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67 J.R.R.τʔϧΩϯ ʕ ʹݟΔʮ൴؛ʯͷΠϝʔδ ʣ ਫҪ խʣ The Image of the “Other Shore” seen in the Works of J.R.R. Tolkien ʣ Masako MIZUI ʣ τʔϧΩϯɺͷϑΝϯλδʔʮʯͱʮෆʯΛςʔϚʹΔͱݴɻ൴ͷɺಛʹʰ ޠʱͱʰγϧϚϦϦΦϯʱʹʮʢηΠϗʣʯʮʯͱޠݟΕΔɻੜΔքʢݱʣ ΛڈߦʹޙͱئॴʮʯͰΔͱ೦ဠڭͱڞ௨ͰΔɻͷੜΛΈဠڭͱ ͱߟΒΕͳɺܟᥑͳΧιϦοΫڭͰτʔϧΩϯɺਆʑͷΛʹઃఆɺʮʯ ͱදݱΔʹڵຯҾΕΔɻ൴ʮʯΛɺͲ೦ͱͷɺͷʹযΛ ɺΒ୳ΖͱΈɻ Ωʔϫʔυɿ ʰޠʱͰɺϏϧϘੜͷʹಥવɺΛফ·ΒܦɺϗϏοτঙʢthe Shireʣͷ֎ͷքͳΓɺϗϏοτঙͷڥΛӽʑͳ෩ฉΘΔΑʹͳΔɻϗϏοτ ͳͷͰɺͱΤϧϑυϫʔϑΛൈߦΓɺʹଜͷதΛ௨Γ ΔݟΒΕΔΑʹͳΓɺฏԺͳͷͳͷʹɺԦͱͷ҉ͷϞϧυʔϧͷෆ٢ͳલฉ ΔΑʹͳɻ຺ଳʹਓ৯ͷΦʔΫΒτϩϧΒग़ΔΑʹͳͱ ɺΛΔυϫʔϑͷ·ࠓͰʹͳଟͱɻϑϩυେͳݥͱר·ࠐΕ༧ஹͱ ͳΔΑͳɺ֎ͷքͷಈɻ ͷɺ༯ਫ਼ɺಛʹΤϧϑʹಌΕΔఉͷαϜɾΪϟϜδʔɺਫͷลଜʢBywaterʣͷʢThe Green Dragon ʣͱύϒͰɺคͷଉςυɾαϯσΟϚϯͱͷΑͳΓऔΓΛ i ɻϑϩυͱͳ ݥͷʹग़ΔͱʹͳΔͳͲΔ༝ͳͷͱͰΔɻ Sam Gamgee was sitting in one corner near the fire, and opposite him was Ted Sandyman, the miller’s son ; and there were various other rustic hobbits listening to their talk. ‘Queer things you do hear these days, to be sure,’ said Sam. ‘Ah,’said Ted, ‘you do, if you listen. But I can hear fireside−tales and children’s stories at home, if I want to.’ ‘No doubt you can,’ retorted Sam, ‘and I daresay there’s more truth in some of them than you reckon. Who invented the stories anyway? Take dragons now.’ ‘No thank ‘ee,’said Ted, ‘I won’t. I heard tell of them when I was a youngster, but there’s no call to believe in them now. There’s only one Dragon in Bywater, and that’s Green,’he said, getting a general laugh. ... ... ‘All the same,’ said Sam, ‘you can’t deny that others besides our Halfast have seen queer folk crossing the Shire ʵ crossing it, mind you : there are more that are turned back at the borders. The Bounders have never been so busy be- ʣɿฏडʀฏडཧɻ Received Oct. 10, 2012 ; Accepted Oct. 31, 2012. ʣɿӃେ จ෦ʀFaculty of Literature, Kanazawa Gakuin University.

J.R.R.トールキン ― 作品に見る「彼岸」のイメージkg.kanazawa-gu.ac.jp/kiyou/wp-content/uploads/2013/12/...水井:J.R.R.トールキン ― 作品に見る「彼岸」のイメージ

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67

J.R.R.トールキン ― 作品に見る「彼岸」のイメージ1)

水井 雅子2)

The Image of the “Other Shore” seen in the Works of J.R.R. Tolkien1)

Masako MIZUI2)

要 約

トールキンは、自分のファンタジー作品は「死」と「不死」をテーマにしていると言う。彼の作品、特に『指輪

物語』と『シルマリリオン』には「西方(セイホウ)」「西へ」という語が散見される。今生きている世界(現世)

を去った後に行きたいと願う所が「西方」であるという概念は佛教と共通である。その生涯を追ってみても佛教と

接点があったとは考えられない、敬虔なカソリック教徒であったトールキンが、神々の国を西に設定し、「西方」

と表現している事に興味が引かれる。彼は「西方」を、実際はどういう概念として使ったのか、その点に焦点をあ

て、作品から探ろうと試みた。

キーワード:西方

『指輪物語』で、ビルボが誕生日祝いの日に突然、姿を消してしまってから10年近くが経った頃、ホビット庄(the

Shire)の外の世界が騒がしくなり、ホビット庄の境を越えて様々な風聞が伝わってくるようになる。ホビットし

かいなかったこの地でも、西へと向かうエルフやドワーフが森を抜けて行ったり、時には村の中を通っていったり

する姿が見かけられるようになり、平穏な時代のはずなのに、冥王とその暗黒の国モルドールの不吉な名前さえ聞

こえてくるようになってきた。山脈地帯には人食いのオーク鬼やら武装したトロルやらが出没するようになったと

いうし、旅をするドワーフの姿も今までになく多いという。フロドたちが壮大な冒険へと巻き込まれていく予兆と

なるような、外の世界の動きだった。

そしてこの頃、妖精、特にエルフに憧れる庭師のサム・ギャムジーは、水の辺村(Bywater)の緑竜館(The Green

Dragon)というパブで、粉屋の息子テド・サンディマンと次のようなやり取りをしていたi。フロドと困難な冒険

の旅に出ることになるなど知る由もない頃のことである。

Sam Gamgee was sitting in one corner near the fire, and opposite him was Ted Sandyman, the miller’s son ; and there

were various other rustic hobbits listening to their talk.

‘Queer things you do hear these days, to be sure,’ said Sam.

‘Ah,’ said Ted, ‘you do, if you listen. But I can hear fireside−tales and children’s stories at home, if I want to.’

‘No doubt you can,’ retorted Sam, ‘and I daresay there’s more truth in some of them than you reckon. Who invented

the stories anyway? Take dragons now.’

