20

辞書によれば、「サムライ」には、「武士」という …1 は じ め に 辞書によれば、「サムライ」には、「武士」というほかに、「気骨のある人」という意味がある。

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Page 1: 辞書によれば、「サムライ」には、「武士」という …1 は じ め に 辞書によれば、「サムライ」には、「武士」というほかに、「気骨のある人」という意味がある。
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1

      

は 

じ 

め 

 

辞書によれば、「サムライ」には、「武士」というほかに、「気骨のある人」という意味がある。

ワールドカップに出場した日本代表サッカーチームを「サムライ・ブルー」と称したのは、国

の名誉を背負う「気骨のある選手」で構成されたチームの意味が込められているごとくである。

 

本書の表題の「サムライ」も加賀藩の「武士」と「気骨のある人」の両者の意味を込めている。

 

昨年二〇一〇年は、万延元年(一八六〇)の日米修好通商条約批准のための遣米使節が派遣

されてから一五〇年を経たことを記念し、各地で様々なイベントが行われた。私の住む地域に

おいても、経済界や行政分野の様々な団体が訪米し、またそれに関する報告会やマスコミ報道

もなされた。しかし、私の知る限り、この視察団に加わり、ニューヨークの市民に深い感銘を

与えた加賀藩の「サムライ」である佐野鼎かなえについて紹介したものに出合うことはなかった。

 

このことは、佐野のみならず、幕末維新期に海を渡り西欧の文化を体感し、この地域はもと

より、わが国の近代化に多大な貢献をした関沢孝三郎、清水誠、伍ご

堂どうたく卓

爾じ

、嵯さ

が峨寿じ

ゅあん安

などをは

Page 3: 辞書によれば、「サムライ」には、「武士」という …1 は じ め に 辞書によれば、「サムライ」には、「武士」というほかに、「気骨のある人」という意味がある。

23

うなことに目を見張り、そこから日本の未来をどのように構築すべきと思ったかを考察できる

貴重な史料ではなかろうかというのが私の印象である。

 

この史料と出合ってからすでに一年九カ月ほど経過したが、その間、私にとっては難解な個

所の多い原文の解読、地理学や機械学の専門的な知識などについて、これも「あとがき」に記

させていただいた人たちの力をかり、ようやく活字にできる程度にまでこぎつけたのである。

しかし、私自身が理解できず、もう少し考証すべき点もあったが、それはそれで今後の課題と

して、早く公にした方が良いとの助言もあり、本書の付録とした。

 

本書に登場する黎明期にいち早く進取な姿勢で海を渡り、欧米の息吹に触れ、帰国後に活躍

した人々は、この地域のみならずわが国の近代化に間違いなく貢献した「サムライ」たちであ

る。この「サムライ」たちは、廃藩後に彼らに続いて海を渡り、世界的な学者となる桜井錠二

や高峰譲吉らをはじめとする多くのこの地域の有為な人々の目を海外に向けさせたといってよ

い。本書によって、このような「サムライ」たちの足跡が、少しでもこの地域の人々の間で認

知されるようになれば、紹介者として幸せである。

じめとするサムライたちの足跡が、この分野の研究者やこの地域の歴史に興味をお持ちの方々

は別として、多くの人々にとって大衆性を持つものになっていないことを示す事例である。

本書は、明治四年(一八七一)七月の廃藩置県によって、加賀藩(明治二年の版籍奉還後は金沢藩)

が消滅するまでに、藩内から海外留学ないし幕府や新政府の視察団に加わり、西欧の息吹に触

れた人たちを紹介したものである。

 

対象となる十九人の人々については、多くの研究者によって人物像が比較的明らかにされた

人もいれば、その足跡がよく把握できない人まで様々である。本書の内容は、これまでの研究

で明らかにされていない人の人物像や足跡の解明に多くの紙副を割いてはいない。「あとがき」

で示した多くの人々のこれまでの研究成果をもとに、自身の少しばかり研究めいたものの成果

を盛り込み書き綴つづ

った、俗に言う「鋏は

さみと糊の

」で仕上げた程度の人物紹介書といった類た

ぐいのもので

あり、研究書ではない。

 

一方、付録として紹介した「佛フランス

蘭西遊国日記」は、浅学の身、間違っているかもしれないが、

おそらくこれまで公になっていない史料であると思われる。この史料との出合いの経緯や内容

については、本書をお読みいただくこととして、この史料は、清水誠がマルセイユに到着し、

パリ工芸大学(パリ・エコール・サントラル)に入学するまでの間の空白の一部を埋める歴史的価

値を持つことのほか、この時期に西欧文化に触れた日本人が、どのような感慨をもち、どのよ

23

うなことに目を見張り、そこから日本の未来をどのように構築すべきと思ったかを考察できる

貴重な史料ではなかろうかというのが私の印象である。

 

この史料と出合ってからすでに一年九カ月ほど経過したが、その間、私にとっては難解な個

所の多い原文の解読、地理学や機械学の専門的な知識などについて、これも「あとがき」に記

させていただいた人たちの力をかり、ようやく活字にできる程度にまでこぎつけたのである。

しかし、私自身が理解できず、もう少し考証すべき点もあったが、それはそれで今後の課題と

して、早く公にした方が良いとの助言もあり、本書の付録とした。

 

本書に登場する黎明期にいち早く進取な姿勢で海を渡り、欧米の息吹に触れ、帰国後に活躍

した人々は、この地域のみならずわが国の近代化に間違いなく貢献した「サムライ」たちであ

る。この「サムライ」たちは、廃藩後に彼らに続いて海を渡り、世界的な学者となる桜井錠二

や高峰譲吉らをはじめとする多くのこの地域の有為な人々の目を海外に向けさせたといってよ

い。本書によって、このような「サムライ」たちの足跡が、少しでもこの地域の人々の間で認

知されるようになれば、紹介者として幸せである。

じめとするサムライたちの足跡が、この分野の研究者やこの地域の歴史に興味をお持ちの方々

は別として、多くの人々にとって大衆性を持つものになっていないことを示す事例である。

本書は、明治四年(一八七一)七月の廃藩置県によって、加賀藩(明治二年の版籍奉還後は金沢藩)

が消滅するまでに、藩内から海外留学ないし幕府や新政府の視察団に加わり、西欧の息吹に触

れた人たちを紹介したものである。

 

対象となる十九人の人々については、多くの研究者によって人物像が比較的明らかにされた

人もいれば、その足跡がよく把握できない人まで様々である。本書の内容は、これまでの研究

で明らかにされていない人の人物像や足跡の解明に多くの紙副を割いてはいない。「あとがき」

で示した多くの人々のこれまでの研究成果をもとに、自身の少しばかり研究めいたものの成果

を盛り込み書き綴つづ

った、俗に言う「鋏は

さみと糊の

」で仕上げた程度の人物紹介書といった類た

ぐいのもので

あり、研究書ではない。

 

一方、付録として紹介した「佛フランス

蘭西遊国日記」は、浅学の身、間違っているかもしれないが、

おそらくこれまで公になっていない史料であると思われる。この史料との出合いの経緯や内容

については、本書をお読みいただくこととして、この史料は、清水誠がマルセイユに到着し、

パリ工芸大学(パリ・エコール・サントラル)に入学するまでの間の空白の一部を埋める歴史的価

値を持つことのほか、この時期に西欧文化に触れた日本人が、どのような感慨をもち、どのよ

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45

     「海を渡ったサムライたち」もくじ 

 

はじめに

一 

万延の遣米使節に加わったサムライ

    

佐野  

鼎 ニューヨークタイムズ紙が激賞

地球一周の航海日記‥11 

予定外のホノルル寄港‥14 

日付変更線に強い関

心‥16 

はじめてオーロラを見る‥17 

サンフランシスコの咸臨丸‥18 

パナ

マ地峡を汽車で横断‥20 

珍しい生き物イグアナを見る‥22 

ホワイトハウス

での国書捧呈‥23 「宝蔵の類」スミソニアンを訪問‥25 

ニューヨークへ移動

‥27 「ウエルカム・ジャパニーズ」‥29 「唖学校」を視察‥30 

戦艦ナイア

ガラ号での帰還と一日の亡失‥32 

安政四年、加賀藩江戸詰に‥34 『奉使米行

航海日記』と手紙‥36 

人気者「ジャパニーズ・タメ」‥38 

文久の遣欧使節

にも参加‥39 

イギリス船、七尾に来航‥40 

ハリー・パークスと佐野の会

45

     「海を渡ったサムライたち」もくじ 

 

はじめに

一 

万延の遣米使節に加わったサムライ

    

佐野  

鼎 ニューヨークタイムズ紙が激賞

地球一周の航海日記‥11 

予定外のホノルル寄港‥14 

日付変更線に強い関

心‥16 

はじめてオーロラを見る‥17 

サンフランシスコの咸臨丸‥18 

パナ

マ地峡を汽車で横断‥20 

珍しい生き物イグアナを見る‥22 

ホワイトハウス

での国書捧呈‥23 「宝蔵の類」スミソニアンを訪問‥25 

ニューヨークへ移動

‥27 「ウエルカム・ジャパニーズ」‥29 「唖学校」を視察‥30 

戦艦ナイア

ガラ号での帰還と一日の亡失‥32 

安政四年、加賀藩江戸詰に‥34 『奉使米行

航海日記』と手紙‥36 

人気者「ジャパニーズ・タメ」‥38 

文久の遣欧使節

にも参加‥39 

イギリス船、七尾に来航‥40 

ハリー・パークスと佐野の会

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67

心‥76 

フランスの裁判制度に学ぶ‥77 

岡田家に「佛蘭西遊国日記」‥79 

桜井家と岡田家の姻戚関係‥80 

岡田雄次郎と軍艦発機丸‥82 

加賀藩士国内

留学の嚆矢‥83 

中央集権化の波に乗る‥85 

謎の多い帰国後の丈太郎‥87 

マッチ製造に取り組む切っ掛け‥89 

金星観測隊に参加‥90 「新燧社」を創

業‥91 

火災を機に機械化推進‥93 

相次ぎマッチ製造機械を開発‥94

四 

ロンドンまでの旅日記を残したサムライ

    

伍堂 

卓爾 スロイスなど御雇外国人の招聘に奔走

上海見物する侍姿の男‥96 

与えられた藩命‥97 

前田慶寧の「自立割拠」‥100

版籍奉還で藩財政崩壊‥101 

重臣、本多政均の関与?‥103 

長崎でフランス語

教師に‥104 「時の来るのを待て」‥106 

三人帰国、伍堂・吉井が欧州へ‥107 

手記「伍堂卓爾一世紀事」‥109 

シンガポールとパイナップル‥111 

インドネ

シアの医学生‥111 「五百羅漢堂内に入ったような心地」‥112 

紅海で酷暑にあ

う‥114 

甲板上での舞踏会は「極楽世界」‥116 

汽車のスピードに驚く‥117 

国際港アレクサンドリア‥119 「一新世界ニ生マレタル心地」‥120 

藩命遂行と

善後策‥122 

オランダ陸軍一等軍医スロイス‥123 

方針変更を諮りに帰国‥125

談‥42 

アーネスト・サトウとの秘密会談‥43 

共立学校を創設‥45

二 

海外留学生としてロンドンに学んだサムライ

    

関沢孝三郎 近代漁業を創始した「日本水産界の父」

藩公認の「密航」‥47 

グラバーの助け船‥49 

金谷与十郎の決断‥51 

大村

益次郎に学ぶ‥53 

マッコウクジラの捕獲‥55 

英語を生かした岡田秀之

助‥57 

浅津富之助は貴族院議員に‥57

三 

南仏で西欧の息吹を満喫したサムライ

    

