12
―― ―― 退退退退退退(1)所澤  潤 東京未来大学こども心理学部 [email protected] (2)両角千鶴子 元群馬県公立小学校教師  (3)玉置 豊美 株式会社数理設計研究所  [email protected] (4)高橋  浩 群馬大学理工学府理工学基盤部門 [email protected] (5)赤羽  明 埼玉医科大学医学部 [email protected]. (6)佐藤 久恵 東京未来大学こども心理学部(非常勤講師) rsa53310@nifty.com Oral History of Chizuko Morozumi: Professional Experience of a Female Teacher in Gunma Prefecture (Post World War II Period) Jun Shozawa, Chizuko Morozumi, Toyomi Tamaki, Hiroshi Takahashi, Akira Akabane and Hisae Sato 東京未来大学研究紀要 Vol.12 2017.12 pp.171 - 182

両角千鶴子オーラルヒストリー...解 説 このオーラルヒストリーは、群馬県の小学校教員であった両角千鶴子氏の 戦後の教師体験を聴き取ったものである。

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解 

 

このオーラルヒストリーは、群馬県の小学校教員であった両角千鶴子氏の

戦後の教師体験を聴き取ったものである。

 

本オーラルヒストリーのインタビューは、平成十四(二〇〇二)年七月六

両角千鶴子オーラルヒストリー 

群馬県の一女教師の歩み

                  

――

終戦後の体験を中心に―

所 

澤   

潤(1)・両 

角 

千鶴子(2)・玉 

置 

豊 

美(3)・

高 

橋   

浩(4)・赤 

羽   

明(5)・佐 

藤 

久 

恵(6) 

    

要 

 

大正三(一九一四)年二月生まれの両角千鶴子氏のオーラルヒス

トリーである。昭和八(一九三三)年に教職に就き、昭和二十一

(一九四六)年に退職した両角氏が、昭和二十五(一九五〇)年に

教諭として復職して前橋市立敷島小学校に勤務してからの体験を

語る。教育委員会が教員人事権を掌握する以前の前橋市の教員人

事の決定の様子、島小学校で展開された斎藤喜博の実践の印象、

昭和四十三(一九六八)年の退職の経緯、退職後の前橋の退職婦人

教師の会での経験を主たる話題とする。

    

キーワード:

教育振興会、勤評闘争、退職婦人教師の会(退婦教)、

斎藤喜博、敷島小学校、若宮小学校、総社小学校

(1)所澤  潤 東京未来大学こども心理学部 [email protected](2)両角千鶴子 元群馬県公立小学校教師  (3)玉置 豊美 株式会社数理設計研究所  [email protected](4)高橋  浩 群馬大学理工学府理工学基盤部門 [email protected](5)赤羽  明 埼玉医科大学医学部 [email protected].(6)佐藤 久恵 東京未来大学こども心理学部(非常勤講師) [email protected]

Oral History of Chizuko Morozumi:Professional Experience of a Female Teacherin Gunma Prefecture (Post World War II Period)

Jun Shozawa, Chizuko Morozumi, Toyomi Tamaki,Hiroshi Takahashi, Akira Akabane and Hisae Sato

一七一

東京未来大学研究紀要 Vol.12 2017.12 pp.171-182

日に両角氏の自宅で、玉置豊美、所澤潤、及び高橋浩の三人が聴き手となっ

て行った。

 

主たる目的は、群馬県女子師範学校が昭和六年に野々山源治教諭の指導の

下で収集した明治期の教科書の来歴を確認することであった。それら教科書

は現在、群馬大学総合情報メディアセンター図書館部門中央図書館に所蔵さ

れている。その聴取りの内容のうち、目的に関係した部分、及び終戦前の部

分については、すでに「オーラルヒストリー 

群馬県の一女教師の歩み――

昭和一桁の群馬県女子師範学校の体験を中心に――」

(一)と

いう題目で発表した。

 

インタビューはオーラルヒストリーのインタビュー方式を用い、両角氏が

同校に入学するに至る経緯、入学した学校の様子、卒業後の教職の状況など

へも話題を広げ、終戦後一旦退職した後の、復職後の体験に及んだ。ここに

まとめたのは、すでに発表したオーラルヒストリー(以下、前オーラルヒス

トリー)に続く終戦後復職してからの経験である。

 

両角氏は、大正三(一九一四)年二月に千葉県船橋で生れ、大正六(一九一七)

年に父親の故郷である群馬県の勢多郡南橘村大字川原に移った。結婚するま

で姓は金古(かねこ)であった。大正九(一九二〇)年四月に桃川尋常高等

小学校に入学し、大正十五(一九二六)年三月に同尋常小学校を卒業して、

四月に同高等小学校に入学した。昭和二(一九二七)年三月に一年修了で退

学して昭和二年四月に群馬県立前橋高等女学校に入学した。昭和六

(一九三一)年三月に四年間の課程を終えて同校を卒業し、四月に群馬県女

子師範学校第二部に入学した。同校第二部の二年間の課程を終えて、昭和八

(一九三三)年に勢多郡原尋常小学校の訓導となり、二年生を担任した。昭

和十五(一九四〇)年に前橋市の若宮尋常小学校に転任し、昭和二十(一九四五)

年に前橋市青年学校に転

(補注一)任し

、昭和二十一(一九四六)年に退職した。この

部分までが前オーラルヒストリーで語られた部分である。

 

以降の部分が本オーラルヒストリーに該当する部分である。昭和二十五

(一九五〇)年三月に再度教職に就き、まず若宮小学校に八年間、次に昭和

三十三(一九五八)年から敷島小学校に九年(

補注二)

間、最後に昭和四十二(一九六七)

