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Meiji University Title �-�- Author(s) �,Citation �, 24: 263-277 URL http://hdl.handle.net/10291/7595 Rights Issue Date 1987-02-10 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

ボードレールの霊性-詩人の揺籃期- 明治大学大学院紀要 文学 …...シャルル・ボードレールCharles Baudelaireはくその著作の端々で宗教について語っている。そ

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Meiji University

 

Title ボードレールの霊性-詩人の揺籃期-

Author(s) 西山,教行

Citation 明治大学大学院紀要 文学篇, 24: 263-277

URL http://hdl.handle.net/10291/7595

Rights

Issue Date 1987-02-10

Text version publisher

Type Departmental Bulletin Paper

DOI

                           https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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明治大学大学院紀要

第24集(4)1987.2

ボードレールの霊性一詩人の揺藍期一

           ノLA SPIRITUALITE DE BAUDALAIRE

                  s-SUR LE BERCEAU DU POETE一

博士前期課程 仏文学専攻60年入学

      西  山  教  行

    NORIYUKI NISHIYAMA

は じ め に

 シャルル・ボードレールCharles Baudelaireはくその著作の端々で宗教について語っている。そ

してそれに呼応するかのように、多くの研究者たちはさまざまな角度からボードレールの宗教観を論

じてきた。

 拙論の目的は完全に体系化されたボードレールの宗教観を論ずるというよりも、独自の宗教観、霊

性spiritualit6を持つに至る過程を幾分なりとも’明らかにすることである。すなわち、ボードレール

がどのように宗教的知識を獲得し、そこからどのような霊性のもとに生きたのか、という問題を家庭

環境、幼年期、青年期と辿りながら考察してみたい。なお考察の対象は、青年期の1848年2月の二月

革命R6volution de F6vrierまでとする。というのも二月革命の前後、ボrドレールは理想主義的

ロマン主義の系譜を引く民衆派的な文学者、芸術家一ピェール・デュポンPierre Dupont、ギュ

スタ_ヴ.ク_ルベGustave Courbet一などの仲間と親しく交わり、貧しい者や働く者を力づけ

る神の恵みとして葡萄酒を讃えるようになり、宗教的にはキリスト教的社会主義に接近しているよう

だからである1)。さらに又、その三年後にボードレールはエドガー=アラソ・ボーEdgar Allan Poe

と並んで「思考の師」と仰ぐようになるジョゼフ・ド・・メーストルJoseph de Maistreを知り2)・

以降メ_ストルの神学思想の影響を深く受けることになるからである。この二つの理由からも1848年

以降の宗教観は別の問題として考えなくてはならない。

1.幼年期の霊性

 本章では幼年期の霊性を考えるが、幼年期に関する資料そのものが僅かな為、シャルル(以下、実

父フランソワとの混乱を避けるためシャルルと記す)がどのように宗教的知識を得て、霊性を培って

                     一263一

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いったのか、考察は間接的にならざるを得ない。

 そこで家庭環境から類推することになるが、まず実父について、そして母の宗教性について考えて

みたい。以下にまず宗教的側面からみた実父の年譜を載せる≒とにする。

フランソワ・ボードレール年譜(宗教的面を中心に)

1759年 6月8日、ショゼフ=フランソワ・ボードレールJoseph-Frangois Baudelaire、クロー

    ド・ボードレールClaude Baudelaireとマリー=シャルPット・デューMarie Char-

    Iotte Dieuの一人息子として、マルヌ県サント・ムネウルド郡ヌーヴィル=オ=ボン村

    conlmune de la Neuville au Pont, canton de Sainte・Menehould, d6partement de

    ia Marneに生まれる3)。

1760年代~1770年代 隣村のサント・ムネウルド寄宿学校で学ぶ。

1770年代後半~1780年代初頭 成績良好の為、パリのサント・バルブ修道会で学ぶ4)。修辞学を学

    んだ後、哲学、神学を学び、司祭に叙階される。

1783年 この年あたりからサント・バルブ修道会の修辞学の復習教師となる。

1785年 サント・バルブ修道会の校長の推薦で、アシトワーヌ=セザール・ド・ショワズール=プラ

    ラン公爵duc Antoine・C6sar de Choiseul-Praslinの息子たちの家庭教師となる。そこ

    で上流社会の行儀作法などを身につける一方、コンドルセCondorcet、ヵバニスCabanis

    (ミラボーの医師)、エルヴェシウス夫人Mme. Helv6tius(百科全書編纂に協力したエル

    ヴェシウスの妻)といった自由思想家たちと交わる。(家庭教師は1791年まで続く。)