‘No thank ‘ee,’ said Ted, ‘I won’t. I heard tell of them when I was a youngster, but there’s no call to believe in them

now. There’s only one Dragon in Bywater, and that’s Green,’ he said, getting a general laugh. ... ...

‘All the same,’ said Sam, ‘you can’t deny that others besides our Halfast have seen queer folk crossing the Shire -

crossing it, mind you : there are more that are turned back at the borders. The Bounders have never been so busy be-

1):平成24年10月10日受付;平成24年10月31日受理。Received Oct. 10, 2012 ; Accepted Oct. 31, 2012.

2):金沢学院大学 文学部;Faculty of Literature, Kanazawa Gakuin University.

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fore.

‘And I’ve heard tell that Elves are moving west. They do say they are going to the harbours, out away beyond the

White Towers.’ Sam waved his arm vaguely : neither he nor any of them knew how far it was to the Sea, past the old

towers beyond the western borders of the Shire. But it was an old tradition that away over there stood the Grey Havens,

from which at times elven−ships set sail, never to return.

‘They are sailing, sailing, sailing over the Sea, they are going into the West and leaving us,’ said Sam, half chanting

the words, shaking his head sadly and solemnly. (傍線部は筆者 以後に同じ)

どうやら、いま、世の中が末期的症状を呈し始めたこの時代に、エルフたちは「西」へ行くのであるらしい。ホ

ビット庄の境界から遠く西へ行くと灰色港(Grey Havensii)があり、彼らはそこから船出して二度と戻らないとい

う。海を遥か西へと航海し、「西方」the Westへ行く。しかもサムたちを置いていく。すなわちこの地(中っ国)

に彼らを残してエルフたちは去ってしまう、というのである。この時のサムの、憧れの混じった嘆きは、意地の悪

いテドに一笑に付され、これ以後、物語の中に「西方」が出てくるのは、リヴァンデルにある半エルフのエルロン

ドの館に着いてからである。エルフが目指すという「西の地」、灰色港から遥か西へと航海していく先にある「西

方」、とは何を意味しているのだろうか。「二度と戻らない西への旅」とは何だろうか。

「西方(セイホウ)」が海を西へ西へと越えたはるか先にあるという概念、更に、二度とこちらの世界には戻ら

ぬ旅である、という概念から想起される一つの言葉は、佛教における「西方(サイホウ)浄土」、「彼岸」、と共通

している。佛教語辞典を見ると、「西方」とは①極楽浄土のある西の彼方、②極楽浄土のことであり、「西方浄土」

とはその数多くの極楽浄土の中でも阿弥陀仏の極楽浄土をいい、「彼岸」とは①かなたの岸、川向こうの岸、②理

想の世界、迷いの此岸に対し悟りの世界、生死の海を越えた悟りの岸、とある。すなわち佛教的には生の世界が此

岸であり、死後に行く悟りの世界が彼岸である。トールキンの場合も、今生きている世界(現世)を去った後に行

きたいところは、西へ西へと行った先にあるといい、しかもそれを「西方」と名付けているのである。その生涯を

追ってみても、佛教と接点があったとは考えられないカソリック教徒が、神々の国を西に設定し、それを 「西方」

と呼んでいることに興味が引かれる。

また、「彼岸」the Other Shoreという語は、ギリシア神話やローマ神話においても、「忘却の川レーテー」the Lethe

の向こう側、すなわち死後の世界を指して使われる。もっとも、このレーテー河を越えた彼方の岸は、浄土という

よりも黄泉の国、という感じがする。広辞苑や国語辞典によれば、黄泉や冥土は「死後に霊魂が行く世界」であり、

彼岸とは「迷いから抜け出た悟りの世界」であり、浄土とは前述したように「仏のいる清らかな理想の世界」であ

るという。だから死後の世界といっても簡単に「黄泉」や「彼岸」を区別せずに使うわけにはいかないようである。

トールキンの作品においては、晴れやかな青い海原を渡ってはるか西方へ行く、という言葉がもたらす類似的概念

として、佛教的「彼岸」が想起されるということである。

サム・ギャムジーが言及している、「西方へと旅立つエルフ」であるが、実はサムはエルフ族をまだ見たことが

ない。「ビルボ旦那様の話」を聞き、ただ、憧れているだけである。サムは、美しいといわれているこの種族や自

分の知らない世界や不思議な話に妙に心魅かれるのである。美しさとか不思議さには何の価値も見い出さない現実

的で実際家のテド・サンディマンとは、そこが根本的に違う。そしてこの作品では、「不思議で美しい」ことが一

つのテーマでもあるのだから、これは重要なことなのである。では、この作品におけるエルフとは、一体、どんな

存在なのか。エルフを語るには、ここで、この世界の構造から少し紹介しておく必要がある。進行上必要と思われ

る部分を、簡潔に記しておきたい。

『シルマリリオン』は、先ず、「唯一神イルヴァタールが存在した」(There was Eru, the One, who in Arda is called

Illúvatar ; and he made first the Ainur, the Holy Ones, that were the offspring of this thought, and they were with him be-

