22
28 アジア Vol. 47, No. 3, July 2001 じめに フィリピン しずつ変 してきている いえ、 16 いている大 した エリートによる する 1じる いている。1998 フィリピン 400 2,400 活を営むこ あるか、 すら まれる 態にあるこ している 2フィリ ピン 450 いわれているが、これに 活が った 多く まれている 3。こうした して する ある。 フィリピン 1988 6 10 された Comprehensive Agrarian Reform Law: Republic Act. 6657づいて されている。 しかし、多く たち Department of Agrarian Reformし、 して 革に している。また、 いった 題を えている 4を打 するためにコラソン・アキノ大 406 1990 6 し、 だけ Non-Governmental Organization、以 NGOふくめた チームを レベル するこ した。また、 NGO エルネスト・ガリラオがフィデル・ラモス大 によって された 1992 まった。そして、一 NGO Peoples Organizationしていった。そ 多い いえ いが、 NGO 3 によって 革を させた され じめている。 革を させたラグナ カランバ マバト らによって された 「マバト・カラボソ Mabato-Kalaboso Samahang MagsasakaMAKASAMA、以 マカサマ) 、これを 援した NGO Pambansang Kilusang ng mga Samahang MagsasakaPAKISAMA、以 パキサマ) フィリピン 革における NGOラグナ カランバ マバト して

フィリピン農地改革における政府、 NGO、住民組 …フィリピン農地改革における政府、NGO、住民組織の対立と協調 ラグナ州カランバ町マバト村を事例として

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Page 1: フィリピン農地改革における政府、 NGO、住民組 …フィリピン農地改革における政府、NGO、住民組織の対立と協調 ラグナ州カランバ町マバト村を事例として

28 アジア研究 Vol. 47, No. 3, July 2001

はじめに

フィリピンの社会構造は少しずつ変化してきているとはいえ、基本的には16世紀後半以

来続いている大土地所有制度を基盤とした地主エリートによる寡頭支配を特徴とする(1)。

その結果生じる富の不平等分配は農村の深刻な貧困を招いている。1998年のフィリピン

の統計では、約 400万世帯(約 2,400万人)が最低限の生活を営むことが困難であるか、

貧困と生存の維持すら危ぶまれる最貧困の状態にあることを示している(2)。現在フィリ

ピン人の海外出稼ぎ労働者は約 450万人ともいわれているが、これには農村で生活が立

ち行かなくなった人々も数多く含まれている(3)。こうした貧困を改善して経済的民主化

を達成する上で、農地改革の実施は必要不可欠の課題である。

現在フィリピンの農地改革は、1988年 6月 10日に制定された包括的農地改革法

(Comprehensive Agrarian Reform Law: Republic Act. 6657)にもとづいて実施されている。

しかし、多くの地主たちは同法や農地改革省(Department of Agrarian Reform)の指導を無

視し、農地改革省の担当者に賄賂を渡すなどして農地改革に抵抗している。また、農地

改革省自体も行政能力不足や財政難といった問題を抱えている(4)。

この状況を打破するためにコラソン・アキノ大統領は行政命令 406号(1990年6月)を

発令し、政府機関だけでなく非政府組織(Non-Governmental Organization、以下NGO)も

ふくめた農地改革実施チームを全国・州・町レベルで組織することを提唱した。また、

NGO出身のエルネスト・ガリラオがフィデル・ラモス大統領によって農地改革省長官に

任命されたのを契機に(1992年)、農地改革推進の動きも高まった。そして、一部の

NGOや住民組織(PeopleÕs Organization)も政府と協力していった。その結果、実績数は

多いとはいえないが、政府、NGOと住民組織の3者協力によって農地改革を成功させた

住民組織の報告もなされはじめている。

本稿は、農地改革を実現させたラグナ州カランバ町マバト村の小作農民らによって組

織された住民組織「マバト・カラボソ農民組織」(Mabato-Kalaboso Samahang Magsasaka、

略称MAKASAMA、以下記述はマカサマ)と、これを支援したNGOの「全国農民組織連合」

(Pambansang Kilusang ng mga Samahang Magsasaka、略称PAKISAMA、以下記述はパキサマ)、

フィリピン農地改革における政府、NGO、住民組織の対立と協調ラグナ州カランバ町マバト村を事例として

堀 芳枝

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29フィリピン農地改革における政府、NGO、住民組織の対立と協調─ラグナ州カランバ町マバト村を事例として

そして農地改革省の3者協力についての事例を検証する。

そこでまず、本稿におけるNGOと住民組織について定義しておきたい。冷戦以後、

人権、貧困、開発、環境といった様々な地球的課題に取り組むNGOは量・質ともに飛

躍的に増大し、その活動目的、活動内容、活動範囲、組織構造および財政基盤の観点か

ら様々な類型化もされている(5)。NGOは日本語で訳せば文字通り「非政府組織」で、政

府組織(Governmental Organization)に対置する言葉であった。もともとNGOという言葉

は国連の用語である。国連の経済社会理事会が、協議資格を有する民間団体に対して用

いた呼称がNGOであった。国連憲章は、経済社会理事会が「その権限内に関係のある

事項に関し民間団体と協議しうる」(憲章第 17条)と明記している。経済社会理事会で協

議対象に認定されているNGOは 3つのカテゴリーに分類され(カテゴリー Iは経済社会理

事会の権限事項の大半に関わる活動をおこなっているもの、カテゴリー IIは人権などの特定の分野

で活動するもの、カテゴリー IIIは難民や先住民族といった専門分野で活動するもの)、1999年 1

月現在、1,500団体を超えている。96年には協議資格の改正がなされ、国内で活動する

NGOも当該政府が承認すれば協議資格を得ることができるようになった。こうした

NGOは狭義のNGO(国連NGO)であり、今日NGOはそれを遥かに超えて、先進国や途

上国で貧困解消と開発・発展、人権、環境、女性といった地球的諸課題に国際的なネッ

トワークを駆使して活動している非政府機関かつ非営利目的の市民団体を総称する概念

として使われている(6)。

また、最近では「営利団体(Profit Organization)ではない」という意味でNPO(Non-

Profit Organization、非営利団体)という言葉も普及している。すべての組織や団体が上記

の図に明確に当てはまるわけではないが、政府組織(GO)、非政府組織(NGO)、営利団

体(Profit Organization)、非営利団体(NPO)を表1のように整理した。

これに従えば、NGOは③と④、NPOは②と④のそれぞれ 2種類となる。③は非政府

組織かつ営利団体なので民間企業などがこれに当たる。②には政府機関の外郭団体など

が相当する。NGOは一般的に、政府の福祉政策や市場では対応しきれない問題(環境、

人権、ジェンダー)に取り組んでいると考えられるので、政府機関の外郭団体などが分類

される②は、NPOであってもNGOではないといえる。以上のことを鑑みると、NGOと

は④のように、非政府組織かつ非営利団体で政府や市場で取りこぼした地球的諸課題を

 表 1 政府組織・非政府組織および営利団体・非営利団体の分類�

政府組織 非政府組織�

(Government Organization) (Non-Governmental Organization)�

営利団体�

(Profit Organization) ①

③�

非営利団体�

(Non-Profit Organization) ②

④�

� (出所) 筆者作成.�

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解決するために活動している組織であると捉えられる。

では、住民組織とNGOはどのように違うのだろうか。フィリピンの農地改革と農民

運動を研究しているジェームズ・プッツェルは住民組織とNGOを次のように対比させ

ながら定義している。住民組織は、ある特定の問題を解決するために結成された一般市

民を成員とする組織で、資金力も乏しく活動範囲も限定されている。一方、この住民組

織を支援するのがNGOである。このNGOは専門能力を持つ有給スタッフ(農村開発、教

育、医療、人権など)が、特定の分野について国内外の情報や資金のネットワークを駆使

しながら、住民組織を支援しているのである(7)。本稿での分析対象となった「マカサマ」

は、マバト村の刈り分け小作人(収穫物を一定の割合で地主と折半する)らによって、農地

改革を実現させるために設立・運営された住民組織である。そして、NGOの事例として

取り上げる「パキサマ」は、有給スタッフたちが国際的な情報・資金のネットワークを

駆使しながら、全国各地の住民組織を支援している。そこで、本稿ではプッツェルの定

義に従いながら、NGOと住民組織という言葉を用いることとする。

次に、本稿の分析枠組みについて、先行研究と関連付けながら述べておく。これまで

NGOは国家主導のマクロな開発に対する、地域単位のミクロな発展を担う主体として注

目されてきた。たとえば木村宏恒は、筆者と同じルソン島南部のカラバルソン地域総合

開発におけるNGOの役割を考察した。彼はこの開発が、計画段階では工業化と農業の

保護と育成を重視していたが、実施段階ではインフラ整備や輸出加工区建設が優先され、

地域住民の立ち退きや環境問題が生じたとしている。そこで、NGOは監視(monitoring)

