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Meiji University Title Author(s) �,Citation �, 35(3): 1-34 URL http://hdl.handle.net/10291/12697 Rights Issue Date 1951-10-25 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

一.生命保険会就の靹双計 志田先生と我國保瞼界 - 明治大学志田先生と我國保瞼界 印 南 博 士口 目 は し が き 一.生命保険会就の靹双計

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  • Meiji University

     

    Title 志田先生と我国保険界

    Author(s) 印南,博吉

    Citation 明大商學論叢, 35(3): 1-34

    URL http://hdl.handle.net/10291/12697

    Rights

    Issue Date 1951-10-25

    Text version publisher

    Type Departmental Bulletin Paper

    DOI

                               https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

  • 志田先生と我國保瞼界

    士口

      は し が き

    一.生命保険会就の靹双計

    二、保険学会の創立

    三、レクシス教授に師事

    四.大阪生命事件の処理

    五、外国保険会肚供託命令

    六、保険演習の創設

    七、保険関係諸機関

    八、保険学上の主張

      む  す  び

    は  し  が  き

     志田先生の想い出は、私にとつて満二十五年の昔にさかのぼる。当時東京商大二年生であつた私は親友の豊田秀尾

    君(現在東洋棉花幹部)と相談の上、志田先生のゼミナールに入ることに定めた。ゼミナール生は二十二名であり、

                                                一

  •                                            ご

    私は豊田君と共に幹事を勤めたので、特に先生に親近する機会が多かつた。専門に陥る弊害を力詮せられる先生は、

    どんな研究題目をえらんでも差支ないと云う態度をとられたが、私は単に先生が保険学の講座を持たれていると云う

    理由に基いて、ゼミナ1ルでは小島昌太郎博士の著書「保険ト経済」にっいて報告を行なつた。その当時は、保険学

    の研究を以て絡生の仕事とするであろうとは夢にも思わなかつた。

     先生は私たち学生に対して偉大なる亭凡人たることをモットーとするように鍮された。論語に「博く学んで名を成

    す所なし」とあるのを引用して、専門に偏する弊害を戒しめられた。この弊害は我国の各分野に深くしみ込んでおり

    今次敗戦やその悲惨な結果も、この弊害の結果に外ならないと確信されていた。すべてについて円満なこと、均衡の

    とれていることを爾ばれたのである。之は新制大学において一般教育が重硯されていることに依つても知られるよう

    に、米国の大学教育における新らしい精紳と相通するものであると云えよう。

     先生のこの生活信条は、理窟抜きにしてぴたすら穏便に事を納める事なかれ主義や、すべてを甘受する無抵抗主義

    ではなく、徹底した合理主義を以て裏打ちされた、いかにも学者らしい、或る激しさ、厳しさを件うものであつた。

    合理主義に徹すると云うことこそは、先生の生活信条を最も強く特徴づけたものと云えよう。しかもそれは形式論理

    的な合理性を超え、弁証法的合理性に近いことが稀でなかつた。先生のゼミナ・づル門下生の途別宴が催おされた折の

    こと、私が「先生はどのようにして謄を練られますか」と尋ねたところ、印座に「自然の理法に任せることである」

    と答えられた。傍にいた同期生の田中外次君(現別子鉱業肚長)は、夙に参輝されていた関係もあつて、帥座に合点

    されたのであつたが、未熟な自分には容易に先生の真意を解することが出来す、後日に至つてこの言葉が人を欺か・ず

  • 先生の精騨的な安佳の地も亦ここに弩たことを悟つたのである.とにかくこの一例にょつても、先生の合理主義的

    信条の一端を窺い知るに足りるであろう。

     若くして父を喪つた関係もあつて、私にとって先生は実父にも代るべき存在であつた。先生に関する想い出は極め

    て多く、又印象深いものがある。なお先生は八十二年余の長い生涯において、学界、官界、実業界その他各方面との

    関係が深く、その遺された事蹟もまた著しい・ものがある。私は菲才にも拘わらす,多年に亘つて先生に師事し、保険

    学の分野において、先生の講座を継承する僥倖に恵まれた。よって本稿では専ら我国保険界の分野における先生の足

    跡を偲ぶこととするQ

     昭和十五年秋に先生を中心として結成された日本保険学会の第三回年次総会が、同十八年の五月に東京で開催され

    た。その折に、数え年七十七歳を翌年に控えた先生の御睨のため、保険論文集を刊行してはどうかと云う意見が一部

    の人にょつて述べられた。之を伝え聞いた人々は期せすして悉く賛同し、学界業界を通じて二十三名の人たちの執筆・

    した論文に、故石川文吾博士の序文と、寺田四部博士の蹟文とを加えて豫定通りにその実現左見る忙至った。これ即

    ち志田博士喜寿記念保険論文集(昭和十九年八月刊行)であつて、同書の毬頭に、先生の略歴と、著述目録とが収めら

    れている。之は先生の学問的業蹟を知るためには、最も体系的な資料となるべき文献である。しかしながらその詳細

    にっいて述べることは本稿の目的ではない。鼓では保険学界及業界における先生の業蹟のうち重要な事項のみにっい

    て、ぼぼ年代順に記述する考である。

     追記。本稿を書き上げてから一ヶ月程経つて、法学博士粟津清亮先生に御目にかかる機会を得た。その際先生は、

       志田先生と我国保険界                                 三

  •                                            四

    「逝いた志田餌太郎君に捧げる一篇」と題する文を草↓ており、保険時報誌に連載(本年五月号以降)されていると

    申された。早速同誌を探して目を通したところ、極めて長篇で未だその孚分迄が掲載済の状態である。八十一歳にな

    られる高齢の先生が心臓の病気をも意とせす綿密な追憶文を綴つておられることは、いかに「桃園の誓」を固めた盟

    友のためとは云え、常人の企て及ばぬ所であって、先生の限りない友情と非凡な努力とは,私たちを張く感動させて

    止まない。

    のみならず粟津先生は卓越した文筆家であり、右の爲は私が草した本稿のように専ら事実を書き連ねた無味乾燥

    な拙文と異なり、多くの挿話や楽屋話を交え、志田先生の知られざる孚面をも描き出しながら、生き生きと両者の交

    渉、友情を綴つている。先生は別に「保険回顧華西俗談」と題する随筆的回想記を草され、既に第三巻迄公にされて

    いる。同書の中にも志田先生の名が絶えす散見される。前記の追悼文と同書とは、志田先生の全貌を知るにっいて、

    誠に不可欠且好箇の文献であると言わねばならない。

    一生命保険會肚の設計

     先生は明治二十七年七月に東京帝国大学法科大学を卒業し、法学士の称号を授けられたのであるが、卒業後直ちに

    大学院に入学し、商法殊に会肚法及び保険法を専攻された。その指導教授は富谷錐太郎博士と田辺芳講師とであり、

    富谷博士は後年本学学長と成られた方である。之とは別に先生が特に師事した恩師として穗積陳重博士を挙げねばな

    らない。穗積博士と先生との関係を略述するに、先生は明治二十三年から翌二十四年に亘って、第一高等学校で博士

  • から法学通論を、同じく二十四年から二十七年の三年間には東京帝大法科大学で民法原理と法理学とを教えられ、殊

    に同二十六年から璽二十七年に亘っては、博士の最初にして最絡の試みであつたところの法理演暫への参゜加を許され

    先生は毎週一回博士の邸宅に赴いて指導を受けたのであつた(志田先生「穂積陳重先生の学恩」、学士会月報、第四百義十八

    号、大正十五年五月.九五~九⊥ハ頁)O

     卒業後間もなく、先生は一生命保険会肚の顧問としてその設立に関与された。帥ち当蒔松方内閣の内務大臣であつ

    た品川彌二郎の渤読に起因して、本派本願寺の信徒を中心とする生命保険会肚の設立が企てられ、先生は約款の制定

    その他根本的設計の事項を依嘱された。当時我国においては頼るべき有力な文献等が殆んど無かつたこととて、最初

    は国昌o冒oδ覧①①凸鋤bd艶感謬ロ言勉中の生命保険の項や、ト幻L≦oO口=ooげ経済辞書中の生命保険の記事などを参考

    にしたのであつた。保険約款を規定するについても、英米会就のものは容易に手に入らぬため、我国既設会耐の規則

    を比較研究するほかなかつた。豫定利率も何分に定めるべきであるか、死亡表はどれが適当であるか、責任準備金の

    積立はどういう方式によるべきか等にっき、参照すべき書物も資料もなく、僅かに明治二十二年七月に生命保険論を

    公けにされた藤沢利喜太郎博士に、保険料の計算等について教を乞うなど、種々骨折られるところがあつた。

     その結果翌二十八年二月に認可をうけ、四月に事業を開始したのが真宗信徒生命保険株式会肚(資本金五十万円)

