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19 森田 公一 もりた こういち 蚊など昆虫が運ぶウイルス感染症 日本脳炎,デング熱を中心に 講演 2 Arbovirus の生息域は,媒介者となる蚊などの節足動物が地球規模の気温変化や熱帯地域の都市化など の影響を受けることによって変わりつつある。フラビウイルス科のウイルスには,出血傾向を伴う熱性疾 患( 出血熱 )を主症状とする病気をひきおこすウイルスや,脳炎を主症状とする病気をひきおこすウイルスな どがあり,本稿では前者からはデングウイルス,後者からは日本脳炎ウイルスを取り上げて解説する. 長崎大学 熱帯医学研究所 教授 はじめに 長崎大学熱帯医学研究所は日本で唯一の熱帯 病専門研究機関で,ベトナムのハノイやケニアのナ イロビなどに海外研究拠点を設置し,マラリアや蚊 媒介性ウイルスを研究しています. 昆虫によって媒介されるウイルスは,Arbovirus と総称されています(表1 ).フラビウイルス科には デング熱やデング出血熱,日本脳炎をはじめ,最 近アメリカに侵入したウエストナイル熱 [P48 参照] どがあります.トガウイルス科には,現在インド洋 湾岸で流行しているチクングニヤ熱 [P49 参照] やアメ リカ大陸の東部馬脳炎,西部馬脳炎があります. また,熱帯病として非常に重要なブニヤウイル ス科のリフトバレー熱 [P49 参照] ,出血を起こすクリ ミア・コンゴ出血 熱 [P48 参照]など,70 ~100 種 以上のウイルスが蚊あるいはダニなどの昆虫によっ て媒介される Arbovirus というカテゴリーに入り, ヒトに感染すると発熱や脳炎,あるいは出血熱と いう重篤な症状を呈します. デング熱・デング出血熱 Dengue fever and dengue hemorrhagic fever:DF/DHF <流行地域および患者数> デング熱とデング出血熱は,両疾患とも蚊によっ て媒介されるデングウイルスが引き起こす感染症 です.蚊の生息域は地球温暖化が進むと,北半 球では北上し,南半球では南下するので,疾病 発熱,脳炎,出血熱疾患 70種以上の ウイルス デング熱・デング出血熱, 日本脳炎, ウエストナイル熱, 黄熱病 チクングニヤ熱, 東部馬脳炎, 西部馬脳炎 リフトバレー熱, クリミア・コンゴ出血熱 コロラド熱 フラビウイルス科 Flaviviridaeトガウイルス科 (アルファウイルス属) Togaviridaeブニヤウイルス科 (Bunyaviridaeレオウイルス科 Reoviridae表 1 昆虫媒介性ウイルス(Arbovirus)による感染症 キーワード Arbovirus,フラビウイルス科,デング熱・デング出 血熱,世界人口の増加と都市化,血管透過性の亢進, デングウイルスの 2 次感染,抗体依存性の感染増強 現象(ADE),日本脳炎ウイルス,日本脳炎ワクチン, 日本脳炎抗体価保有率,ウイルスの飛来

蚊など昆虫が運ぶウイルス感染症Aedes aegypti(ネッタイシマカ)にも背中に1本の 筋がありますが,それを囲むようにアークサインと 呼ばれる線が両側にあります.デング熱・デング出

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19

森田 公一 もりた こういち

蚊など昆虫が運ぶウイルス感染症─日本脳炎,デング熱を中心に─

講演2

Arbovirus の生息域は,媒介者となる蚊などの節足動物が地球規模の気温変化や熱帯地域の都市化などの影響を受けることによって変わりつつある。フラビウイルス科のウイルスには,出血傾向を伴う熱性疾患(出血熱)を主症状とする病気をひきおこすウイルスや,脳炎を主症状とする病気をひきおこすウイルスなどがあり,本稿では前者からはデングウイルス,後者からは日本脳炎ウイルスを取り上げて解説する.

長崎大学熱帯医学研究所 教授

 はじめに 長崎大学熱帯医学研究所は日本で唯一の熱帯病専門研究機関で,ベトナムのハノイやケニアのナイロビなどに海外研究拠点を設置し,マラリアや蚊媒介性ウイルスを研究しています. 昆虫によって媒介されるウイルスは,Arbovirusと総称されています(表1).フラビウイルス科にはデング熱やデング出血熱,日本脳炎をはじめ,最近アメリカに侵入したウエストナイル熱[P48 参照]などがあります.トガウイルス科には,現在インド洋湾岸で流行しているチクングニヤ熱[P49 参照]やアメリカ大陸の東部馬脳炎,西部馬脳炎があります. また,熱帯病として非常に重要なブニヤウイルス科のリフトバレー熱[P49 参照],出血を起こすクリミア・コンゴ出血熱[P48 参照]など,70 ~ 100 種以上のウイルスが蚊あるいはダニなどの昆虫によって媒介されるArbovirusというカテゴリーに入り,ヒトに感染すると発熱や脳炎,あるいは出血熱という重篤な症状を呈します.