年から総社小学校に一年間勤務して、昭和四十三(一九六八)年三月に退職

した。退職後は前橋の「退職婦人教員の会」、前橋母親連絡会を結成する等、

社会的な活動も行った

(二)。

 

前オーラルヒストリーの目次は以下の通りであった。

 

火事の思い出/県立前橋高等女学校進学/群馬県女子師範学校第二部受

験/女子師範の寄宿舎/女子師範の授業/先生方の思い出と郷土研究室/

女子師範の気風/教生実習/女教師の仕事/前橋市青年学校教員に異動

 

本オーラルヒストリーの主要な話題は三点ある。①教育委員会が発足した

当初の教員人事と組合の関係。②斎藤喜博の島小学校の実践を、前橋に勤

務していてどのように聞き及んでいたかということ。③自身の退職の経緯と

退職婦人教員の会の活動。

 

以上のいずれもが、戦後教育史としてあまり実態の解明されていない興味

深い情報である。

 

①は、現在のような教育委員会主導の教員人事が行われるようになる前の

様子である。筆者が個人的に教員に話を聞いてきた印象では、その移行時期

は多くの都道府県で昭和三十五(一九六〇)年頃ではないかと見られるが、

それ以前の人事がどのように行われていたかについてはほとんど情報がない。

群馬県では教職員組合の人間関係も関与して人事が行われ、それが勤評闘争

を境に廃止されたことが語られている。群馬県教育委員会は投票選挙の結果

を承けて、昭和二十三(一九四八)年十一月一日に第一回会合が開かれた。

前橋市教育委員会は、投票選挙の結果を承けて昭和二十七(一九五二)年

十一月一日に初めて発足した

(三)。

両角氏が教職に戻ったときにすでに教育委員

会があったと語っているのは、県教育委員会のことである。

 

②については、斎藤(明治四十四(一九一一)年生、昭和五十六(一九八一)

東京未来大学研究紀要 Vol.12 2017.12

一七二

年歿、昭和五(一九三〇)年群馬県師範学校本科第一部卒)による全国に

名をとどろかせた島小学校の実践が前橋市の方ではどのように評価され

ていたか、教員達がどのように感じていたかが語られている。

 

③については、配偶者が管理職になると退職しなければならないという教

育界の慣行が当時どのように機能していたかについて語られている。また、

退職金の支払時期の問題なども語られている。

 

いずれも断片的な情報であるが、群馬県の戦後約二〇年間の小学校教育の

様子を物語っている。

 

両角氏のオーラルヒストリーとしては、すでにライフヒストリーという名

称でまとめられた群馬県高校教育研究所によるものがある

(四)。

同研究所主催で

平成十五(二〇〇三)年八月二〇日に行われた第二回戦後日本教育史学習会

で、平野和弘氏が聴き手となって実施されたものである。内容は、戦争の問題、

教員の管理体制の問題を主軸にしたものであり、我々が行った聴取りとは著

しく傾向が異なっている。しかし、双方を併せ読むことで、一方のオーラル

ヒストリーでは明瞭になっていない部分を解明することができる。

付 

 

本聴取りは、群馬大学が所蔵している明治期理科教科書を研究するグループが調

査研究活動の流れの中で実施したものである。実施に当って平成十四年度福武学術

文化振興財団研究助成「旧群馬県師範学校・群馬県女子師範学校から継承された

群馬大学所蔵明治期理科教育関係資料の整理・分析・目録作成・公開」の助成金を

使用し、その後、平成十六年度、十七年度文部科学省科学研究費補助金基盤研究(C)

(1)「群馬県における明治期科学教育の検証――群馬師範・女子師範から継承され

た群馬大学附属図書館所蔵の膨大な教科書群をプローヴとして」の一環として進行

させた。本オーラルヒストリーの企画は玉置が行い、インタビューは玉置、所澤、

高橋が両角千鶴子氏のご自宅で行った。またオーラルヒストリーとして発表するに

あたっては、録音の文字化作業は佐藤が行い、編集は所澤と佐藤が行い、資料収集

は主として佐藤が行い、解説執筆、凡例作成、註作成は所澤が行った。内容は聴き

手三名の確認を経るとともに、当日インタビューに参加しなかった赤羽も内容を閲

読している。また、両角氏は高齢で内容の確認が困難であるが、本発表はご息女の

野村睦子氏よりご了解を頂き、また不明の点についてご教示を頂いた。群馬県立図

書館、前橋市立若宮小学校及び敷島小学校から関係情報の提供を受けた。記して

感謝申し上げる。註二の資料は佐藤が入手したものである。

註一  

両角千鶴子(話し手)・玉置豊美(企画・聴き手)・所澤潤(聴き手・編集・

解説・註)・高橋浩(聴き手)・赤羽明・佐藤久恵(文字化・編集)「オーラルヒス

トリー 

群馬県の一女教師の歩み――昭和一桁の群馬県女子師範学校の体験を中心

に――」『群馬大学教育実践研究』第二三号、二〇〇六年三月、三二七―三三六頁

二  

筆者たちが得た情報のほかに、「両角千鶴子先生のライフヒストリー(要旨)」

(『戦後教育史学習会ニュース』№3、群馬県高校教育研究所、発行日記載なし)

