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- 建築装飾にみる金工技法 4. 金工芸術の精華 − 名古屋城本丸御殿・二条城二の丸御殿・百工比照 1 注釈 1. 名古屋城本丸御殿の飾金具については久保智康氏の詳細な研究がある。(久保智康「名古 屋城本丸御殿の飾金具−障壁画に付属する引手の分析を中心に− 」『懐古国宝名古屋城』名 古屋城振興協会平成 12 年刊所収他) (1)名古屋城本丸御殿 名古屋城は、徳川政権の西国に対する前衛として、徳川家康によって築城さ れた。堀や石垣の土木工事は慶長 15 年(1610)に行われ、西国の外様大名 20 名に助 すけやく 役を命じたいわゆる 「 天下普請 」 であった。一方、建築工事は、慶長 16 年から幕府の直轄工事として行われ、御 だい がしら には天下一を意味する 「 一朝惣 棟梁 」 の称号を得ていた中井大和守正清が命ぜられた。本丸御殿は慶長 17 年頃 に着工し、慶長 19 年末には完成したようで、翌 20 年 2 月には藩主義直が本丸 御殿に移っている。 この慶長創建期の本丸御殿の平面構成は、敷地の南東隅から西北隅にかけて、 御遠侍・御広間・御対面所・御料理之間など儀礼的・公的空間の 「 表 」 から、 藩主の日常の場である 「 中奥 」 を経て、正・側室の住む 「 奥 」 へと、三つの区 域が雁 がんこう 行状 じょう に続いていた。 ところが、元和 3 年(1617)11 月に二ノ丸御殿が完成し、同 6 年には義直が ここに移って以後、二ノ丸御殿は通称「御城」と呼ばれて尾張藩の政庁となり、 かわって本丸御殿は、同時期に計画された京都の二条城や大坂城と同様に、将 軍が上洛する際の宿殿として用いられるようになった。そして、寛永11年(1634) 7月の三代将軍家光の上洛をひかえ、将軍宿殿機能としては不要になった中奥・ 奥部分を解体撤去し、対面所の西に梅之間から御 なり しょ いん (上洛殿)・上 かみ ぜん しょ 黒木書院・湯殿書院等を新築して、将軍宿殿として本格的に整備された。この 御成書院の造営において、障壁画を担当したのが狩 のう うね (後の探 たんゆう 幽)と狩野 もくすけ 助、欄間彫刻を担当したのが尾張藩御大工頭沢田庄左衛門と平 へいの うち まさのぶ 信である。 以上のとおり、名古屋城本丸御殿は徳川幕府の最高の技術で造営された御殿 建築の傑作で、しかも慶長期と寛永期の両方の様式を備えている点に特徴があ る。不幸にして戦災焼失したが、障壁画・天井画 1049 面が残り、さらに昭和初 期には全体から細部にいたる膨大なガラス乾板写真が撮影され、正確な実測図 も作成された。 錺金具については、襖に取り付けられた引手が多数現存し、また焼失した長 なげ 釘隠や、帳 ちょうだい 台構 がまえ や棚の錺金具、および格 ごうてん 天井 じょう の格 ごうぶち 縁を飾る辻金物についても、細部 まで鮮明に写った古写真や拓本によって、その全容を具体的に知ることができる。 まず、引手金具は慶長期のものが3種、寛永期のものが7種ある 1) 。慶長期の 対面所廻りもの〔図 4-1〕と寛永期の御成書院(上洛殿)のもの〔図 4-2〕を比 較すると、単に前者より後者が精緻で華やかな意匠であるのみならず、前者が縁 ふち の花 はな つぶみ もん や手掛りの七 しっぽう 宝繋 つなぎ もん および唐 からはな 花菱 ひしもん 紋が鏨 たがね の勢いに任せてかなり自由に描 かれているのに対して、後者は縁座の地模様である細密な七宝繋紋も手掛りの七宝 繋紋も正確で全く乱れていない。この慶長期と寛永期の作風の変化は、狩野派一門 の手になる障壁画の画風の変化とも共通する、時代の好みといえる。また寛永期の 引手には、この御成書院の引手のほかに、上御膳所東廊下境の杉戸の引手においても、 青色・緑色の七宝が施されている。従来の金銅に墨を差した金と黒の2色の世界から、 七宝技法を付加することによって、さらに色彩豊かで華麗な世界へと進展している。 図 4-1 名古屋城本丸御殿対面所襖引手 慶長 19 年(1614) 名古屋城管理事務所蔵 図 4-2 名古屋城本丸御殿御成書院 ( 上洛殿 ) 襖引手 寛永 11 年(1634) 名古屋城管理事務所蔵

