8
1 石田川遺跡は、太田市南 なん を流れる石 いし がわ の左 がん にある微 こう に立 りっ しています。(太田市米 よね ざわ ちょう 地内、北緯36°15′42″東経139°20′40″付近) しょう 22・24年のカスリーン台 たい ふう ・キティ台風の被 がい を経 て、その後の治 すい たい さく として昭和27年に 石田川および米 よね ざわ がわ における堤 てい ぼう こう ちく こう が行われました。そのとき、土 つち り現 げん から多 すう の土 確認され、群 ぐん だい がく ざき きょう じゅ の指 どう のもと、当時新 にっ ぐん やぶ づか ほん まち やぶ づか の今 いま りょ かん けい えい しゃ であっ た今 いま しん 氏と、群馬大学学 がく げい がく がく がく せい であった松 まつ しま えい 氏によって調査が進められました。 昭和43年に刊 かん こう された調 ちょう ほう こく しょ において、上記昭和27年の調査で出 しゅつ した土器の一部に対し、 「石 いし がわ しき 」の型 けい しき が設 せっ てい されました。それ以来、北 きた かん とう いき における古 ふん だい ぜん の土 けい しき の指 ひょう として位置づけられています。 太田市域のおもな石田川期の集 しゅう らく と当 とう がい の古墳分布 (太田市『太田市史 通史編 原始古代』1996年の図4-7東毛地域の石田川期集落の遺跡分布を参考に図化した。) いし がわ せき 1石田川遺跡 2米沢二ツ山遺跡 3米沢中遺跡 4高林遺跡 5花園遺跡 6歌舞妓遺跡 7中道遺跡 8西今井遺跡 9五反田遺跡 10中溝・深町遺跡 11一本杉遺跡 12村田本郷遺跡 13重殿遺跡  14頼母子古墳 15朝子塚古墳 16八幡山古墳 17寺山古墳 18矢場薬師塚古墳 19鶴巻山古墳  利 根 川  八王子丘陵 石 田 川 1 5 6 7 8 10 11 17 18 19 14 15 16 9 2 3 4 12 13

がわ せき 石田川遺跡 - Ota · は、東 とう 海 かい 地 ち 方 ほう 西 せい 部 ぶ にあるといわれています。なぜなら、出土 している土器の外

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  • 1

     石田川遺跡は、太田市南な ん

    部ぶ

    を流れる石い し

    田だ

    川が わ

    の左さ

    岸が ん

    にある微び

    高こ う

    地ち

    に立り っ

    地ち

    しています。(太田市米よ ね

    沢ざ わ

    町ちょう

    地内、北緯36°15′42″東経139°20′40″付近)

     昭しょう

    和わ

    22・24年のカスリーン台た い

    風ふ う

    ・キティ台風の被ひ

    害が い

    を経へ

    て、その後の治ち

    水す い

    対た い

    策さ く

    として昭和27年に

    石田川および米よ ね

    沢ざ わ

    川が わ

    における堤て い

    防ぼ う

    構こ う

    築ち く

    工こ う

    事じ

    が行われました。そのとき、土つ ち

    取と

    り現げ ん

    場ば

    から多た

    数す う

    の土ど

    器き

    確認され、群ぐ ん

    馬ま

    大だ い

    学が く

    尾お

    崎ざ き

    喜き

    左さ

    雄お

    教きょう

    授じ ゅ

    の指し

    導ど う

    のもと、当時新に っ

    田た

    郡ぐ ん

    藪や ぶ

    塚づ か

    本ほ ん

    町ま ち

    藪や ぶ

    塚づ か

    の今い ま

    井い

    旅り ょ

    館か ん

    経け い

    営え い

    者し ゃ

    であっ

    た今い ま

    井い

    新し ん

    次じ

    氏と、群馬大学学が く

    芸げ い

    学が く

    部ぶ

    史し

    学が く

    科か

    学が く

    生せ い

    であった松ま つ

    島し ま

    榮え い

    治じ

    氏によって調査が進められました。

     昭和43年に刊か ん

    行こ う

    された調ちょう

    査さ

    報ほ う

    告こ く

    書し ょ

    において、上記昭和27年の調査で出しゅつ

    土ど

    した土器の一部に対し、

    「石い し

    田だ

    川が わ

    式し き

    土ど

    器き

    」の型け い

    式し き

    が設せ っ

    定て い

    されました。それ以来、北き た

    関か ん

    東と う

    地ち

    域い き

    における古こ

    墳ふ ん

    時じ

    代だ い

    前ぜ ん

    期き

    の土ど

    器き

    型け い

    式し き

    の指し

    標ひょう

    として位置づけられています。

    太田市域のおもな石田川期の集しゅう

    落らく

    と当とう

    該がい

    期き

    の古墳分布(太田市『太田市史 通史編 原始古代』1996年の図4-7東毛地域の石田川期集落の遺跡分布を参考に図化した。)

