13
1. はじめに フタル酸エステルは、素材ポリマーの柔軟性を増して壊れにくくする可塑剤として、日常生活用品に幅広く使用 されています。近年、人体への有害性が懸念されることから、その使用にはある程度の制限がかけられてい ます。しかし、フタル酸エステルは、素材ポリマー自体と化学結合していないために、生活環境中に容易に放 出され、直接接触したり食品や飲料水に混入したりするために、内分泌かく乱物質である疑いが強く、近年使 用規制の動きが強まっております。 世界的には数種類のフタル酸エステルの使用が厳しく規制されています。アメリカ (2) 、カナダ、EUおよび日本 のほか、多くの国が一般消費者向けの製品にフタル酸エステルを使用することを禁止したり、その濃度を監視 する法律を設けています。アメリカでは、プラスチック製の子供用玩具や育児用品に対し、3種のフタル酸エス テル(DEHPDBPおよびBBP)の含有濃度を0.1%以下とする規制が議会を通過しました。また、子供用玩具 のうち子供が口にする可能性のあるものについては、DINPDIDPおよびDNOPの使用を暫定的に規制して います (3,4) フタル酸エステルの抽出には幾つかの手法がありますが、多くの場合、溶媒を使用した抽出法がとられていま す。抽出後、各フタル酸エステルはGCまたはHPLCなどを使用して分離分析が行われます。しかし、従来から 行われているこれらの手法は、試料調製に煩雑な操作を伴い、かなりの時間とコストを要します。さらに、フタ ル酸エステルを定量的に抽出することは困難であり、定量精度・定量確度ともに、必ずしも満足できる結果が 得られるものではありません。これに対し、熱脱着法(TD)は、簡便な操作で測定が可能であり、かつ高い精 度・確度でフタル酸エステルの定量分析が可能な手段で、フロンティア・ラボの研究開発陣が開発に携わりま した。 TD法は、ポリマー分子鎖間の空間を、フタル酸エステルなどの添加剤の小さな分子が、濃度の高い領域から 低い領域に移動する拡散を利用した手法です。添加剤分子が拡散速度に影響を与える主な因子は、温度と 拡散係数です。素材ポリマーの温度を上昇させると、素材表面に存在する添加剤分子が揮発するため、素材 ポリマー内に濃度勾配が生じます。さらに、温度の上昇により添加剤分子の拡散速度が増大します。これらの 二つの因子により、ポリマー表層面の分子濃度が上昇し、TD法が可能となります。 揮発したフタル酸エステルはGC/MSによって分析されます。この場合、各フタル酸エステルは保持時間と特徴 的なフラグメントイオンを用いたピーク面積により定性されます。 フタル酸エステル 省略形 CAS No. BBP 85-68-7 Bis(2-ethylhexyl) phthalate DEHP 117-81-7 Di-n-octyl phthalate DNOP 117-84-0 Diisononyl phthalate DINP 68515-48-0 * Diisodecyl phthalate DIDP 26761-49-1* 1. 6種類の規制対象フタル酸エステル * DINP および DIDPは異性体の混合物です。これらの混合物は複数の ピークとして検出されますので、全てのピーク面積値の合算が必要です。 熱脱着GC/MS法(ASTM D7823-13(1) を用いたフタル酸エステル分析のノウハウ フロンティア・ラボ株式会社 1 Benzyl butyl phthalate Dibuthyl Phathalate DBP 84-74-2

GC/MS法(ASTM D7823- (1)を用いたフタル酸エス …...%RSD = 1.15 (n=4) DEHP: %RSD = 4.79 (n=4) DEHP DEHP DINCH DINCH 3 4. EGA-MS 法を用いた熱脱着条件の検討 発生ガス分析(

  • Upload
    others

  • View
    2

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: GC/MS法(ASTM D7823- (1)を用いたフタル酸エス …...%RSD = 1.15 (n=4) DEHP: %RSD = 4.79 (n=4) DEHP DEHP DINCH DINCH 3 4. EGA-MS 法を用いた熱脱着条件の検討 発生ガス分析(

1. はじめに

フタル酸エステルは、素材ポリマーの柔軟性を増して壊れにくくする可塑剤として、日常生活用品に幅広く使用

されています。近年、人体への有害性が懸念されることから、その使用にはある程度の制限がかけられてい

ます。しかし、フタル酸エステルは、素材ポリマー自体と化学結合していないために、生活環境中に容易に放

出され、直接接触したり食品や飲料水に混入したりするために、内分泌かく乱物質である疑いが強く、近年使

用規制の動きが強まっております。

世界的には数種類のフタル酸エステルの使用が厳しく規制されています。アメリカ(2)、カナダ、EUおよび日本のほか、多くの国が一般消費者向けの製品にフタル酸エステルを使用することを禁止したり、その濃度を監視

