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This document is downloaded at: 2020-11-05T17:29:40Z Title 華僑問題 -史的考察に関する序説- Author(s) 須山, 卓 Citation 経営と経済, 50(1), pp.93-126; 1970 Issue Date 1970-04-30 URL http://hdl.handle.net/10069/27801 Right NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp

NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITEnaosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/27801/...経営と経済 九 四 2 A 華僑名称のおこりと歴史的背景

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Title 華僑問題 -史的考察に関する序説-

Author(s) 須山, 卓

Citation 経営と経済, 50(1), pp.93-126; 1970

Issue Date 1970-04-30

URL http://hdl.handle.net/10069/27801

Right

NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE

http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp

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華僑問題

-史的考察に関する序説-

 

 

 

1 華僑問題の本質

A 華僑概念の要件

B 華僑は植民か移民か

C 複合社会と華僑経済

D ナショナリズムと華僑

E 華民保護と送金

田 中華人民共和国の華僑対策

㈲ 中華民国の華僑対策

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九四

2

華僑名称のおこりと歴史的背景

A

中華・蛮夷・華僑

B

条約上の華僑の地位

lま

華僑問題が今日的課題としてとくに注目されるようになったのは、独立後の東南アジア諸国が国内の政治、経済的

体制を整えはじめる過程において、本来の旧植民地的支配から解放され、民族国家の形成を目ざす欲求から起った民

族主義運動(Zmzoロmw]ZEという否定的な力)の展開が、海外に居住している中国人グループの社会に指向され、

それが大きな人種的な基礎の上で人種グループ問の緊張にまで発展したときに始まる。もちろん、人寝間の緊張はそ

の力関係と歴史的な諸条件によって、

さまざまな現象形態と方向をとるのであるが、東南アジア諸国の場合ば、

これ

まで経済的にとくに弱かった原住民社会の、グループが、

ナショナリズムの姿をとって中国人(華僑)の商人階約と闘い

を開始したところに特徴がある。たとえばフィリピンにおいては、

フィリピン入国民化

(間以}岡山口匂-ロoロm目立。ロωロNmwzoロ)

という名のもとに華僑およびその他の諸外国人の経済活動に対して自国民の地位を優先的に規定しようとする「フィ

リピン人第一政策」(虫己目立ロ。百円己

Hvo--々

)を実施しており、とくに華僑の商人層に対する排華政策-(口三ナ岳山口

go

MUO]

芯匂)は積極化している。仮りに帰化入籍ができても、国民は等級に分けられ、本来のフィリピン人は一等国民と

なり、帰化入籍の華僑は二等国民として両者の間には地位と権利において差別が設けられている。またインド、不シア

においても、

インドネシアナショナリゼ

iションの傾向が強く打ち出され、華僑を中心にした諸企業の制限もますま

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すきびしさを加えつつある。とくに地域末端における小売商の閉め出し(一九五九年に実施されたいわゆる政令五九

年第一

O号)は、排華政策を露骨に表面化したものである。またマレーシアにおいては、その民族政策は「国際平和

と国内各民族問の協和」ということを基調にしているので、

フィリピンやインド、不シアほどに排翠的な感情は表面化

されていないけれども、内面的に高まりつつある「マレ

l人のマレーシア」なるナショナリズムの風潮に刺激され

て、華僑に対する警戒心と不信感はかなりデリケートなものになっている。

一九六九年五月のマレーシアの首都クア

ラルンプ

lルにおいて中国人とマレ!人の聞に大規模な人種暴動が起ったのもその燥発的な反映とみることができ

る。さらにまた、タイ国においても、アンチ・チヤイニズの態度は従来徹底していることで知られているが、商業企

業の領域から華僑の商入居を排除しようとするいくたの法律も実施されている。この数年来、タイ国の職業に関する

制限と禁止は一三業種に及んでおり、

フィリピンの二七業種、

カンボジアの一八業種、ラオスの一二業種、市ベトナ

ムの一一業種などと共にかなり厳びしいものになっている。

このように見てくれば、

そうした一連の排華的諸現象の本質は一体どこにあるのだろうか。言葉を換えていえば、

それを生起せしめている華僑問題の本質は何であり、

それへのアプローチのためにはその基本的特徴をどう理解した

らよいのか。まず乙乙ではこうした華僑社会の基本に関する若干の問題に焦点をおいて考察の筆を進めてみたい。

A

華僑概念の要件

現在、海外に移住し、あるいは海外に居留している中国人の全体を「華僑」

(出口町守の

FEo

。E-ロσωom凶

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-mI

九五

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'U一¥

4ノ」/

。〈O円ωomHωの窓口20)と呼んでいることは周知のところであるが、

この通例的な用語についてはもう少し内容的に吟

味しておく必要がある。

FHUOHUHHE吋司mwユωロ85ωo三FCEDmwwロ。msm昨門出ω江口の件目。口広ヨω門目。σσ伴者OODOED204弓FO宮内凶〈OOB-mg芯円四

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)

中国人の考え方をもってすれば、華僑とは、

一つは「移住して海外に居住する中国人(遷民)であり、他の一つは

(僑生)であるとして区別しながらも、実際には一般にこれを一緒にして「華僑」と呼んでい

「外国生れの中国人」

(注l)

る。このことはたんに中国の法律のうえばかりでなく、従来の中国人の慣習からみた場合にも、外国在留の軍備に対

してはその在留年数の長さや、第何世代の子孫であるという乙とにかかわりなく、

一貫して中国の社会に属するもの

と見なしてきたことが歴史的にも示めされていることにある。

このように華僑を慣例的に《中国人一般》として見なそうとする傾向は、従来の歴史からみても、また現在の東南

アジア諸国における国籍問題との関連についてみても、華僑問題発生の重大な要因の一つになっている点で改めて注

窓を払わなければならない。何となれば、

ここで指摘するような華僑の概念をおし進めていくとしたら、華僑の歴史

的実際面には「外国へ出稼ぎのため移住した中国人」という側面のほか、

が無視されることになり、その場合の華僑をたんに一義的に「海外中国人一般」として規定するとしたら、

「その子孫」の存在と定住という事実関係

そこにい

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ろいろな混乱が生じ国内法や国籍法においても複雑な問題を介入させる原因にもなりかねない。それ故に陳達博士は、

華僑の用語上の表現として、すべて中国から海外移住した者を選民日移民と呼び居住地で生長した「その子孫」を僑

生と呼ぷことによって、遷民(移民)とその子孫とを明らかに区別して使用している。また一八九一年シンガポール

政府作成の寸志

5320同

50Eσ。ロ円。OB52巴8・

52・

ωE窓口05の単語分類表でみると、出稼ぎ移民につ

これを「恰々、暗々、潟々、時々

いては、

これを「新客」

(巳ロWZF)

と呼び、

その子孫については、

(回

ωσω)」

と呼ぷと述べ、そして前者の新客の意味を「新来者」

(Fog-'to吋ロのEロ20)を意味するとする注釈を加え、新来者の華僑と土地生れの中国人(華

(Z04干の050ア同門

gF何回吋円吉川凶])後者の恰々(或いは僑生)を

「現地生れの中国人」

僑)を明らかに区別している点にも注目されなければならない。

以上のように「華僑」の社会的な内容には、二つの異った要素の側面をもっていることが判明したが、

そうした

ら、もし華僑を概念づけるには一体どのように規定したらよいかが問題となる。

『華僑問題』の著者丘漠平は、華僑

(注2)

