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Hitotsubashi University Repository Title Author(s) �, Citation �, 114(2): 430-451 Issue Date 1995-08-01 Type Departmental Bulletin Paper Text Version publisher URL http://doi.org/10.15057/12187 Right

ユーゴ・ソ連論争史序論 URL Right - Hitotsubashi …hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/12187/1/...橋論叢 第114巻 第2号平成7年(1995年)8月号(232〕

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Hitotsubashi University Repository

Title ユーゴ・ソ連論争史序論

Author(s) 岡本, 和彦

Citation 一橋論叢, 114(2): 430-451

Issue Date 1995-08-01

Type Departmental Bulletin Paper

Text Version publisher

URL http://doi.org/10.15057/12187

Right

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橋論叢 第114巻 第2号平成7年(1995年)8月号(232〕

ユーゴ・ソ連論争史序論

  ーユーゴのコミンフォルムからの追放を中心にー

はじめに

 本稿では、一九四八年六月のコミンフォルムからのユ

ーゴスラヴィア(以下ユーゴと略)の追放を象徴的な事

件として生じたユーゴ・ソ連間の論争を考察する。その

際、社会主義国問の相互関係の原則に焦点をあてて、論

争の原因と過程およびそれがその後のソ連東欧諸国問関

係とユーゴの国内政治にもたらした影響を明らかにした

い。

 従来の社会主義圏において、いわゆる東欧革命に続き

ソ連邦解体へと至る一連の急激な変化が引き起こされた

際の〃スタートの合図。の役割をはたしたのが、一九八

八年の「新ベオグラード宣言」(■寝暑P曇…}P

岡  本

和  彦

冨o.o。)であった。一九五五年にフルシチョフがユーゴを

訪問した際に発表された「ベオグラード宣言」

(■o竃暮一ω;δ=」㊤雷)は、社会主義への多様な道を

認めた画期的な宣言であったが、八八年にゴルパチョフ

が、ユーゴにおいて改めて社会主義諸国間の同権とそれ

ぞれが独自の道を歩む権利をもつことを強調したことは、

その後の東欧諸国の行動にとウて心理的に大きく影響を

及ぽしたと思われる。こうした点を考慮すれぱ、今日か

らみても、ほかでもない「ユーゴ」と「ソ連」とのあい

だに生じた対立・論争が、とりわけその後の社会主義国

間関係の原則や、あるいは社会主義理念の確立にいかな

る影響を及ぼしたのかという点はきわめて興味深い問題

であるといえるだろう。また、それは、戦後の社会主義

430

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(233) ユーゴ・ソ連論争史序論

政治体制の変遷を理解する上でもきわめて重要な事件で

あったと思われる。

 ユーゴ.ソ連論争に焦点をあてた先行研究は、必ずし

     (1)

も多くはない。ユーゴ側の見解は、カルデリ、デディエ

ルといった当時指導的立場にあった人々による著書によ

うてかなり明らかになる一方で、ソ連側からの言及はき

わめて少ない。欧米での研究については、フェイト、ウ

ラム、ブジェジンスキーなどにようて主として国際関係

論お’び東欧史の文脈で言及されてきた。わが国におい

ても、木戸姦氏、沢田干一郎氏、木村朗氏による労作が

ある。これら一連の先行研究については、1・冷戦を背

景としたソ連の対外政策に焦点があてられることで、ユ

ーゴの打ち出した立場やこの論争のもつ意義が軽視され

ている、2.逆に、後の自主管理社会主義との関連でユ

ーゴの独自性が過度に強調されている、3・論争へと至

る諸要因の考察が網羅的になされていない、4・この論

争がとりわけユーゴ国内に与えた否定的影響に関する考

察がまったく欠けている、という点を指摘しうる。近年、

バナッツなど欧米の研究者による国際関係論の枠にとら

われない新しい研究がみられるし、ソ連においてもギビ

アンスキーなどによって研究が進められ始めた。本稿で

は、それら新研究の成果をふまえ、先に指摘した点を中

心に、特にコミンフォルミストに対するユーゴ指導部の

対応という問題の考察を行って、論争の核心を明らかに

 (2)

したい。

二 論争を生じさせた歴史的諸要因

 ①第二次大戦前・大戦中のユーゴ・ソ連関係

 第二次大戦突入以前の時期には、後のユーゴ・ソ連論

争につながるような両国の国家的関係は無きに等しか

 (3)っ

た。この時期の両者の関係で注目すべきは、ソ連共産

党とユーゴ共産党の関係のみである。そこで問題となる

のは、当時のユーゴ共産党が、コミンテルンの戦略から

距離をとって独自性を発揮していたかどうか、すなわち

それが後の衝突の遠因となったのかという点である。ユ

ーゴ側の公式見解が、チトーが党指導部を国内に戻し、

党の活動資金を外部に頼らず自己調達するという方針を

とったことで、党がコミンテルンの「伝導ベルト」とし

ての役割をやめたと独自性を主張したのに対し、ソ連側

は、コ、・、ンテルンがユーゴ共産党の方針決定を助け支持

431

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一橋論叢 第114巻 第2号 平成7年(1995年)8月号 (234)

していたとする両者の一体性という見解をもっていた

(O=ωωO-〇一①Pω=く一〇PN-M-N一ω一宍}『O①ご一一〇〇〇90軍N0㊤

-曽σ。モラチャ、ω、一九七三年一月上、六〇-六二ぺ

ージ(注に既出の文献は上のように略した。以下同様。)、

Z・シタウブリンゲル(岡崎慶興訳)『チトー・独自の

道」、サイマル出版会、一九八O年、一〇-一八ぺージ、

ソ連邦共産党中央委員会付属マルクス・レーニン主義研

究所編(村田陽一訳)『コミンテルンの歴史』下、大月

書店、一九七三年、二一〇ぺージ)。この点について、

木戸氏がこの時期のユーゴ共産党はコミンテルンの方針

に忠実であったと指摘したように(木戸、一九六八年、

一七一-一七三ぺージ)、確かに、独ソ不可侵条約によ

るコミンテルンの方針転換に従ウて、四一年六月の独ソ

開戦までパルチザン蜂起が開始されなかった点などをみ

ると、ユーゴ共産党が決定的な独自性を有していたとす

るには無理がある。ユーゴ側は、あくまでもソ連と衝突

した後でそうした見解をうちだしたとみるべきであろう。

資金をコミンテルンに頼らなかったという点についても、

                       (4)-

未だ明らかにされてはいないが慎重な評価が必要である。

                 (5)

 大戦中の時期については、ユーゴの解放に関してソ連

がどのように関わったのかが焦点となる。問題となるの

は次の三点である。第一に、ソ連がパルチザンの再三に

わたる援助要請に応えず、逆にロンドンに亡命した旧政

府の側にたつ態度を示した点である。英米がパルチザン

援助へと方針転換した後にもその姿勢はみられ続けた。

第二に、パルチザンが設立した実質的な臨時政府である

AVNOJ(ユーゴスラヴィア人民解放反ファシズム評

議会)の急進的な立場(国王の帰国禁止、戦後の体制は

人民自身が決める)をソ連が批判し、亡命政府との妥協

を強いた点である。第三に、こうしたソ連の態度のもと

になウた英・米・ソによる勢力圏構想の問題である。こ

れは、戦後のユーゴ情勢について、英米とソ連が五〇%

ずつ影響力を保持するという取り決めであり、そのため

にソ連はパルチザンの積極的な革命的活動に歯止めをか

        (6)

けようとしたのである。

 こうしたソ連の対応からいえることは、パルチザンの

抵抗運動の過小評過であり、それは、ソ連が「一国社会

主義」の発想にようて何よりも連合国との同盟関係を気

遣い、自らに不利になるような環境ができるのを避ける

            (7)