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錺 -建築装飾にみる金工技法4. 金工芸術の精華 − 名古屋城本丸御殿・二条城二の丸御殿・百工比照

1

注釈

1. 名古屋城本丸御殿の飾金具については久保智康氏の詳細な研究がある。(久保智康 「名古

屋城本丸御殿の飾金具−障壁画に付属する引手の分析を中心に− 」『懐古国宝名古屋城』名

古屋城振興協会平成 12 年刊所収他)

(1) 名古屋城本丸御殿

 名古屋城は、徳川政権の西国に対する前衛として、徳川家康によって築城さ

れた。堀や石垣の土木工事は慶長 15 年(1610)に行われ、西国の外様大名 20

名に助すけやく

役を命じたいわゆる 「 天下普請 」 であった。一方、建築工事は、慶長 16

年から幕府の直轄工事として行われ、御お

大だい

工く

頭がしら

には天下一を意味する 「 一朝惣

棟梁 」 の称号を得ていた中井大和守正清が命ぜられた。本丸御殿は慶長 17 年頃

に着工し、慶長 19 年末には完成したようで、翌 20 年 2 月には藩主義直が本丸

御殿に移っている。

 この慶長創建期の本丸御殿の平面構成は、敷地の南東隅から西北隅にかけて、

御遠侍・御広間・御対面所・御料理之間など儀礼的・公的空間の 「 表 」 から、

藩主の日常の場である 「 中奥 」 を経て、正・側室の住む 「 奥 」 へと、三つの区

域が雁がんこう

行状じょう

に続いていた。

 ところが、元和 3 年(1617)11 月に二ノ丸御殿が完成し、同 6 年には義直が

ここに移って以後、二ノ丸御殿は通称「御城」と呼ばれて尾張藩の政庁となり、

かわって本丸御殿は、同時期に計画された京都の二条城や大坂城と同様に、将

軍が上洛する際の宿殿として用いられるようになった。そして、寛永11年(1634)