する法律を設けています。アメリカでは、プラスチック製の子供用玩具や育児用品に対し、3種のフタル酸エステル(DEHP、DBPおよびBBP)の含有濃度を0.1%以下とする規制が議会を通過しました。また、子供用玩具のうち子供が口にする可能性のあるものについては、DINP、DIDPおよびDNOPの使用を暫定的に規制しています(3,4)。

フタル酸エステルの抽出には幾つかの手法がありますが、多くの場合、溶媒を使用した抽出法がとられていま

す。抽出後、各フタル酸エステルはGCまたはHPLCなどを使用して分離分析が行われます。しかし、従来から行われているこれらの手法は、試料調製に煩雑な操作を伴い、かなりの時間とコストを要します。さらに、フタ

ル酸エステルを定量的に抽出することは困難であり、定量精度・定量確度ともに、必ずしも満足できる結果が

得られるものではありません。これに対し、熱脱着法(TD)は、簡便な操作で測定が可能であり、かつ高い精度・確度でフタル酸エステルの定量分析が可能な手段で、フロンティア・ラボの研究開発陣が開発に携わりま

した。

TD法は、ポリマー分子鎖間の空間を、フタル酸エステルなどの添加剤の小さな分子が、濃度の高い領域から低い領域に移動する拡散を利用した手法です。添加剤分子が拡散速度に影響を与える主な因子は、温度と

拡散係数です。素材ポリマーの温度を上昇させると、素材表面に存在する添加剤分子が揮発するため、素材

ポリマー内に濃度勾配が生じます。さらに、温度の上昇により添加剤分子の拡散速度が増大します。これらの

二つの因子により、ポリマー表層面の分子濃度が上昇し、TD法が可能となります。

揮発したフタル酸エステルはGC/MSによって分析されます。この場合、各フタル酸エステルは保持時間と特徴的なフラグメントイオンを用いたピーク面積により定性されます。

フタル酸エステル 省略形 CAS No.

BBP 85-68-7

Bis(2-ethylhexyl) phthalate DEHP 117-81-7

Di-n-octyl phthalate DNOP 117-84-0

Diisononyl phthalate DINP 68515-48-0 *

Diisodecyl phthalate DIDP 26761-49-1*

表1. 6種類の規制対象フタル酸エステル

* DINP および DIDPは異性体の混合物です。これらの混合物は複数のピークとして検出されますので、全てのピーク面積値の合算が必要です。

熱脱着GC/MS法(ASTM D7823-13)(1)を用いたフタル酸エステル分析のノウハウ フロンティア・ラボ株式会社

1

Benzyl butyl phthalate

Dibuthyl Phathalate DBP 84-74-2

Page 2: GC/MS法(ASTM D7823- (1)を用いたフタル酸エス …...%RSD = 1.15 (n=4) DEHP: %RSD = 4.79 (n=4) DEHP DEHP DINCH DINCH 3 4. EGA-MS 法を用いた熱脱着条件の検討 発生ガス分析(

2

2. ASTM D7823の概要 ASTM D7823は、ポリ塩化ビニル(PVC)中の6種の規制フタル酸エステルの定量分析法です。この分析法は、熱脱着(TD)法を用いて、PVCからフタル酸エステルを熱脱着し、GC/MSに導入して分離分析を行う方法です。有機溶媒の使用量は、1検体あたり10mL程度と少量で、簡便な試料調整により分析が可能です。また、この分析法の中で用いられている標準添加法は、数十パーセントもの高濃度で含まれる規制対象外可塑剤の影響をほとんど受けない、最も確度の高い定量値が得られる分析法です。

ASTM D7823はPVCに含まれる6種類のフタル酸エステルについてのみ記述されていますが、様々なポリマー中のその他のフタル酸エステルの分析にも容易に拡張することができます(“9. ASTM D7823の適用範囲の拡張” 参照)。 3. 試料調製 ASTM D7823はポリマーからフタル酸エステルを熱脱着することを基本としています。秤量した素材ポリマーをテトラヒドロフラン(THF)などの溶媒に溶解させ既知濃度の溶液を調整し、その一定量をマイクロシリンジで試料カップに採取後、溶媒を揮発させて試料カップ内に薄膜を形成させる「薄膜法」が望ましいとされていますが、その後の検討により、素材ポリマーを溶媒に溶解せず個体のまま分析する「直接法」によっても、正確なデータが得られることが分かりました。

