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山首 

鈴木正修

朝のこない夜はない

至ま

と誠を尽つ

くすため

   

素す

直なお

に生い

きる

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— 5 —

 

日にち

蓮れん

聖しょう

人にん

と言い

えば法ほ

華け

経きょう

、法ほ

華け

経きょう

と言い

ば日に

蓮れん

聖しょう

人にん

、イコールになっていますが、

法ほ

華け

経きょう

はもともと日に

本ほん

に縁え

の深ふ

いお経き

ょう

でし

た。聖し

ょう

徳とく

太たい

子し

の時じ

代だい

からずっと日に

本ほん

には法ほ

華け

経きょう

が根ね

付づ

いていて、平へ

安あん

時じ

代だい

には貴き

族ぞく

間あいだ

で常じ

ょう

識しき

のようになっていました。日に

蓮れん

聖しょう

人にん

はその法ほ

華け

経きょう

の功く

徳どく

をお題だ

目もく

に込こ

め、

「南な

無む

妙みょう

法ほう

蓮れん

華げ

経きょう

」と唱と

えればその功く

徳どく

すべてその中な

に凝ぎ

ょう

縮しゅく

されていることを私わ

たくし

ちに教お

えて下く

さいました。これが一番ば

あり

がたいところだと思お

います。

 

一方ぽ

、安あ

立りゅう

行ぎょう

菩ぼ

薩さつ

の再さ

誕たん

・杉す

山やま

先せん

生せい

はそ

の法ほ

華け

経きょう

の実じ

行こう

の仕し

方かた

をわかりやすく、慈じ

悲ひ

・至ま

こと誠

・堪か

忍にん

と説と

いて下く

さいました。も

し三さ

徳とく

の教お

えがないと、法ほ

華け

経きょう

がいくらあ

りがたいと言い

ってもどのように実じ

行こう

したら

いいかわかりません。杉す

山やま

先せん

生せい

が慈じ

悲ひ

至まこと誠・堪か

忍にん

を説と

いて下く

さったから、われわ

れは日に

常じょう

生せい

活かつ

の中な

で法ほ

華け

経きょう

を実じ

行こう

するには

こうすれば良よ

いとわかるのです。

 

今こん

回かい

は慈じ

悲ひ

・至ま

こと誠・堪か

忍にん

の中な

から至ま

こと誠に

ついてお話は

ししようと思お

います。

至まこと誠

を尽つ

くす道み

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— 6 —

  

至まこと誠とは  

 

 

杉すぎ

山やま

先せん

生せい

は六ろ

波は

羅ら

蜜みつ

の中な

の持じ

戒かい

を至ま

こと誠と

いう言こ

葉ば

で表ひ

ょう

現げん

されました。持じ

戒かい

には「身み

を慎つ

つし

む」という意い

味み

があります。ともする

と、われわれはすぐ傲ご

慢まん

になり、勝か

手て

な行お

ないをします。それを慎つ

つし

むのが至ま

こと誠です。

「身み

を慎つ

つし

む」で思お

い出だ

すのが、昭し

ょう

和わ

二十一

年ねん

に出だ

されたGHQの指し

令れい

です。それは、

昭しょう

和わ

天てん

皇のう

の御ご

兄きょう

弟だい

以い

外がい

は皇こ

族ぞく

として認み

めな

いというものです。そして御ご

兄きょう

弟だい

以い

外がい

の十

一の宮み

家け

の方か

々がた

は全ぜ

員いん

、臣し

籍せき

降こう

下か

されて国こ

民みん

となられました。その時と

、いろいろな議ぎ

論ろん

が起お

きましたが、結け

局きょく

はGHQの言い

うこ

とを聞き

くしかありませんでした。

 

昭しょう

和わ

天てん

皇のう

との最さ

後ご

の晩ば

餐さん

が開ひ

かれました。

その際さ

、宮く

内ない

庁ちょう

の次じ

官かん

が「万ま

が一にも皇こ

位い

を継つ

ぐべきときがくるかもしれないとの御ご

自じ

覚かく

の下も

で身み

をお慎つ

つし

みになっていただきた

い」と言い

ったそうです。

 

