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奈良学ナイトレッスン 第5期 大和の古墳が語る、私たちの知らない古代 ~第2夜 「神話から読み説く大和の古墳」~ 日時:平成 24 年 8 月 29 日(水) 19:00~20:30 会場:奈良まほろば館 2 階 講師:来村多加史(阪南大学教授) 内容: 1.3世紀は古墳時代? 2.古墳の分布 3.大事にされていた陵 4.文久の修陵事業で守られてきた古墳たち 5.佐紀盾列古墳群について 6.殉死はやめましょう──垂仁天皇の伝説 7.埴輪の始まり──人の代わりに・・・ 8.本当の称徳天皇陵はどこにあるのか 9.田道間守の伝説 1.3世紀は古墳時代? 前回の卑弥呼の話に引き続き、古墳時代の前半の話をしたいと思います。古墳時代はかつて、石室の形 によって古墳時代前期・後期という形で二つに分けられていました。古墳の頂上に穴を掘り石室を組んで 棺桶を入れる形が前期の竪穴式石室で、やがて横穴式石室が大陸から伝わってきて、その石室の形をも って後期と大まかに分けていました。ところが、それではあまりに大雑把ではないかと、どんどん小分けをし ていくようになり、人によっては 10 期、8期という細かい区分を唱える時期もありましたが、現在では、前期・ 中期・後期という3時代区分で落ち着いています。それぞれの絶対年代につきましては、考古学者によって 相違がありますが、前期が4世紀、中期が5世紀、後期が6世紀と、大まかに捉えてくださってけっこうです。 卑弥呼の時代である3世紀には、纏向型前方後円墳の勝山、石塚、矢塚、東田大塚といった古墳があり、 これらは科学的測定法からも紀元200年くらいだと推算されています。この時期は従来ならば弥生時代の 後期に入りますが、前方後円墳の出現をもって古墳時代の始まりとするならば、紀元200年は古墳時代の 最初期となります。それならば、従来は弥生時代であった3世紀を古墳時代に含めないといけないのです が、4世紀が古墳時代の前期だということで落ち着いていますので、いまさら前期に 3 世紀を加えるわけに はいきません。よって、苦し紛れに 3 世紀を古墳時代の早期とする意見も出ています。実はこれと同様のこ とが縄文時代の時期区分についても起こっていたのです。縄文時代も最初は前期・中期・後期の 3 期に分 けられていたのですが、研究が進むにつれて時期が増え、今では草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の 6期に区分されています。3世紀を古墳時代の早期とすることも、将来的には定着するかも知れません。今 後にご注目ください。今回お話するのは、前期から中期にかけての古墳が主です。

奈良学ナイトレッスン 第5期 大和の古墳が語る、私たちの知らな … › event › mini › _pdf › 120829.pdf · 太子 町の太子は、言うまでもなく聖徳太子の太子です。上之太子(かみのたいし)と呼ばれる叡福寺(えいふく

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  • 奈良学ナイトレッスン 第5期 大和の古墳が語る、私たちの知らない古代

    ~第2夜 「神話から読み説く大和の古墳」~

    日時:平成 24 年 8 月 29 日(水) 19:00~20:30

    会場:奈良まほろば館 2 階

    講師:来村多加史(阪南大学教授)

    内容:

    1.3世紀は古墳時代? 2.古墳の分布

    3.大事にされていた陵 4.文久の修陵事業で守られてきた古墳たち

    5.佐紀盾列古墳群について 6.殉死はやめましょう──垂仁天皇の伝説

    7.埴輪の始まり──人の代わりに・・・ 8.本当の称徳天皇陵はどこにあるのか

    9.田道間守の伝説

    1.3世紀は古墳時代?

    前回の卑弥呼の話に引き続き、古墳時代の前半の話をしたいと思います。古墳時代はかつて、石室の形

    によって古墳時代前期・後期という形で二つに分けられていました。古墳の頂上に穴を掘り石室を組んで

    棺桶を入れる形が前期の竪穴式石室で、やがて横穴式石室が大陸から伝わってきて、その石室の形をも

    って後期と大まかに分けていました。ところが、それではあまりに大雑把ではないかと、どんどん小分けをし

    ていくようになり、人によっては 10 期、8期という細かい区分を唱える時期もありましたが、現在では、前期・

    中期・後期という3時代区分で落ち着いています。それぞれの絶対年代につきましては、考古学者によって

    相違がありますが、前期が4世紀、中期が5世紀、後期が6世紀と、大まかに捉えてくださってけっこうです。

    卑弥呼の時代である3世紀には、纏向型前方後円墳の勝山、石塚、矢塚、東田大塚といった古墳があり、

    これらは科学的測定法からも紀元200年くらいだと推算されています。この時期は従来ならば弥生時代の

    後期に入りますが、前方後円墳の出現をもって古墳時代の始まりとするならば、紀元200年は古墳時代の

    最初期となります。それならば、従来は弥生時代であった3世紀を古墳時代に含めないといけないのです

    が、4世紀が古墳時代の前期だということで落ち着いていますので、いまさら前期に 3 世紀を加えるわけに

    はいきません。よって、苦し紛れに 3 世紀を古墳時代の早期とする意見も出ています。実はこれと同様のこ

    とが縄文時代の時期区分についても起こっていたのです。縄文時代も最初は前期・中期・後期の 3 期に分

    けられていたのですが、研究が進むにつれて時期が増え、今では草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の