注釈 1:

分析の精度・確度は、次の3つの因子に大きく影響されます。 (1) 試料の均一性 (2) 化学天秤の性能 (3) ガラス器具(メスフラスコやシリンジなど)とその操作の精度・確度

試料の均一性は、試料を粉砕して、ふるいにかけるか、試料全体を溶媒に溶かすことで得られます。

図 1. ASTM D7823で定められた試料調整法

粉状化※

TD-GC/MS 分析

薄膜法

溶媒(mL)

蒸発 試料 (µL)

mg/mL mg

直接法

試料カップ

試料カップ

試料

一部を採取

※ カッターナイフなどで 薄くカット (例 : 0.5 mm 以下)

Page 3: GC/MS法(ASTM D7823- (1)を用いたフタル酸エス …...%RSD = 1.15 (n=4) DEHP: %RSD = 4.79 (n=4) DEHP DEHP DINCH DINCH 3 4. EGA-MS 法を用いた熱脱着条件の検討 発生ガス分析(

図 2. 各試料調整法による定量結果の再現性の比較

試料:プラスチック玩具(基材ポリマー:PVC 、主な可塑剤:DINCH) 0.5 mg (a)薄膜法:THF溶液 20 µL (b)直接法:パウダー (45 メッシュ以下)

薄膜法及び直接法を用いた時の分析精度を図2に示します。直接法は薄膜法と比較して試料が不均一であるため、繰り返し分析の再現性はやや低くなります。

(a) 薄膜法

10 15 20 min 10 15 20 min

(b) 直接法

DEHP: %RSD = 1.15 (n=4)

DEHP: %RSD = 4.79 (n=4)

DEHP DEHP

DINCH DINCH

3

Page 4: GC/MS法(ASTM D7823- (1)を用いたフタル酸エス …...%RSD = 1.15 (n=4) DEHP: %RSD = 4.79 (n=4) DEHP DEHP DINCH DINCH 3 4. EGA-MS 法を用いた熱脱着条件の検討 発生ガス分析(

4. EGA-MS法を用いた熱脱着条件の検討

発生ガス分析(Evolved Gas Analysis: EGA)-MS法(5,6)はフタル酸エステルの熱脱着ゾーンを決めるために

用います。この方法はGC注入口出口とMS間を、不活性化金属キャピラリーチューブ(EGAチューブ)で直結し、フロンティア・ラボ製の多機能パイロライザー(EGA/PY-3030DまたはPY-2020iD)を用いて試料の昇温加熱過程で発生するガスを、リアルタイムでモニターする分析法です。試料温度に対してMSのトータルイオン強度をプロットしたものはEGAサーモグラムといいます。

ポリ塩化ビニル(PVC)のEGAサーモグラムを図3に示します。フタル酸エステルの共通の特徴的なイオンである、149(m/z)のマスフラグメントグラムを使用して、フタル酸エステルが揮発する過程を観測することができます。フタル酸エステルは100ºCから320ºCの温度領域で揮発していることが分かります。また、この例では、規制対象外の可塑剤であるジエチルヘキシルアジペート(DOA)もフタル酸エステルと同程度の温度領域で揮発していることも分かります。フタル酸エステルを定性・定量するためには、このDOAの妨害に留意する必要があります。

図 3. ポリ塩化ビニル(PVC) のEGAサーモグラム

試料:PVCシート (可塑剤としてDOAを含有)

2 4 6 8 10 12 14 16 18 20 22 24 26 28 30 min

200 300 400 500 700˚C 600 100 DOA (Ion 129)

フタル酸エステル (Ion 149)

HCL (Ion 36)

DOA / フタル酸エステル PVC

熱脱着ゾーン

2 4 6 8 10 12 14 16 18 20 22 24 26 28

2 4 6 8 10 12 14 16 18 20 22 24 26 28

2 4 6 8 10 12 14 16 18 20 22 24 26 28

500000 100 200 300 m/z

129

57 147 111 83 241 259 341 185

100 200

36

55 129 149 78 m/z

DOA / HCL 芳香族

100 200 300 m/z

91 115 165 141 67

4

Page 5: GC/MS法(ASTM D7823- (1)を用いたフタル酸エス …...%RSD = 1.15 (n=4) DEHP: %RSD = 4.79 (n=4) DEHP DEHP DINCH DINCH 3 4. EGA-MS 法を用いた熱脱着条件の検討 発生ガス分析(