7 月の三代将軍家光の上洛をひかえ、将軍宿殿機能としては不要になった中奥・

奥部分を解体撤去し、対面所の西に梅之間から御お

成なり

書しょ

院いん

(上洛殿)・上かみ

御ご

膳ぜん

所しょ

黒木書院・湯殿書院等を新築して、将軍宿殿として本格的に整備された。この

御成書院の造営において、障壁画を担当したのが狩か

野のう

采うね

女め

(後の探たんゆう

幽)と狩野

杢もくすけ

助、欄間彫刻を担当したのが尾張藩御大工頭沢田庄左衛門と平へいの

内うち

正まさのぶ

信である。

 以上のとおり、名古屋城本丸御殿は徳川幕府の最高の技術で造営された御殿

建築の傑作で、しかも慶長期と寛永期の両方の様式を備えている点に特徴があ

る。不幸にして戦災焼失したが、障壁画・天井画 1049 面が残り、さらに昭和初

期には全体から細部にいたる膨大なガラス乾板写真が撮影され、正確な実測図

も作成された。

 錺金具については、襖に取り付けられた引手が多数現存し、また焼失した長なげ

押し

釘隠や、帳ちょうだい

台構がまえ

や棚の錺金具、および格ごうてん

天井じょう

の格ごうぶち

縁を飾る辻金物についても、細部

まで鮮明に写った古写真や拓本によって、その全容を具体的に知ることができる。

まず、引手金具は慶長期のものが3種、寛永期のものが7種ある1)。慶長期の

対面所廻りもの〔図 4-1〕と寛永期の御成書院(上洛殿)のもの〔図 4-2〕を比

較すると、単に前者より後者が精緻で華やかな意匠であるのみならず、前者が縁ふち

座ざ

の花はな

蕾つぶみ

紋もん

や手掛りの七しっぽう

宝 繋つなぎ

紋もん

および唐からはな

花菱ひしもん

紋が鏨たがね

の勢いに任せてかなり自由に描

かれているのに対して、後者は縁座の地模様である細密な七宝繋紋も手掛りの七宝

繋紋も正確で全く乱れていない。この慶長期と寛永期の作風の変化は、狩野派一門

の手になる障壁画の画風の変化とも共通する、時代の好みといえる。また寛永期の

引手には、この御成書院の引手のほかに、上御膳所東廊下境の杉戸の引手においても、

青色・緑色の七宝が施されている。従来の金銅に墨を差した金と黒の2色の世界から、

七宝技法を付加することによって、さらに色彩豊かで華麗な世界へと進展している。

図 4-1名古屋城本丸御殿対面所襖引手慶長 19 年(1614)名古屋城管理事務所蔵

図 4-2名古屋城本丸御殿御成書院 (上洛殿 )襖引手 寛永 11 年(1634)名古屋城管理事務所蔵

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錺 -建築装飾にみる金工技法4. 金工芸術の精華 − 名古屋城本丸御殿・二条城二の丸御殿・百工比照

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 寛永期における、華やかな意匠であると同時に極めて精緻で技巧的な錺金具

は、御成書院の長押や帳台構の大型錺金具において頂点に達する。長押の錺金

具は、菊あるいは桔き

梗きょう

の花束を熨のし

斗紙がみ

で括り、熨斗紙の中には「唐獅子に牡丹」

〔図 4-3〕あるいは「葡ぶ

萄どう

に栗りす

鼠」、および紗さや

綾形がた

や七宝繋紋を配したもので、

帳台構の錺金具は、「 桐に鳳ほうおう

凰 」 の中に三つ葉葵紋を散らしたものである〔図

4-4〕。これらには、一般的に見られる 「 毛彫り 」 や 「 蹴り彫り 」 の線刻、地文

様の 「 魚ななこ

々子蒔ま

き 」 に加えて、縁取り部の唐草に 「 点線彫り 」、模様の背景を

一段低くした 「 鋤彫り 」、菊や桔梗の 「 透かし彫り 」、獅子・栗鼠・鳳凰部分

を裏から打ち出した 「 肉彫り 」、三つ葉葵紋の 「 七宝 」 など、ほとんどすべ

ての彫金技法(「3.技を刻む —錺金具の製作技法」参照)が駆使されており、

とりわけ栗鼠や鳳凰の毛並みの流れるような毛彫り線に、細部に対するこだ

わりの極致を見ることができる〔図 4-5〕。

図 4-3 名古屋城本丸御殿御成書院 ( 上洛殿 ) 長押錺金具 ( 古写真 ) 寛永 11 年(1634)

図 4-4 名古屋城本丸御殿御成書院 ( 上洛殿 ) 帳台構錺金具 ( 古写真 ) 寛永 11 年(1634)

図 4-5 名古屋城本丸御殿御成書院 ( 上洛殿 ) 帳台構錺金具 ( 拓本 ) 寛永 11 年(1634) 名古屋城管理事務所蔵

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錺 -建築装飾にみる金工技法4. 金工芸術の精華 − 名古屋城本丸御殿・二条城二の丸御殿・百工比照