と政策提言(advocacy)に力を入れ、人権・民主主義・環境を考慮した経済成長を主張し

ていると分析した。しかし、国家単位の開発とは別のモデルとして最近注目されているよ

うなグラミンバンクや協同組合活動の点では失敗しているNGOもあることを論じた(8)。

また、フィリピンのNGOは二月革命で中心となって独裁者マルコスを追放し、アキ

ノ政権以降には政策策定・実施・評価といった諸過程へ積極的に参加していった。その

ため、NGOが政治参加をすすめた要因や政治的役割について分析した研究も始められて

いる。たとえば、プッツェルは、農地改革や農村開発にかかわるNGOが政府の政策や

プログラムに参加した要因として、(1)国家と市場の失敗、(2)不平等を生み出す国家と

政党、(3)住民組織の限界、(4)市民意識の芽生え、(5)ODA資金を活用する必要、(6)

国内外のエリートや活動家たちからの資金援助、をあげている(9)。そして、ピ・ビラヌ

エヴァやチエリート・ゴーニョは、NGOと農民たちが政府の制定した包括的農地改革法

(RA.6657)に代わる人民農地改革法(PeopleÕs Agrarian Reform Code)を自ら作成し、政府

に採択してもらおうと働きかけた人民農地改革会議(Congress for a PeopleÕs Agrarian

Reform)を具体的に分析し、これまで土地占拠という実力行使に訴えていたNGOや農民

たちが連帯し、民主主義的手続きに則って農地改革立法過程にも介入しようとした点を

フィリピン民主主義の深化として積極的に評価した(10)。

ヘラルド・クラークは、アキノ・ラモス政権下で急激に増加したNGOが価値と資源

30 アジア研究 Vol. 47, No. 3, July 2001

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31フィリピン農地改革における政府、NGO、住民組織の対立と協調─ラグナ州カランバ町マバト村を事例として

の権威的諸配分に参加して影響を与える政治アクターであると捉え、NGOと国家・市民

社会の関係を考察した。そして、フィリピンでは一部のNGO出身者が入閣して政策策

定に直接かかわっているほか、選挙時にはNGOが特定の政党を支持して選挙キャンペ

ーンを展開し、政党や組合よりも広い範囲にわたって議会とは異なる経路で国民の要求

を吸い上げ、国家を活性化させていると分析した。また、NGOは特定の問題を解決する

ために様々な組合や教会組織を連帯させて市民社会を形成する媒体的役割も果たし、そ

れによって共産党をはじめとする他の政治勢力が衰退していったと論じた(11)。

しかし、これらの研究はNGOを分析の中心に据えてNGOの活動内容やNGOと国家

の関係を論じているが、実際に問題を抱えている当事者たちで構成される住民組織と

NGO、政府の 3者関係については明らかにしていない。地域の発展や民主化といった場

合には、NGOだけでなく地域の一般住民(問題の当事者)にも注目する必要があるだろ

う。

この問題意識に関連してサトゥルニノ・ボラスは、ヌエバ・エシハ州、ダバオ・デ

ル・ノルテ州、パンパンガ州、ケソン州、ラグナ州の 5つの住民組織が、実際に農地改

革を実現させた事例研究をおこなった(12)。ボラスは農地改革省とNGO、住民組織が農地

改革をめぐって様々なやりとりをしてゆく過程で相互が影響し合い、変容してゆく点を

指摘して、国家と社会の動態を事例から抽出しようとした。そして、地主の政治圧力に

よって実現が困難であると指摘されてきた農地改革は、政府内の農地改革を実現させよ

うとする動きとNGOと住民組織の協力が成立したときに実現する、と結論づけた(13)。

こうしたボラスの仮説をマバト村の農地改革に即して検証するために、本稿は以下の

ような手順で議論を進める。まず、第 1節で、フィリピンにおける農地改革の現状と問

題点を明らかにする。第2節は、農地改革をめぐる政府とNGO、住民組織の 3者協力の

成立過程を明らかにする。第 3節は、調査村落の特徴を説明する。そして、第 4節で調

査村の住民組織「マカサマ」が農地を取得するまでの運動過程を整理し、第 5節で、マ

カサマに対してNGO「パキサマ」と農地改革省がどのような役割を果たしたのかを考察

する。なお、本稿は調査村の住民組織マカサマが土地所有裁定証書(Certificate Land

Ownership Award、以下記述は証書〔CLOA〕)を取得した 1999年7月までに焦点を当てた。

調査村についての事例は、1998─99年の 6ヵ月間にわたって村でおこなった参与観察、

アンケート調査、自由回答法による面接調査の結果に依拠している。

第1節 フィリピン農地改革政策の現状

戦後フィリピンの農地改革法は、これまでに 4回(1955年、63年、72年、88年)制定さ

れた。55年と63年に制定された農地改革法は、いずれも議会を構成する地主層の強力な

反対によって骨抜きにされ、実質的に農地改革はおこなわれなかった。次に、72年 9月

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にマルコス大統領が発表した農地改革(大統領令布告第 27号)は、コメとトウモロコシの

作付け地という限定つきで農地改革を実施した。

二月革命による国民の圧倒的支持を受けて大統領となったアキノは、国民から抜本的

な農地改革を実施することを期待された。しかし、アキノ大統領は自分が地主層出身で

あったこともあって、農地改革には消極的であった。その結果、これまでと同じく地主

層を中心とする議会の審議を経て制定された包括的農地改革法(RA.6657)は、多くの問

題を抱えることとなった。

この包括的農地改革法(RA.6657)はマルコス大統領によって発令された農地改革(大

統領布告第27号)と比較すると、次のような点が改善されていた(14)。まず、マルコス政権

下の農地改革はその対象をコメとトウモロコシ作地に限定したのに対し、アキノ政権下

の包括的農地改革法(RA.6657)は、その対象をすべての農地に拡大すると規定した(15)。

次に、これまで地主の保有限度は 7haであったが、新しい農地改革法では地主自身の保

有限度は 5haまで削減された。そして、マルコス政権下の農地改革では受益者が一定の

地代を地主に支払う「定額借地農」と、収穫物全体のうち一定の割合を地主に納める

「刈り分け小作人」に限定されたのに対し、新しい包括的農地改革法(RA.6657)では、

常雇・季節雇などの農場労働者、公有地の耕作者もしくは占有者、前記の受益者たちの

集団もしくは協同組合、その他直接農業労働に従事する者も受益者にふくまれることと

なった(16)。分与される農地面積については、それぞれの農民受益者に 3haを上限とする

と規定されたが、すでに小片の土地を所有する者には、全所有面積が 3haを超えない範

囲となった(17)。

さらに、農地改革をより効果的に実施するための組織改革もおこなわれた。メトロ・

マニラにある中央の農地改革省と全国 12地域(Region)に農地改革事務所(Regional

Agrarian Reform Office)だけでなく、各州(Provincial Agrarian Reform Office)と各市町ご

とにも農地改革事務所(Municipal Agrarian Reform Office)を増設した。その結果、町の農

地改革事務所の担当範囲が縮小して事務処理の負担が軽減されたうえ、町の農地改革事

務所が地域の状況をより把握できるようになった。そして、農地改革実施についての直

接責任は、町の農地改革事務所に負わせた(18)。また、受益者となる農民が農地改革の実

施に参加して支援を要請し、農業上の紛争の調停や仲裁をおこなう農地改革評議会

(Barangay Agrarian Reform Council)も各村に設置することを定めた。この評議会の議長や

委員には農民側から代表が選出された(大統領令布告131号第19条、1987年7月22日)。

しかしその一方で、包括的農地改革法(RA.6657)には、以下のような地主の利益を保

護する条項も盛り込まれた。第一に、地主の農地保有を 5haと限定したものの、地主の

子供のうち、耕作に従事するか、農場を直接経営する 15歳以上の者すべてに対しては、

1人あたり3haが別途割り当てられることになった。第二に、すべての農地を対象にする

といっても、様々な付帯条件がつけられたために、地主が農地改革を拒否する口実を与

えることになった。第三に、農地改革が実施されて受益者が土地所有裁定証書(CLOA)

32 アジア研究 Vol. 47, No. 3, July 2001

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33フィリピン農地改革における政府、NGO、住民組織の対立と協調─ラグナ州カランバ町マバト村を事例として

を取得したとしても、フィリピン土地銀行(Land Bank of the Philippines)が定めた地価を

30年以内に償還しなければ、農地がフィリピン土地銀行の抵当に入ると定められた。償

還期間は農民の経済負担を考慮して30年と設定されたが、そもそも慢性的負債を抱えて

農業生産を増大させるための資金も技術も持たない農民にとって、この償還は大きな負

担となることもあった。

さらに、農地改革政策の実施段階では次のような問題点が指摘された。まず、受益者

が証書(CLOA)を手にするまでの手続きが複雑であることである。たとえば、ある私有

農地が農地改革省に接収されて証書(CLOA)が受益者に手渡されるまでには、少なくと

も 11段階を経なければならず、すべてが順調にいったとしても、手続きが完了するまで

には1年から数年かかる場合もあった(表2参照)。その上、地主が農地改革の手続きを妨

害する目的で小作人を相手に訴訟を起こしたり、農地改革担当者どころか議会や大統領

府にまで農地改革を中止するよう申し立てる場合が往々にしてあるため、手続きがさら

に遅れたり、中断してしまうことも多い。農地改革に反対する地主が小作人を訴えた訴

訟の件数は、1987年から97年の10年間で19万7,671件にものぼり、農地改革省の強制

収用という権限は、地主の政治力によって形骸化されているのが現状である(19)。

農地改革に対する地主の抵抗の激しさは次の数字からもうかがえる。政府は 1988年か

ら 98年までに 810万 haの農地改革を実施する予定であった。しかし実際には、87年か

 表 2 現在の農地改革の手続き(農地改革省に関するもののみ)�

 (出所) 日本ネグロスキャンペーン委員会『耕す人びとに希望はあるか─フィリピン農地改革の現場から』ネグロス島農業調査シリーズ(1),2000年,22ページを若干修正.

