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Journal of Asian and African Studies, No., 資 料 1. はじめに アフリカ大陸の内陸部において繰り返され た民族移動がこの地域の諸社会の形成に大き な影響を及ぼしたことは衆目の認めるところ である。しかし多くの場合こうした民族移動 に伴う社会変化についての情報源は,多分に 伝説的要素を含む口頭伝承に限られている。 その点北部エチオピアのキリスト教王国 1へのオロモの進出は,不十分なものとはいえ, 複数の文字記録によってその過程を知ること が出来る稀有な事例と言える。 エチオピア教会の聖職者バフレイ Barəy 『ガッラの歴史』訳注 石 川 博 樹 東京大学文学部東洋史学研究室An Annotated Japanese Translation of the Zenahu lä-Galla (e History of the Galla) Ishikawa, Hiroki Department of Oriental History, Faculty of Letters, e University of Tokyo e Oromo, one of the Cushitic speaking groups, migrated into the territory of the Christian kingdom of northern Ethiopia from the sixteenth century to the seventeenth century. e Zenahu lä-Galla (e History of the Galla), written by an Ethiopian clergy named Barəy at the end of the sixteenth century, is the most important source on their migration. Barəy explained the history of the Oromo in Gəəz (Classical Ethiopic), referring to their genealogy, customs, and social institution. is paper is an annotated Japanese translation of the Zenahu lä-Galla, based on the text edited by I. Guidi. Keywords: History, Ethiopia, Oromo (Galla), Migration, e History of the Galla キーワード : 歴史,エチオピア,オロモ(ガッラ),民族移動,『ガッラの歴史』 1アムハラ,ティグレと呼ばれる 2 つの民族を主体とするこのキリスト教王国の版図は,概ね現在の エチオピアの北半とエリトリアの高原部を併せた地域に限られていた。以下,この地域を便宜上「北 部エチオピア」と呼ぶ。 1. はじめに 2.『ガッラの歴史』訳注 3. 参照文献

『ガッラの歴史』訳注repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/50661/1/jaas076004.pdfき継いでいる(Brockelmann 1943-1949 I: 426)。バフレイが目にした史書がマキーンの著作であっ

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Page 1: 『ガッラの歴史』訳注repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/50661/1/jaas076004.pdfき継いでいる(Brockelmann 1943-1949 I: 426)。バフレイが目にした史書がマキーンの著作であっ

Journal of Asian and African Studies, No., 資 料

1. はじめに

アフリカ大陸の内陸部において繰り返された民族移動がこの地域の諸社会の形成に大きな影響を及ぼしたことは衆目の認めるところである。しかし多くの場合こうした民族移動

に伴う社会変化についての情報源は,多分に伝説的要素を含む口頭伝承に限られている。その点北部エチオピアのキリスト教王国1)内へのオロモの進出は,不十分なものとはいえ,複数の文字記録によってその過程を知ることが出来る稀有な事例と言える。エチオピア教会の聖職者バフレイ Baḥrəy

『ガッラの歴史』訳注

石 川 博 樹(東京大学文学部東洋史学研究室)

An Annotated Japanese Translation of the Zenahu lä-Galla (� e History of the Galla)

Ishikawa, HirokiDepartment of Oriental History, Faculty of Letters, e University of Tokyo

e Oromo, one of the Cushitic speaking groups, migrated into the territory of the Christian kingdom of northern Ethiopia from the sixteenth century to the seventeenth century. e Zenahu lä-Galla (� e History of the Galla), written by an Ethiopian clergy named Baḥrəy at the end of the sixteenth century, is the most important source on their migration. Baḥrəy explained the history of the Oromo in Gə‘əz (Classical Ethiopic), referring to their genealogy, customs, and social institution. is paper is an annotated Japanese translation of the Zenahu lä-Galla, based on the text edited by I. Guidi.

Keywords: History, Ethiopia, Oromo (Galla), Migration, � e History of the Galla

キーワード : 歴史,エチオピア,オロモ(ガッラ),民族移動,『ガッラの歴史』

1) アムハラ,ティグレと呼ばれる 2つの民族を主体とするこのキリスト教王国の版図は,概ね現在のエチオピアの北半とエリトリアの高原部を併せた地域に限られていた。以下,この地域を便宜上「北部エチオピア」と呼ぶ。

1. はじめに2. 『ガッラの歴史』訳注3. 参照文献

Page 2: 『ガッラの歴史』訳注repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/50661/1/jaas076004.pdfき継いでいる(Brockelmann 1943-1949 I: 426)。バフレイが目にした史書がマキーンの著作であっ

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が 1593年にゲエズ語(古典エチオピア語)

で著した2)『ガッラの歴史 Zenahu lä-Galla』3)

は,オロモのキリスト教王国内への進出の詳細を,彼らの習俗,系譜,社会制度等にまで踏み込んで解説した著作である。冒頭でオロモの野蛮さを知らしめることを執筆の目的の 1つとして挙げる本書は,オロモ社会に嬰児殺しの慣習が存在するという記述を中心に,後代オロモによってその叙述内容を厳しく批判されるようになった4)。しかしバフレイがオロモを「キリスト教世界に仇なす野蛮な異教徒」とみなすエチオピア教会聖職者であったという点を差し引いたとしても,オロモの進出に関する同時代史料として『ガッラの歴史』の価値が高いことはベッキンガムとハンティンフォードが指摘するとおりである(Beckingham & Huntingford 1954: xxxvi)。大英図書館所蔵のゲエズ語手稿MS Or.

534の冒頭(fols. 1r-3r)に位置するバフレイの『ガッラの歴史』を初めて翻刻し,翻訳を付して刊行したのはシュライヒャーA. W. Schleicherであった。しかしこの版(Schleicher 1893)は,テキスト,訳注ともに不正確な点が目立つことが出版後まもなくリットマン E. Littmannらによって指摘された。そのためグィディ I. Guidiがウィー

ンの旧宮廷図書館Ho� ibliothek zu Wien(現オーストリア国立図書館)に所蔵されていたテキスト5)を参照しながら,大英図書館本をあらためて翻刻して 1907年に出版し(Guidi 1961-1962),その後このグィディのテキストが専ら使用されるようになった。グィディは『ガッラの歴史』のテキストとともに仏訳を刊行し,バッジ E. A. W. Budgeもグィディのテキストに基づいた英訳を『エチオピア,ヌビア,アビシニア史 A History

of Ethiopia, Nubia & Abyssinia』の中に掲載した(Budge 1928 II: 603-613)。さらにベッキンガムとハンティンフォードは,グィディの版を「入手し難い not easily accessible」,バッジの翻訳を「大して満足のいくものではない版 a not very satisfactory version」と評して,グィディのテキストに基づいて英訳を行い,詳細な注を付して『エチオピアの諸記録 Some Records of Ethiopia』におさめている(Beckingham & Huntingford 1954: 109-129)。現在ではゲエズ語原文を講読できる研究者の数が減少していることもあり,この訳注が研究者の間で広く用いられるようになっている6)。しかし詳細に検討すれば,ベッキンガムとハンティンフォードの訳注にも不備は見受けられ,引用の際に注意を要する箇所が

2) 『ガッラの歴史』の末尾の 1文から著者がバフレイという人物であり,第 19章の記述から彼がエチオピア教会の聖職者であったことが判明する(Guidi 1961-1962 I: 229, 231)。執筆年代の推定については,ベッキンガム C. F. BeckinghamとハンティンフォードG. W. B. Huntingfordの解説(Beckingham & Huntingford 1954: 125, 208-210)を参照。

3) バフレイのこの著作には題名はなく,グィディは Zena Gallaというタイトルをつけている(Guidi 1961-1962 I: 223)。しかし冒頭に登場するZenahu lä-Gallaという句をもって題名とすることが多い。いずれも『ガッラの歴史』という意味である。

4) 例えば,『オロミア:オロモ人の歴史の序章 Oromia: Introduction to the History of the Oromo People』を著したガダー・メルバーGadaa Melbaaは,『ガッラの歴史』の冒頭には「アビシニア人〔アムハラ・ティグレ〕のオロモに対する文化的,宗教的,人種的な偏見」が如実に示されていると述べ,バフレイが『ガッラの歴史』を著した主たる目的を「アビシニア人をオロモに敵対させること to encourage Abyssinians against Oromo」であったと断じている(Gadaa 1988: 13)。しかし『ガッラの歴史』の記述を吟味すれば,バフレイが執筆にあたってエチオピア王国内のキリスト教徒がオロモに対して劣勢である理由を明らかにすることを主な目的としていたことは明白である。

5) このテキストについては,ロドカナキスN. Rhodokanakisの解説(Rhodokanakis 1906: 69)を参照。

6) レヴァイン D. N. Levineの『エチオピアのガッラ(オロモ)の歴史History of the Galla (Oromo) of

Ethiopia』(Levine 1993)は,『エチオピアの諸記録』に含まれる『ガッラの歴史』の訳注,オロモ進出以前の南西エチオピアの諸民族に関する解説等を再録し,新たに序を加えたものである。

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89石川博樹:『ガッラの歴史』訳注

少なくない。そこで以下グィディの翻刻したテキストに基づく和訳を掲げ,あわせてベッキンガムとハンティンフォードの訳注に見られる要修正箇所を指摘する。なお翻訳,及び注を施すにあたっては以下の規則に従った。