清水  

誠 パリ・エコール・サントラルに学んだマッチ産業の父

ラブールドネーズ号上の二人の加賀藩士‥60 

フランス人技師ヴェルニー‥62

算用者として長崎留学‥64 

横須賀製鉄所で学ぶ‥66 

オーブナはフランスの

チベット‥68 

入学すべき学校さがし‥70 

造船所や大砲製造所を見学‥71 

「西洋流は煩雑至極」‥73 

サンテチエンヌの工場群‥75 

庶民の裕福さに感

67

心‥76 

フランスの裁判制度に学ぶ‥77 

岡田家に「佛蘭西遊国日記」‥79 

桜井家と岡田家の姻戚関係‥80 

岡田雄次郎と軍艦発機丸‥82 

加賀藩士国内

留学の嚆矢‥83 

中央集権化の波に乗る‥85 

謎の多い帰国後の丈太郎‥87 

マッチ製造に取り組む切っ掛け‥89 

金星観測隊に参加‥90 「新燧社」を創

業‥91 

火災を機に機械化推進‥93 

相次ぎマッチ製造機械を開発‥94

四 

ロンドンまでの旅日記を残したサムライ

    

伍堂 

卓爾 スロイスなど御雇外国人の招聘に奔走

上海見物する侍姿の男‥96 

与えられた藩命‥97 

前田慶寧の「自立割拠」‥100

版籍奉還で藩財政崩壊‥101 

重臣、本多政均の関与?‥103 

長崎でフランス語

教師に‥104 「時の来るのを待て」‥106 

三人帰国、伍堂・吉井が欧州へ‥107 

手記「伍堂卓爾一世紀事」‥109 

シンガポールとパイナップル‥111 

インドネ

シアの医学生‥111 「五百羅漢堂内に入ったような心地」‥112 

紅海で酷暑にあ

う‥114 

甲板上での舞踏会は「極楽世界」‥116 

汽車のスピードに驚く‥117 

国際港アレクサンドリア‥119 「一新世界ニ生マレタル心地」‥120 

藩命遂行と

善後策‥122 

オランダ陸軍一等軍医スロイス‥123 

方針変更を諮りに帰国‥125

談‥42 

アーネスト・サトウとの秘密会談‥43 

共立学校を創設‥45

二 

海外留学生としてロンドンに学んだサムライ

    

関沢孝三郎 近代漁業を創始した「日本水産界の父」

藩公認の「密航」‥47 

グラバーの助け船‥49 

金谷与十郎の決断‥51 

大村

益次郎に学ぶ‥53 

マッコウクジラの捕獲‥55 

英語を生かした岡田秀之

助‥57 

浅津富之助は貴族院議員に‥57

三 

南仏で西欧の息吹を満喫したサムライ

    

清水  

誠 パリ・エコール・サントラルに学んだマッチ産業の父

ラブールドネーズ号上の二人の加賀藩士‥60 

フランス人技師ヴェルニー‥62

算用者として長崎留学‥64 

横須賀製鉄所で学ぶ‥66 

オーブナはフランスの

チベット‥68 

入学すべき学校さがし‥70 

造船所や大砲製造所を見学‥71 

「西洋流は煩雑至極」‥73 

サンテチエンヌの工場群‥75 

庶民の裕福さに感

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89

付録 「佛蘭西遊国日記」

一 

所蔵者・史料との出会い‥158

二 

史料の概要‥160

三 

史料の記述者と渡仏事情‥162

四 

史料が岡田家に所蔵された事情‥164

五 

史料の解読と内容紹介‥166

「佛蘭西遊国日記」‥168

  

藩政末期における加賀藩(金沢藩)の渡航者一覧‥221

 あとがき

藩はスロイス雇用、他は渋る‥126 

リトルウッド、大聖寺で客死‥127 

陸軍医

として東京へ‥128

五 

シベリア横断し、ロシア留学したサムライ

    

嵯峨 

寿安 能力を発揮しきれなかった異才

ロシア人ニコライとの出会い‥130 「特別厚志の者」‥132 

シベリア横断

八〇〇〇キロ‥133 

ペテルブルクで岩倉使節団と会う‥134 

帰国後は職を

転々‥137 

埋もれた寿安の名‥138 

国木田独歩「欺かざるの記」‥139

六 

国費留学したそのほかのサムライたち

ブリュッセルの松原旦次郎‥141 

イギリスの佐雙左仲と土師外次郎‥142 

新政

府の使節派遣事業‥145 

二度目の渡欧、吉井立吉‥146 

記念写真はロンドンか

パリか?‥147 

岩倉使節団の人々‥150 

陸原慎太郎と清水誠の接点‥151 

足軽

から身を興した沢田直温‥152 

ロンドンの前田利嗣‥155 「朝野新聞」で新聞紙

条例違反‥156

89

付録 「佛蘭西遊国日記」

一 

所蔵者・史料との出会い‥158

二 

史料の概要‥160

三 

史料の記述者と渡仏事情‥162

四 

史料が岡田家に所蔵された事情‥164

五 

史料の解読と内容紹介‥166

「佛蘭西遊国日記」‥168

  

藩政末期における加賀藩(金沢藩)の渡航者一覧‥221

 あとがき

藩はスロイス雇用、他は渋る‥126 

リトルウッド、大聖寺で客死‥127 

陸軍医

として東京へ‥128

五 

シベリア横断し、ロシア留学したサムライ

    

嵯峨 

寿安 能力を発揮しきれなかった異才

ロシア人ニコライとの出会い‥130 「特別厚志の者」‥132 

シベリア横断

八〇〇〇キロ‥133 

ペテルブルクで岩倉使節団と会う‥134 

帰国後は職を

転々‥137 

埋もれた寿安の名‥138 

国木田独歩「欺かざるの記」‥139

六 

国費留学したそのほかのサムライたち

ブリュッセルの松原旦次郎‥141 

イギリスの佐雙左仲と土師外次郎‥142 

新政

府の使節派遣事業‥145 

二度目の渡欧、吉井立吉‥146 

記念写真はロンドンか

パリか?‥147 

岩倉使節団の人々‥150 

陸原慎太郎と清水誠の接点‥151 

足軽

から身を興した沢田直温‥152 

ロンドンの前田利嗣‥155 「朝野新聞」で新聞紙

条例違反‥156

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10

1 万延の遣米使節に加わったサムライ

11

  一 万延の遣米使節に加わったサムライ

      佐野 鼎 ニューヨークタイムズ紙が激賞 

◉地球一周の航海日記

 

万まんえん延元年(一八六〇)五月の初旬(太陽暦では六月中旬)というから、桜田門外で大老井伊直な

おすけ弼

が暗殺された二カ月ほど後の頃の話である。アメリカ東部の知識人たちに強い印象を与えた加

賀藩士がいた。名を佐野鼎かなえという。ほどなく、同年六月二十五日の「ニューヨークタイムズ」

の紙面に、「ニューヨークにおける日本人」と題する記事が掲載された。

 

その記事の中で、佐野は、英語が堪たんのう能で、まだ日本では知られていないという手話術用のア

ルファベットを学ぶなど、きわめて知識欲旺おうせい盛

で、役人の中で最も聡そ

うめい明

な人物の一人であると

高く評価されている。また、身分は高いが、異国の地にあって自分からは何もしようとしない

者を山ほど集めても、日本人たちにアメリカに関する正しい知識を与えてくれはしない。しか

10

1 万延の遣米使節に加わったサムライ

11

  一 万延の遣米使節に加わったサムライ

      佐野 鼎 ニューヨークタイムズ紙が激賞 

◉地球一周の航海日記

 

万まんえん延元年(一八六〇)五月の初旬(太陽暦では六月中旬)というから、桜田門外で大老井伊直な

おすけ弼

が暗殺された二カ月ほど後の頃の話である。アメリカ東部の知識人たちに強い印象を与えた加

賀藩士がいた。名を佐野鼎かなえという。ほどなく、同年六月二十五日の「ニューヨークタイムズ」

の紙面に、「ニューヨークにおける日本人」と題する記事が掲載された。

 

その記事の中で、佐野は、英語が堪たんのう能で、まだ日本では知られていないという手話術用のア

ルファベットを学ぶなど、きわめて知識欲旺おうせい盛

で、役人の中で最も聡そ

うめい明

な人物の一人であると

高く評価されている。また、身分は高いが、異国の地にあって自分からは何もしようとしない

者を山ほど集めても、日本人たちにアメリカに関する正しい知識を与えてくれはしない。しか

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佐野 鼎

12

1 万延の遣米使節に加わったサムライ

13

分野について丹念に記録したこの見聞録は、現在、金沢市立玉川図書館の近世史料館に蔵され、

昭和二十一年(一九四六)には、金沢文化協会が、『万延元年訪米日記』という表題で出版もし

ている。

 

最後の加賀藩主となる第十四代前田慶よしやす寧は、幕末から明治初年にかけて卯辰山を開拓し、養

生所(病院)・撫ぶ

育いくしょ所

(極貧人収容施設)など福祉施設をいち早く設けたことは、よく知られてお

り、このような慶寧の施策は、福沢諭吉の『西洋事情』に触発されたことによるといわれてい

る。しかし、佐野が『奉使米行航海日記』を彼の父に献上した頃には、まだ家督を継ぐ前の世せい

子し

の立場であったとはいえ、すでに年齢は三十歳に達していた。西洋文明に貪欲な眼差しを向

けていた慶寧が、佐野の見聞録を目にしていないはずはなく、福祉施設の設置はこの見聞録の

影響を受けたことによるとも言われる(フラーシェム・N・良子「嵯峨寿安留学への推薦状と渡航許可

まで」、同「卯辰山養生所設立起源についての異論」)。

 

さて、佐野がアメリカに渡り、「ニューヨークタイムズ」に取り上げられた事情は、言うま

でもなく、安政五年(一八五八)に幕府がアメリカとの間で締結した日米修好通商条約批准の

ために派遣した遣米使節団に加わる幸運を得たことによる。この使節団の一員で、勘定組頭支

配普請役という肩書を持つ幕臣益まし

頭ず

駿しゅんじろう

次郎の従者というのが佐野に与えられた役目で、高官と

いう立場でなかったことが、かえってアメリカ人に、地位は低い者の中にも、高い能力を有す

し、佐野ならば彼一人でそれができるであろうと激賞されている(松本英治『佐野鼎と共立学校』)。

 

アメリカに関する正しい認識を日本で広めてくれる人物として、異国の人々に高く評価され

た佐野は、彼らの期待を裏切らなかった。帰国後、佐野は、この時の見聞録を克明にまとめ、

当時の第十三代加賀藩主前田斉なりやす泰に献上している。表題は『奉ほ

使し

米べいこう行航こ

うかい海日に

記き

』。先述した手

話を使った聾ろう

教育をはじめとする教育関係のほか、軍事、科学、社会、諸国の地誌など様々な

  佐野 鼎(1829−1877)〈写真:東京大学史料編纂所提供〉

佐野 鼎

12

1 万延の遣米使節に加わったサムライ

13

分野について丹念に記録したこの見聞録は、現在、金沢市立玉川図書館の近世史料館に蔵され、

昭和二十一年(一九四六)には、金沢文化協会が、『万延元年訪米日記』という表題で出版もし

ている。

 

最後の加賀藩主となる第十四代前田慶よしやす寧は、幕末から明治初年にかけて卯辰山を開拓し、養

生所(病院)・撫ぶ

育いくしょ所

(極貧人収容施設)など福祉施設をいち早く設けたことは、よく知られてお

り、このような慶寧の施策は、福沢諭吉の『西洋事情』に触発されたことによるといわれてい

る。しかし、佐野が『奉使米行航海日記』を彼の父に献上した頃には、まだ家督を継ぐ前の世せい

子し

の立場であったとはいえ、すでに年齢は三十歳に達していた。西洋文明に貪欲な眼差しを向

けていた慶寧が、佐野の見聞録を目にしていないはずはなく、福祉施設の設置はこの見聞録の

影響を受けたことによるとも言われる(フラーシェム・N・良子「嵯峨寿安留学への推薦状と渡航許可

まで」、同「卯辰山養生所設立起源についての異論」)。

 