5. 従来法(溶媒抽出法) に対する熱脱着法の優位性

多くの分析手法は、試料調製、標準試料を使用した分析装置の性能確認と校正、分析、データ処理の4つのステップから構成されます。

実際に試料を扱うのは主に試料調製時で、このステップでのエラーが分析結果に最も大きな影響を及ぼしま

す。エラーの原因としては、(1)不適当な部分からの試料採取、(2)ガラス器具、試薬および溶媒などによる試料の汚染、(3)基本的な試料調製手順からの逸脱の3点が考えられます。また、試料調製はもっともコストがかかる工程です。そのため、できるだけ試料調整は簡易な手順で行われることが望まれます。試料調整の簡

略化により、生産性が向上すると同時に、データ信頼性も向上します。

また、熱脱着法が従来の溶媒抽出法より優れている点の一つに、試料から熱脱着された成分のみが分離カラ

ムに導入される点があります。ASTM D7823で定められた熱脱着条件の最高温度である320ºCでは、何れのポリマーも殆ど分解しないため、ポリマーは試料カップに残り、GCに導入されません。そのため、システムの汚染が少なく、カラムの空焼きやシステムのクリーニングに費やす時間を最小に抑えられることから、生産性

の向上に貢献します。

6. 装置および分析条件 熱脱着装置 : 多機能パイロライザー(EGA/PY-3030DまたはPY-2020iD、フロンティア・ラボ製) 熱脱着温度 : 100 – 320ºC(20ºC/min) Py ITF : 320ºC(オートモード) GC注入口温度 : 300ºC GCオーブン温度 : 80ºC(1 min保持) - 200ºC(50ºC/min) - 350ºC(15ºC/min, 2 min 保持) 分離カラム : Ultra ALLOY+-5 (5%ジフェニル95%ジメチルポリシロキサン、長さ 30 m、内径 0.25 mm、膜厚 0.25 µm) キャリヤーガス : ヘリウム カラム流量 : 1.2 mL/min スプリット比 : 1/20 スキャン範囲 : 29-600(m/z) スキャン速度 : ca. 3 scans/sec MS ITF温度 : 300ºC イオン化法 : EI イオン源温度 : 230ºC 試料量 : 約 200 μg.

5

Page 6: GC/MS法(ASTM D7823- (1)を用いたフタル酸エス …...%RSD = 1.15 (n=4) DEHP: %RSD = 4.79 (n=4) DEHP DEHP DINCH DINCH 3 4. EGA-MS 法を用いた熱脱着条件の検討 発生ガス分析(

7. 定性分析と分析精度の評価

試料を「3. 試料調整」の手順に従い調製し、試料カップに採取します。試料カップは加熱炉に導入され、指定された熱脱着条件により加熱されます。熱脱着され揮発したフタル酸エステルは、順次分離カラムへ導入されま

すが、GCオーブンの初期温度は各フタル酸エステルの沸点よりも十分低い80ºCに設定されているために、分離カラムの入り口付近で冷却トラップされることで濃縮されます。

6種の規制されたフタル酸エステルを含むPVC(規制対象外の可塑剤であるDINCHを含有)をTD-GC/MS法により測定して得られたトータルイオンクロマトグラム(TIC)と各フタル酸エステルの特徴的なイオンのマスフラグメントグラムを図4に示します。

また、6回の分析を繰り返し行って得られた各フタル酸エステルのピーク面積値の再現性を表2に示します。何れのフタル酸エステルについても、3%以下のRSD値が得られ、本法の分析精度の高さを示唆しました。

図4. 6種類の規制対象フタル酸エステルおよび規制対象外の可塑剤(DINCH)を含有する PVCのTD-GC/MS分析結果

試料調整法:薄膜法

7 8 9 10 11 12 13 14

7 8 9 10 11 12 13 14

7 8 9 10 11 12 13 14

7 8 9 10 11 12 13 14

7 8 9 10 11 12 13 14

7 8 9 10 11 12 13 14

7 8 9 10 11 12 13 14 0

0 1000000

0 400000

0 20000

0 40000

0 20000

0 3000

2000

0

2500000

5000000

7 8 9 10 11 12 13 14 15 min DINCH (Ion 155)

Phthalates (Ion 149)