① 農地改革対象地の地主に自発的に売却するよう促す.もし,地主が拒否すれば強制収用をかける�↓�② 農地改革省の市町村事務所が受益者(小作人)の登録審査をおこなう�↓ �③ 地主に農地改革対象地の面積、場所などを正式に通知する�↓�④ 必要な書類の収集�↓�⑤ これまで地主が支払っていた税金に関する税申告書を収集し,のちに政府系金融機関のフィリピン土地銀行が地

価を決めるための資料とする�↓�⑥ フィリピン土地銀行の担当者が調査と資料をもとに地価を決定する�↓�⑦ フィリピン土地銀行が地主に地価を3回分割で支払う�↓�⑧ 地主がフィリピン土地銀行の示す地価に応じない場合,農地改革省の下にある農地改革宣告委員会が2ヵ月以内に

調停して地代を宣告する.それでも応じない場合は強制収用となる�↓�⑨ 上記の手続きがすべて完了した時点で,法務省管轄下の証書登録所が地主の農地権利書を取り消し,受益者に土

地所有裁定証書(CLOA)を発行する�↓�⑩ 土地所有裁定証書(CLOA)が農地改革省に手渡され,それが農地改革省の市町村事務所から受益者に手渡され

る(コピーは事務所に保管される)�↓�⑪ 受益者は土地所有裁定証書(CLOA)取得後2年目からフィリピン土地銀行によって定められた地価を30年かけ

て償還する.台風,自然災害の場合は償還延期が考慮される.最初の2年間は農業生産を軌道にのせるための猶

予期間�

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ら97年にかけて443万6,244ha(達成率約54%)の農地しか分配できなかった(20)。そして、

そのうち地主が所有する私有地は 125万 2,782ha(全体の 28%)に過ぎず、それ以外の農

地のほとんどは、遊休地や放棄地、そして政府系金融機関の差し押さえ地などであった。

筆者が調査をおこなったルソン島南部地域では 44万631haの農地が分配され、うち私有

地の割合は 11万 7,583ha(全体の 26%)であった(87─97年)(21)。後で詳しく論じるが、

筆者が調査した村の農地も89年に農地改革対象地となった。しかし、地主は農地改革省

の指導を無視して手続きを引き延ばしただけでなく、小作人らを相手に訴訟を起こして

手続きを中断させた。そのため、調査村の小作人たちが証書(CLOA)を手にするまでに

10年かかった。

さらに、調査地のラグナ州周辺では1990年代に入ってカラバルソン開発計画のもとに、

高速道路や港湾などのインフラ整備と輸出加工区の建設が急速に進められて農地の地価

が高騰した。その結果、地主はあらゆる手段を使って農地改革を中止させ、農地を不動

産業者に売却して莫大な利益を得ようとした。さらに、売却された農地は次々と道路や

商工業地、さらにはレジャー施設に転用され、多くの農民は立ち退きを余儀なくされた。

たとえば、カビテ州では農地転用をめぐって地主と小作人の対立が深刻化し、小作人た

ちはNGOの支援を受けて裁判所に告訴したが、最高裁判所の判決によって敗訴した。

そして、結局地主は農地を不動産業者に売却した(22)。こうした環境の変化は、農地改革

と農民の生活に深刻な影響を与えている。

筆者が調査した村も1989年に農地改革の対象に指定されたのと同時期に、周辺でゴル

フ場建設の土地買収交渉が始まった。その結果、地価が高騰して 96年に政府が農地改革

によって地主に支払うとした農地価格(70ha全体で400万7,900ペソ)と不動産の提示する

地価(1ha当たり200万ペソ)に大きな格差が生じた。そこで、地主は農地改革省の指導を

無視しただけでなく、農地を森林であると主張して、農地改革の対象から除外するよう

訴えた。地主─小作関係は悪化した。そして、ゴルフ場建設による立ち退きの危機にさ

らされた小作人たちは、NGOの支援を受けながら住民組織を結成して対応することとし

た。では、調査村の小作人たちは、どのようにして農地改革を成功させたのだろうか。

次節では、成功の外的要因となった政府、NGO、住民組織の協力関係が成立した背景を

分析する。

第2節 農地改革をめぐる政府とNGO─対立と協調

NGOや農民たちは、包括的農地改革法(RA.6657)における地主の保護規定に対して

不満を唱えた。そして、12のNGOと全国の農民たちが協力して人民農地改革評議会

(Congress for a PeopleÕs Agrarian Reform、略称CPAR、1987年5月)を開催し、人民農地改革

法(PeopleÕs Agrarian Reform Code、略称Parcode)を作成した。さらに、憲法第 6章第 32

34 アジア研究 Vol. 47, No. 3, July 2001

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35フィリピン農地改革における政府、NGO、住民組織の対立と協調─ラグナ州カランバ町マバト村を事例として

条をよりどころに登録有権者数の最低 1割の署名を集め、これを包括的農地改革法

(RA.6657)の代替とするよう試みた。これは実現こそしなかったが、農地改革を俎上に

のせて全国にその重要性を訴えたことと、フィリピンの農民運動史上初めて複数のNGO

が連帯したという意味で画期的であった。

本稿の事例研究として取り上げた住民組織「マカサマ」を支援したNGO「パキサマ」

は、この会議で人民農地改革法案を提出し、全体署名の 40%を集めて注目を浴びた(23)。

パキサマはアキノ政権が誕生した1986年8月に設立された。この設立を後押ししたのは、

反マルコス運動に加担していたフィリピン農村資源開発協力(Philippine Partnership for the

Development of Human Resources in Rural Areas 、略称PhilDHRRA、以下フィルドラと記述)で

あった。

フィリピンでは二月革命(1986年)と冷戦終結(1998年)を契機としてNGOが再編成

された。それまで冷戦の枠組みの中で真の農地改革の実現を唱えて活発に活動を展開し

ていたのは、フィリピン共産党の武装組織新人民軍(New PeopleÕs Army、略称NPA)やそ

の影響を受けたフィリピン農民運動(Kilusang Magbubukid ng Pilipinas、略称KMP、1985年

設立)であった。これらは農民たちを組織化して土地占拠や自主耕作を促し、政府軍や警

察ともたびたび衝突した。その反対に、1952年に設立された自由農民連合(Federation of

Free Farmers、略称FFF)は、共産主義の拡大を防止するために農地改革を実行し、農村に

中産階級を形成させて民主主義を促進させようとした。自由農民連合(FFF)は、労働組

合や農民組合に強い働きかけをおこなうことで注目されていたイエズス会神父ウォルタ

ー・ホーガン(Walter Hogan)の援助のもとに、地主出身の知識人や弁護士らによって組

織された。1970―80年代のマルコス政権期には多くのNGOが政府の弾圧を受けて活動

停止を余儀なくされたにもかかわらず、自由農民連合(FFF)はマルコス大統領を全面的

に支持することで農地改革政策の立案にも参加し、ある程度の農地改革も実現した(24)。

しかし、これらの組織には次のような問題があった。新人民軍(NPA)やフィリピン

農民運動(KMP)の指導で(時に武力で)土地を占拠した農民たちは、農業の生産活動よ

りも政府軍や警察との闘争に明け暮れて、生活が向上しないまま国家に弾圧されること

が多かった。また、フィリピン共産党は二月革命で主導的役割を果たす機会を逸した上、

冷戦崩壊によって共産主義の思想と実践が必ずしも理想的な社会をもたらすものでない

ことが明らかになり、共産党自体が分裂して縮小した(25)。さらに、フィリピン農民運動

(KMP)は人民農地改革評議会(CPAR)に参加したものの、土地占拠による実力行使の

継続を強く主張し、立法過程への介入を重視する他のNGOと意見を調整できなかった。

一方、マルコス大統領支持を軸に活動を展開していた自由農民連合(FFF)も、アキノ政

権成立とともに農地改革政策への影響力を低下させ、人民農地改革評議会(CPAR)への

参加は拒否した。

パキサマはこうしたNGO再編成の中で設立された。そして、農地改革政策に対して

は土地占拠よりも政策提言に力を入れると同時に、農民のエンパワメント、すなわち農

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民自身が農地改革に対処してゆく能力を高めたり、農地取得とそれ以後の農村開発も視