1790年 8月24日、聖職者民事基本法c6nstitution civile du clerge公布。

1791年 5月9日、前年公布された聖職者民事基本法に基づき(それによれば教区の主任司祭は、

    村や区ごとに非カトリック教徒を含む全選挙人によって選ばれ、同様の選挙によって選ば

    れた司教が叙任することになった)、ヌーヴィル=オ=ボン近くのドンマルタン=スウニア

    ンDommartin・sous・Hans教区の主任司祭に選出されるが、「プララソ家に六年も雇われ

    ているので、そこを去ることはできない。」5)と辞退する。

1793年 11月10日、国民公会Conventionは理性崇拝Culte de la Raisonを制定し、全聖職者に

    司祭職の放棄を勧告。

    11月19日、フランソワ司祭職を放棄。

1797年 5月7日、ロザリー・ジャナンRosalie Janinと結婚。

1805年 1月18日、クロード・アルフォンスClaude Alphonse誕生。

1814年 12月、妻ロザリー没。

1819年 9月9日、カロリーヌ・アルシャンボー=デュファィスCaroline Archambaut-Dufays

    と結婚。

1821年 4月9日、シヤルル誕生。

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    6月9日、シャルル受洗。

1827年 2月10日、フランソワ没、67歳。

 さて、フランソワの生涯を年譜形式で概観した上で、フランンソワはシャルルにどのような影響を

及ぼしたかを考察してみよう。

 リュフRuffは『悪の精神とボードレールの美学』L’Esprit du Mal et Pesth6tique baudelair・

ienneにおいて6)、フランソワをジャンセニろムjans6nismeの系譜に位置づけた。その根拠となる

のは次の三点である。

 (1)リュフによれぽ、フランソワが司祭に叙階されたジャロンChalons教区は当時、オートフォ

  ンテーヌHautefontaine大修道院を始めとしてジャンセニスムの勢力が強く、フランソワもそ

  の影響を受けたのではないか。

 (2)フランソワが復習教師となったサソト・バルブ学院(神学校)もやはりジャソセニスムの中心

  地だったらしい。というのも1730年にはジャンセニスム問題に関して教師と生徒の間で争いがあ

  り、ジャンセニスムを奉じた生徒側に凱歌が挙がった。リュフによれぽ、1780年頃には、その思

  潮も和らいだようだが、それでも「ジャンセニスムのウイルスの強靱さを思えば、当局の力で学

  院からそれが取り除かれたとは信じ難い。」従ってフランソワもその影響を被ったのではないか。

 (3)フランソワの死後、オートブイユ町の住居を調べた者の詳細に亘る調査によれぽ、その住居は

  「室内が厳格であるとは言わないまでも簡素」であり、その簡素さは、フランソワの内にまだ若

  き日のジャンセニスムの厳格さが残っていたことを証しているように思われる。

   さらにフランソワの蔵書については、プルタルク、ヴォルテール、モンテスキュー、ルソー、

  クレヴィヨン、ラ・プリュイエール、モリエール、ラブレー、そして百科全書、宗教に関連のあ

  るものはスイスの神学者思想家ラヴァテールLavaterの著作が報告されているが、シャルルが

  1852年に手にしたアントワーヌ・アルトーAntoine Artaudの『幾何学綱要』Nouveaux 61・

  6mens de g60m6trieも、報告されなかったものの、その蔵書中にあったのではなかろうか。

 リュフがフランソワをジャンセニストと推定する根拠をまとめると以上のようになるが、この説は

必らずしも説得力がある訳ではない。

 まず第一点の叙階された教区とジャンセニスムの関連だが、ピショワPichoisの言うように7)、仮

りにジャンセニスムの強い教区で叙階されたにせよ、それは必らずしもジャンセニストになると限ら

ないように思われる。その上ジーグレールZieglerの調査によれば8)、司祭に叙階されたのはシャロ

ン教区ではなくて、サント・バルブ修道会においてらしい。叙階の日時場所を記す資料が現存しない

以上推論の域はでないが、リュフの見解に従うのは困難である。

 第二点については、たとえ1730年にサソト・バルブでジャンセニスムの宣言があったにせよ、フラ

ンソワが復習教師をした1783年から1785年に至っても、ジャンセニスムの影響が残存していたと考え

られるだろうか。かなり疑わしく思われる上に、そこからさらにフランソワがジャンセニスムの影響

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をうけたとは信じ難い。

 第三点のオートブイユ町の住居については、室内調度品の簡素さを直ちにジャンセニスムの厳格さ

と結びつけることにすら疑問があるのに加えて、リュフが根拠としている調査報告と異なった印象の

報告書が、ピショワによって報告されている9)。それによれぽ、その住居において「いくつかの宝石、

男性用、女性用のうまく据えつけられた衣装戸棚、そしてかなりたくさんあるランジェリーは、ゆと

りある暮らしをしている立派なブルジョワ家庭の住居を完全なものとしている。」と報告されており、

この報告の方がシャルルの「少年時代一ルイ16世時代の古い家具、古美術品……」10)という回想と

も一致するのではなかろうか。

 この他にもフランソワがジャンセニストではないと考えられる要素はいくつかある。

 まず第一にコンドルセ、カバニス、エルヴェシウス夫人といった自由思想家たちとの交際である。

このことは詩人の死後、友人アスリノーAsselineauの求めに応じて詩人の電オーピッ’ク夫人Mme.

Aupickが最初に報告した。

 ボードレールさんは、あらゆる点で繊細であると同時に、貴族的な物腰で、とても気品のある

人でした。ショワズルさん、コンドルセさん、カバニスさん、それにエルヴェティウス夫人と親

しく暮らしていた、というのは驚くべきことではありませんか。彼はプララン公の子供たちの家

庭教師だった頃、プララン家でエリートの世界を知ったのです。11)(拙訳)

