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3 南スーダン共和国の独立の背景と現在の状況 地図にみる現代世界 二度のスーダン内戦と南部スーダンの独立 スーダン共和国の南部スーダンは、2011年7月9日に 南スーダン共和国として独立した。初代大統領は、スー ダン人民解放運動/スーダン人民解放軍(SPLM/SPLA) の議長兼最高司令官であり、スーダン共和国の第1副大 統領でもあったサルヴァ・キールである。日本の面積の 約1.7倍の国土に約800万人が居住する、世界でもっとも 新しい国家が誕生したのである。これによって、一つの 国であったスーダンは、アラブ系のイスラーム教徒(ム スリム)が多数を占めるスーダン共和国(北部スーダン) と、アフリカ系(黒人)の諸民族集団から構成され、キ リスト教徒が多い南スーダン共和国という二つの国家に 分裂した。この独立は、同年1月に実施された住民投票 (Referendum)において、南部スーダンの有権者の98% という圧倒的多数が、分離独立を支持したことの結果で ある。住民投票は、スーダン共和国の政権党である国民 会議党(NCP)と反政府組織であるSPLM/SPLAとのあい だで2005年1月9日に調印され、22年間にわたった内戦 に終止符を打った「包括的和平合意」(CPA)の規定に 基づいて実施された。 CPAでは、南部スーダンに民族自決権が認められて おり、6年間の移行期間の最後に、南部が統一された スーダンの枠内にとどまるか、分離独立するかの選択を 問う住民投票が実施されることになっていた。したがっ て、南スーダン共和国の独立は、南部スーダンの人々が 民族自決権を行使した結果である。この権利は、人々が 多大の犠牲を払って22年に渡った内戦を戦いぬいた結果、 勝ち取ったものである。内戦の死者は250万人といわれ ている。また、数百万人が故郷を追われて、難民と国内 避難民となっていた。 1983年に開始され2005年に終結した内戦は、第2次内 戦とよばれている。南部スーダン人の、自らの運命を 自分で決定する権利を求める闘争の歴史はもっと長い。 スーダンは、1899年に開始されたイギリス=エジプトの 共同統治から、1956年に独立した。その前年に、エクア トリア地方のトリットで、植民地政府軍の南部人兵士に よる反乱が発生した。これは第1次内戦の開始を告げた 事件とみなされている。この当時、南部の分離独立運 動は、まだ明確なかたちをとっていなかったが、イギリ ス人に代わってアラブ人に支配されることに対する反発 は強かった。1958年の軍事クーデタで実権を掌握したア ブード政権は、南部に対するイスラーム化とアラビア語 化政策を強圧的に推進し、キリスト教宣教団を追放し、 反乱を武力で弾圧した。こうした状況下で、反政府の感 情は、1960年代前半に南部の分離独立を求める政治・軍 事運動に発展していく。東アフリカに亡命していた指導 者たちによって、「スーダンアフリカ民族主義者同盟」 (SANU)が結成され、国内各地では「アニャニャ」と よばれるゲリラが組織され、武力闘争を展開した。 数十万人の犠牲者を生んだ第1次内戦は、1972年にエ チオピアの首都で調印されたアディスアベバ和平協定に よって終息した。分離独立という目標は達成できなかっ たが、南部は自治政府を獲得したのだった。 内戦集結後の数年間は、北部と南部の関係は良好だっ たが、1970年代末になるとさまざまな問題が露呈してく る。南部自治政府は、財政難のため復興・開発プロジェ クトをいっこうに実施できなかった。当時スーダン大統 領であったヌマイリーは、イスラーム主義政党であるイ スラーム国民戦線(NIF)と手を結ぶことで、権力の強 化を図った。このことは、イスラーム化とアラビア語化 が再び国是となることを意味したので、南部人の同意は 得られなかった。 ヌマイリー政権が推進していた南部における二つの巨 大開発プロジェクト──油田とジョングレイ運河── は、南部人の合意形成なしに進められたので、南部人の 反発は強まった。南部の政治家たちは、石油は南部のも のなので、精油所は南部に建設されるべきだと主張した が、中央政府には認められなかった。ジョングレイ運河 大阪大学大学院 教授 栗本英世

