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1 図表で読み解く 衛生対策とごみ処理 わが国の廃棄物処理に関する法律は、昭和 45(1970)年に制定された「廃棄物の処理及び清掃に 関する法律」であるが、その第一条で「この法律は、廃棄物を適正に処理し、及び生活環境を清 潔にすることにより、生活環境の保全及び公衆衛生の向上を図ることを目的とする」と記述され ている。この法律はその後多くの改正を重ねてきており、たとえば、平成 3(1991)年における大 改正では廃棄物の排出抑制、分別収集という概念が強く打ち出されており、それまでの公衆衛生 の確保を目的とした適正処理ということからリサイクル社会への転換が色濃く打ち出されている が、それでもなお、法の目的に「公衆衛生の向上を図る」という文言は残っている。 筆者自身、昭和 48(1973)年に財団法人日本環境衛生センターに職を得たのであるが、「衛生」 と名の付く組織にいながら、ごみ問題と衛生を結びつけて考えたことはほとんどない。今から、 40 年前でも意識しなかったことを、今でも法律の最初に謳っているのは何故なんだという疑 問・・・おそらくこれが、この章をテーマとして取り上げる動機になった。 筆者が初めて、「ごみ処理は衛生対策のためにあるのだなあ」と思い至ったのは、平成 6~7(1994~1995)年にインドネシアに赴任したときのことである。インドネシアにおける職場は、 ジャカルタ市郊外にあるインドネシア水道環境衛生訓練センターという所だった。日本が ODA で作った施設で、東はスマトラ島、西はニューギニア島までいろいろな人種が水道の布設やごみ やし尿の処理について研修を受けにやってくる。講義室や実験室はもちろん食堂や宿泊施設まで 整備された立派な施設であったが、その施設のすぐ横を幅 20~30 メートルほどの川が流れていた。 研修センターの玄関に立ち、その川を眺めていると水の恩恵に関するあらゆる光景が一望の下に 見渡すことができる。右手の橋のたもとでは、近所の主婦達が洗濯をし、中には歯ブラシで歯を 磨いている人もいる。川の水といっても、私たちが日本で目にするような透明な水ではない。土 砂を目一杯運んできた透視度ほぼゼロといってもいいような黄土色の水である。午後には、子供 達が橋の上からダイブして水浴びを楽しみ、そのちょっと下流側、私の視線のまっすぐ正面では、 男女を問わず水浴びをしたり、なんと、中には川に尻を向けて排泄をする人もいる。もちろん、 川はかっこうのごみ捨て場になる。ごみを手っ取り早く目の前から消すのには川は絶好の場所で ある。そんな風景を目にしながら、 「この人達は病気にならないのだろうか」とあきれたものだが、 実際よく病気になっていた。インドネシアにいた 2 年間で、私の職場、家庭の身近な所にいたイ ンドネシア人 3 人が腸チフスに罹患した。腸チフスという病気がどのようなものであるのか当時 は実感できなかったのだが、放っておいてもじきに直るという性格の病気ではないだろうという ことは分かる。大いに焦ったものだが、そのようなことを数多く見聞きしているうちに、遅まき ながらごみ問題は衛生対策上欠くことが出来ないことなのだと教えられていった。以来、筆者に とって、ごみ問題と公衆衛生の向上というテーマは大きな課題として残るようになった。 この章で、私が考えたいことは、わが国はどのようにして公衆衛生の向上というテーマと戦っ てきたのか、それを解決するためにごみ処理はどのような役割を果たしたのかということである。 そして、できれば、ごみ処理と公衆衛生という、とてつもなく地味なテーマに必至に取り組んで きた人たちの足跡も残しておきたい。 それを検討するために、まずはコレラが猛威をふるっていた百年以上も昔に遡ってみることと する。

図表で読み解く 衛生対策とごみ処理1 図表で読み解く 衛生対策とごみ処理 わが国の廃棄物処理に関する法律は、昭和45(1970)年に制定された「廃棄物の処理及び清掃に

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1

図表で読み解く 衛生対策とごみ処理

わが国の廃棄物処理に関する法律は、昭和 45(1970)年に制定された「廃棄物の処理及び清掃に

関する法律」であるが、その第一条で「この法律は、廃棄物を適正に処理し、及び生活環境を清

潔にすることにより、生活環境の保全及び公衆衛生の向上を図ることを目的とする」と記述され

ている。この法律はその後多くの改正を重ねてきており、たとえば、平成 3(1991)年における大

改正では廃棄物の排出抑制、分別収集という概念が強く打ち出されており、それまでの公衆衛生

の確保を目的とした適正処理ということからリサイクル社会への転換が色濃く打ち出されている

が、それでもなお、法の目的に「公衆衛生の向上を図る」という文言は残っている。

筆者自身、昭和 48(1973)年に財団法人日本環境衛生センターに職を得たのであるが、「衛生」

と名の付く組織にいながら、ごみ問題と衛生を結びつけて考えたことはほとんどない。今から、

40 年前でも意識しなかったことを、今でも法律の最初に謳っているのは何故なんだという疑

問・・・おそらくこれが、この章をテーマとして取り上げる動機になった。

筆者が初めて、「ごみ処理は衛生対策のためにあるのだなあ」と思い至ったのは、平成

6~7(1994~1995)年にインドネシアに赴任したときのことである。インドネシアにおける職場は、

ジャカルタ市郊外にあるインドネシア水道環境衛生訓練センターという所だった。日本が ODA

で作った施設で、東はスマトラ島、西はニューギニア島までいろいろな人種が水道の布設やごみ

やし尿の処理について研修を受けにやってくる。講義室や実験室はもちろん食堂や宿泊施設まで

整備された立派な施設であったが、その施設のすぐ横を幅 20~30メートルほどの川が流れていた。

研修センターの玄関に立ち、その川を眺めていると水の恩恵に関するあらゆる光景が一望の下に

見渡すことができる。右手の橋のたもとでは、近所の主婦達が洗濯をし、中には歯ブラシで歯を

磨いている人もいる。川の水といっても、私たちが日本で目にするような透明な水ではない。土

砂を目一杯運んできた透視度ほぼゼロといってもいいような黄土色の水である。午後には、子供

達が橋の上からダイブして水浴びを楽しみ、そのちょっと下流側、私の視線のまっすぐ正面では、

男女を問わず水浴びをしたり、なんと、中には川に尻を向けて排泄をする人もいる。もちろん、

川はかっこうのごみ捨て場になる。ごみを手っ取り早く目の前から消すのには川は絶好の場所で

ある。そんな風景を目にしながら、「この人達は病気にならないのだろうか」とあきれたものだが、

実際よく病気になっていた。インドネシアにいた 2年間で、私の職場、家庭の身近な所にいたイ

ンドネシア人 3人が腸チフスに罹患した。腸チフスという病気がどのようなものであるのか当時

は実感できなかったのだが、放っておいてもじきに直るという性格の病気ではないだろうという

ことは分かる。大いに焦ったものだが、そのようなことを数多く見聞きしているうちに、遅まき

ながらごみ問題は衛生対策上欠くことが出来ないことなのだと教えられていった。以来、筆者に

とって、ごみ問題と公衆衛生の向上というテーマは大きな課題として残るようになった。

この章で、私が考えたいことは、わが国はどのようにして公衆衛生の向上というテーマと戦っ

てきたのか、それを解決するためにごみ処理はどのような役割を果たしたのかということである。

そして、できれば、ごみ処理と公衆衛生という、とてつもなく地味なテーマに必至に取り組んで

きた人たちの足跡も残しておきたい。

それを検討するために、まずはコレラが猛威をふるっていた百年以上も昔に遡ってみることと

する。

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インドネシア水道環境衛生訓

練センター前の川で水浴する

子供達。同じ場所で排泄をする

人もいるが、彼らは意に介さな

い。

川で洗濯をする主婦達。時に

は、同じ場所で歯を磨いている

人も。

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3

(1) コレラは衛生の母

わが国の衛生行政はコレラの流行を機に進展した。生活環境を清潔にすることが、コレラ

等水系伝染病の予防措置として有効との認識に基づくものであり、わが国最初の廃棄物関連

法「汚物掃除法」も、そのような背景で生まれた。

図表 2-1 に、コレラの流行、ペストの上陸を機に上下水道対策やごみ・し尿処理など衛生

対策が始まった経緯をまとめた。また、図表 2-2 に、その後の衛生関連法の推移をまとめた。

なお、図表 2-3 に、旧伝染病予防法に規定された法定伝染病の感染源、症状などの概要をま

とめた。

図表 2-1 コレラの流行と衛生対策1

1 大澤正明:汚物とごみと廃棄物の成り立ちと私たちの生活、生活と環境、平成 18 年 10 月

コレラの流行①

・ 文政 5 年(1822) 西日本でわが国最初の流行

・ 安政 5 年(1858) 江戸をはじめ全国で大流行

・ 明治 10 年(1877) 清国より伝播し、西南戦争(1877)帰還

兵に媒介されて流行

・ 明治 12 年(1879) 死亡者 105,786 人

・ 明治 15 年(1882) 死亡者 33,784 人

・ 明治 19 年(1886) 死亡者 108,405 人

・ 明治 23 年(1890) 死亡者 35,227 人

・ 明治 28 年(1895) 死亡者 40,154 人

長崎に入港したミシシッピ号がもたらし、全国に及ぶ。

下水道法(1900)

し尿は農村で肥料資源として利用されるため下水道事業の対象と見なされなかった。

水道条例(1890)

・ 事業主体を市町村とする

・ 水道事業への助成

・ 水質規制

汚物掃除法(1900)

