の分析。

    4. 主要参考文献

    Shimabukuro, Mira. Relocating Authority: Japanese Americans Writing to Redress Mass Incarceration. Boulder:

    University Press of Colorado, 2015.

    Thornton, Michael and Tajima, Atsushi. “A ‘Model’ Minority: Japanese Americans as References and Role Models in

    Black Newspapers, 2000–2010.” Communication and Critical/Cultural Studies 11, no. 2 (2014): 139-157.

    竹沢泰子『日系アメリカ人のエスニシティ―強制収容と補償運動による変遷―』東京大学出版会、1995 年。

    土田久美子『日系アメリカ人リドレス運動の展開過程―集合的アイデンティティと制度形成―』博士論文、

    東北大学、2008 年。

    2 Thornton, Michael and Tajima, Atsushi. “A ‘Model’ Minority: Japanese Americans as References and Role Models in

    Black Newspapers, 2000–2010.” Communication and Critical/Cultural Studies 11, no. 2 (2014): 139-157, 152. 3 1923 年にフロリダ州ローズウッド地区の黒人住民が白人の集団的暴力によって損害を被った事件。州、地

    元当局は白人たちの暴力を止めるどころか、時として助長すらした。1993 年、当時の生存者が日系人リドレ

    ス運動を参考にフロリダ政府に法案を提出し、150,000 ドルの金銭が個々に支払われた。 4 Thornton & Tajima によるアジア系とアフリカ系の対立の主張の妥当性も見ていく必要がある。

  • 国際文化研究科研究題目発表会レジュメ 平成28年7月27日

    清真女学を通して見るムスリム女性の文化自覚

    アジア・アフリカ研究講座 B6KM1006 張 潔

    一.研究背景と目的

    清真女学1の現れは中国ムスリムの壮挙の一つであり、重視すべき文化現象であるとい

    えよう。清真女学は宗教の教育機関として、フォーマル教育機関が供給しえない宗教教育

    をムスリム女子に提供し、また漢語とアラビア語の二言語識字教育、更には教養に資する

    社会常識も提供している2。清真女学は中国イスラーム社会においてイスラーム知識の伝

    播、民族文化の発揚、ムスリムの教育事業の推進、女性の自己意識の形成、家庭および社

    会の安定などにおいて大きな役割を果たしているが、従来これに関する研究は少なかった。

    中国回族イスラーム教文化の産物として、清真女学は豊富な歴史、文化内容を持っている。

    清真女学に関連する問題は社会学、歴史学、文化学、宗教学など多方面から検討すること

    ができる。

    中国の清真女学は経堂教育を伴って現れてきた。これは経堂教育改革の新しい形式であ

    り、中国文化と融合、調整するうえに生み出したものである。女学はムスリム女性に影響

    を与えるだけではなく、ムスリムによるイスラーム文化の伝承と発展の面でも重要な意義

    がある。したがって、発表者は清真女学の出現、発展、現状などの面を糸口として、その

    学術的な価値を掘り出したい。そこで、筆者は具体的な地域を取り上げて、当該地域の清

    真女学の歴史および実態について考察したい。さらに、清真女学で行われているイスラー

    ム教育の内容、生徒たちの教育生活の実態、清真女学の教育目標と生徒たちの意識との間

    にどのような関連性があるのかについて探求したい。上述の諸問題の検討から、現代清真

    女学の生徒たちのライフスタイルや自己の宗教文化に対して持っている意識などを明ら

    かにしたい。清真女学を通して女性の文化自覚を考察するのは回族社会に直面する宗教文

    化伝承の問題に役を立てようと思っている。

    二.先行研究と問題点

    今までの女学に関する先行研究を大まかに分けると、主に二つ方面が分類できる。一つ

    は女学の歴史に関する研究、もう一つは教育の面から行う研究である。

    清真女学に関する研究で最も全面的に検討されたのは水鏡君とジャショックの共著し

    た『中国清真女寺史』3である。本書は、中国清真女学およびムスリマに関する中国側と

    西洋側の異なる観点をそれぞれまとめた。その上、中国の史料を駆使し中国清真女寺の発

    展を分析した。中国女学から女寺までの発展と変化およびムスリマたち宗教信仰の追求も

    全面的に整理した。また松本ますみは現代中国におけるイスラーム教復興の動きを、「女

    学」と呼ばれるイスラーム女学校を考察した4。松本が本書で扱われているのは主に中国

    西北地域の貧しい回族ムスリムである。そして、馬燕は寧夏の清真女学を考察し、農村社

    1 『清真女寺史』第 157頁~第 159頁参考。(水鏡君 、ジャショック ・2002年・生活.読書.新知三聯

    書店)によると、女学というのは女子経学とも呼ばれる。婦女が宗教教育を勉強する場所である。多く

    がモスクの付属機関で、アラビア語や中国語、イスラーム的論理的道徳を教えている。“女学”という言

    葉は最初現れてきたのは清康熙年間(1690年)に成書の『経学系伝譜』である。清朝中晩期、中原女学

    は女寺に発展した後、ムスリムは女寺と呼び始めたが、女学の呼称もそのまま使用される。 2 金仙玉.「清真女学におけるムスリム女子学生の社会進出に関する意識調査と要因分析―中国甘粛省臨