南スーダン共和国の独立の背景と現在の状況...スーダン共和国の南部スーダンは、2011年7月9日に 南スーダン共和国として独立した。初代大統領は、スー

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Page 1: 南スーダン共和国の独立の背景と現在の状況...スーダン共和国の南部スーダンは、2011年7月9日に 南スーダン共和国として独立した。初代大統領は、スー

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南スーダン共和国の独立の背景と現在の状況

地図にみる現代世界

二度のスーダン内戦と南部スーダンの独立

 スーダン共和国の南部スーダンは、2011年7月9日に

南スーダン共和国として独立した。初代大統領は、スー

ダン人民解放運動/スーダン人民解放軍(SPLM/SPLA)

の議長兼最高司令官であり、スーダン共和国の第1副大

統領でもあったサルヴァ・キールである。日本の面積の

約1.7倍の国土に約800万人が居住する、世界でもっとも

新しい国家が誕生したのである。これによって、一つの

国であったスーダンは、アラブ系のイスラーム教徒(ム

スリム)が多数を占めるスーダン共和国(北部スーダン)

と、アフリカ系(黒人)の諸民族集団から構成され、キ

リスト教徒が多い南スーダン共和国という二つの国家に

分裂した。この独立は、同年1月に実施された住民投票

(Referendum)において、南部スーダンの有権者の98%

という圧倒的多数が、分離独立を支持したことの結果で

ある。住民投票は、スーダン共和国の政権党である国民

会議党(NCP)と反政府組織であるSPLM/SPLAとのあい

だで2005年1月9日に調印され、22年間にわたった内戦

に終止符を打った「包括的和平合意」(CPA)の規定に

基づいて実施された。

 CPAでは、南部スーダンに民族自決権が認められて

おり、6年間の移行期間の最後に、南部が統一された

スーダンの枠内にとどまるか、分離独立するかの選択を

問う住民投票が実施されることになっていた。したがっ

て、南スーダン共和国の独立は、南部スーダンの人々が

民族自決権を行使した結果である。この権利は、人々が

多大の犠牲を払って22年に渡った内戦を戦いぬいた結果、

勝ち取ったものである。内戦の死者は250万人といわれ

ている。また、数百万人が故郷を追われて、難民と国内

避難民となっていた。

 1983年に開始され2005年に終結した内戦は、第2次内

戦とよばれている。南部スーダン人の、自らの運命を

自分で決定する権利を求める闘争の歴史はもっと長い。

スーダンは、1899年に開始されたイギリス=エジプトの

共同統治から、1956年に独立した。その前年に、エクア

トリア地方のトリットで、植民地政府軍の南部人兵士に

よる反乱が発生した。これは第1次内戦の開始を告げた

事件とみなされている。この当時、南部の分離独立運

動は、まだ明確なかたちをとっていなかったが、イギリ

ス人に代わってアラブ人に支配されることに対する反発

は強かった。1958年の軍事クーデタで実権を掌握したア

ブード政権は、南部に対するイスラーム化とアラビア語

化政策を強圧的に推進し、キリスト教宣教団を追放し、

反乱を武力で弾圧した。こうした状況下で、反政府の感

情は、1960年代前半に南部の分離独立を求める政治・軍

事運動に発展していく。東アフリカに亡命していた指導

者たちによって、「スーダンアフリカ民族主義者同盟」

(SANU)が結成され、国内各地では「アニャニャ」と

よばれるゲリラが組織され、武力闘争を展開した。

 数十万人の犠牲者を生んだ第1次内戦は、1972年にエ

チオピアの首都で調印されたアディスアベバ和平協定に

よって終息した。分離独立という目標は達成できなかっ

たが、南部は自治政府を獲得したのだった。

