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アブラハムの場合 - 1 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. 旧・ローマ書の福音 11 アブラハムの場合 ローマ 4125 1.それでは、私たちの血統上の先祖アブラハムが頂いたものは 1 一体、何 だったと言えるでしょうか? 2.どうしてこんなことを聞くか 2 というと、ア ブラハムがもし実績に免じて義とされた 3 のであれば、彼は誇ってもよいでし ょう。だが神の前でだけは、それは有り得ないのです。 3.それはなぜか聖書の言葉が証拠 4 です。「アブラハムは神を信頼した。そしてそのことが彼 の正しさ 5 として神に評価された」。 4.でも、現に働いて実績を生んでいる 人に対してなら、その人の報酬は無償とは言えないわけで、これは当然支払 われるべきものと見なされます。 5.これに対し、働きの実績を生み出してい なくて、その代り、不敬虔な者をも義とするお方を信頼している人に対して は、彼が信頼したという事実が彼の正しさとして評価されるのです。 6.この ことはまさにダビデが述ベているのと同じでありますが、彼は実績がないの に神に正しさを評価して頂く人間の幸いをこう言います。 7.「幸いだ、なした不法を赦された人たちは! また、犯した罪を蔽って頂いた人たちは! 8.幸いだ、主がその罪をもう決して評価に入れなさらないと おっしゃる人は! 6 9.彼の言う、「幸いだ!」という宣言は、それでは割礼者だけに対するも のでしょうか? それとも、無割礼者をも含むのでしょうか? これは「アブ ラハムに対しては彼の信仰(信頼)が彼の正しさとして評価された」と書い てあることは間違いないから 7 尋ねるのであります。 10.つまり、その評価を して頂いた時の事情はどうだったのでしょう? それは彼が割礼を受けてか ら……でしたか 8 ……それとも、割礼を受ける前でしたか? 受けてからでは

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アブラハムの場合

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旧・ローマ書の福音 11

アブラハムの場合

ローマ 4:1-25

1.それでは、私たちの血統上の先祖アブラハムが頂いたものは1一体、何

だったと言えるでしょうか? 2.どうしてこんなことを聞くか2というと、ア

ブラハムがもし実績に免じて義とされた3のであれば、彼は誇ってもよいでし

ょう。だが神の前でだけは、それは有り得ないのです。 3.それはなぜか―

聖書の言葉が証拠4です。「アブラハムは神を信頼した。そしてそのことが彼

の正しさ5として神に評価された」。 4.でも、現に働いて実績を生んでいる

人に対してなら、その人の報酬は無償とは言えないわけで、これは当然支払

われるべきものと見なされます。 5.これに対し、働きの実績を生み出してい

なくて、その代り、不敬虔な者をも義とするお方を信頼している人に対して

は、彼が信頼したという事実が彼の正しさとして評価されるのです。 6.この

ことはまさにダビデが述ベているのと同じでありますが、彼は実績がないの

に神に正しさを評価して頂く人間の幸いをこう言います。

7.「幸いだ、なした不法を赦された人たちは!

また、犯した罪を蔽って頂いた人たちは!

8.幸いだ、主がその罪をもう決して評価に入れなさらないと

おっしゃる人は!6」

9.彼の言う、「幸いだ!」という宣言は、それでは割礼者だけに対するも

のでしょうか? それとも、無割礼者をも含むのでしょうか? これは「アブ

ラハムに対しては彼の信仰(信頼)が彼の正しさとして評価された」と書い

てあることは間違いないから7尋ねるのであります。 10.つまり、その評価を

して頂いた時の事情はどうだったのでしょう? それは彼が割礼を受けてか

ら……でしたか8……それとも、割礼を受ける前でしたか? 受けてからでは

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なく、受ける前であります。 11.割礼というしるしを彼が受けたのはその後9