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(2)二条城二の丸御殿

 二条城は、徳川家康が洛中における宿館として造営したことに端を発する。

まず、慶長6年(1601)に築城を開始し、慶長8年2月に征夷大将軍の宣下を

受けた家康が、翌3月に二条城において盛儀を挙行している。その後、二代将

軍秀忠の娘和子の入内の準備として、元和 5 年(1619)に和子の宿館となる御

殿が造営された。この時期の二条城は、現在の二の丸を中心とする一郭であっ

たが、さらに寛永元年(1624)から同3年にかけて、後水尾天皇の行幸を迎え

るために、西側に城域を拡張して本丸を設け、従来の城域は二の丸として整備し、

その南半に行幸御殿を造営した。現存する二の丸御殿は、遠侍・式台・大広間・

黒書院・蘇鉄の間・白書院が、東南から西北にかけて、雁行状に連なっているが、

柱や梁および小屋組等の構造体は慶長創建期をほぼ踏襲しているものの、間仕

切や内装は寛永期の改造によって整えられたと考えられている。すなわち、内

装類の製作年代は、名古屋城本丸御殿の慶長期と寛永期のほぼ中間に位置する

わけである。

 錺金具は、名古屋城本丸御殿と同様に、襖の引手、長押の釘隠、帳台構や棚

の錺金具、および格天井の辻金物などである。

遠侍勅使の間の襖の引手は、木もっこう

瓜形の縁座の上下左右の四方をそれぞれ帯で

括くく

って、その中に三つ葉葵紋と唐草を配し、手掛りは七宝 繁つなぎ

紋の中に三つ葉

葵あおい

紋を納めている〔図 4-6〕。縁座については、同類の意匠が大覚寺正寝殿お

よび辰しんでん

殿(旧東福門院御所、元和5年)にも見え、技巧的にはより精緻になっ

ているが、意匠そのものは元和期を継承しているといえる。

図 4-6 二条城二の丸御殿遠侍勅使の間襖引手 寛永 3 年(1626) 京都市元離宮二条城事務所蔵

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錺 -建築装飾にみる金工技法4. 金工芸術の精華 − 名古屋城本丸御殿・二条城二の丸御殿・百工比照

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 二条城二の丸御殿においても、その豪華さに目を奪われるのが、大広間と黒

書院の長押や帳台構の大型錺金具である。長押の錺金具は、牡丹の花束を熨斗

紙で括り、熨斗紙の中には「桐に鳳凰」〔図 4-7〕、熨斗の折り目や土どは

坡には植

物紋や紗さや

綾形がた

・七しっぽう

宝 繋つなぎ

紋を配しているが、大広間では土坡の植物紋を除い

てほとんど意匠に変化がないのに対して、黒書院では熨斗紙下段右側の雲

形内の紋様や山形の耳の三つ葉葵紋の背景の幾何学紋などが個々の錺金具

において意匠が異なっており、明らかな作風の違いが認められる2)。帳台構

の錺金具は、出八双の中央に三つ葉葵紋を据え、その周囲を紗綾形で埋め

て、端部に 「 桐に鳳凰 」 を配したものである〔図 4-8〕。いずれも名古屋城本

丸御殿御成書院の錺金具と同様に、ほとんどすべての彫金技法を駆使した豪華

なものであるが、両者を比較すると8年先行する二条城二の丸御殿の表現が平

面的で硬いといえる。なお、黒書院の帳台構および違棚には三つ葉葵紋の地に

緑青色の七宝を施した金具が打たれているが、これが七宝技法をもちいた建築

錺金具における制作年代の確かなものの初見で、以後、寛永 11 年の名古屋城

本丸御殿の錺金具、寛永 13 年造替の日光東照宮本社および坂下門の錺金具〔図

4-9〕と続き、建築錺金具における七宝技法が急速に進展していく。

注釈

2. 二条城二の丸御殿の花熨斗形釘隠について久保智康氏は、黒書院と大広間における意匠表

現の相違を根拠として、前者を慶長期、後者を寛永期とみなしている。(久保智康 「二条

城二の丸御殿の花熨斗形釘 隠 」『国華』1301 号 平成 16 年)

図 4-7 二条城二の丸御殿大広間長押錺金具 寛永 3 年(1626)

図 4-8 二条城二の丸御殿黒書院帳台構錺金具 寛永 3 年(1626)

図 4-9 日光東照宮坂下門錺金具 寛永 13 年(1636)

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錺 -建築装飾にみる金工技法4. 金工芸術の精華 − 名古屋城本丸御殿・二条城二の丸御殿・百工比照

