232
人文社会科学論叢 ISSN 2432-3519 弘前大学人文社会科学部 2018. 2 第4号 人文科学篇 【論 文】 社会科学篇 【論 文】 【翻 訳】 【報 告】 「ミルクで教理を育せしめよ」 ─ A・ヴァリニャーノの教育思想をめぐって ─ 李     梁 1 『幸福な死』への挑戦 ─カミュ最初の小説執筆の経緯と意義─(上) 奈 蔵 正 之 15 様態動詞と結果動詞 奥 野 浩 子 75 1782 年のウェストミンスタ補欠選挙 中 村 武 司 85 外国人介護労働者の受け入れに関する課題 ─台湾の経験から─ 城 本 る み 101 1883 年度以降の軍備拡張計画に基づく 日本海軍の艦船輸入について(上) ─対清戦略と技術進展との関連において─ 池 田 憲 隆 123 非伝統的金融政策と青森県のマクロ経済 ─構造 VAR モデルによる検証─ 山 本 康 裕 137 準市場の優劣論と介護保険制度導入後の結果(2) 児 山 正 史 175 ドイツ統一記念式典での連邦大統領 フランク=ヴァルター・シュタインマイアーの演説 マインツ、2017 年 10 月 3 日 齋 藤 義 彦 201 消費者問題講義の課題と展望 ─弘前大学における消費者教育の実践─ 福田 進治・加藤 徳子 211

ISSN 2432-3519 Humanities and Social Sciences 人文社会 ...human.cc.hirosaki-u.ac.jp/jinbun/web/img/pdf/bulletin/...2018/02/28  · その証拠として、黄宗羲 (1610-1695)、梅文鼎(1633-1721)、王錫闡(1626-1682)、戴震(1724-1777)らに代表された、

  • Upload
    others

  • View
    0

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

  • 【Articles】

    Studies in the Humanities and Social Sciences

    No.4

    人文社会科学論叢人文社会科学論叢

    Faculty of Humanities and Social Sciences, Hirosaki University

    ISSN 2432-3519

    弘前大学人文社会科学部

    弘前大学人文社会科学部

    2018. 2February, 2018 第4号

    第4号

    2018. 2

    人文科学篇【論 文】

    社会科学篇【論 文】

    【翻 訳】

    【報 告】

    「ミルクで教理を育せしめよ」 ─ A・ヴァリニャーノの教育思想をめぐって ─ 李     梁 1

    『幸福な死』への挑戦 ─カミュ最初の小説執筆の経緯と意義─(上) 奈 蔵 正 之 15

    様態動詞と結果動詞 奥 野 浩 子 75

    1782年のウェストミンスタ補欠選挙 中 村 武 司 85

    外国人介護労働者の受け入れに関する課題 ─台湾の経験から─ 城 本 る み 101

    1883年度以降の軍備拡張計画に基づく日本海軍の艦船輸入について(上) ─対清戦略と技術進展との関連において─ 池 田 憲 隆 123

    非伝統的金融政策と青森県のマクロ経済 ─構造VARモデルによる検証─ 山 本 康 裕 137

    準市場の優劣論と介護保険制度導入後の結果(2) 児 山 正 史 175

    ドイツ統一記念式典での連邦大統領フランク=ヴァルター・シュタインマイアーの演説マインツ、2017年10月3日 齋 藤 義 彦 201

    消費者問題講義の課題と展望 ─弘前大学における消費者教育の実践─ 福田 進治・加藤 徳子 211

    “Lac vobis potum dedi” : On the educational thought of A・vallignano LI Liang 1

    L’ Enjeu dans La Mort heureuse:La Genèse et les thèmes du premier roman de Camus NAGURA Masayuki 15

    How are verbs divided into manner verbs and result verbs? OKUNO Koko 75

    The 1782 Westminster by-election NAKAMURA Takeshi 85

    Some issues around acceptance of care workers from abroad:from the perspective of the cases in Taiwan SHIROMOTO Rumi 101

    On the import of protected cruisers by Japanese Navy, 1883-86 IKEDA Noritaka 123

    Unconventional monetary policy and macro economy in Aomori prefecture by structural VAR analysis YAMAMOTO Yasuhiro 137

    Quasi-market and long-term care insurance system: an analysis of evidence(2) KOYAMA Tadashi 175

    Ansprache von Bundespräsident Dr. Frank-Walter Steinmeier beim Festakt zum Tag der Deutschen Einheit am 3. October 2017 in Mainz: SAITO Yoshihiko 201

    A report of the Lecture on Consumer Affairs in Hirosaki University FUKUDA Shinji KATO Tokuko 211

  • 1 

    「ミルクで教理を育せしめよ」※

    ─A・ヴァリニャーノの教育思想をめぐって─

    李     梁

    はじめに2015年 3 月17日は、世界宗教史上の奇跡といわれた「信徒の発見」150周年にあたる節目の年で

    ある。その数日後の21日に、筆者は長崎県南島原市の口之津を訪ねた。1579年 7 月25日、この盛夏の日に、イエズス会東インド巡察師A・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano、漢名は范礼安、1539-1606)がこの小さな港町から上陸し、はじめて日本の土を踏んだのである。この来日を記念するため、2011年、口之津漁港公園の一角に、ヴァリニャーノの生家であるイタリアのキエーティ市(Chieti)から寄贈された銅像が建てられた。強い意志力と深い愛情を湛え、かつ痩せこけたその顔を仰視しながら、深い感動を覚えたことを今でも鮮明に覚えている。

    フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸した1549年から、18世紀後半迄、主としてカトリックの新興修会のイエズス会による宣教活動は、同時代の東アジア諸国にカトリック信仰とその神学思想を伝え、大いなる思想的衝撃を与えた一方、また宣教の手段として伝えたヨーロッパ・ルネサンス期の科学技術諸芸は、近世東アジア固有の知識体系(朱子学)─知識構造・方法論・認識論─を動揺させ、新しい知識体系の発生を誘発するとともに、精神信仰、学問方法および自然観、世界観

    ※ イエズス会ではトーマス主義を信奉する修道会として知られる。従って、イエズス会士は大抵トミストだと思われます。ヴァリニャーノの常套句として発する「ミルクで教理を育せしめよ」というのも以下のように、トーマスの『神学大全』にその影響の一端をみいだすことができるだろう。中国広州中山大学哲学系梅謙立

    (Prof.Thierry Meynard)教授によるラテン語英訳とご教示に感謝する。 While at the Santa Sabina studium provinciale Thomas began his most famous work, the Summa

    theologiae, [34] which he conceived of specifically as suited to beginning students : “Because a doctor of Catholic truth ought not only to teach the proficient, but to him pertains also to instruct beginners. As the Apostle says in 1 Corinthians 3 : 1–2, as to infants in Christ, I gave you milk to drink, not meat, our proposed intention in this work is to convey those things that pertain to the Christian religion in a way that is fitting to the instruction of beginners.”(Summa theologiae, I, 1, prooemium : “Quia Catholicae veritatis doctor non solum provectos debet instruere, sed ad eum pertinet etiam incipientes erudire, secundum illud apostoli I ad Corinth. III, tanquam parvulis in Christo, lac vobis potum dedi, non escam ; propositum nostrae intentionis in hoc opere est, ea quae ad Christianam religionem pertinent, eo modo tradere, secundum quod congruit ad eruditionem incipientium.”)

    【論 文】

  •  2

    といった一連の重大な思想問題を惹起していたと見做されている。ここでいう「近世東アジア」は、狭義的には、すなわち「中国では宋、元、明、清、朝鮮では朝

    鮮王朝、日本では江戸時代を指す」1 ことである。近世東アジアにおける知の空間は、突き詰めて言えば、儒学的経学、つまり朱子学という知識体系によって紡がれた政治、または学問思想の世界だったと言ってもよかろう。

    ところで、中国をはじめ、東アジアにおいて、「義理の学」と唱道された儒学的経学、つまり朱子学の本格的な解体は、19世紀後半以後、新たに伝来した西学、とくに「近代西洋の政治体制」の圧倒的な勢いに押された清末民初期であるが、その端倪は、早くも16世紀末から17世紀前半にかけての明末清初期に現れたのは、周知のことである。いわば、明末王学左派の矯激さへの反動として興った復古主義の清代の経学は、考証(または考拠)という方法論を高く掲げ、もはや知識構造、方法論ないし認識論において、伝統的な「義理の学」としての経学とは大いに趣を異にした。言い換えれば、学問思想(経学)の重心は、従来の「義理の考証」(義理の格致ともいう)から「物理の考証」(物理の格致)へとパラダイムシフトされた、ということである2。その証拠として、黄宗羲

    (1610-1695)、梅文鼎(1633-1721)、王錫闡(1626-1682)、戴震(1724-1777)らに代表された、天文暦算学を中心に据えた清代の経学、とりわけ乾嘉学派の考証学は、そうした傾向がとくに強い3。

    従来、こういった思想史上における革命的転回に対し、清代学者による自己学問の正統化、明学(特に朱子学の形骸化、王学左派の狂禅化)への反動、清学の「内在的理路説」(余英時)、イエズス会の宣教影響(梁啓超、胡適)、という違う角度からの解釈や見解が示されている。いずれにせよ、近世東アジアにおけるこれほど巨大な知の地殻変動は、16世紀から18世紀にかけて、イエズス会をはじめとするカトリック諸修道会の宣教運動、とりわけそれに伴って行われたヨーロッパ・ルネサンス期の新知識の伝播がなければ、やはり考え難い。

    だが、知識の伝播という営為は、伝える側と受け皿との異質性のゆえ、複雑な様相をもつ歴史的

    1 土田健次郎編『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院、二〇〇六年、「はじめに」i頁。2 房徳隣「西学東漸与経学的終結」朱誠如、王天有主編『明清論叢』第二輯所収、紫禁城出版社、二〇〇一年を