であって、それも、割礼前の彼の信頼を正しいと評価された証拠の封印10と

してだったのです。その結果、彼は割礼を受けずに11信じる人たち全部の父

(先達)となったわけで、結果としてはその人たちまでが正しさを評価され

ることになりました。 12.彼はまた同時に割礼者の父にもなったのですが、

それは単に割礼の原則を守っているというだけでなく12、アブラハムが無割

礼の時に信じたその信仰(信頼)の足跡に従っているような「割礼者」の父

なのです。

13.そのアブラハムへの約束、ひいては彼の子孫13への約束が―つまり、

彼が相続人として世界をその手に受ける14という保証が、律法を守ったから

15

与えられたのではなく、信頼した事実を正しいと認められて16与えられたこ

とを考えても17、これは明かです。 14.なぜなら、もし律法を守ったからとい

うのでこの相続が許されるのだとすれば、信仰ということがすでに意味を失

って、約束も反古になったことになります。 15.なぜかと言うと、それは律

法のもたらす結果は神の怒りにほかならず18、逆に律法の存在しない所には、

違反も有り得ないのです。 16.「信仰(信頼)を認められて」と言ったのは

このため19です。つまり、このこと

20が一方的恵みによって来り、その結果あ

の約束が彼の子孫に21例外なく確かに及ぶため、しかも律法によって立つ

22

彼の子孫だけでなく、アブラハムの信仰(信頼)によって立つ彼の子孫にま

で及ぶためです。こうしてこの人は私たちみんなの父となりました23。 17.

(聖書に「私はお前を多くの民族の父として立てた24」とある通りです)。実

に彼は25、彼が信頼申し上げた神の前に―死者を生きた者になさる神、また

「存在する」と一言お呼びになれば存在せぬ者が存在するようになる力をお

持ちのその神の前に、名実共に私たちみんなの父となったのであります。 18.

このアブラハムは絶望の中で希望を仰いで信じた人でした。その結果彼は「お

前の子孫はこのようになる」という聖書の言葉どおり、多くの民族の父とな

りました。 19.その彼はその時26信仰を弱くすることなく、ほぼ百才にもな

っていた自分の体が死者同然27であることも、サラの胎が枯死している事実

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も、百も承知で信じた28のでした。 20.彼は神の約束を不信仰で疑ったりす

るどころか、信仰を強められて29神の栄光をあがめ

30、 21.また、神は約束な

さったことを必ずなしとげて下さることができる方だと確信したのです。 22.

だからこそそれ(彼の信頼)が「彼の正しさと評価された」とまで31言われ

るのです。 23.だがこの「彼の正しさと評価された」という一言は、アブラ

ハムひとりのために書かれたのではありません。 24.それは私たちのために

も、言い換えれば、私たちの主イエスを甦らせたお方を信頼する者たちのた

めに同じ「評価」がなされるという趣旨で書かれたのです。 25.それは実に

このイエスが引き渡されたのは私たちの罪過のため32であり、彼が甦らせら

れたのも私たちが義とされるためだから33です。

昔ある友人から、「ビサイクル」という話を聞いたことがあります。「ビ

サイクル」は、英語で自転車のことだったのです。こう申し上げると、「自

転車はバイシクルではないか。ビサイクルとは何事か!」とお叱りを受ける

でしょうが、そこはそれ、この話のおかしいところでありまして、不幸な友

人は彼が絶対信用していた英語の先生から、bicycle を「ビサイクル」と教え

られて、長い間、「自転車はビサイクル」と固く信じて疑わなかったと言う

のです。時々親切に注意してくれる人がいて、「君、自転車はバイシクルだ

よ」と言われても、「バカな!」と笑って、全く相手にしなかったのでした。

1.思い込みの危険

信仰のことは、いろいろな意味で、このビサイクルと似たことがよく起こ

ります。洗礼を受けて何年にもなり、クリスチャンであると自他共に許す人

が、聖書の趣旨を逆に受け取ったまま、頑として動かないで、自分の信じて

いる“ビサイクル”以外のものには耳をかさず、ついにビサイクルに殉じて

死ぬという例がよくあるのです。

どういうことかと申しますと、信仰とは「イエス・キリストを固く信じ、

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正しい崇高な愛の生き方を貫いて、それで救いに入れて頂くこと」であると