・グィディのテキストに見られる章番号は彼が付加したものであるが,便宜上そのまま訳出する。・ゲエズ語の表記に用いられるエチオピア文字の転写にあたっては,Aethiopica:

International Journal of Ethiopian Studies

の方式に従う。ただしエチオピア,アムハラ,ティグレ,ゴッジャム,ショア,タナ湖など北部エチオピア史で慣用となっている呼称がある場合にはそれらを用いる。・補足の際には〔 〕を用いる。

2. 『ガッラの歴史』訳注

序章私はガッラGallaの歴史を書き始める7)。

〔彼らの〕集団8)の数,殺人に対する熱心さ,慣習の野蛮さについて知らしめるために。もし私について「なぜ彼は悪しき人々の歴史を,善き人々のもののごとく書いたのか。」と言う者がいるならば,私は「書物の中で探せ。信仰において我々の敵であるムハンマドの歴史やムスリムの王たちの歴史が書かれていることを見るように9)。ギヨルギス・ワルダ・アミドGiyorgis Wäldä Ämid10)は愚かなアジャム Äğäm11)の王たち,すなわちアフリドン Äfridon12)やその他のペルシア Farsの王たち,そして現在ソフィ Sofi と人々が呼んでいる者たち13)の歴史を書いている14)。」と答えて言うであろう15)。

7) 原文では完了形が用いられており,厳密には「書き始めた」とすべきであるが,文脈から「書き始める」と意訳した。

8) ここで「集団」と訳出した語は nägäd(複数形 ängad, änagəd)である。この語には,部族 tribe,氏族 clan,リネージ lineageといった多様な訳語があてられる。バフレイの言う nägädがどのような性質を持った集団であったのかを特定することは困難であるため,本稿では「集団」という訳語を用いる。

9) ベッキンガムとハンティンフォードはこの文の末尾を「汝は見るであろう You will fi nd」と訳している。しかし用いられている動詞は接続法現在形の tər’äyであるので,「見るように」と訳した方がよかろう。

10) コプト教徒の歴史家ジルジース Jirjīsことマキーン・ブン・アル=アミード Al-Makīn b. al-‘Amīd(生没年:ヒジュラ暦 602-672年/西暦 1205-1273年)のこと。マキーンはアラビア語で史書を著し,彼の死後ムファッダル・ブン・アビル・ファダーイルMufaḍḍal b. Abi ’l-Faḍā’ilがそれを書き継いでいる(Brockelmann 1943-1949 I: 426)。バフレイが目にした史書がマキーンの著作であったならば,ムファッダル・ブン・アビル・ファダーイルによる増補版に,14世紀から 16世紀にかけてのイスラーム世界の歴史を追補したものと推測される。しかしペルシア王の治績を記した別の史書であった可能性も否定できない。

11) アラビア語起源の語で,ゲエズ語,アムハラ語においてもペルシア語やペルシアそのものを意味する(Kane 1990 II: 1317)。

12) 『シャーナーメ Šāh-nāma』等に見えるペルシアの神話上の英雄フェリードゥーン Ferīdūnのこと(Aḥmad Tafażżolī 1999)。

13) サファヴィー朝のシャーのこととされる(Beckingham & Huntingford 1954: 111)。14) 序章の末尾は複数の解釈が可能であり,上掲の訳はベッキンガムとハンティンフォードの訳とは異

なる(Ibid.)。まず「愚かな」という形容詞は,訳出したように「アジャムの王たちに」という句を修飾しているととることも,「歴史」に懸かっているとして「愚かな歴史」と訳すこともできる。次に「ソフィと人々が呼んでいる yəsämməyəwwomu bä-zəntu zämän Sofi 」という 1文について,ベッキンガムとハンティンフォードは直前に位置する等位接続詞 wäを無視し,「その他のペルシア王たち」を修飾しているものと解釈している。しかし神話上の人物であるフェリードゥーンと実在するサファヴィー朝君主を併置したものとみなすよりも,訳出したように wäの後に関係代名詞を補い,「アフリドンやその他のペルシアの王たち,そして現在ソフィと人々が呼んでいる者たち」と訳した方がよいのではなかろうか。

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第 1章本書の著者16)は言う。ハツェ ḥäṣe17)=ワ

ナグ・サガドWänag Sägäd18)の時代に,ガッラは西から彼らの国のガラナGälänaという川を越えてバリ Baliの辺境にやって来た。〔オロモ社会には〕バライトゥマ Bäräytumaとボラン Boränという 2つの集団が存在した19)。バライトゥマは 6人の子をもうけた。長子はカラユKäräyu,2番目はマラワMäräwa,3番目はイトゥ Itu,4番目はアカチュ Äkäču,5番目はワランティシャWäränṭiša,6番目はフンバナHumbäna。ボランの父はサピラ Säp.iraと言った。サピラはダチャ Dač.äをもうけ,ダチャはマチャMäč.aをもうけ,マチャはダアレ Dä’äleとジダĞidaをもうけた。これらの 2人の兄弟が多くの集団をもうけた。すなわちダアレの子は〔長子は〕ホコHoko,2番目はチェレ Č. əle,3番目はオボObo,4番目はスバSuba。ジダは長子ハカコḤäkako,第 2子グェドルGwədru,第 3子リバン Libänをもうけた。ダチャはダチ Dač.(人々は彼らを彼自身の名で呼ぶ),コノKono,バチョBäčo,ジェレĞəle。これらは多くの集団をもうけた。すなわちバチョの子の名は,ウル

‘Uruとイル Ilu。ダチの子はソッド Soddo,アボ Äbo,ガッランGallan。コノの子はサクサク Säqsäq,リバン20)。ジェレの子はエラ Ela,アボ21),レイス Lə’is。数が多いので,彼ら全てがトゥラマ Tulämaと呼ばれる。かつて彼らはともに戦った。しかし長い時を経て,彼らは争い,アブレハム Äbrəhamとロト Loṭが分かれたごとく,袂を分かった。家畜の数が多くなったときに,彼ら〔アブレハムとロト〕は「汝は右に,私は左に分かれよう。そうでなければ私が右に,汝は左に〔分かれよう〕。」と互いに言い合った22)。〔アブレハムとロトの間に〕起こったごとく〔オロモの間に分離が〕起こった23)。ボランがアンビサ Ämbisaと呼び,バルトゥマBärtumaがロバレ Robaleと呼ぶルバ lubaの時代に,ダアレの 2つの集団チェレとホコ,ジェダĞədaの 2つの集団リバンとグェドルはそれぞれの兄弟と分かれて連合し,アフレ Äfreと呼ばれた。ビルマジェ Birmağeと呼ばれるルバの時代に,ジェダの子ハカコ,ダアレの子アボ24)とスバも連合し,サダチャ Sädäčaと呼ばれた。彼らは多くの集団をもうけた。以下が彼らの名である。チェレの子はガランGälam,ワボWäbo。ホコ

15) このようにバフレイは当時キリスト教王国を混乱に陥れていたオロモに関する書を執筆することについて弁明している。このようなバフレイの執筆姿勢に窺がうことのできる当時の北部エチオピアにおける歴史叙述の特色については,拙稿(石川 2007)を参照。

16) 原文には bä‘alä mäṣḥäfとあり,直訳すれば「書物の所有者」となる。グィディ,ベッキンガムとハンティンフォードが訳したとおり(Beckingham & Huntingford 1954: 111; Guidi 1961-1962 II: 195),著者を意味すると考えるのが妥当であろう。

17) 北部エチオピアのキリスト教王国の君主は古代イスラエル王国のソロモン王の後裔と称した。そのためこの王国はソロモン朝エチオピア王国と呼ばれる。君主の称号としては「皇帝」と訳される「諸王の王 nəguśä nägäśt」がよく知られているが,この「ハツェ」という称号も用いられた。

18) ソロモン朝皇帝は洗礼名か即位時につけられる「王国の名 səmä mängəśt」と呼ばれる即位名throne nameで呼ばれることが多い。ワナグ・サガドはソロモン朝皇帝レブナ・デンゲル Ləbnä Dəngəl(在位 1508-1540年)の即位名である。

19) 末尾にボラン系及びバライトゥマ系オロモの系図を掲げた(系図 1)。20) ジダの第 3子もリバンという名であった。21) ダチの第 2子もアボという名であった。22) 創世記 13:9には,アブラム(アブラハムの初名)がロトに言った言葉として「あなたの前には幾

らでも土地があるのだから,ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら,わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら,わたしは左に行こう。」とある。

23) ベッキンガムとハンティンフォードはこの 1文を訳出していない。24) 第 1章前半ではオボと記されている。

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91石川博樹:『ガッラの歴史』訳注

の子はキラモKirämo,エムル Emuru,ジダ25)。リバンの子はワリソWaliso,クェタウェ Kwətawe,アムイェ Ämye。グェドルの子はシルバ Sirba,マロルMälol,チャラカ Č. äräqa。ハカコの集団26)はアボ27),ハルスḤärsu,リム Limu。スバの集団はハガラバボḤägäläbabo,チュッラ Č. urra。アボの集団はサヨ Säyo,アボノ Äbono,トゥムエTum’e,レカ Leqa。お互いに良好な関係にある時には,これら全てがマチャと呼ばれる。争っているときにはアフレ,サダチャと呼ばれる。もしこれら全てがトゥラマとともにいるならば,彼らはサピラと呼ばれる28)。ボランは 12人の子をもうけた29)。長子はダチャ,2番目はジェレ,3番目はコノ,4番目はバチョ。彼らはトゥラマと呼ばれる。5番目はハカコ,6番目はオボ,7番目はスバ。彼らはサダチャと呼ばれる。8番目はチェレ,9番目はリバン,10番目はグェドル,11番目はホコ。彼らはアフレと呼ばれる30)。