    であつた。同肚は創業二十周年の大正三年に共保生命と改称し、同時に倍額塘資した。昭和九年九月には野村財閥の

    手に移つて野村生命と改称、同十五年十月には仁寿生命、十六年十月には日清生命を合併し、五大生命に次ぐ有力な

    財閥生保会肚の一として発展した。絡戦後の昭知二十三年三月に現在の東京生命と改称し、相互会肚として新たに出

       志田先生と我国保険界                                   五

  •                                            六

    発するに至つた。従つて先生は東京生命の生みの親の一人に外ならない。但し先生は真宗信徒生命の事業開始と共に

    進んで会肚の業務を担当するよう懇願されたのであるが、学問上の研究に専念したいからと云う理由を以て之を辞し

    引続き顧問としての地位に留まつたのであった。とにかく上認の事実は、先生が保険の学理を研究する上において大

    いに役立ち、叉先生と保険業界との縁故が結ばれた点においても有意義であつたと思われる。

    二保除学會の創立

     同じく明治二十七年に、先生は粟津清亮、玉木為三郎の両氏と謀って、保険学会を設立された。三氏は同時に東大

    の法科大学を卒業し、先生は保険法と会肚法、粟津博士は保険政策、玉木氏は保険法を専攻する目的をもつて,いす

    れも大学院に入り、保険の研究に従事することと成った。鼓に三氏は保険を通じての友好関係を結び、その研究の進

    歩及び業界との連携等を目的として保険学会を設立したのであった。

     翌二十八年九月には、同学会の機関誌である「保険雑誌」が刊行された(定価十銭)。先生は同誌に、保険の刑罰法

    的観察と題する論文を寄せられ、又第一号から第六号に亘り「火災保険の歴史」について執筆された。同誌は大正十

    年三月の第二百八十九号まで月刊として継続刊行され、同年六月から「保険学雑誌」と改題して年四回の発行に改め

    今次大戦の初期迄五百号に近い数を重ねた。 一八四九年に設立され、世界で最も古い歴史をもつイギリスのアクチュ

    アリー会臼げ⑦H口曾詳暮①Oh》9麸H一①ωO臨O話彗切鼠け9。一口Ω。口αH目①冨口α は極めて有名であるが、之は生命保険

    に限られていたのであって、保険学全般を目指すものではなかつた。保険学全般を目指し允ものとしてはドイッ保険

  • 学会U①自房oぽ①目く①同①言h口『<①目ω8げ①村q”卸q停類δω①口o。o犀餌臨叶が一八九九年九月二十六日に設立され、その機関誌

    「全保険学雑誌」N①騨ωoげ詑津h貯象①鵬①ωΩ自葺叶①<①誘一〇犀①歪口伽q叩芝δ。。①昌ωo冨津が一九〇噌年に発刊された事実

    が指摘さるべをであるが、これと比べるならば、我国における保険学会の設立の方が五年以上も早かつた訳である。

     同誌は後年に至つて粟津博士外少数の支持者を保つのみとなり、保険学会も亦単に同誌の母体として存在意義をも

    っに過ぎぬ状態と成った。たまたま昭和十五年秋に設立された日本保険学会が戦後再建されるに当つて、由緒ある保

    険学会は発展的解浩を途げ、保険学雑誌は日本保険学会の手で今年から復刊されることに成つた。この事実は先生が

    かねて案ぜられてい左問題の円満な解決であり、殊のほか喜ばれた所であつた。ちなみに、同学会の再建第一回総会

    (十一月十日)において、新理事会は、先生及び粟津清亮.矢野恒太三氏を名誉会員に推すことを提議し、満場一致

    を以て決議された。なお同会幹事の早大教授葛城照三氏から、三名誉会員に対して、我国の保険界に対し、牛世紀以

    上の長きに亘P、学問上及び実際上尽された功労に対する決議を行つては如何との発言があり、同月末に感謝状が贈

    呈された(日本保険学会年報、一九五〇年一三二、=二三頁)。

    三 レクシス教授に師事

     明治三十年十月に先生は一橋大学の前身である東京高等商業学校教授に任ぜられ、翌年六月独佛両国へ三年間の留

    学を命ぜられ、同三十五年三月に帰朝された。その間保険学に関連して特記すべきことは、ドイッ国ゲッティンゲン

    の保険ゼミナール09餓昌鋤q①村く霧の一〇げ窪q昌伽q①ω08言弩に参加されたこと、及び第三回国際アクチュアリー会議と

       志田先生と我国保険界                     七

  •                                             八

    ハーグにおける国際生命保険医学会とに出席されたことであろう。国際アクチュアリー会議では、生命保険に関する

    我国法規の現状について報告せられ、その要旨が同会議の記録に記載されている隔印ち国什90⇔⇔oε巴αo冨竃ロqδー

    冨獣o口9信匂聾℃o昌①昌葺9ρ臨脅①輿動o。ωg唖9ρp8ωω珪冨く一ρ  ↓円o♂鍬ヨΦOo昌串qま¢一昌け霧憂o口鉱o昌毘侮、》95-

    9∋

    |Oω゜勺m艮の日りOH℃冒゜OαbQがそれである。

     ゲッティンゲンの保険ゼミナールについては、マーネスの小著くo誘言ず①搬鐸ロ窃qΨ類δω①仁ω伽ぽ鋤津9直二h鳥Φ暮ωoぴo口

    国ooずo。oけ巳①ジ切①ニヨμ㊤OもQ°ω゜日bの山①゜に述べてあり、その設立の経緯は ぐ~卜o目o℃噂 嵩=げ9R一bo臨ω口口α

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    @言切Oα①ロけ⊆昌職h口H巳O<霧ω一〇ずOH¢旨鋤qq。毒富の①昌のoげ90津”20村&の犀ω霊賦曾涛日達ω渥月一臨∬切90βα冷国鋒ρ日゜