いう信念です。その結果、自分の弱さや悲しさを見て、最後まで、「自分は

ダメだ、ダメだ」と自虐的に己れを苦しめて、いわば一種のカタルシス34を

味わうか、そうでない場合は、時たま胸を打つような感動的な話や、崇高な

生き方をした人の実話でも聞いて、それに感激する純粋さを持つ自分に安心

して、「恵まれた!」などと、もっともらしいことを言うのです。

本当はそういう実話の主人公がキリストに信頼して救いを受けていたから、

罪の赦しによる深い平安と喜びを持っていたから、だからそんな生き方がで

きたんだな、と考えねばならないのに、どこかで逆になってしまいます。こ

れは今“ビサイクル”と申しましたが、決して微細な所で狂っているのでは

なく、信仰というものの一番根本の所で大きな思い違いをしているのであり

ます。

この点で思い違いをしますと、りっぱな信仰に生きた人の実話や伝記を読

んで、かえって自分がみじめになったり、この自分には一体、信仰があるん

だろうかと、せっかく与えられた信仰まで失いそうになったりすることがあ

ります。

2.信仰偉人伝の害―「思い込み」のままで読んだら

先日私どもの教会図書に、韓国の安利淑(アヌ・イースク)という婦人の

お書きになった「たといそうでなくても」という本を寄贈して下さる方があ

って、何人かの人たちが回し読みをして、みんな感動したものであります。

これは著者の自叙伝でありまして、第二次大戦中日本の支配下にあった朝鮮

のソウルでミッションスクールの先生をしていた安利淑さんが、市内の南山

神社で、全校職員生徒が参拝を強要された時に、ひとりだけ最敬礼するのを

拒否して警察に追われる身となる……という所から物語は始まります。クリ

スチャンとして、唯一の生ける神とキリスト以外は神として拝まない。天皇

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も伊勢の皇太神宮も私は礼拝できない。……しかもこのことを、ひとりの平

凡な若い女性が決心して、当時の日本の総督府や警察と軍にまで反抗してし

まったのです。

この方のお母さんは、「あれほど弱い子を神様が立ち上がらせたのです」

と言っておられますから、この人は決して人並はずれた異常な精神力を持つ

ジャンヌ・ダルク的女丈夫でも何でもなかったのです。むしろ彼女は正直に

こうも言っています。

「私はこわい。でも、死なねばならないのなら死にます。その時は聖徒ら

しく死なせて下さい」。

官憲に追われる身となった安さんの所へ、「日本国政府に悔改めを今迫る

ために私は召された」という朴長老という人物がたずねて来ます。そして「信

仰とはどういうものか、また信仰者がその信じている神様のためにどのよう

に死ぬかを、あなたに見せてあげよう」と言う朴老人は、安利淑さんを励ま

して、東京ヘの殉教の旅に一緒に出発します。

二人は何人かの日本の指導者を訪れて、「朝鮮総督府が行なっているクリ

スチャン迫害を直ちにやめるよう」申し入れたのち、帝国議会の傍聴席から

「日本政府は悔改めて暴政を朝鮮から徹廃せよ」と大書した警告文を議場に

投げおろして、逮捕されます。

こうして安利淑さんは日本の刑務所から平壌の刑務所に送られて、終戦ま

で六年間獄中の苦しみをなめ、やがて死刑になる所を、日本の敗戦で出獄す

るのですが、この間、多数の牧師や信者たちが、きびしい拷問を受けて殺さ

れたり発狂したりする様が描かれています。著者自身は、その信仰の気高さ

と気品とで看守たちをも感動させ、暴力からは不思議に守られるのです。そ

して悲惨な刑務所の中で、周囲の人たちに慰めを与え、また、何人もの女囚

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が彼女を見てキリストを信じるようになります。「信じた通りに生き、信じ