汚物の処理に関して市の事務が定められた。廃棄物処理関連法の原形となる。

伝染病予防法(1897)

患者の隔離や消毒の権限を地方長官に与えた。その後、市町村によるねずみの駆除が規定される。

日清戦争(1894~95)の帰還兵が清国よりコレラ菌を持ち帰り大流行の原因になった。

日露戦争戦死者:10 万余人

日清戦争戦死者:1 万 7 千人

明治 32 年(1899)、ペストが上陸、神戸・大阪を中心に流行

コレラの病原菌は、汚染

された水や食物ととも

に飲み込まれると、腸管

内異常に増殖し、激しい

下痢と嘔吐を引き起こ

し、脱水症状にみちび

き、死に至らせる。症状

が急速かつ激烈なため

に、「虎狼痢(コロリ)」

「虎列刺(コレラ)」等

の字を宛て恐れられた。

コレラ・赤痢・腸チフス・ペスト等8種類が法定伝染病とされた

コレラはもともとインドの風土病。開国がもたらした結果という面も。

細菌学革命

コッホが、結核菌(1882

年)、コレラ菌(1883 年)を発見。

北里柴三郎らが、ペスト菌を発見(1894 年)。前後して、腸チフス、

マラリア、ジフテリア、破傷風等の病原体が発見される。

「用水(上水)、下水、汚物掃除の3つは都市に於ける衛生上の基礎となるべき3大要素である」

・・・・法案趣旨説明

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4

図表 2-2 衛生関連法などの推移

図表 2-3 法定伝染病の概要

衛生関連法の推移

M23 1890 水道条例制定

M30 1897伝染病予防法公布(コレラ、赤痢、腸チフス、痘そう、発しんチフス、しょう紅熱、ジフテリア、ペストの8疾病が対象に)

M33 1900 下水道法、汚物掃除法制定

M42 1909 種痘法制定

T11 1922 伝染病予防法改正(パラチフス、流行性脳脊髄膜炎を追加)

S20 1945 GHQより、公衆衛生対策に関する覚書の指令が出される

保健所法が改正(指導事業としては、住宅、水道、下水道、廃棄物の処理、清掃その他の環境の衛生に関する事項など)

理容師法制定

食品衛生法制定(食品監視員制度が設けられる)

予防接種法公布(痘そう、ジフテリア、腸チフス、パラチフス、百日咳、結核,発疹チフス、ペスト、コレラ、しょう紅熱、インフルエンザ、ワイル病の12疾病)

興行場法、旅館業法、公衆浴場法、墓地、埋葬等に関する法律、が制定

S25 1950 クリーニング業法制定

S26 1951 結核予防法の制定

S26 1951 検疫法公布(コレラ、ペスト、痘そう、黄熱の4疾病)

S29 1954 清掃法制定

伝染病予防法が廃止され、感染症予防法(感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律)に引き継がれる

H11 1999

S23 1948

S22 1947

伝染病名 感染源 症状 対処 その他

コレラ 患者の糞便や吐瀉物に汚染された水や食物。経口感染

下痢、嘔吐 飲食に注意。ワクチンはあるが使われていない

アジア型(古典型)とエルトール型がある。アジア型はインドで1950年まで続き、エルトール型は1991年にペルーで大流行した。

赤痢 患者の糞尿などから食物や水などを経由して経口感染

下痢、発熱。 対処療法。抗菌薬による除菌

衛生が行き届いていない途上国での発生が多い。

腸チフス 大便や尿に汚染された飲み水や食物。手洗いの不十分な状態の食事や糞便にたかったハエ

腹痛や発熱、関節痛など

ワクチンはあるが日本では未承認。手洗いや食物の加熱。

衛生が行き届いていない途上国での発生が多い。

パラチフス 腸チフスと同様 腸チフスと同様 対処療法抗菌薬による除菌

衛生が行き届いていない途上国での発生が多い。

疱そう 飛沫感染や接触感染 高熱、部痛、腰痛 ワクチン(種痘)

発疹チフス シラミによる経皮感染 悪寒や頭痛を伴った発熱

抗生物質

しょう紅熱 飛沫感染 発熱、頭痛など 抗生物質(ペニシリン)により解決

中耳炎、腎炎、リウマチと合併して発症。3~5日で回復

ジフテリア 飛沫感染 高熱、咳 抗生物質

流行性脳脊髄膜炎

飛沫感染 頭痛、発熱、嘔吐 化学療法

ペスト ネズミの血を吸ったノミから感染者の血痰に含まれる菌を吸い込むことで感染

倦怠感、高熱 ノミやネズミの駆除ワクチンの接種抗生物質エボラ出血熱はまだ有効な手だてはない

黒死病。先進国では19世紀までにほとんど根絶。途上国ではなお大小の流行がある。日本でケオプネズミノミは生息しないと言われる

日本脳炎 コガタアカイエカ 高熱、痙攣、意識障害

ワクチンで予防対処療法 アジアでは現在も年間1万人以上の患者が発生。ワクチンは副作用の問題がある。

参考文献:「最新公衆衛生(第2版)、講談社サイエンティフィック、(1996)」、「世界大百科事典、日立デジタル平凡社」、「Wikipedia」をもとにまとめた。

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5

図表 2-4 コレラ死亡者数の推移

図表 2-5 伝染病患者数に対する死亡者数の割合2

(2)伝染病はいつ頃から改善されたのだろうか

コレラを起源とする伝染病がどのように推移し、いつ頃から改善されたのかを見ていくことに

する。そのためには、次の 3つの指標を参考にする。

水系伝染病患者数、死亡者数

明治 30(1887)年に公布された伝染病予防法は、平成 11(1999)年をもって廃止され、感染症予防

法に引き継がれているが、ここでは伝染病予防法に指定されている伝染病のうち、コレラ、赤痢、

腸チフス、パラチフスの四種類の伝染病を対象とする。これらはいずれも、経口伝染病で、衛生

状態に密接な関係を持っていると思われるからである。これら 4種の伝染病の合計を水系伝染病

と呼び、人口 10万人あたりの人数で表し、患者の場合は「り患率」と呼び、死亡者の場合は「死

亡率」と呼ぶ。

乳児死亡率

生後 1年未満の乳児が死亡する割合で、単位は千人当たりの人数で表す。乳児の生存は母体の

健康状態・養育条件等の影響を強く受けるため、乳児死亡率はその地域の衛生状態の良否、ひい

ては経済や教育を含めた社会状態を反映する指標の一つと考えられている。

2 厚生省五十年史(資料編)、1988

0

20,000

40,000

60,000

80,000

100,000

120,000

M9

M1

4

M1

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4 T5

T10 S1 S6

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S21

コレ

ラに

よる

死亡

者数

(人

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10.0

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30.0

40.0

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90.0

死亡

者数

/患

者数

(%

コレラ

赤痢

腸チフス

わが国におけるコレラは、

文政 5(1822)年に西日本を

中心に流行したのが最初と

されている。江戸など全国

に広まったのは、その 36 年

後の安政 5(1858)年のこと

で、日米修好通商条約が結

ばれた年である。コレラの

流行は、その後いくつかの

ピークを作りながら、1900

年代初期まで深刻な被害を

与え続けた。

コレラが恐れられた

のは、赤痢やチフスな

ど他の経口伝染病と比

べて死亡率が圧倒的に

高いということであ

る。たとえば、旧厚生

省のデータが整備され

た明治 10(1977)年以降

の患者数と死亡者の割

合を見てみると、赤痢

や腸チフスは20数%が

死亡しているのに対し

て、コレラの死亡率は

60%を超えている。

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M4

3 T1 T3 T5 T7 T9 T11

T13 S1 S3 S5 S7 S9 S11

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水系

伝染

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(人/10万

人)

年次

赤痢

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37

M3

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3 T1 T3 T5 T7 T9 T11

T13 S1 S3 S5 S7 S9 S11

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0

水系

伝染

病り

患率

(人/10万

人)

年次

腸チフス

0.0

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100.0

150.0

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37

M3

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3 T1 T3 T5 T7 T9 T11

T13 S1 S3 S5 S7 S9 S11

S13

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水系

伝染

病り

患率

(人/10万

人)

年次

パラチフス

0.0

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M3

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T13 S1 S3 S5 S7 S9 S11

S13

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コレ

ラり

患率

・死

亡率

(人/1

0万

人)

年次

コレラ

水系伝染病死亡率(人/10万人) 水系伝染病り患率(人/10万人)

明治 35(1902)年以降の水系伝染病個々の推移を示した。

コレラは明治 29(1896)以降ほぼ終息に向かっているの

で、図では低いレベルで推移しているが、大正時代まで

断続的に患者が発生し死者も出している。

赤痢は戦前戦後を通じて水系

伝染病の大きな部分を占めて

いる。死亡率は昭和 30(1955)

年頃から減少を始めているが、

り患率は昭和 30(1955)年代半

ば頃までは減少していない。

腸チフスは明治・大正を通じて、赤痢

と同等か時にはそれ以上の患者や死者

を出していたが、戦前頃から死亡率が

減少をはじめ、戦後間もなくからり患

率も減少しはじめた。

パラチフスは、り患率、死亡率ともに腸

チフスよりも少ないものの、ほぼ同様の

傾向を見せている。

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図表 2-6 水系伝染病り患率と死亡率の推移

図表 2-7 水系伝染病罹患率と乳児死亡率の推移

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10

水系

伝染

病り

患率

・死

亡率

(人

/10万

人)