ことを考えていたからであウた。この時期、ユーゴ側に

432

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(235) ユーゴ・ソ連論争史序論

は、ソ連からの物心両面での援助の期待がほぼこと、こと

く裏切られることによって、そしてユーゴの戦後構想に

ソ連がその意志を及ぽそうとしたことによって、ソ連に

対する不信感が芽生えることになった。四八年の対立に

は、少なくとも第二次大戦中の両者の関係に遡ってその

原因をみいだすことができるのである。ただ注意しなけ

れぱならないのは、この時点で社会主義への道に関する

意見の相違や社会主義国問関係の原則に関する意見の相

違があらわれていたわけではないことである。

 ②戦後のユーゴ情勢とソ遠・東欧

 ユーゴでは、東欧において最初に、連立政権ではなく

「人民戦線」を通じた共産党政権が成立し、他に先駆け

てソ連に倣った憲法を採択し、国有化政策、土地改革、

農業集団化、五力年計画といった社会主義建設が開始さ

れた。外交上もユーゴは、ソ連・東欧諸国条約網締結の

先鞭を付けると同時に、西側諸国に対してはユーゴ領空

の侵犯閻題やトリエステ問題、ギリシア内戦問題でもっ

とも激しく非難し、またマーシャル・プランに強く反発

  (8)

していた。さらに、コミンフォルム結成に積極的にかか

わっていた。後の対立との関連で、この時期のユーゴの

こうした状況をどのようにみればよいのだろうか。コミ

ンフォルムの結成と人民民主主義論に焦点をあてて検討

したい。

 戦後のソ連・東欧関係は、冷戦が表面化してソ連の対

外政策が英米との協調から対決へと転換されることによ

うて大きく変化した。その方針転換を象徴するのが、四

                 (9)

七年九月のコミンフォルムの結成であうた。ソ連がコミ

ンフォルムを設立した真意は、西側の反共政策の進行に

脅威を感じて自らの安全を第一に考え、勢力圏とみなす

東欧を完全に掌握してその脅威に対処しようとするとこ

ろにあった。一方、従来から西側との対抗に積極的であ

ったユーゴは、ソ連による援助と他党との協力に期待を

抱いてそこに参加したのであり、従ってソ連に従属する

という考えなど持ち合わせなかった。このことは、常設

の評議会を設けるというソ連の提案にユーゴが反対し、

コ、、、ンフォルムは各党の自主的な相互同意に基づく行動

の調整を行うということに落ちつかせた点からも理解で

きる。しかし、ソ連には各党の自主性を尊重する意図な

どなかった。一見親密にみえたユーゴとソ連の関係の背

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一橋論叢 第114巻第2号 平成7年(1995年)8月号(236)

後には、いずれ対立せざるをえなくなるような意見の相

違があったのである。ただ、ユーゴが会議で自国の経験

を自慢し他党を批判した点は、それを促したソ連の意図

がどうであれユーゴもまたソ連同様指導的な行動をとづ

ていたことは指摘できよう。

 このコミンフォルム設立会議でも問題になったのが、

戦後の東欧諸国において盛んに主唱されていた社会主義

                     (m一)

への多様な道を特徴とする人民民主主義論であづた。ユ

ーゴもその点では同意見であったが、人民民主主義はプ

ロレタリア独裁の一形態であり、ユーゴこそ真の人民民

主主義国家であると見なしていた。ユーゴが戦後すぐに

急進的な政策を実行しえたのに対し、連立政権を通じた

中間的要素が強かった他の東欧諸国は不可能であった。

それはソ連の経験とも異なっていたし、ユーゴが他の東

欧諸国と比べて自己を進んでいるとみなす十分な理由が

あった。しかし、ソ連は、英米との協調を重視する間は、

従来の人民民主主義論を容認する一方で、急進的な立場

をとり英米との協調に水を差すユーゴを評価しなかづた。

次に、ソ連が東欧諸国の衛星国化を促進させるために人

民民主主義論の教義を変更するが、それは、ユーゴも含

めてソ連のやり方をそのまま適用した、ソ連に忠実な社

会主義体制を急速に碓立させることを意図していた。こ

の時ユーゴが最も重視した立場は、ソ連への忠誠ではな

く獲得した権力は誰であろうと譲らないという独立国家

としての立場であった。それを支えていたのは、第二次

大戦を自力で勝ち抜いた経験と、国民から支持されてい

るという目信であったと恩われる。ソ連は、大戦中に続

き戦後も、バルカンの小国ユーゴを過小評価しすぎてい

たのである。

 ③ユーゴ・ソ連問における諸問題の発生

 戦後の両者の関係は、社会主義国家問の関係として新

たな局面を迎えることになった。そこでは、イデオロギ

ーによって結ばれた政党間関係の他に、それぞれの国の

条件と利害の異なる国家間関係をどう解決していくのか

という問題が生まれた。そして、両者の間には実際にい

くつかの問題が生じていた。

 そのうちトリエステ問題とギリシア内戦問題は、英米

との協調を重視するソ連と、西側に対して強硬な態度を

とるユーゴとの外交上の姿勢の相違からくる問題であっ.

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(237) ユーゴ・ソ連論争史序論

                   (11)

た。まず、トリエステ問題について検討しよう。トリエ

ステ地域を解放したバルチザン軍は、直後に到着した連

合軍に撤退を迫られ緊迫した事態が生じた。その際チト

ーは、ユーゴは誰にも従属しないし誰もユーゴを売り買

いできないと発言したが、これは英・米・ソの勢力圏構

想に対する暗黙の批判を意味していた。この発言にソ連

は激しく反発しユーゴは謝罪することになり、結局、撤

退を余儀なくされた。英米との協調に努めるソ連は、こ

の問題でもユーゴを支援せず、逆にチトー発言を批判す

る行動をとうた。そして、講和条約締結の際にも、ユー

ゴの利害の唯一の代弁者であったソ連は一部地域の帰属

についてあっさり西側に譲歩してしまった。このトリエ

ステ問題が、ユーゴと西側諸国だけでなく後のユーゴと

ソ連の関係悪化の直接のきウかけであったとする見解

(例えば、今津晃『概説現代史」、東京創元社、一九七三

年、三三四ぺージ)がある一方で、ソ連は東欧諸国の要

求を守る立場にたっていたとする見解もある(ボツファ、

前掲訳書第三巻、=二八べ-ジ。勺昌0=一P=①)。しか

し、講和会議に出席したカルデリによれぱ、全体的にソ

連のユーゴ支援に感謝を表しているし、深刻なソ連不信

は感じられない。ただ、勢力圏構想批判にみられるよう

に、この問題を通じて信頼するソ連のなかにユーゴの独

立への脅威が存在することに気付くことなり、それがソ

連不信の原因になったことは推測できよう。逆にスター

リンは、英米との協調に水を差すユーゴの強硬な姿勢が

不満であり、そうした意味で、この問題がユーゴ・ソ連

関係の悪化をもたらした一つの要因であったということ

はできよう。

                     (12)

 では、ギリシア内戦問題についてはどうだろうか。ユ

ーゴは、自らと同様にパルチザン闘争を繰り広げ、戦後

も内戦状態にあったギリシアの共産ゲリラヘの積極的な

支援を行ったが、それはまた社会主義をめざす諸党問の

兄弟的な関係からも当然であるとみなしていた。これに

対しソ連は、勢力圏協定に反してギリシアに共産主義政

権ができ、西側が軍事行動をとることを心配するがゆえ

に内戦当初からゲリラ支援を行わず、ユーゴが積極的に

支援するのを批判していた。トリエステ問題に続いてこ

こでも、ソ連と西側が取り決めた戦後構想から踏み外す

行動をユーゴがみせたことをスターリンは看過すること

ができなかった。ただここで注意すべき点は、ユーゴの

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一橋論叢 第114巻 第2号 平成7年(1995年)8月号 (238)

