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Title 保健授業づくりに関する実践的研究 (第3報) : 「市民的教養 の形成をめざした健康教育」 実践のための教材開発の試み (1)( 本文(Fulltext) ) Author(s) 近藤, 真庸 Citation [岐阜大学地域科学部研究報告] no.[25] p.[83]-[103] Issue Date 2009 Rights Version 岐阜大学地域科学部 (Faculty of Regional Studies, Gifu University) URL http://hdl.handle.net/20.500.12099/25228 ※この資料の著作権は、各資料の著者・学協会・出版社等に帰属します。

保健授業づくりに関する実践的研究 (第3報) : 「市民 …...岐阜大学地域科学部研究報告第25号:83-103(2009) 保健授業づくりに関する実践的研究(第3報)

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Title保健授業づくりに関する実践的研究 (第3報) : 「市民的教養の形成をめざした健康教育」 実践のための教材開発の試み(1)( 本文(Fulltext) )

Author(s) 近藤, 真庸

Citation [岐阜大学地域科学部研究報告] no.[25] p.[83]-[103]

Issue Date 2009

Rights

Version 岐阜大学地域科学部 (Faculty of Regional Studies, GifuUniversity)

URL http://hdl.handle.net/20.500.12099/25228

※この資料の著作権は、各資料の著者・学協会・出版社等に帰属します。

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岐阜大学地域科学部研究報告第25号:83-103(2009)

保健授業づくりに関する実践的研究(第3報)

「市民的教養の形成をめざした健康教育」実践のための教材開発の試み(1)-

近藤 真庸

(2009年6月29日受理)

APracticalStudyontheDevelopmentofTeachingMatearials

inHealthEducation(Ⅲ)

Masanobu KONDO

l はじめに

83

第1報(『岐阜大学地域科学部研究報告 第14号(2002)』97頁~136頁)、第2報(『岐

阜大学地域科学部研究報告 第15号(2003)』173頁~202頁)では、それぞれ、現場教

員と共同で開発した小学校中学年「保健」授業プラン(全8時間)および小学校第5学年

「保健」授業プラン(全8時間)を公表するとともに、その内容構成・ねらい・教材観に

くわえ、〈シナリオ〉 形式で表された1時間ごとの授業プランの内容・方法上の特徴につ

いて詳述した。1)

本報告も、〈保健授業プランの開発をねらいとする実践的研究〉 という点では、続報(第

3報)としての性格をもつものである。ただし、以下の2点で、これまでの研究(第1報、

第2報)とは異なる特徴をもっている。

第1には、学習対象として、青年・成人(大学生を含む)を想定している点である。

第2には、文部省学習指導要嶺の枠組みにとらわれることなく、青年・成人に必要な保

健的教養(市民的教養)を形成するという観点から学習内容を構想している点である。

言い換えれば、学校教育の一環としての「健康教育」ではなく、"学校では教えてくれ

ない"「市民的教養の形成をめざす健康教育」実践のための教材開発の試み、である。2)

本報告では、授業プラン「水俣病の"記憶"」の構想と、そこに至るまでの「教材研究」

のプロセス(「水俣病事件」教材研究ノート①~③)を紹介する。

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84 近藤真庸

1)私は、20年前から、岐阜や愛知の仲間たち(「火曜研」)と保健授業づくりに関する実践的研究を継

続的に行い、その成果は、拙著『保健授業づくり実践論』(大修館書店、19卯年)、『くシナリオ〉形式

による保健の授業』(同、2000年)、『触発・追究型の健康教育』(明治図書、2007年)として公表して

きている。

なお、授業〈シナリオ〉 とは、追試可能性を重視した授業プランの表現方法として、「教育技術法則

化運動」(代表・向山洋一)や「仮説実験授業研究会」(代表・板倉聖宣)、および「教科研・授業づく

り部会」(代表・藤岡信勝)の授業記録論に学んで、筆者が定式化した"仮想授業記録"のことである

(拙稿「保健授業づくり研究方法論-〈シナリオ〉

〈演出ノート〉の実際とその意義」、『岐阜大学地

域科学部研究報告 第5号(1999)』109頁~133頁 所収)。

2)私は、岐阜大学地域科学部教員として、「健康教育論」という専門科目(選択・3年次)を担当(2000

年度~)し、講義のねらいに「保健の市民的教養の内容と方法の探究」を掲げて実践的研究を続け

てきている。たとえば、2009年度「授業案内」(岐阜大学地域科学部)には、以下のような内容を

記した。

Ⅰ 講義のねらい

〈いのち〉と人権の教育学の立場から、市民を対象とした健康教育の内容と方法について考究する。

題材としては、水俣病、スモン病、ハンセン病、脳死・峨器移樟、HIV仏IDS、死刑制度など、人間

の「生と性と死」に関わる諸問題を取り上げる。

Ⅱ 授業計画

1.「〈いのち〉 と人権の健康教育」学への誘い(第1週)

2.「水俣病」に学ぶ旅(第2~3週)

3.「脳死・臓器移植」と自己決定(第4週)

4.「薬害」はなぜ繰り返されるのか?- その名は「SMON」(第5週)

5.「ハンセン病」の記憶(第6週)

6.日本は「死刑制度」を廃止すべきである!是か否か?(第7週)

7.HIV/AIDSと共に生きる(第8週)

8.戦争と 〈いのち〉 「加害」の記憶を伝える(第9週)

9.「〈いのち〉 と性の教育」の理論と実践(第10~13週)

10.「〈いのち〉 と人権の健康教育」学の構想(第14~15週)

ll授業プラン「水俣病の"記憶"」の構想

1.高校保健科は「水俣病」で何を敢えているか?

「高校保健科」(必修・2単位)では、「水質汚濁による健康被害」事件の典型例とし

て「水俣病」を位置づけ、「教科書」という主たる教材(文化財)を通して、「水俣病」

事件発生の原因・背景と健康被害のメカニズムを学習することになっている。

文部科学省検定済・保健体育教科書『新・高等保健体育』(大修館書店、2005年)は、

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保健授業づくりに関する実践的研究(第3報)

-「市民的教養の形成をめざした健康教育」実践のための教材開発の試み(1)-

「水質汚濁とその原因」という項目を起こし、次のように記している。

1960年前後のわが国における水質汚濁のおもな原因は、工場からの産業排水であっ

た。産業排水にふくまれる有害物質により、水俣病をはじめ重大な健康被害がもたらさ

れた。 (197頁、傍線引用者)

教科書には、〈胎児性水俣病患者の写真〉 〈メチル水銀が人体に蓄積されていくまでの

プロセスを描いたイラスト〉 と共に、「水俣病」というタイトルで次のような「コラム」

も掲載されている。

そこには、工場が流した産業排水にふくまれていたメチル水銀(病因物質)が食物連鎖

と生物濃縮によって魚介類を汚染し、その魚介類(原因食品)を食べた住民の体を蝕んで

いくメカニズムが簡潔に記述されている。

85

: 水俣病は、1956年ころ、熊本県水俣湾沿岸地域で発生した。 ;

… 工場の製造工程で生じたメチル水銀が川に排出され、食物連鎖によって魚介類に濃壬‡縮された。 :l 1

;これらの魚介類を食べた人に、視力のおとろえや手足の麻痺など、メチル水銀中毒;

;特有の症状があらわれた。妊婦では、胎盤をとおしてメチル水銀が胎児へと移行し、:

座児の脳にまで影響がおよんだ。 (199頁)宣I l

l l

l------一一--------一一-----▼___●_________●_●_______________._______________●______________.________________________l

すなわち、高校保健科では、「工場からの産業排水」に含まれていたメチル水銀によっ

てもたらされた「健康被害」事件の典型教材として「水俣病」を取り上げているのである。

たしかに「水俣病」は、その後の研究によって明らかにされたように、「環境汚染によ

って、しかも食物連鎖に取り込まれて起こった有機水銀中毒」(原田正純)と定義づける

ことができよう。

しかし、「新たな患者の発生防止」という観点から原因究明史を検討するとき、そこに

は意外にも「食中毒」事件としての「水俣病」の姿が浮上してくるのである。

津田敏秀(岡山大学大学院環境学研究科教授)によれば、「水俣病」を、「化学物質が

病因物質で、原因食品が魚介類の食中毒事件」とおさえ、行政当局が通常の集団食中毒事

件と同様に、①患者調査により「原因食品」となった食べものをつきとめ、②それが判明

した時点で、「病因物質」が何であろうが(分からなくても)、「原因食品」を食べないよ

うにするという一連の措置をとっていたならば、住民の健康被害は最小限にくい止められ

た、という。

これまで、高校保健科において、「水俣病」を「食中毒」事件としてとらえ、「新たな

患者の発生防止」という観点から教材化されることはなかった。

では、「水俣病」事件の"記憶"として、私たちは次の世代の市民的教養として、どの

ような「知」を伝えていったらよいのだろう?