fore aught else was made.)という文から始まる。聖書も、その初めの文言はこのようであるiii。彼の思念から生ま

れた「聖なる者たち(精霊)」であるアイヌーアに、イルヴァタールは「音楽のテーマ」を与える。これらアイヌー

アが、神から与えられたテーマを歌い、それを神が目に見えるものにしていくことによって世界が出来上がっていっ

69水井:J.R.R.トールキン ― 作品に見る「彼岸」のイメージ

た、とこの本には記されている。また地球を創造したのも唯一神iv である。これら聖なる精霊とでもいうべき者た

ちは、より力のあるヴァラ(複数形はヴァラール)と、彼らを手助けするマイア(複数形はマイアール)とがいる。

ヴァラールはいわば守護神的な一種の神々であり、空気と風を司るマンウェ、水を司るウルモ、その他に、果実を

育てるヤヴァンナや星を司るヴァルダ等がいる。また、最も力ある者としてメルコ―ルという火を扱うヴァラもい

た。しかしメルコ―ルは自己顕示欲と支配欲、権力欲の為に悪へと傾斜していく。ヴァラールをトールキンは「力

ある者たち」the Powersとも呼ぶ。アイヌーアの中でも力ある者たちヴァラールは、メルコ―ルを入れて15人であっ

た。そして彼らを補佐する精霊マイアールの数は多いらしいが、その名前までが分かっているのは少数である(ガ

ンダルフやサルーマンたち魔法使いは、ヴァラールによって中っ国に送りだされたマイアであったらしい)。メル

コ―ルは堕ちて、ヴァリノールから追放され、ヴァラではなくなった。

初め、ヴァラールはメルコ―ルの不協和音に邪魔されながらも、イルヴァタールに与えられたテーマでそれぞれ

歌を歌いつつ、世界を作っていった。それを具体的な実体あるものとしたのが唯一神であり、こうして地球は作ら

れた。これは有史以前の話である。メルコ―ルの支配欲は増すばかりであり、神々は実に長い間、メルコ―ルと彼

が集めた様々な邪悪な精霊との間で、美しい地球の地形が大きく変わるほどの戦いを何度も繰り返すことになる。

一方、アイヌーアの預かり知らぬところで、イルヴァタールの第三の音楽のテーマによって、イルヴァタールの

子どもたちが生まれる。最初に生まれたのはエルフ族(The Firstborn)であり、その後に生まれたのが人間族(The

Followers)である。とはいえ、世界が作られてから遥かな時間が経ってからエルフは生まれたのであり、その後更

に、またしても長い年月が経ってから人間が生まれている。しかも彼らに与えられた運命は非常に異なる。唯一神

イルヴァタールの「長子」であるエルフは不死の種族であるが、エルフ族の次に生まれた「後に続く者たち」であ

る人間族は有限の命しか持たないからである。美しさも知力も人間はエルフに遠く及ばない。しかも、病気もすれ

ば、怪我をしてすぐに死んでしまう弱い存在である。しかし不死のエルフの数は余り増えていかないのに対し、短

命な人間の数は短期間で驚くほど増え、富み栄えていく。このエルフと人間の違いについては、『シルマリリオン』

から次の文を紹介しておきたい。

For Elves and Men are the Children of Ilúvatar ; ... ...

The dealings of the Ainur have indeed been mostly with the Elves, for Ilúvatar made them more like in nature to the

Ainur, though less in might and stature ; whereas to Men he gave strange gifts.

For it is said that after the departure of the Valar there was silence, and for an age Ilúvatar sat alone in thought. Then he

spoke and said : ‘Behold I love the Earth, which shall be a mansion for the Quendi(Elves) and the Atani(Men)! But the

Quendi shall be the fairest of all earthly creatures, and they shall have and shall conceive and bring forth more beauty than

all my Children ; and they shall have the greatest bliss in this world. But to the Atani I will give a new gift,’ Therefore he

willed that the hearts of Men should seek beyond the world and should find no rest therein ; but they should have a virtue

to shape their life, amid the powers and chances of the world, beyond the Music of Ainur, which is as fate to all things

else ; and of their operation everything should be, in form and deed, completed, and the world fulfilled unto the last and

smallest. ... ...

It is one with this gift of freedom that the children of Men dwell only a short space in the world alive, and are not bound

to it, and depart soon whither the Elves know not. Whereas the Elves remain until the end of days, and their love of the

Earth and all the world is more single and more poignant therefore, and as the years lengthen ever more sorrowful. For the

Elves die not till the world dies, unless they are slain or waste in grief (and to both these seeming deaths they are subject) ;

neither does age subdue their strength, unless one grow weary of ten thousand centuries ; and dying they are gathered to

the halls of Mandos in Valinor, whence they may in time return. But the sons of Men die indeed, and leave the world ;

wherefore they are called the Guests, or the Strangers. Death is their fate, the gift of Ilúvatar, which as Time wears even the

Powers shall envy.v

唯一神イルヴァタールは、エルフには聖なる精霊であるアイヌーアにその姿形を似せたのだという。美しい地球

70 金沢学院大学紀要「文学・美術・社会学編」 第11号(2013)

に暮らすべき存在としてエルフを創ったのだった。人間も地球に暮らすべき存在として創造されたが、神はエルフ

を「不死」の民とし、人間を「死すべき」民とした。エルフは、故意に殺されるか、悲しみのために疲弊してしま

わない限り、生き続ける、世界が終わるまで。人間の限りある命は、神が人間に与えた「新しい贈り物」、「不思議

な贈り物」である。それは、人間の心が「この世界の向こうを求めるように」、「この世界に安住してしまうことの

ないように」と神が望んだからである。それは地球に縛られることのない「自由」という贈り物だという。だから

エルフと異なって人間は「実際に」死に、この世界に縛られることなく、エルフも知らないどこかへ旅立つのであ

る。この「死」は、いずれは「力ある者」さえも羨むであろう神の贈り物である、と神は言う。しかし、それが「ど

のように、力ある者さえをも羨ましがらせる」のか、これ以上は明言されないままである。

『シルマリリオン』で語られているのは有史以前からの話である。第一紀自体、一体何万年か分からないほど長

い期間であり、第二紀が3千年以上、第三紀もまた3千年以上が経ち、ホビットたちの冒険の物語は、第三紀の終

末、ごくわずかの期間を語っているに過ぎない。フロドやサムたちの冒険自体は、たかだか2年ほどのものである。

彼らの時代には、人間族とエルフ族の交流も余りなく、まして新種族のホビットは人間族とさえも知り合うことが

殆どなく、ホビット庄の中で閉鎖的に、しかし平和に、農耕民族らしい暮らしを楽しんでいた。ビルボ旦那様から

聞かされる「高貴なエルフ」の話は、不思議で美しいものに憧れる庭師のサムをどれほど魅了したことか。そのエ

ルフたちが二度と戻らぬという西方へと向かっているらしいことに、サムはどれほど心をかき乱されたことか。し

かしこの時のサムには、「西方」が何であるか、あるいは「西方への旅」がどのような意味を持っているのか、明

確に分かってはいないようである。

「西方」や「彼岸」という概念が、この作者にとってどういうものであったのかを暗示する歌がある。この長大

な物語の中で、「此岸」the Hither Shoreという語をロスロリエンのエルフの女王であるガラドリエルが一度だけ、

使っているのである。フロドたち、9人の旅の一行がロスロリエンの地を出発するにあたって、ガラドリエルがハー

プを弾きながら、いよいよ出掛ける彼らに、はなむけの歌を歌ってくれる。その歌に「此岸」という言葉が出てく

る。

I sang of leaves, of leaves of gold, and leaves of gold there grew :

Of wind I sang, a wind there came and in the branches blew.

Beyond the Sun, beyond the Moon, the foam was on the Sea,

And by the strand of Ilmarin there grew a golden Tree.

Beneath the stars of Ever−eve in Eldamar it shone,

In Eldamar beside the walls of Elven Tirion.

There long the golden leaves have grown upon the branching years,

While here beyond the Sundering Seas now fall the Elven−tears.