しかして中国国籍を喪失しない者を華僑とい

概念を定義して「およそ中国人にして外国領域に移殖または僑居し、

う」と述べているが、

この論拠は旧来の中国における「血統主義」

(宕ωωmgmcEω)による国籍法の見地に根差し

用された形跡がみられないので、

ている。しかしながら、旧中国の国籍法においては、それの実際上の基礎となるべき「戸籍法」については、その適

この著者が述べているように中国人にとって国籍喪失があるのか、ないかという点

の判断の基準となるのは、結局、外国国籍に入らない在外中国人ということによって証明するほかないであろう。

しかし、

その半面に、もし外国国籍に入籍した場合にあっても、大部分の中国人は一時的な手段として、

それに便宜

的に入籍する場合がおおいので、中国社会ではこのような入籍者をも含めて漠然と華僑もしくは中国人と称するのが

一般的な慣例となっている。

九七

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九J¥

したがって華僑概念を規定する要件として、もし、たんに国籍の取得もしくは喪失ということだけに基準をおくと

したら、現在の華僑の海外における実際上の生活やその環境の現実面に考慮を払った場合、果して妥当的な解釈とな

りうるか、どうかははなはだ疑問とならざるをえないであろう。乙の意味において、華僑概念を正しく捉えるために

は、他の側面の要件についてさらに観察をすすめ、

その中で、何が根本的な要件であり、何が根本的な要件でないか

を区別しておくことが必要であるように思われる。そうする乙とによって華僑問題を解明するのに一歩前進となるよ

うなキィ・ポイントを把握する乙とになろう。

つぎにそれら諸要件のいくつかのケiスについて述べてみよう。

先づたとえば、中国人にして自国内の

A省から

B省に移住したものは、

それが国内移住もしくは国内移民を意味す

るものであっても、

それだけでは華僑の要件とはならない。また外国人にして中国領土から他国に移住したもので

も、たんに移住したという理由だけでは、

それも華僑の要件とはならない。さらに大・公使その他の中国政府が海外

に派遣する人員であっても、

これを華僑とは呼ばず、あるいはまた中国人で他国もしくは数ヶ国を旅行するものであ

っても、

これを華僑と見なすことはできない。それなら一体、華僑を定義づけるのに必要な根本の要件はどこに存在

すのだろうか。乙こで再び「華僑」なる用語上の問題を振りかえって、その用語の形成から考えてみよう。つまり、

華僑という名詞を形成している「華」という文字についてであるが、中国人は古くから自国をよぷのに「中華」の名

をもってよび、文化の高いことを誇りとしてきたが、華僑の成語にはこの「華」字が保たれており、また「僑」なる

文字は、僑居あるいは僑人などの成語にみられるように「旅寓」

1仮り住居の意味が合められていることも明らかで

ある。それ故に、今日では海外に居住する日本人を指して「日僑」、あるいはインド人の場合にも「印僑」などと比

愉的に呼称しているように、中国人が海外領土に僑居し、あるいは仮り住居をしているものを一般に「華僑」と呼ぷ

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という乙とについては先きに述べたが、

その前提には、

それら中国人の居住を可能ならしめる社会経済的条件の存在

があってこそ、はじめて華僑の生活居住の意味が明らかになる点を見落すべきでない。したがって、本論ではこの居

留地における華僑の経済的生活の営みのもつ意義を重視する乙とをもって、

その基本的要件と見なしたい。したがっ

て、その見地から便宜的に華僑を定義づけておけば「華僑とは必ず中国人にして、

その本国より他国または外国の額

土に移住し、

そこに社会経済的生活条件を設定する華民」であるということができるであろう。

(注1)

uv由我国直接移出者謂之「遷民」及同在南洋生長者、俗称「僑生」、

「選民」与「僑生」合称「中国人」或称「華僑」

(陳達「南洋華僑与問男社会」商務印書舘五二具)

(注2)

丘漠平「華僑問題」現代問題叢書、商務印書舘二頁

B

華僑は植民か移民か

華僑を右のように定義するならば、華僑の海外発展における歴史的過程にはつぎのような事実関係が伴なっている

ことに注意を向けなければならない。すなわち、華僑が海外および外国領土に自己の経済的生活諸条件を設営しえた

場合に、

その居住はいわゆる「植民者」的な行為なのか、あるいは「移民」としての資格での移住者的なものなの

か、どうかという乙とが問われなければならない。したがって、仮りに一国の人民が本国の領土以外の地域に移動を

なし、

その移住先きの土地が本国との関係において、何らの政治経済的従属関係が設定されていないとすれば、

場合の移民は当然植民でもなければ、またその移住地も植民地とは言えないであろう。しかし、他方に、もしこの居

住地が本国との聞に政治経済的従属関係が設定されているか、

あるいは実質的に本国の国家的領土の延長だとした

ら、本国人民の乙の地方への移住はまた必然的に「植民」であって移民とは言われないであろう。したがって移民

九九

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一OO

は、植民と異なり国民の一部分が本国を離れて他国の主権のもとに経済的社会生活を営むことであり、国民の一部分

が本国を去るという点においては、植民と異なるところがないが植民は本国の主権のもとで新国家を形成することで

あり、移民はその本国の主権を離れて、すでに他国の主権の行なわれている地方に移住し、定住することをいうので

ある口したがって、そこにはまた征服ないし侵入という事実は存在しない。ルネ・モ

lニエ

(問。ロ郎自ωロロ目。門)によ

れば、移住の要素としては、新人、

一隈千金を夢見る人、冒険家が遠隔の地に定住するために立去って行く乙と、す

なわち、かかる祖国を棄て去った「伝統破壊者」が占有し支配し開拓する目的をもって、新しい国に定住するという

(注1)

乙とが必要である。彼らはまさに移住民であり、去国者であると述べている。

今日の東南アジアの華僑社会は一説にはいわゆる中国人の長城化を実現しているものだと指摘するが、右に述べた

見解をもってすれば、長城化の実現が中国の植民地を形成しているものだとする理由づけにはならない。なぜなら、

東南アジアの過去の歴史的諸条件は、

アジアの、とくに多産的なインドおよび中国の人口にとって、食糧不足に対す

る安全弁としての役割を果たし、おおくの移民社会を出現さす結果になったことは疑いえない事実であっても、ただ

それだけの理由をもって中間人の移住もしくは定住関係が政治的支配、あるいは植民的の支配関係の設定を可能にし

たということにはならないからである。その意味では、中国人の移住民はそこに公的従属関係をともなった植民的行

動の所産としてではなく、正しくいって外国領土日主権下への移民であり、

いわゆる「出稼型」の移住者たるにすぎ

「-h

、‘。

φム、

'V(注

1)

河合弘道訳「植民社会学」東学社一七頁

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C.-

複合社会と華僑経済

中国人の移住現象は、ある歴史の時点を一例にとってみれば、

一九三七の日中戦争勃発から、中国の内戦を経て

新中国成立(一九四九年)以後に至る混乱期の過程を通じて著るしい変化がおこり、その実態はよく知られていない

が、ある推定によると、戦時中に難を逃れて中国から東南アジアに向ったものは一九四七年六月三

O日までにフィリ

ピン六五八

O人、インドネシアへ一九

OO人、英領ボル、不オ(現在のマレーシアのサパ州)

へ一二

OO人など合計

一万五、

一六七人となっており、また別の調査では一九四九年現在の海外居住中国人の総数を控え目にみて、約一、

五OO万人と推計しているが、

この調査では、内戦進行中の一九四八、四九の両年中に、ホンコンに向って移住した

(注l)