    夏中阿女校を事例として―」(『国際開発研究フォーラム』32.2006.12)参照。 3 水鏡君、ジャショック.『中国清真女寺史』(北京:生活.読書.新知三聯書店、2002年)

    4 松本ますみ.『イスラームへの回帰 中国のムスリマたち』(山川出版社 2010)

  • 国際文化研究科研究題目発表会レジュメ 平成28年7月27日

    会の女学による文化継承の現状や女性の意識について分析した5。結論として、伝統的な

    回族家庭において、女性の宗教知識を伝授する地位が認められた。

    問題点:中国イスラーム教の女子教育について、中国では断片的な研究が『回族研究』

    等の雑誌で発表されてきたが、その全体像を把握する努力はまだ緒についたばかりである。

    その理由の第一に、中国イスラーム教の研究者がほとんど男性であり、イスラーム教女子

    教育が長い間に男性研究者の興味の範囲外にあったことが挙げられる。たとえば、寧夏社

    会科学院回族イスラーム教研究所は中国におけるイスラーム教研究の中心であり、その研

    究員の 90%以上が回族の男性である。6

    第二に、イスラームに関する研究の発展時間が短いのである。1979年の改革開放以降、

    中国イスラーム研究が本格的に展開し、まだ 27年の歴史しかない。文化大革命の間、27

    年にも省みられることがなかった少数民族・宗教研究の遅れを追いかけるのが難しい。

    第三にイスラーム教育を行う女子学校(中阿女学、中阿女校)の設立が再開されるよう

    になってまだ歴史が浅いという事実である。民国時代(1912− 1949) にはいくつかのイ

    スラーム女子学校が公的あるいは私的な支援のもとに中国各地に設立された。しかし、抗

    日戦争、国共内戦、そして新中国建国からまもなく始まった混乱の中で、その多くが閉校

    された。学校が再開されるようになったのは 80年代に入ってからである。

    第四に中国清真女学についての研究対象は主に西北地区に集中する。特に西北ムスリム

    集居地、例えば寧夏韦州、甘粛臨夏地区の中阿女校などが挙げられる。

    三.研究方法

    本研究は先行研究に基づき、文献分析法を生かしてまずいくつかの文献や資料を取りあ

    げて先行研究の整理を行う。清真女学の歴史を把握するには、主に『清真女学史』と『経

    学系伝譜』を参考する。図書、ネット、新聞、雑誌などの清真女学に関する史料と二次資

    料をできる限り収集して系統的にまとめる。また、女学の問題について全体像を把握する

    ために雑誌『回族研究』の歴刊からイスラーム女性教育に関する論文を引き抜いて整理す

    る作業を行っている。

    つぎ、課題の研究現状をよく把握した上に、具体的の地域を選んでこの地域の女学の歴

    史、発展をまとめて、この地域の具体の清真女学を対象として現地調査する。研究方法と

    しては、参与観察とインタビューの方法を用いる予定である。参与観察では女学の生徒の

    日々の生活、清真女学におけるイスラーム教育および教育目標に注目し、生徒へのインタ

    ビューでは女学に通う動機、卒業後の進路、回族の伝統文化としての宗教文化は現代にお

    ける伝承問題について聞く。教師へのインタビューでは清真女学に勤めている動機、現代

    社会において宗教文化を伝承する意義についての見方について質問する。

    最後に現地調査で取材した調査結果を分析して結論をまとめる。本研究は、現代ムスリ

    ム女性研究に例を補足できる。中国のムスリム女性はどのような特質があるのかを明らか

    にするのはイスラーム教の研究に役立てたいと考えている。

    5 馬燕・「从清真女寺的兴起談回族婦女的文化自覚-以寧夏同心県城区女学为个案」(「清真女寺の起源か

    ら回族婦女の文化自覚を論じる―寧夏同心県城区女学を例として」)・寧夏社会科学・ 2007年 3月第 2

    期 6 松本ますみ「中国西北におけるイスラーム復興と女子教育一臨夏中阿女学と韋州中阿女学を例として

    一」(敬和学園大学研究紀要 10, 145-170, 2001-02-28)