に書かれた情報を加えた。

三  

前橋市教育史編さん委員会編『前橋市教育史』下巻、一九八八年、二九四―

二九六頁

四 

前掲註二

○凡 

、編集にあたって、話者の表現を生かすように努め、方言もなるべく標準語に変

換せずにそのまま残した。但し、話題の順序は、歴史的つながり、論理的つな

がりが明瞭となるように入れ換えたほか、表現の一部を話者の意図がよく伝わ

るように修正した。

二 、末尾の註には、出典を明記する必要のある事項、多少の説明を要する事項を掲

げた。

、﹇ 

﹈内の註は、編集に当たって説明として加えた簡単な註釈、あるいは当日

の聴取りの様子に関わる事項である。

四、( 

)内には、人名の読み方を入れた。

、〔 

〕内の註には、話し手本人が話していない語で、口頭ではなくても通じる

が、文字として読む場合に必要となるものを補足した。

所澤  潤・両角千鶴子・玉置 豊美・高橋  浩・赤羽  明・佐藤 久恵

両角千鶴子オーラルヒストリー 

群馬県の一女教師の歩み

一七三

       

細目次

     

教育振興会と組合活動

     

斎藤喜博について

     

斎藤喜博と群馬県教育委員会

     

退職の経緯と退職婦人教師の会

     

四方山話

 

教育振興会と組合活動

所澤 

勤めて昭和二十五(一九五〇)年にもう一度勤めた時に、もう組合は?

両角  

出来てたから、戦前には、あたし勤めた時はそれ聞いたことがなかっ

たし、だけど、どうなんだろう。戦後は全然。組合出来てからは尚更ね。

所澤  

先生はもう、お勤めになった時は、教育委員会も既に全部出来てまし

た? 

まだ、前橋市なんかは教育委員会出来てなかった頃ですか?

両角 

出来てましたよ。前橋は。

所澤 

そうですか。

両角  〔委員が〕任命じゃなくて、選挙だったらしいけど、但し、全体じゃ

ないんでしょうけど、どういう選挙だったか、選挙制だった。岩崎さん

て附属にいたその人なんか、任命制で教員組合で、支部長じゃない?、

――執行委員長したんかな。だけど、県の任命制で県の教育委員会いた

人がいますよ。だから、いい人がいなくなる。すぐ、そこに、――森泉﹇も

りいずみ﹈さんって人が、ううんと詳しかった。その人も長野の人で、

長野県に、信濃教育会があれだけ隣の県でしてるのに、群馬の教育のそ

ういう組織がないっていうのはおかしいなんていって、教育振興会って

いうの作ったんです。それで、そのようにしようと思ったけど、どうし

てもこっちは出来なかった。それは森泉先生が辞めてから、うちでも辞

めるの待ってて、「この会に入って力貸してくれ」なんて。四年ぐらいし

てたけど、群馬じゃどうしても駄目だったです。でも、今、出来てはい

ますけど、信濃のようにはならないね。

所澤  

群馬県で、そういう風に校長先生が人を〔学校に〕入れられた時期っ

ていつくらいまでですか?

両角 

随分ありましたでしょ。

所澤 

今は、もう、全然できないですもんね。

両角 

戦前は大丈夫だったんね。

所澤  

戦後教育委員会が出来て、その後、いつくらいからでしょねえ?、変

わったの。

両角  

そうですね。でもね、勤評闘争﹇教員の勤務評定に反対する闘争。群

馬県の場合は昭和三十二(一九五七)年十二月に始まり、昭和三十三

(一九五八)年十二月に一応の収束を見る(

一)﹈

ってのがあったんですけどね。

その前くらいまではね、教員組合が、割合強かったでしょ。だから、学

校の中に組合の分会ってのがあったんですよ。それで、そういう人が、

例えば希望をこういう風に出すでしょ。そうすると、前橋支部の中で、「こ

の人はこういう人だ、ここへ行きたい」っていうと。そういうリストを

若宮〔小学校〕なら若宮に、「こういう人が希望してるよ」みたいに寄

越すと、校長先生にやるよりも、その教員組合の分会で見て、「ああ、

この人ならいいよね」みたいな、――それで校長さんにこの人推薦すると、

校長さんが異論がなければ取ってくれると。そういう時代もあった。だ

両角千鶴子オーラルヒストリー 

二〇〇二年七月六日採訪

東京未来大学研究紀要 Vol.12 2017.12

一七四

けど、勤評の後は、組合が抑えて来てるから、段々そういう人事がなく

なって……

所澤 

群馬の場合は、組合がかなり発言力を持った時代があるんですね。

両角  

そういう時代がありましたよ。だって、校長さんまで組合が動かして

た時代があったみたいね。

所澤 

なる程。

両角  

だって、あたしが原小学校で担任した子が、細井小学校へ勤めてたの。

その人は前橋に入りたくってね。どうしてっていうと、細井だって近い

のに、――前橋の方が物価がこうにうんと高かった時代に、生活が大変

だっていうことで、郡部よりも、前橋の方に特別の手当が付いた時代が

あったかしら。そうすると、うんと前橋に入りたがると、――そういう

時代がある。

所澤 

へええ。

玉置 〔話題が〕ローカルだわあ。

両角  

その人がうちへ来て、「若宮に入りたいけどもどうだろう」って言っ

たんだけど。そん時、あたし恰度、――代議員なってたことがあるの、

組合の。それで、執行委員の人に言って「こういう人が、若宮に来たい」っ

て。まだ、若い青年教師だったから、そこへ入れてもらって、名前を出

してもらって、それで、代議員と執行委員で、そういう人の希望を校長

さんの方へ言ってくでしょ。そうすると、校長さんの方、向こうの勤務

状態とか色々調べて、異論がなければ、――特別なことがなけりゃ、皆

さんの推薦する、――「これでいいでしょう」みたいな、合意になった。

それで、入った人いましたよ。勿論組合だけでこういうのは出来ないけ

どね、校長さんも交えて両方が合意する。

所澤  

ええ。それは具体的にいつ頃ですか。時期的に、いつ何年前頃の話な

んですか?