水系伝染病り患率

水系伝染病死亡率

乳児死亡率

本図は、水系伝染病を合計したり患率と死亡率並びに乳児死亡率の推移をまとめて示したものであ

る。り患率については、終戦直後の一時期が極端に低くなっているのを除けば、戦後しばらくまでは

ほとんど減少傾向をみせていないが、昭和 35(1960)年頃から急激に減少傾向を見せ昭和 49(1974)年

度以降は 10 万人あたり 1 人台で安定している。一方、死亡率は、戦後まもなくから大きく減少して

いる。乳児死亡率は、大正時代までは千人当たり 150 人を超えていたが、その後は徐々に減少し、

昭和 40(1965)年頃には欧米諸国と肩を並べ、平成 20(2008)年度で 2.6 人となり、世界最高水準に達

している。傾向としては、水系伝染病死亡率の推移に類似している。

伝染病患者数と死亡者数 伝染病に対する衛生対策の貢献を見るときには、患者数と死亡者数の違いを区別しておくことが大切である。たとえば、患者数が多いのに死者数が少ないということは、おそらく患者を癒すための環境、システムが整備されたということであろうから、医学の進歩とか栄養状態の改善などによるところが大きいと推測することができる。逆に死亡者は減ったのに患者数が減っていないということは居住環境の衛生状態が改善されていないということになる。このことから、ここでは、患者数(り患率)の推移に注目する。

水系伝染病患者数は昭和 35(1960)年頃から急激に減少し、昭和 50(1975)年頃を境に低いレベルで安

定するようになった。

つまり、昭和 35(1960)年から昭和 50(1975)年までの 15 年間で衛生状態を向上させる大きな動きが

あったということが推測できる。

Page 8: 図表で読み解く 衛生対策とごみ処理1 図表で読み解く 衛生対策とごみ処理 わが国の廃棄物処理に関する法律は、昭和45(1970)年に制定された「廃棄物の処理及び清掃に

8

<胃腸炎による死亡者数>

水系伝染病の多くは下痢・腸炎を伴うので、胃腸炎による死亡者は伝染病に密接に関係する。

図表 2-8 胃腸炎死亡者数と死因順位の推移

図表 2-9 乳児の死因別死亡率

0.0

10.0

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S22 S24 S26 S28 S30 S32 S34 S36 S38 S40 S42

乳児

死亡

率(人

/千人

年次

その他

胃腸炎

肺炎及び気管支炎

乳児固有の疾患

注)「乳児固有疾患」は、先天性弱質および早産を含む。「胃腸炎」は、胃炎・

十二指腸炎・腸炎および大腸炎、「肺炎」は新生児は胃炎を含む。

本図は、胃腸炎による死亡者数の推移を示したものであるが、大正9(1920)年をピークに徐々

に減少している。また、戦後のしばらくまでは死因の上位であったが、徐々にランクを下げ、

昭和 42(1967)年以降は 10 位以下になっている。

本図は、乳児死因の推

移を示したものである

が、胃腸炎による死亡

は年々大きく減少して

いる。

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9

(3)公衆衛生はどのように改善されていったのだろうか

① 上下水道普及の推移

衛生状態の改善に資する対策としては、上水道整備、下水道整備、廃棄物処理対策などが挙げ

られる。図表 2-10 に、水系伝染病患者数とごみ収集区域内人口、上下水道普及率の推移をまと

めて示した。記録に残っている最も古い収集区域内人口は昭和 37(1962)年の 60%であるが、昭

和 50(1975)年ではほぼ 100%に達している。この収集区域内人口が増加した時期は、水系伝染病

患者数が減少した時期とよく一致している。下水道普及率は、水系伝染病患者数が安定した昭和

50(1975)年でも僅か 24%であるので明確な傾向は分からないが、水道普及率は、水系伝染病患者

数の減少傾向とよく一致しており、ごみ収集区域内人口とともに公衆衛生の向上に貢献してきた

だろうことが分かる。

図表 2-10 水系伝染病り患率と上下水道普及率

② ネズミとハエとごみ

ごみと伝染症との関連ということでは、ネズミとハエが主要な媒介動物としてあげられる。い

ずれも経口感染の消化器系伝染病の媒介動物である。以下では、ネズミとハエの動向について若

干のデータを掲げた。

0

20

40

60

80

100

0

10

20

30

40

50

60

70

80

90

19

62

19

64

19

66

19

68

19

70

19

72

19

74

19

76

19

78

19

80

19

82

19

84

19

86

19

88

19

90

19

92

19

94

19

96

19

98

普及

率(%

)

水系

伝染

病り

患率

(人

/10万

人)

年度

←水系伝染病り患率

ごみ収集区域内人口率

↑上水道普及率

↑ 下水道普及率

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10

図表 2-11 ネズミ等伝染病媒介動物駆除対策の動向3

図表 2-12 ネズミ退治に関するパンフレット4

3 長谷川恩:ねずみ防除における行政史、ねずみ情報、No.48、 pp.12-15(1997)

4 秦和寿:東京におけるネズミの変遷、ねずみ情報、No.44、pp.47-59(1993)

年 駆除対策の動向

明治32(1899)年 初めてのペスト日本人患者、船中で発病し広島で死亡

明治33(1900)年 「伝染病予防ノタメ物件輸入禁止ニ関スル件」が出された。

「鼠駆除ノ為ノ燐及亜砒酸使用ノ件」の訓令が出された。

ネズミの買上が実施された。

昭和21(1946)年 GHQが「昆虫及ソ族ヲ駆除管理スル管理ノ任命ニ関スル件」を発令

昭和30(1955)年 ネズミ駆除の宝くじが発売される。

昭和41(1966)年 「ねずみ駆除協議会」が発足

昭和45(1970)年

昭和60(1985)年 厚生省は、それまで地方自治体にあった「駆除吏員」の必置規制を廃止

昭和40(1965)年以降

「建築物における衛生的環境の確保に関する法律」が制定。この頃から、ねずみ昆虫対策は専ら伝染病対策から、快適な生活環境の維持保全として重視されるようになる。

「蚊とハエのいない生活」実践運動が閣議決定。この頃から、ネズミの伝染病媒介者としての比重が減少

木造住宅ではネズミがほとんどいなくなる。下水道の普及は人間とネズミの生息場所を分けた。

伝染病を媒介するねずみを退治しましょう東京都 保健所

なぜ退治しなければならないか

どうやって退治するか(イ)ねずみの出入口を見つけ次第根気よくこれをふさぎます。

 以上のようなことをよく徹底すれば食べ物がなくなりねずみはいなくなります。

(昭和27、28年頃の東京都衛生局のネズミ退治のパンフレット)

(ロ)ねずみは食べものを与えなければ夏なら60時間位,冬なら2昼夜以内で死にますから就寝前には勝手場を必ず見回って,ねずみのえさとなるものはよく片付けて置きます。

(ハ)ねずみの巣を作る場をなくするようにいたします。これは日本家屋では天井裏という巣をつくるに好都合な場所があり難しいことですが,部屋や押入の隅等を10日に1回位よく清潔に整頓してください。

 ねずみの損害を金で見つもれば1年1匹9,000円と言われますからその金額も莫大なものになります。

 ペスト、発疹熱、腸チフス、パラチフス、赤痢、ワイル病、恙虫病、鼠咬症、狂犬病等の伝染病並びにゲルトネル氏菌による食中毒、旋毛虫病等の病気を媒介するばかりではなく、食物、衣類を喰い荒らし私達の生活に多大の損害を与えております。

 今一例を食物に取ってみると、1年間にねずみに食べられる量は1匹1日平均20瓦(親ねずみは1日30乃至40瓦)としても1年間に日本全国で124万1,000屯、東京都民に2年間配給する量となります。

ネズミの駆除については、明治から昭和にかけて伝染病対策の中で大きな比重を占めていた。昭和

30(1955)年にはネズミ駆除の宝くじが発売されているほどであるから、国民運動として大きな問題

であったということがわかる。しかし、このような伝染病対策としてのネズミ問題も、昭和 40(1965)