  • 1

    博士論文中間発表会 2016 年 7 月 27 日

    ダイアナ・アプカーとアルメニア人大虐殺 ―日本で行った難民救済活動と執筆活動―

    国際日本研究講座

    B5KD1006 メスロピャン メリネ

    1. 研究の背景

    本研究は日本で活動していたアルメニア人ダイアナ・アガベッグ・アプカー(1859-1937)とオスマ

    ン帝国によるアルメニア人虐殺(1884-96、1909)、アルメニア人ジェノサイド(1915-23)との関係、

    そのジェノサイドでの難民、犠牲者に対する彼女の日本で行った人道的活動についてである。ダイア

    ナは 1890 年の来日以来、日本で生涯を送った。彼女は作家、人道的活動家であり、オスマン政府のア

    ルメニア人に対する迫害、大虐殺、不正に対して、公正な対応を要求する様々な著作を書き、さらに

    1915-23 年のジェノサイドを逃れ、日本に辿り着いたアルメニア人難民を助け、救済を行った。

    ダイアナ・アプカーはアルメニアの歴史上非常に重要な役割を果たした人物であるが、十分に研究

    されていない。先行研究も非常に少ない。ダイアナについての研究はこの 10 年間でようやく緒に就い

    たと言える。

    ダイアナは、1859 年 10 月 17 日に英国植民地インドの一部であったビルマ(現在のミャンマー)の

    首都ラングーン(現在のヤンゴン)でアガベッグ家の第 7 子として生まれた。やがて、一家はラング

    ーンからカルカッタへ移住した。ダイアナは当地の尼僧院で英語の教育を受けた。彼女はその地で、

    アジアを中心に貿易業を営んでいた新ジュルファ出身のアプカー・ミカエル・アプカー(Apcar Michael

    Apcar, 1855-1906)と出会い、1889 年 6 月 18 日に結婚した。ハネムーン旅行は、日本の神戸であった。

    そこで、彼らは日本の文化、日本人の礼儀正しい態度に心を引かれ1、1891 年、日本に移住することを

    決めた。しかし、日本に移住した理由はそれだけではない。日本で既にアプカー商会(Apcar & Co.)2

    が知られていた3ことは、ダイアナの夫ミカエルに自分の貿易ビジネスを日本に拡大する良い機会を与

    えたと考えられる。日本に移住した後、まず神戸、そして横浜で輸入ビジネス会社 A. M. APCAR & Co.4

    を設立した。

    ダイアナは、夫の死後(1906 年)、ビジネスと 3 人の子供の世話を一人で担うことになり、翌年、家

    族と共に横浜に転居した。

    1910 年から 1933 にかけて、年に 1-2 回、ダイアナは自著を発行した。その他、新聞などに政治的な

    記事も寄稿し、日本の大学でアルメニア人大虐殺について講演も行った。1920 年に、1918 年に独立し

    たアルメニア第一共和国(1918-20)によって、長い間自国民のために努力していたダイアナは駐日名

    誉領事に任命された。任命期間は短かったが、世界で最初のアルメニア人女性名誉領事であった。し

    かし、日本の外交資料の内容から、日本政府は彼女の任命を承認しなかったことが解明された。

    ダイアナは 1937 年 7 月 8 日に死去し、夫と幼児期に亡くなった息子 2 人と共に横浜外国人墓地に葬

    られている。

    2.研究の意義と目的

    1 日露戦争後の 1905 年に、ダイアナは、日露戦争に関する、おそらくダイアナが書いた最初の政治的な記事に日本人の「お互いに対しての優しさ、会話の心地よさ、礼儀正しい態度、下位の者に対する優位の者の驚くほど辛辣さのなさ」などに感嘆して記述している。(Diana Apcar, “A Woman’s Views about the War”, North China Herald, 1905, pp. 192-193.)

    2 Apcar & Co. は商人、船主、炭鉱の経営者の共同商会であり、1819 年に著名な商人であったアラトゥン・アプカー (A

    rathoon Apcar, 1779-1863) によってボンベイ(現在、ムンバイ)において設立された。アラトゥンは 1830 年末にボンベイからカルカッタに移住した。 (Mesrovb Jacob Seth, History of the Armenians in India: From the Earliest times to the present day, Luzac & co., London, 1897, pp. 528-529.) アラトゥンとミカエル・アプカーの父(同名)は従兄弟同士であった (Andrew Greene, “Apcar Family Tree”, 2001, accessed May 19, 2016, http://dianaapcar.org/documents-2/apcar-family-tree/.)