 リュフはこの手紙が1868年に書かれたことから、多くの誤ちを犯し、不完全なものと考え、これら

自由思想家たちとの交際に否定的見解をもっているが、この手紙の内容が正確であることは、ピショ

ワの調査により明らかになった12)。すなわち、(1)カパニスからフランソワへ宛てた手紙(1801年7月

18日)、(2)コンドルセ死去の際の記録中に、コンドルセの友人としてフランソワの名前が挙げられて

いること、(3)コンドルセの死後、フランソワがコンドルセ夫人の世話をしたという記録があること、

以上の三点からもフランソワが自由思想家たちと交際していたことは確かだと思われる。

 従ってリュフの主張するように、フランソワをジャンセニストと推定することは非常に困難であ

る。フランソワが司祭だったことを発見したリュフの功績は高く評価すぺきだが、フランソワ=ジャ

ソセニストという見解は、明らかに教条主義的批評の欠陥を露呈している。

 では、一体フランソワはどのような人物で、どのような宗教的影響を及ぼしたと考えれぽよいだろ

うか。略歴からは、時代の流れに敏感で、保身の術にも長けた人物といった印象をうける。時代の流

れに対する敏感さは、主任司祭に任命されたのを辞退することにもみられる。主任司祭として小教区

を司牧することは、聖職者の大事な勤めだが、それを辞退する背景には時代の趨勢とともに、経済的

理由も反映していると思われる。というのもフランソワは家庭教師の年間手当として4,000フランも

らっていたのに対し、主任司祭の平均年収はその半分強の2,400フランだったのである13)。おそらく

ブルジョワ生活に慣れ親しんだフランソワにとって、主任司祭職は経済的に言えぽ魅力のあるものと

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は思えなかったろう。

 もっとも辞退の理由は経済面だけではなく、時代の流れとの関係であったかもしれない。1789年8

月4日には教会の経済的社会的権威に対する処置がなされ、教会は今までの大幅な特権と収入を失な

い、同年11月の教会全財産国有化、同90年2月の修道会強制世俗化、5月聖職者民事基本法といった

具合に教会は解体の危機に瀕していった14)。フランソワがこのような時代の動向の中、主任司祭の地

位とプララン家の家庭教師の地位を較ぺ、後者を選ぶことのうちには、今までの地位、身分、経済性

を考慮し、安全な道を選ぶ姿が感じられる。

 さらに、フランソワの時代の流れに対する判断を如実にあらわしているのは、司祭職放棄という出

来事においてである。当時の社会では、フランソワに限らず、多くの司祭が司祭職を放棄し、むしろ

司祭職の放棄勧告を拒否した者が、三万人の宣誓司祭(憲法に対し忠誠を誓った司祭)のうちわずか

六分の一にすぎなかったほどである。大多数の者はフランソワも含めて屈服し、かなりの司祭が結婚

した15)。恐怖政治の中でのこの判断は、1791年以降プララン家から年金をもらっているフランソワに

とって、自分に嫌疑がかからない為にも是非必要であったろうし、又こうした公然たる行為を代償に

安全を買おうとしたのだと言えよう。

 この後フランソワが宗教に関わった形跡はみられない。プララン家復興の後、その世話でリュクサ

ンプルク宮殿とその公園の管理人という肩書きで経理の仕事に携わり、そしてその後元老院事務局長

となり、引退後は画家として余生をすごすことになる。

 さてフランソワは司祭職を放棄することで信仰をも放棄したのか、それとも形式的には棄教をし、

心の内では信仰の火を保ち続けたのか、この点は謎のままである。しかし、少なくともシャルル自身

「僕は司祭の息子だ」とか、「僕のおやじは赤い帽子(註、1791年の最も急進的な革命家がかぶった帽

子)をかぶる前はスータン(註、聖職者の首からかかとまでの長い服で、普通は黒)を着ていたんだ」

と証言していることから16)、実父が司祭だったことは宗教を受け入れる土壌の形成の一助にはなって

いるだろう。それ以上にフランソワがシャルルに及ぼした影響は、美術教育においてみられるかもし

れないが、それは又別箇の研究課題として捉える必要がある17)。

 次にシャルルの母カロリーヌの宗教性について考えてみよう。多くの研究者はカロリーヌが信心深

い人だったと主張しており、これについては疑いをさしはさむ余地はないようだ。

 例えぽ、後年カロリーヌはオンフルールHonfleurに引き籠ってから、指導司祭のカルディヌ師

abb6 Cardineに対し実に従順な姿勢を示しているが、このこともカロリーヌの信心深さの証しとな

るであろう。その従順さは次のようなエピソードによく現われている。シャルルは1861年にカルディ

ヌ師を喜ぽせようと思い、『悪の華』Les Fleurs du Mal第二版を送ったところ、カルディヌ師は

その「反カトリック的内容」に激怒したのだろうか、母カロリ」ヌに詩集を燃やすようにと忠言し、

それを聞いたカロリーヌは、シャルルに手紙を書き意見をした。おそらく彼女は、指導司祭に対する

従順のあまりそのような手紙を送ったのだろう。しかしシャルルにとっては「お母さんはいつも群衆

と一緒になって僕に石を投げるそなえがある」18)ように思えただろうし、カルディヌ師に関しては、

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「僕の本が一個のカトリック的な考えから出発していることさえ、理解しなかった。」19)と批判してい

る。

 この他にもカロリーヌの信心深さを示す手紙が残っている。詩人の没後、第三版の許可を願いでる

アスリノーへの返信において、彼女は次のように述ぺている。

 お聞き下さい。長い間眠れずに『悪の華』のことをよく考え、丹念に思いを巡らした結果、あ

なたに「聖ペトロの否認」Le Reniement de Saint Pierreと題する作品の削除を御願いいたし

ます。私はキリスト教徒として、その再版をさせることはできませんし、させてはなりません。

(中略)