第 2章バトラ・アモラ Bäṭrä Ämora31)を破壊し

たダウェ Däweはボランの人々の出身である。他の〔集団の〕出身であると言う者も存在するが,彼はそれ〔ダウェ〕がボランと戦ったということに根拠を見出している。〔しかし〕これは馬鹿げた情報であり,正しくな

い。〔事情を〕正確に知る者mäṭäyyəqは言う。彼ら〔ボラン〕が彼らの国から出発した時に,出発した者は全てではなく,〔留まることを〕望む者は留まり,〔出発することを〕望む者だけが出発した。というのも〔ボランの社会には〕命令を下す統治者が存在せず,〔各人は〕心にかなったことを行なうからである。〔その後〕ボランの中で留まった者は彼らの国を出発してクェラKweraの道を進んだ32)。ファシル Fasilは彼らを攻め,彼らは彼〔ファシル〕を殺害した33)。ダウェはキリスト教徒との戦いを始めた。当時この史書 tarikの著者は「私はファシルを殺した者を恐れる。といのも彼はキリスト教徒の血を味わったからである。」と予言して言った。それはバトラ・アモラとワジュWäğを破壊した。彼の言ったことが現実のものとなった。というのも予言の魂mänfäsä tənbitは聖職者たちから離れなかったからである34)。ダウェはこの予言者を追い,彼の国であるガモGämo35)を荒廃させ,彼が所有していたもの全てを略奪した。〔それでは〕ここまで取り上げてこなかったバライトゥマの歴史に話を戻すことにしよう。

第 3章カラユは 6人の子をもうけた。それらは多

くの強力な集団となった。彼らの中の最初のものはリバン36),2番目はワッロWällo,3

25) マチャの第 2子もジダという名であった。26) ハカコ,スバ,アボについては「子たち」ではなく「集団」という語が用いられている。27) ダチの第 2子,ジェレの第 2子もアボという名であった。28) これはボランの誤りであろう。ゲエズ語年代記に「サピラ」という名称は現れず,バフレイ自身も『ガッラの歴史』においてこの集団を「ボラン」と呼んでいる。

29) テキストには 11人の名しか挙げられていない。30) 第 1章の末尾の記述は,これまで述べられてきたボランの系譜と矛盾する。おそらくボランを構成

する 3つの連合トゥラマ,サダチャ,アフレの構成集団を列挙したのであろう。31) ベッキンガムとハンティンフォードによれば,バトラ・アモラとはショア南部の地域であった

(Beckingham & Huntingford 1954: 231)。32) 原文を直訳すれば,「彼らはクェラの道において彼らの国を出発した。」となる。33) ソロモン朝皇帝サルツァ・デンゲルŚärś.ä Dəngəl(在位 1563-1597年)の年代記にも,皇帝がダウェ

と戦うためワジュに向かったという記述がある(Conti Rossini 1961-1962a I: 127)。34) この 1文の意味は明らかではない。35) ハンティンフォードによれば,ガモはアバヤ湖の西方に位置していた(Huntingford 1989: 94)。36) ジダの第 3子,コノの第 2子もリバンという名であった。

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92 アジア・アフリカ言語文化研究 76

番目はジェレ37),4番目はオボ38),5番目はスバ39),6番目はバラ Bäla’。ワッロは 6人の子をもうけた。すなわちワラ・ブコWärä Buko,ワラ・グェラWärä Gwəra’,ワラ・ノレエルWärä Nole’elu,これらはワッロという名前である。そしてワラ・カラユWärä Käräyu,ワラ・イルWärä Ilu,ワラ・ノレアリWärä Nole’äli。これら 3つはサダチャと呼ばれる40)。彼らが分裂したのは,彼らがアボリ Äboliを殺害したときである41)。現在彼らは和解し,我々に対して陰謀を企て,同盟を結んでいる。

第 4章マラワ・アヤMäräwa Äyaはアナ Äna,ウル42),アバティ Äbätiをもうけた。彼らの子と孫の数は増えた。それらは多くの集団となり,集団ごとに名前が付けられた。彼らには他の民のごとき王も領主もない。しかし彼らは 8年間ルバに従う。8年後,次のルバが名づけられ,それまでのものは退く43)。このようにそれぞれの時期に彼らは〔新たなルバの形成を〕行う。ルバという語は同じ時に割

礼を受けた者を意味する。彼らの割礼の掟はこのようなものである。というのもルバが退くときには44),全てのバルトゥマとボランが彼らの名を用い始めるからである。王の部隊 ḥäraがセッルス・ハイレ Śəllus Ḫayle45),バデル・ツァハイ Bädəl Ś. ähay46),ギヨルギス・ハイレGiyorgis Ḫayle47)と名づけられるように。

第 5章バリへの戦いを始めた時に割礼を受けたのはメルバフMəlbaḥであった。語る者がいなかったため,それ〔メルバフ〕の父の名を私は知らない。

第 6章2番目のルバはムダナMudänaと呼ばれた。その父の名はジェバナĞebänaである。これがワビWäbi川を越えた。

第 7章3番目のルバはキロレKiloleと呼ばれた。これはアダル・マブラク Ädäl Mäbräq48)の

37) ダチャの第 5子もジェレという名であった。38) ダアレの第 3子もオボという名であった。39) ダアレの第 4子もスバという名であった。40) ボランのハカコ,アボ,スバの連合もサダチャと呼ばれた。41) 『ガッラの歴史』第 13章によれば,アボリが殺害されたのはビルマジェと呼ばれるルバの時代で

あった。42) バチョの長子もウルという名であった。43) オロモ社会には一定期間に生まれた若者が年齢組を形成し,成人した後に軍事,統治,祭事と社会

的役割を順次代えていくガダ体系と呼ばれる年齢階梯制が存在した(Beckingham & Huntingford 1954: lxxi)。バフレイは統治を担う年齢組をルバと呼んでいる。なおルバとガダ体系の関連については,アスマロン・レゲッセ Asmarom Legesseの解説(Asmarom 1973: 90)を参照。

44) ベッキンガムとハンティンフォードはテキストに「ルバが退くとき」とあることを注において指摘した上で,この部分を「ルバが形成されるとき when a luba is formed」と意訳している

(Beckingham & Huntingford 1954: 115)。45) アムハラ語で「三位一体は我が命」の意。46) アムハラ語で「勝利の中の太陽」の意。47) アムハラ語で「聖ギヨルギスは我が命」の意。この部隊は『サルツァ・デンゲル年代記』において

しばしば言及されている(Conti Rossini 1961-1962a I: 26, 27, 33, 34, 40, 46)。48) ベッキンガムとハンティンフォードは,アダル・マブラクをソロモン朝皇帝ザルア・ヤコブ Zär’ä

Ya‘qob(在位 1434-1468年)がダワロに置いた部隊の名称であるバアダル・マブラク Bä’ädäl Mäbräqの誤りとみなしている(Beckingham & Huntingford 1954: 115-116)。しかしダワロ近辺にアダル・マブラクという地名が存在しており(Huntingford 1989: 124),グィディのごとくアダル・マブラクを地名として訳すべきであろう。

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93石川博樹:『ガッラの歴史』訳注

ようなダワロの低地 qwällatä Däwaroとその低地の人々 zä-qwällatiha49)を攻めた。

第 8章4番目のルバはビフォレ Bifoleと呼ばれた。これがダワロ全土を破壊し,ファタガル Fäṭägarへの戦いと人々を捕らえることを始めた。彼らは彼らを奴隷とし,ガバルgäbarと呼んだ50)。それ〔ビフォレ〕はコッソ kośśoを飲むことを始めた51)。これまで述べてきた最初のルバたちは,人々,すなわち男たちと女たちを殺し,馬,騾馬も殺した。羊,山羊,牛以外には生かしておかなかった。〔しかし〕彼らは腹の中の生き物を薬で殺さなかった。家畜と同じように,それ〔回虫〕は彼らの足に垂れた。

第 9章5番目のルバはメスレMəsleと呼ばれた。これがジャン・アモラ Žan Ämora52)を壊滅させ53),ダゴ DägoにおいてハマルマルḤämälmalと戦い54),全ての地方を破壊した。それ〔メスレ〕はそれらを支配し,家畜とともに入った。かつてのガッラたちはワビから来て戦い,そこに戻っていた。我々の王アツナフ・サガド Äṣnaf Sägäd55)はアサ・ザナブ ‘Aśa zänäbから来たそれ〔メスレ〕と戦った56)。ヌルNur57)があることを行なった後に58),彼の国に下ったとき,彼ら〔ヌルとメスレ〕はハザロḪäzälo近郊において遭遇し,それ〔メスレ〕は数え切れないほど多くの彼〔ヌル〕の部隊 śärawituを壊滅させた。ガッラが我々の国に到来して以来,この時ほ

49) グィディはこの部分を qwällaññaに直して「住民」と訳し,ベッキンガムとハンティンフォードもそれに従っている(Beckingham & Huntingford 1954: 115; Guidi 1961-1962 II: 198)。これはアムハラ語の単語で,「クァラ qwälla(低地)の住人」を意味する。しかしゲエズ語にも同じく低地を意味する qwälla(複数形 qwällat)という単語があり,修正を加えずとも「それ〔アダル・マブラク〕の低地の人々」と解釈することが可能である。