ギリシア内戦支援の意図、すなわちスラヴ人が多いギリ

シアのマケドニア地域をユーゴのマケドニア共和国に編

入しようという意図もまたユーゴはもっていた点である

(忌⇒0=ら.O。↓.沢田、九六-九七ぺージ)。この点で、ユ

ーゴにも膨張主義的な外交姿勢があったと批判されてし

かるべきであろう。

 次に、ユーゴの国内発展に目を向けると、それは何よ

りもまず生活水準を高め、工業化を達成することが目標

であうた。それには、ソ連からの物的・人的援助ば不可

欠であり、実際に専門家の派遣、合弁会社の設立が行わ

れた。そして、この点でユーゴ・ソ連間に摩擦が生じた

  (旧)

のである。ユーゴ側の見解によれぱ、合弁会社設立交渉

においてすでに意見の相違がみられた(忌g貝-竃ガ

君.さ-ぎ一穴胃09し竃N一署・8-竃)。天然資源採掘の

合弁会社では、土地評価の不公平、輸出の非課税、独占

的販売などによって、また合弁銀行はすべての合弁会社

の業務に加えてユーゴの銀行と同等に無制限に営業を行

うことによって、あらゆる面でソ連の利益になるような

条件が示されていた。それは、旧枢軸国ルーマニアや社

会主義国ではないイランとソ連との合弁会社にみられた

ものよりも厳しいものであった。結果的には航空会社と 36

                         4

汽船会社の二つを除いて合弁会社設立は見送られた。し

かし、その二つにおいてもソ連人専門家が全権力を握り、

出資額評価および利潤分配の不公平、使用料金の格差、

独占営業など不平等な条件のもとでユーゴは大きな損失

を受けたという。カルデリによれぱ、それは「ソ連側に

よって疎外され、従属的な立場に置かれているばかりか

経済的に搾取されていると感じ」られるものであづた。

それは、一国の主権に関わる単なる経済関係に収まらな

い問題を含んでいたがゆえに、ユーゴ側にとって後の対

立のきわめて重要な背景となったのである。ただ、ユー

ゴがこの時すでに、何か独自の社会主義といったものを

考えていたとみなすのは適切ではない。ソ連は、戦後の

ユーゴ情勢を過小評価していた。国民に支持されて急進

的に社会主義化を進めていることを、そして対等なパー

トナーたりうることを自負していたユーゴに対し、ソ連

は自己の安全を最重視して、東欧衛星諸国から最小の出

資で最大の利益を得ることしか関心を持っていなかった。

それゆえ、こうした問題が生じたのである。

 さらに、これに関連して、ソ連人顧問団とのあいだに

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(239) ユーゴ・ソ連論争史序論

生じた問題も重要である。なかでも、ユーゴ独自の条件

を無視して機械的にソ連の経験をあてはめようとしたこ

と、ユーゴの人々を使ったソ連情報網の構築に努めたこ

とが軋礫を引き起こした(U①9①『二㊤戸OP竃⊥=一

-冨-H曽一穴彗μ9し竃N一〇1竃一ミO;暑.雷㌣ω畠)。経

済関係上の軋礫と同様、こうした問題がユーゴとソ連の

関係を悪化させた大きな要因となったことは、四八年の

対立がまず顧問団の引き揚げから始まったことからもう

かがえる。

 そして、ユーゴとソ連の対立の直接のひきがねとなう

                 (M)

たのがバルカン連邦構想の問題であった。コミンフォル

ム設立会議の勢いのままに、ユーゴはソ連東欧諸国問の

二国間条約網の完成へと向かった。ブダペスト、ブカレ

ストを続けて訪問したチトーは、熱狂的な歓迎を受け、

.その存在感と影響力がいっそう大きくなったようにみえ

た。そうしたな加で、ユーゴ・ブルガリア首脳からバル

カン連邦にかかわる発言がなされた。四八年一月に、デ

ィ、、、トロフはバルカン・ドナウ諸国による経済協力の緊

密化、関税同盟の必要といったバルカン連邦創設の可能

性について積極的に同意する発言を行うが、すぐにソ連

はプラウダ紙上でそれを批判し、ディミトロフは発言を

取り消す。スターリンは、チトーの人気を目前にして自

らの意志の届かぬところでパルカン連邦構想が拡大され

た形で発せられたことで、とりわけユーゴが東欧を統合

する際の障害になるのではという懸念をいっそう強く抱

くようになったと推測することができよう。二月一〇日

                     (15)

に行われたモスクワ会談にチトーは出向かなかった。も

っぱら非難されたのはディミトロフであったが、スター

リンは、ユーゴ代表カルデリにユーゴがギリシアの共産

主義者を援助していること、ソ連人顧問団に対してよく

ない態度をとっていることを非難した。そして、ユー

ゴ.ブルガリアニ国間の連邦を即座につくるよう要求し

た。またユーゴは今後すべての対外問題についてソ連と

協議する義務を負うという文書に署名させられた。予定

されていたソ連との経済協力に関する会談は事実上延期

された。スターリンは、ユーゴの外交政策に注文を付け、

また経済的圧力を与えることでユーゴに態度表明を促し

たのだった。ソ連とユーゴの関係は一気に緊張したもの

となった。最終的にユーゴはスターリンに従属すること

を拒否し、両者は対決へと至るのである。この問題につ

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一橋論叢 第114巻 第2号 平成7年(1995年)8月号 (240)