以下、授業プラン「水俣病の"記憶"」の構想に至る「知」の吟味過程、および授業

の 〈ねらい〉 と 〈内容構成〉について述べる。

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86 近藤真庸

2.「水俣病」事件の"記憶"として、どんな「知」を伝えるか?

いま仮に、「水俣病」について保健の授業で教科書レベルの知識を確実に身に付けた大

学生に、次のような開い(「第1間」)を投げかけたとしよう。

健康被害が判明した▼とき、被害を最小限にくい止め、新たな患者の発生を防止す

ることは、行政の責任です。もし事件発生当時、あなたが行政の責任者なら、A、B

どちらの対策を優先させますか? 順番をつけてください。

(A)有害物質(メチル水銀)を含む工場からの産業排水が流れ出ないようにする

[排水規制]。

(B)住民が汚染された魚介類を食べないようにする[漁獲・販売禁止]。

常識的に考えれば、(B)→(A)の順となろう。なぜなら、たとえ 〈排水規制〉を行った

としても工場からすでに排出されてしまった有害物質により魚介類は汚染されている可能

性があり、魚介類を食べ続けているかぎり健康被害が拡がり続けることは明白だからだ。

一方、〈漁獲・販売禁止〉 により、住民が汚染された魚介類を食べないようにすれば、

被害の拡大を最小限に留めることができるからである。

続いて、こんな開い(「第2間」)を投げかける。

熊本水俣病について考えます。

熊本県の行政責任者は、実際には、どの順番で対策を講じたでしょう?

この間いに答えるためには、その前提として、「水俣病」に関する原因究明史を「知る」

ことが不可欠である。

こうしてみると、大学生が、高校時代にたとえ「教科書レベルの知識を確実に身に付け

た」としても、それだけの情報量では問い(「第2間」)を解くことは困難であることが

わかる。

歴史の事実はどうであったか?

行政の責任者は、水俣病が「食中毒」事件であると認めながら、漁業組合への補償問

題を回避するため、漁獲・販売禁止(B)によって「新たな患者発生を防ぐ」という有効

で基本的な対策をとらなかったのである。そのため、住民は魚介類を摂取し続けることと

なり、被害は拡大していった。

新潟県阿賀野川流域で水俣病患者の発生が確認されるのは、1965年6月のことである。

そしてここでも、食品衛生法の適用は見送られ、下流から上流へと被害を拡大していくこ

とになるのである。

なぜ、食品衛生法に基づいて「漁獲・販売禁止」の措置をとらなかったのか?

県衛生部長(当時)の北野博一は、``水俣病公式確認50年"特集のなかで記者のインタ

ビューに答えて、次のように述べている。

「食品衛生法を適用したいと厚生省に言うと、『熊本で適用しなかった』と応じない。

私にも事件はなるべき小さく収めたいという役人根性が働き、当初漁獲規制の対象を

限定した」『朝日新聞』(2006年4月22日付)

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保健授業づくりに関する実践的研究(第3報)

-「市民的教養の形成をめざした健康教育」実践のための教材開発の試み(1)-

すなわち、北野は「食中毒」事件として処理すべきであるという認識をもちながらも、

厚生省の意向に沿って、食品衛生法の適用を回避したというのである。

代案として北野が講じた下流域限定の漁獲規制という「行政指導」が、中・上流域の住

民へと健康被害を拡大していく重大な要因となったことを、実証的に明らかにしたのは、

飯島伸子・船橋晴俊ら社会学者による労作『新潟水俣病問題 加害と被害の社会学』(東

信堂、1999年)である。

飯島らは、7年間にわたる未認定患者を含む住民を対象とした継続的な現地調査によっ

て得られたデータに基づいて、〈下流域に限局した初期対策が被害を拡大させる要因を形

成した〉 と結論づけた。*

「水俣病」事件の原因究明史は、自然科学的認識のみならず社会科学的な分析なくして、

実践に生きる「知」を獲得することは困難である、ということを教えている。

87

*「1991年より 97年にいたるまでの継続的な現地調査に基づいて、初の未認定患者アンケート調査

など、オリジナルな資料に立脚した」「新潟水俣病問題についての初めての社会学的研究書」(はし

がき)の研究代表である飯島伸子さん(当時、東京都立大学教授、故人)は、その本のなかに「阿

賀野川下流への関心の集中」と題する以下のようなコラムを寄せている。

(D実際には、阿賀野川下流の横雲橋から下流の区域のみでなく、中流域や上流域にも発生してい

たため、初期の対策において、阿賀野川流域に患者を限定したことは、のちの大きな社会問題

を引き起こす基本的な要因となってしまった。

②新潟県が、初期時点で、下流に限定したのは、公表時点で確認されていた患者の居住地が下流

域であったこととの関連であって、厳格な検討があって定められたものではなかった。

③新潟県は、発生区域が下流に限定されてはいないことに気づき、下流域に限定しない行政措置

に切り替えたが、範囲の変化を明示しなかったこと、当初の報道の印象がきわめて強烈だった

ことから、中流域と上流域の住民は、「下流域」措置の情報を信じ込み、漁獲や食用を継続した

例が少なくなかった。

④したがって、有機水銀に汚染された魚類を食し続けた中流・上流域の患者の多くは、初期にお

ける一連の措置が、その発病に間接的にではあるが関与しているといえる。

⑤初期の措置によって「汚染地域」の印象を植え付けられた下流域住民は、他地域から有形無形

の差別を受けるとことになり、二重の重荷を負わされることになった。

(『新潟水俣病問題 加害と被害の社会学』20頁より筆者要約)

下流域に限局した初期対策が、被害を拡大させる要因を形成したことは否めない。また、患者を

分断する結果となり、中・上流域だけでなく下流域でも、〈差別〉 から逃れるために、受診を拒否す

ることで、あるいは認定申請をしないことによって、「水俣病の症状を訴えながら、水俣病"患者"

にはならない選択」をした人々を生み出した(同書104~106頁)点でも、初期対策の誤りは厳し

く総括されるべきであろう。

3.授業プラン「水俣病の"記憶''」の 〈ねらい〉と く内容構成〉

本節では、「水俣病」事件を典型教材とした、歴史的追体験の手法を用いた授業プラン

「水俣病の"記憶"」の構想(内容構成)を提案する。*

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88 近藤真庸

*歴史的追体験の手法によって「水俣病」を教材化した"作品"として、住田 実(大分大学教育

福祉学部教授)氏が作成した授業書「新潟水俣病の不思議」(「水俣病に学ぶ旅(4時間構成)」の

第3~4時、保健教材研究会(編)『続「授業書」方式による保健の授業』大修館書店、1991年

所収)がある。初出は、月刊『体育科教育』(1988年4月号)。

なお、住田氏の「授業書」を分析・検討した拙論としては、以下のものがある。

(D拙稿「私が選んだ保健の『授業書』」、月刊『体育科教育』1988年8月増刊 所収、56~61頁)

(診拙稿「高等学校での保健授業」、森 昭三・和唐正勝(編)『新版・保健の授業づくり入門』大

修館書店、2003年 所収、231頁~244頁)

[学習のねらい]

(∋阿賀野川流域の住民の生活史を理解したうえで、自然科学と社会科学の知見(成果)