50) ガバルとはオロモ語の gabbariiである。この語は「地代を納める者」を意味する(Foot 1970: 21; Tilahun 1989: 231; Borello 1995: 156)。17世紀前半にエチオピア王国内で布教活動に従事したイエズス会士アルメイダM. de Almeidaは著書『高地エチオピア史』において 1章をオロモの歴史の解説に割き,その中で「ビフォレ Bifolê」について「それは多くの人々を捕らえて奴隷とし,耕作者たちについては,地代 foroを納めさせた。」と述べている(Beccari 1969 V: 478)。

51) アルメイダによれば,コッソとはオリーブ程度の大きさの樹木の名称であった。その実は苦く,牛の生肉を食べるために条虫に悩まされていたアムハラ・ティグレは虫下しとして用いていた(Ibid., 216)。パンカーストはエチオピアにおけるコッソの利用について詳しく解説している(Pankhurst 1969)。

52) ソロモン朝皇帝バエダ・マルヤム 1世 Bä’ədä Maryam(在位 1468-1478年)の年代記にも現れる部隊名(Perruchon 1893: 143, 148)。

53) 原文では「殺害する qätälä」という動詞が用いられている。54) サルツァ・デンゲルの年代記及び『小年代記』によれば,ハマルマルはソロモン朝皇帝ナオド

Na‘od(在位 1494-1508年)の娘ロマナ・ワルク Romanä Wärqの息子であり,サルツァ・デンゲルの即位後反乱を起こして敗死した(Basset 1882: 23; Perruchon 1896: 179; Conti Rossini 1961-1962a I: 5-7, 11, 12, 14-23, 25, 26)。なお『小年代記』とは,18世紀前半に編纂された史書であり,アダムからソロモン朝の始祖ユクノ・アムラクまでの系譜とソロモン朝歴代皇帝の治績によって構成されている。かつて『縮約版年代記 Abbreviated Chronicle』と呼ばれていたが,皇帝年代記群を単純に要約したものではないため,『小年代記 Short Chronicle』と呼ばれるようになっている。

55) アツナフ・サガドとはソロモン朝皇帝ガラウデウォスGälawdewos(在位 1540-1559年)の即位名である。

56) 本書ではソロモン朝皇帝に対して動詞の 3人称複数形が用いられている。57) ヌルとはヌル・ブン・ムジャーヒドNur b. Mujāhidのこと。彼はアフマド・ブン・イブラー

ヒーム Aḥmad b. Ibrāhīm(ゲエズ語史料のグランGraññ)の甥で,ヒジュラ暦 959年(西暦1551/1552年)にハラルのアミールとなった。彼はムスリム軍を率いてエチオピア王国内に攻め込み,1559年にガラウデウォスを殺害した(Trimingham 1952: 91-93)。

58) 原文を直訳すれば,「彼が行なったことを行なった後に」となる。これはヌル・ブン・ムジャーヒドがガラウデウォスを殺害したことを婉曲に述べたものである。

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94 アジア・アフリカ言語文化研究 76

ど多くの人が死んだことはない。この時壊滅したヌルの部隊 śärawitä Nurは,アウサの部隊 śärawitä Äwśa(彼らについては然るべきときに語ることにしよう59))よりも数が多かった。というのも神がマジュMäğ60)で流された僕たちの血のために,彼らに復讐したのである61)。メスレは馬や騾馬に乗ることを始めた。これは〔オロモ社会には〕それまでになかった〔慣習である〕。彼らは自分たちより前のルバたちについて「かつて 2本あるいは 3本の脚で歩いていた者たちを,私は 4本の脚で歩くようにさせた。」と言っている。「3本の脚で」という表現は,道で疲れた時に槍にもたれることについて言っているのである。

第 10章これまで述べてきた 5つのルバは,40年間統治した。〔この間〕彼らの子供たちは割礼を受けなかった。未割礼の者は息子や娘を捨てる62)。これが彼らの掟である。割礼を受

けると,彼らは息子を育てる。娘については,割礼を受けた 2年か 3年後まで捨てる63)。

第 11章5つのルバの後,メルバフの子らが割礼を受け,ハルムファḤärmufaと呼ばれた。ハルムファはギヨルギス・ハイレをカチェノQäč.əno64)において壊滅させた。ボランはそれをドゥル duluと呼んだ65)。それ〔ハルムファ〕はガニGañi66),アングァト Ängwät,アムハラ Ämḥäraを破壊し,バゲメドルBägemədrへの戦いを始めた。バルトゥマのハルムファはバゲメドルを攻め,ハルボḤärboの兄弟ワカWakaを殺害した67)。ハルムファは「湖を着るシダマ Sidama68)を,私は湖に投げ込んだ。」と侮辱して言った。

第 12章8年の後,ハルムファが退き,ムダナの子ロバレが名づけられた。その名は第 6章に書かれている。それ〔ロバレ〕はショアを荒

59) バフレイはこの後「アウサの部隊」について言及していない。60) これはヌル・ブン・ムジャーヒドがガラウデウォスを殺害した地であるワジュの誤りである。61) ガラウデウォスを殺害したハラルを中心とするムスリム勢力は,16世紀後半にオロモの攻撃を受

けて弱体化した(Ibid., 95-97)。62) ここで「捨てる」と訳したのは wägäräという動詞であり,本来「投げる」という意味を表す。63) アルメイダは,オロモが結婚後 6,7年間は全ての子供を男女の区別なく捨て,餓死させると記し

ている(Beccari 1969 V: 476)。チェルッリ E. Cerulliは「今日ではほとんどなくなっている」と断ったうえで,オロモに娘を捨てる慣習があったことを伝えている。しかしこの場合も通常捨て子は他の家族に養われるか,奴隷商人に渡されたという(Cerulli 1922: 127)。ベッキンガムとハンティンフォードは,バフレイとアルメイダの捨子に関する記述について,オロモの慣習を誤解して伝えたものと考えている(Beckingham & Huntingford 1954: 118)。しかし佐藤は北ケニアのラクダ遊牧民レンディーレ社会において,未婚女性が妊娠した場合に人工流産を試みたり,産んだ嬰児を殺害する慣習が存在することを報告している(佐藤 1993: 66-69)。バフレイとアルメイダの記述が正確でないにしても,それらが年齢階梯制と結びついた何らかの慣習に関する伝聞に基づいている可能性はあるのではなかろうか。

64) ハンティンフォードによれば,カチェノとはイファト Ifatの地名である(Huntingford 1989: 106, 156)。

65) オロモ語で duluとは「戦場に赴く」という動詞である(Tilahun 1989: 190; Borello 1995: 128)。66) ベッキンガムとハンティンフォードは「ガンGañ」と記しているが(Beckingham & Huntingford

1954: 118),テキストにはガニとある。ハンティンフォードによれば,ガニは青ナイルの支流の 1つであるバシロ川の上流部に位置した(Huntingford 1989: 177)。

67) ワカについては明らかではないが,ハルボは『サルツァ・デンゲル年代記』にも言及されている(Conti Rossini 1961-1962a I: 7, 9, 37, 43-46, 86)。

68) ここで「湖」と訳出した語は baḥrであり,「大河」という意味もある。グィディが推測するとおり(Guidi 1961-1962 II: 200),この場合シダマとはキリスト教徒を意味し,「湖を着る」とはエチオピア教会で行なわれる全身を水につける洗礼を意味しているのであろう。

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95石川博樹:『ガッラの歴史』訳注

廃させ,ゴッジャムに対する戦いを始めた。ハツェゲ ḥäṣege69)は彼らとゼワイ Zəwayにおいて戦った70)。そして彼は多くの者を殺害し,その牛を略奪した。その略奪品によって多くの者が豊かになった。ロバレは貴族たちの長 rə‘əsä mäkwanəntであったアズマチ äzmač71)=ザルア・ヨハンネス Zär‘a Yoḥännəsを殺害した72)。彼に平安あれ。この時代,ソリ Soli,ビダロ Bidaro,イララIlalaがボランのスバの集団にいた73)。5年後,ハツェゲ74)はワイナ・ダグアWäyna Däg‘a75)においてアバティのロバレと戦い,1人残らず殺害した。10人しか〔生き〕残らなかったと言う者もいる76)。彼らは彼らの国に〔敗北を〕知らせるために到着した。

第 13章8年後ダワロを荒廃させたキロレの子であるビルマジェが名づけられた。ボランのビルマジェは背丈に見合う牛 lahmの革の盾をつ

くった。それ〔ビルマジェ〕は弓の人 säb’ä qästであるマヤMaya77)と戦い,彼らを打ち負かした。というのもそれ〔ビルマジェ〕は乾いた牛の革の盾で守られており,射るところが少なかったからである。それ〔ビルマジェ〕は王の軍の指揮官であるアズマチ=ダハラゴト Däḫärägot78)を圧し,ゼナイZenayと彼のワアリたちを殺害した。当初彼〔ダハラゴト〕はそれ〔ビルマジェ〕をしばしば打ち破った。しかしキリスト教徒たちの贖罪が終わっていないため,神の望みによって勝者〔ダハラゴト〕は打ち負かされた79)。それ〔ビルマジェ〕は彼〔ダハラゴト〕の任地であるアルエナ Är’əñä80)を荒廃させ,ガトGato,バトロ Bätro,バドロ Bädlo,アムド ‘Amdoその他の人々を殺害した。かつて全ての貧しき者が豊かになった 2つの地方が荒地となった81)。バルトゥマのビルマジェはダンブヤ Dämbyaを攻め,皇族82)のアボリ,バフル・ナガシュ Baḥr nägaš=サムラ・