両角  

終戦後、あたしは一度辞めてて、また、出直ったんだけど。昭和二十ね、

――昭和三十年よりも前のこと、二十八(一九五三)年ぐらいだったか

なあ。そういうことよくあったみたい。敷島から若宮へ転校して来た人

なんか、「自分で来たくなかったのに寄越された」って言って、それがあ

んまり。一つの場所に、――前橋の場合は居心地がいいってんでね、

二十年でもなんでもいた人がいるんですよ、卒業以来ね。そこの主みた

いになって、あとから来た人がうんとやりづらいんですね。その人のい

うこと聞かないと干されちゃう、みたいな、やりづらくて。それで、前

橋の組合でもそうだし、教育委員会の方にも、教育長なんかも色々な苦

情が行くでしょ、「この学校はそういう封建的で、特別なこういうボス

みたいなグループがあってやりづらい」なんて、声が行きますわ。そう

すると、これは人事異動しないと民主的にならないとか、色んな声があっ

た時に、昭和三十一(一九五六)年頃、その頃に、全市で八年以上勤め

た教員は異動するっていうことで、あの時は、大々的な異動があった、

昭和三十一年。

所澤 

それで、それ以来今でも八年ですもんね。

両角  

うん、それ以来ね、それが守られてるんね。でも、例外も出るんです

けどね。

玉置 

勤評っていつ頃の話かしら?

両角 

昭和ね、三十三年。昭和三十……。

玉置 

だけど、何年か続いたんでしょう? 

そうと違うの?

両角  

そんなに何年も続かないんですよ。その闘争は三十三年に、もう、わ

あっと、――高知が前の年だったかね。段々全国的に広がって、群馬で

持ち上がったのは三十三年。あたしが恰度、敷島小学校へ転勤した年だ

からよく覚えてる。

玉置  

群馬ではどんなことになってたんですか? 

要するに、現実的にはど

所澤  潤・両角千鶴子・玉置 豊美・高橋  浩・赤羽  明・佐藤 久恵

両角千鶴子オーラルヒストリー 

群馬県の一女教師の歩み

一七五

ういうことがあったんですか。

両角  

どういうことがあったというよりも、国の政策でね。教員に勤務評定

をするということが下ろされて来た訳。だから、教員組合とすると、そ

の勉強をこうする中で、教員に勤評闘争、――勤評した場合に、どうい

う教育の弊害が出るかということを思うとさ、――校長さんが、教員の

評定する訳でしょ。人間が人間を評定するということは、銀行とかそう

いう所で成績上げたとかそういうことと違って、評定が難しいですよね。

どうしたって感情が入ったり。そうすると、教員の方が意見も言いづら

くなって、校長さんにいい顔していなきゃならなくなったりさ。色んな

ことになると子供に目が向かなくなるだろうと、――そういうことで民

主的に、いい教育するには勤務評定はよくない。それから、教員の言論

の自由っていうことやら、みんなで討論しあって、練り上げて教材を研究

するとか、そういうことがおろそかになる、っていうんで。昔の戦争通

り越して来た人はやっぱり思想統制されるってことは、戦争に繋がると。

玉置 

わかるわかる。

両角  

だから、戦争、――日教組のスローガンっていうのがほらね、「教え

子を

玉置 

戦場にやるな」っていう、だったね。

両角  

戦場にやらない」って言うでしょ。だから、その戦争に繋がる、ああい

う風に思想統制されていくってことが、知らない間に段々段々に、そうい

うことになる、――だから、今止めなかったら大変だっていう。そうい

うことを勉強すればする程わかってくる訳ですよ、昔の歴史をしながら。

玉置 

それで止められたの?

両角 

止めらんないんだけどね。

玉置 (笑)

両角  

空になったんね。それは勤評闘争はそのままあるんだけど、きちんと

した評定を――こんな番号つけてさ、一、二、三、四、五なんて、――そん

なものつけられなくなった。うん、だけど、出したんですよ、勤務評定

は教育委員会へ﹇群馬県教育委員会が公表したところに拠れば、昭和

三十三年十二月二七日には、県内評定実施校五四八校中五四五校が提出

したとい(

二)(三)

う﹈。前橋はうんと盛り上がったもんだからね。支部長さん馘

になる程になっちゃったんだけど。

玉置 

馘になったままだった?

両角 

そう。

玉置 

戻せなかった?

両角  

戻せなかった。だけど、戒告だとかね。六ヶ月停職だとか、色々あっ

たけどね、支部長さんは教員を、みんなを煽動したっていうので、そう

いう罪を着せられたの。そうじゃないんだけど、学校独自の……、

玉置 

それが昭和三十三年のことね。

両角  

全部で討議して決めたんだけど。大変な時代でしたよ、あの頃は、ほ

んとに。

 

斎藤喜博について

所澤  

斎藤喜博先生﹇昭和二十七(一九五二)年から昭和三十八(一九六三)

年、佐波郡島村立島小学校の校長(

四)。

昭和三十(一九五五)年三月一日か

ら境町立島小学校﹈っていらしたでしょ。その頃スターだったですね、

群馬県の教員の。どういう印象をお持ちですか?

両角  

うんとね、創造的な教育する人だったんね。私は一回っきり授業参観

行けなかったんですけど、授業参観なんかの記録があるんですけど、そ

ういうのなんか見るとね。こういう教育がああいう頃に出来てたんかな

あって、驚くようでした。あたしが見学に行ったのは、――音楽会を見

学に行ったの、土曜日の午後。その喜博さんの実践したこういう本が出

東京未来大学研究紀要 Vol.12 2017.12

一七六

たんですけど、読んでどうしても行きたいと思って、土曜日の午後にね、

同学年の先生誘って、それで行ったんですよ。

所澤 

島小ですね。

両角 「島」じゃなくてね、「しば」

所澤  

あ、もう、「しば」ですか﹇斎藤喜博の生家が佐波郡芝根村にあった

ための誤解か?