 デング熱・デング出血熱  Dengue fever and dengue hemorrhagic fever:DF/DHF

<流行地域および患者数> デング熱とデング出血熱は,両疾患とも蚊によって媒介されるデングウイルスが引き起こす感染症です.蚊の生息域は地球温暖化が進むと,北半球では北上し,南半球では南下するので,疾病

発熱,脳炎,出血熱疾患

70種以上のウイルス

デング熱・デング出血熱, 日本脳炎, ウエストナイル熱, 黄熱病

チクングニヤ熱,  東部馬脳炎, 西部馬脳炎

リフトバレー熱, クリミア・コンゴ出血熱

コロラド熱

フラビウイルス科(Flaviviridae)

トガウイルス科(アルファウイルス属)(Togaviridae)

ブニヤウイルス科(Bunyaviridae)

レオウイルス科(Reoviridae)

表1 昆虫媒介性ウイルス(Arbovirus)による感染症

キーワード

Arbovirus,フラビウイルス科,デング熱・デング出血熱,世界人口の増加と都市化,血管透過性の亢進,デングウイルスの2 次感染,抗体依存性の感染増強現象(ADE),日本脳炎ウイルス,日本脳炎ワクチン,日本脳炎抗体価保有率,ウイルスの飛来

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の流行地域も拡大すると予想されます. デング熱は比較的良性の急性発熱疾患です.何百年も前から知られており,日本がまだ鎖国をしていた頃の記録にもオランダ人医師たちによる記載が残っています.一方,デング出血熱は致死性の高い疾患で,1953 年にフィリピンのマニラで最初に記載されて以降,翌年にはタイで,そしてその後は経年的に熱帯・亜熱帯地域で拡大してきました.近年ではデングウイルスを媒介する蚊が中国南部や台湾で確認されており,これらの地

図1 デング熱・デング出血熱流行地域(2010年,WHO)

図2 デング熱・デング出血熱患者数および報告国数の推移(WHO)

域でもデング熱,デング出血熱の流行が認められています. アメリカ大陸では 1980 年以前はデング出血熱の報告はありませんでした.1981 年にカリブ海で報告され,それ以降は流行地域が拡大している状態です.WHOによるデング熱・デング出血熱流行地域の最新地図を見てみると,ほとんどの熱帯あるいは亜熱帯と呼ばれる地域に流行が拡大していることが分かります(図 1). また,WHOに報告されたデング熱・デング出血熱の患者数も急速な増加を示しています(図 2).この増加は熱帯地域の都市化と関係していると考えられています.

<デングウイルスの生態> デングウイルスを媒介できる蚊は大きく分けて 2種類です(図 3).Aedes albopictus(ヒトスジシマカ)にはその名のとおり背中に1本の筋があります.Aedes aegypti(ネッタイシマカ)にも背中に1本の筋がありますが,それを囲むようにアークサインと呼ばれる線が両側にあります.デング熱・デング出血熱の流行地域ではネッタイシマカがデングウイル

1,200,000

1,000,000

800,000

600,000

400,000

200,000

908 15,497

122,174

295,554

2000-20071990-19991980-19891970-19791960-19691966-1959

479,848

968,56460

50

40

30

20

10

0

70

Number of cases

Number of countries

0

21

スの媒介昆虫として非常に問題になっています.その理由は主に3つあります. 1つ目の理由は,ネッタイシマカは人の生活に非常に関連の深い環境で生息していることです.タイ北部の地域では地下水の味があまり良くなく,水道も発達していないため,生活用水として雨水を水瓶に溜めて使用しています(図 4).ネッタイシマカはこの水瓶の内縁に産卵し繁殖します.あるいは,水の溜まった空き缶などでも容易に繁殖します.つまり,人の生活に近いところで繁殖するのです.そ