年以降は、木造家屋ではほとんどいなくなり、また、昭和 45(1970)年頃から、ねずみ昆虫対策は専

らの伝染病対策から、快適な生活環境の維持保全という面で重視されるようになった。ここでも、

昭和 30~40 年代が大きな転機になっている。

左はネズミ退治

を呼びかけるパ

ンフレット。伝染

病への影響と経

済的な面から訴

えている。この時

代に1匹 9,000円

というのだから

インパクトは大

きかったのだろ

う。

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11

写真 全国環境衛生大会5

図表 2-13 蚊とハエのいない生活のうた

5 30 年のあゆみ、(財)日本環境衛生センター,1984

蚊とハエのない生活

「蚊とハエのいない生活実践運動」は昭和 27(1952)年頃からモデル地区事業として認知される

ようになったが、昭和 30(1955)年 6 月に「蚊とハエのいない生活実践運動」が閣議決定され、

国民運動としての地位を確立した。下水溝や便所、ごみ箱の掃除などを、主に地域社会の人々が

協力し組織的に実施することにより、蚊とハエの発生を抑制しようとしたもので、その活動はモ

デル地区を設定して実施された。昭和 31(1956)年時点で全国で約 24,000 地区、2,400 万人を数

えたと報告されている。

昭和 31(1956)年に(財)日本環境

衛生協会(その後(財)日本環境衛

生センター)が設立され、翌

32(1957)年には第一回全国環境衛

生大会が開催された。同大会では、

草野心平作詞、石井歓作曲の「蚊と

ハエのいない生活のうた」が発表さ

れた。歌唱指導は“NHK うたのお

ばさん”安西愛子が行い、舞踏振付

石井漠による踊りも披露された。

蚊とハエのいない生活のうた

蚊とあのハエは小さな悪魔

そりや

ホントだ

チクリと刺してブンブンまわる

ブン

ブン

ブン

ちつちやな蚊とハエ大きな悪魔

そりや

ホントだ

いろんな病気の総元締だ

蚊とハエいなけりや牛馬ふとる

そりや

ホントだ

とりもミルクも二割まし

蚊とハエいなけりや貯金もできる

そりや

ホントだ

かやりもかやもみんないらぬ

蚊とハエいなけりや日本は明るい

そりや

ホントだ

部落も町もきれいになつて

ラン

ラン

ラン

蚊とハエいなけりや文化の楽土

そりや

ホントだ

さあみんなで蚊とハエなくそう

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12

夢の島の焦土作戦

埋立地におけるハエの発生については、東京夢の島におけるハエの異常発生が知られてい

る。昭和 40(1965)年 6 月に江東区でハエ(イエバエ)が異常に発生した。その原因としては、

「長雨、気温の高い気象条件」、「埋立地における自然発火の減少(まれに起こっていた自然発

火がイエバエの発生を抑制していた)」、「ごみの非衛生的な処理(覆土の不足)」、「立地条件」、

「殺虫剤の抵抗性(イエバエは殺虫剤に対する抵抗性が強い)」等が挙げられている6が、東京

都は、この対策として、「夢の島大焦土作戦」を展開した。昭和 40(1965)年 7 月 16 日にごみ

の山に散布された重油などに、自衛隊員による火炎放射器、消防隊員によるタイマツなどに

より一斉に点火された。その後の生息状況調査によると、この作戦は大きな成果をあげたと

いうことである。

夢の島焦土作戦7

厨芥の発生とポリ袋8

昭和 36(1961)年には興味深い調査が実施されている。それは、台所のごみをポリエチレン

袋につめて密封してから排出した地域と直接バケツに入れて排出した地域においてハエの棲

息密度調査を行ったもので、その結果、ポリ袋に詰めた地域では、冬期で 10%、夏期で 30

~40%までハエ棲息密度の低下が認められたということである。今では考えられないような

調査が、わずか 50 年前に実施されていたことも驚きであるが、ハエとごみが密接に関係が

あるだろうと考え、その対策に必死に取り組んでいた時代を象徴するものとして興味深い調

査である。

害虫駆除と殺虫剤(佐々学の警告)9

殺そ剤や殺虫剤をまいても、ネズミや害虫を殺さないことがある。また、それらを殺して

も、生息密度はへらないことがある。生息密度がへっても、被害はへらないことがある。さ

らに、一時的には生息数がへって被害が少なくなったにしても、ある期間がたつとネズミや

害虫が再び増殖してはじめのレベル以上となり、長い目で見ればかえって被害が大きい結果

を招くことさえある。とくに殺そ剤や殺虫剤の使用が目的の有害動物のほかに、自然界の生

物や人間にどのような影響をあたえるか、それが人間の生活にどのような形ではねかえって

6 安元宗一郎:東京夢の島ハエ騒動始末記、生活と環境、Vol.23、 No.4、 pp.4-9(1978) 7 東京都清掃百年史、p190、(2000) 8 大滝哲也:ちゅう介のポリエチレン袋投入処理によるハエ発生防止の効果について,日本公衛誌,Vol.11,

No.2(1964) 9 佐々学:新しい殺そ,殺虫剤について,生活と環境,Vol.11,No.8,pp.25-31(1966)

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13

来るかは、慎重に観察しなければならない。

③ 公衆衛生に対する意識の変遷

内閣府では政府の施策に関する国民の意識を把握するため、定期的に世論調査を実施10してい

るが、昭和 22(1947)年以降の結果を内閣府のホームページで見ることができる。「ごみ処理」と

いう言葉をタイトルにした調査は、図表 2-14 に示したように、昭和 63(1988)年の「ごみ処理に

関する世論調査」の 1 件だけであるが、「衛生」、「公害」、「資源エネルギー」、「環境」、「地球環

境」、「循環型社会」などの調査の中でごみ問題が取り上げられている。

図表 2-14 内閣府世論調査で取り上げられたごみ問題

10 http://www8.cao.go.jp/survey/index.html

調査名 年月 分類 ごみ問題の位置づけ

公衆衛生に関する世論調査 S25.8 衛生 衛生対策として

公衆衛生に関する世論調査 S32.6 衛生 衛生対策として

環境衛生に関する世論調査 S35.6 衛生 衛生対策として

保健所に関する世論調査 S38.8 衛生 保健所の役割の一つ

環境問題に関する世論調査 S46.11 公害 典型7公害の発生源

大都市の居住環境に関する世論調査 S47.8 都市生活 ごみの収集

省エネルギー・省資源に関する世論調査 S53.2 エネルギー 節約

公害に関する世論調査 S56.11 公害 典型7公害の発生源

環境問題に関する世論調査 S59.6 公害 典型7公害の発生源

生活型公害に関する世論調査 S63.1 公害 生活公害の一部として

ごみ処理に関する世論調査 S63.1 ごみ ごみの処理

環境保全活動に関する世論調査 S63.10 環境 ガレージセール

地球環境問題に関する世論調査 H2.3 地球環境 ごみ減量

生活型公害に関する世論調査 H2.7 公害 生活公害の一部として

省エネルギーと環境に関する世論調査 H4.6 エネルギー リサイクル

環境保全に関する世論調査 H5.2 環境 関心のある環境問題

生活環境,生活型公害に関する世論調査 H5.6 公害 生活公害の一部として

環境保全とくらしに関する世論調査 H7.1 環境 ごみ減量

省エネルギー・新エネルギーに関する世論調査 H8.2 エネルギー リサイクル・ごみ発電

生活環境,生活型公害に関する世論調査 H8.6 公害 生活公害の一部として

エネルギーに関する世論調査 H11.2 エネルギー ごみ発電

循環型社会の形成に関する世論調査 H13.7 循環型社会 3R

環境問題に関する世論調査 H17.9 循環型社会 3R

環境問題に関する世論調査 H21.6 循環型社会 3R,自然共生社会

公衆衛生対策とごみ処理という点に関しては、昭和 25(1950)年、昭和 32(1957)年、昭和

35(1960)年の 3 回の調査だけである。

昭和 47(1972)年の「大都市の居住環境に関する世論調査」では比較的ごみ問題が大きく取り

上げられているが、ごみ収集サービスの満足度ということが主体で、この時点では、すでに公

衆衛生という概念は消えている。ごみ問題はこの後、公害、資源エネルギー、地球環境という

諸問題の中の一つの課題として注目されるようになった。このことから、すでに昭和 40 年代

後半には、ごみ処理は公衆衛生の向上という観点から重要視されない存在になってしまったと

いうことができるだろう。

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14

図表 2-15 世論調査に取り上げられたごみ問題の意識の推移

Q:お宅では塵芥や台所の屑の始末にお困りのことはありませんか。

  ・困る・・・・・・・・集めに来ない(5%) 捨てる場所設備がない(2%) その他で困る(0%) 不明(1%)   

・困らない(92%)・・・・・・

・わからない(1%)

・ある(13%)  ・ない(86%)  ・わからない(1%)

Q:お宅では台所の屑やごみなどの始末に困っていることはありませんか。

・困っている・・・・・・Q:この辺はゴミ取り屋さんが廻ってこないのですか。

     ・廻ってこない(4%)  ・廻ってくるが充分ではない(7%)

・困っていない・・・・Q:そういうものはどんな風に始末していらっしゃいますか。

・両方(78%)・・・・・・Q:台所のゴミについてもっとこうして貰いたいと思うことが何かありますか。

Q:この辺では、台所から出るクズと紙クズを掃除したゴミなどは、市役所(都庁)とか業者が集めに来ますか。〔集めにくるものに〕台所から出るクズだけですか、紙クズや掃除したゴミだけですか、それとも両方集めにくるのですか。

・もっと回数をふやしてほしい(35%)  ・車に入れ易いようにもっと家の近くまで車を回して欲しい、ゆっくり廻ってほしい(9%)  ・一軒一軒集めて廻ってほしい(9%)  ・もっときれいに、丁寧にとってほしい、ごみ箱の扱いをもっと丁寧にしてほしい(16%)  ・料金を安くしてほしい(5%)  ・その他(4%)  ・別にない(46%)

・台所から出るクズだけ(5%)  ・紙クズや掃除したゴミだけ(2%) ・来ない(12%)  ・わからない(3%)

昭和25年8月:公衆衛生に関する世論調査(満20歳以上の日本人男女)

Q:このあたりでは塵芥など沢山捨ててあって不潔(不衛生)で困るような処はありませんか。

昭和32年6月:公衆衛生に関する世論調査(満20歳以上の日本人男女) 

昭和35年6月:環境衛生に関する世論調査(人口20万人以上の都市に居住する世帯の実質上の世帯主)

・ゴミ取り屋が廻ってくる(27%)   ・穴を掘ってうめる(15%)   ・川や空地に捨てる(17%)  ・肥料や飼料にする(38%)  ・その他(7%)  ・不明(1%)

公衆衛生対策とごみ処理という点に関しては、以下に示す 3 回の調査が実施されている。これ

らの調査結果から、公衆衛生対策の移り変わりとごみ処理の役割の変遷を読みとることができ

る。つまり、昭和 25(1950)年の調査では、ごみがもたらす不衛生ということに対してほとんど

国民の意識が向けられておらず、その 7 年後の昭和 32(1957)年においても、堆肥化、飼料化や

自家処理によってごみ処理の問題は解決しているという意識が強い。昭和 35(1960)年の調査は、

調査対象が都市部に限られているので一概には比較できないが、この時点でやっとごみ収集が

行政サービスの一環として認識されている。

Page 15: 図表で読み解く 衛生対策とごみ処理1 図表で読み解く 衛生対策とごみ処理 わが国の廃棄物処理に関する法律は、昭和45(1970)年に制定された「廃棄物の処理及び清掃に