    3 立脇和夫監修『ジャパン・ディレクトリー―幕末明治在日外国人・機関名鑑 第 12 巻、1890 年』(復刻版)ゆまに書房、

    1996 年、164 頁)に、日本との貿易を営む“Apcar Line of Steamers Agent, A. Barnard, 75”という廻船会社の記録が残っている。

    4 “Yokohama Directory, A. M. APCAR & CO., 163, Sanchome. I. Okabe, A. M. Apcar. Proprietor, Export and Import. Commission

    Agents.” (立脇和夫監修『ジャパン・ディレクトリー―幕末明治在日外国人・機関名鑑 三十五巻、1906 年 下』(復刻版)ゆまに書房、1997 年、32 頁)、 “Kobe Directory, A. M. APCAR & Co., P. O. Box No. 70/ Tel. Address: ― “Apcar”. S. Yamayaki, General Merchants and Commission Agents. A. M. Apcar, Kobe, Z. Yoshida, G. Ishiwata, T. Fujii, Telegraphic Codes

    used: A. B. C. 4th Ed. & A 1 .”(同書、571 頁。)

  • 2

    本研究の目的はまず、ダイアナの人道的活動、文筆による啓蒙活動、及びこれらに対する反応の実

    態をより広い視野から明らかにすることである。これまで、修士論文を中心に彼女の人道的活動の中

    の難民救済方法を解明したが、本研究ではこれを発展させ、その難民救済について当時の日本の法的・

    政治的な状況の中で詳細に考察する。例えば、当時日本は難民に対していかなる対策を講じたか、そ

    れに関する法令の有無、従来、他国の難民が日本にいたか、日本は難民を受け入れた歴史があったの

    か、更に、アルメニア人虐殺の際の難民について、日本に辿り着いた人数を明らかにする等、実態を

    正確に把握する必要がある。ダイアナの著書については、修士論文では、まず彼女の著書、手紙、そ

    して数本の記事を収集し、それの中身を紹介した基礎的な研究を行った。本研究では、もちろん、著

    書そのものを探る必要がまだあるが、彼女の著書を、当時の様々な記事、当時の資料に基づいた現代

    の研究を参照しながら検討し、彼女の思想の輪郭を把握した上で、より広い視野から分析することも

    目的とする。

    ダイアナに関しては(特にアルメニアにおいて)、伝えられている情報に誤りが少なくない。例えば、

    「ダイアナは世界初の女性大使5」、あるいは「外交官のダイアナ6」などのような表現に関して考察を

    加える必要がある。これらの試みから、本研究を虐殺の時代のアルメニア史の空白を埋め、またアル

    メニア人ディアスポラの歴史研究の一つとして位置づけたいと考えており、この研究の最大の意義も

    ここにあると考える。

    アルメニアの地を踏んだことがないアルメニア人女性ダイアナは日本で生活し、ビジネスを営み、

    著書や論説を通してアルメニア史上最も過酷な時代にアルメニア人難民を救いながら、アルメニアと

    日本の間の架け橋になった歴史的人物として研究者・知識人・外交官などに知られてはいるが、現状

    では、彼女はアルメニア史の中に埋没しているといわざるを得ない。例えば、現在アルメニアの一般

    の人々の中にはダイアナについて知らない人が少なくない。それは勿論、学校教育においてダイアナ

    についての情報が不足しているからである。教科書に記述されていても、高々一行に過ぎない7。その

    理由は幾つか考えられる。現在残っているアルメニア第一共和国の国際関係に関する歴史的資料は、

    ダイアナに関する資料も含めて非常に少ない。また、ダイアナの著作の手稿、書簡などの原本はアメ

    リカや日本の様々なアーカイブに分散している。未だ、新たに見つかる可能性は十分ある。その上、

    すべて英語で書かれている。つまり、アルメニアではダイアナを研究することは難しく、それ故、彼

    女についてのアルメニアにおける情報は非常に乏しいのである。

    2016 年 3 月に横山開港資料館、社会情報研究資料センター(東京大学大学院情報学環・学際情報学

    府)、青山学院大学の図書館及び国会図書館で行った調査の結果、ダイアナの作品と記事の書評、彼女

    が書いた未だに知られていない記事(凡そ 30 本)、彼女が行っていた講演に関する情報、またダイア

    ナ自身に関する新たな資料を多数収集することができた。ただし、時間が限られていたため、まだ多

    数存在している資料の全てを調査することは不可能であった。調査の結果、東京、横浜にある資料館

    や図書館にダイアナに関する資料が多数現存していることも判明している。発表者は日本、アメリカ、

    アルメニアの資料全てを活用し、上記の目的で本研究を進めたい。

    3.先行研究

    発表者がダイアナについての研究を始めた頃(2012 年)より少し前から、アメリカのマサチューセ

    ッツ州のアーリントン町にある「アルメニア文化財団」(Armenian Cultural Foundation (ACF))という私

    立図書館・博物館の学芸員アラ・ガザリャンス及びカルフォルニア大学の歴史学科の教授(アルメニ

    ア人・移民の歴史)イザベル・カプリエリャンはダイアナについて研究を進めている。両者によって

    5 Svetlana Aslanyan, “Women and Empowerment in Armenia: Traditions, Transitions and Current Politics”, in Feminist

    Conversations: Women, Trauma and Empowerment in Post-transitional Societies, ed. Dovile Budryte, Lisa M.Vaughn, University