いて重要なことは、西側との対抗のための東欧の統合に

関する両者の意見の相違であった。スターリンがソ連を

中心にして東欧を完全に支配下におくことを考えていた

のに対して、ユーゴは、社会主義勢力の団結と強化のた

めに各国が主体的に相互の結ぴつきを強める、いわば理

、想主義的な統合を意図していたのである。

一一一 ユーゴとソ連の衝突とその影響

 ①書簡による論争       ー

 モククワ会談後、ユーゴでは三月に党中央委員会が開

催され、スターリンの指示するユーゴ・プルガリア連邦

案を拒否することを決定したが、これに対しソ連は顧問

団の引き揚げという手段をとって具体的な圧力をかけた。

そして、以後ユーゴ・ソ連間に書簡の往復による論争が

開始されるのである。

 まず、三月二〇日付けのモロトフ外相宛て、閣僚会議

議長チトーと署名されたユーゴからの書簡の要点は、顧

問団が敵意に取り囲まれているというのは根拠がないこ

と、何が不都合だったのか、真の理曲を教えてほしいこ

と、ソ連が外部から受け取る情報が常に正しいとは限ら

ないこと、であった(O=窃O巨一〇Pく印ω戸OO」①㌣

ミo)。

 この書簡にソ連はすぐに反応した。三月二七日付チト

ー同志ほかユーゴ共産党中央委員会の同志たち宛て、ソ

連共産党中央委員会モロトフ、スターリンと署名された

書簡の要点は次の通りであった(;p暑.ミ㌣-違)。

顧問団撤退に関する情報源はソ連代表・顧問団自身であ

り疑わしい点はないこと、ブルジヨワ諸国のようにユー

ゴ治安当局がソ連の代表を監視する状況に顧問団を駐留

させるわけにはいかないこと、ソ連が不満に思う事実と

しては、1・ユーゴに反ソ・デマが流されている(ソ連

には大国的覇権主義がはぴこウている、ソ連はユーゴ経

済を支配しようとしているなど)、2・ユーゴ共産党の

現状にマルクス・レーニン主義からの逸脱がみられる

(党内に民主主義がない、階級闘争の政策が感じられな

い、農村で資本主義要素が増大している、社会主義によ

る資本主義の平和的吸収といった日和見主義の理論に目

を眩まされている、党が人民戦線に埋没しているなど)、

3・ブルジ目ワ政府でもないのに外務省の要職にイギリ

スのスバイが居続けている、というものであった。この

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(241) ユーゴ・ソ連論争史序論

書簡では、ユーゴ共産党指導部の「偏向」への徹底的な

批判が展開されていた。その際、ブルジョワ、トロツキ

ー、ベルンシュタイン、ブハーリン、メンシェヴィキな

どの比職を用いることでことの重大性を認識させ、批判

を受け入れる以外ないことを明白に示したことが特徴で

あった。ソ連の主張には、党が国家の上位にあること、

それゆえ国家間関係よりも党間関係が上位にあるという

考え方が明白である。これは書簡の署名からも理解でき

よう。ユーゴからの書簡には、国家機関を代表する署名

がみられるのに対し、ソ連の書簡では党を代表する署名

となっている。さらに、諸共産党間においてはソ達共産

党が中心にあり、他党を指導する立場にあると認識する

ところから、他の国の国家利益を無視して人事に介入す

ることを当然であるとみなしていた。ソ連には、ユーゴ

が独立国家でありその主権を尊重するといった観点は抜

け落ちているのである。この書簡においてすでに、ユー

ゴ.ソ連間の外交問題が社会主義建設と党の活動に関す

る非難という形に置き換わっていることは注目すべき点

である。

 四月二百に開かれた党中央委員会総会でチトーは、

問題は相互の友好関係をどうつくるかにあるのであり、

理論上の問題が争点になっているのではないこと、レー

ニンやスターリンがすでに著しているように、民族と国

家の独立原則、内政不干渉の原則の承認と相互信頼が重

要であること、ソ連はユーゴヘの圧力の正当化のために

イデオロギー的偏向を持ち出しておりそれが問題である

と述べ、ジュヨヴィチ一人を除く全員がこの発言に賛成

した(oog貝冨轟一〇〇.巽仁-ω轟)。そして、四月二二

日付けの返書(O房ωO員&。く俸ω9竃」↓午冨ω)では、

どんなに社会主義の祖国ソ連を愛していようとも、自国

をより少なく愛することはできないと述べるとともに、

ソ連からの書簡に述べられていた批判のすぺてに逐一反

論していた。そして、ジラスら党の指導者をトロツキー

に、党の政策をベルンシュタインやブハーリンに、ユー

ゴをブルジ目ワ国家にたとえるやり方は侮辱的であると

強い憤りを表明し、ソ連がユーゴに対する不当な評価を

下すのは、駐ユーゴソ連代表やユーゴ共産党のジュ冒ヴ

ィチ、ヘブラングといった反党分子によって誤った情報

を得ているためであるとした。さらに、ソ連がユーゴ国

民を秘密情報部に引き入れようとするのは、同じ社会主

439

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一橋論叢 第114巻 第2号平成7年(1995年)8月号(242〕

義へと向かっている同盟国にたいする態度ではないと非

難し、あくまでこの問題は国家間の相互関係はいかにあ

るべきかという問題であり、イデオロギiの問題ではな

いという基本認識を示した。しかし、最後に、社会主義

とソ連に対する忠誠が記されていた。

 この書簡に対するソ連の返事は五月四日付けで送られ

たが、その問に事態はいっそう悪化していった(o8・

号『二㊤鼻暑.ω睾-ω8一U邑専Lo戸君-曇-H§。ソ

連は、ユーゴヘの書簡をコミンフォルム諸党にも送り、

各党にユーゴ批判を行わせた。ユーゴは、ソ連が国家間

関係の問題をイデオロギー閻題として、主権を尊重する

ことなく他国の共産党を巻虐込んだそのやり方に強く反

発した。そのソ連からのきわめて長文の第二の書簡は、

すべての点にわたるユーゴからの書簡への反論とユーゴ

共産党の偏向をいっそう激しく非難する点を特徴として

いた (O二ωωO-ρ-①旦1■俸ω⊂一〇〇1一一一H①σ1-①一一〇〇ω-N00)。

そこでは、スターリンは得意の論法を用いて、ユーゴ以

外の国々では何も問題が生じていないのにユーゴで問題

が起こるのは、ユーゴに問題があるからだと決めつけた。

さらに、トリエステ問題の際のチトー発言を持ち出して、

ユーゴはソ連を帝国主義諸国と同一視していると非難し

た。そして、もっとも決定的な非難は、ユーゴ人民解放

闘争への中傷であった。ユーゴの党よりもフランスやイ

タリヤの党の方が革命に貢献したとか、全体的にみれぱ

ソ連赤軍がユーゴ共産党が権力につくための条件を作り

出したという〃あまりにひどい嘘”が、ユーゴの人々に

とっては衝撃であり、それはスターリンヘの不信を決定

づけたという(o①皇盲■-睾ガoo」冨-一豪一奉o冒一〇.

ω竃)。書簡は、この問題をコミンフォルム会議で議論す

ることを提案していた。

 ユーゴからの五月九日付けの書簡はとても短いもので、

原測問題についての批判から逃げはしないが、この件で

は平等でないと感じているので、コミンフォルムにおけ

る解決には同意できないこと、ユーゴが社会主義を建設

していること、ソ連とマルクス・エンゲルス.レーニ

ン・スターリンの教えに忠実であることを行動で示すこ

とでこの事態を取り除きたいことが書かれていた(O=-

ωωo巨一①旦-く俸ω戸o」竃)。ジュヨヴィチとヘブラング

は、党から追放され逮捕された。ソ連は彼らの裁判にソ

連の代表を加えるよう要求したが、ユーゴはそれが主権

440

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(243) ユーゴ・ソ連論争史序論

の侵害であることから拒否した(蔓3o℃」署-冨o。一

                      (16)

U①9雪L㊤員君.ω窪-ω竃一〇&号『二彗ポOO」Mω--冒)。

ソ連からは、会議にはスターリン自身が来るので、礼儀

としてチトー自身出席すべきであるとした書簡が届いた

が、党中央委員会は満場一致で欠席を決議した(U&・

号HL㊤鼻君■ω3-ω雪)。粛清時代の経験から、出席す

れば逮捕される可能性が大いに考えられたからである。

 ソ連は、五月二二日に書簡を送り、あらためてユーゴ

を非難すると同時に、なんとしてもユーゴをコミンフォ

ルム会議に引き出そうと挑発していた(O=窃o員&。く

俸ω戸君.冨O。-曽〇一ミO戸℃.ω3)。重要な点として、コ

ミンフォルム設立会議のユーゴの行動を持ち出した点で

ある。ユーゴはそこで、フランスやイタリアの党を批判

する行動をとったが、今度ユーゴが批難される立場にた

つと出席しないというのは、ユーゴこそが特権的立場を

要求しているというソ連の非難は急所を得ている。ソ連

はコミンフォルム設立会議当時からユーゴを陥れること

を考えていたとするユーゴ側.の見解は、この点から出て

くることになる(丙彗まご二〇〇〇ドop竃-一s)。

 これらの書簡の往復を通じて明らかになった両者の立

場は次の点である。第一に、ユーゴはこの問題を国家間

の事件としてとらえるのに対して、ソ連は党間関係・イ

デオロギーの問題とみなしている。第二に、ユーゴはそ

もそも問題を生じさせたような出来事はなく、ただ誤う

た情報にソ連が依拠した結果であり、問題の本質は両者

の誤解であるとするのに対して、ソ連は情報は確かであ

り、また非難される状況が存在しているとする。第三に、

ソ連がトロツキー、ブハーリンといった名前を持ち出し

てイデオロギーの偏向を叩いたことはユーゴ指導部への

大きな圧力とはならずに、とりわけパルチザン闘争への

過小評価などによってその団結を招き、ソ連の思惑はは

ずれてしまった。第四に、ユーゴはこの事件を通じてソ

連の不当な非難に直面した結果、おそらく帝国主義諸国

との対抗という認識以外に、社会主義国問の関係におけ

る主権の尊重や独立性といった原則の重要性を認識する

ことになったo

 ②コミンフォルムからのユーゴの追放

 こうして、ユーゴ不在のまま開かれたコミンフォルム

会議は、六月二八日にユーゴを実質上そこから追放する

441

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一橋論叢 第114巻 第2号 平成7年(1995年)8月号(244)