O Lórien! The Winter comes, the bare and leafless Day ;

The leaves are falling in the stream, the River flows away.

O Lórien! Too long I have dwelt upon this Hither Shore

And in a fading crown have twined the golden elanor.

But if of ships I now should sing, what ship would come to me,

What ship would bear me ever back across so wide a Sea?vi

「金色の木の葉、彼の地に生い茂っていた金色の木の葉について、私は歌った。

風について私は歌った。彼の地で吹いていた風を、枝に吹く風を。

太陽の向こう、月の向こうで、海は泡立っていた。

イルマリンの岸辺に、一本の金色の木が生えていた。

エルダマールの、常に宵の夕星のもと、それは輝く、

エルダマールの地、エルフのティリオンの城壁のそばで。

71水井:J.R.R.トールキン ― 作品に見る「彼岸」のイメージ

そこで長い間、金色の葉は枝に茂り、

その間、分断された海のこちらでは、いま、エルフの涙が落ちる。

ああ、ロリエンよ。冬が来た、むき出しの葉のない時代が。

木の葉は川に落ち、川は流れていく。

おお、ロリエンよ。

余りにも長い間、私はこの此岸に暮らしてきた。

金色のエラノールを巻き付けた色褪せた王冠の中に生きてきたのだ。

しかし、船について私が歌うとしても、どんな船がくるのだろうか。

どんな船が私を乗せて、あんなにも広い海を戻ってくれるのだろうか。」(拙訳)

『彼の地』とは太陽の向こう、月の向こうにあり、そこに行くには泡立つ海を越えて行かなければならない。海を

越えた向こうの地はイルマリンの岸辺であり、その地の名がエルダマールである。エルダマールとはヴァリノール

すなわち、神々の国である。そこに一本の金色に輝く木が生えていた。しかし「分断された海のこちら側」に暮ら

すエルフたちは、涙にくれている。余りにも長い間、エルフたちは「此岸」に暮らしてきたからだ。しかし、一体

どんな船が私たちを向こうへ(彼岸へ)渡してくれるのだろうか。ガラドリエルにも分からない。

これは何を歌っているのか、一見しただけでは分かりにくいかもしれない。見慣れない固有名詞も多く、尚のこ

とである。しかし、不思議とサムの言葉が思い出されてくる。「広い海」を渡ることへの憧憬があるからである。

歌の中にある固有名詞のロリエンとはロスロリエンのこと、すなわちガラドリエルが暮らす中っ国にある彼女の国

である。エラノールとはそのロリエンに咲く金色の花である。そしてイルマリンは、神々の地ヴァリノールにある。

また、ティリオンとはエルダマールにある都で、この都には白い城壁と水晶の階段があったという。ガラドリエル

を含めエルフたちは、神々の地ヴァリノールを求めている。彼らは本来、ヴァリノールへいつかは行くことを許さ

れている種族だからである。もともと、この地と中っ国とは海で繋がっていたが、遥か昔に、とてつもなく大きな

戦争の後、平面上の繋がりはなくなり、一種の異空間となってしまった。神々の承認があれば、中っ国の灰色港か

ら出る船は、その異空間を超えてヴァリノールに着くことが出来る。ガラドリエルが歌うこれは、楽しみと共に苦

しみもある中っ国で何千年も暮らしてきた不死のエルフが歌う、「永遠に安らうことが出来る神々の国」への憧憬

の歌である。

彼女の歌に出てくる此岸 the Hither Shoreという言葉は、中っ国を指している。今いるここが此岸 the Hither Shore

であるなら、彼女が望む「余りにも広い海を渡った先」は彼岸 the Other Shoreということになろう。中っ国の楽園

であるロスロリエンに暮らすガラドリエルもまた、「船」にのって広い海を渡って「彼岸」へ行きたい。この広い

海こそ、西方の港(グレイ・ヘブンズ)から更に西へと広がる海であり、彼らの現在住まう中っ国とヴァリノール

とを隔てる海である。ガラドリエルが求める「彼岸」は、神々の地ヴァリノールであり、彼ら「不死の者たち」が

「中っ国においてその存在を『成就』した後に」行くところである。ここで語られる「彼岸」は、「不死の国」Un-

dying Land とも「至福の国」Blessed Realmとも呼ばれているのだから、佛教的な感覚においても一種の浄土であ

ると言えるだろうが、そこは、有限の命を持つ人間が死後に行くところではなく、永遠の命を与えられたエルフが

この世を捨てて行くところなのだ。

この海と中っ国とヴァリノールの位置関係であるが、これらは単に三次元の空間にあるのみならず、四次元とも

言える空間に属している。単に船をこぎ出しただけではヴァリノールには行けないからである。ここに行くには資

格が必要である。イルヴァタールが認めた者たち、すなわち聖なる精霊アイヌーアとエルフ族である。もっとも、

『指輪物語』の最後で作者は、ホビット族のビルボとフロドに、エルフや魔法使いのガンダルフが船出する際、共

に乗船させ、西方へ向かわせている。実はフロドは、人間族の王アラゴルンが妻にしたエルフの姫君であるアルウ

ェンから、「(決して癒えることのない傷を負った)そなたが、私の代わりに西方へ行くが良い」と、恩寵とも言え

る贈り物をもらっていた。それは、もうフロドが実際的な意味で「死ぬ」ことはない、ということを意味する。人

間と結婚することを決意したアルウェンは、その永遠の命を諦めたのであって、もうヴァリノールへ行くことはで

きなくなった。だから、その権利をフロドに与えるというのである。しかし同時に、フロドとビルボが魔法使いた

72 金沢学院大学紀要「文学・美術・社会学編」 第11号(2013)