    of American Press, p. 129. 6

    Արծվի Բախչինյան, «Հայաստանի Մայրը». Ուրվագիծ Դիանա Աբգարի կյանքի և գործունեության, Բ. Չարեան,Դիանա Աղաբեկ Աբգար. Կյանքը և գործունեությունը, «Վանք» մատենաշար թիվ 16- Նոր Ջուղա, «հրատարակչություն Սպահանի Հայոց Թեմի». 2011թ., էջ 8(アルツヴィ・バハチニャン「『アルメニアの母』―ダイアナ・アガベッグ・アプカーの生涯と活躍」チャレアン・バブゲン編著『ダイアナ・アガベッグ・アプカー―生涯と活躍』、「ヴァンク」叢書、第 16 号、フラタラクチュン スパハニ ハヨッツ テミ、ニュー・ジュルファ、2011 年、8 頁)または、Isabel Kaprielian with Chad Kirkorian, “Diana Apcar-Writer, Diplomat, Humanitarian”, accessed June 14, 2016, http://hyesharzhoom.com/diana-apcar-writer-diplomat-humanitarian/.

    7 «Տոկիոյում Հայաստանի դեսպանն էր առաջին հայ կին դիվանագետ Անահիտ Աբգարյանը (Դիանա Աբգար):(「駐日(東京)アルメニアの大使はアルメニア人の最初の女性外交官のアナヒット・アブガリャン(ディアナ・アブガル)で あ る 」 Ա. Մելքոնյան, Պ. Չոբանյան և այլոք, Հայոց Պատմություն, 11-րդ դասարան, ընդհանուր և բնագիտամաթեմատիկական հոսքերի դասագիրք - Երևան «Լույս հրատարակչություն». 2010թ., էջ 197:(A.メルコニャン、P.チョバニャン他編、『アルメニアの歴史―11 年生用―理系文系用』、ルイス、エレバン、2010 年、197 頁。)

  • 3

    書かれたダイアナについての記事8がインターネット上で閲覧できる。ただし、ネット上の記事の内容

    は何れもダイアナについての概説を超えない。その他、研究論文ではないものの、彼女についての記

    事も数本存在している。しかし、厳密な資料調査に基づかない記述が少なくないと言わざるを得ない。

    2012 年からアメリカでダイアナについてのドキュメンタリーも作られている9。アルメニアの言語学者、

    映画研究家、翻訳者のアルツヴィ・バハチニャンの論文は主にアルメニアの資料に基づいた詳細な内

    容が記されているが、発表者が修士論文において詳述したダイアナ名誉領事の任命に関する情報など

    については具体的な資料の提示はなく、その詳細も全く述べられていない。また、ダイアナの作品に

    関する考察もない。

    日本の研究者の中では、ダイアナに最初に関心を持った人は「日本アルメニア友好協会」会長の中

    島偉晴であろう。中島の論文は資料が皆無であり、研究論文というよりはエッセーとして扱うべき内

    容であろう。また、ダイアナの著書に関する情報は不十分である。重松伸司の論文10は主にアプカー商

    会、アプカー一家のホテル経営を中心に取り上げたものである。この論文ではダイアナ自身も紹介さ

    れているが、論文の目的が異なるため、彼女についての情報が少ない。大山瑞代の 2015 年に発表され

    た論文11は横浜に住んでいたアプカー一家の三世代に関するものである。大山は第 1 章「横浜の初代ア

    プカー夫妻」で、日本政府がダイアナの名誉領事を正式には承認しなかったことを指摘しているが(134

    頁)、その経緯の詳細について述べられていない。

    以上の先行研究では、ダイアナの文学作品についてほとんど述べられていない。彼女の記事につい

    ての情報、そして著書に関する考察も全くない。なおかつ、その著書についての評論も挙げられてい

    ない。彼女の著書は英語でアルメニア人の観点から大量に書かれたアルメニア人問題についての最初

    の文学的作品であろう。それによってダイアナは虐殺の実情を世界に知らせようとしたのである。従

    って彼女自身及び彼女の人道的活動とともに、彼女の文筆活動とそれに対する反応を日本、アルメニ

    ア、アメリカに存在している資料を使用し、全体的により詳細に研究する必要がある。

    修士論文では、アルメニア第一共和国と日本との国際関係における彼女の役割と人道的活動に焦点

    を当て、考察した。外国である日本に住み、日本政府によって承認されない名誉領事、しかも女性で、

    実業家であるとはいえ、難民の日本での滞在、衣服、食品などのための予算には制限があった中で、

    ダイアナが行った難民救済の実情について解明した。そして人道的活動に助けになったのは彼女の人

    的ネットワークであったことも明らかにした。さらに、ダイアナの人道的活動を、大戦中ナチスから

    避難するユダヤ人にビザを渡して助けた世界的に有名な杉原千畝の活動と対比させ、彼女の活動の意

    義の大きさを指摘した。それに加え、彼女の名誉領事任命に関する詳細も明らかにした。

    概観すれば、発表者以外ではダイアナに関する本格的な研究はまだない。

    4.論文の仮構成

    序論

    第 1 章 ダイアナ・アプカーの生涯と経歴

    第 1 節 アルメニアン・ディアスポラの子としてのダイアナ

    第 2 節 日本滞在

    第 2 章 歴史的背景

    第 1 節 アルメニア人虐殺(1884-86、1909)とアルメニア人ジェノサイド(1915-23)