    qσ゜QQ脳っ鵠鉱に詳述されている。拙稿「レクシスの保険理論」 (明大商学論叢、.第三十巻第四・五号、七~網二頁)の中には

    前記マーネスの小著に基いて、同ゼミナールの概貌が紹介してある。先生は一九〇〇年(明治三十三年)に同ゼミナ

    ールの夏期ゼメスターに出席し、法律行政の講義を聴かれだ。当時先生が筆記されたレクシス藪授の講義の要点は、

    前記拙稿のコニ頁以下に述べた如くである。

     先生はレクシス教授と個人的に親しく指導を受ける機会に恵まれ、同教授の醇乎たる学究的風格には傾倒少なから

    ざるものが有つた。保険学上特に興味あると思われるのは、保険の本質論をめぐる先生と同敷授との繋がりである。

    帥ち保険の本質に関する入用充足説は、イタリアのゴッビ教授の始唱に係るものであるが、ドイツの学者でこの読を

    最初にとり入れたのは、一般に信ぜられているところのマーネス藪授fはなくして、実にレクシス藪授だつたのであ

    る(印南「保険の本質に関する入用充足説の発展」、明治大学創立六十周年記念論文集.一〇四頁)。そうして此学論を始めて我

  • 国に紹介されたのは後述するように、わが志田先生自身に外ならなかつた。のみならす先生は、マーネスの論にあき

    たらないで、次第にゴッビ及びレクシス両教授の主張を一暦高く評価されるに至ったのである。

     帥ち先生は昭和三年に公にされた論文「我邦に於ける保険学読としての財産入用論の現情」 (明大商学論叢、第三巻

    第五号、ご七~二八頁)において「抑も財産入用論なるものは独逸の保険学界に有力なる学設で「マーネス」氏の叙述

    せる所が其代表的のものと認められて居れども其実は伊太利人「ゴビー」氏の創意に係り「レキシス」先生に依つて

    修正せられ大成に近づいたのが実情である。「マーネス」氏は寧ろ「ゴビー」氏の創意を多少傷けたと謂ふても宜しい

    位で決して十分に発展させたものではない。若し強て「マーネス」氏の功、蛍を挙げるとすれば同氏の才筆を以て簡易

    な論明を為し此学読を普及させた点であつて「マーネス」氏の下した定義の欠点を指摘した幾多の学者ですら財産入

    用とか、財貨入用とか所得入用とか謂ふ様な用語を各自の保険の定義中へ採用したのも「マーネス」氏の間接の賜で

    ある。唯だ同氏は「レキシス」.先生に就て保険学を学びながら其師の深遠なる研究の結果として現はれたる解論例へ

    ば保険字典中の「保険の概念論」の如きを十分に咀囎し得ないのみならす却て「ゴビー」氏の学論を多少なりとも堕

    落させたことは同じく「レキシス」先生に学んだ私の遺憾とする所であるLと述べられた。鼓に忘れてはならぬこと

    は、先生が祀に篤かつたことは著しい事実であつたにもせよ、先生がレクシス藪授の読を推されるのは、決して親し

    くその藪を受げたがためではない、ということである。先生はその一大信条であつた合理主義の建前から、レクシス

    轍授の主張の正しいことを認めたが故に、之を支持されたものに外ならない。

    志田先生と我国保険堺

  • 一〇

    四 大阪生命事件の処理

     先生は明治三十五年十二月に、農商務省から嘱託されて保険課長の事務を代行し、同三十七年二月、願に依り解嘱

    された。先生が官途に就かれた経緯を見るに、我国で初めて保険業法が施行(明治三十三年七月)されるについて、

    保険課長として功労のあつた矢野恒太氏が、その地位を去つて第一相互の創立に専念するに及び、その後任として日

    宗生命保険株式会肚の専務取締役であつた楠秀太郎氏が推された。楠氏はさきに生命保険談話会(生命保険協会の前

    身)の依嘱により、玉木為三郎、森村金造両氏と共に、明治三十三年七月に模範生命保険約款の起草委員に挙げられ

    その成績見るべきものがあつたのみならす、夙くも明治二十七年仁寿生命の創立に際し、同肚のために、帝国統計年

    鑑及び警保局民籍戸口表に基いて、明治二十二年から二十五年まで四ク年の人口統計を材料に、いわゆる楠氏表と呼

    ばれる死亡生残表の作成者であり、先生と旧知の間柄であつた。

     楠氏は保険事務官として生命保険業界の大刷新を企図し、小会杜の合同を理想とした関係上、大阪生命を中心とす

    る整理A旦同に乗出「すことを決意し、明治三十五年十月に官職を辞した。その後任として第三代の事務官を定めるべく

    色々人選が行なわれたが適任者が得られなかつた。ために当時の農商務省商工課長窪田静太郎氏が保険課長を袋務し

    たのであるが、商工局長の木内重四郎氏は、先生の先輩として相識の関係上、先生が保険課長の事務を代行されるよ

    う懇請した。先生は当時学習院大学教授、東京高商教授、法学院講師其他多くの職務を有して,多忙を極めていたに

    拘わらす、折角保険業法が制定されて業界の整理がそめ緒に就こうとする際、保険事務官にその人が無いため、再び

  • 混乱の昔に復するようなことが有つては遺憾であると考えられ、 一身の利害を計算外にして就任されたのであつた。

    先生の在任期間は僅か一年あまりの短日月であつたが、しかも保険行政上波すべからざる足跡を遺された。その一つ

    は大阪生命の取扱であり,他の一つは外国会就供託問題である。

     保険業法の実施を機として、生命保険会批に対する取締が厳重になり、検査に落第する会肚が続出し、又大会肚と

    小会肚との隔りが甚だしく成る結果として、会肚の合併又は契約の包括移転を見るのが当然の勢であつた。明教生命

    万世生命,大阪火災等の経営に参与し来つた一代の野心家岡部広は、主務省が小会肚の合伺を望んでいるのを幸いと

    し、群小会肚を集めて一大生保会杜を作り上げ、保険界の王者として利釜を専らにしようと図つた。先ず明教、大東

    万世の三肚を合せて大阪生命を設立し、その成功によつて主務省の満足を得ると共に、進んで海国、酒家、大日本、

    暉徒、日本共同などの弱小会就を買収した。次で九州、北陸の両耐をも合同したのであるが、その目的のためには手

    段を択ぶことなく、肚内の棄乱も亦甚だしく、岡部に対する非難は次第に高く、主務省の怠慢を責める声も高まつ

    た。 

    当時の保険事務官楠氏は、わざわざ京都に赴き、岡部と親しく面会して、他肚乗取陰謀の放棄と大阪生命内部の整

    理とを論した。之に対して岡部は、若し反対すれば何時自分の不正を摘発されるか制らぬため、すなおにその読論に

    服すると共に、合同後の大阪生命に人物が無いため、整理の困難であることを訴えた。元来小会耐の合同を理想とし

    た楠氏は、蝕に於て自ら難局に当つてみる考を起し、之に対して岡部は、楠氏を取締役に迎え、業務の総べてを一任

    して自分は決して干渉しないと誓った。かくて楠氏は官職を辞して大阪生命に入肚したのであるが、岡部は先の約束

       志田先生を我国保険界                                 一一

  •                                           一ご

    を無覗し、依然として専横の行為をやめす、楠氏が整理計画を立て、又之を実施するあとから、その努力を水泡に帰

    せしめて顧みなかつた。数に於て途に先生は大阪に赴き、厳重な検査を実施されたのである。先生が「保険課長代理

    時代の回顧」と題して当時の模様などを追想された談話が、保険銀行時報第一、一一〇号に載せられた(大正十コ年一

    月)。その一部を左に紹介してみよう。

     「大阪生命の疑獄事件の起る前に私は大阪生命たるものが急捲への合併であり肚長が岡部君の如き定評のある辣腕

    家であるから、何かするだらう。叩けば芥位は出るに違ひないと思つて居たが、自ら進んで風波を起すことは害多く

    して得る所が少なからうと考へて、かすに時日を与へて推移を見てゐたのであるが、間もなく司法当局が之を嗅ぎつ

    けたものと見え、農商務大臣を通じて商工局長へ「大阪生命に忌はしい事件があるから、手を下すが含んで置いて異

    れ」と云ふ意味の通知があつたので木内局長は驚いて私を招き其由を伝へたのである。

     「私は最初から大阪生命に対しては多少の疑ぴを持つてゐたので「困った」と思つたが、司法当局に手をつけられ

    ては監督の立場にある農商務省の面目にもか」はることであり、内心楠君も入耐したのであるから、敢て官憲の力を

    用ぴすとも革正されるであらうと考へたので「同肚は合併後日浅く、多少の不正はあつても、時日の経過と共に自ら

    革正するであらう。殊に保険会肚に司法権を活用させることは容易ならぬ事で、其波及する所は一大阪生命に止まら

    ないから手を下すことは暫く待つて貰び度い」と木内局長の同意を経て其意を司法当局に致して置いたのである。

     「其後大阪に内国渤業博覧会が開会せられて農商務大臣同次官等が下阪した時、偶々大阪地方裁判所の準塚検事正

    に会つて、同検事正から「大阪生命の素乱は一刻も捨て置けないから直ちに手を下す」と通告せられたので、大臣か

  • ら本省へ秘電が舞込んで【,早速検査すべし」との命令が下った。局長から話された時私は形勢斯くなるに強ひて検査

    を躊躇すれば、楠君との私交から、彼は公私を混合するものであるとの非難を受け、痛くない肚を探られてつまらな

    いこと』思ひ、最後の決心をして、秘かに当時保険課の属であつた宮本幸五郎君を引連れて密かに西下したのであつ

    た。 

    到着すると早速司法当局と打合せをする必要があったので、亭塚氏を地方裁判所の検事正室に訪ひ、先づ其意蕎を

    聞いて見た所、検事正は「今日にでも手を下さうと思ふ、師に証拠も挙つてあるのだから」と猜豫の出来ぬやうな話

    であつたので、私は「それでは困る、監督官庁たる私の方に先づ検査を行はさして呉れ、然もなくば非常な落度にも

    なり、将来保険会敵に対する威令を失ふ結果になつて面白くない」と種々懇談を重ねた結果、初めは容易に譲らなか

    つたが結局「君の方の検査を侯ってやるから」と云ふことに相談が纒つて私は宿へ帰つたのである。

     「然るに其夜深更に検事正から電話で「証拠浬滅の惧れがあるから、先程の話を変更して、明早朝に検挙する」と

    絶対的な通告に接したので「それでは同時にやらう」と云ふことになつて、時刻を打合はせて翌日の朝大阪生命に乗

    込んだのである。農商務省からは私が宮本君を同行して乗込み、一方検事局から二検事が出張したのであるから、肚

    内は鼎の湧くが如き騒ぎで、杜員は何れも顔青ざめて、重役連中は言葉もきけぬ態であつた。申略。

     「私たちが会就に乗込んで大騒ぎを演じている最中のことである。検事局から岡部は縛つたからと云う通知があっ

    たので、騒ぎは更に大きくなつて、融員は悉く色を失つてしまつた。……この未曾有の出来事が一般の保険界を震憾

    せしめたことは実に想像以上で、異常な緊張を見せた。私が当時開かれた大阪の保険大会に出席した時の光景は、未

       志田先生と我国保険界                               =二

  •                                           一四

    だに深い印象を留めている。当時世間では、この騒動を起したのは志田であるとの論が専らであつたが、周図の事惰

    から考えて、そう認定されるのは止むを得ないことであつた。(中略)