    参照。3 この点について、内外の学界では多岐にわたる議論が行われ、論点が交錯している。管見では、内藤湖南「先

    哲の學問」『内藤湖南全集』第九巻所収、筑摩書房、1969年;王萍『西方暦算学之輸入』中央研究院近代史研究所専刊(一七)、1971年修訂再版;朱維錚「十八世紀的漢学与西学」同氏『走出中世紀』復旦大学出版社、2007年、

    「導言」同氏主編『利瑪竇中文著譯集』復旦大学出版社、2007年;湛暁白、黄興涛「清代初中期西学影響経学問題研究述評」黄愛平、黄興涛主編『西学与清代文化』中華書局、2008年;ベンヤミン・エルマン(B. A. Elman、艾爾曼)「道学之末流―従宋明道学至清代考証学的転変」「十八世紀的西学与考証学」同氏『経学・科学・文化史 艾爾曼自選集』中華書局、2010年などの論考から見られる。より詳しい研究は、B. A. Elman, On Their Own Term, Science in China, 1550–1900, Cambridge: Harvard University Press, 2005の第三章 “Evidential Research and Natural Studies”を参照。なお、『西学東漸と東アジア』東京大学出版会、2015年も参照されたい。とくに当書の編集者川原秀城が「哲学Philosophiaを中心とした西学の東漸がなければ、明学から清学への思想変革はない」(同氏最終講義レジュメ、2015年2月21日、於東京大学文学部)と言い切ったところは興味深い。

  • 3 

    事象である。例えば、一般に西洋の文脈において、知識とは、長い歴史をもち、意味合いも多岐にわたった概念として、人間の知を獲得する認識論や方法論と密接な関係をもつものだと考えられている。そして、そもそも知識論は、宇宙論と倫理論と並んで、従来、西欧の伝統的学知における三大論のひとつとして、徳性の東洋(東アジア)とは、通約不可能性(incommensurability)という性質をもつものだと考えられている。したがって、そういった西洋的学知が近世東アジアの伝統教養と果たしてどう対峙していたのかは、巨大で複雑な問題群となるであろう。

    筆者は、これまで漢訳西学書を媒介に、16世紀末期から18世紀の後半にかけて、主としてイエズス会が伝えた「西学」の東アジアにおける伝播とその影響を研究課題としてきた。研究所見から、いわゆる西学理解の重要なステップの一つとして、まずその知的ルーツ、すなわち知の系譜学的究明がきわめて重要だと考えるようになった。そして、知識の生成と伝授は、ひとえに制度的教育という知的営為に負っていると言ってもよい。すると、ヨーロッパ・ルネサンス期という歴史的背景の中で孕み育てられたイエズス会の教育理念、とくにその教育実践の活動(各種学校の設立、運営並びに教学の内容)に対する史的考察は、16世紀以後、東アジアに伝播されたその新しい知識の具体的な検証、かつその歴史的意義の再吟味、再評価にとっても、避けて通れないきわめて重要な作業の一つではないかと思われる。

    この拙論では、イエズス会の東アジアの宣教および教育活動のグランドデザイナーとして、様々な困難な局面の中で優れた才智と手腕とを存分に発揮し、とりわけイエズス会の東アジアにおける教育活動の立案と運営に腐心したヴァリニャーノを軸に、彼の教育思想と実践活動の考察を通して、近世東アジアにおける「西学」伝播の歴史的事象の一端を読み解いてみようとするものである。

    一、イエズス会と教育

    1534年 8 月15日、パリ郊外のモンマルトの丘で、イグナチオ・デ・ロヨラ(1491-1556)は、ザビエルなど五人の同志を率いて、「清貧、貞潔、エルサレム巡礼」という三つの誓願を立てて、イエズス会というカトリックの新しい修道会が結成された。6 年後の1540年、イエズス会は、教皇パウロ三世(1648-1549)の回勅によって正式に認可された。創始者のロヨラは、波瀾に富んだ彼個人的体験により、イエズス会成立直後から、教育重視の姿勢を鮮明に打ち出した。それは、『霊操』(Exercices Spirituels. 1548)、『イエズス会会憲』(Constitutiones Societatis Iesu. 1559)、とりわけ

    『イエズス会学事規程』(Ratio atque institutio studiorum Societatis Iesu. 1599、通常Ratio studiorumと略称。図 1 参照)など一連の重要文献からも、また各種の学校設立と運営の実態からも窺い知ることができる。 

    ここで、イエズス会の教育理念とその特質の理解の一助として、まずそういった重要な歴史的文献の概要、並びにその歴史的意味について簡単に触れておこう。

    まず、ロヨラの『霊操』をみてみよう。一見して、『霊操』は、ロヨラの二度にわたる霊的体験

  •  4

    (一度目は、パンプローナ城でフランス軍との戦闘による負傷の療養中で得た「霊動弁別」の体験、二度目は、いわゆる「マンレサの照明」)からの産物のようにみえるが、実は、むしろ、中世ヨーロッパのカトリック諸修道会の霊的生活の伝統を受け継いで、更にそれを発展して体系化されたものである。ロヨラは、マンレサでの霊的体験を契機に、まだスペイン修学中で『霊操』を執筆しはじめ、そして、パリ大学在学中にほぼ完成し、1548年にローマ教皇パウルス三世の公認を得て刊行されることとなった。

    イエズス会の入会希望者は、まず『霊操』の四週間修練のプログラム、つまり「第一週は罪の認知と痛悔、第二週はキリストの救済活動の観想、第三週はキリストの受難の観想、第四週はキリストの復活の観想」を必ず実践せねばならない構造となっている5。『霊操』は、イエズス会士にとって、

    「より大いなる神の栄光のために」という究極な目的を達成するための心構えや行動規範とともに、最高な精神的指導綱要でもある。

    次に、『イエズス会会憲』を繙いてみよう。ロヨラが存命中、最大なエネルギーを注いだのは、『イエズス会会憲』そのものである。ロヨラは1539年頃より『イエズス会会憲』の草案となる『基本精神綱要』と『イエズス会会則第一草案綱要』を起草し、度重なる増改、修正をへて、彼が逝去

    (1565年 7 月31日)直前に漸く完成をみたのである。イエズス会の教育理念について、『イエズス会会憲』第四部の序文に次のように述べている。「本会が直接目指す目的は、会員と隣人の霊魂が創造された究極目的に到達できるように、霊魂を助けることである。そのために、生活の模範のほか、学識とそれを伝える方法が必要となる。したがって、会員に必要な土台、すなわち自己を否定し、善徳へと進歩するために必要な土台が据えられたと思われるならば、わが創造主なる神をよりよく知り仕えるために、学識の建物を築き、それを用いる方法を身に着けるように努めなければな4 Monumenta Paedagogica Societatis Jesu, vol. 5, Rome: Institutum Historicum Societatis Iesu, 1965.5 高橋裕史『イエズス会の世界戦略』、講談社、2006年。55~58頁参照。

    図 1、邦訳『イエズス会学事規程』(1599年版、長崎純心大学、比較文化研究所未公開刊行版)とラテン語刊行版 4

  • 5 

    らない」、という6。会憲第四部は、のべ17章からなる。学院、大学の創設、修学士の生活規程から学習内容、大学

    で教える科目と講義において解説すべき書物、課程と学院などかなり細かく規定されており、後の『学事規程』を垣間見るような内容となっている。この中で、とくに際立っているのは、古典文学と言語教育の問題である。古典文学は、文法のほか、修辞学、詩、歴史をも意味する。言語教育の問題というのは、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語は勿論、地域差や有益性の見地から、カルディア語、アラビア語、インディアスの言語を教える教師が必要に応じて配置するよう記されている。第12章449Bに、「学院と大学において、ムーア人やトルコ人のもとに行く人物を準備する計画がある場合、アラビア語あるいはカルデア語が適当であろう。しかし、インディアスの人々のもとに送るならば、インディアスの言語が適切であろう。同じ理由で、他の地域には他の言語がより有益となるであろう7」。後に、ヴァリニャーノの「適応政策」の思想的源流がまさにここから見出すことができるではないだろうか。

    最後に、概略的に『イエズス会学事規程』(以下、「学事規程」と略記)に触れてみたい。長い年月をかけて練り上げられ、1599年、正式に公刊をみた『学事規程』は、ヨーロッパの近代教育に深遠なる影響を及ぼした極めて重要な歴史的文献の 1 つである。イエズス会の教育理念とその方法論について、様々な面において詳細を極める規則を設け、とりわけ神学、法学、人文学および医学を中心学科とする「パリ方式」を採用した点は際立った特徴であろう。ロヨラは、神学の基礎に、ラテン語文法、修辞学とギリシア・ローマ古典学を据えたほかに、ルネサンス時代の人文主義の精神をも取り入れた点が、彼の時代を超越する洞察力と知見とを鮮やかに示していると言えよう8。これも、ロヨラがただ一人の宗教指導者に止まらず、偉大な歴史的人物の 1 人となりえた訳でもあろう。

    イエズス会の初等教育は、基本的にすべての人々に対して開放的である。とはいえ、学習の深化とともに、生徒の資質、とくに徳性がイエズス会に向いているかどうかは、またはどのような学習をさせるか、あるいは辞めさせるか、段階を踏んで厳格に選抜していく。例えば、最も重要な神学の勉強において、たとえ前年度において、神学の学習を認めても、4 年目に誰を認めるかはさらに厳格に判別される。「最後に、天分の面ではそれほど注目に値しないとしても、指導力または説教の能力の面、および、『会憲』が要求する、かの完全な神学的知識[の不足]を補うであろうと思われるほど傑出した徳という面で、注目すべき者がいる場合、そして、もし彼が神学の課程を全うするならばイエズス会の利益になるであろうと判断される場合、当然この者に対して、あらかじめ顧

    6 イエズス会日本管区 編訳『イエズス会会憲』、南窓社、2011年、131頁。7 同上、165頁。8 『学事規程』の成立および「パリ方式」についての討論は、次の文献が参照される。Ladislaus Lukacs, S.J., etc.