を踏まえて、この地域で「有機水銀」による神経症状を訴える患者がなぜ発生し、

被害が拡大していったのか? 新潟水俣病の初期対策を検証しよう。

②原因不明の病気が発生した場合の、行政の初期対応はどうあるべきか?「新潟水

俣病」事件を例にして、初期対応のありかたについて考えよう。

③〈行政が、もし「水俣病」を「食中毒」事件して解決すべく、迅速で的確な措置を

とっていたならば、健康被害は水俣湾周辺住民50名程度でくい止められた〉 とい

う見解がある。本当にその可能性があったのだろうか? 熊本水俣病の初期対策を

検証しよう。

[内容構成]

(1)くり返された"悲劇''- 2つの新聞記事の"間''

*猫てんかんで全滅/ねずみの激増に悲劇/水俣市茂道部落

(熊本日日新聞、1956年8月1日)

*新潟にも「水俣病」?/類似症状で2人死ぬ/有機水銀中毒と断定/阿賀野川流域

(朝日新聞、19ロロ年6月13日)

→患者(Aさん)に関する情報…・新潟地震(1964年6月)により田畑壊滅。

阿賀野川で獲れた川魚の行商して生計をたてるが、とくに美味でないニゴイは売

れ残ることが多く、余った魚は、毎日(多いときは1日3食)、Aさんはじめは

とんどの漁師が自ら食べていた。

→患者の発生状況…・1967年には30例。1974年までに520例に拡大。

(2)阿賀野川流域における患者30例(初期)を対象とした「疫学的」調査から、特恵捷(新潟大

学教授)と県当局は、有機水銀lこ汚染された「川魚」との「因果関係」を「立証」した。

q.30名の患者は、阿賀野川流域のどのあたりで暮らしていた人だろう?

q.県当局は、どんな対策を講じたのでしょう?

q.「胎児性水俣病」と正式認定された患者は1名!これを「熊本の"過ち"を繰

り返さなかった、迅速・的確な初期対策の"成果"である」とする評価がある。

どう考えたらよいのだろう?

(3)だが、県当局の対応は、かえって初期に発生した患者とその家族の苦悩を増大させ、

被害を拡大させていく要因ともなった。

(Dマスコミ報道と固定される水俣病像=「劇症型」イメージ、胎児性水俣病

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保健授業づくりに関する実践的研究(第3報)

-「市民的教養の形成をめざした健康教育」実践のための教材開発の試み(1)-

1)職業生活への影響 2)結婚への影響 3)近所づきあいへの影響

②「差別」からの回避 → 認定申請の遅れ

③「自分たちは安全!」という"錯覚''→ 「安全」と信じて食べ続けた川魚

(4)県当局の「初期対応」を検証する!

(【i巳布資料】「水俣病事件」教材研究ノート②)

(5)立ち上がる被害者…裁判の提起と被告・昭和電エとの「汚染源」をめぐる攻防

①昭和電工鹿瀬工場が起こした``前科"の記憶に基づく「工業廃液原因説」(被害者)

②約30年間排出しつけてきた工場排水。しかも、患者発生の報道時にはアセトアル

デヒドの工場生産(排水)停止。突発的な病気発生との矛盾を衝く(昭和電工)

(6)「農薬原因説」の提唱 t・・昭和電工の``反撃"

→「塩水クサピ」理論を論拠とした「農薬原因説」(北川徹三:横浜国立大学工学

部教授)を展開。政府・通産省もこれを支持。 正新潟大地震(1964年6月)

(7)県衛生課員の"執念''と暴かれた虚構(r農薬原因説」)

(【配布資料】r水俣病事件」教材研究ノート③)

*新潟大地震(1964年6月)以前の「新潟水俣病患者」の存在を確認

*「無機水銀であって、有機水銀は使っていない!」(昭和電工鹿瀬工場の主張)

*昭和電工鹿瀬工場の排水管に附著していた有機水銀

(8)初期患者は、なぜ「下流Jにr限局的」に発生したのか? -"空白の60km''の謎を解く

*昭和電工の主張:「川の水は上流から河口に流れる。上流から流れ出す工場排

水は下流にいくまでに希釈される」

q.裁判で「証拠」として提出された``実験"結果(省略)です。被告側、原告側、

いずれの側が自らの主張を補強するための証拠として提出したものでしょう?

(9)もし、「熊本水俣病」が「食中毒」事件として、的確な措置がとられていたら…。

被害患者を約50名にとどめることができた!それだけではない。「新潟水俣病」

も発生することはなかっ.た!

Q.「水俣病公式発見」は、1956年5月1日である。熊本大学医学部水俣病研究班が

「水俣地方に発生せる原因不明の中枢神経疾患に関する報告」(1956年11月3日)

を発表したのは、その半年後のことであった。

そのときに公表されたデータ(図1、表1~2…省略)である。

①この3つのデータから、どのような結論(研究仮説)を導き出すことができるか?

②この調査結果をふまえて、健康被害を拡大させないために、熊本県当局が講ずる

べき対策とは?

水俣病は感染症ではなく、水俣湾の魚を摂取したことによる「食中毒」事件

である。

「食品衛生法」に基づいて、「食中毒」事件としての的確な措置(水俣湾の

魚を取らせない、売らせない、食べさせない)を迅速に講ずる。

(10)検証:「食中毒」事件としての「水俣病」事件

(【配布資料】「水俣病事件」教材研究ノート①)

89

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90 近藤真庸

= 授業プラン「水俣病の"記憶"」の構想ができるまで

「水俣病事件」教材研究ノート①~③

1.《教材研究ノート①》「食中毒事件」としての「水俣病」事件

「水俣病」問題の行政責任を考える

私たちには、21世紀の子どもたちへ、20世紀の痛ましい記憶を伝える義務がある。

ジャン=フンソワ・フォルジュ1)

●疫学的な因果関係の立証で事態を前向きに解決させようという考えがあったならば、「水

俣病」患者は50名程度でくい止められた!

「四日市喘息」患者の救済にあたって「疫学的因果関係論」を提起した公衆衛生学者・

吉田克己は、その著書『四日市公害一

その教訓と21世紀への課題』(柏書房、2002

年)のなかで「水俣病」事件に言及し、次のように述べている。「水俣病」に対する先入

観を揺さぶる、注目すべき発言といえる。

「もし最初から、疫学的な因果関係の立証で事態を前向きに解決させようという考えが

あったならば、死児の齢を数えるわけではないが、水俣病は現在ような数千人を超える患

者に係る長く続く泥沼のような問題ではなく、昭和31年(1956年)の時点での約50名

程度の患者の範囲で終わり、充分な対策と救済が成立していたであろう」(31頁)

つまり、「水俣病」を、「化学物質が病因物質で、原因食品が魚介類の食中毒事件」(津

田敏秀)2)とおさえ、行政当局が通常の集団食中毒事件と同様に、(D患者調査により「原

因食品」となった食べものをつきとめ、②それが判明した時点で、「病因物質」が何であ

ろうが(分からなくても)、「原因食品」を食べないようにするという一連の措置をとっ

ていたならば、住民の健康被害は最小限にくい止められた、というのである。

疫学の専門家である津田敏秀によれば、「不思議なことにこのことが水俣病問題におい

てははとんど論じられてこなかった。しかし、少なくとも1950年代の事件当初は、熊本

県内部や熊本大学医学部においてすでに議論されていた」3)という。

「少なくとも1950年代の事件当初は、熊本県内部や熊本大学医学部においてすでに議

論されていた」という津田の発言に注目したい。

●正式発見の日から3カ月余りで、研究班では「水俣病」はく魚介類が原因食品の食中毒

事件〉 という認識の到達していた!