さて、佐野がアメリカに渡り、「ニューヨークタイムズ」に取り上げられた事情は、言うま

でもなく、安政五年(一八五八)に幕府がアメリカとの間で締結した日米修好通商条約批准の

ために派遣した遣米使節団に加わる幸運を得たことによる。この使節団の一員で、勘定組頭支

配普請役という肩書を持つ幕臣益まし

頭ず

駿しゅんじろう

次郎の従者というのが佐野に与えられた役目で、高官と

いう立場でなかったことが、かえってアメリカ人に、地位は低い者の中にも、高い能力を有す

し、佐野ならば彼一人でそれができるであろうと激賞されている(松本英治『佐野鼎と共立学校』)。

 

アメリカに関する正しい認識を日本で広めてくれる人物として、異国の人々に高く評価され

た佐野は、彼らの期待を裏切らなかった。帰国後、佐野は、この時の見聞録を克明にまとめ、

当時の第十三代加賀藩主前田斉なりやす泰に献上している。表題は『奉ほ

使し

米べいこう行航こ

うかい海日に

記き

』。先述した手

話を使った聾ろう

教育をはじめとする教育関係のほか、軍事、科学、社会、諸国の地誌など様々な

  佐野 鼎(1829−1877)〈写真:東京大学史料編纂所提供〉

Page 9: 辞書によれば、「サムライ」には、「武士」という …1 は じ め に 辞書によれば、「サムライ」には、「武士」というほかに、「気骨のある人」という意味がある。

佐野 鼎

14

1 万延の遣米使節に加わったサムライ

15

横浜港からであったというべきか。

 

出港後間もなくの一月二十七日、午後から

夜中にかけて暴風雨に見舞われた。団長の新

見の従者の船室が大きな波により打ち破られ、

幸運にも荷物は流されることはなかったもの

の、すべて潮水に浸かってしまった。また、

調理所の近くに置いてあった日本人のための

漬物、醤しょうゆ油、酢、味み

そ噌などの入った桶お

や飯め

しびつ櫃、

薪まき

などがすべて流され、翌朝は食事の準備が

出来ないような有様で、たとえ、出来たとし

ても船酔いなどで体調がすぐれず食事に付け

るような状況ではなかった。このような危険

に身を晒さら

すこともあったが、ポーハタン号は

二月二日の夕方には無事に日付変更線を通過

した。しかし、この暴風雨などをはじめ、こ

れまでの航海は順風に恵まれず、石炭や水の

る者がいるというで、強いインパクトを与えたのであろう。

◉予定外のホノルル寄港

 

佐野が藩主に献上した『奉使米行航海日記』にもとづき、その足跡をたどることにしよう。

正使新見正まさおき興を中心に佐野らは、万延元年(一八六〇)一月十八日(太陽暦二月九日)の朝四よ

ッ時ど

というから、今の午前十時頃に築地の軍艦操錬所に集まり、その後、小舟で品川港に停泊する

アメリカの軍艦ポーハタン号に乗り移り、八ッ半(午後三時)頃に出航したが、「万延」と改元

されたのは、この年の陰暦の三月十七日であったから、彼らが出港した頃には、「万延」とい

う元号は使われておらず、安政七年ということになる。

 

その日の夕刻前には横浜港に入り、翌日から横浜の町で買い物などをして過ごすうちに、

二十日の夕方から風波が激しくなったため、数人の者が小舟での帰船が出来なくなった。ま

た、食料とするために買い込んだ牛などを小船に乗せ、人々の忠告を無視してポーハタン号を

目指したアメリカ人の水夫が牛もろとも転覆して死に至るという事件などもあった。ポーハタ

ン号が錨いかりを揚げたのは、同月の二十二日朝六ッ半時(午前七時)であったという。品川出港の

一月十八日を使節の出発日とするのが一般的であるようだが、佐野のこの記述が正確であった

とすれば、ポーハタン号による遣米使節の日本からの船出は、一月二十二日(太陽暦二月十三日)、

ポーハタン号〈写真:横浜開港資料館提供〉

佐野 鼎

14

1 万延の遣米使節に加わったサムライ

15

横浜港からであったというべきか。

 

出港後間もなくの一月二十七日、午後から

夜中にかけて暴風雨に見舞われた。団長の新

見の従者の船室が大きな波により打ち破られ、

幸運にも荷物は流されることはなかったもの

の、すべて潮水に浸かってしまった。また、

調理所の近くに置いてあった日本人のための

漬物、醤しょうゆ油、酢、味み

そ噌などの入った桶お

や飯め

しびつ櫃、

薪まき

などがすべて流され、翌朝は食事の準備が

出来ないような有様で、たとえ、出来たとし

ても船酔いなどで体調がすぐれず食事に付け

るような状況ではなかった。このような危険

に身を晒さら

すこともあったが、ポーハタン号は

二月二日の夕方には無事に日付変更線を通過

した。しかし、この暴風雨などをはじめ、こ

れまでの航海は順風に恵まれず、石炭や水の

る者がいるというで、強いインパクトを与えたのであろう。

◉予定外のホノルル寄港

 

佐野が藩主に献上した『奉使米行航海日記』にもとづき、その足跡をたどることにしよう。

正使新見正まさおき興を中心に佐野らは、万延元年(一八六〇)一月十八日(太陽暦二月九日)の朝四よ

ッ時ど

というから、今の午前十時頃に築地の軍艦操錬所に集まり、その後、小舟で品川港に停泊する

アメリカの軍艦ポーハタン号に乗り移り、八ッ半(午後三時)頃に出航したが、「万延」と改元

されたのは、この年の陰暦の三月十七日であったから、彼らが出港した頃には、「万延」とい

う元号は使われておらず、安政七年ということになる。

 

その日の夕刻前には横浜港に入り、翌日から横浜の町で買い物などをして過ごすうちに、

二十日の夕方から風波が激しくなったため、数人の者が小舟での帰船が出来なくなった。ま

た、食料とするために買い込んだ牛などを小船に乗せ、人々の忠告を無視してポーハタン号を

目指したアメリカ人の水夫が牛もろとも転覆して死に至るという事件などもあった。ポーハタ

ン号が錨いかりを揚げたのは、同月の二十二日朝六ッ半時(午前七時)であったという。品川出港の

一月十八日を使節の出発日とするのが一般的であるようだが、佐野のこの記述が正確であった

とすれば、ポーハタン号による遣米使節の日本からの船出は、一月二十二日(太陽暦二月十三日)、

ポーハタン号〈写真:横浜開港資料館提供〉

Page 10: 辞書によれば、「サムライ」には、「武士」という …1 は じ め に 辞書によれば、「サムライ」には、「武士」というほかに、「気骨のある人」という意味がある。

佐野 鼎

16

1 万延の遣米使節に加わったサムライ

17

消費量が思いのほか嵩か

んだために、それらの補充が必要となり、当初の予定にはなかったホノ

ルル港へ二月十四日(太陽暦三月六日)に入港した。

◉日付変更線に強い関心

 

翌日の二月十五日、早速、佐野は祖国の友人帰き

山やません仙之の

助すけ

に宛てて、航海の苦労、ハワイの印

象、ポーハタン号での英語の学習などについて記した手紙をしたためた。この手紙は、『奉使

米行航海日記』の二月十六日の条に「この日には箱館行きの幸便があるというので、書状をし

たためたが、手紙の厚いのは嫌われるので、薄紙に細書きして、時間もないので一通を作って

送った」との主旨の記述に対応する(松本英治「万延元年遣米使節における佐野鼎の帰山仙之助宛書簡」)。

 

さて、ハワイまでの航海中で得た日付変更線の知識は、当時、多くの日本人の関心の的で

あったとみえ、様々な人々がこれについて記述しているが、佐野も例外ではなかった。地球を

一周すれば、一日が消えてしまうというのは、普通の理であって、くだくだしく記することも

ないがと断りながらも、この理屈を聞き、日付変更線を通過するという体験をした身としては

書きとめておかなければならないとの主旨の前置きをして、日付変更線がロンドンの起度から

一八〇度のところにあり、自分たちの蹠せき

下か

(足の裏の下)にロンドンが位置するとの説明に始ま

り、日付変更線に関する蘊うんちく蓄を長々と披ひ

瀝れき

している(この蘊蓄については33頁参照)。

 

ホノルルでは、船の修理や石炭の積み込みなどで、思いのほか時間を要することになった。

使節団一行は上陸し、フランスホテルに宿を定め、二月二十六日(太陽暦三月十八日)まで逗

とうりゅう留

するが、この間、佐野は様々な体験をすることになる。スコールのために外出には雨具の携行

が必要なこと、朝夕に発行する新聞(佐野はニウスペイパアと記す)が、日々の新説を集録し発行

するので、奇事新話が早く伝わり、遣米使節一行の目的、奉使の姓名などもこれにより、人々

に紹介されていること、ハワイは、カメハメハ王によって統治されており、彼に使節団が謁見

したこと、ハワイを去るに当たり、使節団は前日に船内にカメハメハ王を招き送別の会を開催

したことなどである。このような日々の体験の記録のほか、滞在中に得たと思われる知識、す

なわちハワイ島の位置、気候、人口、政治、産物、家屋、風俗について詳細にまとめ記述をし

ている。

◉はじめてオーロラを見る

 

二月二十七日(太陽暦三月十九日)八ッ時(午後二時)、使節一行を乗せポーハタン号は、ホノ

ルルを出港し、三月九日(太陽暦三月三十日)四ッ時(午前十時)にサンフランシスコに錨を下ろ

した。この十二日間の記録は、船の位置や天候などを記すのみであるが、三月八日の深夜八ッ

時(午前二時)頃に見たオーロラはよほど印象が深かったとみえる。「北方に月の昇るときの如

佐野 鼎

16

1 万延の遣米使節に加わったサムライ

17

消費量が思いのほか嵩か

んだために、それらの補充が必要となり、当初の予定にはなかったホノ

ルル港へ二月十四日(太陽暦三月六日)に入港した。

◉日付変更線に強い関心

 

翌日の二月十五日、早速、佐野は祖国の友人帰き

山やません仙之の

助すけ

に宛てて、航海の苦労、ハワイの印

象、ポーハタン号での英語の学習などについて記した手紙をしたためた。この手紙は、『奉使

米行航海日記』の二月十六日の条に「この日には箱館行きの幸便があるというので、書状をし

たためたが、手紙の厚いのは嫌われるので、薄紙に細書きして、時間もないので一通を作って

送った」との主旨の記述に対応する(松本英治「万延元年遣米使節における佐野鼎の帰山仙之助宛書簡」)。

 

さて、ハワイまでの航海中で得た日付変更線の知識は、当時、多くの日本人の関心の的で

あったとみえ、様々な人々がこれについて記述しているが、佐野も例外ではなかった。地球を

一周すれば、一日が消えてしまうというのは、普通の理であって、くだくだしく記することも

ないがと断りながらも、この理屈を聞き、日付変更線を通過するという体験をした身としては

書きとめておかなければならないとの主旨の前置きをして、日付変更線がロンドンの起度から

一八〇度のところにあり、自分たちの蹠せき

下か

(足の裏の下)にロンドンが位置するとの説明に始ま

り、日付変更線に関する蘊うんちく蓄を長々と披ひ

瀝れき

している(この蘊蓄については33頁参照)。

 

ホノルルでは、船の修理や石炭の積み込みなどで、思いのほか時間を要することになった。

使節団一行は上陸し、フランスホテルに宿を定め、二月二十六日(太陽暦三月十八日)まで逗

とうりゅう留

するが、この間、佐野は様々な体験をすることになる。スコールのために外出には雨具の携行

が必要なこと、朝夕に発行する新聞(佐野はニウスペイパアと記す)が、日々の新説を集録し発行

するので、奇事新話が早く伝わり、遣米使節一行の目的、奉使の姓名などもこれにより、人々

に紹介されていること、ハワイは、カメハメハ王によって統治されており、彼に使節団が謁見

したこと、ハワイを去るに当たり、使節団は前日に船内にカメハメハ王を招き送別の会を開催

したことなどである。このような日々の体験の記録のほか、滞在中に得たと思われる知識、す

なわちハワイ島の位置、気候、人口、政治、産物、家屋、風俗について詳細にまとめ記述をし

ている。

◉はじめてオーロラを見る

 