野にいれて活動することを目標とした。具体的には、パキサマが支援している全国 32の

住民組織(1999年現在)に対して農地改革法の勉強会、有機農業プログラム、ジェンダー

プログラムなどをおこなった(26)。また、フィルドラとともに農村のコミュニティーを基

盤とする農地改革と農村開発プログラムを提唱した。これは、政府、NGO、住民組織が協

力して農地改革を速やかに実行し、社会インフラと生産システムの整備、およびコミュ

ニティーの農産物の生産力を向上させるプログラムを一貫しておこなう内容であった(27)。

一方、政府側もNGOや住民組織と協力しつつ、農地改革を実施する方法を模索して

いた。アキノ大統領は行政命令 406号(1990年)を発令して政府、NGO、住民組織の 3

者協力による農地改革の実現を呼びかけた。ラモス大統領は国民からの支持率を上昇さ

せるために工業化を推進する一方で、農地改革省の長官にNGO出身者のガリラオを就

任させて農地改革省内の人事を刷新し、ガリラオ長官のイニシアティブのもとでより効

率的に農地改革を実施しようとした(28)。

ガリラオ長官は、先に述べたパキサマとフィルドラの 3者協力プログラムを高く評価

し、フィルドラの元事務局長ブッチ・オラノを農地改革省副長官に任命してこのプログ

ラムを実施しようとした(29)。そして、1993年 6月にはガリラオ長官のイニシアティブで

農地改革コミュニティー(Agrarian Reform Community)計画を発表した。これは土地所有

裁定証書(CLOA)を取得したコミュニティーが農業経営を軌道に乗せられるよう、政

府・NGO・農業組合が連携して農業技術や灌漑設備、農道整備をおこなうプログラム

であった。ガリラオ長官は 1,200の村を農地改革コミュニティーに指定した(30)。当然の

ことながら、フィルドラやパキサマはこのプログラムに組み込まれていった。また、ガ

リラオ長官はパキサマ以外のNGO(Peace Foundationなど)と全国各地の住民組織の代表、

農地改革省の職員らとの話し合いの場を設け(1996年と97年)、農地改革を速やかに実行

することや、農地転用の防止策について話し合った(31)。

その結果、1992年から5年間で270万haの農地が分配された。72年から92年の20年

間で分配された農地が 190万 haであったことを考えれば、ガリラオ長官の下で農地改革

は明らかに前進したといえよう(32)。

1998年に大統領に就任したジョセフ・エストラーダもラモス政権の農地改革方針を引

き継いで、NGO経験の長いホラシオ・モラレスを農地改革省長官に任命した。モラレス

長官は調査村の小作人たちに土地所有裁定証書(CLOA)発行を決定した人物でもあるこ

とから、ここではモラレスの経歴に立ち入って説明しておく。

モラレスはマルコス時代に経済官僚から活動家、そしてアキノ政権以後はフィリピン

のNGO代表者として農村の貧困問題に関わりつづけた。彼は1965年以来マルコス大統

領の経済スタッフ(Presidential Economic Staff)として、地方の貧困と住居問題を担当し

ていた。77年には若手の官僚たちにとって名誉であった「10人の傑出した若者たち」

(Ten Outstanding Young Men)にも選ばれたが、共産党のフロント組織であった民族民主

36 アジア研究 Vol. 47, No. 3, July 2001

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37フィリピン農地改革における政府、NGO、住民組織の対立と協調─ラグナ州カランバ町マバト村を事例として

主義戦線(National Democratic Front)に加わり、反政府活動、農民の協同組合の設立に力

をいれた。彼が地下活動に加わったのは、マルコス政権の腐敗ぶりを目の当たりにして、

「貧困の改善のためには政府の制度を改革することだけでは不充分で、大衆自身に力をつ

けさせて、その強さと団結を利用することが緊急の課題である」と考えたからであった(33)。

しかし、彼は82年に国軍に逮捕されて投獄された(34)。

1986年にアキノ政権が成立してようやく釈放されたモラレスは、これまでの共産党路

線とは一線を引いた民主主義路線を指向した。具体的には、マルコス戒厳令下で活動停

止に追い込まれていた農村復興運動(Philippine Rural Reconstruction Movement)という

NGOの代表となり、コミュニティーを単位とする持続可能な開発プロジェクトを実施し

た(35)。また、モラレスは他のNGOに呼びかけて社会開発フォーラムを開催するほか、

96年の国連の社会開発サミットにも政府代表団のひとりとして参加した。そしてサミッ

ト終了後、彼はフィリピンの「持続可能な開発戦略」を策定してラモス大統領に提出し

た(36)。モラレスの政府に対する政策提言能力は高く評価され、エストラーダ政権で農地

改革省長官に抜擢された。

このように、本稿で取り上げるマカサマの農地改革が成功した背景には、ラモス政権

以降、農地改革省内における農地改革推進派の発言力が増大したこと、政府と協力して

農地改革や農村開発を実現させようとするパキサマやフィルドラのようなNGOも出現

したことが考えられる。次節では、マカサマの農地改革を分析する前段階として、村落

の特徴を明らかにする。

第3節 調査村落の特徴

ラグナ州はマニラの南東に位置し、ラグナ湖の湖岸を南西部から南部、東部にかけて

細長く湾曲して横たわる(地図 1・2参照)。事例の舞台となったカランバ町はラグナ州の

中心地のひとつである。20世紀初頭にマニラとカランバ町を結ぶ鉄道がしかれ、砂糖の

精製工場が建設されたことを背景に、砂糖、ココヤシ、稲作といった一次産業の要衝と

して発展してきた。1990年の統計資料によれば、カランバ町の面積は1万 4,480haで人

口は 17万 3,453人である。ラグナ州全体の人口が 163万 1,028人であることから、州全

体の12%の人口がカランバ町に集中していることになる(37)。

本稿の調査地は、このカランバ町の中心から西に約20キロほどすすんだ山の上にある

マバト村である(地図 2参照)。ここはカビテ州、バタンガス州に隣接しており、集落の

ほとんどはコーヒーとココヤシの林の中にある。

1995年現在の調査村の世帯数は自営農民(57世帯)と刈り分け小作人(45世帯)の102

世帯(約644人)で、そのほとんどが20世紀初頭に移民してきた家族の2世・3世たちで

ある(38)。そして、現在全世帯が専業・兼業農家でコーヒーとココヤシなどを生産してい

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る。調査対象となったのは、刈り分け小

作農民 45世帯である。彼らの農地の規

模は表 3に示した。これを見ると、約半

数の世帯が 1ヘクタール以下の土地を耕

作しており、小規模農家が多いことがわ

かる。

表 4は調査対象世帯の世帯主の職業を

組み合わせ別に分類したものである。こ

の表は世帯主が主要な収入源と見なして

いる順に職業を示してある。この表 4か

らは、世帯主が農業を第 1の職業として

38 アジア研究 Vol. 47, No. 3, July 2001

150kilometles750

150miles750

South China Sea

Philippine Sea

PALAWANPALAWAN

BORNEO

NEGROSNEGROS

PANAYPANAY

MINDOROMINDORO

VISAYAN Is.VISAYAN Is. SAMARSAMAR

LEYTELEYTE

BOHOLBOHOL

CEBUCEBU

MINDANAO

LUZON

THE PHILIPPINES

PACIFIC OCEAN

JAPAN

AUSTRALIAINDIAN OCEAN

CHINA

INDONESIAINDONESIA

Laoag

Baguio

MANILAMANILA

CalambaCalamba

SUBIC BAYNAVAL VASESUBIC BAYNAVAL VASE

ItotloItotlo

Davao

BacolodBacolod

ZamboangaZamboanga

CebuCebu

CLARK AIR BASECLARK AIR BASE

地図 1 フィリピン全体図�

 (出所)James Putzel, A Captive Land: the Politics of Agrarian Reform in the Philippines, Ateneo de Manila University Press, 1992.