 内戦集結後の数年間は、北部と南部の関係は良好だっ

たが、1970年代末になるとさまざまな問題が露呈してく

る。南部自治政府は、財政難のため復興・開発プロジェ

クトをいっこうに実施できなかった。当時スーダン大統

領であったヌマイリーは、イスラーム主義政党であるイ

スラーム国民戦線(NIF)と手を結ぶことで、権力の強

化を図った。このことは、イスラーム化とアラビア語化

が再び国是となることを意味したので、南部人の同意は

得られなかった。

 ヌマイリー政権が推進していた南部における二つの巨

大開発プロジェクト──油田とジョングレイ運河──

は、南部人の合意形成なしに進められたので、南部人の

反発は強まった。南部の政治家たちは、石油は南部のも

のなので、精油所は南部に建設されるべきだと主張した

が、中央政府には認められなかった。ジョングレイ運河

大阪大学大学院 教授 栗 本 英 世

Page 2: 南スーダン共和国の独立の背景と現在の状況...スーダン共和国の南部スーダンは、2011年7月9日に 南スーダン共和国として独立した。初代大統領は、スー

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は、南部スーダンのほぼ中央部、白ナイル川の東側に建

設が進められていた、全長360kmの大運河である。南部

人の視点からは、どちらの開発プロジェクトも、たんに

南部を搾取するためのプロジェクトにすぎなかった。

 こうした状況下で、1970年代から南部人による反政府

武装闘争が散発的に再開されていた。1983年5月17日、

上ナイル地方に駐屯していた政府軍の2個大隊が反乱を

起こした。この反乱は、第2次内戦の起点とされている。

この部隊の将兵は、主として元アニャニャのゲリラから

構成されていた。部隊はエチオピア領内のガンベラに

撤退し、エチオピア政府の支援を得て、スーダン政府軍

の大佐だったジョン・ガランを指導者に据えてSPLM/

SPLAが結成されるに至った。

 1970年代末、ヌマイリー政権は社会主義路線を放棄し、

親米路線に転換した。そのため、内戦当初SPLM/SPLA

は、ソ連をはじめとする東側諸国から支援を受けた。ヌ

マイリー政権は、大衆蜂起によって1985年に崩壊する。

その後、1986年には総選挙によって文民の連立政権が成

立したが、1989年にはNIFと結びついた軍部によるクー

デタが成功し、バシール将軍が実権を掌握する。のちに

NIFはNCPと改称した。この政権が現在まで継続してい

るバシール政権である。

 バシール政権は、反対勢力に苛酷な弾圧を加え権力

基盤を固めるとともに、イスラーム化政策を推進した。

1990年代にはイスラーム主義運動の世界的な中心地とな

り、ビン・ラーディンとアルカイダも庇護した。中国と

マレーシアの援助のもと、内戦の開始以降中断していた

油田開発を推進し、1999年以降は石油の輸出国となった。

反政府勢力を軍事的に殲せん

滅めつ

することを目標に掲げ、内戦

の勝利に向けて全力を注いだ。SPLM/SPLAは、後ろ盾

であったエチオピアの社会主義政権が1991年に崩壊し、

また同年には路線対立を原因として主流派と反主流派に

分裂したため弱体化し、政府軍の攻勢を受けて敗北を重

ね、支配地域のほとんどを失った。態勢を立て直し、攻

勢に転じることができたのは、1995年以降である。

 以上のように、SPLM/SPLAは、国内情勢と国際情勢

が変化するなかで、組織の内部対立や分裂という問題を

抱えながら、22年にわたって内戦を戦い抜いたのだった

(地図1)。

地図1 各武装勢力の支配地域(2002年)

エチオピア

ケニア

中央アフリカ

南ダールフール州

青ナイル州

東エクアトリア州

西コルドファン州

0 200

凡例

スーダン政府軍(GOS)スーダン人民解放軍(SPLA)南スーダン防衛軍(SSDF)南部スーダン解放運動(SSLM)