    Church, Culture & Curriculum : Theology and Mathematics in the Jesuit RATIO STUDIORUM, Saint Josephʼs University Press, 1999 Gabriel Codina Mir, S.I. Aux sources de la Pedagogie des Jesuites le《MODUS PARISIENSIS》, Roma Institutum Historicum S.I.1968.

  •  6

    問らと本件を協議したうえで、神学[の学習]の第 4 年目を認めることもできる」9。前にも触れたが、イエズス会の教育的特質は、スコラ哲学、神学のほかに、ルネサンス時代の新

    科学諸芸をも重視している。とくに数学の教育重視はそれを物語っているように思われる。「哲学[課程]の第二年目に、全ての哲学課程生は、学級においておよそ 4 分の 3 時間、数学の講述を聴講しなければならない」10。「数学教師は、自然学学年生に対し、学級で約 4 分の 3 時間、エウクレイデスの『[幾何学]原論』を説明しなければならない。さらに、学生たちがそれ[=幾何学原論]に2ヶ月ほど従事した後では、地誌や天球など、彼らが喜んで聞くのが常である事どもに関する原論を加えるものとし、それをエウクレイデスとともに、同じ日にか、あるいは一日おきに教えるものとする」11。それから、段階を踏んで教科内容が違う構成となっているのも、特徴的である。少し長いが、理解の一助のため、一部を引用してみる。

    【第一年目には何が教えられ、何が省かれるべきか】 第 9 条 1、第一年目には、教師は『論理学(Logica)』を説明するものとする。最初のおよそ 2ヵ月ほどの間は、口述筆記によるよりはむしろ、トレドあるいはフォンセカ[の著した提要]から比較的必要と思われるものを説明することによって、論理学の概論を教えるものとする。  5 、さらに、[哲学課程の]第二年目は自然学に関する事柄にそっくり充てられることになるので、第一年目の終わりのほうでは、この学問[=自然学]についての十全な議論が企てられるものとする。

    【第二年目には何が教えられ、何が省かれるべきか】第10条  1 、第二年目には、『自然学』の 8 つの巻、『天体論(de Caelo)』の諸巻および『生成・消滅論(de Generatione [et corruptione])』の第 1 巻を説明するものとする。『自然学』8 巻中、第 7 巻と第 8 巻の本文については提要を用いて教え、第 1 巻のなかの、古代人たちの諸説について述べた部分も同様とする。第 8 巻においては、エイドス的数、自由、および第一動者の無限性については何も論じず、これらは[第三年目に扱う]『形而上学』のなかで、しかもただアリストテレスの意見にのみ基づいて議論することとする。

    【第三年目には何が教えられ、何が省かれるべきか】第11条 1、第三年目には、『生成・消滅論』の第 2 巻、『霊魂論(de Anima)』および『形而

    9 坂本雅彦訳『イエズス会学事規程』(1599年版)長崎純心大学比較文化研究所(未刊版)(上)。10 同上。11 同上。

  • 7 

    上学(Metaphysica)』の諸巻を説明するものとする。『霊魂論』の第 1 巻中、古代の哲学者たちの諸説については概略的にひととおり触れるにとどめる。第 2 巻では、感覚器官について説明する際、解剖学その他、医者の領分であることの方へ逸れていかないようにする12。

    以上の学習内容から、イエズス会教育における知識構造の一端をより具体的に知ることができるだろう。なお、学習の成績判定も特徴的である。「教師は、アルファベット順に作成した生徒たちの成績表を学習監に手渡さねばならない。(中略)この成績表の中で、教師は生徒たちの程度をできるだけ数多く区別しなければならない。すなわち、優・良・可・疑・原級留置および退学処分の区別である。なお、これらは 1,2,3,4,5,6 の数字によって示してもよい」とは、それである13。生徒への評価において、学習成績以外、性格的または能力的に雄弁さを好む一方、また新奇さや出喋りすぎのもよく見られない、そのきめ細かさが見て取れるであろう。ローマのイエズス会文書館に当時の生徒の成績カードが所蔵されて、上のように生徒への数段階の評価が記録されており、非常に興味深い。

    さて、以上、イエズス会の教育理念と関連する 3 つの重要文献をみてきたが、その理念の元で、イエズス会の教育活動または実践がどのように展開されたのか。以下、幾つかの事例に基づいて、それについて概論してみたいと思う。

    史料によれば、16、17世紀の交替期に、イエズス会は、すでに245箇所に上る各種学校を運営している。第五代目の総長、ヴァリニャーノのローマ学院時代の親友でもあったクラウディオ・アクアヴィヴァ(1581-1615)が亡くなる時、その数が更に372か所にのぼった14。より具体的にみれば、ヨーロッパ以外の世界各地で設立された各種のイエズス会学校は、ブラジルに17か所、インド(ゴアとマラバー管区)に30か所、東アジア(日本、マカオ、中国)には10か所にのぼった。特にザビエルが作ったインドゴアの聖パウロ学院、並びに、ヴァリニャーノが1593年設立したマカオの聖パウロ学院15は、ヨーロッパ以外の地域における最も重要な教育機関である。いわば、16世紀から18世紀の中葉にかけて、こうした学校設立の実績からみて、イエズス会が世界規模の知(教育)のネットワークを構築していたと言っても過言ではない。さらにいえば、事実上、それは、後の歴史の中にみえた本格的な東西文化の遭遇と衝突、融合と排斥、包摂と峻拒といった歴史的事象を生む

    12 同上、第 9、10、11条。13 前掲邦訳『イエズス会学事規程』(下)第38条。14 ウイリアム・バンガート『イエズス会の歴史』原書房、2004年、126~128頁。15 マカオ聖パウロ学院について、J. Witek ed., Religion and Culture: an International Symposium Commemorating

    the Fourth Centenary of the University College of St. Paul, Macao, 1999;高瀬弘一郎『キリシタン時代の文化と諸相』八木書店、2001年;李向玉『漢学家的揺籃 澳門聖保禄学院研究』中華書局、2006年;戚印平『澳門聖保禄学院研究』社会科学文献出版社、2013年;魏若望著、郭頥頓訳『范礼安:一位耶蘇会士肖像』澳門利氏学社、2014年;湯開健「澳門的西方教育」同氏『天朝異化之角:一六-一九世紀西洋文明在澳門』下巻、曁南大学出版社、2016年などがある。

  •  8

    契機であったと言えよう。イエズス会の教育理念およびその実践において、とりわけ象徴的な存在はローマ学院(Collegio

    Romano)である。1551年に創設されたこの学院は、ロヨラの特別な計らいもあって、たちまちイエズス会の最も重要な教育機関となった。それは、クラストファー・クラヴィウス(Christopher Clavius、漢字名は丁先生で知られる、1537-1612)をはじめ、クリストフ・グリーンベルガー

    (Christoph Grienberger、1561-1636)、クリストフ・シャイナー(Chrisotoph Scheiner、1575-1650)、アタナシウス・キルヒャー(Athanasius Kircher、1602-1680)といった当時ヨーロッパで屈指の教授陣を擁していたことから見てもわかる。そして、ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei、1564-1642)も一時客員教授を務めたことがあるほど、「世界の集約」と称賛されたように、当時、すべてのイエズス会学校のモデルとなったのみならず、世界最高のアカデミー機関の一つと言っても過言ではない。ヴァリニャーノのほかに、後に東アジアの宣教活動の中で名高いマテオ・リッチ、ジュリオ・アレーニ(Giulio Aleni、漢名は艾儒略、1582-1649)、アダム・シャール(Johann Adam Schall、漢名は湯若望、1592-1666)、マルティーニ(Martino Martini、漢名は衛匡国、1614-1661)およびカルロ・スピノラー(Carlo Spinola、1564-1622)は、あるいは正規学生、あるいは短期の研修生として、そこで勉学に励んでいた16。ほかに、「近代西洋哲学の祖」とみなされたデカルトや、同時代の西欧社会で輩出された各界の高名な面々がイエズス会系の学校卒業生だったことも、イエズス会の教育上における成功、または西洋近代教育への貢献として語り継がれている17。

    二、ロヨラからヴァリニャーノへ

    『イエズス会学事規程』のように、近代西洋の教育史に深い影響を残したイエズス会の教育理念とその実践活動を全面的に分析し、論述することは別稿に譲が、小論ではイエズス会の教育理念の基本的精神を定めたイグナチオ・デ・ロヨラ、並びに「ザビエルの偉大な継承者」であり、「適応政策」を案出した巡察師ヴァリニャーノに照準を充て、彼らの生い立ちと教育の背景と教育実践を考察し、その教育思想の精髄を探ることにした18。

    16 前掲『イエズス会の歴史』129-130頁、Gianni Criveller(柯毅霖), Preaching Christ in Late Ming China, Taipei: Ricci Institute, 1997, 中国語訳は、王志成ほか訳『晩明基督論』四川人民出版社、1999年、12-14頁参照。

    17 イエズス会教育の成功譚として挙げられた人物については次の文献が参照されたい。久保田静香「デカルトとイエズス会学校人文主義教育―よく書くために―」早稲田大学大学院文学研究科フランス文学専攻研究誌『フランス文学語学研究』第二六号、二〇〇七年。

    18 ロヨラの生涯について、主としてイグナチオ・デ・ロヨラ著、門脇住吉訳・解説『ある巡礼者の物語―イグナチオ・デ・ロヨラ自叙伝』岩波書店、二〇〇〇年、同訳者による訳・解説『霊操』岩波書店、一九九五年。ヴァリニャーノについては、A. Tamburello, M. Antoni. J. Üçerler, M. D. Russo, eds., Alessandro Valignano S. J. Uomo del Rinascimento: Ponte tra Oriente e Occidente. Rome: Institutum Historicum Societatis Iesu, 2008; M. Antoni, J. Üçerler, “Alessandro Valignano: man missionary, and writer,” Renaissance Studies: Journal of the Society for Renaissance Studies, Vol. 17 No. 3, 2003.