水俣奇病対策委員会(1956年5月28日発足)からの要請を受け、熊本大学医学部に水

俣病研究班が組織されたのは、1956年8月24日のことである。

その後、研究班は連日の"水俣通い"を続ける。詳細な疫学調査による研究成果は、第

1報(中間報告)として同年10月13日、熊本大学医学部・喜多村教授によって熊本医学

会で発表された。その要旨は次のようなものであった。4)

患者は、水俣湾沿岸の農漁村部落に限局して発生していること、患者は漁業が多く

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保健授業づくりに関する実践的研究(第3報)

-「市民的教養の形成をめざした健康教育」実践のための教材開発の試み(1)-

、性・年齢に関係なく、家族集積率が高いが連鎖伝播の傾向は認め難いこと、患者の発生には漁獲の変動と軌をを一にする季節的変動が著明であること、患者発生地域の

食生活の特徴は、水俣湾内で漁獲した海産物を主として摂取することであり、調理法

の差は認められないこと、患者発生地域で飼育されているネコがヒト類似の症状で多

数紫死していることなどが明らかになった。これら疫学的所見は共通原因による長期

連続曝露による発症を示唆しておりその共通原因として汚染された港湾生棲の魚介類

が考えられた。

91

早くも、この時点(正式発見の日から3カ月余り)で、研究班では「水俣病」は〈魚

介類が原因食品の食中毒事件〉 という認識に到達していたのである。

しかし、これを境に、現地での疫学的調査は尻すぼみになっていき、関心は「症状との

因果関係の究明」に向かい、研究の焦点は「病因物質」の追究へと移っていく。5)

次に、行政当局(国・熊本県)の動きを見ておこう。6)

・1957年1月25日 厚生科学研究班「第1回報告会」で 〈水俣の奇病は魚介類を食べ

ることによる重金属中毒〉 であることを確認し、〈水俣湾魚介類の

摂取禁止〉 が話題になる。

・1957年2月26日 「第2回報告会」で食品衛生法4条2項を適用する必要があるこ

とを確認する。

・1957年7月 日本衛生学会で厚生研究班が「食中毒」であるという主旨の発表

を行う。

・1957年7月24日 熊本県水俣奇病対策連絡会議において、県衛生部長が「県として

一応の結論が出た以上、水俣湾産魚介類は有害なものであることを

周知徹底する必要がある。そして時期はともかくとして、食品衛生

法第4条2項の規定を発動して、水俣湾産魚介類を販売しまた販売

の目的をもって採描、加工等をすることを禁止する必要があると思

う」と発言する。

研究班に遅れること1年、行政当局もまた、「食中毒事件」としての認識に達し、浜名

湖あさり貝事件での行政指導例やネコの実験7)の成果などを踏まえて、「水俣湾産の魚に

食品衛生法第4条2号を適用できる」と考え、知事告示が決定されたのであった。

この知事告示決定は、同年8月13日付の新聞各紙でも報道され、8)その翌日から知事

告示の実現に向けて、行政当局の動きは活発化していく。知事告示はもはや時間の問題と

なっていたのである。

しかし、熊本県から「照会」(8月16日)を受けた厚生省は、「食品衛生法4条2号の

適用を否定する見解」を熊本県に伝えてきた。1957年9月11日の厚生省公衆衛生局長か

らの熊本県への「回答」は、次のようなものであった。

水俣湾内特定地域の魚介類のすべてが有毒化しているという明かな根拠が認められ

ないので」該特定地域で漁獲された魚介類のすべてに対し、食品衛生法第4条2号を

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92 近藤真庸

;適用することはできないと考える。 ;l l

l l

l______________________________________________ _________________________________________________ _______ _______l

この一片の「回答」によって、ようやく加速をつけて進行してきた食品衛生法適用への

動きに完全にブレーキがかかり、知事告示を断念してしまっただけでなく、これ以降、熊

本県は「水俣病」を食中毒事件として処理することさえ放棄してしまったのである。

●「食品衛生法」適用は、県行政当局の判断だけで可能であっただけでなく、厚生省公衆

衛生局長見解はそれ自体「全く前例のない不適切」なものであった!

改めて、「食品衛生法」について、「水俣病」問題の行政責任との関連を見ておこう。9)

食品衛生法は、「飲食に起因する衛生上の危害の発生を防止」するため、厳しい規制措

置を流通加工関連業者に対して迅速に実施する権限を、厚生大臣及びその機関委任により

県知事に与えている(旧法24条)。

同法(旧法)第4条とその第2号の条文ではこう規定していた。

;次に掲げる食品…は、これを販売し(不特定多数又は多数の者に授与する販売以外;

…の場合を含む。以下同じ)、又販売の用に供するために、採取し、…加工し…てはな毒;らない。(中略) ;

室 2、‥有害な物質が含まれ、若しくは附著したもの。 !】

l

ll

l------------------------------t--------------------一一--------一一一------一-■------一一--■●●-●●-一■■一■-●-一--__---■■-t

すなわち「水俣病」について言えば、国および県行政当局は、「食中毒事件」と分かっ

た時点で、「水俣病」の拡大を防ぐために、たとえその「有毒な物質」がいかなる化学物

質であり、それがどこから排出されて、どのような経路を辿ってその食品に含まれる至っ

たかが不明確であっても、「魚介類の採取・販売の禁止措置」を一刻をを争って実施する

責務を負わされていたと言えよう。

繰り返しになるが、食品衛生法を適用する際に、病因物質の判明は必要条件ではないの

である。なぜなら、津田も述べているように、「未知の病因物質による食中毒事件の際に、

たとえ原因食品もしくは原因施設が明らかで対策可能であっても、対策がとれなくなって

しまうからだ」10)

それゆえ県衛生部は、同法(旧法)第4条とその第2号の規定に基づいて、「病因食品」

である水俣湾産魚介類を住民が食べないような規制措置を講じようとしたのであった。し

かし、すでに述べたように、1957年9月11日付の厚生省公衆衛生局長からの「回答」に

よって、行政権限は行使されないまま現在に至るのである。

そもそも厚生省公衆衛生局長「見解」は、法的に見たとき、県が行政権限を行使するの

を断念しなければならないほどの拘束力をもつものであるのか?

この点について、津田敏秀は次のように述べている。

「そもそも、食品衛生法の適用は保健所長が決めるものであり、県行政の範囲内で行わ

れる。厚生省へは調査結果が報告されるだけだ。このように国・厚生省にお伺いを立て

てそれによって方針を変えるという必要はない」11)

また、「回答」が食品衛生法第4条2号が適用できない理由とした、「水俣湾内特定地域

の魚介類のすべてが有毒化しているという明かな根拠が認められない」という点について

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保健授業づくりに関する実践的研究(第3報)

-「市民的教養の形成をめざした健康教育」実践のための教材開発の試み(1)-

93

はどうか?

「過睾の食中毒事件で食品の『すべてが有毒化しているという明かな根拠が認め』られ

た事例はない」として、津田はこう反論している。

「このような条件は集団食中毒事件において求められるようなものではない。そもそも

食中毒事件においては、『すべて』の原因食品が汚染されているかどうかは、対策の際

に大きな問題ではないので、実際の集団食中毒事件で『すべて』の原因食品が汚染され

ていたかどうか調査されることははとんどない。(中略)前例もないし実務上の意味も

ないし、何よりも食品衛生行政上そのようなことをこだわってはならないからである。

したがって通常、緊急を要する食品衛生法適用決定の際には、このようなことが判断材

料にされることはあり得ない」12)

こうしてみると、厚生省公衆衛生局長「見解」は「全く前例のない不適切な回答」(津

田敏秀)だったということである。

●食品衛生法適用を望まなかったのは熊本県であり、その意向に沿って厚生省は不適用と

した!

津田も指摘するように、県衛生部が同法(旧法)第4条とその第2号の規定に基づいて

「病因食品」である水俣湾産魚介類を住民が食べないように規制措置を講じることは、「国

・厚生省にお伺いを立ててそれによって方針を変えるという必要はない」ものであったは

ずである。

何故、「お伺い」を立てる必要があったのか? いったい誰が、どんな意図でもって、

厚生省に「お伺い」を立てることを決定したのか? 厚生省公衆衛生局長名による「全く

前例のない不適切な回答」は、熊本県にとっては、"予想外"の"不本意"な「回答」で

あったのか、それとも、むしろ"歓迎"するものであったか?