中国人難民のほかにも、機会さえあれば、何処かへ行こうという考えをもつものが多数いた乙とを指摘している。一

般的にいって、新中国成立以降は中国からの新しい移民は中絶されている現状であるが、それにもかかわらず、既に

移住した華僑はアジアの各地域に定着して経済成長をつづけている。現在、彼らの経済上に占める重要性はアジア各

国政府がその経済力を規制するために公式の努力を払いつつあるにもかかわらず、むしろ増大の傾向さえある。彼ら

は居留地経済のあらゆる分野にわたって関係をもち、

その職種は多方面に分化している口とりわけ商業生活では小売

商が支配的であり、

このほかにも港湾の荷揚人夫や、あるいは都市のドライバー、呼売商人、ホテルのボ

lイや料理

人、洋服仕立、あるいは金銀細工商となり、さらには大仲買商の事務員やタイピストとなり、あるいは船主、

企業

の請負人、大事業家、映画や大商社の経営主、または市街地の不動産所有者ないしは仲買人としても活動し、

その経

済的な生活意欲は、格別に近代的な産業組織をもった部門への進出もなければ、根気を要する固い仕事のみに従事す

るわけでもなく、にもかかわらず彼らはしばしば繁栄的な経済を築きあげつつあるのである。

このような華僑の経済生活は、

その他のインド人やアラブ人の居住者とともに、

アジア諸国全体に対する社会的特

O

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O

質の一つとして、原住民社会と移民社会からなる重層的な社会構造を生み出す結果になった。すなわち、

この特質的

ともいわれる独自の社会構造にあっては、

それに内包せられる人種の複合性だけでなく、生産様式日経済体制におい

ても、

人種の複合性と結合した複合経済巴ロ吋色。。。ロOBU1

を生み出していることが特徴になっている

D

したがっ

て、こうした社会経済的構造の主要輪郭としては、社会ピラミッドの最上端に西欧的な外国人社会があり、経済的に

は、彼らは大規模な近代的生産部門

l鉱山、エステート農業、工場や貿易、金融部門などを支配する。その下に、い

わゆる東洋外国人社会〉包gmロgmωoEoq(華僑、インド人、アラブ人など)があって、彼らは西欧資本の活動

分野の周辺にあって、中規模な生産、商業、金融などの部門にわたって広範な活動を行なっている。ピラミッドの底

辺は原住民社会であるが、彼らの活動範囲はもっぱら伝統的な自給農業と手工業に限ぎられているという形で構成さ

れている。こうした社会では、西欧資率が持ち込ちんだ資本主義的要素のインパクトは東洋外国人社会H

華僑社会を

経由する間接的な形でしか原住民社会に波及しない。したがって、東洋外国人社会がなければ原住民社会からある程

度の民族的な企業居が生まれ、原住民社会の近代化と多様化が多少とも促進されたとも考えられるが、実際には、こ

うした可能性は東洋外国人の介在によって圧殺され、原住民社会は、その農産物や手工業品を彼らによって安く買い

たたかれ、生活用品や若干の生産資材を高く売りつけられ、そのために生じた借金に対する高い利子を払わされ、あ

るいは土地を奪われて高い小作料を吸い取られるという被害者の立場に追い込まれる結束になった。それ故に、彼ら

は一

Oの伝染病よりも害毒を流し、人民の寄生虫であるから、原住民社会に与えることのできる最大の利益は彼らを

排除することである、とするきびしい批判さえ生れつつあるのが現況である。

もちろん、現状がそうであっても、理論的にアジア諸国全体に関する社会の経済的構造の主要輪郭を以上のような

範鴎の単純化をもって解明しようとする試みは、従来から学問的には種々の論議のあるところであるが、・ここで意図

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したことはアジア経済における華僑の経済的支配が人種的階層分化の形態をとりながら、

一般的には原住民経済より

もはるかに高い所得が保障されているという両人種聞の社会経済的関係を外形的に特徴づけておくことが理解を助け

るうえで便宜的であると考えたからである口

かくして華僑問題の本質は、

アジア諸国における社会の複合性の、むしろ、

その内部に存在する経済と政治に関連

して発生する人種、民族的利害の矛盾にあるのであ・って、そこから展開される諸要因の多様性にたいして考慮を払っ

てのみ分析的観察が可能となるのである。

(注1)

須山共著「華僑」

NHKブックス印、一九l二O頁

D

ナショナリズムと華僑

つぎに一言しておきたいととは、経済史的にみてくると華僑問題の発生はアジア諸国における政治的あるいは経済

的ナショナリズムが拾頭するまでは、今日にみるような重要性をもってはっきりと表面化されていなかったというこ

とである。仮りにそれが存在した場合にも、実際上は外国の植民政府が華僑の統治上の問題として、彼らの風俗、習

慣に対する無理解と彼らの悪徳を抑えるための政策の失敗から引きおこされたものでナショナリズムが原因ではなか

った。しかしながら、

この華僑の風俗、習慣に関する誤解の面は、近年彼ら自体の指導者によって華僑の自治と反省

が奨励されているため、部分的には解決をみる結果さえ生んでいる。また、華僑のいわゆる悪徳に関する問題は、旧

植民地当局によって賭博、阿片の吸食および秘密結社などについて可なりの探求が進められており、その法的対策が

構ぜられているので、それはそのまま現在の東南Tジア諸国政府に引き継がれて取締りが強化されている。また、乙

のほか同化や帰化の問題に対しても、中国やアジア諸国に民族主義的自覚が拾頭しない以前は、華僑と原住民の聞の

イ喬

一O三

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一O四

族外婚はひんぱんに行なわれ、優秀な混血児の階級さえ発生せしめている。もちろん、この人種的融合はある場合に

しかし、その子孫には立派な優生学上の効果をもた

は注目に値しない特徴を生み出していることも事実であるが、

らしていることも看過できないであろう。たとえばインドシナにおける安南婦人との混血児ミン・ユオン

(冨

EF

『ロO口問)やカンボジア婦人との混血児シノ・カンボジ

lン

350・cmg号。

mぽロ)などがそれであり、

しかも、

乙の地

方では華僑の男子は、真面目で勤勉であり、経済人であり、優れた知識人として評価されていたので、華僑の族外婚

(注1)

はとくに安南人とカンボジア婦人との聞に行なわれたといわれている。

これらの傾向はフィリピンにおけるサングレイ・メステイン

(∞ωロ閃]O句冨gZNO)

、インドネシアにおけるチナ・

プラナカン

(CEロmMMUOBDm砕

g)などの混血児も同様であるが、とりわけタイの場合には、華僑たちは聡明で気転の

きく政治心にたけているといわれるタイ婦人と結婚した。そして、

この両民族のいずれよりさらに優秀な混血児ル

ク・チ

lン

(戸口付tCEロ)階級を作り出し、現代のタイ国の金融資本主義の担当者となるものがおおく、

それによっ

て移住地タイ国の従来の比較的原始的な経済を改革するのに寄与したといわれ、

(注2)

国は生れ得なかったであろうとさえいわれている。

これらの華僑なくしては現代のタイ

こうして人種的融合過程をナショナリズムとの関連ににおいて考察するならば、

『タイ国の華僑』を書いたランド

ンはつぎのように表現している「中国およびタイ国に民族主義的自覚が拾頭する以前には、タイ国における華僑が何

時から中国人でなくなり、また何時からタイ国人になったかということについては殆んど疑問の余地がなかった。民

族主義勃興の時期を任意に決めることはできないが、

その時期は大体中国においては一九一

O年、タイ国においては

一九二

O年であったと云っても差支えないであろう

D

それ以前には、タイ国の華僑は支配民族たるタイ人より社会的

(注3)

に下位であったから、華僑の第二世、第三世は中国人と呼ばれることに侮辱を感じた。」

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それにもかかわず、選良の身分にある多くの中国人移民は事実上みずから、絶対的な政治権力を掌握するタイ人新

選良階級の仲間入りをした。少くともタイ馴化程度高位の華僑指導者は、華僑中居階級よりも、むしろ第一、第二級

の社会階級に属するものが多かった。大体において彼らはタイ社交界にはいり、

タイ人新選良の他の人々とともにタ

イ人クラブとか国際人クラブに所属し、彼らの子供たちを同じタイの学校およびミッション・スクールに送った。

彼らの業界関係筋はタイ・辛の性格が濃く、彼らはタイ政府に奉仕し、また奉仕していた。彼ら自身がタイ人選良と

結婚しているが、彼らの子供(第一世、第二世!筆者注)たちがそうであるか、そのいずれかであった。その他のタ

イ馴化程度一品位の指導者たちはタイ人新選民と同一視されるまでにはいたらないが、彼らはせいぜい華僑中層階級の

周辺に位置していた。周辺からの指導者たち、および華僑社会の周辺のところで同化しているような連中が中国人の

(注4)

大平一訟を擁護するに当って、戦闘的でないことは疑念の余地なきところであった。

こうして、

たとえば選良の階屈に属するものでも、中国・タイの事業協力の場合の例をとっても、仮りに経済ナ

ショナリズムに照応した華僑実業家たちに対するタイ人の弾圧が発生したような場合にも、彼らは本質的には政治的

保護を求める事業権力と、財産および事業管理の合法的安全保障のため政治権力に協調的に庇設を求めた。その結果

は、すすんで欣然とお互いに協力し合う一部のタイ人および中国人選民の掌中に、総合勢力がいっそう集中化する傾

(注5)

向になった。

以上のようにタイ国に関してではあるが、

ナショナリズムと人程融合に関連しての華僑問題はこのような歴史的経

過をたどったのである。それというのも一般にアジア諸国の華僑問題はまだ当時としては今日のような重要性をもっ

て表面化するだけの契機が存在しなかったからである。同様な乙とは、相対的には同じ歴史的発展段階にあった一九

一O年前後の中国の海外華僑に対する態度と評価についてもいえることである。当時の清朝政府の態度は、華僑の社

(持

けリ

IL

1 題

一O五

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一O六

会経済的基盤がまだ暗弱であったことと、中国自休の国家統一の実現をはばむような外的な歴史条件(半杭民地状態)