    及びこれらに対する各国の認識

    第 2 節 アルメニア第一共和国

    第 3 節 ダイアナの駐日アルメニア名誉領事任命

    第 3 章 ダイアナの人道的活動

    第 1 節 1915-23 年の日本の難民対策

    第 2 節 日本に辿り着いたアルメニア人難民

    第 3 節 ダイアナの難民救済

    8 Ara Ghazarians, “Diana A. Apcar (1859-1937): The First Armenian Woman Diplomat”, accessed April 4, 2016, https://w

    ww.google.ru/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&ved=0ahUKEwjRx8iYz5zMAhUIx6YKHWy0DPwQFggdMAA

    &url=http%3A%2F%2Fdianaapcar.org%2Fwp-content%2Fuploads%2F2012%2F11%2FAra-Ghazarians.pdf&usg=AFQjCNE7B7

    HekqLx1YN7DZWEStyXKlasiA&bvm=bv.119745492,d.dGY&cad=rjt and I. Kaprielian, op.cit. 9 詳細は http://dianaapcar.org/(accessed April 4, 2016)を参照。

    10 重松伸司「幕末・明治期における在横浜・神戸アルメニアン・コミュニティ―アプカー商会論」『追手門学院大学科年報』第 7 号、2013 年、6-25 頁。 11

    大山瑞代、「アルメニア人アプカー一家の三世代記」『横浜と外国人社会―激動の 20 世紀を生きた人々』、横浜外国人社会研究会・横浜開港資料館編、日本経済評論社、2015 年、127-156 頁。

  • 4

    第 4 節 ダイアナの人的ネットワークとその重要性

    第 4 章 ダイアナの宗教観と著書におけるその展開

    第 1 節 ダイアナの信仰

    第 2 節 宗教的主題:「神罰」と聖書に即したその比喩的表現

    第 3 節 イスラム教に関するダイアナの考え

    第 5 章 ダイアナの文筆活動:その政治的背景と人道上の目的

    第 1 節 ダイアナの初期の著書とその後の類型と焦点の変更

    第 2 節 第一次世界大戦前後の重要な政治的事件とそれに関するダイアナの見解

    第 3 節 ダイアナの執筆活動における人道上の目的

    第 4 節 著者ダイアナと彼女の著書に対する批評

    第 6 章 ダイアナの文筆活動におけるアルメニア人虐殺とジェノサイド

    第 1 節 ダイアナとアブデュール・ハミドの虐殺(1894-96)

    第 2 節 アダナ虐殺に関するダイアナの見解

    第 3 節 ダイアナとアルメニア人ジェノサイド(1915-23)

    結論

    参考文献 大山瑞代、「アルメニア人アプカー一家の三世代記」『横浜と外国人社会―激動の 20世紀を生きた人々』、横浜外国人社会研究会・横浜開港資料館編、日本経済評論社、2015 年、127-156 頁。

    重松伸司「幕末・明治期における在横浜・神戸アルメニアン・コミュニティ―アプカー商会論」『追手門学院大学科年報』第 7 号、2013 年、6-25 頁。

    立脇和夫監修『ジャパン・ディレクトリー―幕末明治在日外国人・機関名鑑 第 12 巻、1890 年』(復刻版)ゆまに書房、1996 年。

    立脇和夫監修『ジャパン・ディレクトリー―幕末明治在日外国人・機関名鑑 三十五巻、1906 年 下』(復刻版)ゆまに書房、1997 年。

    Apcar, D. “A Woman’s Views about the War”, North China Herald, 1905, pp. 192-193.

    Aslanyan, S. “Women and Empowerment in Armenia: Traditions, Transitions and Current Politics”, in Feminist

    Conversations: Women, Trauma and Empowerment in Post-transitional Societies, ed. Dovile Budryte, Lisa

    M.Vaughn, University of American Press, p. 129.

    Ghazarians, A. “Diana A. Apcar (1859-1937): The First Armenian Woman Diplomat”, accessed April 4,

    2016, https://www.google.ru/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&ved=0ahUKEwjRx8iYz5zM

    AhUIx6YKHWy0DPwQFggdMAA&url=http%3A%2F%2Fdianaapcar.org%2Fwp-content%2Fuploads%2F

    2012%2F11%2FAra-Ghazarians.pdf&usg=AFQjCNE7B7HekqLx1YN7DZWEStyXKlasiA&bvm=bv.11974

    5492,d.dGY&cad=rjt.