DBP (Ion 223)

BBP (Ion 206)

DEHP, DNOP (Ion 279)

DINP (Ion 293)

DIDP (Ion 307)

DB

P

BB

P

DEH

P

DIN

P

DID

P

DN

OP

DINCH

フタル酸エステル

使用したイオン

DBP

m/z=223

BBP

m/z=206

DEHP

m/z=279

DNOP

m/z=279

DINP

m/z=293

DIDP

m/z=307

反復回数 (n=6) (n=6) (n=6) (n=6) (n=6) (n=6)

再現性( % RSD) 1.35 1.46 2.54 1.60 1.33 2.52

表2. ASTM D7823の繰り返し測定における再現性

6

Page 7: GC/MS法(ASTM D7823- (1)を用いたフタル酸エス …...%RSD = 1.15 (n=4) DEHP: %RSD = 4.79 (n=4) DEHP DEHP DINCH DINCH 3 4. EGA-MS 法を用いた熱脱着条件の検討 発生ガス分析(

8. 定量分析

一般的に使用される定量方法には幾つかの手法がありますが、ASTM D7823では標準添加法を使用します。標準添加法は、共存物質の妨害や検出器の感度変化などが問題となる場合に、最も有効な定量方法です。

ポリマー製品は基材ポリマーの他に、添加剤やオリゴマーなどの複数の揮発性成分も含む複雑な混合物であ

る場合が多く、様々な化合物がフタル酸エステルと共に熱脱着されるため、分析対象のフタル酸エステルと完

全に分離することが困難な場合があります。図4に示した例では、フタル酸エステルと共に熱脱着された多量の可塑剤(DOA)も検出され、分析対象である幾つかのフタル酸エステルと重なり合っています。このような場合には、本来検出されるべきピーク面積値と実際に検出されるピーク面積値にずれが生じるため、絶対検量

線法を用いて定量分析を行った場合には、定量分析の確度が低下する原因となります。

一般的にPVCに添加されるその他の可塑剤としては、MesamollⅡ (アルキルスルフォン酸フェニルエステル, ASE)やDINCH(1,2-シクロヘキサンジカルボン酸ジ-イソノニルエステル)などがありますが、これらもフタル酸エステルと共に熱脱着され、分析対象のフタル酸エステルと重なり合うため、同様の問題が生じます。

もう一つの問題として、GC/MSシステムの長期にわたる使用に伴う検出感度の変化が挙げられます。これは、システムの汚染やMSの電子増倍管の劣化などに起因します。

標準添加法は、測定試料と同じ環境下で標準試料の測定を行うため、これらの影響は打ち消すことができ、

確度の高い定量値が得られます。

図5. PVC – DOA中の6種の規制対象フタル酸エステルの標準添加法による検量線

分析精度や管理目標値(DOQ)またはプロジェクトの要求に従って検量線中のデータポイントを増やす ことができます。

1,500 1,000 500 0 500 1,000 1,500 (ppm)

y = 1293.9x + 235288 R 2 = 0.9979

y = 1941.9x + 358811 R 2 = 0.9997

y = 2694.9x + 465186 R 2 = 0.9999

y = 2765.2x + 502809 R 2 = 0.9999

y = 2400.9x + 437260 R 2 = 0.9996

y = 3169.3x + 601158 R 2 = 0.9995

0

200,000

400,000

600,000

800,000

1,000,000

1,200,000

1,400,000

1,600,000

1,800,000

-300 -200 -100 0 100 200 300

ピーク面積

DBP BBP DEHP DNOP DINP DIDP

7

Page 8: GC/MS法(ASTM D7823- (1)を用いたフタル酸エス …...%RSD = 1.15 (n=4) DEHP: %RSD = 4.79 (n=4) DEHP DEHP DINCH DINCH 3 4. EGA-MS 法を用いた熱脱着条件の検討 発生ガス分析(

9. ASTM D7823の適用範囲の拡張

ASTM D7823はPVCに含まれる6種類のフタル酸エステルについてのみ記述されていますが、様々なポリマー中のその他のフタル酸エステルの分析にも容易に拡張することができます。

フタル酸エステルを含有する各種汎用ポリマーのEGAサーモグラムを図6に示します。何れのポリマーについても、同程度の温度領域でフタル酸エステルが揮発していることが分かります。 ASTM D7823はPVCのみが分析対象とされていますが、図6の結果は、本法がその他の汎用ポリマーにもそのまま適用できることを示唆しています。