  • 9 

    イエズス会の創始者イグナチオ・ロヨラは、ヴァリニャーノと類似する点が多い。例えば、ともに貴族の出身だが、神への回心に至るまでの血気盛んな若かりし頃、むしろ名誉欲と虚栄心に満ちた日々を過ごしていた、という。

    スペイン・バスク生まれのロヨラは、神秘的体験(霊的修行)と知的生活(知の探究)、とりわけパリ大学で受けた人文主義と神学、哲学の教育がかの「超自然の合理主義」(神の神秘的霊性と最高の知識への追求)の形成に大いに役立ったと思われる。ロヨラの教育重視の姿勢も、上述した彼の教育経歴とキリスト教的自然観による影響の現れとでも言えよう。ロヨラによって構想された一五五六年のイエズス会の教育課程は、ラテン語、現地語、ギリシア語、修辞学、詩学、歴史学、哲学、倫理学、自然学、数学、神学(スコラ神学、弁証神学)、法学、医学を含み19、人文主義と近代の合理主義を重んじる姿勢が鮮明に示されているとみてよい。

    一方、ヴァリニャーノは、イタリア・アブルッツォ州の都市キエーティ(Chieti)の枢機卿大司教という北欧系の貴族出身であり、史料の欠如のため、大学までの足跡は殆ど不明というものの、恵まれた環境の中で良好な教育を受けて、エリートの道を順当に進んだだとみてよかろう。1557年、ヴァリニャーノがパドヴァ大学から「法学博士」(Laurea dottore in diritto)の学位を修得している。

    ルネサンス文化の中心地のひとつであるヴェネツィアの近くにあるパドヴァ大学(1222年創立)は「あらゆる完全な知識の揺籃20」と言われ、地動説を唱道したコペルニクス(Nicolaus Copernicus、1473-1543)が学び、ダンテ(Dante Alighieri、1265-1321)やガリレオ・ガリレイも教鞭をとったことのある、イタリア二番目に古い名門校である。当時、イタリアの大学編成では、法学部は、神学部、医学部と並んで上位の学部に属し、学生達は、主として『ローマ法大全』(ユスティニアヌス法典)の研究に努めていた21。

    当時のある報告書に、パドヴァ大学の学生達は「若く、気まぐれで、大胆、かつ自由であり、熱しやすく、金使いが荒いが分別があり、悪魔的だ22」と記されている。ヴァリニャーノも例外ではなかった。1561または1562年、ヴァリニャーノがパドヴアに戻り、学業を続けることにしたが、1562年11月末、ある不愉快な諍いで逮捕監禁の憂き目に遭った。このことは、彼のイエズス会加入(1566)の要因の一つとでもなったようである。

    イエズス会加入後の翌1567年 5 月18日、ヴァリニャーノは早速ローマ学院に入学し、クラストファー・クラヴィウスに師事し、哲学、物理学、数学を習い、更に1670年からローマのクイリナーレの丘にある聖アンドレ教会の助修士をする傍ら、引き続き神学の勉強を続けた。こうして、パドヴァ大学で教会法を中心に訓練を受けたヴァリニャーノは、ローマ学院で人文主義およびルネサン

    19 アンセルモ・マタイス、小林紀由共著『神に栄光 人に正義―聖イグナチオ・デ・ロヨラとイエズス会の教育―』イエズス会日本管区、一九九三年、六八 –六九頁より。

    20 「アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノの生涯」「解題Ⅰ」『日本巡察記』平凡社、1973年、238頁。21 児玉義仁『イタリアの中世大学-その成立と変容』名古屋大学出版会、2007年、P. D. Negro, ed., The University

    of Padua: Eight Centuries of History, Signumpadova, 2003.22 同注11。

  •  10

    ス期の諸学芸をも修得するようになった。こうして、明晰な判断力、強靱な意志力、柔軟性のある思考力の持ち主となった彼は、後にイエズス会東インドの巡察師として、諸々な難題の解決、とりわけ「適応主義」の貫徹のため、数々の学校創設にその才知を存分に発揮したのである。

    一般に、1549年のザビエルの来日から、1640年、徳川幕府による禁教令の頒布までの約一世紀の長きにわたって、いわゆる「キリシタン時代」として知られている。この長き時期において、主として、日本でのカトリック宣教運動を担ったのは、ほかならぬイエズス会であった。イエズス会の宣教運動の中で、初期頃の困難や試行錯誤-例えば言語習得の困難さや、その現れとでもいうべきザビエルのDeusの誤訳問題など―があったものの、一貫して最もエネルギーを注いだのは、教育事業である。そして、その制度的な展開は、以下のような三つの時期に区分することができる。第一は、ザビエルが来日した1549年からヴァリニャーノが宣教方針を定めた1579年頃まで、第二は、キリシタン学校の制度的確立が図られた1579年頃から、変更がなされた1601年頃まで、第三は、1601年以降から宣教が厳禁される40年始め頃まで、という三つの時期である23。ここで、拙論では、主として第二の時期におけるヴァリニャーノの宣教方針、およびイエズス会学校の設立という一連の史的実態を中心に検証し、その教育思想を探ってみたい。

    イエズス会巡察師として、ヴァリニャーノの初の日本訪問は、1579年 7 月25から82年 2 月20日まで、他の二度の滞在は、それぞれ1590年 7 月21日から1592年10月 9 日まで、1598年 8 月 5 日から1603年 1 月15日まで24、あしかけ約10年も日本滞在していた。『日本巡察記』(松田毅一ほか訳、平凡社、1973年)、『東インド巡察記』(高橋裕史訳、平凡社、2006年)『日本イエズス会士礼法指針』

    (矢沢利彦ほか訳、キリシタン文化研究シリーズ 5、昭和45年)といった著書が示したように、ヴァリニャーノは、インド、東アジア、とくに日本の事情を熟知していた。初来日後、ヴァリニャーノは、いち早く日本宣教の問題点を浚いだし、日本人司祭の養成のため、翌1580年10月に、臼杵で会議を開き、同地に修道者のためにノビシアド(修練院)を、有馬と安土にセミナリヨを設け、そして豊後府内の教会を高等教育機関のコレジヨに昇格させることが決議された。

    なぜヴァリニャーノが来日早々、直ちに各地で各種学校の設立に着手したのか。それは、ヴァリニャーノの明晰な現実認識と思想的柔軟さと無関係ではない。それはともかくとして、セミナリヨは、六年課程で三段階のカリキュラムからなり、ラテン語、自然科学、日本文学、音楽、絵画、印刷術が教えられた。コレジヨでは、司祭養成のための神学と哲学が教授され、のち準管区長ペデロ・ゴメス(Pedro Gómes、1533-1600)編纂の要綱 Compendium が講義されるようになった。

    『講義要綱』は、天球論、アリストテレスのアニマ論ないしカトリック信仰体系の概説から纏めら

    23 梶村光郎「日本における耶蘇会の学校制度」解説『日本巡察記』平凡社、一九七三年、三頁。24 Marisa Di Russo “Cronologia Valignanea,” A. Tamburello, M. Antoni. J. Üçerler, M. D. Russo, eds., Alessandro

    Valignano S. J. Uomo del Rinascimento: Ponte tra Oriente e Occidente. Rome: Institutum Historicum Societatis Iesu, 2008, pp.369~383. 同年表はCentro Internazionale Alessandro Valignanoのwebsite: http://www.valignano.org/it/ にも掲載。

  • 11 

    れ、ヨーロッパ・ルネサンス期の科学思想を直に日本に紹介する画期的な著書である(図 2)。とくに天球論は、小林謙貞によって『二儀略説』として鎖国以後も長崎を中心に伝えられ、天文学の発達を大いに促したことは、特筆すべきである25。イエズス会の学校で勉学した人々は、かの有名な天正遣欧使節の面々のほか、戦国末期から日本と中国で大活躍したポルトガル人ジョアン・ロドリゲス(João Rodrigues、漢字名は陸若漢、1561か―1633)もその一人である。

    1561年から1583年までのわずか20年あまり、イエズス会は日本ですでに200余りの教会付属の学校を設け、ヴァリニャーノが好む表現で言えば、「ミルクで教理を育んで」宗教教育を助けたのである。従来、日本のコレジヨでも、ヨーロッパのイエズス会学校のように古典諸学科の学習が課せられたが、ヴァリニャーノ来日後、彼の教育方針によって、布教中心のいわゆる「小コレジヨ」制に重きを置かれた。小コレジヨで子ども達は日本語とラテン語の読み書き、唱歌、宗教および礼儀作法、一般教育を受けると、聖職者になる素質のある少年たちには初等セミナリオへの進学を準備させるという二つの目的がある。ヴァリニャーノは、セミナリの校内則を起草し、自ら講義を行っていた。なお、セミナリオと同じく、府内のコレジヨに対しても、教則や教科課目案を規定していた。つまり、必要性と時勢に応じて、ラテン語文法、日本語学、民族学、宗教学、哲学、神学の講義を行い、とくに学年に応じて、哲学と神学の授業を行ったのである。言い換えれば、原理原則を踏まえながら、現実の必要に応じて臨機応変に独自色を打ち出していく、という柔軟な現場主義が特徴である。戦国末期、イエズス会を取り囲む環境が激しい変転の中、短い期間とはいえ、イエズス会の教育事業を見事に軌道に乗せて制度化し、多大な成果を上げることができたのは、ヴァリニャーノの「適応主義」の方針に負うところが大である。