競合地域コンゴ民主共和国

ジョングレイ州

中央エクアトリア州

西エクアトリア州

レイク州

ワラブ州西バハル

 アルガザル州

ジュバ

ユニティ州

ウガンダ

東エクアトリア州

ケニア

エチオピア

上ナイル州

南コルドファン州

北バハルアルガザル州

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二つのスーダンと近代史

 スーダンの紛争は、アラブ=イスラームの北部とアフ

リカ=キリスト教(および伝統宗教あるいはアニミズム)

の南部との対立であると説明されることが多い。この枠

組みによると、スーダンの紛争は、人種・宗教上の対立

が原因ということになる。この枠組みは、事態を単純化

しすぎている。SPLM/SPLAは、自らをキリスト教徒の

組織と位置づけたことは一度もないし、宗教としてのイ

スラームを否定したこともない。同組織を支持し、内戦

を戦った人々には南部人だけでなく、北部人も含まれて

いた。また単純な二分法的図式は、北部の多様性を無視

している。南部人が民族的に多様であるのと同様、北部

人の民族的構成も多様である。ヌバ人(南コルドファン

州)、フール人(ダールフール地方)、ベジャ人(紅海地方)

など、アラブではない諸民族の人々が多数存在する。こ

れらの民族的少数派(エスニック・マイノリティ)の人々

は、19世紀以降、政治経済的な中心であるハルツームに

根拠を置いた政治・軍事勢力によって搾取し続けられて

きたのである。この状況は、現在のスーダンがエジプト

の影響下にあった1820年代から80年代はじめにかけても、

それに続くマフディー国家の支配下にあった時代も同様

であった(地図2)。1956年の独立後も、少数派の人々

は国民としての正当な扱いを受けてこなかった。彼らは、

南部人と同様、国家体制のなかで「周辺化」された存在

であるといえる。

 さらに、北部のアラブ人も政治経済的には同質ではな

いことに注意しておく必要がある。現在の支配階層の多

数がアラブ人であることは確かだが、彼らはアラブ人全

体のごく一部にすぎない。農民、牧畜民、商人、都市居

住民である多数のアラブ人は、支配体制のなかで中下層

に位置づけられている。

 2003年以降世界の注目を集めるようになったダール

フール紛争も、単純な二分法ではなく複眼的な視点から

捉えられるべきだ。ダールフールは、16世紀に成立した

といわれるダールフール王国(スルタン国)の版図で

あった。フール人を支配階層とし、アラブ系牧畜民が被

支配階層であったこの多民族王国は1916年まで存続して

いた。17、18世紀には、のちに中心になるハルツーム周

辺より繁栄しており、エジプトやアラビア半島と直接外

交関係を結んでいた。スーダンへの併合後、この地域の

政治経済的自律性は失われ、国家のなかで周辺化され

低開発の状態のまま放置されることになった。NCPと

SPLM/SPLAとの和平交渉が本格化していた2003年の段

階で、反政府勢力が武装蜂起した背景には、こうした状

況と、「問題は南部だけではない。私たちのことも忘れ

るな」という主張があったのである。

独立後の課題

 第2次内戦は、南部だけで戦われたのではない。南部

と接する南コルドファン州と青ナイル州、およびエリトリ

ア国境の東部地域も重要な戦線であった。SPLM/SPLA

は、これらの地域を国家の構造のなかで不当に抑圧され

てきた「周辺化」された地域と規定し、南部同様に解放

の対象とみなしてきた。CPAは、SPLM/SPLAが北部の

周辺化された地域の解放を断念し、南部に撤退したとい

う意味あいをもっていた。現在、CPAが積み残した課題が、

地図2 エジプト支配時代のスーダン   1820年代~1883年

エジプト支配下のスーダンは、現在のエリトリアとエチオピア(ア

ビシニア)、およびウガンダの一部を含んでいた。南北スーダンが

政治経済的空間として成立したのはこの時期である。

エジプト

スーダン

アビシニア

ナイル

トアバラ川

ドンゴラベルベル

カサラ

タナ湖

センナール・ゲジラ

ダールフールマッラ山

コルドファン

ヌバ山地

ジャバル・カディール

バハルアルガザル

エクアトリア(赤道州)