二月二十七日(太陽暦三月十九日)八ッ時(午後二時)、使節一行を乗せポーハタン号は、ホノ

ルルを出港し、三月九日(太陽暦三月三十日)四ッ時(午前十時)にサンフランシスコに錨を下ろ

した。この十二日間の記録は、船の位置や天候などを記すのみであるが、三月八日の深夜八ッ

時(午前二時)頃に見たオーロラはよほど印象が深かったとみえる。「北方に月の昇るときの如

Page 11: 辞書によれば、「サムライ」には、「武士」という …1 は じ め に 辞書によれば、「サムライ」には、「武士」というほかに、「気骨のある人」という意味がある。

清水 誠

60

3 南仏で西欧の息吹を満喫したサムライ

61

  三 南仏で西欧の息吹を満喫したサムライ

      清水 誠 パリ・エコール・サントラルに学んだマッチ産業の父 

◉ラブールドネーズ号上の二人の加賀藩士

 

幕府が倒壊し、戊辰戦争で混乱する明治元年(一八六八)にロンドンに留学していた関沢孝

三郎、岡田秀之助、浅津富之助らは帰国したが、明治四年(一八七一)に廃藩置県が断行され

るまでの間に、加賀藩(明治二年の版籍奉還後は金沢藩)領内から藩費や国費で海を渡って海外の

息吹に触れ、その後のわが国の近代化に大きな足跡を残したサムライたちがいた。

 

明治二年(一八六九)四月一日(太陽暦五月十二日)、横浜港を出港したフランス船ラブールド

ネーズ号に二人の加賀藩士と彼らに親しげに接するフランス人の姿があった。フランス人の名

前はフランソワ・レオンス・ヴェルニー。彼は西暦でいう一八三七年十二月生まれであったか

ら、満三十一歳ということになる。加賀藩士の名は、後に日本のマッチ製造を起業する清水誠

と数え歳十三歳の初々しい少年であった岡田丈太郎である。清水は、数え歳二十四歳であった

というが十二月生まれであったので、現在使われる満年齢でいえば二十二歳で、この頃にはま

だ金之助と名乗っていた。

 

話は横道にそれるが、彼ら三人の横浜港からの船出は、今から二十五年ほど前までは、明治

三年のことであったと多くの人は信じて疑わなかった。この船出の正確な日時は、先学故今井

一良先生が、横浜開港資料館が所蔵する「ザ・

ジャパンタイムス・オーヴァランド・メール」

(「TH

E JAPA

N T

IMES' O

VERLA

ND

MA

IL

」)の

明治二年五月二十八日付紙上の「船客及び船

荷」欄に三人の名前が記されていることを発

見されたことで明らかになったのである(今

井一良「加賀藩海外留学生新考」)。明治三年のこ

とであると信じられてきたのは、清水本人が、

明治三十年(一八九七)に書きのこした自身

の履歴書(金沢工業大学ライブラリーセンター所

蔵)に年月を一年誤って記したことによる。

清水 誠(1846−1899)

清水 誠

60

3 南仏で西欧の息吹を満喫したサムライ

61

  三 南仏で西欧の息吹を満喫したサムライ

      清水 誠 パリ・エコール・サントラルに学んだマッチ産業の父 

◉ラブールドネーズ号上の二人の加賀藩士

 

幕府が倒壊し、戊辰戦争で混乱する明治元年(一八六八)にロンドンに留学していた関沢孝

三郎、岡田秀之助、浅津富之助らは帰国したが、明治四年(一八七一)に廃藩置県が断行され

るまでの間に、加賀藩(明治二年の版籍奉還後は金沢藩)領内から藩費や国費で海を渡って海外の

息吹に触れ、その後のわが国の近代化に大きな足跡を残したサムライたちがいた。

 

明治二年(一八六九)四月一日(太陽暦五月十二日)、横浜港を出港したフランス船ラブールド

ネーズ号に二人の加賀藩士と彼らに親しげに接するフランス人の姿があった。フランス人の名

前はフランソワ・レオンス・ヴェルニー。彼は西暦でいう一八三七年十二月生まれであったか

ら、満三十一歳ということになる。加賀藩士の名は、後に日本のマッチ製造を起業する清水誠

と数え歳十三歳の初々しい少年であった岡田丈太郎である。清水は、数え歳二十四歳であった

というが十二月生まれであったので、現在使われる満年齢でいえば二十二歳で、この頃にはま

だ金之助と名乗っていた。

 

話は横道にそれるが、彼ら三人の横浜港からの船出は、今から二十五年ほど前までは、明治

三年のことであったと多くの人は信じて疑わなかった。この船出の正確な日時は、先学故今井

一良先生が、横浜開港資料館が所蔵する「ザ・

ジャパンタイムス・オーヴァランド・メール」

(「TH

E JAPA

N T

IMES' O

VERLA

ND

MA

IL

」)の

明治二年五月二十八日付紙上の「船客及び船

荷」欄に三人の名前が記されていることを発

見されたことで明らかになったのである(今

井一良「加賀藩海外留学生新考」)。明治三年のこ

とであると信じられてきたのは、清水本人が、

明治三十年(一八九七)に書きのこした自身

の履歴書(金沢工業大学ライブラリーセンター所

蔵)に年月を一年誤って記したことによる。

清水 誠(1846−1899)

Page 12: 辞書によれば、「サムライ」には、「武士」という …1 は じ め に 辞書によれば、「サムライ」には、「武士」というほかに、「気骨のある人」という意味がある。

清水 誠

62

3 南仏で西欧の息吹を満喫したサムライ

63

 

ラブールドネーズ号の詳細な航路は不明であるが、おそらく当時のアジア航路であった中国

沿岸からシンガポールを経由し、インド洋から紅海を経てスエズに到着、スエズ運河はまだ工

事中であったため、そこからは汽車で、アレクサンドリアに入り、地中海を航海し、フランス

のマルセイユ港に到着したものと思われる。アレクサンドリアからの船名は不明だが、彼らは

無事に同年五月二十三日(太陽暦七月二日)にマルセイユに入港した。実に五十日余りの長旅で

あった。

 

この三人がどのような縁があってフランスに向かうことになったか、フランソワ・レオンス・

ヴェルニーとは一体何者であるか。そのあたりの事情からまずは語ることにしよう。

◉フランス人技師ヴェルニー

 

嘉永六年(一八五三)のペリー来航後、幕府も諸藩も蒸気船や近代的な航海術、造船技術を

取り入れようとした。幕府は、安政二年(一八五八)、オランダから献納された二五〇トンばか

りの汽船スンビン号(のち観光丸と命名)を練習船とし、長崎で海軍伝習を始めたのである。そ

の後、海防に備えるための艦船建造修理工場の創設を計画、薩摩藩や長州藩の倒幕側を支援す

るイギリスに対抗し、幕府に接近していたフランス公使ロッシュに相談を持ちかけたのである。

 

ちょうどその頃、ヴェルニーは、数年前から「在支那砲舶製造主任海軍大技士」として働い

ていた中国寧ニンポー波

の造船所での軍艦建造の任務を終え、帰国の途に就こうとしていた矢先であっ

た。ロッシュは、幕府に対してヴェルニーを採用してはどうかと提案をし、これを受けて協議

した幕府が元治元年(一八六四)十一月十日、ヴェルニーを採用することを念頭に、工場設立

に踏み切ったのである。

 

慶応元年(一八六五)正月、ヴェルニーは、上海から来日、ただちにロッシュや幕府の要人

たちを集めて工場の設立案を検討し、八項目にわたる原案を作成、同年二月には、フランス人

の技師の雇用や器械類の買い入れのために一時フランスに帰国した。この年に幕府は柴田剛たけなか中

らをフランスに派遣したが、彼らが到着するとヴェルニーはツーロンの海軍の諸施設を案内、

フランス政府の許可を得て、正式に幕府の御雇外国人となった。柴田らは、翌慶応二年一月に

ヴェルニーに先行してフランスの技師や買い付けた工作機械などとともに横浜に到着したが、

ヴェルニーは、器械類の追加購入を終えて、およそ三カ月後の慶応二年四月二十五日に帰国し、

首長に任命されたのである。

 

この間、ヴェルニーの提案をもとに、幕府はフランスの地中海に面した軍港ツーロンを模し

て、地形の類似する横須賀湾に横須賀製鉄所を造ることとして、慶応元年年九月に起工式を行

い、柴田剛中やヴェルニーらの買い付けた器械類を据え付け、まもなく工場も完成し、慶応三

年には第一ドックの開削も始められた。江戸幕府が崩壊し、明治新政府が成立すると、この施

清水 誠

62

3 南仏で西欧の息吹を満喫したサムライ

63

 

ラブールドネーズ号の詳細な航路は不明であるが、おそらく当時のアジア航路であった中国

沿岸からシンガポールを経由し、インド洋から紅海を経てスエズに到着、スエズ運河はまだ工

事中であったため、そこからは汽車で、アレクサンドリアに入り、地中海を航海し、フランス

のマルセイユ港に到着したものと思われる。アレクサンドリアからの船名は不明だが、彼らは

無事に同年五月二十三日(太陽暦七月二日)にマルセイユに入港した。実に五十日余りの長旅で

あった。

 

この三人がどのような縁があってフランスに向かうことになったか、フランソワ・レオンス・

ヴェルニーとは一体何者であるか。そのあたりの事情からまずは語ることにしよう。

◉フランス人技師ヴェルニー

 

嘉永六年(一八五三)のペリー来航後、幕府も諸藩も蒸気船や近代的な航海術、造船技術を

取り入れようとした。幕府は、安政二年(一八五八)、オランダから献納された二五〇トンばか

りの汽船スンビン号(のち観光丸と命名)を練習船とし、長崎で海軍伝習を始めたのである。そ

の後、海防に備えるための艦船建造修理工場の創設を計画、薩摩藩や長州藩の倒幕側を支援す

るイギリスに対抗し、幕府に接近していたフランス公使ロッシュに相談を持ちかけたのである。

 

ちょうどその頃、ヴェルニーは、数年前から「在支那砲舶製造主任海軍大技士」として働い

ていた中国寧ニンポー波

の造船所での軍艦建造の任務を終え、帰国の途に就こうとしていた矢先であっ

た。ロッシュは、幕府に対してヴェルニーを採用してはどうかと提案をし、これを受けて協議

した幕府が元治元年(一八六四)十一月十日、ヴェルニーを採用することを念頭に、工場設立

に踏み切ったのである。

 

慶応元年(一八六五)正月、ヴェルニーは、上海から来日、ただちにロッシュや幕府の要人

たちを集めて工場の設立案を検討し、八項目にわたる原案を作成、同年二月には、フランス人

の技師の雇用や器械類の買い入れのために一時フランスに帰国した。この年に幕府は柴田剛たけなか中

らをフランスに派遣したが、彼らが到着するとヴェルニーはツーロンの海軍の諸施設を案内、

フランス政府の許可を得て、正式に幕府の御雇外国人となった。柴田らは、翌慶応二年一月に

ヴェルニーに先行してフランスの技師や買い付けた工作機械などとともに横浜に到着したが、

ヴェルニーは、器械類の追加購入を終えて、およそ三カ月後の慶応二年四月二十五日に帰国し、

首長に任命されたのである。

 

この間、ヴェルニーの提案をもとに、幕府はフランスの地中海に面した軍港ツーロンを模し

て、地形の類似する横須賀湾に横須賀製鉄所を造ることとして、慶応元年年九月に起工式を行

い、柴田剛中やヴェルニーらの買い付けた器械類を据え付け、まもなく工場も完成し、慶応三

年には第一ドックの開削も始められた。江戸幕府が崩壊し、明治新政府が成立すると、この施

Page 13: 辞書によれば、「サムライ」には、「武士」という …1 は じ め に 辞書によれば、「サムライ」には、「武士」というほかに、「気骨のある人」という意味がある。