    ヴァリニャーノの教育思想を語る場合、イエズス会の東アジアにおける最も重要な教育拠点とも

    25 尾原悟『イエズス会の日本コレジヨの講義要綱』(Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ)(キリシタン文学叢書―キリシタン研究)、教文館、1998年、同氏「キリシタン時代の科学思想」『キリシタン研究』第10輯、1965年、平岡隆二『南蛮系宇宙論の原典的研究』、花書院、2013年参照。

    図二、ペドロ・ゴメス編述『イエズス会日本コレジヨ講コンペンティウム義要綱』

    (長崎純心大学キリシタン博物館所蔵)

  •  12

    いうべきマカオの聖パウロ学院(聖保禄学院)を抜きにしては語れないであろう。注15に列挙した文献のように、ヴァリニャーノが心血を注いで創設したこの学院については、近年、日本内外の学界から質の高い研究が行われ、多くの史実も解明されている。その中、一次史料の発掘にしても、史実の再構築にしても、今日なお最も優れているのは、やはり高瀬弘一郎の『キリシタン時代の文化と諸相』(八木書店、2001年)であろう。

    とくに、高瀬は、マカオ聖パウロ学院を建てようとしたヴァリニャーノの意図を見事に読み解いたのである。すなわち、マカオ聖パウロ学院の創設は、無論、将来に備えて、日本人司祭の養成が最大な目標である。それならば、多くのイエズス会系学校が既存する日本国内でもそれが達成できるであろうし、何もマカオで新しい学院を作る必要はないだろう。しかしながら、多くの困難や反対に遭ったにも関わらず、ヴァリニャーノが学院創設の意志を貫いた。それは、建前上、マカオの独特な地理位置、日本の政情不安定が理由となるが、それよりも重要なのは、ヴァリニャーノの

    「適応政策」と通底する文化融合思想の現れとでもいうべきであろう。「日本人は彼ら固有の文化に固執する。従ってその中に生活していたのでは、ヨーロッパ人・日本人共にキリスト教の学問を修め、徳操を身に付けるのに支障となる。彼らを別の場所に一時移して、それに専念させることが必要である26」。つまり、言語、慣習、行動様式がそれぞれ違う日本人、中国人、ポルトガル人は共に自己の伝統的文化の基盤を持たない、いわば中性的な知の空間で一堂に集まるのは、文化理解や意思疎通がよりスムーズに行われる、という一見して素朴だが、実に時代を超えた、深い思慮のある発想であろう。そこから、ヴァリニャーノ教育思想における先進性、柔軟さの一斑を看取することができよう。

    結びに代えて

    冒頭に述べたように、大雑把に言えば、思想文化、教育制度を含めた知の有り様からみて、東アジアの近世期から近代期にかけて、朱子学の膨大な知識体系が漸次解体されていく歴史的過程である。そこには、当然、経学史(知識体系)自体の問題もあるが、何よりも最大な誘因は、やはりイエズス会経由の西学のそのものであろう。言い換えれば、イエズス会経由の西学が近世期の東アジアの伝統的学知に取り入れられ、朱子学という膨大な知識体系の一端を突き崩しながら、いわば、伝統的な学知の枠組みから捉えきれない新しい知の空間を生み出したのである。だが、これは実に途方もない複雑な問題群である。この巨大な問題群に、今の筆者が立ち向かっていく十分な知力を超えていると言わざるを得ない。そこで、東アジアでイエズス会の教育理念と実践活動(学校設立と運営)を主導したヴァリニャーノという稀有な存在を取りあげ、その教育思想の一端をめぐって初歩的な検討を付け加えたわけである。

    26 前掲高瀬著書、216頁。

  • 13 

    最後に一言贅言しておくが、いずれも、グランドデザイナーとしてのヴァリニャーノの存在を抜きにして語れないが、すなわち、イエズス会の宣教運動に伴う宗教信仰、神学思想を含む西学伝播の実態からみてみれば、日本では、各種のイエズス会系学校の設立と運営が非常に目立ち、これに対して、中国では、いわば「学術宣教」、つまり『天主実義』(マテオ・リッチ)や『幾何原本』(マテオ・リッチ、徐光啓)といった漢訳西学書のように、西洋ルネサンス期の神学、哲学をはじめ、数多くの科学技術の著書を漢訳したという手法が際立っている。日、中間におけるこうした相違がどのように生じただろうか。この興味深い問題の解明も、今後の課題としたい27。

    27 この点について、狭間芳樹は、かつて日、中両国のキリスト教ないし西学受容の土台はそれぞれ「仏教」と「儒教」の相違があった指摘したが、恐らく更に、学術用語としての日本語と漢文(中国語)自体への検討をも深くなされるべきではないかと思われる。狭間芳樹「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策:ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって」(京都大学文学科、文学部現代キリスト思想研究会『アジア・キリスト教・多元性』第3号、2005年3月)、同誌第9号(2011年3月)高橋勝幸「『イエズス会日本コレジョの講義要綱』にみる A・ヴァリニャーノの適応主義布教方針」を参照。

  • 15 

    『幸福な死』への挑戦――カミュ最初の小説執筆の経緯と意義 ――

    (上)

    奈 蔵 正 之

    虚偽を口にしない,それゆえ現実的ではない登場人物たち。彼らはこの世界の存在ではない。おそらくはそれゆえに,僕はこれまで,ふつうに理解されている意味での小説家ではなかったのだろう。そうではなくむしろ,自らの情熱や不安に応じた神話を紡ぎ出す芸術家なのだ。それゆえにまた,僕をこの世界にもたらしてくれた登場人物たちは,この神話における活力と独占の力を常に備えているのだ。(カミュ,『カルネ』)1

    序第1部:挫折への経緯第1章:前史:創作活動の開始第2章:『幸福な死』の着想の経緯第3章:『幸福な死』の構想の変遷第4章:発表の断念と部分的な再生第2部:模索したテーマ群第1章:自伝的テーマとその変遷第2章:愛の不可能性第3章:幸福への試練第4章:幸福という秘教第5章:死と転生結び

    アルベール・カミュが作家としてデビューしたのは代表作『異邦人』LʼÉtrangerによってであるが(1940年 5 月に執筆を完了し42年 6 月に出版),これは彼が取り組んだ最初の小説作品ではなかっ

    1 1950年に記された断章。『カルネ』第 6 分冊。PL.IV, pp.1090–91. (略号については後述) 本論文におけるカミュのテクストからの引用は,すべて拙訳による。また,訳文中における下線による強調

    は原文においてイタリックで強調されている箇所であり,波下線やゴチック体による強調は筆者が行ったものである。

    【論 文】

  •  16

    た。1937年の中頃から1938年の 3 月頃にかけて,事実上の処女小説である『幸福な死』La Mort heureuseという作品の構想と執筆に,若き文学青年アルベール・カミュは集中していたのである2。作品は 2 部構成で,分量としては『異邦人』よりも若干長く,一応の完成を見ていた。しかしその出来映えに作者自身納得がいかなかったと思われ,また原稿を読んでもらった友人や恩師たちからの批評もはかばかしくなかったために,カミュはその出版を断念した3。とはいえ,文学的青春の貴重な証しとして愛着を覚えていたのであろう,その原稿を破棄することなく,カミュは生涯大切に保存しておいたのである。

    作品の内容は,ほぼ次のようなものである。アルジェに住む青年パトリス・メルソーは,同居していた母親の死後,一人暮らしをしている。毎日貿易会社で事務作業に従事し,日曜日には窓から大通りの様子を眺めてぼんやりと一日を過ごすことが多い(第 2 章)。平凡極まる毎日であるが,彼の心の奥底には,そのような平凡を打ち破りたいという反抗の思いが潜んでいたのだ。ある日メルソーは,恋人のマルトと連れだって映画に行った際に,彼女の昔の男に気が付き,激しい嫉妬に駆られる。これが契機となって,過去に付き合った男の名前を全て教えるようにとマルトに迫るのだが,その中にロラン・ザグルーという下半身が不自由になってしまった資産家がいて,メルソーは興味を抱き,マルトから紹介してもらう(第 3 章)。なぜかメルソーとザグルーは親しく会話を交わす間柄となり,ある日ザグルーは「人間にとってもっとも大切な行いは幸福の探求であり,そのためには膨大な時間が必要となる。その時間を購うためにまず蓄財をおこなったのだ」と自分の過去と幸福についての理念を語る。そして,体が自由にならなくなった自分に成り代わって,幸福の追求に赴くようにとメルソーに暗に促すのであった(第 4 章)。自宅に戻ったメルソーは,使っていない部屋を貸している樽職人のカルドナの様子がおかしいのでその部屋へ入ってみる。かなり前に母親に死なれ,同居していた姉にも去られたカルドナは,その日,ふいに孤独が耐えがたいものに感じられて号泣していたのだ。その有様を見ながら,メルソーは自らの日常が唾棄すべきものであると痛感し,ザグルーの示唆に従うことを決意する(第 5 章)。翌日メルソーは,ザグルーの邸を訪れ,彼が用意していた拳銃で,自殺を装う形で殺害すると,金庫に収められていた札束のほとんどをバッグに収めて,立ち去っていくのであった(第 1 章。時間軸を反転させて,あえてこの場面が小説の冒頭に置かれている)。ここまでが第 1 部である。