ちと共に西方行きの船に乗れたのは、この世界を闇から救い、冥王サウロンを虚空へと雲散霧消させたという、そ

れまでの長い歴史の中で誰にも出来なかったことを為し得た、その功績のためにヴァラールからの恩寵があったか

らだと考えられる。というのは、たとえエルフの姫であっても、それは唯一神以外に決められることではないよう

だからである。愛する人と一緒に生きるために、永遠の命を捨てた最初のエルフは、ルシエンという姫君であった

が、彼女の場合にも、マンウェというヴァラが思念の中で、唯一神イルヴァタールにお伺いを立てている。有限の

命の民でありながらヴァリノールへ行けたフロドやビルボは、例外中の例外的存在であると言ってよいだろう。

しかも、見てきたように、トールキンのいう「西方」は、単に「死後に行くところ」を表しているのではない。

この大海を西へと渡って行く旅は、「死すべき運命」を定められた人間族やホビット族のものではなく、エルフだ

けに許された特権だからである。彼ら不死の種族が究極的に帰って行く安楽の国、それが the Other Shore すなわ

ち「彼岸」である。端的に言えば、彼らは衰退していく中っ国から至福の国へと暮らす場を変えるに過ぎない。そ

して、この不死の国で、不安も悲しみも全てなくなり、永遠に、安穏に暮らしていく、ということなのである。

では、もう一方の「神の子どもたち」である人間族はどうなのか。死すべき運命の人間たち(ホビット族もまた

「死すべき運命」の種族である)が、死後どうなるのかは、明確に語られていない。その上、人間に与えられた神

の贈り物である「有限の命」は、メルコ―ル(すなわち最初の冥王モルゴス)によって暗いものにさせられるとい

うことが、どうやらイルヴァタールには分かっていた、という設定である。全てに執着し、全てを支配することに

執念を燃やしていたモルゴスには、「縛られないことの自由」などは理解しようもなかったし、「死」を背負う人間

たちに「不死」への羨望を植え付けるのは、たやすいことであったに違いない。人間族の最も優秀であったという

古代ヌメノール人たちが住んでいたのは中っ国ではなく、中っ国とヴァリノールの間にあった大きな島だったが、

モルゴスに堕落させられた当時は、鋭い目を持つ彼らには、行くことが出来ないヴァリノールの地がこの島から遥

か西に見えたというのであるからvii、エルフの持つ永遠の命への如何ともし難い憧れは尚のこと身にしみて感じら

れたことだろう。モルゴスは、エルフへの羨望と不公平感を人間族の間にばらまけばよかった。結局、モルゴスに

よって神への不信を抱いたヌメノール人達は、滅びへの道を歩むこととなった。

一方、エルフたちは死ぬことはないものの、「変わりゆく世界、たそがれていく世界」である中っ国に倦み疲れ

て、ここでの暮らしを捨てて、西方にある神々の国へ行きたいのである。エルフの「不死性」と人間族の「有限の

命」について、トールキンは比較して『シルマリリオン』の中で次のように言う。ヴァラのマンウェが古代のヌメ

ノールの王に送った使者が、王に向かって言う科白である。

...The Eldar, you say, are unpunished, and even those who rebelled do not die. Yet that is to them neither reward nor pun-

ishment, but the fulfillment of their being. They cannot escape, and are bound to this world, never to leave it so long as it

lasts, for its life is theirs. And you are punished for the rebellion of Men, you say, in which you had small part, and so it is

that you die. But that was not at first appointed for a punishment. Thus you escape, and leave the world, and are not bound

to it, in hope or in weariness. Which of us therefore should envy the others?viii

「エルフ族は罰されることがなく、たとえ背いても死ぬことはない、と貴方は言う。しかしそれは褒美でもなけれ

ば罰でもなく、存在の成就なのです。(エルフは)逃げることは出来ず、この世界に縛り付けられているのですか

ら。(エルフは)この世界が続く限り、ここを去ることはできないのです。この世界の命が彼らの命だからです。・・・

有限の命は、初めは「罰」などではなかった。あなたがた(人間)は逃れ、この世界を去り、希望を持っているか

倦み疲れているかはともかく、ここに縛り付けられてはいないのですよ。・・・」(拙訳)

トールキンが『シルマリリオン』の最初で、言及しているのと同じではあるが、エルフの不死性と人間の死ぬ運命

との違いについて、かなり踏み込んで説明していると言える。一方、矛盾もある。ヴァラのマンウェが自分の使者

に、「エルフはこの世界が続く限りはここを去ることは出来ない」と言わせながらも実際には、『指輪物語』で語ら

れているように、第三紀の終わりにエルフは中っ国を捨てるのである。サムが緑龍館で話題にしていた「エルフが

西を目指して旅をしている」とは、これを指している。これは、もう「この世界が続かなくなった」ということな

73水井:J.R.R.トールキン ― 作品に見る「彼岸」のイメージ

のだろうか。彼らエルフたちは、中っ国で「その存在を成就した」のだろうか?この世界が終わりになって初めて、

エルフたちはヴァリノールに行けることになっているはずであるが、第三紀の終わりごろに西へと旅して行った彼

らは、その存在を成就、あるいは全うして、神の国に帰ることが許された、ということなのだろうか?あるいは、

エルフたちは悲しみのために疲弊してしまったというのだろうか。何千年も生きてきたエルフにしてみれば、それ

もあるかもしれない。

また、最終的にサウロンが居なくなった今、この全き悪が取り除かれた今、一つの世界は終わったと考えること

は出来るだろう。そうであれば、彼らはその存在を「成就した」と言えるかもしれない。これで、エルフたちにとっ

ては永遠に神の国に安らう時になったのかもしれない。一つ確実なことは、中っ国から「不死の」エルフたちは以

後、いなくなる、ということである。トールキン自身、いみじくも、「この物語は『死』と『不死』を扱ったもの

だ」と言っている。トールキンは、ある編集者(Waldman Milton)への手紙で、『指輪物語』と『シルマリリオン』

を「死と不死をテーマにした」と自ら書いているし、1956年にも、作品は「核」を象徴した寓話でないか、という

手紙を出した読者(Joanna de Bortadanoという女性)に返事を書いて次のように語っている。

Of course my story is not an allegory of Atomic power, but of Powers (extended for Dominion). ... ... I do not think that

even Power of Dominion is the real centre of my story. It provides the theme of War, about something dark and threatening

enough to seem at that time of supreme importance, but that is mainly ‘a setting’ for characters to show themselves. The

real theme for me is about something much more permanent and difficult : Death and Immortality : the mystery of the love

of the world in the hearts of a race ‘doomed’ to leave ad seemingly lose it ; the anguish in the hearts of a race ‘doomed’