15

topic topic topic topic topic 化学肥料が清浄野菜と言われた時代 topic topic topic topic topic

昭和 32(1957)年の「公衆衛生に関する世論調査」では、「清浄野菜」というかなり時代がかっ

た言葉が登場する。

「あなたは化学肥料だけで作った清浄野菜というものをご存知ですか」

つまり、し尿を肥料として野菜などに直接施肥することで、回虫などの病原微生物が食卓に混

入する危険性を想定して、衛生状態の向上を最優先した結果の化学肥料の使用であり、化学肥料

は衛生という観点から推奨できるという発想である。

そして、その僅か 30 年後の昭和 63(1988)年の調査では、

「あなたの家庭では有機野菜(化学肥料を使っていない野菜)や無農薬野菜を買ったことがあり

ますか」 という質問が登場している。これは衛生状態が改善されかつ化学肥料の弊害が顕在化した結果

の有機肥料の推奨である。

公衆衛生を取り巻く状況が、たかだか 30 年で真逆の質問を作ってしまうほどの変化を遂げた

というのはすごい!

topic topic topic topic topic topic topic topic topic topic topic topic topic topic topic topic topic topic topi

④ 廃棄物処理の公衆衛生改善への貢献 ごみ処理

ごみ処理の基本は、まず居住環境を清潔に保持することである。具体的には排出されたごみを、

すばやく居住環境から排除するということであり、それがなければ、家の脇に穴を掘って埋めたり、

近くの空き地に投棄するしかないので、ネズミやハエに対して快適な居住環境を提供することにな

る。さらに、収集したごみは、極力焼却処理することによって無機化する。衛生対策という点から

昭和32年6月:公衆衛生に関する世論調査(満20歳以上の日本人男女)

Q:あなたは化学肥料だけで作った清浄野菜というものをご存知ですか。

  ・知っている(39%)

  SQ:清浄野菜は他の野菜にくらべてどういう点がよいと思いますか。

・・・・寄生虫のことにふれたもの(31%)  寄生虫のことにふれぬもの(8%)

  SQ:あなたは多少値段が高くても清浄野菜を是非使いたいと思いますか,そうは思いませんか。

・・・・是非使いたい(14%)   そうは思わない(17%)

・知らない(61%)

昭和63年10月:環境保全活動に関する世論調査(全国20歳以上の者)

Q:あなたの家庭では有機野菜(化学肥料を使っていない野菜)や無農薬野菜を買ったことがありますか。

・健康に良いので買ったことがある(36.1)

・環境に良いので買ったことがある(3.2)

・有機野菜や無農薬野菜があることは知っているが,買ったことはない(44.9)

・有機野菜や無農薬野菜があることを知らない(2.3)

・その他(4.7)

・わからない(8.8)

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16

は、これが基本になる。このことを数値で追ってみることにする。

図表 2-16 ごみ収集区域内人口

図表 2-17 ごみ焼却施設の整備状況の推移

20

40

60

80

100

S38 S42 S46 S50 S54 S58 S62 H3 H7 H11 H15

ごみ

収集

区域

内人

口(%

)

年次

0

50,000

100,000

150,000

200,000

250,000

0

500

1,000

1,500

2,000

2,500

S33 S36 S39 S42 S45 S48 S51 S54 S57 S60 S63 H3 H6 H9 H12 H15

処理

能力

(t/

日)

施設

数(カ

所)

年次

処理能力t/日 施設数

昭和33~42年:水道年鑑1970年度版, 水道産業新聞社

昭和43~44年:下水道年鑑1972年度版, 水道産業新聞社

昭和45~48年:廃棄物年鑑1975年度版, 環境産業新聞社

収集区域内人口とは、自治体の

中でごみを収集している人口

の割合のこと。記録に残ってい

る最も古いデータでは昭和

37(1962)年の 60%であるが、

昭和50(1975)年ではほぼ100%

に達している。この収集区域内

人口が増加した時期は、水系伝

染病患者数が減少した時期と

よく一致している。

本図は、ごみ処理施設の整備状況の推移を示したものである。昭和 33(1958)年以降施設数および

処理能力は大きく前進し、昭和 50(1975)年頃までに基本的な施設整備は終わり、その後は燃焼状

態の向上や公害防止など処理の質的な面に重点が移っているものと思われる。なお、昭和 40(1965)

~46(1971)年の施設数が一部逆転しているが、その間の処理能力が順調に伸びていることを考慮

すれば、施設数のカウントの基準が変更されたことも考えられる。詳しい原因は不明である。

Page 17: 図表で読み解く 衛生対策とごみ処理1 図表で読み解く 衛生対策とごみ処理 わが国の廃棄物処理に関する法律は、昭和45(1970)年に制定された「廃棄物の処理及び清掃に

17

図表 2-18 直接最終処分率と直接焼却率の推移

0

20

40

60

80

100

S37 S39 S41 S43 S45 S47 S49 S51 S53 S55 S57 S59 S61 S63 H2 H4 H6 H8 H10 H12 H14 H16

直接

焼却

率,

直接

最終

処分

率(%

)

年次

直接焼却率

直接最終処分率

1)直接焼却率=直接焼却量÷ごみの総処理量×100

2)直接埋立率=直接最終処分量÷ごみの総処理量×100

3)昭和50年までは,計画収集量と自家処理量の合計に対する割合(厳密には直接焼却率ではない)

本図は、直接最終処分率と直接焼却率の推移を示したものである。直接焼却率は、昭和

37(1962)年度においてわずか 33%であったが、その後徐々に増加し昭和 60(1985)年度では

70%を超えた。直接最終処分率は、昭和 37(1962)年度では 42%であったが、その後徐々に

減少し、平成 9(1997)年度以降は 10%を切った。全体的に直接焼却率が増加し、直接最終

処分率が減少する傾向が顕著である。なお、水系伝染病り患率が低いレベルで安定化した

昭和 50(1975)年では、直接焼却率は 52%、直接最終処分率は 46%であった。

Page 18: 図表で読み解く 衛生対策とごみ処理1 図表で読み解く 衛生対策とごみ処理 わが国の廃棄物処理に関する法律は、昭和45(1970)年に制定された「廃棄物の処理及び清掃に

18

し尿処理

本稿はごみ問題を中心テーマとしているので、し尿処理の推移については多くは触れないが、

以下に水洗率の推移ならびにし尿処理方式の推移についてのデータを示す。

図表 2-19 水洗化率の推移

図表 2-20 し尿処理方法の推移

0.0

10.0

20.0

30.0

40.0

50.0

60.0

70.0

80.0

90.0

100.0

S37 S42 S47 S52 S57 S62 H4 H9 H14

水洗化率(%)

昭和 40(1965)年代は水洗化率は

20%台に過ぎなかったが、その後

急激に増加し、現在では 90%を

越えている。

昭和 37(1962)年では、農地還元

が約 30%を占め、し尿処理施設

は 20%に満たなかったが、その

後し尿処理施設の整備が大きく

進んでいる。

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19

⑤ 主要都市におけるごみの収集、運搬、処理

東京11は

明治 33 (1900) 年の汚物掃除法以来、ごみ排出用蓋付き容器(ごみ箱)を設置するように求め、その

ひな形を示した。それによると、ごみ箱は木製で、内部は腐食防止用にコールタールを塗り、外部

はペンキ塗装、上部は蝶番止めの開閉蓋、前扉は内部のごみが掻き出しやすい引上開きで取りはず

しできる扉であった。この様式は戦後もしばらく続いたが、昭和 36(1961)年から 38(1963)年の 3

年間でポリバケツによる定時収集が実施された。収集機材は、写真 2-3に示すように、当初は手車

であったが、昭和 33(1958)年から 36(1961)年までの 4年間で機械化を実施した。焼却施設の整備

については、早くから全量焼却を目標にしていたが、住民反対などで施設整備が大幅に遅れ、可燃

ごみの全量焼却が可能になったのは平成 9(1997)年以降のことであった。

大阪市12は

昭和 37(1962)年から、写真 2-1に示すように、ポリエチレン製または金属製の「標準ごみ容器」を

定めて普及勧奨し、昭和 45(1970)年(万国博覧会開催年)にほぼ切り替えが完了した。収集機材につ

いては、昭和 29(1954)年から本格的に小型自動車を増車し、昭和 32(1957)年から特殊架装車(ロー

ドパッカー車)や有蓋自動車を採用するなど、肩引車から小型自動車による直接収集への転換を進め

た。昭和 40(1965)年から積極的に収集車のパッカー車化を実施し、昭和 44(1969)年には全収集車

のパッカー車化を完了した。焼却施設については、昭和 38(1963)年にわが国最初の連続炉である住

吉工場を建設して以降、順調に施設整備を進め、昭和 55(1980)年の大正工場の竣工をもって可燃ご

みの全量焼却処理を達成した。

札幌市13は

昭和 30(1955)年頃は、共同ごみ箱に排出する方式であったが、昭和 36(1961)年から順次各戸収集

に移行した。収集については、戦後は馬車による収集を行っていたが、昭和 30(1955)年頃から自動

車への移行を開始し、昭和 42(1967)年には移行を完了している。本格的なごみ焼却施設が整備され

たのは昭和 46(1971)年の発寒清掃工場であり、比較的整備が遅れていたが、その後、昭和 49(1974)