実じっ

際さい

に皇こ

族ぞく

の方か

は凛り

としておられます。

アルゼンチンのブエノスアイレスで行お

なわ

れたオリンピックの招し

ょう

致ち

運うん

動どう

の折お

の高た

円まどの

宮みや

妃ひ

殿でん

下か

のスピーチはすばらしいものでした。

その立た

ち姿す

がた

、姿し

勢せい

がまた美う

つく

しく見み

えました。

外がい

国こく

の新し

聞ぶん

に「高た

円まどの

宮みや

妃ひ

殿でん

下か

のスピーチは

本ほん

当とう

にすばらしかった。本ほ

物もの

のBBCイン

グリッシュだった」という評ひ

ょう

価か

が載の

ったそ

うです。

 

皇こう

族ぞく

のみなさんの姿し

勢せい

がいいのは教き

ょう

育いく

そうです。小ち

さいころから「姿し

勢せい

を正た

し、

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— 7 —

腰こし

を立た

てるように」と教お

えられるそうです。

それと、式し

典てん

などに出し

ゅっ

席せき

している時と

は、途と

中ちゅう

で絶ぜ

対たい

にトイレに立た

ってはいけないと教お

えられるそうです。式し

典てん

の途と

中ちゅう

で席せ

を立た

のは失し

礼れい

に当あ

たるからです。そのせいか、

皇こう

族ぞく

の方か

は皆み

さんトイレが遠と

いそうです。

 

では、人ひ

目め

に付つ

く時と

だけ姿し

勢せい

をよくして

いればいいかと言い

えば、それは違ち

います。

いついかなる時と

も人ひ

から見み

られているよう

に身み

を慎つ

つし

みなさいという教き

ょう

育いく

だそうです。

新しん

幹かん

線せん

に乗の

っている時と

も、車く

るま

に乗の

っている

時とき

も、いつでも姿し

勢せい

を正た

しておられます。

 

高たか

円まどの

宮みや

妃ひ

殿でん

下か

は皇こ

族ぞく

に嫁と

がれたお方か

です

が、元も

々もと

徳とく

の高た

いお方か

だったとお見み

受う

けし

ます。

  

儒じゅ

教きょう

に説と

かれる「慎し

独どく

」  

 

『大だ

学がく

』という儒じ

教きょう

の教き

ょう

典てん

があります。昔む

かし

はどこの小し

ょう

学がっ

校こう

にも二に

宮みや

金きん

次じ

郎ろう

の銅ど

像ぞう

があ

りました。その二に

宮みや

金きん

次じ

郎ろう

は薪ま

を背せ

負お

って、

必かなら

ず本ほ

を手て

に持も

っています。その本ほ

が『大だ

学がく

』です。その中な

に「君く

子し

は必か

なら

ずその一ひ

とり人

を慎つ

つし

むなり」とあります。立り

派ぱ

な人じ

物ぶつ

とい

うのは、自じ

分ぶん

一ひとり人の時と

、つまり他た

人にん

が見み

いない時と

でも己お

のれ

をしっかり律り

していくこと

ができる人ひ

であると書か

かれています。『大だ

学がく

』は、この「一ひ

とり人

を慎つ

つし

む=慎し

独どく

」を非ひ

常じょう

に重じ

ゅう

視し

しています。人ひ

が見み

ていないところ

でも身み

を慎つ

つし

むことが、ひとかどの人じ

物ぶつ

にな

るために一番ば

の基き

本ほん

だというのです。

 

これに対た

して「小し

ょう

人じん

閑かん

居きょ

して不ふ

善ぜん

を為な

す」

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— 8 —

とあります。つまらない人に

間げん

は大だ

体たい

が、時じ

間かん

があって一ひ

とり人でいるとロクなことをしな

いということです。

 

ある意い

味み

閑かん

居きょ

の究き

ゅう

極きょく

は獄ご

中ちゅう

だと思お

います。

刑けい

務む

所しょ

に入は

ると時じ

間かん

が余あ

ってしようがない

から、大た

概がい

の人ひ

はぼーっとなるそうです。

そして人ひ

恋こい

しくなるそうです。中な

には本ほ

読よ

み続つ

ける人ひ

もいるそうですが、めったに

ないそうです。

 