清水 誠

64

3 南仏で西欧の息吹を満喫したサムライ

65

設は、明治元年(一八六八)九月には神奈川県裁判所、同二年十月には大蔵省、同三年七月に

は民部省、同年十月には工部省と目まぐるしく所管する役所が変更されたが、明治四年二月に

第二ドックが完成し、製鉄・錬鉄・鋳造・製せいかん罐工場も次々完成した。同年四月には横浜造船所

と改称され、同五年十月には、海軍省に移管されて、軍艦建造を主目的とする施設へと発展し

たのである。

 

ヴェルニーは、明治八年(一八七五)まで、通算十三年間の長きにわたって横須賀で勤務、

日本の近代化のために尽くしたが、先述した慶応元年二月から同二年四月末までのほか、明治

二年(一八六九)三月十八日(太陽暦四月二十九日)に旅程往復四カ月、フランス滞在六カ月、計

十カ月の休暇が認められ、明治二年(一八六九)四月一日(太陽暦五月十二日)、横浜港を出港し、

明治三年(一八七〇)二月十二日(太陽暦三月十三日)に横須賀に帰ったことがあった。この休暇

期間を利用したヴェルニーのフランス行きの往便に清水と岡田は便乗したのである。

◉算さ

んようもの

用者として長崎留学

 

さて、清水誠は、弘化二年(一八四六)十二月二十五日(西暦では一八四七年一月)に金沢御お

徒かち

町(現東山一丁目)に住む算用者(藩の会計を司る算用場の役人)の嶺み

新兵衛の六男として生を受け

たが、長じて同職の清水小十郎の養子となり、彼もまた算用者として活躍していた。理系の才

が傑出していたものと思われ、藩が慶応元年(一八六五)に藩内の優秀な青年五十人ばかりを

長崎に派遣し学ばせた時の留学生の一人であった。

 

話は、多少横道にそれるが、清水は長崎で四人の同志と大浦町に下宿していた。慶応二年

(一八六六)九月十三日の夜半に、彼らの下宿先の前をほろ酔い加減の石神良平ら三人の薩摩藩

の留学生が通り過ぎたことがあった。その際に、彼ら三人が吐いた加賀藩を侮辱する言葉を聞

きつけた清水と同志の近藤岩五郎が咎とが

めたことで喧け

嘩か

となり、近藤が石神を組み伏し、一刀の

もとに石神をあの世へ送るという事件があり、大騒動となったことがあった。近藤はこの事件

が引き金となり、薩摩藩と加賀藩の間に難題を引き起こすことになってはならないと配慮し、

藩の指令を待たずに切腹して果てた。近藤の最期を聞き、その遺い

骸がい

を見届けに来た薩摩藩士は、

「感服いたし候そうろう、惜しき士云う

んぬん々

」と述べ、薩摩藩も関係した者を処分したという(『加賀藩史料』「慶

応丙ひのえとら寅之秋玉の浦日記」)。

 

この事件で、殺傷直後に乗り込んできた薩摩藩士から、討ち果たした当人は誰かと問われた

際に、近藤が自分であると名乗り出た時、さえぎるように清水もまた、それは自分であると近

藤をかばうように名乗り、薩摩人を戸惑わせたという。また、清水は長崎の街中で、日本の悪

口を言いながら歩く二人の外国人の前に立ちふさがり「知識を学ぶ師としての異邦人への尊敬

は欠かすものではないが、日本を見下す偏見は許さない」と外国人に謝罪を求めたとの逸話を

清水 誠

64

3 南仏で西欧の息吹を満喫したサムライ

65

設は、明治元年(一八六八)九月には神奈川県裁判所、同二年十月には大蔵省、同三年七月に

は民部省、同年十月には工部省と目まぐるしく所管する役所が変更されたが、明治四年二月に

第二ドックが完成し、製鉄・錬鉄・鋳造・製せいかん罐工場も次々完成した。同年四月には横浜造船所

と改称され、同五年十月には、海軍省に移管されて、軍艦建造を主目的とする施設へと発展し

たのである。

 

ヴェルニーは、明治八年(一八七五)まで、通算十三年間の長きにわたって横須賀で勤務、

日本の近代化のために尽くしたが、先述した慶応元年二月から同二年四月末までのほか、明治

二年(一八六九)三月十八日(太陽暦四月二十九日)に旅程往復四カ月、フランス滞在六カ月、計

十カ月の休暇が認められ、明治二年(一八六九)四月一日(太陽暦五月十二日)、横浜港を出港し、

明治三年(一八七〇)二月十二日(太陽暦三月十三日)に横須賀に帰ったことがあった。この休暇

期間を利用したヴェルニーのフランス行きの往便に清水と岡田は便乗したのである。

◉算さ

んようもの

用者として長崎留学

 

さて、清水誠は、弘化二年(一八四六)十二月二十五日(西暦では一八四七年一月)に金沢御お

徒かち

町(現東山一丁目)に住む算用者(藩の会計を司る算用場の役人)の嶺み

新兵衛の六男として生を受け

たが、長じて同職の清水小十郎の養子となり、彼もまた算用者として活躍していた。理系の才

が傑出していたものと思われ、藩が慶応元年(一八六五)に藩内の優秀な青年五十人ばかりを

長崎に派遣し学ばせた時の留学生の一人であった。

 

話は、多少横道にそれるが、清水は長崎で四人の同志と大浦町に下宿していた。慶応二年

(一八六六)九月十三日の夜半に、彼らの下宿先の前をほろ酔い加減の石神良平ら三人の薩摩藩

の留学生が通り過ぎたことがあった。その際に、彼ら三人が吐いた加賀藩を侮辱する言葉を聞

きつけた清水と同志の近藤岩五郎が咎とが

めたことで喧け

嘩か

となり、近藤が石神を組み伏し、一刀の

もとに石神をあの世へ送るという事件があり、大騒動となったことがあった。近藤はこの事件

が引き金となり、薩摩藩と加賀藩の間に難題を引き起こすことになってはならないと配慮し、

藩の指令を待たずに切腹して果てた。近藤の最期を聞き、その遺い

骸がい

を見届けに来た薩摩藩士は、

「感服いたし候そうろう、惜しき士云う

んぬん々

」と述べ、薩摩藩も関係した者を処分したという(『加賀藩史料』「慶

応丙ひのえとら寅之秋玉の浦日記」)。

 

この事件で、殺傷直後に乗り込んできた薩摩藩士から、討ち果たした当人は誰かと問われた

際に、近藤が自分であると名乗り出た時、さえぎるように清水もまた、それは自分であると近

藤をかばうように名乗り、薩摩人を戸惑わせたという。また、清水は長崎の街中で、日本の悪

口を言いながら歩く二人の外国人の前に立ちふさがり「知識を学ぶ師としての異邦人への尊敬

は欠かすものではないが、日本を見下す偏見は許さない」と外国人に謝罪を求めたとの逸話を

Page 14: 辞書によれば、「サムライ」には、「武士」という …1 は じ め に 辞書によれば、「サムライ」には、「武士」というほかに、「気骨のある人」という意味がある。

清水 誠

66

3 南仏で西欧の息吹を満喫したサムライ

67

残している(『風雪の碑』)。血気盛んな頃の清水のエピソードである。

◉横須賀製鉄所で学ぶ

 

清水誠は、フランスの名門パリ工芸大学(パリ・エコール・サントラル)で学んだが、最初から

留学先の学校を決めてからフランスに渡ったわけではなく、明治二年(一八六九)の七月二日(太

陽暦)にマルセイユに到着し、三カ月半ほどはマルセイユに居を定め生活した後で、南フラン

スでは入学を希望する学校に出合わなかったために、明治二年九月十五日にパリに向かい、パ

リでアランという人物に就いて学んだ後、明治六年(一八七三)にパリ工芸大学に入学したも

のと思われる。清水のたぐい稀な能力もさることながら、おそらくこの入学もフランスの官吏

という立場にあったヴェルニーの力添えがあったに違いない。

 

さて、清水がフランスに留学することが出来るという幸運に恵まれたのは、それ以前から横

須賀のヴェルニーの下で彼の薫陶を受けていたからであった。彼は、幕府が倒壊する鳥羽伏見

の戦いが始まる慶応四年(明治元年・一八六八)一月に洋学修行をするために海外に出向くこと

を許可してもらいたい旨の願いを出したというから(加越能文庫所収「先祖由緒幷一類附帳」)、長

崎で学んだことをより深め究めたいとの強い希望を抱いていたことがうかがえる。ただ、この

願いは長崎から一度、国くにもと許

に帰って藩に願ったものなのか、長崎から藩に願いを出し、帰藩せ

ずに直接、横須賀のヴェルニーのもとに行ったか、また、横須賀に入った時期は何時なのか、

そのことは藩命であったのか、彼独自の判断であったのかなどについては、明確ではない。

 

国立公文書館所蔵の『公文類るいしゅう

聚』という史料には、明治二年三月二十三日に金沢藩から外務

省に清水の留学許可を得る願書が見られ、それには、清水は、前年から横須賀製鉄所において

ヴェルニーのもとに入塾し、機械学の修行をしていたが、ヴェルニーが三月二十五、六日頃に

フランスへ一時帰国するというこ

となので、同じ船でフランスに渡

らせ、四年間勉学させたいと思う

ので、許可していただきたいとい

う内容となっている。これに対し

て二日後の二十五日には、差し支

えないとの回答を外務官より得て

いる(今井一良「加賀藩海外留学生新

考」)。

 

このようなことから、自身の専

門的な知識を深めるために、強い

フランソワ・レオンンス・ヴェルニー(1837−1908)     〈写真:伊藤正孝氏所蔵〉

清水 誠

66

3 南仏で西欧の息吹を満喫したサムライ

67

残している(『風雪の碑』)。血気盛んな頃の清水のエピソードである。

◉横須賀製鉄所で学ぶ

 

清水誠は、フランスの名門パリ工芸大学(パリ・エコール・サントラル)で学んだが、最初から

留学先の学校を決めてからフランスに渡ったわけではなく、明治二年(一八六九)の七月二日(太

陽暦)にマルセイユに到着し、三カ月半ほどはマルセイユに居を定め生活した後で、南フラン

スでは入学を希望する学校に出合わなかったために、明治二年九月十五日にパリに向かい、パ

リでアランという人物に就いて学んだ後、明治六年(一八七三)にパリ工芸大学に入学したも

のと思われる。清水のたぐい稀な能力もさることながら、おそらくこの入学もフランスの官吏

という立場にあったヴェルニーの力添えがあったに違いない。

 

さて、清水がフランスに留学することが出来るという幸運に恵まれたのは、それ以前から横

須賀のヴェルニーの下で彼の薫陶を受けていたからであった。彼は、幕府が倒壊する鳥羽伏見

の戦いが始まる慶応四年(明治元年・一八六八)一月に洋学修行をするために海外に出向くこと

を許可してもらいたい旨の願いを出したというから(加越能文庫所収「先祖由緒幷一類附帳」)、長

崎で学んだことをより深め究めたいとの強い希望を抱いていたことがうかがえる。ただ、この

願いは長崎から一度、国くにもと許

に帰って藩に願ったものなのか、長崎から藩に願いを出し、帰藩せ

ずに直接、横須賀のヴェルニーのもとに行ったか、また、横須賀に入った時期は何時なのか、

そのことは藩命であったのか、彼独自の判断であったのかなどについては、明確ではない。

 

国立公文書館所蔵の『公文類るいしゅう

聚』という史料には、明治二年三月二十三日に金沢藩から外務

省に清水の留学許可を得る願書が見られ、それには、清水は、前年から横須賀製鉄所において

ヴェルニーのもとに入塾し、機械学の修行をしていたが、ヴェルニーが三月二十五、六日頃に

フランスへ一時帰国するというこ

となので、同じ船でフランスに渡

らせ、四年間勉学させたいと思う

ので、許可していただきたいとい

う内容となっている。これに対し

て二日後の二十五日には、差し支

えないとの回答を外務官より得て

いる(今井一良「加賀藩海外留学生新

考」)。

 