のため現地では水瓶に網を張って,蚊を防除するように奨励しています. 2つ目の理由として,とにかくヒトの血を好むことが挙げられます.ウシやイヌが近くにいても,ネッタイシマカはヒトのところに吸血に行きます. 3つ目の理由は,アジアの大都市が近代化されて成長している点です.赤痢[P49 参照]やコレラ[P48参照]が都市部の衛生環境の改善により激減しているのに対し,デング熱・デング出血熱だけは増加しています.これは,近代的なビルが建設されても,小さな水たまりで蚊が繁殖しているためではないかと考えられます.人口密集地域や近代化の進む都市でも,蚊が増える場所はたくさんあるため,デング熱・デング出血熱の流行はおさまりません.これはこの疾患の大きな特徴と言えるでしょう. デングウイルスによる疾患が他の蚊媒介性の疾患と異なる点は,ヒトがウイルス増幅サイクル[P48 参照]の中心に組み込まれている点です(図5).つまり,媒介蚊が生息している複数の地域をヒトが移動することにより,「蚊-ヒト-蚊-ヒト」のサイクルの中で増幅され,デングウイルスが拡大するわけです. デングウイルスには大きく分けて4つの血清型があり,この点がデング熱・デング出血熱の流行に影響していると考えられます.また,病型を複雑化かつ重症化している要因にもなっていると思われます.

図 4 生活用水として使用される水瓶(タイ北部) 図 5 デングウイルスの感染・増幅サイクル

図 3 デングウイルスの媒介蚊

Aedes aegypti(ネッタイシマカ)

Aedes albopictus(ヒトスジシマカ)

22

 4つの血清型は流行のサイクルがずれており,流行する型が毎年異なっていることが非常に特徴的です.図 6はマニラ市での血清型別のデングウイルス流行を見たグラフですが,赤色で示した3型が1995 年には非常に流行したのですが,その後は低下しています.しかし,緑色で示した1型は1995年では少ないものの,低流行の期間がある程度経過した後に,1型に抵抗のない人に感染し流行します.つまり,1~4の血清型のデングウイルスが入

SSSS SNNN N NMMMMMMM MJJJJJJS N MMJ JS N MMJ JMMJ J J J

300

Total No. of PatientslgM(+)

1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 (Years)

250

200

150

100

50

0

図6 デングウイルスの血清型と患者数

25

20

15

10

5

0

No. of isolates

DEN 1

1995

1

20

19

0

1996

1

8

2

0

1997

0

8

4

1

1998

6

10

7

0

1999

12

7

1

1

2000

8

7

0

1

2001

19

13

1

0

DEN 2

DEN 3

DEN 4

Years

図7 IgM捕捉 ELISA 法によるデング抗体調査

れ替わりで流行するため,ネッタイシマカのいるデング熱・デング出血熱流行地域では,ほぼ毎年流行するという深刻な状況になっているのです. フィリピンのマニラでは,かつてはデング熱・デング出血熱の流行は数年に1度のサイクルでみられましたが,近年は毎年雨期に流行しています(図7). 特にこれらの地域では雨期になると水が供給されるため,蚊が繁殖しデングウイルスが活発に増幅され,感染者が増加します.最近では,日本人旅

蚊など昆虫が運ぶウイルス感染症─日本脳炎,デング熱を中心に─

Ronald R. Matias 博士より, RBD, SLMC 2001.10.15.

Ronald R. Matias 博士より, RBD, SLMC 2001.9.26.

23

行者が雨期のデングウイルス流行地域から帰国した後に発症するケースも増えています.

<臨床症状> デング熱およびデング出血熱の臨床症状を表 2に示します.デング熱では症状として,発熱,頭痛がみられ,特徴的な症状として眼窩痛や発疹があらわれます.比較的良性の急性発熱疾患で,1週間ほど安静にしていれば後遺症もなく治癒します.他の症状としては筋肉痛,関節痛もよくみられ,一般的な急性ウイルス感染症の病態を示します. それに対してデング出血熱は,デング熱の症状に加え,肝肥大や出血所見も伴います.出血所見としては,点状出血,広範な皮下出血,粘膜出血が認められ,重篤な場合には吐血,下血による出

表 2 デング熱・デング出血熱の臨床症状

図 8 デング出血熱症例所見(日本人)

デング熱(DF)・発熱・頭痛・嘔吐,吐き気・眼窩痛・筋肉痛,関節痛・発疹・点状出血・白血球減少・血小板は正常,または減少・ヘマトクリット値は正常(血漿漏出なし)

デング出血熱(DHF)・発熱,発疹,筋肉・関節痛・肝肥大・トニケットテスト陽性・皮下出血(点状出血~出血斑)・粘膜出血(眼瞼,口腔,膀胱,性器)・吐血,下血・白血球減少・血小板減少(20,000 ~ 100,000 万 /mm3)・血管透過性の亢進による血漿の漏出ヘマトクリット値の上昇(20%以上)胸水,腹水,低蛋白血症