 表 3 調査世帯の耕作面積分布(1999年)�

土地保有高 世帯数(戸)�

� 1ha未満 15

� 1ha以上1.5ha未満 8�

� 1.5ha以上2ha未満 4�

� 2ha以上2.5ha未満 1

� 2.5ha以上3ha未満 5�

� 3ha以上 3�

�名義が親の世帯で定かではない 8

 (注) 回答は44世帯.� (出所) 筆者のフィールドノートより作成.�

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39フィリピン農地改革における政府、NGO、住民組織の対立と協調─ラグナ州カランバ町マバト村を事例として

メトロ・マニラ�リサール州�

ラグナ湖�ラグナ湖�

カビテ州�

バタンガス州�タール湖�タール湖�

ラグナ州�

ケソン州�Tagaytay MabatoMabato

Lipa

CalambaCalamba

マニラ湾�

地図 2 マバト村所在地�

 (出所) 木村宏恒『フィリピン 開発・国家・NGO』,三一書房,1998年,カラバルゾン地域地図より筆者作成.�

 表 4 1999年における調査世帯主の職業�

第1の職業 第2の職業 世帯数(戸) 世帯主平均年齢(歳) 平均世帯員数(人)�

農  業 28� 42.6� 4.7

農  業 ハイランド 1� 45 � 7

ハイランド 農  業 7� 41.8� 5.4

農  業 ジプニー運転手 1� 42 � 6

ジプニー運転手 農  業 2� 41 � 4

警 察 官 農  業 1� 43 � 6

警 備 員 農  業 1� 43 � 8

サリサリストア 農  業 1� 34 � 5

合  計�� 42� 41.6� 5.8�

� (注)「ハイランド」とは隣山に建設されたゴルフコースなどの娯楽施設.� (出所) 筆者のフィールドノートより作成.�

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あげているのは全世帯の約73%で、そのうち専業農家は全体の約66%であることがうか

がえる。

農業に次いで就業人口が多い職業は「ハイランド」である。「ハイランド」とは調査村

の隣山に建設された別荘とゴルフコース、プールなどの娯楽施設である。1999年 11月

時点では、8世帯 12人の男性が「ハイランド」に勤務して、植物園や動物園で働いてい

た。そのうち正社員は 11人、6ヵ月ごとに契約を更新する契約社員が 1人であった。ハ

イランドの正社員には基本給 5,000─6,000ペソとボーナス(基本給 1ヵ月分)、昼食と交

通費が支給されるほか、社会保険も付加給付される。この社会保険は本人だけでなく、

家族が病気やケガをしても 1万 8,000ペソまで医療費が支給される。一方、契約社員は 1

日185─200ペソの給料と交通費が給付されるのみである。

ジプニー運転手を第 1の職業に挙げていた 2人は、1980年代に数年間サウジ・アラビ

アに出稼ぎに出かけ、出稼ぎで蓄えた資金で帰国後ジプニーを購入した。ジプニーとは

ジープの座席を人々や荷物を運べるように改造したもので、フィリピンでは庶民の足と

してもっとも一般的な乗り物である。ジプニーは村の唯一の交通手段であるだけでなく、

農産物の出荷のためにも用いられている。現在、彼らは交替で村とカランバ町を 1日 1

往復している(料金は片道1人あたり25ペソ)。肥料やコーヒーを詰めたサックの運搬費は、

1サック10ペソである。一方、ガソリンは 1往復あたり100─150ペソである。大体の計

算では、ジプニー運転手は 1日最低でも 800ペソ以上の収入を得ており、村の中では高

額所得者となる(39)。また、ジプニー運転手を第 2の職業に挙げている 2人も、週に 1、2

回ほど農産物の出荷の要請があったり、週末などの人の移動が多い時にジプニーを出し

ている。

次に、この村の地主─小作関係に注目する。調査村は 20世紀初頭にバタンガス州から

の自発的移民によって開拓された。このときすでに土地はコンラード・ポテンシアーノ

が所有していた。そこで、移民たちはポテンシアーノの刈り分け小作人としてコメとト

ウモロコシ(1970年代中頃からはコーヒー)を栽培し、収穫物の 25%を地代として地主に

納めてきた。

地主ポテンシアーノは現在調査村の農地(70ha)のほかに、バタンガス州の砂糖きび

農地、ケソン州のココナツ農地などの農地を所有しているほか、メトロ・マニラでは大

手バス会社といわれるBLTBバス会社と大病院を経営している。そして、普段はマニラ

にあるガードマンつきの高級住宅街に豪壮な邸宅を構えて、自分の土地には年に数回見

まわりに訪れる程度で、小作人の中から選出した差配人に所有農地の管理(誰がどこを耕

すか)と運営(何を耕作するか)を委託している。これはフィリピンでは広く見うけられ

る不在地主―小作関係である(40)。

調査村の差配人は 2代にわたって勤勉かつ正確に任務を遂行したので、地主と小作人

の双方から信頼され、調査村の小作―地主関係に大きな軋轢が生じることはなかった。

ところが、この地主―小作関係を揺るがす二つの外部環境の変化が生じた。第一に、

40 アジア研究 Vol. 47, No. 3, July 2001

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41フィリピン農地改革における政府、NGO、住民組織の対立と協調─ラグナ州カランバ町マバト村を事例として

包括的農地改革法(RA.6657)が施行された翌年の 1989年に調査村の農地 70haも農地改

革の対象に指定された。第二に、カラバルソン開発計画の影響で調査村も地価高騰と農

地転用の問題に直面した(41)。調査村周辺では 89年あたりからゴルフコース建設計画が立

ちあがり、土地買収交渉が始まった。土地買収交渉にすぐに応じた隣山の村民は、1ha

あたり 1万 5,000ペソ(現在 1ペソは約 2.5円)で立ち退いた。調査村の小作人たちは土地

買収交渉を拒否した。

一方、地主は農地改革に難色を示しつづけた。1996年に政府が算出した村の農地の土

地評価額は、70ha全体で 400万 7,900ペソであった。一方、99年 3月に不動産業者が小

作人に持ちかけた地価は、1haだけでも約 200万ペソにもなった(42)。これでは地主が農

地改革に応じないのも無理はない。だが、小作人たちは立ち退きよりも村で農業を続け

ることを選択した。調査では、45世帯の世帯主のうち44人が農地を取得して農業を続け

ると答えた。1人だけ農地を売り払って立ち退いても良いと回答したが、その世帯の妻

と子どもは売却を拒否していた。調査村の小作人たちはこれまで農民運動に巻き込まれ

たことはなかったが、農地改革の実現と生活環境の維持という身近な問題をきっかけに

して、地主や不動産業者と対峙し、そして行政に農地改革の実現を訴えるようになった。

次節では、農地を取得するまでの運動展開過程を検証する。

第4節 住民組織の運動展開過程

この村の問題は、農地改革の対象になった時期と開発による地価急騰の時期が重なり、

農地改革の実現が困難になったことに端を発する。当初小作人たちは、自分たちの身に

何が起こりつつあるのか理解していなかった。しかし、村に保険衛生の講習に訪れてい

たマニラのNGOスタッフの仲介によって、パキサマのスタッフと調査村の小作人の間

で話し合いがおこなわれた(1989年)。そして、小作人たちは(1)周辺の開発の影響で地

価が高騰しているので、地主は土地を手放したがらない。そのため、農地改革の実現は

難しい、(2)すでに立ち退いた農民たちの生活はいっそう困窮している、(3)現在の生活

を維持するためには農地を取得することが大切である、ことを認識し、マカサマという

住民組織を結成した(90年)。この代表には、長年差配人をつとめて農地改革評議会の議

長も兼任していたペドロ・ヘルナンデスが選出された。

こうして出発したマカサマの活動展開は年表に示した。時期的には 1990年の成立時か

ら 98年 10月までの「活動停滞期」、98年 11月から 99年 1月までの「目標達成期」、99

年2月から5月までの「抗議行動期」とに分けられる。

「活動停滞期」とは、マカサマが町や州の農地改革事務所に農地改革の手続きを迅速に

おこなうよう事務所を訪問して陳情をおこなったが、何の進展も見られなかった時期で

ある。1989年からカランバ町の農地改革事務所は数回にわたって地主に農地改革に応じ

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42 アジア研究 Vol. 47, No. 3, July 2001

 年表 マバト村農地改革の変遷�

区分 年月日 農地改革の動き 地 主 小作農 NGO

1988. 6

1989. 9

1990. 11990. 61992. 4

1992. 9

1992.10

1992.12

1993. 1

1993. 2

1994. 1

1994. 7

1996. 1

1996. 3

1998. 3

1998. 6

1998.11. 9

1998.11.23

1998.12.12

1998.12.14

1999. 1.14

1999. 1.28

1999. 2. 3

1999. 2.15

1999. 3. 5

1999. 3.251999. 4. 5

1999. 4.16

1999. 5. 3

1999. 5.27

1999. 6.10

1999. 7.18

 (注) 年表内の(町)=カランバ町農地改革事務所,(中央)=農地改革省,(土地銀行)=フィリピン土地銀行,

CLOA=土地所有裁定証書.� (出所) Department of Agrarian Reform, Ocular Inspection Report on the Potenciano Estate, May 25, 1999;

Department of Agrarian Reform (Order by Horacio Morales), Re: Application Pursuant to DAR Administrative Order No. 6, Series of 1994 (Case No. A─9999─138─97), May 27, 1999; PAKISAMA, Facts Sheet: Comprehensive Agrarian Reform Coverage of the Potenciano Estate, 1999, pp. 1─5 および筆者のフィールドノートより作成.�

農地改革法制定(RA.6657)

(町)が村の農地を改革の対象に指定したと地主と村に通知地主に再通知

(町)が地主に農地改革に応じるよう促す(町)が農地改革評議会議長と話し合う(町)が地主に再通知

(町)マバト村農地対策委員会を結成(町)が農地照合と地価の算出を約束

(土地銀行)が農地評価額を算出、州の農地改革担当者がその旨を地主に報告(土地銀行)が地主の反対で口座証明書発行不可能と通知

�(中央)長官がCLOA発行を命令

(中央)長官が再びCLOA発行を命令

(中央)副長官が異議申立てを受理

(町)農地改革担当者がCLOA発行予定者を選定�����(中央)視察団がマバト村を訪れ報告書作成(25日提出)�(中央)報告書にもとづき長官がCLOA発行命令をだす(町)第1回CLOA発行�(町)第2回CLOA発行(完了)