た通りに死ぬ」と告白した人の、これは決して変節しなかった信仰の生涯で

す。どれだけ高く評価しても評価し過ぎることのない気高い一生です。しか

もこれは、人間が自分の精神力で生き抜いた生涯ではなく、聖霊が支えて力

強く生きさせた生涯です。

読んだ私たちは当然深い感動とショックを受けました。中には「こんな立

派な信仰生涯を読んだら、自分などは信仰があるのか無いのか分からなくな

った」と考えたり、「私なんか、とてもこんなに純粋に生き抜けそうにない。

私はやっぱりダメだ!」と勇気を失う人たちもいました。実は、後からいろ

んな教会の友人たちにも聞いてみましたが、こんな読み方をした人は案外多

かったようでした。

けれども、やがて私たちは考え直して、この本はそんな読み方をしてはい

けないんだ、ということに気付きました。「そうじゃない。そんな所を見て

いてはいけない。自分の『信仰』の力や精神力を他の人のと比べて一喜一憂

していてはだめなんだ」ということを学びました。大切なのは、この安利淑

さんという女性にとって、キリストが与えて下さったものがそれ程までに貴

重だった。だから彼女は彼女の持っていた高価なナルドの香油を全部キリス

トにお捧げしても惜しくなかったのです。

イエス・キリストが彼女の罪を贖うために十字架で命を注ぎ出して下さり、

神の前にある彼女の罪を全部処分して、きよめて、復活なさった。その、キ

リストがなさったことがこの人に無償で神の義を得させ、信頼してその貴重

なものを受けた安さんは、喜びと感謝の余り、あのすばらしい、力強い生き

方をしてしまったのです。

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3.「恵まれる話」の落とし穴―もし読み方を誤ったら

私たちはまた、昭和 16 年に清津―敦賀間の連絡船気比丸が触雷して沈

没した時に、朝鮮人差別に抗議して、自ら日本海に沈んだクリスチャン青年

弘津正二さんの実話を読みました。これは大分前の読売新聞に「若き哲学徒

の死、33年目の真実」という表題で出ておりましたので、皆さんの中にもお

読みになった方はいらっしゃると思います。救命ボートに乗り移ろうとする

乗客たちの前で、同乗の移動警官がピストルを構えて、「乗るのは内地人だ

けだ」と朝鮮人を制した時に、この青年は「私は朝鮮の人と行動を共にする」

と言い、沈む気比丸と共に海中に消えたと伝えられます。

「弘津君はキリスト信者だった」と言う、五高の同期生だった西宮市の佐々

木さんの証言、それにこの時生き残った何人もの朝鮮人乗客の言葉から、弘

津さんの死が決して、当時の新聞に伝えられたように「船室に置いて来たカ

ントの原書を取りに行こうと、救命ボートに移乗する順番を他の乗客に譲っ

て、哲学徒らしく従容と死についた」のではなかったことが、30年以上たっ

て明かになって来たのです。幼い頃から朝鮮で育ち、その夏も京都大学の夏

休みを咸鏡北道に住む両親のもとに帰省しての帰りだった弘津さんは、朝鮮

の人たちを隣人として人間として、本当に愛して(ヨハネ 15:13)いました。

私たちはこの実話にも深い感動を覚えました。許されるなら自分もそうい

う死に方ができる人になりたい。そう考えるのは私だけではないでしょう。

ただ、決して間違えてならないのは、弘津さんはあのように崇高に死ぬこと

ができたから救われたのではないということです。また、もう少し具体的に

自分と結び付けて考えてみると―あの弘津さんに習ってその何分の一かで

も彼にあやかって、そのような愛と自己犠牲を全うできる人が真のクリスチ

ャンで、それができない情ない人は見込みがないと考えてはいけないのです。

本当は、神様はこの人が義人かどうかを判定なさる35に当り、あの愛と犠

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牲的死を全く計算には入れていらっしゃらないのです。あのりっぱな最期が

なかったとしても、弘津さんが十字架のキリストに全信頼をかけているとい

う一事を理由に、神様は弘津正二さんを「これは義人である!」と言って受

け入れてくださっていたわけで、実はそのことこそ、もっとすばらしい真実

だったのです。そしてこの神の義を受け、無償の贖いに与った弘津さんの喜

びと平安が、あの時、あのような形で自然に現れて行動になったのです。神

の目からごらんになる限りでは、あれはちょっとした“オマケ”であった。

付録であった。とにかく、清津沖での尊い犠牲、あれだけ多くの朝鮮の人た

ちを感動させ、私をも感動させた美しい自己犠牲は、神様の帳簿にはまるで

載っていないのです―彼が義人か義人でないかという一事に関する限り

は! そして神は彼がその前にキリストを信頼していたことだけを見て、「そ

のことを彼の正しさと評価して」喜んでおられるのです。

安利淑さんについても同じです。彼女が東山神社で礼拝を拒否したことも、

帝国議会での決死の警告文も、平壌刑務所で最後まで節を曲げなかった立派

な生き方も、全部、キリストヘの信仰(信頼)の結果として、この人の場合

自然にああなった。彼女がキリストから受けたものが正味あの生き方をさせ

た。私たちがまねたいのは、この方と同じようにキリストに信頼して「律法

とは係わりなく与えられる神の義」を受けて、喜んで平安を得ることであり

ます。そこから先は、信頼して生きておれば、神様はきっと私たちにも、一

人ひとり、その人なりに正味の生き方を生きさせて下さるに違いないのです。

そう考えて私たちは、「たといそうでなくても」からの感動とショックを

正しく受けとめることができました。

4.パウロの時代にもあった「ビサイクル」

以上、二つの実話について眺めてみた見方は、どこまでも信仰の立場、霊

的視点(神の前にある私の生き死ににかかわる視点)からの見方でありまし

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て、あとでお話いたしますように、私にとっても、あなたにとっても、大き