血性ショックで死亡することもあります.図 8は日本人患者さんの症例所見ですが,点状出血や顕微鏡画像でも赤血球の漏出が認められます. デング熱とデング出血熱を分ける根本的な違いは血管透過性の亢進の有無で,これがあればデング出血熱となります.血管透過性はヘマトクリット値で確認します.ヘマトクリット値が 20%以上の上昇を認めた場合,血管透過性が亢進し血液が濃縮していると判断します.さらに上昇すると,胸水あるいは腹水として漏出することがあります(図 9).また,他の検査所見として低蛋白血症もみられます. 原因は不明ですが,デング出血熱による血管透過性の亢進には他疾患にはみられない特徴があります.血管外に一度漏出した血漿が,24 時間前後の極期を過ぎると急速に血管内に戻ってくるという現象です.「出血熱」という名前がついているものの,デング出血熱には他の出血熱ウイルスのような血管破壊はなく,生理的なチャンネルが開くことで血管から血漿が漏出し,血液の濃縮が起こります.その結果,DIC(disseminated intravascular coagulation; 播種性血管内凝固症候群)[P49 参照]となり,非可逆的な出血に至るというのが生理学的な病態です. 従って,根治的な治療法はありませんが,極期の1~2日間に血液が濃縮しないように輸液し,末梢でDICが起こらないようにすれば障害を残すこと

24

図 9 デング出血熱による胸水

図10 デング出血熱の発症機序(2次感染説)

なく回復することができます.ただし輸液をしすぎると,極期に血管外へ漏出した血漿が極期を過ぎてから血管内に戻ってしまうため,回復期に心不全を起こすことがあります.

<デング出血熱の発症機序> デングウイルス感染者数は全世界で毎年 2,000万人以上と言われており,Arbovirusの中でも最も重要な課題と言えます.世界人口の約半分である25 億人が,デング熱・デング出血熱の感染危険地

域に住んでいると算出されており,デングウイルスの流行が始まれば,「蚊-ヒト-蚊-ヒト」のサイクルにのってウイルスが急速に広がることが懸念されます. デング熱とデング出血熱はどちらもデングウイルスにより発症するにもかかわらず,病態が異なりますが,この疑問を解明するためのデング出血熱に関する種々の仮説が立てられています.デングウイルスの一部が強毒に変異したという説や,ヒトの遺伝的素因により重症化しやすい人がいるという説がある中で,現在最も有力と考えられているのが2次感染説です. デング熱・デング出血熱には4つの血清型があると言いましたが,2次感染説は血清型間共通抗体が感染増強に関与しているというものです.例えば,ある人が1型のデングウイルスに感染し,ウイルスが増殖して発症し,その後,治癒したとします.これが1次感染であれば多くはデング熱の症状で終わります(図10 ①). 次に同じ1型のデングウイルスに曝露しても,1次感染時に獲得した免疫が働き,デングウイルス

感染成立(発症) 治癒 デング熱

Fcレセプター

抗体依存性の感染増強現象(ADE)単核球系細胞

ウイルス中和感染不成立 同型のデングウイルスには終生免疫

中和されず

血管透過性亢進

デング出血熱

血漿漏出(腹水 , 胸水)

血液濃縮(Hct ↑)

DIC大量出血 死

デング 1型ウイルス初感染

デング 2型ウイルスによる 2次感染

・・・・・・・・・

・・・・・・・・・

2

回復後 極期

蚊など昆虫が運ぶウイルス感染症─日本脳炎,デング熱を中心に─

1

34

25

はすぐ殺されるため,1型のデングウイルスには終生免疫が得られます(②).これは麻疹や日本脳炎ウイルスでも同じで,免疫が人体に対して良い方向に働いた結果です. ところが,1型に感染した人が年月を経た後に他の血清型のウイルス,例えば2型に感染する場合があります.これが2次感染です.デングウイルス同士は似ているため,1型に感染した際に獲得した抗体が2型に結合します(③).しかし,血清型が異なるためウイルスを殺すことができません.そうすると,このウイルスは生きたまま immune complex[P48 参照]が形成され,ヒトの体内にあるFcレセプター[P48 参照]を持つ単核球細胞などに効率よく吸着します(④).吸着後は感染が成立するため,2回目の感染では1回目のウイルス感染の抗体が人体に対して悪い方向に働き,より効率的に感染するためウイルス量価が高くなります.これを抗体依存性の感染増強現象(antibody-dependent enhancement;ADE)と言い,デング出血熱ではこのような現象が体内で起こるところまでは証明されています1). ただし,ADEの後に発生する事象についてはまったく不明です.血管透過性の亢進から血漿の

漏出を経て,重篤な場合には胸水や腹水が観察され,血管内で血液の濃縮が起こる──これをコントロールできなければ,患者さんは末梢血管におけるDICによる大量出血あるいは循環血液量減少症から死に至ります.現在この不明部分の機序を解明するために研究が進められています.