(五)。﹈

両角 

だと思ったんですけど﹇以下、しば小と話しているが、島小に改めた﹈。

  

 

そしたら、とにかく、低学年の方まで全校でやるんだけど、どうして

あんなすごい合唱が小学校で出来るんかな、と思う程すごい、――ボー

イソプラノで、すごいんですよ。だから、ああいう指導はどこで、どう

に出来るんだろうと思ったけど、ただ、一つ疑問に思ったのは練習をす

る為に、ほかの教科は一体どうなってたのかなってことも思った。それ

から、ああいうのはちょっと無理があって、どこか子供に無理をいって

るんじゃないかっていう疑問はあったけど。見て来ただけでは、聞いて

来ただけではすごいんですね。

  

 

とにかく小学校の、まして田舎の方の子供があれだけの音楽を作り上

げるっていうこと、それも全校ですもん。学年ごと全部。どこの学年が

落ちてるっていうんじゃないの。それで、斎藤先生が作詞したのを、

――なんていったかなぁ、あそこにいた女の子、――丸山亜季さんて人

が作曲した曲、みんな、高音が多いんですよ。それを、全校で澄んだ声

で歌う、すごいねえ。あの島小の実践なんて、ほんとに庭の隅にこう縮

込んでた子がうんと溌剌と発言するような子供に育って行くんですよ

ね。だから、普通の学校で出来ない筈はないだろうと思うけど。

所澤  

斎藤喜博先生を育てたような雰囲気というのは師範の方にあった?と

いうことなんでしょうか?

両角  

さあ、あの人もともと、そういう自分自身の中から湧き出たもんじゃ

ないんかしら。あの頃の先生の中に喜博さんのそれと合ってるような人、

私わかんないですよ。私が〔女師に〕いた頃の、附属の訓導先生のなか

には、喜博先生のようなそういう〔人はいなかった〕、――やっぱりこ

ういうきちんとした型にはまった先生、――訓導っていったあの頃ね。

所澤 

初めて斎藤喜博の名前を知ったのはいつでしょう?

両角  

そうねえ、〔昭和三十三年に〕敷島行ってから。〔昭和二十五年に〕若

宮に行ってね、五、六年経ってからでした。

所澤 

昭和三十年頃。

両角 

ええ。

所澤 

どういう風に、最初聞かれたんですか?

両角  

聞いたのは、授業がとてもいい。その人が直接行ったんじゃないんだ

けど、とてもいい子供を育てる授業。それも総合的にやってるっていうの。

生活指導から教科は教科っていうんじゃなくて、教科の中に生活指導を

取り入れて、人間を育てる一貫授業みたいな、そういうんで、凄い先生だっ

ていうから、そういう人の学校見学したいっていう話は皆さんしてた時、

あたしも混ぜて頂いたことがあるんですよ。

所澤 

もうその頃から、県内にずっと名前は轟いて……

両角  

知れてましたよね。敷島行ってからは、みんなが見学行くようになっ

た。私は島小までは、〔授業〕見学に行くチャンスがなかったですけど、

直接そこの学校まで行って来た人も幾人かいるの。

所澤  

それで、先程の公開音楽会に行ったのはもうちょっとあとの次の学

校?

両角  

そうそう。敷島行ってから、だから、文化部にいた時から相当。『文

化中心』﹇正確な名称は不明。『文化労働(

六)』か

﹈だか、教組の文化部のニュー

スが流れて来た中に喜博さんの名前が出てまして、文化部長っていうの

でね。

所澤  潤・両角千鶴子・玉置 豊美・高橋  浩・赤羽  明・佐藤 久恵

両角千鶴子オーラルヒストリー 

群馬県の一女教師の歩み

一七七

  

 

あたしは組合だって戦後になって途中から行って、組合が出来てどう

かって、全然組合もピンと来なくって。勤評になって始めて。賃金闘争

を殆どやってた。賃金闘争だけじゃなくって、こういう思想的なこうい

うことにも組合ってやるのかなあって、最初は思ったけど、ここも根底

にあるものはやっぱり教育だね。こういうことを大事にしていかなけれ

ば、いい教育できないんだみたいに。わかるようになったけど。戦前の

教育の中で育って、戦前の教育を私たちは子供にも皆して来て、体の中

に染み込んでるんですよ。ちょっと抜けらんない。天皇制の……

所澤  

ピンと来ないっていうのは、そこに違和感がある。自分がやってる教

育に違和感があるという意味ですか?

両角 

そうですね。

 

斎藤喜博と群馬県教育委員会

所澤  

斎藤喜博先生の名前を出したのは、組合運動となんか斎藤喜博先生

がやってる実践とがなんかこう絡んできちゃって、それで、組合の勤評

闘争だとかなんかで、段々群馬県の県教組が調子が悪くなってきますよ

ね。それとともに、なんか様子が変わってきちゃうような印象があるの

ですが、そういうことは御存知ですか?