な大きな慰めの福音が含まれています。ただ、これを信仰の立場以外から見

た場合には、いま上に述べたような霊的評価は、非常に安易で純粋さや崇高

さを無視したように見え、またこの人たちの信仰を侮辱したように聞えるだ

ろうと思います。

ところで、ローマ書 4 章で使徒パウロがアブラハムの信仰について言って

いることは、いま私がのべた安利淑さんや弘津正二さんについての霊的評価

よりももっと大胆で、ユダヤ人にとっては跳び上がるほどショッキングだっ

ただけでなく、ローマのクリスチャンの読者の中でも、もしパウロの福音が

わかっていなければ、卒倒する位に驚かせる暴言として響いたに違いないの

です。ローマ書 4 章の初めの部分は、かいつまんで述べれば、事実上、次の

ような話になります。

「我々の先祖であり、信仰の英雄とされるアブラハムを果して神はどう見

ておられたと思うか? 彼が受けたのは、多くの人が思い込んでいるような

「実績の報い」だったのか? もしアブラハムが、たとえば自分のひとり子を

祭壇に捧げたあの超人的行為や崇高な生涯によって『義人である』と神に認

めて頂いたのならば、彼の生涯自体が万人を恥かしめる程の価値を持つだろ

う。だが本当のことを言うと、あれは人間を感動はさせるが、神の前では無

効なのだ。その証拠に、聖書は何と言っているだろう? 『アブラハムはただ

神を信頼したのだ。その信頼だけを神は計算に入れて、“よし、お前は義人!”

とおっしゃった』」。

パウロのこの言葉をユダヤ人の読者はどう聞いたでしょう……「そ、そん

な乱暴な! 信仰って、そんなもんじゃない。それじゃまるで!」……「パウ

ロよ、あなたはアブラハムの信仰を冒瀆している。あなたはアブラハムのよ

うな命がけの崇高な生き方ができないから、信仰を安易なものに変えて、平

安と称してアグラをかいているだけだ」と、多分そう言ったろうと思うので

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す。そして、これを言わせたのはやはり、人間の「思い込み」の信仰―“ビ

サイクル”です。

さて、ここでローマ書 4 章の残りを読む前に、旧約聖書創世記の中の二箇

所から、アブラハムの信仰が何であったかを学びましょう。

5.創世記に見るアブラハムの信仰(この 4章の背景)

創世記 15章 1-6の場合

使徒パウロの目から見る限り、これはアブラハムの信頼の最高の決定的瞬

間だった(次項6に詳述)のです。「お前の子孫はあの星の数のようになる

のだ」というお言葉を受けたアブラハムは、自分の姿を見たらとてもそんな

ことはあり得ないと思ったのに、ただそれが神の約束だからというだけで神

を信頼し、「この方のお言葉は絶対間違いはない」と信頼し切ったのです。

創世記 22章 1-13の場合

「信仰によって、アブラハムは試練を受けたとき、イサクを捧げた。すな

わち、せっかく約束を受けていた彼が、せっかくのそのひとり子を捧げたの

である。」

この「せっかく」という言葉はこのへブル書 11:17の邦訳文にはありませ

んけれども、15章以下のいきさつをよく読んでみますと、殆どそう言って言

い過ぎでないことが分かります。

神のお約束を信じ抜いて与えられたひとり子イサク。それはアブラハムに

とっては「神は一度約束なさったらこんな私にでも必ず果して下さる」とい

う神の真実の結晶、約束の確かさの証拠、ほとんど彼の信仰の拠り所でさえ

あったのです。その“せっかくの”イサクを神がお取り上げになる(燔祭と

して捧げよというのですから)。これは、約束の矛盾です。彼は一瞬考えな

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かったでしょうか。

「私は神様を全面的に信頼し切ってここまで来たが、間違っていたのか!

一生懸命お約束を信じて生きて来たつもりだが、やっぱり私のような者は、

神もお見捨てになったのか?」―この大きな矛盾と悲痛の前に立った時、

アブラハムは信じて来た方が信じられなくなる苦悩を味わったのです。

私たちはアブラハムと同じ経験はしないとしても、また長男を燔祭にして

焼いて捧げよというような命令を受けることはなくても、私たちもやはり、

「その方が信じられなくなる」苦悩と疑惑の谷間に立つことがあります。そ

してそういう経験を持つ人だけが、この時のアブラハムの試練の秘密を垣間

見ることができます。

神は私どもの愛する者を突然「わけもなく」取り去られることがあります。

家族が病いに倒れ、自分自身が倒れることもあります。祈っても祈っても、

生涯不健康の悲哀をなめ続ける人もいます。家庭が行き詰まり破船しかける

ことがあります。それも自分の弱さや至らなさの故である場合には悲しみは

一層増します。そして何よりも私たちを打ちのめすのは、信仰を持って生き

ている筈の自分の、いつまでたっても変らない(としか見えない)不完全さ、

情無さです。我ながら愛想が尽きて、「ああ、神様は私ヘの約束は果して下

さらないのか! 聖霊は私だけには働いて下さらないのか! この失格者だけ

は潔めて下さらないのか?」

―問題は「そんな瞬間にも、あなたの神とキリストは信頼できる方か」

です。

私たちはどうかすると、アブラハムが自分の子を薪の上に乗せて刃物を取

った位、超人的な宗教的情熱を持っていたとか、そんなことができる位献身

的だったとか、そんな点にばかり眩惑されますから、果して私はそこまでで

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きるだろうか?(先程の安利淑さんの話と同じですね)とアブラハムのやっ