図 6. フタル酸エステルを含有する各種汎用ポリマーのEGAサーモグラム

CH2CHCl n

ポリ塩化ビニル; (PVC)

ポリカーボネート; (PC)

ポリスチレン; (PS) CH2CH(C6H5) n

ポリエチレン (PE) CH2CH2 n

種々のポリマー

200 300 400 500 600 700 800℃

熱脱着ゾーン

フタル酸エステル

PVC – DOA

使用したイオン

DBP

m/z=223

BBP

m/z=206

DEHP

m/z=279

DNOP

m/z=279

DINP

m/z=293

DIDP

m/z=307

ng 181.8 181.8 184.8 172.6 182.1 189.7

ppm 909 909 924 863 911 948

%RSD (n=6) 2.08 0.76 1.42 0.85 2.03 2.07

計算例: DBPの検量線の計算式は: y = mx + b y = 1293.9x + 235288 (R2=0.9979). y=0 の時は x = -235288/1293.9 = -181.8 ∴ 181.8 ng.

従って濃度(ppm)は: DBPの値 ÷試料重量 = 181.8 (ng)/200 (μg) = 0.909 (ng/μg) = 909 (ng/mg) = 909 (ppm).

表3. ASTM D7823により得られた6種類のフタル酸エステルの定量値

8

Page 9: GC/MS法(ASTM D7823- (1)を用いたフタル酸エス …...%RSD = 1.15 (n=4) DEHP: %RSD = 4.79 (n=4) DEHP DEHP DINCH DINCH 3 4. EGA-MS 法を用いた熱脱着条件の検討 発生ガス分析(

化合物名 略称 CAS No. Dimethyl phthalate DMP 131-11-3

Diethyl Phthalate DEP 84-66-2

Di-n-propyl phthalate DRPR 131-16-8

Diisobutyl phthalate DIBP 84-69-5

Dibutyl phthalate DBP 84-74-2

Di-n-pentyl phthalate DPP 131-18-0

Di-n-hexyl phthalate DHP 84-75-3

Benzyl butyl phthalate BBP 85-68-7

Diisoheptyl phthalate DIHP 71888-89-6*

Dicyclohexyl phthalate DCHP 84-61-7

Bis(2-ethylhexyl) phthalate DEHP 117-81-7

Diisooctyl phthalate DIOP 27554-26-3 *

Di-n-octyl phthalate DNOP 117-84-0

Diisononyl phthalate DINP 68515-48-0 *

Diisodecyl phthalate DIDP 26761-49-1*

* DIHP, DIOP, DIDP および DINPは混合物です。これらの化合物は複数のピークとして現れますので、各ピーク面積値を合算する必要があります。 規制対象の6種類のフタル酸エステルは赤で示しました。

表4. 管理対象とするフタル酸エステルの例

また、一般的なフタル酸エステルの規制に向けて、表4に示す15種類ものフタル酸エステルを社内で監視し報告できるシステムを導入している民間企業もあります。これらのフタル酸エステルについても

ASTM D7823を若干変更するだけで適用することができます。

具体的には、GCオーブンの初期温度を40ºCに変更し、ASTM7823では分析対象とされていないDMPとDEPおよびDRPRが熱脱着中に分離カラムの入り口に濃縮される条件とするだけで、これら15種類全てのフタル酸エステルを分析することが可能です。

9

Page 10: GC/MS法(ASTM D7823- (1)を用いたフタル酸エス …...%RSD = 1.15 (n=4) DEHP: %RSD = 4.79 (n=4) DEHP DEHP DINCH DINCH 3 4. EGA-MS 法を用いた熱脱着条件の検討 発生ガス分析(

10. ASTM D7823を応用したTD-GC/MS法による電線被覆材に含まれるフタル酸エステルの分析

ここでは、電線被覆材に含まれるフタル酸エステルをASTM D7823で定められた分析条件を一部変更した条件で分析した例を紹介します。変更内容は、GCオーブンの昇温条件のみです。分析対象は、表4の15種のフタル酸エステルとしました。

得られた149(m/z)のマスフラグメントグラムを図7に示します。数種類のフタル酸エステルが観測されます。DEHPは含有濃度が高く、ピーク強度が強すぎるためにMSの直線性範囲を超えています。正確な定量値を求めるためには、試料量を減らして再測定が必要です。