<治療方法と今後の課題> 治療方法は,WHOによるとヘマトクリットを判定基準とし,6ml/kg/hで輸液を開始以降は図 11に示す段階を踏んで進められます.デング出血熱が最初に出現した1950 年当時は致死率が 30%という高さだったのですが,現在では1%以下に抑えられるようになりました.これには輸液によるケアが非常に大きな要因になったと考えられます. 地球温暖化が本当に進んでいるのであれば,北半球における媒介蚊の生息域は確実に北上します.蚊の専門家によると,世界の平均気温が 2度上昇すると,ネッタイシマカは九州で生息可能であろうということです.そうなった場合には,九州でデング熱・デング出血熱が日常的な感染症になることが危惧されます. 2000 年の世界人口は 55 億人で,その約 40%に

図11 デング出血熱の治療(WHO,1997)

Reduce IV 5ml/kg/h crystalloid

solution for 1-2 hrs

Further improvement

Reduce IV 3 ml/kg/h crystalloid solution for 6-12 hrs

Discontinue IV therapy after 24 hrs

Reduce IV to 6 ml/kg/h crystalloid with further reduction to 3 ml/kg/h

See Volume replacement grade III (next)

- No improvement- Unstable vital signs

Discontinue IV therapy after 24-48 hrs

Improvement

Oxygen → Increase IV10ml/kg/h crystalloid solution for 2 hrs.

Improvement No improvement

Initiate intravenous therapy (IV) 6ml/kg/h crystalloid solution for 1-2hrs

- Haemorrhagia- Thrombocytopenia Hematocrit rise

講演2講演2ウイルスウイルス感染症感染症

講演2ウイルス感染症

26

図 12 世界人口の推移と都市化

当たる21億人が都市に住んでいます.世界人口機関の推計によると,2025 年には世界人口は 83 億人になり,その約 56%に当たる46 億人が都市に住むと言われています(図12).都市人口はほぼ2倍に増加することになり,報告では人口増加の大部分が熱帯の開発途上国で起こるとされています.従って,都市で流行するデング熱・デング出血熱は,今後もArbovirusの中で,あるいは熱帯病の中で最も重要な感染症であり続けると考えます. デングウイルスのワクチンは現在のところ実用化されていませんが,開発に向けて研究中です.しかし,デング出血熱の発現メカニズムがADEによるものであるとすると,ワクチン接種は議論の対象としなければなりません.つまり,ワクチン接種により抗体価を長期的に維持できないのであれば,重症化する土台を準備しているに等しい状況になります.そういう面から考えても,デングウイルスワクチンの開発にはまだ時間がかかると思われます.

 日本脳炎ウイルス<流行地域> 日本脳炎ウイルスはデングウイルスと同じフラビウイルス科に属し,日本にも生息しているウイルスです.昭和 10 年に日本ではじめて同定されたため,

Total5.5 billion

City

Years2000

Pop

ula

tio

n(B

illio

n)

2025

Total8.3 billion

39%56%

0

1

2

3

4

5

6

7

8

この名前で呼ばれていますが,インド,東南アジア,中国,朝鮮半島,オーストラリア,パプアニューギニアなどにも生息しており,「アジア脳炎ウイルス」という名前の方が適した分布になっています. WHOの推計によると年間約 3万 5千~ 5万人の患者さんが発生しており,伝播様式[P49 参照]はコガタアカイエカという蚊が媒介して,「蚊-ブタ」の間でウイルスが増幅し,ヒトに感染します(図 13).コガタアカイエカは広い淡水域で繁殖するので,基本的に水田があって降雨量が多くブタがいるところがこの病気の流行地域になります.大都市では流行しにくい病気です. 表3に症状を示します.潜伏期間は約1週間で,感染者の200 ~ 2,000人に1人が脳炎を発症する

表 3 日本脳炎の症状

図13 日本脳炎ウイルスの伝播様式

HumansHorses

Culex mosquitoes

Swine

• 潜伏期:6 ~ 8 日

• 顕性感染率(1/200 ‒ 1/2,000)