年の厚別清掃工場の竣工によって、計画収集量に対する焼却率は 60%を越えた。

福岡市14は

図表 2-21に示したように、コンクリート製の「ごみ箱格納容器(ごみ箱はリンゴ箱代用)」の設置を

奨励していたが、東京オリンピック開催を控えた旧建設省からごみ箱を撤去する旨の指示があり、

昭和 37(1962)年からポリエチレン製ごみ容器購入補助金を交付した。コンクリート製のごみ箱は魚

礁として博多湾に沈められた。収集車は、当初は馬車を利用していたが、昭和 35(1960)年頃には三

輪自動車などへの移行を行い、昭和 42(1967)年までにロードパッカー車への切り替えを完了した。

焼却施設については、昭和 40(1965)年までは処理能力が収集量を大きく下回っており、場内に未焼

却ごみが堆積し、周辺住民からの苦情があった。適正処理がほぼ確保されたのは昭和 45(1970)年に

完成した西部清掃工場以降のことであり、可燃ごみの全量焼却をほぼ達成することができたのは、

昭和 56(1971)年の南部清掃工場竣工後からである。

一方、戦後、宮崎県妻町(当時)で衛生社を開業した村上の回想録15によると、同町では個人に委託

してリヤカーによるごみ収集を行わせていたが、村上は昭和 27(1952)年に町の業務許可を受け中古

の1トン車1台、従業員 2 名で開業した。車に肥樽 20 本を二段に積み、し尿、ごみを週に 3 日ず

つ収集したという。また、宮崎県衛生事業協同組合が設立されたのは昭和 40(1965)年のことだとい

うから、ごみ・し尿の収集が業として形をなしてきたのがその頃ということができるだろう。

11 東京都:東京都清掃事業百年史(2000) 12 大阪市:大阪市の環境事業 120 年の歩み(2009) 13 札幌市:さっぽろ清掃史(2000) 14 福岡市:福岡市環境事業史(2005) 15 村上政則:我が歩みの記、鉱脈社(1998)

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20

写真 2-1 ポリ容器の持ち出し16 写真 2-2 ごみ箱

写真 2-3 手車での収集17

写真 2-4 馬車での収集18

16 大阪市:大阪市の環境事業 120 年の歩み、p73(2009) 17 東京都:東京都清掃事業百年史、p400(2000) 18 福岡市:福岡市環境事業史、p37(2005)

上の写真は、福岡県大牟田市

エコタウン近くの民家に保存

されていたごみ箱。現在では

使われていないだろうが、き

れいに保存されていた。

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21

図表 2-21 福岡市のごみ処理の変遷

S30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 S56

544 647 750 853 1002 1103

26 36 30 23 25 22 19 18 14 13 12 14 11 12 12 10 7 10 9 8 7 7

97 160 26 62 32 20 9 2.1 10 2.5 1.2 1.0 1.5 3

西じんかい処理場**:S35~47、150t/日

旧東部焼却場:110t/日 東じんかい処理場:S36~S51、150t/日

南部地域南部:S56~、600t/日

合計 223 1650t/日

180 188 205 220 234 203 240 280 306 340 522 627 824 1013 1356 1130 963 1080 1105 1292

*離島部を除く。

**新旧施設が同時に稼働している年度は新施設の能力で代表した。

***年間収集量を365日で除した。

曙焼却場:S30頃の実処理能力は50t/日(場内に焼却未済ごみが山積)

手車・掃除馬車。掃除馬車の全盛期は昭和10年から30年頃

ごみ収集搬入量(t/日)***

西部地域

焼却施設*

最終処分初の市の埋立場(東じんかい処理場工事の間、未処理のまま堆積したごみを隣接地に埋立)

東部:S51~H17、600t/日

南部焼却場:S28~S44、7t/日(S30に合併編入)

123t/日~ 307t/日 600t/日

生ごみ埋立用地として八田、久山に、不燃物の埋立用地として姪浜に建設

東部地域

塵芥処理場の近郊の沼地等を埋立場として利用

水系伝染病り患率(人/10万人)

ごみ保管・排出

昭和37年からポリエチレン製ごみ容器購入補助金を交付。紙袋ポリエチレン製袋が普及する平成に入るまでポリ容器収集を続けた。

収集・運搬

馬車は昭和35年頃に姿を消し、三輪自動車から四輪ダンプ車へ。昭和32年から夜間収集を開始

ロードパッカー車の導入は昭和30年頃から始まり、42年に完了

ピット・アンド・クレーン投入であったが、炉の構造は固定火格子であったため、人力による攪拌が必要で、リンゴ箱や古タイヤなどの助燃剤を利用。始業時の黒煙が日常化

実処理能力は60%。場内空き地にたい積されたごみにモグラやネズミ、ハエが大量発生し、頻繁に住民から陳情・抗議

年度

人口(千人)

西部:450t/日

仕込台投入のため、ごみが仕込台上に滞留し、燃焼も不安定で、煙害に関する苦情が多く、処理能力も低い。

西部清掃工場**:S45~H4、450t/日

コンクリート製の「ごみ箱格納容器」を奨励。東京オリンピックを前に撤去し、魚礁として博多湾に沈められた。

乳児死亡率(人/千人)

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22

1990年代中頃以降

網かご又はコンテナ

図表 2-22 ごみの保管・排出方法の変遷19

図表 2-23 水系伝染病り患率と関連指標

都道府県間の比較

東京都と大阪府の比較

19 大澤:廃棄物の適正処理と 3R、都市と廃棄物、Vol.40,No.10,p30(2010)

S36~40 S41~45 減少率

人/10万人 人/10万人 % % % % %

減少率の高い5県の平均 79.0 14.8 81.3 85.2 70.8 68.0 23.0

減少率の低い5県の平均 50.3 41.0 18.5 77.6 58.7 59.4 14.4

収集率(S47)

水系伝染病り患率

地域         指標

水道普及率(S40)

下水道普及率(S43)

焼却率(S47)

S36~40 S41~45 減少率

人/10万人 人/10万人 % % % % %

68.7 29.9 56.5 98.9 38.2 89.7 33.4

30.5 4.7 84.6 97.7 76.4 95.7 40.4

東京都

大阪府

収集率(S47)

水系伝染病り患率

地域         指標

焼却率(S47)

水道普及率(S40)

下水道普及率(S43)

1990年代中頃以降

指定袋又は有料袋

1960年代前半まで

各戸備え付けごみ箱

1960 年代中頃から

1980年代まで

各戸ポリ容器

1980年頃から

プラスチック袋

又は紙袋

下図は、都道府県別の水系伝染病り患率について昭和 36(1961)年からの 5 年間と昭和 41(1966)年

からの 5 年間で平均を求め、減少率が最も大きい 5 つの都道府県と、最も少ない 5 つの都道府県の

関連指標を比較検討したものである。減少率が大きい都道府県は、その間に公衆衛生の向上に関す

る積極的な取り組みを行ったのではないかと考えられる。その結果、減少率が高い 5 都道府県の平

均値は減少率が低い 5 都道府県の平均値よりも、収集率、焼却率、水道普及率ならびに下水道普及

率のいずれの項目も 10 ポイント前後高くなっており、明確な差異が認められた。

同様の指標を東京都と大阪府で比較すると、大阪府は東京に比べると水系伝染病り患率並びに減少率が

際だって低いが、関連指標を見ると大阪府は焼却率が東京都の約 2 倍になっている。このことだけで、

衛生状態に対する焼却施設の貢献を示していると断言することはできないが、ある程度の傾向を示唆し

ているものと思われる。

雑芥・厨芥の分別収集

が一般的。共同ごみ箱

や市制ごみ箱を設置

した例もある。

雑芥・厨芥の

混合収集に。 当初は、プライバシー保

護の観点から黒色又は青

色のプラスチック袋を使

用する例が多かった。 (集積所で多種分別を行う場合)

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23

図表 2-24 大都市における水系伝染病と関連指標

図表 2-25 水系伝染病り患率とごみ処理の動向

収集率 焼却率 埋立率

東京都 80.0 86.9 67.3 12.2 85.9 47.7 1,145

横浜市 49.7 81.3 85.8 29.0 69.4 76.5 798

名古屋市 37.0 85.5 98.1 64.8 35.2 64.9 958

京都市 67.7 90.4 94.7 58.5 35.7 75.3 740

大阪市 48.2 98.5 94.7 36.5 62.9 77.7 1,035

神戸市 59.9 92.5 78.4 67.9 31.7 58.9 759

北九州市 94.8 74.1 84.5 31.6 68.4 82.1 837

収集率 焼却率 埋立率

東京都 23.8 94.9 40.0 69.6 37.8 62.2 38.0 2,675

横浜市 4.7 96.0 41.0 100.1 35.8 64.2 72.0 1,711

名古屋市 3.1 95.4 68.8 100.0 24.4 75.6 35.4 2,309

京都市 10.5 96.2 40.1 96.7 40.7 58.2 56.1 1,892

大阪市 5.9 98.5 66.8 83.3 65.3 34.7 36.9 2,996

神戸市 8.4 95.5 40.0 97.6 68.1 31.9 58.5 1,745

北九州市 9.1 87.4 20.0 96.9 56.8 43.2 96.9 1,624

都市名水系伝染病り患率

上水道普及率

下水道普及率

ごみし尿収集率

一人当たり所得

昭和37年

昭和44年

都市名水系伝染病り患率

上水道普及率

下水道普及率

ごみし尿収集率

一人当たり所得

0

20

40

60

80

100

120

140

160

S22 S24 S26 S28 S30 S32 S34 S36 S38 S40 S42 S44 S46 S48 S50

水系

伝染

病り

患率

(人/10万

人)

年度

水系伝染病り患率

手車や馬車による

収集がほぼ終了

(S33~35)

小型自動車に

よる収集を試

行(S24~26)

ごみ箱から蓋付

きポリ容器へ

(S36~37)

大阪で初の全連続炉(S38)

パッカー車への移行

が完了(S37~44)

ごみ焼却炉に国庫補助(S38)

下図は、主要都市の水系伝染病と衛生間連指標について、昭和 37(1962)年と昭和 44(1969)年で比較し

たものである。水系伝染病り患率は年度ごとに大きな差異が生ずる場合があるので一概には比較評価

できないが、ある程度の(味わい深い)傾向は見て取れる。

以上の結果と水系伝染病り患率

の推移を一覧表示すると、概略

本図のとおりとなる。

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⑥ GHQ は公衆衛生の父??