ここで示した例のように、パーセントレベルの高濃度のフタル酸エステルが含まれる試料の測定を行っ

た後には、キャリーオーバーが懸念されます。従って、続いて分析を行う場合には“ブランク”測定を

行ってキャリーオーバーがないことを確認する必要があります。

BHT

(orig

inat

e fro

m T

HF

solv

ent)

Isom

er o

f DEH

P U

nkno

wn

phth

alat

e

DID

P

DEH

P

DEP

DIB

P D

BP

Unk

now

n ph

thal

ate

Unk

now

n ph

thal

ate

2 4 6 8 10 12 14 16 18 20 22 24 26 0

50000

100000

150000

28 min

図 7. TD-GC/MS法による電線被覆材中のフタル酸エステルのクロマトグラム(マスクロマトグラム、m/z=149)

熱脱着装置 : 多機能パイロライザー(EGA/PY-3030D、フロンティア・ラボ製) 熱脱着温度 : 100 – 320ºC(20ºC/min) Py ITF : 300ºC(オートモード) GC注入口温度 : 300ºC GCオーブン温度 : 40ºC - 200ºC(40ºC/min) - 300ºC(5ºC/min, 1 min 保持) - 320ºC(20ºC/min, 2.5 min保持) 分離カラム : Ultra ALLOY-5 (MS/HT) (5%ジフェニル95%ジメチルポリシロキサン、長さ 30 m、内径 0.25 mm、膜厚 0.25 µm) キャリヤーガス : He カラム流量 : 1.2 mL/min スプリット比 :1/20 スキャン範囲 : 29-600(m/z) スキャン速度 : ca. 3 scans/sec MS ITF温度 : 300ºC イオン化法 : EI イオン源温度 : 230ºC 試料量 : 約 200 μg (試料200 mgを10 mLのTHFに溶解して、10 µLをマイクロシリンジで試料カップに採取)

10

Page 11: GC/MS法(ASTM D7823- (1)を用いたフタル酸エス …...%RSD = 1.15 (n=4) DEHP: %RSD = 4.79 (n=4) DEHP DEHP DINCH DINCH 3 4. EGA-MS 法を用いた熱脱着条件の検討 発生ガス分析(

DEHPの濃度は、サンプル量を100分の1(200から2.1 ug)に減少させて再測定を行って得られました。図8にDEHPの定量に使用した全イオンクロマトグラムと抽出イオンクロマトグラム (m/z=279)を示します。このサンプルでは17.13%もの大量のDEHPが含まれていました。

注釈 2: 電線被覆材の例のように、高濃度のフタル酸エステルを含む試料を、比較的多い試料量で分

析を行った場合には、システムが汚染される場合があります。この場合には、システムをク

リーニングし、汚染を完全に除去するにはかなりの時間と労力を要します。未知試料は、あ

らかじめ赤外(IR)分析(7)を行い、フタル酸エステルの概算濃度を調べておくことをお勧め

します。

サンプル名 サンプル量 (µg)

添加量 (ng) ピーク面積

PVCサンプル 2.15 0 3059903

PVC サンプル+ 添加 2.15 900 10535796

定量値 (%) 17.13 %

図 8. TD-GC/MS法による電線被覆材 (2.15 µg) のTICとマスクロマトグラム(m/z=279)

GCオーブン:40 – 180ºC (40ºC/min) - 280ºC (20ºC/min) – 320ºC (10ºC/min, 2.5 min保持)

TIC

EIC m/z 279

9.2 9.4 9.6 9.8 10.0 10.2 10.4 10.6 10.8 11.0 11.2 11.4 11.6 11.8 min

1000000

3000000

5000000

9.2 9.4 9.6 9.8 10.0 10.2 10.4 10.6 10.8 11.0 11.2 11.4 11.6 11.8 min

100000

200000

サンプル中のDEHP量: 17.13%

注釈 3: 単一ピークで検出されるフタル酸エステルについては、その検出限界値(MDL)は数ppmレベルですが、定量下限値(PDL)を使用する方が良いでしょう。研究機関によっては、全てのフタル酸エステルで達成可能な報告限界値を使用している場合もあります。50-100 ppm程度の値が一般的です。これにより、分析装置の性能変化や分析試料が多数になった場合に生じる汚染

のレベルの変化をも考慮に入れることが可能です。標準添加法を用いることで、これらの変

化に対する影響を低減することが可能になります。

11

Page 12: GC/MS法(ASTM D7823- (1)を用いたフタル酸エス …...%RSD = 1.15 (n=4) DEHP: %RSD = 4.79 (n=4) DEHP DEHP DINCH DINCH 3 4. EGA-MS 法を用いた熱脱着条件の検討 発生ガス分析(