NHKアナウウンサーとして取材を通して「水俣病」事件にかかわった宮澤信雄は、そ

の著書『水俣病40年』(葦書房、1997年)のなかで、「誰が食品衛生法適用をはばんだか」

として、次のように述べている。

「従来の事件史では、水俣湾に食品衛生法を適用させなかったのは厚生省だとされてい

る。たしかに、厚生省公衆衛生局長が不適用とする通知を送った事実があり、その限り

では厚生省は責任をまぬがれることはできない。

しかし、私は事実が違うと思う。水俣湾への食品衛生法適用を望まなかったのは熊本

県であり、その意向に沿って厚生省は不適用とした。私はそう考えている。」13)

宮澤が、上記のように断言する根拠は何か? 『水俣病40年』(152~161貞)から要

約して整理しておこう。

①1957年7月24日、熊本県水俣奇病対策連絡会議において「水俣湾産の魚に食品衛生

法第4条2号を適用できる」として知事告示が決定された際、会議を主宰する水上長

吉副知事の主張によって、「但し、厚生省と打ち合わせの上、これを行うものとする」

となったことが、裁判の過程で県公衆衛生課長(当時)の証言で明らかになった。

(さ厚生省環境衛生部長(当時)が、裁判で「法の適用について熊本県が照会してくる必

要はなかった」と証言するとともに、弁護士との面談で「打ち合わせ段階で熊本県は、

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94 近藤真庸

補償問題があって全部は禁止できないと言っていた」と語っている。

③「1957年8月13日」報道のニュースソースは、熊本県でなく厚生省であった。つま

り厚生省も、この段階では食品衛生法適用を既定のこととしていたと考えられる。こ

れに対して橋本水俣市長は、、新聞報道の翌日(8月14日)、厚生省公衆衛生局長あ

てに「食品衛生法適用は結果的に漁獲禁止を意味するものであり、必然的に補償の問

題と関連する重大な問題でありますが、新開発表前に何等の打ち合わせもいただかな

かったことは真に遺憾に存ずる次第であります」という抗議文を送っている。14)

④県衛生部長名で厚生省公衆衛生局長あてに「該当海域に生息する魚介類は海域を定め

て、有害な物質に該当する旨告示を行い、4条2項を適用すべきものと思料するが、

貴局のご意見をお伺いします」という文面の紹介状が発せられるのは、水俣市長が抗

議文を送った2日後の「8月16日」であり、水上副知事が桜井熊本県知事に対して

「7月24日」の決定について報告したのは、なんと「8月19日」になってからであ

った。しかもその際、「告示を実施する前に水俣市当局及地元漁業組合等関係者と打

合せをなし事前に十分了解をつけることとする。厚生省とも更に文書を以て連絡打合

せをなす」というような、会議では一切話し合われていないことを付け加えている。

⑤厚生省公衆衛生局からの「回答」が届くのは、「照会状」が発せられてから1カ月ち

かく経った「9月11日」のことであり、宛先も、「照会状」を発した県衛生部長では

なく、「県知事」宛という"異例"の「回答」であった。

⑥「水俣湾内特定地域の魚介類のすべてが有毒化しているという明かな根拠が認められ

ない」ことを理由とした「前例もないし実務上の意味もない…全く前例のない不適切

な回答」(津田敏秀)を見せられた時の心境を、公衆衛生課長(当時)は、「こんな

理由で不適用とするのは理不尽で、適用しないための逃げ口上だと考えた」と供述し

ている。

宮澤は、以上のような事実経過をもとにして、次のように推察している。

「私は、この間水上が、衛生部長や守住の頭越しに、公衆衛生課長 に働きかけていた

と考える。水上副知事は元内務官僚の人脈を活用しただろうし、通産 省ルートも働い

たかもしれない」15)

「水上副知事は、理屈はどうでも、本省の『適用することは出来ない』という一言が文

書で欲しかったのだ。それ以外に、連絡会議の『食品衛生法を適用する』という決定を

くつがえすことはできなかったのだから」16)

もし、「1957年7月24日」の決定を速やかに実行に移していたならば、「約50名程度

の患者の範囲で終わり、充分な対策と救済が成立していたであろう」(吉田克己)ことを

思うとき、食品衛生法適用を回避することに導いた、水上副知事の犯罪的行為は断罪され

るべきであり、許すことはできない。

【註】

1)『21世紀の子どもたちに、アウシュビッツをいかに教えるか?』(作品社、2000年)。フランス・リヨ

ンの高校(リセ)で、27年間にわたって歴史教師をつとめた著者・フォルジュ(1947年~)は、「そ

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保健授業づくりに関する実践的研究(第3報)

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の出来事がいかにして起こったのか、それがどのような形で人間性の破壊につながったのか、その出

来事のもつ意味を、繰り返し省察する必要」(同書289 頁、「解説」高橋哲哉・執筆)を説き、その

際、〈抑圧された者の視点から歴史を見る〉 こと、く『記憶の場所』に生徒たちを連れていくこと〉の重

要性を指摘している。

2)津田敏秀『医学者は公害事件で何をしてきたのか』 岩波書店、2004年、51貞。津田は、「対策を念

頭におけば、水俣病の『原因』はメチル水銀と考えるべきではなく、『水俣湾産の魚介類の摂取』と考

えなければならない」(50頁)と述べている。

3)前掲書2)、50~51頁

4)原田正純『水俣病』岩波新書、1972年、21頁より再引用。

5)この点にかかわって原田正純は、次のように述べている。

「この段階では因果関係の追究のみの疫学があって、ほんとうの意味での疫学は存在しなかったとい

っていい。つまり、汚染された地区の住民が、臨床的にどのような健康障害を示しているかという問

題が継続的に追究されていたならば、その後の水俣病の研究の発展も異なっていたに違いない」(前掲

書4)、27頁)

6)前掲書2)、59~60頁、および水俣病被害者・弁護団全国連絡会議・編『水俣病裁判』(かもがわ出版、

1997年、181~182頁)より要約

7)1957年、伊藤蓮雄(当時・水俣保健所長)は、熊本大学医学部の武内教授の勧めで、水俣湾でとれた

魚をネコに食べさせ、ネコが発病するかどうかを確かめる実験をしている。実験の結果、実験に用い

た7匹のネコのうち5匹がけいれん発作を起こした。ネコの症状はそれまでに発病していたネコと同

じであるだけでなく、熊本大学での解剖によっても神経病変は自然発症のネコと同様のものであるこ

とが確かめられたことから、〈水俣病の原因が水俣湾産の魚を食べることによるものである〉 ことが実

験的にも裏付けられた。

8)「県は食品衛生法第4条によってちかく『水俣湾でとれた魚の販売を禁止する』知事告示を出すこと

になった」(西日本新聞)、「県は食品衛生法の立場から同法第4条によって、売る目的の水俣湾の漁獲

を禁止することに決め、2、3日うちに知事名で告示することになった」(熊本日日新聞)

9)深井純一『水俣病の政治経済学 産業史的背景と行政責任』(頸草書房、1999年、131~132頁)

深井は、漁獲・販売規制をめぐる行政責任について次のように述べている。

「水俣病の発生確認後の行政当局の責務は、‥・患者の救済および原因究明と並行して、何よりも被害

の拡大を迅速かた厳重に防止することにあった。特に魚介類の有毒性が察知されて以降、その漁獲・

販売・摂食を禁止することは行政の最大の直接的責務であったと言ってよい。しかしその法的な禁止

措置は、驚くべきことに今日に至るまで実施されたことがなく、患者が発生するたびに漁協による漁

獲自粛中し合わせの行政指導を、その都度強めることで片付けられてきた。その不作為と怠慢は、水

銀汚染の想像を絶する広域的拡大と、膨大な数の水俣病患者の発生をもたらした第二の直接的な原因

であり、水俣病を巡る行政責任の中心的内容を成すと言えよう。」(130頁)

10)前掲書2)、52頁

11)前掲書2)、61頁

12)前掲書2)、61~62頁

13)宮澤信雄『水俣病40年』葦書房、1997年、146~147頁。

14)そもそも、食品衛生法は告示者(この場合、熊本県知事)の補償責任は定めていない。熊本県はもと

より水俣市までが「補償問題」を気遣うとはどういうことだろう。それは、当時すでに、「魚介類汚染

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96 近藤真庸

の原因物質については、工場の廃液及び廃棄物中の化学物質、または金属類等が疑われるので、それ

については目下引き続き究明中である」(日本衛生学会で厚生科学研究班「発表要旨」)という状況ま

できて、「元・チッソ水俣工場長」であった橋本水俣市長が、チッソにその矛先が向けられることを気

遣ったにちがいない。(前掲書13)、158頁)