    石いし

    田だ

    川がわ

    遺い

    跡せき

    1石田川遺跡 2米沢二ツ山遺跡 3米沢中遺跡 4高林遺跡 5花園遺跡 6歌舞妓遺跡 7中道遺跡8西今井遺跡 9五反田遺跡 10中溝・深町遺跡 11一本杉Ⅱ遺跡 12村田本郷遺跡 13重殿遺跡 14頼母子古墳 15朝子塚古墳 16八幡山古墳 17寺山古墳 18矢場薬師塚古墳 19鶴巻山古墳 

    金 山

    川瀬

    良渡

    利 根 川 

    八王子丘陵

    石 田 川1

    56

    78

    1011

    17

    1819

    14 15

    16

    9

    2

    3

    4

    12

    13

  • 2

    石田川遺跡の出土遺物

     石田川遺跡の発掘調査は、昭和27年堤

    防工事に伴う発掘調査と、平成8年度河か

    川せ ん

    改か い

    修しゅう

    工こ う

    事じ

    に伴う発掘調査が行われ、そ

    れぞれの調査で古墳時代の住じゅう

    居き ょ

    跡あ と

    などが

    見つかっている。

    石田川式土器の特とく

    徴ちょう

     外観はSえ す

    字じ

    状じょう

    に屈く っ

    曲きょく

    した口こ う

    縁え ん

    部ぶ

    大きくはらんだ胴ど う

    部ぶ

    が特徴。薄う す

    く仕

    上げられた器き

    壁へ き

    、外そ と

    側が わ

    は櫛く し

    状じょう

    の工こ う

    具ぐ

    によって装そ う

    飾しょく

    されている。下部には

    炉ろ

    の中で自じ

    立り つ

    するように台だ い

    が付いて

    いる。

    石田川遺跡出土土器(台だいつきがめ

    付甕)〔昭和27年堤防構築工事に伴う発掘調査〕

    石田川遺跡出土土器(台付甕)〔平成8年度河川改修工事に伴う発掘調査〕

    石田川遺跡出土土器(壷つぼ

    )〔昭和27年堤防構築工事に伴う発掘調査〕

  • 3

    石田川遺跡出土土器(壷)〔昭和27年堤防構築工事に伴う発掘調査〕 

    石田川遺跡出土土器(高たか

    坏つき

    )〔昭和27年堤防構築工事に伴う発掘調査〕

    石田川遺跡出土土器(鉢はち

    形がた

    土ど

    器き

    )〔昭和27年堤防構築工事に伴う発掘調査〕

  • 4

    石田川遺跡出土土器(小こ

    形がた

    丸まる

    底ぞこ

    坩かん

    )〔昭和27年堤防構築工事に伴う発掘調査〕 

    石田川遺跡出土土器(器き

    台だい

    )〔昭和27年堤防構築工事に伴う発掘調査〕

    石田川遺跡出土の鶏にわとりがた

    形埴はに

    輪わ

    の頭部。彩さいしょく

    色されている。石田川遺跡出土の円筒埴輪

    埴はに

    輪わ

    昭和27年堤防構築工事に伴う発掘調査出土。消しょうしつ

    失してしまった古墳の埴輪であると推測される。

    5世せ い

    紀き

    後こ う

    半は ん

    代だ い

    のものと思われる。

  • 5

    花はな

    園ぞの

    遺い

    跡せき

    A区第7号住居跡出土土器(台付甕)〔平成元年度国

    こく

    道どう

    354号ごう

    道どう

    路ろ

    改かいりょう

    良に伴う発掘調査〕

    歌か ぶ き

    舞妓遺い

    跡せき

    第162号住居跡出土土器(台付甕・鉢形土器・器台)