    6期に区分されています。3世紀を古墳時代の早期とすることも、将来的には定着するかも知れません。今

    後にご注目ください。今回お話するのは、前期から中期にかけての古墳が主です。

  • 2.古墳の分布

    (資料「歴代天皇陵の分布」「歴代天皇と陵所」参照)所在地に網掛けしてあるのは奈良県に陵墓があるも

    ので、網のかかっていない白い部分は奈良県以外の陵です。こうしてみると、天皇陵は奈良県にあるもの

    が多いですね。途中、白く抜けている仲哀・応神・仁徳・履中・反正・允恭天皇につきましては、和泉国の百

    舌鳥(もず)古墳群や河内国の古市(ふるいち)古墳群に陵があります。この時期になって大阪平野の方面

    に天皇陵が移る理由につきましては、大和から河内に勢力が動いたとする見解や、大和の勢力に対抗す

    る勢力が河内にできたとする見解が示されていますが、論争はいまだに決着を見ておりません。

    その後、天皇陵は再び大和に戻り、古墳時代後期には奈良方面に陵墓が築かれます。とはいえ、特殊な

    ケースもあります。磯長谷(しながだに)と呼ばれる地区で、行政で言えば太子町(たいしちょう)です。太子

    町の太子は、言うまでもなく聖徳太子の太子です。上之太子(かみのたいし)と呼ばれる叡福寺(えいふく

    じ)の奥に聖徳太子の墓があります。それが聖徳太子の墓ではないという見解もありますが、私は信じてお

    ります。その聖徳太子墓を中心に敏達陵・用明陵・推古陵、そして難波宮で寂しく亡くなられました孝徳天

    皇の陵があり、五つの陵墓は梅鉢御陵と総称されています。太子町は大阪府南河内郡にありますが、奈良

    県の葛城市と境を接し、二上山を越えると、すぐに奈良盆地にいたります。仮に太子町の陵墓を大和側に

    入れるのならば、古墳時代の後半には、ほとんどの古墳が大和に戻って来ていることになります。古墳時代

    中期に一時、天皇陵が河内に移動したものの、全体としては大和に天皇陵が築かれたことが、資料の地図

    を見てもよく分かります。

    それでは資料の表と地図を見比べながら話をしましょう。陵墓は奈良盆地の南と北に固まっています。大

    阪方面には先ほどお話しした2つの古墳群があります。ひとつは古市古墳群。そして、かつては大阪湾に

    面していた百舌鳥古墳群。地図の上のほうにも陵墓があります。これらは特殊な事情がある天皇で、例え

    ば伏見の桓武天皇陵。桓武天皇は平安京に遷都されましたので、都の近くに天皇陵を造るという法則から、

    おのずと北に離れました。また、京都の山科盆地に天智天皇陵があります。これも天智天皇が近江京、い

    わゆる大津の宮に遷都されたので、こちらに陵があるのです。また、壬申の乱でお亡くなりになった天智天

    皇の息子の大友皇子の墓が大津市内の市役所のすぐ近くにあります。弘文天皇陵ですね。また、宮内庁

    が継体天皇陵に治定している茨木市の茶臼山古墳があります。ただ、二重の濠が巡り、土手の上に立派な

    埴輪が並べられていた高槻市の今城塚古墳の方が、本当の継体天皇陵ではないかと言われています。

    このような特例はありますが、たいがいの陵墓は地図の下方にかたまり、あるいは奈良盆地の周辺部に分

    布しています。盆地の周辺部に築かれたのは2つ理由があり、ひとつは盆地の真ん中あたりは耕作地なの

    で、古墳を造ると田んぼを壊してしまうため。もうひとつは、造りやすさです。低い所に墳丘を人工的に盛り

    上げるのは大変ですし、崩れやすいのです。一方、山から下る尾根を切り離し、削って加工すれば、地盤

    が固いため、非常にしっかりとした前方後円墳ができます。このような造営法を「丘尾切断型」といいます。

    奈良県の桜井市の茶臼山古墳などは、石室の下が岩盤になっていて、ほとんど盛り土をしていません。わ

    かりやすい例です。大和の古墳の場合は、盆地周辺部の尾根を削って造ったものが多く、そのためおのず

    と古墳からの見晴らしがよくなります。景色を意識しながら古墳群をめぐっていただくと、非常にいい場所に

    古墳が造られていることが分かります。

  • 3.大事にされていた陵

    資料の表(「歴代天皇と陵所」)にある西暦は、皇紀を換算したものです。『日本書紀』などに記される天皇

    の在位期間を仮に信じて、単純計算した値です。ただ、そうすれば、神武天皇は紀元前660年ですから、

    縄文時代の人物になってしまいます。寿命が140年あまりにもなる天皇も出てきます。神武天皇の即位を

    古く設定したものの、天皇の数が少ないため、ひとりの天皇の寿命を延ばすしかなかったのでしょう。『日本

    書紀』による暦年代は実際の在位期間とかなり差があるのです。また、古い世代の実在性そのものを疑う学

    者も少なくありません。とはいえ、歴史学者も考古学者も、継体天皇から後は『日本書紀』の年代観を使っ

    ているようです。継体天皇は第26代で、在位期間は西暦507年から531年までです。これは古墳の年代を

    語る一つの指標となっています。