 「聖ペトロの否認」に続く二作品(註、「アベルとカイン」Abel et Cainと「悪魔連薦」Les

l量tanies du Satanのこと)もあまりキリスト教的ではありません。ですが、私はその二篇がお

びただしい想像力の産物、激昂した不幸な詩人の戯言とみなされるのではないかと幻想を抱いて

いるのかもしれません。一方「否認」の方は、はっきりいって不敬虚であり、(註、逆の意味で

の)信仰宣言なのです20)。(拙訳)

 この手紙は、彼女が信心深く、素朴な信仰の持ち主だったことを窺わせるに充分である。

 以上の点を総合し、シャルルの幼年期の宗教的環境をふりかえってみよう。元司祭の父、信心深い

母にかこまれて育つ中で、シャルルは自然と素朴な信仰を受け入れていったように思える。時には家

族でシャルルが受洗したサン・シャルピス教会Eglise de Saint・Sulpiceのミサに与ることがあった

だろう。

 何れにせよ、まだ素朴な形ではあるが、後年「地上で興味あるものは宗教しかない。」21)とまで断言

するに至る土壌の一端は、幼年期の家庭で形成されたと考えてよいだろう。

II.青少年期の霊性

 本章ではシャルルの青年期の手紙を手がかりに、青年期の宗教観、霊性を考えてみたい。

 1839年、既に初聖体premiさre communionを七年前に済ませたシャルルは22)、義父のオービック

大佐Colonel Aupickに個人的に宗教教育を受けたい旨の手紙を出す。1839年2月26日の日付を持

つ手紙で、シャルルは、フェンシングや乗馬を習うかわりに家庭教師をつけてもらいたいとオービッ

ク大佐に頼んでいる。

 ところで僕は家庭教師に、いわゆる授業についてゆく為の手助けを求めているのではなくて、

僕が求めているのは、哲学を増やしてもらうことであり、授業ではやらないこと、つまりその勉

強が大学のプログラムに入っていない宗教、それに「美学」ないしは芸術哲学で、それは僕たち

の先生がきっと教える時間のないようなものなのなのです。23)(拙訳)

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 このようにシャルルは、学校では行なわれていない宗教と美学を家庭教師から習いたいと伝えてい

るが、この文面は当時の状況を遺憾無く反映している。

 『十九世紀のリセとコレージュの日常生活』La vie quotidienne dans les lyc6es et collさges au

XIXさsiさcleという本を著したジェルポGerbodに拠れば、十九世紀初頭以来、リセやコレージュ

は無神論ath6isme、自由思想libre pens6e、反教権主義anticlericalismeといった反宗教的思想

の巣窟であり24)、1820年から30年にかけては、ルイ・ル・グラソ中学においても反教権主義の影響は

色濃くみられた25)。

 例えぽ、1824年にルイ・ル・グラン中学の校長だったラボリーLaborieは次の記録を残している。

 ごく僅かな善良な者は、嘲笑と大多数のものからの迫害に身を守るために信心を隠さなけれぽ

ならない。聖職者についての実に不敬凄な話がされ、聖なる場所に対して如何なる敬意も表さ

ず、そこで恐ろしい罪が行なわれている。私は生徒たちの間を支配している自由思想の精神にぞ

っとした26)。

 このような反教権主義的風潮は、1832年ルイ・ル・グラン中学で復活祭に聖体拝領をした生徒数、

489人中25人という数字にもあらわれている。

 それでもシャルルが前述の手紙を書いた1839年頃は、以前より少しは反教権主義も和らぎ、宗教の

地位は向上し、ルイ・ル・グラン中学でも復活祭に聖体拝領をした生徒数は100人中39人と増加して

いる。1840年に、同校校長のピエロPierrotは幾許かの不信仰者の外に、少数だが、その信仰が正統

的で勇気のある者がいると報告している27)。

 シャルルがこの時期どちらのグループに属していたか、決定的な資料はないが、おそらく信仰に対

して好意的態度を持っていたことは、宗教的知識を獲得したいと望んでいたことから推察される。

 さて前述の手紙は次のように続いている。

 宗教の教義的部分についてはというと、それが今年の始めから僕を悩ましているものなので

す。最近僕は、自分が何を知っているのかを検討して、考えてみました。あらゆる点で実に多く

のことを知っているのですが、暖昧で、混乱し、秩序を欠き、互いに損ねあい、明晰なもの、明

瞭なもの、体系的なものが一つもなく、結局のところ何も知らないことになりますが、それでも

これから僕は一人享ちすることになるのです。ですから僕は、実に確固たる知識を背負って行か

なくてはならないのです。かなり有益な書物を原典で読めるようにする言葉(註、シャルルは上

級ギリシア語を学びたいと述ぺている)と、哲学や宗教のとても大切な勉強以上に、僕は今のと

ころ何を望みましょうか。」28)(拙訳)

シャルルは義父に対しこのように宗教的知識の必要を訴え、神学の手ほどきのための家庭教師を望

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む。そして「かなりすぐれた若い先生で、最近高等師範を出て、ルイ・ル・グラソ中学で名の通った