     「私が帰京してから岡部は私を仇敵の如く怨んで、文部、司法、農商務の三大臣に陳情書を出し「彼は怪しからぬ

    奴である。自分が真宗信徒生命の顧問である関係から、.智本生命の肚員と結託して,大阪生命を撹乱したもので、彼

    の・如き者を教壇に立たせ,或は保険課長の要職に据えておくのは、官紀素乱の因である」と云ったように、言葉を極

    めて中傷したものである。しかし乍ら司法大臣も農商務大臣も問題の事情を詳しく知つていたので、この陳情は何等

    の放をも奏しなかつたLと陳べられている。

     この実地検査の結果として、岡部の専横が豫想以上に甚だしく、会肚の欠損は数十万円に達し、且つ犯罪を構威し

    ている不正手段が幾つとなく発見されたので、断然厳重な整理命令が発せられた。他方司法処分としても当局から告

    発書が発せられ、岡部は同年三月末に収監されたのである。しかして岡部は、大阪生命が業務を停止され、自分が収

    容されたのは、専ら楠氏が先生と通じて自分を陥れたものであると邪推し、同年秋に保釈出獄後間もなく、さきに志

    田先生が創立に骨を折られた真宗信徒生命の買収を企て、その他業界に各種の波瀾をまき起した。しかし大阪生命は

    幾度か裁判を重ねたのち、明治三十八年十一月の最絡刺決により、強制破産の蓮命に陥つた。そうして、九肚合同当

    時の大阪生命の被保険者は六万一千人、その保険金額一千百五十万円であり、解散当時迄存続したのは、被保険者四

    万人、保険金額八百万円程であつたQ

     この大阪生命事件は、保険業法実施後における特筆すべき大規模の違反事件であつたこと,岡部の悪辣且執拗な屠

  • 躍等により注目されるのであつて、我国の保険監督史上稀に見る事件であつた。時あたかも生保界の整理から明治三

    十九年以後の発展時代に至ろうとする転換時代であり、監督当局の態度如何により、将来に鴫根を遺す惧なしとしな

    かつた。その間楠氏との私交上の関係もあり、先生としては大いに苦慮されたところであるが、幸に監督当局の威信

    を堕すことなく、充分に後車の戒を明示し得たのである。

    五 外國保険會肚供託命令

     先生が保険課長代理として在任された折の、他の一っの業績は、外国保険会枇に対して供託命令を発せられたこと

    であつた。之よりさき、明治三十三年に保険業法が施行されると共に、同年九月二十七日附勅令第三百八十号を以て

    外国保険会肚に関する件が規定され、その第五条には、

    「主務官庁ハ必要ト認ムルトキハ外国会肚ヲシテ相当ノ金額ヲ供託セシムルコトヲ得。外国会就力供託ヲ命セラレタ

    ル場合二於テハ主務官庁ノ認可シタル有価証券ヲ以テ其金額二代ラルコトヲ得」

    と定められた。しかしながらその笑施については何等の指示もなく、事実上は室文に等しいままで推移したのである。

     その後、歳を経ること凡そ三年、志田先生が保険課長代理に就任せられるに及んで、初めて、供託命令が発せられ

    た。之については「回顧しても痛快」であると言われる先生自身の追憶談を次に引用してみよう(保険銀行時報、第一

    千百十号、大正.十ご年一月、三二~三三頁)。

     「当時日本へ米国の三大生命保険会肚であるニューヨーク、ミューチュアル、エクィタブルが営業所を設けて、日

       志田先生と我国保険界                               一五

  •                                            一六

    本人の多くが保険の何物なるかを解しないのに乗じ、最初は保険料を払込むが二年に牛分になり,三年には四牛分に

    なり、やがてただと成るような巧みな宣伝を用いて、日本の生命保険界を席巻するの勢を見せていたので、私は、こ

    ’れは一大事である、幼稚な本邦の保険会肚はかかる大敵を向うに廻しては到底勝味がない。この場合大謄な保護政策

    を用いねばなるまいと思い、考慮を重ねた結果、責任準備金の全部を供託させるに若くはないと考えて、案を具して

    商工局長を通じ大臣(〔李田東助?)〉の意見を叩いたところ、全部を私に任せて呉れたので、直ちに手続をふんでその

    緊急勅令を出す蓮びに至つたのである((明治三十六年六月二十六日附))。なおその前に、後日の紛議を考えて、ます外

    務省に異存の有無を聞いて見たが、当方には異存が無いとの言質を得たのであつた。

     「この勅令に依つて三会耐に供託命令を発した時の、三会就の狼狽した有様は形容に余るものがあつた。豫期した

    ことであつたが三会肚は直ちに猛烈な反対蓮動を起して、最初は直接農商務省に濯動すると同時に外務省へも盛んに

    蓮動を試みたものである。その蓮動が余りに猛烈であつたため、当時通商局長であつた石井菊次郎君は部下を私の許

    にょこして、責任準備金の何であるかを研究させたものであつた。

     その使者を承つて来たのは松田道一君で、最初私のところへ来たとき「私は責任準備金の何たるかも知らないのだ

    が、一言にして解る方法はなかろうか」との話であつたが、私は「とても、今直ぐ解るように説明することは覚束な

    い。強いてお知りになりたければ、時々私のところへ来られたならば、自然にお覚えになるだろう」と、今から考え

    ると随分意地の悪いことを言つたものである。その後松田君は時折り訪ねて来て余談をして帰つて行つたが,途に根

    気を失つたと見えて、それから間もなく姿を見せなくなつた。外務省では恐らく抗議を申込みたい内意であつたら

  • しいが、さきに私の方から斯くなることを慮つて先手を打つて置いたので、今更前の通告は知らないと呆ける訳にも

    行かす、途方に暮れていたことは、前後の様子で制つていた。しかし農商務省としては巳むを得ぬ手段であつたので

    私も徹底的にやるつもりであつた。

     この問題の騒がしい最中に、ニューヨークで開かれた国際アクチュアリー会議から出席の勧誘が来た。前回の会議

    に我国から代表を出しているので、どうしても欠席するわけに行かなかつた。この問題のために開かれた各就代表会

    合の席上に於て、私は借越とは思つたが、粟津君を推挙して一同の意禽を聞いたところ、満場一致を以て賛意を表し

    て呉れたので、直ちに同君の出馬を願うことになつた。

     こうして民間代表は雑作もなく決定したが。政府代表についてぼ自ら定めるわけにも行かなかつたので、商務局長

    の意轡を訊ねて見た。局長は「君が行つて臭れないか」と簡単に取極めるつもりらしかつた。私にとって、米国へ行

    くことは、敵陣に乗込むと同様大なる決心を要したのであるが、これも男子の意気であると考えたので快諾したので

    あった。若しこの際私が首をたてに振らなければ、方々へ持ち廻つたあげく、白勿の矢を立てられた人は、這般の事

    情も知らすに、思い設けぬ窮地に陥るだろうと老えたので、断然行く決心をしたのであつた。こうした順序を経て、

    私と粟津君とが行くととになつたのである。

     丁度明治三十六年の夏であつた。途中何等の障りもなく二人はニューヨークへ着いた。その時私は最後の膀を固め

    ていたのであつたが、ニューヨークの大会事務所を訪れたとき、玄関口でミューチュアルのワンサイズ氏  旨゜O’