    表にある「陵号」とは、陵(みささぎ)の名前です。非常に長ったらしいものもありますが、これが陵の正式な

    呼び方です。陵号を見ると、なんとなく陵の立地と一致します。「丘の上(え)の陵」というと、丘の上(うえ)に

    陵があるのです。そのため、陵号はしっかりと読む必要があります。このような名前は927年頃に成立した

    『延喜式』の「諸陵寮」という項目に見えます。『延喜式』は醍醐天皇の御代である延喜年間に編まれた律令

    のマニュアルです。「諸陵寮」は陵を管理する部署です。管理すべき陵の面積や陵戸(陵を守る農家)の数

    などが記されています。陵戸が多いほど、その陵が大事にされていたことがわかります。

    ここで面白いのは、壬申の乱以降の天皇陵です。大海人皇子が勝って天武天皇になり、奈良時代は天武

    系の天皇が続きますが、光仁天皇が即位して、天智系に戻ります。『延喜式』を見ると、天武系の天皇陵は

    面積も小さく、陵戸も少ないことがわかります。光仁・桓武と続くわけですから、平安時代の天皇が祖と仰ぐ

    天皇は天智天皇であるためです。だから天智系の陵は面積も広く、陵戸も多いのです。明日香村には天

    武・持統天皇陵をはじめ、天武系の皇子たちの墓があります。御陵の拝所には必ず小さな管理棟がありま

    す。その大きさを見ると、明日香村の御陵は管理棟が極端に小さい。一方、京都の天皇陵は大きく、天智

    天皇の管理棟に至っては、かなりしっかりとした建物です。天智系の天皇陵を大事にする伝統は今も続い

    ているのです。

    4.文久の修陵事業で守られてきた古墳たち

    江戸時代の文久2年(1862)、いわゆる幕末の時期に、山陵奉行という機関が置かれました。当時、尊皇

    攘夷運動がわき起こっていたので、幕府自らが天皇を尊んでいることを示すために作られた役所です。天

    皇の祖先の陵を、幕府が支援して守っています、というポーズです。とはいえ、実際に山陵奉行を中心に

    陵墓の修理が行われました。崩れて、土の山になっていた天皇陵が、山陵奉行の指導のもと、丁寧に修復

    されたのです。そのときに、どの古墳がどの天皇陵だということが決められました。『延喜式』には天皇陵の

    名前は書いていますが、鎌倉時代から陵墓の荒廃が進み、所在のわからない天皇陵が数多くありました。

    それを当時の国学者たちが一所懸命に検討して、ひとつひとつ天皇陵を治定していったのです。このよう

    な治定と復旧の事業は「文久年間の修陵」と呼ばれます。

    この修陵事業は天皇陵の姿を大きく変えました。現在、天皇陵の上に森が生い茂っているのは、実はこの

    時の植樹によるものです。それまでは、ほとんどはげ山のような状態であった墳丘が深い森の山になったの

    です。天皇陵に神社のような神秘性をもたせるための植樹であったかも知れません。しかし、植樹は墳丘を

  • 傷めます。木は深く広く根を張りますので、墳丘の上に並べられた埴輪などは、根によって壊されてゆきま

    す。その木が台風などで倒れると、古墳の表面が大きくえぐられます。かといって、木を全部切ってしまうと、

    雨による土砂の流出が始まります。このあたりの匙加減が難しいのです。

    問題はあるものの、文久年間の修陵事業は天皇陵の保全に役立ったことは明らかです。そのときに定めき

    れなかった陵墓も明治時代に全て定められました。現在、陵墓は 1 都 2 府 30 県にまたがって現存します。

    だいたい460カ所の陵墓が宮内庁の管理下で守られています。もし文久の修陵事業が行われていなけれ

    ば、古墳はどんどん壊され、都市開発に呑まれて大半がなくなってしまったことでしょう。

    ただ、文久の修陵事業で古墳が過度の復原を受けたことは認識しておいて下さい。例えば、磯長谷(しな

    がだに)の推古天皇陵は、かなりいびつな土の山になっていましたが、修陵で立派な方墳に戻されました。

    そればかりか、陵を立派に見せるため、墳丘の築かれた丘まで削って形を整えています。古墳の周濠も本

    来の幅よりかなり広げられた例が多く見られます。今は満々と水を蓄え、池のように見える濠も、修陵以前の

    絵図を見ますと、窪み程度のものでした。幕府も事業費がふんだんにあるわけではありませんので、天皇陵

    周辺の村民をただ同然で雇い、その代償として周濠の水利権を与えました。そうとなれば貯水池は広い方

    がよいだろう、ということで、周濠が池のように広く改変されたのです。文久の修陵事業で様変わりした天皇

    陵が少なくありませんので、ちょっと割り引いて眺める必要があります。

    5.佐紀盾列古墳群について

    (資料「佐紀盾列古墳群」参照) さて、大王陵とされる大型古墳の数は、天皇の数を上回ります。これは明

    らかに天皇陵の規模だろうと思われる古墳も天皇陵に治定されていないものが多くあります。例えば、いま

    からお話する佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群にも、いくつかそういう古墳があります。大型古墳の数で考え