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(3)百工比照

 百工比照は、加賀藩5代藩主前まえ

田だ

綱つなのり

紀が、工芸全般にわたる資料を収集・整

理したもので、延宝から元禄年間にかけて綱紀自身が収集したものを主体とし、

さらに綱紀没後に収集されたものが加わっている。

 錺金具は、釘隠・引手・つまみ・高欄の擬ぎぼし

宝珠・格天井の辻金物などからなり、

承応元年(1652)造営の小松城葭あしじま

嶋の遠州座敷(数寄屋)に使用されていた錺

金具なども含まれている。名古屋城本丸御殿や二条城二の丸御殿の豪華絢けんらん

爛た

る錺金具の系統とは趣が異なり、桂離宮に代表される数寄屋風書院(綺麗座敷)

の洗練された錺金具の系統に属しながらも、技巧性と意匠性の極致を見ること

ができる。

 その代表的なものをあげると、まず 「 小松葭嶋遠州御座敷襖障子引手 」 の

札紙が付された真ま

向むき

兎うさぎ

の引手がある〔図 4-10〕。この原型は小堀遠州が寛永 2

年に造営した伏見奉行屋敷の奥小座敷茶立所勝手にあり〔図 4-11〕、承応元

年に加賀藩御大工渡辺伊右衛門を江戸からの帰国の節に遠州指図の数寄屋を

写させたことが『三み

壺つぼ

記き

』(『加賀藩史料』所収)によって確認できる。この

遠州好みの意匠は、後に襖引手のみならず釘隠(さらには家紋)としても流

行し、類例を全国的に見出すことができる〔図 4-14〕。

 百工比照には、主要錺金具を図示し、その仕様を詳細に記した『引手釘隠等

之絵形』(以下絵形と略す)も収録されており、上記真向兎の引手には 「 小松

葭嶋遠州御座敷引手、惣地銅ニ金メッキ、底金スリハガシ、ケホリ、ナヽコ有

」 と記されている。

図 4-10 『百工比照』第三号箱第二架第三重 「小松葭嶋遠州御座敷襖障子引手」 承応元年(1652) 前田育徳会所蔵 図 4-11 伏見奉行屋敷釘隠襖引手図

中井正知氏所蔵

図 4-14 柴田家仏壇釘隠 柴田禎二氏所蔵

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錺 -建築装飾にみる金工技法4. 金工芸術の精華 − 名古屋城本丸御殿・二条城二の丸御殿・百工比照

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 次に 「 小松葭嶋遠州御座敷二階(御亭)天井金物 」 の札紙が付された格天井辻金

物〔図 4-12〕は、絵形によると 「惣地鈴、カラクサホリ上ゲ、イノメスカシ、中ノ鳥、

惣地赤銅金マキツケ、一部スリハカシ、但、ホリ物ニ、ケホリ有、中ノ花、壱ツハ金メッ

キ、壱ツハ銀メッキ 」と記されている。

 また 「 小松寺作御書院仏壇高欄擬宝珠 」 の札紙が付された擬宝珠〔図 4-13〕

は、絵形によると本体から頭部の切きり

子こ

および獅子まですべて地金は鉄で紋様が

金きんぞうがん

象嵌となっている。

以上のほか、寿じゅ

帯たい

鳥ちょう

の釘隠や七宝技法を多用した鳥籠・虫籠・花籠の釘隠〔図

4-15〕など、華麗な意匠の錺金具も多数収録されており、札紙がなく使用建

物が不明ながら、小松城葭嶋や江戸屋敷の数寄屋風書院を飾っていたと思わ

れる。 図 4-12 『百工比照』第五号箱第五抽斗 「小松葭嶋遠州御座敷二階御亭天井金物」 承応元年(1652) 前田育徳会所蔵

図 4-13 『百工比照』第八号箱第一架 「小松寺作御書院仏壇高欄擬宝珠」 承応元年(1652) 前田育徳会所蔵

図 4-15 『百工比照』第六号箱第二十抽斗釘隠 前田育徳会所蔵