    <動昌ρq摩① から「口本はロシアの敵ではない」と無遠慮な言葉を投げられた時はさすがにムツとしたので、多少の

       志田先生と我国保険界                                一七

  • 一八

    応酬を試みてみたが、粟津君から止められたままに波瀾も起さすに無事会議に臨むことになった。

     それは議場でロシア代表のサビッチ副議長ωo村伽qΦqΦω悶く寡oげが議長席に着いていた時のことである。私は先手

    を打っために日米供託金問題の紛議を釈明するために起った。その時は演読に間違いのあることを慮って、出席前か

    ら豫め草稿を作つておいたのであつた。しかし一人の演詮時間が五分間に制限せられてあつたので多少困つたとは思

    ったが、やれるところまでやつてみようと云う心組で起つた。そして朗読演詮を始めたところ、果して五分間を経過

    するや、議長は連呼して私の演読を中止させようと図つたが言うところまで言わねばならぬと思つた私は議長の連呼

    を知らぬふりして演論を進めて行つた。

     業を煮やしたサビッチ氏は、大音声を張り上げて極力私の演設に中止を命じたが、その時突如起つたのは、ワシン

    トンライフのアクチュアリー故ピアソン氏りO°国霧ωo口であつた。氏は「只今日本代表のなせる演詮は、目下問

    題になつている日米供託金問題の真相を釈明するためであるから、特に時間を与えられたし」と提議したところ、満

    場之に賛成し、私は何等の障碍もなく、言うべきを言い尽して、各代表の諒解を求めた。幸い各代表からは何等の異

    議もなく、私の読明を肯定して呉れた。

     会議が絡つて後、私はこの問題について三会計 を訪ねようと試み 。ますエクィタプルとミューチュアルとを訪ね

    たところ「この問題については未だ考慮中だから」とて面会を断わられ、最後にニューヨーク生命を訪れた。すると

    副瀧長のウィークス氏(幻゜ぐく゜ ぐく①①閑ω)が応接に出て、私の述べるところを詳かに聴取したのち「よく了解しまし

    た。供託金をとるのは当然のことであるが、これは正金にしないで、有価証徐を以てするわけには行くまいか。この

  • 私の条件が容れられるなちば,ここで覚書を取交わしても差支ない」との意向を洩らしたので、問題の解決を後日の

    こととして、条件附覚書を手交したのである。

     図らすもニューヨーク生命において私の主張が通つたので、私は重荷をおろした心地で帰朝の族装を整えていた際

    突然に政廃から「ワシントンへ廻つて国務省を訪問し、問題の諒解を求めよ」と云う電報が届、いた.、愚かなことだと

    は思つたが、命令であるから粟津君を誘つてワシントンへ出かけて行つだ。国務省に次官ガーフィールド090村艶色O

    氏を訪れて、この問題について繰返し話したところ、次官は「私は保険の事は}切解らぬ。殊に貴下の云う問題につ

    いては国務省へ何等の報告もない」と豫期しない言葉であつたので、私も頗る拍子抜けの態で引下つた。

     こうした喜劇を最後の土産として私は帰国の途に就き、帰つてみると、供託金問題は依然沸騰しておつた。三会敢

    は獲烈な蓮動を継続し、はては井上侯の所まで持込んで、高圧的に問題を解決しようと図つていた。ある日のこと、

    三会肚の代表者が商工局長を訪れて膝詰談判を試みていた。私は局長の招きによつてその席に列なり、彼等に「ニュ

    ーヨーク生命は既に諒解したのであるから、貴下たちも同一歩調を取れぬことはあるまい」と逆襲したのに、彼等の

    }人は「貴下はニューヨーク生命を買収したのであろう」と頗る無祀な言を放つたので、私は最後の言葉として「い

    かに蓮動を試みられるとも、当局は確信を以てやつたことであるから、貴下たちの希望に副うことは出来ない」と断

    然拒絶したのであつた。(中略)