    ると、古代の天皇をもっと増やさないといけません。

    平城宮跡の北側は平城山(ならやま)丘陵です。日当たりのいい南斜面に古墳が築かれています。平城

    山丘陵から平城宮跡に向かって、指を広げたように数本の尾根が伸びていて、そういう尾根を使って古墳

    が造られています。典型的なのは佐紀三陵と呼ばれる日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)陵・成務天皇(せ

    いむてんのう)陵・称徳天皇陵の3基です。また、神功皇后陵も北から南に流れてくる丘の端を切り離して造

    られています。

    ここで前方後円墳の作り方を詳しく説明しましょう。まず尾根の端を横方向に掘削して切り離す。これを堀

    切(ほりきり)といいます。そうしておいて、切り離した丘尾で前方後円墳を造ります。古墳は段築といって、

    横から見ると段がついています。下から一段目、二段目、三段目と数えますが、二段目くらいまでは、丘を

    削り落とした自然の地層です。そうして、最後の一段は土を盛り上げて築くのです。前方後円墳の向きが不

    揃いになっていることに意味をもたせる人もいますが、古墳の向きは使った丘の向きで決まるのです。

    前方後円墳のあるところは丘になっていますので、逆に古墳と古墳の間は谷になります。例えば、日葉酢

    媛命の陵と、瓢箪山古墳の間は深い谷になっていて、今も堰き止められて池になっています。この池は何

    面かが南北につながり、最も南の池が復原された第一次大極殿の西側の池です。こうして見ると、第一次

    大極殿も尾根の先端に建てられていることがわかるでしょう。そして、第二次大極殿も尾根の端を使ってい

    ます。つまり、古墳も宮殿も丘を使っている点で共通します。

  • 古墳と宮殿のからみで面白い話があります。第二次大極殿の北には平城(へいぜい)天皇の楊梅陵(やま

    もものみささぎ)があります。平城天皇は嵯峨天皇の兄で、弟と皇位をめぐって争いました。いわゆる薬子

    (くすこ)の変です。その平城天皇陵が奈良で亡くなり、葬られたのは、平安時代の最初です。楊梅陵の現

    状は円墳ですが、それは平城宮を造営するときに、市庭(いちにわ)古墳という前方後円墳の前方部を削

    った結果、円墳となったものです。平安時代の天皇陵が前方後円墳であるはずはありません。つまり、本当

    の平城天皇は平城山丘陵のどこかに眠っておられるはずです。

    市庭古墳の南には神明野(しめの)古墳という小型の前方後円墳がありました。これは平城宮の造営によ

    って完全に削平されてしまいましたが、周濠によって存在が確認されました。実は第二次大極殿は削平し

    た神明野古墳の直上に建てられているのです。古墳の上に宮殿を造っているわけです。丘の端を使うとい

    う共通点がそのような重複を生み出したのでしょう。

    佐紀三陵から南西に少し離れたところには垂仁天皇陵があります。ここは西の京と呼ばれます。唐招提寺

    とか薬師寺のある方面です。これを佐紀盾列古墳群に含めていいのか、という声もありますが、今のところ

    は含めて話をする方が多いようです。

    6.殉死はやめましょう──垂仁天皇の伝説

    古墳の築造についての話に関連して、埴輪の起源に触れた『日本書紀』の記載を読んでいきましょう。

    二十八年の冬十月(かんなづき)の丙寅(ひのえとら)の朔(つひたち)庚午(かのえうまのひ)に、天皇(す

    めらみこと)の母弟(いろど)倭彦命(やまとひこのみこと)薨(かむさ)りましぬ。

    「丙寅朔庚午」は、干支を数えると、10月5日になります。これは「垂仁紀」ですから、「倭彦命」は垂仁天皇

    の弟です。天皇の弟が亡くなったという記事です。天皇が亡くなると「崩」という字を使うのですが、その下の