←無視

←無視

←無視

←地主の弁護士が農地改革中止を町に要請

←告訴取り下げとCLOA発行手続き中止を直接町に要求←無視

←弁護士が長官の決定に異議申し立て

←弁護士が再び異議申し立てを申請

農地改革法適用除外を申請

�������←CLOA発行中止の電話を人づてにかける←同上�

農地改革評議会設立

マカサマ設立

←出席

←マカサマ代表・副代表が手続きを進めるよう陳情

農地改革を進めるよう再び陳情

町の裁判所に地主との調停を求める

 

マカサマ30人がマニラの土地銀行本店前でデモ直訴よりも種まきを優先→�

←住民組織50人が農地改革省長官に直接CLOA発行を陳情

←上記の異議申立てが無効であると表明

��←副長官の決定に反対するコメントを発表

�マニラの農地改革省内で座り込み開始

����座り込み終了

衛生改善の講習のためリカス(NGO)スタッフが村に滞在

↓パキサマに問題を伝える

↓←パキサマと話し合い

←パキサマや他の住民組織も参加←農地改革省長官に直訴を提案

 ����全国紙にマカサマの記事を掲載させる他の住民組織やNGOを動員して大規模な座り込みへと発展

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43フィリピン農地改革における政府、NGO、住民組織の対立と協調─ラグナ州カランバ町マバト村を事例として

るよう通告したが、地主は無視した。そして、92年になって地主は弁護士を通して証書

(CLOA)の発行中止を町の農地改革事務所に求めた。これに対してマカサマは、94年に

カランバ町の評議会に農地改革不履行を訴えたが、行政は何の対応も示さなかった。

1996年になると、地主は弁護士を通して南部タガログ5州全体を統括するリージョナ

ル・ディレクター宛てに農地改革適用除外を申請し、農地改革の対象地は農地ではなく

森林であると主張した。そこで、マカサマの代表者たちもリージョナル・ディレクター

に農地改革を速やかに実施するよう要請した。カランバ町の農地改革担当者は、問題の

土地が農地であると州や中央の農地改革担当者に報告したが、行政は無反応であった。

マカサマは次第に手詰まり状態に追いこまれていった。

「目標達成期」は1998年11月9日にマカサマの50人が、モラレス農地改革省長官に陳

情したことが契機となった。モラレス長官は調査村に視察団を派遣し、論争となってい

る土地が農地であるという確認が取れると、陳情してから約 2週間で地主の農地改革適

用除外申請を却下し、土地所有裁定証書(CLOA)発行を言い渡した(11月 23日)。地主

の弁護士はこの決定について異議申立てをおこなったが、モラレス長官は地主の主張を

再び却下した(99年1月14日)(43)。

農地改革省長官が証書(CLOA)発行を容認したにもかかわらず、農民たちが農地改革

省の前で座り込むことになったのは(1999年 4─5月)、農地改革省「副」長官が地主の

再々審申請を受理して証書(CLOA)発行を保留にしたためである。これは地主が省内の

官僚たちを通して、モラレス長官にも再検討を促していることを意味していた。このよ

うに、フィリピンでは地主の圧力によって証書(CLOA)発行の決定が覆されることは少

なくない。そして、もしモラレス長官が発行決定を取り下げれば、マカサマの小作人た

ちは農地を手にすることができないばかりか、将来的には村を立ち退かねばならなくな

る。この座り込みには他の地域の住民組織やNGOも参加した。全国紙もモラレス長官

を批判した(44)。一方、解決策を模索するためにマカサマ代表、パキサマのスタッフ、地

主とマカサマの各弁護士、副長官らが協議を重ね、5月3日に副長官らが調査村に視察団

を派遣した。その結果、副長官は 70haの農地のうち証書(CLOA)が発行可能な農地と、

耕作地ではあるが傾斜が 18%以上であるために森林に分類される農地を厳密に分類して

報告した(45)。この報告書にもとづいて、モラレス長官は約 70haのうち 50haの証書

(CLOA)を発行すると決定した。マカサマの小作人たちは、農地が農地改革の対象に指

定されてから10年目にして証書(CLOA)を手にすることができた(46)。

第5節 マバト村の農地改革におけるNGOと政府の役割

マカサマの農地改革実現にあたって、パキサマと農地改革省内の農地改革推進派はど

のような役割を果たしたのだろうか。本節はこれらの点について検討する。

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最初にパキサマについて検討する。パキサマは調査村を訪れて小作人と話し合いマカ

サマを結成するきっかけをもたらした(47)。マカサマの住民組織づくりは次のような手順

でおこなわれた。まず、スタッフの話を聞いて危機意識を高めた小作人たちがマカサマ

を結成した。そして、もともと村の小作人の代表でもあった差配人をマカサマの代表に

選出したほか、副代表、会計、監査、連絡係など組織の分担もおこなった。構成員のう

ち 9人はパキサマの主催する農地改革法の勉強会に出席して、村の農地改革に関する法

律相談員(Para Legal)の資格を取得した。1990年頃までには調査村で農地改革の受益者

となる予定の全世帯がマカサマに参加し、組織の仕事も分業された。パキサマのスタッ

フは月に一度定期的に調査村に訪れて会合を開き、具体的な対応を話し合った。そして、

パキサマが開催している農地改革法についての勉強会、ジェンダー・プログラム、有機

栽培農法の講習会などにも参加するよう呼びかけた。また、パキサマはマカサマに、他

の住民組織の農地改革についても協力するよう促した。こうしてマカサマの構成員たち

は、パキサマを媒体として他の住民組織と交流し、同じ問題を抱えている他地域の情報

を得ることができた。こうした活動を通して小作人の中には「人間は平等である」、「農

地改革法に則っているのだから、土地を得る権利がある」といった権利意識を芽生えさ

せていった者もいた。そして、自分たちの問題を体系的にとらえて目的意識を持つこと

ができるようになった者たちは、パキサマへの参加意欲を高め、組織や個人としての主体

性を確立させていった(48)。

とはいえ、これまで代々小作人として農業だけを地道に営み、マニラにもめったに足

を運んだことのない人々が農地改革省の長官級の官僚たちと対等に交渉することはやは

り難しい。そこで、パキサマはマカサマに同行して農地改革省の官僚への陳情や交渉を

手伝った。また、前述した 1999年 4月の座り込みの際には農地改革省副長官、地主とマ

カサマの各弁護士、マカサマ代表のほかにパキサマのスタッフも話し合いに参加した。5

月に副長官が現地を視察した際にもパキサマのスタッフが同行した。

以上のことから、マカサマにとってパキサマは火付け役、情報提供と相談役であった

といえる。また、マカサマが農地改革省と交渉したり、他の住民組織が交流する場面で

は、パキサマは橋渡し的役割を果たしていたと考えられる。

次に、農地改革省はマカサマに対してどのような役割を果たしたのであろうか。本稿

では、包括的農地改革法(RA.6657)の様々な問題点が指摘される中で農地改革を実行す

るには、ガリラオ長官をはじめとする省内のキーパーソンの役割が重要であったことを

論じてきた(49)。そこで本節では、モラレス長官と調査村の農地改革を直接担当したカラ

ンバ町の農地改革事務所の所長(Municipal Agrarian Reform Officer)がどのようにマカサ

マに対応したのかにも注目したい。

マカサマはNGO出身のモラレス長官に証書(CLOA)発行を期待し、「貧民のために」

を公約に掲げたエストラーダが大統領に就任したことも追い風となると考えた(50)。そこ

で、マカサマは実際に 1998年 11月モラレス長官のもとへ陳情に赴き、モラレス長官も

44 アジア研究 Vol. 47, No. 3, July 2001

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45フィリピン農地改革における政府、NGO、住民組織の対立と協調─ラグナ州カランバ町マバト村を事例として

農地分配を即決した。だが、副長官が地主の再審要求を受理してしまったことによって、

99年 3月に再び農地分配が保留とされた。マカサマと全国紙はモラレス長官が地主の圧

力に屈したと批判した(51)。この問題が世間の注目を集めてゆく中、モラレス長官は調査

団を村に派遣し、最終的に地主と小作人の主張を調整するかたちで、70haの対象地のう

ち 50haの証書(CLOA)を発行すると決断した。マカサマの農地改革が約 9年間何の進

展もなかったことと比較すれば、モラレス長官はマカサマに対して迅速かつ好意的に対

応したといえよう。

モラレス長官は証書(CLOA)発行を命じたが、実際に証書を発行する権限はカランバ

町の農地改革事務所の所長ベレン・デ・ラ・トーレ(Belen de la Torre)にあった。地主は

証書(CLOA)発行当日、ラグナ州の農地改革担当者を通して、デ・ラ・トーレ所長に証

書(CLOA)の発行中止を求めたが、デ・ラ・トーレ所長は証書(CLOA)を発行した。

その背景には、彼女の生い立ちと経歴が影響していると考えられる。

デ・ラ・トーレは、1949年にビコール州で米作を営む貧しい小作農家の長女として誕

生した(52)。一家は57年にラグナ州のカブヤオ町に移り住み、父親は砂糖きびの小作人と

して働く一方で、自由農民連合(FFF)のカブヤオ支部に参加した。彼女も父親の影響を

受けて 76年まで自由農民連合(FFF)カブヤオ青年部に所属し、集会所管理と会合の座

長を任された(53)。彼女はカランバ町にあるラグナ・インスティテュート(Laguna Institute)