た結果ばかり見て、“ビサイクル”の修繕の方法にばかりうつつを抜かして

いることがあります。けれども、「アブラハムの信仰に習う」というのはそ

んなことではなくて、そういう、信頼できなくなる瞬間に目を信頼の方に向

けることです。そして不確かな自分の判断でなく自分の目に映る錯覚をでは

なく、確かな方の確かなお約束を思い起こして、その方に信頼することです。

「心をさわがすな。神を信頼し、私を信頼せよ」

「わたしに来る者を、わたしは決して拒まない」

「私が復活だ。私が命だ。あなたは信頼するのか、しないのか?」

(ヨハネ 14:1、6:37、11:25と 26)

「イエスを死人の中から復活させた方の霊が、すでにあなたの中に宿って

下さっているのだよ」(ローマ 8:11の趣旨)

「あなたの中に救いの事業をすでに始められた神が、やりかけのままで

無責任にやめてしまわれるとでも思っているのか?」(ピリピ 1:6の趣旨)

6.神の評価によるアブラハムの真骨頂(4章の大意)

私たちは、このローマ書 4 章でパウロがはっきり述ベているアブラハムの

本当のえらさを見直してみましょう。使徒パウロの主張の大意は次のように

なります。

(1)アブラハムが神から受けたものは、決して普通言われるような、偉大な

信仰の実績ヘのごほうびではない。

(2)彼がぬきん出て立派だったから神が感心なさった、というのではない。

人はそんな所ばかり見て感激して、そこがアブラハムの偉さだと錯覚して

いるが、神はそんなものは見ておられなかった。その点ではアブラハムは

「イイカッコウ」はできないのだ。

(3)アブラハムに対する人間の評価ではなく、神の評価がいちばんよく現れ

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アブラハムの場合

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ているのは、諸君イスラエル人なら知っているだろう、創世記 15 章 6 節

のあのお言葉だ。「アブラハムは神を信頼した。そしてその一事だけで神

は、『よし、お前は義人!』とおっしゃった」。つまり、彼の命がけの偉

大な生涯も、わが子イサクを祭壇に捧げようとした純粋さも宗教的情熱も、

神様の帳簿には全く載っていない、と言うのだ。あれは全部「ノーカウン

ト」だった。

(4)そうだ。もしアブラハムが救われるに価するだけの生き方をして、それ

を評価して頂いたのなら、彼は恵みを受けたのじゃなく、「自分の腕で義

をかせいだ」ことになるのだが、それがそうではないと、聖書は断言する。

(5)アブラハムに実績がなかった、とは人は言わないだろう。だが、我々は

大抵「アブラハムのりっぱさ」の方に眩惑されて、見るべき所を見ないか

ら、敢えて言おう。アブラハムは実績がなかったのに、信頼だけを受け入

れて下さる神に、信頼だけで「お前は義人!」と断定して頂いたに過ぎな

い。アブラハムは“ただで”義を頂いたのだ。

(6~15節は本文を参照)

(16)このように、神が人を義人か義人でないかについて判定なさる規準は、

「神に信頼を置くか置かないか」であるから、私たちはいたずらに自分が

アブラハムのように立派でないことを悲しんでいてはならない。また何と

かしてそうなろうと、自分の尻に鞭を当てることが「アブラハムにあやか

る」ことだと錯覚してはならない。アブラハムに従ってアブラハムの子に

なるとは、彼が神に信頼したと同じようにキリストに信頼し続けることな

のだから。

(17)~(23)そのアブラハムの素直な信頼は、どこに特徴を持っていたか?

それは「自分を見たら全く不可能と絶望した事も、神のお約束だから間違

いないと信じて、自分の目にうつる自分の絶望的状態の方は無視した」と

いう点だ。希望はどう考えても無いのに(神が確かだから)希望を持って

信頼した。人間の絶望的判断では死人は死人、無は無だとしか考えられな

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アブラハムの場合

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いけれども、その死人を生かし、無から有を呼び出される神を彼は信頼し

抜いた。

私たちはこの 19節の言葉を読む時に、その「絶対ダメな、死んだも同然の

状態」というのを、「百才になって恍惚寸何のアブラハムの体力」のことよ

りも、「九十才の梅干婆さんサラの生命力」のことよりも、自分の死んだよ

うな悲しい姿と結びつけて見ることにより、限りない力を受けることが可能

です。―「いつまでたってもこんな情ない姿では、いかにキリストの十字

架の血も復活の生命力も、こんな腐ったものはどうして下さることもできま

い。私はやはりダメなのだ!」と、不信仰極まることをさも謙遜そうに言う、

私やあなたの姿をそこに置いて、読み直してみたら、そこから希望と勇気が

湧いて来るのではありませんか!