図 9. ASTM D7823と従来法を用いた定量結果の精度と確度の比較

カッコ内は繰り返し測定によって得られたRSD値(n=4) 各フタル酸エステルの添加濃度:0.1025%

フタル酸エステル名 DEP DIBP DBP DEHP DINP DIDP

フタル酸エステル量 22 ppm 24 ppm 76 ppm 17.13 % 140 ppm 3900 ppm

試料量

(µg , 試料カップ中) 200 µg 200 µg 200 µg 2.1 ug 200 µg 200 µg

11. 熱脱着法と従来法(溶媒抽出法)による分析結果の比較

ASTM D7823(熱脱着法 / 標準添加法)と従来法(溶媒抽出法 / 絶対検量線法)により得られたデータ品質(確度と精度)の比較を図9に示しました。従来法では、揮発性のフタル酸エステル濃度が低い値として得られています。これは溶媒抽出を含む試料調製時の揮発によるものです。DNOP, DINP, DIDPでは高い値となっていますが、これは同時に溶出するDINCHの妨害により、正しいピーク面積値が得られなかったことによるものです。ASTM D7823では、6種類全てのフタル酸エステルに対して確度の高い定量値が得られ、RSD値も2%程度の良好な値が得られています。

DEH

P

DBP

BBP

DINCH

m/z 279 DEHP, DNOP

m/z 293 DINP

7 8 9 10 11 12 13 14 min

1.3e+07

60,000

6,000

4,000 m/z 307 DIDP

DBP BBP DEHP DINP DNOP DIDP

(13.2)

(9.3) (10.4)

(8.3) (10.7)

(11.8)

(1.4)

(2.5)

(1.6) (1.3) (2.5)

従来法 (溶媒抽出法 / 絶対検量線法)

0

0.10

0.20

(%)

(1.5)

ASTM D7823 (熱脱着法 / 標準添加法)

表5. 電源コード被覆材中に含まれる各フタル酸エステルの定量値

12

Page 13: GC/MS法(ASTM D7823- (1)を用いたフタル酸エス …...%RSD = 1.15 (n=4) DEHP: %RSD = 4.79 (n=4) DEHP DEHP DINCH DINCH 3 4. EGA-MS 法を用いた熱脱着条件の検討 発生ガス分析(

13. 参考文献

1. ASTM D7823 (2013) Standard Test Method for the Determination of Low Level, Regulated Phthalates in Poly (Vinyl Chloride) Plastics by Thermal Desorption - Gas Chromatography/Mass Chromatography.

2. Section 108: Products Containing Certain Phthalates. http://www.cpsc.gov/about/cpsia/faq/108faq.html

3. Di-(2-ethylhexyl) phthalate (DEHP), dibutyl phthalate (DBP), and benzyl butyl phthalate (BBP). Diisononyl phthalate (DINP), diisodecyl phthalate (DIDP), and di-n-octyl phthalate (DNOP).

4. Consumer product safety commission, Test Method: CPSC-CH-C1001-09.3 – Standard Operating Procedure for Determination of Phthalates, April 1, 2010.

5. Applications of a multifunctional pyrolyzer for evolved gas analysis and pyrolysis-GC of various synthetic and natural materials: part 2, S. Tsuge, H. Ohtani, Chu Watanabe and Y. Kawahara, American Laboratory, March, 2003.

6. Rapid and Simple Determination in Plastic toys by a Thermal Desorption-GC/MS Method, T. Yuzawa, Chu Watanabe, R. Freeman and S. Tsuge, Anal. Sci., September, 2009, vol. 25.

7. ASTM D2124-99 (2004) 5, Standard Test Method for Analysis of Components in Poly(Vinyl Chloride) Compounds Using an Infrared Spectrophotometric Technique.

12. まとめ

ASTM D7823は、熱脱着 TD-GC/MS法によるPVC中のフタル酸エステルの分析法です。有機溶媒の使用量は少なく、高価なガラス器具なども不要な簡便な試料料前処理により測定が可能です。

また、定量には標準添加法を用いるために、数十パーセントもの規制対象外可塑剤の影響をほとんど

受けずに、精度・確度の高い定量値が得られます。

さらに、この分析法はPVC以外の他のポリマーにも適用でき、さらに分析対象とするフタル酸エステルの種類も、GCオーブンの昇温条件を変えるだけで大幅に拡張することができます。

13