高校を卒業したが、大学に進学する経済的余裕がなかった。そこで、彼女は農地改革に

関心があったので、カランバ町の農地改革事務所の事務員として働く一方で(76年)、事

務所の近くのカノッサ大学で経済学を専攻した。

大学を卒業後(1981年)、彼女は公務員試験(Civil Service Eligibility Professional

Examination)に合格し、農地改革省の公務員として働きはじめた。ラグナ州内の町役場

を転々とする一方で、農地改革省の奨学金でフィリピン大学ロス・バーニョス校の農地

改革研究科で学び、修士号も取得した(83─85年)。その後、彼女は町の農地改革事務所

の所長に昇格し、担当地区の農地改革実施対象地の選定や、証書(CLOA)発行を手がけ

ていった(89年)。

彼女は農地改革の実施に積極的で、1991年には地主の強力な反対によって誰も手をつ

けてこなかったユーロ・アシエンダ(7,000ha)のうち、254ha分の証書(CLOA)を80人

の小作人に発行して物議を醸した。これに対し農地改革省は、彼女に「1992年の第 4地

域(南タガログ地域)での功績を証明する」(Katibayan ng Pagpapahalaga Region IV)賞を

与えた。前述してきたように、農地改革は地主の頑迷な抵抗によって急進的に農地改革

を実施することは不可能であるが、省を存続させるためには農地改革の実績をある程度

残さなければならない。デ・ラ・トーレ所長が大地主ユーロの農地を分配したことは、

農地改革省にとっては農地改革行政の実績を社会にアピールする材料となったのである。

その後、デ・ラ・トーレ所長は98年 2月にカランバ町に転勤し、調査村を担当した。自

由農民連合(FFF)での経験もあった彼女は、マカサマと接触するうちに次第に共感して

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ゆき、彼らの農地改革を実現させるために、次のような行動をとった。

第一に、デ・ラ・トーレ所長は農地改革の手続きが中断された 1999年 3月の段階で、

自らマバト村に赴いて農地の受益予定者であるマカサマの構成員と面会し、証書(CLOA)

発行の許可がおりたら迅速に証書を発行できるように必要な書類を準備した。また、99

年 4月から 5月にかけてマカサマが農地改革省の前で座り込みをした際、デ・ラ・トー

レ所長はその現場にパンを差し入れた。彼女のこうした態度は農地改革担当者としては

行き過ぎともいえる行為であるが、マカサマは農地を取得するインセンティブを高めた。

第二に、モラレス長官が農地改革実施を命じると、デ・ラ・トーレ所長はその約 2週

間後に第一回目の証書(CLOA)を発行した。これまでの行政の対応と比較すると異例の

速さである。

第三に、デ・ラ・トーレ所長は地主側の反対を遮って受益者に証書(CLOA)を発行し

た。地主側と所長のやり取りは次のようにおこなわれた。まず、証書(CLOA)発行当日

の朝(6月 10日)、州の農地改革事務所とメトロ・マニラの農地改革省のある人物が証書

(CLOA)発行差し止めを促す電話をデ・ラ・トーレ所長にかけた。しかし、彼女は証書

(CLOA)をすでに発行してしまったと嘘をついた。実際のところ、マカサマ代表はその

日の午後4時に農地改革事務所にきて証書(CLOA)を受け取った。7月18日に残りの証

書(CLOA)を発行した際にも同様の電話があったが、デ・ラ・トーレ所長はマカサマ代

表がすでに事務所にいると再び嘘をついた。そして、自分で村に赴いて残りの証書

(CLOA)を受益者に渡した。

しかし、このデ・ラ・トーレ所長の態度は農地改革省内で「行き過ぎ」と受け止めら

れ、地主と非常に親しいといわれているラグナ州の農地改革事務所所長が、彼女を降格

して左遷するという噂が囁かれた。パキサマとマカサマは左遷中止を求めてラグナ州の

農地改革事務所に陳情した。デ・ラ・トーレ所長は降格を免れたが、結局 2000年 4月に

カランバ町からバイ町に転勤させられた。

以上のことから、調査村の農地改革は小作人による住民組織マカサマとNGOの支援、

そして農地改革省の協力が作用したことによって実現できたことがわかる。特に、農地

改革省内のモラレス長官やデ・ラ・トーレ所長のようなキーパーソンの存在は、農地改

革政策が実施される上で重要であった。もちろん、すべての農地改革が調査村と同じよ

うに成功しているとはいえない。しかし、この事例は、これまでの単純な「官=悪、

民=善」という二元論的な見方を改め、農地改革行政とNGOや住民組織の新たな関係

を示しているといえよう。

結  論

本稿は、農地改革問題を契機として小作人自身が結成したフィリピンのラグナ州カラ

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47フィリピン農地改革における政府、NGO、住民組織の対立と協調─ラグナ州カランバ町マバト村を事例として

ンバ町マバト村の住民組織マカサマが農地改革を実現させるまでの過程を分析の中心に

据えつつ、農地改革をめぐる政府とNGO、住民組織の関係を検討してきた。

フィリピンの包括的農地改革法(RA.6657)は 1988年に制定されたが、地主の頑迷な

抵抗と行政の非効率から大きな実施成果をあげることができなかった。そこで、アキノ

大統領が 90年に行政命令 406号を発令して農地改革省とNGOや住民組織が協力して農

地改革を実施するための法的整備をおこない、92年に農地改革省長官にNGO出身者の

ガリラオが任命されたことを端緒として、農地改革行政内部にも農地改革推進の流れが

形成されていった。一方、フィルドラやパキサマといったNGOも、この農地改革省の

変化に敏感に対応していった。こうした政府とNGOの関係が改善されていく中で、調

査村の農地改革も進んでいった。

調査村は1989年に農地改革の対象となった。そして、農地改革に応じない地主と土地

買収問題に対応するために小作人たちはマカサマを結成した。彼らは自分たちの生活世

界を維持するために農地改革の実現を目指した。パキサマの支援を受けたマカサマは農

地改革への不満にもとづく対抗軸だけでなく、行政との対話や交渉を重ねて合意を形成

しようとする政策への働きかけも見受けられた。そして、10年にわたって問題解決の糸

口を探りながら、法の下の平等や基本的人権を具体化させていった。

マカサマに対してパキサマは、マカサマを組織するきっかけをつくり、情報を提供し、

問題解決に向けての対応策を一緒に話し合い、農地改革省との交渉や他地域の住民組織

と交流する橋渡し的役割を担った。

一方、モラレス長官は地主の再三にわたる農地改革適用除外の申請を退けて、小作人

への証書(CLOA)発行を決定した。また、カランバ町の農地改革を担当したデ・ラ・ト

ーレ所長も、上司から証書(CLOA)発行差し止めを求められたにもかかわらず、マカサ

マに証書(CLOA)を発行した。こうした行政側のキーパーソンによるマカサマへの協力

が、農地改革に強力に反対する地主や開発の圧力を跳ね返す力となった。この分析結果

は、ボラスの主張と一致するものであった。こうしたあり方は、これまでの政府と対立

関係にあるだけの農民運動と異なり、農地改革政策を刺激する可能性を持っているとい

えるかもしれない。さらに、マカサマのように自分たちの考え方にもとづいてNGOの

協力を得ながら農地改革の実現を目指すという方法は、内発的な民主主義や下からの民

主主義のネットワーク化を考える上での鍵となるだろう。

(注)(1) Anderson, Benedict, ÒCasique Democracy in the Philippines: Origin and Dream,Ó New Left Review, Vol.