ラゼーグさんLasさgue」を家庭教師にと提案している。その希望は、ルイ・ル・グラン中学を教師

に対する反抗の為、放校されて二か月後、すなわち1839年6月にはかなうが、それ以降の書簡ではラ

ゼーグ氏に対する不平不満は述べてあるものの、肝心の神学の手ほどきについては一言も触れていな

い。実際、後に神経精神科医になるラゼーグ氏が神学の手ほどきをしたのかどうか、極めてあやし

い。

 また、ラゼーグ氏のもとに身を寄せて勉強する傍ら、当時王党派カトリックの中で著名だったテオ

女史C61este Th60tともシャルルは交際があり、たびたび食事などに招かれたようだが29)、そこで

彼女から体系的な宗教知識をさずかった様子もみられない。

 さて前述の手紙中、とりわけ興味深い点は、神学を「明晰で、明瞭かつ体系的なもの」、思考に秩

序を与えるものと考えていた点である。現代では神学は「キリスト教の真理による教義や信仰生活の

倫理を組織的に研究する学問」(広辞苑)などと定義されるが、十九世紀前半ではいささか事情が異

なっていたようだ。

 『歴史を通じての信仰用語』Langage de la foi a travers l’histoireを著したジェルマンGermain

によれば30)、十八世紀初頭から十九世紀、二十世紀にわたり’、カトリックめ護教家たちは、キリスト

教内部の対立と、歴史的科学的批判に直面し、弁神論th60dic6eめ立場に立ち、論戦をはったよう

だ。

 弁神論とは、『神の慈愛と人間の自由、悪の起源についての弁神論』Essai de Th60dic6 sur Ia

bont6 de Dieu, la libert6 de l’homme et I’origine du Malを著わしたライプニッツLeipniz

(1646年一1716年)の造語で、悪の存在に対する神の愛と正義を弁論する神学的立場で、次のような

主張をした。

 神は最善の選択に基づいて宇宙を創造されたのに、何故世界には悪が絶えないのか。悪を分類する

と、物理的悪(苦痛、貧困)、道徳的悪(罪)に分けられるが、それらは被造物自身の不完全性に根ざ

すものであり、何れも形而上学的悪(不完全)の問題に帰着する。不完全性の悪は、例えぽ暗さや冷

たさが光や熱の欠如であるように、有限な稼造物には避け難い完全性の欠如から生ずるものである。

しかし悪を個々の現象からではなく、全体との関連で考えてみれば、かえって全体の完全性に寄与し

ていると考えられるし、従って全体が最善であるための不可欠な要素であると考えられる31)。

 このように弁神論という神学は、神の啓示とある程度一致する体系であるものの、救済史における

神秘的体験や、教会の典礼、秘跡による救済の神秘を顧慮するこ.とが少ない、極めて形而上学的とも

いえる神学である。

 しかし、シャルルの時代の思潮となった弁神論は必らずしもライプニッツの意味したような弁神論

ではなかった。弁神論が再び脚光を浴びるのは、王制復古下に衰退の道を辿っていた哲学が、七月王

政(1830年)下で学科として認められてからであった。当時弁神論は、論理学、心理学、倫理学、古

代哲学史、近代哲学史と共に学科としての哲学の一翼を成していた32)。この弁神論の復興に寄与した

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のは、講壇哲学者クーザンVictor Cousin(1792年一1867年)である。十九世紀ラルースによれぽ、

それまで形而上学と混同されていた「神とその属性を論ずる哲学」はクーザンが弁神論と命名’するこ

とにより・公式の哲学となり・学科の一Hセこ組み入妨れ誇来は「摂理に関する学」を鰍し・神

学の一分野にすぎなかったものが、「神についての学」、すなわち「神学」th6010gieを意味するよう

になった。

 このように当時の「神学」は、キリスト教の教義や倫理を研究する学問という以上に、はるかに哲

学的で、「明晰かつ明瞭、体系的」なもので、思考に秩序を与えるものだった。それに加えて、反教権

主義が比較的強い思潮となつていた中学校では、学科とし・ての弁神論ぽ、信仰に訴える宗教的なもの

というよりも、思弁的にならざるを得なかったろう。

 従って前述の手紙に現われているシャルルの宗教観は、キリスト教的というよりも、むしろ哲学的

思弁的傾向を示しているにせよ、そのことは弁神論を背景とすることで、いわば時代状況に適ったも

のであることが了解される。                  』

 さてこの弁神論的背景に加えて、シャルルの宗教的知識あ基盤をなすものがもう一つあると思われ

る。すなわち公教要理cath6chismeである。当時代表的な公教要理は《ボズ瓦エBossuetの『モ

ー教区公教要理』Cath6chisme de diocさse de Meauxと、フェレFellerの『哲学的公教要理』

Cath6chisme philosophiqueだったようで33)、後者は題名それ自体が当時の風潮を表わしているよ

うに思える。                         ・          ,

 現段階ではシャルルがどの公教要理を用いたかを確定することはできない。しかし当時の公教要理

全般に通ずる傾向を検討することにより、シャルルの学んだ公教要理がおよそどのようなものであっ

だか推測することは許されよう。    幽・ ’『 ”