松しょう

下か

村そん

塾じゅく

を開ひ

いた吉よ

田だ

松しょう

陰いん

は安あ

政せい

二年ね

投とう

獄ごく

されましたが、その中な

で朝あ

から晩ば

まで

勉べん

強きょう

を続つ

けました。その姿す

がた

に牢ろ

番ばん

から他ほ

受じゅ

刑けい

者しゃ

まで感か

化か

され、獄ご

中ちゅう

で「学が

問もん

を教お

てほしい」と請こ

われました。そこで松し

ょう

陰いん

儒じゅ

教きょう

の教お

えの一つ「孟も

子し

」を説と

きました。

それが今い

でも『講こ

孟もう

余よ

話わ

』という本ほ

になっ

て残の

っています。

 

松しょう

陰いん

は同ど

年ねん

十二月が

に出し

ゅつ

獄ごく

し、後の

、安あ

政せい

年ねん

に叔お

父じ

の私し

塾じゅく

を引ひ

き継つ

ぎ松し

ょう

下か

村そん

塾じゅく

を開ひ

ます。松し

ょう

下か

村そん

塾じゅく

はある意い

味み

、明め

治じ

維い

新しん

の陰か

の立た

役やく

者しゃ

と言い

えます。松し

ょう

下か

村そん

塾じゅく

を出で

た人ひ

中ちゅう

心しん

となって明め

治じ

維い

新しん

を成な

し遂と

げ、今い

に至い

る日に

本ほん

を作つ

ったと言い

っても過か

言ごん

ではないか

らです。とは言い

うものの、松し

ょう

陰いん

は安あ

政せい

五年ね

に再ふ

たた

び投と

獄ごく

され、翌よ

年ねん

死し

刑けい

にされたため、

この塾じ

ゅく

は一年ね

一か月げ

しか開ひ

かれませんでし

た。その一年ね

一か月げ

の間あ

いだ

に七十九人に

の若わ

者もの

が学ま

びました。その中な

には高た

杉すぎ

晋しん

作さく

とか久く

坂さか

玄げん

瑞ずい

、桂か

つら

小こ

五ご

郎ろう

(後の

の木き

戸ど

孝たか

允よし

)、初し

代だい

総そう

理り

大だい

臣じん

・伊い

藤とう

博ひろ

文ぶみ

、大お

蔵くら

大だい

臣じん

・井い

上うえ

馨かおる

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— 9 —

また後の

に総そ

理り

大だい

臣じん

となる、山や

県がた

有あり

朋とも

といっ

たそうそうたるメンバーがいました。

 

この若わ

者もの

たちがもともと優ゆ

秀しゅう

であったか

というと、そうではないのです。ごく普ふ

通つう

の若わ

者もの

でした。農の

民みん

の子こ

もいれば、武ぶ

士し

子こ

も、商し

ょう

人にん

の子こ

もいました。その中な

から総そ

理り

大だい

臣じん

をはじめ国こ

家か

の中ち

ゅう

枢すう

を担に

う人じ

物ぶつ

がた

くさん出で

たのですから、奇き

跡せき

の学が

校こう

と言い

ます。

 

松しょう

陰いん

はこの一年ね

一か月げ

の間あ

いだ

に人じ

生せい

の根こ

本ぽん

を教お

えました。それが「至ま

こと誠」です。

 

松しょう

陰いん

は塾じ

ゅく

生せい

に必か

なら

ず「君き

の生う

まれてきた役や

割わり

はなんだ。なんのために生う

まれてきたん

だ」と質し

問もん

しました。大た

半はん

の塾じ

ゅく

生せい

は答こ

えら

れませんでした。そこで松し

ょう

陰いん

は「日に

常じょう

のこ

とに至ま

こと誠

を尽つ

くしなさい。そうすれば生う

れてきた役や

割わり

、目も

的てき

がわかる」と言い

ってい

ます。

 