• 小児と高齢者が重症化(脳炎) 高齢者では致命率 30%

• 頭痛,高熱,頸部硬直,意識障害

• 麻痺,痙攣,昏睡

• 流産

• 神経学的後遺症(回復者の 30~ 50%)

蚊など昆虫が運ぶウイルス感染症─日本脳炎,デング熱を中心に─

27

と言われています.特に小児と高齢者では重症化して脳炎を発症する確率が高くなり,高齢者の致命率は 30%に至ります.成人ではほとんど発症しません.発症すると,頭痛,高熱,頸部硬直,意識障害が起こり,進行すると重症の場合は死に至ります.また,回復しても30 ~ 50%の人に非常に重篤な神経学的後遺症が認められるため,社会的にも非常に重要な感染症と言えます.

<日本脳炎ワクチン> 日本脳炎ワクチンが導入された日本,中国,韓国,タイなどの地域では患者数が激減しています.日本では,1960 年代には年間数千人の患者さんが発生していましたが,1960 年代中頃から日本脳炎ワクチンが実用化され,超低流行となりました(図14).中国でも,かつては年間10万人以上の患者さんが発生した時期もありましたが,その後ワクチンが導

図14 日本における日本脳炎患者数とワクチン生産量の推移

患者数

患者数

年 数

6000

40000

30000

20000

10000

5000

0

5000

4000

3000

2000

1000

0 1946

1950

1955

1960

1965

1970

1975

1980

1985

1990

1995

ワクチン販売量(Litter)

ワクチン販売量(Litter)

入され,近年では年間数千人となり相当減少しています. それに比べると,ワクチンの導入が十分でない国では,患者さんは増加傾向にあります.例えばネパールは,エベレストがあるため熱帯というイメージから遠いのですが,インドとの国境付近は熱帯地域になります.ここに食糧増産のため,国際協力によって灌漑施設が整備されたのですが,それに伴い日本脳炎ウイルスを媒介する蚊が増加し,近年患者数が激増しました(図15).

<日本脳炎ウイルスの活動状況> このようにアジアではいまだに重要な感染症の一つで,これはデング熱・デング出血熱と同様で,流行期になると患者さんを収容しきれず,病院の廊下で治療するという状況が今でもみられます. 日本においても,ブタの日本脳炎ウイルスの感染

28

図 15 ネパールの脳炎患者数(1978 ~ 2002 年)

Number of Cases

CasesDeath

Years

3500

3000

2500

500

2000

1500

1000

078 80 82 84 86 88 90 92 94 96 98 00 02

図16 年齢 /年齢群別の日本脳炎抗体保有状況の年度比較 (国立感染研:感染症流行予測調査より)

年齢/年齢群(歳)流行予測 2008

0

10

20

30

40

50

60

70

80

90

中和抗体保有率(%)

100

年度 1996[n=1946]

2000[n=2013]

2004[n=1905]

2007[n=3448]

2008[n=3216]

※1996 年度は中和交代価≧1:12 の抗体保有率

2006[n=1197]

6-11M

0-5M

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 1920-24

2529

30-34

33-39

40-44

45-49

50-54

55-59

60-64

65-69

≧70

[抗体価測定:中和法/中和交代価≧1:10 の抗体保有率で比較※]

状況を調査したところ,2000 ~ 2008 年に関東以南で活動していることが確認できます.日本でも日本脳炎ウイルスが分離されている状況ですが,日本脳炎ワクチンは副反応が問題とされ5年前に勧奨から外されました.その後,抗体保有状況について年齢別に調べたところ,最近の1~4歳までの子どもたちの抗体保有率が非常に低くなっていることが分かりました(図16).

蚊など昆虫が運ぶウイルス感染症─日本脳炎,デング熱を中心に─

 毎年,九州ではコガタアカイエカから日本脳炎ウイルスが多く分離されます.実際に,熊本では2006 年に十数年ぶりに小児が感染しており,2009年には小児感染例がもう1例報告されています.熊本の症例では,髄膜炎のような非定型的な日本脳炎でしたが,日本脳炎ウイルスによる感染であることが確認されました.軽症とは言え,こういう症例は見逃してしまう可能性もあり,今後症例が増加す

29

ると,重度の障害が残る患者さんが増えることが懸念されます. 幸い,2009 年には細胞培養によって製造された第二世代の日本脳炎ワクチンが認可されました.これで子どもたちがワクチンを接種できるようになり安堵していますが,抗体保有率は回復していないので,今後も注意深く見守っていきたいと思います.