両角  

それもあるみたいですね。だから斎藤喜博さんは、県教組の方では文

化部長みたいで、文化の面、うんと一生懸命したみたい。だけど勤評闘

争の時には校長さんになってたから。だから、闘争の面では、喜博先生

はあれじゃないですか、あの統一行動だとかはあまり好まなかった。

所澤 

そうですか。

両角 

授業放棄なんて、好きじゃ〔ない〕……、ねえ。

所澤  

今だと、例えば群大の教育学部なんかでよく聞く話では、今群馬県で

は、斎藤喜博の名前を出してはいけないと、そんな風にまで、教育委員

会に近い人たちはいうぐらい。

両角 

そうなんですって。あたしなんか勤めた時もそうでしたよ。

所澤 

そうですか、もう。

両角  

教育委員会にいる人は、喜博さんの教育に、こう感化されないように、

行っちゃ駄目みたいな。あたしなんか勤めたその時の校長先生って、

――金井博之さん﹇敷島小学校長(昭和三十七(一九六二)、三十八

(一九六三)年度)(

七)﹈

とか、ついこないだ亡くなった人いるんですけど、

その方なんかは、立派な校長さんだった、――教員は大事にするし、い

い先生だったけど、喜博さんに対してはあんまりいい感情持ってなかっ

た。それで私に対して、「両角さんは、喜博さんのどういう所に感銘し

てるんですか」って聞かれたことがある。だけど、あたしは、「子供を

大事にするって先生は一番いい先生だと思うので、そういうところに惹

かれます」って言ったの。だけど、教育委員会では駄目だったのね。

所澤 

教育委員会の人はどういう風に考えてたんでしょうね。

両角  

やっぱり教育委員会は、画一的に言うこと聞かせる教員が邪魔じゃな

いでしょ。だから、あの先生は東北の方のなんか。

所澤 

ええと、宮城教育大の教授になりましたよね。

両角  

なったでしょうね。だから、そういう認める人と、統制が好きで、そ

ういう勤評なんかだって、危険性が。〔群馬県は〕創造性の豊かな人は切っ

てっちゃう。勿体ないですよ。

  

 

あたしなんかも知ってる人で、もう亡くなっちゃったけど、その人も

うんと一生懸命そういう自分の自主的なカリキュラムを作って、いい授

業をする国語の先生だった、中学では。だけど、その人も師範とそれか

ら大学との間のとこくらいのところで卒業したのかな。そういう人です

けど、その仲間の人がトップの方で、そんな人で、その下の人が学校の

時頑張ったとするでしょ。「勿体ないから、そういう運動止めろ止めろ」

東京未来大学研究紀要 Vol.12 2017.12

一七八

みたいにして、そこから止めちゃった人いましたよ、――おとなしくなっ

ちゃった人が。組合でもうんと指導力があって、だけど、指導力ある人っ

ていうのは、みんな子供の方向いてる人、あたしが知ってる人は。組合ばっ

か一生懸命してる人っていうのは、私はあんまり好きじゃないけど、両

方ねえ、一生懸命する人っていうのは尊敬できますよ。子供も一生懸命

見るし、先生達の、その人も大事にした人ってのはね。

所澤  

僕は群馬県で育った訳じゃないですから、外から群馬県の様子を見る

と、斎藤喜博は群馬以外では非常に有名な方で、

両角 

そうですよ。

所澤  

ビデオなんかみても素晴らしい感じですよね。授業記録なんか読んで

も素晴らしいし、

両角 

そうそうそう。

所澤  

なんで、それが群馬の中で、これ程、話してはいけないくらいの存在

になってしまうのかっていうのが、非常に不思議な感じなんですが。

両角 

不思議ですよ。ほんとに教育委員会じゃ目の敵だったみたい。

 

退職の経緯と退職婦人教師の会

両角 

これ、敷島小学校って書いてあるけど。

高橋  

これは、ちょっと古い方﹇の名簿﹈、あの同窓会の名簿の時の住所で、

この当時、敷島小学校に赴任された……

玉置 

昭和四十一(一九六六)年頃です。

両角 

四十一年はね、まだ、若宮小学校だった。あれ? 

敷島だったね。

玉置  

いっぱいこう移られてたでしょ。市内だけで、学校が〔異動〕できた

んならよかったじゃないですか。

両角 

そう、〔家から〕近いの。

玉置 

全部市内で済んでるんでしょ。

両角 

すぐ裏だけど。

玉置 

ちょっと珍しいと思うのね。

両角 

そうねえ。

玉置 

うん郡部には、最初に勢多郡で原小に行ったぐらいでしょ。

両角  

それで昭和四十三(一九六八)年まで勤めた。十八年ね、戦後十八年

勤めて、それで退職したんですけど、その退職の理由ってのが、あたし

は納得できない理由もあったんですけど、辞めるように自分では〔予定〕

してたんですけど。それが相手﹇配偶者﹈が管理職であると、後進に道

を譲ってっていうことで。

所澤 「相手が管理職であると」何でしょう?