69) ソロモン朝皇帝の称号の 1つ。ベッキンガムとハンティンフォードはこれを「エチオピア王」と訳しているが(Beckingham & Huntingford 1954: 119),意訳である。

70) 『小年代記』によれば,サルツァ・デンゲルは治世 10年目にゼワイに向かい,ボランと戦った。この時のルバはアンビサであったという(Basset 1882: 23; Perruchon 1896: 179)。バフレイが第 1章で述べているように,バルトゥマがロバレと呼ぶルバをボランはアンビサと呼んだ。

71) 「将軍」の意。72) 『小年代記』によれば,ザルア・ヨハンネスが死亡したのはサルツァ・デンゲル治世 11年目であっ

た(Basset 1882: 23; Perruchon 1896: 179-180)。73) この 1文の意味は明らかではない。74) ベッキンガムとハンティンフォードはここを「ハツェ=サルツァ・デンゲル」と訳しているが

(Beckingham & Huntingford 1954: 119),意訳である。75) ワイナ・ダグアはベガメドルにあり,ガラウデウォスがアフマド・ブン・イブラーヒーム率いるム

スリム軍に勝利をおさめた地として知られている。76) 『小年代記』によれば,サルツァ・デンゲルは治世 15年目にアバティと戦い,1人残らず殺害した

という(Basset 1882: 24; Perruchon 1896: 180)。77) 15世紀から 17世紀にかけてゲエズ語史料に登場する民族で,毒矢を用いることで有名であった

(Beckingham & Huntingford 1954: 120)。78) ダハラゴトはサルツァ・デンゲル治世にワジュ,ゴッジャム,ティグレとバフルメドルの統治者

を歴任している(Conti Rossini 1961-1962a I: 42, 44, 58, 72, 87, 100, 103, 108, 128, 133, 134, 144, 154)。

79) ベッキンガムとハンティンフォードは「勝者は打ち負かされた。」という 1文を訳出していない。80) ベッキンガムとハンティンフォードによれば,アルエナはワジュ内の地名であった(Beckingham

& Huntingford 1954: 120)。81) ベッキンガムとハンティンフォードは「かつて訪れた貧しき人々全てを豊かにした 2つの地方が

荒廃した。Two districts became desert, two that used to enrich all poor men who visited them.」と意訳している(Ibid.)

82) 原文の該当箇所を直訳すれば「王国の一族 zämädä mängəśt」となる。皇族の意であろう。

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96 アジア・アフリカ言語文化研究 76

アブ Śämrä Äbと彼の同行者 kalə’anihuを殺害した83)。これは,行いにおいては勇敢で,はかりごとにおいては賢明な我らの王84)

がいないところで起こった。もし彼がダンブヤにいたならば,ロバレに起こったことがビルマジェにも起こっただろう85)。しかし勝利が交互に起こるように,神は我らの王の進路をダモト Damot86)に向けた。人々は彼が向かうところに勝利を見た。貴族たちmäkwanənt87)は彼がいないところでは打ち負かされた。

第 14章ボランのビルマジェはダモトの地を包囲した。それ〔ボランのビルマジェ〕はその地方を救う者も救援する者もいないのを見て,人々と家畜を捕らえた。当時ダジュアズマチdäğ’äzmač=アスボ ‘Asbo88)が〔ダモトに〕いた。彼は兄弟と協議した。彼は軍を集め,〔ボランのビルマジェを〕追跡し,それ〔ボランのビルマジェ〕が戦利品を分配しているところに至った。選ばれた者たちと騎兵たちは彼らを 3重に囲んだ。すなわち 3つの部隊 äwrariで包囲したのである。ガッラは逃げ,殺害された。多くの者が大きな洞窟に隠

れた。彼〔アスボ〕は洞窟の入り口に木を集め,火を放った。多くの者が火を恐れて〔洞窟から〕出てきて捕らえられた。彼らは捕らえていた皇子89)を多くの捕虜とともに彼〔アスボ〕のもとに連れてきて差し出した。彼ら〔アスボ配下の兵士たち〕は死んだ者の首を斬った。彼〔アスボ〕は彼の地方を警護した。その後ビルマジェの統治期間が終わるまで,キリスト教徒の贖罪が未だ終わっていなかったために90),神の手は振り上げられていた。たとえビルマジェの時代に彼ら〔キリスト教徒〕が守られたとしても,今後適切な場所で語るであろう最後のルバが彼らを滅ぼすにちがいない。

第 15章ビルマジェが退いた後,ビフォレの子ムルアタMul’ätaが名づけられた。それはドゥラグト dulagutoをゴッジャムで行なった。ドゥラグトとはグェトヤ gwətyaの戦いを意味する91)。というのも第 4章の冒頭92)で述べたように,割礼を受けると,ガッラは自分たちの名を使い始める。それ〔新たに形成されたルバ〕は前の者が攻めていない地方を攻める。人間や大型の野獣を殺した者は頭の中央

83) 『サルツァ・デンゲル年代記』と『小年代記』には,アボリ及びバフル・ナガシュ=サムラ・アブの名は見えない。

84) ベッキンガムとハンティンフォードは「我らの王サルツァ・デンゲル」と王名を追加している(Ibid., 121)。

85) これは第 12章で語られるサルツァ・デンゲルのロバレに対する勝利を指している。86) ベッキンガムとハンティンフォードは「ダンブヤから遠く離れたダモト Dāmot, far from

Dambyā」と説明を追加している(Ibid.)。87) アムハラ・ティグレ社会には,マクァンネンmäkwännən(複数形mäkwanənt),バラッバト

balabbat,ガッバル gäbbarという 3つの階層が存在し,これらはそれぞれ貴族,郷紳,平民にあたる。西欧に見られた厳格な身分差を伴う階級とは異なり,アムハラ・ティグレ社会における階層間の境界は曖昧であり,社会の流動性は高かった(Levine 1965: 155-156; Crummey 1980: 134-136)。

88) ソロモン朝皇帝ススネヨス Susnəyos(在位 1607-1632年)の年代記によれば,アスボはオロモに捕らえられていたススネヨスを救出した将軍であった(Esteves Pereira 1892-1900 I: 5-6)。

89) 原文の該当箇所を直訳すれば「王国の子 wäldä mängəśt」であるが,皇子の意であろう。90) 原文には期限を表す接続詞 əskäが用いられているが,理由を表す接続詞 əsmäの誤りであろう。91) グェトヤについてグィディらは解釈に窮している(Beckingham & Huntingford 1954: 122; Guidi

1961-1962 II: 202)。しかしオロモ語にはグッティッヤ guttiyyaという語があり,これは髪の房を意味する(Tilahun 1989; 284; Borello 1995: 192)。章後半部で説明される,人間や野獣を倒した後に剃り残す髪の房のことであろう。

92) ベッキンガムとハンティンフォードは「第 4章の末尾 the end of Chapter 4」と訳しているが,「冒頭」の誤りである。

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97石川博樹:『ガッラの歴史』訳注

に少し髪を残して全ての頭髪を剃る。殺していない者は虱で苦しむ。そのためにそれ〔新たに形成されたルバ〕は我々を殺すことを欲するのである。その時ハツェゲ93)はダモトの地に赴くことを決定した。その途上,彼はガッラがゴッジャムの地を攻めたこと,彼の母である女王が難を避けるためにダブラ・アブレハム Däbrä Äbrəhamに登ったことを聞いた。アツナフ・サガド王とアドマス・サガド Ädmas Sägäd王94),彼らに平安あれ,という彼の父祖95)の姉妹ウェザロ wezäro96)=テウォダダ Tewodada〔も同様にダブラ・アブレハムに登った〕。予期していなかったときにガッラが急に到来したため,その地方の住人全ては恐怖に陥り,彼らの軍隊は散り散りになった。彼97)の長子は彼の母がいるところへ近づいていたガッラと戦い98),彼らを追い払った。というのも彼は若者であり,その力は称賛に値したからである。彼は戻り,彼の母の手をとってジェバラĞəbälaという

名の高き山に登らせた。ハツェゲ99)は行く先を変更し100),迅速にガッラのいる場所に向かった。そして彼は軍とともに〔オロモのいる地方に〕入った。彼〔サルツァ・デンゲル〕は父祖たる王たちの〔戦いの〕方法を捨てた。というのも戦いに赴くと,戦士を送り,歩騎の選ばれた者とともに〔自身は後方に〕いて,前進する者を称賛し,退却する者を叱責するというのが彼らの慣習だったからである。〔それに対して〕我々の王は勇者たちの先頭に立ち,戦った。これを見ると,兵士たち101)は駆け出し,ガッラに対して獣のように飛び掛り,彼らを皆殺しにした。多くの者が絶壁から落ちた102)。その地方の人々と農民たちが彼らを見つけた場所で彼らを殺害した。彼〔サルツァ・デンゲル〕103)はガッラたちの首を斬るように命じた。それはアドラ Adora104),すなわち広い土地に満ちた。そして彼はイテゲ Itege105)とウェザロ=テウォダダを滞在していた山から下山させ,丁