    〔昭和58~60年度尾お

    島じま

    工こうぎょう

    業団だん

    地ち

    造ぞう

    成せい

    に伴う発掘調査〕

    中なか

    道みち

    遺い

    跡せき

    出土土器(甕かめ

    ・台付甕)〔昭和50・51年度送

    そう

    電でん

    線せん

    建けん

    設せつ

    に伴う発掘調査〕

    周辺の遺跡

  • 6

    西いし

    今いま

    井い

    遺い

    跡せき

    出土土器(台付甕)〔平成元年度新

    にっ

    田た

    西せい

    部ぶ

    第2工業団地造成に伴う発掘調査〕

    五ご

    反たん

    田だ

    遺い

    跡せき

    出土土器(台付甕)〔昭和47年度宝

    ほう

    泉せん

    住じゅうたく

    宅団だん

    地ち

    造成事業に伴う発掘調査〕

    中なか

    溝みぞ

    ・深ふか

    町まち

    遺い

    跡せき

    第32号住居跡出土遺物(台付甕・壷)〔平成6~8年度新

    にっ

    田た

    東とう

    部ぶ

    工業団地造成に伴う発掘調査〕

  • 7

    一いっ

    本ぽん

    杉すぎ

    Ⅱ遺い

    跡せき

    第3号住居跡出土土器(台付甕・坩)〔平成6~8年度新田東部工業団地造成に伴う発掘調査〕

    村むら

    田た

    本ほん

    郷ごう

    遺い

    跡せき

    ・中なか

    溝みぞ

    遺い

    跡せき

    出土土器(台付甕)〔昭和61・62年度新田東部地区ほ場整備事業に伴う発掘調査〕

    重じゅうどの

    殿遺い

    跡せき

    2次調査第12号住居跡出土遺物(台付甕・壷・器台・坩

    かん

    )〔昭和58年度市

    いち

    前まえ

    ほ場整備事業にともなう発掘調査〕

  • 8

    土器からわかる人・社会の動き

     石田川式土器の特徴を持つ土器の源げ ん

    流りゅう

    は、東と う

    海か い

    地ち

    方ほ う

    西せ い

    部ぶ

    にあるといわれています。なぜなら、出土

    している土器の外が い け ん

    見や調ちょう

    整せ い

    技ぎ

    法ほ う

    などがよく似に

    ているからです。つまり東海地方西部にあった土器の文

    化が、東と う

    毛も う

    地ち

    域い き

    をはじめとする関東地方へ波は

    及きゅう

    したと想定されています。このほかに東海地方東部や

    近き ん

    畿き

    地ち

    方ほ う

    、北ほ く

    陸り く

    地ち

    方ほ う

    からもそれぞれの土器の文化が関東地方へ伝わる現げ ん

    象しょう

    が発掘調査結果から明らか

    となっています。土器文化の波及は「モノ」や「技ぎ

    術じゅつ

    」、「情じょう

    報ほ う

    」など「文化」の伝で ん

    播ぱ

    であり、それは

    つまり「人」の移い

    動ど う

    であるといえます。つまり、西に し

    日に ほ ん

    本や北陸から関東地方へ文物とともに多くの人々

    が流入してきたと考えることもできるのです。

     このような人やモノの動きがあった背は い

    景け い

    は何だったのでしょう。石田川式土器が作られたのは古墳

    時代前期頃(3世紀後半~4世紀代)といわれます。邪や

    馬ま

    台た い

    国こ く

    と狗く

    奴な

    国こ く

    との抗こ う

    争そ う

    に終しゅう

    止し

    符ふ

    が打たれ、

    ヤマト政せ い

    権け ん

    が勢せ い

    力りょく

    を拡か く

    充じゅう

    してゆく時期でもあります。「戦せ ん

    争そ う

    による難な ん

    民み ん

    の流りゅう

    失し つ

    」、「政せ い

    治じ

    的て き

    な集しゅう

    団だ ん

    入にゅう

    植しょく

    などさまざまな説せ つ

    がありますが、今のところ明らかでありません。

    太おお

    田た

    市し

    教きょう

    育いく

    委い

    員いん

    会かい

     文ぶん

    化か

    財ざい

    課か

    〒370-0495 太田市粕川町520尾島庁舎電話0276-20-7090、FAX0276-52-6080

    印刷 平成25年3月

    土器文化の流入土器文化の流入

    東海地方西部

    東毛地域

    近畿地方

    東海地方東部

    北陸地方