    身分では「薨」を使います。さらに身分が低い場合は「死」あるいは「卒」を使います。同じように亡くなっても、

    表現が違うのです。これは中国の伝統をそのまま受け継いだ表現です。

    十一月(しもつき)の丙申(ひのえさる)の朔(つひたち)丁酉(ひのととりのひ)に、倭彦命を身狭(むさ)の

    桃花鳥坂(つきさか)に葬(はぶ)りまつる。是(ここ)に、近習者(ちかくつかえまつりしひと)を集(つど)へて、

    悉(ことごとく)に生けながらにして陵の域(めぐり)に埋(うず)みて立つ。

    11月2日に倭彦命は葬られました。「身狭」というのは、橿原神宮前駅の南西一帯の地域を指します。そこ

    にある宣化天皇陵は南から続く尾根の端を使い、また、その尾根筋を南に上ったところに倭彦命の墓とさ

    れる古墳があります。航空写真では森が前方後円墳のように見えますが、実は前方部は平坦で、後円部は

    巨大な方墳なのです。皇族の墓は前方後円墳でなければいけないという発想で、前方後円形に設定した

    のです。

    「是に、近習者集へて」とは、倭彦命に使えていた家来の人たちを集めたということです。

    「悉くに生けながらにして陵の域に埋みて立つ」。いわゆる下半身を埋めるようにして人柱を立てたというこ

  • とです。「域」というのは領域で、墓の周りの境界に並べということです。

    日を數(へ)て死なずして、

    数日経っても死ななかった。

    晝(ひる)に夜に泣(いさ)ち吟(のどよ)ふ。

    彼らは昼も夜も泣き叫びました。覚悟はしていたものの、やはり人柱に立てられると、苦痛に耐えかねて泣

    き叫ぶ。「助けてくれ」と叫んだのでしょうか。

    遂に死(まか)りて爛(く)ち●(くさ:「自」の下に「死」)りぬ。犬烏聚(あつま)り噉(は)む。

    天皇(すめらみこと)、此の泣(いさ)ち吟(のどよ)ふ聲を聞こしめして、心(みこころ)に悲傷(いたきわざ)な

    りと有(おもほ)す。

    垂仁天皇は、悲しいなと思われた。

    群卿(まへつきみたち)に詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「夫(そ)れ生(いけるとき)に愛(めぐ)みし

    所を以て、亡者(しぬるひと)に殉(したが)はしむるは、是甚(はなは)だ傷(いたきわざ)なり。其(そ)れ古

    (いにしへ)の風(のり)と雖(いへど)も良からずは何ぞ從はむ。」

    昔からの風習といっても、よくないことは、どうして従わなければならないのか。いや、従わなくてもいいだろ

    う、という反語です。

    「今より以後(のち)、議(はか)りて殉(したが)はしむることを止めよ」とのたまふ。

    生前に近く仕えていたとはいっても、冥土まで供をさせるのはいかがなものか、ということを言っているわけ

    です。正しい理屈です。

    これを作り話ではないかと考える方もいますが、中国の歴史書である『三国志』の倭人の条(俗に『魏志倭

    人伝』)に、日本でも卑弥呼の時代に殉死の風習があったことが記されています。その中国は、殷・周の時

    代にたくさんの人を殉死させていた。殷の時代には、奴隷たちばかりか、王の側室たちや妃たちも殺されて、

    王の棺桶の横に葬られました。そういうものが実際の発掘調査で出てきています。それから後も、殉死の風

    習はなかなか消えなかったのですが、漢代あたりから、人間の形をした俑(よう)を人の代わりに用いるよう

    になります。秦の始皇帝の兵馬俑(へいばよう)が有名ですね。暴君のイメージのある始皇帝ですが、殉死

    はさせていません。(殉葬といわれているものはあるのですが、それは、始皇帝が亡くなった後に殺された

    皇子たちの墓です。)