     然るにこの問題は外務省を通じ元老を通じて、日一日と猛烈を加え、途に農商務省の大官連を動かすに至つた。あ

    る日のこと森田局長が私を私邸に訪れて「君には本当に済まないが供託案を撤回して呉れまいか。実は蝕だけの話で

       志田先生と我国保険界                         一九

  •                                           二〇

    あるが、日露の関係が釜々険悪を加えて政府では既に開戦と決定したのである。この際米国官民の同惰を失うことは

    非常な損害であるから・残念であろうが我慢をして呉れLとの・とであつた。私も国家の存妄関する・とならば致

    し方があります糞い。しかし今撤回するわけには行かない。開戦になれば、それと同時に撤回しませう、と約束した

    のであつた・果せるかな・三十七年二月十一日に日露は兵火を交えるに至つたので、私も前約に従つて妥協案に服し

    さしも馨をかもした問題も漸く解決したのであつた。私としては、主張の上に勝利を得たのであるが、妻婁協、

    するの已むなきに至つたので、開戦と同時に辞表を提出して責任を果したのであつた。

     序でながら、当時農商務次官であつた安広件一郎氏は、一旦先生の主張に賛威した以上、外部からの攻撃干渉に一

    切取合うことなく,全く先生の自由に一任したのであつて、先生は晩年に至るまでこの態度を推称されていた。外国

    会肚側には不満の色明白なものがあつたが、やがて・ナダサ託をトツプとして次第撰託を実行する塁り、量

    年日露戦孚が勃発するに及んでも、懸念されたような悪影響は全く見られなかつた。この問題は先生が事をなすに当

    り、固い決意を以て所信を断行されたことの一証左とも成るものである。

     因みに前記の供託規定は、大正元年十二月の勅令第五十七号、外国保険会肚に関する件により、はるかに明確且詳

    細に規定されるに至つた。印ちその第五条の規定を示すに、次のようである。

     外国会杜ハ生命保険ヲ目的トスルモノニ在リテハ十五万円、損害保険ヲ目的トスルモノニ在リテハ十万円ノ金額ヲ

    供託スルニ非ザレハ其事業ヲ開始スルコトヲ得ス

     外国会杜ハ生命保険ヲ目的トスルモノニ在リテハ各事業年度ノ絡二於テ計算シタル責任準備金ノ十分ノ六二相当ス

  • ル金額、損害保険ヲ目的トスルモノニ在リテハ各事業年度二於テ収入シクル保険料ヨリ日本二於テ支払ヒタル再保険

    料ヲ擦除シタル残額ノ十分ノ五二相当スル金額ヵ会肚ノ既二供託シタル金額ヲ超ユルトキハ差額ヲ次ノ事業年度開始

    後六箇月内二供託スルコトヲ要ス其金額力既二供託シタル金額二達セサルトキハ供託金ヵ第一項ノ金額ヲ下ラサル限

    度二於テ差額ノ還付ヲ請求スルコトヲ得

     外国会肚ハ主務官庁ノ認可シタル有価証券ヲ以テ前二項ノ供託金二代フルコトヲ得L

     右の規定は先生の精耐を詳細に具体化したものとも言いうるであろう。今後外国会肚との交渉が繁くなるに際し、

    先生の前記の態度は我々にとつて大きな教訓を与えるものと言い得る。なお先生がニューヨークに赴き、第四回国際

    アクチュアリー会議に出席された時の報告論文は↓ロ①艮ω犀肖皇080h夢o冨け①O窪μOl頬動OΩo昌①ω①♂<9δ鉾℃弓Ooool

    q言騎ωO隔けぴ⑦国O講辞び{βけO嘱昌四艶O謬巴OO昌伽q弓①のωOh》Oけロ皿鉱092°閃゜「μ㊤O冷くOド一゜P胡゜ であるo

    六保険演習の創設

     先生は明治三十六年一月、推薦にょり法学博士の学位を授けられ、同年七月、東京帝国大学法科大学教授に任ぜら

    れ悔(民法講座担任)。而してその翌年東京帝大に保険演習の開設が決議されたのは、主として先生の努力に基いたも

    のである。但しここにいう保険演習は、保険学の講座に附帯して設けられる施設ではなく、保険会就の従業員に対し

    て保険の学問的及び技術的知識を授ける施設なのである。

     元来生命保険従業員のために特別の教育機関を設けることは、当時明治生命祉長であつた阿部泰藏氏の宿望であつ

       志田先生と我国保険界                                一=

  •                                            二二

    て、之を先生に語られたことが発端になり、帝国生命の編原有信氏及び日本生命の片岡直温氏も賛成して次第に具体

    化するに至つたのである。但し保険従業員の教育機関を設けることに対して、法科大学の教授会では異議を唱える向

    も少なからす、たとえ生命保険会肚談話会の側から依託されるとしても、養成所の名義で開設することはあく迄不可

    であると主張する向があつた。之がために折衷案として保険演習という名義とし、学生の正科に属しない附帯的任意

    聴講施設として設け、 一方において会敵の肚員を教育すると共に.大学生の特殊研究の便宜をはかることとして実現

    を見るに至つた(志田先生「学界及び業界の回顧」.生命保険協会会報.第三十ご巻第一号、六九頁)。

     当時同様の計画をもつていた日本アクチュアリ1会は、この事情を聞いて直ちに賛威し、明治三十七年八月の例会

    に於て、その実現に尽力する旨を決議し、又生命保険談話会も同年十月の集会において、明治、帝国、日本三肚の提

    案に係る「生命保険講習会創設」の件を附議し、全会一致を以て可決した。その提案の要点は次のようであつた。

    一、講習会は東京帝国大学に附属すること

    二、会場は帝国大学…教室を以て之に充てること

    三、講習の科目は、法律経済、統計、数学及び生命保険の学訟実際などであつて、帝国大学教授及び諸会肚のアクチ

     ュアリー等が之を分担すること

     四、講習会は毎週二三回開催し、学生会杜員その他の者が各その択ぶ所の科目を履修すること

    五、同業会肚から一回若くは三回に、金五千円ほどを醸出し、講暫に必要な書籍購入の費用等にあてること

     右の如き提案が全会一致を以て可決され、発起三会祉の外に仁寿、共済の二肚を加えてその実行委員とし、醸金の

  • 方法、帝国大学との交渉等を一任した。

     他方において東京帝大法科大学側では、同三十七年十二月二十二日の教授会において、保険会肚の希望を容れて保

    険演習の開設を決議し、金井延、高野岩三郎及び志田先生の三教授を委員として、その実行に当らしめることと成つ

    た。事がここ迄蓮んだのは、専ら先生の努力に基くこと言うまでもない。かくて生命保険会杜談話会は,翌三十八年

    二月に日本倶楽部で常会を開き、会肚委員から醸金の額(十九会肚から五千百円)及び大学との交渉についての報告

    があり、ここに保険演暫の創設が決定したのである。

     かくて第一期の保険演習が明治三十九年十月に始まり、四十一年十月に絡り、以後今次大戦迄回を重ねて行なわれ

    聴講者はA口計二千名の多きに達した。なお本演習はその澹革にょる当然の結果として、生命保険従業者に対する教育

    機関となつていたのであるが、大正十五年の第十回演暫からは火災保険の講義を加え,昭和五年の第十二回保険演召

    の時から、新に生命保険部と損害保険部とに分け、各々その専門について研修させることになつた。

    七保険關係諸機關

     日本アクチュアリー会についても、先生はその古い会員の一人であつた。言うまでもなく、鋤o什偉笛目団 アクチュア

    リーは、生命保険計理人のことであり、元来は生命保険の数理統計の専門家を意味したのであるが、今日では生命保

    険事業の経営全般について深い知識を有することが要求されるに至つている。我国では明治三十二年十月未に、矢野

    恒太氏の主唱に基いて粟津博士その他全部で九人が集合して日本アクチュアリー会の発起人会を開き、会則その他を

       志田先生と我国保険界                 ご三

  •                                           二四