 ジェルマンは、当時の公教要理に与えられている信仰の定義を概観した上で、次のように述べてい

るb

 信仰に関する指導書が与える定義の中で、’一つとしてイェズス・キリストのペルソナに言及し

ていないのはどういうことだろう。さまざまな真理と義務を強調している公教要理は、充分にキ

リスト教的だろうか。それはキリスト教をなにがしかの宗教体系と同一視するこどに寄与してい

ないだろうか。すなわち信心、実践、儀礼、世界の説明法、道徳の基礎といった宗教体系に34)。

 このように当時は公教要理において、イエズス・キリストのペルソナが弱めら航、‘ないしは欠如し

ているのが実情だったようだ。シャルルはこの影響を深く被ったようである。というのも、後年キリ

スト教神学を語るにあたっても、イエズス・’ギリストに言及したものはほどんどといってもよいほど

稀れだからである。                1

 以上の点から青少年期におけるシャルルの宗教観をふり返ってみると、現代ではいささか奇妙にみ

えるその哲学的宗教観も、極めて穏当なものに思える。しかしそれは時代に適っていたもめであると

                    一271-’

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同時に、後年の過激ともいえる宗教観を生むに至るプロセスとして、又神学を哲学的に捉えていくた

めにも必要なものだったのではなかろうか。

III.作  品  へ

 我々は、1、fiで幼年期および青少年期のシャルルの宗教的環境、宗教観をみてきたが、これらは

作品にどのように反映しているだろうか。本章では作品との関わりにおいて、シャルルの宗教観がど

のように表現されているかを考察することにする。

 さて初期詩篇PO6sies de jeunesseを読んでみると、いくつか宗教的題材が織り込まれているこ

とに気づく。

鐘楼が揺れ動いて声を限りに歌いつつ、

朝から村じゅうを目覚めさせている問、

誰も彼も、始まろうとするお祈りを唱和すべく、

老いも若きも、綺羅を飾って、出かけて行く時。

(中略)

こういう、快活で率直な、田園の信心というものが、

一悲しくも甘味な思い出となって一あなたに

かつては日曜を愛したと思い起させはしなかっただろうか35)。(阿部良雄訳)

 1840年頃に書かれた「小曲」Sonnetと題するこの詩では、「愛しい姉」である「あなた」が日曜

日、ミサに与るために教会へ行った思い出として、「快活で率直な、田園の信心」が語られている。

伝記的に考証すれぽ、シャルルの義姉、すなわち異母兄アルフォンスの妻アンヌ=フェリシテAnne-

F61icit6の思い出を歌った詩となるが、そこまで伝記的に解釈せずとも、シャルル自身の思い出と重

ねて考えたい。かつて、母に手をひかれ、「綺羅を飾って/お祈りを唱和すべく/出かけて行った」

日曜日の教会で、シャルルは「快活で率直な、田園の信心」を養ったのだろうか。

 しかしいざ宗教用語となると、たとえシャルルの信仰が素朴なものであるにせよ、後年言葉に対す

る厳密さを自任する詩人の態度の萌芽か、宗教的表現の恋愛への転用を非難している。

貞潔な語のいくつか、それをわれわれは皆濱し用いる。

お香を愛する者たちは奇妹な濫用をしでかす。

どこやらの天使を崇めていないような奴にお目にかかったことがない、

〈天国〉の天使たちもあまり羨みはせぬと思われる天使を。

この崇高で甘味なる名を、貸し与えるぺきではない。

                  -272一

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                  こ こ ろ純潔で、稼れも混じり物もない、立派な心情をもつ者にしか36)。(阿部良雄訳)

 1840年12月31日、異母兄アルフォンスに宛てた手紙に「お年玉」代りと書きこんで送ったこの詩で

は、宗教的表現である「天使」angeを宗教の文脈ではなく、恋愛の文脈において恋人を表わすため

に用いることに対し非難していることが読みとれる。このことは、シャルルがまだ素朴で従順な信仰

を持っており、「稼れも混じり物もない」心情の持ち主だったことを窺わせはしないだろうか。旧友

のイニャールHignardは、この頃シャルルが「昔と同じように親切で寛大であり」、単に「とても

美しい青年」になっただけでなく、「真面目で、勉強家で、信心深い」ように思えたと語っている37)。

 この時期に制作された他の作品では、教会へ出かける信心深い光景ではなく、祈りが直接歌われて

いるものもある。

悲しいかな! 誰か嘆かなかった者があろう、他人を、われとわが身を?

神にこう言わなかった者があろう一「赦したまえ、〈主〉よ、

        なんびと誰も私を愛さず、何人も私の愛するところではないにしても。

彼ら皆私を堕落させてしまった。御身を愛する者は誰もいない!」と?38)(阿部良雄訳)

 稚拙なレトリックが目立つ詩句だが、「御身を愛する者は誰もいない!]と神に祈り、赦しを請う

ているところをみると、たとえその祈りが〈主〉に対してであり、層イエズス・キリストに対してでは

ないにせよ、いわぽシャルルの信仰のあらわれと考えられよう。イエズス・キリストのペルソナが欠

けていることは、既に述ぺたように、時代の影響を受けた証左であるにせよ、この祈りで特色をなし

                        なんびとているのは次の点である。すなわち「誰も私を愛さず、何人も私の愛するところではない」と自己を

全き孤独の中に位置づけ嘆いていることである。この孤独感は1840年頃から生じたものではなく、

「1830年以後リヨンの中学校、先生や朋友たちと打ち合い、喧嘩。重い憂欝症。」39)とシャルル自身記

しているように、子供の頃からのものだったようだ。そしてこの孤独感は後年になっても拭い去るこ

とはできなかった。

幼時からすでに私の中にあった孤独の感情。家庭のうちにあっても一とりわけ、友人のなかに

いるとき一永久に孤独な運命の感情40)。

 孤独はシャルルの内的生命、霊性の糧となり、その中で次第に「深淵の方へ駆り立てられ」41)、神秘

を好むようになったとみえる。1847年に発表された『ラ・ファンファルロ』La Fanfarloにおいて、

シャルルのアルテル・エゴalter egoであるサミュエルは、神秘家への関心を洩らしている。

そこで、今日プ巨チノスPlotinとかポルフェリオスPorphyreとかの神秘家たちの頁を四苦八

一 273 一

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苦して判読しているかと思うと、……42)