169(May─ June 1988). (2) Philippine Statistical Yearbook, National Statistical Office, 1998, p. 2─11(図2─4). (3) Steinburg, David, The Philippines: a Singular and Plural Society, Westview Press, 2000, p. 203(デービッド・スタインバーグ〔堀芳枝他訳〕『フィリピン 歴史・社会・文化─単一にして多様な国家』、明石書店、337─338ページ)。

(4) フィリピンの土地制度や農地改革政策については、Putzel, James, A Captive Land: the Politics of AgrarianReform in the Philippines, Ateneo de Manila University, 1992; 滝川勉『戦後フィリピン農地改革論』、アジア

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経済研究所、1976年; 滝川勉『東南アジア農業問題論─序説的・歴史的考察』、勁草書房、1991年。戦後の農民運動については、Kerkvliet, Benedict, The Huk Rebellion: A Study of Peasant Revolt in the

Philippines, University of California Press, 1977; 木村昌孝「フィリピン農民運動史における自由農民連合(FFF)の意義」『社会科学論集』(茨城大学人文学部)、1999年。(5) Korten, David, ÒThird Generation Strategies: a key to People─Centered Development,Ó World

Development, 15─ supplement, 1987, pp. 145─159; Korten, David, Getting to the 21st Century: VoluntaryAction and the Global Agenda, Metro Manila, Bookmark, 1990(デービッド・コーテン〔渡辺龍也訳〕『NGOとボランティアの21世紀』、学陽書房、1995年); Korten, David, ÒThe Role of Nongovernmental Organizationin Development: Changing Patterns and Perspectives,Ó Samuel, Paul and Arturo, Israel(eds.),Nongovernmental Organizations and the World Bank: Cooperation for Development, Washington, D. C.,World Bank, 1991.

(6) 村井吉敬「国際NGOの行方─ 20世紀システムの破綻と 21世紀への模索」『岩波講座世界の歴史 ポスト冷戦から21世紀へ』第27巻、岩波書店、2000年、241ページ。

(7) Putzel, James, ÒNGOs and Rural Poverty,Ó in Silliman, Sidney G., and Noble, Lela G.(eds.), Organizationfor Democracy: NGOs: Civil Society, and the Philippine State, Ateneo de Manila University, 1998, pp. 78─79.

(8) 木村宏恒『フィリピン 開発・国家・NGO─カラバルゾン地域総合開発計画』、三一書房、1998年。(9) Putzel, op. cit., pp. 80─87.(10) Villanueva, Pi, ÒThe Influence of the Congress for a PeopleÕs Agrarian Reform(CPAR)on the

Legislative Process,Ó in Wui, Marlon A., Lopez, Glenda S.(eds.), State Civil Society Relations in Policy-Making, The Third World Studies Center, 1997, pp. 81─96; Go�o, Cielito C., Peasant Movement-StateRelations in New Democracies: the Case of the Congress for a PeopleÕs Agrarian Reform(CPAR)in Post-Marcos Philippines, Institute of Church and Social Issues, 1997.

(11) Clarke, Gerard, The Politics of NGOÕs in South-East Asia: Participation and Protest in the Philippines,Routledge, 1998.

(12) Borras, Saturnino M., BIBINGKA Strategy in Land Reform Implementation: Autonomous PeasantMovements and State Reformists in the Philippines, Institute for Popular Democracy, 1999.

(13) Ibid., pp. 8─22.(14) Putzel, A Captive Land. op. cit.; 滝川、前掲『東南アジア農業問題論』; 永野善子・葉山アツ子・関良基『フィリピンの環境とコミュニティ─砂糖生産と伐採の現場から』、明石書店、1999年、58─60ページ。(15)「すべての農地」とは、政府所有の農地もしくは私有農地の他に、マルコス政権下で農地改革の対象となったコメ・トウモロコシ小作地、遊休地・放棄地、地主が自発的に提供した私有地、政府系金融機関の差し押さえ地、大統領行政委員会(PCGG)が接収したマルコス家とその取り巻き一族の不正取得地をさす。また、この「すべての農地」はアキノ政権期には 1,030万 haとされていたが、ラモス大統領によって 810万 haへ削減された。

(16) ただし、この法律は季節・日雇農業労働者を対象外としている。政府の統計資料がないため正確でないかもしれないが、アギラールの研究では、米作地帯の土地なし層(そのほとんどは農業労働者世帯)の割合は、20―25%にのぼることが指摘されている。Callanta, Ruth S., Poverty: the Philippine Scenario, Metro Manila,Bookmark, 1988, p. 42.

(17) Putzel, A Captive Land, op. cit., pp. 259─278; Riedinger, Jeffrey M., Agrarian Reform in the Philippines:Democratic transitions and Redistribute Reform, Stanford University Press, Stanford California, 1995, pp. 153─176; 滝川、前掲『東南アジア農業問題論』、117─146ページ ; 永野善子他、前掲書、59─63ページ。

(18) これまでは、複数の町を担当するチーム(Team)、州を担当する地区(District)、その上に地域(Region)、中央の農地改革省という組織構造であった。

(19) Borras, op. cit., p. 50.(20) Philippine Statistical Yearbook, 1998, p. 5─14(第5─9表)にもとづいて筆者計算。予定では第1段階で、マルコス政権時代に実施されたコメとトウモロコシ農地と自発的提供の私有地の分配を完了させるほか、政府所有地や、政府系金融機関による抵当差し押さえ地、前マルコス大統領らの不正取得地を法律発行後 4年以内に分配する。第 2段階では、公有農地と 50haを超える私有地を 4年以内に実行する。第 3段階では、24ha以上50ha以下の農地を法律発行後4年目に開始し、3年以内に完了する。それ以下の農地に関しては法律発行後6年目に開始して4年以内に完了するはずであった。

(21) Ibid.(22) Takigawa, Tsutomu, ÒLand Conversion and its Socio-Economic and Environmental Impacts in the

Philippines: the Case of Cavite Province,Ó Forthcoming thesis, Ateneo de Manila University Press, 2000.(23) Go�o, op. cit., pp. 20─35. (24) 滝川、前掲『戦後フィリピン農地改革論』、36─37ページ。

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(25) Borras, op. cit., pp. 51─59.(26) PAKISAMA, Indicative Performance Assessment of the Pambansang Kilusan ng mga Samahang

Magsasaka, 1998, pp. 23─26; PAKISAMA, Padayon 1996─1999: Official Publication of the 5th NationalCongress of PAKISAMA, 1999, pp. 10─13.

(27) Tripartite Partnership for Agrarian Reform and Rural Development(TriPARRD), leaflet(n.d).(28) ガリラオは「社会進歩のためのフィリピンビジネス」(Philippine Business for Social Progress)事務局長をしていた。

(29) Putzel, ÒNGOs and Rural Poverty,Ó op. cit., pp. 97─98.(30) 日本ネグロスキャンペーン委員会『耕す人びとに希望はあるか─フィリピン農地改革の現場から』ネグロス島農業調査シリーズ(1)、2000年、23ページ。

(31) Borras, op. cit., pp. 63─64.(32) Ibid., p. 49.(33) Department of Agrarian Reform, Landmarks, Vol. 7, No. 2, 1998, p. 22.(34) Ibid., pp. 22─23.(35) フィリピン農村復興運動(PRRM)は 1952年にジェームス・イェン博士によってフィリピン中部のヌエバエシハ州に設立された。

(36) www.angel.ne.jp/~p2aid/srddp.htm(37) AsiaDHRRA Secretariat, The Impact of Globalization on the Social Cultural Lives of Grassroots People

in Asia, Jakarta, pp. 197─199.(38) National Statistical Office, Laguna, 1995.(39) 調査村についてのさらに詳しい概要・歴史・社会経済状況については、堀芳枝「フィリピンにおける農地改革と農村住民運動─ラグナ州カランバ町マバト村の場合」富士ゼロックス小林節太郎記念基金小林フェローシップ1997年度研究助成論文、2000年。

(40) 梅原弘光『フィリピンの農村』、古今書院、1992年、128ページ。(41) 農地転用と立ち退きや補償問題と農民や漁民の生活への影響については、木村宏恒、前掲書、61─79ページ。

(42) 1999年3月の聞き取り調査にもとづく。(43) Today, January 16, 1999.(44) Inquirer, April 16, 1999.(45) The Assistant Secretary for Policy, Planning & Legal Affairs in Department of Agrarian Reform, ÒOcular

Inspection Report on the Potenciano Agrarian Reform,Ó Memorandum for the Secretary, 1999.(46) Department of Agrarian Reform, In Re: Application for Exemption Clearance Pursuant to DAR

Administrative Order No. 6(Case No. A─9999─138─97), Quezon City, 1999.(47) 1999年 3月に当時 32歳の女性にインタビューをした際の以下の発言にもとづく。ÒKung walang

PAKISAMA , hinidi namin alam ano ang nangyayari sa Mabato. Mulat ang mata ko pagkatapos nakita angPAKISAMA.Ó「もしパキサマがこなかったら、我々はこの村に何が起こっているのかわからなかった。パキサマに出会ってから私の目が開いた」。

(48) 1999年3月におこなったインタビューにもとづく。詳しくは堀、前掲論文、66─71ページ。(49) 鶴見和子は地域の人々に変革をもたらす人々のことを「キーパースン」として注目した。鶴見和子『内発的発展論の展開』、東京大学出版会、1996年、211─215ページ。

(50) 堀、前掲論文、22ページ。(51) Inquirer, April 16, 1999. (52) 1999年10月10日、カブヤオ町ベレン宅での筆者のインタビューにもとづく。(53) 自由農民連合(FFF)についての詳細は、木村昌孝、前掲論文。

(ほり・よしえ 恵泉女学園大学人文学部)