このようなことから、自身の専

門的な知識を深めるために、強い

フランソワ・レオンンス・ヴェルニー(1837−1908)     〈写真:伊藤正孝氏所蔵〉

Page 15: 辞書によれば、「サムライ」には、「武士」という …1 は じ め に 辞書によれば、「サムライ」には、「武士」というほかに、「気骨のある人」という意味がある。

清水 誠

68

3 南仏で西欧の息吹を満喫したサムライ

69

意欲を持ち、それなりの能力も備えていた清水の海外留学の希望を藩も聞き入れ、横須賀のヴェ

ルニーのもとに入塾することを藩も認め、その機会を待っていたのではなかろうか。清水を藩

費による留学生として派遣することを藩が願っていることから見て、少なくとも藩が彼の留学

に強いかかわりを持っていたことは間違いなかろう。

◉オーブナはフランスのチベット

 

さて、話を三人が七月二日(太陽暦)にマルセイユに到着した頃に戻そう。当時のフランス

には物珍しかったと思われる極東からの客まろうど人の清水と岡田は、到着後三日目の七月五日に、ヴェ

ルニーにともなわれ、彼の生まれ故郷オーブナ村に案内された。この地は、現在の南フランス

のアルデシュ県オーブナ市で、アレス市から七五キロ、パリとマルセイユを結ぶ鉄道のヴァラ

ンス市から七一キロも離れた標高三〇〇メートルの山あいの土地である。この村のサント・ア

ンヌ通りで商売を営み、比較的裕福であった家にヴェルニーは生まれた。

 

今から四十年ほど前にこの地を訪れた人たちによれば、「西と北は山また山で、いわばフラ

ンスのチベット」と表現し(NHK特別取材班『ドキュメンタリー 

明治百年』昭和四十三年、日本放送

出版協会刊)、また、三十年前頃でも、マロン・グラッセやジャムの生産地として知られているオー

ブナは、若者を引き付ける大きな産業もない小さな町なので、出稼ぎに出ることも多く、ヴァ

ランスからバスで一時間四十五分かかり、そのバスも日に七本と少ないなどと記している(富

田仁・西堀昭『横須賀製鉄所の人々―花ひらくフランス文化』、昭和五十八年、有隣堂刊)。清水と岡田が

案内された頃は、この頃以上に交通の便は悪かったはずであるからこのヴェルニーの故郷訪問

は相当の時間を要したと思われるが、徒歩か馬しか交通手段のなかった当時の日本人にとって

はそれほど苦痛ではなかったであろう。

 

その後、ヴェルニーも様々な用事があり多忙であったのか、一カ月半ほど清水と岡田をマル

セイユに滞在させたまま行動をともにすることはなかった。岡田は一般的な基礎学力を身につ

けるため、すでにマルセイユの塾の門をたたき勉学に入ったが、清水は学ぶべき場所が決まら

ないまま日々を送っていた。再度ヴェルニーが自由な時間が取れるようになったと清水らのも

とに現れたのは八月二十日のことであった。ヴェルニーは、機械学を専門とする清水がマルセ

イユに到着したものの、まだ適切な学校を見つけられていないことに責任を感じていたのであ

ろうか、まずマルセイユから七里(約二八キロ)ほどの地にあり、汽車で二時間ほどのエーキス

村にある器械学校を見学することを提案してくれた。このエーキス村というのは現在のエクス・

アン・プロヴァンスのことではなかろうか。

清水 誠

68

3 南仏で西欧の息吹を満喫したサムライ

69

意欲を持ち、それなりの能力も備えていた清水の海外留学の希望を藩も聞き入れ、横須賀のヴェ

ルニーのもとに入塾することを藩も認め、その機会を待っていたのではなかろうか。清水を藩

費による留学生として派遣することを藩が願っていることから見て、少なくとも藩が彼の留学

に強いかかわりを持っていたことは間違いなかろう。

◉オーブナはフランスのチベット

 

さて、話を三人が七月二日(太陽暦)にマルセイユに到着した頃に戻そう。当時のフランス

には物珍しかったと思われる極東からの客まろうど人の清水と岡田は、到着後三日目の七月五日に、ヴェ

ルニーにともなわれ、彼の生まれ故郷オーブナ村に案内された。この地は、現在の南フランス

のアルデシュ県オーブナ市で、アレス市から七五キロ、パリとマルセイユを結ぶ鉄道のヴァラ

ンス市から七一キロも離れた標高三〇〇メートルの山あいの土地である。この村のサント・ア

ンヌ通りで商売を営み、比較的裕福であった家にヴェルニーは生まれた。

 

今から四十年ほど前にこの地を訪れた人たちによれば、「西と北は山また山で、いわばフラ

ンスのチベット」と表現し(NHK特別取材班『ドキュメンタリー 

明治百年』昭和四十三年、日本放送

出版協会刊)、また、三十年前頃でも、マロン・グラッセやジャムの生産地として知られているオー

ブナは、若者を引き付ける大きな産業もない小さな町なので、出稼ぎに出ることも多く、ヴァ

ランスからバスで一時間四十五分かかり、そのバスも日に七本と少ないなどと記している(富

田仁・西堀昭『横須賀製鉄所の人々―花ひらくフランス文化』、昭和五十八年、有隣堂刊)。清水と岡田が

案内された頃は、この頃以上に交通の便は悪かったはずであるからこのヴェルニーの故郷訪問

は相当の時間を要したと思われるが、徒歩か馬しか交通手段のなかった当時の日本人にとって

はそれほど苦痛ではなかったであろう。

 

その後、ヴェルニーも様々な用事があり多忙であったのか、一カ月半ほど清水と岡田をマル

セイユに滞在させたまま行動をともにすることはなかった。岡田は一般的な基礎学力を身につ

けるため、すでにマルセイユの塾の門をたたき勉学に入ったが、清水は学ぶべき場所が決まら

ないまま日々を送っていた。再度ヴェルニーが自由な時間が取れるようになったと清水らのも

とに現れたのは八月二十日のことであった。ヴェルニーは、機械学を専門とする清水がマルセ

イユに到着したものの、まだ適切な学校を見つけられていないことに責任を感じていたのであ

ろうか、まずマルセイユから七里(約二八キロ)ほどの地にあり、汽車で二時間ほどのエーキス

村にある器械学校を見学することを提案してくれた。このエーキス村というのは現在のエクス・

アン・プロヴァンスのことではなかろうか。

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あ 

と 

が 

 

拙いものながらそれまで発表してきたものを一冊にまとめ、定年退職記念に私家版として

『加賀藩における幕末維新期の動向』(私家版)との表題で発刊したのは、九年前の平成十四年

(二〇〇二)三月であった。私はこの拙書の「あとがき」で「今後何年生きられるかは保証の限

りではないものの、人生八十年といわれている昨今、出来れば、命のある間は趣味や特技の世

界で何かを探求し、ボケないでいたいものであるが、私には披瀝できるような趣味も特技もな

い。(中略)ボケ防止になるものは何かと考えた時、これからも細々と地域の歴史探究に関わる

ことしかない」と述べた。私の所業が「地域の歴史探究」に値するか否かは別として、今もっ

て、気の向くままに設定したテーマに沿うものであれば、その史料を整理したり、収集したり、

読み込んだりしていた。本書は、そのような動機から生まれた私の定年退職後の二作目の拙い

作品である。

 

第一作は平成十九年十二月に発刊した『前田慶寧と幕末維新』(北國新聞社刊)であったが、

その作品で、はからずも泉鏡花市民文学賞をいただくことができ、書くことを続けるようにと

親しい人たちから煽てられ、その後、これまでファイルしてきた史料や古文書類を整理しなが

ら五つほどのテーマを設定したのである。

 

五つのテーマのうち、完成させる順を決めていたわけではなく、強いて言えば、拙書『前田

慶寧と幕末維新』で展開した加賀藩の「自立割拠」に対して寄せていただいた批判に対して、

再批判で応えることと、明らかに私の理解不足であった記述箇所の誤りを訂正するというテー

マに若干重きを置いていたのである。

 

幕末維新期のこの地域の海外渡航者について紹介するという今回のテーマは、当初、私とし

ては真っ先に取り組みたいと思うような魅力あるテーマではなかった。もちろん、様々なご指

導をいただいた故今井一良先生をはじめ、開成学園の松本英治氏やフラーシェム・N・良子氏、

それに参考資料に挙げた石川郷土史学会の会員の数多くの研究の集積があるにもかかわらず、

この時期に海外渡航をした人々が、あまり地域の人々に広く知られていない状況にいつかは一

石を投じてみたいものだと思ってはいた。

 

このテーマに重点的にまずは取り組もうと思うようになったのは、本書の付録として紹介し

た「佛蘭西遊国日記」に出合ったことであった。すなわち、このような従来からの私の思いを

後押ししてくれたのが「佛蘭西遊国日記」であったのである。

 

これまでの先学の実績を読み返し、それに幾分かの自論を挟み込む仕事と「佛蘭西遊国日記」

を解読することの仕事を並行して進めることは、私の力量では至難な仕事となった。古文書を

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あ 

と 

が 

 

拙いものながらそれまで発表してきたものを一冊にまとめ、定年退職記念に私家版として

『加賀藩における幕末維新期の動向』(私家版)との表題で発刊したのは、九年前の平成十四年

(二〇〇二)三月であった。私はこの拙書の「あとがき」で「今後何年生きられるかは保証の限

りではないものの、人生八十年といわれている昨今、出来れば、命のある間は趣味や特技の世

界で何かを探求し、ボケないでいたいものであるが、私には披瀝できるような趣味も特技もな

い。(中略)ボケ防止になるものは何かと考えた時、これからも細々と地域の歴史探究に関わる

ことしかない」と述べた。私の所業が「地域の歴史探究」に値するか否かは別として、今もっ

て、気の向くままに設定したテーマに沿うものであれば、その史料を整理したり、収集したり、

読み込んだりしていた。本書は、そのような動機から生まれた私の定年退職後の二作目の拙い

作品である。

 

第一作は平成十九年十二月に発刊した『前田慶寧と幕末維新』(北國新聞社刊)であったが、

その作品で、はからずも泉鏡花市民文学賞をいただくことができ、書くことを続けるようにと

親しい人たちから煽てられ、その後、これまでファイルしてきた史料や古文書類を整理しなが

ら五つほどのテーマを設定したのである。

 

五つのテーマのうち、完成させる順を決めていたわけではなく、強いて言えば、拙書『前田

慶寧と幕末維新』で展開した加賀藩の「自立割拠」に対して寄せていただいた批判に対して、

再批判で応えることと、明らかに私の理解不足であった記述箇所の誤りを訂正するというテー

マに若干重きを置いていたのである。

 

幕末維新期のこの地域の海外渡航者について紹介するという今回のテーマは、当初、私とし

ては真っ先に取り組みたいと思うような魅力あるテーマではなかった。もちろん、様々なご指

導をいただいた故今井一良先生をはじめ、開成学園の松本英治氏やフラーシェム・N・良子氏、

それに参考資料に挙げた石川郷土史学会の会員の数多くの研究の集積があるにもかかわらず、

この時期に海外渡航をした人々が、あまり地域の人々に広く知られていない状況にいつかは一

石を投じてみたいものだと思ってはいた。

 

このテーマに重点的にまずは取り組もうと思うようになったのは、本書の付録として紹介し

た「佛蘭西遊国日記」に出合ったことであった。すなわち、このような従来からの私の思いを

後押ししてくれたのが「佛蘭西遊国日記」であったのである。

 

これまでの先学の実績を読み返し、それに幾分かの自論を挟み込む仕事と「佛蘭西遊国日記」

を解読することの仕事を並行して進めることは、私の力量では至難な仕事となった。古文書を

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解読する力量不足の私には、明治初年の多少書きなぐったような「佛蘭西遊国日記」の文字は

難解な個所が多く、理解不可能な部分を残したままで上梓とする乱暴をしてしまっている。

 