    第 2 部は,アルジェを旅立ち,なぜかプラハに赴いたメルソーの姿で始まる。ホテルに部屋を取り,あてどなくプラハの街をさまようが,取り立てて目的があるわけでもなく,街の様子になじめず,精神状態も落ち着かない。ようやく行きつけのレストランを決めることができるが,ある晩そ

    2 それより以前の1935年頃に自らの幼少年期を題材にした「ルイ・ランジャール」Louis Raingeardという小説を書こうとカミュは考えていたが,ある程度の草稿を残すに留まった.この試みについては,第 1 部第 1章で検討を行う。

    3 すでにカミュは,友人であるエドモン・シャルロがアルジェで経営していた小出版社シャルロ書店からエッセイ集『裏と表』を出版していたから(1937年5月),納得のいく作品であれば出版することは可能だったはずである。なおシャルロ書店からはその後,1939年にやはりエッセイ集の『婚礼』を出版している。

  • 17 

    のレストランの前で殺害された死体に遭遇してしまい,精神的危機の極限にまで追い詰められる(第 1 章)。プラハを離れたメルソーは,チェコの平原を渡ってオーストリアへの鉄道旅を続ける。車窓から見える大地と大空を見つめているうちに,精神的な蘇生感を次第に覚えていく。ウィーンに着くと,手紙のやり取りをしていたチュニスの女子学生たちに手紙を書き,数日後に返事を受け取る。アルジェへに戻ることを決めたメルソーは,地中海を渡る船の上で,中央ヨーロッパにおける試練の旅を経て自分が生まれ変わったこと,自らは無垢であり,幸福の探求へ赴くべき存在としてこの世に誕生したのだという確信を抱く(第 2 章)。帰還したメルソーは,アルジェ湾を見晴らす町の高台に家を借り,「世界に向かう家」と名付けて,三人の女子学生と牧歌的な共同生活を営むことになる。ここで語られる(そして『幸福な死』の作品空間における)「世界」とは,広大に拡がる「実在」としての自然であり,そうした「世界」との精神的な感応という秘教的な営みによって「幸福」に近づいていくというのであった(第 3 章)。だがメルソーは,仲間たちに囲まれていてはおのれの目的を達成することはできず,幸福の探求を成就させるためには,孤独な生活を送る中で「世界」と自らとの一対一の差し向かいを維持しなければならないと考え,「世界に向かう家」を離れると,アルジェ郊外のシュヌーアに入手した一軒家に移り住む。他方で,リュシエンヌという不思議な女性と秘密裏に結婚し,しかし彼女はアルジェに住まわせたまま,「通わせ婚」のような形を取る。そしてシュヌーアの自然に包まれて,遂に自らが世界との「和合」を果たしたという実感を得るのであった(第 4 章)。毎年のように自然が移ろい,数年が経過する。ある年の秋,メルソーは病を得て床に就くが,体調がよくなったある晩,なぜか夜の海に泳ぎだし,「世界」との秘密の交流を行う。しかしその無理が原因となって高熱を発し,寝たきりとなる。熱にうなされながらメルソーは,ザグルーを殺害することでその男と自分が一体となったこと,ともに幸福の追求という困難な道のりを歩んできたことを理解する。そしてリュシエンヌに看取られながら,「幸福な死」を迎えるのであった。「石の中の石となり,メルソーは,心は喜びに包まれながら,動かぬ世界の真実へと戻っていった」(第 5 章)。『幸福な死』は,主としてカミュのテクストの死後出版を扱う「カイエ・アルベール・カミュ」

    シリーズの第 1 巻として,1971年に出版された。一般の読者からは比較的好評であったものの,批評家や研究者たちは,若書きのこの小説に対して好意的な評価を寄せることはなかった。むしろ,旧プレイヤッド版カミュ作品集を校訂したロジェ・キヨが早くも1962年に評した言葉に賛意を呈したのである「見事に書かれてはいるが,不細工に継ぎ合わされている」4。また,『幸福な死』が「小説」と銘打たれ出版されたのは非常に問題であり,このテクストはあくまでも「資料」としてのみ扱うべきだと主張する研究者もいた。こうした風潮を背景にして,カミュに関しては膨大な数の研

    4 ロジェ・キヨは,旧プレイヤッド版の校訂者であったため,当時まだ未刊行であったらカミュのさまざまな草稿資料やタイプ原稿にあたることができた。この言葉は,『異邦人』の注解の中で『幸福な死』の概要を紹介した際に用いられたものである。

  •  18

    究が著されているというのに,『幸福な死』を正面から扱った書籍は皆無であるのみならず,これを論じた雑誌論文すらほとんど見かけないのである。

    確かに,いかにも若書きの作品らしい数多くの欠点が,『幸福な死』には横溢している。作品の構成は客観的な論理性に欠け,ストーリーの展開にも必然的な流れが乏しい。ザグルー殺害のくだりを除けば,作品の素材はほとんどがカミュの実体験に基づくものであり,それらが,「世界との合一を経て成就する幸福,およびその結果としての満たされた死」という夢想的なテーマとうまくかみ合わっていない。主人公メルソーもほぼ若きカミュによる自画像に過ぎず,登場人物としての独立した存在感を備えているとは言いがたい。そして,随所に見受けられる難解な描写と文体は,芸術的な工夫の結実と言うよりも,作家の自己満足の結果という印象をもたらしている。

    しかしながら,独立した作品としての評価と,作家研究にとっての価値とは,必ずしも一致するものではない。まず,作品の統一性を度外視してまで『幸福な死』に詰め込まれたさまざまなテーマは,それぞれが作家カミュにおいて極めて重要な存在である。幼少年期における家族の姿,(最初の結婚の失敗に起因する)恋愛に対する捻れた姿勢,幸福の探求,人間と自然との秘教的な一体化,自殺への傾斜,死の直前まで明晰な意識を貫こうとする意志,転生への願望,これらは1930年代後半における若きカミュが深く取り憑かれていたテーマであるが,そのほとんどは,明示的に,あるいは隠された形で,その後のカミュの作品の中に幾度も立ち現れ,また一部は,遺稿『最初の人間』の重要な素材ともなっていくのである。それゆえテーマ批評の観点からカミュの作品世界を分析しようとするならば,『幸福な死』のテクストを看過するのは大きな誤りであろう。

    また,傑作『異邦人』をカミュが書き得たのは,その前に別の小説の挫折という経験を経ていたからだという事実に,もっと着目する必要がある。彼が『異邦人』を完成させる力量を獲得したのは,『幸福な死』の執筆という苦闘を経る中で自らを鍛え上げたからに他ならない。それゆえ,作家カミュがいかにして誕生したかという秘密を探るためには,まず『幸福な死』を俎上に載せることが重要なのではないか。この作品を正面から取り上げた研究がほとんど見当たらないという現状には問題があるのではなかろうか。

    本論考は,こうしたカミュ研究における重大な欠落を埋めるために,二つの角度から『幸福な死』について論じる試みである。第 1 部においては,初期の習作からエッセイ集を経て,カミュがどのような経緯で小説の執筆を考えるようになり,『幸福な死』を着想したか,そしてその構想を具体的にどのように練って執筆に至ったかについて,主として『カルネ』の記事の分析に基づきながら,実証的に明らかにする。とりわけ,「『幸福な死』の構想は1936年にさかのぼる」という誤った説が今だに流布しているので,その誤りを明確に証明したい。

    第 2 部においては,『幸福な死』のテクストそのものを素材とし,作中に含まれる数々の重要なテーマについて,それがどのような事情でカミュの内面に胚胎したのかという経緯を明らかにし,さらに作中における各テーマの具体的な意義について詳細な分析を施すことにする。(第 2 部は次号に掲載の予定)

  • 19 

    第1部:挫折への道のり

    はじめに第 1 部においては,4 つの時期に分けて『幸福な死』が形成される過程とその後について論考を

    行う。第 1 章は「前史」とし,『幸福な死』が着想される以前の若きカミュにおける創作活動を概観し,小説執筆を志すことになったきっかけを探る。第 2 章は,『カルネ』の断章を詳細に分析しながら1937年 4 月〜9 月初めの期間におけるカミュの文学的模索と,ついに『幸福な死』の初期の構想にまで至った過程を明らかにする。第 3 章においては,やはり『カルネ』の分析に基づきながら,初期の構想が変容を遂げて最終的な『幸福な死』の形が生み出されていくありさまを浮き彫りにする。最後に,カミュが『幸福な死』の発表を断念した経緯と,それが次の創作へとつながっていく様相を第 4 章において論じることとしたい5。

    第1章:前史:創作活動の開始1.初期の習作群

    多くの作家や詩人におけるのと同じように,カミュにおいても「ものを書く」という試みに手を染めたのは思春期の訪れに伴ってのことだった。1931年の17歳の頃から1934年の21歳の頃にかけて,若きカミュは,さまざま論説や詩,エッセイ,読書ノート,文学的断片,物語などを記している。これらカミュの初期習作は,まず1973年に出版された『カイエ・アルベール・カミュ第 2 巻』(以下,CAC2 と略す)においてまとめられ,ついで2006年に刊行されたプレイヤッド版カミュ全集第 1 巻(以下,PLIと略す)に資料として収録された。この両者には若干の異同があるので,それがわかるような形で表としてまとめたのが次ページの【表 1】である。

    これらのうち生前に発表されたものは,リセの哲学クラスの学生たちが編集して発行していた『シュッド』誌Sudと,アルジェ大学の学生新聞『アルジェ=エテュディアン』紙Alger-Étudiantに