松しょう

陰いん

の言い

う至ま

こと誠

は「とにかく真し

剣けん

に、一

生しょう

懸けん

命めい

やりなさい」ということです。自じ

分ぶん

に与あ

えられた仕し

事ごと

、やらなければいけない

ことを陰か

日ひ

向なた

なく誠せ

心しん

誠せい

意い

やるのです。そ

うすると自じ

分ぶん

の役や

割わり

が見み

えてくるようにな

り、至ま

こと誠を尽つ

くすという心こ

ころ

が自じ

分ぶん

の身み

に付つ

けば、どんなことが起お

こっても心こ

ころ

が動ど

じな

くなるというのです。松し

ょう

陰いん

は「至ま

こと誠にして

動うご

かざるものは、未い

だこれあらざるなり」

と言い

っています。言い

い換か

えれば、至ま

こと誠

を以も

って対た

すればできないことは何な

もないとい

うことです。至ま

こと誠

がすべての基き

本ほん

というこ

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— 10 —

とです。

  

 三み

國くに

シェフの至ま

こと誠  

 

 

至まこと誠を貫つ

らぬ

いたシェフの話は

なし

をしようと思お

ます。「オテル・ドゥ・ミクニ」というレ

ストランのオーナーシェフの三み

國くに

清きよ

三み

さん

です。三み

國くに

さんと言い

えばフランス料り

ょう

理り

の第だ

一人に

者しゃ

です。昭し

ょう

和わ

二十九年ね

生う

まれで、昭し

ょう

和わ

四十四年ね

、十五歳さ

の時と

に生う

まれ故こ

郷きょう

の北ほ

海かい

道どう

で一番ば

の札さ

幌ぽろ

グランドホテルに入は

り、十

代だい

で花は

形がた

シェフになりました。その後ご

、も

っと腕う

を磨み

きたい、もっと料り

ょう

理り

のことを知し

りたいと、志

こころざしを高た

く持も

ち、当と

時じ

日に

本ほん

一と言い

われていた帝て

国こく

ホテルに入は

りました。この

時とき

、帝て

国こく

ホテルにはムッシュ村む

上かみ

と呼よ

ばれ

たフランス料り

ょう

理り

界かい

では日に

本ほん

一と言い

われた総そ

料りょう

理り

長ちょう

がいました。その人ひ

を慕し

って帝て

国こく

テルへ入は

ったのです。

 