  • その殉死の風習が、垂仁天皇の時代に残っていたと、『日本書紀』は言っています。古墳時代は中国の南

    北朝時代に当たり、中国では殉葬の風習はとうの昔に終わっていました。日本でその殉葬をやめたのが垂

    仁天皇である、というのです。これまでの悲惨な慣習がなくなったときに、人々は時代の節目を感じ、そのと

    きの強い印象がこのような伝説を生んだのでしょう。

    7.埴輪の始まり──人の代わりに・・・

    同じく『日本書紀』垂仁紀32年に、次のような記載があります。

    三十二年の秋七月(ふみづき)の甲戌(きのえいぬ)の朔(ついたち)己卯(つちのとうのひ)に、皇后(きさ

    き)日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)薨(かむさ)りましぬ。

    7月6日に、垂仁天皇の皇后である日葉酢媛命が亡くなりました。

    臨葬(はぶりまつ)らむとすること日有り。

    いわゆる殯(もがり)をしていたということです。亡くなってすぐに葬るのではなく、葬るまでの間に何日か遺

    体を建物に安置するのです。これを殯といいます。

    天皇、群卿(まえつきみたち)に詔して曰はく、「死(しにひと)に從ふ道、前(さき)に可(よ)からずといふこと

    を知れり。」

    先ほど倭彦命の埋葬のときに、垂仁天皇は人々を殉死させるなと命じましたね。そのことに触れているわけ

    です。

    「今此の行(たび)の葬(もがり)に、奈之爲何(いかにせ)む」とのたまふ。

    「先に私は殉死の禁止を宣言しました。今回はどうしますか」と垂仁天皇は皆に聞いているわけです。殉死

    をさせないことは決めたけれど、今までずっと続いてきた風習だから、それに代わる何かをしなければいけ

    ない。その点の解決策を臣下の者たちに聞いているのです。

    是に、野見宿禰(のみのすくね)、進みて曰(もう)さく、「夫れ君主(きみ)の陵墓(みささぎ)に、生人(いき

    たるひと)を埋(うず)み立つるは、是(これ)不良(さがな)し。豈(あに)後葉(のちのよ)に傳(つた)ふること

    得む。願はくは今便事(たよりなること)を議(はか)りて奏(まう)さむ」とまうす。

    野見宿禰は当麻蹴速(たいまのけはや)と相撲をして勝った人ですね。「殉死のようなよくない風習は後世

    に伝えることはできません。私に思い当たることがありますから、しばし待ってください」というようなことを、野

  • 見宿禰は垂仁天皇に申し上げたわけです。

    則ち使者(つかひ)を遣(つかは)して、出雲國の土部(はじべ)壹佰人(ひとももひと)を喚(め)し上げて、

    自ら土部等(たち)を領(つか)ひて、埴(はにつち)を取りて、人馬(ひとうま)及び種種(くさぐさ)の物の形を

    造(つ)作(く)りて、天皇に獻(たてまつり)りて曰さく、「今より以後、此の土物を以て生人に更易(か)へて、

    陵墓に樹(た)てて、後葉(のち)の法則とせむ」とまうす。

    使者を出雲国に遣わし、焼き物を作る技術者である土部(はじ)百人を召し上げます。普通の土器を焼く

    のでしたら、集落の近くにある粘土で十分熱に耐えますが、窯で焼くとなると、埴という特別な粘土が必要

    だったということです。

    「人馬及び種種の物の形」というのは「形象埴輪」のことです。埴輪には大きく二種類に分かれます。ずど

    んとした形の円筒埴輪と、いろいろな形を模した形象埴輪。ここでいう埴輪とは形象埴輪のことです。円筒

    埴輪はもっと以前の弥生時代からあります。ちなみに形象埴輪にも円筒埴輪がついています。武人などい

    ろいろな形を作りますが、それだけでは立たないので、下に円筒埴輪をつけて台にしているのです。野見

    宿禰は形象埴輪を焼いて垂仁天皇に見せ、「これをもって、今までの殉死の人に換えてください」と具体的

    に示しました。

    天皇、是に大きに喜びたまひて、

    垂仁天皇は「ああ、いいアイディアだなあ」と喜び、こう言いました。

    野見宿禰に詔して曰はく、「汝が便(たよりなる)議(はかりごと)、寔(まこと)に朕(わ)が心に洽(かな)へり」

    とのたまふ。

    「私が考えていた通りだ」と。

    則ち其の土物(はに)を、始めて日葉酢媛命の墓に立つ。

    日葉酢媛命陵において、形象埴輪を立てる習慣が始まったということです。

    仍(よ)りて、是の土物を號(なづ)けて埴輪(はにわ)と謂(い)ふ。仍りて令(のりごと)を下して曰はく、「今

    より以後、陵墓に必ず是の土物を樹(た)てて、人をな傷(やぶ)りそ」とのたまふ。

    埴輪を身代わりとして、今後は人を傷つけてはいけない、殺してはいけないということです。

    天皇、厚く野見宿禰の功(いつおしきこと)を賞(ほ)めたまひて、亦(また)鍛地(かたしところ)を賜ふ。

  • 「鍛地」、つまり陶土が豊富な所を領地として褒美にしたということです。古市古墳群には、土師ノ里という

    駅があります。そのあたりは土師部(はじべ)の人々が住んでいた場所で、埴輪を焼いた窯も実際にたくさ

    ん出てきています。近くで良質の粘土も採れたのでしょう。

    佐紀盾列古墳群にも土師部の住んでいた場所があります。平城宮跡の北東の航空自衛隊の基地から関

    西本線を東側に越えたすぐの丘に、円筒埴輪を棺桶として埋めた墓がいくつか見つかっています。土師部

    たちの棟梁の墓ではないかと言われています。円筒埴輪棺といわれ、埴輪をずっと焼き続けてきた自分自

    身も埴輪の中に入って冥界へ旅立ちたいという思いがあったのでしょうね。

    即ち土部の職(つかさ)に任(ま)けたまふ。因(よ)りて本姓(もとのかばね)を改めて、土部臣(はじのおみ)