    決定し、第一月衣会を翌十一月末に開催した。先生も当然発起人の一人たるべき筈であるが、たまたまヨーロッパに

    留学中であつた為め、之に加わることが出来なかった。しかし乍ら、この通知を受けると共に心から賛同され、第五

    月次会には、最初の入会者として、橋本重幸氏と共に入会された。創立後満二年を経た明治三十四年末における会員

    数が十一名であつたことに鑑みても、先生が同会の発起人に準すべき存在であつたことが知られよう。

     先生の教壇生活は明治二十九年六月から昭和十八年六月に至る四十七年間の長きに及んでおり、その担当講座は商

    法と保険学とが主たるものであつた。その間慶応義塾からの出講依頼に対しては、距離の関係から之をことわられた

    が、その他の主要な法文系大学では殆んど教鞭をとられたようである。師ち学習院大学(明治二十九年)、 東京高商

    (明治三十年)を初めとして、東京帝大、明大、早大、日大、申大、法大、立正大その他で、或は教授として、或は講

    師として講義を担当された。特にわが明治大学についてみるに、明治三十年以来教鞭をとられ、昭和十五年六月に本

    学総長に就任、同十八年六月満期退職せられるまで四十六年間に及んでいる。その間大正十五年四月に商学部長に就

    任せられ、昭和十五年迄在任されたのであるが、わが商学部が明治三十六年十二月に設立されたのは、専ら先生の建

    言と斡旋とに依つたのである。なお今次大戦の初めの頃、本学に出講の保険学園係教員としては、先生を初め、石川

    文吾,水口吉藏、藤本幸太郎、森荘三郎、瀬戸彌三次、北沢宥勝の諸先生及び私の八人が有り、保険大学が成立し得

    ると評する向も有つた。之は先生と保険学との関係に基くところが少なくなかつたこと明らかである。

     保険学の講座について一言するに、保険一般に関する講義は、東京高商において初めて設けられたのであるが、そ

      ロ

    の名称は単に保険と云う学科であつた。保険学と云う名称の講座が初めて設けられた0は、東京帝大においてであつ

  • て、同大学に経済学部が設立されると同時に保険学の講義が開かれたのであつた。そうして之は、同学部設立準備の

    勲授会において、先生が保険学の名称を以て講座を開くべきことを主張されたために外ならない。保険学が一箇の論

                         ロ

    (ピΦ冨ρ国皿ロ創o)でなく、科学(薯δの①昌ωoび自凸坤)でなければならないと云う意見を先生が懐かれるに至つたのに

    ついては、ドイツのアルフレート・マーネスやアメリカのフレデリック・ホフマンの著書(》°ン臼90昌①ω”<o『のざび①1

    『q◎ひqの≦①ω①9同゜切9ρ資9臼㊤O膳゜悶゜国o津日射昌噂H口の二弓魍昌oΦQ。息⑦口o⑦二〇昌α⑦oo口o含ざoo}日り嵩゜)などの叙述が与っ

    て力あつたように思われる。

     大正十年十一月ご十八日には、日本アクチュアリー会の発起にょる「玉木粟津志田三氏記念観賀会」が生命保険会

    肚協会で盛大に催おされ、大正十二年二月には「玉木粟津志田三氏記念醗賀保険論文集」が刊行された。之は三先生

    が偶然にも等しく明治二十七年に東京帝大を卒業し、爾未二十余年間、絡始一貫して保険界の学術的実際的方面に貢

    献せられた功労の大なることに対するものであって、この企てが五百名に及ぶ多数の賛同者を得たのも当然であると

    言いえようo

     保険会肚の関係について述べるならば、既に第一節で詳かなように、現東京生命の前身である真宗信徒生命の設計

    に当り、その成立後長く顧問の地位に在つた。大正八年には安田善三郎氏の請に応じて安田家に関係し、共済生命の

    常務取締役に就任した。共済生命は昭和四年に安田生命と改称し、絡戦後光生命と改めて今日に及んでいる。又右と

    共に、安田家の経営に係る東京火災、東洋火災、帝国海上等の損害保険会就の役員としてその経営に参与された。但

    し大正十二年末には、安田善衣郎翁亡きあとの葛籐を快しとせす、これら一切の職を去られたのであつた。なお先生

       志田先生と我国保険界                              二五

  •                                            二六

    が客員的待遇を受けた保険会肚は一二にして止まらないのであつて。例えば口本生命は、先生をその最後迄肚友とし

    て待…遇したのである。八

    保険学上の主張

     生はその師レクシス教授と同様に、著書を公にされること極めて少なく、.保険学については「保険総論」大正十四

    年吾)のほか私・の共訳書「ヴ・ルネル氏罎総論」(昭和歪吾)があるに止まる読者復三保険学馨案」

    (昭和二年五月)と改められ、十数版を重ねた。同書は百三十九頁の小著ではあるが、なお先生の周到な推理や勝れた

    独創性は随処に之を見出すことができる。勝呂弘教授の「保険学」(昭和十四年六月)や、私の【,保険経済L (昭和二十

    五年日月) は、先生の構想に基く所が少なくない。保険に関する論文は七十篇に近く、その年代は明治二十六年から

    昭和十六年に亘つている。その多くは先生}流の卓抜し悔着想、見解を示しているのであるが、遺憾乍ら鼓では詳述

    の暇がない。

                                           り

     (1)先生の「B本商法論巻之三商行為」の中では当然保険法について述べられているが、保険学の行き方とは自ら趣を異にする。

    一、ただ蝕には、比較的近年において、保険学に関して、先生が主張された三つの事柄につき読明を加えることとす

    る。その主張の一は、保倹の本質に関する入用充足読の擁護である。従未わが国における保険本質論としては、アド

    ルフ・ワーグネル流の損害分担読 》’毛2。瞭口Φ屋Qっo犀9。α①口くo詳Φ自ロ昌伽q°。けぽ①O覧①が殆んど無批制に信奉される状態

    であつたが、外国では十九世紀末にイタリアのウリッセ。ゴッビq°Ooぴぴ一が損害観念に囚われない入用充足論を

  • 始唱し、ドイッのマーネス諺’]≦皿”Φωを通じて一九〇四年以後世界的に知られるに至つた。我国でこの学説を最初

    に紹介すると同時に、之を主張する旨を明言されたのは外ならぬ志田先生であつた。師ち先生は、大正二年十一月

    八日に、わが明治大学紀念講堂で開かれた、保険同交会主催第四回保険学講演会において、 「保険の意義に関する新

    読」と題して述べられたのがそれである。

     先生の講演要旨は、「保険評論」第六巻拾号(大正二年十↓月発行、三一頁以下)に収録されている。翌大正三年には

    早大教授宮島綱男氏が「保険論」で入用詮に言及されたが、損害論との差を明確にされなかつた。やがて石川文吾博

    士(大正四年)、小島昌太郎博士(大正七年)、青山衆司博士(大正十年)その他の学者が同読の紹介及び批制を試みられ

    るに至つたのである。この間の事情は先生の論文「我邦に於ける保険学読としての財産入用説の現情」(明大商学論叢

    第三巻五号)に明記されている。

     先生は単に入用充足説を卒先して信奉されただけでなく、絶えすその検討と改善とに努められていた。この説を奉

    する多くの学者の、保険に対して下した定義のうち、先生の定義が内外のそれに比べて最も秀でていることは、かつ

    て私の詳読した所てのる(印南「保険の本質に関する入用充足説の発展」、前出.一二二~一二九頁)。又この学説の経済学的

    基礎づけとして、入用切①α鋤践の概念に立脚する経済学を展開したフリードリヅヒ。フォン・ゴットル団゜〈°Ooけ二

    -O#一箪Φ口h2α の理論に注意を払われたのも先生であつた。 この理論と保険概念との結びつきを素描しようと試み

    たのが私の論文「ゴットル理論の保険学に於ける展開」 (一橋論叢第七巻二号.昭和十六年二月)でのつた。ドイツでは

    ボードー・ローテ切゜知Oけ犀Φが保険概念論でゴットル理論に拠つたのであるが(O葺口巳①αq口昌αq豊。ぎ霞゜。o且巴α犀8?