GHQ20がわが国の衛生対策に大きな役割を果たした。GHQ は、「日本人は、戦争中に外国の医学

研究から切り離されていたため、死と病気に対する新しく効果的な治療法の数々について知識を持

ち合わせていなかった」と現状評価したうえで、日本政府に対して「公共水道・下水道システムと

その他の公衆衛生設備を最大限可能なレベルまで復旧させること」「すべての病院施設の業務を再

開すること」「予防接種、害虫の駆除や公衆衛生に影響を及ぼすと思われる疾患への対策を実施す

ること」などを指示した。

図表 2-26~2-27 は欧米主要国の乳児死亡率の推移を示したものであるが、昭和 35(1960)年から

昭和 40(1965)年にかけて、欧米諸国に追いつき追い越した様子がよく読みとれる。

特にアメリカと比較すると、図表 2-27に示したように、昭和 22(1947)年にはアメリカ 32人であ

ったのに対し日本は77人と2倍以上の大きな差があったが、その後大きな進展を見せ昭和40(1965)

年にはアメリカを追い越している。戦後の公衆衛生行政が GHQ の強い指導下で行われたことを考

えると、戦後わずか 20 年間でそのアメリカを追い越したということは特筆されることであるし、

痛快な出来事でもある。

図表 2-26 乳児死亡率の国際比較

表 2-27 乳児死亡率の日米比較

20 GHQ:正式にはGHQ/SCAP(General Headquarters、 the Supreme Commander for the Allied Powers)、連合

国総司令部。昭和 20(1945)年に米政府が対日占領政策を実施するために東京に設置した。昭和 27(1952)

年に講和条約が発効するまで続いた。

S25 S30 S35 S40 S45 S50 S55 H18スウェーデン 21.0 17.4 16.6 13.3 11.0 8.6 6.9 2.8

オランダ 25.2 20.1 16.5 14.4 12.7 10.6 8.6 4.4

オーストリア 66.1 45.6 37.5 28.3 25.9 20.5 14.3 3.6

イギリス 31.2 25.8 22.5 19.6 18.5 16.0 12.1 5.0

イタリア 63.8 50.9 43.9 36.0 29.6 20.8 14.5 4.2

アメリカ合衆国 29.2 26.4 26.0 24.7 20.1 16.1 12.6 6.6

日本 60.1 39.8 30.7 18.5 13.1 10.0 7.5 2.6

*生後1年未満の乳児が死亡する割合(人/千人)

32 29 26

26 25 20

16 13 11

77

60

40

31

19 13

10 8 6 0

20

40

60

80

S22 S25 S30 S35 S40 S45 S50 S55 S60

乳児

死亡

率(人

/千

人)

年次

日本

アメリカ合衆国

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topic topic topic topic topic topic topic GHQ と力道山 topic topic topic topic topic topic topic

敗戦によるコンプレックスを払拭するといえば力道山を思い出す。ベンとマイクのシャープ兄弟が力道

山・木村組を相手に 3 連戦を繰り広げたのは昭和 29(1954)年のこと。日本テレビは 3 日間とも、NHK は

初日を中継したのだそうだが、不幸にして、私が生まれ育った町は街頭テレビなど存在しようのない片田

舎だったので、当時の興奮は実感できていないのだが、外国人は共に 2 メートル近くの巨躯であるのに対

して、力道山は 176 センチ、木村は 170 センチ。戦勝国アメリカに対するイメージの差というのはそのく

らいだったのかもしれないが、コンプレックスの塊のような日本人を代表して赤鬼 2 人をやっつけてくれ

た力道山が日本国籍を取得したのは実はわずかその 3 年前であったし、憎っくきアメリカの象徴であるは

ずのシャープ兄弟が実際はカナダ人だったというのは、いかにもプロレス的であるわけであるが、ともあ

れ、図表 2-2821 22に力道山の時代と乳児死亡率の推移を比較してみた。この表に暗示的な何かを見出そう

とするつもりはないが、日本人のアメリカコンプレックスを吹き飛ばしてくれた力道山がプロレスの世界

に身を投じたのはGHQ が主催したプロレス興行がきっかけであったことや、彼がやくざに刺されて亡く

なった昭和 38(1963)年に、公衆衛生の分野で日本がアメリカを追い越したということは記憶する価値のあ

ることかもしれない。

図表 2-28 力道山と乳児死亡率

ところで、私たちは何故力道山が日本人であることを長い間信じ込むことができたのだろうか。もちろ

ん、大相撲の関係者なら誰だって知っていたことであろうし、相撲記者も当然知っていたことだろう。気

の強い荒くれ者達のことであるから、あけすけに陰口を叩かれることもあったはずだ。それを、完全に報

道規制できたということは、暴露記事で賑わう現代のメディアの状態を考えると隔世の感がある。一時代

の英雄をおとしめることなく神格化し続けたということは、ある意味では、高度経済成長期における国全

体のパワーの表れということができるかもしれない。没後 20 年目に、報道媒体としては主流とは言えない

「週刊プレーボーイ」で暴露され、しかし、人々にさほどの衝撃を与えることもなく、淡々と受け入れら

れたということは「日本人もなかなかやるではないか」と誇っていいことではないだろうか。特に、別項

で述べるダイオキシン類問題に対する報道姿勢と比較すると興味深い違いがある。

topic topic topic topic topic topic topic topic topic topic topic topic topic topic topic topic topic topic