    と謂ふ。是、土部連(はじべのむらじ)等(たち)、天皇の喪葬(みはぶり)を主(つかさど)る縁(ことのもと)な

    り。所謂(いはゆ)る野見宿禰は、是(これ)土部連等が始祖(はじめのおや)なり。

    それからのち、土師部は埴輪を焼くだけではなくて、天皇家の葬儀を司るようになりました。野見宿禰を始

    祖とする土師部は、この埴輪を焼いたことをきっかけに、天皇家の葬祭を司る氏族になったという話です。

    以上、『日本書紀』の「埴輪の始まり」に関する記事を読んできましたが、この話は二段に分かれています。

    まずは倭彦命のとんでもない話があり、天皇がやさしい心をもって詔を出された。その結果、野見宿禰が形

    象埴輪を提案し、殉死の人たちの代わりをさせたということですね。こういった一連の流れは、ある程度創作

    も入っていると考えられますが、なんらかの史実を反映しているに違いありません。以上が『日本書紀』から

    見た日本の埴輪の起源です。

    お隣の中国においても、墓に俑(人形)を入れる葬俗が、同じような理屈で始まりました。元々は実際の人

    を墓に殉葬し、生きた馬も殺して入れていました。それが人や馬の人形になるわけです。こういう発想は日

    本も中国も変わらない。もしかすると、中国の発想を頂戴したのかも知れませんね。

    日葉酢媛命の陵は佐紀盾列古墳群にあります。この伝説を覚えていただければ、このあたりを巡るとき、

    お友達に「埴輪の起源ってこの墓にあるのだよ」と言えます。ただ、考古学的に言えば、埴輪の起源が日葉

    酢媛命の陵にあるとは言えません。これよりも古い墓において、すでに埴輪が立てられており、形象埴輪も

    出ているためです。たとえば、三輪山の麓、山の辺の道近くにある茅原大墓(ちはらおおばか)古墳から人

    物埴輪が出土しました。人の形をしっかり作っていて、かかしみたいな笠をかぶっていました。今のところ大

    和における最も古い形象埴輪の設置例です。

    かつて人物埴輪は、関東で多く出土し、関西ではほとんど発見されていませんでした。「関西では人物埴

    輪が作られなかった」などという説もありました。ところが、最近では近畿でも人物埴輪の出土例が増えてい

    ます。製作の時代から言えば、関西のほうが関東よりも古い時代の古墳に形象埴輪が立てられていますの

    で、今では逆にその起源が関西にあるのだろう、という説に変わってきております。考古学では新たな発見

    があるたびごとに説を見直す必要があるのです。

  • 8.本当の称徳天皇陵はどこにあるのか

    宮内庁は大正年間に精密な陵墓の測量図を作りました(資料「陵墓地図」参照)。資料の図はかなり縮め

    たものですが、墳丘の形がよく分かります。まず地形図を見て、「段築」を確認してください。古墳を造るとき

    に、メリハリのある段をつける。これが崩れて、なだらかになっているのですが、元々の斜面とテラスの面の

    違いは、今でも歩くとすぐ分かります。それが地形図からも読み取れます。後円部の頂に黒い円形があるの

    が日葉酢媛命の陵ですが、測量図をよく見ると、等高線が密になっているところと広くなっているところがあ

    ります。これによって段築の斜面とテラスの違いが分かります。この墳丘は三段に築成されています。最下

    段はやや低く見えますが、二段目からは高く盛り上げられています。後円部の頂に見える黒い部分は、石

    室が大正年間に盗掘を受けたあと、宮内庁が保護のために石を積み上げて築いた円錐台です。

    日葉酢媛命陵の西側に接しているのが、成務天皇陵です。日葉酢媛命の陵が丘の中心を捉えているた

    め、先に造られたことがわかります。最初に造るなら、尾根筋を使うのが当然でしょう。丘が狭いため、成務

    天皇陵が身を寄せている印象です。結果的に成務天皇陵は丘の側面に築くことになりましたので、墳丘を

    めぐる濠は東と西に分けられ、水面にかなりの高低差がつけられました。その境となるよう、拝所と後円部の

    北側が陸続きになっていることがわかりますか。こういう土手を「渡り土堤(土手とも)」と言います。山裾の尾

    根を利用した大和の古墳には多く採用された工法で、周濠の水面を段々畑のように分ける方法です。土地

    が傾いているため、一枚の水面を造ることはできず、何カ所かに土手を挟んで水面を分けるのです。ただ、

    土手は周濠にかけた土橋のようなものですので、外側から歩いて墳丘へ侵入できます。水を張っても防犯

    の役目をなさないのです。そもそも周濠は、生者と死者の世界を分けるために設けられた精神的な境でし

    て、防犯や防衛のための施設ではないのです。

    日葉酢媛命陵においても、前方部の両側に渡り土手があります。土手の北側の水面と南側の水面は、か

    なりの高低差があります。土地が北から南へ傾いているのです。さて、成務天皇陵の南に隣接するやや小

    さな前方後円墳に注目して下さい。これは宮内庁によって称徳天皇陵に治定されています。ご存知のよう

    に、称徳天皇は聖武天皇の娘、孝謙女帝ですね。前方後円墳は 6 世紀に終焉を迎えていますので、奈良

    時代の天皇のものであるはずがありません。宮内庁の治定には疑問符がつきます。では、本当の称徳天皇

    陵はどこにあるのでしょうか。本当の場所を見つけもしないで、今の治定にクレームをつけるのはよくありま

    せん。そこで、私は「ここだ」というところを見つけました。叡尊の巨大な五輪塔がある体性院(たいしょうい

    ん)をご存知でしょうか。西大寺の奥の院です。この寺の西方、谷を挟んだ丘の上に龍王神社という神社が

    あります。そこに称徳天皇が葬られたことが風水の観点からわかるのですが、その話はまたの機会ということ

    で。

    佐紀三陵の測量図に戻って、日葉酢媛命陵の周濠を見てみますと、西側に渡り土手のすぐ北に小さな長

    方形の島が見えます。実は馬見古墳群の巣山古墳や古市古墳群の津堂城山(つどうしろやま)古墳では、

    周濠に人工の島が造られていました。そして、島の上には水鳥の埴輪を並べていました。古墳の周壕その

    ものを邸宅の苑池(えんち)に喩えているわけです。古墳を造る際に、そういう遊び心のあったことが近年の

    発掘によってわかってきたのです。もしかすると、日葉酢媛命陵の島もそうかも知れません。

  • 9.田道間守の伝説

    垂仁天皇陵の周濠にもひとつの丸い島が浮かんでいます。これは田道間守(たじまもり)の墓とされてきま

    した。その由来が『日本書紀』「垂仁紀」に書かれています。

    九十年の春二月(きさらぎ)の庚子(かのえね)の朔(ついたち)に、天皇(すめらみこと)、田道間守(たぢ

    まもり)に命(みことおほ)せて、常世國(とこよのくに)に遣(つかは)して、非時(ときじく)の香菓(かくのみ)