       志田先生と我国保険堺                                二七

  •                                            二八

    ヨ凶ωoげ①昌円700ユΦ畠霞く2ω8ぴ臼きσq”6ψ封ω゜凱燈1$°) 積極的な威果は示さなかつたようである。

     入用充足論に対する理論的な批判としては、我国では小島昌太郎博士がその旧著「保険ト経済」(大正七年十一月、一

    ご八~一二九頁)で述べられたのが最初であろう。この批制は、経済生活確保論の始唱者であるオ!ストリアの法学者

    ヨ↓フ゜フプこ』弓冨の意見をそのま叢入れたものであゑ・島・α…ま・°・<・・ω……時・曇距α・°・”芭・噌

    No営゜穿洋h霞α霧αq$坦3轡Φ国きユ9°。器。窪口a図o酵ロ誘話ゲ♂αα゜】W碧山”這δりω゜Uc。凱hh°)。之に対して先生はその批

                                                   ヤ

    剰の当らぬ所以を明論された(「我邦に於ける保険学説としての財産入用説の現情」前出、一一三~二四頁㌔ この問題をめぐ

    る論孚には、近藤文二教授と私とが参加し、前後二十三年に亘つて意見がたたかわされ、保険学界の注目をひいたの

    であつた(印南「保険経洛」、一三〇頁)。 結局近藤教授が私の主張を是認されて絡結したのであるが、とにかく入用充

    足読が我国において著しく普及したのは、先生が明大、商大等における講義その他を通じて、絶えす、王張し続けられ

    たことに主として因るものと言わねばならない。

    二、その二は保険学の性質に関する問題である。マーネスは、保険学と云う概念が「純然たるドイツ産のもの」であ

    ると主張すると共に、外国では生命保険の分野、時としてなお火災保険の分野に関する専門的知識が保険学として示

    されるのに反し、保険学のドイツ流の概念は、はるかに包括的である。と誇つている(》・竃鋤昌。・。℃<。憎。。一島。2ロαQ、妻.噸ΦP

    心・》亀二這撃・ω・一℃℃・)。彼の云うドイツ流の保険学概念とは、一九二九年四月十日に定められたドイツ保険学協会

    の会則第二条第二項に示された定義である。邸ち「保険学とは、法律学、経済学並びに敦学及び自然科学繭分野の知、

    識のうち、その存在と発展とが保険に役立つものを云う」と規定ざれているつ之は明らかに各種の科学分野に属する

  • 知識の集合であつて、マーネスは、保険学は特殊科学ωo昌O賃-乏δωo口ωoげ餌津であると云わんより、むしろ集合科

    学QQ鋤筥目①一類δω①昌ωoず9ρ津である(]≦m昌。。。”〈巽■■♂『。葺δαqω貯×障oPH°》⊆自二60汐ω℃.頓ひN)と称しているQ

     我国では三浦義道博士が、保険学は独立的科学であつて、各種の分科的研究を経緯として、保険制度を中心とした

    独立的系統の下に、綜合的研究をなし、之にょつて保険制度の本質を明らかにし、併せてこの制度の蓮用の理論を研

    究することを目的とする、と定義した(「保険学」.一頁及九頁)。 そうして、保険学に取入れられるべき知識には、経

    済学的知識の外に,法律学的、統計学的、数学的、医学的、工学的知識その他諸科学的知識がある。但しこれらの知

    識の単なる集合でなしに、保険制度を中心とした、独立した一系統の下に、諸分科知識を経緯として組織的大系を樹

    てるのである。故に保険学は綜合科学であつて、綜合は混合ではなく、化合である(同上、一〇頁)と読明した。

     右の二つの主張に対して、志田先生は最も早く反対意見を表明された(「所謂アクチユアリー学に就て」.日本アクチユ

    アリー会創立二十五年記念講演論文集、「保険学の研究方法に就きて」、保険銀行時報.第=一五四号、「アクチユアリー,学の意義に

    就て」、明大商学論叢、第二巻噸号)。先生の反対理由の一は、同一の対象を取扱うために、文化科学と自然科学とを打つ

    て一丸となし、独立の一科学を成立させることは、科学の体系上許し得ないからであり、その二は、保険を対象とす

    る保険学なるものが、どのような科学の部門に属するかを決定するには、保険の本質が如何なる科学の取扱うべき所

    であるかに基づくべきものである。そうして保険の本質は経済科学の対象たるべき経済現象である故、保険それ自体

    を取扱う科学は経済科学であると認めるのが当然である(「アクチユアリー学の意義に就て」、前出、四頁)、と云うにある。

    かくて先生は、保険学は経済科学の一分科たるべきものであると主張されたのであつて、この意見を主張したのは,

       志田先生と我国保険界                     二九

  •                                           三〇

    我国では先生が初めてである。

     この問題の解決について、先生の所読だけで充分とするわけには行かないにもせよ、従来の論を批制し、正しい方

    向を決定的に示された功績は没することを得ない。やがて先生に続いて小島博士の論文「保険学の本質」(経洛論叢、

    第二十六巻四号)及び米谷博士の論文「保険学の方法に就て」(保険学雑誌、第三百十六号)が公けにされ・それぞれ保険

    学の性質について、集A・科学読や綜A。科学読の誤を詳読し、経済科学分科読の正当であることを論断した・後に至つ

    て近藤教授はこの問題につき詳論し、経済科学分科論の立場に立つて、積極的な見解を展開されたのである(保険経浩

    学、第一雀、三九頁以下)。

    一『最後に指摘したいのは、先生が保険における救済性を否定されたことである。保険が相互救済の施設であると云

    う老は、多くの保険学者及び実際家の口にする所である(例、粟津博士「保険学綱要(緒論、総論)」.一五二頁、柴官六氏・

    「保険学概論」、六頁)。之に反して先生は、保険思想が相互救済の思想から転化し来つたと論明するのは、一面の真理

    を含んでいるが、之がために、保険は相互救済の一種であると結論するのは、論理上欠陥の存することは勿論、保険

    の何であるかを詳かにしていない、と評されても仕方がない位である(「保険総論」、六六頁)と述べ、更に、保険は多

    数人の結合、及び公雫な分担と去う要件を備えており、之を相互依存の精神に基づくものであると見、又融会連帯の

    代表的縮図であると解することは、必らすしも誤ではない。しかし乍ら、相互依存又は就会連帯においても、互に救

    済する関係の有る場A口と、救済性を含まない場合とが存するのであつて、保険はこの後者の例に外ならないことを指

    摘された(同上、六八.六九頁)。

  • 保険加入者間に救済的関係、慈善的要素の存在しないことは、先生が師事されたレクシ薮授が夙男論した所で

    あつた(ζ9昌Φ。。”〈①噌。。凶島①.=昌σq。。占Φ×澤8℃H°》邑二60担ω鷲゜曽α゜)Q先生は同じ趣旨の事柄を「保険の基本精神を論

    す」と題する論文(明大商学論叢、第悪喜、一九頁以下)に嶺ても詳述された。相互救済の美わしい関係を実現し

    ているが故に、保険は聖業であると云う見解の誤つていることは、先生の所論から当然に結論として出て来る所であ

    る(印南「保険企業の諸性格」、明大商学論叢、第一巻五号.一八頁以下)。

    右の関係から当然推論されうることは、相互救済を精紳とする所の共済組倉、入用自足を縞とするところの保

    険とが全く異つた精榊に立脚することである。この点を詳細に論じられたのが、先生最後の論文である「保険精聯と

    共済精神」(矢野恒太君保険関係五圭記念文集、昭和+六年、五四九頁以下)であつた。・の見解は近嚢授も響引用

    して賛意を示している(例、「肚会保険」、八三頁)。なお先生は、保険における非救済性を示す所の、レクシスの「給付

    反対給付均等の原理」が、肚会保険において全く否定されるか否かの問題に論及し、全面的に否定されるべき性質の

    ものではないことを主張された(「保険の甚本精紳を論ず」.前出、日・六頁)。 之は近頃肚会保険の保険性が問題とされて

    いる事情に鑑みても(大林良一教授「耐会保険の保険性」、一橋論叢第二一巻五・六号)興味深い事実であると言い

    えよう。

    む  す

    先生は、.クシスに関する追憶の・ 。葉として、かつて次のように述べられた。即ち「・クシスは馨が決して幸

      志田先生と我国保険界                                三一・

  •                                           三二

    と言うわけに行かなかつた、……しかし乍らレクシスの学生に対する態度は極めて親切であつて、求められれば飽く

    迄も懇切丁寧に啓発に努め、真の学者として尊敬されるのに相応しかった。売名的な気持などは全く見られす、純然

    たる学者肌の人であつて、同教授の風格を追想し、誠に尊敬措く能わざるの感があるLと(印南「レクシスの保険理論」

    前出.三五頁)。先生のこの評言の大部分が先生御自身にも当てはまるように感するのは、果して私一人であろうか。

     なおレクシスが若くして最初に勤務した、ボン市のギュムナージウムの記録には.彼に関する一八六〇年十二月二

    日附報告が載つており、その中に次のような記述が見られた(≦・い。おざ≦津9ヨい①x♂鐸巳集①〈①邑。冨昌昌αq°。葺の゜。。〒

    ω。匿津㌧累9象玲ω冨ユωけ凶゜。犀弓達ω宥津▽切弩9冷国似h⇔°一㌦℃謡℃Qo°出h・)Q曰く「彼の講義は全く明快且確実であり、その

    方法は適切である。生徒の取扱に当つては、親切且穏和であるが、しかも必要に際しては、毅然たる態度国馨のo窪i

    ①ユΦ昌ず①洋を示した。とにかく彼の全人格は、何か人を惹きつけるものoけミ山叩国言昌①げ日o口匙①ωがあつた。殊に彼

    の特徴は非常に謙譲だつたこと①宣①αq村Oωω①Qσ①ωoぴ①冠①口げ①穽であり、それは、彼がその専門において周知のよう

    に精進している事実と結びついて、一暦奥床しさを感じさせた」と。この評言といい、又彼が七十回の誕生臼におけ

    る祝宴で「何でも知つている人」]≦鋤口Pαo吋9ユ=Φの≦①一qaωと折紙をつけられたことといい、いずれも志出先生を連

    想させるものがある。

     更に、入用充足説の始唱者たるウリッセ・ゴッピ教授をイタリアに訪問した、恐らく唯一の邦人と思われる米谷隆

    三博士は、その追想の中で次のように述べられた。 「私は前後数回御邪魔したわげであるが、いつも優しい態度で接

    して下さつたことは、今も非常に楡快に思つている。私は特に志田先生に手紙を認めて、志田先生とゴッビ先生とが

  • 丈の高さから一般の感じに至る迄、非常に似ているとお報らせしたのであつた」(印南「ゴジピ氏保険理論の研究」、蹟文

    三頁)。 以上のことは志田先生が、 「私の恩師で温厚篤実なるレクシス先生の保険学詮と、真率な研究者たるゴッビ

    氏の保険学説とは私が研究すればする程合理的であり且深遠なる入用充足読であり、マーネス氏の読に比し、遙かに

    勝れたるものなることを発見したのである」云々(同上、序文、一頁)と述べられていることと思い合わせて、興味深

    いものがある。

     近藤教授は、先生に対する追憶の言葉の中で「わたくしと先生の間には勿論師弟の関係はない。しかし、学問上に

    おいて先生に敢えられるところは実に多かつたといつてよい。先生は元来、法律学者であつて、わが国商法学史の上

    においては、さんぜんたる功績を残しでいられる・:…この法律学者である志田先生が、あれぼど深く保険の経済学的

    分析をされたということは,誠に驚嘆に値するといつてよい」(「志田先生の想出」、保険銀行情報一、八九号、一頁)と述

    べている。先生が保険の概念規定を重硯せられ、理想的な定義の規定に少なからす心を労されたことは、法律学的考

    え方の根強いことを思わせるものがあつた。それにも拘わらす、先生が教授の評言にもあるように、深い経済学的考

    察を進められたことは、先生が専門に偏することを避けられたためでもあるが、又事物の真相に徹底して理解しよう

    とする学問的熱意と,鏡利な考察力との然らしめた結果であると言い得よう。

     私はかつて入用充足論の沼革を扱つた論文の絡りに、次のような言葉を述べた(「保険の本質に関する入用充足説の発

    展」、前出、=二六頁)。翻ち、私は入用充足読の今後の発展について、洋々たる希望を懐くものである。勿論その課題

    は重く、困難は随時に起るであろう。この困難を克服τ、その課題を完成した曉の喜こそは、限りなく且大きいもの

       志田先生と我国保険界                                 三三

  •                                            三四

    が有るであろう。しかし乍らその途上における一々の困難を解決しようと努力する中になお.学徒の限り無い喜が味

    われねばならない。入用充足説の発展に縁り深い本学が、その創立六十周年の意義深ホ歳を期として、同読の一暦の

    発展に対して、今後共多犬の寄与をなし得べきことを衷心から所念したい、と。しかし乍ら之は、ただに入用充足読

    だけについてでなく、保瞼響学についても当てはまるであろうと思う。

     このような課題の達成については、志田先生の御指導に倹つ所が大きかつたのであるが、今や先生に呼びかける術

    も無くなつた。本稿を草して先生の業績を偲ぶにつけても、先生を喪つた損失と悲の大きいことが、今更ながら痛感

    される。蚊に我国保険界に対する先生の功業を録して、幾多の教訓を汲み取ると共に、先生の関心が深かつた保険学

    の分野に対し、先生に縁りの深い本学が、今後とも何らかの寄与をなし得るようにと所念してやまない。