not to leave it, until its whole evil−aroused story is complete. ix

「勿論、私の物語は、核を象徴した寓話ではありませんが、(支配にまで伸びる)力の話です。・・・ ・・・

私にとって真のテーマはもっと永久的で難しいもの、すなわち「死」と「不死」であり、この世を去るよう運命づ

けられている種族の心にある、この世への愛という不思議であり、その全き悪が呼び起こした物語が完結するまで

はこの世を去れないように運命づけられた種族の心にある苦悩なのです」(拙訳) と。

実は「死者の家」と呼ばれる「マンドスの館」なるものが、ヴァリノールにある。ここには人間族、エルフ族(彼

らの寿命は永遠であり、その意味では不死であるが、不死身なのではなく、故意に殺されたり、あるいはエルフ自

身が悲しみに倦み疲れた場合は「死ぬ」のである)が、そして恐らくはドワーフ族も、死後に来るところだという。

「死んだ」エルフはここにしばらく滞在したのち、「解き放たれて」ヴァリノールのどこで暮らしても良いことに

なる。ドワーフはここに終末 the End まで留まり、そして人間の霊魂はアルダの外、西へと出て行く、という。

そしてこのアルダとは、この物語世界における「地球」である。地球の外の西とはどんなところなのか。宇宙その

ものに東西南北があるとは思えないから、この「西」とは、ここでも何か比喩的な、あるいは暗示的な意味合いを

持っていると考えられる。ここで思い出されるのが、聖書の創世記(Genesis)にある「エデンの東」という語で

ある。

神は、エデンの東方にエデンの園を作り And the Lord God planted a garden eastward in Eden ; and there he put the

man whom he had formed. x自分たちに似せて作った男をエデンの園に置いた(And the Lord God took the man, and

put him into the garden of Eden to till it and keep it. xi)。神は次に、男のために男のあばら骨から女を作って妻として

与える。人間は最初、「エデンの中の東方」the eastward in Edenにいた。ここで妻イブは蛇に「智慧の木の実」a tree

desired to make one wisexiiを食べてみるよう誘惑されて食べ、男にも食べさせた結果二人の目が開き、羞恥心を知っ

たことで、智慧の木から果実を食べたことを神に知られてしまう。その結果、神は次のように言う。

And the Lord God said, Behold, the man is become as one of us, to know good and evil ; and now lest he put forth his

hand, and talk also of the tree of life, and eat, and live forever ; Therefore the Lord God sent him forth from the garden of

Eden, to till the ground from where he was taken. So he drove out the man ; and he placed at the east of the garden of

Eden cherubim, and a flaming sword which turned every way, to guard the way of the tree of life. xiii

74 金沢学院大学紀要「文学・美術・社会学編」 第11号(2013)

そこで主神はこう言った「見よ。この男は善と悪を知って、我々の一人と同じになろうとしている。今や、彼が

これ以上手を染めないように、命の木についてもしゃべらないように、食べないように、そして永遠に生きること

のないように」と。それゆえ、主神は彼をエデンの園から追放し、彼は地面を耕すこととなった。こうして彼は人

間を追い出し、エデン・ケルビムの園の東に(人間の住む地を)定めて、命の木を守るためにあらゆる方向を向く

燃え立つ剣を置いた。(拙訳)

つまり、アダムはエデンの東(エデンを東に出たところ)the east of Edenに追放されたのだ。妻のイブも同様で

ある。エデンの東方にあるエデンの園にいた二人は、エデンそのものから追放されたのだ、東へ。

追放された二人には息子が二人できたが、兄のカインは、地面に落ちた果物を神への捧げものとし、弟のアベル

は、飼っていた羊の初子とそれからとった油を捧げものとする。神はアベルの貢物を喜ぶが、カインの捧げものに

見向きもしない。腹を立てたカインはアベルを殺す。神はカインを追放する。その次第が以下のようである。

And Cain went from the presence of the Lord, and dwelt in the land of Nod, on the east of Eden. xiv

カインは、「エデン」の東にあるノッドという地に住まざるを得なくなるのである。人間はエデンから東へと追

放されたのだから、楽園とされるエデンは、人間界からは「西」にあるはずである。ここに「西方」を至福の国と

するトールキンの根拠が一つ、窺える。また、ここで、人間が永遠に生きることのないように、命の木に近づかな

いように、神はエデンから人間を追放し、命の木を守っていると明記されている。敬虔なトールキンが、人間の運

命(有限の命)をどうしても変えられなかった理由も分かるように思われる。

トールキンの作品において「死すべき運命の」人間が生きてこの世に暮らすのはごくわずかな間であり、その後

彼らはどこかへ旅立つが、それがどこかは唯一神イルヴァタールが知るのみであり、人間自身もエルフも知らない。

繰り返すが、トールキンの世界における「彼岸」the Other Worldや「此岸」the Hither Worldは、死することのない

エルフたちのとっての彼岸、此岸であり、人間やホビットたちは、ここで語られている「西方」すなわち「不死の

国」「至福の国」へ行くことはない、行けない、ということが分かった。

一方、死後、この世界を離れた後どこへ行くのか分らならない人間たちにとって「死とは、この世に縛られない

自由という贈り物」と言われても、生きている世に執着を持っている限り、不死のエルフという存在を知った以上、

たとえメルコ―ルによってその「贈り物」が汚されることがなかったとしても、不死への羨望は止み難い。その端

的な例が前述したヌメノール人である。歴史上最も繁栄した人間族と言われたヌメノール人だが、メルコ―ルにそ

そのかされて、唯一神イルヴァタールに対し反逆し、これにイルヴァタールは怒り、結局、ヌメノール帝国は滅び、

国(島)は海にのまれ、これに加わらなかったごく一部の人間をのぞいて全員が死んだ。有限の命しか持たない人

間の苦悩について、トールキンは、ヌメノール人に次のように言わせている。

Why should we not envy the Valar, or even the least of the Deathless? For of us is required a blind trust, and a hope

without assurance, knowing not what lies before us in a little while. And yet we also love the Earth and would not lose it. xv

「どうしてヴァラールを、または不死の者たちの最小の者たちをさえ、羨まないでいられようか。自分たちの前

に何があるのかを知らないまま、我らに求められているのは、盲目的信頼であり、確信のない希望なのだ。それに

我らは地球(この世)に愛着があり、これを失いたくはない」(拙訳)と。

「神々の国」へ行くことが出来ない人間たちは一体、死後どこへ行くのか、についてのトールキンの明確な答え

はないように思われる。実際、メルコ―ルに暗い影を投げかけられ、その罠に陥った人間たちの思いは、「西方の

諸侯たちがいつまでも安穏にそこに居座り続けているというのに、何故、自分たちは全てを置いて死に、どこか知

らないところへ行かねばならぬのか?」Why do the Lords of the West sit there in peace unending, while we must die

and go we know not whither, leaving our home and all that we have made?xviということであった。立場が全く逆であ

るのだから、「死」に対する認識が人間とエルフとでは異なっているのは、当然であろう。

75水井:J.R.R.トールキン ― 作品に見る「彼岸」のイメージ

『シルマリリオン』の中から、人間族の死について言及している部分を拾ってみよう。先ずは、エルフにはない

「老衰による自然死」にエルフが立ち会う場面である。

The years of the Edain were lengthened, according to the reckoning of Men, after their coming to Beleriand ; but at last

Bëor the Old died when he had lived three and ninety years, for four and forty of which he had served King Felagund. And

when he lay dead, of no wound or grief, but stricken by age, the Eldar wondered much at the strange fate of Men, for in all

their lore there was no account of it, and its end was hidden from them.