彼は心を決めて二本の蝋燭を吹き消した。その一本はなおスェーデンボルグSwedenborg・の書

物の上に震え……43)              、

 しかし神秘に対する関心は、必らずしも青年期になって生じた訳ではない。「子供の頃からの神秘

に対する私の愛好。私が神とかわした対話。」44)と述ぺているように、シャルルの内には子供の頃から

神秘を好む傾向はあった。それが具体的な場で描かれているのは「天職」Les Vocationsと題する

散文詩においてである。この詩に登場する四人の少年は、何れもシャルルのアルテル・エゴだと思わ

れるが、中でも二番目の少年の姿は少年シャルルの神秘体験を彷彿させる。

『見て御覧よ、あそこを見て御覧一…! 君たちにあれが見える? ひとりぼらちのあの小さな

雲の上に坐っているよ、ほらそっと進んで来るあの燃えるような色をした小さな雲のさ。あれの

方でも、きにと僕等を眺めているんだろうね。』

『一体誰のことさ?』と他の連中が訊いた。

『神さま!』と完全に確信に充ちた声音で、その少年が答えた。『ああ、もう随分遠くへ行った。

もうじき君たちには見えなくなるよ。きっと旅行をしているんだ、世界中の国を訪ねて廻るんだ

ね。「ほら{あの地平線すれすれの、並木になった樹のうしろのところへ行く……、’ほらもう鐘突

台の向うに下りて行った……。ああ、もう見えなくなった!』そして少年は長いこと、同じ方向

に首を向けたまま、天と地とを引き離す地平線の上に、悦惚と残り惜しさとの、一種言いようの

ない表情の輝いている両眼を、いつまでも据えていた45)。

 この少年の胱惚ともいうぺき観想体験、霊的体験が、シャルルの少年時代めそれと同じものだbた

とは断定できないが、少なくともシャルル自身の類似した体験に基づいているように思われる。そし

て「小さな雲の上に坐っている」「神さま」が「僕等を眺めている」と確信するとき、シャルルの孤独

感は慰められ、渇きは癒されたのではないだろうか。

 さて最後に、シャルルの内なる霊性から見た外界の問題を考えてみよう6シャルルの青少年期は、

政治的には七月王政(1830年~1848年)の時期に相当し、圏大ブルジゴアが支配的地位を占め始めた頃

だ。

 r1846年のザロン』Salon d61846の「ロマン主義とは何か」を論ずる件で、最近の混乱、すなわ

ちユゴーHtigoの史劇墜『城主たち』Burgravesの失敗とポンザールPonsardの擬古典主義的悲劇

rリュクレース』Lucrさceの成功という1843年の二大事件に引き続く混乱46)と関連してカ1トリシスム

を次のように述べている。

一274一

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ある人たちはただ主題の選択にのみ意をそそいだ。彼らはその主題に合う気質を持っていなかっ

た。一またある人たちはまだカトリック社会を信じて、カトリシスムをその作品に反映させよ

うとつとめた47)。

 この件からは、カトリシスムが衰退を辿り、既に過去のものとなってしまったとシャルルは考えて

いるという印象を受ける。実際その通りで、シャルルはこの時代を端的に「信仰を失なった現代」48)

と判断している。

 ではシャルルはこの「信仰を失なった現代」において、どのような霊性のもとに生きていたのだろ

うか。『ラ。・ファンファルロ』の次の一節はそれを解く鍵となる。

彼(サミュエル)はかつて熱狂的な信心家であったごとく、今は情熱的な無神論者であった49)。

 ピショワはプレイヤード版の註で、「おそらく話し相手が無神論者であれぽあるほど、彼は信心家

となり、又その逆でもあったろう。」50)と述ぺているが、上の一節もそのように解したい。「信心家」

と「無神論者」の同居、実に奇妙な現象のように思えるが、シャルルにしてみれば、これも又現代人

が忘れた「自己矛盾する権利」51)に他ならないのではなかろうか。そしてさらにそれは後年展開され

る「二重人」homo duplexの観念を先取りしているともいえようし、又信仰の世界に挙ける「現代

性」modernit6のあらわれとも考えられよう。

結びとして

 以上のように拙論では、ボードレールの霊性を、家庭における宗教的環境、幼年期、青年期と辿り、

作品にその霊性がどのように反映しているかを考察し、信仰の形成過程を論じてきた。そして素朴な

信仰が次第に時代に沿ったものへと移行していることが明らかになった。まだ後年の原罪論、犠牲論

といった独特な神学を形成するに至っていないものの、その哲学的宗教観の基礎は学校での宗教教

育、哲学教育を通じて大いに形成されたと思われる。

 ボードレールの独特な神学の解釈という複雑多岐にわたる問題は残されたままだが、それらは今後

Q研究課題として考えていきたい。、

     r ’        ’  -      ,  -   ’   ,                   ・ ’

                使用テクスト

C.Baudelaire:Oeuvres complさtes, Bibl. de la Pl6iade,2vo1. C. Pichois,1975-1976.