15)前掲書13)、159頁

16)前掲書13)、160頁 (2004年5月1日 脱稿)

2.《教材研究ノート②》もう一つの「新潟水俣病"原因究明''史」(1)一

新潟県衛生職員たちの2年間(1,`5.5.31~19`7.7.15)

●"空白"の2週間(19`5年5月31日~同年6月12日)

1965年6月12日、新潟大学医学部・椿忠雄教授が「魚介類の摂取により、有機水銀中

毒患者が阿賀野川流域に発生」と公表。翌日の朝刊には、「阿賀野川流域の水俣病患者、

すでの2人死ぬ、5人発病、厚生省も調査」(『新潟日報』1965.6.13)という見出しが踊っ

た。公式的にはこの日(「1965年6月12日)から、「新潟水俣病」の歴史は始まる。

椿(当時・東京大学医学学部助教授)によってIK氏(新潟市下山地区在住)が有機水

銀中毒お診断されたのは、その約半年前の1965年1月18日のことである。その後も、告

ぐ次と有機水銀中毒の患者が発見され、1965年5月31日には、新潟大学に着任してまも

ない椿から県当局に対し、「原因不明の水銀中毒患者4名*」が阿賀野川下流域に発生し

ている」旨報告された。

*第2例日は、OK氏(豊栄町在住)であり、同年4月に確認されている。なお、公式的には「第1

号患者」はIK氏とされたが、後に「水俣病」であると判明したIH氏(新潟市下山地区在住、1963

年10月発症)、MU氏(新潟市下山地区在住、1964年8月下旬発症、同年10月29日死亡)、KC氏

(新潟市在住、1964年2月10日発症、同年10月29日死亡)にみられるように、地政

ら、 していた。)

椿からの報告を受けた県衛生部長・北野博一は、同日(5月31日L 直ちに枝並福二、

山下修司、本間ムツ、山田光太郎ら衛生部長室に緊急招集し、最初の打ち合わせをおこな

った。そこでは、①農薬使用現地調査の実施(薬事衛生課)②横雲橋下流沿岸地区の住民

数・世帯数・診療所数等の基礎調査の実施(医療課)③「第2回目 打ち合わせ会」を6

月4日に開催を決定している。

旦且には、衛生部の工場班・農薬粧が、阿賀野川に関する水銀使用工場の事前調査(資

料検討)、および海域部落別水銀農薬使用量調査結果を、豊旦旦には日本瓦斯化学工業・

松浜工場、日本曹達・新潟製造所、昭和電工・鹿瀬工場の廃水排出場ならびに沈殿池の泥

を採取し、それぞれ新潟大学に送付。

旦旦、関係者合同会議を開催。①県・新潟市・新潟大学の三者の協力体制を強めるとと

もに、大学は原因究明および潜在患者の発見調査を実施する。②県は直ちに6月県議会に

調査費を要求する。③市は県と大学に全面協力することを、それぞれ確認。

週_旦には、新潟大学医学部医局長が県保健医療課を訪れ、「患者発見調査、魚・泥の調

査、医療機関の調査を、12日から一斉実施する」ための打ち合わせをおこなっている。

このように、「椿報告」(5月31日)を受けてから「公式発表」(6月12日)に至るま

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保健授業づくりに関する実践的研究(第3報)

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での2週間、県衛生部の対応は迅速であった。

とはいえ、2つの疑問が残る。一つは、「椿報告」以前に、県衛生部が何の対応もして

いない点であり、いま一つは、なぜ「6月12日」まで、公式発表を保留したか、という

疑問である。=

**この間の経緯は、『枝並日誌』(医療課副参事として庶務課を統括していた枝並福二が、北野の指

示でつけていた詳細な業務日誌。『有機水銀中毒症日誌』という表題がつけられた3冊の大学ノート

から成る。1965年5月31日から同年7月14日までは前任者による。それを引き継いだ枝並によっ

て、その後1967年6月4日まで記録された)による。

●「6.28 漁獲・摂食規制」(行政指導)を決定!

姓_旦からは、新潟大学だけでなく、県、厚生省調査団も加わって大規模な現地調査が

実施され、裏L旦には、日本瓦斯化学工業・松浜工場と日本曹達・新潟製造所の廃液調査

にくわえて、新潟西港域内倉庫の農薬保管の調査が行われた。…‥

****阿賀野川に直接または間接に廃液が流れる可能性のある工場は13。そのうち10の工場は水

銀とはまったく関係がなく、当初、日本瓦斯化学工業・松浜工場(新潟市)と北興化学工場(新発

田市)、昭和電工鹿瀬工場の3工場が疑われたが、調査の結果、21日には、日本瓦斯化学工業・松

浜工場と昭 和電工鹿瀬工場の2工場にしぼられた。

上記の調査結果を踏まえ、同日16日、椿と北野は記者会見を行い、「断定できないが、

傲鹿足される」と発表した。あわせて、市衛生部から、阿賀野川周辺の排水

調査を実施し、「址忍法法衣親盗立」との報告がなされた。

翌17日、疫学班(班長は、公衆衛生部長・本間ムツ)は、「住民健康調査」に乗り出し、

新潟大学医学部神経内科との間で調査方法を打ち合わせ、調査票・集計表の印刷、および

聞き取り調査の担当者を決定。準備期間を含め26日_までの10日_週で、批点している。

さらに26日から29日にかけて、要精密検診者128人を抜き出し、29日から7‡月1月

の間に現地での集団精密検査を行った。

その一方でで、県対策本部は、壬生_且に幹事会を開き、「河口付近の魚類採捕禁止」を検

討し、住民の不安解消と漁業保護の理由から、「行政指導」で「当分の間」「横雲橋下流

区域」を対象に実施する方針をかため、28 日、県対策本部は、

口まで14km

ゑ義旗することを決定、7月12日には、 についての

蕊珪糞」も実施している。

そして"期限切れ"の9月1日、県当局は、「現在月別こ水銀使用の施設は撤去又は操業

中止中であるため汚染の継続は考えられず、又…河川の泥の水銀含有量は比較的少ないの

で新たに汚染する危険性も少ない」ことを理由に、「採捕禁止指導を継続しない」旨の衛

生部長通達を出して漁獲規制を解除した。**=書

*****対応の迅速さは認めるが、ここでも疑問が残る。(Dなぜ、県(知事)は「食品衛生法」に

基づく「漁獲・販売禁止」という措置をとらないで、「行政指導」の留めたのか?②「7月1日から

8月 31日」という期間を限定した根拠はどこにあったのか?③何よりも、「阿賀野川下流(横雲橋

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98 近藤真庸

より河口まで14km)の魚介類に限定」したのはなぜか?

こうした一連の対応が、かえって被害を拡大させていくことになるのである。

●下流域での集団発生と「塩水クサビ」現象

患者はいずれも、河口から6kmにかかる泰平橋までの間に居住する住民に発生した。

当時、河口付近では、「塩水クサピ」とよばれる現象が起こることが話題になっていた。

「塩水クサビ」とは、海水と淡水の比重の差から、海水が河口付近の河川の底をクサピ

形に侵食する現象であり、新潟では地盤沈下の影響もあって、河口から14kmも侵入さ

れていたのである。

ちょうど河口から14kmに位置には、横越村と京ヶ瀬村を結ぶ橋(横雲橋)がかかっ

ている。県当局が採捕規制の線引きをするのあたって、「阿賀野川下流(横雲橋より河口

まで14km」としたのは、「塩水クサピ」を考慮したものと思われる。

おそらくその時点では、県当局は、「患者は下流域に集団発生した」という認識をもっ

ており、汚染源として想定していたのは、新潟市内の水銀使用工場(日本瓦斯化学工業・

松浜工場)であったと推察される。***=*

県当局が、昭和電工・鹿瀬工場を"真犯人"と推定するに至るのはもう少しあとのこと

であった。

******日本瓦斯化学工業・松浜工場は、主排水路が阿賀野川に入らず直接日本海に出ていたが、

初期患者が集団発生した地域の至近場所に立地し、しかもアセトアルデヒドの生産を行っていた。

こうした県当局の対応をいいことに、昭和電工・鹿瀬工場は、『広報・鹿瀬 第56号』

(1965年7月1日発行、鹿瀬町)に、「当社は水俣病に関係ありませんので、ご安心くだ

さい」という内容の記事を掲載して、矛先が自分の方に向けられる前に"先制攻撃"をし

かけたのであった。

さらに、9月10日、厚生省が「鹿瀬工場の排水溝付近の泥から15ppm、構内のボタ山

から624,640ppmの総水銀を検出」と発表するや、昭和電工は、「有機水銀は使用していな

い」と反論するとともに、北川徹三(横浜国立大学工学部教授、安全工学)と結託して、

なりふり構わない"反攻"に出た。"水銀農薬説"がそれである。

すなわち北川は、新潟水俣病の公式発見のはぼ1年前の1964年6月16日に発生した「新

潟地震」により新潟港埠頭倉庫に保管中の農薬の一部が海水に浸った事実を取り上げ、そ

のとき流出した農薬が日本海流に乗って東上し、阿賀野川河口で「塩水クサビ」によって

下流部いったいを汚染した、と主張したのであった。

●県衛生部・副参事「枝並福二」の"反撃"