    Greene, A. “Apcar Family Tree,” 2001, accessed May 19, 2016, http://dianaapcar.org/documents-2/apcar-f

    amily-tree/.

    Kaprielian, I. & Kirkorian, C. “Diana Apcar-Writer, Diplomat, Humanitarian” http://hyesharzhoom.com/di

    ana-apcar-writer-diplomat-humanitarian/.(2016 年 6 月 14 日閲覧) Ohanjanian, H. to D. Apcar, 1920, July 22.(駐日アルメニア大使館から入手) ---, “Lettres de Créance”, 1920, Juillet 22.(オハンジャニャン H.、信任状、1920 年、6 月 22 日、駐日アルメニア大使館から入手)

    Seth, M. J. History of the Armenians in India: From the Earliest times to the present day, Luzac & co., London,

    1897.

    Բախչինյան, Ա. «Հայաստանի Մայրը». Ուրվագիծ Դիանա Աբգարի կյանքի և գործունեության, Չարեան Բ., Դիանա Աղաբեկ Աբգար. Կյանքը և գործունեությունը, «Վանք» մատենաշար թիվ 16- Նոր Ջուղա, «հրատարակչություն Սպահանի Հայոց Թեմի». 2011թ., էջ 8-28:(バハチニャン A.「『アルメニアの母』―ダイアナ・アガベッグ・アプカーの生涯と活躍」チャレアン・バブゲン編著『ダイアナ・アガベッグ・アプカー―生涯と活躍』、「ヴァンク」叢書、第 16 号、フラタラクチュン スパハニ ハヨッツ テミ、ニュー・ジュルファ、2011 年、8-28 頁。)

    Մելքոնյան Ա., Չոբանյան Պ. և այլոք, Հայոց Պատմություն, 11-րդ դասարան, ընդհանուր և բնագիտամաթեմատիկական հոսքերի դասագիրք - Երևան «Լույս հրատարակչություն». 2010թ.:(メルコニャン A.、チョバニャン P.他編、『アルメニアの歴史―11 年生用―理系文系用』、ルイス、エレバン、2010 年。)

  • 1

    研究題目発表会 2016.07.27

    「三言」における中国女性の生活実相について

    アジア・アフリカ研究講座

    B6KM1004 衣梅君

    一、研究背景

    「人を訪ねるには玄関から行くべきものだ。しかしながらその家庭の内情、家風、気質を知るには裏口を覗くに

    限る1」と同様に、官撰史料のような正統的歴史記載よりも、民間の通俗小説のほうが当時の社会の内情、風俗を

    「裏口」から覗いていくことができる。ここの裏口が指しているのは元明以来の白話文(口語)で書かれた通俗小

    説のことである。

    「三言」という中国の短編白話小説集は「庶民側に近い立場で語られることが多い2」、当時の「人々の日常の生

    活風景がありのままに描写されている3」という通俗小説集である。およそ明代の万歴末年から天啓初年に続々と

    出版された書物4である。『喩世明言』(世の中をさとす優れた言説)、『警世通言』(世の中を戒める優れた言説)、『醒

    世恒言』(世の中を目覚めさせる優れた言説)という三つの短編白話小説集を合わせて、「三言」と呼ばれている。

    「三言」のふくまれている物語は、恋愛・婚姻題材の比重が極めて大きい。中の多く知られている女性形象(例え

    ば「三巧児」、「金玉奴」、「杜十娘」など)も多く検討されている。

    「三言」に登場している全ての女性に関する統計について5、「喩世明言」に登場する女性は八十人であり、「警

    世通言」では七十五人、「醒世恒言」では百十五人、よって「三言」に登場する女性は全部で二百七十人であると

    いう。

    二、先行研究とその問題点

    中国では 1956年以降の先行研究はほとんど、「三言」は当時の社会観念と社会教化の罪悪を暴露して非難し、女

    性の恋愛と幸福への強い願望と追求精神を称賛し、中の女性が自分を制約する伝統思想と社会の世俗思想への反抗

    が強かったと主張した6。最近の研究も、「三言」における女性像の段階にとどまっている7。「三言」は通俗小説と

    して、当時社会の裏向き(即ち社会の見えないところ)を徹底的に反映されたという価値が無視され、「三言」か

    ら現れた当時の女性の生活実相はまだ検討されていない。

    日本側の先行研究について、小野四平8氏(1978)は短編白話小説家が書いたプラトニック・ラブの事例がまっ

    たくないという根拠から、小説家の関心が避け難い本能をすらも抑えようとする世俗の頑固な偏見を排すると解読

    1 鈴木真海『鴛鴦譜外三種』(支那文献刊公会、1925年)参考 2 勝山稔『中国宋-明代における婚姻の学際的研究』(東北大学出版会、2007年)参考 3 同注 2 4 同氏「明代短編白話小説集『三言』の編纂について―中国白話小説研究における一展望(IV)」(中央大学アジア史研究(26)、