が背景にあったことから、海外華僑に対する関心も薄く、また一般的に海外華僑と中国との問に国民経済的な関連を

実現しうるような条件もまだ成熟していなかった。のみならず中国政府の考え方の基礎には、依然として明・清時代

ひそ

の法律をそのままに人民が「私かに外境に出でたり、或いは海に下る(海外へ赴く)者」に対しては、厳重なる刑罰

を課するという専制的な原則がなお支配的であり、海外渡航者に対するそれぞれの刑が定められていた。こうして移

民に対する取締りの強化が決定的となった歴史的背景には大体つぎのような三つの理由があった。

山幾多の愛国の志士は明末往々国を離れ、以て満清への反抗工作を継続せんとしていた。例えば鄭成功が密かに

台湾に拠った如き、或いは天地会の党徒がボル、不オに盤拠した等の如きである。

(2)

清初、中国の海防は漸く緊張してきた

D

沿海の各省、例えば淑江、福建、広東の如きは常に海盗が出没し、か

つ開港後海防問題は更に国際関係と関連するに至った。

ω中国の民情風俗は、元来その土地に安んじて外に出るを伸かり、人民は必要やむを得ざる時に至らなくては容

易に故郷を棄てて遠く異国に行くことを欲しなかった。俗にいうH

僅か一里の処であっても嫁に行くよりも家に

いた方がましだH

との認がある通りである。

以上の理由で明・清時代の法律はグ私かに外境に出る者および禁を犯して渡航せる者H

に対してはそれぞれ刑が

(注6)

定めれであった。

このような情勢下にもかかわらず、ひそかに海外に赴く中国人の大多数は農民、職人、商人などの階級に属する人

々であったため、当時の風潮は、それら華僑に対して「賎民」、「鼠居者」、「棄民」などの言葉をもって蔑称し、

また半面には海外への渡航を恐れた。その当時の状況を一不めす一例をあげれば「福建の陳情老という人は南洋で商業

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きんねん

を経営していて数十年で資産百万一五を蓄積した。祖国への繋念にかられ、錦を縫って郷里に帰えり、家屋や田畑を

購入したが、

これを福建省駐将軍および督撫所が聞きつけ、律令によって家族の老幼男女三十余人が刑罰に処せられ、

(注7)

資産は官に没収された。これは当時の大治律例という法律に規定る「国人の海外に赴く者で敵に通じ盗に通ずるなど

の如きは、

その罪死に至る」という条項によって処刑されたものである。この記事を編集した著者(責競初)は、

の末尾に陳情が錦をまとったばかりに不慮の災難に会い、

乙れを読むものをして哀悼にたえないと付言している。

しかしこのような状況は当時の例としては実際的には珍ずらしい出来事ではなく、中国の福建や広東などの華南地

方の住民たちの窮之はすでに長く、生活は極度に困窮化していたので、住民たちの勇気のある若者たちは、生命を

賭して海外に赴くものも少くなかったのである。

したがって、

これらの人びとが移住地の原住民社会において積極

的に同化され、その中に吸収されていく過程や傾向は、

司令。

その当時としては必然の趨勢であったともいえるわけであ

'SSA

ふれよ川N

いまや中国自体の歴史的発展の歩みは、世界史との関連において不可避的に当面する世界史的発展段階の性

質によって規定されざるをえなかった。中国のこの歴史的対応が漸次近代化の色彩を浪くしていく過程において、海

外に居住する華僑の地位について漸く注目されるような情勢が醸成されてきた。その契機となったのは、まさに一九

一一年であり、中国のナショナリズムもこのときを境に脳芽期に入ったと見なされる。当時、孫逸仙(孫文)によっ

て領導せられた中国革命(辛亥革命)は、その準備期間を通じて政治経済的援助を海外の華僑に求めたが、すでに

「広東では、革命の彼岸の途上で、ブルジョアの物質的利益に適合した一国家形態を戦いとらんとするやブルジョアジ

ーの絶対志志、努力が早くから生じていた

G

広東の大商人達が若き近代中国のブルジョアジーの海外在住分子H

華僑

件伝「

4144-

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リリ

zepトl 題

一O七

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経NUT-

O J¥、

と共に、孫逸仙および、かれの草命述動を物質的精神的に支持しつつあるということは、もちろん、屯も偶然ではな

(注8)

かった。」

すなわち、当時の清朝政府は賠償金の支払いで財政は破綻し、最後のあがきとして、列強の援助にすがろうとし、

民営の鉄道をすべて「国有」にするという名目で帝国主義列強に売りわたそうとした。しかし、

一九一一年清朝政府

が鉄道国有の命令を発すると、民間で自主的に鉄道を経営しようとしていた四川、湖北、湖南、広東の民衆、ブルジ

ョアジ

lは猛烈な反対運動を起した。孫文はこうしたナショナリズムに端を発する革命迩勤に早くから身を投じてい

た。彼の二

O年にわたる活動の時期がほとんど華僑の地域であったことは海外華僑の結びつきを有利にした。彼は草

命運動の指導者として清朝治下の本国に留まる乙とが出来なかったので巡動資金の獲得はもっぱら海外の華僑をあて

にしなければならなかった。とくにそれが可能だったのは、彼の故郷が広東省でも海に近く、もっとも多く華僑を送

り出している地方であったので同郷の地縁関係が大きな力となって作用したからである。孫文が生まれる一四年前の

一八四二年には、清朝政府は南京条約によってホンコンをイギリスに譲渡しており、中国と西洋との接触はここを中

心にして行なわれていた口イギリスはホンコン開発のため中国人の移住を奨励したので、広東地方の人々が続々と流

れこんだ。官患の逮捕を逃れる犯罪者や故郷を追われたならずものが、中国政権の勢力の及ばないこの地に一時の安

住を求めたのはいうまでもない。孫文はこのホンコンにもいたたまれなくなると、

マカオに移り、あるいは東南アジ

アに逃避したのである。東南アジア各地の軍資金募集は多大の困難をともなったが、

一九一一年三月二九日の広東挙

兵は突にこれら華僑の支援による献金を基礎にして行なわれたのであった。乙の事件からわずか半年ののち武昌(湖

北省)において兵変がおこり、

ついに辛亥草命が成功した。乙の報をアメリカで受けとった孫文は、

イギリスを回っ

て帰国し、翌一九一二年市京で中華民国臨時大総統に就任するのである。もちろん、

これをもって中国の草命が完成

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こうした経過をみてくると、まさに南洋(東南アジア)は草命の策源地であり、

「華僑

したわけではない。しかし、

いかに彼が華僑の援助に期待し感謝していたかがわかる。

は革命の母」であるといった孫文の言葉によっても、

こうして辛亥革命を中心として、孫文の幅広い運動により全世界に散在する華僑が、自己の地位に目覚め、故国の

ために一致して思考し行動するようになった乙とは実に驚くべき変化であったといわなければならない。それと同時

に、乙れが契機となり華僑問題が初めて中国の政治の狙上に乗せられるようになったことも注目されなければならな

(注1)

いことがらである。

〈目立O門司ロ円。。口一寸VOOF-ロomo山口

ωoロHYOωω

件〉丘ωwHUUH--YMH叶・

(注2)

(注3)

注注5 4

(注6)

(注7)

(注8)

K・P-ランドン『タイ国の華僑』太平洋問題調査会訳二七頁

K・P-ランドン『前掲書』三

O頁

G・ウィリアム・スキンナ1

『タイ国における華僑社会」アジア経済研究所翻訳シリーズ第八集二九一頁

G・ウィリアム・スキンナ

l「前掲書』二三八頁

陳述『南洋華僑与関与社会』三五頁

黄競初編『華僑名人故事録」商務印書舘四二頁

ウイットフォ

lゲル『解体過程にある支那の経済と社会』平野義太郎監訳上巻二九頁

E

華民保護と送金

中国は清朝末期以来、

ヨーロッパ諸国や日本に侵略され、長い間「半植民地状態」におかれたので、華僑は母国の

保護はほとんど期待できなかった口しかし、辛亥草命以降、海外事情の社会経済的力量に対する評価は、中国の国内

一O九

1'<主Ir日3

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外において新たな関心を呼びおこす結果となり、彼らに対する保護政策と本国送金の問題が急に注目をあびるように