    5 なお,引用文献の略号は次の通りとする。PL.I : Albert Camus, Œuvres complètes, tome I (1935–1944), Gallimard, Bibliothèque de la Pléiade, 2006.プレイヤッド版アルベール・カミュ全集第 1 巻。PL.II : Ibid., tome II (1944–1948), 2006.  同第 2 巻PL.III : Ibid., tome II (1944–1948), 2008.  同第 4 巻PL.IV : Ibid., tome IV (1957–1959), 2008.  同第 4 巻PLT : Albert Camus, Théâtre, récits, nouvelles, Gallimard, Bibliothèque de la Pléiade, 1974. プレイヤッド版旧カミュ作品集:演劇,小説,短編小説篇(初版は1962年)PLE : Albert Camus, Essais, Bibliothèque de la Pléiade, 1977. プレイヤッド版旧カミュ作品集:エッセイ篇

    (初版は1965年)CAC1 : Cahiers Albert Camus 1 — La Mort heureuse —, Gallimard, 1971.CAC2 : Cahiers Albert Camus 2 — Écrits de jeunesse d'Albert Camus —, Gallimard, 1973.CaI : Carnets I, mai 1935 - février 1942. Gallimard, 1962. 『カルネ』第 1〜第 3 分冊をまとめた単行本。

  •  20

    掲載されたもので 6,前者のほとんどはいわば「文学的小論説」であり,後者は絵画批評が中心になっている。いずれも,いかにも才気にあふれた十代後半から二十代初めの若者の手になる文章といった趣で,文才のきらめきは垣間見られるものの,取り立てて注目するべき内容のものではない。

    それに対して,死後に資料として公開されたテクスト類は,明らかに文学的創作を目指してさまざま試みを行った習作であり,それ自体としては作品的価値を持つものではないが,資料としては有用であり,早くもカミュの文体における特徴の萌芽や,その後のカミュ作品における重要なモチーフの芽生えが至る所で認められる。CAC2 の校訂者ポール・ヴィヤラネーは,同書に収めた論考「最初のカミュ」« Le Premier Camus » でこの点について先駆的な検討を行い,次いでジャクリーヌ・レヴィ=ヴァランシがより深く徹底した分析を『アルベール・カミュ,あるいは作家の誕生』Albert Camus ou la naissance d’un romancier(後述)において遂行している。

    【表1】年代 タイトルなど 公開時期 PLI CAC2

    1931 詩 シュッド p.511 ─「死児の最後の日」 シュッド p.512 ─

    1932

    「新しきヴェルレーヌ」 シュッド p.514 p.131「貧困の詩人,ジャン・リクチュス」 シュッド p.517 p.137「音楽に関する詩論」 シュッド p.522 p.149「今世紀の哲学」 シュッド p.543 p.145「演奏会」 アルジェ-E p.547 ─「音楽。ラウール・デシャンについて」 アルジェ-E p.548 ─「詩。クロード・ド・フレマンヴィル〈思春期〉」 アルジェ-E p.554 ─「東洋趣味画家たちの展覧会」 アルジェ-E p.554 ─「絵画。アスュス展」 アルジェ-E p.557 ─「絵画。ピエール・ブシェルル」 アルジェ-E p.558 ─「アブド・エル・ティフ」 アルジェ-E p.560 ─「直感」 死後公開 p.941 p.177「〈ベリア〉についてのマックス=ポール・フーシェに対する書き送り」 死後公開 p.953 ─

    1933

    「読書ノート」 死後公開 p.955 p.201「調和における芸術」 死後公開 p.960 p.245「ムーア人の家」 死後公開 p.967 p.207「勇気」 死後公開 ─ p.219「地中海」 死後公開 p.976 p.223「死んだ女を前にして」 死後公開 p.979 p.227「愛した者の喪失」 死後公開 p.982 p.231「生きることを受け入れる ...」 死後公開 p.985 ─「神とその魂との対話」 死後公開 p.986 p.235「諸矛盾」 死後公開 ─ p.239「貧しい地区の病院」 死後公開 p.73 p.241

    1934 「メリュジーヌの本」 死後公開 p.988 p.257「貧しい地区の声」 死後公開 p.75 p.271

    6 表中の「アルジェ–E」とは,『アルジェ=エテュデイアン』の略である。

  • 21 

    これら習作群のうち,若きカミュにおける小説への歩みを探る上で最も重要となる資料が,「貧しい地区の声」« Les Voix du quartiers pauvre » であろう。これは自らの生い立ちに基づいた 4 つのエピソードを描き出したものであり,ノートに清書したその原稿を,カミュは1934年のクリスマスに,結婚したばかりだった若妻シモーヌにプレゼントとして捧げている7。それゆえ本来極めて個人的なテクストであり,自分の内的世界や生い立ちを愛する妻に知ってもらおうという思いからしたためたものであろう。だがそうした事情ゆえに,「貧しい地区の声」の執筆は,当時のカミュが自らの内面を深く掘り下げる経緯となり,そこで表出された内容が,その後何度も繰り返し語られることになるのである。

    この若書きの作品は,カミュの家族を題材にして,それぞれの人物にまつわるエピソードや彼らとカミュ自身との関わりを,4 つの「声」という形で描き出している。ロットマンやトッドの評伝に記されたことと照合すると,1 と 3 はかなりリアルに実際の出来事を反映しているが,2 と 4 には多分に小説的な潤色が施されている。そしてラストに短い省察が置かれている。そしてこのあと述べるように,これらのテクストのほとんどは,「ルイ・ランジャール」の草稿を経て,1937年に出版されたエッセイ集『裏と表』L’Envers et l’endroitにおいて再利用されることになるのである。

    1「ものを考えない女の声」:カミュが幼い頃の母親の姿を描写。(PLI, pp.76–78)2「死ぬために生まれてきた男の声」:自慢話を誰からも聞いてもらえなくなった老人が,路上で孤独死を

    迎える。(部分的に義理の叔父アコーに関わるが,年齢のことなどが大きくデフォルメされている)(pp.78–80)3「音楽によってかきたてられた声」:母親に恋人ができたことが原因で,その弟(カミュの叔父)との間

    に起こった諍いのエピソード。(pp.80–82)4「家族が映画へ行くので取り残される病気の老婆の声」:晩年の祖母の姿に基づく。(祖母はカミュの少

    年期に亡くなっているが,ここでは彼をモデルとした人物は「青年」として登場している)(pp.83–85)5 末尾の省察 (pp.85–86)

    おそらく,妻シモーヌのために「貧しい地区の声」を書いたことがきっかけとなって,カミュは自らの幼少期の思い出を文学的テーマとして扱おうと積極的に考えるようになったのではあるまいか。そしてそのテーマを小説に結びつけたいという思いが彼の中に芽生えるのである。

    2 .「ルイ・ランジャール」の試みカミュ研究の泰斗ジャクリーヌ・レヴィ=ヴァランシは,独自に未公開草稿類に当たった結果,

    7 カミュは,まだ学生時代だった1934年 6 月にシモーヌ・イエと結婚した。「貧しい地区の声」の前にも,「メリュジーヌの本」« Le Livre de Mélusine » という大人のためのお伽噺を書いて,シモーヌに捧げている。シモーヌは,若き文学青年カミュにとって,創作のためのミューズだった。少なくとも,カミュはそう思い込もうとしていた。

  •  22

    実は1935年頃に若きカミュが小説を書こうという試みに取り組んでいたことを明らかにした。これは完成作とはほど遠いものでゆえに「処女小説」とは呼べず,分量もさほど多くない,下書きにすぎない原稿である。だが,カミュの作家としての自己形成における出発点として,重要な意義を孕んでいるのである。

    原稿にはタイトルが付されていないために,レヴィ=ヴァランシは主人公の名前を採って「ルイ・ランジャール」« Louis Raingeard »と名付け8,自身の国家博士論文『アルベール・カミュの小説作品の起源』Genèse de l’œuvre romanesque d’Albert Camusにおいて詳細な分析を行った。博士論文にしては珍しく,この大作研究は出版されることがなかったが9,レヴィ=ヴァランシの死後,アグネス・スピーケルの手によって ,『アルベール・カミュ,あるいは作家の誕生』と題されて,2006年になりようやく刊行された10。他方,レヴィ=ヴァランシは新プレイヤッド版カミュ全集編纂の中心人物でもあり,カミュの草稿の中から「ルイ・ランジャール」に関わると考えられるテクストをまとめあげ,[「ルイ・ランジャール」再構成][Louis Raingeard. Reconstitution]というタイトルで,PLIに収録したのである11。

    カミュは『カルネ』のノートを1935年 5 月から記し始めているが12,記念すべきその最初の断章が明らかに「ルイ」の執筆意図と目標についてのものであることが印象深い13。

    【断章1–001】 (1935年 5 月) (PLII, pp.795–76)僕が語りたいこと。

    ロマン的な思いはなくとも,失われた貧しさに対してノスタルジーを抱くことができる。ある程度の年月貧しさのうちに暮らしただけで,一種の感受性が形成されるのだ。そうした特別の場合には,息子が母

    8 カミュの原稿の中では「ランガール Raingard」と記されている。最終的に「ルイ・ランジャール」をタイトルとして採用する以前は,レヴィ=ヴァランシ氏も「ルイ・ランガール」と呼んでおり,筆者は,氏がそのように発音するのを個人的に耳にしたことがある。インターネットを用いて調査したところ,フランス国内に「ランジャール」という姓はかなり認められるが,「ランガール」は存在しない。それゆえ,「ランガール」としたのはカミュの誤記であると判断して,レヴィ=ヴァランシは「ランジャール」としたのであろうか?