    159-180、2002年第 3期) 5 張軼欧『明代白話小説『三言』に見る女性観』(中国書店、2007年)参考 6 傅璇琮「我国古代的短篇小説集―“警世通言 ”」(『読書月報』1965年 9期)、邢治平「論《三言》里的明代小説」(『開封師范

    学院学報』1960年 3期)、徐仲元「試論“三言”中明代“擬話本”的思想特征」(『内蒙古大学学報(社会科学)』1960年 2期)等 7 費鵬氏「“三言”小説中女性形象分析」(2006)、潘宏麗氏「宋代話本中女性形象的研究」(2010)、付成雪氏「宋人婚恋小説研

    究以伝奇、話本為中心」(2013)等を参考 8 小野四平『中国近世における短編白話小説の研究』(評論社、1978年)参考

  • 2

    された。それに、現実に描かれた恋愛の諸相は必ずしも小説家の思惑に左右されないが、近世という時代の中に生

    きた読者としての庶民の意識を反映し、特異なリアリティを示していると主張する。

    大木康氏9(1988)は白話小説の作者と読者について、磯部彰10氏の論証(読者が官僚読書人、富商等を中心とす

    る統治階層、作者と編者は読書人階層と文字を自由に操る能力を持つ階層)は一般的な白話小説に適用するが、そ

    れに対してささやかな疑問を持っていると述べた。明末小説の作者と当時の読者は主に生員階層(科挙予備階段で

    合格し、府、州、県学の学生)にあり、「三言」の各編にふくまれている教化意識は生員階層としての社会危機意

    識と言ってもよいと主張した。

    小野氏の解読と大木氏の論証により、簡単に「三言」の物語は明末の社会観念と社会教化の罪悪を反抗するとい

    う理解は一面的である。反抗するよりも、生員階層である作者が社会危機を防ごうとするため、当時の一部分の世

    俗の思想を反対するのではないであろうか。「世俗の思想」はいわゆる社会を教化する思想であり、提唱された女

    性形象は当時の支配層の理想を標準とした模範的なものである。言い換えれば、社会の一般女性はこのような標準

    に到達できていなかった。

    勝山稔氏は、処世訓『袁氏世範』を参考し、白話小説に現れる媒酌人11と「養娘」12二つの方面から考察された。

    一つは、『袁氏世範』は婚前に期限付きで女僕契約を結ぶ事例が確認でき、女僕としての年季満了と同時に、結婚

    先も紹介周旋することがあり、その周旋する経緯は『警世通言』巻二十に記録されているという。もう一つは、『警

    世通言』巻八の物語(養娘には①期間が設定されていること、②雇主やといぬしが養娘の婚姻を決定していること)

    は『袁氏世範』の記述13と呼応している。

    これにより、『袁氏世範』から見える女性の生活は「三言」から現れた女性の生活は共通している所がある。発

    表者の考えでは、時世の社会風俗と習わし、内情を反映する「三言」を中心にして、世俗の思想と関わる書籍・社

    会生活関係の史籍を参考しながら、歴史上の女性の生き方を考察したい。

    三、研究方法

    まずは、日本側の「三言」とその各物語の先行研究を整理し、先行研究の概況を把握する。

    次は、『袁氏世範』14という処世訓を中心にして、社会生活関係の史籍を参考しながら、中に現われた社会の生活

    特徴や風俗と、「三言」から現われた女性の生活特徴と社会風俗と共通するところを整理する。例として、『袁氏世

    範』は当時の伝統的な婚姻観念(「父母の命、媒酌の言」(父母の命令と媒酌の言葉が婚姻の成立条件))を改良す

    る目的を持ち、「媒酌の言は信ずべからず」と警告された。これは「三言」のある物語15の中に出現した「雖則媒人

    所言、不可尽信(媒人の言ったこととしても、すべては信ずべからず)」という言い方が接近しているではないか

    と考えた。また、かかわる物語の内容を選んで翻訳して分析しながら、「三言」における中国女性はどのような生

    活をしていたのか、どういう風に世俗の思想を対応しながら生きていたのかについて考察していきたい。

    9 大木康(呉悦訳)「关于明末白話小説的作者和読者」(『明清小説研究』1988年第 2期) 10 原文未見 11 勝山稔氏「白話小説白話小説記事に現れる媒酌人の史学的考察―特に媒酌人の専門化と牙人との関係を中心として」(『中国』

    1996年第 6期) 12 同氏「宋