ブニョーロ

アルバート湖

ヴィクトリア湖

ルナイ

ナイル

バハルアルジャバル

  (白ナイル川)

バフル・アル・カザール

ソバト川

ワディハルファ

メロエ

サワーキン

ハルトゥームハルトゥーム

エルオベイドファーシル

ゴンドコロ

ファショダ

オムドゥルマン

Page 4: 南スーダン共和国の独立の背景と現在の状況...スーダン共和国の南部スーダンは、2011年7月9日に 南スーダン共和国として独立した。初代大統領は、スー

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武力紛争というかたちをとって噴出している。

 北部の周辺化された地域のなかで、アビエイ地域だけ

は、CPAで民族自決権が認められていた。南部の住民

投票と同時に住民投票が実施され、南部と北部のどちら

に帰属するのか、住民自身が決定すると規定されている。

この住民投票はいまだに実施されておらず、アビエイの

情勢はきわめて不安定で軍事的衝突が発生している。南

コルドファン州と青ナイル州では、NCPとSPLMの勢力

が拮抗しており、前者は2011年5月から、後者は同年9

月以降、実質的な内戦状態にあり、多数の難民が発生し

ている。反政府勢力との和平交渉が継続しているものの

いっこうに進展しないダールフールとあわせて、スーダ

ン共和国の今後が注目される(地図3)。南スーダン共

和国の平和と安定には、スーダン共和国の平和と安定が

不可欠であり、両国のあいだに友好関係が樹立される必

要がある。

 南スーダンの国内に目を転じれば、政治・軍事的な安

定が達成されているとは言い難い。10ある州のうち、と

くに治安が悪いのは、ジョングレイ、上ナイル、ユニティ

の3州である。内戦中、南部人は敵味方に複雑に分断さ

れ、お互いに戦った経緯があり、この傷はいまだに癒さ

れていない(地図1)。自動小銃などで武装している市

民・村人の武装解除も進展していない。また、2010年以

降、現体制に不満を抱くSPLAの将軍たちが反乱を起こ

している。インフラの整備や政府・議会・司法制度の確

立とともに、国民の和解と平和構築が、新生南スーダン

共和国に課せられた課題であるといえる。

地図3 二つのスーダンと「周辺化地域」

国旗の説明:黒は南部スーダンの黒人を、白は平和を、赤は勇敢な戦士の血を、緑は肥沃な土壌を、青はナイル川を、星は 国家の団結を表している。

南スーダン共和国赤赤

緑緑青

黄(The Republic of South Sudan)

基本情報面積:64万km2

人口:826万(2008年)(第5回人口調査)

首都:ジュバ

言語:英語(公用語)、その他

宗教:キリスト教、伝統宗教

識字率:27%

貿易品目 :輸出 原油

      輸入 機械・設備、工業製品、輸送機材、

         小麦・小麦粉

貿易相手国:輸出 中国、アラブ首長国連邦、日本、

         サウジアラビア、インド

      輸入 中国、インド、ルーマニア、

         サウジアラビア、アラブ首長国連邦

通貨:南スーダン・ポンド(SSP)

(外務省HPより)

戦後スーダンの歩み

年月 事項

1956年1月

1972年3月

1983年1月

1989年6月

2003年2月

2005年1月

2008年7月

2011年1月

7月

10月

スーダン共和国独立

第1次内戦(1955年開始)終結

第2次内戦勃発

軍事クーデタによりバシール軍事政権成立

ダールフール紛争勃発

南北包括的和平合意(CPA)に署名

国際刑事裁判所(ICC)よりバシール大統領逮

捕状請求

南部スーダン住民投票実施、独立が決定

南スーダン共和国が分離独立

国連加盟

UNESCO加盟

エリトリア

エチオピア

ケニアウガンダ

コンゴ民主共和国

中央アフリカ

南ダールフール州

西ダールフール州

チャド

北ダールフール州

リビア

エジプト 紅

アビエイ地域

ジュバジュバ

ハルツームハルツーム

青ナイル州 凡例

 油田 パイプライン 州界 国境

0 250km0 250km

南コルドファン州