二O

なった。経済的な面では

C

・Fリマ

laoBoC教授が華僑の本国送金の問題に着目して、彼らの送金が中国の国際

貸借方項目中商品の輸出に次ぐ重要要素として、

これを重視すべきことを指摘し、

ついでこの送金の来源が海外にお

ける華僑の企業による利潤と産業によるものであるとしてつぎのように述べている。

華僑の資本保有は、もともと中国本土からの対外支払いを通じて出来たものではない。赤手空拳母国を後にしてき

これらの資本は何れも営々として築かれたものである。投資国の対外支払い上に、

た一人一人の華僑によって、

金利投資ほどの重荷を生ぜしめないのが、直接投資の一般的特色であることは争えない。だが華僑の場合は余り

(注1)

に極端すぎる。華僑の企業投資は中国からの対外的支払いを実際に伴わないでつくられるものである。

海外華僑の送金が重要視されるのは、たんに国際貸借バランス上の志味ばかりではない

D

これら現金の大半は、本

来華僑が海外において得た労働所得と企業利潤によるものであり、さらにまた一定の時期に彼ら国内の親族と家族の

者を養っていくために送られたものである。このことは離国華僑がはじめて国を出るときには「手足まといになる家

族」を同行していくととを好まず、往々にしてその家族の者を故郷に残してきたからであるが、その際の留守家族

は、性的には男子の出国によって女性の留守する者が多く、年齢的には壮年の離国によって老幼者が残るという形で

留守家族が構成されている口

海外華僑の本国送金が留守家族の存在を前提に行われることは、本国の郷里と家との関係をますます緊密化する

ちうたい

紐帯となるのであるが、その影響は対国内的な経済の面だけでなく、さらに社会的および心理的な方面においてもいろ

いろな影響を与えている。ここではそれらの諸影響についていちいち具体的に述べる乙とはできないが、

た光その半

面の関連として、

それらの影響力は中国の政治の面にも作用を及ぼし、とりわけ中国政府の華僑政策に対して集約的

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に反映されることになった。中国政府がはじめて華民保護という政治姿勢を表面に出してきたのはこのためであっ

た。中華民国の成立の後、臨時大総統に就任した孫文は、

一九一二年三月一九日外交部に訓令してつぎの布告文を公布

した。

わるもの

沿海地方の各省を査べてみると好人が住民を誘拐して豚畜同然に売りとばし、人民を塗炭の苦しみに陥いれてい

る。量に清朝はこれを十分に知りながら明視して同胞を苦難に至らしめ、窮ってしまって何の布告もなしていな

い。今や民国は既に成立して人権を尊重し、国体を保全するのに救助が急に必要となってきた。また僑民は各島

に散居して工商業を自営するものもまた徒らに多くなり、しばしば外人からひどい自に合わされ、しかも辛苦を

なめながらも至誠宗邦を愛している。今や民国人民は同椋に自由幸福を亨受しているのに僑民がかた同に追われ

るものをみて、どうして援助の手を差しのべないで忍ぶことができるだろうか。広東部督は国外への人身売買を

厳重に禁止する以外に命令を出さなかった。ここに急拠命令を外交部に発し、十分法を守らしめ人身売買の社絶

(注2)

および僑民保護の弁法を博愛平等の義務として実力をもって推進する。

かくて民国十五年(一九二六年)、中国国民党第二次全国代表大会が広州において開催されたとき、海外党務に関

する五大提案が通過するのと一緒に僑務行政機構が決議され、周年一

O月広州に「僑務委員会」が設立され国民政府

の直属となった。国民政府の最初の華僑に関する政治スローガンは山華僑が居留地において平等の待遇を受けられ

るよう法律を設ける。凶華僑の子弟で帰国して勉学しようとするものには必ず適当の便宜を与える。

mw華僑が帰国し

て実業経営をなさんとするものには前以て特別の保証をなす、というにあった。

第二次大戦後、中国の政権は国民党政府と中国共産党の指導下にある中華人民共和国政府の二つに分裂して台湾と

司J二

日ド1

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中国本土の二地域に分れたが、現在、台湾の国民政府は以前の僑務委貝会をそのまま存続しており、また中華人民共

和国政府も国務院の傘下に「華僑事務委員会」を設けて、華僑に対する各種の僑務のほか、彼らの保護が構ぜられて

いる。

華民保護政策は現在では両政府のそれぞれの立場から華僑に対して働きかけられているが、その政策内容はかなり

類似的である。しかし、最初の、少なくとも国家の基本法としての憲法のなかに海外事情の保護を明確に規定したの

は中華人民共和国であるといわなければならない口

(1)

中華人民共和国の華僑対策

と、国務院の職務の一部として「華僑関係の事務を管理する」

一九五四年九月二

O日、中華人民共和国第一期全国人民代表大会第一回会議は新憲法を採択したが、それによる

(第四九条一一項)旨を規定し、さらに「国外相十倍の

正当な権利および利益を保護する」

(第九八条)との規定があり、またその祖国の政治に関与する権利として「全国

人民代表会は、省、自治区、直轄市、軍隊および華僑から選出された代表でこれを構成する」

て、海外に在る華僑にも本国の議会に代表を煙る権利を認めている。この規定によって、選挙法では全国人民代表大

会に一二

O人の華僑代表を選出し、参加させることを定めているが、これは全国代表約三干名に対し約一%に当たる

(第二三条)と規定し

が、華僑人口の中国本土総人口に対する比率が二形以上であるのに対比すれば、はるかに低い代表率である。

このほか中華人民共和国は、政権成立以来いくたの華僑に関する法令を打ち出したが、そのなかで華僑政策が最も

端的に現われているのが、その本国送金(家郷送金)政策である。その主なものは、

一九五

O年の「華僑送金優待哲

行弁法」、

一九五一年三月の「人民銀行券による華僑送金暫行弁法」

「中国銀行券による送金の金額と期間の制限に

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関する弁法」、五一年五月の「華僑送金業管理暫行弁法」、五五年二月の「華僑送金保護政策の貫徹に関する命令」

などである。

また送金事務機構としては、居留国にある中国銀行支庖にそたぞれ「華僑送金部」を設置し、

これに当たらせてい

る。華僑送金を大別すると家郷送金、投資、献金の三種類となる。すなわち、家郷送金はいわゆる華僑の留守家族や

親族に対する送金であって、華僑送金のなかでも政府の最も期待する送金であり、その奨励には積極的方法がとられ

ている。つぎの華僑の投資送金は、華僑の祖国に対する投資を奨励し、国内における華僑の私営工商に対する社会主

義改造を進めることを目的にしている。その基本規定としてはつぎの二法がある。一九五五年八月の「国有の荒地、

荒山に対する華僑の使用申請条例」と一九五七年八月の「国営華僑投資公司に対する華僑投資優待弁法」である。と

れまで華僑の投資した企業はすでに八八玉場、農業では二五農場、その他、学校、病院、福祉事業に対しては、すで

に一千数百件に上るといわれる。つぎに献金送金であるが、乙れは孫文の国民草命以来、草命政権にとっては重要な

る政治資金となっていたが、中華人民共和国政府も大いに献金を歓迎し、また期待した。しかし華僑献金はおもに華

僑出身郷土の公益事業、たとえば学校、病院、橋梁、道路の築造、補修などに使用されている。水利建設など生産関

係に対する投資の一部として使用されているものもある。ワシントン大学の馬お華助教授は、これら華僑送金の一九

五Ol一九六四年末の累計額をつぎのように推計している

D

すなわち一九五

Oi五四年三億五千万ドル、

一九五五j

五九年三億五千万ドル、

一九六

01六四年三億五千万ドル、

一九五

Oi六四年末一

O億五千万ドルとなる。これは中

国の貿易外収入としても貴重な外貨源といえるわけである。

つω

中華民国の華僑対策

孫文の同盟会以来(一九

O五年孫文の来日を械に各革命結社の統一が実現し、満洲王朝の駆除、中華の恢復、民国

円叶

J二戸l

一一一一一

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一一四

創立・地権平均の四大綱領をかかげた華命同盟会が東京で発足した。その後、同盟会は国民党と改称)華僑と縁の深

かった国民党も、中華人民共和国の政権確立で大陸を離れてから、華僑とはにわかに疎縁になった。華僑の国民政府

に対する期待は、偉大な祖国であったが、それは彼らの華僑の家族、親族の住む所であり、祖先の墳墓のある土地の

支配政権であったからであり、第二には他国にある彼らに対する強力な後楯となって、政治的、経済的に支援、保護

の手を差しのばしてくれるからであった。しかし乙の二つのうち主たるものは第一であった。それを失っては第二の

要素も輝きを失わざるをえない。とくに華僑と祖国の強い緋となっていた「本国送金」は、祖国から切離された国民

政府(台湾)にはまったく無縁の存在とならざるを得なかった。

しかし従前から国民政府の行政院(内閣)には華僑行政を管理し、華僑事業を補導する機関として僑務委員会が設

けられ、対華僑政策を推進してきでいるが、

これより先きの一九四六年一一月一五日(民国三十五年)には、国民大

会が南京で開催され、中華民国憲法が制定されて僑務の基本政策が規定されるなど海外華僑の関心と支持を求めるの

に懸命の努力が続けられている。乙こで示めされる基本政策は中華人民共和国のそれと比較していずれも大同小異で

あるが、両政府の政治的立場もそれぞれ異っているので、その要約を述べるとつぎのようである口

加させ、

中華民国憲法には、付華僑のなかから国会議員に該当する国民大会代表、立法委員、監察委員を選出して国政に参

それぞれの権利の行使が認められる(第二六、六回、五

O条)、同華僑権益の保護(第一四一条)、国華僑

の経済事業発展の扶助と保護(第一五一条)、同成績優良な華僑教育事業に対する奨励、補助(第一六七条)、の四

(注3)