<分子疫学> 従来,日本脳炎ウイルスはそれぞれの地域にウイルスが土着して,そこで進化してきたというのが定説でした.しかし,遺伝子解析によりベトナムと日本の株を比較すると,株の変異が非常に似ていることが分かりました.実はこの現象は1960 年代からみられたもので,ベトナムで検出された変異株がその後日本で検出されるという時間的な流れがあること

図17 日本脳炎ウイルスの移動ルート

も分かりました.従来の定説では説明できない現象です. そこで変異株が検出された地域と年について,調査地域を東南アジアに広げて確認したところ,例えば 2001年にベトナムで確認した変異株は,2004 年に中国,2007年に長崎で分離されていることが分かりました(図 17)2).ほかにも,例えば1986 年に雲南省で確認された変異株が,2003 年に上海,その後に日本で分離されるというルートが認められ,東南アジアで頻繁に発生する日本脳炎ウイルスの変異株は比較的短期間で中国,日本へと渡ってくることが明らかになりました. さらに我々の調査では,日本には東南アジアからの飛来によるウイルスだけでなく,日本に土着して進化しているグループもありました.すなわち,日本には外来性のウイルスのグループと,土着して

・日本脳炎ウイルスは熱帯アジアで活発に活動し変異している.

・特に近年,I型A群のウイルスは頻繁に東南アジアから中国を経由して日本に飛来している. ・東南アジア,中国で脳炎患者を発生させている系統のウイルスが日本に頻繁に侵入しており,小児へのワクチン接種は継続を検討すべき.

・熱帯アジアでのウイルスの変異(病原性関連)をモニターすることが必要.

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図 18 ウイルスの移動手段 -偏西風-

AustraliaIndonesia

Malaysia

China

Korea

Japan

Korea

Ja

Jet Stream

略歴1981 年 長崎大学医学部卒業1985 年 長崎大学大学院医学研究科修了,

長崎大学熱帯医学研究所 助手,ニュージャージー医科歯科大学 助手

1987 年 長崎大学熱帯医学研究所 助手1989 年 長崎大学熱帯医学研究所 講師1995 年 世界保健機関西太平洋地域事務局感染症

対策課 課長1998 年 長崎大学熱帯医学研究所 講師2001 年 長崎大学熱帯医学研究所 教授、

WHO指定研究協力センター長(熱帯・新興ウイルス感染症)現在に至る

森田 公一 もりた こういち

引用文献1) 森田公一 . 臨床と研究 . 2008;85(9):1242-6.2) Nabeshima T, et al. J Gen Virol. 2009;90(Pt4):827-32.

蚊など昆虫が運ぶウイルス感染症─日本脳炎,デング熱を中心に─

Point

●デング熱・デング出血熱の患者数・報告国数は増加しており,日本でも海外から帰国後の発症ケースが増加している.

●デング熱とデング出血熱の違いは血管透過性の亢進の有無であり,この作用は抗体依存性の感染増強現象が関与している可能性がある(ワクチン開発が難しい).

●日本脳炎ワクチンは 2005 年に任意接種に変更されたため,1~4歳の抗体保有率が非常に低くなっている.2009 年には九州地方で7歳の小児感染例が報告された.

●2009 年,細胞培養によって製造された日本脳炎ワクチンが第二世代ワクチンとして承認されている.

進化しているグループが混在していると言えます. ウイルスの移動は常に東南アジアから東アジアの一方向のみです.ウイルスの移動には西から東に吹いている偏西風の関与が考えられます(図 18). 実際,稲の病害虫であるウンカは,偏西風に乗って中国から日本に飛来しており,九州沖縄農業研

究センターのウンカの飛来予想情報によると,中国で発生したウンカは約1~2日という非常に短い期間で日本に到着します.ウンカとコガタアカイエカは大きさがかなり違うので,同様に短期間で飛来するかは分かりませんが,今後明らかにしていきたいと思っています.

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猪狩  デング熱・デング出血熱は東南アジアなどの熱帯・亜熱帯で起こる感染症で,日本でもその感染者数は増加しています.今後気温の上昇に伴い,特に沖縄などの亜熱帯地域で発生する可能性があると思われますが,先生のお考えをお聞かせください.森田  日本の冬は気温が低いので一番重要なウイルスを媒介するAedes aegypti(ネッタイシマカ)が越冬できません.気温が上昇して越冬できるようになれば日本に土着する可能性は出てくるでしょうし,さらに海外から帰国した人が発症すれば,2次感染,3次感染という形で国内でも流行すると思います.ただし,気温の上昇がなければ日本国内での大流行はないと考えます.