7.あなたも私も、アブラハムと並んで立てる!

先日ある友人と一緒に、安利淑さんの本について論じ合ったことがありま

した。あれはすばらしい本だけれども、もし私たちの心の奥底に間違って“ビ

サイクル”(本講の1を参照)が置いてあったら、あの本はとても危険で有

害な本だという点で、私たちは同意しました。というのはこういう偉大な生

涯の記録は、間違って読むと、「あんなにひたむきに、拷問と死を前にして

も変らない生き方を通すことが信仰である」と受け止めて、「それに引き換

え、この中途半端な私はどうだろう。私はやはりダメだ。私は失格者だ」と

勇気を失うか、そうでなければ反対に、自分に鞭を当てて、「そうだッ! 私

もそうならねばならないんだ。安さんにならって、ヨーシ、やるぞォ! 私も

私なりに、ひとつの純粋な崇高な生き方をして見せるぞ」と張り切ることで、

何か「恵まれた」ような気分に浸ったりします。いずれも、微細な相違は別

として全く同じ“ビサイクル”の信仰であります。

しかしもし私たちが、使徒パウロがアブラハムを見たと同じ目で、安利淑

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さんや朴長老や弘津正二さんを見、またその他の偉大な信仰の先輩たちの生

涯を見ることができたら、私たちの感動やそこから受ける慰めは、すっかり

変って来るに違いないのです。

神はあの人たちの何を見ておられたのか? 隣人愛に殉じた自己犠牲では

ない。獄に投じられても節を曲げず獄中でさえ輝かしい光を放って何人もの

人を変えてしまった力強い“働き”ではない。そうではなくて、あの人たち

が神様の前で自分の姿を正直に見て自分の罪を知り、そしてイエス・キリス

トが十字架によって与えて下さったものが何であるかをはっきり悟ったこと

を、神はじっと見ておられたのです。あの人たちは、神の前に自分の立てる

所はキリストの十字架のもとしかないことを知った人たちなのです。そして、

「私がお前の復活だ。私がお前のいのちだ。信頼して神の義を受けなさい」

と言われたキリストがそんなに有難かったから、そんなに嬉しかったから、

ただキリストに信頼して、キリストが下さるものを「ありがとうございます」

と、素直に受けたのです。神様が見ておられたのは、実にそこの所、そこの

一点だけなのです。そして神様はこうおっしゃったに違いないのです。

「そうか。お前も分かってくれたか! よかった、よかった。

アブラハムの子よ!」

とすれば、あなたも私も、ただ素直にキリストに信頼して、キリストが十

字架から下さる神の義を受けて喜ぶとき、私たちは安利淑さんや、その他、

信仰のために生涯を捧げた人たちと一緒に肩を並べて、いや、肩を抱き合っ

て神の前に立つ事ができるのです。

それだけではありません。あのアブラハム大先輩とも肩を並ベて神の前に

立てるのです。そして、「アブラハム先輩、私たちはおんなじなんですね!」

と私は言うことができるし、アブラハムは私の肩を抱いて「そうだ、織田君!

われわれはおんなじだ。よかった!」と喜んで下さる。その上、キリストも

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神様も言ってくださるのです。「そうだ、同じだ。アブラハムの子よ!」

こんなすばらしい信仰を、私たちは福音によって与えられています。大切

に大切にして、この信仰で、「初めも信頼なら最後まで同じ信頼」を決して

変えないで行こうではありませんか。

(1972~75)