今思ってみれば、もう少し時間をかけて考証し、それを本論にも生かすとともに、本書自体

をもう少しマシなものに仕上げるべきであったとの忸じく

怩じ

たる思いもある。しかし、人生の終

しゅうえん焉

に近づき、年々歳とともに根気が続かなくなった現状を考えると、多くのご批判を覚悟のうえ、

緻密な考証より、不完全なものでも早めの発表をと、自らを安易に納得させたのである。

 

さて、本書で取り上げた人物のうち、何人かは、これまでに私が紹介したものがベースになっ

ている。例えば、佐野鼎については、昭和五十四年一月に「北國新聞」の北陸黒衣列伝という

シリーズで紹介し、その後いくらかの改定を行って拙書『加賀藩における幕末維新期の動向』

で「幕末維新期の書群像」の一人としても紹介、また、平成十九年十一月には『石川自治と教

育』六五号にも紹介した。伍堂卓爾、沢田直温も『石川自治と教育』の四七九号および六二一

号で紹介したことがあった。しかし、これらの記述には言い足りない部分や明らかな間違いも

あったため、そのことを訂正するという役目も本書に盛り込んだのである。

 

本書をまとめるに当たっては随分多くの人にお世話になった。「佛蘭西遊国日記」との出合

いなどの詳細は、本書の中で述べているので重複は避けるが、本書に掲載することを快くお許

しいただいたことはもちろん、コピーを採らせていただいた後も、読みにくい点を検討するた

め何度か史料の再コピーを送付いただき、また様々な示唆もいただいたさいたま市在住の岡田

和恭氏に厚くお礼申し上げたい。

 

また、金沢星稜大学名誉教授の森山誠一先生は、本書の分野以外のことでも、様々なご批判

やご助言をいただくとともに、貴重な史料を提示いただくなど大変お世話になってきたが、本

書を書くに当たり、多くの史料の提供と示唆をいただいた。特に岡田丈太郎の帰国後の記述は

すべて先生から教授いただいたものである。また、石川県立歴史博物の本康宏史館学芸課長に

は全般にわたって、私には難解であった「佛蘭西遊国日記」の解読については同館の浜岡伸也

資料課長に、清水誠については米田昭二郎氏に、地理の分野では北陸大学非常勤講師の府和正

一郎氏に随分多くのご教示をいただいた。厚くお礼申し上げたい。

 

本書で引用させていただいた先述した三名の方のほか、石川県郷土史学会で少しばかりの中

間発表めいたものをさせていただいた折に、ご教示をいただいた会員の皆さん、史料の閲覧で

お世話になった石川県立図書館や金沢市立玉川図書館の近世史料館の皆さん、閲覧の折には、

そのつど激励をいただいた石川郷土史学会会長の村井加代子県立図書館長の皆々様に心から感

謝申し上げたい。

 

高校時代の恩師であり、なにかとご指導をいただいた浅香年木先生の二十五回忌法要のご案

内をいただいている。拙いもので申し訳ない気持ちで一杯であるが、生前同様、笑いながらお

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解読する力量不足の私には、明治初年の多少書きなぐったような「佛蘭西遊国日記」の文字は

難解な個所が多く、理解不可能な部分を残したままで上梓とする乱暴をしてしまっている。

 

今思ってみれば、もう少し時間をかけて考証し、それを本論にも生かすとともに、本書自体

をもう少しマシなものに仕上げるべきであったとの忸じく

怩じ

たる思いもある。しかし、人生の終

しゅうえん焉

に近づき、年々歳とともに根気が続かなくなった現状を考えると、多くのご批判を覚悟のうえ、

緻密な考証より、不完全なものでも早めの発表をと、自らを安易に納得させたのである。

 

さて、本書で取り上げた人物のうち、何人かは、これまでに私が紹介したものがベースになっ

ている。例えば、佐野鼎については、昭和五十四年一月に「北國新聞」の北陸黒衣列伝という

シリーズで紹介し、その後いくらかの改定を行って拙書『加賀藩における幕末維新期の動向』

で「幕末維新期の書群像」の一人としても紹介、また、平成十九年十一月には『石川自治と教

育』六五号にも紹介した。伍堂卓爾、沢田直温も『石川自治と教育』の四七九号および六二一

号で紹介したことがあった。しかし、これらの記述には言い足りない部分や明らかな間違いも

あったため、そのことを訂正するという役目も本書に盛り込んだのである。

 

本書をまとめるに当たっては随分多くの人にお世話になった。「佛蘭西遊国日記」との出合

いなどの詳細は、本書の中で述べているので重複は避けるが、本書に掲載することを快くお許

しいただいたことはもちろん、コピーを採らせていただいた後も、読みにくい点を検討するた

め何度か史料の再コピーを送付いただき、また様々な示唆もいただいたさいたま市在住の岡田

和恭氏に厚くお礼申し上げたい。

 

また、金沢星稜大学名誉教授の森山誠一先生は、本書の分野以外のことでも、様々なご批判

やご助言をいただくとともに、貴重な史料を提示いただくなど大変お世話になってきたが、本

書を書くに当たり、多くの史料の提供と示唆をいただいた。特に岡田丈太郎の帰国後の記述は

すべて先生から教授いただいたものである。また、石川県立歴史博物の本康宏史館学芸課長に

は全般にわたって、私には難解であった「佛蘭西遊国日記」の解読については同館の浜岡伸也

資料課長に、清水誠については米田昭二郎氏に、地理の分野では北陸大学非常勤講師の府和正

一郎氏に随分多くのご教示をいただいた。厚くお礼申し上げたい。

 

本書で引用させていただいた先述した三名の方のほか、石川県郷土史学会で少しばかりの中

間発表めいたものをさせていただいた折に、ご教示をいただいた会員の皆さん、史料の閲覧で

お世話になった石川県立図書館や金沢市立玉川図書館の近世史料館の皆さん、閲覧の折には、

そのつど激励をいただいた石川郷土史学会会長の村井加代子県立図書館長の皆々様に心から感

謝申し上げたい。

 

高校時代の恩師であり、なにかとご指導をいただいた浅香年木先生の二十五回忌法要のご案

内をいただいている。拙いもので申し訳ない気持ちで一杯であるが、生前同様、笑いながらお

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許しいただけると思い、失礼を省みず、膝下に呈して私なりの供養の一助としたい。

 

私事で恐縮であるが、前作の『前田慶寧と幕末維新』の時は、初孫寿宗の誕生と重なり、自

分と縁のある新しい生命の誕生が、仕事をする上で精神的な活力を与えてくれたことを実感し

た。今回も二人目の孫実夏の誕生で同じような活力を得た。妻外美栄をはじめとする家族の理

解にも感謝したい。

 

最後になりましたが、出版するに当たり、専門家の立場から適切な助言をいただいた藤岡裕

久氏をはじめとする北國新聞社出版局の皆さんに心より感謝したい。

   

平成二十三年(二〇一一)三月

         

東日本の大震災に心を痛めながら            

著 

   

財団法人前田育徳会『加賀藩史料』藩末編、上・下巻(廣瀬豊作、昭和三十三年刊)

日置謙『石川縣史』第三編(石川県、昭和十五年刊刊)

日置謙など校訂『万延元年訪米日記』(金沢文化協会刊 

昭和二十一年)

日置謙『改訂増補加能郷土辞彙』(北國新聞社、昭和三十一年刊)

坂田精一訳『一外交官の見た明治維新』上・下(岩波書店、昭和三五年刊)

松本三都正『清水誠先生伝』(清水誠先生顕彰会 

昭和四十年刊)

金沢市役所『稿本 

金沢市史』学事編第二(復刻版、名著出版、昭和四十八年刊)

石川県教育史編纂委員会『石川県教育史』第一巻(石川県教育委員会、昭和四九年刊)

北國新聞社編集局「風雪の碑」取材班編『風雪の碑』(北國新聞社、昭和四十三年

NHK特別取材班『ドキュメンタリー明治百年』(日本放送協会 

昭和四十三年刊)

石附実『近代日本の海外留学史』(ミネルヴァ書房 

昭和四十七年刊)

『清水誠顕彰記念誌』(清水誠先生顕彰会 

昭和五十年刊))

村松貞次郎『お雇い外国人 

十五 

建築土木』(鹿島出版会 

昭和五十一年刊)

渡辺実『近代日本海外留学生史』(講談社 

昭和五十二年刊)

ユネスコ東アジア文化研究センター編『資料 

御雇外国人』(小学館 

昭和五十四年刊)

井上久雄『明治維新教育史』(吉川弘文館 

昭和五十九年刊)

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許しいただけると思い、失礼を省みず、膝下に呈して私なりの供養の一助としたい。

 

私事で恐縮であるが、前作の『前田慶寧と幕末維新』の時は、初孫寿宗の誕生と重なり、自

分と縁のある新しい生命の誕生が、仕事をする上で精神的な活力を与えてくれたことを実感し

た。今回も二人目の孫実夏の誕生で同じような活力を得た。妻外美栄をはじめとする家族の理

解にも感謝したい。

 

最後になりましたが、出版するに当たり、専門家の立場から適切な助言をいただいた藤岡裕

久氏をはじめとする北國新聞社出版局の皆さんに心より感謝したい。

   

平成二十三年(二〇一一)三月

         

東日本の大震災に心を痛めながら            

著 

   

財団法人前田育徳会『加賀藩史料』藩末編、上・下巻(廣瀬豊作、昭和三十三年刊)

日置謙『石川縣史』第三編(石川県、昭和十五年刊刊)

日置謙など校訂『万延元年訪米日記』(金沢文化協会刊 

昭和二十一年)

日置謙『改訂増補加能郷土辞彙』(北國新聞社、昭和三十一年刊)

坂田精一訳『一外交官の見た明治維新』上・下(岩波書店、昭和三五年刊)

松本三都正『清水誠先生伝』(清水誠先生顕彰会 

昭和四十年刊)

金沢市役所『稿本 

金沢市史』学事編第二(復刻版、名著出版、昭和四十八年刊)

石川県教育史編纂委員会『石川県教育史』第一巻(石川県教育委員会、昭和四九年刊)

北國新聞社編集局「風雪の碑」取材班編『風雪の碑』(北國新聞社、昭和四十三年

NHK特別取材班『ドキュメンタリー明治百年』(日本放送協会 

昭和四十三年刊)

石附実『近代日本の海外留学史』(ミネルヴァ書房 

昭和四十七年刊)

『清水誠顕彰記念誌』(清水誠先生顕彰会 

昭和五十年刊))

村松貞次郎『お雇い外国人 

十五 

建築土木』(鹿島出版会 

昭和五十一年刊)

渡辺実『近代日本海外留学生史』(講談社 

昭和五十二年刊)

ユネスコ東アジア文化研究センター編『資料 

御雇外国人』(小学館 

昭和五十四年刊)

井上久雄『明治維新教育史』(吉川弘文館 

昭和五十九年刊)

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230231

A・W・Burks『近代化の推進者たち―留学生・お雇い外国人と明治―』(思文閣出版、平成二年刊)

梅溪昇『洪庵・適塾の研究』(思文閣出版 

平成五年刊)

関沢正夫・米田昭二郎『マッチと清水誠』(金沢大学薬学部 

平成八年刊)

松本英治『佐野鼎と共立学校』(学校法人 

開成学園、平成十三年刊)

拙書『加賀藩における幕末維新期の動向』(私家版、平成十四年刊)

拙書『前田慶寧と幕末維新』(北國新聞社、平成一九年刊)

米田昭二郎『補遺 

マッチと清水誠』(日本燐寸工業会 

平成二十二年刊)

水上一久「万延訪米の加賀藩士佐野鼎について」(「北陸史学」一号、昭和二十八年))

今井一良「佐野鼎の英学とTommy・立石斧次郎のこと」(「英学史研究」一五号、昭和五十七年)

今井一良「文明開化と日本人」(『実録石川県史』能登印刷刊、平成三年)

松本英治「佐野鼎の〝学範〟と〝共立学校規則〟について(開成学園紀要『研究論集』二十五号、平

成十六年)