 ヒトスジシマカもデングウイルスを運ぶことができます.ハワイではヒトスジシマカにより約100人規模の流行が発生しています.日本にもヒトスジシマカは広く生息しているので,蚊にたくさん刺されるような環境では,2次感染,3次感染が発生することがあるかもしれません.しかし,現在の日本でそこまで心配する必要はないと思います.猪狩 日本脳炎ウイルスの分布に南から東への移動傾向がみられるというお話がありましたが,日本脳炎についてはいかがでしょうか.森田  日本脳炎ウイルスは現在も日本で活動しています.ただ,患者数が低く抑えられている理由の一つとして,日本国民の抗体価がまだ高いことが挙げられると思います.今後,特に若年層でワクチン接種者が減少した場合には,以前のように何千人もの患者さんが発生することはないと思いますが,ある程度の患者数に増加すると予想されます.また,蚊との接触頻度も,日本脳炎が流行していた約 40年前と比べると,今はエアコンや網戸の使用が普及しているので,患者数がどのように変化するのか予測することは容易ではありません. ワクチン接種が一時中止されて以降,九州では小児の感染症例が報告されているので,このような

状況が継続することには危機感を覚えます.猪狩 日本脳炎は減少しているため,今の若いドクターは患者さんを診る機会がほとんどないと思いますが,今後増加する可能性を秘めているので,臨床面でも注意が必要ですね.フロアから質問のある方はいらっしゃいますか.フロアA ウイルスが偏西風に乗って日本に飛来するのではないかというお話がありましたが,黄砂によって日

講 演 を  終 え て

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本に飛来する可能性は考えられるのでしょうか.例えば口蹄疫もウイルスですが,韓国や中国はかなり流行しています.人間が運ぶ可能性もあると思いますが,黄砂による飛来というのはいかがでしょうか.森田 日本脳炎については風との関連が強いと確信しており,現在それを証明しようと研究しております.口蹄疫はピコルナウイルスという非常に強いウイルスが原因ですが,黄砂によって飛来するかどうかは不明です.ただ,そのような可能性も含めた,自然環境と感染症やウイルスの移動については,今後の研究課題として重要な領域であると考えます.フロアB 蚊のウイルス保有量は分かるものなのでしょうか.例えば中国の蚊が保有している日本脳炎ウイルス量は日本の蚊と違うのですか.森田 国立感染症研究所では日本の蚊を採取し調査しています.約 50匹の蚊を1プールとして調べるのですが,20プール中 20プールすべてから日本脳炎が検出された年もありました.中国でも蚊の中のウイルス濃度は調査されています. 中国は SARS 以降,感染症の研究とサーベイランスに非常に力を入れており,一部のデータは日本でも入手できるようになりました.私たちが日本脳炎ウイルスの軌跡を調べることができたのも実は中国の情報が公開されたためで,ベトナム,中国,日本のデータを調べた結果,連動していることが分かったということです.今後もこのような方面も解析が進むことを期待しています.フロアC デング熱の血清型は4つあるというお話でした

が,デング出血熱を発症する患者さんは,例えば抗体価を測定すると血清型を2つ持っているのでしょうか.また,デングウイルスに複数回感染し,血清型も複数の型が検出されても,デング出血熱に至らない例があるのでしょうか.森田  デングウイルスの抗体反応は非常に複雑です.例えば1型にかかった患者さんでも2型,3型,4型に対する抗体価が上昇している場合もあります.ですから,抗体だけを見て,過去の感染歴を確実に判断することは難しいと考えます.デングウイルスによる感染が1回目か2回目かについては,抗体検査で分かります.例えば感染が1回目ならば,ELISA法で抗体価が2万~3万倍に上昇し,それ以上には上がりません.しかし,感染が2回目であれば20万~100万倍に上昇するので判断できます.ただし,感染した血清型は分かりません. 実際の流行地域におけるデング出血熱患者さんの約 80 ~ 90%は2次感染なので,2次感染とデング出血熱には関係があることは間違いありません.では,2次感染者全員がデング出血熱になるかというと,そうではありません.流行地域によってデータが異なるのですが,2次感染した人の中でデング出血熱を発症するのは1~2%です.つまり,2次感染しても大部分の人はデング出血熱に至らないのです.ただし,デング出血熱を発症した人の大部分は2次感染なので,やはり大きな関連があるということだけは間違いないと思います. また,明らかに1次感染なのにデング出血熱を発症する人がいます.こういったケースがあるため2次感染説だけですべてを説明することはできず,科学的に興味深いところです.