決議(O豪ωo頁①Pく俸ω9署.N0㌣Mミ)を採択した。

ジダーノフの「チトーが帝国主義のスパイであるという

証拠を握っている」という発言が決議を採択させる決め

手となったθ①ε①HL竃ωら。彗〇一ミ〇一Hら』轟)。それ

は、これまで書簡で与えられていたユーゴ批判の集大成

であった。新しい点は、ユーゴ指導部の反ソ態度を民族

主義と規定する点であり、また公然とユーゴ現指導部の

退陣を要求していることであった。これは、独立国ユー

ゴに対する明らかな内政干渉であった。いわゆる「制限

主権論」が唱えられるのはこれより二十年後のことであ

るが、「社会主義」の大義にもとづいて一国の主権が無

視されることは、このユーゴ・ソ連論争においてすでに

みてとることができる。翌日、ユーゴ共産党中央委員会

はこの決議のすべてを拒否し、チトーとの連帯を宣言し、

党と国民の団結を訴える決議を採択した(O=窒o頁&。

く俸ω⊂君』ミー曽ω)。それは、コミンフォルムには各

党は自発的にその結論を採択するという原則があること

をソ連は無視し。ていると述べ、決議の不当性を主張して

いた。

 こうしたユーゴとソ連の論争は、当時の国際情勢に照

らし合わせてどのような意味をもっていたのだろうか。

すでに検討したように、対立に至る原因は別にあったの

であり、ソ連によるイデオロギー的偏向批判はまさに批

判のために作り出したものでし・かなかった。ソ連のユー

ゴ批判のねらいは別な点にあウたと指摘することは容易

  (17)

であろう。木村氏は、コミンフォルム決議がユーゴにむ

けた批判は実は他のすべての共産党にあてはまることで

あり、ユーゴを批判することでそれら諸国の政策の急速

な方向転換を促すことにその真意があったとする(木村、

九四-九八ぺージ)。確かに、この決議以降、東欧諸国

ではソ連流の共産党支配が確立されていき、国有化・集

団化が徹底され、大規模な粛清が実行され、スターリン

に忠実な指導者を頭に据えた衛星国化が完了する。ソ連

は、西側との対抗上東欧諸国を完全に自らに従属させる

ことを企図し、その第一歩としてコミンフォルムを結成

させた。しかし、そこでは圧倒的なチトーの人気を背景

にユーゴを中心に自立傾向があることが明らかになった。

それを容認できないスターリンは、ユーゴ指導部をイデ

オロギー的偏向批判という形で更迭すると同時に、単に

ユーゴを批判するだけでなく、それを通じて他の国々の

442

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(245) ユーゴ・ソ連論争史序論

共産主義化を急速に進めることを意図した。これに対し、

ユーゴは国家の独立を最重視し、自国の条件に従って社

会主義建設を進めていくことに固執した。ソ連には、主

権を持つ独立した国家として存在するようになった社会

主義国家問の相互関係の原則に関する認識が欠如してい

た。国家よりも党を上位におくシステムとしての社会主

義は国家間関係の問題を党間関係の問題として扱うため、

必然的に一方が正統であり、他方がイデオロギー的に偏

向しているという構図ができあがり、内政干渉が当然視

されるようになるのである。

 ③ユーゴヘの圧力とその影響

 ユーゴではすぐに第五回党大会が開かれたが、チトー

ら指導者は圧倒的支持を受けて中央委員として再選され

た。演説でチトーは、ソ連万歳・スターリン万歳と締め

くくり、彼らが断固社会主義へと向かっていることを誇

示した。同様に、批判が誤りであることを行動で示そう

として、外交政策上ソ連と共同歩調をとり、また四九年

には農業集団化と農産物の強制買い上げが強引に実行さ

(18)

れた。

 こうしたユーゴの姿勢に対して、ソ連はますます圧力

       (㎎)

を強化していった。盛んにラジオ放送やパンフレットを

用いて、ユーゴ指導部がいかにマルクスーレーニン主義

から逸脱しているか、彼らの没落が近いかが宣伝された。

ソ連で出版される辞典類は、ユーゴを解放したのは赤軍

であると書き換えられていうた。同時に、ソ連の秘密工

作員は国内外のユーゴ人たちを味方に引き入れようと手

を尽くした。八月には、ユーゴ軍の大佐ら三名が国境を

越えようとして射殺・逮捕される事件が起きた。これは、

初め、ジュヨヴィチとヘブラングを使って新ユーゴ指導

部をつくる画策が流れたのに続く、”健全な勢力。によ

る亡命ユーゴ政府樹立計画によるものであったが、また

も失敗に終わった。

 こうして、圧カはより直接的な効果を狙ったものへと

  (20)

移った。経済封鎖と軍事的圧力がそれである。五カ年計

画の投資の大部分をソ連東欧諸国からの供給に頼ってい

たユーゴにとって、それは大きな打撃となるものであっ

た。四九年一月に設立されたコメコンにもユーゴは参加

を願い出たが拒否された。そして、ユーゴに隣接する諸

国では軍備が増強され、ソ連の戦車部隊が集結されてい

443

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一橋論叢 第114巻第2号 平成7年(1995年)8月号(246)