《研究者のための注》

1. 不定詞による間接話法の形になっており、主語 VAbaa.m(対格)、動詞 eurhke,nai(完

了不定詞)、目的語 ti,(対格・中単)。eur は、「手に入れる」、「自分のものにす

る」。不定詞による間接話法の形になっており、主語(対格)、動詞(不定詞)、目

的語(対格・中単)。は「手に入れる」、「自分のものにする」。

2. ga.r は 1節の問いを発する理由。

3. 「正しいと認められた」、「義人と評価宣言された」。

4. 直訳「なぜなら聖書は何と言っていますか?」引用は創世記 15:6,LXX.原文のまま。

5. 「それが彼にとって(与格)義と評価された。」auvtw/| は所有の与格に近い。なお

eivj dikaiosu,nmn はギリシャ語の統語法としては述語主格 dikaiosu,nh になるはず

の所、ヘブライ語構文の影響。織田文法§257の 2d(4)。

6. 詩篇 32:1-2、ただし LXX. は 31:1-2。

7. ga.r は先行疑問文の答が自明である理由。なお le,gomen は聖書のこの一句(創世記

15:6)を「我々が現に確認して常にそう言っている」意。

8. 「被割礼状態でか、未割礼状態でか」(直訳)。

9. kai. は時間的連続で、「そしてそれから」の意。

10. 「無割礼における信仰の義の封印として」、つまり事後確認正式化の証印として。

11. 「無割礼を通して(無割礼のままで)信じる人たち」。

12. ouvk evk peritomh/j mo,non avlla kai. ….下線部は「割礼の原則に立つ(割礼者)」、

つまりユダヤ人。

13. 「約束」は、創世記 12:3、18:18、22:18等に総合的に言及する。tw|/ spe,rmati は

集合名詞。ここではガラ 3:16 のようなキリストヘの適用は無いと見てよい。「アブ

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ラハムの信仰を受け継ぐ子孫」。

14. 相続人になるとは、その所有者となる正当な権利を与えられて自分のものにすること。

恐らく創世記 13:14-17を霊的な意味で全世界に適用したもの。参照、1コリント 6:

2、マタイ 19:28、ルカ 22:28以下、ダニエル 7:22、マタイ 5:5。

15. 直訳、「もし相続人たることが律法に依拠するなら」。

16. 「信仰の義を通して」だった(直訳)。

17. 13 節第二語の ga.r は先行する断定、「アブラハムは割礼者、無割礼者を問わず、神

に信頼する者が義の評価を受けるという神の原則の典型である」の理由。

18. katerga.zetai は律法が「働いて神の怒りを生み出す」、「最大の機能を果してせいぜ

い(神の怒り)を得させる」。

19. 「この故にこそ『信仰を根拠として』なのです」。「この故」とは先行の「律法の与

えるのは神の怒りだけで、約束の成就等のよきものを与える筈はない」という命題を

さす。だからこそ、アブラハムの受けた約束は信仰を根拠としてでしかあり得ない。

20. 「この事」(原文にない)とはアブラハムが世界を相続すること。「それは…恵みに

よるべくあった」。

21. panti. tw|/ spe,rmati)「子孫」はアブラハムの信仰の態度を受け継ぐ者。アブラハムと

同じ信頼に生きる者。パウロの言う「子孫」のより厳密な定義が後に続く。

22. evk tou/ no,mou「律法に依拠する、律法の原則に立つ」子孫とは、血統によるユダヤ人。

23. UBS 版の句読によらず、挿入句のカッコは( kaqw.j … se )と見た。

24. 創世記 17:5。

25. ( kaqw.j … se )を挿入句と考えると、kate,nanti 以下は節の末尾の path.r pa,ntwn

hmw/n にかかる形容詞句となる。訳文は一度「…となりました」で切ったため、改め

て「実に彼は…」と繰り返した。

26. avsqenh,saj(アオリスト分詞)は危機の瞬間、つまりアブラハムの子孫が繁栄するとい

う約束を子のない老人が信じるか否かの瞬間に言及するから「その時」を補った。

27. 妻サラに子種を与える能力を失っていたこと。なお「百才にもなっていて」は副詞句

で、「体」にかかるのではないが、その意味的距離を考えて訳した。

28. 「事実も…ちゃんと見抜いておったのです」。それが分かっていながらなお「信じた」

意味と見て、言葉を補った。

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29. evnedunamw,qh th/| pi,stei の t) p) は、「信仰に関する限り」、「信仰という点で」強

められた意。関連の具格。ほかに「信仰のお蔭で体力(生殖能力)を増強され」と取

る人もある。なお先行の avpisti,a| は選択態度の具格。

30. 「神に栄光を帰す」は、神の力を認めて服すること、分詞 dou.j は evnedunamw,qh の事

実(それが同時に神の栄光を表すことになった)を付帯状況として表現する。

31. dio. kai. evlogi,sqh の kai. は even の意。

32. 24節と 25節の論理的繋がりから dia. ta. paraptw,mata hmw/n と dia. th.n dikai,wsin

hmw/n を強調構文のように訳すのが適当と見た。

33. 関係代名詞は無色透明の「…ところの…」とは限らず、理由や根拠をも含畜する。

34. たまった不安を一掃して気分がスッとすること。

35. 第 4講の 1.「決してグラつかない神の義」を参照。