その最さ

初しょ

の日ひ

、村む

上かみ

シェフから言い

われた

のは「三み

國くに

くん、鍋な

でも洗あ

ってもらおうか」

でした。この鍋な

を洗あ

うというのは、料り

ょう

理り

人にん

にとって非ひ

常じょう

にいいことなのです。鍋な

の中な

には料り

ょう

理り

が残の

っているので、全ぜ

部ぶ

味あじ

見み

がで

きるからです。しかし三み

國くに

さんは「札さ

幌ぽろ

ランドホテルで人に

気き

シェフだった自じ

分ぶん

が鍋な

洗あら

いか」と少す

しムッとしたそうです。でも

「よし、三み

國くに

流りゅう

の鍋な

洗あら

いを見み

せてやろう」

と決け

心しん

し、取と

っ手て

のついている鍋な

はねじを

外はず

し、全ぜ

部ぶ

バラバラにするなどして、徹て

夜や

でピカピカに磨み

き上あ

げたそうです。そして、

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— 11 —

朝あさ

それを見み

た村む

上かみ

シェフが「三み

國くに

くん、き

れいに洗あ

えているね」と言い

われたので三み

國くに

さんが「今き

ょう日は何な

をさせて頂い

ただ

きましょうか」

と言い

うとまた「鍋な

でも洗あ

ってもらおうか」

と言い

われたそうです。なんとそれが二年ね

間かん

続つづ

きました。しかし、三み

國くに

さんはもともと

「料り

ょう

理り

道どう

具ぐ

がきれいでなければ気き

持も

ちよく

料りょう

理り

を作つ

ることはできない。道ど

具ぐ

を磨み

くこ

とはシェフの基き

本ほん

中ちゅう

の基き

本ほん

だ」という考か

んが

でしたので、二年ね

間かん

、一切さ

手て

を抜ぬ

くことな

く毎ま

日にち

ねじを外は

して洗あ

ったそうです。しか

し「二年ね

たつのに相あ

も変か

わらず鍋な

洗あら

いのま

までは、ここにいても料り

ょう

理り

の腕う

は上あ

がりそ

うにないな」と思お

えてきたので、村む

上かみ

シェ

フに「やめさせてもらいたい」と言い

いに行い

こうと思お

っていたところ、逆ぎ

ゃく

に村む

上かみ

シェフ

に呼よ

ばれて「来ら

月げつ

からスイスの日に

本ほん

大たい

使し

館かん

公こう

邸てい

の料り

ょう

理り

長ちょう

をやってもらう」と言い

われた

そうです。その時と

三み

國くに

さんは二は

ち十歳でした。

大たい

使し

館かん

公こう

邸てい

の料り

ょう

理り

長ちょう

ということは、各か

国こく

王おう

室しつ

関かん

係けい

者しゃ

とか総そ

理り

大だい

臣じん

、外が

務む

大だい

臣じん

といっ

た地ち

位い

の高た

い人ひ

々びと

のために料り

ょう

理り

を作つ

るとい

うことですから、ものすごい大た

役やく

です。周ま

りの人ひ

は猛も

反はん

対たい

したそうです。当と

時じ

、帝て

国こく

ホテルには600人に

の料り

ょう

理り

人にん

がいたそうで

す。ほとんどが三み

國くに

さんより先せ

輩ぱい

で、その

先せん

輩ぱい

たちが「鍋な

洗あら

いしかしていない三み

國くに

なんでそんなところに行い

かせるのですか。

もっと優ゆ

秀しゅう

な料り

ょう

理り

人にん

がたくさんいるのでは

ないですか」と食く

って掛か

かったといいます。

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— 12 —

すると村む

上かみ

シェフは「鍋な

洗あら

いひとつ見み

れば

その人ひ

の人じ

格かく

がわかる。技ぎ

術じゅつ

は人じ

格かく

の上う

成な

り立た

つものだ。あいつなら間ま

違ちが

いない」

と言い

ったそうです。

 

それから、三み

國くに

さんはスイスに行い

き、大た

使し

館かん

を退た

任にん

後ご

はフランスの三ツ星ぼ

レストラ

ンをいくつも修し

業ぎょう

して回ま

り、世せ

界かい

五大た

陸りく

ップシェフ五人に

の中な

の一ひ

とり人に選え

ばれました。

鍋なべ

洗あら

いという日に

常じょう

に至ま

こと誠

を尽つ

くし切き

った方か

でした。

 

至まこと誠

を尽つ

くす道み

日にち

常じょう

の中な

で至ま

こと誠を尽つ

くす、基き

本ほん

が三つあ

ります。一つが挨あ

拶さつ

です。人に

間げん

関かん

係けい

の基き

本ほん

中ちゅう

の基き

本ほん

です。これがしっかりできたら、

人じん

格かく

の完か

成せい

に近ち

づくと思お

います。

 

二つめは、掃そ

除じ

です。掃そ

除じ

によって心こ

ころ

磨みが

くのです。

三つめは、素す

 なお直

ということです。なかな

か人に

間げん

素す

直なお

になれません。御ご

開かい

山さん

上しょう

人にん

が杉す

山やま

先せん

生せい

の話は

なし

を聞き

かれて入に

ゅう

信しん

された時と

「あな

たは頭あ

たま

で考か

んが

える癖く

があるから、それを止や

なさい。私わ

たくし

の言い

った通と

りにしなさい」と言い

われたそうです。そして晩ば

年ねん

「杉す

山やま

先せん

生せい

言い

われる通と

りにして、法ほ

華け

経きょう

の実じ

行こう

がわか

った。本ほ

当とう

にありがたいことだ」とおっし

ゃいました。

日にち

常じょう

の平へ

凡ぼん

なことを非ひ

凡ぼん

に続つ

けていくの

が至ま

こと誠

の精せ

神しん

ではないでしょうか。