るという情報が流れた。ユーゴには、西側との対抗とい

う外交政策をとる余裕はなくなづていた。四九年七月、

ユーゴはギリシア国境を閉鎖し、反政府ゲリラヘの援助

を停止した。西側との関係改善のためのやむなき措置で

あり、実際、それ以後西側からの援助が決まっていった。

 こうしたユーゴに対する圧力は、他の東欧諸国にも反

作用をもたらした。そのもっとも特徴的な事件は、各国

における粛清裁判の執行である(ミo戸暑・ωミー竃一

ωOo†ωOo㊤㍉&一〇=らP曽㌣爵㊤一08号箏-㊤竃一署1き㌣き㊤一

宗99冨戸暑』ミーN望)。一連の裁判の最初は、四

九年五月にアルパニアで副首相コチ・ジョジェに対する

ものだった。続いて九月にハンガリーで外相ライク、一

一月にブルガリアで副首相コストフ、五二年一一月にチ

ェコで党書記長スランスキー、そしてポーランドでもゴ

ムルカが逮捕された。どの裁判も、ユーゴが初めから帝

国主義の手先であり、ソ連東欧諸国を侵略する意図を持

っていたことを示そうとしてねつ造されたものであうた。

それはまた、各国の〃チトー主義者”を粛清し、スター

リンの息のかかった指導者を据えるために仕組まれたも

のであった。その際、チトー主義者か否かは、ソ連の利

益を第一に考えるのか、自国の利益を重視するのかによ

って判断された。ライク裁判の直後にユーゴとの友好協

力相互条約がソ連にようて一方的に破棄され、ユーゴ人

外交官らが追放された。理由は、裁判でユーゴが帝国主

義の手先でありその侵略政策が明らかになったためであ

るとしていた(O=ωωO-P①Pく俸ω戸O.N昌)。ここにお

いて、先の書簡による論争でイデオロギー偏向を問題に

したソ連が、条約の破棄やユーゴ人の追放という国家間

の問題として対処している点に注意したい。

 さらに、裁判で述べたユーゴ非難を公£旦言したのが、

四九年一一月に開かれたコミンフォルム第三回会議の決

議であった(蔓pらp竃甲N轟)。そこでは、トリアッ

ティでさえも、チトーらスパイ一味はアメリカ帝国主義

者の意志を遂行する最悪の分裂主義者であると述べてい

た。デジが報告した「人殺しとスパイの権力下にあるユ

ーゴスラヴィア共産党」は、ユーゴがブルジョワ民族主

義からさらに進んでファシズムヘ転化したと規定し、彼

らに対する闘争は全共産党・労働者党の国際的義務であ

るとしていた。それは、ユーゴはもはや社会主義とはな

んの関係もなく、人民を抑圧するファシスト体制である

444

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(247) ユーゴ・ソ連論争史序論

と断言することで、世界の労働運動に対してユーゴ非難

を正当化し、同時にソ連を中心とした社会主義陣営の思

想的強化を意図したものであった。

 ④ユーゴの対応-コミンフォルミストヘの対応を

   中心に-

 それでは、こうしたソ連の圧力に対して、ユーゴはど

のように対応したのだろうか。すでに述べた強引な農業

集団化は、零細な土地を保有する個人農がほとんどであ

ったユーゴの農民がそれを望まず、農業生産の向上には

いっこうに結ぴつかずに、五三年に放棄された

(}印目與POo.-ω仁--ω①一〇=ωωo-只①Poo=k一〇〇.Nトo1N蜆N)。

そうした具体的な政策の対応よりもはるかに困難だった

問題が、教条主義に対する対応であった。対立が表面化

するまで、ユーゴの指導者たちは、ソ連とスターリンヘ

の忠誠を徹底的に教育していた。絶対的な権威を有して

いたそのソ連とスターリンにユーゴは楯突いたのであり、

その際、ソ連を擁護する人々に対してどのように対処し

たのかは、きわめて重要な問題である。なぜなら、それ

はスターリン主義的な方法がユーゴ社会主義の根底に残

り続けるか否かに関わる問題だからである。チトーに反

対して逮捕されたジュヨヴィチは、後にライク裁判を知

り改心しスターリンと決別するのだが、彼は当時の心境

を、ソ連共産党は親の党でありマルクス・レーニン主義

の唯一の完全な正しい解釈者であり、明らかな誤りやユ

ーゴに損害を与える問題についてもロシア人が言うとお

りなのだと考えそれを正当化する理由をみつけだそうと

努めたと振り返っている(忌9①『LO鼻暑」冒-ξω)。

彼らコミンフォルミストたちは自発的にあるいはソ連の

指令を受けて、チトーに従うことを拒否した。このコミ

ンフ才ルミストを、ユーゴ治安当局は徹底的な手段によ

って排除していった。その数について欧米の研究者に一

般に採用されているのは、五二年秋に当局が発表した一

三七〇〇人という数字である(例えぱ、=o津昌彗・

写&一℃」§一p刃冨弐oき§雨鳶o之§§雨ユ§§“

-凄宇畠軍雰鼻①一昌一〇巴一戸-彗↓ら.ωo)。近年の研究に

           (21)

よれぱ(霊冨p君」ξ-巨㊤)、四八年から五五年まで

に五五六六三人がコミンフォルミストと認定され、 :ハ

ニ八八人が逮捕・刑圭旦告された。四八年の党員数二八

万五一四七人とその五万五六六三人とを比べると、約五

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一橋論叢第114巻第2号平成7年(1995年)8月号(248)

分の一があてはまることになる。これは決して少ない数

字ではないだろう。特徴的なのは、その共和国・自治州

別内訳であり、数的にはセルビア共和国が半数以上を占

め、対人口比ではモンテネグロ共和国が最も高く、セル

ビア共和国が続く。これは、民族別割合をみても同様で

ある。セルピアとモンテネグロの割合がきわめて高く、

クロアチア・スロヴェニアの割合が低い理由は、前者は

もともと親ロシア感情が強いこと、ベオグラード解放に

加わづたロシア系住民が多く、ソ連秘密警察が入り込み

やすかったことなどが考えられる。

 次に、コミンフォルミストたちに対する治安当局の対

応についてみると、次のようになる(霊畠p署』お-

N農)。当局は彼らの逮捕を党内事情として扱ったために、

裁判は正式な手続きが踏まれることなく行われた。公開

されたものは与こく少数であり、それも政治的効果を狙っ

てのことであった。こうした点で、東欧諸国で行われた

チトー主義者粛清裁判と共通するものがあったといえよ

う。彼らには、たいてい二年以上の社会的有用労働が課

せられたが、重要なのは、逮捕後拘禁された彼らは、矯

正され党への忠誠を回復することが要求された点である。

特に名だたる収容所がゴリ島のそれである。ゴリ島には、

五一年二月までに、八度にわたって八二五〇人が収容さ

れた。新参者を殴ることで囚人たちは改心を示さねぱな

らなかった。さまざまな拷問は収容者自身によってなさ

れた。彼らは、目らの立場を修正し、決議への賛成を拒

否し、党への忠誠を誓わねぱ修正者の仲間には入れなか

った。結局、三四三人(約半数がチフスによって)がそ

こで死亡した。ある収容者は、ニケ月の取り調べのあと

八カ月半ゴリ島に収容され、それからボスニアの鉄道建

設に派遣された。五二年一一月に発表された数字では、

七〇三九人のコミンフォルミストが拘留を解かれ、その

うち一・九%しか再逮捕されなかった。

 これまでその実態が明らかにされてこなかった強制収

容所に関する研究はますます深められる必要がある。し

かし、パナヅツの研究からもわかるように、ユーゴがコ

ミンフォルミストに対して使用した方法は、スターリン

が粛清に使用した方法と本質的に変わるところがな・かっ

たといえるだろう。この点は、独自の道を進んだユーゴ

にとって打ち消すことのできない批判されるべき点であ

る。コミンフォルミストの排除は、チトーら指導部が、

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(249) ユーゴ・ソ連論争史序論

手に入れた権力を誰にも渡さずに国の支配を維持するた

めには不可欠であったかもしれないが、重要な点は、彼

らの排除の過程で治安機関の権カが増大し、党の二兀的

なイデオロギi支配を確立させたことであり、それは、

構造上ソ連型社会主義と共通の性質をユーゴにも残すこ

とになったといえよう。

四 おわりに

 以上、考察してきたユーゴ・ソ連論争の原因は、1・

ソ連の対外政策とユーゴの外交上の自立志向の衝突、

2.社会主義建設を進める上で何を重視するかをめぐる

意見の衝突にあった。ソ連の利益を第一とするか、自国

の利益を重視するかという問題に直面した結果衝突が生

じたのである。この問題への対応の仕方は、第二次大戦

の解放のされ方に応じて異なった。ソ連の後押しを必要

としなかったユーゴが、外交上、独立国として正当に扱

われるだけの自信を持って臨んだのに対し、ソ連は、自

国の安全を最重視し、東欧諸国を衛星国として統合する

こと以外関心を持たなかった。その結果、複数の国家と

して存在するようになった社会主義国家間の相互関係は

いかにあるべきかという問題が提起されることになった。

ソ連の与えた解答は、国家間関係よりも党間関係を上位

におくことであり、ソ連が定めるイデオロギーに従った

党間関係の見解の一致が存在しなけれぱ正常な国家間関

係は有り得ないということであった。そしてそれは、国

家の独立、主権の尊重、内政不干渉といった基本的な原

則さえ無視される環境を作り出すことになったのである。

ソ連に頼るしかなかった他の東欧諸国は、この事件でソ

連に追随することで、後に、皮肉にも自らの首を絞める

こととなった。一方、ユーゴも、コミンフォルミストヘ

の対応にみられるように、党が所有する唯一絶対のイデ

才ロギーと強力な治安機関はソ連同様存在し続けた。そ

の点で、ソ連型社会主義を批判し改革を重ねていったユ

ーゴにも限界があったのである。

(1)重要なものとして、以下のものを挙げる。まず、論争

 そのものに関する資料(書簡・覚書・決議等)には次の文

献がある。内o着;畠蔓巨Φo=目8昌きo冨一≧曇長§雨

ω§ミー凄o之§皇魯ミ軸一-o邑gLo亀ら』.冒『冨一一さ一

零之§ぎ§、§耐ω§{ミ§{§一-凄申-ξ9=O昌忌戸

Oo目目-一-o蜆①一宛.}印閉閉俸向.ζo『σ自『く一①旦9§耐ωoミ雨㍗

447

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一橋論叢第114巻第2号平成7年(1995年)8月号(250)