項目が強調されている。

華僑政策はその当面する内外情勢を反映して不断に変化せざるを得ないが、国民政府のそれは右の憲法の基本方針

から考察すれば大体つぎのごとく説明できると思う。

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付反共国土回復の国是にもとずき、華僑の愛国という伝統の精神を発揚させ、華僑の団結をはかること、∞華僑を

してその居住地国の法令に従がい、現地の住民と親睦し、現地の安全と繁栄に努力させる乙と、同従来勤倹を華僑の

美徳としてきたが、現在のように科学の発達した社会では、華僑に近代科学の知識と技術を身につけるよう教育し、

従来の商業中心から良工業面へ発展させること、伺華僑の経済と教育をともに尊重し、密接に配合させる乙と、同華

僑子弟の帰国進学に便宜をはかること、

MW華僑の福祉事業の補導、華僑へのサービスの強化、同台湾に対する投資の

奨励と指導、川華僑の権益擁護のため外交上の協力を強化すること、倒華僑と祖国との貿易促進。

ここで注目されるのは、華僑送金であるが、台湾は前述のように華僑の故郷ではないためその送金は華僑子弟の学

資、投資および愛国献金であり、家郷送金はほとんど見られない。華僑の台湾投資は、国民政府の一九五二年九月に

公布実施された「華僑およびホンコン、

マカオ居住者の来台生産事業開設奨励」と「手持外貨による物資輸入来台生

産事業開設弁法」で始められたが、すでに現在にいたるまでの華僑資本の来台投資状況は、

一向に理想的に進んでい

ない。国民政府経済部の「外国人および華僑帰国投資審議委員会」の統計によると、

の、華僑投資案件は認可されたものが合せて三九二件あり、投資総額約七、九一八万ドル、投資された業程は計二六

種となっている。なお献金は一九六三年で三六万ドル、一九五八年からの累計が四七六万ドル程度である。

華僑問題の一側面として、中国の両政府と華僑との新たな関係の推転について触れてきたが、その現実の姿がどの

一九五一年から六二年末まで

ように変化していても、中国政府の海外華僑に対する保護政策は歴史的には、華僑の祖国ないし家郷との結びつきを

乙れら華僑送金は佃

いよいよ深からしめる動機となり、さらにその郷愁の粋は海外華僑の本国送金として具現され、

々のものとしては微細なものであっても、総合的にみれば相当の金額に達している。しかもこの華僑送金の来源が大

部分が東南アジア諸国における華僑の商業および産業企業利潤に基礎をおくものである限り、華僑の企業活動が東南

n-J

;

日十l

一一五

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一一ムハ

宿命的であるとも思われる。

アジプのおおくの国々において、早晩民族主義者の反抗に遭遇するであろう乙とは、すでにその性格と機能において

その反抗運動は白人の投資に対する場合のように、原住民が恐怖からこれ

ウもちろん、

を行うに至ったものではなかった。しかしながら、華僑の資本保有と関連して東南アジア全体を通じて華僑問題は将

(注4)

来ますます重要性を帯びてくる。」契機となった乙とは見逃せないであろう口しかしその半面、華僑経済について

「華僑経済は植民地主義者の経済ではない。

一、三

OO万人の華僑は東南アジアで生れ、

ここで生長し、

そして代々

東南アジア経済資源の開発のため努力し、東南アジア経済の発展に大きく貢献してきでいる。それにまた東南アジア

各地の華僑資本はいずれも他の外国資本と同じ権利を与えられてはおらない。したがって、華僑経済は排斥さるべき

(注5)

でない。」と述べている乙とは華僑経済の性格を理解するうえで端的な表現として示唆的である。

(注1)

C・F-リマ

l『東南アジアにおける外国投資』太平洋問題調査会訳八頁

(注2)

華僑志編纂委員会編『華僑志総志』民国五十三年七月、六回二

l三頁

華僑志編纂委員会編「前掲書』六五二一

l四頁

H・G・キヤリス『東南アジアにおける外国投資』太平洋問題調査会訳一

O頁

(注3)

(注4)

(注5)

伍国『東南亜経済発展的前景』経済導報六五五期一

O頁

華僑名称のお乙りと歴史的背景

A

中華・蛮夷・華僑

中国は古くから自らを「中華」またはいわゆる「中国」と称し、外国を東夷、西戎、南蛮、北狭と呼び、あるいは

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接接地方の住民を化外(天子の政治が及ばないところ)の民として、

これを茂視(ばかにすること)してきた。それ

はなぜか。陳登原の「国名疏故」にいう

古来、中国というのは、中外の別を以て地域の遠い近いを指称し、中華というのは、華、夷の別を以て文化の高

い低いを指称したものである。故に中華なる名詞はただに一地域の国名を指称するだけでなく、また一血統の種

族名を呼ぶのでもなく、

つまり文化の族名に外ならないのであるD:::従って、華の華とされる所以は、文化上

(注1)

から言われたものであることを知る必要がある。

文化程度の高いものが中華(中国)であり、文化程度の低いものが蛮夷と呼ばれたのであるが、

民族の起源」(寸yooユmEo同

50のEロ20Huoo立0・HCHO)という書物を書いたな『ロ河川広ωはまたつぎのように

一九一六年「中国

も一一一一口っている。すなわち中国文明の最初の源泉は河北の東北であった。地理的ならびに社会的に中華の国がこ乙に存

在した。それを取巻く住民は中国人と呉なる人種に属したが故に蛮夷であったのではなく、彼らの人種のある部分の

(注2)

もとに成長した文明を採用することを拒否したが故にそうだつたのである。

かくして、すでに中華的な一定の文化段階に達した中国は、基本的にはその社会経済関係において定着的農業を中

心とする生産関係の基盤のうえに立っていた。そしてその基盤のうえに必然的に対応的な形で発生してきた祖先崇

拝・家族主義を基調とする儒教思想は、

その規定性において民性を安住的たらしめ、人民が郷里を去り、祖先の墳墓

を放置することは非道徳的なものとして一般の生活を規制した・。したがって中華文化の担当者である中国の歴朝政府

は古代からいく多の諸外国と接触したにもかかわらず、人民の海外移住を国是として禁止した。乙れは過去数千年間

清朝に至るまで一貫した政策であった。

しかし、そうした歴史的制約にもかかわらず、中国の、いわゆる中華文化の恩恵に浴することが少なく、

その社会

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一一八

生活において政治的理由をもっ者、あるいは経済的理由をもっ者、もしくは風水害などの天災、戦禍などで生活を破

壊された者たちを含め、さらにまた中華文化の圏外にあって、いわゆる外化の民視されてきた地方住民にしてあまり

にも苦しい生活環境におかれた人々はやむなく海外への移住を余儀なくされた口彼らはそうした社会経済的重圧をい

く分でも軽減しようとして僅かに安息の場所を求めて流民となり、あるいはまた他省に向って移出するなど、

それら

は幾世紀にもわたって行なわれてきた中国の歴史的現象でさえあった。

だからそうして海外に移住した集団を今日のように「華僑」という名称で呼ぶことになったのは、歴史的にはさほ

ど古いものではない。したがって南洋華僑史の著者季長停は、中国人の南洋(東南アジア

l筆者注)に在る者は、は

(注3)