93) ベッキンガムとハンティンフォードは「ハツェ」としているが,テキストには「ハツェゲ」とある(Beckingham & Huntingford 1954: 122)。

94) アドマス・サガドとはソロモン朝皇帝ミナスMinas(在位 1559-1563年)の即位名である。95) ミナスはサルツァ・デンゲルの父,ガラウデウォスは彼の伯父にあたる。96) ゲエズ語のウェザロ wezäro(複数形 wezazer)はアムハラ語のワイザロ wäyzäroにあたる。現在

ワイザロという語は既婚女性一般に用いられる(Kane 1990 II: 1561)。しかしアルメイダによれば,17世紀前半にウェザロという語はソロモン朝皇帝の血を引く女性を意味した(Beccari 1969 V: 63)。

97) ベッキンガムとハンティンフォードは「王」と意訳している(Beckingham & Huntingford 1954: 122)。

98) ここで「戦う」と訳出したゲエズ語の動詞は täḫäyyäläである。この動詞に本来「戦う」という意味はない(Leslau 1991: 269)。しかしこの場合前後の文脈からすると,グィディ,ベッキンガムとハンティンフォードが訳しているとおり(Beckingham & Huntingford 1954: 122; Guidi 1961-1962 II: 202),「戦う」と訳すべきであろう。

99) ベッキンガムとハンティンフォードは「王」と意訳している(Beckingham & Huntingford 1954: 122)。

100) 原文を直訳すれば「道を捨てる」となる。101) テキストには「部隊 śärawit」とあるが,意訳した。102) 「落ちた」と訳出した動詞は tänäṣəḥäであり,本来「純化する,浄化する」といった意味である

(Leslau 1991: 405)。103) ベッキンガムとハンティンフォードは「王」と意訳している(Beckingham & Huntingford 1954:

122)。104) ベッキンガムとハンティンフォードによれば,原本ではアドラに続く句の中に 15 mm程度の欠落

がある(Ibid., 123)。105) 1770年代初頭にナイルの水源を求めてタナ湖周辺を探検したブルース J. Bruceによれば,イテゲ

は皇帝の妻たちの中で特別に「女王 queen」とみなされていた女性に対する呼称であり,存命中に他の女性が新たにそれを名乗ることはなかった(Bruce 1790 III: 280-281; IV: 244-245)。ただしバイル・タフラ Bairu Tafl aが指摘するとおり,イテゲは君主である女帝とは異なる(Bairu 1987: 911)。

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98 アジア・アフリカ言語文化研究 76

重に迎え入れた。彼女たちは斬られた敵の首の多さを見て大いに喜び,勝利の魂mänfäsä mäwi’əを聖別された方masiḥu106)に置いた神を称賛した。ガッラから取り戻した牛については,彼は〔それらを〕略奪された人々に返還した。

第 16章その後我々の王は出発することを決意した。というのも彼は考えたことを行い,口にしたことを実現するからである。そして彼はダウェと呼ばれるガッラと戦うためにワジュに向かった。ガッラはそれを「後方のガッラGalla zä-dəḫr」と呼ぶ。彼らに病を起こしたため,人々はそれをダウェと呼ぶ107)。彼が出発した理由は,彼ら〔ダウェ〕が陣形を整え,退却しないと考えたからである。彼ら〔ダウェ〕がいると人々の言った場所に至ったけれども,彼はそれ〔ダウェ〕を見つけられず,探索した。〔しかし〕それ〔ダウェ〕の居場所を見つけられなかった。家畜の戦利品と身体の戦い ś.äb’ä śəggawe108)は

なかった。彼は悪魔と戦い,諸民族の魂を彼〔悪魔〕から奪うことを決意した。そして彼はエンナルヤ

E

nnarya,ボシャ Boša,ゴマルGomär〔の人々〕を呼び109),彼らに「キリスト教徒になれ。」と言った。彼らはキリスト教徒になり,洗礼を受けた110)。

第 17章ワラ・デアヤのムルアタMul’äta zä-Wara

Də’äyaはラス ras=ワルダ・クレストスWäldä Krəstos111)の〔統治する〕地方を攻めた。彼〔ワルダ・クレストス〕はそれ〔ワラ・デアヤのムルアタ〕を破り,戦利品を取り戻し,多くの者を殺害した。彼はその集団を追跡し,彼らは絶壁から落ちた。そして彼〔ワルダ・クレストス〕はハツェゲが戻るまでその地方を守った。戻ったハツェゲは,その地方がワルダ・クレストスの警戒と戦闘によって守られているのを見た。そのため彼〔サルツァ・デンゲル〕は彼〔ワルダ・クレストス〕を彼の家の長 əgzi’ä lä-betu112)とし,王国の全てを統治させた113)。

106) 「聖別された方」とはキリストを意味する。107) ゲエズ語で「ダウェ däwe」とは病を意味する。108) ベッキンガムとハンティンフォードは「戦いの対象となる人間」と意訳している。しかし後に続く

悪魔との「魂の戦い」と対比して用いられているこの句は,グィディのように「身体の戦い」と原文に忠実に訳すべきであろう(Beckingham & Huntingford 1954: 124; Guidi 1961-1962 II: 203)。

109) ハンティンフォードによれば,ボシャはエンナルヤの南東に,ゴマルは青ナイルとエンナルヤの間に位置していた(Huntingford 1989: 140, 197)。

110) 『サルツァ・デンゲル年代記』にも,皇帝がエンナルヤに赴いて住民にキリスト教の洗礼を受けさせたことが記されている(Conti Rossini 1961-1962a I: 119-128)。サルツァ・デンゲル治世におけるエンナルヤとボシャの住人のキリスト教への改宗について詳しくは,ランゲW. J. Langeの解説(Lange 1982: 25-27, 66-68)を参照。

111) 彼の本名はワサノ・ムハンマドWäsäno Muḥämmädであり,ワルダ・クレストスは洗礼名であった。彼は 1580年代末にサルツァ・デンゲルの命を受けて軍事遠征を行なっている(Conti Rossini 1961-1962a I: 129)。

112) ベッキンガムとハンティンフォードは「ラス,すなわち彼の家の頭 Rās or head of his house」と訳しているが(Beckingham & Huntingford 1954: 124),テキストには「ラス」にあたる語はなく,正確な訳ではない。

113) バフレイはワルダ・クレストスが任命された役職名について言及していない。しかしそれは王国全体の統治に関わるものであり,「彼〔皇帝〕の家の長」であったとされる。当時キリスト教王国内で最も高位に位置づけられていたベフトワッダド bəḥtwäddäd職が『ススネヨス年代記』において「王国の長」と説明されていること(Esteves Pereira 1892-1900 I: 159),またワルダ・クレストスがサルツァ・デンゲル治世末にベフトワッダド職に任命されたと『王国の法と慣習Ḥəggä wä

śər‘atä mängəśt』と称される史料が伝えていること(Bodleian Library, MS Bruce 92, fol. 10v)を想起すれば,ワルダ・クレストスがオロモを撃退した武功により任命された役職はベフトワッダド職であった可能性が高いと言えよう。

Page 13: 『ガッラの歴史』訳注repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/50661/1/jaas076004.pdfき継いでいる(Brockelmann 1943-1949 I: 426)。バフレイが目にした史書がマキーンの著作であっ

99石川博樹:『ガッラの歴史』訳注

第 18章ボランのムルアタはダモトのキリスト教徒を苦しめた。そしてそれ〔ボランのムルアタ〕は彼らを散り散りにし,彼らの地を荒廃させた。その時代にショアとダモトの地は荒野となった。私が書いてきたものについて言えば,ガッラの勝利の時も,キリスト教徒の勝利の時もあった。「今日は汝に,明日は汝以外の者に。勝利はある時には此方に,ある時には彼方に。常に勝利をおさめるのは全てのものの上にまします神である。」と述べる書物にある慣例どおりである114)。その地 hägärはそれ〔ボランのムルアタ〕の手に落ち,残った者はいなかった115)。この書が書かれたとき,それはビフォレの子ムルアタの統治の 7年目であるが116),彼らはメスレの子の割礼と任命の準備を整えている。彼らの時代に起こるであろう戦いや殺戮については,もし私が生きているならば私が後に書くであろう。もし私が死んだならば,他の者が私の歴史やこれから現れるルバについての歴史を書くであろう。しかし死者は幸いなり。休んでいるのだから。

第 19章賢人たちはしばしば議論して言い合う。「なぜガッラは我々を打ち負かしたのか。我々の方が多く,武器も多かったのに。」と。神が我々の罪のためにそれをお許しになったのだと言う者もいる。また我々が 10の集団 ṣotaに分かれ,それらのうちで 9つの集団は戦いに赴かず,〔戦いを〕恐れることを恥じないからであると言う者もいる。10番目の集団のみが戦い,力の限り戦うのである。たとえ我々の数が多いとしても,戦うことのできる者の数は少なく,戦いに赴かぬ者は多い。これらの中で最初のものは修道士117)の集団であり,彼らの数は数え切れない。この史書の著者や彼のような〔他の〕者のように,学んでいるときに修道士たちに勧められ,幼くして修道士になる者もいる。戦いへの恐れから修道士になる者もいる。2番目の集団はダブタラ däbtära118)と呼ばれる。彼らは書物と聖職者の全ての行いを教わる。彼らは手を叩き,足を踏み鳴らす119)。彼らは恐れることを恥じない。彼らはレビ人 Lewawyanと聖職者,すなわちアロン Äronの子たちを模範とする。3番目の集団はジャン・ハツァナ Žan ḥäṣäna,ジャン・マアサレ Žan