21 岡村正史:力道山と日本人、青弓社、2002 22 森達也:悪役レスラーは笑う、岩波新書、2005

日本 アメリカ

T13 1924 北朝鮮に生まれる* 156 77

S14 1939 スカウトされて日本に渡り、二所の関部屋に入門 106 51

S24 1949 関脇に昇進 63 31

S25 1950 朝鮮戦争勃発 自ら髷を落とし廃業 60 29

S26 19512月:日本国籍を取得10月:GHQの招きで来日したプロレス興行のエキビションマッチに出場

57 29

S27 1952 GHQの占領が終わる 渡米し、ハワイでトレーニングを受ける 49 28

S28 19532月NHKがテレビ放送を開始8月日本テレビが放送を開始

力道山が日本プロレス協会を設立49 28

S29 1954日本テレビが街頭テレビでプロレス中継を始める力道山・木村政彦組対シャープ兄弟などを放送

45 27

S30 1955 神武景気('55~'57) 40 26

S31 1956 経済白書「もはや戦後ではない」 41 26

S32 1957 鉄人ルー・テーズが来日。テレビ視聴率87% 40 26

S33 1958 岩戸景気(58~61),東京タワー営業開始 35 27

S34 1959 34 26

S35 1960 カラーテレビ本格開始,所得倍増計画 31 26

S36 1961 29 25

S37 1962 フレッド・ブラッシーを見た老人がショック死 26 25

S38 1963 名神高速道一部開始ザ・デストロイヤー初来日。中継テレビ高視聴率12月暴力団員に腹部を刺され、死亡

23 25

S39 1964 東京オリンピック,新幹線開業 20 25

S59 1984 週刊プレーボーイがスクープ扱いで出目を報じる 6 11

*相撲協会の記録では1923年。

乳児死亡率年次 社会の動き 力道山

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26

⑦ 地味な努力の数々

公衆衛生の向上に対するごみ処理の貢献とは、まずごみ箱がポリバケツ収集になったこと、2 つ

目はパッカー車の普及、3 つ目は近代的なごみ焼却施設の建設ということである。ごみ処理の面白

いところは、全国一斉に同じシステムに変わるということはなく、自治体によって独自の工夫があ

ることである。そして、その地味な努力の中に、多くの人々の人間くさいドラマがある。そういっ

たことをいくつか拾ってみよう。

ごみ箱の撤廃

家の前のごみ箱がポリ容器に変わったのは東京オリンピックの開催が契機になった。市橋貴氏は

その経緯を以下のようにまとめている23。

「昭和 34(1959)年に第 18 回オリンピックの東京開催が決定した。これに伴い、高速道路や新

幹線の建設などの大プロジェクトが一気に進められたが清掃事業の近代化の引き金にもなった。

河野一郎オリンピック担当大臣の指示でゴミ箱の一斉撤去が決まった。大臣に呼ばれた関係者

の中で、建設省の役人はできっこないと青くなったそうだが、都の清掃局の人はチャンス到来

と思った。」

しかし、家々の前のごみ箱が問題になっていたのは、かなり前からのようで、たとえば、昭和

32(1957)年 11月 6日の国会の運輸委員会では、畠山委員が欧米視察の報告として、「道路を歩いて

も紙一つ落ちていないし、表通りにはごみ箱一つない」と発言している。

図表 2-29 は、ごみ箱の撤去に関して、建設省から都道府県知事等に当てた通達である。苛立ち

混じりのかなり高圧的な表現であるが、このような指示を受けた方が「チャンス到来と思った」と

いうのも、なかなかバイタリティーを感じさせる話である。

23 市橋貴:リサイクルの仕事-都市静脈の風景,住まいの図書館出版局,1991

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27

図表 2-29 ごみ箱の撤去に関する通達

通達の種類 建設省道第発三二七号 昭和三七年八月六日 道路局長通達

各地方建設局長・北海道開発局長・各都道府県知事・各指定市長あて

通達の名称 路上ごみ箱の撤去について

内 容 路上ごみ箱の撤去については、道路愛護週間及び道路をまもる月間等において特に強力

な実施及び指導をお願いしているところであるが、いまだに都市内主要幹線道路にごみ

箱が放置され、その周辺に塵芥がたい積されている状態である。

これは、道路の美観はもとより道路環境の浄化にとっても重大な支障になると考えられ

るので、関係機関と密接な連絡協力をとり、すみやかに左記事項に従って計画を樹て、

路上ごみ箱の撤去を積極的に推進されたい。

なお、貴管下道路管理者にも、この旨周知徹底方お取り計らい願いたい。

おって、清掃担当機関への協議状況及び路上ごみ箱撤去の実施状況について別紙要領に

より九月一〇日までに報告されたい。

1 清掃法(昭和二九年法律第七二号)の特別清掃地域においては、道路上に常置されるご

み箱を経由しないで、清掃職員が直接家庭から塵芥等のごみを収集するか、家庭か

ら個人が清掃車に持ちよるか、一定時間だけ収集容器を民家前路上に整然と置かせ

るか、又は道路外に適当な収集場を常置させるか等の方策をすみやかに講ずるよう

清掃担当機関にただちに協議すること。

2 前項の方策が実施される地域においては、道路管理者は、不要になったごみ箱をそ

の所有者の了解を求めて取りかたずけるなど、ごみ箱の撤去について積極的な措置

を講ずること。

3 一項の方法に切り換えるまでの間においても道路上のごみ箱は、道路外の空地又は

庭等に移転させるようにし、やむを得ない場合に限り、道路上の民家側に密着して

整然と置かせ、ごみ箱の周辺を汚すことのないよう、道路管理者は清掃担当機関及

び警察機関に協力を求めて指導取締りを行なうこと。

4 特別清掃地域外においても、建物内の塵芥について、道路上を塵芥の収積場とし、

又は処理場とすることのないよう関係機関と連絡の上強力に指導取締りを行なうこ

と。

5 各地域の道路清掃協力団体及び沿道住民の協力による人家周辺の道路におけるごみ

箱撤去の徹底を期するよう指導すること。

6 一級国道、二級国道及び歩車道の区分のある道路等の主要幹線道路におけるごみ箱

の撤去については、特にその徹底を期すること。

7 ごみ箱の撤去については、道路管理者においても積極的に行なうこと。

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工藤庄八のバキュームカー

工藤庄八氏がバキュームカーを開発するきっかけは GHQ の強い指示によるものであった。同氏

の回想録24を以下に抜粋する。

駐留軍は清掃行政というものは片手間にやっていては駄目だとして、いい加減な仕事をしている

自治体に対しては処罰もしかねない強硬な態度でありました。そこで政府としても二十四年春、内

閣資源調査会に対して新しい清掃の在り方を諮問しました。これを受けた同調査会では委員会を設

け、し尿処理の能率的な方法を検討しました。委員会ではいろいろ研究した結果、まずバキューム

カーを開発しようということになりました。

資源調査会及び厚生省は、開発したバキュームカーを東京都に対して採用するよう依頼しました。

しかし、東京都としては海のものとも山のものともつかないそんな夢のようなものは駄目だといっ

て断りました。そこで大阪市に依頼したところがここでも断られ、三番目に川崎市へお鉢が回って

きました。(中略)

どうしたものかと思案に暮れていたところ、品川区にある特殊架装メーカーの犬塚製作所のこと

を思い出しました。何とかバキュームカーを試作してやろうと決心して同製作所を訪ねました。私

の描いている構想を説明、まず模型を作るよう依頼したところ、これは面白いと興味を示してあっ

さりと応じてくれました。調査会が設計試作した空冷式エンジンでは、夏になるとエンジンが焼け

てしまう。そこで私は四輪自動車のメーンエンジンを利用し全駆動方式でやってみようと思案しま

した。ちょうどその頃、運よくトヨタ自動車から一トン車が売り出された事を知りました。私はこ

れなら荷台にタンクを載せれば必ずメーンエンジンで動かせると確信しました。ホースは、太さ二

インチ(五十.八ミリ)、長さ十五メートルだったと思います。また、タンクの鉄板などを思い切

って薄手にするなど、できるだけエンジンの負担が軽くなるように工夫しました。いろいろ模型で

試してみたところうまくいきそうなので、本設計に入り製作に取り掛かりました。試行錯誤はあり

ましたが、二十六年九月ようやく完成、国立公衆衛生院の前庭で発表披露いたしました。これが現

在使われているバキュームカーのモデルになったものであり、いわば、素人が追い詰められ、切羽

詰まって考え出したものでありました。

24 工藤庄八:私の清掃史,pp24-27(1987)

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収集車の導入

ごみ収集車が現在どこでも見られるようなパッカー車に変った経緯はどうだったのだろうか。

戦闘機「隼」を産んだ中島飛行機は戦後 GHQ の手によって企業解体を命じられたが、昭和

28(1953)年にその中の主要 5社によって富士重工業株式会社が創設された。その富士重工業がロー

ドパッカー車を初めて納入したのは昭和 37(1962)年のことで、ニューヨーク市の清掃車の 80%のシ

ェアを誇っていたアメリカのガーウッド社と技術提携して開発したものだった。同社の社史25によ

ると、ガーウッド社と提携するようになったのは、ニューヨーク市から勧められた東京都庁が塵芥

収集車を採用したい旨、伊藤忠商事(株)を通じて申し入れたことがきっかけだそうである。なお、

塵芥収集車が国内に初めて登場したのは昭和 32(1957)年で、森田ポンプ特殊工業(株)がフランス

の G・マット社の製品を国産化したものであるが、当時、清掃車の市場はまだ熟しておらず、その

需要がにわかに増大の兆しをみせ始めたのは昭和 30 年代の後半になってからのことである。東京

オリンピックの開催を間近に控え、東京都をはじめ各自治体は、都市美化の取り組みを強め、それ

に伴い堅実な需要が期待できる状況になった。

川西航空機株式会社として飛行機づくりからスタートした新明和工業26がごみ専用運搬車(ガー

ベージトラック)を生産したのは昭和 32(1957)年であった。その翌年に後圧縮式塵芥車の原型とも

いえるクラムパッカー車の生産が開始された。

ガーベージトラック

福岡夜間収集27

1957(昭和 32)年頃から、これまでは早朝からの時間であったごみの収集が、夜間収集へと移

行していった。モータリゼーション時代にふさわしい「夜間収集システム」は当時、大都市でも福

岡市だけであった。これは業者が農業を兼ねていたことが遠因で、農作業の前にごみ収集を行う馬

車時代の早朝収集が車社会の到来とともに朝のラッシュを避けるために収集時間が繰り上がり夜

間収集となったものである。当然、福岡市側の夜間の受け入れ、委託費の深夜手当等の充実を同時

に図ってきてのことである。夜間の収集への移行により、作業効率が良くなり、また、一般車両と

の遭遇事故が少なくなるなど安全性も高まった。

25 富士重工業三十年史,1984 26 タウンパック物語、新明和工業株式会社 27 福岡市環境事業史,p33(2005)

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【衛生とごみ問題に関する年表】

1822 文政5

1858 安政5

1973 M6

1975 M8

1979 M12

1890 M23

1987 M30

1899 M32

1930 S5

1945 S20

1947 S22

1951 S26

1953 S28

1954 S29

1955 S30

1958 S33

1958 S33

1961 S36

1963 S38

1963 S38

1964 S39

1965 S40

1969 S44

1970 S50 大阪万博が開催される

1980 S55

1991 H3

1999 H11

2002 H14

2009 H21

汚物掃除法が改正され、焼却処理が義務付けられる

「保健所法」が改正され、指導が必要な事項として、「水道、下水道、廃棄物の処理、清掃など」があげられた。

川崎市、し尿バキュームカーを実用化

「生活環境施設5ヵ年計画」が閣議決定される

「蚊とハエのいない生活国民運動」が閣議決定される

し尿処理施設に国庫補助開始

ごみ処理施設への国庫補助開始

東京オリンピック開催が決定

東京オリンピックが開催される

東京都、S38までの3年間でポリバケツによる定時収集を実施

GHQより、公衆衛生対策に関する覚書の指令が出される

清掃法制定

東京都、S36年までの4年間で収集機材の機械化を実施

年 公衆衛生を取り巻く動き

コレラが西日本を中心に流行する

水道条例制定

伝染病予防法

岩倉遣欧使節団の一員として渡欧し衛生行政を視察した長与専斎が帰国

内務省に衛生局が設けられる

1900 M33

コレラの死者が10万人を超える

コレラが江戸など全国に広まる

ペストが上陸し、神戸・大阪を中心に流行した

下水道法制定

汚物掃除法制定

環境省が「廃棄物処理における新型インフルエンザ対策ガイドライン」を策定

大阪市、わが国初の連続式ストーカ炉を完成

大阪市、全収集車のパッカー車化を完了

大阪市、可燃ごみの全量焼却処理を達成

環境省が「感染性廃棄物処理マニュアル」を策定

伝染病予防法が廃止され、感染症予防法に引き継がれる

我が国初の狂牛病発症が確認され、肉骨粉の処理が問題化