き零包§ o§さ§葛ヒ 宕亀-岩亀一』 bo蔓§§§ミ

完§oミZoξくoH7冨8(R・パス、E・マーブリ共編

(日本外政学会訳)『ソ連とユーゴの紛争文献記録』、臼本

外政学会、一九六一年)一ω。O=窒o頁&。ぎ電色邑eざ§、

、ぎ雨ωoe討、§{oさ-§℃1』㎏轟一■O目庄O戸一〇↓蜆(O=mωO-α’o戸

く印ωcと略)。これらは、いずれもこの問題に関する欧米

の研究等で広く用いられており、本稿も準一次資料として

使用した。なお、ユーゴ側は、五一年にソ遵東欧諸国のユ

ーゴ攻撃に関する白書(英訳ニミーきb8沖§ト鶴§窒}ミ

トoき§塞ξ§雨s竃§§§冨ミ§雨qりり声曽』§具

9sぎ色o§雪pき曽寒§カs§§§■s膏sユs§民』§s-

ぎsき§s辻-き電色§貴}①后冨箒一≦邑阻qo片ヨ『o釘目

>串巴量お望)を、八○年にデディエルがこの問題に関す

る資料集(<、忌9貸旨ぎ§§弐毫へo。(』■~)一-8oq轟p

-畠o)を発表している。また、当事者のカルデリ、デディ

エルらが記した回想、著書としての次のものがある。く■

U①2オ■§δ留雨8ふ吻一「o目匝o戸冨畠(V.デディエル

(高橋正雄訳)『チトーは語る』、河出書房新社、一九五三

年)一≦∪首蔓o§§葛sぎ3眈§き望ミざzoξくo『珂

冨竃(M・ジラス(新庄哲夫訳)『スターリンとの対話』、

雪華社、一九六八年)一<.U&言■§軸bミ壽望畠-ぎト8ご

き§g葛ミき電之§貴-凄oo--§~一zo≦くo『珂ε;

(V・デディエル(平井吉夫訳)『クレムリンの敗北』、河

出書房新社、一九八一年)一向.穴胃og一§δ§包ω8{邑室

完§9ミ{§ミき電之§ざ一雰一〇q冨ま二ωo。〇一向.ζ邑①芦

完雨§ぎ{竃§s㍗§“望蔓跨-雨さ『完so電ミ§§軋ぎき-

㌧§き§ミ§雨きsき電之§ざ-b忘-さ貫-o己o貝

-竃N(E・カルデリ(山崎那美子訳)『自主管理社会主義

への道-カルデリ回想記-』、亜紀書房、一九八二年)。ソ

遵側の見解は、コミンフォルム機関誌弓o『>5邑長

霊碧9勺冒>霊o旦①.蜆忌昌oo冨ξ』に典型的にみられる

(その一部は、不十分な邦訳であるが、日刊労働通信社編

『コミンフォルム重要文献集』、日刊労働通信社、一九五九

年参照)。また、近年の研究論文としては、次のものがあ

る。困-スー}o自罧o坪 目-声 『雪α雪與=o宍芦 〇一≡o目而=呂団

≡棄ξO畠實買…8勇…昌OO貝毒曽3…①冥O罫δ昌昌.

富罵団o=胃;q己o…冒8暑竃窒o8『一冨oξo昌呂soo-

匡雷』Looooo、(V・K・ヴォルコフ、L.Y.ギビアンス

キー「ソ連と社会主義ユーゴスラピアとの関係-歴史の経

験と現代」、ソ遵誌『歴史の諸問題』一九八八年七月号、

邦訳、『世界政治』七八二・七八三号所収、一九八九年二

月上・下)。欧米の研究者による文献は、特に重要なもの

だけを挙げる。>』.昌凹員§§o§§ミ“き雨9§サさ、さ

○與目一uユO胴P-o蜆心一司.向&一α一曽99ミ、雨閉包雨§oo§旨雨}もo号.

s§§p向2ま冨旨ω彗}rおs(一九七二年版の邦訳、

F・フェイト(熊田亨訳)『スターリン時代の東欧』、岩波

現代選書、一九七九年)一N.声零罵ま冨貫ドぎ吻osミ

b-8汀h§{ミs茗巨Ooミ{鼻o凹昌一〕『己oq9宕8(Z.K.

ブジェジンスキー(山口房雄訳)『ソピエト・ブロック』、

弘文堂、一九六四年)一〇.宍曽O串昌彗彗Oミ、Z。早O戸

448

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ユーゴ・ソ連論争史序論(251)

凄o包§ざ§、§軸き§9ミ§sミ吻§2oミくo鼻」o竃一

ミ.ω.く目9邑o戸ooIoos膏§もo§ミき的o之sミ邑㌧↓§雨sξ

さ8葛♀吻o9畠旨包ξoざ§値ミ戸 巾o『斥9①ドO巴芦一-o蜆o.

A.グェルラ(坂井信義訳)『コミンフォルム時代』、大

月書店、一九八一年。ミ.ω.く目9邑o戸&■㌧二ざbユ導

ミ§『§、鴬§ミ§“§“o-娑8ミs畠ミぎs雲包oユoき下

魯sき♪zoξくo鼻し轟N一--巾彗害一§き蟹ミぎs寒{曽g

§δ.OO『目o=O自-く①Hω巨き-ooooo…>.∪旨-団9§oOoS鳶吻膏、

o§ミミhき零之§s{セ俸oo§§ミミ貧完§oぎま§-竃千

-凄恥}胃竃己戸勺、二㊤畠。わが国の先行研究には次のも

のがある。木戸姦「ソ連・ユーゴスラヴィア関係-第二次

世界大戦から一九四八年まで1」、立川文彦編『国際政治

の史的構造』、、ミネルパ書房、一九六八年、所収。沢田干

一郎「コミンフォルムとチトーイズム発生に至る第一段階

(第二段階)」、『研究年報』12・13、神戸市外国語大学外国

学研究所、一九七四・七五年。木村朗「ユーゴ・ソ連紛争

の史的展開(一九四五-一九五六年)」、『政治研究』第三

五号、九州大学政治研究室、一九八八年。ところで、この

問題の研究状況について、ソ連側の研究がほとんどなく

(あっても五三年以前はユーゴ批判のブ回パガンダ、五五

年以降はスターリンらの個人的責任を問うだけ)、ユーゴ

側の文献が圧倒的に多い以上、西側の研究がそれらに依拠

せざるをえなかうたという次の指摘は重要である(-.宍彗-

g昌胃一、↓烹ヨ8あ邑巨ω呂二目ωoユg昌oく目o胃o色彗

雪goユooq量昌}、二目く;巨ざ戸&L㊤ooドop曽ω占ご)。

 ユーゴ指導者による文献に、後の自主管理、非同盟政策を

 正当化する意図が含まれている可能性があることは考慮し

 ておくぺきであろう。

(2)筆者は、ユーゴ・ソ連論争を、四八年の論争と、五八

 年のユーゴ共産主義者同盟綱領採択に関して生じた論争の

 二つの論争を総合的に捉えるべきであると考えているが、

 紙数の都合もあり後者および両論争の歴史的意義について

 の考察は稿を改めたい。

(3) ユーゴ史・東欧史は、次の文献を参照。ω、O=轟o員

 oO-』吻ぎO「“§}、Oミρ、き的o眈-Se}PO}昌一u『」α胴〇一-㊤①①(O=1

窒o頁&ω=くと略。同じクリソルド編集の前掲資料集

 とは区別が必要。邦訳S・クリソルド編(田中一生・柴宜

弘.高田敏明共訳)『ユーゴスラヴィア史』、恒文社、一九

 八○)一ミo罵一声F一§雨b昌寿s毒ぎos『§§“一=胃く胃o

〇三く』『窃蜆二竃ト。矢田俊隆編『東欧史(新版)-世界各

国史13』、山川出版社、一九七七年。ユーゴ共産主義者同

盟(共産党)史は次の文献を参照。-、>毒ぎヨ〇三9まgo-

ミ♀きΦ9§§§室きミ呉凄g-§貴く〇一.ポ>σ雪■

ま竃Lo澤P・モラチャ『ユーゴスラビァ共産主義者同

盟小史』ω1ω、『世界政治』2oωo甲竈p一九七三年一

-二月。}…o轟8一p雲一彗s貝ω-望o』彗〇三pa砕あδ「

母sω§§s宗o§§芳§さ的富-§膏㌧宗§“§㌧§廻&一霊〇一

〇qHぎ」彗介宍胃急一-冨o.o、チトーについては次の文献を

参照。戸>鼻ヌ§叶ミ昌s轟§ミ一霊目碧巨-oo雰L竃今

ω15勺彗一〇三〇戸§δ一き的O之§ざげO§ミ皇9ミミ一㌧

449

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一橋論叢 第114巻 第2号平成7年(1995年)8月号(252)