両角  「奥さんを辞めさして下さい」っていう干渉が来るんですよ。そうい

うことで、前にそういうので、辞めないでいた人が、みんな左遷させら

れたり、色々になるでしょ。そういうことも知ってるから、あたしは、

長女が恰度大学を終わる年だから、その年に一緒に辞めようって自分で

計画してたの。それなのに、三月の始めに突然にそういうことが来たんで、

そうに言われて辞めるのは嫌ですがね。それで、ちょっとうんと返事を

しないでいたんですけど、結局は辞めたんです。そういう理由もあってね。

玉置 

御主人は管理職になられた。

両角 

うん、だから、ほらもう年だから、校長さんになってたでしょ。

玉置 

もう既になってたのね。

両角 

校長になってると自分の女房を……

玉置 

知ってます、そういうのがここら辺にはあって、出て来た時を。

両角  

それが、全県に〔指令が〕出た最後なの。その前から。あたしの友達

は高崎で、旦那様が教頭の時なのに四十ちょっと出たぐらいの時に辞め

たんですよ。だから、前橋と利根、吾妻。桐生。その四つが残ってた。

その四つ残ってた郡市、そこに一斉に〔指令が〕来て、その時はほんと

所澤  潤・両角千鶴子・玉置 豊美・高橋  浩・赤羽  明・佐藤 久恵

両角千鶴子オーラルヒストリー 

群馬県の一女教師の歩み

一七九

に全部そうでした、。その時に、頑張った人が、旦那さんが教頭で奥さ

んが中学の先生してた人。その人は、その年に御主人は中学の普通の教

科教える先生になって、奥さんが〔中学から異動して〕小学校の一年生

持たされた、中学から。

玉置 

それ何年でしたって、昭和。

両角  

昭和四十三年。そういうことがあったのです。そうしたら、奥さんは

子宮癌で亡くなっちゃった。それが、身体の調子が悪かったのに、お医

者に行こうと思ったけど、中学三年生持ったから進学と就職があるで

しょ。その指導終わって、それから担任外にさせてもらって、それから

お医者に行こうって予定立ててたんですって、具合悪かったから。それで、

今度は〔小学校〕一年生だから休む訳にいかないでしょ。もう手遅れになっ

て亡くなっちゃった。そしたら、御主人もその後病気になったかな、二

人とも亡くなっちゃった。だから、そういう、――なんていうのだろう。

不条理なことを、――教育の面でほんとにこれが妥当だと思う人事なら

いいんだけど、そういうことをするっていうのは、教育のそういう場で

許されていいんだろうかと思いました。

  

 

それで、あたし、敷島〔小〕学校にいたの。昭和四十二(一九六七)

年に、――来年、もう辞める予定してるから、九年ちょっと敷島にいて、

もう一年でやめようと思うから、――一年生持ってたから二年まで持ち

上げて、そうするとあたしも気持ちが清々するから。そうさしてもらい

たいと思った。ところが、総社の学校一年行ったんです。そしたら、総

社の学校は文部省の指定の道徳教育って指定されてた。それでその前の

年に。前橋の道徳教育のカリキュラムを作るんで、あたしも、そういう

とこへ入れられて、全市に配るそのカリキュラム作った(

八)。

そういう経験

があるのです、――道徳教育の指定校だって。

  

 

だけど、向こうの校長さんが「両角さん、もう一年で辞めるってけど、

ここは二年の指定校なんだよ」「二年間の指定校だっていっても、私には、

もう予定があるから辞めさしてもらうんです」ったら、「そういう訳に

いかない」って言って。それなのに、三月の始めになったら教育長のお

呼びがあって、あたしは娘の卒業式あるんで、東京行ったでしょ。行く

時だったの、土曜日に電話〔が〕校長さんから掛かって来て、「明日の

日曜日に教育長さんが面会したいって言うから来てくれ」と言う、「あ

たし、予定があって行けません。何でしょうか?」って言ったら、教育

長と〔会いに〕、校長同伴で来てくれっていう、―そういうことが〔あっ

て〕、それでとにかく辞めたんですけど。

  

 

だから、辞めた時、自分の予定通りに辞めるんならいいけど、そうい

う条件で、理由で、辞めたっていうことに対して、うんと嫌ですよ。だ

けど、それ辞めなきゃ、主人の方にあれがいくでしょ、そういうことも

考えたり。

  

 

それで、その年にこれは、学校のことと違うんだけど、退職婦人教師

の会ってのが出来た、「退婦教」って。そしたら、県の県教組の方から

私の所に電話が来て、前橋支部のを結成をしてくれと、――ということ

で、退婦教の前橋支部を結成をしたの。その時は教育委員会での交渉と

か、よく行ったですよ。目的があると行ける。自分で経験したことを後

輩に、そういうようなことを味あわせたくない。管理職の奥さんで、素

晴らしい人がいっぱいいるんですよ。それで、奥さんでも優秀な人いっ

ぱいいるから、そういう人を大事にしないと、教育面でもマイナスにな

る。だから、そういう条件は〔取〕払って下さいっていうことと、退職

した時の退職金っていうのが、十月頃来たの。そしたら、十月頃、そん

な遅く来れば、一人で〔はやっていけない。私は〕旦那の収入があるか

らやってけるけど、自分だけだったらやっていけないですよ。だから、

退職した場合には、退職金は四月とか五月にきちんと支給することとか、

東京未来大学研究紀要 Vol.12 2017.12

一八〇

あるいは健康保険が途切れちゃうともう駄目でしょ。学校の時は勤めし

ていて、日曜はお医者さんは行けない。そういうのが、共済のお金ばっ

かり払ってお医者にかかれない。退職してせめて三年くらいは、面倒み

てもらいたいとか。――そういう運動一生懸命したの。

 

四方山話

玉置 

お幾つになられました?

両角 

八十八が過ぎたの。

玉置 

八十八。

両角 

二月十日でね、満八十八才。

玉置 

私の伯父もそうなの。

両角 

そうですか。

玉置 

砂川錦重郎って御存知ないかしら、

両角 

知ってますよ。

玉置 

知ってる? 

伯父なの。

両角 

あれえ。下川の方でしょ。

玉置 

そう。

両角 

うちの主人もほら割りと親しくしてたから、

玉置 

ほんと?

所澤 (笑)

両角 

年賀状よく頂いて。

玉置 

ほんと?