Nonetheless the Edain of old learned swiftly of the Eldar all such art and knowledge as they could receive, and their sons

increased in wisdom and skill, until they far surpassed all others of Mankind, who dwelt still east of the mountains and had

not seen the Eldar, not looked upon the faces that had beheld the Light of Valinorxvii.

人間族(エダイン)のベオル老が93歳で自然死を迎えることになったとき、エルフ(エルダール)はこういう形

での死を知らなかった、ということが分かる。確かにそれは、世界が終るまで中っ国に留まり続けるエルフたちに

とっては、驚き怪しむべきことであったろう。ベオル老は、死を受け入れ甘んじて死んでいく。しかし、彼がその

後どうなるのか、どこへ行くのかはやはり語られてはいない。

また、人間のベレンとエルフの姫君ルシエンの、種族を超えた愛の物語は、『指輪物語』でアラゴルンによって

その概略が語られたが、詳細は『シルマリリオン』に記されている。そこにおいても、それぞれの種族の死に関す

る言及が見られるので、そこを紹介しておきたい。

至宝シルマリルを奪還した結果、ベレンはその後、モルゴスの狼によって命を落としてしまう。ルシエンには、

愛するベレンが二度と自分の元へ帰ってこない、ということが何としても受け入れられない。死にかけているベレ

ンに「西の海の向こうで待っていて」と言う。

They bore back Beren Camlost son of Barahir upon a bier of branches with Huan the wolfhound at his side ; and night

fell ere they returned to Menegroth. ... ... There she set her arms about Beren, and kissed him, bidding him await her be-

yond the Western Sea ; and he looked upon her eyes ere the spirit left him. ... ...

For the spirit of Beren at her bidding tarried in the halls of Mandos, unwilling to leave the world, until Lúthien came to

say her last farewell upon the dim shores of the Outer Sea, whence Men that die set out never to return. But the spirit of

Lúthien fell down into darkness, and at last it fled, and her body lay like a flower that is suddenly cut off and lies for a

while unwithered on the grass.

Then a winter, as it were the hoar age of mortal Men, fell upon Thingol. But Lúthien came to the halls of Mandos,

where are the appointed place of the Eldalië, beyond the mansions of the West upon the confines of the world. There those

that wait sit in the shadow of their thought. But her beauty was more than their beauty, and her sorrow deeper than their

sorrows ; and she knelt before Mandos and sang to him.

The song of Lúthien before Mandos was the song most fair that ever in words was woven, and the song most sorrowful that

ever the world shall hear. Unchanged, imperishable, it is sung still in Valinor beyond the hearing of the world, and listening

the Valar are grieved. For Lúthien wove two themes of words, of the sorrow of the Eldar and the grief of Men, of the Two

Kindreds that were made by Ilúvatar to dwell in Arda, Kingdom of Earth amid the innumerable stars. And as she knelt be-

fore him her tears fell upon his feet like rain upon the stones ; and Mandos was moved to pity, who never before was so

moved, nor has been since.

... ...

... He went therefore to Manwë, Lord of the Valar, who governed the world under the hand of Ilúvatar ; and Manwë

sought counsel in his inmost thought, where the will of Ilúvatar was revealed.... ...

This doom she chose, forsaking the Blessed Realm, and putting side all claim to kinship with those that dwell there ;

that this whatever grief might lie in wait, the fates of Beren and Lúthien might be joined, and their paths lead together be-

76 金沢学院大学紀要「文学・美術・社会学編」 第11号(2013)

yond the confines of the world. So it was that alone of the Eldalië she has died indeed, and left the world long ago. ... xviii

「西方の海の向こう」で待っていてくれと言われても、人間族であるベレンは、間もなくマンドスの館を出なけれ

ばならない。しかし、そう言われたベレンには未練があり、彼の魂は「外海」の小暗い岸辺でルシエンに別れを告

げるまでは、マンドスの館を離れることが出来ない。そこから出発したら、死んだ人間は二度と戻ることはないの

だから。

ルシエンの魂も肉体を離れて、ヴァリノールにある死者の家、マンドスの館に向かう。そこで彼女は嘆きの歌を

歌う。そこに彼女は二つのテーマを込めたという。すなわち、数限りない星の中で地球という王国であるアルダに

住むことを唯一神イルヴァタールに運命づけられた、二つの親族であるエルダー(エルフ族)の悲しみと人間族の

嘆きである。ヴァラールのマンドスはルシエンの嘆きを聞き、後にも先にも初めて、哀れさに心を打たれたが、ヴ

ァラールであっても唯一神の決めたことは如何ともし難く、ヴァラールの長マンウェに相談する。マンウェは心の

奥底の思念の中で会議を開き、イルヴァタールの御意志を知った、という。選択肢が告げられる。一つの選択肢は、

それほど悲しいのであれば、今すぐにヴァリノールへ来ることを許可するというものである。ここでなら悲しいこ

とを忘れて永遠に生きていくことができるだろう、ただし、人間であるベレンはここに居続けることはできない。

ベレンは死を迎えてここを去り、ルシエン一人だけが安楽の国で生きて行くことになる。二つ目の選択肢は、ルシ

エンがエルフとしての永遠の命を捨て、「有限の命」というベレンの運命を共にするのであれば、しばらくはベレ

ンと共に中っ国で暮らすことを可能にしようというものであった。

ルシエンは後者を選んだ。ルシエンは「実際に死んで」この世を去った、初めてのエルフである。ルシエンの素

晴らしい歌も記憶に残るのみである、と書かれている。そして歴史的には多分、何千年も後の時代のアルウェンが

二人目ということなのだろう。ここにおいても、人間族は死んだら「この世を去り、二度と戻らない」という以上

の事は書かれてはいない。彼らが死後に行くという「地球の外にある西」とはどういうところか、明かされないま

まである。

『指輪物語』は、フロドがビルボやガンダルフと共に船出し、エルフたちもこの世界を去り、世界がエルフと人

間の時代から人間とホビットの時代へと変わったところで終わっている。西方にある「至福の国」Blessed Realm、

「不死の国」Undying Landである神々の国へ去った彼らが、もう中っ国に戻ることはない。時代は第四紀へと入っ

た。いずれも有限の命しか持たない人間族とホビット族の時代になったのである。今後、西へと船を出し、「彼岸」

へと向かう者たちは誰もいない、ということになる。

実は、『指輪物語』の最後で、作家は気になる言葉をフロドに言わせている。ホビットたちがホビット庄に帰っ

て約一年後の秋、表面上はともかく内部の深いところで暗黒の敵から受けた傷の癒えないフロドが、サムを伴って

灰色港へと向かう途中のことである。サムはフロドに請われて、フロドの旅の理由も目的地も分からないまま付い

て来たのだが、ビルボや魔法使いのガンダルフ、半エルフの王エルロンドや、エルフの女王ガラドリエルたちの一

行と出会い、事の成り行きに驚愕した。フロドがエルフたちと共にこの地を去り、二度と中っ国へは戻ることのな

い旅の途上にいるのだと察したからである。

‘Where are you going, Master?’ cried Sam, though at last he understood what was happening.