114) これは聖書の特定の 1節を引用したものではない。115) この 1文の解釈は難しい。グィディ,ベッキンガムとハンティンフォードは「その国はムルア

タに服従し,(服従することなく)残った者はいなかった。」と意訳している(Beckingham & Huntingford 1954: 124-125; Guidi 1961-1962 II: 204)。

116) この記述や本書に含まれている年代を特定できる事件に関する記述から,ベッキンガムとハンティンフォードは各ルバの統治期間を推定している(Beckingham & Huntingford 1954: 208-210)。

117) 17世紀前半にエチオピア王国内で布教活動に従事したイエズス会士ロボ J. Loboは修道士と聖職者の数は無数であり,人口の 3分の 1が神に身を捧げているとさえ述べている(Lobo 1971: 376)。アルメイダは修道士を「宮廷で知識人とみなされる修道士」,「一般の修道士」,「黄色の皮あるいは布を身にまとい,厳しい断食を守るバタヴィ Batavisと呼ばれる隠者」に分けている(Beccari 1969 VI: 176)。

118) エチオピア教会の特色の 1つは,助祭,司祭,修道士に加えてダブタラと呼ばれる人々が存在することである。ハイレ・セラシエ帝政期にアムハラ社会の調査を行なった人類学者レヴァインによれば(Levine 1965: 131, 171-173),ダブタラは宗教舞踏,ゲエズ語文法と作詩を習得し,また多くの書物を学ばなければならず,彼らの知識水準は一般の司祭や修道士に比べて遥かに高かった。彼らは聖歌を歌って教会の収入の一部を得るか,学識を活かして王や貴族に書記として仕えた。また薬剤や護符を売るなどして生計を立てる者もいた。ダブタラは修道士とは異なり,聖性ではなく,学識によって人々に尊敬される反面,人々が通常理解できないゲエズ語を操るために,超自然的な能力を行使できる者として恐れられた。

119) ベッキンガムとハンティンフォードは「聖務の間 during divine service」という句を補っている(Beckingham & Huntingford 1954: 125)。

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100 アジア・アフリカ言語文化研究 76

mä‘aśäre120)と呼ばれる。彼らは法を守り,戦いを避ける。4番目は,貴族の妻,あるいは皇族の女性 wezazerのダッガフォッチdäggafočč121)である。〔彼らの〕力は強く,〔彼らは〕頑強な若者たちであるが,「我々は女性の従者122)である。」と言って戦いを避ける。5番目の集団はシェマゲッレ šəmagəlleと呼ばれる。彼らは領主であり,レスト rəstの所有者123)である124)。彼らは支配する農民に土地を分配し,〔戦いへの〕恐れを恥じることはない。6番目の集団は農民で,農地に暮らし,戦いのことを考える者はいない。7番目の集団は交易を行い,自分たちのため

に利益を得る人々である125)。8番目の集団は鍛冶師 nähäbt,書記,仕立屋 säfayyan,大工 ś.ärabyanといった職人 ṭäbiban,あるいはそれらに類する者たちである126)。彼らは戦うことを知らない。9番目の集団はアズマリたち äzmaročči127)である。彼らはカンダ・カバロ qändä käbäro128)やバガナ bägäna129)

を持つ者である。彼らは〔金品を〕求めるための仕事をする。彼らは自分たちに〔金品を〕与える人々を祝福し,空虚な賛辞や意味の無い称賛を与える。〔それに対して金品を与えることを〕拒む人を呪う。彼らが「これは我々の慣習である。」と言うので,これらのこと

120) ソロモン朝前期の土地特許状にはこれらの役職への言及が見られる(Conti Rossini 1961-1962b I: 27, 28, 31, 33, 34, 37)。それらの職掌は不明であるが,バフレイの記述から,司法に携わったことが窺える。

121) ダッガフォッチとは,馬の左右に位置して,主人が馬に乗るのを介添えする者たちのことである(Kane 1990 II: 1837)。

122) ここで「従者」と訳出した語は「ワアリ wä‘ali(複数形 wä‘alyan)」である。123) ベッキンガムとハンティンフォードはここを「世襲の土地所有者 hereditary landowners」と意訳

している(Beckingham & Huntingford 1954: 126)。レストとは土地の用益権であり,アムハラ・ティグレ社会では支配者も農民もこれを有した。理論上,ある土地のレスト権を継承する権利はその土地を使用する者の全ての子孫にあった。実際には耕作歴,居住歴等によってレスト権の継承を要求できる者の数は制限されたものの,潜在的な継承権保有者の多さゆえに,同じ土地を 1つの家系に属する人々が代々耕作することは稀であった。このような相続方法ゆえに,1人の祖先を共有する子孫たちは出自集団を形成しない。出自集団の発達が見られないことは,他のアフリカの諸社会と比較した際のアムハラ・ティグレ社会の重要な特徴である(Hoben 1973: 5-6, 14-25; Shack 1974: 28-30; Crummey 1980: 122)。

124) ベッキンガムとハンティンフォードはシェマゲッレという語の後に「年長者 elders」という語を補っている(Beckingham & Huntingford 1954: 126)。シェマゲッレは,現代のアムハラ語では「老人」,「尊敬に値する人物」といった意味を表す(Kane 1990 I: 615)。しかしバフレイの記述からは,16世紀末にこの語は多くの土地に対してレストを保有する人々を指して用いられていたことが判明する。

125) 北部エチオピアでは長距離交易はムスリムが担い,域内交易にはアムハラをはじめとする諸民族が従事した。ここに言及される「交易を行い,自分たちのために利益を得る人々」とは,アムハラ・ティグレの中で交易に従事する人々のことであろう。

126) 19世紀に北部エチオピアを訪れたヨーロッパ人たちは,ファラシャ Fälašaと呼ばれる人々が主に手工業に従事していたことを報告している。ユダヤ教的な宗教を信仰するため「エチオピアのユダヤ人」とも呼ばれる彼らの自称は「ベタ・エスラエル Betä

E

sra’el」であった。バフレイが『ガッラの歴史』を著した 16世紀末において,ベタ・エスラエルの多くは未だ皇帝の支配に服さず,頑強な抵抗を続けていた。彼らが土地を失って手工業に従事するようになるのはゴンダール期に入ってからのことであり,バフレイの言う「職人,あるいはそれらに類する者たち」とはアムハラ・ティグレであったと思われる。ゴンダール期におけるベタ・エスラエルの生業の変化については,クィリン J. Quirin等の解説(Quirin 1992: 99-119; Kaplan 1992: 99-105)を参照。

127) アズマリ äzmari(複数形 äzmaročč)という語は,本来貴族に雇われ,歌によってその武勇や善行を称賛し,またその敵対者を非難する人々を意味していた。しかしその後楽師一般を指して用いられるようになった。アズマリについて詳しくは,ポウンM. Powneらの解説(Powne 1968: 61-70; Cynthia Tse Kimberlin 2003)を参照。

128) 小型の太鼓のこと(Powne 1968: 25)。129) 10弦のリールのこと(Ibid., 53-56)。

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101石川博樹:『ガッラの歴史』訳注

は罪にならない。彼らは戦いを避ける。10番目の集団は盾と槍を持つ者であり,戦うことができる。走るために lä-räwiṣ130)彼らは王の足跡を追う。彼らの数の少なさゆえに,我々の国は荒廃した。一方ガッラには,これまで述べてきた 9つの集団は存在しない。幼き者から年寄りまで全ての人々が戦いに熟達している。それゆえ彼らは我々を破滅させ,我々を殺すのである。神の命令によって彼らが我々を殺すのだと言う人々は,ペルシアとバビロン Babilonの王たちの手によってイスラエル人が征服され,滅ぼされたことを理由としてあげる。もし戦士たち131)が勝利をおさめたとしても,誰が栄光に満ち,至高なる神の助けを求めたのかと彼らは言う。もし〔常に〕数多きものが数少なき者に勝利をおさめるならば,「1人が 1000人を逃げ出させ,2人が 10000人を追放する。」という書物の言葉132)は意味をなさなくなる。しかし賢人たちよ,汝らは最初の論者の言葉が正しいか,それとも後〔の論者の言葉が正しい〕か判断できる。

第 20章ガッラの話しに戻ろう。彼らは小さな子どもをムチャmuč.a‘133)と呼ぶ。成長した者をエルマン elman134)と呼ぶ。彼らの中で〔さらに〕成長した者をグァルバ gwärba’135)と呼び,彼らは戦い始める。割礼を受けていない若者はクァンダラ qwändäla136)と呼ばれる。彼らは兵士 ḫära137)のような髪型をしている。彼らはそれをカララ käläla138)と呼ぶ。もし彼らが人間,象 näge,獅子 änbäsa,犀ärwe ḥäris,野牛 gwäššを殺したら,彼らは少し〔髪を残して〕頭髪を剃る139)。〔人間や動物を〕殺していない者は,頭を剃らない。妻を娶った男たちも〔人間や動物を〕殺さなければ頭を剃らない。ムルアタの時代,彼らは野牛を食べ,「我々はそれ〔野牛〕を食べるのだから,それは牛〔のようなもの〕だ。それ〔野牛〕を殺しても頭を剃らないことにしよう。」と言った。彼らの一部の者たち140)