じめ専門の名詞がなく、唐以来、唐人の名称を以て呼び、宋に始って、明、清二代にもっとも盛んに行なわれたと述

べている。

かんぼじゃ

また「明史」の巻三百二四「真般国」の矯には、唐人と言うは諸蕃が華人を呼ぶ名称である。海外諸国においても

皆同様であるといっているが、

乙の点は明、清代でも同様であった。現代においても華僑はときに自ら「唐山人」と

か「唐大人」と称し、帰国することを唐山に帰えるといい、海外の中国人居留地を「唐人街」と名付けている。日本

でも明末清初の動乱期(十七世紀前半)に、日本へ流亡した明人たちは、清の民ではない意を現わして自分たちを、

唐人といったという。日清戦争後(一八九四

i九五年)は、中国人を支那人と呼び、唐人街を支那町と称するように

なった。が唐時代(六一八

i九O六年)以後は中国人を以上のように一時的に唐人と呼んだ乙とはあっても、ま

だ「華僑」とはいわなかった口当時の通例としては、むしろ蔑視的な呼び方として「化外頚民」「猪仔」「苦力」

「逃犯」「海賊」あるいは「賎民」「棄民」などの用語が存在するだけであった。

ところが「清未の草命運動により、中華の二字ははじめて僑民の脳中に注入し、中華会館、中華学堂の建設があっ

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(注4)

て、すなわち華僑の名称が発生した。」と季長停は述べて「華僑」なる用語の使用が清末におこったことを主張す

るしかしこの文字使用の起源の問題については、すでに光緒二四年(一八九八年)の頃、わが横浜では華商約一千名

が、その子弟の教育のため「華僑学校」を建設したという記録(大同学会編『中華民国革命建国史』巻一第六章)が

残っているので、華僑という文字の使用はおそらくこの時代にすでにあったものと思われる。

また、光緒三三年(一九

O七年)に胡漢民が南洋の中国居留民に対して革命運動の宣伝のため発行した「中興日

(のFO口問

ωFEmouL仲

30)という新聞の発刊の辞には、文章の八カ処にわたって「華僑」という文字が使用さ

(注5)

れているので、この当時ようやく華僑なる用語が一般に普及されつつあった乙とが察知される。

その後の宣統元年(一九

O九年)二月には、農工商尚書の涛題の奏詩文として提出された「商部は和闘の将に華僑

(

6)

入籍の新律令を訂めんとするにたいし、速かに国籍法を制定することを奏請する文章」には華僑の文字が使用されて

このとき政府の公文にも華僑なる名詞がようやく使用され始めたことを示している。したがって、それ以前の

せっふくせい

光緒一六年(一八九

O年)一二月二五日に清国駐英大伎の醇福成が在外中国人の保護を奏請した「英領各埠頭に領事

(注7)

を設け華民を保護することを奏請する文章」についてみても、また同じく光緒一九年(一八九三年)に醇福成の提出

いて、

した奏請文についてみても、その文章中には、華僑なる文字は一切見当らないばかりか、

ただそのかわりに華民、華

人、華商、華工などの文字が多く使用されているのが注目されるだけである。乙の点から考えると「華僑」なる文字

もに、

の使用については、おそらく光緒二

O年(一八九四年)前後に推定することが妥当であるように思われる。それとと

乙こで付帯的にせよ見落せない重要な事柄は、さきの沖題の奏請文において、インドネシア(旧蘭領東印度)

一一九

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一二

O

生れの中国人に対して、中国国籍法による国籍の取得ないし喪失について明確な規定を設けた乙とである。乙れはあ

る意味において、中国政府が東南アジア在住および華僑一般に対して、はじめて血統主義(官ω包ロmcEω)にもと

ずく中国国籍法によって現地出生主義または属地主義(』ロωω05を否定しながら中国国民とみなそうとする原則を

確立する契機となったという点で注目されなければならない。

乙の奏請文はつぎのように述べている。

しんねん

近年朝廷(清朝政府

l筆者注)には華僑の情勢を砂念せられ、その保護維持に関してはいささかも至らざるな

し。是を以て名埠の商会学堂は次第に成立すロオランダ人乙の情勢をみて深く疑忌を抱き、その威力圧迫の策を

一変して転じて覇康箆絡の謀をなす。はじめ国会によって華僑入籍の案を批准し、近ごろまた新法律を擬訂し

て、すべて長年彼の属領に居住する者を悉く植民地籍に入らしめんとす。華僑この議を聞くより函電紛馳し、た

がいに相奔告す口各商民と連絡し会議を閲集し、共に対付の策を計る

D

現に速かに国籍を定め以て抵制に資せん

と口五詰問するもの商部に到るにより

l

l既に法律大臣に容商して速かに琵討(改正を検討する

l筆者注)せし

むーーーただ成を告ぐるに尚お時日を求め、万一オランダが新法律を擬討して期間の如何にかかわらず、これを実

行せんことを慮る

0

・この時華僑群起力争するといえども、国力をもって後援する無くんば、すなわち衆情決り易

く、部臣駐使、多方砥議するといえども、法律を以て依拠とするところ無くんば、則ち勝算操りがたしl

lもし

坐して海外百万の僑民転瞬にして他邦の版籍(土地、戸籍l

筆者注)に隷せらるるを視んか、上何もってか朝廷

委任の重きに副い、下何をもってか商民責望の股を免かれんーーー旨飾を擬詰して修訂、法律大臣に下し国籍法を

迅速に擬訂せしめ、期を魁めて欽定領行を奏請して以て外交に利して国勢を維がん。

長文の引用になったが、

この奏詩文の中に新法律を制定せんとしつつあるといっているのは、すなわち当時の閉鎖

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束印度の帰化条例を指したものであって、その条例によれば、およそ蘭領印度において生れた者はすべてオランダ国

この一片の法文によってかの百万僑民は永遠に祖国中国との関係を断ち切られよう

籍に属せしめようとするもので、

としていたことを指摘したものである。そ乙で清朝政府は、血統主義を採ってすべての中国人はいかなる地方に生

れ、あるいはいかなる地方に居留していようとも、すべて中国国民とする。ということを一九

O九年(宣統元年)を

契機にして、中国国籍の取得ならびに喪失に関する法律として公布し、ここに始めて中国の国籍法が誕生することに

この法律の解釈にしたがえば、華僑は中国籍であると外国籍であるとを問わずすべて中国国民

なった

D

したがって、

(注1)

であるということになる口

阪登原「同名疏故』民同二十五年向務印43H

舘二一良

(注2)

(注3)

(注4)

(注5)

(注6)

(注7)

ozロMNm凶

ωω一

σ-ι-w℃・叫・

李長持字削担金こ商務印市一一回舘二氏

李長涛「前掲書』二頁

張永福『南洋与創立民国」民国二十二年、五三ノ六頁

「両部奏和問将訂新律令華僑入籍詰飾速定国籍法摺」清官一統朝外交史料、民間二十二年巻一、四九頁

「奏英属各埠擬添設領事保護軍民摺」清李外交史料、民国二十一年巻八十三、三三頁

さてこの頃はまだ中国移民に対して、満治(清朝)建国(一六四四年)以来の古い考え方と政策が止揚されないま

B

条約上の華僑の地位

まの状態下にあったので、普通の事情のもとでは人民の離国は禁止され、あるいは法に違反して離国したものは、そ

の帰国は禁止されていた。ところがアヘン戦争(一八四

Oi四二年)の結果、締結された江寧条約(一八四二年)に

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川司i

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一一一一一

おいては、

その第一条に「両国(中国・イギリス)の一方の臣民は、他の一方の版図内において、その生命および財

産につき充分なる安全と保護とを亨有すべし」云々と規定してあるように、

それ以後、中国およびイギリス両国民が

相互に旅行、居住する乙とを認め、生命財産の保護が保障されることになったので、中国の沿海の住民、とくに華南

の福建、広東地方の貧困な人民は国外に向って移住し、あるいは雇用労働者となったり、あるいは小売商を経営した

りしてその経済状態を改善し、またその社会的地位を高めようとする気運が醸成された

D

しかし、この条約上の保障

は当時の中国の国際的地位からいって一般的に完全な怠味での約束を保証するものではなかった。とみられるのは)