‘To the Havens, Sam,’ said Frodo.

‘And I can’t come.’

‘No, Sam. Not yet anyway, not further than the Havens. Though you too were a Ring-bearer, if only for a little while.

Your time may come. Do not be too sad, Sam. You cannot be always torn in two. You will have to be one and whole, for

many years. You will have so much to enjoy and to be, and to do.’

‘But,’ said Sam, and tears started in his eyes, ‘I thought you were going to enjoy the Shire, too, for years and years,

after all you have done.’

‘So I thought so, too. But I have been too deeply hurt, Sam. ... .....xix

77水井:J.R.R.トールキン ― 作品に見る「彼岸」のイメージ

灰色港へ行くのだというフロドに、サムは「自分は一緒には行けない」と言う。フロドも、今はまだサムを灰色港

より先に連れていくようなことはないと請け合うが、続けて、サムもいっときは「指輪を担う者」であったのだか

ら「お前の時も来るだろう」と言うのである。この「お前の時」とは、サムが灰色港から「彼岸」へ渡るとき、と

いうことであると解釈される。つまり、サムはビルボやフロドと同様、例えいっときなりともフロドの代わりに指

輪を壊すために指輪を所持して悪に立ち向かったのだから、サムも「西方」へ、「彼岸」へ、渡ることが出来るは

ずだとフロドは考えているのである。フロドがそれを「恩寵」と考えているらしいことも、最終的にはサムもそれ

を望んでいるのだとフロドが考えていることも、ここから読みとれる。

しかし一方で、作家は、この後の時代について、このすぐ後で次のようにも語っている。

Then Elrond and Galadriel rode on ; for the Third Age was over, and the Days of Rings were passed, and an end was come

of the story and song of those times. With them went many elves of the High Kindred who would no longer stay in

Middle-earth ; and among them, filled with a sadness that was blessed and without bitterness, rode Sam, and Frodo, and

Bilbo, and the Elves delighted to honour them.

すなわち、「第三紀は終わり、指輪の時代は過ぎ去ったのだ。この時代の歌も物語も終わりが来た。それと共に、

中っ国に留まるつもりのない多くの高貴なエルフたちが中っ国を去った。」と。

今さら述べるまでもなく、エルフたちがもう中っ国からいなくなることは既に明らかである。灰色港も、その役

割を終えるであろう。では、サムがこの中っ国で「死ぬ」時を迎えたとき、一体だれが、サムを連れて灰色港から

船を出してくれるというのだろうか。サムのその「権利」を知るエルフが、一体どれだけ残っているというのだろ

うか。第一、サムがそれを望むだろうか。彼には愛する妻のローズも、生まれたばかりの愛しい子どもエラノール

もおり、その妻子はサムと共に「彼岸」に渡ることはないのだ。「彼岸」は、彼女たちには閉ざされた道なのだか

ら。ここで思い出されるのは、愛する者と死後の道を共にするために永遠の命を手放した、昔日のエルフの姫君ル

シエンと、エルフの女王ガラドリエルの娘アルウェンの姿である。これこそ、この作家の考える究極的な愛の姿で

はなかったか。であればこそ、トールキンが自分たち夫婦の墓碑銘に「ベレンとルシエン、ここに眠る」といれた

のだ。あの義理堅く人情味の厚いサムが、ホビット特有の頑固さも兼ね備えた上で真に優しい心を持つサムが、愛

する妻や子と別の死後の道を選ぶとは到底考えられない。フロドが言うようにサムは、フロドたち旅の仲間やエル

フたちとの美しくも危険に満ちた非日常的生活と、自然豊かなホビット庄での妻子との平穏な日常生活、の二つに

引き裂かれている事は確かであるが、それでも彼は、どこまでもホビットとして、愛する家族と同じ道を歩んでい

くだろう。

やはり、以後、この世界において「彼岸」へ向かう者はいないことになるだろう。トールキンの作品においては、

「彼岸」とは、そういう位置づけであったと考えられる。

<使用文献>

Tolkien, J.R.R. The Lord of the Rings Harper Collins Publishers,(1996版)

Tolkien, Christopher edited. The Silmarillion by J.R.R. Tolkien Houghton Mifflin Company, 1977

Carpenter, Humphrey edited. The Letters of J.R.R. Tolkien Houghton Mifflin Company, 1981

<参考文献>

C.L.SCOFIELD, D.D. edited. HOLY BIBLE Authorized King James Version Oxford University Press, 1967

中村 元著 『佛教語大辞典』 東京書籍 平成3年 第7刷

78 金沢学院大学紀要「文学・美術・社会学編」 第11号(2013)

i The Lord of the Rings p.57−8

ii ここから西方に向かう「港」にトールキンが使った言葉は、portでも harborでもなく、heavenと音が似ている havenである。

iii 聖書は、「初めに神が天と地を創造した(In the beginning God created the heaven and the earth.)」という文で始まる。

iv 注 iii参照 この後、天と地を分け、星々を作る様子が語られていく。『シルマリリオン』でも、宇宙創造の次第が語られてい

く。

v The Silmarillion , p.41−2

vi The Lord of the Rings, p.393

vii The Silmarillion , p.262

viii Ibid., p.265

ix The Letters of J.R.R. Tolkien, p.186

x Genesis 2 God forms man and prepare Eden for him 8

xi Genesis 2 First, or Edenic Covenant 15

xii Ibid. 2 The Fall and Promise of Redemption 6

xiii Ibid. 3 Expulsion from Eden 22−24

xiv Ibid. 4 Cainite civilization 16

xv The Silmarillion, p.265

xvi Ibid., p.264

xvii Ibid., P.148−9

xviii Ibid., P.186

xix The Lord of the Rings, p.1067