は「ショアやアムハラの人間を殺したときに,頭髪を剃らないことにしよう。というのも彼らは話す牛であって,戦うことができな

130) läは目的や方向を表す前置詞,räwiṣは「走る roṣä」という動詞の不定詞形であり,直訳すれば「走るために」となる。グィディは「走るために pour courir」と訳した上で「襲撃を行うために pour faire des incursions」を意味するものと解釈している(Guidi 1961-1962 II: 206)。「戦いのためにto war」というベッキンガムとハンティンフォードの訳はグィディの解釈に基づいているのであろう。

131) ベッキンガムとハンティンフォードは「勇敢な」という語を補っている(Beckingham & Huntingford 1954: 126)。

132) 申命記 32:30には「もし,岩なる神が彼らを売らず,主が渡されなかったら,どうして一人で千人を追い,二人で万人を破りえたであろうか。」とある。

133) オロモ語のmucaa,すなわち嬰児,幼児のこと(Foot 1970: 44; Tilahun 1989: 468; Borello 1995: 311)。

134) オロモ語の ilma,すなわち息子のこと(Foot 1970: 30; Tilahun 1989: 323; Borello 1995: 250)。135) オロモ語の gurbaa,すなわち若者のこと(Foot 1970: 25; Tilahun 1989: 280; Borello 1995: 190)。136) フット E. C. Footは“kondala”を「強健な若者」とし(Foot 1970: 37),ベッキンガムとハンティ

ンフォードもそのように訳している(Beckingham & Huntingford 1954: 127)。それに対してボレッロM. Borelloは“qondolla”を「未割礼の若者」と説明している(Borello 1995: 345)。

137) ゲエズ語では ḥと ḫの交替が生じることは稀ではない。第 4章では「ハラ ḥära」という語を「部隊」と訳したが,ここでは「兵士」と訳した方が適当であろう。

138) オロモ語には kalalaaという蔓植物を意味する語がある(Tilahun 1989: 358)。139) テキストには「彼らは少し頭髪を剃る。」とある。しかしアルメイダがこの慣習について「〔オロモ

の男は〕戦いで敵を殺害するまで,あるいは虎や獅子のような猛獣を倒すまで頭髪を剃らない。いずれかを殺害した者は,頭頂にしるしとしての髪の束を残して〔残りの〕頭髪を剃る。」と解説していることから(Beccari 1969 V: 477),グィディのように言葉を補って「彼らは少し髪を残して頭髪を剃る。」と訳すのが適当と思われる(Guidi 1961-1962 I: 231; II: 206)。

140) 原語mänfäqomuを直訳すれば「彼らの集団」となるが,意訳した。

Page 16: 『ガッラの歴史』訳注repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/50661/1/jaas076004.pdfき継いでいる(Brockelmann 1943-1949 I: 426)。バフレイが目にした史書がマキーンの著作であっ

102 アジア・アフリカ言語文化研究 76

いから。」と嘲って言った。ルバであってもクァンダラであっても,妻を娶っていない者はケロqeroと呼ばれる141)。ルバのケロはルバと共に同じ家に住み,クァンダラのケロはクァンダラと〔共に同じ家に住む〕142)。そして同様にガバルのケロ143)はガバルと〔共に同じ家に住む〕。〔オロモの〕人々は 20人の男を天幕

säqwäla144)を建てる者とする。人々は彼らをアジャルトゥ äğärtuと呼ぶ145)。人々は〔何人かの男を〕牛を殺す役に任命し,彼らはカルタ qälta146)と呼ばれる。2人の男が肉を炙る役に任命され,彼らは〔肉を〕切り,全ての人々に等しく分配する。人々は彼らをワジョ wağo147)と呼ぶ。また 5人の男が全て

の人々の牛に牛乳を与える役に任命される。彼らの名はハラブド häläbdo148)である。2人の男が牛乳を注ぐ役に任命される。彼らは各人に適切な量を与える。彼らの名はテヒトṭəḫito149)である。7人の男が牛を連れ戻す役に任命される。彼らはいなくなったもの〔牛〕を探す。彼らの名はバルバド bärbado150)である。さらに人々は 2人の男を選び,女性と〔違法な〕性交渉を持った男を告発し,鞭打つ役に任命する。彼らはゴルサ gorsa151)と呼ばれる。この用心は正義のためではなく,戦いに対して用心を怠らず,油断しないようにするためである152)。結婚した者は妻を喜ばすことを考えている153)。10人の男が牛を率いる役に任命される。彼らの名はタウトゥ

141) オロモ語の qerro,すなわち未婚の若者であろう(Foot 1970: 35; Tilahun 1989: 375; Borello 1995: 339)。

142) 第 4章と本章冒頭の記述によれば,ルバとは「同じ時に割礼を受けた者」を,クァンダラとは「割礼を受けていない若者」を意味した。ベッキンガムとハンティンフォードはこれらの情報に基づいてこの部分を「全ての未婚のガッラはルバ,すなわち割礼を受けた者であっても,クァンダラ,すなわち割礼を受けていない者であってもケロと呼ばれる。ケロ・ルバ,すなわち割礼を受けた未婚者はルバ,すなわち割礼を受けた既婚者と同じ家に住み,未婚のクァンダラは他の既婚のクァンダラと共に住む。All the unmarried Galla, be they luba, circumcised, or quandalā, uncircumcised, are called qēro, the qēro luba, the circumcised but not married, lived in the same house of with the luba, the circumcised married men; the unmarried quandalā live with the other quandalā who are married.」とかなり語を補って訳している(Beckingham & Huntingford 1954: 127-128)。

143) ベッキンガムとハンティンフォードは「ガバル,すなわち奴隷であるケロ the qēro who is a gabar or slave」と語を補って訳している(Ibid., 128)。

144) オロモ語の saqalaa,すなわち方形の家のこと(Foot 1970: 48; Tilahun 1989: 513; Borello 1995: 369)。145) オロモ語で「建てる」という意味を表す ijaruuに由来する語であろう(Foot 1970: 29; Tilahun

1989: 320; Borello 1995: 247-248)。146) オロモ語で「屠殺する」という意味を表す動詞 qaluuに由来する語であろう(Foot 1970: 33;

Tilahun 1989: 360-361; Borello 1995: 334-335)。147) オロモ語で「肉を焼く」という意味を表す動詞 waaduuに由来する語であろう(Foot 1970: 55;

Tilahun 1989: 584; Borello 1995: 413)。148) ベッキンガムとハンティンフォードは「搾乳する,乳を出す」という意味を表すゲエズ語の動詞

ḥäläbäとの関連を指摘している(Beckingham & Huntingford 1954: 128)。しかし牧畜と関連する用語がゲエズ語起源とは考えにくい。

149) ベッキンガムとハンティンフォードは「放牧する」という意味を表すオロモ語の動詞 tiksuuとの関連を指摘している(Ibid.)。

150) オロモ語で「探す」という意味を表す barbaduuに由来する語であろう(Foot 1970: 6; Tilahun 1989: 63; Borello 1995: 45)。

151) オロモ語で「助言する」という意味を表す動詞 gorsuuに由来する語であろう(Foot 1970: 24; Tilahun 1989: 271-272; Borello 1995: 183)。

152) ベッキンガムとハンティンフォードはこの部分を「常に戦いに対して用心を怠らず,備えるため so that they may be always alert and ready for war」と訳しているが(Beckingham & Huntingford 1954: 128),「常に」にあたる語は原文には見られず,また「備える」は意訳である。

153) コリントの信徒への手紙一 7:33には「結婚している男は,どうすれば妻に喜ばれるかと,世の事に心を遣い」とある。

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103石川博樹:『ガッラの歴史』訳注

tawtu154)である。彼らの中で妻を娶ることを望む者は,〔他の人々と〕離れ,家に住む。彼らはジェルヒカ ğəlhika155)と呼ばれる。老人はメルグッドməlgwddo156)と呼ばれる。我々の兄弟ザポ Zäpoとアバ・ハラAba ḥäraのように病が極めて重くなければ,彼らも戦いを避けることはない157)。悪しきことをなそうと努める敵を我々のように目にした者はいない。善きことをなそうと努める領主や王を我々のように目にした者もいない。神がその僕を永きにわたり,永遠に御加護下さいますように。〔以上〕バフレイが述べた。

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154) オロモ語で「注意深く見る,調べる」という意味を表す動詞 toaccuuに由来する語であろう(Tilahun 1989: 558-559; Borello 1995: 397)。

155) この語の語源は明らかではない。156) オロモ語で「老人」を意味するmanguddooのこと(Tilahun 1989: 445; Borello 1995: 293)。157) 「彼らも」と訳した部分の原語は wə,ətuniである。ベッキンガムとハンティンフォードはこの人

称代名詞についてジェルヒカを指しているものと解釈しているが(Beckingham & Huntingford 1954: 128),直前のメルグッドを指していると解釈すべきであろう。なお「我々の兄弟ザポとアバ・ハラ」がいかなる人々を指すのかは明らかではない。

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図 1.16世紀におけるエチオピア王国の縮小

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106 アジア・アフリカ言語文化研究 76

系図 1.バフレイの伝えるオロモの系図

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107石川博樹:『ガッラの歴史』訳注

典拠 Guidi 1961-1962 I: 223-225.