それを聞いて、県衛生部としては黙っているわけにはいかない。なぜなら、農薬の保管

については、劇薬物取締法に基づき、県衛生部の薬事衛生課が責任を負う立場にあったか

らである。

水銀農薬説は、かえって北野はじめ県衛生部職員の原因究明への執念をかきたてること

になる。だが、魚や泥から有機水銀を検出できたとしても、発生源を特定することは容易

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ではない。しかも、鹿瀬工場では、1965年1月にはアセトアルデヒドの生産をやめ、設

備は廃棄されていた。

枝並福二(副参事)は、鹿瀬工場の排水管に着目し、川の中に潜り込んで管壁に生えた

水苔を採取することを思いついた。あわせて、流出口付近の岸辺や川底から水生植物を採

集することも忘れなかった。

集められた"証拠"を、枝並は、新潟大学医学部・滝沢行雄助教授のもとに届けた。分

析の結果、メチル水銀は検出された。県衛生部の執念は実った。1966年5月17日のこと

である。

そして1967年4月7日、厚生省特別研究班は、「昭和電工鹿瀬工場で副生されたメチル

水銀化合物が川魚の体内に蓄積され、それに接触した住民が発症した」と結論づけた。

新潟水俣病被害者3家族13名が、昭和電工を被告として提訴するのは、その2ケ月後、

新潟病が公式に発見されて3年目にあたる「1967年6月12日」のことであった。

【文献】

・斉藤 恒『新潟水俣病』・毎日新聞社、1996年

・深井純一『水俣病の政治経済学』頸草書房、1999年

・飯島伸子+船橋晴俊(編著)『新潟水俣病問題』東信社、1999年

・堀田恭子『新潟水俣病の受容と克服』東信社、2002年

・関礼子『新潟水俣病をめぐる制度・表象・地域』東信社、2003年

(2005年5月1日 脱稿)

99

3.《教材研究ノート(診》もう一つの「新潟水俣病"原因究明"史」(2)

新潟県衛生部長・北野博一の評価をめぐって

●2つの「北野博一」像

"真犯人"の特定にあたって、新潟県衛生部員の執念ともいえる活動を展開したという

ことについては、前節(Ⅱ一2)で紹介した。

新潟県衛生部長として陣頭指揮にあたったのは、北野博一であった。

「水俣病"公式発見"50年」の節目にあたって、2つの新聞が、91歳を迎えた北野の

証言を紹介する記事を掲載している。

その一つが、『西日本新聞』が企画・連載した「岐路・役人たちの水俣病⑤ 再燃、熊

本の過ち繰り返さず」の記事(2006年3月24日付)であり、いま一つは、『朝日新聞』(2006

年4月22日付)に掲載された特集企画に組み込まれたコラム「新潟県は汚染調査 阿賀、

野川で第2公害」である。

●『西日本新聞』記事のなかの「北野博一」像

『西日本新聞』記事から見ていとう。そこでは、北野は、「事なかれ主義」に終始した

熊本県の役人に対して、「良心」ある行動を貫いた反権力の役人として描かれている。

全文を引用する。

**** ***************** ******* *

旧昭和電工鹿瀬工場の排水口。案内してくれた男性患者は「ここから阿賀野川に毒が

垂れ流された」と語った=新潟県阿賀町

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100 近藤真庸

「新潟県下に"水俣病"」「7人が発病、すでに2人死ぬ」「有機水銀中毒」-。衝撃的

な見出しが新聞に躍った。

1965(昭和40)年6月。"終息"したはずの水俣病が、熊本のはるか北、新潟 県

阿賀野川流域で確認された。恐れていた被害の「飛び火」。昭和電工の工場排水で汚染

された魚を食べた住民は水銀に侵され、手足のしびれ、痙撃(けいれん)を起こした。

熊本と全く同じ構図だった。

「こりやあ大変なことになる」。対策を指揮する県衛生部長は厚生省から出向していた

北野博一。その動きは素早かった。副知事を長に研究・対策本部を立ち上げ、保健婦や

看護学校生を健康調査に総動員。わずか2週間で流域住民約2万9000人の聞き取りを

始めた。

熊本では見送られた魚介類の捕獲禁止や胎児性水俣病予防のための妊婦指導も行っ

た。その結果、胎児性の認定患者は1人にとどまり、日本初の公害裁判となった67年

の新潟水俣病第1次訴訟で、県は被告とならなかった。

原告側弁護士の坂東克彦(73)はいう。「北野さんは常に被害者の立場にあり、味方だ

った。敵に回す理由はなかった」

⊂] [コ

「九州のハンセン病療養所が、私の原点です」。愛知県尾張旭市の自宅で、91歳の北野

は信念を口にした。

北海道大医学部卒業後、赴任先に鹿児島県鹿屋市の国立療養所星塚敬愛園を選んだ。

実家には勘当されたが、敬度(けいけん)なクリスチャンだった園長の下、患者と日々

向き合い「人間の良心の在り方を学んだ」。新潟水俣病の原因追及に奔走する北野は、

国や昭電の横やりに遭う。それでも「良心」ある行動を貫いた。

訴訟が始まると、厚生省から電話が入った。「北海道の部長にどうか。いずれ本省で

局長の目もある」。出世を餌にした明らかな「北野外し」。証人に立つときは「国に責

任が及ぶ証言はやめてはしい」と、環境庁に要求された。

坂東の事務所に、裁判を勝訴に導く重要書類のコピーが投げ込まれたことがあった。

"犯人"は北野だった。「国や昭電に対して、こんちくしょうという怒りがあった」。

終始穏やかな北野の口調が、少し上ずった。

□ □

3月上旬。豪雪の名残が、工場の敷地を白く覆っていた。新潟県阿賀町にあった旧昭

和電工鹿瀬工場は、現在も子会社として操業している。阿賀野川右岸に「毒」を垂れ流

した排水口が残る。

行政に対し、地元には「対策は完ぺきでなかった」という声もある。調査地域を限定

したために漏れた被害者がいた。出産指導は強制ではなかったが「県にいわれて中絶し

た」と打ち明ける女性もいる。熊本に比べ被害者数が少ない分、差別と偏見は今も根強

い。

それでも新潟では、熊本の犯罪的な過ちを繰り返さなかった。新潟のような初期対応

が熊本にあれば、再発は防げた。新潟の被害者は、生まずに済んだはずだった。

熊本で被害拡大を放置した役人たちについて、北野はこう語った。

「むしろ熊本は、一般的な役人だった。なんだかんだ言い逃れをして、先送りにする

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保健授業づくりに関する実践的研究(第3報)

-「市民的教養の形成をめざした健康教育」実践のための教材開発の試み(1)-

101

のが人間。事なかれ主義は役人の通性だから」

68年、国は熊本と新潟の水俣病の原因を「工場排水による水銀中毒」と断定。よう

やく行政は「公害病」と認めた。(文中敬称略)