完雨萬}防雨㎞ω§雨S“ Ol匡一』Hω↓ 印 OO昌O凹目き -O目αO自’ -oo心.

 V・ヴィンテルハルテル(田中一生訳)『チトー伝』、徳間

 書店、一九七二年。

(4) チトーが党書記長へと上昇していく過程で、いわゆる

粛清といかなる関係にあったのかも、今後明らかにされる

 べき問題であろう。

(5) ユーゴの解放過程とソ連の支援については次の文献

 を参照。峯O戸暑.N昌-M竃一〇=窃〇一P&1ω=メ署1N富-

 轟9矢田編、四二九-四三一べージ、R・ボボト編(山

睦洋訳)『ユーゴスラヴィア』、恒文社、一九八三年、二0

 1二五べージ、モラチャ、②、一九七三年一月下、五五1

 ⊥ハ一ニベー“ソ。

(6) なお、ギリシアでは、イギリスが九〇%・ソ連が一〇

 %の影響力をもつとされた。W・S・チャーチル(毎日新

 聞翻訳委員会訳)『第二次大戦回顧録』二二、毎日新聞社、

 一九五五年、九七-一〇〇ぺージ参照。

(7) ソ連側の文献では、逆にユーゴ解放に対するソ連の積

 極的な貢献が述ぺられている。Uo自彗干『昌毒;蔓員

 §.†①.

(8)戦後のユーゴ情勢は、次の文献を参照。ミo罵らP

 N①↓-N一一蜆Mω-ωω蜆一〇=閉mO-戸oμ-ω}く一〇PMω①-Nω9N卜{1

 豊9曽OO-曽f句且↓0=一〇P5叩ミO.

(9) コミンフォルム設立会議は、次の文献を参照。穴彗-

 旦9し畠MらP竃⊥S一G・ボッファ(坂井信義・大久保

 昭男訳)『ソ連邦史』第四巻、大月書店、一九八O年、二

OI二七ぺージ。

(10) 人民民主主義論の変遷は、次の文献を参照。百瀬宏

「『ソ連・東欧圏』の形成と人民民主主義論の変遷」、『歴史

学研究』四六五号、一九七九年、一一丁二二ぺージ、柴宜弘

 「ユーゴスラヴィア、一九四五-一九四八年」、同上、二九

-三四ぺージ、沢田、九九-一〇〇べージ、木村、六六-

 六九べージ。

(11)次の文献を参照。ミo罵一〇Pω冒-ω匡一〇=留〇一旦一&■

 ω葭メOラ畠㌣N曽一穴胃ま一]二竃ドOP9-買畠-O.NMS-

 昌O。ら昌0=もPO。㌣O。ρ=9チトーの発言は次の資料を参照。

 ○旨ωωO-PoPく俸ω⊂一〇勺--①蜆1-ω①.

(12) 次の文献を参照。C&B・ジェラヴィチ(木戸蛮日本

 語版監修・野原美代子訳)『バルカン史』、恒文社、一九八

 二隼、一四九、一六二-一六四ぺ-ジ、木戸姦『バルカン

 現代史』、山川出版社、一九七七年、三一二-三一七、三

 三六-三四一ぺージ、ボソファ、前掲訳書第四巻、九三ぺ

 ージ、沢田、九六-九七ぺージ。峯O只OP彗㌣ω鼻

(13) 次の文献を参照。ミo昇oP竈o-竈ゴO=窒〇一〇一&.

 ω=メOP違蜆-農3句凸け90P5甲ミO。ボルコフ^ギピア

 ンスキーは、ソ連による経済協力の意義を述ぺるだけにと

 どまっている。}o自戻o}n「雪α匡}=o宍=ヌ§.①1↓.

(14)次の文献を参照。宍胃α9し竃N一君.虞ム↓一奏〇一一署。

 昌†曽9曽OO,曽〇一霊官0=一暑」雪-竃9ボッファ、前掲訳

 書、七一-七四ぺージ。すでに大戦中にユーゴ側はユーゴ

 にブルガリアを七つ目の共和国として統合する連邦を、ブ

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ユーゴ・ソ連論争史序論(253)

 ルガリアはユーゴとブルガリアの平等な二国間の連邦を構

 想し協議していたが合意には至らなかった。ユーゴが、プ

 ルガリアとギリシアのマケドニアをユーゴのマケドニア共

 和国に編入する意図を持っていたことも西側の反対を招き、

 それゆえスターリンの同意も得られなかったからである。

(15) 会談の様子は、次の文献を参照。穴凹agLoooドoP

 -畠-=ご奉O戸OP曽O-ωN-、ボッファ、前掲訳書、七四

 べージ、木戸、一九六八年、一九五-二〇一べージ、沢田、

 八八-九七ぺ-ジ。-昌彗干『き雪窒冥;員§。↓-=一

(16) 彼らの逮捕は、ルーマニアに連れていかれ、彼らがコ

 、、、ンフォルム会議に出席することを避けるためであったと

 いう。5a9」竃NOl=ド

(17) ソ連側の見解では、スターリンらの個人的な罪には言

 及するものの、ユーゴ追放の真のねらいというた点の考察

 はみられない。}O自宍O㌣「=α呂凹=O戻=戸SP-巳〇一ミー-印

(18) U①9o『二〇員oPωミーωo。-竈〒竈ω一U&ご①『二〇↓-一

〇p巨ω⊥寒一ミo罵らpω窒-まごまヰαらp墨〒M澤例え

 ぱ、ドナウ川航行に関する会議では、西側に対抗しソ連側

 の提案に完全に賛成したし、秋の国連総会でも同様であっ

 た。

(19) 次の文献を参照。Uo9雪L8ωらP彗†ω↓9ω畠-きジ

 Uo昌Φ『し竃-一〇p-竈⊥トベニ雪-旨p奏o戸℃軍ω3-窒3

 霊畠〇一暑.冨OL曽-N亀-

(20) 次の文献を参照。U①昌P冨畠一〇P♂ωムo3U&-

 号『二竃-ら軍曽蜆.N畠し-㌣曽3ミo罵一〇戸ω①一害--署F

 篶㍊0=一〇軍達甲轟二巾.声彗冨ξ一..↓ま>σOユ&ω〇三9

 ζ=津彗}=彗ω品巴冨叶↓奉o.ωく目胴o色彗武..二目<;ま一

 ざ戸&1冨ooNoo.ミω-N000o‘

(21) コ、・、ンフォルミストに関してユーゴで公表されている

 と田心われる統計資料等は、現状では入手困難なため本稿に

 おいて直接は使用していない。しかし、バナソツによる詳

細な研究は明確なコミンフォルミスト像を与えており、ユ

 ーゴの対応の問題性を検討する本稿の論旨にはきわめて有

益である。

             (一橋大学大学院博士課程)

451