    を求めしむ。

    「常世の国」とは、死なない国ということです。「時じくの香菓」とは、時を選ばない果物、いつでも木に成っ

    ている果物ということです。田道間守はそれを探してくるよう、垂仁天皇から命じられました。

    香菓、此(これ)をば箇倶能未(かくのみ)と云ふ。今橘(いまたちばな)と謂ふは是なり。

    と、『日本書紀』にも注釈がついています。今(奈良時代)の橘がそれにあたるというのです。そういえば、ミ

    カンはいつでも成っています。夏は緑色をしていますが、しっかりミカンの形をしています。

    九十九年の秋七月(ふみづき)の戊午(つちのえうま)の朔に、天皇、纏向宮(まきむくのみや)に崩(かむ

    あが)りましぬ。時に年(みとし)百四十歳(ももあまりよそじ)。

    140歳で亡くなりました。長すぎますね。

    冬十二月(しはす)の癸卯(みずのとう)の朔壬子(みずのえねのひ)に、菅原伏見陵(すがはらのふしみ

    のみささぎ)に葬(はぶ)りまつる。

    「菅原」というのは、喜光寺や菅原神社のあるところで、垂仁天皇陵の近くです。

    明年(くるつとし)の春三月(やよひ)の辛未(かのとひつじ)の朔壬午(みずのえうまのひ)に、田道間守、常

    世國より至(かえりいた)れり。

    垂仁天皇が亡くなったあとで、田道間守が帰ってきたわけですね。

    即(すなは)ち齎(もてまうでいた)る物は非時の香菓、

    八竿(やほこ)八縵(やかげ)なり。

    ミカンを串に刺したり、あるいは紐を通したりして連接させたものを田道間守は携えて帰国しました。

  • 田道間守、是(ここ)に、泣(いさ)ち悲嘆(なげ)きて曰(まう)さく、

    天皇が亡くなったことを知り、田道間守は大声で泣きました。

    「命(おほみこと)を天朝(みかど)に受(うけたまは)りて、遠くより絶域(はるかなるくに)に往(まか)る。萬

    里波(とほくなみ)を蹈(ほ)みて、遙(はるか)に弱水(よはのみず)を度(わた)る。」

    中国のシルクロードに弱水という川があります。西域の砂漠地帯を流れる川です。

    「是の常世國は、神仙(ひじり)の祕區(かくれたるくに)、俗(ただひと)の臻(いた)らむ所に非ず。」

    普通の人間には行けないと。中国の神話では、羽のある仙人だけが行ける設定になっています。

    「是を以(もつ)て、往來(ゆきかよ)ふ間に、自(おの)づからに十年(ととせ)に經(な)りぬ。」

    大変なところなので、探しているうちに 10 年を経てしまった。

    「豈(あに)期(おも)ひきや、獨(ひとり)峻(たか)き瀾(なみ)を凌ぎて、更(また)本土(もとのくに)に向(もう

    でこ)むといふことを。」

    どうしてひとり、また日本に帰ってこようなどと思うか。もう二度と帰ることができないものと覚悟していた、と

    いうことです。

    「然るに、聖帝(ひじりのみかど)の神靈(みたまのふゆ)に頼(よ)りて、僅(わづか)に還(かへ)り來(もうく)

    ること得たり。」

    とんでもなくたいへんな旅だったが、垂仁天皇の御霊(みたま)により、こうして私は無事日本に帰って来ら

    れました、ということです。

    「今天皇既(すで)に崩りましぬ。復命(かへりごとまう)すこと得ず。臣(やつかれ)生けりと雖(いふと)も、

    亦何の益(しるし)かあらむ」とまうす。

    それなのに、帰ってみると天皇はお亡くなりになり、ご報告も差し上げられない。かくなる上は、生きていて

    も何も役に立たないだろう。

    乃(すなは)ち天皇の陵に向(まい)りて、叫(おら)び哭(な)きて自ら死(まか)れり。

  • そして、田道間守は自ら命を絶ちました。殉死です。

    群臣(まへつきみたち)聞きて皆涙を流す。田道間守は、是(これ)三宅連(みやけのむらじ)の始祖(はじめ

    のおや)なり。

    ということで結んでおります。常世の国は中国を想定しています。それも今のシルクロード、西域の方です。

    中国国内でも、西域は神の住むところと思われていました。「崑崙山(こんろんさん)という西域の山に西王

    母という女神が住んでいて、不老不死の薬を飲みながら生きながらえている」という伝説が、漢の時代から

    あります。仙人に頼んで、西王母から不老不死の薬をもらってきてもらう、というストーリーが神仙思想の基

    本的な考え方です。このことを知っていた『日本書紀』の撰者が、伝説に色をつけて作り上げたものではな

    いかと思うのです。いずれにせよ、『日本書紀』が編まれた奈良時代に、神仙思想が日本に存在したことを

    示す記事です。神仙思想は、実はキトラ古墳や高松塚古墳の壁画にもしっかりと表現されているのですが、

    そのことも、またの機会にお話ししましょう。