× ×

▼新潟水俣病 阿賀野川上流の昭和電工鹿瀬工場がメチル水銀を川に排出し、汚染さ

れた川魚を食べた流域住民が被害者となった。新潟県によると、法律に基づいた認

走患者は690人(申請件数2138件)、うち生存者は259人(2月末現在)。

関西訴訟最高裁判決を受け、11人が新たに申請している。1次訴訟は熊本より2

年早い67年に提訴。企業側に加害、賠償責任を認めさせる画期的な判決となり、

公害裁判の先駆けとなった。 (『西日本新聞』2006年3月24日付)

**** *** ******* **** ********** *

記事は、「新潟では、熊本の犯罪的な過ちを繰り返さなかった。新潟のような初期対応

が熊本にあれば、再発は防げた。新潟の被害者は、生まずに済んだはずだった」として、

その"違い"を役人像に求め、「むしろ熊本は、一般的な役人だった。なんだかんだ言い

逃れをして、先送りにするのが人間。事なかれ主義は役人の通性だから」という北野の証

言を登場させている。

●『朝日新開』記事のなかの「北野博一」像

『朝日新聞』のコラムはどうか。全文を引用する。*

* *** *** *** * *** ** ** *** *** * *** *

65年に阿賀野川で第2水俣病が確認された新潟県は、自ら公害の犯人捜しをするな

ど、医学者に究明をゆだねた熊本県とはだいぶ対応が違った。

「新潟の汚染源だった昭和電工鹿瀬工場の県経済界における地位は、熊本におけるチッ

ソより小さかったから、やりやすかった面もある」

当時、厚生省から出向していた県衛生部長の北野博一(91)は指摘する。

昭電は当初、患者が新潟市など60キ。下流の河口に集中したことで強気に構え、「水銀

農薬説」で嫌疑を否定した。

衛生部員は北野のもと検体の魚を集め、工場の立ち入り検査もした。排水管に潜り込

んでコケを採取。コケから有機水銀を検出し、決め手になった。

住民の健康調査も65年5月の公式確認の翌月には始め、最終的な対象者は5万人近

くに上った。熊本では20万人とされた対象住民の全体調査は一度もなされなかった。

北野は語る。「食品衛生法を適用したいと厚生省に言うと、『熊本で適用しなかった』

と応じない。私にも事件はなるべく小さく収めたいという役人根性が働き、当初漁獲規

制の対象を下流に限定した」

しかし、新潟県衛生部の初期対策を熊本県が取っていたなら 一。水俣病の展開はか

なり違ったものになったはずだ。 (『朝日新聞』2006年4月22日付)

*** *** ******* **** ************

コラムを執筆した記者の意図は、最後の2行に集約されている。『西日本新聞』と同じ

論調といえる。

では、北野についての評価はどうか。

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102 近藤真庸

事実と記者の結論との間にはさまれた北野のコメントに注目したい。記者の意図とは異

なる文脈で語られているように思われるからだ。

おそらく記者は、コラム執筆にあたって、新潟県衛生部長として陣頭指揮をとった北野

の証言をそこにはさむことで記事に信憑性をあたえることができると考えて、北野に取材

を申し入れたのであろう。

しかし、40年前の対応についてコメントを求めたとき、北野の口をついて出てきたの

は、意外にも"自己批判"の言葉であった。

●北野博一、40年後の"自己批判''

「食品衛生法を適用したいと厚生省に言うと、『熊本で適用しなかった』と応じない。

私にも事件はなるべく小さく収めたいという役人根性が働き、当初漁獲規制の対象を

下流に限定した」

食品衛生法に基づいて「食中毒」事件として処理するのに厚生省の許可は不要であるに

もかかわらず、北野は、厚生省にお伺いを立てていたのである。そして、厚生省の意向に

沿って食品衛生法の適用回避を決断し、漁獲禁止の「行政指導」および川魚の販売禁止の

「行政指導」に留めたことを、北野は正直に認めている。

北野証言は重大である。「食中毒」事件として処理すべきであるという認識をもちなが

ら、それをしなかった、というのである。

この点では、熊本県と同罪と言わねばならない。

しかも、その措置は、被害の拡大を招くことになる、2つの"時限爆弾"とも言うべき

問題を含むものであった点でも批判されなければならない。

ひとつは、「7月1日から8月31日」というように期間を限定したこと。

いまひとつは、阿賀野川下流(横雲橋より河口まで14血)の魚介類に限定したことで

あった。

9月になれば鮭の遡上が始まり、10月には秋鮭漁も解禁となる。「無期限禁止」となれ

ば、漁民に対する補償問題というやっかいな問題を引き起こすであろうことは必至である。

他方、汚染された川魚の摂取をこれ以上続けるならば、被害が拡大することは明らかで

ある。

そうしたジレンマをかかえながら、北野は"期限切れ"の「9月1日」を迎えることに

なる。漁獲規制の解除を告知する「9月1日付 衛生部長通達」には次のような「根拠」

が記されている。

「現在既に水銀使用の施設は撤去又は操業中止中であるため汚染の継続は考えられず、

又…河川の泥の水銀含有量は比較的少ない」

北海道大学医学部を卒業した北野が、「食物連鎖」や「生物濃縮」のメカニズムを知ら

なかったはずはない。

にもかかわらず、前述のような「根拠」を挙げたのは、「"犯人"は河口にある日本瓦

斯化学工業・松浜工場(新潟市)である」という思い込みにもとづく前提があったからで

あろう。このことは、漁獲規制の対象を阿賀野川下流(横雲橋より河口まで14km)の魚

介類に限定したこととも符合する。

ところで、私は前節(Ⅱ-2)で、「(新潟県衛生部の)対応の迅速さは認めるが、こ

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保健授業づくりに関する実践的研究(第3報)

-「市民的教養の形成をめざした健康教育」実践のための教材開発の試み(1)-

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こでも、疑問が残る」として、

①なぜ、県(知事)は「食品衛生法」に基づく漁獲・販売禁止という措置をとらないで、

「行政指導」に留めたのか?

②「7月1日から8月31日」という期間を限定した根拠はどこにあるのか?

③阿賀野川下流(横雲橋より河口まで14血)の魚介類に限定したのはなぜか?

以上、3点を指摘した。

奇しくも、コラム「新潟県は汚染調査 阿賀野川で第2公害」は、上記の私の疑問を解

くヒントを与えてくれるものとなったのである。

●水俣病事件での人物の"記憶"をどう誇り継ぐか?

『西日本新聞』の記事が描いたように、"真犯人''が昭和電工・鹿瀬工場であることを

北野が知ったとき、「良心」の呵責から、「役人根性」を抜け出せなかった己を責めたに

ちがいない。

その後の北野の行動の背景には、購罪意識があったのかもしれない。

この40年間、北野は本心を語ることはなかった。その北野が、91歳にして初めて真相

を語ったのである。

2つの記事は、北野を正当に評価しているとは言い難い。あらかじめ結論があり、それ

に合わせて、北野という役人像を都合よく描いているにすぎないように私には思われるの

である。

北野も、"英雄"として語り継がれることを望んではいないだろう。

水俣病事件での人物の"記憶"は、美談としてではなく、こうした過ちもふくめて、語

り継がれていかなければならない。 (2006年5月1日 脱稿)

V おわりに

授業プラン「水俣病の"記憶"」は、地域科学部専門科目「健康教育論」講義(対象

・3年生)のなかで、2006年度より実験的実践(追試)を重ねて、今年で4年目を迎え

た。講義では、前半(1~8)後半(9~10)の2回に分けて実施している。

また、後半の講義では、最後の40分間を「被害者は救済されたのか? 未だ救済されて

いないとすれば、何故なのか?- 『未認定患者』を生んだ『診断基準』」lまいかにし

て作成されたか?」と題し、「未認定患者」の存在に目を向け、"認定"の根拠となる「診

断基準」がいかなる見地から作られたものか(疫学的方法論の立場から、「診断基準」が

誤りであること)を検証すべく、ETV特集「水俣病は終わっていない」(2004.4.24放送)

および、ETV特集「水俣病 問い直される行政責任」(2004.10.30 放送)を視聴(抜粋)

させている。*

*本稿校正中の、2009年7月8日、未認定患者"救済"ではなく、"切り捨で'によって決着をねら

う「水俣特措法」は、参議院本会議において自、公、民主などの賛成多数で可決された。

「授業シナリオ」全文と「授業記録」については、稿を改めて報告したい。 (了)