両角 

ええ。

玉置 

その、昔の本の話に関わる話を聞けるかなと思っているの。

両角 

ううん。

玉置 

もう御主人亡くなられちゃったんでしょ。

両角 

もう四年、九月で丸四年になるんですけど。

両角  

さえないけどね、割合記憶力よかったんですよ。長野の人なんだけど、

そんなことまで覚えてる、みたいにね。専攻科行ってやってたから、い

ればね、うれしがって話したかもしらないけど。

所澤 

今日は非常に内容のある話で。

両角 

大事なことが話せないんで申し訳ない。みんな忘れちゃってるからね。

所澤  

群馬県の昭和の初めくらいの雰囲気っていうのが非常によくわかりま

した。

両角 

そうですか。ほんとにありがとうございました。

高橋 

いえ……ありがとうございました。

両角 

始めて会った人じゃないみたいにして。

高橋 (笑)

両角  

こんないい加減な話ばっかりで、申し訳なかった。じゃあ、斎藤先生

の方も興味がありますよね。ここ﹇自宅のそば﹈がほら、養心寮でしょ、

群大の。だけど、昔、あたしたち、ここんとこに〔昭和〕二十三(一九四八)

年に市営住宅が出来て入ったのよ。だけど、昔の学生と異質、すごい変

わった。

所澤  

今また違いますね。僕が勤めて、今十二年なんですけどね。全然違う

感じしますね。

両角 

でも、学生の運動なんて全然ないぐらい。

高橋 

学生運動。そのレベルの違いじゃないんですよね。

所澤  

僕が勤めた頃﹇一九九一年﹈でも、学生運動なかったんです。その先

の違い。(笑)

両角 

だって、〔自治会〕委員長なる人もいないとかって、

所澤 

そうです。

両角 

就職できないですもんね。

所澤  潤・両角千鶴子・玉置 豊美・高橋  浩・赤羽  明・佐藤 久恵

両角千鶴子オーラルヒストリー 

群馬県の一女教師の歩み

一八一

東京未来大学研究紀要 Vol.12 2017.12

一八二

所澤  

群馬県は、昔は学生自治会なんかやった人は、殆どみんな埼玉県受けて、

両角 

そうそう。

所澤 

埼玉県は採用してくれるもんですから、

両角  

埼玉だの、東京行きましたよ。随分優秀な人たちがね、勿体ないですね。

所澤  

ほんとに。なんか、そこが群馬県がやっぱり政策が間違ってるような

んですね。

両角 

折角育ててよその県へ。

高橋 

そうそう。

両角  

やっぱり学生運動、その頃、熱燃やしたような人ね、授業にだって一

生懸命するんじゃないかな。

玉置 

そうそうそうそう。

両角  

私思いますよ。どうもすいません、ろくな話しなくて。またお出かけ

下さい。

所澤 

どうも、ありがとうございました。また。

註一 

前橋市教育史編さん委員会編『前橋市教育史』下巻、三五六、三六六頁

二 

前橋市教育史編さん委員会編、前掲、三六六頁

三  

戦後における群馬県教育史研究編さん委員会編『群馬県教育史戦後編』下巻、

群馬県教育委員会、一九六七年(一九七九年覆刻)一〇七三―一〇七四頁

四  

斎藤喜博「可能性に生きる」『斎藤喜博全集』第一二巻、一九七一年、三三三

頁。島小学校は、同校要覧に拠れば、昭和三十(一九五五)年三月一日より、

境町立島小学校となる。http://w

ww.isesaki-school.ed.jp/sakaishim

asyo/

二〇一

七年一〇月七日確認。但し「島村立」という語が公的に使用されていたかは筆

者らに確認できていない。同校は平成十七(二〇〇五)年一月一日に伊勢崎市

立境島小学校と改称し、平成二十八(二〇一六)年三月三十一日に閉校した。

五 

斎藤、前掲、三二六―三二七頁

六  

斎藤、前掲、二七八、二八九、二九四―二九七頁。両角氏が「群馬県教職員組

合機関誌」をイメージして話していたとすれば、『文化労働』のことである可能

性が高い。同誌は、例えば昭和三十三年一月号では島小教育を、昭和三十五年

四月号では「島小の卒業式」をかなりの頁数で取り上げている。但し、斎藤が「文

化部長」として活躍し、その名が職名とともに記載されていたのは、昭和

二十五年頃の号だったと考えられる。

七  『創立百二十周年記念誌』前橋市立敷島小学校、一九九三年、四頁。第二十代

校長、在任期間は昭和三十七(一九六二)年四月から昭和三十九(一九六四)

年三月。当時、両角氏は同校に勤務していた。また、前橋市立敷島小学校・同

校開校百周年記念事業協賛会編『敷島小学校百年史』(前橋市立敷島小学校、

一九七三年)冒頭の「歴代学校長」の四ページ目に同氏の顔写真が掲載されて

いる。なお、同書二五七ページには「﹇昭和三十七年﹈十月、二年五組の担任で

あった両角千鶴子教諭の﹇道徳指導の﹈授業を観察して全校教師で検討し、そ

の後各学年段階の実践的研究が進められた。」とある。

八 

註七中の道徳教育実践の経験が評価されてのことである可能性がある。

注一 『わかみや』6〔開校20周年〕(昭和三十一年一月一日、前橋市立若宮小学校)

四二頁によれば、両角氏の若宮小学校在職は昭和十五年三月から昭和二〇年六

月まで、及び昭和二十五年三月からとなっている。解説の註一に前掲した同氏

ほかの三二八頁では同氏の口述に従って昭和十九年としたが、本稿の解説では

昭和二十年に改めた。同氏は『わかみや』8(昭和三十三年三月二十日)一一九

頁の職員住所録では一年二組の担任だが、『わかみや』9(昭和三十四(一九五九)

年三月二十五日)には名がなく、前年度末に転出したことがわかる。

注二 

オーラルヒストリーの註七にある『敷島小学校百二十年史』では、昭和

三十七年十月に両角氏が同校二年五組の担任をしていた記述があるが、『わかみ

や』〔昭和37年度卒業記念号〕(昭和三十八年三月)四四頁の「職員住所録」に

も同氏の名がある。後者には旧担任として掲載されたとみられる。

(しょざわ 

じゅん・もろずみ 

ちづこ・たまき 

とよみ・

たかはし 

ひろし・あかばね 

あきら・さとう 

ひさえ)

【受理日 

二〇一七年一〇月二五日】