その後に勃発したアロ

l戦争(一八五八

i六一年)中に、すなわち一八五九年英領ギァナから中国労働者の募集があ

ったとき、広来省総督の柏貴は省民の自由移民を許可する旨の命令を出したが、

これは当時の地方の高等官吏がはじ

めて人民の海外移住を許可したケlスとして歴史的先例となった。だが、

それは地方的事例であって、中央政府はま

だ公然とこれを認めていたわけではない。事実、中央政府が海外移住に対する自由を公認したのは、

てんし心

中・英天津条約の締結につぐ、一名北京締結(一八六

O年一

O月二四日、成豊一

O年九月一一日)によってはじめて

実質的なものとなったからである。その基本となるのは、同条約の第五条である。

一八五八年の

一八五八年の条約の批准が交換せらるるや否や、清国皇帝陛下は勅令を発し、各省の高等官吏に命令するにその

管轄区域を通し清人(中国人)にして英国植民地、もしくは海を隔てたる地方にその職を求めんとするものは、

そのために英国臣民と契約を結び、または自己およびその家族を清国開港場における英船に搭するのは全く自由

なること、および上記高等官吏は清国における英国女皇陛下の代表者と協議のうえ、前述の如く移住する清人の

(注l)

保護のため、種々なる開港場の事情に応じ適当なる章程を編成すべきことを公布すべきを以てすべし。

この北京締約によって、中国の中央政府の海外移住に対する考え方のみならず、その政策の姿勢においても、大き

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な転換を強いられる結果となった口

たとえば一八五八年の天津条約の談判の際のことである。アメリカの一委員は、中国側の全権大臣に向って、中国

政府は外国に居住する僑民の利益を保護するために各地に領事を駐在させる必要を説いた。これに対して、全権大臣

が答えていうのに、億兆に君臨せられるわが大皇帝は、

その一小部分の庶民を海外で失つでもあえて関心せらるるに

及ばないのであると。そこでさらにアメリカの委員は、アメリカの.金鉱地方における貴国人の中には巨富を有する者

もいるから、とれらは保護の価値が十分あると説いた。またこれに対して全権大臣は、大皇帝の富は無限であるか

(注2)

ら、白から郷国を棄てた民衆が多少の砂礁を集むるとてあえて顧みるに足らぬと応じたと伝えられている

D

当時の中

この総理衛門の考え方は当然であった。その反面、アメリカ委員の発

言の背景にはアメリカの合衆国における華僑労働者の活動状況がそのまま反映されていたものと言える。試みに、そ

国の価値観念の相違や旧思想をもってすれば、

の当時の華僑がアメリカ合衆国にどの位居住し、またその収入はどの程度を稼ぎつつあったかをうかがってみると、

一八六

O年のアメリカ合衆国内の公式人口調査報告では、合衆国内の華僑人口は全体で三四、九三三人となり、

その

うち三万人が坑夫であった。彼らの収入は一年間毎日各人が二ドルの稼ぎをあげ、全体では二、

(注3)

る稼ぎ一品をあげていることを示している。なおそれは前の一八五二年に行なわれたセンサスでは合衆国内の華僑人口

一九

O万ドルを超え

は二万五、

000人となっている。

また、

一八八

O年のセンサスでは、

カリフォルニアだけで華僑人口は七万五、

一三二人となり、合衆国全体(華僑

人口一

O万五、四六五人)の七一労を占めているが、

そのほとんど全部が労働者であった。彼らの収入は一年間三

O

。日を働き、

一日平均三

0セントを稼いでいるが、

この稼ぎ高は、最も高い方かあるいは最も低い方かのいずれかで

あって、

一般には各人は年間一八

0ドルを稼いでいるといわれている。そして、

そのうち約二

OMm、すなわち三六ド

J7G:. IrnJ

日叶』二

口ドls

一一一一一一

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一二四

ルが年聞に貯蓄ないしは中岡送金に当てられている。したがって、カリフォルニアにおいて華僑全体が稼ぐ金額は一、

そのうち貯蓄ないしは中国送金に当てられる金額は二七

O万ドルとなり大体一、

O八O万ド

(注4)

ル程度が一年間カルフォルニアに残される金額であった。

一五

O万ドルとなり、

また、当時の東南アジア居住の華僑の動静について述べたのは、先きに上げた一八九三年(光絡一九年)の駐英公

伎時一泊成の上奏文であるが、それによると

東西洋諸国と相継で立約通商し:::前例未だ廃さ合さるに自ら廃さる。:::南洋各島に流寓する華民は皆田閣を

勝刊、子孫長ず口外洋に在ること百余年に及ぶといえども、正明(正月)の順色なお華風を守り、婚良賓祭もま

(注5)

た旧俗に沿う。

と述べて、東南アジア在住の華僑が祖国に対して確固たる忠誠心を抱いているだけでなく、経済的には居留地では

国閣を購入したりして子孫までもも・つけて商売を営んでいることに言及している。

このようにして海外にある華僑が現地社会において経済体制を形成しつつある実情は、

ついに光緒帝をして、各省

総督への通牒において海外より帰国する華僑に対しては、外国において得た利益を安んじて享有できるようとくに保

護する必要を厳命させる結果となった。これより正式に華僑の帰国が許可されることになり、政府と華僑との態度に

はじめて大きな変化が生れた口つぎのいくつかの事例はこのことをよく表現している。

すなわち、明代の福建のある商人はマライのマラッカ(麻噺国)に渡って、

その土地で原住民の婦人(呑婦)を妻

にして子供を生んだ。その後財産を蓄えて家族同伴で帰国してきた。福州の巡按吏(今日の巡査)は、その様子をみ

て格好が甚だ奇怪千万であるので、彼らに危害が加えられるのを心配して福州城内の法海寺というお寺の一隅に足

ばんきこう

その場所を「番鬼法]」と呼んでいた。ところが、海外居住民の信用が漸次世間に知られてく

止めを命じた。そして、

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ると、政府自身も帰国者について十分な注意を払わざるを得なくなり、

(

6)

う文字を「官賞巷」に改めて呼ぶようになったと伝えている。

ついに清末にいたって、

乙の「呑鬼巷」とい

海外華僑に対しての認識は、以上のような歴史的過程を通じてようやく高められてきたが、とくに治末南京におい

て開催された、今日いわれるような東南アジア華僑による物産展ともいうべき「南京勧業会」は、非常な盛大をきわ

め、国内の人民に海外華僑の存在を知らしめるうえで大きな怠義をもったといわれている。これが華僑という呼び名

の一般への

PRとして役立った乙とは見逃せない。

なお華僑の別名として「太平洋の猶太人」と呼ぶものもいるが、

それは、

この両民族の経済的活動と社会的地位が

相互に類似している点からであろう。

一八二

O年に出町件。与え

50EESm凶のEFUO]mwm0・

-mwNO

という大著を出

版した。』OFロの

54江口えは同書の中で、華僑のアジア的な中国商人としての地位は、あたかもヨーロッパ中世の未

開人のうちで猶太人がなしたと同様な状態において職業を占有し、最も良好な環境を打ち立て、そして、華僑はもっ

(注7)

ともしばしば商業的思惑を追求して契約を結び、一口同い利益を得る乙とにおいて各人の金銭の無駄をはぶいている口と

述べているが、華僑が一名「太平洋区の猶太人」といわれるゆえんも、おそらくこのような論点に根差しているもの

であろう。

エピクロスの神々のように、或いはポ

l

(注8)

ランド社会の気孔に住むユダヤ人のように、古代世界のさまざまな世界のあいだの空隙にのみ、生存する。と資本論

最後にもし華僑がすぐれて猶太的であるとすれば、本来的な商業民族は、

の一節は述べているが、もちろん華僑の生活活動の中には一定の歴史的諸条件が包みこまれている。それ故ここでは

ジョン・フランシス・デヴィスによって述べられた次ぎの言葉を付け加えておこう

D

(注9)

中国人は、もしもその統治者が放任して置いたならば、世界でもっとも勤勉な国民となるであろう。

LA王In'tl

一二五

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(注1)

(注2)

(注3)

(注4)

(注5)

(注6)

(注7)

(注8)

(注9)

一一一六

東亜同文会編「東亜関係特種条約九県纂』一三二頁

窪田文三『支那外交通史』一九二頁

。。。吋向。目

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清季外交史料巻八七『光緒十九年九月蔦福疏』

南洋学報第二巻第一輯一

O八頁

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マルクス「資本論」山世界の大思想問七二頁

E・G・ウェイクフィールド「イギリスとアメリカ

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l白」中野正訳日本評論社世界古典文庫一九