    9 スピーケルはレヴィ=ヴァランシの多忙をその理由にしているが,どうやら未発表の原稿を研究材料に用いたために,著作権の問題が絡んだらしい。

    10 ガリマール社。原書で500ページを優に超える大作である。11 独立した作品としてではなく,エッセイ集『裏と表』の付属資料Appendiceとして収められている。12 1935年から死の直前まで,カミュは計 9 冊のノートに書き込みを行っていた。その内容は自己省察,読書ノー

    ト,身辺雑記,作品の計画,作品に使うためのテクストの断片,時には純然たる日記,というふうにさまざまな性格を持ち,毎日のように書き込まれた時期もあれば,数ヶ月何も記されなかった時期もある。これらのノートが作家の死後に出版されるに際して『カルネ』Carnetsというタイトルが付けられた。『カルネ』を通じて形成過程がよく追える作品もあれば,『カルネ』があまり役に立たない作品もある。『幸福な死』に関しては,この後見るように,『カルネ』における記載が極めて豊富である。

    『カルネ』に記されているひとかたまりの文章のことを「断章」と呼ぶことにする。原書では断章ごとの番号は振られておらず,これでは扱うのに不便であるため,筆者は独自に通し番号を付した。例えば「1–001」といったナンバリングは,「第 1 分冊の 1 番目の断章」という意味になる。

    13 しかし,なぜかその後の『カルネ』には「ルイ」に関わる言及がまったく認められない。

  • 23 

    親に対して抱く一風変わった感情から,その感受性の全てが作り出される14。実にさまざまな領域でこの感受性を明らかに示すというのは,子供時代についての,隠された,物質的な記憶によって充分に納得のいくことなのだ(それは,魂にこびりついた膠(にかわ)のようなものだ)。

    [...]作品とは告白なのだ。僕は証言しなければならない。語りたいこと,しっかりと目にしたいことは一つだけなのだ。あの貧しさの内での暮らしにおいてこそ,あの控えめな,あるいは自惚れの強い人たちの間でこそ,生きることの本当の意味と思われるものに,僕はもっとも確かな形で触れたのだ。芸術作品だけでは決して生きることの本当の意味に達することはできない。芸術は僕にとって全てではないのだ。だが少なくとも一つの手段にはなってほしいものだ。

    [...]全てが,母親と息子という媒介を通じて表現される必要がある。そのことが全般に及ばなければならない。正確に述べれば,全てが複雑に絡み合うのだ。

    1)舞台背景。暮らした地区とその住人たち。2)母親とその行い。3)息子の,母親との関係。

    最終的にはどのように解決されるか。母親? 最終章:息子のノスタルジーによって実現される象徴的な価値???

    こうして,「貧しい地区の声」を出発点としつつそれを発展させ,自らの貧しかった幼少年期の体験を元に,母親との関係性の意味を問うことを中心に据えつつ,祖母や叔父などの家族の姿も描き出そうという,若きカミュの意図が明らかになる。また,純然たるフィクションを目指すことは彼の脳裏にはなく,小説創作という行為を「証言」として機能させるという目標を抱いていたのだ。

    旧プレイヤッド版において編纂の中心となったロジェ・キヨは,カミュが1935年頃に小説の制作に取り組もうとしていたことに気が付かなかったため,「ルイ・ランジャール」に関連する草稿類について,エッセイ集『裏と表』に関連する資料だと考えて(カミュは「ルイ」からかなり多くのテクストを『裏と表』に流用しているので,そのように判断したのは無理もないかもしれない),プレイヤッド旧版では『エッセイ篇』における『裏と表』の注解や補遺の部分に掲載してしまった。そして「1935年頃カミュはそのエッセイを母親のテーマのもとにまとめようと考えていたのはほぼ確実である」と述べて,明らかに「ルイ」の構想である 2 つのメモを『裏と表』のプランであると紹介している15。

    14 下線部は,原文においてイタリック。15 PLE, pp.1176–77. 「章 chapitre」という用語が用いられているからには,エッセイではなく小説に関わるこ

    とは明白である。また,この資料は残念ながら新プレイヤッド版全集に再録されていない。なおキヨは「プラン1とプラン2のどちらが先のことなのか不明である」と記している。

  •  24

    [プラン1]第 ₁ 章:(病の)発作の状況第 ₂ 章:その女が息子と差し向かいになるに至る,ゆっくりとした家族の崩壊 / 祖母の死 / 息子

    の病気 / 息子との別れ第 3 章:二つの事柄から閉め出された息子における,隠された体験 /   1 .同じ階に住む老婆を見棄てる / 老いた叔父の死 / 町の反対側に別れ別れになって孤独にな

    る。時々顔を合わせる。二つの無限大  2 .母親と息子 / 理解の最初の段階 / 手の施しようがない魅力  3 .最終的な引きこもり / 試しに戻ってみる,1週間 / 象徴。老婆,老人 / 家を出る

    [プラン2]第 1 部:老いた人々 第 1 章:母親と息子 / 第 2 章:貧しい地区 / 第 3 章:不条理第 2 部:ある暮らしの再発見第 3 部  第 1 章:母親とともに / 第 2 章:世界。僕の芝居が役に立つ。

    これに対して,レヴィ=ヴァランシが再構成したテクストは【表 2】のような内容になっており,さまざまな内容のエピソードが,あまり相互の関連がなく連なっている。便宜のためにエピソードごとに番号を振ることにし,上記[プラン 1]との関わりも記すことにしよう。なお,エピソード8〜10については,レヴィ=ヴァランシは「「ルイ・ランジャール」に関連する断片」という位置づけを行っているが,ここでは一連のエピソードとして扱うことにする。また,ページは全てPLI

    である16。

    【表2】ページ 概  要 プラン1

    1 p.86, pp.44–46 家族の構成(5 人家族),祖母の思い出,祖母の病気と死 2

    2 pp.86–88 結核に倒れた主人公,結核療養所の光景,家族が迎えに来る 1,2

    3 pp.88–90 同居していた叔父(母親の弟)の物語,母親と叔父の諍い,一人暮らしになった叔父 3–1 ?

    4 p.90pp.41–4

    もう一人の叔父の物語→老人という設定。老人の自慢話。それが聞いてもらえなくなる。路上での老人の孤独な死。←「貧しい地区の声」のエピソード 2 を利用

    3–1

    16 次節に見るように,「ルイ・ランジャール」のテクストのかなりのものが,後に『裏と表』所収の「皮肉」と「ウイとノンの間」にそのまま利用されている。また逆に「貧しい地区の声」の文章をそのまま「ルイ」に利用した部分もある。プレイヤッド版においては,ページ数削減のためか,引用したあるいは引用された部分については「貧しい地区の声」あるいは『裏と表』の該当ページを読むようにという編集が行われている。【表2】において 2 種類のページ数が示されている部分があるのは,そのためである。この実に不可解な編集方針が原因となり,プレイヤッド版で「ルイ・ランジャール」の原稿を通して読むことが難しくなっている。

  • 25 

    5 p.90pp.39–41

    同じ階に住む老婆。関心を示す青年。しかし老婆の一家とその青年は,老婆を残して映画へ行ってしまう。残された老婆の孤独。←「声」のエピソード 4 を利用

    3–1

    6 p.90pp.75–78主人公が想起する母親の思い出。幼い頃のありさま。←「声」のエピソード 3 を利用 3–2

    7 pp.90–93pp.50–51主人公と母親との精神的な関わり。母親が暴漢に襲われ,一晩その看病をおこなったこと。主人公が結核で倒れたときに示した母親の不思議な態度。

    8 pp.93–94母親が,恋人との逢瀬を弟(主人公の叔父)に邪魔され,諍いが起こる。離れて暮らしていた子供たちの所へ来て,その話を泣きながらする母親←

    「声」のエピソード 4 を利用

    9 pp.94–95pp.85–86 老いと人生に関する省察。老人のせりふ。

    10 pp.95–96 主人公が(恐らく心の中で)母親に語りかけることば

    このように,さまざまなエピソードが羅列されているものの,一貫したストーリーの展開や全体の構成というものは認めらず,むしろ幼少年期の思い出に基づいた叙情的なエッセイという様相を見せている。レヴィ=ヴァランシが発掘した「ルイ・ランジャール」の原稿は,確かに貴重な資料ではあるが,決して「小説」と呼ぶべきではなく,下書きというレベルのものに過ぎない。このような不完全なテクストしか残されていないからには,「ルイ」の執筆はかなり早い段階で放棄されたのであろう。若きカミュは,断章 1–001で大いなる意図を披瀝したものの,小説を書くというスキルそのもの,つまりいかにして首尾一貫した虚構の枠組みを構築するかという術が我が手にできず,壁にぶつかったのだと考えられる。それゆえ,作家カミュの誕生の秘密を「ルイ・ランジャール」の中に探るのはかなり無理があり,そうした探求はむしろ『幸福な死』において試みるべきなのである。

    3.テクストの相互関連性とはいえ,「ルイ・ランジャール」で描き出したかった幼く貧しい時代の想起というテーマは,

    カミュにとって根源的なものの一つであり,『異邦人』以降は影を潜めるものの決して忘却されることはなく,遂には『最初の人間』において柱の一つを形成することになり,遺された草稿のほとんどは幼少年期の思い出の再生に充てられている。ところで,このテーマについて最も早く書かれたのが【表 1】にある「勇気」« Le Courage »と題された短い断片であり17,家族の構成と祖母の思い出に関する「ルイ・ランジャール」のエピソード 1 は,「勇気」のテクストをわずかに書き直したものに過ぎない。おそらく「勇気」こそが生い立ちと家族のテーマについての真の源流だったのであろう。

    17 このテクストは,なぜかPLIには再録されていない。

  •  26

    「勇気」(CAC2, p.219) 「ルイ・ランジャール」(PLI, p.44–45) その家族は五人で暮らしていた。祖母と,下の息子と,その姉と,姉の二人の子