      :Correspondance, Bibl. de la P16iade,2vo1, C. Pichois,1973.

 なお、プレイヤード版全集はPLと,プレイヤード版書簡集についてはCPLと略号を角い、’本文中の引用は

特に但し書きのないものについては『ボードレール全集1-N』(人文書院)に従った。

                    〔註〕

1) C.Baudelaire:工es Fleurs du Mal, A. Adam。 Garnier 1961, p.400.

                   -275一

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2)1851年にメーストルを知ったらしいということは、アスリノーの伝記にみられる(Baudelaire et Asse

 lineau, comment6s par J. Cr6pet et C, Pichois, Nizet 1953, cf. p.174)。さらに詳しい考証については

 PL II, p.1105, note 7を参照。

3)家系はこれ以上遡れず、両親は息子を学校へ行かせる余裕のあったところから、小作人ないしはゆとりの

 ある小地主と考えられる。cf. Eugさne et Jacques Cr6pet:Charles Baudelaire,1906, rpt. Slatkine Re・

 prints 1980, p.2.

4)サント・バルブ修道会communaut6 de Sainte Barbeはcoll色geともs6minaireとも言われている処

 から、当時多かった教育修道会ではないかと思われる。

5) Marcel A. Ruff:L’Esprit du Mal et 1’esthさtique baudelairienne,1955 rpt. Slatkine Reprints

 1972,p.143.

6)  ibid., p,143-144.

7) Claude Pichois:Le pさre de Baudelaire fut-il jans6niste ?in Revue d’Histoire Litt6raire de Ia

 Frence,1957. Oct-D6c. p.565.

8) .Jean Ziegler:Frangois Baudelaire, peintre et alnateur d’art, in Gazette des Beaux-Arts 1979.

 Mars, p.110.

9)

10)

11)

12)

13)

Pichois, op. cit,, p.566.

PLIp.789.「履歴ノート」

Cr6Pet, op. cit., p.260.

Pichois, op. cit., p.566-567.

B.ド・ソーヴィニー、上智大学中世思想研究所訳:『キリスト教史7、啓蒙と革命の時代』講談社、1981

年、P.261.

14)

15)

16)

17)

ibid., p.260-262.

ibid., p.275-272.

Cr6pet, oP. cit., P.3.

「少年時代一ルイ16世時代の古い家具・古美術品。総督政治、パステル、十八世紀社会」(PLI. p. 784)イrr一ジa

「絵画彫刻への礼拝を覚えること(私の大きな、唯一の、はじめからの情熱)」(PLI. p.701)これらは、シ

ャルルが子供の頃、実父に手をひかれてリュクサンプール公園の彫像を一つ一つ説明してもらったり、フラ

ソソワが自分の絵を家に飾りシャルルに美術教育をほどこしたのではないかと思わせる。なおその詳細につ

いては、前述のZieglerの論文及びJean Adh6mar:L’6ducation artistique de Baudelaire faite par

son pさre, in Gazette des Beaux.Arts.1979. Mars参照。

殉ゆ鋤⑳吻劾⑳紛劾吻鋤勘

CPL II, p.141.

ibid., p.141.

Cr6Pet op. cit., p.268-269.

PLI, p.696.『赤裸の心』

シャルルは1832年8月にリヨンで初聖体を済ませた。cf.1832年8月6日アルフォソス宛手紙(CPL L b.9)

CPL I, P.67.

P.Gerbod:La vie quotidienne dans les lyc6es et collさges au XIXe siさcle, Hachette 1968. p.64.

ibid., p.226-227

ibid., p.226-227.

ibid., p.227.

CPL I, p. 67-68.

cf. CPL 1, p,71.1839年6月10日(?)にオービック夫人へ宛てた手紙でテオ女史の家を訪問した様子を

 書いている。

30) E,Germain:Langage de la foi a travers 1’histoire Fayard・Mame 1972. p.134

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31) cf.万有百科事典4、哲学・宗教、平凡社、1974年「弁神論」の稿。

32) Gerbod op. cit., p.131.

33) E.Germain:2000 ans d’6ducation de Ia foi Desc16e 1983, p.127.

34) E.Germain:Langage de la foi註travers I’histoire, p.179.

35) PLI, p.202.

36)ibid., p. 202.但し最終行「私だってまだ、どこかの不しだら女を抱きたい、/僕の天使よと呼びかける

 ために、一二枚の純白なシーツの間で」(阿部良雄訳)という件では、宗教的表現の恋愛への転用を非難す

 る一方で、シャルル自身女性への憧憬を露骨に表現していることが読みとれる。これも又素直な心のあらわ

 れではなかろうか。

37)  ibid., p.1229.

38) ibid., p.201.

39)ibid., p. 784,「履歴ノート」

40)ibid., p.680.『赤裸の心』

41) ibid., p.207.

42) ibid., p.554.

43) ibid., p.554.

44) ibid., p.706.『赤裸の心』

45)  ibid., p.332-333.

46) cf. PL II, p.1296 note 1.

47) ibid., p.420.

48)ibid., p.435.『1846年のサロソ』

49) PLI, p.555.

50) ibid., p.1419,

51) PL II, p.306.「エドガー・ボー、その生涯と作品」

一277一