松本英治「加賀藩における洋式兵学者の招聘と佐野鼎の出仕」(「洋学史研究」二十二号、平成十七年)

松本英治「万延元年遣米使節における佐野鼎の帰山仙之助宛書簡(開成学園紀要『研究論集』二十七

号、平成十九年)

長谷川孝徳「近藤岩五郎信成」(「石川自治と教育」第五九一号、平成十七年)

米田昭二郎「日本マッチ工業の開拓者 

清水誠 

新史料に基づく業績の再評価」(「日本海域研究、

四十二号、平成二十三年三月」

今井一良「サトウと七尾―大坂行を共にした英国書記官ミットフォードの記録―」(『石川郷土史学会々

誌』四号・昭和四十六年)

津田進三「黒川良安について」(同七号・昭和四十九年)

丹羽俊二「アーネスト・サトウの能登加賀紀行」(同八号・昭和五十年)

今井一良「オズボン拾遺」(同九号・昭和五十一年)

今井一良「お雇い外国人考(一)」(同十号・昭和五十二年)

今井一良「お雇い外国人考(二)」(同十一号・昭和五十三年)

今井一良「フランスの日本語学者ロニーと黒川誠一郎」(同十二号・昭和五十四年)

今井一良「金沢藩中学東校教師 

長野桂次郎伝―万延遣米使節トミ―少年の生涯―」(同十四号・昭

和五十六年)

今井一良「七尾語学所とパーシバル・オズボン」(同十六号・昭和五十八年)

今井一良「小松の生んだ奇才・沢田直温のこと」(同十七号・昭和五十九年)

フラーシャム・N・良子「嵯峨寿安留学への推薦状と渡航許可まで」(同十八号・昭和六十年)

松島秀太郎「加賀藩軍艦所の鉄工機械類について―陸蒸気は汽車ではない―」(同二十号・昭和

六十二年)

今井一良「加賀藩海外留学生新考―留学生第一号の出国事情・清水誠渡仏年の考究を中心として―」

(二十号・昭和同六十二年)

松島秀太郎「梅鉢海軍の士官たち」(同二十一号・昭和六十三年)

今井一良「大聖寺で客死したお雇い外国人語学教師の名をめぐって―リトルウッドがリッテル・ウォー

ドと誤伝された―」(同二十二号・平成元年)

230231

A・W・Burks『近代化の推進者たち―留学生・お雇い外国人と明治―』(思文閣出版、平成二年刊)

梅溪昇『洪庵・適塾の研究』(思文閣出版 

平成五年刊)

関沢正夫・米田昭二郎『マッチと清水誠』(金沢大学薬学部 

平成八年刊)

松本英治『佐野鼎と共立学校』(学校法人 

開成学園、平成十三年刊)

拙書『加賀藩における幕末維新期の動向』(私家版、平成十四年刊)

拙書『前田慶寧と幕末維新』(北國新聞社、平成一九年刊)

米田昭二郎『補遺 

マッチと清水誠』(日本燐寸工業会 

平成二十二年刊)

水上一久「万延訪米の加賀藩士佐野鼎について」(「北陸史学」一号、昭和二十八年))

今井一良「佐野鼎の英学とTommy・立石斧次郎のこと」(「英学史研究」一五号、昭和五十七年)

今井一良「文明開化と日本人」(『実録石川県史』能登印刷刊、平成三年)

松本英治「佐野鼎の〝学範〟と〝共立学校規則〟について(開成学園紀要『研究論集』二十五号、平

成十六年)

松本英治「加賀藩における洋式兵学者の招聘と佐野鼎の出仕」(「洋学史研究」二十二号、平成十七年)

松本英治「万延元年遣米使節における佐野鼎の帰山仙之助宛書簡(開成学園紀要『研究論集』二十七

号、平成十九年)

長谷川孝徳「近藤岩五郎信成」(「石川自治と教育」第五九一号、平成十七年)

米田昭二郎「日本マッチ工業の開拓者 

清水誠 

新史料に基づく業績の再評価」(「日本海域研究、

四十二号、平成二十三年三月」

今井一良「サトウと七尾―大坂行を共にした英国書記官ミットフォードの記録―」(『石川郷土史学会々

誌』四号・昭和四十六年)

津田進三「黒川良安について」(同七号・昭和四十九年)

丹羽俊二「アーネスト・サトウの能登加賀紀行」(同八号・昭和五十年)

今井一良「オズボン拾遺」(同九号・昭和五十一年)

今井一良「お雇い外国人考(一)」(同十号・昭和五十二年)

今井一良「お雇い外国人考(二)」(同十一号・昭和五十三年)

今井一良「フランスの日本語学者ロニーと黒川誠一郎」(同十二号・昭和五十四年)

今井一良「金沢藩中学東校教師 

長野桂次郎伝―万延遣米使節トミ―少年の生涯―」(同十四号・昭

和五十六年)

今井一良「七尾語学所とパーシバル・オズボン」(同十六号・昭和五十八年)

今井一良「小松の生んだ奇才・沢田直温のこと」(同十七号・昭和五十九年)

フラーシャム・N・良子「嵯峨寿安留学への推薦状と渡航許可まで」(同十八号・昭和六十年)

松島秀太郎「加賀藩軍艦所の鉄工機械類について―陸蒸気は汽車ではない―」(同二十号・昭和

六十二年)

今井一良「加賀藩海外留学生新考―留学生第一号の出国事情・清水誠渡仏年の考究を中心として―」

(二十号・昭和同六十二年)

松島秀太郎「梅鉢海軍の士官たち」(同二十一号・昭和六十三年)

今井一良「大聖寺で客死したお雇い外国人語学教師の名をめぐって―リトルウッドがリッテル・ウォー

ドと誤伝された―」(同二十二号・平成元年)

Page 20: 辞書によれば、「サムライ」には、「武士」という …1 は じ め に 辞書によれば、「サムライ」には、「武士」というほかに、「気骨のある人」という意味がある。

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著者 徳 田 寿 秋 (とくだ としあき)

昭和 16 年(1941)石川県野々市町押野生まれ。同 39 年、金沢大学法文学部史学科卒。高等学校教諭、県教委事務局職員、金沢錦丘高校長、金沢泉丘高校長などを歴任。平成 14 年(2002)3 月定年退職後、19 年 3 月まで石川県立歴史博物館長。現在、石川県観光スペシャルガイド、野々市町教育委員、㈱北陸放送番組審議委員など。著書に『加賀藩における幕末維新期の動向』(平成 14 年刊)、『前田慶寧と幕末維新』(同 19 年刊、泉鏡花記念金沢市民文学賞)がある。

松島秀太郎「西洋夷狄商人ロウレイロ家の人々」(同二十二号・平成元年)

今井一良「加賀藩海外留学生追録―岡田雄次郎・丈太郎・吉井立吉・櫻井省三について―」(同二十三号・

平成二年)

今井一良「関沢明清のこと再び―明清の読みについての新文献その他―」(同二十七号・平成六年)

今井一良「判明したオーズボン雇用約定書」(同二十七号・平成六年)

松島秀太郎「佐野鼎と長崎海軍伝授所」(同二十七号・平成六年)

今井一良「金沢最初のもう一つの異人館スロイス居館の変転と遺品の透彫り装飾」(同二十九号・平

成八年)

今井一良「新発見の元蘭医スロイス居館の写真」(同三十号・平成九年)

寺畑喜朔「伍堂卓爾の生涯とその系譜」(同三十三号・平成十二年)

吉田國夫「金沢藩鉱山教師デッケン」(同三十四号・平成十三年)

吉田國夫「佐野鼎から一葉まで」(同三十七号・平成十六年)

渡辺金雄「佐野鼎の『訪米日記』と兼六園一般開放について」(同三十八号・平成十七年)

フラーシャム・N・良子「卯辰山養生所設立起源についての異論―佐野鼎の『日記』と福沢諭吉の『西

洋事情』から―」(同四十一号・平成二十年)

金谷利勝「加賀藩医師・五堂卓爾の長崎遊学について」(四十一号・平成二十年)

金谷利勝「梅鉢海軍の創設から消滅まで―梅鉢海軍の創設に至るまで―」(四十二号・平成二十一年)

フラーシャム・N・良子「新史料による陸蒸気器械をめぐる諸動向」(四十三号・平成二十二年)

海を渡ったサムライたち 加賀藩海外渡航者群像

発行日 2011(平成 23)年 4 月 20 日 第 1 版第 1 刷著者 徳田寿秋発行 北國新聞社

〒 920−8588石川県金沢市南町2番1号TEL 076−260−3587(出版局)FAX 076−260−3423電子メール [email protected]

ISBN978-4-8330-1802-9

©Toshiaki Tokuda 2011, Printed in Japan◉定価はカバーに表示してあります。◉乱丁・落丁本がございましたら、ご面倒ですが小社出版局宛にお送りください。送料小社負担にてお取り替えいたします。◉本書記事、写真の無断転載・複製などはかたくお断りいたします。

232

著者 徳 田 寿 秋 (とくだ としあき)

昭和 16 年(1941)石川県野々市町押野生まれ。同 39 年、金沢大学法文学部史学科卒。高等学校教諭、県教委事務局職員、金沢錦丘高校長、金沢泉丘高校長などを歴任。平成 14 年(2002)3 月定年退職後、19 年 3 月まで石川県立歴史博物館長。現在、石川県観光スペシャルガイド、野々市町教育委員、㈱北陸放送番組審議委員など。著書に『加賀藩における幕末維新期の動向』(平成 14 年刊)、『前田慶寧と幕末維新』(同 19 年刊、泉鏡花記念金沢市民文学賞)がある。

松島秀太郎「西洋夷狄商人ロウレイロ家の人々」(同二十二号・平成元年)

今井一良「加賀藩海外留学生追録―岡田雄次郎・丈太郎・吉井立吉・櫻井省三について―」(同二十三号・

平成二年)

今井一良「関沢明清のこと再び―明清の読みについての新文献その他―」(同二十七号・平成六年)

今井一良「判明したオーズボン雇用約定書」(同二十七号・平成六年)

松島秀太郎「佐野鼎と長崎海軍伝授所」(同二十七号・平成六年)

今井一良「金沢最初のもう一つの異人館スロイス居館の変転と遺品の透彫り装飾」(同二十九号・平

成八年)

今井一良「新発見の元蘭医スロイス居館の写真」(同三十号・平成九年)

寺畑喜朔「伍堂卓爾の生涯とその系譜」(同三十三号・平成十二年)

吉田國夫「金沢藩鉱山教師デッケン」(同三十四号・平成十三年)

吉田國夫「佐野鼎から一葉まで」(同三十七号・平成十六年)

渡辺金雄「佐野鼎の『訪米日記』と兼六園一般開放について」(同三十八号・平成十七年)

フラーシャム・N・良子「卯辰山養生所設立起源についての異論―佐野鼎の『日記』と福沢諭吉の『西

洋事情』から―」(同四十一号・平成二十年)

金谷利勝「加賀藩医師・五堂卓爾の長崎遊学について」(四十一号・平成二十年)

金谷利勝「梅鉢海軍の創設から消滅まで―梅鉢海軍の創設に至るまで―」(四十二号・平成二十一年)

フラーシャム・N・良子「新史料による陸蒸気器械をめぐる諸動向」(四十三号・平成二十二年)

海を渡ったサムライたち 加賀藩海外渡航者群像

発行日 2011(平成 23)年 4 月 20 日 第 1 版第 1 刷著者 徳田寿秋発行 北國新聞社

〒 920−8588石川県金沢市南町2番1号TEL 076−260−3587(出版局)FAX 076−260−3423電子メール [email protected]

ISBN978-4-8330-1802-9

©Toshiaki Tokuda 2011, Printed in Japan◉定価はカバーに表示してあります。◉乱丁・落丁本がございましたら、ご面倒ですが小社出版局宛にお送りください。送料小社負担にてお取り替えいたします。◉本書記事、写真の無断転載・複製などはかたくお断りいたします。